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万策尽きた日本はこうして浮上した:NBonline(日経ビジネス オンライン) 27/06/09 9:24 AM

経済危機は9つの顔を持つ

日経ビジネス オンライントップ>投資・金融>経済危機は9つの顔を持つ

万策尽きた日本はこうして浮上した
島根県知事 溝口善兵衛氏と国際金融と地方経済について議論す
る(上)
2009年6月3日 水曜日 竹森 俊平

金融政策  不胎化  ジョン・テイラー  介入  島根県  非不胎化  財務省  溝口善兵衛 

 今回の経済危機がどのような形で終わりを告げるか、現状ではそのシナリオはまだはっきりとは見えてこな
い。しかし、わが国が「失われた10年」とついに決別を告げた2002年、2003年頃の状況がその点で参考になるこ
とは間違いない。やはり、景気回復には需要の盛り上がりが必要なのである。ただし、あの時の場合の需要の盛
り上がりは、「外需」という形を取った。2001年以降に、アメリカの政府と連銀が取った景気刺激策が未曽有の
消費の拡大を生み、それが日本への輸出需要につながったのである。

 当時の景気回復は「アメリカ頼み」と言ってもいいものだが、日本側でも効果的な景気刺激策がなされなかっ
たわけではない。「構造改革」を旗印にする小泉純一郎内閣は公共事業への依存は避けた。その代わりに景気刺
激策の柱となったのが、1年間に30兆円という史上空前の規模の為替介入だった。

2003年の為替介入で日本は浮上した

 日銀が同時期に実施した「量的緩和」の金融政策は、少なくとも結果的にはこの為替介入をサポートする役割
を果たす。ともかく、これらの様々な要因が重なり、日本は2003年に10年以上にわたる経済停滞を逃れることが
できたのである。

 今回の経済危機が起こってから、当時の為替政策に対する批判論が生まれている。為替介入によって日本経済
が過度に輸出に依存するようになったために、輸出の落ち込みによって現在の経済に対する甚大な衝撃が生まれ
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が過度に輸出に依存するようになったために、輸出の落ち込みによって現在の経済に対する甚大な衝撃が生まれ
ているのだというのである。

 筆者はこれは全くバカげた議論だと考える。1年足らずの為替介入によって「輸出依存型経済構造」などが生
まれるわけはない。輸出依存型経済構造は、戦後の日本経済の発展経路の延長線上にあるものだ。リカード以来
の国際貿易の理論と照らしても、それは何のおかしいところもない。例えばドイツは過去30年以上、為替介入な
ど行っていないが、それでも経済の輸出依存度は日本以上であり、現に今回深刻な経済危機の打撃を被ってい
る。

 2003年の為替介入について真に重要なのは、あの政策のおかげで景気の腰を折らずに済み、日本経済が浮上を
遂げたという点だ。つまり、短期的な政策として抜群の効果があったのである。その政策を立案し、実行したの
は当時財務官であった溝口善兵衛氏である。

 かつて1990年代半ばに為替介入を実施した榊原英資氏は、「ミスター円」の異名を取ったが、史上空前のドル
買いをしたことから、溝口氏にも「ミスタードル」の異名がついたことがある。「才気煥発」という言葉を絵に
描いたような榊原氏と比べて、溝口氏は物静かな、仕事一徹という感じのお人柄である。しかし、日本経済に
とっての勝負どころで第一線に立ち、国際金融の舞台で活躍されたことには変わりない。

 財務官を辞められた後、溝口氏は島根県知事になられて現在は地方行政に関わられている。現在の経済危機
が、2003年当時のアメリカの経済政策と強い関わりを持つものである以上、当時、国際金融の現場に立たれた元
財務官の証言は貴重であろう。また、現在の経済危機が地方にも深刻な影響を持つものである以上、県知事とし
ての証言も貴重である。そこで今回は国際金融と地方財政という2部に分けて、対談を進めることにした。

(写真:宮嶋康彦、以下同)
溝口善兵衛
(みぞぐち・ぜんべえ)

1946年生まれ。島根県知事。68年4月大蔵省入省。96年同主計局次長、97年同大臣官房総務審議官、98年同大臣
官房長、99年同国際局長、2003年財務省財務官、2004年国際金融情報センター理事長。2007年から現職。

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竹森 私は今回の経済危機は、1997年のアジア通貨危機以降の世界経済の動きの延長上にあると見ています。人
によっては、85年のプラザ合意からの流れの延長線上というでしょう。溝口さんは今回の危機をどのようにご覧
になっていますか。おそらく、「ああ、やっぱり来たな」という感慨を持たれているのではないでしょうか。

溝口 今回の世界的な危機は、これまでになかった形態のものだと考えています。97年のアジア通貨危機は、タ
イ、インドネシア、韓国などのアジア諸国に起こった危機でした。急成長したアジアの国々の景気の行き過ぎか
ら生じた流動性危機です。また、プラザ合意は、アメリカの日欧に対する競争力が低下し始めて、相対的に高く
なり過ぎたドルの調整をしなければならなくなった時に、アメリカと日欧の関係の中で行われたものです。

 今回の危機は、プラザ合意によるドル切り下げの後、アメリカ経済が90年代後半頃から復活してきた中で起
こったバブルの崩壊に伴う危機であり、それがグローバリゼーションの中で世界に伝播したものです。大掛かり
な金融危機が発端になって、かつてない速いスピードで世界中に伝播したという意味で、全く新しい形態の危機
だというのが私の見方です。

竹森 日本が「失われた10年」を本当に脱却したのは、2002年ではなく、翌年の2003年だったと考えています。
あの時の溝口さんの役割を私は高く評価していますが、やはり2003年は日本経済にとっての勝負どころというお
考えだったのでしょうか。

溝口 その頃の日本は1990年代初めのバブル崩壊、その後の不良資産問題、金融システムの混乱、中国など新興
国からの追い上げなどで不振が続き、デフレ・スパイラルが起きかねない危機的な状況でした。これを政府・日
銀は何としても回避しなければならないという状況にありました。

 日本がデフレにならずに回復に向かうだろうという安心感のようなものが出てきたのは、2003年の10∼12月の
GDP(国内総生産)が非常に高い伸びを示した頃からですね。そのGDPデータが出てくるのが、日本が巨額介入
をやめる2004年3月の直前、2月下旬でした。
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をやめる2004年3月の直前、2月下旬でした。

 1990年代のバブル崩壊後、日本経済を立て直すために、政府・日銀は四苦八苦してやってきたのですが、国際
金融の面では、私の先輩の財務官の榊原英資氏、黒田東彦氏も、金融緩和を進め円高を防ぐという局面で仕事を
してこられた。私は、そのプロセスの最終局面でデフレ脱却のために円高の行き過ぎを抑えるよう大量介入を
行ったというふうに考えています。

竹森 興味深い点だと思うのは、当時、日本の経済を正常にするための政策手段として、国際的な手段を使った
ことです。

国内の政策手段は使い尽くしていた

溝口 使わざるを得なかったと言った方がいいと思います。

竹森 70年代から80年代の日本は台頭が著しかったという点で、今の中国と同じような位置づけですね。

溝口 そうです。今、中国を世界の経済秩序の中でどう安定させるか、が大きな課題であるように、プラザ合意
の前、70年代から80年代にかけては、アメリカとの関係において、世界秩序の中で日本をどう落ち着かせるかが
主要7カ国(G7)の主要な課題でした。

 ところが、90年代初めの日本のバブルの崩壊で日本の位置が逆転してしまいました。今度は日本だけが先進国
の中でデフレに陥り、世界全体に大きな悪影響を与えかねない状況になってしまった。

 そういう意味で、黒田さんや私が財務官であった時は、日本が先進国の中のお荷物になりかねないという過去
に経験のない局面でした。アメリカは90年代後半から復活していきます。アメリカの自信が回復した時期です。
ヨーロッパもユーロが発足し、周辺国での投資も活発になりました。

 なぜ、日本国内の問題を解決するのに国際的な手段を使わざるを得なかったのかといえば、国内の政策手段を
ほぼ使い尽くしていたからです。国の財政は90年代前半に赤字が増えてしまって、減税も公共事業もできないよ
うな状況でした。金融政策では、故・速水優日銀総裁の時代に低金利を進め、ゼロ金利まで持っていき、さらに
量的緩和をするという、異例な対応をせざるを得ないような状況になっていましたから、金融政策も使える余地
が少なくなってしまった。そういった状況で円高が起きると、日本経済の回復に極めて深刻な影響を与えること
になります。急激な円高を防がないと日本の景気回復は難しいだろうというのが我々の判断でした。

竹森 先日、ジョン・テイラー(現米スタンフォード大学教授)と話す機会がありました。2003年の日本の為替
介入についてこう言っていました。当時日銀はゼロ金利にしたことで精いっぱいという考え方で、そこから先に
踏み出すことにあまり積極的ではなかった。だから為替レートを目標にしたら、もう一歩踏み出せると提案した
のだというのです。

溝口 当時のアメリカ財務長官は、スノーさんです。2002年の中間選挙の後、その前のオニールさんが辞めてス
ノーさんが財務長官になったのです。黒田さんの後を引き継いで私が財務官に就任したのは2003年1月です。最
初に介入を始めた時は、スノーさんは議会の承認がまだなされておらず、国際担当財務次官のテイラーが責任者
でした。

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 当時テイラーは、非不胎化介入というのが必要だということを言っていました。要するに「日銀は金融の量的
な緩和のために可能な限りの手段を使うべきだ、非不胎化介入もその1つだ」ということです。日本が円高を防
ぐために円売りドル買い介入をするのであれば、市場に供給される円資金は不胎化しないで非不胎化して、市場
へのマネーの供給を増やす機会として使う方べきだということです。日銀の方は、「金利引き下げの時代は、設
定した短期金利を目標に向かって調整する。ゼロ金利になった後は、日銀の政策委員会で決定された量的な緩和
目標を実現するように金融調節をやっていく」という姿勢でした。

 この日銀の考え方は、「テイラーなどが言う非不胎化介入というのは、介入して市場供給するマネーの部分を
市場にそのまま残しておけというものだが、介入に限らず財政資金の受け払いなどで日銀が供給するマネーの規
模は日々変動している。そこでそうした変動を除却するオペレーションをしたうえで、それとは別に、金融は政
策目標に従った量的緩和を行えばよく、結局、政策として量的拡大をどんなテンポで進めるかということが問題
であるが、日銀は必要な量的緩和はきちっとやっている」ということだったと理解しています。

竹森 日銀としては、これは量的緩和の問題で、為替のことは、おやりになるならどうぞご勝手に、という態度
だった。それで、独自に介入をされたということですか。

溝口 この日銀の考え方に対して、テイラーの主張は「デフレ脱却のためにはもっと量的緩和をやるべきだ。そ
のために非不胎化介入による資金供給も活用すればよいのではないか」ということだったと思います。その意味
では、致命的というほどではありませんでしたが、両者の主張に若干すれ違いがあったかもしれません。

 しかし、福井総裁の下での量的緩和は相当なペースで進みました。日銀と財務省が明示的な合意の下に、「日
銀は量的緩和を迅速に進め、財務省は円高抑制のために大量介入する」ということではありませんでしたが、米
欧のカウンターパートたちは、日銀と財務省の確固たる動きを見て日本はデフレ脱却に本腰を入れて取り組んで
いるなと感じていたと思います。それで、彼らは日本の介入に対して強い批判を控えました。だから、大量介入
が可能になったというのが私の実感です。

竹森 協力してやりましょう、とはっきり決めるわけではなく、お互いやるべきことはやりますという感じだっ
たのですね。

溝口 アメリカは伝統的に他国による為替の介入を好みませんし、自分たちもあまり介入はしない。また、FED
(米連邦準備理事会=FRB)は、他の国が介入を行う場合も、介入する前に金融調節だとか、財政政策だとか、
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(米連邦準備理事会=FRB)は、他の国が介入を行う場合も、介入する前に金融調節だとか、財政政策だとか、
マクロ政策をまず実施すべきだという強い考えを一貫して持っています。1980年代から90年代にかけて日本が円
高を防ぐために介入しようとしても、アメリカは、金利の引き下げや減税を優先してやるべきだと言って、介入
には強く反対していました。ところが、我々が介入する時には、日本はもうすでに財政政策も金融政策も両方と
もほぼ使い切っていたのです。

グリーンスパンも黙認していた

 しかし、アメリカ政府の中でも経済を担当する財務省は、米国内で反対もあるが、今は世界全体を考えなけれ
ばならない、日本がデフレに陥らないことが必要だ、ということをよく理解していました。ただ、アメリカ国内
に向かってそのことをはっきり言うと、批判を受けてしまいます。

竹森 確かにそうですね。非常に微妙な立場ですね。

溝口 彼らは、常に強いドルが必要だが、柔軟でなくてはいけないと繰り返し言っていました。日本の介入は結
構だとは決して言わない。つまり、あからさまな批判はしないという立場でした。

竹森 FEDはその時、どんな態度でしたか。

溝口 グリーンスパン(FED議長)はもともと市場重視の人で、介入の効果は限定されているという考えの人な
のですが、黙認をしていたと思います。アメリカ経済が弱かった時、例えば80年代、90年代前半、日本が円高不
況を防ぐために介入をしたかった時は、日本の介入は競争力が落ちて苦しんでいるアメリカ国内の産業界の反対
に遭って黙認もできませんでした。しかし、2000年代初頭の我々の介入の時は、米国経済は復活して強くなって
おり日本の介入を許容するゆとりがあったということです。

竹森 溝口さんは財務官になられてすぐに介入を始めたのでしょうか。

溝口 就任の翌日から介入し始めました。就任してすぐ、テイラーに電話をして我々はデフレを防ぐためには介
入を増やさざるを得ないだろう、今後、よく連絡を取り合っていくと伝えました。介入については、彼らはFED
と常に打ち合わせをしていたようです。

 前に申し上げましたように、日本銀行は金融を緩和する、財務省は急激な円高を防ぐということで、両者が相
談して合意をしたわけではありません。しかしデフレスパイラルを防ぐため、政府、日銀それぞれが全力を挙げ
る他ないという考え方は共有されていたと思います。日本経済はデフレ突入かという異常事態ですから、デフレ
スパイラルを防ぐためにはできることなら何でもやらなければという点では、政府、日銀のみならず、与野党、
民間、学者などの間で意見の違いがないという状況でした。国際通貨基金(IMF)、経済協力開発機構
(OECD)など国際機関も同じような立場でした。

竹森 竹中平蔵さんが2002年10月に「金融再生プログラム」を出し、銀行が2兆円の増資を始めました。私は検
査を厳しくし、銀行に増資を促すのは必要な処置だったと思いますが、結果的にはその時点で増資をするという
行動自体にやや無理があったために株価が大きく落ちました。とくに2003年のゴールデンウイーク(GW)の頃
が「山場」だったと思います。為替介入と量的緩和には「株価浮揚効果」があったのではないか。その効果も表
れてGW以降、株価が反転したように思いますが、株価は意識されていたのでしょうか。
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れてGW以降、株価が反転したように思いますが、株価は意識されていたのでしょうか。

溝口 個別のことを意識したというわけではなかったと思います。日本経済は異常事態が続いており、いつデフ
レスパイラルに入るか分からないという懸念を政府・日銀みんなが持っていました。デフレ回避のため、できる
限りのことをやる、そういった考えが共有されていた感じでした。

竹森 日本経済が回復した最大の要因はアメリカの需要の盛り上がりだったと思います。とくにアメリカの金融
緩和、低金利が消費を伸ばす要因となりました。その時点ですでにバブルの兆候はあったかもしれませんが、溝
口さんはアメリカの当時の金融政策についてはどのような印象を持っていましたか。

溝口 アメリカはIT(情報技術)バブルがはじけて、2001年から金融緩和を始めました。金利を引き上げるのが
2004年6月頃です。その間はITバブル後の景気の落ち込みを防ごうとして、デフレ警戒気味な金融政策を行いま
した。その当時、FEDでは、日本のようなデフレになってはいけないという勉強もやっていました。インフレが
起こるような状況ではなかったのです。インフレやバブルが本当に懸念されるようになるのは、もう少し後、
2005∼06年頃からではないでしょうか。

竹森 先ほどテイラーの話が出ましたが、彼は著書の中でテイラー・ルール(テイラーが考案した政策金利を決
める際のルール)からすれば、FEDは2003年の後半ぐらいから金利の引き上げを始めるべきだったと書いていま
す。グリーンスパンが自ら「危機管理型(リスク・マネジメント・アプローチ)」と呼ぶ方針を採用して、テイ
ラー・ルールから外れたことがバブルを招いた原因だと。最近彼はそう主張しています。このテイラーの意見に
対してはグリーンスパンが反論しています。

アメリカの金利政策に注文をつける人はいなかった

溝口 テイラーは「テイラー・ルール」という、短期の政策金利をどのように決定すべきか確固とした考えを
持っていましたが、その頃のFEDの短期金利の引き下げの方針については誰も異議を唱えるという状況ではな
かったと思います。

 テイラーは、グリーンスパンとは世界経済、為替問題などよく話をして、必要な調整はしているという感じで
した。テイラーは国際担当財務次官で、日本の介入方針などもグリーンスパンによく話をし、アメリカ財務省と
FEDの対外的な言いぶりは調整していたと思います。テイラーを含め、G7などで、それまでのグリーンスパンの
実績からしてFEDの金利政策に注文をつける人はいなかったと思います。グリーンスパンより金融の世界をよく

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実績からしてFEDの金利政策に注文をつける人はいなかったと思います。グリーンスパンより金融の世界をよく
知っている人がいるという状況ではなかったという感じでしたね。

 グリーンスパンが後になって言っているのは、大体、こういうことです。世界全体が拡張期に入って、グロー
バリゼーションが進み、いわば中国など今まで市場経済の外にいた新興国が市場経済に入ってくることによって
世界の供給能力が拡大した。しかも新興国は貯蓄率が高いから、世界的に貯蓄過剰になる。このため、経済全体
が拡大しているのに先行きのリスクプレミアムが下がって、そのために長期金利が非常に下がった。こういった
過程では資産価格が上がっていき、バブルの発生を抑えるのは難しい。強い金融引き締めにより、バブルを抑制
することはできるかもしれないが、その場合は、バブルは破裂する可能性が高く、軟着陸を図るのは至難だとい
うことでしょう。

竹森 世界的に大きな変化が起こっている時には、“ルール”だけでは律し切れない、その変化をどう評価し、ど
のように対応するかは非常に難しいということですね。

製造業が勢いを取り戻し日本は復活へ

 一般には日本の景気回復は2002年に始まると言われていますが、当初は完全な外需主導型でした。2002年につ
いて言えば、需要要因の8割が外需です。2003年でも5割でした。2003年は外需主導で景気が回復していく途中
で、円高が進行すると回復の勢いが止まる、その点を配慮しながらの為替介入だったのではないかと思うのです
が。

溝口 個別に見るというよりも、経済全体を見るとまだ物価上昇率はマイナスで、株価は2003年初めから春にか
けて8000円を切るようなひどい状況になっていました。輸出はだんだんと伸び始めていましたが、全体としては
まだデフレ懸念が続いている状態でした。日銀も政府当局も、景気が腰折れしないように、非常にしっかりし
た、強いメッセージを市場に送らなければならない状況が続きました。日本経済が相当安定してあまり心配がな
いというところまで、政府はこれだけの確固たる意思を持ってやっていることを示さなければならない、そうい
う姿勢でやらなければいけないと判断していました。

竹森 主に注目されていたのはマクロ経済ですか、それとも輸出産業ですか。

溝口 マクロです。しかし日本の成長をリードするのは自動車をはじめとした輸出セクターです。戦後の経済成
長をリードしてきた分野ですから。製造業も中国に対する輸出が増え始めて、復活し始めました。日本の重厚長
大の製造業はダメになると言われていたんですが、2000年代に入った頃から新しい巨大なマーケットがアジアに
でき始めたという感じでした。中国で生産する自動車の鋼板や高級なITの部品など高い技術を要するものは、ま
だまだ日本でしか作れないということが明らかになってきたのです。これが日本の製造業の復活に効き始めまし
た。

竹森 確かに当時は、アメリカの需要に合わせて中国の需要も伸びていき、その先の成長経路が描けるような感
じがして、日本経済の先行きの視野が明るくなりました。一時的なものではなく、中国とアメリカが、相乗効果
を発揮してどんどん引っ張っていく長期的な見通しが描けて、トンネルを抜けたようでした。

溝口 2002∼03年ぐらいには中国の発展が本格的になって、低中級品は中国をはじめとするアジアからの輸入品
に日本はやられ始めていました。そのため、日本企業はアジアに出て行き、現地で生産をしたのです。アメリカ
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に日本はやられ始めていました。そのため、日本企業はアジアに出て行き、現地で生産をしたのです。アメリカ
がやったようなことを日本もやったわけです。このままで日本は大丈夫なのかという不安はありましたが、高い
技術を必要とする産業は新興国に簡単にはできません。結局は日本のモノづくり産業が復活するんです。

竹森 当時を思い出すと、確かに「中国脅威論」が消えたように思えます。つまり中国が発展する過程では、鉄
も足りなければ機械も足りないと言って、中国が日本産業への需要をどんどんつくってくれるという認識に変
わった。韓国についても同じでしたね。

溝口 そういったことから、日本の先行きについての見通しが少し晴れてきたのです。

 金融の面で言うと、米国では2004∼05年頃から、「エグゾティックローン」といったような、金利は後払いで
よいとか、やや不思議な商品ができました。ただ、それを規制しようという論議はアメリカではあまりなかっ
た。この頃からそうしたエグゾティックローンが増え、そしてそうしたローン債権を証券化するビジネスがもの
すごい勢いで進みました。

 その当時、クレジット・デフォルト・スワップ(CDS)で、米国の投資銀行などは随分、儲けているようだ
が、日本はどうですか、などと我々が日本の金融機関に聞くと、まだそのようなことを手がけるような状況に
なっていないなどと言っていました。また、債務担保証券(CDO)などは、日本の証券会社などもやる前だった
でしょう。

 ですから日本の人たちは、アメリカで何が起こっているかということはあまりよくフォローできていなかった
のではないか、という気がします。グリーンスパンはいろいろな国際会議の場で、世界の金融市場で非常に大き
な変化が起こっているというようなことは言っていました。

「金融機関の行動は合理的なはず」と思われていた

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竹森 グリーンスパンはCDSの成長は経済にとりいいことだと信じていたんですよね。

溝口 警戒はしていたと思います。というのは、その頃国際会議などで「新バーゼル協定の構想が出てきている
が、将来、それが適用される頃には金融市場はもっと進んでいるはずだ。新バーゼル協定でも不十分になってい
るかもしれない」といったようなことを言っていました。

 米国のFEDや規制当局は実態をきちんと見て手当てをするだろう、それが彼らの役割だと米国以外の人たちは
思っていたと思います。

竹森 バーナンキ(FRB議長)も、2007年の秋にCDOとは何かについてレクチャーを受け、ややこしさに頭を悩
ませたらしいです。伝統的な経済理論で言うと、金融機関が利益を目指して取る行動は合理的なはずだから、新
商品が出てきても問題はないだろうと思っていたのでしょう。実際に何が起こっているかを正確に把握してはい
なかったようです。

溝口 そうなのでしょう。グリーンスパンはのちに自分の著書の中でこんなことを言っています。「金融規制当
局は、わたしの経験では、市場の知識という点で民間セクターのリスク管理者よりもはるかに不利な立場にあ
る」と。規制当局が市場の実態をきちっと把握するまで、相当のタイムラグがあるということなのでしょう。

 特にCDOでは、インベストメントバンク(投資銀行)が住宅ローンの債権化のために短期借りで得た資金で住
宅ローン債権の買い取りを行っていました。投資銀行はバンクではないのでFEDの規制の下に入らない。ですか
らFEDも投資銀行の活動をあまりよく見ていなかったのではないでしょうか。

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 しかし、これも広い意味の「金融」です。投資銀行は、短期市場で資金調達する。その資金の源泉が銀行にあ
るとすれば、投資銀行が失敗すると、銀行もひどいことになる。世の中の変化が激しかったとはいえ、きちんと
見るのが金融当局の仕事です。自由な市場は必要ですが、激しい変化をきちんと見ていく体制を築かなければな
らなかった。米国の当局にはその点は問題が残るでしょう。

竹森 最低限、マーケットで何が起こっているかは把握しておくべきだったということですね。グリーンスパン
は大方分かっていたけど、自分1人でどうしたらいいか分からなかったのかもしれません。

溝口 対応ができないほど変化が速かったという問題ですね。グリーンスパンはこうも言っていますね。「リス
ク管理の専門家の失敗が今回の危機で明らかになったわけだが、民間の専門家よりも不適格な人たちに任せれば
もっとうまくいくという見方に陥らないように注意すべきだ。医師が診断を間違ったとしても、患者に診断を任
せた方がいいとは考えない。もっと正確に診断するよう医師に求める。民間のリスク管理の仕組みを改善するし
かない。それよりよい選択肢はないのだ」と。

竹森 いろいろな研究者が指摘する点ですが、1997年と2007年とでは状況が全然違う。1997年はまだ銀行はレバ
レッジをかけるようなことはしていなかった。ところが今は銀行もSIV(投資目的会社)などを作ってレバレッ
ジをかけている。みんな自己資本比率を目いっぱい減らして借りまくっている状態で、ちょっと資金繰りに詰ま
ればみんなひっくり返るような状態になっていたのが2007年です。私も最初はサブプライムローンというのは低
所得向けローンだし、全体の2割ぐらいだから大丈夫だろう、などと思っていたわけです。

溝口 自由な市場は必要ですが、変化が激しいのできちんとウオッチする体制を築かなければならない、大きな
フレームワークの問題として捉えるべきなのでしょう。

竹森 あまりにも速く動いたので、誰が管理するかの問題が起こった。アメリカのように連銀は銀行だけ、SEC
(米証券取引委員会)は証券会社だけという監督規制のあり方では、事態への対応が全く不可能になっていま
す。

溝口 全体のフレームワークをどうするかという議論が遅れたままで、一挙に問題が現実のものになったと見る
ことができなくはないかもしれません。こうした全体のフレームワークのあり方については、米国では議会に強
い権限があって、金融監督当局がいろいろ心配しても対応が遅れるということがあるようです。

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竹森 溝口さんは危機後のアメリカの将来については、それほど心配されていませんか。

素早く体制を作り直せるのがアメリカ

溝口 ここ100年ぐらいの技術の進歩はずっと、アメリカがリードしてきたと言って過言ではないでしょう。自
動車、化学製品、飛行機、それから宇宙開発、コンピューター、遺伝子等々。アメリカの社会は非常に競争的
で、いいものを作れば人々に素早く受け入れられていく。そして努力に見合って報酬が得られる、非常にダイナ
ミックな社会です。

 やはり市場経済がそれを可能にしていますし、新しいことにチャレンジをするという考えの人が多い。ヨー
ロッパや日本とは少し違うところですね。

 他方で、国が新しく、自由が尊重されるが故に競争を重視し過ぎるところがあります。貧しい人に医療が十分
に行き渡らないとか、成功すると途方もない巨額の報酬を得る、といった行き過ぎが起こることがありますね。
また、自分のところがおかしくなると、他の国を批判したり、他国のせいにしたりするというところもあります
ね。そして超大国ですから、外交、軍事などでは自分だけの考えで、他の国の協力や理解を得ないでいろいろな
ことをするというところもありますね。

 いい面と悪い面がありますが、ただ社会全体としては創意工夫をする、努力をするところがある。行き過ぎで
問題が起こるが、何か問題が起こると対応は早いですね。そうしたところは非常に実際的な国ですね。

竹森 毎年、100兆円から200兆円の、GDPの10%ぐらいの財政赤字が当分続くというのが懸念材料です。そもそ
も、金融機関の損失がどれくらいだか分からない。金融機関自身の債務はGDPと同じくらいの1500兆円でしょ
う。そのうち2割が毀損しているとすると、300兆円ぐらいの損失になります。果たしてそれを一気に処理できる
かということです。いや、財政に処理する余裕がないから、もうアメリカはダメだという議論もあります。

溝口 財政赤字そのものよりも、長期金利などに、どのように影響していくかという問題はあるかもしれません
ね。しかし、アメリカは危機になると、素早く体制を作り直していくところがありますから。

竹森 本当の意味でのパトリオティズムがありますね。

溝口 私もアメリカに5年住み、また国際会議などで米国人とつき合って感じたことは、アメリカは欧州や日本
より歴史が若く、多くの移民の人たちが努力して作り上げた国で人々は上昇指向が強く、エネルギッシュな国だ
ということです。決して老大国ではないですよ、個々の人々の生き方を見ると。しかし、そのため、人生におい
て経済的に成功することが大事だという考え方が強すぎるように思いますね。そして、経済的に成功した人が評
価され過ぎる傾向があるように思います。東洋的な「足るを知る」という成熟した考えが少し必要ではないのか
という気がします。

(後編を読む)

経済危機は9つの顔を持つ

http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20090527/195825/?ST=print Page 12 of 13
万策尽きた日本はこうして浮上した:NBonline(日経ビジネス オンライン) 27/06/09 9:24 AM

 経済危機の素顔を探る対談シリーズ。経済学者の竹森俊平氏が、危機の現場に足を運んで疑問をぶつけます。
一時のパニック状態は乗り越えたとはいえ、世界経済の行方は依然不透明です。輸出が激減し、雇用情勢は悪く
なる一方の日本が置かれた状況も厳しいまま。「失われた10年」を経験した日本は、そこから何を学ぶべきか、
そして危機後の日本が歩むべき方向は——。幾多の困難を乗り越え、日本経済・政治を見てきたキーパーソンと
の議論を通じて、これからの日本の金融政策、産業構造、そしてアジア経済の在り方と世界経済の今後について
考えていきます。

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竹森 俊平(たけもり・しゅんぺい)

1956年東京生まれ。慶応義塾大学経済学部教授。81年同大学経済学部卒業、86年同大学院経済学研
究科修了。89年米国ロチェスター大学経済学博士号取得。主な著書に『経済論戦は甦る』(第4回読
売・吉野作造賞)、『世界デフレは三度来る』(上・下)、『1997年—世界を変えた金融危機』
『資本主義は嫌いですか』ほか

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