Guidebooks For Losing Ways

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道に迷い続けるためのふたしかなガイドブックたち

仲俣暁生

説の題は『さようなら、ギャングたち』。だが奇妙なのは題

1 『荒野へ』『ジェネレーションX』 名より、登場人物の名のほうだった。「さようなら、ギャン
グたち」はこの小説の男主人公の名で、女主人公の名は「中
――マッカンドレスとクープランドのニアミス 島みゆきソングブック」。いうまでもなく高橋源一郎のデ
ビュー作である。
 ショーン・ペン監督による映画の原作であるジョン・クラ  長編第 3 作目『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ』
カワーによるノンフィクションは、1993 年に Outside 誌に にも、『カール・マルクス』、『志賀直哉』、『資本論おじいちゃ
掲載された Death of an Innocent という 9000 字ほどの記事 ん』、伊藤整の日本文壇史、かつてかれであったものといっ
を綿密な追加取材によって肉付けしたものだ。自らも登山家 た不思議な名の「人物」が登場する。その多くは東京拘置所
であるクラカワーは、のちにマッカンドレスの足取りを丹念 に収監された未決囚の仇名だが、同時に彼らは、成仏できず
にたどり、この青年への共感を込めて『荒野へ』(原題:Into にこの世を彷徨っている「文学」のゾンビのメタファーでも
ジョン・クラカワー
the Wild)という本を書き上げた。 ある。1980 年代には、すでに「文学」は「かつて文学であっ
『荒野へ』
 1992 年夏、アラスカの荒野に放置されたインターナショ たもの」としか呼べない存在になっていた。
佐宗鈴夫訳
ナル・ハーヴェスター社のバスの中で一人の若者の遺体が見  文学は、あるいは「かつて文学であったもの」は、いった (集英社文庫)
つかり、やがて大学を出たばかりのクリス・マッカンドレス いこれからどこへ行けばいいのだろう。その問いに答えるか
という青年だと判明する。彼はアレックス、あるいはアレグ のように、『虹の彼方に』の第三話は「クリストファー・コ
ザンダー・スーパートランプと名乗って 90 年春から西部諸 ロンブスのアメリカ大陸発見」と題されている。
州を放浪し、大学時代に一度訪れたアラスカを旅の最終目的  この物語は、語り手である男性主人公の恋人(だと思われ
地にしていた。 る若い女)が、まだ小学生だったときのエピソードで始まる。
 マッカンドレスの荷物でいちばん重たいものは「本」だっ 1972 年、女教師に将来「何になりたい」のかと尋ねられた
た、とクラカワーは書く(原書では his library と表現してい 小学生時代の彼女は、「クリストファー・コロンブスになり
る)。携行する荷物をギリギリまで絞り込み、地図や時計さ たいです」と答える。「そんなこと、言っちゃいけません」
え処分したにもかかわらず、マッカンドレスは放浪の途中で という女教師の言葉を無視して、彼女をはじめとする「1年
会った男からもらったペーパーバックをはじめ、雑多な本を 4組」の小学生たちは、アメリカ大陸を探す旅に出てしまう
最期まで大事に持っていた。 のだった。それから 9 年後の 1981 年が、この物語における
ダグラス・クープランド
 それらはたとえばこんな本だった――ソロー『ウォールデ 「現在」である。大人になった彼女は、男主人公に「クリス
『ジェネレーションX∼
ン、森の生活』、トルストイ『家庭の幸福』、パステルナーク トファー・コロンブスになるための六つの方法」について尋
加速された文化のための
『ドクトル・ジバゴ』(クラカワーはこれらの一節を『荒野へ』 ねる。その答えのひとつとして男が提示するのは、こんなあ 物語たち』
各章のいくつかのエピグラフに充てている)。このほか『タ いまいな地図だ。【図1】。 黒丸尚訳

ナイナの植物伝承研究』といった専門書や、マイクル・クラ  この地図を 2009 年のいまみると、不思議な感慨に襲われ (角川文庫)

イトン『ターミナル・マン』、ラリー・コリンズとドミニク・ る。紀元前の地中海地方に栄えた古代都市の通商路の地図を
ラピエール(ルネ・クレマン監督による映画『パリは燃えて 見ているような気分になるのだ。
いるか』の原作コンビ)の『オー、エルサレム!』といった
ベストセラー本が彼の「ライブラリー」には含まれていた。
 だが、1991 年に刊行されてすぐに話題になったあるカナ
ダ人青年作家の小説は、どうやら彼の「ライブラリー」に
は含まれていなかったようだ。ダグラス・クープランドのデ
ビュー作『ジェネレーションX∼加速された文化のための
物語たち』は、90 年代の北米ポストモダニズムを代表する
作品である。この本が出た頃、マッカンドレスはモハヴェ砂
漠に近いアリゾナ州ブルヘッドシティに長期にわたって滞在
高橋源一郎
し、マクドナルドでアルバイトをしていた。偶然だが、
『ジェ 『虹の彼方に(オーヴァ
ネレーションX』の語り手をはじめとする主要な登場人物3 ー・ザ・レインボウ)』
人も、文明的な大都会を離れ、モハヴェ砂漠に住んでいると 講談社文芸文庫

いう設定だ(語り手であるアンディはマッカンドレスにどこ
となく似ている)
。旅の途上でマッカンドレスがこの小説を
読んでいたら、彼の運命も少しは変わっていたかもしれない。

2 『虹の彼方に』『極西文学論』
――クリストファー・コロンブスになることは可能か

図1
 マッカンドレスがアラスカの荒野で帰らぬ人となった年の
10 年前、一人の日本の青年が奇妙な題の小説を書いた。小
 たとえば、この地図の重要なランドマークである「平和相
互銀行」は 1986 年に住友銀行に吸収合併され、すでに存在
3 『郊外へ』『河岸忘日抄』
しない。吸収した側の住友銀行ものちに「さくら銀行」と合
併し、
「三井住友銀行」となった。「さくら銀行」はかつての「太 ――動かぬ船の上で
陽神戸三井銀行」であり、現在の「三井住友銀行」は、正確
には「太陽」「神戸」「三井」「住友」「平和相互」銀行の集合  さて、ここまで来れば、本稿の目的は半ば達せられたよう
体である。でもそんなことをもう誰も憶えていない。ローマ なものである。読書が旅に似ているとしたら、どこかへ到達
帝国が滅ぼした古代都市の名を、誰も憶えていないように。 するための手段ではなく、それ自体のなかに留まりつづける
 かつてはいたるところにあった「VIVO の自動販売機」も、 ための手段であるようなときだ。
仲俣暁生
ほとんど見かけなくなった。ありがたいことに、日本中の  もちろん、旅にも読書にもいつかは「終わり」がくる。だが、
『 極 西 文 学 論 Westway
「VIVO の自動販売機」の写真を集めたサイト(http://www. アキレスと亀のパラドクスのように、最終目的地に至る時間
to the World』
(晶文社) umaza.com/vivo/vvm.htm)がある。これによると北は「北 をかぎりなく引き延ばすことさえできれば、永遠に終わらな
海道常呂郡留辺蘂町温根湯」から、南は「沖縄県石垣市登野城」 い「旅」も可能になる。そのときの乗り物は、動かないもの
まで、777 台の「VIVO の自動販売機」の存在が――大半は でもかまわないはずだ。
非稼働だが――確認されている(2008 年 10 月現在)。この  もはや「移動」は不可能であるにもかかわらず、移動し続
サイトで見る、全国の路上に廃棄された「VIVO の自動販売機」 けようとする意志は不可欠である、という二律背反にいかに
たちは、アラスカの荒野に放置されたあのバス(ごていねい して落とし前をつけるか。堀江敏幸という作家のこれまでの
に「142」という不吉な番号がついていた)とそっくりでは 足取りは、そのような観点から捉えられるべきだろう。
ないか!  到達地へむかう固定的な運動を示唆する接尾辞「に」では
 「自動販売機」が「かつて自動販売機であったもの」とな なく、持続的な意志だけを孕んだ「へ」を選んだデビュー作
る時代は、「旅」でさえ「かつて旅であったもの」に変質し 『郊外へ』で、それはすでに示されていた。パリ市内に隠さ
てしまう時代であり、あのバスの残骸はまさしく「旅」の不 れたもう一つの子午線をたどるささやかな冒険を綴った『子
可能性の象徴だった。そのような時代を「ポストモダン」と 午線を求めて』を経て、
イラク戦争下に書かれた『河岸忘日抄』
堀江敏幸 仮に呼ぶとすると、そのはじまりは 1979 年――いまからちょ でこの作家はついに、デビュー作以来の難問に決着をつける。
『河岸忘日抄』
うど 30 年前というべきだろう。  セーヌ河岸に繋留された、動くことのない船。その船を住
(新潮文庫)
 この年の正月、アメリカ合衆国と中華人民共和国が国交を み処とする「彼」の物語として綴られるこの小説は、静かな
樹立。東西冷戦が事実上、終わりに向かって動き出していた。 る反戦小説であると同時に、ポストモダンの時代を生きる人
イギリスでは鉄の女マーガレット・サッチャーが首相に、イ 間の倫理のありかをもとめて、底知れぬ深さをもった水中に
ラクではサダム・フセインが大統領に就任した。彼の治世は 錘を降ろした、きわめて自省的な作品でもあった。
イラク戦争の起きた 2003 年まで続く。おとなり韓国では朴  かつて村上龍は中上健次との対談集を、ランボーの詩の一
正煕が暗殺され、クリスマスイブには(当時はまだ存在して 節を引いて『俺達の船は動かぬ霧の中を、纜を解いて』と名
いた)「ソビエト社会主義共和国連邦」の軍隊がアフガニス づけたが、纜 ( ともづな ) は解かれないままでもいまや航行
タンに侵攻する。 は可能なのだ。水路でも陸路でも事情は同じである。堀江敏
 村上春樹という作家がこの年にデビューしたことは、した 幸の最新短篇集『未見坂』には、マッカンドレスの見たのと
がって、けっして偶然ではない。村上春樹はかつて、自分に は別のかたちでこの時代を生き抜いた、もう一台のバスが登
とって「アメリカ」は、同心円状に広がる日本という「共同体」 場する。このバスが疾走する姿を夢想するとき、
「荒野」を失っ
の呪縛から外に出るために必要とされた「暫定的」な外部だっ た場所に思える私たちの日常が、じつは、見出されるべき荒
た、と書いたことがある。手前味噌ながら、村上春樹以後の 野に満ちた場所として立ち現れてくる。
堀江敏幸
『未見坂』 日本文学を「暫定的な外部」としての「アメリカ」を、あら  「荒野へ」という意志を維持したまま、いかに「いま・ここ」
(新潮社) めて自分たちのなかに取り込み、位置付けていくプロセスと に踏みとどまるか。そのことを引き受ける倫理こそが、この
して読み解いたのが、私の書いた『極西文学論 Westway to くそったれな世の中をワイルドに生きるために、もっとも必
the World』という本である。 要なことなのだ。■
 1979 年以後、「アメリカ」であれどこであれ、何かを発見 (初出:「nobody」、2009 年)
するために旅に出ても、その「何か」を見つけることは不可
能になった。「旅」とはどこかに辿り着くことではなく、む
しろどこにも辿り着けないままでいつづけることを意味して
いる。真の「アメリカ」を求めて彷徨う、といったロードムー
ヴィ的な「旅」は、世界中のどこであれもはや不可能であり、
もし強行したとしても、機能しない。マッカンドレスの死は、
そのような時代のなかに置いたとき、きわめて逆説的である。

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