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線の北陸新幹線線の北陸新幹線の14日の北陸新幹線の長野駅 PDF
線の北陸新幹線線の北陸新幹線の14日の北陸新幹線の長野駅 PDF
線の北陸新幹線線の北陸新幹線の14日の北陸新幹線の長野駅 PDF
を採用していた[36]。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設
再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている
[103]。第三セクター化後に建設された区間の活荷重は KS-12 荷重を採用している[59]。ただし雪
かき車の通行は想定されており、設計に際して DD14 形・DD53 形の両ロータリー式雪かき車の
重量が考慮され[59]、荷重試験や軌道検測車による検測では DD51 形が入線している[81]。
高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜
けとなっている「開床式高架橋」を採用している[71]ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋に
は、そもそも側壁自体が設けられていない[153]。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では
、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している[154]。
構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていたため KS-16 荷重
を採用していた[36]。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設
再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている
[103]。第三セクター化後に建設された区間の活荷重は KS-12 荷重を採用している[59]。ただし雪
かき車の通行は想定されており、設計に際して DD14 形・DD53 形の両ロータリー式雪かき車の
重量が考慮され[59]、荷重試験や軌道検測車による検測では DD51 形が入線している[81]。
高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜
けとなっている「開床式高架橋」を採用している[71]ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋に
は、そもそも側壁自体が設けられていない[153]。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では
、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している[154]。
構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていたため KS-16 荷重
を採用していた[36]。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設
再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている
[103]。第三セクター化後に建設された区間の活荷重は KS-12 荷重を採用している[59]。ただし雪
かき車の通行は想定されており、設計に際して DD14 形・DD53 形の両ロータリー式雪かき車の
重量が考慮され[59]、荷重試験や軌道検測車による検測では DD51 形が入線している[81]。
高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜
けとなっている「開床式高架橋」を採用している[71]ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋に
は、そもそも側壁自体が設けられていない[153]。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では
、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している[154]。
14 日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとし
て特急「はくたか」が同線を経由して運転された。
また、開業時から一部の特急「はくたか」で日本の狭軌在来線最高速度となる 140 km/h 運転が
行われ、1998 年(平成 10 年)12 月からは 150 km/h 運転が[7]、2002 年(平成 14 年)3 月以降
はさらに高速となる 160 km/h 運転が開始された[7]。2015 年(平成 27 年)3 月 14 日に特急「
はくたか」の運行を終了した後、最高速度 160 km/h で運行する列車はなくなったため、現在の
線内の最高速度は 130 km/h となり、営業列車は HK100 形の性能から最高速度 110 km/h で運転
されている
[8]。一方で「はくたか」に代わる速達列車として、HK100 形を使用しつつも越後湯沢 - 直江津
間
を 1 時間弱で結び、乗車券だけで乗れる列車としては表定速度で日本最速の[9]「超快速スノー
ラビット」の運転を行っている[10][11]。
目次
1 歴史
1.1 鉄道誘致活動の始まり
1.2 「南北戦争」からルートの決着まで
1.3 国鉄新線としての建設
1.4 第三セクター方式での建設再開
1.5 高速化の決定
1.6 開業・さらなる高速化
1.7 北陸新幹線金沢延伸開業以降
1.8 年表
2 施設
2.2 構造物
2.2.1 軌道
2.2.2 トンネル
2.2.3 橋梁・高架橋
2.3 駅・信号場
2.4 閉塞方式
2.5 保安装置
3 運行形態
3.1 普通列車
3.2 快速列車
3.3 超快速「スノーラビット」
3.4 超低速「スノータートル」
3.5 乗務員について
3.6 列車の乗降方法
3.7 運行管理
3.8 過去の運行状況
4 利用状況
4.1 輸送実績
4.2 収入実績
5 車両
5.1 現在の使用車両
5.1.1 自社車両
5.2 過去の特急列車の使用車両
5.2.1 自社車両
5.2.2 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.2.3 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3 臨時列車等
5.3.1 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.3.2 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3.3 えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両
6 データ
6.1 路線データ
6.2 駅一覧
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 工事誌
8.2 書籍
8.3 雑誌記事
9 関連項目
10 外部リンク
14 日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとし
て特急「はくたか」が同線を経由して運転された。
目次
1 歴史
1.1 鉄道誘致活動の始まり
1.2 「南北戦争」からルートの決着まで
1.3 国鉄新線としての建設
1.4 第三セクター方式での建設再開
1.5 高速化の決定
1.6 開業・さらなる高速化
1.7 北陸新幹線金沢延伸開業以降
1.8 年表
2 施設
2.2 構造物
2.2.1 軌道
2.2.2 トンネル
2.2.3 橋梁・高架橋
2.3 駅・信号場
2.4 閉塞方式
2.5 保安装置
3 運行形態
3.1 普通列車
3.2 快速列車
3.3 超快速「スノーラビット」
3.4 超低速「スノータートル」
3.5 乗務員について
3.6 列車の乗降方法
3.7 運行管理
3.8 過去の運行状況
4 利用状況
4.1 輸送実績
4.2 収入実績
5 車両
5.1 現在の使用車両
5.1.1 自社車両
5.2 過去の特急列車の使用車両
5.2.1 自社車両
5.2.2 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.2.3 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3 臨時列車等
5.3.1 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.3.2 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3.3 えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両
6 データ
6.1 路線データ
6.2 駅一覧
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 工事誌
8.2 書籍
8.3 雑誌記事
9 関連項目
10 外部リンク
14 日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとし
て特急「はくたか」が同線を経由して運転された。
目次
1 歴史
1.1 鉄道誘致活動の始まり
1.2 「南北戦争」からルートの決着まで
1.3 国鉄新線としての建設
1.4 第三セクター方式での建設再開
1.5 高速化の決定
1.6 開業・さらなる高速化
1.7 北陸新幹線金沢延伸開業以降
1.8 年表
2 施設
2.2 構造物
2.2.1 軌道
2.2.2 トンネル
2.2.3 橋梁・高架橋
2.3 駅・信号場
2.4 閉塞方式
2.5 保安装置
3 運行形態
3.1 普通列車
3.2 快速列車
3.3 超快速「スノーラビット」
3.4 超低速「スノータートル」
3.5 乗務員について
3.6 列車の乗降方法
3.7 運行管理
3.8 過去の運行状況
4 利用状況
4.1 輸送実績
4.2 収入実績
5 車両
5.1 現在の使用車両
5.1.1 自社車両
5.2 過去の特急列車の使用車両
5.2.1 自社車両
5.2.2 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.2.3 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3 臨時列車等
5.3.1 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.3.2 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3.3 えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両
6 データ
6.1 路線データ
6.2 駅一覧
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 工事誌
8.2 書籍
8.3 雑誌記事
9 関連項目
10 外部リンク
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て特急「はくたか」が同線を経由して運転された。
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1 歴史
1.1 鉄道誘致活動の始まり
1.2 「南北戦争」からルートの決着まで
1.3 国鉄新線としての建設
1.4 第三セクター方式での建設再開
1.5 高速化の決定
1.6 開業・さらなる高速化
1.7 北陸新幹線金沢延伸開業以降
1.8 年表
2 施設
2.2 構造物
2.2.1 軌道
2.2.2 トンネル
2.2.3 橋梁・高架橋
2.3 駅・信号場
2.4 閉塞方式
2.5 保安装置
3 運行形態
3.1 普通列車
3.2 快速列車
3.3 超快速「スノーラビット」
3.4 超低速「スノータートル」
3.5 乗務員について
3.6 列車の乗降方法
3.7 運行管理
3.8 過去の運行状況
4 利用状況
4.1 輸送実績
4.2 収入実績
5 車両
5.1 現在の使用車両
5.1.1 自社車両
5.2 過去の特急列車の使用車両
5.2.1 自社車両
5.2.2 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.2.3 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3 臨時列車等
5.3.1 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.3.2 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3.3 えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両
6 データ
6.1 路線データ
6.2 駅一覧
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 工事誌
8.2 書籍
8.3 雑誌記事
9 関連項目
10 外部リンク
14 日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとし
て特急「はくたか」が同線を経由して運転された。
目次
1 歴史
1.1 鉄道誘致活動の始まり
1.2 「南北戦争」からルートの決着まで
1.3 国鉄新線としての建設
1.4 第三セクター方式での建設再開
1.5 高速化の決定
1.6 開業・さらなる高速化
1.7 北陸新幹線金沢延伸開業以降
1.8 年表
2 施設
2.2 構造物
2.2.1 軌道
2.2.2 トンネル
2.2.3 橋梁・高架橋
2.3 駅・信号場
2.4 閉塞方式
2.5 保安装置
3 運行形態
3.1 普通列車
3.2 快速列車
3.3 超快速「スノーラビット」
3.4 超低速「スノータートル」
3.5 乗務員について
3.6 列車の乗降方法
3.7 運行管理
3.8 過去の運行状況
4 利用状況
4.1 輸送実績
4.2 収入実績
5 車両
5.1 現在の使用車両
5.1.1 自社車両
5.2 過去の特急列車の使用車両
5.2.1 自社車両
5.2.2 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.2.3 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3 臨時列車等
5.3.1 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.3.2 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3.3 えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両
6 データ
6.1 路線データ
6.2 駅一覧
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 工事誌
8.2 書籍
10 外部リンク
北越急行ほくほく線出典: フリー百科事典『ウィキペデ
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ほくほく線
を走る HK100 形
(くびき駅-犀潟駅間)基本情報
国 日本の旗 日本
所在地 新潟県起点 六
日町駅
終点 犀潟駅駅数
12 駅
開業 1997 年 3 月 22
日所有者 北越急行運営
者 北越急行
使用車両 車両を参照路線諸元
路線距離 59.5 km
軌間 1,067 mm 線路数
単線
ほくほく線路線図ほくほく線路線図
テンプレートを表示 [隠す]停車場・
施設・接続路線凡例
STR
JR 東:上越線(↑高崎方)
STR STR+l
JR 東:上越新幹線
越後湯沢駅
LSTR tSTRa
0.0 六日町駅
JR 東:上越線(←宮内方)
hBHF tSTR
3.6 魚沼丘陵駅
tDST
8.5 赤倉信号場
tBHF
12.2 美佐島駅
tSTRe
hBHF
14.4 しんざ駅
STRq hKRZ STR+r
JR 東:飯山線(←越後川口方)
15.9 十日町駅
tSTRa STRl
JR 東:飯山線(豊野方→)
tSTRe
十日町 T 1,695.10 m[1]
hKRZWae 信濃
信号場
tSTRe
TUNNEL2 犬伏
TUNNEL2
松代 T 295.00 m[3]
hBHF
29.2 まつだい駅
tSTRa
tDST
34.1 儀明信号場
tSTRe
hBHF
38.6 ほくほく大島駅
TUNNEL1
深沢 T 1,585.40 m[1]
TUNNEL1 霧ヶ岳 T
46.8 うらがわら駅
TUNNEL1 第一飯室 T
hBHF
51.7 大 池 い こ い の 森 駅
TUNNEL2 中島 T 250.00
m[3]
hBHF
北陸自動車道
← JR 東:信越本線 ↓
hSTRe STR
59.5 犀潟駅
ABZg+l STRr
LSTR
HST
直江津駅
ABZgl STRq
トキてつ:妙高はねうまライン →
STR
トキてつ:日本海ひすいライン ↓
T:トンネルほくほく線(ほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅を起点とし、新潟県上
越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ、北越急行が運営する鉄道路線である。
北陸方面への短絡線の役割を有する[4]日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線」として
[5]1968 年(昭和 43 年)に着工され[6]、紆余曲折の末、北越急行によって 1997 年(平成 9 年
)3 月
22 日より営業を開始した[5]。開業以来、上越新幹線と連絡する列車の運行が行われており、
2015 年(平成 27 年)3 月 14 日の北陸新幹線の長野駅 - 金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北
陸を結ぶメインルートとして特急「はくたか」が同線を経由して運転された。
目次
1 歴史
1.1 鉄道誘致活動の始まり
1.2 「南北戦争」からルートの決着まで
1.3 国鉄新線としての建設
1.4 第三セクター方式での建設再開
1.5 高速化の決定
1.6 開業・さらなる高速化
1.7 北陸新幹線金沢延伸開業以降
1.8 年表
2 施設
2.2 構造物
2.2.1 軌道
2.2.2 トンネル
2.2.3 橋梁・高架橋
2.3 駅・信号場
2.4 閉塞方式
2.5 保安装置
3 運行形態
3.1 普通列車
3.2 快速列車
3.3 超快速「スノーラビット」
3.4 超低速「スノータートル」
3.5 乗務員について
3.6 列車の乗降方法
3.7 運行管理
3.8 過去の運行状況
4 利用状況
4.1 輸送実績
4.2 収入実績
5 車両
5.1 現在の使用車両
5.1.1 自社車両
5.2 過去の特急列車の使用車両
5.2.1 自社車両
5.2.2 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.2.3 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3 臨時列車等
5.3.1 JR 東日本からの乗り入れ車両
5.3.2 JR 西日本からの乗り入れ車両
5.3.3 えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両
6 データ
6.1 路線データ
6.2 駅一覧
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 工事誌
8.2 書籍
8.3 雑誌記事
9 関連項目
10 外部リンク
歴史
鉄道誘致活動の始まり
ほくほく線の中間付近にあたる松代村(まつだいむら。現十日町市の一部[12])では、1920 年
(大正 9 年)4 月 15 日に松代自動車株式会社が設立されて、バスやトラックの運行を開始した
[13][14]。この会社は 1932 年(昭和 7 年)に売却されて頸城自動車となる[13]。しかし、この時
代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する 1960 年(昭和 35 年)
頃までは、道路交通が 5 月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった
[14]。
ほくほく線建設が進められていた 1980 年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道 253 号の
薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で 13 キロメートル(km)のところを、柏崎・直江津
を通る 120 km もの迂回をしなければ行き来ができなかった[15]。冬には道路交通がまったく役
に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931 年(昭和
6年
)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」
と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された[14]。その口火を切ったの
は、松代自動車の設立者の柳常次であった[13]。既に 1916 年(大正 5 年)5 月 4 日には、頸城
鉄道(くびきてつどう)が新黒井 - 浦川原間を全通させていた[16]。当初はこの頸城鉄道とつな
ぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を 1932 年(昭和 7 年)8 月に国会へ提
出した[17]。この時点では松代から信越本線(直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日
町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか[17])なかった[17]。
その後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚
沼三郡や東頸城郡の町村長が六日町 - 直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した[17]。
1938 年(昭和 13 年)4 月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた高田
を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた[17]
。1937 年(昭和 12 年)8 月から 9 月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され
、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された[18]。
この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の 2 案があったが、南側については六日町で
統一されていた[19]。しかし 1940 年(昭和 15 年)になり、南側を越後湯沢駅とする案が持ち
上がった[19]。これはスキーをしに松之山温泉に来ていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津
を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきり
していない[19]。この年の 10 月から 11 月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施
され、両案の資料が揃うことになった[19]。1942 年(昭和 17 年)から両案の誘致活動が繰り広
げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった[19]。
1944 年(昭和 19 年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(川西町を経て 2005 年の合併で十
日町市の一部[20])と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建
設が決まり、工事予算 1800 万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された[19][21]
。
「南北戦争」からルートの決着まで
北越北線と北越南線の計画ルートと実際のほくほく線
第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線と
の連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とするこ
とになった[22][23]。1950 年(昭和 25 年)9 月 3 日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同
盟会の発会式が高田市(1971 年の合併により上越市の一部[24])で行われ、戦後の鉄道建設運
動が開始された[23]。しかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六
日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった[23]。以降、「北越北線」(ほくえ
つほくせん)案と「北越南線」(ほくえつなんせん)案の間で 14 年に渡る鉄道誘致合戦「南北
戦争
」が勃発することになった[23]。
北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、採算性に優れること、
地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直
江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の 25 パーミルに対して 20 パーミル
に抑えられ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉
の開発ができることであるとされた[注釈 1][25]。
北越北線が調査線となって以降、詳細なルートの検討が進められた[4]。地元は北越北線に旅客
輸送を期待したが、国鉄から見れば首都圏と北陸地方を短絡する有力な貨物線であり、上越線
と信越本線との間の方向転換・機関車交換作業を廃止し輸送時間を短縮することを狙っていた
[4]。そのため重量 1,000 トンの貨物列車の運転を想定した貨物輸送が路線選定の要となり、当
初は六日町駅と黒井駅を可能な限り直線的に結ぶルートが考えられていた[4]。これにより十日
町では飯山線と直交するルート案となり[4]、飯山線の十日町駅とは別に北越北線の十日町駅を
約 1,300 メートル離れた位置に設け、地下駅とする案もあった[32]。しかしこれには地元から
の強烈な反発があり、実際の経路は飯山線十日町駅に乗り入れるクランク状のものとなった[4]
。また東頸城地方では、安塚、大島、室野(松代町西部)を経由する南側に膨らんだ路線を要
望されて決着に時間を要したが、最終的にほぼ原案通りとなった[33]。ところが、国鉄側と最
終的に詰める段階になり、直江津駅構内の貨物ヤード(操車場)が処理能力の限界を迎えてい
たことから、黒井駅の犀潟駅寄りに新たな操車場を建設する構想が持ち上がった[33]。これに
より北越北線の乗り入れは操車場に支障しない犀潟駅とならざるを得ず、旧頸城鉄道沿線から
経路が外れて頸城村の中心地(2005 年の合併以降の上越市頸城区百間町付近[34][35])も通ら
ないことになった[4]。浦川原 - 犀潟間は、後の工事凍結時点で未着工であり、黒井の操車場計
画が結局実現しなかったこともあって、工事再開時に新たな路線問題となりかけたが、最終的
に六日町と犀潟を結ぶ経路で確定した[33]。
国鉄新線としての建設
1964 年(昭和 39 年)9 月 28 日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市
、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた[6]。これを基に工
事実施計画の指示が行われた[6]。設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩
や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列
車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした[36]。
停車場の配線についても貨物列車の運行を前提とした計画になっており、単式ホームとされた
西六日町、津池の両停車場以外のすべての停車場で列車交換が可能で、貨物列車相互の行き違
いを想定してすべての交換可能駅で 1,000 トン貨物列車に対応した有効長 460 メートルを確保
していた[41]。在来線併設の六日町、十日町、犀潟を除くすべての停車場に、上下線とも安全
側線を設置して、上下列車の待避線への同時進入を可能とすることになっていた[41]。六日町
、十日町、松代の各停車場については、機関車牽引の 10 両編成を想定してプラットホームの有
効長を 240 メートルとし、これ以外の停車場については電車列車の 6 両編成を想定した 140 メ
ートルとしていた[41]。
その後、国鉄新潟鉄道管理局からの防雪設備の完備や保守の軽減化への要望があり、さらに運
輸省の通達で工事実施計画に含めるべき事項が加えられたこともあり、1978 年(昭和 53 年)7
月 20 日に工事実施計画が変更された[42]。これにより十日町 - 犀潟間の工事実施計画について
、犀潟駅への取り付けの変更が行われ、最小曲線半径が 1,000 メートルから 600 メートルとな
り、
50kg レールの使用とスラブ軌道の採用、電化対応設備を設けることが記載された[42]。十日町 -
犀潟間の工事予算は 511 億 8600 万円に改定され、完成予定期日は 1983 年(昭和 58 年)に延
長されることになった[42]。
この頃、全国新幹線鉄道整備法により全国的な新幹線ネットワークの整備計画が進められてお
り、東京と北陸地方を結ぶ新幹線として北陸新幹線の基本計画が 1972 年(昭和 47 年)に制定
されていた[43]。北陸新幹線は北越北線と重複する高速鉄道計画となったが、高度経済成長の
時期でもありそれほど問題視はされず、また北陸新幹線が旅客輸送、北越北線が貨物輸送と役
割分担することも考えられていた[43]。しかし 1973 年(昭和 48 年)に第一次オイルショック
に見舞われると、北陸新幹線の建設は延期されることになった[43]。
北越北線はその間も工事が続けられていたが、全国各地にある鉄道新線のうちの 1 か所として
配分される建設予算に限りがあったことや、トンネル工事が難航していたことで建設工事が遅
れていた[44]。そうしているうちに国鉄の経営悪化が進み、その対策として 1980 年(昭和 55
年)に日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)の施行により鉄道新線の工事は凍
結されることになった[45]。国鉄再建法での工事続行基準は、推定輸送密度が 4,000 人/日以上
とされていたが、北越北線の推定輸送密度は 1,600 人/日であった[46]。この時点で用地取得は
73 パーセント、路盤工事は 58 パーセントまで進捗しており、工事費はこの時点での総額見込
み 794 億円に対して 415 億円が投じられていたが[42][47]、1982 年(昭和 57 年)3 月に完成済
み施設に対する保安工事が完了すると、建設工事は全面ストップした[48]。
第三セクター方式での建設再開
「鍋立山トンネル」も参照
国鉄再建法では、建設が中断された地方鉄道新線について、地元が第三セクター会社を設立し
て引き受けることが可能であると定めていた[49]。岩手県の三陸鉄道のように、早々にこの方
針で動き出して、第三セクターでの開業を果たした鉄道もあった[50]。しかし北越北線につい
ては、鉄道の経営への不安があったことに加えて、新潟県出身の田中角栄元首相が「北越北線
だけは特別に貨物幹線としてやらせる」と発言していたことなどもあり、沿線自治体は第三セ
クター化に興味を示さなかった[51]。だが結局北越北線が国鉄新線として工事再開されること
はなかった[51]。
「プロの国鉄がやってもダメなものを、素人の県や市町村がうまくやれるはずがない」として
慎重であった君知事は、第三者のコンサルタントを入れて経営分析を行わせ、また第三セクタ
ー化は越後湯沢 - 六日町間と犀潟 - 直江津間での国鉄への乗り入れを行うことを条件としてつけ
た[55]。コンサルタントも、秋田内陸縦貫鉄道秋田内陸線に対して「永久に黒字転換する見込
みがない」と厳しい診断を下した会社に依頼した[55]。ところが新潟県の予想に反し、コンサ
ルタントは「5 年で単年度黒字、10 年で累積黒字」との報告書を出し、また国鉄も直通運転を
了承した[55]。こうして梯子を外された格好となった新潟県は、第三セクター化推進の方針に
転換することになった[56]。裏側では、田中元首相の政治力を背景に諸里市長が立ち回り、君
知事を政治的に追い込んだ、と伝えられている[56]。こうして 1984 年(昭和 59 年)8 月 30 日
に北越急行株式会社が設立され、1985 年(昭和 60 年)2 月 1 日に鉄道事業の免許を取得し、3
月 16 日に工事が再開された[57]。
第三セクター鉄道として建設を再開するにあたり、建設計画が修正された[58]。気動車による 1
両または 2 両編成程度を想定、最大で 4 両編成とし、旅客輸送のみに限定することになった
[58] 。これにより全体にプラットホームと待避線の有効長が短縮され、頸城大島駅(ほくほく
大島駅)の交換設備は省略されることとなった[58]。また、上下列車の待避線への同時進入を
考慮しないこととして安全側線も省略された[58]。JR 線と接続する六日町・十日町・犀潟の駅
配線は大幅に変更され、特に十日町は飯山線との平面交差から立体交差に修正された[58]。橋
梁の設計活荷重については、国鉄時代には KS-16 荷重を想定していたが、旅客のみに改められ
たこともあり、第三セクター化以降に建設される場所については KS-12 荷重を採用することに
なった[59] 。また新座(しんざ)、顕聖寺(うらがわら)、大池(大池いこいの森)の各駅が
要望駅として追加になった(いずれも当時の仮称でカッコ内は開業時の駅名)[60]。
建設において最大のネックとなったのは路線のほぼ中央にある鍋立山トンネルであった。鍋立
山トンネルは工事中断時点で中央部に 645 メートルの未掘削区間が残されており[61]、1986 年
(昭和 61 年)2 月 24 日に掘削が再開されたが、極度の膨張性地山のため、当初の中央導坑先
進工法
(先に中央部の導坑を掘削する工法)では強大な土圧により支柱が座屈するなどの問題を生じ
た[61]。続いてトンネルボーリングマシン(TBM)を導入したが、これも掘削中に土圧により発
進地点より手前まで押し戻されてしまう事態となった[61]。その後、薬液の注入や[61]、最終的
には手掘りも実施する[62]など、実に 29 の工法が駆使された[63]。1992 年(平成 4 年)10 月
29 日にようやく先進導坑が貫通し、1995 年(平成 7 年)3 月 7 日に掘削完了、11 月 7 日に竣
工[64]となり、これにより開業のめどが立つことになった[65]。結果的にこの区間には 10 年余
りの歳月と
146 億円の工費が投入されることとなり[66]、のちにほくほく線の開業を左右したのは政治でも
採算上の数値でもなく、鍋立山トンネルの工事であったと評された[65]。
高速化の決定
工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。
そのような中、1988 年(昭和 63 年)になり、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる
計画が運輸省から打ち出された[46]。当時北陸新幹線は整備新幹線問題の関係で計画凍結は解
除されたものの着工されておらず、1988 年(昭和 63 年)のいわゆる「運輸省案」では長野以
南の建設を優先し、高崎 - 軽井沢間のみフル規格、軽井沢 - 長野間はミニ新幹線、糸魚川 - 魚津
間、高岡 - 金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間に
するスーパー特急方式とする計画が提案されているに過ぎなかった。
北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車
の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌 1989 年(平成元年)5 月 31 日に
高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され[67]、路線の軌道は、最高速度 200 km/h も
視野に入れた高規格路線での建設が開始された[68]。
設備面では、高速化の制約となる分岐器の通過速度制限を緩和するために、一線スルーにする
改良を実施した[72]。軌道を強化するため、スラブ軌道区間を延長し、レールも一部を 50kg レ
ールから 60kg レールに変更し、道床厚の増大や枕木の追加を実施した[73]。特急列車の最大 10
両編成に対応するようにプラットホームや交換駅の待避線有効長が再び延長された[74]。信号
設備は、高速進行現示のできる信号機を設置し、また自動列車停止装置 (ATS) を ATS-P 形とし、
安全側線は省略されたままとした[75]。このほか、ホーム柵の設置、雪害対策の強化、騒音防
止などの措置が採られた[76]。
ほくほく線は「雪対策」の節で後述するように周囲の路線と比べ比較的安定的な運用を行って
いるが、2000 年代には度々自然災害に見舞われている。特に 2004 年(平成 16 年)10 月 23 日
の新潟県中越地震では発生後全線で運転を見合わせ[90]、10 月 26 日より被害の少なかった犀潟
- まつだい間で普通列車に限った臨時ダイヤによる運転を再開し[90]、11 月 2 日に全線で運転を
再開した[90]。当初は速度制限つきの運転で、12 月 17 日から 160 km/h 運転を再開している[90]
。また、 2005 年(平成 17 年)2 月 11 日より上越線が全面復旧する 3 月 24 日までの間、週末
を中心にのべ 13 日にわたって急行「能登」がほくほく線を経由して運転された[90]。2007 年(
平成 19 年)7 月 16 日に発生した新潟県中越沖地震では、特急「はくたか」が終日運休となり
、翌 17 日から運転を再開した[91]。
一方、ほくほく線の高規格化が行われるきっかけとなった整備新幹線計画問題については、ほ
くほく線開業のおよそ半年後の 1997 年(平成 9 年)10 月 1 日に北陸新幹線高崎 - 長野間が開
業したが、この時点では上越新幹線・ほくほく線経由が北陸地方への最速ルートであることか
ら、開業まで運転されていた特急「白山」のような長野駅から北陸地方への接続列車は定期運
転されず、「長野(行)新幹線」という愛称が付けられる一因となった[92]。しかし、長野以
北についても翌 1998 年(平成 10 年)3 月 12 日に長野 - 上越(仮称)間、2001 年(平成 13 年
)4 月 25 日に上越(仮称) - 富山間、2005 年(平成 17 年)4 月 27 日に富山 - 金沢 - 白山総合
車両基地(仮称)間の工事計画がフル規格で認可され、順次着手されるなど、計画が見直され
るたびにフル規格での建設が進められていった[92]。
当時、ほくほく線を運営する北越急行は 10 日間しか営業していなかった初年度を除いて毎年数
億円の黒字となっており[93]。2001 年度の営業係数は 73.0 パーセントと、第三セクター鉄道の
中では経営状態は良好であったが、全体の 9 割が特急による収益で、普通列車の収益は全体の
1 割にも満たなかった[87]。このため、北陸新幹線開業に備えて、利益を赤字補填用に蓄えるこ
ととした。先述の JR 東日本の 485 系を 683 系 8000 番台の自社による投入で置き換えたことも
、JR 東日本側の事情[注釈 4]のほか、全便高速化による運用効率向上によるサービスアップ・増
収や、 JR 東日本への車両使用料の支払いを無くし、逆に従来 3 社で相殺していた JR 東日本・
西日本線の走行時の車両使用料収入を得るという目的もあった[94]。こうして、最終的には
2013 年(平成 25 年)3 月 31 日時点で約 92 億円の剰余金を持った状態[95]でほくほく線は
2015 年 3 月 14 日の北陸新幹線長野 - 金沢間開業を迎えることとなった。
北陸新幹線金沢延伸開業以降
超快速「スノーラビット」。直江津駅。
2018 年 12 月 1 日、「永続的に鉄道を走らせていく」ため運賃改定が実施された。普通運賃と
通
勤定期が 10%値上げされたが、通学定期は据え置かれ、中学生用定期が新設された[111][112]。
年表
1953 年(昭和 28 年)
2 月 - 第 9 回鉄道建設審議会で地元意見の不一致を理由として審議未了・保留[114]。
8 月 - 新潟県知事裁定により北越北線採択[25]。
9 月 - 期成同盟会総会を南線側がボイコット[25]。
1962 年(昭和 37 年)
4 月 22 日 - 鉄道建設審議会が上越西線(北越北線)を予定線に採択[115]。
1964 年(昭和 39 年)
4 月 22 日 - 運輸大臣により、北越北線を調査線に指示[30]。
9 月 28 日 - 工事線に昇格[30]、運輸大臣が路線の基本計画を定め、日本鉄道建設公団(鉄道
公団)に対して工事実施計画の指示[6]。
1968 年(昭和 43 年)
3 月 28 日 - 六日町 - 十日町間工事実施計画認可[6]。
8 月 14 日 - 六日町 - 十日町間着工[6]。
3 月 1 日 - 第三セクター設立準備会設立[57]。
8 月 27 日 - 北越急行創立総会を新潟市で開催[57]。
8 月 30 日 - 北越急行株式会社設立登記[57]。
11 月 8 日 - 国鉄再建法第 14 条第 1 項に基づく国鉄新線の告示[57]。
1985 年(昭和 60 年)
2 月 1 日 - 北越急行が地方鉄道業の免許を受ける[57]。
2 月 25 日 - 運輸大臣により鉄道公団へ工事実施計画の指示[57]。
3 月 16 日 - 鉄道公団により工事再開[57]。
1989 年(平成元年)
3 月 28 日 - JR 東日本と北越急行の間で北越北線高規格化に関する基本協定を締結[118]。
7 月 31 日 - 運輸大臣が鉄道公団に対して工事実施計画の変更指示[120]。
10 月 2 日 - 高規格化対応工事に着手[120]。
1996 年(平成 8 年)
4 月 15 日 - まつだい駅構内にてレール締結式[121]。
2004 年(平成 16 年)
10 月 23 日 - 新潟県中越地震発生、全線で運休となる[90]。
10 月 26 日 - 犀潟 - まつだい間で運転再開[90]。
11 月 2 日 - 全線で運転を再開[90]。
2015 年(平成 27 年)
3 月 14 日 - 北陸新幹線 長野 - 金沢間の開業に伴い、特急「はくたか」廃止[97][98][99]。最
高
速度 160km/h 運転を終了し、国土交通省への申請最高運転速度を 130km/h へ引き下げ[8]。超快
速列車「スノーラビット」運転開始[11]およびえちごトキめき鉄道への乗入れ開始[106]。
2016 年(平成 28 年)
8 月 28 日 - イベント列車「超低速スノータートル」第 2 弾を運行。今回以降先着順から抽
選に変更、競争率 3 倍。
11 月 8 日 - 佐川急便と連携した貨客混載列車の試運転を報道各社に公開[108]。
施設
くびき駅を高速で通過する特急「はくたか」
開業当時の線内最高速度は 160 km/h で、これは新幹線を除く鉄道では京成電鉄 成田空港線(
成田スカイアクセス線)の「スカイライナー」とともに日本では最速、狭軌では単独の国内最
速であった。このため、後述のように各種設備はそれに対応して設計された。
構造物
軌道
くびき駅のノーズ可動クロッシング。
軌道は、トンネル内や高架橋など全線の約 7 割でスラブ軌道が採用され[137]、軌道の強化と保
守の低減が図られている[138]。このスラブ軌道には「枠型スラブ」と称するコンクリート使用
量が少ないものが採用されており[139]、その後東北新幹線・北陸新幹線の延伸部分でも採用さ
れた[139]。
築堤など約 2 割の区間はバラスト軌道を用いたが、築堤上にアスファルトを敷き雨水浸水対策
をしたうえで軌道を敷設している[140]。このほか、事情に応じて合成まくらぎ直結軌道、弾性
まくらぎ直結軌道、鋼直結軌道、パネル軌道などの区間もある[137]。住宅の多い地域では、バ
ラスト軌道とコンクリート枕木の組み合わせを採用し、騒音低減を図るなどの配慮が行われて
いる[138]。
本線上において高速走行の列車が通過する場所にある分岐器 12 組はノーズ可動クロッシングと
した[141][注釈 5]が、これは開業時点では、新幹線以外の日本の鉄道ではほくほく線を含めても
20 組程度しか導入されていなかった特殊な分岐器である[141]。十日町駅構内については、駅前
後の曲線で速度制限を受けることによって 130 km/h 以下の速度での通過となるため[142]、ノ
ーズ可動クロッシングを使用していない[142]。また、交換設備はすべて 1 線スルー方式で[72]
、直進側を通過する際には最高速度のままで通過可能である[72]。
トンネル
魚沼丘陵と東頸城丘陵を横断する線形からトンネルが 14 か所と多く[5]、すべてのトンネルの
長さを合計すると 40,342 メートルとなり、これは路線長 59,468 メートルの 67.8 パーセントに
相当する[143]。他の構造種別は、土路盤が 9,679 メートルで 16.3 パーセント(うち切取 1,042
メートル、盛土 8,637 メートル)、橋梁が 9,447 メートルで 15.9 パーセントである[143]。後述
のように単線であることに加えて、非電化を前提として建設が開始されたため、通常の複線電
化されたトンネルと比較してトンネル断面積が小さいことが特徴である[130]。
赤倉トンネル
薬師峠トンネル
鍋立山トンネル
鍋立山トンネル
霧ヶ岳トンネル
第一飯室トンネル
橋梁・高架橋
構想当初から首都圏と北陸を結ぶ優等列車や貨物列車の運転が考えられていたため KS-16 荷重
を採用していた[36]。しかし国鉄再建法に伴う工事中断とその後の第三セクター方式での建設
再開に際して、旅客専用線として計画を改めており、重い機関車の入線は不可能となっている
[103]。第三セクター化後に建設された区間の活荷重は KS-12 荷重を採用している[59]。ただし雪
かき車の通行は想定されており、設計に際して DD14 形・DD53 形の両ロータリー式雪かき車の
重量が考慮され[59]、荷重試験や軌道検測車による検測では DD51 形が入線している[81]。
高架橋の中に雪が溜まらないようにする対策として、くびき付近では線路と側壁の間が吹き抜
けとなっている「開床式高架橋」を採用している[71]ほか、周囲が田園地帯の区間の高架橋に
は、そもそも側壁自体が設けられていない[153]。一方、しんざ駅と十日町駅の間の高架橋では
、赤倉トンネルの湧水をそのまま線路脇に流して融雪している[154]。
駅・信号場
ホームへの入口に設けられたスイングゲート
六日町駅に隣接する車両基地(収容庫)
列車の行き違いを行う交換設備は、起終点を除くと十日町・まつだい・虫川大杉・くびきの 4
駅と、赤倉・薬師峠・儀明の 3 信号場にあり、すべて 10 両編成同士の列車交換が可能である
[72]。駅数は両端の六日町駅・犀潟駅を含めて 12 駅で[5]、自社管理の駅員配置駅は十日町駅だ
けで[5] 、起点・終点駅である六日町駅・犀潟駅と十日町駅以外は、すべて無人駅である。特急
の停車しない駅のプラットホームは、虫川大杉駅の 1 番線のみ 9 両分の長さで[153]、ほかはす
べて 2 両分のみである[153]。また、信号場は 3 か所ともトンネル内にある[5]。トンネル内の信
号場は、国鉄新線としての建設時に貨物列車の運行を計画していたことから、有効長 460 メー
トルを実現するために、複線断面となっている延長が 680 メートルに達しているが、実際の待
避線有効長は
240 メートルとなっている[158]。当初計画では制限速度 45km/h の振り分け分岐器を使用する
ことになっていたが、そのままでは一線スルー構造を実現できないことから、半径 3,000m の S
カーブとすることによって対処している[140]。
「はくたか」・快速が停車しない駅では列車が高速で通過して危険であることから、地上駅に
ついてはホームへの入口にはスイングゲートを装備し、列車に乗降する時以外はホームに入ら
ないようにとの注意書きがなされた[159]。地下駅の美佐島駅は、特急が 140 km/h でトンネル
に進入した場合、トンネル内を吹き抜ける風は、風速 25 メートルにも及び[153]、通過列車が
接近した場合に風圧によって飛ばされる危険が高いことなどから、二重の防風扉を装備し、客
扱い時以外はホームを封鎖する。無人駅ながらホーム部分は常に監視カメラによって管理され
ており、列車到着後 2 分以内にホームから出る必要がある。このため、列車が発着した後もホ
ームに残っているとアナウンスで注意される[154]。
閉塞方式
保安装置
トンネル内の架線吊架には特殊な碍子が使用されている(赤倉トンネル・美佐島駅) 浦川原
変電所
トンネル内の架線吊架には特殊な碍子が使用されている(赤倉トンネル・美佐島駅)
浦川原変電所
架線支持方式は、高速走行時にも電車が安定して給電を受けられるように、地上区間では新幹
線と同様のコンパウンドカテナリ方式を使用している[141][注釈 10]が、もともと非電化路線と
して建設されたため断面積の小さいトンネル内では、上下寸法の小さいツインシンプルカテナ
リ方式を採用しており[141]、さらに吊架には長幹碍子という特殊な碍子を使用している[141]。
変電所は、おおむね 10 km 間隔で六日町・津池・十日町・松代・大島・浦川原・大潟の 7 か所
に設置されており、総出力は 33000kW としている。これは総延長が約 60km の鉄道路線として
は異例の重装備であるが、「はくたか」運行終了に伴い設備のスリム化を図るため、津池変電
所を廃止、大島・大潟の変電所からの受電を止めることで、使用する変電所を 4 か所に削減す
る予定としている[166]。また沿線が有数の豪雪地帯であるため、一部を除いて変圧器などの重
電部品は建屋に収納する対策が施されている[162][167]。
雪対策
前述の通り、路線長の 68 パーセントがトンネルであるが、残る地上区間については先述したほ
かにも数々の雪対策が施されている。これら対策を開業当初から施した[87]ことにより、ほく
ほく線は接続する JR の路線が不通になった時でも運休することはほとんどなく[168]、雪対策で
不備をきたしたことも皆無に近い[87]。
消雪溝
車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。六日町駅構内に設け
られており、線路脇に溝を作って地下水を流す[169]。なお六日町では地下水汲み上げによる地
盤沈下が激しく、地下水の利用には制限があるため[169]、使用後の水は循環使用される[169]。
パネル式融雪装置
車両が排雪した後も線路脇に雪の壁を作らないようにするための装備。地下水によって加温
した不凍液をパネルの中に循環させるもので[170]、民家や施設が周囲にあって除雪の際に投雪
ができない場所に設けられている[170]。六日町駅構内では地下水は循環利用である[169]が、関
越自動車道を跨ぐ場所では取水制限がないため地下水は循環利用していない[139]。
融雪ピット
スプリンクラー
六日町の車両基地構内、十日町駅構内などに設けられている。六日町では地下水を利用する
が、前述の取水制限があるため使用後の水は循環使用されているほか、車両基地内も路盤をア
スファルト舗装とし、その上にバラストを敷いた強化路盤としている[1]。十日町駅手前の飯山
線を跨ぐ部分は赤倉トンネルの湧水を[154]、十日町駅構内では薬師峠トンネルの湧水を利用し
ており[171]、使用後の水は十日町の市街地道路の融雪に利用された後、信濃川へ放流されてい
る[171]。
熱風ヒーター
地下水脈が全くないため地下水を利用する手段が採れず[172]、水利権の関係で川の水も利用
できない[172]まつだい駅構内の分岐器に装備される[172]。ボイラーで摂氏 100 度まで加温され
た温風をダクトで分岐器に導くもので[172]、温風噴射口では摂氏 40 度程度の温風となる[172]
。
なお、松代地区では道路の融雪も水が利用できず、ロードヒーティングが主体である[172]。
温水ジェット噴射装置
分岐器の可動部分で雪氷が詰まることによって、分岐器の不転換を引き起こすことがある
[173]。無人駅がほとんどのほくほく線では、直ちに人力で対応することは難しいため[173]、不
転換の分岐器があった場合には温水を噴射して氷雪を溶かす方法を採用した[173]。この装置は
運行指令所から遠隔操作され、噴射口からは摂氏 25 度の温水が 60 秒間噴射される[172]。この
装置は、ほくほく線の本線上にあるすべての分岐器に装備されている[173]。降雪のないトンネ
ル内の信号場にも設置されているのは、通過車両から落下する可能性のある雪や氷を考慮した
ためである[172]。
除雪機械(モーターカー) JR から譲受した旧式の排雪用のモーターカー1 台のほか、ほくほ
く線開業時に新造した 2 台が用意されている[174]。新造したモーターカーは、犀潟寄りに雪を
両脇に押し出すラッセルヘッド[174]、六日町寄りに線路脇の雪の壁を崩した上で投雪するロー
タリーヘッドを装備している [174]ほか、架線に付着している霜や雪を除去するためにパンタ
グラフを装備している[173]。冬期中は、これらのモーターカーで夜間時に除雪作業を行ってい
る[160]。
このような地上側での雪対策の装備について、定期点検を含めた総経費は年間約 1 億円である
[172]。
くびき付近の開床式高架橋
十日町付近の高架橋では両脇に湧水を流している
六日町駅構内に設けられた消雪溝
線路の両側にパネル式融雪装置が設置されている区間。線路の両側の部分だけ積雪がない
まつだい駅の分岐器に設置される熱風ヒーター。レールの間にある四角い箱のようなものが
ダクトである
十日町駅に取り付けられた消雪スプリンクラー
車両洗浄機や洗浄台も収容庫内に設けられた
運行形態
開業当初から、越後湯沢駅での上越新幹線との連絡を最優先にしたダイヤ設定が行われ[175]、
特急廃止後の 2015 年 3 月 14 日以降は、普通列車を主体とした地域密着型のダイヤとしている
。
定期全列車がワンマン運転である。 正式な起点は六日町駅であり、六日町駅から犀潟駅へ向か
う列車が下り、逆方向を上りとしているが、列車番号は犀潟駅から六日町駅へ向かう列車が通
常下り列車を表す奇数、逆方向が通常上り列車を表す偶数となっている[176]。これは、特急「
はくたか」が JR 西日本主体の列車であったことから[176]、北陸本線に合わせたためであり
[176] 、「はくたか」廃止後もそのままである。本記事では、以下路線の起点に則って上り・下
りを表記する。
普通列車
一部列車は日曜日を中心に後述の「ゆめぞら」の限定運用となっており、トンネル走行時に映
像上映が行われている。詳しい運行状況は北越急行の公式サイトで確認することができる
[177][178]。
JR 線内へ乗り入れる列車は JR 線内で通過運転を行っており、上越線の上越国際スキー場前駅(
冬期のみ)と塩沢駅に一部列車が停車する[153]が、上越線の石打駅・大沢駅は全列車通過する
。信越本線の黒井駅は 2015 年 3 月 13 日までは全列車通過していたが翌 14 日のダイヤ改正に
伴って一部列車が停車となった[153]。大半の列車が通過となる理由として、短い編成でワンマ
ン運転を行うほくほく線の列車では、JR 線内での突発的な需要に応じ切れないことが挙げられ
ていた[153]。朝の上り 1 本は大池いこいの森駅を通過する。
2015 年 3 月 14 日のダイヤ改正で特急「はくたか」が全廃された[179]ことに伴い、特急列車優
先による待ち合わせが解消された[180]ことから、普通列車の所要時間は 1 列車あたり 10 分程
度短縮された[181]。
快速列車
超快速「スノーラビット」
詳細は「スノーラビット」を参照
車両側面の「超快速スノーラビット」表示
超低速「スノータートル」
「ウサギといえばカメだよね」という北越急行社内での冗談から、超快速の対極に位置する列
車として生まれ[185]、難工事で知られる鍋立山トンネルを 10km/h 以下の低速で通過するほか
、トンネル内の信号場では列車が通過しない側の乗降用ドアと貫通扉を開け、離合時に発生す
る
10m/s の風を体験する試みも行われた。
初回運行時は『全車指定席の臨時列車』(運賃と指定席料金のみで乗車可能)として運行され
たが、2016 年 8 月 28 日の第 2 回運行以降、北越急行が旅行業登録を行い『団体列車』(食事
付き
)として運行されている[186]。
乗務員について
ほくほく線内の列車に乗務する乗務員は、全列車とも、JR 東日本の区間も含めて北越急行の運
転士が担当する[187]。ただし 2015 年 3 月 13 日まで運行されていた特急列車では、境界駅の犀
潟駅・六日町駅に停車しない関係で(六日町駅は一部の列車が停車)2012 年時点では運転士・
車掌ともに JR 東日本直江津運輸区が担当していた[188]。なお、開業当初から 2004 年 3 月ダイ
ヤ改正までは JR 西日本の車掌もほくほく線区間を乗務することがあった[187]。
列車の乗降方法
ワンマン運転のため、駅員が配置されている越後湯沢駅・塩沢駅・六日町駅・十日町駅・犀潟
駅・直江津駅ではすべてのドアが開き乗降が可能だが、これらの駅以外の駅で乗降する場合は
、2 両編成で運転される普通・快速列車の 2 両目のドアは開けず、1 両目の後部のドアより乗車
し
、1 両目の前部のドアより降車する後乗り前降り方式を取っている[189]。
運行管理
運転指令所 各駅に設置された列車運転状況表示装置(まつだい駅)運転指令所
各駅に設置された列車運転状況表示装置(まつだい駅)
ほくほく線の運行管理は、六日町駅に隣接した運転指令所により行われている[93]。
また、運転通告(運転指令員から運転士に対しての指示)についても、JR などで行われている
運転通告券による方式は無人駅の多いほくほく線では困難であるため[84]、無線伝達をもって
運転通告としている[84]。このため、全線にわたって漏洩同軸ケーブル (LCX) が敷設され[72]、
列車がほくほく線内のどの位置にいても運転指令所との通信が明瞭に行える[72]。
ほくほく線区間の特急の運転士は前述の通り JR の乗務員が担当していたが、ほくほく線内では
一切の指揮系統は北越急行の運転指令によるものとなっていた[188]。一方北越急行の運転士が
担当する普通列車の JR 東日本区間への乗り入れ先では、JR 東日本の指揮下となる[188]。
過去の運行状況
利用状況
ほくほく線の沿線は大きく南魚沼地域(南魚沼市のうち旧六日町)・中魚沼地域(十日町市の
旧市域)・東頸地域(十日町市のうち旧松代町)・平野部(上越市のうち旧町村部にあたる大
島区・浦川原区・頸城区・大潟区)の 4 地域に分けられる[53]。それぞれの地域はもともと丘
陵地帯によって隔てられていたため[53]、平常時の流動はほくほく線のルートとは平野部以外
は一致していない[53]。東頸地域はもともとの交通事情が悪かったため、ほくほく線の開業に
伴い利便性が向上したものの、ほくほく線の沿線は最も過疎化と高齢化が進んでいる地域で
[53]
、マイカー保有率も 1.5 人に 1 台の割合で[53]、かつ、2008 年の新潟県内公立高校普通科の学
区撤廃まで学区も異なっていたため、当初より線内需要や地域を越えた広域流動需要は厳しい
と見られていた[53]。
こうした事情もあり、ほくほく線開業と同時に公共交通体系の再構築が行われた。北越急行に
出資するバス事業者である頸城自動車は、1996 年 10 月に東頸地区自治体との共同出資による
東頸バスの営業を開始し[193]、ほくほく線の開業後は各駅前に乗り入れる路線を設定した[193]
。また、同様に北越急行に出資するバス事業者の越後交通は、ほくほく線の列車と競合する越
後湯沢 - 十日町の路線バスを減便している[193]。
輸送実績
ほくほく線の輸送実績を下表に記す。表中、輸送人員の単位は万人。輸送人員は年度での値。
表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度
以前の最低値を緑色で表記している。鉄道統計年報各年度版より作成。
年度 輸送実績(乗車人員):万人/年度 輸送密度
人/1 日 特記事項
年度 旅客運賃収入:千円/年度 運輸雑収千円/年度 総
合計
千円/年度
現在の使用車両
自社車両
ほくほく線内の普通列車は、特急列車「はくたか」への影響を最小限とするため[103]、ローカ
ル線の普通列車としては高速の部類に入る最高速度 110 km/h と[153]、優れた加速性能
(3.0km/h/s)[103]が要求された。
HK100 形
線内の普通列車として開業時より運用される車両[103]で、開業時点ではイベント兼用車 2 両
含む 9 両を製造[5]。1999 年に 1 両[93]、2003 年にイベント車 2 両が増備された[103]。 イベ
ント車 4 両は「ゆめぞら」と称し、トンネルが多くあまり景色が見られないという路線特徴を
逆手に取り、トンネル走行時に車内にて映像が上映される[103]。
過去の特急列車の使用車両
「はくたか (列車)#在来線特急時代の車両」も参照
2015 年 3 月 13 日まで運行された特急「はくたか」については、北越急行の保有車両と JR 東日
本・西日本が保有する車両が使用された。
1997 年の開業当初は、特急「はくたか」の経由する各社の営業キロを按分することによって、
JR 西日本・北越急行・JR 東日本が 7:2:1 の比率で車両を運用しており[187]、JR 西日本では 681
系と
485 系[187]、北越急行は 681 系[187]、JR 東日本は 485 系を使用していた[187]。
自社車両
いずれも特急「はくたか」で運用された。北越急行保有の特急形車両は、JR 西日本の保有する
車両と同一形式として製造した。これは、車両選定の段階で 160 km/h の高速走行を考慮して設
計されていたのが JR 西日本の 681 系しかなかったこと[197]、全くの新形式を製造することは
会社の体力的に無理があったことが理由として挙げられている[197]。その一方、他社からの乗
り入れのみでなく自社の車両を保有することになったのは、各社間協議で「大規模な相互直通
運転を行うには各社が初期の設備投資をするのが絶対条件」とされていたこと[198]、過去に経
験のない高速運転を実施するために長期にわたる試験が必要となった[199]が、JR 西日本の車両
を長期間借用するのは困難であった[197]ことが理由として挙げられる。北越急行所属車につい
ては、独自の赤主体の塗装、「スノーラビットエクスプレス」(Snow
Rabbit Express)という車両愛称を持ち[187]、車体には「SRE」とユキウサギのロゴマークが施さ
れていた。運用も当初は区別されていた[187]が、2002 年 3 月ダイヤ改正以降は JR 車との共通
運用となっていた[196]。 2015 年 3 月 14 日の北陸新幹線開業後は全車両が同日付で JR 西日本
に譲渡され[200][注釈 12]、主に「しらさぎ」「能登かがり火」「ダイナスター」で運用されて
いる。塗装も同年 6 月初めまでに順次「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更された[201][注釈
13]。
681 系 2000 番台
683 系 8000 番台
JR 東日本からの乗り入れ車両
485 系 3000 番台
JR 西日本からの乗り入れ車両
485 系
489 系
681 系 0 番台
開業時から乗り入れ[187]。車両愛称は「ホワイトウイング」[207]。
先述の通り、開業当初は北越急行車と運用を区別した[187]が、2002 年 3 月のダイヤ改正以降
は共通運用となっていた[196]。2015 年 3 月のダイヤ改正に前後して、同年 6 月初めまでに一部
を除き「しらさぎ」用の塗装デザインへ変更・転用された[201]。
683 系
JR 西日本 681 系 0 番台
JR 西日本 485 系
JR 東日本 485 系
JR 西日本 489 系
臨時列車等
以下、「はくたか」以外で乗り入れ実績のある、あるいは予定されている車両である。
JR 東日本からの乗り入れ車両
115 系
臨時列車として高崎車両センター所属車が乗り入れた実績がある。
E129 系
485 系 300・1000 番台
485 系 ジョイフルトレイン
E653 系 1000 番台
臨時列車として乗り入れ実績がある[214]。
HB-E300 系(「リゾートビューふるさと」)
車。
JR 西日本からの乗り入れ車両
583 系
冬季に「シュプール号」で乗り入れた[216]。
えちごトキめき鉄道からの乗り入れ車両
ET122 形基本番台
2018 年 9 月 7 日に特別運行「大地の芸術祭・里山紀行」として乗り入れ予定[218]。
データ
路線データ
管轄(事業種別): 北越急行(第一種鉄道事業者)
mm[134]
駅数(起終点を含む): 12 最高速
度: 130 km/h[8]
複線区間: なし(全線単線)
径: 400 m[134]
最急勾配: 33 パーミル[134]
設計活荷重: KS-16(国鉄時代に完成した区間)、KS-12(第三セクター化後に完成した区間)
佐島駅があり、開業当時は地下鉄・JR 線以外では日本最長の鉄道トンネルだった[3]) 閉塞
駅一覧
全線新潟県内に所在。便宜上、ほくほく線の列車が直通する JR 上越線・信越本線の区間も合
わせて記載する。なお
JR の普通列車は上越国際スキー場前駅を除き下表の JR の駅すべてに停車する。
凡例
停車駅 … ●:全列車停車、|:全列車通過、*:一部の列車が停車、※:夏季・冬季のみ一
部の列車が停車、△:一部の列車が通過
線路 … ∥:複線区間、◇:単線区間(列車交換可能)、|:単線区間(列車交換不可)、∨:
ここより下は単線、∧:ここより下は複線
営業
北越急行 ほくほく線
薬師峠信号場 - (23.8) | | | ◇
まつだい駅 13.3 29.2 ● ● * ◇
儀明信号場 - (34.1) | | | ◇
JR 東日本 信越本線
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注釈
^ いずれも越後湯沢の西方にある地名であるが、原出典では地図等の明示がなくこれらに該
当すると確定できない。ここでは仮に関連すると思われる記事にリンクしてある。
^ 1962 年 4 月から松之山町内で大規模な地すべりが発生していた。南線予定ルートにある「
光間」駅付近[28]。
^ アンケートの上位は「ほくほく線」と「北越ロマン線」の 2 つであった。
^ ノーズ可動クロッシングにすることによって、ポイントを高速で通過しても脱線しにくく
なる。
^ 開業時点では JR 以外の日本の山岳用鉄道トンネルとして最長であったが、2015 年 3 月 14
日の北陸新幹線開業に伴い、北陸本線の頸城トンネル(11,353m、1969 年開通)がえちごトキ
めき鉄道日本海ひすいラインの所属に移管されたため、「JR 以外の鉄道で最長の山岳トンネル
」の座は譲っている。
^ これにより、この区間での単線区間においては、1 つの列車しか進入できないようになって
いる
^ 架線支持方式には様々な方式がある。コンパウンドカテナリ方式の架線は構造が複雑であ
る反面、一般的な架線よりも張力を高くすることが可能でありパンタグラフへの追従性が良い
。
^ 仮にこの数値を国鉄再建法により規定された区分に当てはめた場合、「地方交通線」では
なく「幹線系線区」に該当する。
^ なお、1 編成は前述の譲渡を待たずに「しらさぎ」色への塗り替えが行われた。
出典
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ナビニュース. (2015 年 10 月 6 日) 2016 年 7 月 16 日閲覧。 ^ 「在来線最速特急の誇り」
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^ (国土交通省鉄道局監修、一般財団法人)運輸政策研究機構発行『数字でみる鉄道 2013』
(ISBN 978-4-903876-51-1 2013 年 10 月 31 日発行) p.64
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^ 「JR 特急電車のスタンダード Series485」 p.9
^ 「雪国を駆けぬけるスノーラビット」 p.50
^ 「在来線最速特急の誇り」 pp.24-25
^ 【2018.02.15】第 69 回十日町雪まつり
「POST」p.163
参考文献
ウィキメディア・コモンズには、北越急行ほくほく線に関連するカテゴリがあります。
工事誌
^
『北越北線工事誌』 日本鉄道建設公団、日本鉄道建設公団、1998 年 3 月。
書籍
『三セク新線高速化の軌跡』 日本鉄道建設公団高速化研究会、交通新聞社、1998 年 10 月 20
日
、初版。ISBN 4-87513-077-5。
『ほくほく線の十年』 北越急行株式会社、北越急行、2008 年 3 月。
雑誌記事
柴田剛志「回顧 21 年 3 カ月 北越北線・鍋立山トンネル掘削完了」、『日本鉄道施設協会誌
』第 33 巻第 10 号、日本鉄道施設協会、1995 年 10 月、 765 - 767 頁。
鶴通孝「在来線高速化をリードする北越急行のチャレンジ」、『鉄道ジャーナル』第 428 号
、鉄道ジャーナル社、2002 年 6 月、 20-33 頁。
関連項目
国道 253 号 - ほぼ全線にわたって並行する一般国道
上越魚沼地域振興快速道路(上沼道) - ほぼ全線にわたって並行する地域高規格道路(自
動車専用道路)
八箇峠トンネル - 鍋立山トンネルと同じく難工事となった赤倉トンネル近くの上越魚沼地
域振興快速道路(上沼道)のトンネル
外部リンク
北越急行株式会社
カテゴリ:
中部地方の鉄道路線新潟県の交通第三セクター路線北越急行
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