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現代文編  小説2

ラジオ学習メモ

羅生門 (全四回) 芥川龍之介


講師 路(平安京)  一匹のきりぎりす(こおろぎ)
  
渡部真一 洛中のさびれ方  狐狸・盗人  引き取り手のな
い死人 たくさんのからす
これらによって浮かび上がってくる舞台を想像してみましょ
■学習のねらい■ う。
小 説 を、 展 開 に 即 し て く わ し く 読 み 取 り、 主 題 を 捉 え、

− 87 −
人間の心理について考えを深めます。また、描き方の特徴
 学習のポイント2
や効果的な表現に注目します。
 主人公の置かれた状況を理解する
 全四回 の
一 [羅生門]
  冒頭で「下人が雨やみを待っていた。
」と書いた作者が、実
は「『雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて、途方にく
現代文編

れていた。
』と言うほうが適当である。」と修正しています。こ
  学習のポイント1
うすることで作者は、主人公の下人の内面に、次第に迫ってい
 物語の舞台や場面設定を確認する きます。

高校講座・学習メモ
小説では、作者がその物語の舞台や時代、登場人物などを決 なぜ下人が行き所がないのか、というと、「四、五日前に暇を
国語総合
めることができますね。自分の描きたいことをうまく描くこと 出された」
、つまり、仕事を失ったからです。それは下人のせ
第 35 〜 38 回
ができる場面設定をするわけです。この物語の場合は、どのよ いではなくて、当時の京都の「衰微」の「小さな余波にほかな
うに設定されているでしょうか。 らない」というのです。しかしこれは、下人にとっては、「小
ある日の暮れ方  一人の下人  羅生門・朱雀大 さな」どころではなく、命にもかかわるとても大きな問題なの
です。 ずにいた」下人は、ともかくも一夜を過ごそうとして、羅生門
ラジオ学習メモ

の上の楼に上りかけます。
それから、何分かの後、「一人の男が、猫のように身をちぢ
学習のポイント3 
 
めて、息を殺しながら、上の様子をうかがっていた。
」とあり
 主人公の心理をくわしく読み取る ます。「一人の男が」と、作者は「下人」のことをあえて言い
「選ばないとすれば、――下人の考えは、何度も同じ道を低 換えています。これは作者が、少しの時間の経過と、次の緊張
徊したあげくに、やっとこの局所へ逢着した。」とあります。「こ した場面への転換を読者に印象づけようとしたためでしょう
の局所」とは、「手段を選ばないとすれば……」という地点です。 か。
そしてこの部分の「……」のところには、「盗人になるよりほ 下人が息を殺している理由は、「上では誰か火をとぼして、
かにしかたがない」が入るわけです。しかし下人には、それを しかもその火をそこここと、動かしているらしい」からです。
「積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。」と これは「ただの者ではない」、と感じた下人は、
「やもりのよう
いうのです。 に足音をぬすんで、
」急なはしごを「はうようにして上りつめ」

− 88 −
やはり、「盗人になる」(悪事をはたらく)というのは、そう 「恐る恐る、楼の内をのぞいてみた。
」とあります。下人は極
簡単に踏み出せることではなく、下人の考えは、同じ道を行っ 度に緊張し、まだ見ぬ何かを恐れています。
たり来たりして、もう一歩前に進むことはなかった、そんな心
理が描かれています。
 学習のポイント2
*    *    *    * 
 楼の上に登った下人の
現代文編

  心理の動きを確認する
全四回 の
 
二 [羅生門]
  この場面での下人の心理の動きを見てみましょう。

高校講座・学習メモ
 死骸の腐乱した臭気に鼻をおおった後、死骸の中にうず
国語総合
くまっている老婆を見て
第 35 〜 38 回
 学習のポイント1
    …「ある強い感情」
  物語の展開を確認しながら読み進める (=「六分の恐怖と四分の好奇心」)
     
「盗人になるほかにしかたがない」と思いながら、「勇気が出
        ↓
老 婆 が 死 骸 か ら 抜 く 髪 の 毛 が、 一 本 ず つ 抜 け る の に
*    *    *    * 
ラジオ学習メモ

従って
    …「恐怖が少しずつ消え」
「老婆に対する激しい憎悪が、少しずつ動いてきた」 全四回 の
 
三 [羅生門]
 
(言い換えて)
     
「あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増して
 学習のポイント1
きた」
「悪を憎む心」などの、
(=「悪を憎む心」)
     
 下人の心理の内容を確認する
死骸の髪の毛を抜く老婆の姿を見て下人が抱いた「悪を憎む
 学習のポイント3
心」とは、どのようなものでしょうか。実は下人はまだ、なぜ
 小説で用いられる小道具に注目する 老婆が死人の髪の毛を抜いているのを知りません。ですから、

− 89 −
小説では、作者はいろいろな工夫をして何かを伝えようとし そもそも老婆の行為を「悪」だとする理由を下人は持っていな
ます。 いのです。
例えば、「丹塗りの柱にとまっていたきりぎりすも、もうど ところが、
「下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の
こかへ行ってしまった。」とある「きりぎりす」は、冒頭の場 上で、死人の髪の毛を抜くということが、それだけで既に許す
面でその存在が描かれていました。その「きりぎりす」さえい べからざる悪であった。
」とあるように、周囲の状況やその行
現代文編

なくなったことで、下人は本当に一人きりになってしまった、 為の異様さ、無気味さだけで、
「悪」と決めつけています。こ
ということが示されているのでしょう。 れは、筋道立った判断ではなく、感覚的、感情的な反応と言え
また、この物語では、下人の気にしている「にきび」や、下 ます。その後、老婆をねじ倒し、「老婆の生死が、全然、自分

高校講座・学習メモ
人が登っていき、最後にかけ下りていった「はしご」なども、 の意志に支配されているということを意識」すると、この憎悪
国語総合
何 ら か の 意 味 が 込 め ら れ て い る と 読 む こ と も で き ま す。 こ う の心が冷めてしまったというところからも、この
「悪を憎む心」
第 35 〜 38 回
いった細かい部分にも注目すると、小説を読む楽しさが増して が下人の一時的な反応にすぎないことがわかります。
きます。
かわからない。けれども、ここにいる死人たちは、皆、
 学習のポイント2
ラジオ学習メモ

そのくらいのことをされてもいい人間ばかりだ。」
 老婆の返事に対する
 →悪いことをした者は、自分もひどい目にあわされても文
 下人の心理の変化を確認する 句は言えない、ということ。
自分が優位に立っていることを確認した下人は、態度を和ら
 ②「自分はこの女のしたことが悪いとは思わない。しなけ
げ、自らの好奇心を満足させようとします。老婆に、自分は役 れば飢え死にをするのだから、しかたなくしたことだろ
人ではないからお前に縄をかけたりはしない、と言って安心さ う。同様に、
自分のしていたことも悪いとは思わない。」
せ、老婆がしていたことの意味を聞き出そうとしました。
 →悪いことでも、そうしなければ飢え死にをする状況でな
そして、「髪の毛を抜いて、かつらにしようと思った」とい ら、しかたのないこととして許される、ということ。
う老婆の返事を聞いた下人の反応は次のようなものでした。
「下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した。そうして、
*    *    *    * 
失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑といっしょ

− 90 −
に、心の中へ入ってきた。」
ここでも下人の心理の変化は、何らかの根拠に基づいた筋の
 全四回 の 四 [羅生門]
 
通ったものではなく、周囲の状況の変化に単純に反応したもの
と見て取れます。
 学習のポイント1
老婆の弁解を聞いた
現代文編

 学習のポイント3
 下人の心理の変化を確認する
 老婆の弁解の言葉から 老婆の言葉を聞いた下人の心は大きく変化し、行動に移りま
  その要点をとらえる

高校講座・学習メモ
す。確認しましょう。
国語総合
下人の「冷ややかな侮蔑」の気持ちが老婆にも伝わったのか、 「下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手で
第 35 〜 38 回
老婆は弁解を始めました。その弁解の要点をまとめましょう。 おさえながら、冷然として、この話を聞いていた。」
次の二点です。 (下人は、老婆への冷ややかな侮蔑を抱いたままで
 ①「死人の髪の毛を抜くということは、どれほど悪いこと す。)
だった、と言えるでしょう。
      ↓
ラジオ学習メモ

「下人の心には、ある勇気が生まれてきた。」 また、老婆は、動物の比喩を多く用いて、醜さと不気味さを
(さっきまではなかった、盗人になる勇気が生まれて 印象づけるように描かれています。自分勝手な論理で弁解しな
きたのです。) がら小さな悪事をはたらくことで生き延びる老婆にふさわしい
姿として、作者は、醜く不気味で動物的な姿を与えたのかもし
      ↓
「『きっと、そうか。』 れません。
老婆の話が終わると、下人は嘲るような声で念を押し
た。」
 学習のポイント3
(老婆の弁解の理屈が自分にもあてはまることを、老
婆を嘲りながら確認しました。)  作品全体の主題を考える
下人と老婆の姿を描きながら、作者がじっと見つめていると
ころに、この作品の主題がありそうです。それは、後半の場面
 学習のポイント2

− 91 −
での下人の心の動きと行動でしょう。そして、その行動を誘っ
 全体を振り返り、 たのは、老婆の存在とその弁解の理屈でした。
  下人の心理の変化と特徴、 生か死かという、せっぱつまった場面で不安定に揺れ動き、
   老婆の描かれ方に注目する 最後にはいいかげんな理屈をつけてでも自分自身を納得させ、
主人公である下人は、ごく平凡な、身分の低い男です。その 自分本位に行動してしまう、人間の心そのものの有様(エゴイ
現代文編

容貌や性格については、頬にできた大きなにきびを気にしてい ズム・利己心)が、この作品では描かれていると言えそうです。
たということのほかには、とりたてて描写されていません。作 そういった人間たちの世界を、作者は
「夜の底」「黒洞々たる夜」
者はこの主人公を、どこにでもいそうな、ごく普通の人間とし と象徴的に表現しているのかもしれません。

高校講座・学習メモ
て描いています。
国語総合
その下人の心理の変化を作者はくわしく描写しました。下人
第 35 〜 38 回
の心理は、めまぐるしく変化しています。これらの激しい変化
は、何らかの根拠や深い考えに基づくものではなく、周囲の雰
囲気や状況の変化に対応しただけの、不安定な、不確かなもの
ラジオ学習メモ

羅生門 講師
 渡
部真一
あくた が わ りゅう の す け
芥 川 龍 之介
げ にん あま
ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
に ぬ は
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、ところどころ丹塗りの剝
まる ばしら す ざく おお じ
げた、大きな円 柱 に、きりぎりすが一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路に
いち め がさ もみ え ぼ し
ある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二、三
人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
つじ かぜ き きん
なぜかというと、この二、三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか飢饉と
らく ちゆう
か い う 災 い が 続 い て 起 こ っ た。 そ こ で 洛 中 の さ び れ 方 は ひ と と お り で は な い。

− 92 −
はく
旧記によると、仏像や仏具を打ち砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついた
しろ
りした木を、道ばたに積み重ねて、薪の料に売っていたということである。洛中
がその始末であるから、羅生門の修理などは、もとより誰も捨てて顧みる者がな
こ り す ぬす びと
か っ た。 す る と そ の 荒 れ 果 て た の を よ い こ と に し て、 狐 狸 が 棲 む。 盗 人 が 棲 む。
とうとうしまいには、引き取り手のない死人を、この門へ持ってきて、捨ててい
現代文編

くという習慣さえできた。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪がっ
て、この門の近所へは足ぶみをしないことになってしまったのである。
その代わりまたからすがどこからか、たくさん集まってきた。昼間見ると、そ

高校講座・学習メモ
し び
のからすが、何羽となく輪を描いて、高い鴟尾のまわりを鳴きながら、飛びまわっ
国語総合
ご ま
第 35 〜 38 回

ている。殊に門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それが胡麻をまいたよ
うに、はっきり見えた。からすは、もちろん、門の上にある死人の肉を、ついば
みに来るのである。── もっとも今日は、刻限が遅いせいか、一羽も見えない。
ただ、ところどころ、崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段
くそ
の上に、からすの糞が、点々と白くこびりついているのが見える。下人は七段あ
ラジオ学習メモ

あお しり
る石段のいちばん上の段に、洗いざらした紺の襖の尻を据えて、右の頰にできた、
大きなにきびを気にしながら、ぼんやり、雨の降るのを眺めていた。
作 者 は さ っ き、「 下 人 が 雨 や み を 待 っ て い た。」 と 書 い た。 し か し、 下 人 は 雨
が や ん で も、 格 別 ど う し よ う と い う 当 て は な い。 ふ だ ん な ら、 も ち ろ ん、 主 人
の家へ帰るべきはずである。ところがその主人からは、四、五日前に暇を出され
た。前にも書いたように、当時京都の町はひととおりならず衰微していた。今こ
の 下 人 が、 永 年、 使 わ れ て い た 主 人 か ら、 暇 を 出 さ れ た の も、 実 は こ の 衰 微 の
小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた。」と言うより

も、「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた。」と言う
ほうが、適当である。そのうえ、今日の空模様も、少なからず、この平安朝の下
サ ン チ マ ン タ リ ス ム さる
人の sentimentalisme
に影響した。申の刻下がりから降り出した雨は、いまだに
け しき
上がる気色がない。そこで、下人は、何をおいてもさしあたり明日の暮らしをど

− 93 −
うにかしようとして──いわばどうにもならないことを、どうにかしようとして、
とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路に降る雨の音を、聞く
ともなく聞いていたのである。
雨は、羅生門をつつんで、遠くから、ざあっという音をあつめてくる。夕闇は
いらか
しだいに空を低くして、見上げると、門の屋根が、斜めに突き出した 甍 の先に、
現代文編

重たく薄暗い雲を支えている。
どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいるいとまは
ついじ
ない。選んでいれば、築土の下か、道端の土の上で、飢え死にをするばかりである。

高校講座・学習メモ
そうして、この門の上へ持ってきて、犬のように捨てられてしまうばかりである。
国語総合
ていかい
第 35 〜 38 回

選ばないとすれば──下人の考えは、何度も同じ道を低徊したあげくに、やっと
ほうちゃく
この局所へ逢 着 した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」
であった。下人は、手段を選ばないということを肯定しながらも、この「すれば」
きた
のかたをつけるために、当然、その後に来るべき「盗人になるよりほかにしかた
がない」ということを、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
ラジオ学習メモ

下人は、大きなくさめをして、それから、大儀そうに立ち上がった。夕冷えの
ひ おけ
する京都は、もう火桶が欲しいほどの寒さである。風は門の柱と柱との間を、夕
闇とともに遠慮なく、吹き抜ける。丹塗りの柱にとまっていたきりぎりすも、も
うどこかへ行ってしまった。
やまぶき かざみ
下人は、首をちぢめながら、山吹の汗衫に重ねた、紺の襖の肩を高くして、門
のまわりを見まわした。雨風の憂えのない、人目にかかるおそれのない、一晩楽

に寝られそうな所があれば、そこでともかくも、夜を明かそうと思ったからであ
る。すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の広い、これも丹を塗ったはしごが目に
つ い た。 上 な ら、 人 が い た に し て も、 ど う せ 死 人 ば か り で あ る。 下 人 は そ こ で、
ひじり づか さや ばし
腰に下げた 聖 柄の太刀が鞘走らないように気をつけながら、わら草履をはいた
足を、そのはしごのいちばん下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の広いはしごの中段

− 94 −
に、一人の男が、猫のように身をちぢめて、息を殺しながら、上の様子をうかがっ
て い た。 楼 の 上 か ら さ す 火 の 光 が、 か す か に、 そ の 男 の 右 の 頰 を ぬ ら し て い る。
短いひげの中に、赤くうみを持ったにきびのある頰である。下人は、はじめから、
この上にいる者は、死人ばかりだと高をくくっていた。それが、はしごを二、三
段上ってみると、上では誰か火をとぼして、しかもその火をそこここと、動かし
現代文編

く も
ているらしい。これは、その濁った、黄色い光が、隅々に蜘蛛の巣をかけた天井
裏に、揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、こ
の羅生門の上で、火をともしているからは、どうせただの者ではない。

高校講座・学習メモ
下人は、やもりのように足音をぬすんで、やっと急なはしごを、いちばん上の
国語総合
第 35 〜 38 回

段 ま で は う よ う に し て 上 り つ め た。 そ う し て 体 を で き る だ け、 平 ら に し な が ら、
首をできるだけ、前へ出して、恐る恐る、楼の内をのぞいてみた。
見ると、楼の内には、うわさに聞いたとおり、幾つかの死骸が、無造作に捨て
てあるが、火の光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数は幾つともわからない。
ただ、おぼろげながら、知れるのは、その中に裸の死骸と、着物を着た死骸とが
ラジオ学習メモ

あるということである。もちろん、中には女も男もまじっているらしい。そうして、
その死骸は皆、それが、かつて、生きていた人間だという事実さえ疑われるほど、

土をこねて造った人形のように、口を開いたり手を伸ばしたりして、ごろごろ床
の上にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんや
りした火の光をうけて、低くなっている部分の影をいっそう暗くしながら、永久
におしのごとく黙っていた。
下人は、それらの死骸の腐乱した臭気に思わず、鼻をおおった。しかし、その
手は、次の瞬間には、もう鼻をおおうことを忘れていた。ある強い感情が、ほと
んどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからである。
下 人 の 目 は、 そ の 時、 は じ め て そ の 死 骸 の 中 に う ず く ま っ て い る 人 間 を 見 た。
ひ わ だ いろ し ら が あたま
檜 皮 色 の 着 物 を 着 た、 背 の 低 い、 痩 せ た、 白 髪 頭 の、 猿 の よ う な 老 婆 で あ る。
その老婆は、右の手に火をともした松の木切れを持って、その死骸の一つの顔を

− 95 −
のぞきこむように眺めていた。髪の毛の長いところを見ると、たぶん女の死骸で
あろう。
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は息をするのさえ忘
れていた。旧記の記者の語を借りれば、「頭身の毛も太る」ように感じたのである。
すると、老婆は、松の木切れを、床板の間に挿して、それから、今まで眺めてい
現代文編

た死骸の首に両手をかけると、ちょうど、猿の親が猿の子のしらみをとるように、
その長い髪の毛を一本ずつ抜きはじめた。髪は手に従って抜けるらしい。
その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ

高校講座・学習メモ
消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が、少し
国語総合
第 35 〜 38 回

ずつ動いてきた。──いや、この老婆に対すると言っては、語弊があるかもしれ
ない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分ごとに強さを増してきたのであ
る。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、飢え死に
をするか盗人になるかという問題を、改めて持ち出したら、恐らく下人は、なん
の未練もなく、飢え死にを選んだことであろう。それほど、この男の悪を憎む心は、
ラジオ学習メモ

老婆の床に挿した松の木切れのように、勢いよく燃え上がり出していたのである。
下人には、もちろん、なぜ老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。した
がって、合理的には、それを善悪のいずれにかたづけてよいか知らなかった。し

かし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと
いうことが、それだけで既に許すべからざる悪であった。もちろん、下人は、さっ
きまで、自分が、盗人になる気でいたことなぞは、とうに忘れているのである。
そこで、下人は、両足に力を入れて、いきなり、はしごから上へ飛び上がった。
そうして聖柄の太刀に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩みよった。老婆が驚
いたのは言うまでもない。
いしゆみ
老婆は、一目下人を見ると、まるで 弩 にでもはじかれたように、飛び上がった。
「おのれ、どこへ行く。」
下人は、老婆が死骸につまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手

− 96 −
ふさ ゆ
を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人を突きのけて行こうとする。下人
は ま た、 そ れ を 行 か す ま い と し て、 押 し も ど す。 二 人 は 死 骸 の 中 で、 し ば ら く、
無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は、はじめから、わかっている。下人は
とり
とうとう、老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。ちょうど、鶏の脚の
ような、骨と皮ばかりの腕である。
現代文編

「何をしていた。言え。言わぬと、これだぞよ。」
はがね
下 人 は、 老 婆 を 突 き 放 す と、 い き な り、 太 刀 の 鞘 を 払 っ て、 白 い 鋼 の 色 を、
その目の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわ

高校講座・学習メモ
せて、肩で息を切りながら、目を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど、見開
国語総合
しゆう ね
第 35 〜 38 回

いて、おしのように 執 拗く黙っている。これを見ると、下人ははじめて明白に、
こ の 老 婆 の 生 死 が、 全 然、 自 分 の 意 志 に 支 配 さ れ て い る と い う こ と を 意 識 し た。
そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ま
してしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した
時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、下人は、老婆を見下
ラジオ学習メモ

ろしながら、少し声をやわらげてこう言った。
け び い し
「俺は検非違使の庁の役人などではない。今しがたこの門の下を通りかかった
旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようというようなことはない。ただ、
今時分、この門の上で、何をしていたのだか、それを俺に話しさえすればいいの
だ。」
すると、老婆は、見開いていた目を、いっそう大きくして、じっとその下人の
顔 を 見 守 っ た。 ま ぶ た の 赤 く な っ た、 肉 食 鳥 の よ う な、 鋭 い 目 で 見 た の で あ る。
それから、しわで、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でもかんでいるよ
うに、動かした。細い喉で、とがった喉仏の動いているのが見える。その時、そ
の喉から、からすの鳴くような声が、あえぎあえぎ、下人の耳へ伝わってきた。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、かつらにしょうと思うたのじゃ。」
下人は、老婆の答えが存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、

− 97 −
ま た 前 の 憎 悪 が、 冷 や や か な 侮 蔑 と い っ し ょ に、 心 の 中 へ 入 っ て き た。 す る と、
その気色が、先方へも通じたのであろう。老婆は、片手に、まだ死骸の頭からとっ
た長い抜け毛を持ったなり、蟇のつぶやくような声で、口ごもりながら、こんな
ことを言った。
し びと
「なるほどな、死人の髪の毛を抜くということは、なんぼう悪いことかもしれぬ。
現代文編

じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいなことを、されてもいい人間ば
し すん
かりだぞよ。現に、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切っ
た て わき い え やみ
て干したのを、干し魚だと言うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかっ

高校講座・学習メモ
て死ななんだら、今でも売りに往んでいたことであろ。それもよ、この女の売る
国語総合
さいりょう
第 35 〜 38 回

干し魚は、味がよいと言うて、太刀帯どもが、欠かさず菜 料 に買っていたそうな。
わしは、この女のしたことが悪いとは思うていぬ。せねば、飢え死にをするのじゃ
て、しかたがなくしたことであろ。されば、今また、わしのしていたことも悪い
こととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、飢え死にをするじゃて、しかた
がなくすることじゃわいの。じゃて、そのしかたがないことを、よく知っていた
ラジオ学習メモ

この女は、おおかたわしのすることも大目に見てくれるであろ。」
老婆は、だいたいこんな意味のことを言った。
つか
下人は、太刀を鞘におさめて、その太刀の柄を左の手でおさえながら、冷然と
して、この話を聞いていた。もちろん、右の手では、赤く頰にうみを持った大き
なにきびを気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いているうち
に、下人の心には、ある勇気が生まれてきた。それは、さっき門の下で、この男
には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上がって、この
老婆を捕らえた時の勇気とは、全然、反対な方向に動こうとする勇気である。下
人は、飢え死にをするか盗人になるかに、迷わなかったばかりではない。その時
の、この男の心持ちから言えば、飢え死になどということは、ほとんど、考える
ことさえできないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか。」

− 98 −
老婆の話が終わると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ
出ると、不意に右の手をにきびから離して、老婆の襟髪をつかみながら、かみつ
くようにこう言った。
ひ は
「では、俺が引剝ぎをしようと恨むまいな。俺もそうしなければ、飢え死にを
する体なのだ。」
現代文編

下人は、すばやく、老婆の着物を剝ぎとった。それから、足にしがみつこうと
わず
する老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。はしごの口までは、僅かに五歩を数え
るばかりである。下人は、剝ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく

高校講座・学習メモ
間に急なはしごを夜の底へかけ下りた。
国語総合
第 35 〜 38 回

しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こ
したのは、それから間もなくのことである。老婆は、つぶやくような、うめくよ
うな声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、はしごの口まで、はっ
ていった。そうして、そこから、短い白髪を逆さまにして、門の下をのぞきこん
こくとうとう
だ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
ラジオ学習メモ

下人の行方は、誰も知らない。

− 99 −
現代文編

高校講座・学習メモ
国語総合

▼作者紹介
第 35 〜 38 回

芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ) 1892年
き 
く ち かん く め まさ
〜1927年。東京都生まれ。小説家。菊池寛、久米正

雄らと第四次『新思潮』を起こし、夏目漱石に認められ
かっぱ
る。主な作品に、『鼻』
『地獄変』 『河童』
『舞踏会』 『歯車』
など。「羅生門」は、1915年、雑誌『帝国文学』に
発表。本文は『芥川龍之介全集』
(1977年刊)による。

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