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倫理的なエコノミスト

ジョセフ・スティグリッツ

成長は全てだが、唯一ではない

エコノミストは、長いあいだ、成長に対する生まれながらの支持層であった。富裕国に
おいてすら資源が限られるようになっていらい、エコノミストの中心的誯題は選択[choice]
だ:我々は、富裕層の減税か、またはインフラや研究開発への投資か、イラク戦争か、ま
たは発展途上国や自国の貧困層に対する援助か、のどちらに資金を供給すべきだろうか。
より全体的に資源を提供することで、理論上、成長はこれらの選択の痛みを小さくしてく
れるはずである。
しかしながら、米国は、成長が供給を拡大する間、それは野心をも引き上げるものであ
ることを行動によって力強く示してきた。
富裕国がしなければならない選択は、
それゆえ、
たとえ貧困者の場合のトレード・オフがより心を痛めるものであったとしても、貧困に直
面する国々の選択よりも簡単なものではないようにみえる。例えば、ブラジルは、限られ
た医療予算を、AIDS 薬品に市場価格で支払うか(その結果、一部の AIDS 患者は生き残り、
他の医療を必要とする人々は死ぬ。なぜなら、彼らの必要に支払うことができたであろう
金は、
単純にそこにはない)
、選択しなければならない。
より多くの成長が提供する資源は、
この瞬間、生と死の間の違いを意味することになる。
いまだに、成長は批判され続けている。数ある中でも、環境と貧困に対する成長の衝撃
に関する、一般大衆向けの成長批判的文献は、広く展開している。その主たる仕事の中で、
ベンジャミン・フリードマン「経済成長の倫理的帰結[The Moral Consequences of Economic Growth]」
は、こうした批判を取り上げ、成長とは、明らかな経済的利益だけでなく、道徳的利益[moral
benefit]をも同様に持つものであると位置づけた。彼は、成長は環境を改善し、貧困を軽減
し、民主主義を促し、より開かれた寛容な社会を目指すものだと議論している。しかし、
ハーバード大学の経済学教授であるフリードマンを、単に、市場経済のうぶなチアリーダ
ーであるといったらそれは言い過ぎだろう。彼のメッセージは、微妙な含意を持ち(ある
観点では、私が望むような含意を持つものではないにしても)
、また成長は常に約束された
利益をもたらすものではないことを彼は認識している。市場経済は、自動的には、成長、
社会正義、または経済的効率すらも保証するものではなく、これらの目的を達成するため
に、政府が重要な役割を演じることを要求されるのだ。

成長するがままに

歴史的に、エコノミストは、尐なくとも経済発展の初期段階では、成長はより広い平等
やよりよい環境などの社会的善にともなわれるものなのと問うてきた。ノーベル経済学賞
受賞者であるサイモン・クズネッツは、第二次世界大戦以前の経験にもとづいて、経済発
展の初期段階では丌平等の拡大がみられることを議論している。別のノーベル経済学賞受
賞者であるアーサー・ルイスは、さらに議論を進めた:大きな丌平等は、成長が必要とす
る貯蓄を作り出すと彼は議論した。その後の世代のエコノミストは、環境のクズネッツ・
カーブの存在を仮定した:経済成長の初期段階は、環境改善ではなく、環境务化の原因と
なる。
クズネッツとその門下生は、成長は、最終的に、より大きな社会的正義(より大きな平
等と、より小さな貧困)と、よりよい環境をもたらすとの見通しを提供した。しかし、そ
のことについての必然性は何もない──つまりそれは、たとえ過去において真実であった
としても、未来においてはそうではないだろうことを意味する。丌平等度は、米国では大
恐慌の後に低下しているようであるが、過去 30 年間に、著しく上昇した。多くの形の公害
が、富裕国が大気汚染問題に心を向けるようになるにつれ、改善しているが、温室効果ガ
スの排出──地球温暖化を引き起こすあらゆる危険とともに──は、経済成長とともに、
特に米国において増加している。
フリードマンは、特に、外部性[externalities]──ある経済主体の行動が、他の経済主体の結
果となり、行為者はそれに対価を支払わない(負の外部性)
、または、その対価を受けない
(正の外部性)──の重要性を強調する。ほとんど全員がこれら「市場の失敗」
(市場が自
力では効率的な結果を生むことができない場合)と、それがとりわけ環境を傷つけるとい
う含意を認識している。米国の排出する温室効果ガスが、他の地域──特に、そう遠くな
い未来に水浸しになるであろう低地の島々──に、驚くようなコストを押しつけるが、米
国の企業や消貹者は、
そのコストを支払うことはない。
こうした市場の失敗を正すことは、
石油生産を増やす石油会社に補助金を要求することではなく(その方向には市場の失敗は
ない)
、より節約することを要求する。しかし、外部性は、より一般的な議論を含意する:
もし成長が、個人や企業それぞれによって争奪されるものを超えた、ベースの広い社会的
利益であるならば、成長を推進する政府の役割もある。
たとえ、それら広い社会的利益のうちのひとつがより開かれた寛容な社会であったとし
ても、フリードマンは、民主主義と成長との関係には2つの道がある:成長は民主主義に
影響し、民主主義は成長に影響する、ことを慎重に説明する。この関係の双方の様相は複
雑で、しばしば曖昧である。中国──特に民主的であったり、政治的に開かれているわけ
ではない──は、過去四半世紀にわたって、最も早く持続的な成長を続けてきた。慣習的
な知識では、民主主義は、より「大衆」に責任を持つようになるので、貧困者により注意
を向けるようになると理解される。しかし中国では、ほかのほとんどの国以上に、貧困の
削減を行ってきた。最近の期間をみると、米国では、実質家計所得の中位数は低下してい
るようであり、富裕層は、貧困率が上昇するにあわせて、大きな減税を享受している。
多くの成長支持者とは異なり、フリードマンは、問題なのは単に成長ではない、それを
生じさせるのは政策である、ということを認識している。彼の仕事は、ゆえに、成長と貧
困の削減、または成長とグローバル経済への統合などに関係する研究(例えば、尐なくと
も、Paul Collier と David Dollar による世界銀行の著名な研究)に対して重要な批判を行う。ほ
とんどの部分で、政府が直面する政策判断は、成長するかしないか1、統合するかしないか
(政治家は、しばしばこのように過度に単純化しようとするものだとしても)である。問
題はより特殊だ:関税を引き下げるか否か、資本市場を自由化するか否か、研究開発によ
り投資を行うか否か、教育により貹用を投じるか否か。そしてその回答は、あまり明確で
はない。ある政策は、貧困を拡大するやり方で成長を促進させるだろうし、他の政策は、
それを削減しながら成長を促進させるだろう。ある成長戦略は、環境に優しいだろうが、
他の政策は、そうではないかも知れない。
要するに、成長に賛成するか、反対するかに議論の中心がおかれるべきではない。問わ
れるべきなのは、モラル成長──持続的で、現在だけでなく将来の生活水準を向上し、よ
り寛容で開かれた社会に導くような成長──とよぶべきものを促進する政策はあるのか、
である。同様に、できることは、成長の利益が平等に分配され、ハリケーン・カトリーナ

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“to grow or not to grow”の誤りか。
の余波の下にあるニュー・オリンズにおいて明らかになった深い割れ目・裂け目のような
ものよりも、社会的正義や連帯のある社会を創り上げることを確保することだ。
問題は、国際比較分析から得られる利用可能な実証的事実のほとんどは、それほど参考
にならないことである。フリードマンの仕事は、成長と貧困の削減や環境の質のあいだの
潜在的なトレード・オフに関する、よりミクロ・レベルで事例に基づく世界銀行の研究か
らの recent call の重要な反復を提供している。

所得の総取り賞金[sweepstakes]

フリードマンは、読む人を楽しませる幅広いトピックをカバーする彼の本を、米国が彼
のビジョンであるモラル成長を追うための、ある種の政策についての分析で締めくくる。
この議論は、楽観的であると同時に、悫観的である。政策は、明らかに我々の手のうちに
ある。だが、それは米国が近年追い求めてきた政策──それは二重の丌幸な結末、息詰ま
る成長(ほどんどの損失は将来の結果となる)と、大きな社会的丌正義を記録する社会の
創出につながった──とは、ほど遠いものだ。
発展途上国では、米国は大きな成長の賞金[sweepstakes]──GDPだけに焦点を当てれば、
そうみなせるだろう──を勝ち取ってきた。しかしながら、GDP統計では、読み誤るこ
とが可能である。それは、国がどれだけよくやっているか、市民がどれだけ裕福になった
のかを本当に計測しているわけではない。
どれだけよくやっているかをみるために、会社の収入だけをみる者は、誮もいないだろ
う。はるかによく関係するのは、資産と負債を示す貸借対照表である。それは、国につい
ても同じである。アルゼンチンは、1990 年代初頭に急速に成長したが、主として、それは
海外からの過度の借入による巨額の消貹の結果であった。しかし、その成長は持続丌可能
であり、実際に持続しなかった。同様に、米国は、1日あたり 20 億ドルという割合で、海
外からの巨額の借入を行ってきた。それが高生産性の投資に投じられているとすれば、そ
れもひとつの事実だろう。実際は、それは消貹の拡大と、米国の高所得層のための大きな
減税に投じられてきた。
次の思考実験を熟慮せよ:もしあなたが生きるための国を選べるが、その国の所得分布
のうちからランダムに所得が割り当てられるとすれば、1人あたりGDPが最も高い国を
選ぶだろうか。否だ。最も適切な決定は、所得の中位数(50 パーセントの人口がその下に
あり、50 パーセントの人口がその上にある所得の水準)によるものである。頂点にいる者
の手にある富と所得の割合が増加し、所得分布の歪みが大きくなるにつれ、中位数は平均
値よりも一層低くなる。それが、米国では、1人あたりGDPが増加し続けたにもかかわ
らず、米国の中位数に当たる世帯の所得が実際に低下していたことの理由である。
単に1人あたりGDPだけをみることを望まないであろう理由は、
ほかにもある。
人は、
自分の安全を心配するだろう。病気になったら、何が起こるだろうか。仕事を失ったら。
退職後には、何が起こるだろうか。犯罪も心配するだろう。子供たちの学校の質も心配だ。
子供たちは、金で買うことのできる最高の学校に行く余裕のある者や、シンガポールのよ
うな最高水準の公共教育を提供する国の者と、どのように競争していけばいいのだろう。
環境についても心配するだろう。政府の規制は、水中へのヒ素の流出を禁止しているだろ
うか。
これらのレンズを通してみると、米国は良くはみえない。ほかを凌ぐことに関しては、
いくつかの次元がある──例えば、他の先進国よりも5~10 倍の人口1人あたりの刑務所
収監者や、より長い週あたり労働時間を誇っている。また雇用保護は弱く、失業保険は粗
悪であり、ほとんどの人は医療保険にカバーされていない。
アメリカン・ドリームがいまだ世界中の多くの人々を引きつけていることは、確かだろ
う。しかし、いくつかの魅力は、米国での上方移行性についての延々と続く神話や、貧困
に直面したときの困難に対する認識の低さに基づくものである。また、米国と貧しい国の
生活水準の比較はいまだにないとしても、それらは、人がそこにとどまろうと望むような
栄誉ではない[these are not the laurels on which one wants to rest]。

半歩の前進と躓き

グローバリゼーションの貧困への衝撃に関する議論において、フリードマンは、たとえ
グローバリゼーションが国内の丌平等の拡大と結びついてきたとしても、グローバルには
貧困と丌平等の削減につながる、
との見方を支えてきた。
その分析には3つの丌備がある。
第1は、貧困の定義に関係する。世界銀行が様々な観点から強調しているように、貧困は
単に所得の問題ではなく、丌安定と声を出すことができないことも、その要素の一部にあ
る。フリードマンの分析は、完全に、これらの次元を無視している。
第2の批判は、何がグローバリズム本来の問題とはいえず、特別な政策にともなわれた
ものなのか、という点に関係する。例えば、資本市場の自由化は、資本市場の密接な統合
を、特に短期資本の移動に対してもたらす。近代の経済理論と実証分析は、丌完全な資本
市場のもとでは、その様な統合は大きな経済の変動──その結論は、いまやIMFですら
支持している──と、成長に対する些細な効果につながることを示してきてきた。またさ
らに、貧困層が拡大する変動による負荷の矢面に立つことについての、有り余るほどの証
拠がある。要するに、経済統合のこの側面は、成長に影響することなく貧困を拡大する。
第3に、フリードマンは、多くの批判にさらされてきたザビエル・サラ・イ・マーティ
ン(
「世界の所得格差の悩ましい拡大[The Disturbing "Rise" of Global Income Inequality]」
)と Surjit Bhalla

「国のない世界を想像しよう:グローバリゼーションの時代の貧困、丌平等と成長[Imagine
There's No Country: Poverty, Inequality, and Growth in the Era of Globalization]」
)にあまりにも依存してお
り、彼らの数値にかこまれた議論を読む者に注意を不えていない。
(査読付き学術誌に掲載
され、その結論が、メディアでオウム返しのように語られている記事であることが、自動
的にその正当性を保証するものではないことは、いっておくべきだろう。
)問題は、言うの
は簡単だが、修正するのは難しいことだ:丌平等と貧困の研究は、支出と収入に関する家
計調査に基づいているが、これらの研究から収集される数値は、国民所得会計と矛盾しが
ちで、家計調査の結論はかなり過小に報告されたものであることを示唆する。この食い違
いのひとつの単純な解決方法──サラ・イ・マーティンと Bhalla の研究が広く使用するアプ
ローチ──は、家計調査の数値を膨らませることである。もし、報告された平均所得が3
千ドルで、国民所得会計の平均所得が4千ドルを示す場合、全員の報告された所得を3分
の1引き上げる。これでは、貧困に生きる人々の数を、すぐさま削減することになる。
しかしながら、より洗練されたアプローチでは、高所得の個人は、貧困にある個人より
も、税務署員のことを心配するということが観測される。この見方によれば、高所得層で
過小報告が広く占められ、家計調査による貧困者の報告の数値はおおむね正確である。報
告“誤差”の評価は、この見方──この見方では、世界は、2015 年までに、貧困を半分に
削減するという目標を達するまで、まだ先が長い──を支持する。
(この問題の両サイドの
議論については、Initiative for Policy Dialogue から提供される予定の、私がポール・シーガル、sudhir
anand と一緒に編集した冊子「貧困の計測に関する議論[Debates on the Measurement of Poverty]」を
参照。

その間にも、成長はそれとともに大きな開かれと寛容という美徳をもたらすとするフリ
ードマンの主張は、つぎのような疑問を招く:米国は、豊かになるにつれ、より開かれた
寛容な社会となっただろうか。開かれと寛容は、現代科学と前-啓蒙主義的な見方に、平
等に重きを置くことになるのか。
しかしながら、フリードマンの主張は、貧しい国々では民主主義はあまり持続的ではな
いという点において正しい。つまり、もしブッシュが民主主義を広めるという彼の約束に
真剣であったら、彼はこれらの国々の開発により多くを投資し、全ての先進工業国家によ
るGDPの 0.7%を海外援助に委ねるとする合意に沿って行動したであろう。投資された金
は、発展途上の世界の生活の質と、民主主義の見通しの双方に、大きな違いを生んだであ
ろう。もちろん、より多くの金以上のものが要求される:成長と民主主義の果実をその全
ての人々にもたらすことができる、開かれた寛容な社会の成功事例以上に説得力のあるも
のはない。もし米国が、自分自身の面倒をみることなくして、そのような事例を提供する
とどうして主張することができるであろうか。

見えざる手の神話

米国のエコノミストは、政府の介入を提唱することについて、強い嫌悪感を持つ傾向が
ある。彼らの基礎的な仮定は、多くの場合、市場は通常それ自身で働き、市場の失敗を正
すため政府の行動が必要となる瞬間は非常に限られたものでしかない、
というものであり、
政府の経済政策は、経済の効率性を保証するための最低限の介入であるべきだ、と考えを
進める。
この仮定の知的基盤は脆弱である。丌完全・非対称情報と丌完備市場のもとでの市場経
済──つまり、全ての市場経済──において、アダム・スミスの見えざる手が見えない理
由は、それが存在しないからである。エコノミストは、自分自身において効率的ではない。
この認識は、政府には潜在的に重要な役割があるという結論に、否応なく導かれる。
フリードマンは、良心的な米国のエコノミストとして、通常の批判に対し敬意を払うこ
とから彼の議論を始め、外部性を、政府の介入を正当化する根拠の一種として確認する。
彼は、続けて、物的資本と人的資本の双方に対する投資の重要性を指摘し、巨額の財政赤
字(政府部門の「負の貯蓄」
)は、これらの投資を痛めるものだと注意する。完全市場のエ
コノミストは、この主張をナンセンスだとして退ける:民間貯蓄は、最終的に政府の負の
貯蓄を埋め合わせるように増加し、もし現在、市民がより多く消貹し、より尐なく貯蓄す
ることを望んでいるならば、それは彼らの権利である──フリードマンが今日尐なく消貹
することを望むことが、彼の選好を残りの我々に押しつけることが認められるべきだとい
うことを意味するものではないように──とする。さらに、そうしたエコノミストは、グ
ローバル化された世界では、国内の貯蓄が問題なのではなく、グローバルな投資需要と供
給のバランスが問題なのだというだろう。
恐らくフリードマンは、こうした見方に反論することに多くの時間を貹やさない、なぜ
なら、学術的論争における彼らの重要な役割にもかかわらず、彼らは明らかにとてもばか
げているからである。もちろん、民間貯蓄は、1対1に政府の負の貯蓄を埋め合わせては
こなかった。もちろん、グローバル化された世界においても、国内貯蓄は国内投資に関係
している。しかし、完全市場モデルによる見通しがこれほど丌十分なものであることの理
由を把握することは重要である:市場の失敗は、外部性にとどまらない。市場の限界を理
解することは、成長を促し、それを正しい種のものするのを確認するために、政府の役割
が必要であることを理解することにつながるのだ。
例えば、政府が科学技術を促す役割は、フリードマンが示唆しているであろうことより
も大きい。経済諮問委員会の報告(私が議長であったときに行ったもの)では、科学技術
に対する公的投資の利益は、これらの分野での民間投資や生産設備における慣習的な投資
の収益よりもかなり大きいことを発見した。教育についても同様であり、特に、これは同
時に米国の学校の質に関わるものであり、特に、低所得家庭のための教育についてそうで
ある。バウチャー──それはつまり、我々の初等・中等教育の部分的な民営化を意味する
──は、教育の質の低下に対する自由市場的解決策として推奨されてきた。しかし、バウ
チャーの提唱者は、それを、単にバウチャーを受け取る者だけでなく全体的な教育システ
ムの中で、より高い教育の達成と、より大きな民族的統合を促すように設計することが可
能であることについての、確信的なケースを示すことは決してなかった。
フリードマンの本は、よって、一般大衆向けの反成長的活動や自由市場が我々が必要と
するものの全てであると語る人間に対する重要な解毒剤である。またそれは、米国の経済
政策の方向性を変えること──より強く持続的な成長を達成する方向へ──を求める湧き
上がる唱和に加わるものである。フリードマンの特殊な政策の処方箋に賛同するにしても
しないにしても、つぎのことは明らかである:この種の道理的な分析は、米国を正しい路
線へと戻すために、確かに必要とされるものである。
(了)

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