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18世紀制限戦争下の軍事思想家

はじめに
王朝時代華やかなりしヨーロッパでは攻撃が防御に受けとめられ、膠着状態に入った時代である。戦争は行な
われても、過熱することなく終結してしまう。このような制限戦争(limited war)のもとで、スウェーデン国王
グスタフ二世(GustavⅡ,1594~1632)やオーストリアのモンテクッコリ(Raimondo Montecuccoli,1609~1680)
たちの軍制改編の思想を受け継いで、18 世紀の軍事・戦略思想は成熟して一時代を形成する。そしてそれはやが
て 19 世紀のナポレオン(NapoléonⅠ,1769~1821)へ収斂され、引き継がれていくのである。
18 世紀の軍事思想家はフランスのヴォーバン(Vauban Sébastien Le Prestre de,1633~1707)をもって嚆矢と
する。制限戦争下でヴォーバンは攻城術と築城術をもって、損害を最小限にする工夫を行なった(1)。ヴォーバン
で特筆すべき事は、従来の軍事思想では要塞に拘泥して軍隊の存在を二義的なものと考えがちであったが、これ
を後年に転換したことにある。すなわち要塞線を簡素化し、水路で連結して、軍隊の活動を活発化させたのであ
る。これ以後軍隊の活動について再評価する所説が登場してくる。本稿ではそのような所説を取り上げ、旺盛な
機動・攻撃が主流になる 19 世紀へつながる 18 世紀の軍事思想を概観してみたい。
1 フォラール、フューキエール ~攻撃精神の再生~
フォラール(Chevalier Folard,1669~1752)はフランスの軍人で、
『ボリュビオス論』(1727)を著し、ギリシ
アの密集方陣(ファランクス)の再現を主張した。縦長の密集方陣(横 16 人、縦 32 人)で攻撃隊形を作ろうと
いうのである。これは従来の制限戦争からの脱却を図ったものであり、より攻撃性をもった機動戦を指向した着
想であった。この隊形はやがて改良を加えられ、1791 年に革命下のフランス陸軍に導入され、後にナポレオンの
軍隊を構成するようになる(2)。またサックスはこの着想を自説に取り入れていく。
同じくフランス軍のフューキエール(Antoine de Pas Feuquières,1648~1711)は、決戦至上主義を唱えつつ、
決戦が不利となる場合も想定していた。即ち「緒戦に成功すれば、その戦争の決着はついてしまうのが通常であ
る」と断じ、防御を余儀なくされた際も「将帥たるものは常に即応態勢を持し、小戦果といえどもこれを累積し
て優位獲得に邁進しなければならぬ。これにより最後には敵を潰滅させるというわが目的を達成することができ
る」としたのである(3)。これは 19 世紀の軍事思想の先駆けをなすものであり、注目に値する。
2 ロイド ~軍事思想の体系化~
ロイド(Henry Lloyd,1729~1783)はウェールズ出身であるが、反乱計画に連座して大陸へ亡命し、オースト
リアやロシアなどの陸軍に勤務した軍人である。著書も多いが、1781 年の『軍事的回想』は戦争を体系的に論じ
たもので、各国陸軍に影響を与えた。ジョミニ(Antoine Henri Jomini,1779~1869)もロイドから多くを得てい
る。
ロイドの主張は、部隊を分割せずに短く安全な単一線を保って移動せよ、ということにあった(4)。そして七年
戦争を研究して、ライバルでプロイセンのテンペルホッフ(Georg F.von Tempelhoff)とのフリードリヒ二世の
作戦をめぐる論戦を通じ、戦争を科学的に解明しようとした。ここに啓蒙思想の影響を見て取れる。
ロイドは交通線への攻撃の意義と河川や戦略要点の防御を指摘し、作戦線と作戦目標の設定を作戦計画の中心
課題であるとし、一軍を5万~6万程度にすることで統率を容易にし、会戦より奇襲や詭計による敵の疲弊を重
要視して、地形、陣地、幕営、行軍の知識の重要性を説いた(5)。これはそれまでの軍事思想を縫合し、彼なりに
アレンジしたものであり、その後の軍事研究へ知的枠組みを与えたといえよう。
3 フリードリヒ二世 ~秩序ある軍隊の建設と攻勢作戦の展開~
プロイセン国王フリードリヒ二世(Friedrich Ⅱ,1712~1786)は、国王としてよりも軍人としてよく知られて
いる。シュレジエン戦争の経験を記した『戦争の一般原則』
(1746)
、後継者のため書かれた『軍事的遺言』
(1768)

将軍向けの『布陣と戦術の基礎原理』(1771)など著作も多い。
フリードリヒは精神的に機械化された軍隊の建設に力を注いだ。そのような軍隊が整然とした行進秩序で行軍
することが重要であり、各部隊が縦隊で行進し、旋回することで騎兵を翼に配置した射撃隊形を作ることができ
るように徹底的に訓練を重ねた(6)。 しかしこの時代の風潮から脱出することはあえてせず、敵兵力の殲滅を避
けた。それは固定倉庫に軍が依存していたためであり、また追撃のため分散した軍隊がその任務を全うする前に
逃亡する恐れがあったからでもある。本来『戦争の一般原則』で迅速で激しい戦闘による決着を主張していたフ
リードリヒであるが、実際はこれを全うできなかった。複雑な機動を重ね、小さな勝利を蓄積し、戦争は陣取り
競争と化していった。その一方で戦術面では積極的な作戦を好んで行った。それは奇襲を重要視し、主導権を行
使する攻勢作戦であり、また防勢作戦でも攻勢防御を旨とした(7)。したがってフリードリヒは戦術面で後世の軍
事思想に多大の影響を与え、ナポレオン同様多くの軍事思想家が彼の作戦を自著に引用するのである。
4 サックス ~機動への着想~
サクソニア侯兼ポーランド王アウグスス二世の子息で、イギリス軍、ロシア軍、フランス軍で活躍したサック
ス元帥(Maurice de Saxe,1696~1750)は、軍事思想家として戦争を考究することを試み、著書としては 1757 年
の『幻想』が有名である。
サックスもできるかぎり戦闘を避けることを説く(8)。
「彼我の戦力が伯仲し、結末を逆賭し難い、支離滅裂に陥る危険性のある戦闘は避 けるべきで、良い統帥
は、敵と何回も遭遇しているうちに、敵の弱化と混乱を図るこ とを念頭におくべきである。」
「われが優越を保持し攻撃可能の場合のほか、状況の如何にかかわらずその攻撃は 中止せよ。」
だが、軍の活動には迅速性が必要であることも指摘しており、
「機動と戦闘の要訣は脚力に存する」とし、軍の
規模は5万人以下が適正であるとした。そして機動を重要視して騎兵の装甲と元込銃を装備した軽歩兵の配備を
主張するのである(9)。彼は軽歩兵は戦闘の緒戦に前方へ散開させ、至近距離に入ったら射撃をさせて、その後に
本隊が突入するという構想を描いていた。
このようにサックスはただ戦闘を回避していたわけではない。むしろ戦闘の価値を認めて次のように結論付け
ている(10)。
「ことわっておくが、私は、どう考えても勝利を獲得できるような行動をも否定して いるのではない。私は、
偶然を信ずることなく、戦争をやることが可能であり、それ は将帥の地位にある者が最高の手腕・完璧の技能
を持っていることを要求する、とい うことを示唆しようとしたのである。諸君に有利な状況で戦闘を遂行でき
るならば、 次の段階においては、諸君は続いてやってくる勝利の利益をいかにして獲得するかを 知る必要が
ある。そしてなかんずく、諸君は、たとえ目下流行している風潮であると はいえ、戦場における勝利者である
ことだけに満足するようなことがあってはならな い。敗北した敵軍に対して戦場から去る花道を与えてやるの
が最も分別ある行為であ る、という金言は非常によく守られている。しかし、それは誤った原則に基づいてい
る。諸君は、これと反対に、諸君の戦果を引き続き拡張し、最大の力を以って敵を追 撃すべきである。そうす
れば、整然とうまく行われるはずであった敵の退却は、確実な敗走に変るであろう。」
5 ブールセ ~分進合撃の研究~
フランスのブールセ(Pierre de Bourcet,1700~1780)は、分進合撃を着想した軍人であり、著作に未完の『山
地戦の原則』がある。地図を徹底的に研究し、そのため盲目になったほどであった。
ブールセは山地では自軍を分進させ、敵に分散を余儀なくさせ、敵が再び合一を図る前に、自軍は地形を利用
して有利な態勢を作り、要点に兵力を再集中させることを主張した(11)。1744 年のピエモンテとの戦闘ではうま
くいかなかったものの、後世に良い教訓を与えた。
その後もブールセはサックスの軍に勤務経験をもつブロイ元帥(Broglie)とのコンビで師団の改編に努めた。
彼の思想はナポレオンへ大きな影響を与えている。
6 ギベール、デュ・テイル ~機動力と火力の集中~
ギベール(Jacques Antonie Hippolyte de Guibert,1743~1790)はフランスの軍人であり、1772 年の『戦術概
論』は各国陸軍に影響を与えている。ギベールの父シャルル・ド・ギベール伯はブロイの参謀長を経験しており、
その父から幼いときより兵棋演習などを通じ、軍務を直に教わった。
ギベールの主張は迅速な機動力と火力の集中にあった。そのため軽歩兵の適切な活用、騎兵と騎乗した歩兵、
機動性のある野戦砲兵隊の創設を説いた(12)。そしてこれらの諸部隊を編合し、戦時に大規模な機動を巧みに行
なう「大作戦」を唱えた。ギベールは次のように記している。
「新時代にふさわしい将帥は、敵前において頻繁に移動し、不断に敵の決心を動揺 させ、敵を欺瞞し、故
意にわが無防備の地点を敵に暴露することにより敵をこれに導 入、敵の主攻をここに指向させるように努める。
これによって、彼等将帥たちは、敵 に対する反撃作戦要領を会得するようになる。」
「新しいアイディアを受け入れるときの常として、当時、背後から攻撃されるなど ということを知ってい
る軍隊はどこにもなかった。そんなことは不可能と考えられて いた。しかしこれこそ実現の可能性の相当大き
いものであって、…もしこの新戦法で 戦術奇襲をかけられたら、敵はどう対処するだろうか。わが軍が、巧み
に移動してい るとき、敵陣地の弱点に対して急襲に移ったとき、行軍隊形から戦闘隊形にあっとい う間に移
ったとき、敵陣地の側背に対する攻撃準備が整ったことを敵が察知したとき 敵はただ呆然としているだろうか。
為す術を知らず敵が無為な行動にでたら、それは 致命傷になるに違いない。敵は配備変更を行なうだろうか。
そうすれば敵は、今まで 頼りにしてきた地形地物・工事の利を失うこととなり、陣外決戦を強要されることに
なるであろう。」
これは即ち敵を陣地から誘い出して撃破することを言ったのであり、この当時としては画期的なことであった。
また補給は現地調達をすることで、軍の行動を束縛から解放すべきであるとも唱えた。そしてその前提としてギ
ベールは、実現を期待はしていなかったものの、国民の活力を軍隊に持ち込むことを望んだのである(13)。彼の
軍隊改革はグリボーバル(Gribeauval)とのコンビで実行に移されたが、反対に遭い頓挫する。
後年、彼は『近代戦争システム擁護論』(1779)を著し、制限戦争を肯定するようになるが、それ以前の主張
はナポレオンへ受け継がれていったのである。
ギベールに強い影響を受けた同じくフランスの軍事思想家にデュ・テイル(Chuvalier du Teil)がいる。この
デュ・テイルの補佐役をしたのが誰あろう、ナポレオン・ボナパルト、後の皇帝ナポレオンであった。さてデュ・
テイルはブールセと同郷で同じブロイの軍営におり、そのブールセやまたはギベールに感化されながら、独自の
理論を構築していく。彼の理論は『野戦における新砲兵の運用』(1778)にまとめられた。それは攻撃に先立っ
て砲兵による大量集中砲撃を行ない敵を混乱に陥れ、士気を阻喪させて後に突撃をかけて戦果を拡張する、とい
うものであった。その点でギベールより砲兵の役割を強調している。また分進合撃、弱点への急襲、敵背後への
迂回と敵の意表をつく敏速な機動の重要性を指摘した(14)。この方法論はそのままナポレオンへ吸収され、実行
に移されたのであった。
7 ビューロー ~制限戦争理論の完成~
プロイセンのビューロー(Heinrich D.von Bülow,1755~1816)は、各国陸軍に大きな影響を与えた『新戦争体
系の精神』(1799)を著した。ここでのビューローの論点は、狙撃歩兵の戦闘隊形と軍事用語の定義を明確化す
ることにあった。
しかし作戦基地の端末から延ばされた作戦線が倉庫に縛られることを前提としていたため、限定された攻撃作
戦しか論じることができず、まさに限定戦争を理論化する役目を背負ってしまう(15)。戦略の戦術に対する優越、
政軍を一体化させた国家指導部や国民の軍事への動員と士気高揚など、ナポレオン戦争下の現実から多くの着想
をするものの、いかんせん活躍する時代が遅すぎた。
ビューローは後にナポレオンの活躍を目のあたりにし、時代の移り変りを慨嘆することになるが、彼は 18 世
紀の制限戦争を理論化した最後の軍事思想家であり、その後はナポレオンの影響を強く受けた国民戦争とその解
説者の時代になるのである。
おわりに
これまで概観したように、18 世紀の軍事理論は戦争を科学的に解明しようと企図され、制限戦争の下に理論化
されていった。この時代の戦争は“いかに戦うか”ではなく、“いかに戦わないか”が重要であった。しかしその中
に新たな戦術・戦略の萌芽も見て取れる。ナポレオンはこれをしっかり吸収し、自己流に発展させて実戦に用い
たのである。この点で 18 世紀の軍事思想は 19 世紀への繋ぎをなしたのであり、突然ナポレオンが彗星のごとく
現われ、従来の常識を覆す軍事革命を実行したのではないのである。
19 世紀の軍事思想界はナポレオンの解説者たる、ジョミニやクラウゼヴィッツ(Karl von Clausewitz,1780~
1831)の弟子たちが活躍する時代になるが、彼らとて依拠する戦史はナポレオンばかりにあらず、フリードリヒ
二世、ユージン公(Prince Eugène-François de Savoie-Carignan,1663~1736)などの活躍から多くを得ているの
である。
21 世紀を迎えた今日にあっても、遥か昔の軍事思想に思いを馳せることは、現代の戦争を考える上で有意義な
ことに違いない。現実に行なわれている戦争がハイテク戦であることは稀であり、兵器こそ破壊力が増している
が、様相は前世紀的な場合が多いのである。


(1)ヴォーバンについては、ヘンリー・ゲーラック(今村伸哉訳)
「ヴォーバン-戦争に及ぼした科学の影響」ピ
ーター・パレット編(防衛大学校「戦争・戦略の変遷」研究会訳)
『現代戦略思想の系譜-マキャベリから核時代
まで』(ダイヤモンド社、平成元年)53~79 頁を参照。
(2)フォラールについては、リデル・ハート(石塚栄、山田積昭訳)
『ナポレオンの亡霊』
(原書房、昭和 55 年)
9~12 頁で、批判的に論じられている。
(3)同上、25 頁。
(4)ジョン・シャイ(桑田悦訳)「ジョミニ」前掲『現代戦略思想の系譜』133~136 頁。限界兵員数について、
モンテクッコリは3万人、サックスは4万人、ギべールは5万人、ピュイゼギュール(Jacques Françoir de
Chastenet Puységur,1656~1743)は8万人を挙げている。ロジェ・カイヨワ(秋枝茂夫訳)
『戦争論-われわれ
の内にひそむ女神ベローナ』(法政大学出版局、昭和 49 年)80 頁、98 頁。
(5)浅野祐吾『軍事思想史入門』(原書房、昭和 54 年)56 頁。
(6)R.R.パーマー「王朝戦争から国民戦争へ-フリードリヒ大王、ギベール、ビューロー」
(今村伸哉訳)前
掲『現代戦略思想の系譜』88~89 頁。
(7)同上、91~94 頁。
(8)前掲『ナポレオンの亡霊』27~29 頁。七年戦争の時にサックスの旗下にいたメーズロワ(Paul Gédéon Joly
de Maizeroy,1719~1780)は「兵学とは、闘う法を習うだけでない。いやむしろ、戦闘を避けるすべを知り、お
のれの部署を選ぶすべを知り、身を危うくすることなく目的を達しうるように事を運ぶすべを知ることこそが、
兵学である。…戦闘は、必要欠くべからずとみられる時にのみ、行うようにする」といっている。前掲『戦争論』
81 頁。
(9)同上『ナポレオンの亡霊』31~38 頁。
(10)フラー(中村好寿訳)
『制限戦争指導論』
(原書房、昭和 50 年)21~22 頁。
(11)前掲『ナポレオンの亡霊』50~67 頁。
(12)同上、68~96 頁。
(13)前掲「王朝戦争から国民戦争へ」96 頁。ギベールは流血を最小限に止める戦争を称賛し、歩兵・騎兵の勇気
を強調して銃砲は有用な付属物としか位置付けず、かえって過度な使用は兵員数の増大と同様に、戦術の向上を
阻害するものと見ていた。また軍隊の秩序を重要視し、隊列の乱れを防ぐことを主張した。そして野蛮な傭兵を
軽蔑し、諸国の軍隊を批判する一方、ローマの軍団を模範的軍隊と考え、スイス、スウェーデン及びイギリスの
民兵組織を高く評価している。すなわち「ヨーロッパの多くの国ぐににおいては、民衆の利益と政府の利益との
あいだに、大きな隔たりがある。愛国心とは、単なる一つの言葉にすぎない。市民は兵士ではなく、兵士は市民
ではない。戦争は国民の行う抗争ではなく、君主や大臣の行う抗争である。しかもそれが、金をつかい、税金を
費やして行なわれるのだ」と批判し、他方国民によって組織される軍隊は安価で、士気旺盛で、要塞など持たな
くても征服されないとし、一旦戦争になれば最後の一兵まで戦い、満足のゆくまで報復して未来の平和を確保す
る、とさえ言っている。前掲『戦争論』89~116 頁。
(14)前掲『ナポレオンの亡霊』75~78 頁。
(15)前掲「王朝戦争から国民戦争へ」102~103 頁。ビューローは「戦闘をせねばならぬ状態にあるということ
は、何か誤りがおかされたということだ」としつつも、
「いまや歩兵は射撃のみをこととし、弾丸の射程がすべて
を決めている」と既に 1799 年の段階で嘆いているが、まさに彼の信念と現実の戦争との距離を物語っている。
前掲『戦争論』82 頁、131 頁。

※本稿の人物の生没年には諸説あり、注意が必要である。

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