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道 験


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口 次
第一章 序説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一
修験道の宗鶴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一
修験道の系統・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三
宗教史的諸特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 吾
第二章 修験道の起源・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丸
民族的信仰と住山修行の風習・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 丸
金峯山と役小角の博説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一三
聖費奪師と大峯の修業・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一吾
第三章 順 濃と 山 阪: 一丸
* *
順濃の風習と科撤 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 一丸
* * * * ● ● ● ● ● - * * ● ● ● ● ● ● ● ● - * * * ● - * - -
山 風 行 者・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三
。・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・ 三交
行峯の諸動機と所轄
・ ・ ・ ・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
第四章 熊野山駄と派別 三0
「・ ・・・ ・ ・・ ・ ・・・・
熊野から大峯への修行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三吾
大峯修行の派別・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 三丸
第五章 山駄の赴曾的勢力・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四三
諸國御嶽と各派の勢力・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四三
山駄の赴倉的地位:: 四七

修 験 道
第一章 序 説
修験 道 の 宗 鶴
現今我國の法制の上では修験道は濁立した一宗派をなしてはみない。古来修験道を宗とした寺院は、今では古義眞
言宗醍醐派と天台宗寺門派とに属し、前者では員言部に封する恵印部として特殊の組織をしてみるが、後者の方は本
山聖護院の一般末寺の中に含まれてみる。もっとも修験道の宗鶴は元来が寺院中心ではなく、僧侶のむしろ個人的な
行法であり、在家の行者が重要な成素でもあるから、近年この道が著しく復興されて来たのも、これらの寺院やその
壇徒を中心とするよりも、有志の信徒の自発的な結成運動によったのが多いのであって、聖護院や醒朝派の本山三賀
院に於て直接にこれらを統制奨働するやうになったのである。従って各地の諸山寺院も昔からの博統を保持して、地
方的に修験道の信仰と行事の中心を成してはみるが、全鶴としての質勢力は在俗の行者や信徒の集園である任意的な
講赴によって保たれ、天台宗と醤言宗の二本山がその事業の一部として、これらの指導と統轄を試みてみるところ
に、法制上の宗派とはちがつた特殊の或る組織ができてみる。
1
これを過去の歴史に遡つて見ても、修験道はかつて濁立の一宗の鶴裁をそなへたことがなく、いつも大てい眞言宗
や天台宗の中での特殊の行法であったり、またこれを専修する僧俗及び寺院の集園としてこれらの宗派に付属した形
になってみた。この行法や集園が盛になった時代には、ある程度までそれに特有な教義が編成され、 また濁自の博法
血脈なるものが信じられたが、それでもその儀濃や教義は大鶴に於て密教の範域を脱せず、統制上には依然天台宗と
眞言宗との勢力に支配されてみて、ある時代にはその所属のちがひから来るむしろ内部的な封立抗争の方が激烈であ
つた。ことに平安朝の初期から恐くは鎌倉時代の初めにかけて数百年の間の修験道は、各宗の僧俗が個人的意築にも
とづいて入修する道行に外ならなかつたので、これを専修する人々も多く、道俗の間に盛んに行はれたにもか、わら
す、宗派的所属とか分派濁立とかいふやうなことは全く考へられてみなかった。その形儀はもちろん多く密教的な意
味を持つてはみたが、それは顕密各宗に通する一つの質修方法として行はれたばかりでなく、常時の宗教的混清の質
情の下では、備教以外の碑祇に仕へる方法としてすらも行はれた。それ故修験道は最初から眞に超宗派的な一個の道
であって、ちやうどキリスト教史に於ける修道主義 nonasuesn と同じく、必ずしも一般的ではない行法であり主義
でありながら、しかも多くの宗派に共通して分派を成さない運動でもあり集園でもあったのである。
修験 道 の 系統
修験といふ名は昔は雇々呪験とも書いて、持呪得験または修密得験の義と解響したのであった。それで本来は呪文
を持し秘法を修して験力を練る意味で、特に密教で諸奪の法を學ぶため隠通して加持護摩を修し、観法を成就して持謡
眞言の功力を現するのが修験であったが、通俗的には必すしも密教の修行にかぎらず、また備教の教義によらないも
のでも、すべて深山に入って修行したり、碑備の霊地を経行して、身心を練り呪験を成得するゃうな行儀が、ひろく
修験と呼ばれた。従ってそのうちには備教の通義である頭陀科搬の観念や、王朝時代に盛んになった順濃精進などの
風習も含まれて、民間ではすべてこれらが厳密なる修験と匿別されず、こんな宗教的生活に身を委ねる僧俗をひろく
山駄の行者と呼び終には修験のうちでもこの種の行法を取る人々のみが特に修験者といはれて、山駄と同一祀される
やうになったのである。これは単に外部から赴曾的にさう認めたといふだけでなく、こんな修行をはげむ人達の間に
も互ひにその信仰及び儀濃の一致が意識されて、自ら山駄を以て任じ、修験者としての特徴を自覚するやうになった
からであつて、すでに平安朝の末期には法制上の統一や教義の組織はないながらに、かういふ宗教的な集園意識は十
分に現はれ、やがてこれを修験道と稲するやうになるのである。
それ故修験道には最初から教義行法の一定したるものがあるのでもなく、また自らその開祀を以て任する人があつ
たのでもない。もちろん後世の信仰偉説ではこれを役小角が創めたといひ、圓珍、聖費、などがこれを博へたものと
して、その教系を立て、これに基いて信仰が統一され、或る程度までその園結が保たれたのであるが、これを歴史的
に客観祀する場合には、そこにはいはゆる立教開宗の意識的計割もなく、また特に或る個人の創意や組織の力が強く
働いてもみない。換言すればそれは個人的な創唱的宗教ではなくして、長い時代の間に自然と赴曾的に成立した宗教
である。これは修験道の赴曾組織的方面の 一特徴であつて、それが後の時代まで宗派を超越した 一 つの門流として博
承される根源でもあるが、教義や典籍の備はつた備教中の一派としてはことに珍らしい現象である。それで修験道の


起源を歴史的な意味で簡単にかつ正確につかむことは容易でなく、その源流としては種々の思想と行法とがもつれ合
つてみて、しかもそれらが長い時代の間に線合されたり特殊化されたりして、その成立の過程は相常に複雑である。
しかし修験道の中心的な思想と行法とは、備教の頭陀行から来てみるので、さらにその源が婆羅門の宗教生活の四
期の中での最後の離生の形式であることは云ふまでもない。備教では教祀輝奪の常時からすでにこれをいくらか精碑
化して取入れ、特にこれをその唯一 の行法ともいふべき碑定と結びつけたのであつて、爾来それはすべての備教の通
儀として僅承され、どこの園でもどの宗派に於ても多少ともこれを採用しないものはなかった。備教が我園に渡って
からあと二三百年の間、それは主として國家公共の行事として行はれたから、歴史上には専らその外形的な造像赴塔
や韓経供養などの営みが多く博へられてはみるが、その反面にはいふ までもなく個人的な寧問碑定の努力も潮く起
り、出離得脱のための修行も年と、もに盛んになったので、頭陀の形儀による出家遊行や山野に隠通する風も、奈良
朝の初頃には相常にひろく行はれてみた。それが多分この頃から徐々に輸入されたらしい密教に於ては、特に建壇浮
修のためにまた喩伽番地の方法として山中開虜を探ぶところから、さらに新しい意味をも加へての籠山練行となって
行はれて来た。これが修験道の源流としては最も重要なものであり、少くともその教義的方面に於ては中心的な要素
となつてみることは疑はれない。
もっとも備教的ことに密教的な意味で行はれたか\る宗教的生活の根抵には、民族的な宗教的観念と風習がこれを
支持する力として働いてみたことも注意しなければならぬ。すなはち外来の宗教形式としての頭陀練行が比較的に早
くから園民の間に行はれ、参 それが盛んになる部質の説明としては、少くともたやすくこれを受入れるだけの園民
的傾向があったことを機想せねばならず、すでに存在する民族的な宗教的風習が、備教の輸入と、もに備教の名に於
て行はれ、その信仰の内容が備教的な観念と置きかへられたと見倣すべき場合も決して少くないのである。後代の修
験道が紳備を併せて拝するのは雨者の習合の結果ではなくして、その根本に碑に仕へる道が含まれてみて、山獄その
ものを碑祀する民族的の信仰や、巫者呪師が山に入って行じる本来の風習が、備教風の修行と混り、備教的に鍵化し
たのが多いからである。それになほ備教よりもむしろ先に我國に入った支那の信仰や風習ことに道教のそれは、早くか
らこの民族的宗教と結びついて、特にその呪術的の部分を発展させてみたので、これもまた常然修験道の要素の中に
少からす取入れられてみる。これらは多くは民間の信仰でもあり、私的なむしろ秘密の行事であつたゞけに、上代の
歴史に録されてみることが稀であって、奈良朝の時代にはすでにそれらが大部分備教的のものと見倣されたらしいか
ら、後の修験道の博承がこれを備教の修行と匿別してみないことは初論であるが、修験道の根源として宗教史的には
大なる意義をもつてみる。
宗教史的 諸特徴
かくて修験道の成立は備教特に密教の観念を中心として頭陀練行の一門を形つたのであったが、その中には常時の
民間信仰となってみた支那思想も含まれて居り、ことにその根抵には山岳や森林に闘する民族的の信念と儀濃がはた
らいてみたのである。この意味に於て修験道は表面上全く備教の一門流でありながら、いちじるしく民族化された備
教であり、その質質に於てはむしろ日本的な宗教的儀濃と認め得るのであって、それが民族的な宗教として自然的に


成立したところにその生命があった。換言すればそれは同じ備教でもインドや支那に起った思想をそのま、取入れた
輸入備教ではなしに、それらを民族的生活に適應せしめて出来上った國民的備教であって、鎌倉時代に起った日本的
な新備教諸派の先騙として、これに先立つこと数百年、しかもこれらの新宗派よりもさらに多く民族化されたもので
あった。そしてそれが内外の思想の意識的総合ゃ主として教義上の人貸的な折攻の結果ではなしに、種々の要素が
めて自然に融合同化されて成長し、その基礎を成す民族的生命が十分に生かされてみることは、たしかにその宗教史
的特徴である。それ故修験道の成立は紳備習合の思想に負ふところが多く、その信仰内容としては多分にこの思想を
含んではみるが、修験道に於てはそれがたゞ理論的な習合や、単に教義上の解響ではなしに、質際的儀濃の上から自
然に合一されたものであり、その宗教的生活の全鶴に完全に融和されてみる。だから修験道は習合思想の結果として
の一つの産物であるのみならず、これを質際上に徹底せしめたものでもあり、 さらに遡つてはむしろ質修上の要求か
らこの思想を生み出した一つの運動とも見ることができるのであって、この獣でそれは國民的宗教意識の発展の上に
すこぶる重大な役目をはたらいたものと云はなければならない。
修験道が民族的の宗教意識に立脚したことは、またそれをして平民的な宗教としてひろく民間に普編せしむる所以
でもあった。我國の備教がなほ主として國家の公共的儀濃であり、貴族階級を中心とする宗教であった時代に於て、
修験道の源流を成した修行はより多く庶民の宗教的生活と闘係してみた。そしてそれは多くか、る階級の宗教的要求
にもとづいて備教的な観念を取入れて務生すると同時に、またか\る宗教的形式を民間に普及 させる勢力ともなっ
た。けだし備教を地方的に博播させる運動は貸政者の間にも高僧の人々にも相常熱心に行はれたに拘はらす、奈良時
代や平安時代の初にはなほその勢力が首都近畿を中心として動いてみることが多く、その精紳的感化は赴曾の上層に
----- ご
のみ著しく現はれたのであったが、現質の霊験を示す修験の威力は教養のない階級にまづ備教の法を印象させる唯一
の道であり、これが深く民間信仰のうちに食ひ入って、ひろく地方的にもその感化を及ぼし得たのであった。かくて
大いに民間の信仰を包容した修験道は、その形儀に於て厳重に正統の備教的形式に拘泥する必要もなく、またそれは
許されなかったので、常然その中には多くの在俗の行者が包容された。これは表面だけでも出家得度の制限の厳しか
った常時に於て、一層その門戸をひろめた所以であって、同時にそれがまた盆ょ民衆化する原因ともなった。比時代
に在家俗形の身で堂々と修行の門に入り、備事儀式にまで闘興することは、修験行者の特権でもあり、備教の名に於
て僧俗平等の主義に立った一流としては、また質に鎌倉時代の新備教思想の先騙であったとも云ひ得る。
なほその成立の歴史と相まって修験道の一つの特徴は、その専ら自行質修を主義とする獣である。備教のやうにそ
の教義の発展した宗教では、たとひ不立文字とか他力易行とかいつてこれを止揚しても、その基礎観念の相常に複雑
なものを醸想せざるを得ないことは、我國の後代に起つた諸宗派の質情がこれを示してみるが、修験道は本来歴史的
にその教義を持たず、その信仰内容の観念的方面を最初から度外祀して、各自の質修得験を本位としてみる。故にそ
の後世に発展せしめられたいはゆる教義なるものも、多くは賞言教義の轄用かまたはその形儀の象徴的説明にすぎな
いのであって、これがなくてもその宗教的生命には著しい増減がなく、却つてそこに一つの宗教的生活としての特
が存すると云ってもい〜。従って修験の行法には本来あまり精神的道徳的の要素はなく、むしろ機械的に直接に霊験
を得、横段的に功徳を積集することを主眼としてみるのであって、こ\に動もするとその理想の制限される難獣があ


。シ、“ すべての人々がその知識と徳性の如何を問はす 必然的に宗教生活に引き入れられ、少しつ、でも
。(シー。れるシの長所がある。殊にその行法は事質上積徳修善とか継行得験とかいふ道徳的も
しくは現質的な目的を越えて、眞に宗
シ的合一の経験をもたらすのであって、これこそ三味論備の境を質現す
。、シ定されてみないだけに極めて自由にしかも渡れなくとの境界に入り得る鳴が
シである。約言すれば修験道は教義や観念よりも質修を先とする」っのシ

。シの名の すり魔力を みことが行者の直援の目的と考へられたことが多く、赴きもまた主と
ー。シしたのであるから、全備としての儀 が極めて呪術的である。それに修行の方法が主義に
シすべての人々を包 しながら、その徳統的な龍山苦行の方法は決してシでなく、ことに婦人に
「シのであったから、こ に自行の験者と受査の信者との封立が起り、行者としての入口の制
シ。シざるを得ないのであった。そして民族的信仰としても備数の名に於て も、シ
つ。シの現世的利容であったから、こ にもシして
。シた。って、
。シとしてょりはむしろその修練し得た験力を他に回施すること及びこれをシする人
シにょってその人と法とを信奉する獣にあった 雑に備教としても 一般的には修法所轄の盛んな時代に於
三市産
「シが特に 有され、災厄病 の著しい物怪を挑ふためには山中に年を経てシ
った験者に封する要求が最も強く、一方民間の加持呪方には在俗の行者が極めて簡易に請ぜられて古の巫者呪師の代
りをするゃうになった。かくして自行修練を目的とする修験行者のみの教園としては修験道はその組織も完全でなく
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stのではなかったが、そのシのためにシ
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宗教生活の上に動かしがたい勢力を形り、その赴曾的機能に於ては却って正統の備教諸派を凌ぐものがあった。
第二章 修験道の起源
民族的信仰を住山修行の風習
シに したが、そs っシs
の信仰と、多くは悪霊信仰を背景としたこれらの人々の癒病その他を目的とする明元術的儀濃とである。これは後
には密教の霊験観念や加持修法と結びついて現はれてみるが、本来民族的にも巫者州師の階級があつて民間に宗教的
勢力をもち、病気その他の災厄に際して必要な儀濃を行ってみたことは、民俗學的にも疑ふ除地はないのであつて、
これがやがて後に修験行者によってその大部分を代表されるやうになる宗教的機能である。また宗教的な浄機の観念
にもとづいて種々の禁忌破除の儀濃を行ふことは、質に我が民族的宗教の最も著しい特徴であって、これまた後には
よほど精紳化され備教的な意味をすら加へたのであるが、これは修験者の自行の方面に於ける信仰の一要素を成しそ
の儀鶴の形式に少からぬ影響を興へて、いはゆる精進者が修験行者の別名とさへ考へられた時代もあった。しかし修
験の行法の根本を決定してその信仰の淵源となった民族的信仰は、何よりも山岳及び森林の崇拝であって、修験の自

一○
修的儀濃はこの信仰の産物といってもい〜位である。我國の山岳信仰はその最も単純なものとして自然崇拝的な意味
でこれを碑聖祀したものが多く、山姿の秀麗崇厳なのを見て直にこれを紳霊として崇拝した外に地勢上数多い火山は
その碑鍵霊威の治動からしてこれを碑祀し、その噴火、湧泉、鳴動、崩壊などは雇々これを碑崇と考へたことは、史
上に明かに記録されてみる。これらは山岳そのものを碑鶴として奪崇する儀濃として久しく残されたが、又深山の凄
蒼幽異な風物からこ\に精霊碑怪が籠ってみると考へて、これをアニミステイクに崇拝したことも多いので、或もの
は狩猟の獲物や衣食の材料を興へ、灌漑の水を下し風雨を支配する山祇碑や山日碑、水分碑をこ\に認めた。そして
斯る信仰とそれに基く山岳の祭祀や山中に行ふ儀濃のある部分は、そのま\後に備教化されて行場霊地の観念となり

また主として道教的な支那思想や界術儀濃が、これらの民族的信仰に影響して、それの備教化と相まつて潮次國民
の間に行はれたことは、後に霊異記や元亭響書などに博へる仙人や仙方の話によっても可なりに古い時代からのこと
〜思はれる。績日本紀にのせた天平元年の語に、『學習異端、蓄積幻術、厩魅 鬼阻、害傷百物、: 封印書符、合築
造毒、萬方作推、」等の文があって、厳にこれを禁止されたのも、比時代に方士の術に倣ふた服餌符録の法が盛に行は
れ、碑仙と稲して山間に放浪する者が多くて、その弊害の甚しかつたことを示してみる。もちろん共らは後になるほ
ど備教思想と混合して博へられ、備教の影響は早くから加はってみたにちがひないが、しかしその中には事質備教と
は系統のちがった思想行法を主としてみたものも多いのであつて、備教の修行者として博へられた者の事填の中にす
ら、この時代は支那思想の要素を交へたものが少くなかったらしい。現に修験道の開祀と仰がれる役小角の行填でも
シ行とは見られないのであって、同じゃうにシ仙人、シの如き、よほど
碑仙の思想の加はつた行方であつたことを示してみる。
しかし備教も全く異つた思想に根擁してゞはあるが、またこれらの山林を中心とする宗教的生活を奪重した。すな
はち専ら輝定の方便としての原始備教に於ける頭陀は、インドや支那に於ける長い歴史を経て種々な動機から山林科
搬の行風となり、浮行の比丘はこれによつて出家寧道の理想を徹底せんとした。それで我國でも備教の信仰が潮次人
心に浸潤するに従って備道修行を撃生の業とする僧尼の数も増し、山野に隠通して奥問碑定を成ぜんとする者が潮く
多くなったのであつて、僧尼令に山居の僧尼の所属を規定し、これに封する支給保護の法を定めてみるのを見ても、比
時代にすでに山林の修行に専念する僧尼の少くなかつたことが窺はれる。奈良時代には行基、良舞などの知識も山居修
行をしたと博へられておるし、これらの修行者の多数の中には害毒を流すものすらあったと見えて、養老の時にはこ
れらを取締るべき論告が発せられてみる。平安時代に入ると名僧の山中に修行するものが盆々多く、それはまた備道
修行の最も重要な道程と認められたのであって、これがため博教大師は十有二年住山の厳戒を定め、弘法大師は高野
山側の表に住山修行の法徳と必要を力説してみる。ことに密教では建 作法のため浮地聖場を採ぶ必要のあること
がすでに経軌に覆定されてみて、感應得験のためには難行苦練を経べきものと認められたから、山林の練行は頭陀科
機の特殊的方法として重んぜられ、奈良朝の初から断片的にでもこの経州が流博するに従って、これを目的とする山居
修行が大に行はれたらしく、比時代の住山行者の多くは持明元修練を理想としたかのやうに博へられてみる。そして比
叡と高野とで相次で密教が宣揚されてからは、その門流を汲む高僧等は教規に従って籠山修行に精進すると共に又
<
一一
一二
競って深山幽峯を踏開し、いはゆる七高山を初め國中の名山は大抵その行場として備寺の創設を見るやうになった。
金峯山を役小角の博説
かくて諸山の行場が開けて、夫々霊地としての名を高め、いくらか異系の信仰や行法を交へっ、或は撃問碑定の
*に、或は特に修法得験のために修行する人々が集まるにつれて、その縁起を碑秘化したり、その開創を古の高僧
に するゃうになるのは、宗教的信仰の中心としては常然の傾向であった。そして平安朝の初には比叡、高野の外に
シ、シ、比良、神峯、笠置、長谷、金峯、葛城の諸山、遠くは伊吹、自山、筑波、伊豆、大山などが強
山として聞えたのであったが、中でも苦修練行の聖地としてっとにこの種の行者の奪崇する所となり、その開創者と
へられた役小角に封する信仰を伴って、っいに修験の根本道場となったのが吉野金峯山である。それも後に修験者
シっ*、シなどの方はゃおくれて聞かれたものらしいが 吉#山とい 金山といはれる地は よ
。古くから の祭祀があったらしい。すなはち碑名帳にのせられた吉野水分神赴、吉野山に碑赴及び金峯神赴は、
シの った 説を度外祀しても、前二者は所雨碑祭八十五座の中に列せられてみる水源風雨の碑であり、金峯は山
シであって、その祭祀の起源は他の類似の例と共に恐らく歴史以前の時代に遡るものであらう。それ故この山が宗
的なシの場所であったことは歴史を超越してみるといってい〜のであるが、こ\に備寺の営まれたのも何時のこ
とか明かでない。金山寺の寺博などにはこれを孝安天皇の時代とか宣化天皇の朝とかいふが、もちろん根操あるも
。(、 にこれをシに するのも、た。信仰上の備設にすぎない。しかし正史に古人大兄皇子や大海皇子が
吉野に入って備道修行に従ふといふのがこの山のことだとすれば、ともかくこ\に備寺の営まれたのはその以前のこ
とに属するかも知れない。とにかく奈良時代になると比山に来て備教を修行したと博へられる高僧は甚だ多く、すで
に練行の第一の霊場と見なされてみたので、同時に役小角の信仰もこれと%接に結びつけられてみた。
役小角に闘して博へられる事填は、その大部分が宗教的信仰の所産であつて、その中にどれだけの史質が含まれて
みるかはこの種の値説に於て常に経験されるやうに、ほとんど判別のしやうがない。しかしその苦行修練の行者とし
て聞えた歴史的の人物であったゞけは後の博説を通してゞも微かに想像し得られるのであって、これについて最も普
通に博へられる略歴は次のやうなものである。すなはち鮮明天皇の六年大和芽原に生れ、幼時から寧を好んで備教に
志し、十六歳から生駒山に入って修行し、三十二歳で葛城山に籠り、三十年除り孔雀王碑品元を持して苦行修練する。
それから山を出て近畿の諸山を戯渉し、金峯山を始め高野、紳峯、箕面、牛瀧等の山々を開いたが、その門下であっ
た韓國連魔足に議訴されて文武天皇の三年五月伊豆大島に流され、大質元年に赦されてから富士山をはじめ相模、常
陸の諸山を経めぐつて大和に騎り、中國の山々を歩いてついに彦山に入つたといふのである。績日本紀にはたゞ 『小
住手 本山シ、従五位下シ、シ、シ
汲水採葬新、若不用命、即以呪縛之』、といつてみるだけではあるが、すでにこの中にもその呪力が早くから世上に喧僅さ
れて、この種の行者を奪信する常時の信仰の標的
的であったことを示してみる。それで霊異記にはすでに小角が虚空を
飛翔し、鬼紳を駆使して、葛城山の一言主紳を呪縛したといひ、また朝鮮に渡って道昭の法華の講葬に侍するといふ
話を博へてみるのであって、小角が箕面山 で 瀧の 下 で龍樹大士に面調し、秘密心印を直博するなどいふのは、平安朝
一三
一四
の中頃以後に小角を祀師とする行者の門流がや、形をなしてからの信仰らしく、元亭響書に初てこれを戦せてみるこ
小角が近畿の地はいふまでもなく、遠く東北から西海まで全國の山々を踏開修行したといふ博説は、もちろんその信
仰が盛になってから後に附曾したものが多いのであらうが、葛城山などで持呪苦行したといふことは、常時の信仰風習
から考 てあり得べきことでもあり、シされてシに慮せられたのがシなら、法 を ってその門に集る行シ
も少くなかったであらうと思はれる。そしてその金峯山修行のことも、霊異記には 『大倭國金峯興葛木率、度一椅面
通」と云って、その頃すでに一般に信ぜられたやうであるから、全く事質でないとも考へられず、とにかく小角の常
時またはそれからあまり年を距てないで、人々がこれを苦修得験の行者として奪崇し、主として葛城山と金峯山を修
行したと信じてみたことは事質である。けだし宗教史的には小角の金峯山踏開が史的事質であるかどうかよりも、こ
れがどこまで事質として信ぜられたかゞ重要な問題であって、この信仰は平安朝の初になるとよほどひろく僅播して
みたらしい。それで史的には小角と前後して金峯山に修行した僧俗も決して少くはないが、この信仰がひろまつてか
らは特に金峯山が霊地として苦修練行の好道場となり、籠山修行を盛んにしたと同時に、またこの人々の間には小角
登頭の博説が多くの想像を加へて発展せしめられ、これを紳鍵不思議の権者として博へるやうにもなったのである。
同様に小角が特に備道修行に志し孔雀王碑呪を持して修練したといふことも、史的には十分の根擁が見出されず、或
は常時の民間の呪術信仰にもとづき、また碑仙の方を行ったのでないかとも思はれるが、一方でそこに備教的観念が
加はり、特に審呪の修法を行ったといふことも、常時の赴曾の宗教的状態からはむしろ常然のことであって、これま
た周園の人々の信仰では早くから確かな事質となってはたらいてみたのである。
聖賞奪師を大峯の修行
かくして備道修行が主なものではあったが、そのほか種々の信仰をも交へて、深山高峯に分け入つて宗教的な生活
をする人々は、奈良朝から平安朝の初にかけて非常に多く、そんなところには盆々備堂寺観が営まれるやうにもなつ
た。そしてその中でも金峯山は比較的に都に近い名山としてことに聞え、奈良時代にも廣達、護命などの名僧がこ、
で修行したといはれ、すでに役小角の因縁も博へられて、その他の道俗でこの山に入るものが多く、金峯山寺の行事
と相まって比種の修行の一中心となりかけてみる。金峯山寺の起源は寺博などでは確かでなく、熊野権現金剛蔵王賓
殿造功日記といふのに、天平六年山上蔵王堂の炎上を録してみるのも、史的にどれだけの根擁があるのか疑はしいが、
とにかく奈良時代には堂宇も備はり、その住侶行人も少くなかったらしい。それで平安時代になるとこの寺で勅命に
よる所轄納経の儀が展々あったやうに博へられ、弘法大師をはじめ智誇大師、相應和尚など諸宗の先徳も比山で修行
した人が少くなかったらしい。そして金峯山寺に常住する僧侶やこ、へ参詣所轄する人々の外にも、小角の因縁を慕っ
て自由に山内に修行する行人もあって金峯山の一帯が霊験の多い行場として赴曾から認められて来た。それ故令義解
には山居の僧尼といふのを詳響して例へば『在金嶺者』といってみるので之が常代のいはゆる名山の中でも第一 の霊場
として知られたこと、従って又この山で種々の動機から来た籠山修行が最も盛んであった事も大よそ窺はれる。
こんなにして金峯山を中心として修行する人々は盆々多くなつたけれども、その間にはもちろん信仰や儀濃の一定
したものはなかったので、各宗の人々が各々特殊の動機から山に入って断食汲水の苦行をし、謡経持呪を本として観
一五
一六
法を み外に 備教的ではないゃうな行法も交ってみたであらう。そしてこれらの人々には小角の他誌がその範となっ
***ったにも ないが、これがまた シによったものではないのであるから、シ
に属するもの〜外は、ほとんど信仰上の統一はなかったといってよい。しかるに貞観延喜の頃になって隠闘寺の聖資
僧正が長くこの山で修行し、金峯山の奥大峯山上線を開くと同時に吉野の現光寺や鳥栖の眞言院などで賞言宗の行法
を起してから、この門流による山上修行が盛んになり、信仰と儀濃の上にいくらか宗派的な統制が現はれて来た。
聖資は東寺の眞雅僧正にっいて東密を博へ、また東大寺で法相や華厳を學修した人であるが、貞観の末醍醐の山中
に修行して配酬寺を開創する前に、久しく回率修行に身を委ねてみたので、この間に金峯山に登って専ら東密の法を修
練したらしく、大峯山上線の奥まで入って行者堂を草創し、吉野川の渡しをもうけて山上への道を経営したと博へられ
てみる。寛平年中に現光寺の座主に補せられてから、また山に入ってその経営に霊したので、昌泰二年に匿言院で博
法灌頂を行って、数百人の僧俗に結縁授灌し、峰授灌頂のはじめをなしたといふ博説の内容は疑はしいものであるけ
れども、その山上の修行が多くの末徒に範をたれ、またいくらかこれを奨働もしたので、この山に東密ことに小野流
の法にもとづく修行が起ったことは認められる。またその弟子の中で後に醒醐寺座主となった貞崇は、『去昌泰二年謝
シ、シ、シ山之 、シ、三十シ出山之 と はれるくらいでながくシを生
持してみた。それで昌泰三年はじめて金峯山検校に任ぜられた助憲あるひは助賢が、聖資の門下であったといふこと
は少しく無理で、また聖資が金峯山寺に金剛蔵王、多門天王、如意輪観音などの像を造立したといふ博中の記事も、よ
ほど事質とは遠かってみるゃうに思はれるが、しかし聖賞の修行経営も終始全く金峯山寺と無闘係ではなかったであ
らうし、こ に集る人々の中にも、これを二代の大徳として仰ぐものが少くはなかったらうと想像される。それに
費自身も小角の行跡を慕って、東密系の行法によりながら小角にならふつもりもあったのであらうから、この獣では
金峯山寺に属する行人やその他の修行者と相通するものがあった。そして修行の性質の上からも特に派別の意識の強
くなかった常時では、互に助けあふやうな結果となり、聖資の山上修行に封する努力が大きかったゞけ、その直接の
門下でない多くの行者までが、これに騎依して、ついにはこれを小角につぐ中興開基と仰ぐやうにもなり、これまで
の雑然たる行法の中にも、いくらかその信仰のまとまった眞言の教系と行儀を追ふものが一つの流を形造つて来たら
しい。それ故聖賓については大峯金峯山と結びつけて教祀としての人物にありがちな奇填的博説が多く博へられてお
る。それは聖質が宇多天皇の勅命によって金峯山の路を塞いでみた大蛇を層つたとか、東大寺に居る時にその僧房に
潜んでみた鬼碑を降伏したとか、またその僧房の前庭にある大石は聖費が大峯から提げて来たといふのであつて、こ
れらは元享響書、東大寺要録、醍醐寺縁起などにも録されて、すでに早くから博へられてみたらしく、山上修行者の
少くともある部分には、聖賞が大なる権威として認められてみたことを間接に謎擁立て\みる。
もちろん常時この山に集る多数の行者は、依然として各自の意薬に鷹じて種々雑多の信仰と行法をもち、何等の拘
東を受けなかったであらうし、金峯山寺としては早くから天台を宗としてみたので、その所属の行人たちは法華もし
くは台密の系統を奉じて修行してみた。そして聖資の一門に封抗したのではなからうが、少くともこれとは濁立に殆
んど時を同ふして入峰修行の発展が企てられてみる。すなはち昌泰三年に金峯山へ宇多法皇の御幸があり、この時金
峯山検校の職が置かれて金峯山寺を督するとともに、山中の修行を管領することになり、その後歴代の朝廷の奪信を
1七
一八
うけて、勅願の修法や経文舎利の寄納があり年度者まで賜ったといふので、寺運大に興隆の勢を示してみる。この金
客山検校は後には大峯検校と混同されて、初代の検校助憲も聖資の門下だといはれるのであるが、大峯検校は聖資の
門流が後に熊野三山検校に封抗して稲へ出したものらしく、金峯山検校はこれとはちがつて金峯山寺のものであり、
眞言の系統とは別に山内及びその修行を管理するものであった。従って聖費の感化は全鶴の修行者の間によほどひろ
く及んだではあらうが、こ\にまたその宗系をことにした統制的勢力も現はれんとしてみるのであって、これが後世
の修験雨宗の起る根源でもある。
しかしその頃の修行者の多くにはなほこんな門流の考がはっきりしてみなかったことは云ふまでもない のであっ
て、聖賞その他によって山上の奥が開かれ、金峯山寺の経営も盆々盛んになるにつれて、入率修行する僧俗も念ふ多
くなった。それでこの時代には多くの高僧がこ で修行をしたとか、また苦行によってシをあらはしたとか へら
れて、山そのもの、功徳が盛んな信仰の封象ともなって来てみる。延喜の頃には日蔵がこ\で二十六年の間苦行をつ
ゞけたといひ、昌泰の頃には陽勝が仙人となって昇天したといひ、その他法華を持して熊野大峯を経行したといふ長
圓、敷十年も鯨狼に籠ったといふ良算、金峯山の魔窟で断穀苦行したといふ日圓の話など、往生博や霊験物語の内容
を充してみる。沙門義叡が熊野から大峯に入り、金峯山にゆく途中で路を迷ひ、山中の浮地に一僧房を発見して、法
華を譲謡する聖人と問答するといふ法華験記の一節などは、全くこれを天上浄土の光景のやうに記述してみて、この
山を現質に鋼の浄土とする観念がやがて出来上らうとしてみる。そして山上の碑仙賞に闘する信仰僅設が盤に発
生すると同時に、役小角に封する行者の信仰も そう高まって、その鬼神の駆使 蔵王権現の勧請といふ備設など、
すでに歴史的な事填として考へられるやうになったのであるから、もし聖資によつて山上の行者堂が起されたのが事
質なら、恐らくそれは全く紳化された祀師として、多くの行者の信仰の中心でもあつたであらう。同様に聖費の事填
もこれについで後の修行者たちの信仰の的となったことは、前にも説いたやうな事情でそんなに年時を要しなかつた
こと〜思はれる。
第三章 順 濃 さ 山 駄
順濃の風習 を 科激
こんなにして金峯大峯の修行がや\備教的な行法に統制されやうとし、それはまた諸國の山々の修行の形式の典型
ともなつたのであるが、これらは一方では古来の碑赴の奉幣や順拝の風習とも結びついて来る。元来原始的な自然崇
拝の宗教では山川等の崇拝の封象の所在について祭祀を行はねばならず、これがために遠路をたどって途上の困難を
冒すのが、特に宗教的効果を著しくする所以だと考へられてみる。しかも我國では國家的統一ができてからでも地方
的な山川の碑々の信仰が可なり多く維持されてみたから、公の奉幣の使はいふまでもなく、私の所請のためにも遠國の
赴に詣でる事に重大な宗教的意義を認め、その途々に諸赴を順濃する風は古くから盛んであった。それが上流の階級で
は時として山水の行業とも結合されて宗教と遊楽とが相まって王朝時代には盛んな民族的風習の一っを成してみる。
ところがこの時代には事質上碑備の合鶴ができ上ってみて、國碑には赴僧供僧が奉仕し、備寺にも地主や守護の碑
が祀られ、碑前で経典を 讃み護摩を修することが普通な祭儀となってみたのであるから、この諸赴の奉幣順拝もその
一九
二○
。教的なものとなって来て、順鶴といっても園碑ばかりではなく、途中の碑備には縁のあるにまかせて
シー、シに参籠しても質は本地の備蓄薩に所念するやうなことが多くなってみる。それには神社と偽 の道場と
。のシ。あったので、備徒が好んで修行し備堂が営まれるやうな山獄森林は、大てい大古以来の神明の祭場で
*っ し、シのあるゃうなところには、怒ち僧徒が集ってそこに定住したのであるから、シの像機が備
。なり、 明に奉仕することがそのま、備道修行の一端とも考へられて、こ\に碑々の順鶴が仇数の科魔修行
。ー「*ってみる。 教のシの外に、シして名食 行の生
『をするのが本来の最*量純な意義でもあったから、山川に放浪しっ、備難赴に参詣することは持 の本意にも契
ひ、山シ行の道すがら赴寺に奉幣所願することは最も適切な修行の道程でもあって、かくて碑備の分ちなく園々の
シすることがシまたは巡鶴といふ風習となったのである。それで清和天皇は難位のち近説の名
シーて を行せられたといひ、宇多法皇も晩年ことに科賞を好んで、比叡、高野、金峯、熊野の諸山に魔々
参詣されたと停へてみるが、法華験記に明蓮法師の巡濃のことを記して、
シ、百日所念、更無共感、長谷寺、金峯山、各期一夏、更不得應、詣熊野山、百日動修、夢想示云、我於比
『、カシ、可申住吉明神、沙門依夢告、参住吉赴、百日新時、明碑告言、我恋不知、可申伯者大山、沙門参詣
伯警大山、一夏精進、
といふのは、よくその巡歴のやうすをあらはしてみる。
それ*またこんな㎞ゃ科意の霊場ゃ道筋も、この頃から潮攻に先例習慣によって一定したるものができたらし

く、京都の百塔巡濃、南都の七箇寺巡鶴、叡山の三塔巡濃などの名は早くから知られてみて、ゃ、後れて千箇寺巡濃
観音巡濃などの形も大方できたやうである。かの三十三所の観音巡濃の如きも花山法皇にはじまると博へてみるが、
それはとにかく王朝の末にはほゞその数や位置がきまってみたらしい。そしてこれらがまた事質上には碑備を合せて
の順拝でもあり科横でもあって、王朝の中頃には上下の道俗によって盛んに行ぜられたのであった。
しかしこんな順濃科獣といふ中にも、一部にはたゞの霊場巡歴といふよりも山林に入って秘密観法を修し、苦行の
功をっんで碑力験徳を練ることを目的とするものも少くなかったので、かの小角ゃ聖資 後、幕ふ人々は、同じ
とはいつても主としてこんな動機から、多く深山幽谷をえらんで籠山回率の行に従ふのであった。花山法皇の御科掘
について元享響書に、
王畿霊闘多所遊歴、又入紀州那智山不出三歳、共動苦精修苦行之者皆取法
と記してみるのも、それがたゞの通世遊行でないことを示してみるが、その他相應和尚が比叡、葛川、大峯などで回
峯修行をしたのでも、浮蔵が稲荷、葛城、横川、自山等に行を練ったのでも、この頃に博へられる名僧の将操修行は、
特に密教的な意義をもつた苦行修練となってみる。それでまた
、沙門法空、下野國人、: 巡濃二荒慈光寺東國諸山、即於共間、尋得人跡不通古仙霊洞、見共仙洞、以五色苦暮共
洞上、以五色 台貸扉、貸隔、貸板敷、貸駄具、乃至敷前庭、聖人得比仙洞、心生数喜、永離人間、籠居仙洞、以青
苦綴架炎愛、以貸所服、山島熊鹿、継来貸件、妙法薫修、自然顕現、十羅利女現形、供給走使、有一比丘、名目良
賢、以一陀羅尼宗、共心勇猛、巡遊一切霊験、無定住所、施外迷山路、至比仙洞、即見聖人、生奇特希有念、頃日寄住、
二一
といふ法華験記の記述に類する物語はこの頃にことに多いので、在俗の人々の巡濃にも所願参拝の外に、この種の碑

仙信仰や呪験を得んとする目的に出るものが多くなつて来た。
*ちろんこれらは厳密には単純な順濃科撤とは匿別すべきものであったが、いはゆる名神霊場が高山に多かったと
ころから、雨者の行法が事質上互に連結されても来、一般には同一祀されたと同時に、たゞの廻國順濃や将撤修行に
ふ人 を、次第にこの特 なそして深刻な行法にまで引き入れ、碑備の園にも 深山のシをえらばせるゃう
になった。この意味で入撃修行には金峯大峰のそれが第一の範となったのであるが、一方では熊野の参詣が潮次この
『機を伴ふゃうになって、ゃがて前者と結びっくのであって、こ\に古来の諸碑順拝の風習が備教化しまた密教的と
なると同時に、そこに常然備教以外の信仰行儀を交へて来る最大の事例を示してみるのである。
山 駄 行 者
かくしてひろい意味での邦機といふうちにも、種々の目的と行法が含まれてみたが、王朝の中頃にはこんな修行に
従事する 俗を一般に山駄野駄と呼んだ。山ぶしといふ言葉は落窪物語、宇津保物語、拾遺集などにも出てよほど前
から一般的に用ひられたらしく、野駄といふ名も備名倉の野駄といふのが、承和五年の内裏備名倉の時に芝上に駄し
た作を請じたのがはじめであると云ひ博へて、ともに山野に修行する僧をさして云った。しかしこれら山駄の行者は

のシの加 ゃ物 のはらひなどをしたのである。それ故山駄や験者は僧形のものでも自ら他の出家法師とはちがっ
た一階級をなして、世間からもいくらか匿別されてみた。もっとも在家の行者は多くは優要塞と呼ばれたので、我園
では制度の厳重であった時代に、備道修行を志しても得度の機曾が興へられないで、寺院に寄食したり私寺や道場に
住つて沙弾優婆塞と稲へたものが多かったが、偶々役小角もその類の一人であり、 ことに密教では本来比丘形よりも
牛俗の形を容認してみるところから、これらの行者は特に小角の流を汲むものとして山野の苦行に従つたから、この
時代にはすでにそれが在家の山駄行者をさす特殊的なものとなってみる。しかもこれら在俗の行者は出家のそれと同
様に修行もし所轄の招請にも應じ、時としては自ら法師と稲して出家の行装をすら取るものもあつたから、一般には
事質上出家の行者と匿別がなく、ひとしく山駄の階級と見なされた。
また赴寺の参詣順濃には精進潔斎が主要な儀濃であったところから、一般に順濃科撤を修するものがこの頃は精進
者とも呼ばれた。これは主として碑明への奉仕参拝に機をさけ不浄を断つ民族的風習から来たこと初論であるが、こ
の頃はすでに碑備の分界がなくなってみたから、碑祇に封する禁忌鍋機の抗と、董肉を断つて斎戒謡経などする備教
的の作法とが混清して一つの精進となってみた。近くは長谷(初瀬)の精進、遠くは熊野の精進などが多く物語にあら
はれてみるが、金峰山参詣のみたけさうじ(御獄精進)は最も難行であったらしく、この常時にひろく聞え、その行法
は諸赴禁忌に出てみるのを見ても、他の碑々に於けると同様に鍋機浮斎が主となってみる。そしてこの御嶽精進はも
と金峰山の参詣に必要な準備の浮行そのものを指し、所願あって入峰を志すものは誰でも行はねばならなかったので
あるが、やがてその精進者の中でも一生を金峰山その他の回峰行に捧げる人々を意味するやうになってみる。源氏夕
顔のみたけさうじはこんな意味での金峰山行者のやうすを描いたもので、同時にまた優婆塞とも呼ばれ、主には在俗
二三
二四
の行者が考へられてみたやうである。
それで種々の意味に於ける将撤行者は最も一般的には山駄といはれたので、その中には在俗の優婆塞や
精進者とい
はれるものが含まれ、それは殆んど出家の僧と匠別がないほど永績的な修業者でもあり職業的
な験者でもあるのが多
かつた。そしてこれら在家の山駄行者がその生活や威儀の上に出家のそれをまねると
同時に、他方では出家の山駄が
また僧侶のうちでも特殊な階級として、雇々俗に近い行装をするやうになり、同じ山駄でも身分の上の僧俗の匿
別は
ありながら、外形の上では雨者が潮次接近して、赴曾的に見てそれらが一 つの階級と認められる素地を作った
のであ
る。もっとも山駄の僧が特に俗にまぎらはしき威儀を取り、それが教義上にまで主張せられるゃうになったのは、こ
れよりも大ぶん後の時代に属するのであるが、山駄行者の間に僧俗の混融がはじまったのはよほど
古くからであって、
この人々の間に小角の信仰が力強くなるにつれて、いはゆる高祀役優婆塞の観念がその典型として
はたらいて来たの
である。
ことに山駄の僧の威儀よりもその生活は早くから俗に同じたものが少くなかったらしく、蓄養
妻子の風は種々の原
因からこれらの僧侶の間に多くなって赴曾からもむしろ是認せられてみたのである。私度の僧が妻子をたくはへ世業
を営んだことはもちろん、名僧たちが密に妻委を持つた例も上代からすでに稀れではなかったが、王朝時代に
なると
貴人のいはゆる出家をするものも多く、これらは魔々婦女給仕を具して元のやうな貴族生活をっゞけた上に、下層の
人々の入道に至っては、生計のための頭陀乞食の外は妻子と同棲してみるのをとがめるものもなかった有さまである
から、これらの階級から多く出た山駄の僧などが妻帯して家をも持つことは恐らく問題にはならなかったであらう。
それに碑赴に奉仕する赴僧などは、もと碑人の類が時勢に應じて騎備したのが多く、その職務も神事ゃ赴領に闘する
ものが主であったから、昔ながらに妻帯世襲の生活が許され、それでみて有力な碑赴の別常などは俗網などの瀬要な
位も興へられた。そして山駄の行場とする山々にはこんな碑赴があって、赴僧ゃ碑人が住んで居り、それらがまた山
の修行に加はって先達となることもあったであらうから、彼比相まって山駄の僧の妻帯ゃ俗生活が多くなったものと
考へられる。
一般に山駄が妻帯の起源については、後世の修験道の博承はこれを浮蔵の事填に騎してみる。浮蔵は三善清行の八
男として最初数山で登壇受戒し、玄昭について密教を撃んで、稲荷山、金峰山、熊野などで修練し、十九歳から三年
間横川答谷に籠って法華経を謡持し、延喜の末からまた金峯山、葛城山の行を経て那智山で三年の苦行を果したとい
ふ。京都に騎ってからはその験徳が大にあらはれてっねに貴顕の招請をうけ、定額僧に列せられたが、天慶三年将門
の呪伏に成効し、また自山に修行してから晩年は八坂寺に住して盆々霊異をあらはしたといふのが、諸博の略々 一致
するところである。そして浮蔵の一生の修練法験が一世の奪信するところであり、常代の修験者の典型であったの
に、二人の男子があって一人はまた修験の行に身を投じたといふことは本博に見えてみて、これを羅付三蔵の妻帯に
比してみる。それが後には満慶還俗の物語をとり入れて、出雲の大碑の夢告によって宮女を賜り、生むところの二
布施と伊能とを金峯山寺と雲居寺とに住せしめて大に優薬塞修験道を起させたとか、又圓鶴天皇の朝に浮蔵の例にな
らつて、勅命によって修験行者に妻帯せしめたといふ博説となってみる。これらが単なる起源博説の外何ものでもない
ことは初論であるが浮蔵の妻帯だけは事質らしく、それは又常時の修験者の間に於ける多くの生活様式を示すもので
二五
二六
あって、その山駄の僧としての撃名の高かったゞけ、やがて後の行者達に封する模範的効果も弾かつたのであらう。
かくして山駄は出家の行者でも、その生活が潮次俗に近いものが多くなつたとすれば、その威儀衣鶴の俗化も必すし
も僧俗の行者の混居からばかり来たのではない。これには役優婆塞のそれが特に模範的効果を興へたのであるが、一
方ではまた 教のシを本位とする儀律が 少くとも山風行者のシを許容する根地となったことは髪はれない。
それに衣鶴の法は修行には正規の法服浄衣を必要としたにちがひないが、それも高峯に登り深山を踏開する必要から、
他の法師とはちがった特異の形装があらはれて来るのは自然の勢である。慈恵大師博貞元二年の條に、
井之眉有吹法螺疾呼者、童子六七人出面祀之、頭載社鉄、手縮百八摩尼珠、報言、吾乃役小角之徒駄行者也、久聴
師名、偶出羽丘之霞、遥入叡峯之雲、云々
とあるのは小角を祀と仰く羽黒山の山駄行者のことであるが、すでに比の時山駄といはれる一流がや、形をなして、
流れを汲むもので3る以上、特に金峯大峯の修行がその根本と認められたことはいふまでもない。
行峯の諸動機を斬藤
かういった僧俗の山駄行者の根本道場が金峯大峯であったことはもちろんであるが、 これを中心にして常時の行者
たちは各地の山々にひろがってみた。近く葛城山は小角の行場として金峯山と相ならんで奪崇され、熊野には多くの
爬者と、*に籠山修行の人々が集り、自山は養老の頃の泰澄の修行に因んで行者の入山するものが多く、立山もこ
れに***った。シって、シ
多数に集り、伯音の大山も遠くから入率する行者が少くなく、羽黒山は月山、湯殿山につゞく三山の順濃から、山駄
シの 中心として くから有力なものであった。この外山 が多くシする行場としては山城では愛宕山、シ山
鷲峯山、笠置山などがあり、播津の箕面山、美濃の伊吹山、信濃の戸隠山、伊豆の走湯山、上野の二荒山などが主な
*のであったが、その他の山々でもこの種の修行が到るところに行はれた。そしてはじめは軍なる参㎞であった
ものが定住の行者となったり、一時その寺に寄住してみたものが恒例の行場を開いたり、あるひは紳赴に付属した行
人が僧房を構へるものもあって、主客様々の闘係に於て山駄の勢力はほとんど全國の山々にひろがつて来た。
かくてこれらの行者の中でた、一時の所園をもっての赴寺参拝や、単純に現常の顧徳を目的として順㎞をする
ものは別として、特に小角聖資の行法を範として、密教的な修験練行に志すものや、少くとも回率持経の功を積まん
とする僧俗の間には、すでにその信仰と行儀の上にある程度の共通獣があり、山駄としての特別な威儀風俗まであら
はれてみたが、しかもその信仰の具鶴的な内容や、究章の理想に至っては、この時代にはまだ人々各々であって、後
世に修験道として説かれたゃうな統一あるものは見出されず、僧俗各々その所願にしたがって類似の行法を取るとい
ふにすぎなかった。密教としてもその質修上の多碑的な性質は、全鶴的に一定の崇拝封象やその意義を規定せず、各
人その志願に應じて本奪を定め得たのであるし、ことに常時は事質上碑備様々の信仰形儀をそのうちに包容してみた
から、そうでなくても種々の階級系統の集りである山風行者 の間には、いまだ信仰の内容にまで入っての一致が見ら
れなかったのはむしろ常然のことである。それで同じく入峯苦行するといっても、現世の顧築をもとめて精進するも
二七
二八
のもあれば、後生の修善のために苦難を忍ぶものもあり、眞に呪験番地の成満に志すものもあれば、瀬勤観音を念じ
て事ら都率極楽を願ふものもあった。ことに常時の俗間信仰としては法華経の功徳を信じてこれを持謡書寝し、来世
のためには弾陀観音をたのみ、また密部の闘係からは弾勤を常来の導師として念することが、特に御嶽精進の特徴で
あった。この外ィンドの諸天も日本の紳祇も習合思想を背景にして、時に應じて自由に所願供養せられ、その儀濃行
法にっいてもほとんど任意に碑備の作法を用ひ、全鶴を拘束するやうな何らの権威もなかったのである。
しかし山駅行者のこんな信仰状態のうちに於てた“ っその共通的な根地となったものは 山 の魔力または功徳

は山が清浄空閑な紳定修法の好道場であるといふ外に、なほ種々の碑秘的な意義をもたらしてみる。すなはちまづ常
在難鷲山の信仰から清自の山上に備陀説法の道場を聯想することから、またこ\に浮土備國の相を観し、崇高な出の
姿に金色の備身を見ると同時に、艇々たる峯綱を金胎の愛茶羅や蓮花開敷の表徴と考へ、さらに一方では山頂魔窟を
冥衆碑仙の所居として碑鍵盤異の多いところだといひ、あるひは深山幽谷には鬼神龍魔が群がって人を障魔するなど
と僅へたのである。もっとも山線に於けるシの観念は北園の民族信仰にも著しくあらはれてみたのであるが、
これが備教化されると餓鬼や龍魔となり、特に火山温泉の地などは三途地獄の現質境と見なされ、同時に深山では紳仙
童子の給仕をうけ、諸天善紳の擁護にあづかり得るといふ紳秘観念も加はつてみる。こんな山獄信仰は常時の特に備
教的な博説 記録に際限なくあらはれてみて、いやしくも霊山と呼ばれたものについては、かならす浮土、地獄、蓮豪、
シ夫、シ天、シ、シ子、シの存在が物語られてみる。それ故こんな仰の中心であった金山、大
*について、ことに比種の物語の多いのは常盤のことであって、小角の事賞なるものも年を経るともにこんな信仰
の焦酷となって出来上つたものであるが、さらに共地は満山黄金で敷いてあつて、弾勤の出世を待つため金剛蔵王が
これを守つてみるとか、山頂には七賓高座をそなへた一金山があって、それが蔵王菩薩所居の浮土であるとかといふ
博説が盆々務育して、これを超凡の浮境、現質の備土だとする思想が著しく発展して来てみる。こんな信仰はもちろ
ん山そのもの〜崇厳な風光が直接に興へるところの感情にもとづくのではあるが、また山に闘する備教の博統的な観
念がその内容と成つてみるので、固有の民族的な山獄信仰よりは、その観念も複雑になり、その宗教的感情もよほど
深刻なものとなってみる。従つて山中の修行といっても、山駄行者のそれは軍に山紳を有め山霊に所るといふ簡単なも
のではなくて、清逸な山気を吸ふて六根清浄になり、備天の護持の下に山中の魔障を降伏し、呪験の徳を練磨すると
同時に現質に備地に近づかうと努力したのであつて、之が凡ての山駄の信仰の中で、根本的に一致した獣であった。
それに山駄の修行は本来自行自受が で、自分の得脱番地を根本動機としたのではあったが、入軍の行をっんで法
験を練り、またその験徳のすぐれたことが認められて来ると、人々がその法盆に興ることを願ふので、宗教的には必
然なっのはたらきとしてシの門をひらいてシにもたづさはることになり、これがまた山風としては特に
重要な生活の一面を形造つた。古来我國の備教には講経修學の個人的修養や起塔造像の公の儀濃が盛んであったと同
時に、シ加時の 法が園民の質際生活に最も密接な闘係をもってみたのであるが、これは一切の吉凶㎞を物怪魔
崇に騎する民族的思想と闘係して来て、密教の信仰行法が上下に流布してからは、修法加持は備教の質際的なはたら
きのうちでの中心的なものとなり、公私の災厄から病悩その他の日常生活にもなくてならないものとなってみる。そ
二九
三○
してこれには赴曾的宗教的弊害も少くなかったと見えて、王朝の始には私に壇法を修することを禁じたり、癒病の加
持に制限を加へられたりしたが、それでも俗間では沙弾優婆塞の類が地方を経廻してこんな要求に應じたし、また太
古以来民族的呪法巫術を行ふ民間の巫者や男女が備教的になって、俗山駄の群に加はって来たのも多かったと想像さ
れるのであって、これが大に山駄の勢力を加へる重要な原因であった。それ故僧俗の山駄は修行者としての外に、験
者として霊崇の所懐や病厄 加持に興るものとなってみて、公の修法に於ける眞言師とは匿別されたが、験者として
は籠山苦行の功をっんだ山駄が最も重んぜられ、ことに民間の所轄者は主に山駄の階級であって、都では特に金峯山
ゃ熊野の行者が重きをなしてみた。こ\にまた山駄行者全鶴を通じての一つの生活形式とその信仰の共通酷をみとめ
ることができるが、 しかもその上下種々の信仰状態に應じて、各人雑多の宗教的要求を充たして行ったのは、その信
仰の内容が細かい獣まで統一強制されてみなかったからであって、同じ山駄でも一部には素朴な民間信仰を自由に取
入れて行く除地があり、数の上ではこんな方面に著しく発展して、種々の階級を網羅し得たところに、山駄なるもの
〜信仰的及び階級的特徴が早くもあらはれてみたのである。
第四章 熊野山駄さ派別
熊野 の 精進
山駄行者の修行はかくして王朝時代の中頃には金峯山大峯を中心として多少赴曾的な統一をなしたのであったが、
この頃からまた我國最古の難場としてこれについで行者の信仰を集めたのは南山熊野であって、権現の参籠や山中の
修行が藩く盤んになって来る。熊野は本宮と新宮とこれに那智碑赴を加へてこの頃三山または三所権現といはれた
が、本宮新宮は式神名に出てみる出雲意宇郡熊野座神祇速玉碑赴と同じであって、書紀神武紀にもあるゃうにその地
名も古く、また太古に出雲の人民がこの漫に移住した痕もあるから、その根源は民族移動の時にあると思はれる。那
智はあまり奮記にあらはれてみないので、本来郷土的な碑であったのを雨宮の勢力が楽えてからこれに結合されたも
のらしく、雨宮でも地勢上久しい間地方的な祭祀があったのみで、公の奉祀は奈良朝にはじまるといはれるが、その
後これに属する僧徒が勢力を得てから、急に上下の奪崇が加はつたのである。熊野には碑宮寺は造られなかつたが、奈
良時代の末には永興碑師が法華経を持してこの遂を修行教化したと徳へられてみるし、その碑人扱本氏が早くから備
門に騎して濃拝譲経の儀を行ったらしいので、本地垂跡の思想の影響をうけて王朝の初にはすでにこれを権現として
奪仰してみたのである。熊野別常代々記によると弘仁の頃視本氏の血統で名門の出であった快魔がはじめて別常に補
任され、爾来血統をもってその職を継承したといふ。それでこの頃からつゞいて碑階の昇叙があり、平城天皇の行幸
といふのは疑はしいが、延喜七年宇多法皇の御幸となり、花山法皇の三年の修行といふのも有名な出来事となってみ
て道俗の参詣修行が潮く盛んになり、浮蔵の那智に於ける苦行の外に、智謎大師の入山といふことも後世の信仰の源
をなしてみる。

かくて平安朝の中頃には熊野もつねに金峯山とならべて、篤信浄行の人の参詣すべき日本 零一霊験所とまでいは邪
たことは、前にも引用したやうな雨山の修行に闘する文献を封照して見れば明かであるが、その熊野詣はまたたゞの
奉幣や紳詣ばかりでなくて科撤修行を主とするやうになり、御嶽精進に封して熊野の精進と呼ばれてみる。ところが
三一
三二
熊野に於ける精進料撤は金峯山のそれに比べると著しく碑明の儀式をまじへ、一方でいくらか碑詣や奉幣の儀を加へ
てみる諸率の修行のうちでも、熊野はことに神前の儀濃を重じたやうに見える。それは金峯山寺などが本来備寺とし
て濁立してみて、金峯碑赴の付属でなかったのに封して、熊野はもとから國碑を祀る赴地であり、かの榎本氏はじめ
宇井、鈴木などの碑高と稲する一門が勢力を持ってみて、垂跡の信仰からは修法韓経をもって、祭神に奉仕し、自ら
も僧の儀を取ったけれども、なほかっ祀師僧などいって碑祇に封する奮儀をすてなかったからである。もっとも浮土
思想が盛んになってからは、こ〜でも誇誠殿の本地阿弾陀備の信仰からして参詣するものが多くなったが、しかも儀
濃の形式としては備菩薩に封するものよりは、垂跡の姿にまかせて碑明奉仕の表現を取ったので、客僧の山駄でも熊
野の修行には碑前の奉幣所請を先とし、しかも碑酒注連の儀にいたるまで、みなこれを備道修行の方法として認容し
てみたのである。
ことに清浄は古来民族的な碑祇崇敬の根本義であって、鍋機喫威の制度が微細にわたり、水火の末まで浮機を分か
ち、備教の影響があってからは董胴五辛の制から斎戒汰浴の法まで取入れて、一様にこれを精進潔斎といふ儀濃的義
務と見なしてみたから、熊野の参詣にはこの種の儀律が特に厳重であった。それは績左丞抄に撃げられた熊野精進之
條々といふのを見てもわかるが、上流の人々は熊野参詣には多く別に精進屋を作って入り、犬防を立て注連を引き、
洗髪汰浴して浮衣浮食を取り、産機死機はこれを見聞することすら忌んで、大ていは一七日の精進をしたのである。
そしてもしこれらの機にあふと、水に入っていはゆる拓離かきをして浮めたのであるが、それは備教風の表現ではあ
るけれども、その意義は神明に封する誤載の儀鶴であって、後の六根清浄載などいふものに同じく、全鶴として碑事
の精紳が強くあらはれてみる。賓前での行事に祭碑の儀があることは常然であるが、それが俗人の参詣ばかりでな
く、出家の行者でも権現に封しては必然な修行であり、しかもそれが南山のシとか三山の修験といはれるもの、内
容となってみたのである。従って熊野山駄が験者として加持をする時には、南無態野三所権現芸々と唱へて、碑紙を
**
しかしともかく熊野の経営は榎本一家の別常職がこれに常り、やがて那智山の執行も代々この血統から任命され
て、三所権現の奉仕から年中の行事、赴僧碑人の管理までがその支配に属して 備教的に三山の統一を固め、自河天
皇の時には大衆三百除人で新宮那智の碑興をかついで京都に倣訴するやうな勢力をなしてみる。そして寛治年間には
自河法皇の御幸があって、別シは法橋に叙せられ、御先達であった一乗寺の増撃をもって新に熊野三山検校に任
ぜられ、後増 誉が園城寺長吏となったので、その後三山検校はすべて三井長吏の継承するところとなり、これがまた
地位ある寺から出て宮家撮闘の名門の人々であった\めに、その地位や権力は山の座主や興顧寺別常など\封立する
くらみに、王朝の末期には熊野の勢力がにはかに興隆した。従って熊野参詣はこの頃盆々盛んになり、自河法皇は前
後七度、鳥羽院は十六度、後白河院は二十一度まで御幸になったといひ、公卿士庶の参詣や山駄行者の入山は年と、
もに増加したらしい。それで山中には精進屋や坊舎が数百といはれるまで建ちならび、本宮や新宮がまたしても炎上
するのに、怒ち新殿の造営もできて、誇誠殿の外に一萬、十萬、若王子、見宮、子守宮、碑師宮、聖宮、勧請十五所
などいふ十二所権現の資殿が営まれ、また参宮の途々にも王子を勧請して、この頃にはすでに発心門、藤代、功日、
箱持、瀧尻などのそれが出来てみたらしい。そして一山常住の行人や先達はもちろん、諸國から入案する山駄までが
三三
三四
こ\では検校別常の統轄に属して、早くから天台の系統を引いてみた熊野の行事は全く三井の流に統一されたのであ
るから、科撤入峯の修行も一方では小角に封する一般的信仰によりながら、また特に三井の開山智謎大師を修験山伏
の祀と仰いで、これを役優婆塞正嫡大峯縁起の相博者と稲するやうになった。すなはち金峯山大峯のそれに封してこ
*に山駄行者の一そう優勢な中心が新にできたわけである。
熊野から大峯への修行
南山の科撤といふうちには、こんな碑備一鶴の信仰を背景にして、多くの道俗が三所権現に参拝奉幣することをも
含んでみたが、また専ら住山苦行を目的とし、生涯を修験の行にさ\げる山駄がその本鶴であることは云ふまでもな
い。それでこの人々は参詣に常つての醸行である鋼機禁忌また韓寛濃拝などのいはゆる精進や、途上の霊場王子の順
鶴、それから碑前の奉幣斬請といふだけでは満足せず、瀧にうたれて荒行を働んだり、山中に経呪を謡持したり、あ
るひは特に信じる本奪を念じて護摩を修したり、本来の修験練行にまで進まうとした。そして新宮の碑倉修行や那智
の瀧行などが、そのうちでも博承的にや、行法の一定したものであったが、ことに本宮から大峯山へ入ることは、熊
*に する 行中の最なるものとみとめられた。金峯山から山上㎞、園山などを経て、十津川に沿うて熊野
に出る通路は古くから知られてみて、役行者をはじめ智誇大師や聖費奪師もこ\を通行したと博へられてみるので、
金峯山と熊野と雨方から往返する山駄は少くなかったらしい。沙門義容が熊野から大峯に出たといふ法華験記の記事
は前に引いたが、今昔物語には長圓が法華経を持して熊野大峯を経廻したと博へてみる。それで熊野山駄が盛んにな
ってからは、本宮から大峯金峯山に上ることが、それに附属しての最高の修行と見なされるやうになったが、ことに
行奪僧正の大峯修行があってからは、それは熊野山駄の最も重大な行法の一つとして、いくらか公に承認されるやう
になつた。
行奪は大納言源基平の男、十二の歳に園城寺の明行について出家し、十七歳から諸國を拝搬践渉して、十八年の間
三五
三六
故郷を見なかったと云はれるが、京都に騎ってからその法験の名が高く、平等院に住して圓満院の座主をもかねた。
永久四年園城寺長吏増撃が入寂したので、そのあとを襲うて長更に任ぜられ、熊野三山検校をも継ぐことになった。
その後また延暦寺の座主となり、大治元年の十一月には自河、鳥羽、後白河三院の熊野御幸に御導師をつとめ、衆僧
の上座として顕楽の位を占めると、もに、諸國の霊山を修行すること、特に大峯のそれには生涯努力したのであっ
。かの有名な『もろともにあはれと思へ』 の歌は、『大峯に思かけす標のさきたりけるを見て』 といふ題詞をもつて
みるのであって、その他にも大峯や熊野で修行中の歌が多く、それには勤苦精進のありさまの尋常でなかったことが
表はれてみる。なほ笛有屋で残少くなった糧米を疲れはてた山駄に施したとか、修行中養母である麗景殿の女御の病
のために召かへされるのを断って、一つの棋子を加持して代りに奉ったとか、あるひは風雨にさらされて生命の危険
に瀬しながら、持呪譲経をつゞけてみたなどいふ逸話も、古今著聞集などに数多く残つてみる。
それ故熊野山駄が大峯に入って修行することは、よほど以前からあつたのであるけれども、後世は魔々行奪の修行
が最初だと博へてみる。熊野那智年代記に『崇徳天皇大治元年、行奪大峯入、熊野詣是ヲ始トス』といふのもその一
っであるが、これは或は特に数人の衆を率み、道中の儀をと\のへての大峯入であつて、それが後の儀濃的な入峯の
根源であることを意味するのかも知れない。ともかく行奪の大峯修行があつてから、それは熊野山駄の正式の修行に

野別常洪増が遍照光院を営籍して、三井常喜院の心畳をこれに住せしめることを記して、『是則自比山有事子大峯修験
道之張本也』 といってみるなどは、すでに大峯の修験行が全く熊野に属するやうになったことを示してみる。それで
行奪のあとに覚宗を経て園城寺長吏と同時に三山検校となった畳讃については、『助僧正覚讃は先達の山ぶし也、那智
千日の行者大峯数度の先達也』 著聞集)といはれ、またその攻の後継者であった豊忠と房覚については、學者が金峯
山から大峯に入り、碑仙 (大峯山中の霊所) に金泥法華経を埋納して、こ\に五十日も籠ってみたのを、後者がこれ
を尋ねて熊野の方から入峯したといふ事質がある。そしてこれらはすでに単身の入山修行ではなしに、多数の山駄を
引具して、権威ある入峯の儀を行ったものではないかと想像される。
こんなにして熊野山駄が大峯修行を動むゃうになった動機は、高祀役小角の行填に闘する信仰が本であることは云
ふまでもないが、しかしまたその中興の祀といはれる智謎大師が那智山に籠って、小角のあと五代山駄の相承した秘
記を博授したといふ古い博説があって、しかもそのいはゆる秘記が大峯縁起と稲するものであったと博へられてみる
ことも、後の大峯修行には強い権威となってみる。大峯縁起の内容や、またそれが熊野に博へられた史質は明瞭でな
いが、熊野権現金剛蔵王費殿造功日記に
後冷泉院時、後朱雀院御子、延久二年八月一日謎誠殿後四面廊御聖鶴間、安置大峯縁起、:
寛治四年正月十六日壬子御精進、: 二月十日本宮付、十一日内午御奉幣、同十一日、大峰縁起開御覧、譲人
僧隆明、依不見目不譲、奉行人臣房譲之、
とあって、よほど古くから本宮に博へられてみて、大切に蔵されてみたらしい。木葉衣も金峰山雑記などを引いて大
峰線起のことを記してみる。
金峰山様記後鳥羽院元久元年ノ條下目、十二月五日、大峰縁起貸奉納可造質蔵於彼山之由依被下宣旨、同八 日造
三七
三八
初之、同甘四日造墨、同二年三月一日子刻、縁起奉納御使式部阿間梨行俊井大夫阿開梨云々、又金峰山秘密博㎞
奥書云、抑今任一博意趣、大略記之、具見貞観寺眞雅御記、則競大峰縁起、是大巻有之云々、
これが果して置雅の作であるか、またこれと熊野の所博と同じものであるか、それとも雨者はその内容を異にして、
いづれか 一方が他に倣つたものであるのか、そんな獣は今十分これを明かにする材料もないが、とにかく熊野には早
くからこれが博はって、しかもそれが智誇大師の直受相博と信じられてみたことは、その門流を形ってそこに大峰修
行を受入れる有力な根擁となったことは疑はれない。
かくして熊野常住の行人も諸峰を経廻する客僧の山駄も、熊野を本擁としては三山検校の管理の下に、三井の門流
に属する科撤修行として大峰のそれを重要祀するやうになり、修行の形式次第もおのづから一定したものが現はれ
て、それがまた大峰行者のうちに大なる勢力を占めるやうになつた。これを大峰修験の一つの発展と見るか、また熊
野科激の大峰への延長と見るか、けだし事質はそのいづれでもあらうが、とにかく王朝の末から鎌倉時代にかけて、
熊野修験にとつては熊野と大峰とが連績した行場として、一つの信仰の下に結合されたのである。
比権現と申すは俳生國の大王善財太子と相共に女の心を悪みて遥に飛来つ \比側にぞ住給ふ。斗激の行者を学み修
験の人を隣む。大峯と申すは金剛胎蔵雨部最愛茶羅の霊地なり、比山に入る人は比赴壇より出立。役優婆塞は三十三
度の修行者、龍樹 菩薩に値奉りて五智三密の法水を博へ、伊駒狼に昇つて 二人の 鬼を弱めて末代行者の使者とせ
り。弘法智謎の雨大師行者の跡を尋ねて大峯にぞ入給ふ。:善宰相は浮蔵貴所の所轄により閣魔宮よりかへ
され、通仁親王は行奪僧正の加持により冥途の旅より蘇息せり。皆是れ大峯修行の効験権現掲焉の利生なり。
盛衰記のこれらの文は、その後の熊野大峯の信仰の結合を示してみるのであって、役小角を祀とする修験道としての
意識をもちながら、しかもつねに熊野のそれを根擁とするところに、これまでの大峯事行の人々とちがった獣があら
はれて来てみる。それで金峯山の発心門に封して、熊野にも務心門ができ、こ\を出立獣とする大峯修行をば、小角
や智誇大師の取った正統の順路と信するやうになって、金峯山寺の行人や東密系統の修験者と封抗した。そして雨者
の闘係を説明して、『大峯は熊野務心門より入るを順といふ。役小角熊野より分け初し也。共後山に大蛇住て人のいる
ことなりがたきを、醍醐の聖資吉野より暗初めしなり。自然連綿して芳野より入る。聖質中興なり』 などいふいはゆ
る順峯逆峯の観念も、鎌倉時代にはできてみたらしい。
大峯修行の派別
聖費の後東密の系統を奉する修験者が多く大峯を修行したこと、それがまたいくらか金峯山寺の行人のうちに*包
答されて、雨者相まって大峯修験の興隆を楽したことは、すでに第二章でこれをのべた。そして金山寺では一山と
しては天台のシ式をとったけれども、山上の修行は小シのシの行法として、これがために出入
する道俗にその宗派的統制を加へはしなかったし、また醍醐や東密の門流に属する人でも、修験としては特にg言の
教義を主張して他と封立する必要もなかったのであるから、王朝の末頃までは大峯修験はむしろ通途の行法として、
そこに宗門的な匿別や封立はほとんど見出されなかったらしい。それ故後世の常山派は言山風は、聖資以後の小封三
費院流の博法血脈の相承をもって、大峯検校の歴代と稲するけれども、それには金峯山寺検校の補任が少くとも交針
三九
四○
してみるのであつて、大峯の修行が醍醐寺や三賓院の公の博統として行はれるやうになったのは、おそらく足利時代
より以前ではなからうと思はれる。すなはち眞言を宗とする修験者はその法式や行儀に於て多く東密のそれを用ひ、
その内容はおのづから天台山駄のそれとはちがつてみたであらうけれども、それは修験の道にはむしろ常然な個人的
自由主義のあらはれであって、ためにその人々の間に系統や組織的封立を生じはしなかったのである。
ところが王朝の末になると金峯山寺の勢力は著しい発展を見せる。それはおそらく高貴の金峯山詣が盛んになり、
検校の補任と勢力に負ふところがあった結果であらうが、山中の堂塔が次々に造営され、恒例臨時の俳事法要が盛ん
に営まれ、法華講、戦法講、響迦講、章安講、一切経曾の外に、役行者漫陀羅供、蔵王堂供養、行者御影堂供養など、
修験に闘係する行事も少からす行はれるやうになった。そして上下の起願による納経や寄田によって、その経済的勢
力もいちじるしく充質したらしく、住山の人々も検校別常をはじめとして、寧侶、行人、職衆、供僧、碑人にいたる
まで、顕密の修行その他の備事碑事にたづさはる人数はよほどの数に達したらしい。従ってこの頃の他山に於けると
同じく、僧徒が武装して戦争を事とするやうこなり、近くは多武峯、高野山、興顧寺の衆徒と賞 伐を事とし、時には
京都まで侵入して四漫を効したので、源平の戦闘から以後吉野金峯の悪徒の名は久しく世に知られた。そしてともか
くもこの金峯山寺の興隆から、これに属する山上の行人の数もいちじるしく増し、また諸國から修行に来る修験者を
も包容して、こ\にまた比道の有力な一集園ができたのはむしろ常然である。
東密の系統を引いた修験者は久しいあいだそれ自身の組織的統制をもってはみなかったし、また山上の修行にっい
ては金峯山寺に属する行者と入れ交ってみて、これと封抗するやうな形勢は示さなかったらしいが、しかし金峯山寺
検校の下に天台系統の修験がいくらかの統制をもつやうになってからは、たとひその勢力は微弱でも自然これと系統
的に勤立するやうになり、近畿に散在するその山駄たちの間には、自ら別派としての意識ならびにこれに伴ふ行法や
形式も徐々に発生したにちがひない。また熊野山駄は大峯の奥の行場とその行法に於て、金峯山寺の系統に属するも
のと大鶴上共通ではあったが、しかも後者の勢力と統制が明かになるにつれて、こ\にもまた系統上の封立があらは
れて来たことは疑はれない。造功日記に
自河院仰云、金峯山僧徒者浄行貴者也、熊野者無浮行之輩、有仮来山駄中云々
とあるので見ると、敷に於ては権門の勢力に頼る寺門直系の熊野山駄が優勢であったが、大峯山上の修行については
金峯山寺の修験行者が一そう有力なものとして認められてみたらしい。
熊野山駄はその個人的な入率修行は別として、多少儀濃的にその博統による入峯の時には、いはゆる順率の儀をと
つて熊野から大峯に上るのを法とした。これに封して眞言山駄は古くからの大峯修行の例にならひ、また聖資奪師の
博承に従つて吉野金峯山から弾山漫までを行じてみたことはいふまでもない。それも後代には金峯山寺との封抗から
吉野を避けて鳥栖に途をとり、直に山上嶺に入ったこともあるらしいが、これはや〜儀濃的な順路の鍵化であるばか
りでなく、本来むしろ個人的な修行には強ひて天台山駄と別途に出るの必要はなかったらしい。この獣で金峯山寺の
山上修行は、むしろ本来聖資末徒のそれを踏襲したのでもあらうが、少くともその順路だけは金峯山から山上獄に入
るより外ないのであつて、こ\を重なる行事の場所とし、それから第斎まで進んで冬籠の修行をしたらしい。もっと
も熊野山駄でもいはゆる逆率として魔々金峯山から入峯し、す\んで熊野へ出ることも少くなかったので、本来はこ
四一
四二
れが一般の大峯修行の順路であつたらしく、金峯山の行人でも個人的の修行には熊野までの長い行場を通じたものが
あつたにちがひない。しかし金峯山寺としての入峯の行事は蔵王堂から山上行者堂までを主とし、小篠宿のっとめや
空溜の冬籠はその最奥のものとなってみた。こ\に 同じ天台の系統では あるが熊野修験との間に多少のちがひがあ
り、またその行事が整ってくるにつれて眞言山駄との匿別も生じて来たであらう。それ故大峯の修行には元来流派の
別はなく、たゞ小角その他の先徳を範として各人が自由に科撤練行につとめるのみであったのが、潮次集園的にこれ
を統制する勢力があらはれ、その行事や儀濃が多少宗派的博統の色彩をもって整頓されるにしたがって、勢ひそこに
派別の発生を見るゃうになり、鎌倉時代には大峯を中心として賞言修験と、天台山駄といふうちにも熊野修験と金峯
山寺のそれとが、や\ 明かに封立すること、なつたのである

しかしまた大峯に於ける修験の派別が生じると同時に、他方ではこんな匿別を超越して、全園的に一っの修験山駄
として共通の修行をすることも盆々盛んになつてみる。諸國の科 徴行者や精進者の類が王朝の末に近くすでに 一つの
山駄の階級をなし、その信仰儀濃の上にも大鶴上の一致が生じてみたことは前にのべた。これらの行者は次第に各地
の名山霊場に集つて、そこに修験の地方的中心を形り、多くはこ\に大峯修行の形式をうつしたのであるが、それら
は大峯に於ける儀濃行法が定まるとともにまた潮次にと\のつて来て、各山の管理は濁立であり、その修行も各々地
方的特色をもって自由ではあったけれども、その間に自然に信仰と行儀の共通なものが多くなってみる。 したがって
各地の山駄修験の間には信仰と儀濃の一致酷があるばかりでなく、多くは大峯を役小角の根本道場とみとめてみたか
ら、諸國巡歴の時にはまづ大峯を行じる機曾をもとめ、また科撤修行の本来の性質にもとづいて、各々互ひに他山を
修行して歩いた。こ\に山駄修験としてはその所属の宗派的匿別よりも、むしろ同じ山駄の階級としての共通性と、
特質はその宗派的分裂の勢力と封抗して、修験道の歴史に興味ある鍵化を興へるものである。
第五章 山駄の赴曾的勢力
諸國御嶽ミ各派の勢力
修験山駄の根本道場が金峯山大峯であったと同時に、諸國の山々にも早くからこれに類する修行があつて、これら
間には大鶴に於て共通な信仰儀鶴と、またある程度の集園意識があったことはすでに述べた通りである。これらの
行者やその修行のうちには、単なる霊場順濃にすぎないものもあり、また例へば比叡山回峯行のやうに、科撤修行と
して特殊の形式と意義をもっものもあったけれども、その大部分はすでに平安朝の中頃から時代の思想信仰にもとづ
いて、役小角の修行を範とし、大峯に於ける修験の形式を模するやうになって、いはゆる國御獄として略々同様な修
験の信仰と行法に騎一せんとした。それが鎌倉時代になって大峯に於ける修験の形式が潮くと\のひ、その信仰の内
容が定まると共に、各地の修験道場に於てもまた多くはこれに追随して、山駄修行としての信仰と形儀を統一するや
うになった。これらの主なものは出羽の羽黒山、相模の大山、常陸の筑波山、上野の日光山、信濃の戸隠山、加賀の
白山、伯考 の大山、それから伊像の三島、豊前の彦山などであつたが、その多くは所属の宗派をもち、各山濁自の統
制を有しながら、少くも修験行についてはむしろこれを超起して全園的の連絡をもち、客僧の山駄の来往はもちろん
四三
四四
常住の行者の間にまで、山駄行者として結合し得る共通的勢力を形ってみた。そして金峯山や熊野の山駄も本来はこ
れら修験の諸集園の 一 つにすぎなかつたのであるが、それが役小角の根本行場たる大峯に擁り、もしくはこれを包容
して行ったために、他山にぬきんでて山駄の全國的中心となり、やがて後には諸國の修験を統轄する勢力とさへなっ
たのである。この酷では各地に散在する眞言山駄が、専ら大峯を行場とする醍醐寺のそれに統率されるやうになるの
も、その事情は大僧に於て似たものであるといふことができる。
修験の地方的中心としてその由来も比較的に古く、かつその勢力の大きかった獣に於て特に有名なのは羽黒山と彦
山とである。羽黒山は延喜式の伊氏波碑赴が源で、景行天皇の時に玉依姫を祀ったものだといはれるが、寺博では崇
竣天皇の皇子能除太子が推古天皇の朝に山をひらいて寂光寺を建てたのが初であるといふ。けだしこれも太古からの
地方的聖地であつたのが、順濃科撤の行場となって俳寺も出来たらしく、やがて役小角の入峯の因縁が語られ、また
弘法大師の行填とも博へられて、王朝の中頃には修験の霊地としてその名が聞えてみる。徳川時代の初に天台宗とな
るまで置言修験であったといふが、少くとも鎌倉時代までは宗派的系統は明かでなかったらしく、行奪僧正もこ\で
修行したと博へられ、もちろん諸派の山駄の入峯は自由であったので、むしろ超宗派的な修験専門の道場として発展
したのが、この山の特徴であつたやうに思はれる。そしてこれも太古以来の順濃の次第を踏襲したらしく、月山と湯
殿山とを奥の行場として、それをあはせて羽黒三所権現と稲へ、近園の山駄はもとより熊野金峯山の行者までがこ、
を修行するゃうになって、修験の中でも荒行をもって聞えてみた。北條時頼の時代に長吏職が置かれて、それから執
行、別常、奥頭、院主、夏一代などの職位がと\のひ、次第に近國の諸山までを支配するやうになって、出羽、陸奥、
越後、佐渡、信濃一帯を権現の敷地と稲し、この漫に牛王巻数を配賦して一山経営の資を集めた、その後時勢に伴つ
て隆替鍵遷はあったが、金峯山や熊野に封立する修験の 一大中心として、南北朝の頃にはこれらをも凌ぐ勢力をも
ち、戦蹴の世には武力の上でも侮りがたい 一集園をなし、つひに寛永の頃から天台修験として、東叡山または日光山
に従属せしめられることになったのである。
彦山は弘仁年中法趣上人が霊仙寺を建てたのを中興とし、すでに崇碑天皇の時に霊験が あったとか、役小角がはじ
めてこれを踏開したとかいふ。けだしこれも太古からの霊域であったのが、やがて備徒の行場となり、平安朝に特殊
の修験が行はれてから、またこの道場となったらしく、小角の弟子本 、シ、 主な が相承してこれをシした
と博へてみる。それから行者や衆徒も多くなり、寺領も増して、王朝の末には附近の諸山をも管領して、九州の一角
にまた一つの武力的中心を成してみる。修験としては台密の系統をとって発達したが、これまた濁立の修験専修の道
場であつて、籠門山と封して金胎雨部の率をなし、これに紳山をあはせて三山と稲へた。それで鎌倉時代の末には後
伏見天皇の皇子助有法親王を迎へて座主に仰ぎ、爾来修験に特有な血統相績によって 一山を支配するやうになり、そ
の勢力は世俗的にも念々強大となってみる。室町」代には山内の僧坊二千八百除、山の上下七里に亘って一萬石を領
したといはれる。
抑比彦山ト申スハ西國第一ノ大山ニテ、豊後、豊前、筑前三箇國ニマタガリ、山中坊数三千ニ除レリ。: 近代
ハ領地モ多ク、所願ノ料モ数々集リ、僧方繁富限チク、顧客目ヲ驚ス計チリ。往古ョリ守護不入ノ山チリトテ、我
儒ニノミ振廻ケリ。彼山法師根来能野ノ悪僧モ是ニハ過ジトゾ畳ケル。重科ノ者ニテモ彼山へ逃入テ頼ヌレバ、
四五
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人モ山ヲ不出助置ケリ。夫故ニ若山伏チドハ悪賞人 ニイザナハレテ徒窯ヲ結、近國ノ在々へ走廻リ、夜討
、強盗、
狼群以ノ外ナリケリ。
といふ九州記の記事は恐らく戦國時代以来の常態であったにちがひなく、徳川時代になって潮次その勢力が抑歴
され
てみる。
金峯山寺の勢力は鎌倉時代に入ってさらに強盛になり、大衆の蜂起は京都まで侵すに至り、興顧寺、
高野山、多武
峯など\の結合や確執が絶えなかった。しかし中頃からは三山検校の勢威に歴せられたらしく、南北朝の
兵戦に際し
ては南朝の最後までの根擁地となつたけれども、この間大峯の修行は全く停止され、北朝一統の後は全然
園城寺の統
制に騎して終った。熊野修験も比時代には寺門の勢力を背景にして、大峯に進出するばかりでなく、全園の修験の統
率的勢力となり、三山検校が朝暮の保護をうけるやうになって、一方で山徒の横暴は盆々甚しく、他方
でまたこれを
中心とする修験が園城寺の公の行事となって来て、各地の行者が潮次その門流に統制された。それで南北朝の頃北朝
に味方した園城寺としては、金峯山大峯の修行は中絶の止むなきに至り、年々の入峯はこれに代って北大峯
大悲山で
修行したのであったが、近畿地方から闘東、東北、中園漫にまでひろがった末派の勢力はこの間に一そう擁って、京
都の六院室をはじめ、紀州見島五流の大先達、その他いはゆる二十八先達などもこの頃にできたらしい。
ことに後小
松天皇の時三山検校である良喩が入峯してから、盛んに大峰の修行が復興され、その後三山検校
は専ら聖護院門跡の
相承となって、この間に教儀作法の組織も大に整へられた。従って修験道はこの頃から潮く濁立の宗派として
認めら
れるやうになり、その天台系統のものは大部分聖護院の統制に属すること、なったので、つひに慶長の頃幕府ば聖護
院を修験道継領として、これに修験道法度を下すに至った。
眞言宗系の修験は主として近畿の山駄行者が醍醐寺の権威を奉じて、天台系のそれに封して多少集園的組織を有す
るだけであり、鎌倉時代にはなほ天台山駄の勢力に歴せられてみたのであるが、天台山駄の大峯修行が中絶してみる
間に、大に山上の修行に努力して、修験の信仰の権威を成すに至った。足利時代のはじめ三賞院の満済准后が幕府を
助けてから、この派の修験の管領は代々三賓院門跡がこれに任することになり、金峯山の一部から金剛山、信貴山、
多武器、高野山、シの行人もこれに附属し、諸国の山風のこれに するものも少くなかった。羽山がシ
なつたのもこの時代でないかと思はれるが、かの三十六正大先達などいふものもこの頃から定ったのであらう。そし
て三質院の修験は徳川時代には聖護院の修験管領に封抗して正統を争ひ、つひに本山派に封する常山派として法度が
定められ、諸國の修験が二派に配属されることになった。
山駄の赴曾的地位
かくて修験の集園が各地に結成され、全國に分布する山駄行者も非常な数に上ると同時に、源平の兵園以後はそれ
らがまた一つの武力的集園として自衛のためにも兵力をたくはへ、進んでは周園の俗権との利害の交錯から政治的の
闘係をも生じて、たえす戦陣に出入せざるを得ないやうになり、この形勢は大鶴上戦國時代の終までもっド いた。そ
れは必ずしも修験を主とする山々にかぎらす、他の諸宗備寺でも衆徒の宗教的園鶴は、っねに武門の諸勢力の間に介
在して、特殊の超越的権威をもつてみたのであるが、特に山駄は多くは在俗妻帯の生活をし、武士や浪人がその中に
四七
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混入したばかりでなく、要害の地に擁つて山野を馳駆するになれてみたから、武力をもつて他と封抗するのに自然そ
こに強固な中心ができたのである。この意味で南朝の勢力が吉野を根擁として永く維持されたのも金峯山の衆徒行者
の努力に負ふことが多かつたが、武門の統治に従順でない熊野や多武率、自山、彦山などの大衆は、世俗からはいつ
も荒法師悪慣と呼ばれ、また事質騎楽非道の限りをつくして所在に横行したことも少くなかった。しかしこんな戦乱
または武力政治の時代に於て、多数の衆徒をか、へ、周園に多くの寺領があり、何等かの政治的特権をもって外部の
干渉を許さないやうな宗教的集園に、こんな赴曾的勢力が生じるのはむしろ自然の勢であって、ことに個人 にも世
間の長怖の 象である斬轄呪明の験力をそなへた修験行者の園鶴としては、これらの諸率に特殊の権威の認められる
ことは除儀ないことでもあった。
そこでまた山駄といふ一階級は、俗権の干渉をうけないものとして政治や兵鍵に於ける失敗者の隠家となり、諸率
の寺域に逃げこんだものはもちろん、山駄の身分や服装はどこへ行ってもその生命と自由を保護する宗教的権威をも
ってみた。源平の蹴に敗軍の将卒が雇々山駄の扮装をして遠く落ちのびたことは、常時の戦記の物語るところであるが
その後山駄はいつもこれらの武士が敵手を脱する常奈の手段となり、一時を逃げのびるためばかりでなく、つひには
生涯修験の道に入ってその生命の安全を保謎されたものが多い。それはこれらの落武者や罪科のある者が、治外法権
である寺域をもつ山に入ってしまへば、兵馬の力をもつても如何ともしようがなかったので、修験の山々にはこれら
の人が多く山駄となって世を通れたのが多かつたが、また山駄の資格を得てから別に寺院行場をひらいて、世俗と隔
離した山中に修験を起す敗軍の残窯なども少くなかった。たとへば紀州では見島五流の公卿、智連光院、博法院、奪
瀧院、大法院、吉群院、千光院などはみな後醍醐天皇の末裔だといひ、出羽金峯山の修験は楠氏の末である能勝入道
が起したのであって、その他曾津の南岳院、武蔵幸手の不動院など武士が隠通して興した修験の寺は、全國に亘つて
その数が多い。これは一つは山駄の抗として、たとひ出家して僧の形をとっても、なほ帯刀その他の武具をもって自
由に諸方を経めぐることを認められてみたからであつて、この交通上の特権を利用して、それはまた種々の軍事的 隠
謀の機闘としても用ひられてみる。すなはち山駄は諸國を巡歴すべき宗教的義務の承認から、全國的に自由な交通が
許され、闘手や渡賃さへ要しないのが常であったから、密使や謀者として働いたものが多かつたし、密書や廻文の博
達通謀には、武士が山駄に鍵装したり、入峯廻國の行者にまじつて往復するやうなことは、戦蹴の世の常であった。
しかしこんな外面的の勢力が修験山駄の階級に務生した根抵には、その宗教的集園としての強い力がはたらいてみ
たことはいふまでもない。修験道は最初から民間信仰を基調として生れ、これを備教的に深めた行法として、通俗的
平民的な信仰と形儀がその特徴であったことはすでに述べた。平安朝の末に向って修験道が薄く上下の信仰を支配す
る質勢力を得て来たのはこれがためであつたが、兵蹴の赴曾武家政治の時代には、修験道のこの特性はなほ一そう緊
密に質生活に適合するものであつた。すなはちこの時代は上下の生活も赴曾の情調もすべて簡素質質になってみて、
新たに興った諸宗でもみな形式を簡易にして信仰を充質し、國家や政権の保護よりも赴曾人心の騎向にその基礎を置
かうとしてみる。その中で修験道は本来の自行質修の主義によってよく時代の情勢に應じ、質質的にその宗教的効果
をおさめたのであつて、都曾よりも地方に、貴族よりも平民に、僧侶よりも俗人の間にその信仰の勢力を伸したので
あった。これは修験道の修行が法曾供養などに費す富を要せず、宗義や教相の學解を問題にせず、出家と在家と、刺
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髪有髪の外儀に拘らす、道俗ともに貴践貧富を通じてこれに加はることができたからであつて、それがよく時勢の質
状に適應して、盆々その博播を見るに至つた主な原因である。ことに修験の行法は単に死後来世の果報を期するやう
な理想主義とちがひ、また他人の修した功徳廻向を待つ他力主義ではなくて、自ら入峯して険難を冒し、森厳な観相
修法のあひだに現身の浮化を目的としたのであるから、その行者の宗教的経験の切質深刻なことは、常時の他の法中
に於けるとはよほど趣を異にしてみる。かうして各人の自行質修を原理として、必然にこれに現質的な霊感を鶴験さ
せるやうにできた修験道は、それ自身宗教的に強い根抵をもってみると同時に、また殺伐な時代の民衆の宗教的要
をみたすに最も適切なものであった。
もつとも修験道のこの質修主義は、その宗教的集園の外部的延長すなはち教徒の数に於ての発展を遂げる上には、
同じ時代に著しく発達した他力易行の諸宗門に比して、よほどこれを妨げたきらひがないでもなかった。山駄の修行
は寧問も富も要らす、僧俗その機を簡ばなかったけれども、しかもそれは決して書寝、讃謡、唱名などのやうな易行
易修の法ではない。峯中の作法はその儀濃的なものでも厳重をきはめ、銀難苦行の所役はよほど熱心なもの強健なも
のでなければ塔へられない。汲水探葬新、水断穀断などの儀はまだやさしい方であって、単身で山々を渡り、寒暑風雨
を冒して数年の将撤に身を委ねるといふやうな練行は、誰にでも望まれるものではない。畑で攻め煙したり、縄に縛
つて谷底に つり下げられたりする羽黒一流の荒行も、尋常では果せないが、また比叡山の北嶺四峯行のやうに、日々
峡かさす谷々三塔を順濃して、千日満願の期に達することは、特に浮行精進の行者でなければ務願しがたいものであ
る、山門修験道が終始多数の行人を集め得なかったのもこれがためであるが、同様の理由で他の修験も事質上すべて
の人がこれに入ることは困難であり、その教徒の数はこの獣で著しく制限されさるを得なかった。そしてまた同じ原
因から修験道に婦人を包容することができなかったことも、その宗教的集園としての活動には非常な損失であったの
で、それが赴曾生活を支配する上に大なる制限を加へてみる。この獣は唱名唱題の易行の法門がひろく上下の階段を
撮受してその領域をひろめ、かつ赴曾の質生活のうちまで深く浸潤して、ながくその宗教的生命を持績したのに封し
て、修験道が我國の赴曾に及ぼした影響は、むしろ狭くかつ浅いものであったと云はざるを得ない。
しかし修験道はその宗教的特質として、僧俗の行者を結合した固有の集園の周園に、なほ外漫的な多数の信者の井
をもつてみて、それを通じては赴曾的にも可なりひろい宗教的効果を興へることができた。山駄の教園に封するこの
信者達の地位は、呪術宗教的集園の組織の問題として、宗教赴曾學の立場からなほ深く考究さるべきものであるが、
とにかく修験道は最初から一面にこの他受回施の一門をそなへて成立し、自行成得のほかに加持所轄をもって化盆済
度することにも重要な意義をみとめ、行者の験徳に封する赴倉の信仰がこれを支持してみたことは事質である。そし
て鎌倉時代以後上下の宗教的傾向はいちじるしく鍵化したけれども、民間の多数が現質的な斬崎や呪験を信すること
は、いつの時代にもたやすく鍵化はしない。ことに往古の祀巫の類がほとんど跡を断ってからは、癒病その他の呪法
には山駄がまつこれに常つたのであつて、それは赴曾的に見ても鉄くべからざる宗教的機能であった。それ故所在の
行者が専ら俗間の所轄ト占に興ったことはいふまでもなく、諸國巡歴の山駄でも旅の途すがら人々の召請に應じて意
外の験をあらはすこともあり、特に羽黒の行者が牛王巻数を民間にもち廻ったことは前にも云ったが、その他の客僧
*往く往くシなど請うて路傍でも山間でも新時して歩いた ことに山風の 様な風俗はいっも#人の豊橋の的とな
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ったらしく、それが深山幽谷を渡り歩く拝搬生活の聯想から、そこに漢然と天狗の信仰までが該 びつけられ、盆々こ
れを怪奇碑秘な存在として、その現質を超越した宗教的意義を認めさせるやうになった。これらは正常に信仰といふ
よりも俗間に行はれる漢然たる感にすぎなかったであらうけれども、しかもその 一般的な効果は山駄の赴曾的機能の
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背景として、度外祀することのできない 一面であつた。(完)

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