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第 III 部

単位と一に関する諸見解
担当 安田清一郎
以下、このような 10 ポイントの小さな字は安田注です。
各節の見出しは、安田が内容を考えてつけました。

第 II 部(28 節 集合としての基数)からの流れ
l トーメ:「数形成のためには、異なった対象集合には異なった名前を」→この(異な
る/異ならないの)確定が一体どのようなものなのか、それが問題。
l (数を「物の集合」や「対象の集合」と呼ぶ者らに対して)ユークリッド:「単位の
集合」→この「単位」という表現の別個の検討が必要。
「単位の集合」という数の説明の裏で何か「言葉の巧妙な操作」が行われている、とフレーゲは
考え、問題視している。その議論に移ろうとしている。

第 III 部の構成(安田の見解)
① (29~39 節) 「数詞「一つの」は対象の性質を表現するか?」と「単位は互いに等
しいか?」
・・・「数えられるべき対象」の個々は相等性と区別可能性という二つの性
質をどちらも持たなければならない。しかし両者は矛盾する。「単位」とい
う言葉・概念は、この矛盾を覆い隠す「言葉の巧妙な操作」。
② (40~44 節) 「困難を克服する幾つかの試み」
・・・この「集合としての基数」論にとっての根本矛盾を克服・調停するこ
とを暗に目指した(とフレーゲの見るところの)これまでの試み
③ (45~54 節) 「困難の解決」
・・・フレーゲ自身が(ある種の「集合としての基数」論者として)考える、
この矛盾の克服・調停

①-a 「数詞 Ein「一つの」は対象の性質を表現するか?」


「『数えられるべき物』の個々を Einheit と言い換える理由は、そうすることで『数えら
あるいは、
れるべき物』としての本質的性質(仮定されるところの Ein の性質)のみに着目して対象に言及す
るためか?」1 (以下、「Einheit sortal 説」。命名理由は後述。)

なお、後述の便宜上、①-a の明記された見出しの問いに対する肯定の説、つまり「数詞 Ein は『数


えられる対象』それ自体のなんらかの性質を表現する」という説を、以下、「Ein 性質語説」とす
る。「Einheit sortal 説」も「Ein 性質語説」も、「そのような Ein の性質が個々の対象それ自体に
ある」という説、 「Ein 性質説」を前提にする。 (そしてこの「Ein 性質説」は、II 部で検討した「数
とは外的な物の性質」説の、特殊化(数一般でなく Ein のみに言及するので)でありかつ一般化(外
的な物のみでなく『数えられるべき物』一般に言及するので)である。

⊂ 「Ein 性質語説」
「Ein 性質説」
⊂ 「Einheit sortal 説」

1 34 節の冒頭(つまり次の①-b の冒頭)を参照。
「こういうわけで…恐らく我々は、物を単位と表示すること
を一層詳しい規定とみなすのを、断念せざるをえないだろう。」この言葉から判断するに、①-a 全体が「Einheit
sortal 説」の検討を主題としている。

1
29 節 性質語としての Ein の無用性
Ø ユークリッドの μονάς「単位」の多用性(あるときは一つの数えられるべき対象、
あるときはこのような対象の性質、あるときは数一を表示)。にも関わらずドイツ
語の Einheit がその訳語たりうるのは、同じ多用性を持つからに過ぎない。
(II 部の最後で話の「つなぎ」で触れられた、ユークリッドの「単位の集合」という言い方の、そ
のギリシア語の)μονάς「単位」について、そしてこの「単位の集合」にそっくりな事をシュレーダ
ーがドイツ語で言う(と、すぐ次で紹介されることになる)、そのドイツ語の Einheit「単位」、そ
のどちらにも同様の多様性・多義性があることが、まずここで指摘されている。この指摘は①の議
論全体(①-a と①-b 両方)の背後に流れていると思う。

Ø E.シュレーダー: 「数えられるべき物のそれぞれが Einheit と呼ばれる」→なぜわ


ざわざ Einheit という概念下に「数えられるべき物」をまずおく?2
Ø Einheit sortal 説:物を Einheit と呼ぶのは、そのほうが「一層詳しい規定」を以
て、物に、 「数えられるべき物」として、それ以外の性質を捨象して、言及できる
から。 (特殊な sortal reference としての Einheit)
² 性質語(限定形容詞)としての Ein(Ein 性質語説)と、その性質が帰属する
対象(その性質で特定される集合の元)としての Einheit(Einheit sortal 説)。
すなわち、
内包:外延(の元) :: ein : Einheit :: weise : Weiser
という関係。→しかし物はどれもがこの性質を持つ(すべて Ein である)。
[と
すれば]殊更この性質を付与する意味はない。(この性質語の内包は全く空虚
で、全く外延を‘限定’しない。)
² 述語(叙述形容詞)としての Ein も同様に理解不能な文を作る。
(単独では述
語になりえない。)
30 節 Einheit 概念3 の定義(外延境界の設定)のそもそもの困難
Ø ライプニッツ:「我々が知性の一つの働きによって統合するもの」→多も同じ。
Ø バウマン:
「我々が一つのものとして把握するもの」、「各々の一を、我々は多とも
みなすことができる」、「表象はどれも、別の表象に対して境界づけられていれば
一つのもの…しかしこうした表象はそれ自体[の内で]再び境界づけられて多と
[みなされ]うる」→この概念の定義・(外延の)境界設定はぼやけ、一切が我々
の見方次第となる。
ここで「一/多判断」についての「任意の見方」という主観性が問題視されている。これはこの後
も繰り返される伏線。フレーゲは、「個数言明判断は客観的なもの」と確信しており、
「数とはなに

2この疑問の直後でフレーゲは「これによって我々は前述の事柄に再び戻ることになろう」 (womit wir wieder


auf das Vorige zurückgeworfen wären)という。オースティンはこれを、28 節末で触れている「集合として
の基数」の中での「物・対象の集合」vs. 「単位の集合」の相違における前者への「throw us back again」と
解し訳している。細かいことだが、ここでいう das Vorige「前述の事柄」はそうではなく、この相違の話その
もののことでは?(第 II 部の「数は外的な物の性質か」の話に戻る、の意味かとも思ったが、だとしたら Vorige
という語は使わない?)
3今の文脈(Einheit sortal 説の検討の文脈)では Einheit は Ein という内包の外延の元を指す言葉として使わ

れている。これを考慮すると、「Einheit 概念」では誤解を招きやすい。が、フレーゲ自身が目次における 30
節や 31 節の要約の中で「der Begriff der Einheit」とか「die Idee der Einheit」と書いてしまっている。お
そらく「Einheit」に「Begriff」とか「Idee」という語をくっつけることで、 「(Einheit sortal 説が仮定する)
個々の Einheit の(Einheit たるゆえんの)本質の概念・観念」の意味で言っているのだろうと思われる。

2
か、についての説は、この客観性をうまく説明できるものでなくてはならない」と考えている。そ
して自分の説こそこの要請を正しく満たせるもの、と自負している。自説がこれまでの諸説に対し
て優れていると彼が自負する理由の一つだろう。どうやら。

31 節 分割されていない・境界付けられている、という徴表(外延境界)の否定と Einheit
観念(概念)の高次性(人間を動物から区別する「一層高次の精神的能力」)
Ø バウマン:「Einheit 概念の徴表(内包)二つ:分割されていない・境界付けられ
ている」→だとすれば人間以外の動物にもこの概念の心的表象4 があるはず。しか
しそうは思われない。
² 「一つの〇〇」が現れる個々の場面では、犬でもその〇〇が「分割されていな
い・境界付けられている」などのことは、「十分に気づく」。
² しかし、犬が、「一匹の自分より大きな犬に噛みつかれる」場面と「一匹の猫
を追いかけ回す」場面を比べて、両場面に共通して現れる「一匹の」という語
で表現される概念を意識するとは思われない。
Ø 「(Einheit 観念は)外のあらゆる対象と内のあらゆる観念が知性5 に提供
ロック:
するもの」→違う。「我々が認識するもの。」(「我々を動物から区別する一層高次
の精神的能力を通じて。」)
おそらくここでは、ロックの説を(Einheit sortal 説や Ein 性質語説の前提たる)
「Ein 性質説」の
一本質を付く言葉とみなし、 「この枠組みをそもそも離れるべき」と主張しているのでは?つまり、
「Ein」「Einheit」などの語の使用の背後で、そして「数える」という行為の背後で、実際に働い
ている我々の認識作用について、「与えられる」という受動的イメージ、すなわちカント的に言え
ば「感性 Sinnlichkeit」から「悟性 Verstand」へと(思考するための対象・材料として)なにか
「直観 Anschauung」が「与えられる」という受動的イメージでこの認識作用を理解するのを退け、
悟性の能動的な作用、つまり論理的思考という「一層高次の精神的能力」の作用で、思考対象たる
「概念 Begriff」を「認識する」という能動的イメージでこれを捉えるべき、という主張。 (よって、
Ein(1)にせよ数一般(0,1,2,…)にせよ、その意味で「客観的な」ものである、という主張。と
いうのも、カント的な感性の作用による直観、たとえばユークリッド幾何学的な空間的直観は、フ
レーゲは「主観的」なものとして「数の概念」からは区別する立場であった(26 節など)ので。)
(また、脚注5で指摘の通り、ロックの考えを否定するにあたっての「知性」がフレーゲの原文で
は「Verstand」であることもこれに関係しているかもしれない。)

32 節 二つの徴表と Ein の言語上(ドイツ語上)のつながりと、それが Ein 性質(Einheit


概念)とは無関係であること
[ちょっと略。時間があれば後で。。。]
33 節 「分割されていない」を「分割不可能」にすると Einheit と呼べるものが何も残ら
ない
Ø G. ケップ、バウマン:「分割されていない」という徴表の求める「内部の結びつ
き」を無制限に高めることで、任意の見方に依存しない(客観的な)Einheit の徴
表を得ようとしている。
→しかしこれをやれば、Einheit と呼べるもの(Ein 性質の外延の元)がほぼ何
も残らない。
(Ein 性質は「空虚」どころか「ほぼ充足不可能」な概念となる。)

4先日戸田山先生もご指摘の通り、こういう文脈での Vorstellung は日本語では単に「表象」とすると意味が


ずれると思われる。(オースティンは idea と英訳。)苦肉の策で「心的表象」mental representation。
5フレーゲの原文では「Verstand」である。

3
→かと言って、「分解不可能とみなされること」が Einheit 概念の徴表だ、と、
立場を撤退させたら、また再び「任意の見方」という主観に戻る。

①-b 「Einheiten 単位[たち]は互いに[同一なの]か?」 6

34 節 なぜ「数えられる諸対象」には(そのことにおいて)同一性が帰属させられるのか?
帰属させられるだけなのか、実際に同一なのか?
または、
34 節 (「数える」という個数判断の場面で)
「数えられる諸対象」の個々の独自性を捨象
すること、とは、それら対象を一つの一般的概念下におくことにすぎない。独自性は(認識
の中においてすら)消えはしない。
Ø かくして Einheit 概念を説明する試み(=「Ein 性質説」に基いて、Ein を性質語
として説明する「Ein 性質語説」の論証の試み)はすべて失敗に終わっている。
Ø (このことから推察するに)「物を Einheit と表示することを「一層詳しい規定」
とみなすこと(「Einheit sortal 説」の論証)は、おそらく断念せざるを得ない。
Ø 再び(①-a 冒頭の)問いに立ち戻る:すべての物が Einheit である、あるいはそ
うみなせるとすれば、なぜ(これまでの)人々(ユークリッドやシュレーダー等)
はわざわざ(「数えられる対象」としての)物を Einheit と呼び換えてきたのか?
この問いの立て方には、若干の議論の飛躍が見られる?というのも、この問いはどうも次の可能性
を初めから無視しているようなので:「すべての物が Einheit である、あるいはそうみなせる」と
いうことは、この呼び換えをしてきた人々には自明ではなかった。だからこの言い換えをしてきた。

あるいは、ここで原文の接続詞 Wenn を仮定法と解して「とすれば」と訳すのが間違い?(オース


ティンも if と訳してはいるが。)つまり、フレーゲの真意はこういうこと?:すべての物が Einheit
である、あるいはそうみなせる(つまり、そういうことが明らか)という時、なぜこれまでの人々
は…。こう解釈してあげる方が charitable な気がする。

Ø →E. シュレーダー:「数えられる諸対象に(「数えられる」ことにおいて)帰属させら
れる同一性、これである。」7(それを示唆するための「Einheit」への呼び換えで

6 ここではオースティンは gleich, Gleichheit を identical, identity で訳している。日本語でいうなら「等しい」、


「相等性」ではなく「同一」、 「同一性」とでもいうようなこと。実際、そう読むと、この①-b で説明される「困
難」 (物を Einheit と呼び変えることで隠される「困難」)は理解しやすくなると思われる。なので、試しにオ
ースティン流でまとめてみる。
7 和訳は自然な日本語だが、返って原文の意味が取りづらくなっている。と思う。原文「E. Schröder giebt als

Grund die den Objecten der Zählung zugeschuriebene Gleichheit an.」直訳「シュレーダーはその理由とし


て、数えられる諸対象に帰属させられる同一性(相等性)を挙げる。」おそらく、この文でフレーゲが「シュ
レーダーの認識」として表現しているのは、 「数えるということにおいて、数える者は、 (およそ必然的に)『数
えられる諸対象』を同一とみなしている」という認識であろう。(こう読まないと、この後の重要な疑問
「weshalb wird den Gegenständen der Zählung Gleichheit zugeschrieben?」の意図がわからない。)もしこ
の解釈が正しければ、和訳は文章を「きれい」にした結果返って原文の意図が読み取りにくくなっている。 (も
っとも、「weshalb wird … zugeschrieben?」を「何のために…帰属させられるのか」と、あたかも「数える
者」が意図的に「相等性を帰属させる」かのように訳す辺り、訳者は原文の意味を安田とは別に解釈している
のかもしれない。)
なお、安田解釈が正しければ、オースティンの英訳はもっとヘン。シュレーダーが物を Einheit と
呼び替える理由は、「そう呼び替えることで、シュレーダー自身が同一性を『数えられる諸対象』に帰属させ

4
ある。)
Ø →
² 「物」や「対象」という語ではそれは示唆出来ないのか?
² なぜ「数えられる諸対象」には(そのことにおいて)同一性が帰属させられる
のか?帰属させられるだけなのか、実際に同一なのか?
この二つの質問も、後の自説への伏線か。つまり、フレーゲの自説はこれらの疑問に答えるも
の、ということか。先走って言うと、安田の読むところ、フレーゲの自説では「数えるという
こと」は「個数判断をくだすこと」であり、この判断はいわば概念を主語に、個数判断を述語
(判断の核)にもつ主語-述語型言明(個数言明)の判断なので、判断(述語にあたる個数の
判断)に先立ってその判断の主語としての概念が認識される。このために、判断の際には「こ
の概念に属する」という性質以外の性質が「数えられる諸対象」から、(認識において、すで
に、必然的に)捨象されている。これが、「数えることにおいて我々は(必然的に)その諸対
象を同一視している(諸対象に同一性を帰属させている)」と、シュレーダー(やおそらくユ
ークリッド)らが考え、Einheit (μονάς)などの呼び名に走った理由であろう。よってある意味
では同一性は諸対象に「帰属させられるだけ」 (諸対象は同一視されるだけ)で、諸対象が「実
際に同一」なわけではない。(それはそもそもあ り え な い 。この後の部分参照。)また、概念
は客観的なものであり、その概念にいくつの対象が属するか、という「個数判断」の真偽も客
観的なものなので、たとえ「同一視される」だけであってもこの場合の「見方」は任意(主観
的)ではない。(「(安田の)フレーゲ」談)。

² 再び「任意の見方」の主観問題
l 二つの(異なる)対象が完全に同一ということはありえない。8
l 二つの(異なる)対象といえど一致する観点はいくらでもある。
「一致する観点」とは、
「その観点においては両者が同一視できる観点」のことか。とす
れば、この「観点」はほぼフレーゲのいう「概念」の言い換え。要は、
「どのような異な
る二対象でも、十分に抽象度の高い概念を考えればいくらでも同一視できる」というこ
と。

l 結論:二つの(異なる)対象に同一性を帰属させるかどうか(同一とみな
すかどうか)の主観性
² (「数えられる諸対象」に Einheit のような呼称をあてる)多くの論者が、
「Einheit は無限に同一」9という。が、
(何かを数える場面でそこにある)集
合に属する個体(=数えられる諸対象、彼らが Einheit でまとめるもの)は、

るため」であるかのような訳。 (ただ、necessary identity と訳しているのが不思議。) 「Why do we ascribe …」


もヘン。ちょっと前で、この呼び換えをする者を man で指して、 「weshalb nennt man die Dinge Einheiten…?」
とやっているのを受けての意訳か?しかし、そこでは能動態を使ったフレーゲが、こちらの疑問文ではあえて
受動態を使うのは、この zugeschrieben が意図的行為ではなく、「『数えること』に付帯する不可避の行為」、
あるいは「『数えよう』とする結果、 『数える者』が自身の認識の中の『数えられる諸対象』に不可避的に付与
させること」を示唆するためでは?(どうもオースティンの解釈では、フレーゲは「『数える者』は『数えら
れる諸対象』に何らの同一性も(数えることにおいて)帰属させてなどいない」と考えている?だとしたらそ
れは誤解ではないか。)
8 「相等」ではなく「同一」で訳す最大の利点はココ。 「相等」だと、なぜこれが「ありえない」のか、わか
りにくい。ただ、 「完全に同一」 「実情より行き過ぎた同一性」のような言い方で、あたかも「同一性付与の度
合い」を思わせてしまう表現は微妙だが。。 (ドイツ語の gkeich, Gleichheit には、こういう言い方を許す使い
方があるのだろうか?)
9 ohne Einschränkung gleich

5
互いに異なる、と、まったく同等に言える。→ではこの「同一性」なるものは、
数にとっていかなる意味があるのか?
これもまた伏線。フレーゲはこの「意味」についての独自の回答を持っている。上記。

Ø (何かの数を数えようという場面において)「数えられる物」を区別する性質は、
その個数にとっては(確かに)どうでも良い。このため人は(数を得るため)こう
いう性質を遠ざける(=「数えられる諸対象」が「数えられるため」に持つべき性質から除外
する)。が、それでは数は得られない。
(次節のポイントだが、それでは区別が不可能になり、
個数判断は下せない。)

Ø 「対象集合の各元の独自性を捨象」する(だけ)では、「その集合の基数概念」は
残らない。残るのは、それらの対象が属するような一般的概念である。例:一匹の
白い猫と一匹の黒い猫を考察し、その区別を可能にする色の違いを捨象すれば、 「猫」
という概念(なにかの「客観的徴表」で属性(属するか否かの条件)が定められる「数えられる
諸対象」の集合の、その「客観的徴表」)が得られる。だが、両対象の区別を可能にする
性質の差は、(相変わらず認識の中に)そのまま残る。
まだこの 34 節では、①-b の主題(「数えられる諸対象」に要請される、あるいはそのように見える、
相矛盾するふたつの性質=同一性と区別可能性)の話も出ていないし、まして③の主題(Einheit
という呼び変えは、この矛盾要請の「困難」を隠す「言葉の巧妙な操作」だった、というフレーゲ
の診断)も出ていない。が、フレーゲ自身の「診断」はすでに、伏線としてここに大筋が見えてい
る。と思う。

35 節 複数性を認識するためには「数えられる諸対象」の相違は捨象すべきどころか必要
Ø 単に概念上の手続きでは、異なった物は同一になどならない。が、仮になったりし
たら10、そこにあるのはもはや複数の物ではなく単一の物だろう。
Ø 以下の主張はみな正しい(少なくとも一面において)。
² デカルト:「諸物における数(複数)は、それら(諸物)の区別から生じる」
² E. シュレーダー:
「物を数えよという要求を無理なく行えるのは、提示される
諸対象が互いに明確に区別可能なものとして、例えば、時空的に分離して相互
に境界付けられているものとして、現れる場合に限られる」
² W. スタンリー・ジェボンズ:「数は相違の別名でしかない。厳密な同一性は
単一性であり、相違と共に複数性は生じる」 「Einheiten(=「数えられる(複
数の)諸対象」)は幾つかの観点で完全に等しいとしても、少なくとも 1 つの
点異なっていなければならない。差もなければ複数性の概念は Einheiten に適
用し得ない」
====ここまで、6月21日ゼミで終了。====

10
和訳ではこのつながりのニュアンスが「仮になったとしても」と、あたかも、そうなることが望ましいが
残念ながらそうはならない、かのように訳している。が、 「概念上の手続き」はフレーゲ自身の「数えること」
分析の根幹。そしてこの分析は、「Einheit 論者」が「我々は『数えられる諸対象』を同一視する」と考える
ことを正しい自己認識として擁護する議論ではなく、それをある重要な意味での自己誤認として「診断」する
議論、と思う。「単に概念上の手続きでは異なった物は同一にならない」のは、「残念ながらそうはならない」
のではなく「幸いなことに、あるいは、当然のことに、そうはならない」のだと思う。

6
====ここから、6月28日ゼミ用。====
36 節 (互いに相異なる)Einheiten(複数)という見解の困難(算術における表記法と
の不整合)
Ø ジェヴォンズ:
確認:ここに示されるジェヴォンズの言葉も、「数」を「Einheiten(の集合)」と考える論者の言
葉として紹介されている。

² Einheit(単数)
(単位、unit)とは、思考の任意の対象であって、しかも、同
じ問題で Einheit として扱われる他の任意の対象から区別可能なもの。
l →循環説明になっている。特に、「他の任意の対象から区別可能なもの」
という補足条項。
² 記号5を書きつけるとき、私が意味するのは
1+1+1+1+1
² これらの(5つの)Einheiten(記号 1 の上記での5度に渡る出現の一つひと
つがひとつの Einheit を指示するとして)のどれもが(つまり、どのひとつの
出現に指示される Einheit も)、他の(4つの出現に指示される4つの
Einheiten の)どれからも異なるのは明らか。必要なら次のようにも表記でき
る。
1'+1''+1'''+1''''+1'''''
Ø →無論、これらの Einheiten が異なるなら(つまり、これら5つの(記号1の)出
現一つひとつが異なる Einheit を指示するなら)、異なった仕方で表記する必要が
ある。(というのも…)
² 記号1の出現の場所の相違がすでに(指示される)Einheit の相違を意味する、
という表記ルールでも行ける、と思うかもしれない。
² が、まず、そうするならそのルールを例外なき規則として設定しなくてはいけ
ない。
l もしそうしなければ(記号1の異なる場所での出現が異なる Einheit を指
示したり、同一の Einheit を指示する不規則性を許せば)、1+1 が 2 を意
味するのか 1 なのか、分からないので。
² しかし、この場合(上記ルールを例外なき規則に設定した場合)、1=1 という
等式は偽となる。(ここに2度出現する記号1は、それぞれの出現において異
なる Einheiten を指示するので。)
ここで、フレーゲは記号=を、
「相等性の記号」ではなく、まさしく、 「同一性の記号」として
(オースティンが Introduction の p. II の脚注で指摘する通り。)すでにフレーゲ
扱っている。
の自説が暗黙裡に前提された議論になっている。

² また、(というか、要は)同じ物は二度と表記できないという苦境に陥る。
Ø しかし、もし「異なる物(指示対象)には異なる記号を」というルールで行くなら、
なぜこれらの異なる記号たちに共通した構成要素を持たせるのか。なぜ
1'+1''+1'''+1''''+1'''''
ではなく
7
a+b+c+d+e
としないのか。ここでは Einheiten の相違にこそ注目しているのだから。
Ø (もちろん、答はわかっている。)「数える」において、我々は対象のある意味で
の同一性を必要とする。だから、「共通した構成要素」1。だが、相違も必要とす
る。だから添え字。が、添え字は、(必要な)同一性を破棄してしまう。(我々は、
「数えられる諸対象(複数)」に、相矛盾する性質を持つことを要請している。)
37 節 ロック、ライプニッツ、ヘッセによる Eins(一)と Einheit(単位)の混同
Ø ロック:略(すいません。。)
Ø 「1と1と1」として、あるいは Einheiten(Einheit
ライプニッツ:数を(例えば)
の複数形)として定義。
Ø ヘッセ:略(すいません。。。)
Ø →ここで重要なのは「Einheit」(単位)と「Eins」(一)語の意味の関係。(両者
を同じ意味で用いているか。)
² ロックとヘッセは両者を同じ意味で用いていると思われる。
² ライプニッツも、結局はそうだろう。
l ライプニッツは Einheit(単数)を一つの(一般的)概念と解し、その下に
die Eins と die Eins と die Eins が属するもの、とする。(よって一見、
Einheit と Eins を区別している。) (一見、次節で明らかになるフレーゲの区別を
部分的に先取る。) (しかし、)
定冠詞 die により、各「die Eins」が上述の「1と1と1」で指示されている一つひ
とつの Eins を anaphoric に指示する。ここで、アラビア数字「1」とドイツ語の数
詞「Eins」が、さりげなく、co-referential に使われている。実際、音声言語としての
独語では両者は区別出来ないのかも。しかし、書き文字文化における傾向としては、
アラビア数字は比較的「数学的な算術」の場面において、つまり個々の「基数」への
直接的な指示言及がやり取りされる場面で多用される一方、文字列「Eins」「Zwei」
などは、より日常的な、あるいは日常に密接した「算術」の場面(たとえば具体的な
何かの個数を「数える」場面など)において、つまり、個々の「基数」が抽象的に、
形容詞的に、 「性質語」的に使用される場面で多用されるのではないか。つまり、ここ
で、想定される「数」使用の場面のある種のギャップが、やや強引に継がれてしまっ
ている、という感がある。

もちろんフレーゲは何かを誤魔化すつもりでこうしているのではまったくないだろう。
伝統的認識論の枠組み(知識の正当性の問題と知識の(経験からの)由来の問題を分
ける枠組み)で「算術の基礎づけ」を目指す彼にとっては、両場面における「数」の
この「一見異なる使用」を(正当性の観点から)統一的に説明することこそ、その「数
の哲学」のゴールなのだろう。が、この伝統的枠組を批判的に超えていこうとする立
場、たとえば「認識論の自然化」を数学的知識の認識論に適用しようとする立場から
見れば、この「事実、異なる使用」は再注目すべき重要なものでは?

l 彼は Einheit という概念下の個別の対象をみな Eins と呼ぶ。こうするこ


とで結局、この語「Eins」は、どの特定の個別の対象でもなく、当の概念
Einheit を表示している。
例えば目の前にあるものを「猫と猫と猫」と表現したら、そのフレーズの中の「猫」
という語はやはり、眼前のどの特定の一匹でもなく「猫」という概念を表示している。

8
(とも言える。)
(54 節のシュレーダー引用の中で言及される「単位名称」という考え
方を参照のこと。)

38 節 Eins(一)と Einheit(単位)の区別(固有名と概念語)→数を Einheiten(の集


合)と考える誤り。
Ø Eins は固有名(数詞は一般に固有名)singular term?
² 我々は「die Zahl Eins」などと言う。定冠詞 die を用いて、ある特定の個別の
対象を示唆する。 (ここで示唆される通り)数 Eins はただひとつ存在する。相
異なる数 Eins が存在するのではない。
² 我々が(アラビア数字)1 (および数詞“Eins”)において手にしているのは
固有名。
² →よってそれは複数形にはならない。「フリードリヒ大王」や「化学元素金」
と同様。
ひょっとするとこの名詞 Gold は独語では不可算名詞かもしれないので、複数形にならない
理由の主な部分はそれかも。

(が、そうだとしても) 「化学元素金 das chemische Element Gold」は非常に面白い例かも


しれない。Gold「金」は明らかにいわゆる natural kind term。普通に考えればこれは固有
名詞ではなく一般名詞。この例は、この種の名詞が語形変化なしに singular term 的にも
general term 的にも使えることを示唆する?例えば(英語でいうと)名詞 gold は“Gold is one
of the most stable chemical elements”ではまるで singular term みたいに、
“This is a piece
of gold”ではほぼ general term として使われる。加算名詞でも同様の general/singular 的
使用の二重性が見られるし、日本語のようにそもそも加算/不可算名詞の区別がない言語で
も natural kind terms はこのように二重に使用できる。(ただし、日本語での二重使用の文
法的仕組みは英語語のそれはとは明らかに異なるが。。。)

この使用の二重性は、見ようによっては、自然言語に(おそらく普遍的に実装された)「自
身について(自己参照的に)語るための、自然なメタ言語リソース」の一環かもしれない。
というのも:例えば化学の教師が生徒に向かって“Gold is one of the most stable chemical
elements”と言ったら、それは、果たして、
「外的世界についての何事かの(一般的)事実」
を教えているのだろうか、それとも「gold」や「chemical element」、
「stability of chemical
elements」などの化学的概念、つまり、科学的用語の用法を、つまりは、ある種の言語文法
を教えているのだろうか?

² (アラビア数字)1に添え字などを付けないのは偶然ではないし、不正確な表
記でもない。(この記号が果たすべき表記機能は、添え字なしに十全に果たさ
れている)。
² (36 節の)ジェヴォンズによる数字1の用い方(理解の仕方)の再検討
l (等式 3-2 = 1 関連の議論、略。すいません。)
l (1''''+1''''')と(1''+1''') は、(仮にどちらも2だとしても)同じではない。

→相異なる Einsen(Eins の複数形)ばかりでなく、相異なる Zweien(Zwei
の複数形)、等々も存在することになる。
l →かくして、数は物の集積(集合、集まり)ではないとわかる。
(なぜなら)
Ø (数を「そのような物の集まり」と考えるとすると、ジェヴォンズのように集積
をなす個々の物の区別可能性を尊重しなくてはならない。だが、その結果、実際に
は常に同一である Eins の代わりに無数の相異なる Eins をも得ることになる。)

9
Ø このような相異なる物を(算術記号1の意味論に)導入しようとすれ
ば、これらを指示するのにどれほど似通った記号(1'とか 1''とか)を
使おうとも、算術は破棄されてしまう。
Ø だが(これを単に記法の問題と考えて)記号の方を同一にしても、(記法
から)誤りを取り除くことにはならないだろう。11
Ø もちろん(そもそも)12 「算術には喫緊の要事がある。それは記法
に誤りがあることである」などとは、考えられない。13(そもそも算術
の記法にはそんな誤りなどない。)

Ø (結論:よって、数は物の集積とは考えられない。)
なお、ここでのフレーゲの説明スタンスは、言語学者のそれと同様の、典型的な
rational abduciton のスタンスとなっていることは特筆に値。算術の実践における
記法をいわば「説明すべき言語データ」として扱っている。フレーゲは基本的に終
始 abductionist。そこがすばらしい。 「『概念記法』はどうなる!あれは数学におけ
る記法に改変 revision を迫るものではないか」と思う向きもあるかもしれないが
(そんな人はいないかもしれないが一応明記しておくと)、あれの本質はむしろそ
ういう revisionism の真逆で、これまた abduction の説明スタンスであろう。あく
まで、数学の実践でやり取りされる実際の推論の観察(一種の参加観察)から、数
学者たちが暗黙裡に共有する「推論能力 inferential competence」を、あるいは「推
論の文法」を、仮説的に言語化したものであろう。『概念記法』自体はフレーゲに
とって最終形であっても、彼があの最終形に至るまでには、自身が有する「推論能
力」に照らしておそらく何度も何度も改変が重ねられたものだろう、と想像できる。
とすれば、結果的にはあれが最終形となったとはいえ、その本質は「永遠の仮説」、
すなわち、もし「自身の推論能力」に照らしてそれを正しく表現できてない部分が
見つかればまた改変されるべきもの、であろう。基本的な説明スタンスとしては、
これは、ユークリッド、ヒルベルト、ツェルメロなどの「公理化」の作業とも重な
る。これも典型的な rational abducton の仕事である。

l →よって(数は物の集積とは考えられないため)、
(算術における記号)1という
ものを、アイスランド、アルデバラン、ソロンといった相異なる対象(数
えられるべき対象のひとつ)を表す記号とみなすのは不可能。
ここでは暗に「記号1が表すものはもっと別にある(はず)」と言っている。

l このような1の考え方の不合理のさらなる論証:ある方程式の3つの解、
2,5,4の例: ここには「同じ問題で扱われる思考対象」(36 節冒頭
のジェヴォンズの言葉)として、「ある方程式の解」が3つある。ジェヴ
ォンズ式には、この個数(基数)3で意味されるものは、 1'+1''+1'''
とも書き表せる。(しかし、この三つの解の和を考えるときなどでは?)こんなふ
うに書くより、2+5+4 と書くほうがわかりやすい。
Ø Einheit/en は、概念語 general term?
² 概念語のみ、複数形が可能
² →よってもし「Einheiten」
(複数形)について語るとすれば、その語の使用は

11 Gleich dürften sie ja ohne Fehler nicht sein.


12 Doch の一語に「そもそも」とも訳せるようなニュアンスの「もちろん」を読み取ろうとしている。(正直
なところ、自分の独語力では doch をそんなふうに解せるのかわからない。が、この文章が「数は物の集積と
は考えられない」という結論への理路の説明の一部と解するなら、こう訳せるのでは?という仮説。)
13 Man kann doch nicht annehmen, dass das tiefste Bedürfniss der Arismethik eine fehlerhafte

Schreibung sei.

10
固有名「Eins」と同じ意味(同じ指示対象?gleichbedeutend)ではありえない。
ありえるのは、概念語としての使用(のみ)である。(ではそれは一体どんな意味
の概念語なのか?)

この部分のフレーゲの議論の流れが非常に解釈しづらい。上述の「ではどんな意味の概念
語か?」は、議論の流れの仮説的解釈として安田が勝手に挿入したもの。以下の●ふたつ
も、これを受けての仮説的解釈。

l もし「Einheit」 (単数)が「数えられるべき対象」 (単数)を意味する(指


示する?bedeutet)なら、(すなわちこの概念語がおよそ数えられるべきすべての対象
を包摂するものなら、)数を「Einheiten」(複数)(=そのような「数えられるべき
対象」の集まり)として定義することはできない。 (「Einheiten」という複数形自
体は意味を持つが。)

l (一方、)もし(概念語としての)「Einheit」のことを、「Eins(一)を、ま
たそれだけを包摂する概念」と解するならば、この語の複数形は意味をな
さない。
Ø だからこの場合もやはり、数を Einheiten として、あるいは「1と
1と1」として定義することは不可能。 これはまさしくライプニッ
ツがやった(37 節で)ことだが。
(というのも、この場合にあえて Einheiten
という複数形を用いれば、それは確かに(あえて言えば)「1と1と1」というこ
とになるが、この)「1と1と1」は3ではなく1なのである。
Ø (ちなみに)したがって、
1+1+1 = 3
の中の加法記号は、
(そのような)「集まり」とか「集合的観念」の表
示に役立つ「と」とは別ものである。
39 節 「集合としての基数」論の、本質的な「困難」。Einheit という語の多義性がこの「困
難」を隠すということ。
Ø ここまでに見てきた(「数を『物の集まり』と定義する考え」にとっての)困難の
まとめ
² (「数をなす集合」の元の)区別可能性と同一性の矛盾:
l 相異なる対象の統合によって数を得ようとすれば、(たしかに)集積(複
数性)を得る。(なぜなら)そこに含まれる諸対象は互いを区別する性質
を伴う(から)。(上記の●のひとつめに対応。)しかしこのような集積は数で
はない。
l 他方で、互いに同一なものの統合によって数を得ようとしても、そもそも
複数性に到達しない。(上記の●のふたつめに対応。)
² 算術記号(1など)の整合的使用を不可能にすること(あるいは、実際の算術
記号の使用からの乖離):
l 数えられるべき対象(「数をなす集合」の元)の各々を(それらの間の同一性
に準じて)1を用いて表示するならば、異なったものが同じ記号を得る。

l (その対策として)1に対象区別のための添え字をつければ、(仮に同一性
と区別可能性の双方の要請に答えるとしても)算術にとって無用になる。

Ø 「Einheit」という語は、これらの困難(「集合としての基数」論に内在的な本質的「困難」)

11
を隠す。
(隠して、どうにか「集合としての基数」論をもっともらしく繕う。)
ここで「隠す」と言っているのは区別可能性と同一性の調停の困難の方、と思われる。算術記号の
実際の使用からの乖離は、この困難を「どれほど繕って出てしまうボロ」みたいなもの?

² 人はまず、数えられるべき諸物を Einheiten と呼ぶ。


l (複数形から分かる通り)ここではまだ諸物の間の相違はその権利を保持する。
(人はその相違に基づいて判断を下す権利を保持する?)
² 次に、統合、収集、統一、付加など(集合的観念を生み出す心的操作が)算術的加
法の概念に転じ(すなわち前者の操作を表す「と」が後者の「+」と混同され)、概念語
「Einheit」(単数)が固有名「Eins」に変わる(混同される)。
l これによって(Einheiten の“間”の)同一性が得られる。
Ø ここではミルの非難の言葉「言葉の巧妙な操作」が妥当。

② 「困難を克服する幾つかの試み」
この「集合としての基数」論にとっての根本矛盾(=各元の区別可能性と同一性の矛盾)を克服・
調停することを暗に目指した(とフレーゲの見るところの)これまでの試み。フレーゲにとっては、
完全に見当違いの、いわば false problem の解決のための試み。

40 節 空間と時間の援用
Ø 空間点、直線、平面などは、それぞれが単独で考えられたときには別の(同種の)
もの(それらも単独で考えられているとして)から区別できない。 (「重ね」たら「ぴ
ったり重なる」。)あらゆる合同な幾何学「図形」(1次元であれ2次元であれ3次元
であれ)の「合同」はまさにその意味。それらは、ひとつの全体的直観の構成要
素として共存するとき(同時に直観ないし認識されたとき)初めて区別できる。
時間についても同様のことが言える。
「同様のことが言える」とここでフレーゲがいう「時間」は、表象的な認識において「空間化され
た時間」あるいは「幾何学化された時間」とでもいうべきもの、としか思えない。時間とは、一面
においては、
「それについてともあれ表象(内的・心的な表象であれ、外的・記号的な表象であれ)
しようとすれば、(そのように)空間化・幾何学化するしかないないもの」だとは思うが、別の一
面においては、「(そのようには)表象し得ぬもの」かと思う。表象する、ということ自体が(内的
であれ外的であれ)「時間のなか」において生起する現象だから、である。(*)そしてこちらの「表
象しえぬ」時間については、もちろん、「同様のこと」など全く言えない。時間上の“複数”の異
なる「時点」や「期間」(と言ってしまった瞬間からすでに「時間の空間化」がはじまってしまっ
ているが)は、同 時 に 認識することがそもそもできないので。(同 時 に 認識できるのは、「記憶」
に落とし込まれた、いわばそれら「時点」や「期間」の認識の残像。この「記憶に落とし込む」と
いうことが、
「時間の無時間化・幾何学化」とほぼ同義のこと。 「時間とは、ともあれ表象するなら、
空間化・幾何学化するしかないもの」というのは、こういうこと。)(**)『算術の基礎』のこの部分
を読む限り、フレーゲのこの時点の思想はある種の「時間についての認識論的ナイーブさ」の上に
成立しているのではないか、という懸念が拭えない。

(*)個人的には、これは、
「語る」という言語現象(外的なほうの“表象現象”…と、我々が通常
理解するもの)が「時間の中」で生起する現象であること、よって「時間については語り得ぬこと」
に由来する、と考える。

(逆ではない。というより、そもそも「内的・心的な表象現象」というものの科学的実在に関

12
しては、自分は否定的。…という発言は、ある意味、自己矛盾に満ち満ちてはいるが。なぜな
ら、科学という集団言語行為も、今この文章を通じてまさに自分がしていることも、行為の発
信者・受信者たちが互いを「内的・心的表象主体」とみなし合うことを前提にする行為なので。
この点については、次の(**)も参照。)

ではそれはなぜか。なぜ、「語り」が「時間の中の“表象現象”」であることが、「時間について語
ること、“表象”すること」を不可能にするのか?この問いへのちゃんとした(自分として納得で
きる)解を自分はまだ持っていない。ただ、これは次のような「ネィティブのメタ言語直観」に関
わるはず、という直観が自分にはある:我々、すなわち言語使用者が、「言語」のことを「表象の
ための記号体系」とごく自然に理解したうえで「言語」について反省的に考えると、我々は、「言
語はそれ自身について語り得ない」または「語り得てはならない」という、ある種の「表象言語使
用者として自然な直観」(「ネィティブのメタ言語直観」)をもつ。この直観は、「時間」と「表象」
の関係について abductive に考えるための、重要なデータのひとつではないか。

(**)なお「認識」は必ずしも表象という考え方を用いなくても解しえる、あるいは、「表象とし
ての認識」とはまったく別の「認識」というものが、事実、ある、と自分などは考える。たとえば
紙の上に鉛筆で一本の線を引く場面を想定してみる。はじめは真っ白な紙の上に、鉛筆の芯の先端
を下ろし、動かし始める。すると、動かしだす前には感じなかった確かな摩擦抵抗、芯の先端と紙
面の間の摩擦の「感じ」が、鉛筆を通じてリアルタイムに指先に伝わり、その「感じ」に応じて、
芯先端を動かした跡に黒い線が、動かした分だけ、生まれてゆく。つまり、芯先に力を込めると摩
擦抵抗は大きくなり、生まれる先は濃くなり、力を緩めると摩擦も小さくなり、線は薄くなる、と
いうように。こうして、自身の身体運動・身体感覚に応じた濃淡のある線が、徐々に伸びてゆくさ
まが、移り変わりゆく視野にも確認される。あるいは紙面上を芯先がこすれ動く音もこの経験には
加わっているかもしれない。このように、自らの全身体運動・身体感覚をもって、物理的な「状態
変化」を世界に生み出しながらそれを確認してゆくことで、自分の身体は、時間を、空間を、そし
て物質の実在を、直接経験として、リアルに知覚認識する。

(厳密に言うと、おそらく最も直接的に身体に知覚認識されるのは、時間経験の側面と空間経
験の側面と物質の実在の経験(究極的には質量経験)の側面すべてを含む、未分化な「身体の
加速運動または運動変化」の経験である。おそらく。この未分化の直接経験が、暗黙知・能力
値のレベルですでにある種の「分析」を経て「時間の認識」「空間の認識」「質量の認識」
(の
形式)へと分化されてゆく。ということではないか、と思う。が、この辺のことは捨象する。)

このような直接経験においては、運動 motion と知覚認識 perception(その中核は proprioception)


が、リアルタイムに連携する。はずである。なぜなら、このリアルタイムの連携なくしては「まっ
すぐ線を引く」、「丸を描く」など、
「思ったように線を描く」ということが不可能になるので。 (「そ
もそも『思ったように線を描く』というのが幻想だ」と言われたらどう返せばいいのか、まだよく
考えていない。。。が、ちょっとこの問題は横に置く。)よって、このような直接経験を生み出して
いる最中の自分の指先は、あるいは身体は、なんらかの意味で、 (線を描く過程の中の)各「瞬間」
の「認識」と、その「瞬間ごと」の芯先端の位置(描こうと思っている線の形状の全体における相
対的な位置)やらその「運動状態」の「認識」を持つはずである。何らかの意味で。このような「リ
アルタイムの瞬間々々の認識」は、「表象としての(空間化された、幾何学化された)認識」とは
まったく違う、と言わねばならない。というのも、これらは「一つの全体的直観」の中に同時に収
めることなど出来ないから。というか、「同時に収められるか」などと問う対象では、そもそもな
いから。繰り返すが、「同時に収められる」対象は、あえて言うならこれらの「認識」のある種の
「記憶」。そしてその「記憶」によって無時間化された「全体的直観」をやり取りする(とされる)
のは、「表象主体」とでも言うべき想定存在であり、リアルに実在する身体ではない。と言うほか
ない。つまり、「瞬間ごとの認識を入力として受け取り、時系列に順序付けて蓄積=記憶してそれ
を内的に表象し、状況を表象的に認識・判断し、身体の反応運動を出力として返す主体」。そのよ
うな記憶・表象・判断の主体。我々が、通常の言語行為において互いに互いを「そのような主体」
として想定しあっている、そのような、想定上の存在。(よって、例えば、今自分がまさにこの文
を書くことにおいて、読み手を「そのような主体」として想定し、読み手に「そのような主体」と
想定されることを想定し、そうすることによって、自分自身を「そのような主体」としてプレゼン
している、そのような想定存在。)

13
…なお、ここで、 「身体が認識している」というような表現は、比喩と取られるかもしれない。
が、これを比喩ではなく字義通りにそう言ってよいといえるように、認識論学者は「認識」と
か「cognition」、
「intelligence」などの語の使用法をかえてゆくべきではないか。という提案。

…ここに描いたような「平面上に線を引く」という行為は、実は、「認識における『時間の空
間化』」と密接に関わるのではないだろうか?「平面上に線を引く」という行為において、身
体は、「時間」、、、というより、
「自らの身体運動」を通じての「時間の直接経験」、、、を表象(な
いしメタ表象。なぜなら「表象」されるのはいわば「自らの歴史」なので)するための、基本
的表象技術、あるいは表象によるコミュニケーション技術一般の基盤技術のようなものを手に
入れているのではないか。そして、数こそまさに、この技術を通じての「認識における『時間
の空間化』」の産物と考えることは出来ないか?・・・まだ、とっさの思いつきでしかないが。
大雑把にはこの着想が正しいとすれば、文字の文化、製図等の線画の文化など(つまり、「平
面上に線を引く」という行為を強いる文化)は、こういう行為のやり取りを強いることによっ
て、その共同行為への参加者の「共有自己認識」にかなり原理的な影響をあたえるのではない
か。

Ø →ここでは、同一性が区別可能性と繋がっている(ようである)。(しかし。。
。)
² ホッブス:「単位の同一性が連続体の分割以外の仕方で生じるとはまず考えら
れない」
² トーメ:「空間中の個体(群)あるいは Einheiten から成る集合を(心に)表
象して、それらを順次数えていく ----- そのためには時間が必要である( * )
----- ならば、捨象がいくらなされようとも、(それらの)区別を与える徴表と
してまだ、空間における…異なった位置と、時間における…異なった継起とが
残されている」(**)
(*)この言葉などは、「数える」が「時間のなか」の現象であること、そこに「数」の本質
の一端があることを敏感に嗅ぎ取っている者の言葉、と、自分には読める。ただ、ここでい
う「時間」は上述の意味で「表象し得ぬ」もののはずだが、そのことには、トーメは気づい
ていない。(次の(**)を参照。)

(**)「空間における異なった位置」と「時間における異なった継起」の間には、決定的な差
があるが、トーメは(フレーゲも)気づいていないようである。(トーメは、直前でものすご
く惜しいことを言っているのに!)前者「空間における…」は、フレーゲがいうように「(ひ
とつの)全体的直観の構成要素」として初めて認識される「異なり」であるのに対し、後者「時
間における…」は、継起(継続しての生起)の一つひとつがいわば「全体的直観」であり、個
別・単独に「認識」されているのにもかかわらず、我々はそのあいだの「時間軸上の差」を「認
識」しえている。「空間における異なった位置」とはまったく違う「認識」によって得られる
「異なり」である。「数えるためには時間が必要」とは、まさにこのことを言っているはず。
しかし、 「継起」
(Aufeinanderfolge)などの語ですでに“複数”の「時点」が「ひとつの全体
的認識」の中に入っており、つまりここでのトーメの「時間認識」がすでに「無時間化・空間
化・幾何学化」されており、おそらくそのために、トーメ自身がこの決定的な差に気づいてい
ない。もちろんフレーゲも。

Ø →この場合(「数をなす集合」の元たちの区別可能性と同一性の矛盾を、それらの
空間・時間上の「相対位置」によって解決しようとする場合)の第一の問題:ま
ず、「数えられる物」が空間的なものと時間的なものに制限されてしまう。
II 部 24 節の議論の再検討。あらたに「時間」が登場する。

なお、ここでもやはり「時間」が「空間化」されている。もしそうせずに、「時間」をその「表象
し得ない」本質のままに、「(表象的)思考の存在可能性そのものの要件 precondition for the
possibility of (representational) thinking」と理解するなら、
「時間的なもの」への「制限」は制限
にならない。というのも、 「時間的なもの」への「制限」は「(表象的に)思考しうるもの」への制

14
限よりいわば「大きい」ことになり、「およそ(表象的に)思考しうるすべてのもの」が「数えら
れる」ことになるから。

² ライプニッツ:スコラ学者の見解「数は連続体の分割から生じ、非物体的なも
のには適用できない」を斥けている。(II 部 24 節)
² バウマン:数と時間の独立性を強調:「Einheit の概念は時間を欠いても思考
可能」
原文を読まねばバウマンのこの発言の意図はわからないが、「表象的思考は時間の中の現象」
とか「時間は表象的思考の存在要件」という考え方をまったく想像もしない発言のよう。

² ジェヴォンズ:「三枚の硬貨は、それらを順々に数えようが全て同時に考察し
ようが、三枚の硬貨である。(後略)」
² →(三者の意見を肯定的に紹介し、付け加える):
(a)数えられる諸対象が実際に継起しているのではなく、ただ順々に数えら
れるというだけなら、時間は(数えられる諸対象の)区別の根拠ではありえ
ない。
(b)時間は数えるための心理的要件(数えるという心理的操作のための要件)で
しかない。数概念とは無関係。
(c)
(よって)
(非空間的ないし非時間的な対象を数えようという際に)空間
点や時点をもってそれらの代わりにするならば、それらを数えること(とい
う心理的操作)の実行にとっては好都合かもしれない。が、その際には、
(こ
の考え方によれば本来は空間的ないし時間的なものに適用される数概念の)
非空間的・非時間的なものへの適用可能性が前提される。
(その認識論的正当
性も検証されずに。)
ここでのフレーゲの言葉には、ツッコミどころ(1)と、(一定の距離をおいて)評価し
ておきたいこと(2)がある。 (1)最初の二つの(a)、
(b)では時間についてのみの指
摘だったものが、(c)ではいつのまにか空間についての指摘でもあったかのようになって
いる。しかも、(a)、
(b)ではまさしく「数える」ということの要件としての「時間」(空
間化されていない時間)についての指摘だったのに、(c)では、「時間」はもう空間化さ
れている。フレーゲはやはり、「空間化された時間」と「時間それ自体」(いうなれば)
の区別がついていない。(2)フレーゲにとっては、そもそも「数えられる諸対象の区別
可能性と同一性の調停」という問題(「集合としての基数」論の救済のための課題)自体
が(解きほぐすべき、あるいは病理診断すべき)「偽問題」。(フレーゲはこの論に与しな
い。)そもそもこの意見には自分も賛成なので、((1)の問題はさておき)空間における
相対位置とか(空間化された)時間における相対位置を用いてこの「調停問題」の解と
するのは全然だめ、という点は、自分も同意。

41 節 空間と時間の援用では目的は達成されない(「集合としての基数」論の困難は解決
されない)(なぜならこれはそもそも解決され得ない偽問題だから?)
Ø (数えられるべき)諸対象が最終的にはやはり区別されなくてはならないとすれ
ば、それらがどれほど共通性を持っていようが(数えることにとって、数にとっ
て)それはどうでもいいこと。
Ø (たとえ数える場面でも)個々の点、線等を全て1で表示してはならない。(「数
えられるもの」である以上、)区別する必要があるので。
34 節ですでに指摘したことを、暗にもう一度指摘している?あそこでの指摘を掘り下げると:そ
もそも、「数える」際にその諸対象の個々が独自に持つ「関係ない諸性質を捨象すること」は、そ

15
れら諸対象を「同一視すること(それらに同一性を帰属させること)」ではない。(もちろん、それ
らを実際に同一にすることなわけがない。)単に、それらを一つの一般的概念の下に包摂すること、
それだけ。なので、そもそも、「『数えること』によって我々は『数えられる諸対象』に『同一性を
帰属させる』」、というのが事実誤認(*)である。

(*)この際、つまり、なにかを「数える」個数判断に先行する、いわば「包摂判断」=「今から
はじめる『数え』でどれを『数える対象』に入れ、どれを入れないか」の暗黙・先行判断の際では、
たしかに「その他の関係ない諸性質を捨象」するので、これを広い意味では「同一視」とは呼べる。
ので、34 節でフレーゲが

なぜ「数えられる諸対象」には(そのことにおいて)同一性が帰属させられるのか?帰属させら
れるだけなのか、実際に同一なのか?

と問うた際には、この広い意味での「『数えられる諸対象』には(そのことにおいて)同一性が帰
属させられる」ということを前提にして問うていたのではないか。

(もちろん、この意味で「同一性が帰属させられる」としても、それは、「数えられる諸対象」を
わざわざ Einheit という空虚な概念語で呼ぶことなどまったく要請しない(猫でも犬でも、その時々
の適当な概念語でよい)し、そう呼び替えて「Einheiten の集合」とみなしたものを「数」の定義
とすることを許すものでもない。)

Ø (中略。。。フレーゲが何を言わんとしているのか、つかめない。。。)
Ø 複数の合同な(幾何学的)対象(例えば長さの等しい線分や(幾何学化された)
時点)からなる(幾何学的)構成物(ある種の集まり、集合)は、構成要素の数
が同じでも、その(幾何学的)構成が異なれば全く異なるものとなりうる。が、
そうしたことは、これら構成物の(客観的属性としての)
「構成要素の数」とは無
縁である。

====ここまで、6月28日ゼミで終了。====

16
====ここから、7月5日ゼミ用。====

復習:
III 部前半(39 節まで)で、「集合としての基数」論の本質的な「困難」として、「数えら
れるべき諸対象」 (=「数をなす集合の元たち」)の区別可能性と同一性の問題があぶり出
され、Einheit という語の多義性がこの「困難」を隠してきた、ということが指摘された。
後半は、
l この「困難」の「克服 zu überwinden」を目指したものと思われるこれまでの試
みを検証し、ダメ出しする部分(40~44 節「困難を克服する幾つかの試み」) と、
l フレーゲ自身によるこの「困難」の「解決 Lösung」を表明する部分(III 部の残
り、45~54 節「困難の解決」
)、
に別れる。現在は、この後半の前半の途中。40、41 節で、空間時間をもって区別可能性
と同一性を両立させようという試みにダメ出しをしたところ。
確認:「集合としての基数」論とは、II 部の最終節(28 節)で紹介され検討が始まったもの。どうや
ら 28 節は「中継ぎ」の節で、III 部はその全体がこの「基数」論の批判的検討。なお、前半で提示さ
れる「困難」は「集合としての基数」論者にとっての「困難」であり、この「基数」論自体の批判者
であるフレーゲにとっては、ある意味「他人事」。つまり、「集合としての基数」論を救う、という意
味でのこの困難の「克服 zu überwinden」は彼の関心ではない。もしかすると、フレーゲが後半の前
半のタイトルで「克服 zu überwinden」という語を使い、後半の後半タイトルで「克服」を用いずあ
えて「解決 Lösung」という違う語を使うのは、ここにある対比を生むため?後者の「解決 Lösung」
は、solution ではなく dissolution の意味?とすると「分析哲学開祖(中興の祖?)」の面目躍如。

42 節 「系列中の位置」でもダメ。ハンケルの措定もダメ。
Ø (数えるべき諸対象を)順序付けて並べて系列となし、その系列中の位置で区別
する、というアイデア。
(空間的でも時間的でもない、より一般的、抽象的な順序
概念の利用。)
Ø →ダメ。系列中に順序づけることができるためには、対象はすでに何らかの点で
区別されていなければならない。(詳細略)
ここで議論される「系列」とはなにか、と再考すべき、と提案したい。フレーゲ本人は「空間的で
も時間的でもない、より一般的、抽象的な順序概念」としてこれを捉えているが、「系列」とはま
さに、「時間」を「空間化」(無時間化)したもの、とみなせないか。

Ø ハンケル:人が、一つの同じ対象を 1 回、2 回、3 回、と思考あるいは措定する場


面を想定する。14 (フレーゲはこれもまた「数えられる物」の区別可能性と同一
性を結合する試みのひとつ、と想像する。)
正直なところ、ハンケルにこのような意図を見出すのが妥当かどうか、ハンケルの原文を読まねば
即断できない、と思うようになってきた。もしかしたらハンケルには全く別の意図があり、単にフ

14 正直、原文のここの表現の意味がわからない。和訳は原文の直訳で、見事に原文と同じようにわからない。
(おそらく訳者も苦労して、原文の「わからなさ」を意識的にそのまま保存している?)Wenn Hankel man
ein Object … denken oder setzen lässt,「ハンケルが、我々をして一つの同じ対象を…思考あるいは措定させ
るとき」ならわかるが、、、。(そしてオースティンの英訳はだいたいそんな感じに意訳してあるが。)

17
レーゲにはその意図がまるで見えなかったのかもしれない。(フレーゲが自身のプロジェクト(=
「数」を「直観」から切り離し、論理だけで把握可能な「概念」であることを論証すること?)の
遂行のためにその身を置くことになっていた「立ち位置」からは、「見えない」ものだったのかも
しれない。)もしそうだとすると、さらにひょっとすると、フレーゲがこの III 部の中で批判する
Einheiten 論者のなかにも、「数を数える」という行為の中にある一種の遂行性(performativity)
または創造性(creativity)(次の安田注を参照)に不明瞭ながら気づき、それを示唆するために
Einheiten という言い方に走っていた論者もいるのかもしれない。単に、フレーゲにはその意図が
伝わらなかった、あるいは伝わる「位置」に彼がいなかった、というだけで。

Ø →ダメ。これらの表象とか直観(一回ごとの思考ないし措定につきひとつの表象・
直観)は、同一の対象に対するものであっても、何らかの仕方で異なっていなけ
ればならない。
個人的にはフレーゲの反駁のなかで、この反駁が一番弱いように思う。というか、フレーゲが「空
間化された時間」と「時間そのもの」の区別をきちんとつけられていないことが一番露呈している
場面ではないか。安田の見るところ、ハンケルの「措定」の例がトーメの「継起」の例や(典拠不
明、おそらくフレーゲ自身の) 「系列」の例とくらべて優れていると思えるのは、 (ハンケル自身が
どこまで意識していたかはわからないが)ハンケルの例では「数える」主体が「思考 denken」 「措
定 setzen」などの能動的アクションを起こして、「数えられるべき対象」を自ら「世界」に生み出
している点。 (注:ここで「世界」は、この認識主体が「傍観者 spectator」になって外から眺める
「世界」ではなく(このような「認識主体」は身体性をもたないことに注意)、身体をもつ存在と
しての認識主体が、自らを「その中」と認識し、よって自ら「動く」ことで常に変化させ続け、も
ちろんフィードバックも受けて変化させられ続けている、その「世界」。)ハンケルがこれを意識し
ていたとすれば、まず、①ハンケルの「措定者」が「一つの同じ対象を 1 回、2 回、3 回、と思考
あるいは措定」するときに「数え」ている「もの」を、フレーゲが「表象 Vorstelungen」とか「直
観 Anschauungen」という受動的・傍観者的・無時間的な言葉で表現していることは、彼がもうす
でにハンケルの例の一番肝心な点を見逃していることを示唆しないか。また次に、②これらの「表
象」とか「直観」は、この考え方でいけば、複数形にすることが憚られるもののはず。つまり、決
して「ひとつの全体的表象ないし直観」の中にその部分として同時に並べることのできないもの
のはず。これらの「表象」とか「直観」の一つひとつは(表象とか直観と呼ぶにしても)、単独で
「全体的表象ないし直観」をなすものなので。しかも、ハンケルもどうやら「一つの(同じ)対象」
の「措定」と想定しているので、ここでは、これら「表象」ないし「直観」は、その「措定者」自
身が「あとから」 (つまり受動的・傍観者的・無時間的に)区別しようなどと意識していないもの、
あるいは、その意味で区別しようとも出来ない「おなじもの」ものとして生み出すもの、というこ
とではないか。

例:音楽やダンスをやるひとたちが集まってリズムだけを合わせているとき、つまり具体的な
「音の動き」「身体の動き」では異なるパフォーマンスをやる人たちが、それらの違いを捨象
して、互いのプレーにおいて共有するリズムだけを「タンタタ、タンタタ、・・・」みたいに
やってリズム合わせをするとき、などは、ちょうどこういう感じかと思う。一回一回の「タン
タタ」は、時間軸上の異なる時点の(あるいは異なる時点から始まる)「タンタタ」であるこ
と以外では、そもそも区別するつもりで刻まれてはいない。(なお、ここでは、
「同じタンタタ
でも曲の中のどの部分のタンタタか、で、タンタタが違ってくる」のようなことは一旦横にお
いています。)

注:上記の例を書いてから気づいたこと。ひとつの「タンタタ」の中にすでにハンケル的な「措
定」が生じている。しかも、その中の「タン」は、その後に続くふたつの「タ」と比べると、
これは明らかに「異なるもの」として「措定」されている。(比較すれば、二つの「タ」はこ
の点では互いに「同じもの」として「措定」されている。) 「異なるもの」であるのに関わらず、
その差は、(フレーゲがどうやらイメージしているような)無時間的な、ほとんど視覚的な「あ
とから表象」では「拾う」ことができない。もちろん、「タン」と「タ」の時間経過の長さの
差を視覚的に表現はできる。(「 _ . . 」のように。)この視覚化の背後に何があるか。答(仮
説):
「身体を持つ認識主体」としての我々が共有する“運動の経験”の原イメージとしての運
動、時間、距離の相関関係があるのでは?「一定の速さで(一定の方向に)動けば、長い時間

18
の間には長い距離移動でき、短い時間の間には短い距離しか移動できない。一定の速さと方向
の移動においては、移動時間と移動距離は比例する」という関係。「時間の空間化」には、
(時
間の全順序性の空間化に加えて)時間の‘計量(空間)性’の空間化、という側面もあること
を、視野に入れておかねば。。。

どう考えても、「数」ないし「数えること」の“経験”にとっては、個々の「措定」のこの「あと
から区別」の不可能性はまったく問題ない。これらはそもそも、我々が受動的・傍観者的・無時間
的な認識主体として「あとから区別」しなくてはならないものではなく、我々(心身の区別定から
ぬ存在としての)が、受動・能動の区別定からぬ“経験”(能動と受動がリアルタイムに絡まり合
って生まれる“経験”)の主体として自らの身体による運動・知覚で「時間の中、世界の中」に生
み出すものだから。確かに、それらを「記憶」という「ひとつの全体的・無時間的表象」のなかに
同時に全部並べることも我々はする。(表象的認識ということも、ある意味では我々という存在な
いし現象をなす歴史的事実の一環だとおもう。その「歴史的実在」を我々自身が全否定することは
難しい。何かの意味では肯定するしかない。)が、しかし、それらを生み出してきた「筆者、創造
者」である我々「措定主体」には、それらの「時間上の区別」は、はじめからその認識論的権利が
保証されている、と言っていいのではないか。

なお、ここでは便宜上「記憶」を無時間的な表象として扱かったが、必ずしもすべての「記憶」
がそうではないかもしれない、と思うので、一応記しておきます。「身体の記憶」のようなも
のは、有時間性をもつのではないか、と思うので。(タンタタを「身体で記憶」しないとパフ
ォーマーはちゃんとそのリズムを刻めないが、この記憶はどう考えても無時間的な表象ではな
い。この記憶は、まさにスキルとか能力と呼ぶべきものの典型例。)

43 節 シュレーダーによる「1で模写 abbilden」もダメ。
Ø シュレーダー:
(フレーゲのみるところ、シュレーダーはジェヴォンズ式の記号1
の理解を基本的に踏襲し、この考え方の困難の回避のために、次のように言う):
「当該の Einheiten がいくつあるかを表現できる記号」を得るには、
l 順に一度ずつそれらの各々に注意を向けて、
l それを1という一本の線(または一筆のしるし Strich)(一つの一 eine
Eins, ein Einer)で模写し、
l そしてこれらの Einer(=1という一本の線)を一列に並べ、それらを記
号+(プラス)によって互いに結合する。
例: 1+1+1+1+1
こうして(求めていた)ひとつの記号 ein Zeichen が得られる。その構成は、
「自然数とはいくつかの一の和(eine Summe von Einern)である」
ということによって記述できる。
ここでフレーゲが(シュレーダーの説明の背後に)見て取る「ジェヴォンズ式の困難の回避」
の肝は、おそらく、シュレーダーが「1+1+1+1+1」という文字列を一つの記号とみている、
という点。この文字列の「中」に出現する個々の「1」出現をそれ自体一つの記号の出現とみ
なしてしまうと、「『一つ目の 1』と『二つ目の1』は同じ対象を指すのか」等の、ジェヴォン
ズの困難にぶつかる。「模写 abbilden」は、これらひとつひとつの「1」を「記号以前」の、
その構成部分でしかない、単なる「しるし Stirch」とみなすことでこの「困難」を回避する。
とフレーゲは、シュレーダーが考えている、と考えている。(たぶん?)

フレーゲのシュレーダー解釈はおそらく妥当、と想像する。(とくに、この説明が「当該の
Einheiten がいくつあるかを表現できる記号」を得るための方法として与えられている点から

19
そのように想像できる。)しかし、この「記号」の構成法には、「空間の時間化と、その再空
間化」とでもいえるような、認識論上重要な認識操作がみられる気がする。というのも、シ
ュレーダーの「模写」はヘンケルの「措定」同様、 「身体をもつ認識主体」として我々が能動
的アクションで「世界」に生み出す変化、という側面をもつので。シュレーダーの「模写」
の場面では、(ハンケルの「同じ対象を何度も措定する」場面とちがい、)事前に「当該の
Einheiten」
(数えるべき諸対象)が所与として与えられている。 「模写主体」の目的は「それ
らが幾つあるか、を表す記号(この場合、視覚で知覚する無時間的な記号)(*)」を得ることな
ので、そのために、ひとつの Einheit に一度づつ注意を向けて(同一の Einheit に二度注意
を向けたり、あるいはどれかの Einheit に注意を一度も向けずに飛ばしたりすることがない
ようにし)、ひとつの Einheit にひとつづつ「しるし1」を書きつける。(いうまでもなく、
ここでは「当該の Einheiten」の「あとから区別」の可能性が初めから前提されている。)ポ
イントは、この「しるし書きつけ」という「時間の中」のアクションが、それ自体は原則「無
限に繰り返しうるアクション」であること。(アクションがその「中」で行われるところの、
その「時間」の無限性、という前提のうえで。)これを通じて、はじめは無時間的・自己完結
的に与えられていた Einheiten の「総数」は、「自然数の(可算)無限構造」の中に位置づけ
られる。もちろん、このアクションが「当該の Einheiten」全てに対して一通り完了したら、
そこに出来上がっている「記号」は、一見、また(もとの「当該の Einheiten」同様の)無時
間的・空間的な知覚対象だが、一度、 「無限に繰り返しうるアクション」を通じてこの「記号」
を生み出した「模写主体」自身にとっては、この「記号」は、それを生み出した自らの「歴
史の記憶」とともにそこにある。もっというと、この「記号」は、このような時間性(と潜
在的無限性)と、その無時間的知覚可能性を併せ持つことではじめて「記号」として成立し
ている。と言っていい。はず。

(*)記号はこのように視覚的にやり取りする無時間的なものばかりではない。例えば、言語
をなす記号としての音素(phoneme)は、音声というチャンネルの性質上、必然的に時間性
を有する。しかし、音素含め、言語という現象を生み出す様々な要素記号の「同一性」は、
無時間的な側面ももつ。(ソシュールがいう syntagmatic と paradigmatic の区別は、これに
呼 応 す る も の 、 と 理 解 し て い る 。) ま た 、 こ れ ら 要 素 記 号 が 有 す る 無 時 間 的 な い し
paradigmatic な側面とは、必ずしも視覚的に実現されるものでもない。広い、抽象的な意味
で空間的、あるいは幾何学的とも評し得るようなものもある。 (Roman Jakobson が phonology
と phonetics の対比において説明する phoneme(=phonology の方の研究対象、distinctive
features の markedness hierarchy の構造の中で同定されるもの)とは、この抽象的な意味
での paradigmatic な側面から同定されるものとしての要素記号としての音素のこと、と理解
している。)

Ø →ダメ。数を記号と混同している。(記号「1」が指示する数とこの記号そのもの
を。記号「1+1+1+1+1」が指示する数とこの記号そのものを。)
・・・というのも、シュレーダーの説明は初め「当該の Einheiten がいくつあ
るかを表現できる記号」の構成の仕方の説明として始まっておきながら、最後
にはその、「ひとつの記号」でしかなかったはずの構成物(「1+1+1+1+1」な
ど)を「自然数」とみなし、その「記号以前」の構成部分でしかなかったはず
の「1」や「+」のことまでいつのまにか数「Einer」や「和」とみなしている
ので。
44 節 ジェヴォンズによる「相違の特性捨象、その存在堅持」もダメ。
Ø ジェヴォンズ:「数―抽象というのは、多数性を生み出す(「数えるべき諸対象」の間
の)相違の、その特性を捨象してその存在を保持すること」

Ø →反論(1)先に物の間の相違の特性を捨象し(Einheiten と化し)、その後それ
らを一つの全体に統合するのか、それとも、先に一つの全体を形成してその後で
相違の特性を捨象するのか。→前者では多数性は生まれないので後者→後者もダ
メ。理由:

20
² 我々が数 10000(例えば)をこのように獲得するとは思えない。理由:
l これほど多数の対象の間の相違を同時に把握して堅持することは人間に
は不可能。(斜体は安田強調)
l 相違の把握が(同時ではなく)一つひとつ順次なら、数(の認識?)は(少
なくとも 3 以上数の認識は、ということ?下記解釈参照)決して完結しない。
(斜体
安田強調)

安田仮説解釈:仮に a, b, c という三つの対象が互いに相異なることを把握したいとする。
まず無作為に選んだ a と b の相違を把握する。つぎにどうするか?c が a とも b とも異な
ることを把握したいところだが、なぜその c がまだ相違把握していないこと(a でも b で
もないこと)がわかるのか?まだ相違の把握は済んでいないのに?変な言い方だが、ま
だ相違把握が済んでない以上、それがこれまでに相違把握のすんだ対象と相違かどうか
は判断できない。(判断できるなら相違把握はする前からできていることになってしま
う。)つまり、ここでのフレーゲのポイントは、「ジェヴォンズが描く数—抽象の方法は、
個数を把握したい全対象の間のすべての相違の把握を同時に行うほか、実現のしようが
ない」ということ。(これも、「見方に依存しない同一性」という、謎の形而上学的な同
一性が生み出すマヤカシの問題ではないか、と思う。)よって、たかだか数個の対象から
なる「全体」ならその個数をこのやり方で抽象できても、10000 のような数では到底無
理、という話。

l 我々は確かに時間の中で数えるが、しかしそれによって数を獲得(die Zahl
zu gewinnen)するのではなく、単に確定(sie zu bestimmen)するにす
ぎない。
??この部分の意味がよくわからず。。。「対象の相違を順次把握する」の方に、「時間の
中で数える」という、我々が事実行う行為との類似性を認めつつ、ただし、これについ
て「このような『数え』行為において我々は数(概念としての)を獲得するのではなく
(対象の個数を)確定するだけ」と言って、釘をさしている?(こう解釈したいところ
「確定 bestimmen」の目的格が sie になって、
だが、 「獲得 gewinnen」と同外延扱いにな
っているのが辛い。。。)

² 抽象のやり方を述べても定義にはならない。
??またもよくわからず。。。ジェヴォンズの数―抽象の方法はそもそも数概念の獲得の方法で
はないが、仮に数概念の獲得だと仮定しても、 (もっと‘そもそも’の話、)概念の獲得方法を
いくら述べてもそれはその概念の定義ではない、、、という、二段構えのジェヴォンズ否定?

Ø ジェヴォンズ:「人は、対象を多として語ることによって、同時に、(その区別に
必要な)相違の存在を主張している」「よって、無名数とは、相違の空虚な形式」
Ø →反論(2)「相違の空虚な形式」とはどういうことか。意味不明。
² 「a は b と異なる」のような命題のことか。
(以下、この後の議論略。すいません。。。)
Ø →反論(3)ジェヴォンズの数―抽象の考え方は、特に0と1に適合しない。
² 月から数1に(ジェヴォンズの数―抽象の方法で)到達するには、何を捨象す
ればいいのか。
l 1は、月がその下に属しうるような概念ではない。
??もしかして、フレーゲはここで、ジェヴォンズ攻撃に集中しすぎて charity 原則を忘れて
いないか?1は、{月}という単元集合がその下に属する概念、とは言えるので。とすれば、

21
フレーゲ自身の立場のちょっとした援用で、ジェヴォンズの考え方も1に適用できるのでは?
(固有名を「単元集合を外延にもつ特殊概念を表現する名辞」、と考えると。)

・・・そもそも、フレーゲの立場とジェヴォンズの立場は、「相違を捨象する」とか「同一性
を帰属させる」というふうに我々がつい表現してしまうような「『数え』にまつわる認識現象」
をどう理解するか、という点で明確に異なるものの、そこさえ除けば(そここそが Einheiten
論者の問題点だが)、似ている気がする。少なくとも両者とも、
「数認識」を受動的・傍観者的・
無時間的に捕らえている。そして、(この部分を共有土台にしているので)ジェヴォンズの数
―抽象の考え方は、ちょっとだけ好意的に解釈すれば容易に「数を集合からの抽象とみなす」
見解である、とも解釈できる。(これは「数を集合の性質とみなす」見解の半歩手前で、 「数を
概念の性質とみなす」フレーゲの見解に非常に近い。)なので、このフレーゲの言葉は、攻撃
しどころを間違えているというか、両者の差の本質(つまり、反論(1)の論点)を返って見
にくくさせている、、、気がする。

² さらに、数0に到達しようという場合には、そもそも、抽象(捨象)を始めさ
せてくれる対象がなにもない。
² 0も1も、数であるという点ではなんら特別な存在ではなく、これらに適合し
ないものは数概念の本質ではありえない。
Ø →反論(4)ジェヴォンズの数―抽象による数の生成法(獲得法?)を受け入れ
ても、(38 節でみた)ジェヴォンズ式の数表記法(1'+1''+1'''+1''''+1'''''など)の困
難はそのまま。この表記はまさしく、対象の相違の存在だけを示し、その特性を
捨象する表記。なので、数―抽象による数の生成法も、この表記法と同じ困難を
招く:「相異なる無数の Einsen」「相異なる無数の Zweien」… を生じ、実際の
算術を放棄させる。

③ 「困難の解決 15 」
45 節 ここまでの成果と、残された問題のまとめ
−−− 数一般について(II 部) −−−
Ø 数とは、物から抽象されるものではない。色、重さ、硬さなどとは違う。そのよ
うな、物の性質ではない。 (II 部 xx 節)
この部分は、次の問いを暗黙裡に導くものか: 「では何の性質か?」・・・これを導いている、とす
ると、次の質問の「何か etwas」を「性質」と読む解釈に、自然につながる。

→ 個数言明が何か etwas(性質)を言明するもの(何か etwas を帰属させる


その相手)は、なんであるのか?
フレーゲは II 部と III 部で、数詞を「性質語」と考える考え方を批判する。が、ごく広
い意味では、彼自身も、個数言明の述語(の核)(*)をなすものとしての数詞を、概念に
ある性質を帰する「性質語」と考えている。 (ということが、次の 46 節でも表れている。)
ので、ここの etwas は性質と素直に読めるのではないか。

(*)訂正:本レジュメの p. 5 で、安田は、「フレーゲは個数言明を『概念語を主語に、
個数判断を述語にもつ主語-述語型の言明』と考えている」という解釈を示しました。 (後
述の便のため、仮に(安)解釈とします。)が、基数を「実存的対象」と考えるフレー
ゲの最終的立場(まだ IV 部を読んでいないので、その細部は今の私には想像・予想の
範疇を出ないものですが)からすれば、個数言明はいわゆる「見方に依存しない同一性

15 言語では Lösung。②のタイトルに出てくる「克服 zu überwinden」とは、あえて変えてあるのではないか。

22
言明」のはずです。つまり二変数述語 = による非量化言明。 λ(P) = k のような形
の。(ここで P は概念、 λ( ) はいわば「概念を引数にとり、その外延濃度を指示する
確定記述 definite description を返す演算」で、k は特定の基数を指示する数詞=固有名。)
おそらく個数言明の正体についてのフレーゲの最終的立場はこのようなもの、と想像し
ます。(これまでに読みかじった一次・二次文献の記憶からの類推。)よって、(安)解
釈は最終的にはたぶん間違いのはずです。早まった記述をしてしまい、すいませんでし
た。ただ、この III 部では(安)解釈のように読める箇所が実際多々あります。おそら
く、フレーゲ自身がここではまだ自身の最終的立場について明確でなくて表現がブレて
いたか、あるいは、読者を徐々に自分の最終的な立場に導くための方便としてそのよう
な表現をしたのではないか、と思います。上記で、etwas のことを「暗に『性質』を意
味する」と解釈しているのは、このフレーゲ自身のいわばブレた表現にのっかっていま
す。厳密に言うと、「見方に依存しない同一性言明」λ(P) = k の、 「λ( ) = k」
の部分を恣意的に切り取って「与えられた概念語(主語)に、その概念の外延濃度とい
う性質を帰する述語表現」とみなして、その上で、この述語表現「λ( ) = k」の核の
部分としての k を一種の性質語とみなす、という解釈です。

Ø 数は物理的(とか空間的)なものではないが、かと言って主観的なもの、心的表象16
でもない。 (II 部 xx 節)
Ø 物に物を付加しても数は生じない。付加するたびに名前を与えても結果は変わら
ない。 (xx 部 xx 節)
Ø 「多数性」「集合」「複数性」という表現はその不明確さのゆえに数の説明に用い
るには適さない。 (II 部 28 節?)
−−− Eins(一)と Einheit(単位)について(III 部) −−−
つまりは、
「数の説明に『多数性』
『集合』
『複数性』などの表現を使う論者の困難について」ということ。

Ø 一と多の、一切の(客観)区別を消し去る見方の任意性(「数えられるべき諸対象」の
個別化 individuation の任意性)は、どのように制限されるべきか。 (xx 部 xx 節)

² 「境界付けられていること」「分割されていないこと」
「分解不可能性」は、
「Ein
(一)」という性質ないし概念の適用における(この)任意性を制限しようと
いう目的にとって、有用な徴表=客観的適用基準ではない。
Ø 「数えられるべき諸対象」が Einheiten と呼ばれる際:
² 「Einheiten は互いに同一」という無条件の(同一性)主張は誤り。
² 「それらは何らかの点で同一(相等しい)」という条件付き(同一性)主張は
正しいが、無価値。
l (説明対象の)数が1より大きいものも含むべき、というなら、Einheiten
の相違も必要。
→Einheiten に二つの矛盾する性質を付与せざるを得ない、ように思われ
る:同一性と区別可能性。
Ø Eins(一)と Einheit(単位)は区別されなければならない。
² Eins(一)は固有名。数学的研究のある特定の対象を名指しする。よって複数
形にはならない。(Einheit は概念語で複数形になる。)

16
ここの Vorstellung は、「主観的なもの」として挙げられているので、まさに「心的表象」と訳す
べきものではないか。

23
→数を Einsen((ありえないはずの)Eins の複数形、
「諸々の一」)の統合で生み
出そうとするのは、無意味。
l 1+1=2 の中の加法記号はこのような(Einsen の)統合を意味しない。

46 節 解決の第一歩:数の担い手は対象ではなく概念
Ø 数を、その元来の適用法が現れる判断の脈絡において考察しよう。
フレーゲのこの rational abductive な思考傾向(実際の「判断の脈絡」の参加観察の重視)を、安
田は高く評価する。するのだが、微妙、と思ってしまうのは、この「判断の脈絡」をどうやら彼は、
ある偏見のメガネ越しに見ている。「概念の適用」を「概念の 単なる消費 」とみなす偏見である。
「数学認識論の自然化」論者としての安田からはこれは「偏見」だが、しかし、これはフレーゲの
立脚点としての伝統的認識論的枠組みの要請・前提なので、彼にしてみればやむをえないことかも
しれない。。。

なお、ここでフレーゲが数の「元来の適用法が現れる判断の脈絡」と言っているのは、下記の例1
〜4から分かる通り、「(何かの数を)数える」という個数判断の脈絡(数詞が一種の性質語として
現れる脈絡)のこと。ここではフレーゲは、「算術的な演算をする」という「判断の脈絡」 (数詞が
固有名として現れる脈絡)のことは、一時的に棚上げしている。(本レジュメ p. 8 での安田指摘参
照。)この、二種類の脈絡での数概念の異なる現れ、言い換えると数概念の二種類のプラグマティ
クスの関係をどう説明するか、で、「数のプラトニスト」と「数のプラグマティスト」=「算術認
識論の自然化論者」が別れる、、、と、ざっくりと言ってよいのではないか。

Ø 前節の最初の問い(個数言明が何かを言明するものとは何か?)への回答(=概
念):個数言明は、「概念に、ある性質(数、厳密にはその概念の外延濃度)を帰
する言明である」という面をもつ。
斜体は安田強調。この部分のポイントは、「対象に」との対比。
(安田解釈による)フレーゲの見る
ところ、これまでの「集合としての基数」論者の最大の誤謬は、個数言明を「数えられる諸対象そ
のものに何かの性質を帰する言明」と見なしてきたこと。

² 例1:(A)「これは一つの木立である。」(B)「これは五本の木である。」

同一の外的現象
(A) 概念:木立
個数:1
(B) 概念:木
個数:5

² 例2:(C)「ここには四個の中隊がいる。」(D)「500名の兵士がいる。」

(C) 概念:中隊
同一の外的現象 個数:4
(図略) (D) 概念:兵士
個数:500

24
² 例3:「金星は0個の衛星をもつ。」
概念:金星の衛星
個数:0
² 例4:「皇帝の馬車は4頭の馬によって引かれる。」
概念:皇帝の馬車を引く馬
個数:4
Ø 予想される反論:概念の外延濃度の経年(経時)変化
² 例:「ドイツ帝国の成員」という概念は、年々変化する性質(外延濃度)をも
つことになる。(年々その数は変化するので。)
この指摘が反論であるのはなぜか、どういう理路によるか。仮説:46 節のここまででの主張
は「数の担い手は対象ではなく概念」ということだが、この主張には、フレーゲ的にはすでに
次の 47 節の主張「個数(判断)言明の事実性」(これは本当は 54 節の主張だが。下記 47 節
のレジュメ参照。)が含まれている。おそらく、「(それでは)概念の性質が経年変化すること
になってしまうではないか」という指摘は、言い換えれば、つぎのような指摘であろう:「個
数言明が何か事実的な主張をする、というならば、その真偽が年によって変わるのは変だ。そ
れは一種の見方依存になるからだ。」

フレーゲがどこまで哲学史に通じていたかは知らないが、この問題は、アリストテレスが On
ideas(ΠΕΡΙ ΙΔΕΩΝ)という(今は失われた)文章(プラトン/ソクラテスのイデア論擁護
の諸議論へのアリストテレス自身の反論をまとめたもの)の中で、Argument from relatives
という擁護論への反論で既に指摘している問題。少なくとも、今ではそのように知られている。
少なくとも G.E.L. Owen (1957)17以降。
・・・今回、さすがにこの Owen のペーパーまで読み
返さなかったので、この問題が既にアリストテレスによって論じられていることが Owen 以
前から長らく哲学史業界の一般常識だったかどうかまでは、今の自分にははっきりしない。も
しかしたらフレーゲ当時はあまり知られておらず、逆にフレーゲによって On ideas のこの部
分が脚光を浴びるようになって、その結果の Owen (1957) かもしれない。いずれにしても、
フレーゲによって彼以降の言語哲学/論理の哲学の(英語圏、分析哲学圏での)主要問題とな
った様々な問題が、意外なほどプラトン(解釈)学(少なくともフレーゲ以降の)の主要問題
ともつながっている。(具体例をぱっと挙げられないが、かつて某北米大学院で古代ギリシア
の院生向けコースを二つ履修し、少しだけプラトン学の文献調査をまじめにやった頃の記憶か
ら、安田はそういう印象を得ている。)

² →カウンター反論(1):(通常の意味での)対象もその性質を(時間を経て)
変える。(例:安田は歳を取る。トマトの実は色づいてゆく。)が、このことはその対
象の経時上の同一性を認める妨げにはならない。
² →カウンター反論(2):ある種の概念は(実は)時間の関数である。
これは、次のようなことを暗黙に示唆する?: この種の概念は、時間という変数を固定させ
ない間は、真に「客観的な概念」ではない。つまり、それまでは、その「性質(数)」につい
ての判断の真偽が我々の見方(どの時点に着目するか、等)に依存しない、とは言えない。

記憶が定かではないが、Owen (1957)は、確か、このカウンター反論(2)をアリストテレス
に対して出すことを主要論旨としたか、あるいは誰かがすでにこのようなカウンター反論を出
していたのを検討することを主要論旨にしていた。はず。

17 Owen, G E L. 1957. "A proof in the 'ΠΕΡΙ ΙΔΕΩΝ'." Journal of Hellenic Studies 77: 103-111.

25
47 節 解決の第二歩:個数(判断)言明の事実性
Ø 「個数言明が、我々の見方に依存しない何か事実的なことを表現する(上記の反論
(2)の示唆?)」ということに、奇異の念を抱くのは間違い。これはそんな奇異な
ことではない。
注:ここではフレーゲはまだ、「個数言明は、我々の見方に依存しない何か事実的なことを表現す
る」というポジティブな主張は繰り出していない。次の注参照。

Ø 少なくとも、概念は客観的・事実的なものであり、主観的なものではない。主観
的なものの例:心的表象18=心的に、つまり感覚経験や直観によって表象的に(よ
って受動的・傍観者的・無時間的に)認識されるもの。

注:47 節の残りの部分は、この意味の「概念の非主観性」のもっと細かい説明になるが、47 節の
最後の一文が暗示するように、47 節がこの「概念の非主観性」の説明を通じて主張するのは、個
数判断の事実性(=その真偽判断が見方に依存しないこと)そのものではなく、個数判断がそのよ
うな事実性を有しうること、その可能性(それを可能と考える事がまったく奇異ではないこと)で
ある。後に 54 節で「概念というのは…その下に属する物を確定的な仕方で境界付ける」と主張す
るが、ここでいう「確定的な仕方」とはつまり、その境界付けが「見方に依存しない」ということ
であろう。ここではじめて、「個数判断の事実性」がポジティブに主張されることになる。おそら
くこの 47 節で主張される「概念の非主観性」は、この 54 節の主張の下準備のようなもの。

Ø →論証:
² ある概念をある概念に従属させる主張を考える。(例:鯨という概念を哺乳動
物という概念に従属させる主張「すべての鯨は哺乳動物である」。)我々はそれ
によって何か客観的なことを主張している。(真であれ偽であれ。)なぜなら:
l (背理法)もしこれらの概念が主観的だとしたら、一方の他方への従属の
主張も、そのような主観的なもの同士の間の関係についての主張となり、
なにか主観的な真偽の主張ということになる。そんなわけはない。なぜな
ら:
Ø そのような概念間の従属の主張は、個別の対象についての個別の真偽
の主張はまったく含まない。(詳細略)
Ø よって、この主張の真偽は、そのような個別の対象の状態の観察(感
覚経験を通じてにせよ、直観を通じてにせよ)に依存しない。
Ø なお、このような命題が何を扱うのか(=その言明は何についての言
明なのか、その命題の内容は何か)という問題にとっては、我々がそ
の真偽の知識をどのように獲得するか(*)、ということも、それが真か
偽かということも、我々がそれを真とみなしているか否かも、みな、
無関係である。
(*)フレーゲの原文では「我々の命題が個々の動物の観察によってしか正当化しえ
ないとしても」(Mag immerhin unser Satz nur durch Beobachtung an einzelnen
Thieren gerechtfertigt werden können,)に対応する部分。フレーゲの原文は(こ
の命題の真偽知識の) 「獲得」ではなく「正当化」gerechtfertigt werden という表現
を使うが、これはフレーゲ自身の書き間違いではないか、と推察し、そこを訂正し
てまとめた。フレーゲの立脚する伝統的認識論の立場(「経験的」と「合理的」命題、
あるいは綜合的と分析的命題の絶対的区別(命題を表現する媒体言語の意味論構造
に相対的ではない区別)を前提にする立場)からすると、ある命題の真偽がどのよ
うに正当化を要請するものか、というのは‘論理学的’ないし認識論的問題であり、

18 Vorstellung

26
(その知識がどのように獲得されるか、という‘心理学的’問題と違って)その命
題の内容(何を扱うのか)を切り分ける問題のはずなので。

なお、
「すべての鯨は哺乳動物である」は、フレーゲの議論のこの文脈で非常に特異
な例、といえる。フレーゲはこの「概念従属命題」を、綜合的命題の例と思って挙
げたのか、分析的命題の例と思って挙げたのか。。。綜合的命題と思ったのなら、こ
こで彼は期せずして「概念についての命題でありながら綜合的なもの」の例を挙げ
てしまったことになり、分析的命題の例と思ったのなら、期せずして「分析的命題
でありながら、その真偽知識の正当化が個々の対象の経験観察に依存するもの」の
例を挙げてしまったことになる。(「正当化」が書き間違いでなかったとして。この
点から考えても、「正当化」はやはり書き間違いだったとしか考えられない。)

なお、安田的にはこの例は、総合/分析の区別が言語に相対的であることを示す好
例。西洋の言語圏において、この命題は、ある時期までは綜合的であり、ある時期
以降は言語の意味論に組み込まれて分析的になったもの、と言える。

² よって概念は主観的なものではない。
この「概念の非主観性」という考え方は、フレーゲの語るところの「概念」の背後にある種の推論主義的・
構造主義的な意味論が前提されていることを示唆するものではないか。すなわち、フレーゲは「概念」を
次のように考えているのでは:一定の意味上の関連性(上手くやれば分析的命題を作り得るような関連性)
を相互に有する概念群は抽象構造をなす。そして:
① これらの概念のいくつかを実際に上手く組み合わせて作られる分析的命題 A の真偽はその抽象構
造そのものについての概念知から論理的・演繹的な推論のみで証明できる、必然的・客観的な真偽
である。
② 我々のそのような「構造をなす概念知」は、我々の「外部世界認識」のさまざまな局面で適用され
るため、その個々の適用において外延的意味解釈(モデル)i を(たまたま)付与されていて、そ
の解釈によって分析的命題 A も外延的な意味 i(A)を与えられる。
③ が、その意味 i(A)が有する偶然的・主観的な真偽と A 自体が有する必然的・客観的な真偽は区別さ
れねばならない。
④ 特に、我々の発達過程において、こうした概念知の獲得がその個々の適用局面での外延意味論を通
じての経験観察に依存するとしても、そのことと、それら概念の組み合わせからなる分析的命題の
真偽の正当性の問題は、分けて考えなくてはいけない。
この特定のフレーゲ解釈仮説は、細部ではおおいに議論の余地があるとしても、その推論主義的・構造主
義的大枠は、こういう仮説ぬきにはこのフレーゲの「概念の非主観性」の考え方が理解しがたくなってし
まうのではないか。

27
====ここから、7月12日ゼミ用。====

48 節 解決の第三歩:幾つかの困難の解決(Auflösung)19
Ø 先の幾つかの例(46 節の例1,2)では、まるで同一のもの(同一の外的現象)
に相異なった数が帰属するかのように見えた。
→これは、対象が数の担い手とみなされていたことによる誤解。
なお、よく考えてみると、このポイントは後にクワインが “Reference and modality”(たしか)で
指摘したこととすごく重なる:「intensional properties」は物自体の属性ではなく、それがどのよ
うに記述されているか、特定されているか、の属性、のようなこと。だから Quantification-in で
きない、というようなこと。

Ø 人々(「集合としての基数」論に与する人々)は、数(基数概念)を物(数えられ
る諸対象)からの抽象によって獲得しようとする。
→なぜそんなふうに考えるのか、その診断:物からの抽象でまず得られるのは概
念であり、その後でその概念に属する数が発見される。このように、
(問題の)抽
象は非常にしばしば数判断の形成に先行する。
(これが、こうした人々が「物から
の抽象で数を得ている」と考えてしまう理由である。)
もちろん、フレーゲによれば、この「抽象」は単に「一つの概念下への包摂」に過ぎない。別に「数
えられる諸対象」の間の相違が認識できなくなる、とかそれらの相違を認識する(判断文脈上の)
権利・正当性を失うわけではない。

なお、Einheit 論者の考え方を、このフレーゲの説明による「数判断」の、ちょっと特殊な例にす
ぎない、とすることは出来ない。 「Einheit という概念によって数えられるべき対象を一挙に包摂し
ているだけ」のような考え方で。なぜなら、 「Einheit 概念」は通常の概念とある一点において決定
的に違う。つまり、それ自体の固有の「確定的な個別化の基準」を持たない。(「猫」とか「硬貨」
などの通常の概念は、このような個別化の固有の基準が概念に内在するが、 「Einheit」はこの基準
をもたず、数える主体の「任意の見方」にゆだねてしまう。…ということが、54 節を読んでその
帰結を考えれば、わかる。(ただ、「Einheit 概念」のもつこの問題は、指摘するための準備が整う
54 節でもはっきり指摘されてはいないが。。。)

Ø (「概念のもつ収集力は、綜合的統覚の統合力を凌駕する」の件。。意味わからず。
略。)
Ø 数の広範な適用可能性。
→もし個数言明が本当に「数えられる諸対象」自体(物自体)についての言明で
あるなら、どうしておなじもの(数)が外的現象にも内的現象にも、空間的なも
のにも時間的なものにも、あまつさえ空間性も時間性もともに欠くものについて
も言明できるのか。(もちろんできるはずがない。)
→個数言明においては、このような謎の数の適用は行われていない。個数言明に
おいては、これらのような物がその下に包摂される概念だけに、数は付与される。
(そして、およそ「思考しうる対象」すべては、
(Einheit 概念などに依らずとも)
何らかの適当な概念の下に包摂可能。)

目次に書かれた 48 節のタイトルでは、この「解決」はこのように Auflösung。こっちの語は Lösung より


19

さらにはっきりと Dissolution のニュアンスを伝えるもののような気がする。

28
安田提案:次の 49 節の内容は、53 節と 54 節のポイン トを把握したあとで読
むほうがは るかにわかりやすい、と思います。(それぞれ、53:「概念の徴 表」
と「概念の 性質」の区別、54:概念は個 別下の基準を伴う、と いうこと。)
50 節〜54 節を見たあとで見ることを提案します。
(51 節で少しだけ 49 節の内容への言及が出ますが、そもそもその言及の意味
自体が、53 節のポイン トをすでに理解してい ないと理解不能。また、この言及
はいったん 飛ばして後で見直すことができる程度には、議論の文脈のなかで独
立していると思いますので。)

49 節 スピノザからの(54 節の)支持と、そのスピノザの過ちについて
Ø スピノザからの支持
² スピノザ:「私は、物が一つとか唯一と呼ばれるのはその存在に関してのみで
あって、その本質に関してではない、と答える。」
フレーゲ的翻訳:物が「一つ」と呼ばれるとしても、それは、その物がそれ自
身の本質において「一つ」なわけではない。「一つ」という我々の個数言明が、
なんらかの理由をその対象の側に求められるとすれば、それが存在する(「0
ではない」、または「少なくともひとつ」)というその事実までであり、それ以
上の「一つ」である理由(「たかだか一つ」である理由)は対象の側には求め
られない。
スピノザの「存在」と「本質」についてのこの言葉が、 「『唯一』判断」をこのように「存在の
判断」と「一意性の判断」にわけることを意味するものなら、スピノザからの支持の言葉のこ
の部分は、53 節のポイントの一つ、
「存在の肯定は数ゼロの否定に他ならない」を先取りする。
と言える。

また、この翻訳が正しければ、ここでスピノザが「本質」という言葉を使うのは、アリストテ
レス(とかスコラ学者)の形而上学の「本質主義 essentialism」の考え方を批判してのことか
もしれない。後にクワインが“Reference and modality”で批判しているような。クワインのこ
の反・本質主義の議論は、フレーゲによって、さらに遡ってスピノザによって、まず、一意性
判断に関する反・本質主義という形で先行展開されていたのかもしれない。 (クワイン的な反・
本質主義の議論が一意性判断にまで適用できること、これは間違いないことと思う。が、クワ
イン自身はこれに気づいていたのだろうか?寡聞(本っ当に寡聞)にして知らず。。。)

なお、「一意性判断」についての反・本質主義というものは、突き詰めれば、「異同の判断」、
つまり「a=b か a≠b か、の判断」の反・本質主義になるのでは。すなわち、「『a=b か a≠b
か、の判断』のことを a や b の指示対象(の本質)に関する判断とみなすこと」の否定にな
るのではないか。とすれば、これはつまり、 「同一性言明 a=b における a や b を、普通に『使
用されている referential expression』と見なし、『a=b か a≠b か』を a の指示対象と b の
指示対象の‘間’の(‘同じ’かもしれない存在物‘同士’の‘間’の) ‘同一性’を問う判断、
とみなす、ヘンな考え方」の否定になる。すなわち、「見方に依存しない同一性判断」という
考え方の否定。ここから、この判断を「a や b という referential expression に関する(メタ
言語的、その意味で自己参照的な)判断」とみなす考え方に導かれるのはとても自然と思う。
(フレーゲ自身がどこまでここのつながりに気づいていたか、どこかで自覚的にこのつながり
を論じているか、は、これも寡聞にして知らず。)

² スピノザ:「というのは、物を一つの共通した類20 にもたらした後で初めて、

ここは和訳版は「類」ではなく「尺度」だが、オースティンの英訳は genus。これに合わせて「類」
20 (るい)
(genus : species :: 類 : 種 ということで。)独語原文のこの部分は、 denn wir stellen die Dinge
としてみた。

29
我々は物を数の下で表象するからである。」例:セステルス硬貨とインペリア
ル硬貨(詳細略)
フレーゲ的翻訳:ここでスピノザのいう「物を一つの共通した類 にもたらす」
ということがすなわち、物を一つの同じ概念の下に包摂する、ということで
ある。
スピノザからの支持の言葉のこの部分は、54 節のポイント「概念というのは、一般に、その
下に属するものを確定的な仕方で境界づける」を先取りしている。個人的には 49 節は 54 節
のあとに来たほうが良かった気がする。。。そのほうが、「スピノザからの支持」がこのポイン
トや 53 節の「存在の肯定は数ゼロの否定」を支持するのだ、ということが明確にできただろ
うし、また、53 節で徴表(Merkmal)の説明もきちんと済んでいるので、次の「スピノザの
過ち」の説明も読み手によりわかりやすく出来たはず。。。

Ø スピノザの過ち
² 次の思考
l スピノザ:「ある物は、(中略)それと一致するもう一つの物が(心的に)
表象された後で初めて、一つとか唯一と呼ばれる。
l 我々は神の本質について抽象的な概念を形成しえないので、我々は神を
(本来の意味で)一つとか唯一とか呼ぶことは出来ない」
フレーゲ的翻訳:
l 我々は、物 a(の心的表象)を、ほかの物 b の心的表象と比較対照して初
めて(a も b も属するような)一つの概念に抽象化することが出来、その
概念の個別化基準のもとで初めて(a を)「一つ」と呼ぶことが出来る。
l (神は、その本質において唯一無二である。神の心的表象と比較対照する
「同種の他物」という心的表象を、我々は持ちえない。)
「その本質において唯一無二」というのは、「神」という概念が「地球の衛星」の
ように偶然的に唯一の対象を持つ概念とは違う、ということ。後者に関しては、我々
はこれと比較対照する心的表象をいくらでも持ちうる。
l (よって)(*) 我々は神の本質について抽象的な概念を形成しえず、神を本
来の意味で一つとか唯一とか呼ぶことは出来ない。(つまり、我々が通常の言
語使用において物を「一つ」とか「唯一」と呼ぶときと同じような判断を、我々は神に
対して下すことが出来ない。)

(*) フレーゲの原文には、ここで「よって」という言葉で継ぐことを支持する直接の理
由は見当たらない。フレーゲの引用の仕方からは、スピノザがなぜ「我々は神の本質に
ついて抽象的な概念を形成し得ない」と考えたのかはわからない。ただ、前後から類推
するに、スピノザはこういう理路だったのではないか、という、これは、仮説。

この部分を書いていて、「あれ?『神は、その本質において唯一無二である』なんてこと
を言うなら、スピノザが「クワインを先取る反・本質主義者」なわけないんじゃないの?」
と考え込んでしまった。が、よく考えてみれば、この議論の結論部分でスピノザが言う
ことは、言い換えればこういうことでは:「神のみは、我々が本来の意味で一つとか唯一
とか呼ぶことが出来ない存在だ(なぜなら、我々が本来の意味で一つとか唯一とか言う

unter Zahlen nur vor. nachdem sie auf ein gemeinsames Maass gebracht sind で、
「尺度」ないし「genus」
に対応する語は Maass と思われるが、独語辞典にのっていない。今の自分にはどちらが良い訳かわからない。
が、硬貨の例から推察するに、やはりオースティンの genus の方が文脈的にはしっくり来る。と思う。なお、
和訳版の 53 節でも「類」(たぐい)という言葉が使われているが、安田がこの 49 節で「類」(るい)という
語を持ち込んだこととこれとは全く関係ない。後で 53 節のレジュメ部分で説明するが、安田のみるところ、
53 節の「類」 (たぐい)は、やや拙い意訳。これによって不必要に形而上的に意味深になってしまっているの
で。。。

30
ときは、その対象は本質において一つなのではなく、我々が恣意的にある「類」の下に
もたらした結果そう呼ばれるに過ぎないのだから)。」こう考えれば矛盾はしない。つま
り、「スピノザは神以外のすべてに関しての『一意性の反・本質主義者』であったと考え
れば。(もちろん、自分はほとんどスピノザを読んでいないので、これは完全に、フレー
ゲのこの部分のテキストのみに基づく仮説。)

→フレーゲ:彼の前件は誤っている。概念は、直接に複数の対象から抽象する以
外に獲得する方法はない、というわけではない。徴表 (*) を特定することでも
概念は獲得できる。そのように獲得された概念については、その下に何も属さ
ないということもありえる。(**) (だからこそ我々は、
「○○は存在しない」な
どの存在否定の判断ができる。逆に言えば、)徴表特定による概念獲得があり
えないなら、存在否定の判断は不可能になり、結果、存在肯定の判断も意味内
容を失う。(***)
(*) フレーゲのこの本での「徴表 Merkmal」という言葉の使い方を、これまでこのレジュメ
作者は誤解していた。(もしかしてそれでもあまり問題なくこの言葉を使ってきていたかもし
れないが、それは偶然。)この言葉の意味については 53 節参照。

(**) フレーゲの指摘する「スピノザの過ち」が正しいとすればもちろん、スピノザには「何
も属さない概念」というものもありえないだろうから、ここで「そういうものはあり得る」と
指摘するのはわかる。ただ、(安田仮説が正しければ)神についてのスピノザの主要ポイント
は「唯一無二の存在の概念」というものはありえないだろう、ということの方のはず。ここで
はまだ、この問題にはフレーゲは何も言っていない。53 節で、非常に慎重な言い方で、これに
関連することを言うが。

(***) ここで、いわゆる「Plato’s beard」問題のクワイン的(というかラッセル記述理論的)


な解決の大枠がすでに示されている。

50 節 シュレーダーの見解
Ø シュレーダーの趣旨(1):「一つの物21の[出現の]22 頻度について語りうるに
は、当の物の名前は普通名詞、つまり一般的な概念語(notion communis)でなけ
ればならない。(固有名ではこの語りはできない。下記詳細参照。)」
² 詳細: 「人が(*) ある対象を完全な仕方で --- そのすべての性質や関係性ととも
に --- 把握する23 やいなや、それは(その人の)世界(*)の中で唯一無二となり、
それが(その世界の中に)(*) 同一物としての再出現をもつことはなくなるだろう。
24 それ以降は、この対象の名前は固有名(nomen proprium)となり、その
対象は(その世界に)(*) 繰り返し出現するものとしては考えられなくなる。」

21 和訳版ではここでは「ひとつの」という語を入れていないが、この部分は 51 節のフレーゲの批判(訂正)
の要なので、やはり入れておくべき。
22「出現の」という語句を大括弧[ ]で挿入しているのは和訳版によるものを採用。 (これに対応する語句
は独語原文にはない。)たしかにこれを入れるほうがシュレーダーの文意はわかりやすくなる。と思う。 (ただ
し、「わかりやすくなる」という理由については、次の二つの脚注及び 51 節レジュメも参照。)
23 独語原文:“Sobald man nämlich einen Gegenstand vollständig --- … --- in's Auge fasst,” 和訳版は、こ
この最後のフレーズが in's Auge fasst であることを反映してこの部分を「注目する」と訳したのだろう。が、
この意味はむしろ「把握する」「認識する」のほうが近いのではないか。そして、注目すべきは、この「把握
/認識」が、Auge(目ないし視野)の中での「把握/認識」という、無時間的・視覚的なイメージでメタ把
握/認識されている、ということ。(なぜ注目すべきか、は、51 節レジュメの最後の赤字注釈を参照。)
24 原文は“so wird derselbe … seines gleichen nicht weiter haben.” (和訳版「それと同等なものを他に持
たなくなるだろう。」) 安田訳の「同一物としての再出現」は原文の seines gleichen に対応。なお、 [その世
界の中に]を挿入したのは、おそらくシュレーダーも「seines gleichen (in der Welt) nicht weiter haben」と
括弧挿入して解釈しても許してくれるのではないか、と考えてのこと。

31
(*) ここでは、独語原文の man にまず着目し、本文注の「世界」という言葉をまず「その人
の世界」(その人の認識=心的に表象する世界、の意味)と解した。また、物の「出現」のこ
とを、この人のこの認識世界における出現、と解した。基本的には、シュレーダーの言葉をで
きるだけ好意的に(charitable に)解釈しようとした結果だが、51 節を見る限り、フレーゲ
の理解もだいたいはこういうものと思っても差し支えなさそう。

Ø シュレーダーの趣旨(2):「このことは、具体的な対象ばかりでなく物(認識の
対象物)一般に成立する。(抽象的に把握された認識対象でも同じ、ということ。)」
² 前提:「物の心的表象 Vorstellung が抽象によって生じたとしても、当該の物
を(その世界の中で)完全に確定するに足る要素(情報)がこの心的表象に(ま
だ、抽象を経てもなお)含まれてさえいれば。(*)(そうでさえあれば、趣旨(1)
はそのような‘リッチ’な抽象的心的表象の対象物にも成立する)。」25
Ø (*) 安田補足:54 節のフレーゲの例を先取りするなら、ここでシュレーダー
が論じているのは「地球の衛星」のような、概念(語)でありながらそれを
満たす対象が「世界」には(たまたま)唯一であるために、結果的に「一つ
のもの」を表象できてしまうような概念のこと。
ここでもカントの認識論の感性 vs.悟性の二元論が尾を引いているようである。
「物」の心的
表象ないし認識が、感性ないし直観によって得られる具体的なものと、悟性(概念性)によっ
て得られる抽象的なものとに、二分されている。シュレーダーの趣旨(2)は、要約すればこ
う:具体的、感性/直観的な表象のみならず、抽象的、概念的な表象ですら、対象を完全な確
定する(世界における他のすべての比較物を排除する)ならば、その表象にいわば‘紐付けら
れた’ものとしてのその対象の名前は、実質、「固有名としての性質」を帯びることになる。

Ø シュレーダーの趣旨(3):
「ある物を『数える』ことは、その対象が有する特有
の徴表や関係性、すなわち(その世界の中の)他のすべての物との区別をもたら
すそうした特有の徴表や関係性を、ある程度まで度外視または捨象することで初
めて可能になる。この捨象によって初めてその物の名前は物の複数(の出現)26
に適用可能な概念(を指す名辞)へと変わる。」
言い変えると:人がある対象を認識する際には、そのような捨象がなければ、その物の名前(そ
の認識に‘紐付け’られたもの、としてのその名前)は実質的に固有名となり、概念語=〈物の
複数出現に適用可能な名辞〉ではなくなる。
(少なくとも、その認識=心的表象が、認識世界の中
でのその対象の完全な確定を可能にするほど十分な情報量をもつなら。)

51 節 シュレーダーの見解の訂正
フレーゲの見るところ、シュレーダーの 50 節の言葉は、大筋では正しいこと(主に 38 節でのフレ
ーゲ自身の固有名 vs.概念語の区別)を言いつつ、間違ったことも入り混じっていて、全体では
誤解を招く表現になっている。ここで、これを訂正・整理する。

Ø 訂正点1:一つの一般的な概念語を「一つの物の名前」と呼ぶ(扱う)のは不適
切。(太字は安田強調)27 (フレーゲなら、百歩譲って、一つの概念語を〈多数の物〉の名
前、とすることは、まだ許せるはず。)

² (なぜなら)そうすると、数が一つの物の性質(一つの概念の性質ではなく)で

25 原文:“wofern nur diese Vorstellung solche Elemente in sich schliesst, welche genügen …”
26 原文:“wodurch … der Name des Dinges zu einem auf mehre Dinge anwendbaren Begriffe wird.” 和訳
版通り、「複数の物」とするほうが原文に忠実だが、シュレーダーの「表現」を首尾一貫したものにしようと
すれば、ここにも「出現」が入るほうがわかりやすいので、入れた。
“Zunächst ist es unpassend, ein allgemeines Begriffswort Namen eines Dinges zu nennen. ” (太
27 原文:

字強調安田)

32
あるかのような見かけが生じる(ので)。(つまり、一つの物の「出現頻度」という
考え方で、あたかも、数が、
〈一つの物がそれ自体で有する性質〉
(例えば色とか重さなどと
比するようなもの)と見なされ得てしまうので。)

² 一つの一般的な概念語が表示するのは(一つの物ではなく)やはり一つの概念
である。
l 確かに定冠詞や指示代名詞を伴えば、それは一つの物の固有名と見なされ
るが、それとともに概念語とはみなされなくなる。
² 一つの物の名前は(やはり)固有名である。
Ø 訂正点2(訂正点1の背景になっている誤ち):一つの対象が繰り返し出現する、
というべきではない。(そこがそもそもの間違い。)複数の対象が一つの概念の下に属
する、というべきである。(もし複数性が事実あるなら。)
Ø 訂正点3:概念を得る手段は抽象だけに限らない。(49 節でのスピノザ批判参照)
Ø 訂正点4(訂正点2,3への補足)
:(シュレーダーはどうやら趣旨(2)において、
概念 =〈対象の心的表象のうち、感性や直観による‘直接表象’ではなく、抽
象によってえられる‘間接表象’〉が十分な情報をもって対象を一つに絞り込む場
合は、その概念語は実質的に固有名と化し、それによって対象の数を「数える」
ための名辞としては使えなくなる、と考えているようだが)そんなことでその概
念(語)が概念(語)でなくなるわけではない。 (そんなことで「数え」られなく
はならない。)
² たしかに、このような概念(例:地球の衛星)は属する対象が一つだけだが、
それは「数え」を妨げない。この概念によって「1」と「数えられる」。
(たと
え個数ゼロの概念でもそれは同じ。1も0も数。)
² 概念(語)に問われるのは(概念語にとって本質的なことは)、何かがその下
に属するかどうか、そしてもしそうなら、何が属するのか。である。(そこか
ら、「数え」が生まれる。)
² 固有名にはこの問いは無意味である。
50 節、51 節を通じての議論は、後の分析言語哲学の固有名(proper name)と記述(description)の考え方
の大枠をすでに示している。フレーゲの訂正ポイントは大きく分ければ二つ。①概念語と固有名の区別をしっ
かり堅持し、概念語を「一つの物」の名前、などと考えないように。②概念(語)が、それに属する対象を一
つ、そしてたかだか一つ有する場合でも、そんなことでその概念語は固有名にはならない。

自分はシュレーダーの原著を読んでいないので、本来、フレーゲのシュレーダー解釈が適正かどうかについて
は何も言う資格はない。が、根拠もないただの雑感で言えば、大筋正しいのだろう、という印象をもった。た
だ、訂正点2(上記の訂正ポイント①について、フレーゲがシュレーダーの考え方の根底に見出す誤謬)につ
いては、ちょっとしたズレ、認識論的に非常に面白いズレがある気がする。ので、少々その説明を。フレーゲ
もシュレーダーも、 「認識世界」を無時間的に、つまり、 「完結したもの」としてメタ把握・メタ認識している
点は一緒、と思う。
シュレーダーに関しては、特に、原文 “Sobald man nämlich einen Gegenstand vollständig --- mit allen
seinen Eigenschaften und Beziehungen --- in's Auge fasst,” がその根拠。先述のように、in's Auge fasst
は「一目のもとに把握」のようなことであろうし、mit allen seinen Eigenschaften und Beziehungen の
Beziehungen とは、 「世界」にある全ての他物との全ての関係性を意味するのだろう。と考えると、ここ
でいう「一目のもとの把握」は単に「目の前」のその対象のみの「完全なる把握」ではなく、 「世界全体」
の把握、つまりその「世界」の中にある全てのものと全ての関係性からいわば「逆算」したような、その
対象の top-down 同定(認識)のことも含めた把握のこと、とかんがえられるので。
しかし、シュレーダーの方は、このような無時間的な「認識世界」のイメージを一方で持ちながら、その中の
対象を「数える」という認識作用をイメージする際、言うなれば、その「世界」の中へと「降りて」いく、と

33
いうイメージが見て取れる。一方で「世界全体」を無時間的に、「一目で把握」する対象としてイメージしつ
つ、他方で、そのなかの諸対象を「数える」際には、一度に一つづつ(同じ「数えられるべき対象」を二度数
えないよう、また、どの「数えられるべき対象」も飛ばさないよう、注意を払いながら)しか数えられないよ
うな認識主体をイメージしている。もちろん、同時に、
「Einheiten」論者でもある彼の考え方の背後には、
「人
は、物を数える際には、数えられる諸対象を同一視する(それらに同一性を帰属させる)」という理解もあり、
これもあいまって、「一つの物の複数の出現」という考え方による「数え」のイメージになるのだろう、とは
思う。が、面白いのは、シュレーダーの「数え」のイメージに、時間性・動作性がみられることと、それにも
かかわらず、そのような「数え」の対象物らからなる「世界」については、無時間的・視覚的なメタ認識を持
って、「数え」の時間性・動作性を無時間化してしまっている、という点。

52 節 独語慣用語法からの支持
Ø (制作中)

53 節 概念の性質 vs.概念の徴表。存在と数の類似。
Ø 概念の性質:たとえば、数は概念の性質。
² 例:「直角を有し、直接で囲まれた、等辺な三角形は存在しない」という言明
は、「直角を有し、直接で囲まれた、等辺な三角形」という概念の性質を述べ
ている。(というのも)この言明は、この概念に数ゼロを付与している(ので)。
Ø 概念の徴表:その概念に属する物が持つ性質≠その概念が持つ性質
² 例:「直角を有する」は、「直角三角形」という概念に属する具体物(個々の、
あるいは任意の直角三角形)の性質であって、「直角三角形」という概念の性
質ではない。
要するに、概念 A, B が、①「A⊆B」のような関係にあるとき、概念 B は概念 A の徴表であり、②「A∈B」
のような関係にあるとき、概念 B は概念 A の性質である。と言ってよい、と思う。(端的には。)

ただし、この「概念の性質」との対比の文脈では「概念の徴表」は単に「必要条件」の意味で使われてい
るのに対し、先に 31 節などで「分割されていない・境界付けられている、という(Einheit 概念の)徴
表(候補)」について語っていた文脈では、 「必要十分条件」のような意味で使われていたように思う。 『基
礎』におけるフレーゲの「徴表 Merkmal」という語の使い方は、この点では揺れ動いている?

Ø 存在と数の類似
² 存在の肯定は数ゼロの否定
² 存在は(上記の意味で)概念の性質である。それゆえに、神の存在に関する存
在論的証明は、その目的を達成できない(のである)。
ここでいう「神の存在に関する存在論的証明」の「目的」とは、あきらかに「神」という概念
からの演繹的推論のみで神の存在を証明する、ということ。Anselm やデカルトが神について
「できました」と主張し、カントが「いや、それはそもそも無理ですよ」と退けたことで知ら
れる「存在」の証明方法。(カントのポイント(フレーゲ流の要約):「概念から存在、つまり
その概念に属する対象の存在、を演繹的に証明することは不可能。存在するか否かは、その対
象の性質ではないから。」)ここでフレーゲが「…がゆえに Weil…」という言葉でやっている
のは、このカントによる「存在論的証明の不可能性」の論証のいわば理論的補強というか、拡
張。
「概念から推論のみで証明できないもの」を「概念の性質」という表現で一般化し、 「存在」
をその一例としている:

34
「xは A である」(つまり、「対象xが概念 A に属する」)、というような、対象xについ
ての言明から証明できるのは、やはり対象xについての言明(「xは B である」等)であ
って、概念 A についての言明(「A は B である」)は証明できない。

存在(属する対象が存在するかどうか)は、概念の性質であって、対象の性質ではない。
(例えば「神は存在する」は、「神」という概念についての言明であって、その対象であ
る(仮定的)存在物神についての言明ではない。)

であるがゆえに、概念から存在(=その概念に属する対象の存在)を証明することは出
来ないのである。

こう見てみると、フレーゲの「概念の性質 vs.概念の徴表」という区別は、まさにカントの「存
在は述語ではない」の一般化である、と言える。

² 存在と同様に一意性も概念の性質である。徴表ではない。
この文脈から自然に考えれば、ここでフレーゲは暗に「よって、数も存在も、概念からの演繹
推論で得ることはできない」と言っている。ように思える。が。。。

² しかしながら、あるものが概念の性質であるということから、それをこの概念
から、つまり、その諸徴表から推論するのは不可能なのだ、と、一般的に結論
してはならない。
l 場合によってはこのような推論(概念の諸徴表から、その概念の何かし
らの性質を導き出す推論)も可能。ただ、概念の徴表をその下に属する
対象に性質として付与することほど直接的ではないだけ。
ここではフレーゲは、どのような例外を想定してこのような例外条項みたいなものを付
け足したのか、説明していない。一つ明らかな例としては、「自己矛盾概念」から「数
ゼロ」を推論する、みたいな例が挙げられる。が、この注意深い「例外条項」が、この
ような単純な例だけに基づくともちょっと・・・思えない。

あるいは、と思うのは、群における恒等元。(フレーゲがクラインのエルランゲン・プ
ログラム(1872)に通じていたなら群概念は間違いなくフレーゲの守備範囲だったはず
だし、そうでなかったとしても、おそらく群概念はこの当時でもほとんどすべての数学
者の基礎素養のひとつではなかったか、と想像する。)もしフレーゲの考える「概念の
客観性=非主観性」の背後に「概念の推論主義=構造主義」 (47 節のレジュメ参照)の
ようなものが本当にあったなら、「群の恒等元」はそのような「推論的・構造的に同定
される概念」の典型例だが、この概念は、その公理的定義から(つまりはその「諸徴表」
から)、その‘対象’の他ならぬ「存在」と「一意性」が推論される。ここでのフレー
ゲの「例外条項」の背後にあってもおかしくない。

もっとも、恒等元の「存在」の方は標準的な群定義では公理の一つとして「与えら
れ」てしまっている(∃𝑒 ∈ 𝐺 ∀𝑎 ∈ 𝐺 𝑒𝑎 = 𝑎𝑒 = 𝑎 )ので、「概念の定義から推論
で導き出せる」というふうには把握されにくいかもしれない。。。(群定義は、恒等
元の「存在」を公理で規定しない形に書き換えることが可能だが、たぶんフレーゲ
当時は知られていない?)

と、ここまで書いて逆に不思議に思ったが、もしフレーゲが群の標準定義を知っていた
なら、このような典型的な概念定義のなかに存在(量化)文が入っていることを、彼は
どう思ったのだろうか?そして、群の恒等元(「群の恒等元」という概念の、その任意
の対象)が、その概念定義から、まさにこの概念の徴表として、対象の性質として、一
意性を有する、という事実のことを。これらは、「存在や一意性は概念の性質であって
徴表ではない」という彼の考えと真っ向から対立する、決定的な数学的事実だと思う
が。。。この程度の「例外条項」
(「ただ、概念の徴表をその下に属する対象に性質として
付与することほど直接的ではないだけ」)で済ませられる問題ではない気がするが。。。

35
なお、「存在」に関しては、安田の考えでは、抽象構造を定義する公理系のなかの
「存在量化」文とは実は「例外量化」文なので、群定義は、(一見すると存在量化
文を含んでいながら)どのような元の「存在」も規定しないし、それゆえ、空集合
を「領域」にもつ「空な群」というようなものも否定しない。つまり、群定義は、
「群」概念の「性質」
(フレーゲの意味の)としての「空ではない群」の存在も、
「群
の恒等元」概念の「性質」(同上)としてのその「存在」も、含意しない。
(ご興味
あれば、安田の量化子の二用法論を御覧ください。)

「一意性」に関しては、安田の考えでは、群の恒等元(や、ブール代数の最大/最
小元)などのそれはまさに「量化のスコープ下の一意性」であり、これもフレーゲ
の言い方で言えば「概念の性質」ではなく「概念の徴表」の方である。

² また、存在や一意性が概念の徴表となりうる、ということも、完全には否定で
きない。
この文を読んで、「フレーゲも気づいていたか!恒等元とかの存在と一意性に!」と思ってし
まったが、違う。フレーゲがここで意図するのは、「n 階の概念の性質は、n+1 階の概念の徴
表となることもありえる」ということ。

l 存在や一意性は、単に、その概念(言語的習慣に従うとそれに存在や一意
性を(その徴表として)帰属させたくなってしまうその概念)の徴表では
ない、というだけのことである。28 例:「地球の衛星」という概念など
は、事実、その対象は(存在し、そして)ただ一つである。このとき、こ
の(「存在」と)
「一意性」は、この概念の徴表ではなく、性質である。が、
「対象をただ一つだけもつ概念」というメタ概念を考えれば、このメタ概
念には「地球の衛星」という概念そのものが属することになり、存在と一
意性は、このメタ概念の徴表となる。
l このような「メタ概念」と「(オブジェクト)概念」の間の関係は、従属
の関係(47 節でみた、「鯨」と「哺乳動物」の関係、「A⊆B」のような関
係)とごっちゃにしてはいけない。
54 節 Einheit(単位)問題の最終解決
Ø シュレーダー(50 節の言葉を踏まえて):「この普通名詞あるいは概念(語)は、
上述の仕方で形成される数 (*) の名称 Benennung 29 と呼ばれ (**) 、その数の単位
Einheit の本質をなす。
(*) シュレーダー言うところの「上述の仕方で形成される数」とは、50 節で説明
されたような、対象の特異性を十分に捨象することで、その対象の複数の‘出現’
に適用可能となった名辞の、その適用によって得られる数。

28 原文:“[Existenz und Einzigkeit] sind nur nicht Merkmale der Begriffe, denen man sie der Sprache
folgend zuschreiben möchte. ” 和訳:単に、存在や一意性を徴表とする概念は、我々が言語に従ってそれら
を帰属させたくなる類の概念とは違っているというだけである。 ——▶フレーゲの原文は、明らかに、次の
ような語用論的な考察の流れを示唆する:まず対象の(存在や)一意性が(事実)成立するような概念 A
(例えば「地球の衛星」)を想定する。このとき、A の対象の(存在や)一意性は、我々の通常の言い
方では、あたかもその対象の性質、つまり概念 A の徴表のようである。だが、そうではない。それら
は概念 A の性質であり、よって、徴表とすれば、 A より高階のなんらかの概念(A が対象として属す
る よ う な 。例 え ば「 対 象 を た だ 一 つ だ け も つ 概 念 」な ど )の 徴 表 で あ る 。つまり、原文でフレーゲが強
調している区別は、語用論的区別であって、存在論的区別ではない。和訳の「類の」は、これを存在論的区別
であるかのように扱ってた表現になっている。と思う。
29 和訳版では「単位名称」だが、なぜそんな訳にしたのか。この後に続く、 「その数の単位 Einheit の本質を
なす」という文言に引っ張られたのか。。。オースティン英訳版では denotation。いずれにしても、この部分の
シュレーダーの文意がまったくつかめず。。

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(**) シュレーダーのここの文意が不明。。。
Ø ある概念に帰属する基数に関しては、その概念のことを単位 Einheit と呼ぶのが
最も適切。
² なぜなら、数が付与される概念というのは、一般に、①その下に属するものを
確定的な仕方で境界づけ、よって②境界づけられた個々を、次の意味で分割不
可能にするから:それら(個々の境界づけられたもの)は、何某かの意味でさ
らに分割することが可能だとしても、分割した結果のものはもう、その概念に
帰属しなくなる。例:「Zahl という語の音節」という概念は、音声的にはさら
に分割出来ても、分割すればもはやそれは「音節」ではない。
² が、全ての概念がこういう風とはかぎらない。例:「赤い」という概念
l まとめ:有限基数に関する単位でありうるのは、その下に属するものを確
定的に境界づけて、任意の分割を許さないような概念に限られる。
Ø 同一性と区別可能性の最終調停。
詳細略。。。すいません。。。

ひとつ引っかかること。フレーゲは「集合としての基数」論者ではなく、この「調
停」問題は、フレーゲにとっては調停問題ではなく、 「解きほぐす」べき、偽問題、
だったのではないか、、、。と思っていた。。。。違ったのか???

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フレーゲ式の考え方だと、おそらく、「見方の任意性」(「数えられるべき諸対象」の個別化
の任意性)は、概念の客観性によって排除されるのだろう。
(彼にとっての概念とは、
「個別
化の客観基準」のようなものをその内に含むのだろう。もちろん、これは、そうであってし
かるべき。)この点においても、このようなフレーゲ式の「客観的概念」は、我々(その使
用者)にとって一方的に「消費」するのみのもの。その意味で、the given。 しかし、我々
が使いこなす「概念」は、言語を媒介にして使用されるものであれ、言語の媒介なしに使用
されるものであれ、その使用において、単に消費されるばかりでなく、生産/再生産もされ
「概念の使用」ということの本質はこの「消費 vs.生産」の二面性にある、
るものであるはず。
と自分などは考える。この話と「数え」の能動性の間に関係があるような気がしてこのメモ
を書き始めたが、、、。見失った。

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