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日本語版監修者序文

 
 
 
  淺野 明
 
 
本 
書は、
『戦闘技術の歴史』シリーズの既刊の二冊、第一巻『古代編』
、第二巻『中世編』に続く第三巻『近世
編』 
で、一五○○年から一七六三年までにおこなわれた戦争のいくつかをとりあげ、主として戦闘技術の面から
それらを分析・解説しています。全体の構成も、これまでの巻とほぼ同様に、歩兵、騎兵、指揮と統率、攻囲戦、
海戦の各章からなっていますから、それぞれの叙述を読み比べていただければ、この間の戦闘技術や戦争の態様の
変化について、容易に理解することができるでしょう。
さて、ときに初期近代とも呼ばれる「近世」とは、いったいどういう時代だったのでしょうか。また、近世の戦
争は 
、中世のそれとどのように違っていたのでしょうか。
近世に先立つ時代、つまり中世のヨーロッパでは、経済基盤がまだ弱く、コミュニケーション手段の発達が不十
分だ 
ったこともあって、人々の暮らしは狭い地域を基盤にして営まれていました。しかし、日々の平和を守るには
もっと広い範囲の秩序を安定させることが必要ですから、小さな村を支配している領主は、自分よりも実力のある
貴族などの家臣になり、己の支配権を認めてもらう代償に、主君のおこなう裁判や戦争に参加したのです。多く
の場合、これらの主君には、諸侯などさらに上位の主君がいましたから、こうして主従関係の階層秩序が出来上が
ります。そして、その頂点には国王がいましたが、王といえども、その権力基盤は他の諸侯たちの場合とさほど異
i
なるものではなかったので、国王の威光が十分におよぶのは、やはりお膝元の狭い範囲に限られていました。した
ii

がって、国王の支配領域はたしかに一種の「国家」であったといえますが、そのまとまりは、各地の有力者たちを、
封建制度と呼ばれる人間の絆でつなぎとめることによってなんとか維持されているというのが実態でした。そのた
めに、中世の戦争は、自立性の強い諸侯や貴族同士の抗争である場合が多かったのです。
政治権力が、このようにいわば分散状態だったにもかかわらず、中世においては、キリスト教という共通の信仰
を通 
じて、ヨーロッパは一体性を保っていました。それを保証していたのが、カトリック教会の長である教皇と神
聖ローマ帝国の皇帝です。実力の裏づけとなる支配領域はともに狭いものでしたし、お互いに鋭く対立することも
ありましたが、それでも両者は、大小の政治指導者たちの利害を調整するとともに、ヨーロッパに信仰共同体とし
きつりつ
てのまとまりを与える聖俗二つの普遍的な権威として、中世世界に屹立していました。ですから、中世のヨーロッ
パは、ひとことでいえば、小さな単位に細分化されていた政治権力と、それとは対照的に、ヨーロッパ全体をひと
つにまとめあげていた普遍的な権威とが並び立つ世界であったといえるでしょう。これが中世世界の最も重要な特
徴であったのですが、それは言い換えると、わたくしたちに馴染みの主権国家、のちの国民国家がまだ存在してい
なかったということにほかなりません。
ここまでみてくると、近世がどういう時代で、それがいつごろはじまったのかということが明らかになってきま
す。 
つまり、細分化された政治権力と普遍的な権威という両極端に引き裂かれていた世界の中間に、いわば割っ
て入るようにして主権国家という新たな秩序の枠組みが出現してきたとき、中世が終わりを告げ、新しい時代で
ある近世がはじまったと言えるのです。なぜなら、主権国家の誕生により、中世世界の二つの特徴、つまり各地域
の自立した政治権力と、ヨーロッパ全体をまとめていた二つの普遍的な権威がともに解体され、ヨーロッパの一体
性もまた失われていったからです。これらにかわって新しく成長してきた主権国家が、絶対主義から国民国家へと
その構造を変えながらも、現代にいたるまで、わたくしたちの歴史の主要な枠組みとなっていきます。そして、そ
の舞台装置が整うのがおおむね一五〇〇年前後でした。近世の戦闘技術を扱った本巻が、一五〇〇年をその叙述の
出発点としたのは、このような事情からです。この時代以降、ヨーロッパは多くの主権国家に分裂し、戦争もまた
国家間で戦われることが多くなっていきます。もっとも、国家間の戦争といっても、当時の主権者は国民ではなく
国王でしたから、戦いは王朝間の戦争という性格をもちました。イタリアの覇権をめぐってはじまったヴァロワ家
(フランス)とハプスブルク家(ドイツ)の対立が、ついにはイタリア戦争と呼ばれる大規模な国際戦争に発展し
たのがそのよい例でしょう。この戦争が始まったのが、まさしく一五〇〇年頃のことでした。
これとも関連しますが、やはり一五〇〇年前後に、世界史的にみて重要な一連の出来事が起こっています。いう
まで 
もなくそれは、大航海時代のはじまり、つまりヨーロッパ勢力の海外進出の開始という事実です。手元の年
表を開いてみると、コロンブスの第一回航海(一四九二~九三年)
、ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓(一
四九八年)
、カブラルのブラジル漂着(一五〇〇年)
、そしてマゼランの世界周航(一五一九~二一年)と続きます。
このように、一五〇〇年前後の時期は、ヨーロッパ諸国が世界に進出し、その支配をアジアその他の文化圏におよ
ぼしていく出発点となった時期でもありました。周知のように、これはポルトガル、スペイン、オランダ、フラン
ス、イギリスといった諸国による激しい植民地獲得競争を伴っていましたが、結局のところそれは、王朝と国家の
盛衰をかけた厳しい抗争に帰着しました。二〇〇年以上も続いたこの抗争で、ついにイギリスが最終的な勝利者と
なるのですが、それは一七六三年、パリ条約が締結されて七年戦争が終わったときでした。そこで、本巻もこの年
をもってその叙述を閉じることになります。ヨーロッパの近世とは、ひとことで言えば、生まれたばかりの主権国
家が、お互いの存亡をかけて、ヨーロッパ大陸の内外で熾烈な戦いを展開した時代、いわば「戦争の三世紀」であ
ったといえるでしょう。
さて、近世という時代がこのようなものであったとすれば、自分の国の、あるいは自分の王朝の活路を、もっぱ
iii  日本語版監修者序文

ら戦 
争に見出そうとする国王が現われるのも当然でしょう。のみならず、本巻にも描かれているように、軍制改革
を主導するだけでは満足せず、みずから軍隊を指揮して戦場を駆けめぐる「軍人王」も登場します。なかでも印
象深いのは、画期的な軍制改革を実現し、みずからその軍隊を率いてヨーロッパ各地を転戦したスウェーデン国王
グスタフ・アドルフの生涯でしょう。リュッツェンの戦い(一六三二年)で、窮地に立った自軍の救援に駆けつけ
て皇帝軍騎兵と接戦格闘を繰り広げ、ついに命を落とすにいたったかれの戦いぶりについては本巻でもくわしく叙
述されていますが、その戦死のありさまは、もはや戦争の醜悪さや善悪の判断を超越した、ある種の畏敬の念さえ
iv

起こさせる壮絶なものでした。戦争という手段を多用した国王たちは、確かに好戦的だったかもしれませんが、か
れらを評価するときには、国家間の武力行使を制限する国際法の発達がいまだ不十分で、実力のある者が他国を
攻撃し支配するのが当然である、と考えられていたことを考慮する必要があるでしょう。当時は、強力な軍事力
をもつもののみが生き残ることを許された、過酷な時代でした。
それに、実のところ国王といえども自由に権力をふるえたわけではなかった、ということも忘れるわけにはいき
ませ 
ん。とりわけ地方では、その統治は貴族や都市のつくる団体に依存しなければならず、近世の国王も、絶対
主義という言葉でイメージされるほど強い権力を持っていたわけではなかったのです。ということは、
「戦争の三
世紀」を支えたのは、国王だけではなかったということでもあります。たとえば、中世以来の名門家系出身の諸
侯や貴族も、その重要な一翼を担いました。かれらは、いまや国王に従って官僚として統治にあずかるか、あるい
は軍事のプロとして戦場に活躍の場を求める以外に、その存在を誇示する方法がなくなっていたからです。一六世
紀にはいると、軍事企業家としての傭兵隊長によって徴募・編成されていたかつての軍隊はしだいに廃れ、常備軍
が本格的にその姿を現してきます。といってもそれはまだ、国家の常備軍というよりは国王の常備軍であって、そ
れにふさわしく当初は外国人傭兵が中心でした。しかしいずれにしても、そこで将校や指揮官を務めたのは、第一
に諸侯や貴族家系の出身者たちでした。
「戦争の三世紀」を担ったという点では、都市も同じです。各都市は自分
たちの利害を守るために相応の武力を備えねばなりませんでしたが、通常それでは戦力が足りませんから、権威
と権力を高めた国王に保護を求め、その代償として国王の戦争に軍資金や民兵を提供しました。いつの時代でも
そうですが、平和は、それを願うだけで実現できるものではなく、裏づけとなる実力があってこそ可能となります。
その実力のなかに、
「平和を求める民の意志」が含まれるようになるのは、もっとあとの時代になってからのこと
です。
軍隊の実態、あるいは戦争の態様もまた、中世とは一変していきます。たとえば、兵士たちの装備も、中世と
比べ 
ると大きく様変わりしました。これに関連して、ロシアの著名な週刊新聞『論拠と事実』の最近号に、興味
深い記事が掲載されました。読者の質問に専門家が答えるという人気のコーナーに、ある読者から、大要、次の
ような質問が寄せられたのです。
「今年(二〇一〇年)は、クリコヴォの戦い六三〇周年ですが、当時のロシアの
戦士は、二五キロもの甲冑をまとって戦ったそうです。こんなに重いものをまる一日身に着けていたとすると、男
たちは以前はずっと強健だったのでしょうか。それとも、何か特別に扶養されていたのでしょうか」
。これに答え
て、国立「クリコヴォ草原」自然公園のスタッフは、
「二四~二五キロの甲冑を着装して戦ったのは、全員ではなく、
部隊の一割程度でした。この人々は戦いのプロで、子どものときから戦闘訓練を受け、一四歳でもう戦いに参加し
ていたのです。ですから、重い甲冑をまとって戦うのは、鍛錬のたまものです。それに、中世では、会戦は短時間
で終わったことも忘れてはいけません。クリコヴォの戦いは三時間半続きましたが、これは例外です」と答えてい
ます。ちなみに食事について言えば、
「中世の戦士たちは、農民や手工業者よりは栄養状態が良かったでしょうが、
特別の給養を受けていたとは思えません」とのこと。クリコヴォの戦い(一三八〇年)は、モスクワ大公国を中心
とする軍隊が、ロシアの諸公国を一五〇年余りにわたって支配してきたタタール・モンゴル軍を、野戦で破った史
上有名な戦いです。遊牧民との戦いですから、条件的には西ヨーロッパの戦闘とは異なる面もあるでしょうが、そ
れでも中世の戦闘の一端を知るには、この記事は有益なものといえるでしょう。重い甲冑を手放せなかった中世の
戦士たちとは対照的に、近世の兵士たちの装備が、時代を下るにつれて軽くなっていく様子は、本巻の叙述からも
よくわかります。小火器の普及と性能の向上により、野戦では、歩兵も騎兵も臨機応変に隊列を組み換え、広い
戦場を軽快に機動する能力が、戦いの帰趨を決する重要な要素となったからです。ロイテンの戦い(一七五七年)
で、フリードリヒ大王に指揮されたプロイセン軍が、オーストリア軍の面前で展開したいわゆる「斜行進」がその
v  日本語版監修者序文

代表的な例でしょう。戦闘の様相がこのように変化するにつれて、厳しい軍紀を持つ常備軍の確立はもちろん、兵
士たちの平時の訓練と、戦場における指揮官の指揮・統率の能力などがきわめて重要となってきます。しかし、兵
士や指揮官の能力が向上して戦闘効率が高まれば、戦争がますます組織化され、過酷かつ長時間にわたる悲惨な
ものとなることは避けられません。一七世紀のリュッツェンの戦いですら戦闘はまる一日続き、戦いが終わったの
は日没後、それも長時間にわたる激烈な戦いで両軍ともに疲労困憊したことが原因でした。国王グスタフ・アドル
フ戦死、皇帝軍の名将パッペンハイムも胸を撃ち抜かれて戦死、同じくピッコローミニも数発の弾丸を受けたこの
vi

戦いの、想像を絶する凄惨なありさまについては、ぜひ本文をご覧ください。
一六世紀以降のヨーロッパの歴史は、二〇世紀にいたるまで、まさに戦争の歴史であったといっても過言ではあ
りま 
せん。一八世紀末のフランス革命以後、ヨーロッパはしだいに現代の姿に近づいていきます。一方では、自由
と平等がもっとも崇高な価値とされ、平和を求める力も強まっていきます。しかしそれとは裏腹に、ナポレオン戦
争を経て、戦争はますます無惨で救いようのないものとなっていきました。これらの戦争については、次の巻で触
れられることになるでしょう。本巻の読者のみなさまには、続刊も引き続きご愛読くださいますように。
戦闘技術の歴史3 近世編 目次
   
日本語版監修者序文
i

 
第一章 歩兵の役割
003
   
スイス人傭兵/スイスの斧槍兵/ランツクネヒト/スペインのテルシオ/一六世紀 ─ 実験の時代/一五二五
年 パヴィアの戦い─ 奇襲作戦/オランダの諸改革/三十年戦争 ─ スウェーデン式の統合/一六四四年の
ストラ 
スボギー歩兵連隊のパイク兵/一六三一年 ブライテンフェルトの戦い ─ 火力と柔軟性の勝利/両軍
の展開/一六四二年のチャールズ・エセックス大佐の 
歩兵連隊のマスケット銃兵/横隊戦術の出現 ─ 一六六
〇~一七一五年/一七〇八年 ─
アウデナールデの戦い 混乱と指揮の分裂/一六四三年のロバート卿の歩兵
連隊のマスケット銃兵/境界紛争 
と小さな戦い/横隊戦の成熟 ─ 一七一五~六三年/プロイセンの擲弾兵/
新たな技術/一七五七年 ロイテンの戦い ─ 質の勝利/戦闘開始/結び ─ 統合と隊形
 
第二章 騎兵の働き

089
   
一六世紀─ 槍と銃の時代/短銃騎兵の活躍/歯輪式と旋回射撃/一六三二年 リュッツェンの戦い ─ スウ
ェーデンの軍制改革/皇帝軍の胸甲騎兵(一六三〇年頃)/ヴァレンシュタイン/ 
両軍の展開/煙と砲火と霧
vii
のなかで/スウェーデン騎兵(一六五〇年頃)/一六四二年 エッジヒルの戦い ─ 全速力で/国王軍の騎兵
viii

(一六四〇年代)/突撃/あまりにも衝動的な……/包翼/予備 
隊の登場/一七〇六年 ラミイの戦い ─ 騎
兵の集団攻撃/フランス軍の大いなる計画/遮蔽された移動/攻撃と反撃/崩壊と敗走/一 
七五九年 ミンデ

ンの戦い 偉大なる愚行/トルコ兵(一六九〇年頃)/軽騎兵の再登場/前哨戦/予想に反して/結論  ─
栄光という夢/プロイセンの軽騎兵(一七五〇年頃)
第三章 指揮と統率
181

   
戦争術の研究/指揮組織の質的変化/オランダの軍制改革/一六〇〇年 ニーウポールトの戦い ─ テルシオ
の敗北/浜辺の戦い/砂丘での勝利/常備軍/一六八三年 カーレンベルク 
の戦い ─ ウィーン解放/ウィー
ンの森の攻防/ウィーン解放/指揮組織の変化/常備軍の広が 
り/一七〇四年 ブレニムの戦い─ 大胆な戦
略/戦況/戦場や作戦行動における指揮/一七五七年 ロスバッハの戦い─ プロ 
イセンの勝利/包囲された
プロイセン/迅速な対応/結論  
第四章 攻囲戦
245
    ─ 新型攻城砲への対応/トルコの坑道技術/一五六五年 マルタの戦い
フランス軍の大砲/イタリア式要塞
─ ヨーロッパを救った攻囲戦/八十年戦争の攻囲戦/スペイン領オランダでの軍事技術の進歩/ 攻囲側の技
─ 強襲作戦/一七一八年 フレドリクステン─ ノルウェーを救った攻囲戦/築
術/「スウェーデン方式」
─ ヴォーバンとクーホルン/ヴォーバンの全盛 期─ ルイ一四世の戦い/北米でのヴォーバン式攻
城の大家
─ 七年戦争/一七五九年 ケベック攻囲戦─ 北米のフランス支配終焉のはじまり/一七六二年
囲技術 ハ
バナ攻囲戦 ─ スペイン無敵にあらず   
第五章 海 戦
305

     
戦術/技術力/機動力対火力/地形/一五七一年 レパントの海戦 ─ ガレー船の激突/秘密兵器─ ガレア
ス船/一五八八年 ─
グラヴリーヌの海戦 風と潮流 
/試行錯誤/スペイン軍の戦争準備と難題/妨害と遅延
/イングランド軍を襲 
う砲火/小康状態/火船攻撃/一六三九年 ダウンズの戦い ─ スペインの凋落/海の
王者/戦闘の開始/一七五九年 キブロン湾の海戦 ─ 自然の威力/ 
フランス船のもう一つの利点/ランヴァ
ンシブル号の模倣/海軍要務令/両 
軍の司令官/常に大胆不敵に
各地の戦略地図 パヴィアの戦い(一五二五年)

022
 一年)
ブライテンフェルトの戦い(一六三

050
アウデナールデの戦い(一七〇八年)  

064
ロイテンの戦い(一七五七年)  

080
 
リュッツェンの戦い(一六三二年)

116
エッジヒルの戦い(一六四二年)  

130
ラミイの戦い(一七〇六年)  

150
ミンデンの戦い(一七五九年)  

172
 )
ニーウポールトの戦い(一六〇〇年

214 204
カーレンベルクの戦い(一六八三年)  
ブレニムの戦い(一七〇四年)  

226
ロスバッハの戦い(一七五七年)  

236
マルタ攻囲戦(一五六五年)  

256
ix  目次

 一八年)
フレドリクステンの攻囲戦(一七

280
ケベック攻囲戦(一七五九年)  

292
 
ハバナ攻囲戦(一七六二年)
298
x

レパントの海戦(一五七一年)  
326

 
グラヴリーヌの海戦(一五八八年)
340

ダウンズの海戦(一六三九年)  
350

キブロン湾の海戦(一七五九年)  
356
 
参考文献
372 367

索 引  
    
装丁 濱崎実幸
 
第一章 歩 兵 の 役 割
006

中世ヨーロッパにおいては、その期間の大半を通して、大多数の野戦軍で最も重要
な構成要素となったのは騎兵だった。しかし一五世紀半ばを迎える頃には、戦闘形
態の変化に伴って大規模な常備軍が創設されるようになった。こうした軍隊にお
ける歩兵への依存度は次第に高まり、高度な訓練と充実した装備が施された歩兵は、
増加の一途をたどっていく。
一五世紀半ばから三世紀にわたって、歩兵は再び戦場での主要戦力に返り咲くことになる。戦場に
おける 
歩兵の役割の増大には、二つの重要な要因があった。一つ目の、おそらく最も重要だと考えら
れる要因は、行政組織の発達によって近世の国家がかつてないほど多数の常備歩兵を徴募し、維持す
ることが可能になったことである。当初は各国とも、新規歩兵部隊の兵士の採用にあたっては、軍事
企業家的存在だった傭兵隊長と傭兵に依存していたのだが、行政および財政の組織が改善されるにつ
れて、常備軍としての兵士たちをより長期に保持できるようになった。またこれによって、部隊の独
自性や結束力や規律が生まれる機会も与えられた。
二つ目の要因は新たな武器体系の導入で、この基調となったのが、古代からの武器だったパイク
(長槍) と、黒色火薬製造の新技術に立脚した手で保持する小火器(「ショット」と呼ばれた)の組み
合わせである。統制のとれた傭兵の歩兵や近世国家の常備軍部隊で、歩兵用の棹状武器、特にパイク
が広く導入されるようになると、歩兵は、重装備を極めた騎兵さえも食い止めることができた。火器
の射程や阻止能力と首尾よく連携すれば、統率のとれた歩兵部隊は、戦場においてきわめて手ごわい
存在となったのである。
一 五 世 紀 初 め の ヴ ァ ロ ア・ ハ プ ス ブ ル ク 戦 争 で は、 パ イ ク と 小 火器で 武 装した 歩
 スイス人傭兵 兵 部 隊 が ま す ま す 重 要 な 役 割 を 果 た す よ う に な っ て い た。 パ イ ク な ど の 棹 状 武
器で武装した密集隊形の歩兵部隊と、小火器を装備した歩兵部隊は、どちらもこの時期に登場し、
パイク・アンド・ショット
「 槍 と 銃 」として一対のものだと考えられる向きが多い。だが、この二者が互いに独立して発達し、
大いに異なる伝統をまとっていることは、明確に認識する必要がある。結果的には、
「槍と銃」戦術
は、二世紀近くにわたって、絶え間ない試行と改良を経ながら発展していくことになる。
パイクで武装した歩兵は一三世紀や一四世紀にもすでに存在していた。都市の民兵がその基盤とな
 
ることがしばしばで、特にネーデルラントではそうだった。だが、一五〇〇年に入ってからは、この
ような部隊の模範となったのは、当時のフランス軍に欠かせない存在となるスイス人傭兵隊である。
一五世紀、広くその勇猛ぶりを轟かせたスイス人傭兵は、一四七六年にはグランソンとムルテンで、
さらに翌年にはナンシーで、ブルゴーニュ軍を破った。この勝利
ハルベルト
をもたらしたのは、パイクを持つ歩兵を主力に据え、斧槍を振る
戦闘がはじまると、スイス兵は う兵士を支援に配した歩兵縦隊の積極果敢な活用である。スイス
猛然とパイクで敵に襲いかかり、 兵が用いたパイクの長さは、六メートルにも及んだ。斧槍は、斧
すぐに隊列を乱してしまった。 刃と槍の穂先を組み合わせた棹状武器の一種で、二メートルほど
だが、スペイン兵は円盾で防御 の堅い木製の柄に取り付けられたこの斧刃の反対側には、かぎ形
しながら剣を手にすばやく突
の刃か尖った突起も付いていた。パイクでの武装によって、歩兵
007  第一章 歩兵の役割

進し、猛然と戦ってスイス兵を
は密集隊形を組むことができるようになり、縦列の間隔は時にわ
殺戮し、完勝した。
│ マキアヴェリ
ずか一五センチメートルで、第一列の歩兵と歩兵の間には槍の穂
︵バルレッタに関して︶ 先が四、五本も突き出ているという場合もあった。
 強固な防御態勢を取って立ちはだかるパイク兵は、特に騎兵に
とっては恐るべき障害だった。また斧槍は、その重量と長さのお
かげで、敵の歩兵や重装甲の騎兵に対してさえ有 一六~一七世紀の歩兵用棹状
008

武器。左から順に、三種類の
効な武器でありえた。しかし効果的に振るうには なたがま
パイク。斧槍。鉈鎌。サーベ
広いスペースを要するため、密集隊形での使用に ル斧槍。長柄戦鎚。それぞれ
は 適 さ な か っ た。 一 四 五 〇 年 頃 ま で、 ス イ ス 歩 の武器の柄、特にパイクの柄
兵の武装は斧槍が基本だったが、それより二〇年 の部分に取り付けられた鉄製
の長い柄舌は、敵に武器の先
ほど前にミラノ軍の重装甲騎兵に敗北を喫してか
端部を切断されにくくするた
らは、すぐに圧倒的多数のパイク兵を戦場に送り めのものだった。
込みはじめた。それでも斧槍で武装した兵士には、
部隊旗を守ったり、分遣隊としてパイク兵部隊を
かぶと
支援したりという任務が与えられた。胸甲と兜を
着用している部隊が多数だったと見られるが、な
かっちゅう
かにはまったく甲冑を着けない兵士もいた。第一
列の兵士はより頑丈な甲冑に加えて、たいていは
くさずり
草摺(大腿前部を防護する金属板)や上腕部防護
用装甲を、さらには前腕部防護用装甲もおそらく
装着していた。
 だがスイス傭兵部隊の成功は、単に武器や戦闘
隊形のみによるものではない。その効率的な戦闘
技術に、彼らの社会組織が果たした役割は大きか
った。パイクというのは、特に密集隊形での防御
態勢においては、比較的容易に使い方が習得でき
る武器だが、個々の兵士が槍さばきを発揮する余
で、肉切り包丁のような長く重い刃がついてお も有効だった。斧槍に加え、各兵士には剣が支
スイスの 斧 槍 兵
り、敵の甲冑や棹状武器の柄をたたき切ること 給されていた。左側の兵士はカッツバルガー(喧
せんとう
これは、一五世紀末ないしは一六世紀初期の典 ができた。また刃の反対側に付けられた尖頭は、 嘩剣)と呼ばれた短剣を、右側の兵士はこれよ
ばんきんよろい
型的なスイス斧槍兵の装備である。左側の兵士 板金鎧さえも突き通すことができ、槍の穂先の り長めの広刃の剣を着けている。
がサレット型の兜をかぶっている以外、格別な ように敵兵を突き刺すのにも用いられた。こう
甲冑は着用していない。武器は単純な形の斧槍 した棹状武器は、歩兵のみならず騎兵に対して
009  第一章 歩兵の役割
パヴィアの戦い ︵一五二五年︶
皇帝軍は、フランス軍に雇われたスイス傭兵部隊に重大な ことになる。さらに皇帝軍は狩猟園の園内環境を、歩兵た
脱走が起きたことに乗じ、パヴィアを包囲していたフラン ち、とりわけ銃兵たちの盾として利用し、銃兵の犠牲を最
ソワ一世指揮下のフランス軍を攻撃した。皇帝軍は複雑な 小限に抑えながら彼らを攻撃的に用いることができた。そ
夜間作戦行動を敢行し、フランス軍の野営地になっていた してこれが、皇帝軍を勝利に導く一大要因となったのであ
公領狩猟園の塀を突破した後に攻撃に移った。狩猟園内に る。
入った皇帝軍が戦闘隊形をとると、包囲のなかにあったパ
ヴィア城内の皇帝軍も出撃し、フランス軍は窮地に陥った。
突然の攻撃に驚いたフランソワは、多方向から攻めてくる
敵への対応を迫られた自軍に、統制を欠く攻撃を指示する

オーストリア

◦ヴェネツィア

ナポリ◦
教皇領
ミラノ◦ ✢パヴィア
皇帝軍の大多数が暗闇
にまぎれて北へと移動
し、ヴェルナクーラ水路を
渡る。その間、少数の部隊
と砲兵が陽動作戦を実施。

フランス
1
2 イタリア人先発工兵を
先頭に、皇帝軍はミラ
ベラ狩猟園の塀を突破し、
フランス軍の野営地に侵入。
戦闘隊形をとる。

4
に立ち、皇帝軍の騎兵部隊
フランソワ一世は、フ
ランス軍重騎兵の先頭

を敗走させるが、パイク兵

5 フランス軍側のスイス
傭兵とランツクネヒト
は、スペイン人マスケット
に苦戦を強いられる。

3
銃兵とイタリア兵によって 城壁のなかにいた皇
撃退される。銃兵たちは狩 帝軍の守備隊も出撃し、
猟園内のあらゆるものを盾 フランス軍にさらなる圧力
として利用した。 をかける。

保することだった。
ポリを攻撃する前に兵站線を確
ヴィアを包囲した。目的は、ナ
重要拠点である北イタリアのパ
王フランソワ一世は、戦略上の
一五二四年一〇月、フランス国
▪著者…………………………………………………………………………………………………………

クリステル・ヨルゲンセン ロンドン大学で博士号を取得。1805 ~ 1809年のイギリスとスウェ
ーデンの同盟に関する博士論文は、2004年にPalgrave Macmillan社から出版された。スウェ
ーデン戦史の専門家。『Rommel and Scandinavia during World War Ⅱ』など、第二次大戦
に関する著書も多い。
マイケル・F・パヴコヴィック ハワイ大学マノワ校で博士号を取得。ハワイパシフィック大学
の歴史学準教授と、外交および軍事研究プログラムの責任者を務める。古代の軍事史に関す
る著書がある。
ロブ・S・ライス アメリカン・ミリタリー大学教授で、古代および近代の海戦を担当。『Oxford
Companion to American Military History』や『Reader's guide to military history』に寄稿し、
本シリーズ『戦闘技術の歴史1 古代編』の著者の1人でもある。
フレデリック・C・シュネイ ノースカロライナ州ハイ・ポイント大学歴史学教授。パデュー大
学でヨーロッパ軍事史を学び、博士号を取得する。ヨーロッパの戦争に関する著書が数冊あ
り、軍事史学会南地区の責任者。
クリス・L・スコット 王立武器博物館の教育部門長。王立歴史学会や戦場ガイド協会のメンバ
ーであり、イギリス軍事史委員会、戦場トラストのために講義も行う。軍事史に関する著書
が数冊あり、雑誌『戦場』の編集者、戦場ガイド協会の共同設立者でもある。

▪監修者………………………………………………………………………………………………………

淺野 明(あさの・あきら) 東北大学大学院修了。2002 ~ 2003年ロシア科学アカデミー・ロ
シア史研究所に留学。ロシア中世・近世史専攻。現在、山形大学人文学部教授。主な業績に、
『戦闘技術の歴史2 中世編』(監修、創元社、2009年)、小倉欣一編『近世ヨーロッパの東と
西─共和政の理念と現実』(共著、山川出版社、2004年)、翻訳「T. B. チュマコーヴァ『外
国人のみたロシアにおけるツァーリの権力(16‐17世紀)』」(『山形大学歴史・地理・人類
学論集』10号、2009年)などがある。

▪訳 者………………………………………………………………………………………………………

竹内 喜(たけうち・よし) 翻訳業。高知県生まれ。高知大学教育学部卒業。国語教師、翻訳
学校講師を経て現職。訳書にB・ゴールドスミス『マリー・キュリー フラスコの中の闇と光』
(WAVE出版)
、エイミー・マーダー『犬のすべてがわかる本』(KKベストセラーズ)、共訳
書にフロレンス・ナイチンゲール『看護覚え書』
『真理の探究』
(うぶすな書院)などがある。
徳永優子(とくなが・ゆうこ) 兵庫県生まれ。東京学芸大学教育学部卒業。翻訳学校講師を経
て翻訳業に従事。訳書にサリー・モーガン『再生医療への道―顕微鏡づくりから幹細胞の発
見へ』
(文溪堂)など、共訳書に経済協力開発機構『図表でみる教育OECDインディケータ(2009
年版)
』(明石書店)などがある。

▪翻訳協力……………………………………………………………………………………………………

稲田智子(いなだ・ともこ)      定延由紀(さだのぶ・ゆき)
大川裕代(おおかわ・ひろよ)     永島真紀(ながしま・まき)
太田左衛子(おおた・さえこ)     中村佐千江(なかむら・さちえ)
北垣恭子(きたがき・きょうこ)    本田陽子(ほんだ・ようこ)
来田誠一郎(きだ・せいいちろう)   村上佐代子(むらかみ・さよこ)
坂本千佳子(さかもと・ちかこ)    グループ ETUDe
せ ん と う ぎ じゅつ れき し きんせいへん

戦闘技術の歴史3 近世編
2010年10月20日 第1版第1刷発行

著 者
クリステル・ヨルゲンセン、マイケル・F・パヴコヴィック、ロブ・S・ライス
フレデリック・C・シュネイ、クリス・L・スコット
監修者
淺野 明
訳 者
竹内 喜・徳永優子
発行者
矢部敬一
発行所
株式会社 創元社
http://www.sogensha.co.jp/
〈本社〉
〒541-0047 大阪市中央区淡路町4-3-6
tel. 06-6231-9010 ㈹
〈東京支店〉
〒162-0825 東京都新宿区神楽坂4-3 煉瓦塔ビル
tel. 03-3269-1051 ㈹
印刷所
図書印刷株式会社

本書の全部または一部を無断で複写・複製することを禁じます。
落丁・乱丁のときはお取り替えいたします。
定価はカバーに表示してあります。

© 2010, Printed in Japan


ISBN978-4-422-21506-8 C0322

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