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柿くへば鐘が鳴るな

り法隆寺
日本の正岡子規の俳句

法隆寺境内鏡池の傍にある同句の句碑

「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(かき
くえばかねがなるなりほうりゅうじ)
は、正岡子規の俳句。生涯に20万を超え
る句を詠んだ子規の作品のうち最も有名
な句であり、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ
水の音」と並んで俳句の代名詞として知
られている[1] 。初出は『海南新聞』1895
年11月8日号。

季語は柿(秋)。「法隆寺の茶店に憩ひ
て」と前書きがある[2]。法隆寺に立ち寄
った後、茶店で一服して柿を食べると、
途端に法隆寺の鐘が鳴り、その響きに秋
を感じた、というのが句意である[3]。
「くへば」は単に「食べていると」とい
う事実を述べて下に続けているもので
「鐘が鳴るなり」と因果関係があるわけ
ではない[3]。柿は大和名産の御所柿と思
われる[3]。
成立
1895年5月、子規は連隊付き記者として
日清戦争に従軍中に喀血、神戸に入院し
たのち故郷松山に戻り、松山中学の教員
として赴任していた夏目漱石の下宿(愚
陀仏庵)に50日ほど仮寓した。漱石は2
階、子規は1階に棲み、子規は柳原極堂
ら松風会のメンバーに漱石を加えて句会
三昧の日々を過ごしていた。その後病状
がよくなったため10月下旬に帰京する
が、その途中で奈良に数日滞在してい
る。

子規の随筆「くだもの」(『ホトトギ
ス』1901年4月号掲載)によれば、この
とき子規は漢詩にも和歌にも奈良と柿と
を配合した作品がないということに気付
き、新しい配合を見つけたと喜んだとい
う[4]。そして「柿落ちて犬吠ゆる奈良の
横町かな」「渋柿やあら壁つゞく奈良の
町」「渋柿や古寺多き奈良の町」などの
句を続けて作った[5]。もともと子規は大
の柿好きで、学生時代には樽柿(酒樽に
詰めて渋抜きした柿)を一度に7、8個食
べるのが常であった[6] 。1897年には「我
死にし後は」という前書きのある「柿喰
ヒの俳句好みしと伝ふべし」という句を
作っている[7]。

さらに「くだもの」では、奈良の宿先で
下女の持ってきた御所柿を食べていると
き、折から初夜を告げる東大寺の釣鐘の
音が響いたことを記している[4]。しかし
このときは「長き夜や初夜の鐘撞く東大
寺」として柿の句にはせず、翌日訪ねた
法隆寺に柿を配した。ただし子規が法隆
寺を参詣した当日は雨天であったため、
この句は実際の出来事を詠んだものでは
なく、法隆寺に関するいわばフィクショ
ンの句であると考えられる[8]。なお当時
の子規の病状などから考えて、実際に法
隆寺を参詣したこと自体を疑問視する意
見もある[9]。

また『海南新聞』の同年9月6日号には、
漱石による「鐘つけば銀杏散るなり建長
寺」という、形のよく似た句が掲載され
ていた。坪内稔典は、子規が「柿くへ
ば」の句を作った際、漱石のこの句が頭
のどこかにあったのではないかと推測し
ている[10]。
受容
現在では非常に著名な句であるが、『海
南新聞』に掲載した際にはとりたてて反
響があったわけではなかった。高濱虚
子、河東碧梧桐によって編まれた俳句選
集『春夏秋冬』(1902年)や『子規句集
講義』(1916年)、虚子の『子規句解』
(1946年)などにもこの句は入れられて
おらず、子規の俳句仲間の中で評価され
ていた形跡はない[11]。子規の自選句集
『獺祭書屋俳句帖抄上巻』に収録された
後、碧梧桐は『ホトトギス』誌上の書評
において、この句はいつもの子規調であ
れば「柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺」と
したはずではないかと述べた。これに対
して子規は「病牀六尺」で、「これは尤
(もっとも)の説である。併(しか)し
かうなると稍々(やや)句風が弱くなる
かと思ふ」[12]と答えている。

1916年9月、法隆寺境内に子規の筆跡に
よるこの句の句碑が松瀬青々らによって
立てられた。この場所は句の前書きにあ
る茶店のあった跡地である。前述の坪内
は、このころから法隆寺の一種のキャッ
チコピーとしてこの句が広まっていった
のではないかとしている[11]。2005年、
全国果樹研究連合会は10月26日を子規が
この句を詠んだ日として「柿の日」と制
定した。

この句のパロディがいろいろあるが、オ
マージュとして「柿食えば遥(はる)か
遠くの子規思う」は小林凜(りん)の句
で2013年出版され、ベストセラーになっ
た『ランドセル俳人の五・七・五 いじ
められ行きたし行けぬ春の雨--11歳、不
登校の少年。生きる希望は俳句を詠むこ
と。』(ブックマン社)に載っている。

脚注
1. ^ 夏井いつき選 「子規二十四句」
『正岡子規』 河出書房新社<
KAWADE道の手帖>、2010年、21

2. ^ ただし初出の『海南新聞』1895年
11月8日号では前書きは「茶店に憩
ひて」となっている。「病余漫吟」
では「法隆寺茶店にて」。「病床六
尺」では上五が「柿食へば」。『寒
山落木』『獺祭書屋俳句帖抄上巻』
では前書き・表記とも掲出したもの
に同じ。(宮坂、129頁)
3. ^ a b c 宮坂、129頁
4. ^ a b 正岡(1985)、174-175頁
5. ^ 坪内、121-122頁
6. ^ 正岡(1985)、167頁
7. ^ 坪内、122-123頁
8. ^ 宮坂、130頁
9. ^ 和田悟朗 「子規と法隆寺」「岳」
1987年7月号(宮坂、131頁より)
10. ^ 坪内、122頁
11. ^ a b 坪内、124頁
12. ^ 正岡(1958)、176頁

参考文献
ポータル 文学

正岡子規 『病牀六尺』 岩波文庫、


1958年
正岡子規 『飯待つ間』 岩波文庫、
1985年
宮坂静生 『子規秀句考 ―鑑賞と批
評』 明治書院、1996年
坪内稔典 『正岡子規 言葉と生きる』
岩波新書、2010年

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へば鐘が鳴るなり法隆寺&oldid=64733694」から
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最終編集: 2 年前、Akanary
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