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栄酉

喫茶養生記

田沼欽

繍設社学術文塵

学術文庫版のまえがき
本書は一九八二年、刊行になった。 ここに時代の要請に応えて版を新たにして刊
行することになった。
この 機会により多くの人々に改めて読まれる所以となるならば 、著者にとってこ
んな嬉しいことはない。
二OOO年七月
松ヶ岡文昨にて
古田紺欽


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川 宅2 ・ふ
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ω本﹁記﹂ のテキストについて -
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凡例
一 原 文 は 漢 文 で あ り 、 本 書 で は 現 代 必 却 の後に収めた。
一 原文の読み下し文、注釈、現代 語況の 順に配して読解に資するようにした 。
一底本には、﹁書林友松堂小川源兵 衛
﹂ の 刊 記 の あ る 安 永 本 を 用 い 、 段 落 分 け ・改行を行

ない、句読点 を補 った。
一 底 本 の 字 句 を改 めた時は、括弧に入れて示したが、明らかな誤り及び他の諸本により容
易に見分けら れ る誤りは 一々記さなかった。
一 漢 字 は 、 常 用 漢字 表 に あ る も の は 同 字 体 表 に よ り 、 そ れ 以 外 の も の は 現 行 普 通 の 字 体 に
改めた。
一読み下し文の仮名づかいは、慣習により歴史的仮名づかいとしたが、振り仮名について
は現行の仮名づかいとした。
一 読み下し文の字句で難解と思われるもの、引用、背景のあるものには、対応する字句に
番号を付し、読み下し文の後にその字句をゴチックで表記して注 釈 を施した。
一現代語訳を行なうに当たっては、原文の意義を損わない限り、できるだけ現代の日常生
活語をも取り入れて平易を心がけた。
栄西 喫茶養生 記
み下し文
0
1

喫茶養生記の序
入宋求法前権僧正法印大和尚位 栄西録す
茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷之を生ずれば其の地神霊なり。人倫
しん れ い じ ん り ん
之を採れば其の人長命なり。
てんじく
天竺、唐土、同じく之を貴重す。我が朝日本、亦曙愛す。古今奇特の仙薬なり。
いわ ﹂
Jっしょ (2)
摘まずんばある可からず。謂く 、劫初の人は天人と同じ。今の人漸く下り、漸く弱
しんきゅうならび やぶ とう じ お う
く、四 大五臓朽ちたるが如し。然 らば、針灸も並に傷り、湯治も亦或は応ぜざる
コ おそ
か。若し此の治方を好しとせば、漸く弱く、漸く掲きん。伯れずんばある可からざ
るか。
き惟i
今人は劃酌すること寡きか 。
てんさ く なおしん し ゃく すくな
昔しは医方添削せずして治す


D



邑れ
亡問
寸て


ば んし よ う
万像を造るに、人を造るを貴しとなす。人、一期を保つに、


〈E
す。其の一期を保つの源は、養生に在り。其の養生の術を示すに、五臓を安んず可
し、五 臓 の中心の臓を 王とせむか。心の 臓を建立するの方、茶を喫する是れ妙術な
敗、心の臓弱きときは、則ち五臓皆病を 生ず。
それすなわ

。 一
平く み しん のう(
6)
官疋に印土の老日婆往いて二千余年、末世の血脈誰か診むや。漢家の神農隠れて 三千
余歳、近代の薬味誰か理せむや。
といたず らあ やまり
然れば則ち、病相を一凋ふに人無く、徒に患ひ徒に危きなり。治方を請ふにも慎
u空しく灸し、空 しく抑ず。
むな
有り
そむ
倫に聞く、今世の医術は則ち、薬を含みて、心地を損ず、病と薬と話くが故な
たず
り。灸 を帯じて身命を夫す。脈と灸と戦ふが故なり。如かず、大国の風を訪ねて、
以て近代の治方を示さむには、伺って二門を立てて末世の病相を示し、留めて後昆
マんじよう
に贈り、共に群生を利せむと云ふのみ。
生記 の序

時に 建保二年甲成歳春正月日叙 す

1
1
2
1

入宋求法前権摺正法印大和尚位 栄酉録す
五騒和合門

遣捻鬼魅門

秋なり、金なり、自なり、塊なり、 鼻なり白

まは l
北中南西
腎 ~g卑ひ心師

なななな
りりりり

夏なり、火なり、示なり、神なり、
四季の末なり、土なり、
ま i

冬なり、水なり、
i

Q V﹂

やや
一切会ふときは則ち之を吐く。動もすれば、又
今、茶を喫するときは期ち心臓強くして病無きなり。知る可し、心臓病有
るの時は、人の皮肉の色悪ノ¥運命止に由って減ずることを。司本は苦味を食は
ず。但し大国のみ独り茶を喫す。故に心臓病無く、別清命なり。我
む入有り、是れ茶を喫せざる若し人心神快からざる
を喫すべし。心臓を誠パヘて、心臓快きとき
離も、強ひ
3
1
ぞう 車 会 4f きしよう(日)ひみつしんごん (
U)
又五 臓蛇茶羅儀軌紗 に云く、﹁秘密真言を以て之を治す﹂と。
4
1

あしゅくZ つ
月十は﹂ ( ) こんごうぷ(口)どっこいん
肝は東方の阿悶仏なり。薬師仏山日なり。金剛部なり。即ち独鈷印を結び、 忍 真 言
を請して加持すれば、肝臓は永く病無きなり。
心は南方の宝生仏なり 。虚空蔵なり。 即ち宝 部な り。即ち形印を結んで・呉真言を
請して加持すれば、心臓則ち病無きなり 。
肺は西方の無量寿仏なり 。観音なり。即ち蓮華部 なり。八葉印を結んで誕亘(言
を爾して加持すれば、肺臓は則ち病無きなり。
腎は北方の釈迦牟尼仏なり。弥勅なり。即ち 潟磨部なり。渇磨印を結んで純真言
アフ (
幻)
を請して加持すれば、腎臓は則ち病無きなり。
牌は中央の大日如来なり。般若菩薩なり。仏部なり。五鈷印を結んで・可其骨
一口を

して加持すれば、牌臓は則ち病無きなり。
あ たす
此の五部の加持は則ち内の治方なり。五味養生は則ち外の療治なり。内外相 ひ資
けて、身命を保つなり。
其の 五味とは、酸味は柑 子 ・橘・柚等なり 。辛 味 は 萎 ・ 胡 板 ・ 高 良 董 等 な り 。
かん し き っゅうし ようがこしようこうり
甘味は砂糖等なり。 一切の食、甘きを以て性と為すなり。苦味は、茶・青木香等な
。 麟味は出等な り
り 。
心臓は走れ五臓 の君子なり。茶は是れ苦味の上首なり。苦味は是れ諸味の上首な
り。是に因って心臓、此の味を愛す 。心 臓興 るときは、則ち諸臓を安んずるなり。
若し人、眼に病有らば、肝臓 削制 すること を知 る べし。 酸性の薬を以て之を治す。耳
に病有らば、腎臓損 するこ とを知るべ し。麟 性の薬を以て之を治す。鼻に病有ら
ば、肺臓損することを知る べし 。辛性の薬を以て之を治す。舌に病有らば、 心臓担
することを知るべし。苦性 の薬を以て、之を治す。口に病有らば、 牌臓初損す るこ
とを知るべし。甘性の薬を以て之を治 す。若し、身弱く、意消する者は亦、 心臓の
損することを知るべし。 蹴 りに茶を喫すれば、則ち 気力強く盛なり。其の茶の功
齢、並に採1 の時節、左こ成 す。六ケ条有り。
午世生記 巻 上

一、茶の名字を明かす
府一吟じ日く、﹁骨は苦茶なり。一名は問中 一名 はか o早く採る者を 茶 と云 ひ、開

せいしょ く
く採る 者を若と 云ふ なり。西萄の人、苦茶と名づく﹂ 沿パ と

又云く、﹁配fmは底艇 の西 五千里外にして、諸物美なり。茶も亦美なり﹂ と 。
5
1
6

一名は、若﹂と。
1

こんろんこく(災)
広州は宋都の南、五千里の外に在り。部ち皇議昌と棺ひ近し。箆器国は亦天府一一と
ひ隣る。即ち天竺の貴物、広州に伝はる。土宜辻、美なるに絞って、
り。匙の州温暖にして復雪霜無し D冬 も 綿 衣 を 著 け ず 。 の 故 に 、
茶の美なるを名づけて皐麗と云ふなり。
えの州は産熱の地なり。北方の人到れば、ー
ぴんろうじ
多く出演さる。怒れば食前に多く横榔子を喫し、
て多く喫せしむ。身、むをして、損壊せし



‘一、茶の形容を明かす
に自く、﹁樹小にして梶子の木に似た
かたち
百く、﹁茶の花の状楯子の花の如し。
茶経に日く、﹁茶辻種子の葉に似たり。

の功能を明かす
なり、

人 し

し シ
てコ
劣号

;





﹁茶若宜しく久しく服すべし。入をして境志膏らしむべし﹂
7
1


日仇軒同 日く、﹁茶の味は甘く苦く、 微 寒にしに漉旭川九。服すれば、即ち膨鹿無き
8


1

なり。小便は利に、睡は少くし、疾泌を去り、宿食を消す。一切の病は宿食より
発す﹂と。宿食を消すが故に病無きなり。
)
静叫 ︹位︺の食論に日く、﹁茶を久しく食するときは則ち意思を益す﹂と。身心
に病無きが故に意思を益すなり。
官官訴か食志︹忌︺に日く、﹁茶を久しく服すれば羽化す。誌と町に食へば、人
をして身重からしむ﹂と。
際民震が新銑に日く、﹁茶を喫すれば、身を軽くし、骨苦を換ふ。骨苦は即ち脚
気なり﹂と。
町刊誌録 に日く、﹁茶を煎じて飲めば、人をして眠らざらしむ﹂と。眠らざるとき
は則ち病無きなり口
のけんかい
rRN4m昨に日く、﹁茶は械を献へ、内を和げ、倦慨もす
康く除す﹂と。内とは五

内なり。五臓の異名なり。 つみ
りくせ い(測 ) い
取 記 叫 が 都 楼 に登る詩に日く、﹁芳茶は六清に冠たり。溢味は九区に播す。人

、 郁めにし 匂安楽なり、すの土柳か慌しむべし﹂と。六清とは六根なり。九区と

は漢地の九州を謂ふなり、区は域なり 0
ほんぞ うしゅうい(似 ) こ う ろ
本草拾遺に日く、﹁皐鴎 は苦く平なり、飲をなせば、渇を止め、疫を除き、眠 ら
ず、水道を利し、目を明かにす。南海の諸山に出でて、南人極めて重んず﹂と。
おんえきし よう ねつ
温 疫 の 病 を 除 け ば な り 口 南 人 と は 広 州 等 の 人 を 翻 ふなり。此の州は療熱の地な
り03 甲山沿 唐都の人、任に補して此に到れば、則ち十が九は帰 らず。食物味美に
ぴん ろうじ
して消し難し。故に多く横榔子を食ひ、茶を喫す。若し喫せざれば則ち身を侵すな
なお くまの
り。日本は則ち、寒地の故に此の 難 なし。而も尚南方の熊野山には夏は登渉せず。
痘熱 の地たるが故なり。
天台山記に日く、﹁茶を久しく服すれば羽 翼を生ず﹂と。身軽きを以ての故に爾
云ふ。
(
ω)
を上

はくしりくじ よう
白氏六帖茶部日く、﹁供御﹂と。供御は卑賎の人の食用に非ざるなり。
はくしもんじゅう 、
日︺ ごちゃ
白氏文集詩に臼く、﹁午茶は能く睡りを散ず﹂と。午は食時なり。 茶は食後 に喫
喫茶 毘 !L,~

するが故に午茶と云ふなり。食消するときは則ち限りなきなり。
しゅカおう ん
白氏首夏の詩に臼く、 ﹁ 蹴の若を飲む﹂と。 甑は小器 、茶室の美名なり。
或は一 一

口広く、底狭きなり。茶をして久しくして寒えざら しめんが為 に、器の底狭く深く
9
1
之0

期ち終夜、眠らずし
又日く
唯茶を喫すべし。他の湯水等を欽むこ
孝の文を観るに云く、﹁孝子法唯親に供す﹂と。
して、長寿ならしめんが為なり。
宋人の歌に一広く、﹁疫神は驚を捨てて茶木を礼す﹂と。
カな

唯茶のみ龍く
問、茶を採る時を明かす
茶経に日く、﹁凡そ茶を採ること二月、四月の簡に在り﹂と。
宋録に日付、﹁大和七年正月、呉萄、新茶を貢す。雪冬の中に作法す。之が
べ⋮とり
の填ひ有るが故なり。これよれソ以援、


唐史に臼く、﹁貞元九年の春、初めて茶に税す一と。
がめいこのごろ
の美名は早春なり。又芽著{吋日ふ。即色川ゆ義なり。宋朝比茶を採る作法、
れソ。元一一一の間に多く下人を集めて、その中に入れて、言語
しめ、の続長引
ずやむ
五、茶を採む様を明かす
探経に臼く、﹁雨千らば採らずむ雨ふらずと難もポ雲あちば採らず﹂と。
培らず、蒸さず、力を用ふること弱きが故なり。
六、茶を謂ふる様を明かす
﹂、


}y
あZりだな
其調火なり。定樺には紙を敷き、紙の照れざる様に工夫比冗之
らず、軍記和紙らず、夜の内に熔り出動って即ち好き掠じ蓋
て、風をして内に入れしめざれば、則ち年裁を経
渉、院も我が悶の人、茶を採る法を知らず。故に
と。是れ即ち茶律を知らざるの
致す所なり。
栄西在唐爪
施す。古今爪
唐医の語るを関く、
ることを得ず。心頭弱きが故なり﹂と。
つまちら
酔鉱く辻末代の良戻一、之島し悉かにせよ。
巻上
入宋求法前権借正法印大和尚位 栄酉録す
第二遣誌鬼慈円とは大元前大将の儀軌秘紗に
したが
議を犯して、仏教に顕はぎるの時、国土荒乱して、
のりて、昌土を乱し、人民を悩し、種種の病を致して、治構無くして、
ことなく、薬方も済ふことなく、長病疲極能く救ふ者なし。一霞時、止の大元
念諦せば、鬼魅退散し、衆病も忽然として除愈せむ。行者
すこし
少く功力を加へるに、必ず病を除かむ。復此
きは則ち入、
3
2
24

之を以て之を忠ふに、
n
若 こ
五熱

の水
りず
あ非

左地
種に

火風

に日く、飲水病。
にして必ず験あちん。
治方験なし。
ふことなし。
二に臼く、の心に相従はざるの病。此
る。針灸令以て血を出し、湯治して汗を流すは官官丸
を思む。只常時の如く風を一駅間す、食物を忌まず、に桑粥、桑湯を服すれば、
漸帯に平寵して、一つも厄なしむ若し泳浴せんと欲する時は、桑を前ずること
樹、五日に一に浴せよ。ること莫れ。若し湯の気、
内に入つ汗を流せば、 の病と成るむのり。


気、湿気、此の一一一種の治方、 の若し。又鬼病加へるが故なり。
浴を好み、汗を流し、
又桑弼を寂す。

午乾期つ
三けはに
国自にと
ちし簿っき

埋設

」つ

轍め






(
伽)
おおば こ(
制)
葉を臨けよ。悪毒の汁皆出でん。世人車前草を用ふるは、尤も非なり。之を思
6
2

すべ か
へ、桑粥 ・桑湯 ・五香煎を服せよ。若し強くば、須らく灸すべし。亦、宜しく方に
にんに く さ
依るべし。謂く、初めて痛を見る時、蒜を横に載りて厚さ銭の如くにして、之を
はりつ もぐさ かた あずき
磨の上に貼け、文を固むること小豆の大さの如くにして、之に灸せよ。蒜焦れば替
(
お)しぼと お しるし
ふべし。皮肉を破らざれ 。 一百壮に及んで、即ち萎んで、火気徹らず。必ず験有ら
かめが しわ おお ばこ
ん。灸して後、牛膝の汁を停り、械の葉を貼けよ。車前草を用ふ可か らず。芭蕉
いのこず ち ぬ あ
の根、亦神効あり。
あき くら
五に日く、脚気の病。此の病は晩食に飽満するより発る。夜に入って 飯酒 に 飽
ふを厄となす。
午後に飽食せざるを治方となす。是れ亦、桑粥と、桑湯と、高良警一
と、茶とを服
すべし。奇特なる養生の妙治なり。
新渡の医劃に云 く、﹁脚気を患ふ人は、配U は飽食しても、午後には食ふこと勿
れ﹂と 。
長斎の 却 には脚気なし。此の謂なり。近ごろの人は、万病を皆脚気と称す。笑ふ
べし 。病の名を呼んで病の 治方を汲らざるのみ 。
己上、五種の病は、 皆末世鬼魅の 致す所なり 。然し清桑を以て之を治す。 糊当 日
7コ
誌を山医に受くることあり。又桑の樹は、是れ諸仏菩薩 の樹なり。此の木を 携 ふと
なお いわ
きは、則ち天魔も猶競 ふ能はず、況んや、諸余の鬼魅の附近せんや。今、唐医の口
伝を得て諸を治す。効験を得ざるなし。
近年皆、冷気の為に侵さるるが故に、 桑は是れ妙治の方なり。人、此の旨を切 ら
ざるを以て、多く夫害を致す。近年身分の病は多くは冷気なり。其の上に他疾相ひ
加はる。其の意を得て之を治せば、皆艇 がらむ。今の脚痛も亦脚気に非ず、是れ又
等、其の良薬なり。桑方、左に註す。
冷気なり。桑、牛膝、高良萱一旦
e 巻下
".
二.

一、桑粥の法
宋朝の医の日く 。桑の枝の指の如くなるを 三寸に載って、三 つ四つ細かに破り、
t
t


)を位れて之を煮る。 豆熟し ず桑を却けて米を加ふ。水の
黒豆一握と慌に水三升 (

27 多少を以て米の多少を計り、煮て薄粥と作す。冬は鶏鳴よりし、夏は夜半より初め
8
2





中をし


︺。
も去小
秘く梗

り切~
風伯消

なコ科
要、を
に経去し

なかんずく
桑を煎じ得ざれば服せず﹂ と。就中、飲水、




最に
Z景


、i
きず
て履
つ丸

りる

て之を撮み、美酒て飲む。能
人王ち

喪中の万病、 といふとなし。常に寂すれば民ち

是れ他術なり。 信 ぜ ず ん ば あ
一、薬木を含む法
にして、
意も附近せず。叫
に釘かんや。根の土に入ること一一
の際も亦毒有号、故
巻下

一、桑木の枕法
箱の如く造り用ふ。 之 を 枕 に す れ ば 弓 を 明 か に

之9
30

あわ
九月十月の交ひ、 三分が二己に落ちて一分校に
て之を計り、抹
一、桑の植を服する法
熟する時に之を収めて、日に乾し、抹となし、蜜を以て丸くするこ
に し 、 に 酒 を も っ て 四 十 九 を 服 す 。 久 し く 寂 す れ ば 、 身 軽 く し て 、 病無
し G るの
止の薬は、
薬なり。近歳の
の人は湯を以てす。又本弟、米銀にて之を服す。い
は効あるを以て期と為す。毎日援するときは別ち茜の動き痛み、
てて、
違ふことなきのみ。
ひて之を服す。抱一し湯
酒を飲むの後、

欽香 2
丸 襲i


以し
むoバy





31
時に 極熱にして
2
3

時て日く司法師遠く来って汗 を発さん﹂
と。すな辻一升に、精一升辛許りを取って、久し 合詐りとなし
て、栄四じへて、之を叩しむ。
其の後身涼しく心快し。日疋を以て其の大熱の時辻、能く涼しくし、 大類、の時は能
く温むることを知る口
此の五種特に此の徳有るのみ。
皆、

己上 を以て て葉承有るな


ノ。
此の記録に

徒均す人
伊智え
護主病

と日此
れ~

人の
何与を
のヲノ
れが所迷を知らず、

こ茶
茶を
口コ
ヲ1 出
て病を生じた

t J
そしまた(川)
を殻るも、也米銭の利無し。
ふ、試熱物なり で熱を生ぜし


3
3
34

(1) 法印大和向位 栄西が法印となったのは、建暦二年正月という。


じようえ
(2) 劫 初 成 ・ 住 ・ 壊 ・ 空の四劫のうちの成劫、すなわち世界の成立を見るまでの長い時
間 のその初め。劫は党語 のカ ルパの 音写、長時と訳す 。
(3) 四 大 四 大元素、党語のマハ l ・プiタの 訳。 堅 を 性 と す る 地 犬
、 湿を性とする水
大、媛を性とする火大、動を性とする風大。身体としては地は骨、水は血、火は体温、風
は呼吸が これにあたる 。
(4) 五臓肝・心・牌・肺・腎の五臓。
(5) 脅 婆 党 語 のジ i パカの音写、活命と訳す。釈尊在世時代の名医。
(6) 神 農 中 国古 代の帝 王、神農氏は百 草を嘗 味し て医薬の方を創めた とい う

(7) 末 世 底 本 と し た安永版は来世とするも、来は末の誤刻。
(8) 鬼 魅 鬼 と ばけもの。
(9) 尊勝陀羅尼破地獄法秘紗 仏頂尊勝心破地獄転業障出 三界秘密三身仏果三種叫肝心地真言
ぜ んむ い
儀軌一巻、唐の 善無拠出の終紗 か。善無畏は中インドからの渡来僧。この紗の存否は未確


(叩) 幌味 塩味 。
(日) 四季の末 四季の終りのそれぞれの十八、九日間、つまり土用である 。
春・秋・夏・四季の末・冬は五期。
青・ 白 ・赤 ・此 ・黒は五色 。
辛 ・階 ・廿 ・献 ・苦は五味。
(ロ) 是の故に、四臓・: 底 本 に は ﹁ 是 故 四 臓 恒 弱 ﹂と あり、﹁是故四 砿恒強心肢 恒弱 ﹂と
あるべきところの 一文を 脱する。初治本、 再治本によって これを補 う

(日) 五臓曇茶羅儀軌紗 不詳 oa茶紐 は党語 のマンダラの音写。 近付、椛とよ す。
じゅ
(
U)
(日) 阿閤仏
n-
真 言 党 芯の マントラの訳。呪秘密一語。
阿 問 如 来 と も い う 。 党 語 の ア ク シ ョiプヤの訳。阿 附 要。金剛 界 の五仏の
‘ ︿
一、東方 に住す
-

i
凶) 襲 師 仏 来 師如来、党語のパイシヤ ジ ャ
( ・ グ ルの訳。東方浄 璃璃 世界の教 主

注 茶 艇 を 仏 ・注 華 ・金剛 ・宝 ・渇肝 の五部に 分つ その 一
(口) 金剛部 この場合は 金 問 界 MX
部。(以下、各部はそれぞれがその 一部。)
Mの
5
(日) 恒羅
?
''
党字タラ フの 柿チ 。種子と は、 真言訟教 において究字の阿等の一字が、
3
一日
義を生ずることあたかも草木の種子の如くであるに喰えていう。
36

(日) 加持党語のアディスタ lナの訳。加は加被 、持は 摂持であり 、仏力の加被を 信心に


よって摂持すること。この場合、祈祷をいう。
(加) 宝生仏 宝 生如 来 、党 語 の ラ ト ナ ・サンパパの訳。 蝉 但嚢三 婆 縛 、 金 剛 界 の 五 仏 の
一、南 方に 住 す

(幻) 虚空蔵 虚空蔵菩薩 、党語のア lカl シャ ・ガルパの訳。
(幻) 昨 党字ウンの種子。
(お) 無量寿仏 党語のアミタ l ユスの訳。金 剛 界の五仏の 一。
(
μ) 乞里 紘利、党字キリフの種子。
(お) 弥勤 弥勤菩薩。弥勤は党語のマイトレ lヤの音写。慈 氏 と訳す。弥勅仏ともいう。
(お) 掲磨部 掲倍 は党語のカルマンの音写、真言密教 では ﹁かつま ﹂ と読む。
(幻) 悪 阿 ・ 時 、 党字アフの種子。
(お) 鐸 党字パンの種子。
(却) 高良 華 高 良 は 高 涼 で 広 東 省 高 涼 郡 、 そ の 郡 に 産 出 する萎。
(初) 爾雅 周公の著と伝えるも作者不詳。中国古代の 一種の辞書。 以下、 多くの引用は、
そのほとんどが ﹃ 太平御覧﹄ 本によ っている。
(訂) 成都府 昔の萄園 、 四川省の府。
(詑) 唐都 南 宋 の 都 の 臨 安 を 指 す も の と 考 え ら れ る 。 次 の 広 州 記に宋都とあるのと同じで
あろう。
(お) 広州記 南海記と共に装淵の著という。
(社) 昆岩国 ここでは越南の毘福山のある国をいう。
(お) 土 宜 土 地 の佳作物。
(お) 是の故に、茶味美なり 寿福寺本等の諸本によって補う。
(幻) 痘熱 山川に生ず る毒気によって 起こる 烈 的、的出 。 J
(犯) 南越志 沈懐遠の著という。
(却) 過羅 瓜極 、朽 の苦く渋いもの。
(
ω
) 陸羽 唐代 の隠進 者

(叫) 親王花木 志 北輔 の広陵王欣の著かという。
(位) 爾雅註 郭嘆の註 。底 本註の字を脱す 。
(幻) 桐君録 桐君は漸江省 の桐君 山に住んだ仙人とい う

(叫) 呉興記 呉興の太守であった宋の山謙之の 者 という。

(必) 供御 天子の召上りもの。

(必) {
木録 ,
t押深 の著というも 洋 かでない。
の張揖の著 。
官官~一一一一 一

7
3 (灯) 広雅
I1

I
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1--
3HE1
司、
ペ一h
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-

8
8


94
3

の仮 子
を氏華
本神博

の志

本 晋

経良 張
草農物

草神の

涯にの
農 経 西
~

T?
04

宗暑
陶託
神 食

弘ド
~

主ヨー




1ょ 5






....__.......__"...__"....__"....__.......__"....__"....__"....__".....__"....__"ノ~



護癌 痩は、るいれきの類の腫物。癌は、皮膚のできもの。
25

疾渇 熱病による喉の渇き。
35

宿食 消化の不良の食物。承元五年叙本の割注に﹁ 三日 、五日の食なり ﹂ とある。


45

華他 後漢から貌にかけての外科の名医。華位。
55

壷居士 この人のことは明らかでない。食忌は本草網目に見ゆ。志は忌の誤り。
65

陶弘景が新録 陶弘 景雑録 と同 一告 のことか。


75

杜育 晋の 杜育。古川賦は茶についての賦。
85

張孟 晋の張載。成都楼の 楼 は白菟楼。
95

六清 眼 ・耳 ・鼻 ・舌 ・身 ・意の六根の清明。
05

人、生苛にして 底本は﹁人生有くも ﹂と読む。生有とは菜を生のまま用いること。


16

漢地 底本、地を也に誤る。
26

本草拾遺 唐に修訂された本草に洩れたものを、唐の陳 蔵器 が補ったもの。


36

天台山記 唐の徐霊府の天台 山記があるが、この記とは別本と見られる。


6

(似) 白氏六帖 唐の白居易(楽天)の


(白) 白氏文集 白居易の詩文集。
(同) 宋録に日く 宋録としているのは、ここでは旧唐書のことである 。
(肝) 唐史に日く 新唐書、旧唐 書の 徳宗本紀に貞元九年正月、茶に 課税した ことが見 られ


(侃) 元三 正月三 ガ目 。
(
ω
) 鍾子 毛抜き。
だんちゃ
(河) 蟻茶 錨茶に川じ。 は俗字。一種の団茶をいう。
(刀) 好き耕 餅はかめ、瓶に同じ。上等のかめ。
(
η) 大元帥 大元帥明王、党語のア lタパカの訳。阿町 薄 似 ・阿叱婆拘と音写する。こ の
俄 軌 秘紗は不詳 。
(刀) 四衆 比丘(ビ クシユ)・比 丘 尼 (ビクシユニ17 使 婆 塞 (サしハ引サ ヵ
ん ・向 盛 夷
5患 くぴ︿ に a
(ウパ l シカ l)。比丘 ・比丘尼は 出家して 具足戒 を受けた男と女、優婆塞 ・ い引は在家
の信男信女。
注 釈

(日) 百世 百姓が正しかろう。
(万) 魁魁 木 石 の 怪 。
9
3 (市) 医明 医方明、五明すなわち五つの学問の一つ。 医学 をいう。
喉の渇く病気か。
0

(け) 飲水病
4

(花) 三五日 十五日すなわち半月。


(乃) 中 風 風 気 にあたることからおこる病気。

(紛) 不食の病 食物をうけつけない病気。


(但) 大黄 黄は硫黄 ・雌黄などの薬品。
廿申
(位) 牛膝 児科 の多年生草本。節 が牛の膝 に似ていることからいう。
(幻) 椴 ひさX、梓、すなわち赤芽柏科に属する。
(制) 車前草 車前科の多年生草本。
ひとひ
(部) 一百壮 一壮は灸の一灼、 一百灸のこと。
(鉛) 新渡の医書 おそらく証類本草であろう。
(肝) 長斎の人 斎は斎法、長い間にわたって、斎法を守っている人。斎法は斎食の法、仏
戒による一日 一回の正式の食事の提。
(
∞∞) 諸仏菩薩 別本に諸 仏芥極 とあり、提を薩に改む。
(関) 炊 底本灼に作るも 、初治本、再治本により炊に改む。炊はたく。
(仰)鶏 鳴 丑 の刻、午前 二時。
(引) 四肢拘輩 底本の物事とあ るも別本に﹁拘撃 ﹂ とあることに従って訂す。
(児) 仙経 本草図経に引く。
(
川町) 権 桑の笑。
(何) 契丹 モンゴル族と思われる一 網僚 によ って築かれた因。部族名のキタンの音写とい



(何) 一 銭 一 銭大のさじの 一杯分の 分抵 、すなわち一匁。
(%) 一両 十銭すなわち十匁。
(肝) 一分 十分の 三銭。
(郎) 明 州 漸 江省 都県。底本四州に誤る。この明州に到ったことは ﹃
興禅護国論 ﹄巻上第
五宗派 血脈門に 記す。﹁時に六月十日﹂とは、仁安 三年の月日である。
(的) 此の :・以下﹁長短を説くこと莫れ ﹂ までは、再治本に見られるものであるが、こう
したかたちにおいて追補になっているのは、栄西による再治とは別に、恐らく再治本を刊
行するに際して 、後人が加えたものと判断 される。
(削) 空口引風 そらごとをいうこと。
(肌) 米銭の利 実利をいう。
(即) 建渓 闘江の源をなし、東汲と阿渓 をなす。
任: 釈

(問) 恵山 む山 、 江儀作無銘川県 、泉があって風景の美しいところとして知られる。


(山) 践 この政文の作者は詳かではない。元禄七年版には﹁病問無涯 邦議 ﹂の別の肢を付
1
している。
4
現代語訳
44

茶を喫することによっての養生の記
どん
宋国に留学した前の権僧正法印大和尚位 栄西が諒す
人がこれを

かを
また効かなくなっ
これで好しとすることにな・内臓

こいし
とにこ
いだも

だめになってしまうであろうひそういうことになっては、おそ
ろ試
しし

かろうか。
あえ
ていささ つらつ天が
にあたって、入品 ととしたの?したがって入は自分の一
生の健康を保ち、 命を得ることが大事なこととしはならない。ではその一
生の健康奇保 はどこにあるかといえば、養牛ことにあるのでるる。その
ら得られるかといえば、内臓の五つ笠宮を健全にすることであ
る。つのその器官のうち特に心臓拭中心をなすもの、罷全にしなくてはならな
い。その心麟を鰭全にする方法としては、茶を喫するのがなんといってもいちばん
のいい方法である。心臓が衰弱すると、五臓のすべてが病いことになるの
である。
インド 亡くなっ そ


って、い
45



亡くなってまた一一一千余年になり、今の世に
46

あって病い 誰がなし持るというのであろうか。

こうなって辻、病いの相状をたずね それを診る人がなく、そのために持入は
いたずらに病いに苦しみわずらい、い ちに命を危うくするのである。
誌をた、ずねても、診断が間違っていて にも立たないて、そ
をそこなったりしている。
びそかに今の世の陸捕を関くに、薬ことによって、心地をそなうような
ことをしているが、それは病いと薬とが適合していないためである。灸をしている
のに、若くして命を失うようなことになっているの辻、京と灸とが攻め合って合わ
ないためである G
なによりも今は、中田大躍に行なわれてい
て、近代の治療方法を来世の人に一本すにしくはない。
よって一一門を立てて、この末世にあって起こる一 いため
にこの一書を記しとどめて、後の世の子孫に伝え、 の人々のために役立た
せたいことをいである。
時 これを叙ベる。
ることによっ の養生 巻の上
た請の権僧正法印大和尚位 栄西が録す

ザうわご・
五臓の和合同

鬼魅を溜除するの円

とある。
ってわち、木・火・ てはめ、


.西・北・中にあてはめているの
マー可

i l
lit
i
av
--
こん
肝は東であり、春であり、木であり、青であり、減であり、眼である。
48

肺は西であり、秋であり、金であり、白であり、減であり、鼻である。
心は南であり、夏であり、火であり、赤であり、神であり、舌である。
牌は中であり、四季の終りであり、土であり、黄であり、意立川り、口である。
腎は北であり、冬であり、水であり、黒であり、想であり、骨髄であり、耳であ
スuo
この五臓が味を受け入れることは同じではなく、好みの味が多く入るときは、そ
の臓だけが強くなって他の臓に勝ち、互いに病いを生ずる。辛・酸・甘・械の四味
は、つねに食事においてこれを食べるが、苦味はつねにあるものでないから、した
がって食べることがない 。であ るから、心臓以外の四臓はいつも強く、心臓はいつ
も弱くて、つねに、病いを起こしている。
もし心臓が病む時は、いっさいの味がみな違ったものになり、食べるとそれを吐
き、どうかするとまた食べものを受けつけなくなる。今、茶を喫すれば、心臓が強
くな って病いを無くすることができる。知っておかなくてはならぬことは、心臓の
病いがある時は、その人の皮膚や肉の色が悪く、そのために命を短くすることであ
る。日本では苦味を食べることをしないが、ただし中国大陸にあっては、日本と
違って苦味として茶を喫しており、そのためにその国の人々は、心臓の病いがな
く、また長命である。我が国の人々の多くが、痩せ衰える病いにかかっているの
は、茶を喫しないことからである。もし心神が不快なときは、必ず茶を喫するがよ
い。心臓の調子を整えれば、万病を除き治すことになるのである。心臓の調子のょ
いときは、 他の諸臓に病いがあ ったとしても、そんなに痛むものではない 。
v'd
v 一
フぎきしよう
また、五 臓位茶 羅儀軌紗によれば、﹁秘密真言をもって、諸 臓 の病いを治すので
ある﹂とある。
アクシ ヨ1プ ヤ ど っ こ
肝臓 は東方の阿閑仏にあたり、薬師仏にあたる 。金剛部である。すなわち独鈷の
印を結んで、但羅(片品伊)字の真言を唱えて祈祷すれば、 肝臓 の病いは永くなくな


心臓は南方の 宝生仏にあたり、虚空蔵菩薩にあたる。 す な わち宝部である。宝
現代語引

きょうウ ン
形印を結んで昨(宮口日){子の真言を唱えて祈祷すれば、心 肢 は病いがなくなる。
アミタ l ユス れんげ
肺臓は西方の無 量寿仏にあたり、観音菩薩 にあたる。すなわち 蓮華部である。八
葉の印を結んで乞里 (FEF) 字の真言を唱えて祈 すれば、肺臓は病いがなくな
49


50

λuo
yヤ1 キ ヤ ム ニ マイトレ 1 ヤ カ ル マン
腎臓は北方の釈迦牟尼仏にあたり、弥勅菩薩にあたる。すなわち掲磨部であ
77
る。渇磨の印を結んで悪(与)字の真言を唱えて祈祷すれば、腎臓は病いがなく
なる。
ざいにちに よらい プラジユ ニヤ l
牌臓は中央の大日如来 にあたり、 般 若 菩 薩 に あ た る 。 仏 部 で あ る 。 五 鈷 の 印
を結んで鉱 (gS) 字の真言を唱えて祈祷すれば、牌臓は病いがなくなる。そと
つ+
、 り
この五部の祈誌 は内の療治方法であり、酸・辛・甘・苦・献の五味の養生は外の
っ φり
、 不、
﹀﹄
療治方法である。この内と外とが相たすけ合って、身命を保勺のである。
みかんかんきつゆ ず
その五味とは、酸味は柑子・橘・柚等であり、辛味は萎・胡根・高良重等で
しよう
あり、甘味は砂糖等であり、いっさいの食味はこの甘味をもって性とするものであ
しようも く こう
り、苦味は茶・青木香等であり、 麟味は塩等である。
心臓は五臓 のなかの君主の位にある。茶は苦味のなかの最上の位にあり、また苦
味は五味のなかの最上の位にある。よって心臓はこの苦味を好むものである。心臓
が健全であるときは、他の諸臓は安泰である。もし眼の病いをわず らっ たら、それ
は肝臓が悪くなったものと見てよく、酸性の薬をもってこれを治すがよく、耳の病
いをわずらったら、それは腎臓が 悪くなったものと見てよく、献性の薬をもってこ
れを治すがよく、鼻の病いをわずらったら、それは肺臓が悪くなったものと見てよ
く、辛性の薬をもってこれを治すがよく、舌の病いをわずらったら、心臓が悪く
なったものと見てよく、苦性の薬をもってこれを治すがよく、口の病いをわずらっ
たら、牌臓が悪くなったものと見てよく、甘性の薬をもってこれを治すがよい。ま
た、もし身体が衰弱し、意志が消沈するよ う なことになったときは、心臓が悪く
な ったものと見てよく、その場合 はひんぱんに茶を 喫すれば、気力が強く盛んにな
0
79
よ って茶を喫することの効能と、 ならびにその採取、 調製の 時節について左に掲
げよう。これには六ヵ条がある。
一に 茶 の 名 字 を 明 ら か に す る の 条
:、
ι

爾雅 によると 、 ﹁横は苦茶のことである。 一名は奔といい、一名は若という。早


せんめい
現代

くに採ったものを茶といい 、晩 くに 採 ったものを 若と いう。西萄の人は横を苦茶と


名づけている﹂ hれ!九 とある 。
J
5
せいと
また註記すれば、西萄の成都府は唐の都の西五千里の外にあって、 この地のもろ
2
5

もろの産物は品質がすぐれており、茶もまたすぐれている D
つろ
広州記によると、﹁皐慮 お仁とは一名を若という﹂とある。
ヲ﹂ p
りんあんこんろん
広州は宋の都の臨安の南方五千里の外にあって毘南国と近い。昆虫四国はインドと
国を相接していることから、インドの貴重な物が毘罷国を経て広州に伝わってい
る。広州の土産の作物はすぐれていて、その土産の茶もまた品質がすぐれている 。
この州の気候は温暖であって、雪とか、霜とかが降ることがなく、冬でも綿入れの
着物を着ることがない口︹この故に茶味は美味であり︺この美味の茶の美名を皐虜
というのである。
この州は風土が悪く熱病の多い土地であり、北方の人がこの地に来ると、十人の
うち九人はその病いにかかって死んだり、この地の土地の物はすべて美味であるこ
とから、多く食べ過ぎて体をこわしたりする 。そこで熱病にかかったり、体をこわ
びんろうり
したりしないように、食前に多く横榔子を喫し、食後には多 く茶を 喫するのであ
り、客人にも強いてこの二つを喫さすが、それは身心をそこない、こわすととのな
いようにさすためである。であるから横榔子と茶とは、極めて貴重なのである。
南越志によると、﹁過羅は茶のことであり、一名を著という﹂とある 。
なんえつからめい
陸羽の茶経によると、﹁茶に五種の名があり、 一に茶と名づMい二に横と名づけ、
せつめいせん
三に薮と名づけ、四に著と名づけ、五に奔と名づく﹂とある。茄とも名づけるのを
加えると六 種となる。
ぎ おう
貌王の華木志によると﹁著﹂とある。
二に 茶 の 葉 の 形 を 明 ら か に す る の 条
爾雅の註によると﹁茶 の樹は小さく、梶子の木に似たり ﹂とある 。
くちな し
どうくんろく
桐君録によると、﹁茶の花の形は楯子の花の如くで、その花の色は白い﹂とある。
茶経によると、﹁茶の 樹 の葉は楯子の葉に似ていて、その花の白いことは 欝織の
如くである﹂とある。

三 に茶の効能を明らかにするの条
現代記i

うてい
呉興記によれば、﹁漸江省烏程県の西に温山があり、ここから天子に献 上する御
53 前を産出する ﹂とある。御一卯の昨とは供昨のことをいうのである。まことに貴いも
のである。
54

かんろ
沫鴻によれば、﹁これ甘露 である、どうして茶著といえよう﹂とある。
広雅によると、﹁それ茶を飲めば、酒の酔を醒まし、睡気を起こさしめない﹂と
ある。
博物志によると、﹁真茶を飲めば、睡気を少なくさせる ﹂ とある。睡気は智能の
働きをにぶらせ、人を愚昧にさすのである。また睡気は病いである。
神農の食経によると、﹁茶著は永く服用するがよく、人を愉快な気持ちにさせる ﹂
とある。
本草によると、﹁茶の味は甘くて苦く、微寒で毒がなく、服用すれば際原にかか
の戸}
ることはなく、小便の通じがよく、睡気を少なくし、喉の渇きをとりさり、前に食
べたものの消化不良をなくする。いっさいの病いはそういう消化不良から起こる﹂
とある。その消化不良がなくなるから病いはなくなる。
華位の食論によると、﹁茶を永く喫すれば、意力を益す﹂とある。 身心に病いが
ないから、意力を益すのである D

韮2

﹂ 同レ
壷居士の食忌によると、﹁茶を永く喫すれば、 羽が生じて仙人と化し、




に食うと人の身を重くさせる﹂とある。
陶弘景の新録によると 、﹁茶を喫 すると身を軽くし、 骨の苦しみを 換 える。 骨の
苦しみとは、すなわち脚気である ﹂ とある。
桐君録によると、﹁茶を煎じて飲めば、人を 眠 らさないようにする﹂とある。眠
らないときは病いがないのである。
といくせんぷととの
杜育の奔賦によると、﹁茶は精神を調え、内臓 を和らげ、身体の疲労をやすらか
に除く﹂とある。内臓とは五つの内臓で、五臓の異名である。
ちょうもう せいと ろうあふ
張孟の成都楼に登る詩によると、﹁芳茶は六清に最もすぐれていて、その溢れる
ばかりの味は九区に布いている。人は茶を生のまま薬に用いて病気をすることなく
安楽であり、この 国土はいささか楽しいものがある﹂とある。六清の六は、六根の
ことであり、九区とは、漢地の九州のことであり、その区は、域のことである。
んぞうしゅういこう 4 に'
本草拾遺によると、つ皐以は苦 く、平である。飲めば渇きを止め、疫病を除き、
党醒 させ、利尿をよくし、目を明らかにする。南海の諸山中に生じ、南の人は極め
現代守

てこれを尊重す﹂とある。
5
5 温疫の病いを除くからである。南の人とは広州等の人をいうのであり、 この州は
熱帯痛の地である。患の蔀の入で役人となってこに来ると、
56

ち九人まではここで死ん一に帰ることがない。それは食物が英味であり、べ過
がんろうじ
ぎで沼化しないことの痛いからである。このために南人は、多く横槙子を食べ、茶
を喫するのであり 、 茶 を 喫 し な か っ た ら 、 い た め る こ と に な る 。 E本は無、ぃ
J
くまの
ところであるから、この災難はないの紫野の出には一は参詣の
ることをしない。こからであ叶
出記によると、とある。
ことから、 そういのである。
の部によると、叶供御ー一

しないものということである。
によると、 とある。は食時のことで
食べた物が消化するとき辻
ると、﹁あるいはの著を飲 h
どとある。
底山いものである。ぬ
ないように、器
また問じ白氏に、戸以りを破っといってい 茶を喫す
ると終夜眠ちないも、明くる日に血に苦癌を感ずることがないの
また自氏の詩に、副似を飲んで喉がいた、頃は春深くなんともいえないよい気
持ちで、⋮歪の茶に喉をうるおす﹂とよんでいる。酒を欽むときは喉が乾いて、欽
み物がほしくなるものである。その時はただ茶を喫するがいいのであり、他の揚水
等を飲んではならない。飲めば必ず種々の病い からである。
v
の文をみると、﹁孝子はそのいっていることの意味

、 茶の木を礼拝し とあり、
るかな茶か﹂
人類をたするのに、 それぞれ
のである。
57
四に茶を摘み採るの時を明らかにするの条
ス、
ト 4m νと、
るよ
こる
とと
f

るれれ
。たを
あわこ

L_

五に茶を摘み採る仕方を明らかに るの条
トよ山寸心シ)、 ておれ

すそ
蒸むい

いな
なら
。く
ば、また揖み採らない いても効



いか、り
の調製の仕方を明らかに るの条
れを蒸し、


る。そのよべること
て茶を培るのである。その
こと
ってその
っても中の茶は損ずる とがな
9
ことによ って の法辻、述べたとおりである。
.
5
0

大体、我が国の人は茶を摘み採る方法を知らないから、これを用いないでかえって
6

茶をそしって、茶は薬ではないといっている 。 このことは、茶のすぐれたものであ
ることを知らないからである。
栄西は宋国に留学していた日、宋国の人が茶を貴び重んずるのを目のあたりに見
たのである。天子が忠臣に対して茶を賜わり、高僧に対してこれを施されること、
古も今もこのならわしは変わることはない。茶については種々のことがいわれてい
るが、詳しくはここに書くことができない。
宋国の医者が、﹁もし茶を喫しなかったら、その人は諸薬を飲んでもその効果を
失い、病いを治すことができない、それは茶を飲まないことのために、心臓が弱く
なっているからである﹂といっているのを、聞いたことがある。
願うことは、末代の良き医者たろうとするものは、茶を喫することが、 五臓の和
合に効果のあることを、詳らかにしてほしいものである。
茶を喫することによっての養生の記 巻の上
茶を喫することによっての養生の記 巻の下
宋国に留学した前の権僧正法印大和尚位 栄西が録す
き み けんじ よ だいげんすい
第二の鬼魅を遣除するの門とは、大元帥大将儀軌秘紗に、﹁末世の人の寿命が百
歳になったとき、出家者も在俗の信者も、しばしば仏教者として持すべき威儀 を犯
して、仏の教えに順わなくなり、国土は荒れ乱れ、民衆は亡び死に亡び去るであろ
みも うりょう
う。時に鬼魅とか魁魁があって、国土を乱し人民を悩まし、種々の病いを起こす
なお すく
に、それを治す方法がなく、医学もどうすることもできず、薬方も済いようがな
く、長わず らいのもの、疲労の極に達したものにいたっては よく救う者はないであ
現代語訳

ろう。その時にこの大元帥大将の心呪を持して、心に念じ唱えれば、鬼魅は退散
し、多くの病いはたちまちにして治るであろう。この法を行なう者がこの教えに
よって、この大元帥法を 修するならば、それに少しその功徳の力を加えることに
1
6
いを除くであろう。まの病いが仏・・僧の三って
2

ふ つ
6

L
よひ、?で い詩は、人は後験がないとして仏法を軽んじ、仏法を告じないで
あろうが、そ ってこの大元帥法の教えにもどって、
じたならば、 この病いを除い また仏法を興し、特にそ
るかし
あるい詰またその効果 よる証を でるろといってい

ここをもってこのこ いの相状辻この秘紗に見ちれ
でみる。その相仙 地・水でもなく、火・患でもない。
のために近頃爪 のであるひそいの相状に
である。
に飲水病
この病いら ときは、
ザ γ〉

5い
てて
、る
通E

丹で必ず薬効がある。永い期間に ることをさ、これらを

べではならない。れらを食べ よる病い さらに加わっ治


庁いはただ寒気による冷えだけが摂諜をなすので
'7

に・

百に一も、平復しないということ誌ない。
ふりゆ旨つぶ
心中風で手足が思うように動かない病い
4

方法もまたこ の三種は、鬼誌の病いを加えること記なるから
6

'7
」ー

三に食べものを受けつけない

いる冷えよっている。沫浴を好み汗を流し、火に近
づくのはわいとなる。夏でも冬でも身体を涼しくするのが、この痛いを治す妙
術である。また桑の粥を服用することである。
上の三種の病いは、みな寒気による冷えより起こっている。治療の方法は共に
である。末代のこの病いの多くは、鬼魅にとりつかれるかち、を用いる
桑の木の下には鬼の類は来るこい。のもので
とがあてはならない。
の病い

の病い ることのむくゐる雑多な熱によっ
っている。 もないのそれを人辻克極め得ない
っている。こによって起こっているから、
火に負けない。だから人はみな疑っ
ときは、火の車一怖を加えるから腫れを増すこと
治すことに誌ならない。そうかといっ
となる。灸によいっそう護れ、
なる。よて
5


6
の大きさ迂どこれ

取り替えなくて辻いけない。 ことはない。 一吾灸


み、それでいて犬毒は癌にとることなく、
あかめが わ
3)
ぬり、搬のはりつけるのであり、
いても、
に脚気の病い
いは晩食に満腹することか 入ってたちふく飯を食べ
だりするの辻、わざわいのもと この病いは午後になったら
ふく食べないのが治療の方法である。これま 一の粥と桑の湯と、高虫菊
を服居するのが、特にこの病いにならない養 b 妙法である o
国に伝わった盟書によると、﹁仰 iかかっている人は、顎に
はそれをしてはならない﹂とあ 長い間にわたって斎法を守 てい

清いのはこのことからである。 近頃の人は万病をみな脚気
﹂とである。かりいっ いの治療方法を知らないので
これ

を用い
1

くわがゆ
で桑轄の法
8
6

司令シー
ト JF の大きさにあたるものを長さ一
っか四つに結かにさき、 黒豆一/と一緒に水一一一升に入れて煮るのであ
豆がよく煮えたら、桑を取 開いて米を加え、水の多い少ないによって米の量
h
もそれを量り、煮て薄粥を作る。 冬 は 午 前 一 夏 辻 真 夜 中 よ り 煮 、 始 め て 、 夜
明けに煮終わるのである G
そし の擦に塩を
訴えてはならない。ん ことなくこの弼を食べれば、 と
がなく、酒を飲んで' ことがなく、身も心もまた安静
に芽生えた枝がもっ宅 い。根と茎との大きいものは、
粥を叩服用することは、 すべてあらゆる病いを治す効能があ
これを火にあぶって乾かし、その切った
いて置くがよい。それを三升か五升の袋に入
水一升ばかりに、その割い
て援毘するのあるいはそれを火にあぷ て乾かさない
て寂吊しも差支えないのまま煎じてもまたよい。
むくみ
しく宋冨から渡って来た戻によると、﹁桑の木辻水気・肺気・
・覇気とか、身体中がかさでかゆくなったり、乾いてかさかさになっ h
めまいせ
いとか、四肢が曲がって伸びなかったり、上気したり、眼畳がしたり、対
り、口が乾いたりする等の病いをみな治し、平常服用すれば食べものを消化し、小
梗の通じをよくし、身体を爽快にし、耳とか醍の椴きをよくしたりするんとある。
また仙経によると、﹁すべての他薬辻桑の木を煎じて飲むことをしなかったら、
い﹂殊に喉の渇く病い、食べもっけないい、中風をみ信
す記は、 ぬものである。
一、桑木を服用する法
きくず
鋸でもっての木を裁断し、木屑にしてその細かくなったものを五つの指で
もってつまみをおいしい潤に投げ入れて飲む。よく婦人の血の道に効くし、
のるらいがこれによて治らないものはない。平常服用すれば長寿を
69
保つ いにかかることはない。 服用の効果は れ的術であり、 はなら
なしむ
、暴の木・在日に含む法
ょうじ
桑の木を詣本のように削って、常にこいは 口

かん
なく、日中は常に香ばしく、持議は近寄るこよく口のみを治す。こ
のことは世の人の知っているところである。末代の医術にあってこの治療に及
ものはない。繭木にするには根が深く地に入り、地下一一一尺にもなっているものを
きわ
いるのが最もよろしい。地上の木は地上の毒がすこぶる多く、地の際むものもま
から、いないで、議木にはその枝を黒いるのである。
一、桑の木の枕の法
桑の木でもって箱のように作り、 いてこ するならば、 かに見
えるようになり、 鬼魅も近づかない G
いので

に校の葉の
にし、

L

i

2


さ時塁

:
Kこ
とり、

にに

]
一、高良誓一を服用する法
72

きっ たん こうらい
この薬は宋国の高良郡より産出する。宋園、契丹、高麗も同じくこれを貴重とし
ており、末世の妙一楽である。近年のあらゆる病いを治すに効能がある。すなわち、
その細かく粉末にしたものの一匁を酒に入れて服用するのである。禁酒の人は湯に
入れてもよい。また薄い粥、米飯にまぜてこれを服用してもよいし、あるいは煎じ
て服用してもよい。飲む 量 の多少、飲むことの早晩は、効能の次第によってきめた
らよい。毎日これを服用するときは、歯の動きや痛み、腰の痛み、肩の痛み、腹中
のすべての病い、脚膝の痔痛、いっさいの骨の痛み、みな治らないものはない。外
のいろいろの多くの薬の服用をやめて、ただ茶と高良重 とだけを服用するときは、
病いというものはない。近年の冷えの痛みを試みに治すのに、その効果のあること
は間違いがない。
一、茶を喫する法
kCHU
一寸四方大の匙に二、三杯、随意にしていいが、それを極めて熱い湯で服用す
る。ただ飲む湯は少ない方がよい。これまた随意にしていいが、濃いのが美味であ
る。酒を飲んだ後に茶を喫するときは、食べたものの消化をよくする。喉が渇いて
なにかを飲まずにはいられない時は、ただ茶を喫するか、桑の湯を飲むがいい。湯
とか水とかを飲んではならない 。桑の湯、茶の湯を飲まないと、 種 々の病いにかか
λuo
一、五香煎を服用する法
ちょうじこう くんろくこう じやこう
翫村長一両、沈香一分、丁子香二分、薫陸香一分、 窮香少 し

右の五種の香木を別々に粉末にし、粉末にしたもの を調和 して、毎服その一匁を
にえ湯でもって飲む。心臓の病いはこれで治る。すべ ての稲 々の 病いは心臓より起
こるから、この病いを治すことである。五種の香はみなその性質が苦く辛く、この
故に妙薬である D
栄西は昔、宋国にあった時に天台山より明州に到ったが、時に六月十日であっ
イ勺:百=

た。極熱の気候で気絶した 。その時に庄の主人がいて、 ﹁法師は遠 くから極熱のな


かをやって来て、大いに汗をかいたから、おそらくは病いにかかろ う﹂とい って、

E
丁子香一升に水一升半ばかりを加え、長い間かけて煎じ つめて、それを二合程に
73
し、記与えた
4

G
7

服用すると、その後辻身はすがすがしく、心は軽快とな
大熱の時は身の熱をきまして涼しくすることを知り、また併せ
る効能のあることも知った。丁子香、ばかりでなく、この
特にその効能がある。
つての養生の法として、自らに惑誌を得た とについてこ
みな宋冨に官学してうけ伝えた法である。
よっての養生


説の記録の後、ある人が いを起こというの
聞いた。この人は自分の考え いのであり、このよう
な入がどうして茶のもつ薬性が かむまたいず
れの国、いずれの人が茶を喫し そんな
とをいうに証拠もない者がとや っ効一兆恥
をい にそしるものであり、 の役にも立たない。
また つもの 一というものがあるが、 れを多くの人が吹ん
でいるのに、した 30

パ N
病いの相状も識らない
でいてとやかくいうべきではない。
のは、 って第一とし、 そ
75
れを第三とる。また その外はみな濁音であると
6
i

いう。茶記別称があっ かというが、その称を挙ぐれ
ばきりがない。
くしきかな、明埼栄西揮師のこの喫茶の記は、末世の人のわずちっていの
相状を明らかに恭し、後の世の子議記これを贈りのこして、茶は養生の仙薬であ
り、寿命を延ばす妙指となるとを、教え知ちそうとしたものである c ここにこの
文を践とする。

8
7

喫茶養生記
入宋求法前権詰正法印大和尚位 栄酉録
而示来 世病桔。 子時建保一
序(!京文)
9
7
8
1 巻上_(原文)
8
0

五味

t


均E肝
西 旬
東 一 、 雪

第 一 塁


青 甘


岬好 ~-



t lW ト
_L..


由魂也 法


L{
弘 和



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E一


罪盛。 西

2臓
i

す 2
E


味 四


充ー
五一二

82

弥勤也。
牌中央大E如来也。 牌臓間無病


麟味塩等告。
損也 c 有六条怠︿。
、明茶名字
榎苦茶。
西嬰人名苦茶
又云、 茶亦美也。
巻ヒ(原文)

名茶。 名歪。 五名古判。


83
84

二、明茶形容
爾雅日。樹小似楯子木。
桐君録日。茶花状如楯子花。其色白。
茶経日。茶似楯子葉。花白如蓄額。
三、明茶功能
呉興記日。烏程県西有温山。出御茄。
御言供御也貴哉。
宋録日。此甘露也。何言茶若葉。
広雅日。其飲茶醒酒。令人不眠。
博物志日。飲真茶令少眠。
以眠令人昧劣也。亦眠病也。
神農食経日。茶若宜久服。令人有悦志。
本草日。茶味甘苦微寒無毒。服即無痩癌也。小便利、 睡少、 去疾渇、 消宿食。


病発宿食。
宿食消故無病也。
華他食論日。茶久食則益意思。
身心無病。故益意思也。
査居士食志︹忌︺日。茶久服羽化。与韮同食令人身重。
陶弘景新録日。喫茶軽身換骨苦。骨苦即脚気也。
桐君録日。茶煎飲令人不眠。
不眠則無病也。
杜育奔賦日。茶調神和内。倦慨康除。
持上(原文)

内者五内也。五臓之異名也。
張孟登成都楼詩日。芳茶冠六清。溢味播九区。人生有安楽。弦土聯可娯。
六清者六根也。九区者漢也︹地︺謂九州也。区者域也。
本草拾遺日。皐慮苦平。作飲止渇。除疫。不眠。利水道。 明日。出南海諸山。
極重。
除温疫病也。 唐都人補任到此、則十之
5
8
九不帰。食物味美難消。故多食横榔子喫茶。若不喫則侵身也。日本則寒地。故無
86

此難。而尚南方熊野山夏不登渉。為庫熱地故也。
天台山記日。茶久服生羽翼。
以身軽故云爾。
白氏六帖茶部日。供御。
供御非卑賎人食用也。
白氏文集詩日。午茶能散睡。
午者食時也。茶食後喫故云午茶。食消則無眠也。
白氏首夏詩日。或飲一一蹴若。
甑者小器茶蓋之美名也。口広底狭也。為令茶久而不寒。器之底狭深也。
又日。破眠見茶功。
喫茶則終夜不眠。而明日不苦身奏。
又日。酒渇春深一盃茶。
飲酒則喉乾引飲。其時唯可喫茶。勿飲他湯水等。必生種種病故耳。
観孝文云。孝子唯供親。
言為令父母無病長寿也。
宋人歌云。疫神捨駕礼茶木。
本草拾遺云。上湯除疫貴哉茶乎。
上通諸天境界。下資人倫。諸薬各治一病。唯茶能治万病而己。
四、明採茶時
茶経日。凡採茶在二月四月之問。
宋録日。大和七年正月。呉萄貢新茶。皆冬中作法。為之詔日。所貢新茶宜於立春後


京文)

意者冬造。有民煩故也。白此以 後苛立春後造之。
L
岳上 (

山史 日。貞元九年春初税茶。
美名早春。又日芽若。即此義也。
rJ.o( /I~&!



宋明比採茶作法。天子上苑中有茶園。元 三之問多集下人令入其中。言語高戸俳個性
:
へY

来。則次日茶牙萌一分二分。乃 以銀鋪 子採之而後作楠 { ︺茶。一匙之 丙 至下町(


87

人。
8
8

五、明採茶様
六、明茶調様
喫茶養生記
入宋求法前権常正法印大和尚位 栄酉録
巻下(原文)
9
8
、日飲水病。


病相加治方無験。以冷気為根源耳。服桑粥。百一無不平復実。 一割
0

L
9

二、日中風手足不相従心病。此病近年衆奏。亦起於冷気等。以針灸出血。湯治流汗
為害。須永却火忌浴。只如常時。不厭風。不思食物。漫漫服桑粥桑湯。漸漸平復
百 一無厄。若欲泳浴時。煎桑一桶。三五日一度浴之。浴時莫至流汗。若湯気入内
流汗。必成不食病。是第一治方也。冷気。水気。湿気。此三種治方。亦復若斯又
加鬼病故也。
三、日不食病。此病復起於冷気。好浴流汗。向火為厄。夏冬同以涼身為妙術。又服
桑粥。
己上三種病皆発於冷気。治方是同。末代多是鬼魅所著。故用桑耳。桑下鬼類不
来。又仙薬上首也。勿疑。
四、日癌病。近年、此病発於水気等雑熱。非庁非癌。然人不識而多慎治方。但自冷
気発故。大小癌皆不負火。由比人皆疑為悪癌。灸則得火毒。故腫増。火毒無能治
者。大黄。水寒。石寒為厄。因灸弥腫。因寒弥増。宜掛酌耳 若癌出則不問強
D
。 不知刊行態。牛膝恨鉛絞。絞汁侍癒。乾復仰則傍不随。熟破無事。膿出則貼鰍

葉。悪毒之汁皆出。世人用車前草尤非也。思之。服桑粥桑湯五香煎。若強須灸。
亦宜依方。謂初見痴時。蒜横載厚如銭。貼之癌上。国文知小豆大。灸之。蒜焦可
替。不破皮肉。及一百壮即萎。火気不徹。必有験実。灸後侍牛膝汁。貼鰍葉。不
可用車前草。
芭蕉根。亦有神効。
五、日脚気病 D此病発於晩食飽満。入夜而飽飯酒為厄。午後不飽食為治方。是亦服
,下(原文)

桑粥桑湯高良董茶口奇特養生妙治也。
新渡医書云。患脚気人長飽食。午後勿食。
長斎人無脚気。此之謂也。近人万病皆称脚気。可笑。呼病名而不漁病治方耳。
t
守聾 '

己上五種病者皆末世鬼魅之所致也。然皆以桑治之。頗有受口訣子町医奏。又桑樹
是諸仏菩提︹薩︺樹也。携比木則天魔猶不能競。況諸余鬼魅之附近乎。今得唐医
1
9 口伝治諸。無不得効験奏。近年皆為冷気所侵。故桑是妙治之方也。人以不知此
近年身分之病。多冷気告。
92

是又冷気也。
一、桑弼法
朝医日。桑枝如指一一一一四細破。一握。倶投水
加米。以本多少。計米多少。煮作薄粥冬自鶏鳴。一度自市
心寂之。添塩。↑毎朝不慨。百食之則其日不引水。不酔酒。岩心部静告。
根茎大不中用。
気。

不得桑額不服。
就中飲水一小食中島。
一、服桑木法
。以五指撮之。 喪中万持無不悉廃。
是的構由。不可不信。
一、合桑木法
削如撞木。 則口舌露井無病。口常香。 善治口唱。世人所知。末
代医術。 用根入土⋮⋮⋮尺者最好。 故智用枝官。
、桑木技法
如籍造用枕之。明日無頭部川。不見悪夢。 功能多央。
一、援桑葉法
93
一分之二
4

抹如茶法膿之訂腹中無疾訂 是仙術官。
9

一、服薬構法
時収之。日乾為抹。以蜜丸桐子大。 久撮。

本桑力微耳。
治近藤万病有効。即績
多少早晩以効為期。
蕪不皆治。
多少随意。 茸(亦語意。
引飲之持。 宅欽湯水。
茶湯不飲期生謹種病。
さき下{原文)
95
此人不知日所迷。復於何
6
9

︿発詞空口引掻徒般茶也無米銭利。又云。
不知薬性。不議病相。
本出自建仁栄西禅師。
v
嶺。路経茶山。一
8
9

禅と茶 11 飲茶の風をたどって││

飲茶のおこり
中国・朝鮮や東南アジアの国々を旅行し、同じ曙好ながら食べもの、飲みものの
微妙な味わいの違いを幾度か経験したが、その違いの一つに飲茶がある。
茶といえばすぐに酒を思い起こすが、飲酒にしても同じアジアの国々でも、その
飲み方が随分異なる。飲茶・飲酒を一例に取 っても、それぞれの国にあ ってそれぞ
れにその風を別にする歴史があり、また変遷のあることをつくづく感ずる。
我が国に飲茶 ω
唄が伝わ ったのは、恐らく中国からであろうが、中国でこの風が
起こったのは、陸羽の ﹁茶経﹂に記すところによると、神農氏に始ま ったと し、唐
代になると盛んになり、長 、洛陽はいうに及ばず、荊州すなわち湖北省江陵あた

{
りから議州すなわち四川省重慶付近にまで及んで、軒並に皆が飲むほどになってい
たと伝える。それが宋代になると 一層広まったであろうことは、 ﹃
茶経﹄に並ぶ書
さいじようき そう
といわれる察裏の﹃茶録﹂ や、徽宗皇帝の撰という﹃大観茶論﹂のような茶書が著
わされ、そのなかで飲茶のことを 純々と して記している 一事を見てもおよそ知り得
る。 もちろん、そこには茶の製法 の発述 があり、したがって飲み方の違いが起こっ
ていることはいうまでもない。
茶の製法をいうには、もちろん茶の栽培があ ったわけであり、需要供給 の原則は
飲茶の風を たどって一一

昔とて変わることなく、飲茶が流行するに伴 ってその需要に応えるべくその栽培が
広く行なわれることになったわけであるが、栽培にはおのずから気候 ・風土 ・地味
の条件があり、したがって、茶の産地というものが、すぐれた茶を生産するために
茶経﹂などに詳しくそれが記
定まるということになった。そうした点についても ﹁
され、生産された茶の良し悪しについてもいっている。
もっとも、飲茶が盛んになるに は
、 飲 んでそれなりの効用があってのことでなく
てはならず、事実 ﹁茶経﹄はそのことを記すに併せ 、飲み方を誤る と逆効となるこ
禅 と茶

ともい っている。
効用といえば、間経に﹁鋭りをのぞくには酒を飲むのがいいし、ねむけを払うに

意訳 )とある。まことに酒 ・茶についていい得て妙なるも
は茶を飲むのがいい ﹂ (
9
9



いV

のがある。 であり、カアェイ
T
Sム
ンとビタミン C インに辻利尿作用と共に強心非用、
ビタミンハしに といわれる。
ことはできなかっ の効果のあること


については、長い ってい
飲茶法の変遷
茶の薬効に併せてそれを款なことが流行したもう いうま
れが美味であったことである G
上記の茶室田のいずれにも、
飲むことができるかについて、多くの文字を費やして説いている。
例に引くと、﹁甘い香りがして、濃い滑らかさがあるのが一番の味であ
ことをいっている。
それにはもちろん、茶のたで方が許要であり、
しく説いている。宋伐になるとすでに粉末に ってか
て飲むたて方が行なわれているが、 のものの吟味はいうに及ばず、水・
わかす湯の黙料のことまで厳しくいっ
、大体、っ
し、その
方が広く行なわれた

、いと
Oi
l
捧龍の茶
膚代には飲茶の患が謹んたことについてとお
唐代に栄えた警宗のなかにもこの風が導入されたことについては、売
る。禅と飲茶との結びつきは、坐禅を続けるに時として睡魔に見灘わち
ことから、これを誌ぐために茶に含むカフェインの効用をひそかに替て、こ
飲むことを護とはなしに始めたことかと思われるが、規矩の厳しい禅ではこの効
用を蕗まえて、議礼として飲茶の風を厳しく行なうことになったものと思われる。
はびょうしんぎ
ているものに、有名な﹃百丈清規﹄があり、今その遺存する
ら、そのなかに頻りに点茶のことを記していることは、

、?

叩F


くなり、い
どっ

り、その洋務をもって、い
が、その作務の一つに禅読でのることもさ
﹁吉丈諸規﹂の著者である百丈の弟子の告のなかに、茶亭
り、富済の伝に誌茶国間のあったことも見えている。
宋代になって禅院での茶礼が更に多く、しかも大規模に行なわれること
﹁大主茶湯﹂といって修行僧を僧堂に招いて、皆が一堂に生してト
!

な機式も営まれたことが、長重の﹁禅苑清規﹄に見られる。この ﹁揮菟清規い
3
んでいくと、茶に関してのいろいろのことが記されているの 今日茶を寂
0
1
する ι
るよう 、 そうした
104

でに行なわれているこ
知られる。
松恩を聴く

i
ぶるために熔炉を出す
とは茶を包みに封印し吋令に献ずること、﹁梅
の手﹂は王佐の才をいうに併て茶を按排すること、﹁暫
﹁水を勺んで松風を聴く﹂とは釜 ι水を、設み、湯をわかしてその


に興味深いものがあるというのは、茶の湯で釜のたぎる音を松風という
た表現は、高宋あたりでいわれていたことの輪入に外ならないというこ
とである。望小経﹂では湯の沸くことを一沸とか、二沸とか、一一一沸とかいっている
おと
が、それが南宋の頃になるとその声を松風に託していうことにもなつ
が薬科・飲料ということから、のになっていっ
事にも培的に知られ してならない。
つ 茶の湯とい いずれも茶をたてるのに
禅と

序 いっていること いでできた国語で誌なかろうか。
0
15
栄酉の ﹃
喫茶養生記 ﹄
06
1

ところで、中国でこのような発達をなした飲茶の風が、どのような経過をたどっ
て伝わり、いわゆる茶の湯と呼ばれる儀式の茶となったかである。唐代の文物が我
が国に多く流入していることから推すに、唐代に広く行なわれていた飲茶の風が我
が国に伝わらなかったはずはないが、その詮索はともあれ、﹃茶経﹂にいっている
に っそう
ところを、薬料として伝えるに喫茶は養生の法であるとし、自ら入宋して見聞した
事実に照らしてこれを説いたのは 、何としても栄西が初めてである 。
栄西は茶の薬効を信ずるに、茶の実を 将来 し、それを 播いて栽培してその収穫を
期するという遠大な計画を立て、それを実行したのであるが、ただ奇異の感に堪え
ないのは、二度にわたる入宋において、宋朝の禅院で茶礼としての茶が盛んに行な
われていて、それを親しく見聞したに違いないにもかかわらず、この著の﹃喫茶養
生記﹄にあっては、妙にそれにふれることがない点である。このことについては、
私見をいささか後で述べよう。
栄西が 上述の ﹃樟苑清規﹄を見ていたことは 、その主著である﹃興樽護国論﹄に
引用 していることからも疑いがなく、それでいて、この清規の随処に見える茶礼に
ついていっていないのは、一体どうしたことによるのであろうか。
茶と禅との結びつきを、栄西は入宋して確かに知ったであろうが、肝心の禅その
ものの教えが 、まだ 容易に受け容れられない事情にあったことから 、栄西は禅院に
おける茶礼というにはまだその時期ではないと見、喫茶に よる必 生をまず説くこと
によって 、茶のもつ意味をまず明らかにし、時機の熟するのを待 ったもの と考え ら
f、 れる。

ド﹂ それにしても喫茶の 養 生をいうのに、密教的教説を多分に取りいれていること

を は、喫茶の風を信仰として基礎づけようとしたものであり、その点、﹃茶経﹂を充
分読んでの上での、この 一芹の笹述となったのであろうが、 ﹃ 茶 経﹄ とは内容が似
fJ)
ヒ本ー一献 '

て非なるものとなっている ことは 、こ の 一書 の特質 といえよう。


栄西入滅後三十年、南宋 より凶渓道隆が来朝し、 この来朝を契機 にして宋朝の禅
A Aに
僧が陸続として渡海して来、また我が国より 円爾等 の入宋があり、宋朝禅がにわか
宇うだんし申 う
に興ることになったのは 、無住が ﹃ 雑談集﹂のなかで﹁:::コトニ 隆老山僧 ニテ建

長寺、如 ニ 行ハレシ ヨリ後、天下ニ禅院ノ作法流布セリ、時ノ至ルナ


宋朝ノ作法 一
07
ルベシ ﹂とい っているごとくであるが 、茶礼の法も﹁禅院ノ 作法﹂として、流布す
1
ることになったものとみられる。しかし、 ι
かてそれが宋朝禅 対する日本禅の勃
0
18

興ともいうべき進展を晃ることになった山 日本化ともいうべきも
のが始まり、それが我が国独自の茶の湯となったもの
しようげい
このことについて辻、聖陪の吋禅林小歌﹂、玄恵の などにふれ
もう少しいわなくてはなちないことがあるが、この一
は、この文の範囲を超えることにム、ここで辻これ以上ふれること
何 は と も あ れ 今 の 場 合 辻 、 こ の 詔 養 生 記 い は い っ て い る こ と を 、 よくよく理解
することが、喫茶の涯史を知る基嚇はなかろうか。また禅と茶と

る日ついてももちろんそうである。
とがのお
終わりに一一一口するが、構ミ捧呈 のような記事の

あるといた。
っかれや
に、茶辻困を遣
らざる由申しけれ
宇品?)、
大唐国より持ちて渡り給ひげる茶の られけるを、 てられける
とは、 いうまでもなく栄西のこと
そ培がなされたこていて、
いうものが、れによって起こったことが M
つとめた人であり、その茶の効能を知って、自﹀
まし、はらすために、これを服せしめたことが、
献茶の風をたどっ
序禅と茶
0
19
110

栄西の生涯
五歳の生謹
栄西の告をここでくだくだしくいうことはやめ いうもの

身にとってもそうであるが、⋮殻の読者に とを摸々とし
べてもそう興味のあることではない。
伝といえば出生から終喜一三
て述べるのが通例であるが、
伝は簡単明瞭に年袖
と述
しべ
るに
るに如く誌なかろうひ
たし。
にしても、人て、 く患うことは、
が大きくその人の生を左右し、 不運が期せずしてそ
いて 不成功まけるの から恐ろしい。
の運のどちったかというと、
当時としてはエリートコ i スを歩んだ。
し、生来学問好きでもあったことかち、
そし
そし
栄西の生ざf
1
11
入宋を可能にしたもの
栄閏が初めに
ってい に接近してい その
﹂とである。 についア
ったことの こで指摘しておこ
金の運についていた入であり、
嬉冨に際して天台の
るが、 加え
の費用をあらめ弁じていたものに違い 六十巻も
のものを持つったこと辻、考えれば考えるだけ、どれだけ
がつかない。それが弱冠二十八歳の青年警のしたことであって
によほどの才覚、があったものとい¥て辻ならない。とに
3
にも、そのための資縁の運にれたの
1
1
4

リ!トとして仏教界
1

し3

0
、?
にー
1

明翠の存在
つきを、
ぬことによって分かれるものである。も
ことにならなかったら、のエリートとし
ることになったかも知れない。
雌伏時代の誕百
栄自の生涯
1 116
西にその志のあったことをかねてから知っていたことになる 。
18
1

栄西は 鋲 西にあって商船による通交から、宋人を通じて宋の仏教事情を耳にする
たびに、新しい時代に仏教を教え説くには、海の彼方の仏教を学び伝えるに好くは
菩提心論口決﹄の回目頭に﹁濁出
ないと思った。第二次の入宋に先立って著わした ﹃
おより ょうち
に末法を証さんに、凡そ仏智を探らん口ただ陵遅を哀しみ三国を訪ねんと欲す﹂と
いっていることは、入宋の目的が何にあったかを端的にいっている。幸いにこの場
合 も 経 済 的 支 援 の め ど が 身 辺 に 整 っていたことから 、 そ の 機会 を ね ら っ て い た 矢
先、入宋をとどめていた頼盛が文治二年(一一八六)六月に卒したこともあり、急
速その翌年四月、遂に入宋を遂げた。
虚庵を訪ねる
思うに、この第二次の入宋を栄西が図った時、栄西は叡山の仏教とはもはや訣別
する考えをもった。叡山か ら明雲の側近であったとして白眼視されたであろうこと
もさることなが ら、叡山の仏法に絶望感をもった。ついては仏教の源流を中園、イ
ンドにさぐって、日本仏教は仏教の根本精神に戻らなくてはな ら ぬと考えた。そし
てそのはやる心がインド行のいわば途方もない計画となった 。
その頃宋国よ りインドに至る西域の道は北蕃の勢力下にあって塞がっていて、栄
西の目的は 述せ られなかったが、もし道が通じていたら実際に至っていたかも知れ
ない 。途を 逃が れた上はしょせん中国にとどまることになり、かねて耳にしていた
き 島ttしよう
であろう虚府懐倣を天台山万年寺に訪ね、虚庵が天童山へと 移 るに従ってさらに参
じた 。
ここに、はしなくも栄西 は虚俺 の嗣承している臨済宗黄竜派の禅を修めることに
なった D
そして在宋五年の 政月を この師の下に重ね、虚庵の印可を受けて帰国する
ことになった。在宋中に 一切経を読む こと三度に及んだというが、仏教を学問とし
ても根源的に究め直そうという考えは、禅を修行するなかにも失わなかった。
栄西の生涯

堂宇の修営
かんじよう
密教については、栄西は虚庵をはじめ、宋の禅師に濯頂法を授けるところがあっ
たともいわれ、栄西の在宋中の活動は宋人に尊崇される ことも少なくなかった。孝
9
宗の勅によって雨を祈って雨を降らせたことによるとも、疫病を除くことを祈って
1
1
せんこう
それを除いたことによるともいうが、奇瑞を示して千光の号を受けるということも
2
10

あった。それに併せて天台山の智者大師の塔院の廃段に資金を喜捨し、万年寺では
三門の両廊の欠けたのを興造し、天童山千仏閣の改築を行なうということもなし
た。栄西の在宋中のこうした足跡は、宋人の高く評価しているところで、その記録
をいまにとどめもしている。
とにかく、栄西は在宋五年の聞に実に精力的な活動を続けた。そして帰国にあ
たっては、日本にない新宗の一宗をなんとしても伝えようとしたのであり、そして
仏法の陵遅を興さなくてはならぬとしたのである。
このことは第一次の入宋と目的を大いに異にしたのである。﹁渡宋巡礼沙門﹂と
いった渡宋ということによって箔を身につけるのではなく、第二次の入宋は、入宋
して得た中身を身につけたことである。一説によると、在宋中に﹁出家大綱﹂の稿
を編したというが、出家受戒の儀軌の重大であることを、宋国の禅院を見るにつけ
痛感するところがあってのことに違いなかろう。このことは帰国した栄西が受戒に
極めて厳格なものをもったことに結びつこう。
帰国後の活動
みようあん
建久二年(一一九一)七月、栄西は虚庵のもとを辞して帰国した。栄西は明庵の
号をその時に授かったというが、もしそうだとするとそれは道号であったであろ
う。栄西の乗った帰船は、楊三綱の船であったというが、この楊氏もまた博多にお
あしのうら
ける宋人の豪商であったであろう。船が平戸葦捕に着くと、戸部侍郎清貫なる者
ふしゅん+めん
が、小院の富春庵を創めて栄西を迎えた。残念ながらこの清貫について知る資料が
残らない。
その年の八月には早くもこの庵で成庵嗣承の禅を挙揚して、禅規を初めて行なう
に、初めはわずか十数人であったものが、ほどなく堂にあふれる集まりとなった。
その新宗の禅は確かに多くの人々に関心をもって迎えられたに相違なかろう。肥
前、筑前、肥後、長門とあい次いでそれぞれに一寺を建立するに、そのいずれのと
ころにあっても盛んに禅規を行なったものと考えられ、そして翌三年には筑前香椎
宮の側に建久報恩寺を建て、初めてそこで菩薩大戒布薩を行なっている。詳しいそ
の記録はないが、この布薩は大規模のものであったとみられる。翌四年には筑後に
1
千光院を建て、六年には筑前博多に聖福寺を建てた。
2
1
でに平氏は西海に滅んで世は諒頼朝の時代
になつ ていたことから圭然平家没官領と
なったものの、ここ
して、その所職、所領をもとのご
転したが、栄西が経済的に依存することか
幸いにさしたる変革はなかった。それどころか氏実の子
ことから、栄西の幕持への接近の因縁がここかち始まった。
かに帰国したのであるが、かつては頼盛の帰
おのずと撃っていた。聖福寺は
て、かし
してい
良弁の抵抗
これより先、栄西が達震宗すなわち禅宗を建立するという風間が京都に聞こ
ころとな
栄西伝に詳しい。栄酉誌
事の次第を糾された。栄西辻禅宗の教えは伝教大部の
られるように、すでに大詰によって我が国に伝えられているのであり、禅宗は決し
て新宗ではなく、替の教えを否定することは、大師の教えを否定するものであり、
大師によっのものをまた否定するものであると抗弁し、良弁
をもって昏愚無知の徒でおるときめつけ

によっ彼
ところがあっ

て のな
に、弾宗空しく墜ちじ、予世を去るこ
べといっているように、禅⋮宗の独立の可能性を見透せる状況のなか
出のなかに知られる以上の諦論が加熱化し発撰することなくしてとにかく
んだ。ついてはこの場合見落としてはならないのは、この立制いの書かれた年
に、この三曹のなかにも栄西が自ら述べているとおり'、栄西はすでの職金
でんとうだいほっしい
すなわち伝燈大法師企の僧設の最高生をきわめていたことでるる。噴
けて攻めちれる立場にあったというよりは、この増位を受けている
よって護られる立場になくてはならなかったはずである。
ささったといったが、 に緊し
てはり賜わったともいい、栄爵が天皇い
に←めったことは、宗寵社の本家八条院を通じてであったともみられる。この場
後には宗像氏と結びつきによる経済力がや辻りあったと思えてなら
このするについては、いうだけのことは充分いいきって
つてのことと考えられる。
叡山と﹁興禅譲国論い
ここであえてこの豆曹
につながるとし、禅の

戒の
てそ
根患には、叡山 線を画そうとする決意があった。
ているのは、その頃叡山にあっては学匠と営
ιまで及ぶといったことがあって、こうした自に余る仏
が合戦
りにするにつけ 、世は法減に瀕しているとして憎県の粛正を期そうとしたに外なち
A
い。このことは、哀調﹄を読めば明白であるように、栄西の興そうとした禅は
25
であったのでるり、禅戒の禅であったのである。
1
今此の宗は戒の大小を撰ばないも
大乗戒、小乗戒の区別にあるのではないとし、 ﹁
26
1

のである﹂とし、あからさまにこそいつてはいないが、叡山にはもはや正法なしと

、 ﹁
今此の宗﹂の禅宗こそ正法として世に久住せしめる使命を担うものであると
している。
栄西が第 二次の入宋から帰国した建久二年(一一九 一)の前年のことであるが、
第六十代の 天台座 主とな った前大僧正公顕が、南都受戒の人であ ったということか
ら、座主に任ず べからずとし て 、 わずか四 日で座主を退か ざるを得なかった 事実
を、栄西は後にな ってからであったろうが聞き知らなかったはず はな く、こ うした
南都戒に対する叡山の考えには、栄西は承服し得なかったのである。
ただ、栄西はこの﹃論﹂を書いて自らの立場のいうべきことはいっているもの
、 叡 山に自らの主張を突きつけて対決を迫るという烈しい態度には出なかった。

論﹄は、伝えるところによると、摂州の浜田村の一庵で草したといわれる
この ﹃
ように、ひそかにしたためて、朝廷の要路の人に自 らの 主張する立場の正当性を立
証すべく差出 したものではなかろうか。
関東に下向
栄 西はこの ﹃
論﹄をしたためた翌年の建久十年、改元になってすなわち正治元年
(一一九九)、関東に下向したが、栄西としては 叡山の支配下からできる だけ遠く 離
れたい気持があった上に、わたりに船と幕府の招きに応じたものと思われる。頼朝
はこの年正月すでに 箆 じており、推測するに、前にもいった ように御家人となって
いた宗像氏の関係もあって、その冥福を祈るべく赴いたので ったか も知れない。

関東にあって栄西のことが初めて記録に現われるのは、 ﹃ 五日市立
鋭﹄ に正治元年九
月二十六日、幕府において不動尊供養の導師となったと見えることである。 ﹁興禅
護国論﹄ を著わした以後の栄西の担ったこうした役割は、いささか意外の感がある
が、それはいつに 米るべき時節を待つての自重であったであろう。
栄丙め生涯

鎌倉幕府の帰依
栄西の鎌倉下向はたちまちにして幕府から信頼 と帰依を受けるに絶大なものがあ
かめ や つ
り、翌二年間二 月には、 頼朝の 父義朝の邸祉の 亀ヶ谷の 地の寄進を受け、政子が施
7
主となって 寿一
剤寺の造営が成った。政子はこの寺にあって栄西に聴問し、政子と共
2
1
に頼家もまた栄西を尊崇して止まなかっ
128

しかし、栄茜の鎌舎での活動は、 たといっ
坊があったことを、 しに﹁栄西
をとどめるくらいか
たとしてもただちにそれが実現したわ
けかにそれを期待したとしたら、それは全くの呂算違
いでしかなかったその計算が栄酉になかったわけではなかろう。事
実、栄西を尊崇して迩えたのは幕府の仏事法会の導諒でしかなかったし、当の幕府
もやがて北条氏と比企氏との対立により、頼家の殺害とまでなって動揺し、栄酉が
禅の一宗の布教に外護を幕府に求めたとしはな
かった。
建仁寺の造営

﹂ λJ こで
え叩
守ア

年、京都鴨河畔に栄西を

迎えての建仁寺造営の工が始まったことである。この計画は鎌倉方より進められた
朝廷と幕府との和合の策としてであったかも知れない
こととなった。そ
れで栄西は
大いに事情
はあったの
ふじっ の二宗を併せ
いでいわば絶対的保証の下にこの一ニ宗を置い
おそらくこょっ 寸の新寺建立に家出がどう出るか、その出方を
さぐり、状勢を見究めた。こ Lつ い て は 叡 山 と つ 上 に お い て 、 初 め は
栄酉の生野一

遥か鎌倉からそれを窺ってい かも知れない。
世間ではこの三宗の併 らの
の下心はそうで
たもの
、3/
パジ
の噴になると、叡山を向こうに張つての逆に威圧の挙に出ょうとしたふレもなくは
3
10

なく、ここにおいて栄西はあえて弾といわず、綜合的な日本仏法をここに樹立しよ
うという新構想をもった。
やが ご 二O 五)三月には宮寺に列したが、 このこ
のとすることになった。

ていみ
戒を持することをたもの
ば党行の基本はまず斎戒すなわち非時食をしないこと ι
あるとしたもの
らく仏教者たるものは食生活を正すべきであるとしている。そこに新寺
西が何をねらったかの鋭気がみられ、このことはまた﹁吉本仏法中興頴にあっ
ても党行を惨し戒律を持することが、仏法を再興するゆえんであると力説している
にも知られる。殊に頭文は奏関を経ることによって仏法王法の一体的惨復を祈額
道場たらしめんこでいる。そこにはひそか
れているとみなくて誌ならない。加えてこの新寺の
となく、在家者を含む道場を企図したことであり、そこに
のがあった。
えん
このこと辻願文に﹁群生﹂とあり、また﹁最北勧進文﹂に一門の徒衆の外に有縁
いうことをいっていて、明らかにそれは在家人を指していて、建仁寺は
もるったのであり、ての公あって、また民
ったむにも求めたこと
い出
3
11
132

関東寿福寺、彼創草ノ禅院ノ拾ナリ、然ドモ
ソムカズシ或門・天ムロ・真言ナンドカネテ一向ノ窟隷ア行ゼラ
レズ、時ヲ待ツ故ニヤ、深キ心アルベシ、殊ニハ宮内一一一一口ヲ富トシハ内行
ナリキ L
といっているが、聖福寺、寿福寺
して、揮門を内にする
れば、それは充分
と(

.
-
し3
:
V
とがの炉心みようえ
。七)に栂尾の明慧は栄西の室に参じたというが、その法門の開放的であったこと
を窺わせ、また栄西が造東大寺大勧進に穀によって就き、法勝寺の塔の一に当た
る等のことをこれまた勅によってなことになっも、もとよりそけの
力量を期持されてのこら、怖い市川躍が脳
またとでなくて


とについてさら し当たるこ
いては、博多まで歪っ
を率いてまで迎え、厚く遇したという
たの年(この年三月九日、建麿と改元一
のことであるが、栄酉が第二山入宋より帰朝してこの年はすでに二
ており、栄西は自らの入宋の験に黒らして、大陸の新しい事需を拐
にく思ったに違いないし、ヨ本仏法の中盤(を目指すについて、そ
けとなるべき知識を俊怖から得ょうとしたことも充ハガ想像されよう。
133
く建仁寺記述えられるまま寓したのに
教の新患がもたらされ、かつそれが起こっていたことは間違いなかろう。
3
14

ここで考えちれることは、栄西は青蔀仏教に意識的に接近を深めていたこと
り、それには種々の事習が位にあったとしても、なによりも明らかなことは、
への抵抗が根底にあったろうことである。
栄西と一切経
栄西は、この
に対して辻もと
は早々
どに熱烈なものがあり、第二次
の入宋では、在宋の聞に一切経を読むこと二一震に達したことは上述したごとくであ
り、おそらく幕府に勧めてのことであろうが、開じくその年十月に鎌倉の永福に
一切経五千余巻の将来を丸て、その税裂の導部をつとめていることは、改めて切
経のもつ意味を認識し、日本仏法は一切経を語まえての全仏教的立場に立つ
を期さなくてはならぬことを、いわんとしたその一曜の現われと見えない


晩年の行動
栄西の鎌倉に
区別が立て


136

山門と寺内との確執があり、
つでも、
BU
栄西の入滅
ついで栄西についてい
五日嫌倉においてとするに対して、栄西伝とし
七丹五日建仁寺においてとして、その説を異にすること
は叫沙石集﹂にいっている七月五日の京都入寂説を受けているもの
吋吾妻鏡町一叶元事釈書﹂共にその終一時仰の模様を如実に記し、そのいずも一方に
決定するさめてはなく、きめてのない限り、この両説に詑うより外はないが、
どうしてこの両説の起こる理由がるったかである。
にあって辻その病没は病荊にあった ているのに対し ﹁元亨釈
おいてなすべに暇乞いをし、
我まさに末期の匂を唱へて王都に顕とい
るところの宗旨に疑信半ばするものがとして
をしてそれを都人に明らかにしなくてはならぬとして、
になって徴疾にかかり、六月の布薩(十一w
yz子会三;⋮﹀の


日に入滅することを大衆に告げ、ぞれが宮中に関こえて耕使
、その容態辻壮健で変わることがなかったものの、捕時(午
後西時国(﹀って椅に主して安祥として潜ったと記し、あまつさえ勅震が宮中に
需る途中に栄西辻入滅して、寺の上に端虹が現われたと記している。
つまり、﹁吾妻鈍いは栄西の入滅になんの務飾を加えることなくそのままにいっ
ているのに比べて、﹁元亨釈書い辻建仁寺関山として入滅のがあったこ
とを纏々としていっている。おそらく税﹂の記すと
れないが、未だ日本仏法中盤(が業なかバったこと 建仁寺の衆徒の間で、
その跡をどのように受け薙ぐべきかに、 ナの時日を必要とし、か
7
つ建仁寺し けるために、あえてその衆徒が七月
3
1
のではなかろうか。
説をいっている入滅の地は寿福寺であったに違いないが、
で かねてか在仙の中盤ハを表明してき
のって 山痛で滅したとしてすま
すことはできなかっ一とし けなくてはならなかっ
たひこの栄酉の入滅を建仁寺においてであったとし、しか てい
るところに、建仁寺がどういう位置にあったかを物語っているように思える。
し、栄西入滅の後、栄吾の日本仏法中興の麗いを継承したという衆徒のあっ
た の辻、当の建仁寺にあっても何一つない。
第百代玄珍、
というが、第六代の薮琳、第七代円琳についてわずか
そのいずれの人もその名のみで全く知ることができない。
て修め、
日本弘法として一一での
辻行男のような弟子が寿一福寺にはあったとしても、の場合と変わりはない
あえてその変わりをいえば、引をはじめ栄朝などの弟子があって、型通りの二
兼修の行化を関東にということだけである。
めっては、 て少なくなかったはずで
活えるもの 栄
いによっ
失われた。い
この明全が生きて埠国し詩たらとつくづく思われ
叡山と栄西
晩年においてようやく実現の軌道に乗るかにみえ
ででしかなかっ司本仏法といい
合的思考は、 や 誌 り な ん と し と こ ろ で っ た の で あ
4
10

り、その とは資を欠いたというだけのことで誌なかった。加えて栄西の没後、椴
下に対する正迫の少なからずあったで、あろうことは、栄西に対する故意
る悪評のほとんどが、叡山間から起こって世にひろまることになったもの
とくであり、この一事をもってしてもそれが知られる。
するに、栄西の生産に見る叡山との関保は、叡山にあって出家し、受戒し、台
教えを受け、第一次の入宋から帰国して天台の新章疏を伝え、これを産主の明
に献ずるまでは続いたが、爾後は叡山との関需を全く断った。そしてそれ以後
辻、弾の一京の独立をはかることから一転して日本弘法の中興を唱え、実力で叡山
に抵抗し、朝珪からも幕府かちも外護をとりつけて、叡出の庄力を巧みにかわし、
倉に奇教の拠点を築いてしばしば叡山をおびやかした。それがやがてはあ
い勢力にまで発展していたこと辻、この後でふれるようにも
西の大師号についての朝廷での議定ともなったことに推し
最後は叡山のもつ既成の強靭な組織力の訴に辻、新興のし
かか
なし
っし

て潰えた。いつの詩代にあっても敗者の一竪史は不利であるように、栄爵の
の例外ではなく、この目指した日本仏法山の悲願という画期的
てしまっている。
信別的な宗派
栄酉の思翠に対
ることにまで
4
11
4
12

その人間像
栄西に対する人物評
栄西がどういう人柄であったかをいうに、必ずといっていいくらい引用されるの
は﹃愚管抄﹄の次の一節である。承元二年(一二O 八)五月、京都左京の法勝寺の
九重塔が落雷で焼失し、その復興 に栄西が力を尽くしたことをいうに際して、
すおう
﹁葉上ト云上人ソノ骨アリ、唐ニ久シクスミタリシ物也トテ、葉上ニ周防ノ国
ながふさぷぎようもうししゅぎようしようげん
ヲタビテ、長房宰相奉行シテ申サタシタリケリ、塔ノ焼ヲ見テ執行章玄法印
ヤガテ死ニケリ、年八十ニアマリタリケル、人感ジケルトカヤ、サテ第七年ト
云ニ、建暦三年ニクミ出テ、御供養トゲラレニケリ、其時葉上僧正ニナラント
シイテ申テ、カネテ法印ニハナサレタリケル、僧正ニ成一一ケリ、院ハ御後悔ア
リテ、アルマジキ事シタリトヲホセラレケリ、大師号ナンド云サマアシキ事サ
なお
タアリケルハ、慈円僧正申トマメテケリ、猶僧正ニハ成ニケルナリ﹂
と記し、 塔 の復興工事の七年目(実は六年目)の建暦三年(一二三二)に九層を組
み上げ、その落慶供養にあたって栄西は、僧正になることを望んで法印、僧正と
なったが、 院すなわち後鳥羽上皇は僧正に任じたことをある まじ3 ことをしたと 御
後悔になったとし、そして大師号宣下の沙汰などというとんでもないことがあった
が、慈円がこれを申しとどめて事なきを得たといった 芯味のことをいっている。
つまり、栄西は自分から 僧 正になることを所望してなったというのであり、その
ことは院が御後悔になったくらいのあるまじきことであったとし、それが身のほど
知らずの所望であった上に、大師号のことなどもっての外のことだといっていて、
暗に栄西が名行欲 に執心であったとしている口
この大師号の沙汰のことは、 ﹁
吾妻鋭﹄ によると、栄西は日頃からこの号を得る
その人問向

ことを所望し、同年五月に朝廷でそれ が議定になったが、在命中に大師号を得たこ
せんしょ 、

との先縦が我 が国にないことから沙汰止みと なり 、その六月四日に権僧正に任ぜら
れたと し
、 ﹃ 管抄﹂ と記述がやや異なるが、はっきりと時日をあげて大師号まで

所望したとし川ている。ここでもいかにも栄西が名誉欲のかたまりの人であったよう
なことをいっている 。
43
1
4
14

無住の栄西観
このことに対して無住は﹃沙石集﹄ のなかで、栄西が僧正を所望したことは、
﹁末代ノ人ノ心、乞食法師トテ、云カイナク惚ン事ヲ悲テ、僧正ニナリ出仕アリケ
レパ、世以テカロクセズ、菩薩ノ行、時ニ限引ノベシ﹂といっていて、身分が乞食法
師では出仕に不都合であり、僧正になって出仕したところ、世間でもその僧位を重
んじて軽く扱うことがなかったとし、いってみればそのための方便であったろう
し、菩薩の行でもあったとしている。そして﹁時ニ随フベシ﹂とし、菩薩の慈悲行
として教化活動をするには、時と場合との考え方があって当たり前だとし、なにも
栄西に名誉欲があってのことではなく、たとえあったとしてもあえてとがめだてす
るに当たらない旨のことをいっている。
慈円の嫉み
大体、栄西に対しての非難、悪口の出どころは慈円あたりから起こっているもの
のごとく、慈円には栄西に対する嫉みのようなものが根深くあった。慈円は天台座
げんぷ
主に四たびも 還補 となり、その先例を聞いたほどの 板山の実力者であり、法性寺忠
通の子息として生まれた権門の出身でもあったことから、加えて世俗の権威の背景
も絶大なものがあり、当時の仏教界に腕みをきかしていたことは想限に難くなく、
その眼からすれば、栄西の存在などさして目ざわりではなかったと思われるが、そ
れがそうでなかったのは、おそらくただの一神官の伴のくせに二度の入宋まで遂げ
たということ、ひいては叡山にたてついてまで新宗を唱えようとするに至ったこと
等々があって、なんとしても腹にすえかねるものがあったのだろう。
栄西の真意
とかく出る釘は打たれる諺のとおり、栄西の後半生の活動は 、しょせん旧仏教の
その人間内

秩序をどこからとなくゆさぶり動かすものがあり、それ が栄 西の活動への弾圧と
なってはね返ってきたことはいうまでもなく、その場合、 沙 石集﹂にあるように
乞食法師の身分であっては、栄西は立ち向かうにも素手同然と いうことになり、対
抗上、僧位は望んでも必要であったであろう。このことは ﹃
興禅護 国論﹄ のなかで
5

禅 の新宗を唱えるのに、それはかつて我が国に伝わって今に廃絶している一宗 を興
4
1
すに外ならないとして、一宗の独立の勅許を求めるに、
の位を占めていることに、いかにそ
ば、きょう。もしその僧
って
にもいっているように、ていに
いなくてはならなかったのであり、は三位に準ずとか、律
とかといったきまりがあったのであり、栄西が朝廷の帰依にあずか
るに及んで、それ椙誌の雷位を得て不思議ではなく、もしそれが一神官の停のくせ
にということで、とやかくいわれるのであったとしたら、それはさげすみによる、
いわれない難くせとしなくてはならない。
この点、栄酉の人間にかかわることであり、 にいっているよう
なこ にし あまりに 誌なか
エリート同土の確執
栄西が伝経大法師位の告告にあったことは、 また
ZE の文中にもいっているとおりであり、この
八)にはそったこと
には、その
でおり
していたことがすでに
一いるのであり、いきな
一年(一て二二)に栄西が法印に
その人間像

っているが、﹁法印大和品位辻僧正階と為す﹂
正になったことはなべくしてなったのであ
たものではない。ただ、前言い
のものがおることはないものがに
147
もちろん、
4
18

いの一
とは、

べるにあたってふ

て勅 i
は賜、
大さそ

とは、そ
師れ
号た

ib


にあってのこと
とどめたというの
ほつこう。
149
門下の者に栄西のことを語っているいくつかの話があることである。そこには求道
5
l0

者としての純粋な人間像が語られているのであり、慈円のいうところから窺われる
ような、その人に見る俗物観は微塵だにも存しない。
え じよう しようぼうげ んぞうずいもん き ぞん じよう
正法眼蔵随聞記﹄に、栄西の存生の聞に建仁寺
道元の語を弟 子 の懐突が録した ﹁
では参徒の日常の行持は 厳格なものがあったことをいい、また有名な話とし、 建仁
寺にある貧しい人が訪れて、親 子三人餓死寸前であると救いを求めて来たとき、薬
師像を造るための光背用の銅の延べ板を与えて、これを売って食料にかえて飢えを
しのがせ、自分が仏物を己用してたとえ悪趣に陥ることがあ っても辞さないといっ
だんおっ
たこと、また あ る檀越か ら贈 られた絹の 一疋が建仁寺の衆僧た ち の粥に代わる貴重
なものであったにもかかわ らず、どうしてもそれを入用とする俗人のために惜気も
なく与え、これによって共々に餓死することがあっても苦しか らずといったことな
どを、﹁先達の心中のたけ今の学人も思ふべし、忘ると﹂と莫れ﹂といい、﹁まこと
に道者の案じ入たることかくの如し﹂といって感銘深く語っている。
さらに詳しくはこの﹃記﹄に譲るが、栄西という人はおよそこのような慈悲深
い、しかも、行持綿密な人であったことは、潔癖であった道元が伝えていることか
らして決して間違いではない 。
八面六の活動
﹁ 集い に、栄西が自分の J後五十年に禅宗は興るであ ろうとい ったことと、北
沙 石

川町朝が檀越となって宋か ら迎 えた 繭渓道隆のため に鎌倉に建長寺 を建て、初めて
うq A
林の 規則が我が国に行なわれるに至ったのが、ち ょう ど滅後 五十年にあたること
U
をいうに、時頼は栄西の 後身 であ るように時の人が 中 し合ったとしているが、栄西
の徳は世に 讃えられこそすれ、非難されるような所行はこの人に到氏 あったとは思
えない。
ただ、この人の八面六 行を思わ す生涯 の活動が、造寺造塔にも少なからぬ力量を
そのノ、 !::lf~

発仰 し、世俗を 避け てひたすら 道 を求 めると い ったタイプではなく、前にも二一一口ふ


れたように、旧 い仏教 から脱皮する 過程 のた め に迫られて世俗的活動を余儀なくさ
れ、組織 のなかでそれを 実 現することのでき る体制をまだ身辺 にもち得なかっただ
け に、す べて独力でそれを 担 ったところに、 後世、人間的に 誤解を招く商は確 かに
あった 。
5
11
5
12

不運の人
てからであつの伸びる
ったというが、このことほ時には身長
いした精一杯の活動をしなくてはならなかっ
るいっていいほどこの人にはゆとりをもっ持関がな
脱落身やということのゆとりが精神的にも関体的にもなかっ
に対して誤解の根本辻それがなかったことから、つい慈円のい
に、この人に対する多くの見方が額いたのではなかろうか。
栄西という人は、もう 度その生謹の上い限り、
A
のままにこの人
を一埜史のなかに不当にうずめることになる
﹃喫茶養生記﹄をめぐって
をめぐ
;

題名の由来
}﹂
ノ9
¥

てていたかどうか。確かじこ
そうしゅく
いてはいるが、その外に桑粥、桑湯を臨することに
しかもその説くところは、喫茶に関することと迂迂
に あ っ て 占 め で あ る こ と か ら す る と 、 書 名 と し て は 喫 茶 ζ寂桑を
加えたなんらかのその名称があってしかるべきではなかろうか。﹁吾妻鏡﹂の建保
二年二月四日の項に、
3
﹁西日、己亥一、晴、将軍家、 聯か御持培、 但し殊な
5
1
是若し去夜御淵酔の余気か。愛に葉上僧正御加持に候ずるの処、此事を聞き、
5
14

さん
良薬と称して本寺より茶一蓋を召進す。而して一巻の書を相副へ、之を献ぜ し
む。茶徳を進一日むる所の書なり。将軍家御感悦に及ぶと云云。去月の比、坐禅の
余暇に此抄を書き出すの由之を申す﹂
喫茶養生記﹄ の一巻を指すよ う でもある
とあり、その一巻の書とは、今に伝わる ﹃
が、どうしたことかその書名を明記しない口ここで将軍とあるのは実朝であり、葉
上僧正とあるのは栄西であることはいうまでもない。一般にこの﹃吾妻鏡﹄ の記事
喫茶養生記﹄ そのもののことであるとし、この ﹃
からこの一巻の書が ﹃ 記﹄が実朝
に献ぜられたものとみているが、果たして直ちにそういえるであろうか。
ところで、後でも述べるように、この ﹃
記﹄には初治本と再治本とが伝わるが、
この両本共に序があり、これを対照するに字句にかなりの出入りがある。ただ双方
茶が 妥生の仙薬であることをいい、桑粥、桑湯について一言も言及することがない
のは共通している。
思うに、この ﹃
記﹄ の原型は 喫茶の養生についてのみ述べたものであり、ついで
桑粥、桑湯を服 することによって養生に効能のあることから、それを書き添えたも
のではなかろうか。このことは﹃吾妻鏡﹄に一巻の書といっていることから推測さ
れるのであり、今のこの﹃記﹄の一一巻本は、その書き添えによって 斜 められたもの
に違いなかろう。すなわち、二 巻 の仁巻は 喫茶 について 、
一﹁巻 は主として 桑粥 、長
湯の服用についていっているのであり、事実、上巻は内容的にみても独立 した一巻
本であろうことは、その末尾の結びの語をみてもほぼ推定できる。
喫茶養生記﹂の書名は、その上 巻 の内容からして、その 一巻に対してのみ当然付

さるべきであり、書名からしても、原型は 一巻本であったとみるのが至 当 である。
一巻本か二巻本か
ただ奇異に堪えないのは、初治本の承元五 年 (二一一一)の序にも、建保二年
(三二四)の再治本の序にも、本文において 二門を立てて末世の病相を示す旨を
いっていて、﹁第一五臓和合門﹂、﹁第二遣除鬼魅門﹂の二門を挙げ、第一門を上巻
に、第 二門を下巻に 当 て、承元の初治本においてすでに二門を立てていたとみら
れ、建保の再治本もその序に﹁子時建保 二年 甲戊岐点
廿 正月日叙﹂とあり、この序を
5
草したのは一巻の書を将軍に献じたという同二年二月の前月の春正月であるとする
5
1
と、一巻の書を献じた時 にはこれまた明らかに 、 二門立てて ﹃
記﹄ とな っていた と
5
16

いうことになる。
しかし、そ うみるには、﹃吾妻鏡﹄にもっぱら﹁茶徳を誉むる所の 書な り﹂とあ
り、桑粥、桑湯のことについてい っていないことからするに、それは文字どおり一
巻の書であって、二門立てのこ巻の本であったとすることはできない。初治本を見
る に 、 序 は ﹁ 喫 茶 養 生 記 巻 上 序﹂とあって、その序は巻上の序であることを窺
わせるのは、注目しなくてはならない。
したがって、初治本、再治本にいっている二門の﹁第二遣除鬼魅門﹂の桑粥、桑
湯にふれている部分は、将軍に献じたという一巻の書には含まず、二巻本とは別に
纏めていたものと考える。一巻の書は﹁去月の比、坐禅の余暇に此抄を書き出すの
由之を申す﹂とあるように、改めて書き出したものであり、去月は建保二年の 二月
からその月をいっているものとすると、再治本の序に見られるその年の正月である
記﹂ の再治にあたっても、喫茶による養生の部分の一巻は別
とみ られるが、この ﹃
本として保存したのではなかろうか。ところが﹁第 二遣除鬼魅門﹂を加えて二巻本
とするに、その序を 二巻本のそれ とするためにそれを 書き 改めたも のではなかろう

序といえば、初治本に﹁謹叙 ﹂ と序文を結んでいるのは、宗旨 に関する著述につ
記﹂ のような 均合 にあっ ては、 これが将
いてのそれであった ら いざ知 らず、この ﹁
軍への献上本であったことから起こっていることを思わせ、果たしてこの序が承元
五年に書かれたものであるかどうかの疑義をいだく。 一巻本 の序を 二巻本に付する
について、 一巻本を将軍に 献呈すべくその序を﹁謹叙 ﹂としたものが、そのまま二
巻本の序にのこったものと考えられないであろうか。つまり、のこったということ
喫茶養生 記j をめぐって

は、もともと一巻本に付 された序を、二巻本を編むにあたってそれをそのまま移
し、ついてはそれが二巻本に合うように﹁の立二門云々 ﹂ の一語をその末尾に付し
たものとみられる。
に ﹁
大体、養生の幸一一川 謹叙 ﹂はおかしいが、再治本はもはや将軍に献ぜんとした一
巻本ではなく、﹁謹叙﹂ の意味は当 然失われていたが、再治本においても、その由
f

来を伝え遺すべくその序をとどめたものではなかろうか。ただここで注意しなくて
吾妻鏡﹄ の記載 による限
はな らない ことは、その一巻本を将軍に献呈したのは、 ﹃
7

り、それは建保二年二月四日ということになり、一巻本が成ったとみられるのはそ
5
1
れ以前であり、それに﹁謹叙﹂ とあることについての奇異である。この点憶測にな
5
18

るが、予め将軍に 献呈すべく一巻本が纏められていて、それが ﹃
吾妻鏡﹄に記すよ
うな建保二年に実際に献呈される運びとな ったものと考える。
なんにしても、栄西のこの書の自筆本が遺らない限り、﹃喫茶養生記﹂の書名が
上・下二巻の上巻にあたる一巻本に付されたものか、書き添えたと考え られる下巻
を含めた二巻本に付されたものか、それを明らかにするすべはないが、ともあれ今
に伝わる二巻本にこの書名を付することは、確かにそぐわないものがある。
ついでであるからここで二百するが、将軍に献じた一巻の書は、決定本ともいう
べきものであったろうが、その一巻本が成るについても、二巻本としてその書き添
えが成るについても、推敵が重ねられたことは想像に難くなく、そ うしたことから
も後でも述べるように、その字句の出入りをもっ異本が伝わることにもな ったので
あり、考えれば考えるほど、この﹃記﹄には複雑な問題をとどめる。
坐禅の余暇
次にこの﹁記﹄ の内容に関してであるが、﹃吾妻鏡﹂にその一巻本が坐禅の余暇
に書かれたものであるとしていることを見落としてはならない。
﹄ を撰述するに 際して 、宋 の長蓮宗蹟の ﹃
そうさ く
栄西は ﹃
興禅護国論 禅苑清規﹂を引い
ており、禅の一宗 を様扮するについて は、・﹂の討をよりどころにしようとしたこと
は充分窺い得るが、注意すべきは、この書に禅院での喫茶の風をこと 細か に記して
いることであり、栄西が禅を伝えるにあた ってその風をまた伝えよう とし たことは
想像に難くなく、坐禅の余暇とあるように、栄西自らは坐禅をするに 、喫茶の風を
伝え行なっていたものと想像さ れる。まして 、栄西は 宋の禅院で親し くそ れが行な
われているのを実見し、自 らも 学 んで行なっていたろうことにおいて をや である。
その一巻の 芹 が坐禅の余暇 の産物 であったとすると、そこ にはなにほどかは 、禅と
の関係において、喫茶のことが述べられていたものと推定しなくてはならない。
茶薬
ついでなが 樟苑清規﹄にふれるに、そのなかに茶礼としての喫茶をいうに、
しばしば﹁茶薬﹂の ことをいっているが、それはどういう意味であろうか。茶薬 の
9
薬とは、茶の点心、つまり茶菓子のことであるとしても、それを茶食または茶菓と
5
1
か、茶点 とかといわないで、あえて薬をもってそれに当てているのは、茶のもつ薬
160

効にもとづいてそれを茶薬といったものに相違なかろう。栄西は、建仁寺にあ って
も寿福寺にあっても、旧仏教の勢力が強くその制圧下にあっては、意図したように
は独立した禅院としての規矩を行なうことが未だできず、したがって、喫茶の風を
禅苑清規﹄に見られるように茶礼として行なっていたとは思えないが、茶薬の語

が意味するように、茶の薬効を考えて茶を喫することを、少なくとも自らには行
なっていたとみてよかろ う

喫茶の効能については、陸羽の﹃茶経﹂などに説いているところであり、禅院で
の喫茶の風が始まったのもその効能を踏まえてのことであろうが、栄西が禅を我が
国に伝えるにあたって、禅と茶との結びつきにいち早く着目したのはさすがであ
り、そもそも喫茶による養生を説いたのは、坐禅の教えをひろめるための一布石と
してであったのではなかろうか。
こう考えると、将軍に献じた一巻の書には、喫茶の薬効に併せて坐禅の教えに言
及するものがあってしかるべきであり、これが坐禅の余暇の産物であることをわざ
わざいっていることにおいてをやである。坐禅の余暇といえば、初治本の巻末に
﹁承元五年辛未正月三目、無言行法之次、自染筆謹書之﹂といっていることであり、
栄西の坐禅は無言行法をもってしたものであったことを窺わせる。それは無言戒に
もとづく坐禅であったとみられる。
一般書として普及
さきにこの 一巻の書は、今に伝わる上・下二巻の ﹁
記﹂とは別本であったろうと
いったが、二巻本の﹃記﹂には一言半句どころか、その一字も禅についてふれるも
を めぐって

のがない点、坐禅の余 暇 の産物としているには無縁のものでしかな く
、 一巻の書は
今に伝わるこの﹃記﹂とは別本であったろうことを重ねていいたい。
1

ではどうして栄西は、およそ坐禅とは無縁の養生書としての﹃記﹂を撰するに
定究生,..2.

至ったかである。このことは 結論的にいえば、栄西は 一巻の書を禅との結びつきに


おい て将軍に献じた ものの、将軍に樟への 関心はもとよりなく、かねての 宿廠 とし
た禅の一宗の独立も、既成の教団からの圧迫によって断念せざるを得ない 状 態 に
種苑清規﹂ に いわ れ
あったことから、おそらく禅を表面に打ち出すことを避け、 ﹃
1

ていることを熟知しているにもかかわらず、一言もそれに言及することな く 第 一
6
1
次、第二次の入宋併せて五ヵ年に及んだ留学によって見聞した識見をもって、時代
162

の新知識として、世にアピールをせんとしたもののごとく、意識的にこの書から禅
央 を除去したものと考える。事実、その除去したことによって、この書はやがて一
般書として世に普及することにもなったのである。﹁のって二門を立てて末世の病
ノこんぐんじよう
相を示し、留めて後昆に贈り、共に群生を利せむと云ふのみ﹂といっていることに
も、それが知られる。
医療革命を目指す
二巻本の﹃一記﹄を読んでまっさきに感ずることは、栄西はこの書を著わすに禅師
とし、律師としてではなく、近代の医師をもって自らを任じているのであり、その
述べているところは、実は養生論などというなまやさしい論ではなく、一種の医療
革命をさえ宣言していることである。﹁今世の医術は則ち、一楽を含みて、心地を損
ず、病と薬とおくが故なり﹂(序)といって、今の医術は薬方を誤っているとし、
従来的な針灸あるいは湯治も末世の病状には適合せず、かえって時には有害である
とし(序・巻下)、﹁如かず、大国の風を訪ねて、以て近代の治方を示さむには﹂
(序)として、自らが留学して修めた治方によることなくして 医術はないと断言ま
でしている。そして唐(宋)医の語を引き、﹁新渡の医書に云く﹂、としてしきりに
その知識を挙げ、﹁近ごろの人は、万病を皆脚気と称す。笑ふべし。病の名を呼ん
で病の治方を識らざるのみ﹂(巻下)などとまでいっている。たいした自信である。
時代の文化人
栄西は仁安三年(一二ハ八)の第一回の入宋から帰国するにあたり、天台の新章
喫茶養生記j をめぐって

疏三十余部六十巻をもたらしたことは前にも述べたが、我が固に渡らない典籍を将
来することにも早くから関心があって、あるいはこの時にすでに、この﹃一記﹄に引
いている若干の医術関係の書も同時にもたらしていたかも知れない。この時代に
あってインドにまでも赴かんと計ったのであり、新知識の吸収に旺盛な意欲をもっ
た人であったことを思うと、意のごとくに禅の一宗の独立が叶えられなかったから
p

といっても、栄西の意図したところはただ一宗にあったのでなく、決してそれで
もって旺盛な意欲を頓挫することはなかったろう。栄西の晩年は大国留学の知識人
3

として、時代の文化人としてむしろ意気軒昂たるものがあった。大師号宣下の議な
6
1
どが起こったというのも、この人の指導者として占めた位置が、当時の仏教界にず
6
14

ば抜けて大きかったことに、とりもなおさずょったればこそであろう。晩年の栄西
は禅宗が一宗として未来に起こることに期待はかけていたが、特に既成の概念によ
る一宗に拠るという意識は、もはやなかったかも知れない。
入唐縁起 ﹄

栄西の最後の著述となったのは﹃入唐縁起 ﹄ であるが、栄西はおそらくこの縁起
によって、自分こそは大陸の思想、文化に通じた時代の指導者であることを、喫茶
による養生という一つの立場にとどまらず、広い立場から改めて世に表明しようと
したものと考えられる。
栄西の鎮護国家の思想は、その晩年になると早くも大陸文化の摂取こそがそれで
あるといった思想に変わり、しかも急速にその考えがひろまっていったように思え
てならない。ともあれ﹃喫茶養生記﹄の一書は、養生の記ではあるが、栄西が晩年
に及んで 何を考 え、何を目指してなそ うとしたかの一端が 偲ばれて、それを窺うに
しんしん
興味津々たるものを覚える。
ちなみに、栄西が茶の種をもたらしたことについては前述したが、それが第一次
の入宋からの帰国に際してであったか、第二次のそれであったか詳かでない。平戸
の葦浦に帰国するに、その 地に茶の実を植えたと伝 えられることからすると、ある
いはそれは第二次の帰国に際してであったということになるかも知れない。
ω本﹃記﹄ のテキストについて
初治本と再治本
せ:~己j を めぐ って

喫茶養生記﹄ は前述したように初治本と再治本とに大別され、初治本として寿福

寺本(鎌倉)と多和文庫本(香川 畑山清度町)の両写本が、再治本として東京大学史
料編鉱所本の影写本と、建仁寺塔頭両足院本の刊本、群書類従本の刊本等が知られ
ず匂。
初治本には﹁子時承元五年辛未歳、春正月一日謹叙﹂の年時を記す序と、﹁承元
喫茶

五年辛未正月三目、無言行法之次、自染筆誼書之、権律師法橋上人位栄西 ﹂ の年時
を記す奥書をとどめており、この記が承元五年に書かれたことを伝え、再治本には
65
前引のごとく﹁子時建保二年甲成歳春正月日叙﹂ の序があって、建保 二年に改めて
1
この﹃記﹄に叙したことを伝える そしてこの承元本と建保本との聞には字句の相
66

D
1

違があり、建保本が再治本であることを示している。承元五年は栄西七十一歳に、
建保二年はその七十四歳にあたり、再治は初治より三年を経て行なわれたことを物
語る。
その再治の跡は、試みにその両本の序を照合すると次のごとくである。
喫茶養生記 巻上序 喫茶養生記序
入唐律師栄西録 入宋求法前権僧正法印大和尚位 栄西
茶也末代養生之仙薬、人倫延 齢 之 妙 術 録
也。山谷生之、其地神霊也。人倫採之 茶者養生之仙薬也。延齢之妙術也。山
其人長命也。天竺唐土同貴重之。我朝 谷生レ之其地神霊也。人倫採レ之
日本音曙愛之。従昔以来自国他国倶尚 重之
其人長命也。天竺唐土同貴ニ J
之。今更可指乎。況末世養生之良薬 我朝日本亦噌愛失。古今奇特仙
也。不可不国酌失。謂劫初時人四大 薬不レ可レ不レ摘也。謂劫初人与ニ

、容。
水、血
。火、帰 風
、動作
力。 堅園、与諸天 天人一向。今人漸下漸弱四大五臓
身向。末世時人、骨肉怯弱、如朽木 。 然者 針 灸 並 傷 湯 治 亦 或
如 ν朽
不レ応。 若 好 二 此 治 方 一
セハノ ヲ
突。針灸 並桁、尚治亦不応乎。若好其 者、漸弱漸
治方者、桶弱漸如、 不可不他者欺。 渇 不レ可レ不レ陥者 敗。昔 者 医 方
アセス キカ
伏惟天造万像、以造人為立也。人保一 不二添削一而治。今入国酌探 欺

期以守命為賢也。其保一期之根源、在 伏惟天造二万像 J 貴、人
造レ人為 ν
養生。其示誕生之術計、可安五蔵 o 保 二 期 一 守 レ 命 為 レ 賢 、 其 保 二一期 一
FF -
F 五蔵中心蔵為王乎。心蔵
心 ・脚
之 源、在 二
子養生 其 示 ニ 長 生之術一
J
r~nJl :,oL! l をめぐって

建 立 之 方 、 喫茶是妙術也。厭忘心蔵則 可レ 安 二五 臓 ﹂ 五 臓 中 心 臓 為 レ王乎。
五蔵無力也。忘五蔵則身命危乎。寒印 建ニ 立 心 臓 一之方、喫レ 茶 是 妙 術
ナリノノキトキ
也。一肱心 臓 弱 則 五 臓 符 生レ病。

土嘗婆住而隔 二千余年。末世之血脈誰
問乎。 漢家神川町隠而送三千余歳。近代 寒 印 土 香 婆 往 而 二千余 年 、末 世 之
センヤ
之薬味誼理乎。然則無人子詞病相、徒 血 脈 誰 診 乎 。 漢 家 神 農 穏 而三千
セシヤ
患 徒 死 也 。 有 慎 子請治方、 空 灸 空 損 余 設、 近 代 之 薬 味 誰 理 乎 。 然 則

。 億聞今世之医術則含薬而損心地、 無レ人三千詞 ニ病相 徒 患 徒 危 。 有 レ
J
7
病与薬指故也。帯灸而夫身命、与灸戦 慎三千請 ニ治 方 空 灸 空 損 。 倫
6
1
J
故也。不如訪大国之風一不近代治方乎。
8

聞二今世之医術一則含レ薬而損二心地
6

J
1

カナリテデス
の 立 二 門 示 末 世 病 相 、 留 贈 後 昆 共 利群 病 与 レ 薬 一れ故也。帯レ灸而夫ニ身命
J J
トカナリア

ム矢。 脈与レ灸戦故也。不レ如訪二大国之
子時承元五年辛未歳、 春正月一日謹 風一以示二近代治方 J

。 の立二二門一而示二末世病相 J 留贈二
後昆一共利二群生一云耳。
子時連保二年甲戊歳春正月日叙
およそ、この両本に見られる本文の字句の相違は、この両本の序を照合すること
によってほぼ推定されよう。もっとも両本といっても、それぞれに異本があり、異
本間にこれまた字句の出入りのあることも確かであるが、今はそこまで論及しな
安永本
ところで、本書においてテキストとして選んだものは、この再治本系のものでは
あるが、それは上記の東京大学史料編纂所本、両足院本、群書類従本とも異なる一
本である。その一本とは﹁京都寺町通六角下ル町、書林友松堂小川源兵衛﹂の刊記
をもつものである。﹁小川源兵衛﹂は栄西の﹃輿神必国論﹄の重刊を、安永戊戊す
なわち同七年になしており、おそらくこの一本 の ﹃
喫茶後生記﹄も安永七年頃に刊
行になったものとみられる。この一本をかりに安永本と呼ぶことにするが、この一
本と同じ板木による﹁文化四丁卯五月穀旦、平安書林佐々木惣四郎梓行﹂の刊記を
もっ 重 版本があり、爾来この版は文化四丁卯の年時を削って刊を重ねた。この安永
tで1 r..め ぐって

本は文化四丁卯版がほとんど失われ、正体不明の無刊年時本として流布し、それが
上記三本の再治本と体裁を異にし、またかなりの本文の相違をもったものであるこ
とから、これまで学者によって好ましくない一本と見なされた。一体、果たしてそ
『盟理茶蕊 '

うであろうか。
前に初治本と再治本とを比較するにこの﹃記﹄の序を挙げたが、上記の初治本、
再治本のいずれも序は独立することなく、巻上の冒頭に掲げ、巻上の本文がそれに
続いており、ことに初治本にあっては巻上は﹁巻上序﹂とあるのであるが、安永
9
本は序を独立させ、その字体も本文の字体と別にしている。寿福寺本は写本として
6
1
辻南北朝を降ることのないものであり、その形式を
170

のこしており、再治本も啓上の本文とを続ザる形式を伝えていることかち、安
永本の序と巻上の本文とを射にする枠裁は、後人が私意をもって改めたものとする
のであるが、私辻そうは患わない。一巻本が二巻本となり、一巻本の序をニ巻本記
整えるにあたり、この序をこ巻本とするに最もそれを整えたものが、この安永本に
見られるのでるり、安永本はそれをト伝える写本宇佐底本として刊行になったものと、
私辻考える。
なるほど、栄西の﹁出家大綱いの刊本をみると、序と本文と辻続いていて﹁出家
大網井淳﹂とあるが、それは小冊子であることの便宜のことでしかなく、呼は建久
六年記謹白かれ、その本文法五年後の正治一一年に書かれており、もともとそれは別の
ものであったはずであり、このような一巻本ならいざ知らず、この﹁一記﹂がと・下
二巻本であってみれば、その序誌上巻の呼であっていいわけはなく、と・下巻に潜
ずるものでなくてはならないのであり、序は決して紛らわしいものであってはなら
ないのであり、安永本があえてこれを本文と書体を異にする別立てのものとしてい
るのは至当であり、れる。
このこと辻同じ上・中・ 巻本の において、 てになっ
ていることにも思い ろ﹀
フ。
写本について
ここで考えム安永本の依った岩本のこのたろうこ
とであり、再治本はその肢のもつ年時、すなわち元禄七年に刊行になっ
たものであろうが、安永本とこの再定院本との違いは、山岸の体裁、本文の相違を含

めて、その依った原本が別のものであったろうことであるむ言い換えれば栄四がこ
をめぐ

の﹁記﹂そ再治するに際して、幾護か輩を加えたであろう別々の自筆本がみり、そ
の別々の自筆本の別々の伝写本がるったろうことである。そしてこの咋記﹂の安永
本辻、﹁興揮護富論いが安永七年に首一一版された時、その伝写本の一本を得て、併せ
て同じ書房主の小川掠兵俸によって刊行されたものと考える。官慨を逗しくすれ
ば、安永販の豆担には栄西の自序とは別に、もう一つの咋者不詳の序があり、高
峰東唆の議すところによると、この序辻栄の八代の法孫の高安竜期的一記した冊中
1
のというが、この呼が誰かによっ、このの校訂がな
7
1
されたもののごとく、﹃記﹄もあるいはこの序を書いた誰かの下にその写本が伝わ
172

り、それが安永本の底本となったのではなかろうか。安永本には下巻の末尾に作者
不詳の践を付するが、この肢は安永版の﹃論﹄の作者不詳の序と同一人の筆になる
ようにも思える。
安永本の評価
もちろん、安永本には﹁桑煎法﹂(巻下)のところで﹁四肢拘肇﹂とあるべきと
ころを﹁四肢物率﹂と誤彫をしていたりし、欠陥が見いだされないではないが、こ
の﹃記﹄の再治本として、再治の成果を示す写本によったものであり、よって従来
﹁宜敷くない本﹂(諸岡存氏)とされた通説を取らないし、﹁後人が私意を以て改め
たテキスト﹂(森鹿三氏)とする説もまた取らない。その評価はもとより人によっ
て分かれるであろうが、虚心に見てこの安永本にはすぐれた点のあることを私は否
定しない。
この安永本を重視しなくてはならない所以についてその一、 一一をいえば、初治本
ほんぞうしゅうい
も再治本も、その巻上の﹁本草拾遺に日く﹂として引くに、 ﹁南人極めてこれを重
おんえき
ず﹂に終わっているのに対して、安永本はその尊重するのは﹁温疫の病を除けばな
り﹂といっていることであり、この一語はここに当然あるべくしであっていいはず
はくしもんじゅう
であり、﹁白氏文集詩に日パ L として、その詩を引いて﹁三、茶の功能を明かす﹂
を結ぶに、その詩の後に﹁孝の文を観るに云く﹂、﹁宋人の歌に云く﹂、﹁本草拾遺に
一日く﹂としれ矧いている一連の文に加えて、﹁品は諸天の境界に通じ、刊は人倫を
資く。諸薬各一病を治す。唯茶のみ能く万病を治するのみ﹂といっているのは、
序に﹁のって二門を立てて末世の病相を示し、留めて伝広に贈り、共に航自T利せ
をめぐって

むと云ふのみ﹂といっていることに、正しく対応していわれていて、これがここに
あって然るべき一語であると思われる。
初治本と再治本とを対照するに、初治本になくて再治本に見られるものの多く
は、安永本もこれを受けているが、その初治本にも再治本にも見られないものを、
上記の例に知られるようにとどめていることは、安永本の原本が再治本の系譜につ
ながりながら、また別本の原本を継承するものであることを窺わせる。それは安永
本を虚心に読む限り、後人が私意をもって改めたというようなものとは到底考えら
3

れなく、その依った別本の原本があったであろうことを思わせる。
7
1
4

もっとも、安永本に見られる政文は、後人の加えたものであることは、論を侯た
7
1

なし
この践に ついては、極めて杜撰なものとするもの(諸問存氏)があるが、それは
ともかく、この肢の作者と安永本の本文の改訂者l │私は改訂ではな く、写本の依
用者と考えるーーとを同 一人と断定することはできないとする説(森鹿三氏)には
賛成であり、この肢はもとより後人の筆になるものであり、これをもってただちに
安永本についてとやかくいうことは、もとより当たらない。
なお、この安永本を含めて再治本には、下巻末に﹁此記録後聞之:::﹂の一文を
付するが、この一文は再治に際して、栄西自身が付したものではなかろうか 。
いずれにせよ、初治本、再治本共にこの﹃記﹂の栄西の自筆本が伝わらないこと
は、この﹃記﹄についてなにごとも決定的なことをいい得る判断を欠く。
さらに一言加えるならば、再治本にあっては、上・下巻の巻首にいずれも﹁入唐
前権僧正法印大和尚位栄西録﹂とあるに対して、安永本はその﹁入唐﹂を﹁入宋﹂
としていることに関して、肢に﹁入南宋﹂の語があることからそれによって改めた
ものという(諸岡存氏)が、﹃興禅護国論﹄には﹁大宋国天台山留学日本国阿闇梨
伝燈大法師位栄西肢﹂ と、栄西が自 ら の僧位をい う のに大宋国に留学したことを 椋
梼していることからすると、入宋と記すところがあったとしても不思議ではない。
同じ栄西の者の ﹃出制大綱﹄に﹁渡宋巡礼沙門 智金剛栄 西記﹂ といっている にお
いてをやである 。 この場合においても誰かが私意 によっ て改めたとい う のではな
く、依った写本の相違という外はなかろ う D
注 初 治 本 に ついては、森鹿三氏の校訂された ﹃
茶道古典全集﹂本を見るのが便
宜である。ここに同氏の説として引いているものは、この全集本所収の本
喫茶龍生記』 をめ ぐって

記﹂ の﹁解説﹂ から である 。また諸岡存氏の説に ついては、同氏校註﹃喫茶



養生記﹂のその解説による。初治本の寿福寺本に ついては、﹁あとがき﹂でも
ふれたが、かまくら春秋社から発刊された影印本があり、同寺の蔵本を見るこ
とは、今では至難ではない。

75
1
176

るとがき
のを私が初め東大の出語大学院
の墳ではなかたであろうか。一腕試もう遥かに速い
る。禅と茶との関需について、資料の上にそかめ知りたいと思ったの

のもう少し前のことであったが、何かなしにこを手 ιして読んだ。ただ
いうと、読んだとはいっても、この盛岡に寄せた期待が必ずしも叶えられたというわ
けではなく、あまりにも文献ばかりが矢鱈に山引用されていて、には読んの
の、いっていることの通解ができないで戸感った。
後年、栄西のことをいくらか調べることになり、このラ記﹂
唐の睦沼の翠小経いや宋の濯の望小録﹂、それに畿宗皇帝の
禅文化史研究の上で謂べていそこの書のも
とになった。もっとも、こ多く
必要とし、て主まやさしい とではできるものではないが、
にかかるその校訂、 もあり、それに和文
たりしていて、そ ものが少なくなく、
そんなに書 ともなく、 ついて詰率七固にい


に、そんな とい﹀つ とはなかっ
をこうしたちにおい V ﹂︾︺げいい いても、 す

の念を部くするものがある。

をシリーズとして企画するに、そ
の自著を発刊したが、そのなかに
それに注釈と解説を
そのなかの﹁記、一を、
の樟注を施し、ま

文献的研究がよ

h
、 それ ず

178



いた

文は、の初治本
社﹂から影印のうえ刊行された際、その解説篇の
ちょうどこの序として恰好のものられるの
ここに収めた。
6

7
書れ

にて

さの

れ一
}殊


多年の研究成果の結晶によるもの
少なかった。
れと
顧みるにこれまでに本訳注本も、古く誌諸問存氏のそれを
はじめとし幾本か公明になったものがある。については一々列挙すること
て記す

がき

7
19
千光法師明庵栄西略年譜
8
10

西暦 年号

一 四
一 保ヒ 年
¥し川.﹁)/
/也法 ¥
ま を志 す。 父に従 って ﹃ 倶合 お
¥

久安四年 出
ん ﹂ 凶そ 読む。この年、父母を辞して
J

三井流 の ﹁倶作 論 婆 沙 論﹄ を学ぶともいう。



一一五一 仁 平 元年 町船配 安 養寺静心、﹂に師事 。 ﹃倶 舎 論﹂、﹁婆抄論﹄の義を学ぶ。
一一五三 三年 この年の 秋 、叡山に 程る。 天台 の教 組そ創刊う。
一一五四 久寿元年 落髪 して栄西と称す マ 戒 壇 に登 って受 戒 。 この後、叡 山 と 備 中 と を 往

射し) Tyo
一一五七 ﹁
(
保元 ・一
年 静心没す 。 その遺 言 により密法を受 く べく法 兄 の千命に従う。
一一五八 三年 千命よりf 空疎求問持 法を受く。
一一五九 平治 応
一畑中 E山に いたり、有弁に従ってさらに天台の を学び 、大混極を 閲す 。
P
(河口 し )
応保 元年

間日
(U日 )
二年 ・
天下に 疫4 行し 、 父 をは旬 って帰郷す。


~

長寛元年 叡山を下って 備前の制前 院に住し、 ついで同州の日応 山 に惨り 、 三﹃



~

¥三月 一一九 J 耶行を修す 。



f 改 元 、
﹁安 二年 二七 、 制作 大 山 に至ってで・ 好 に密乗を 受 け、 また 阪 山 に 在 って 断C 出恥にぜ
ノ¥
_


'
.
_J

溜 を 受 く。大山 にあること一 夏 、 入朱を祈って唐本 ﹃ 法華 経 ﹄ を 母 、


軍 悔 の 阪 の 成 航 す るこ とを 自 知す る
。 十 二月、帰郷して 父母 を辞し、
鎮西宇佐宮に詣でる 。
一一六八 年 正月、 肥後 の阿 蘇山 に詣 り
、 艦 艇 の 平安を祈る。 二月八日、博多に赴

き、宋 山川辺郡'手他聞 に遇い、 山本川に開宗の 盛 ん で あ る ニ と を 聞 き、四


十 八日 と もいう)、 商 舶 に 梨 じ て入米, 同 月 二 十 四 け (
月 三日 ( 二十
五日 ともいう)、明州に至り、たまたま東大寺重源に出会う。五月十
九 日 ‘ 天 台 山 に 珪 り、同 月 二十四日、 万年 寺 に至る。翌 二十五 日、 茶
I崎,つ緑樹略年ー{t

M 市に供す ‘九月、重源と共に帰国す。 天 台 の 軒 続 前
4 部六l
PT曜 余
地TU刊たらして、天 台時主山町 に川上ナ。栄西は入来して- 明卜
一時のりそ r
雌情 般 から授かったと伝える 日 同

、 明庵の号は明 雲 とのなんらかの関係
があ るが佃くであり 、 早 く に自ら称していたかも知れない 。
f
叡山L り倒的の遍閉 院に 帰 り 、 伝 法却 加 を行なう。 備中に 河和守そ

年」ク 年 ~1 !
一一六九
f

二九歳
l
よ師l


6ミ;元 ~ Lむ
八 九
立 した のはこ の頃 か 。

j
足 f
F光t


五歳 正月
、 ﹁出 沼 大 綱﹄、﹁胎日決いを 書 く。 筑 前 , n

に 寺 が創建され

二元二元
A
下iF 引建 縁起 ﹂ tvHS(@

るに及んで迎えられて住し、 ﹁

J
改 P
81
一 一七六 正月 ‘ ﹁
教 時 的 文﹂を 書く 。大 ・ をに凶 に求 め る
。 七円、﹃ 股長
1
川 久山川


文﹄、十H 、﹃法制効入 句 門決﹄を 書く
182


i
_
t

二年 三八歳 七月、﹁法華経﹂を講ず。
i
J



八八七七
- 0九 八

三年 三九歳 七月、 28世心誼別 記﹂ を書 く。


四年 四O 歳 四月、 ﹃結封 一週wk﹂ を書く 。
五年 四一歳 五月、 ﹁秘宗 忠百集﹄ を書く 。


( 寿永二年 往 生田私記﹄を書く 。
¥
. J.

四三歳 十二月、 ﹁
四 三

元暦元年 四四歳 重ねて入宋を志し、インドに赴いて釈迦の八塔を拝せんことを思 う。


¥
J


(間 に )

一一八五 文治元年 ﹃駐﹂ を書写す 。後鳥羽天皇の勅により、神泉苑に雨を祈り、
UU
( ト四 )
たちまち付留 の雨が降るに及んで﹁葉上﹂の号を賜る。また平頼盛 の

奏によ って紫衣を賜るといγっ。
一一八六 二年 七月、 高 野 山 伝 法 院 前 覚 房覚(玄)範の請いによ って
、 ﹃
普 提 心詰 口
決﹄の稿を草する。
.


年 正月、﹁菩提心論口決﹄を脱稿。 三月、郷を辞し、再び入宋をはか り、
¥
J

四月十九 日 出 航 し 、 同 二 十 五 日 宋 固 に 入 る 。 イ ン ド に 赴 か ん と し た
が、北蕃 が強大 となり、路が塞 って通じないため果たされず。天台山
万年寺 の岨敗同散 に参ず。郡主 の請いによ って祈雨をするに、そ の身
より千光を発し、降雨を見るに至り、﹁千光﹂の号を帝に奏して 帰 っ
たという 。
¥
.

四年
.
¥

ヨ生二
J
J


一 八九
一 五年

五O 歳
,ス
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午、_.,. 1
・ 1(

1
~ 1
:占
:
1
-iI

一 歳
五 大蔵経企聞す, Qこと 三たび、 tん より附加担だらびに印一括合泣 ける。

E
このd明穐のり を向かった と伝えるも 、事実 かど う か。七 月、帰 国 。
時 三日の船に来 って平 い珍滑に訂く . 一ド都内川郎滑 買 の た め に 小 院 (富
山何時‘性の千光寺)を創めて迎える 。 八月 、 この 小院にて 開削鳴を行た
う。 肥前に﹄打開光与 b- 出 てて移る 。つ いで現前 に東林寺 、他 門 rd を伺
め、 世伶の白包岳 に在っ て2陣それし 、 また 長門 に叩院を礼 し、共に
蛇栄西略年譜

そこに 一宇を建て 抑制・妹山とりす eト 二月 、 ﹁ 釈迦 八相﹄ そ書 く。


五 天童山千仏閣を再建のため 川村 を 舶 送 す る 。 片威川品村健刊の聞 に紐久 報


思与を迎て 、初めて許雌大威布院を 行なう。十二月 、川河川刷命大仙川 に
ゆj

て ﹃法柏崎﹄ を書写 す。
京徒にF 光 院 を閉むの 四月、 高 比 山 にい た り、神 託に t 勺て ﹃

四年 般若
.


千光 i
J

む﹂ b d品 、神 門院の ために土 地そ開い て施す。


大口舵Z と併せ て日米間 の達磨宗停止 令V 一ドせ ら る

五 円4
九 九

年年
六五
博多に安川山 平引い伊伺建す 。宮崎の 山長 、間山 の買仏をぶ って 、栄西
の禅の布教を止むべ く朝廷に訴う。十月、 ﹁ 出 官 大 欄 ﹄ を す 。
183
しゅんじよう
この頃俊 仇 悼 師来って密法を承け、禅要を問う。
84

七年 五六歳
九九九九
九八七六

﹁未来記﹂ を記す 。
1

八年 五七歳
九年 五八歳 ﹃輿相 謙 川 論 ﹄ 三 込F TFす。
正治元年 五九歳 鎌倉に 赴く 3 瀬崎村 の由蔵山 大寧寺に居すと いう。九月 、 幕府下船年
内月 二七 J
﹃ そ 事 例 し 、 た め に そ の 点 取 をなす 。
/臼改元¥
一二O O 二年 六0 ・ 正月.g・MH 削のa Mgの法要 を法華堂にて修す 。間一-月 、北主政子、
持 明 の 旧 世 亀 ケ 谷 に 、 師 を 迎 え て 寿 福 寺 を 創 む 。 八月、 ﹁受戒慢軌

{出宮大 綱 )﹄の 稿を終わる。


建仁 二年 六二 歳 一一月、政子 、義 朝 の沼浜の 別 荘 を降して HHMm 寺の 同特?となす。三月 、
永福寺多宝塔成り、 世俗 mz 怖 と hqる。 六 什
灯、 頼家、朝廷に奏して京都
に地 を得て 師 に付 す 。 師、 百丈山の門叶1 4 ・慨 して建仁寺を建つ。宣旨
によって台 ・宮 ・仰 の三宗 を 併 せ協会.内院 の 外 に 真 言 院 ・止 観院 を
構える 。

三年 ハ 歳 実 朝 、 師 を 尊舟 す る こと厚し。
四 三

元久元年 二
ハ一
四歳 一一月 、 建 仁 寺 僧 堂 の基をきずく。四月、﹁斎th 進 文 ﹁日本仏 法 中
、 興国 文 ﹂ 告 慣 す。 、

(仁川 仁 )
一二O 五 二年 ハ五歳 三月、建仁寺官寺となる。
一二O 六 建永 元年 ハ六歳 六月、東 大寺重源、 夜 せんとす るに際して、師より 荷 縄戒を受く。 九
月十八日、勅によ って HHR
・-寸
糾幹事 職 となる 。

同一
( 一仁 七)
承元元年 六七 この頃、栂尾明慧上人師の下に往来して参請す 。

(
下 山 仁)
三年 二一円、山保副 mE 色 定 川 良 祐、白・つの同一与 した大蔵 艇 の 供 同 ・ そ 師


/,

に叶う , 八日 .山内服ベサ九 け塔焼, 、a 聞 に 炉 、


リ司坪の市中応対 によ って嘱
す。
正月、 ﹃ 喫茶養生記 ﹄ (初治本 ) b掃す 。 一 .月、 品川怖のん木工り内川ず る
を博多に行 ってち問す . 阿 付 . 慢 のを建仁寺 に 迎 え る 。 七 月、 実 朝 、
伊剖 ufじ白って聴法ず。卜μ、克明、 宋本大蔵位与水 Mmvにおいて写
r
すべく ‘師 二 回 う て 問 点 。 また伊立刺 史 朝克、よ M削hJの傍に 一寺を
理江し ‘ その係噌の司低を師に Jぅ. 十 二月、 主 朝 、 法却堂において
文舟・特 効そ 供費するに簡を司加として 迎える 。
、 存 縦 守 にあって聴法す 。
保!;:

六 月 、 実朝
._5年年
し月 元 一

- 円、克 明、 川可制守に米って崩法 4M ・ う。また四月八日、寺 に来 って


t"

一一H
千光法師明附栄商略 iιi

濯仏会 を な す 。 五 月 . 大 師 サ の 勅 鵬 の 謂 あ る も 、 存 生 に そ の 例 が な き
1
1
ことから僧正に任ぜらる 。時 に京都 に 赴 くも 六月 、銀 行 に帰る。十 二

月 、 実 朝 、 師 に 請 う て 寿制 々 に 法 廷 そ 聞 く
。 利回甚盛以 下の 亡卒の寛
帽を解く 。 この臨の 初 め 、 建仁 の 聞 に 播 州 清 本与の常・干 のこと ごとく
娩火したものあ伺噴 す 。
七四歳 正 月、 ﹁ 喫 茶 養 生 記 ﹄ (再治本)成る。六月、大早。実朝こ れ を 菱 え



て、師に つい て す。 十 月 、 大 慈 寺 に あ って 初 め て 舎 利 会 を 行 な
予つ。
著 わ す 。建 仁 寺 に 帰 り 、 六 月 、 布 薩 の つ い で に
5

:
七五歳 正月、 ﹃
入唐 記

8
PV



1
186
古田紹欽(ふるた・しょうさん)
1
911年,妓阜県にままれる。東京帝関大学文
学部長J
f室哲学究文学科卒業。北海道大学教
, 日本大学教援, 日本主義教学会・百本f
授 ム教
学会・日本印度学仏教学会各理事を琵任,現
在,財閥法人松ヶ間文意義。文学博士。
著書日本仏教思想史白隠一俸とそ
の芸術j 討 が 持 勢 ぬ 遺 備j 事庵茶葉の
f
正法眠裁の研究 j な ど 多 数 吉 田 紹
全1
4巻。

きっきょうむようき
喫茶養生記
ふ る た Lょうきん

古田紹欽
2000年 9,
910詩 第 1刷 発 行
2010年 6月 1
8日 第 6悶 発 行
発丹者鈴木哲
発行所株式会社講談社
キ1 1
2-8
0況
(
03)5
395
-351
2
(
03)5
395-
581
7

談社訪駿研究所より刊行された。
本警の謀本は昭和五十七年九月、講
(
03)5
395

結蟹江征袖/iJ-I岸義明デザイン~
賄株式会社嘆誇堂
製本株式会社箆宝社

む S
hoi
chi
roF
uru
ta2
000P
rin
tedi
nJapan

ISBN4-06-159445 1 吋
﹁講談社学術文庫﹂ の刊行に当たって
これは、学術をポケットに入れることをモットーとして生まれた文庫である 。 学術は少 年
の心を養い、 成 年 の心を 満 た す 。 そ の 学 術 が ポ ケ ッ ト に は い る 形 で 、 万 人 の も の に な る こ と
は 、 生 誕 量 約Hを う た う 現 代 の 理 想 で あ る 。
こう した 考 え 方 は 、 学 術 を 巨 大 な 城 の よ う に 見 る 世 間 の 常 識 に 反 す る か も し れ な い 。 ま た 、
一部の 人 た ち からは、 学 術 の 権 威 を お と す も の と 非 難 さ れ る か も し れ な い 。 し か し 、 そ れ は
いずれ も 学 術 の 新 し い 在 り 方 を 解 し な い も の と い わ ざ る を え な い 。
学 術 は 、 ま ず 魔 術 へ の 挑 戦 か ら 始 ま っ た 。 や が て 、 い わ ゆ る 常 識 を つ ぎ つぎ に 改 めて いっ
た。 学 術 の 権 威 は 、 幾 百 年 、 幾 千 年 に わ た る 、 苦 し い 戦 い の 成 果 で あ る 。 こ う し て き ず き あ
げられた城が、一見して近づきがたいものにうつるのは、そのためである。しかし、学術の
権威を、その形の上だけで判断してはならない。その生成のあとをかえりみれば、その根は
常に人々の生活の中にあった。学術が大きな力たりうるのはそのためであって、生活をはな
れた 学 術 は、どこにもない。
聞 か れ た 社 会 と い わ れ る 現 代 に と っ て 、 こ れ は ま っ た く 自 明 で あ る。生 活 と 学 術 と の聞に、
もし距離があるとすれば、何をおいてもこれを埋めねばならない。もしこの距離が形の上の
迷信からきているとすれば、その迷信をうち破らねばならぬ。
学術文庫は、内外の迷信を打破し、学術のために新しい天地をひらく意図をもって生まれ
。 文庫と いう小さい形 と
た 、 学術 と い う 壮 大 な 城 と が 、 完 全 に 両 立 す る た め に は 、 な お い く
ら か の 時 を 必 要 と す る で あ ろ う 。 しか し 、 学 術 を ポ ケ ッ ト に し た 杜 会 が 、 人 間 の 生 活 に と っ
てより 豊 か な 社 会 で あ る こ と は 、 た し か で あ る 。 そ う し た 社 全 の 実 現 の た め に 、 文 庫 の 世 界
に新しいジャンルを加えることができれば幸いである 。
一九七六年六月 野間省
il

古 田 紹歓 全 訳 注
ll

1445
J
栄西喫茶養生記
!
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i
E
宮 内;

I
F

本L
蓮 オ ~.

1476

文ど


)

既刊より 》
街l

金 閣秀 友 校 注

1479
教般若心経

~
i

《講談社学術文庫
τ

-宮家準著

1483
修験道そ の歴史と修行
田上太秀 署

1487
道元の考えたこと
一切は空である 。大乗最大の思想家が今走る 。真実に
中村元著 存在するものはなく、すべては言葉にすFない .語い

1548
龍樹 思案と透徹した論理 の主著﹁中論﹄を中 心に、 ﹁八宗
の祖﹂と謡われた巨人の﹁ 空の思想﹂の全体像に迫る。
北森嘉蔵著
5
15
5
.10
68

既刊より》

秩丹龍理著(線数
一B 一禅
立川武蔵著
空の宙船懇史原始仏教から号本近代へ
由時正一全訳注
正法眼蔵髄関記
竹村牧男著

8
インド仏教の腔史﹁覚2

63

1
栄附喫茶長生記
栄西喫茶養生記

全訳注
古旧紹欽

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往学術文
鎌倉時代、広い知識と行動力で、
先進的知識人として活躍した栄西は、二度にわたり
宋に入り、中国文化の摂取につとめた。
そして、中国の禅院で行われていた飲茶の習慣を日本
でも行うべく、当地で得た茶の実を建 仁寺境内に植栽
し、日本の茶の始祖になる 。
本書は、﹁養生の法 L
として喫茶を説いた茶書の古典 。
ISBN4-06-159445-1

円(税別)
(0)
C0114 平620E

定価:本体 620

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岡倉天心/桶谷秀昭訳
上記のホームページで、講談社学術文庫の

英文収録茶の本 :
茶道と日本の文化

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既刊案内がご覧いただけます 。

茶道の美学
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倶楽部
室翁
玄仙

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講麟 往 学術文 庫 既 刊 よ り

茶 の 精 神 岡阿間四::::-ji--:::-ji--:・:千
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講 談 社 BOOK

山岸義明デザイン室
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茶道の歴史・・・・・ .
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..・・・・・・・・・桑田忠親
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カバーデザイ ン
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千利休・ .
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...
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...・・・・・・・・・村井雌 彦
hp
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茶道の哲学 ・ ・・・久松真一
s

・ ・ ・ : ・・:::
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茶道名言集同団同畑町::::::・::::ji--::井 口 海 仙
t
htp

養生訓全現代語訳・ ・ : ・・貝原益軒/伊藤友信訳
4
145
-読者の皆様へ




講談社学術文庫をご愛読いただき、また、いつ

λ
t

4
も編集部宛に貴重なご意見やご提案をお寄せく
だ さ い ま し て 、まことにありがとうご、ざいます。
今後とも、ご意見・ご感想や学術文庫に収録ご
希 望 の 本 ・ テ l マ・著者がございましたら、左
記までご教示いただければ幸いでございます。
なお、住所・氏名・年齢・職業を、必ず明記し
てくださるようお願い申し上げます。
ーロ│幻 談社学術文庫のシンボル 7 1クは、古

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東 京 都 文 京 区 音 羽2

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輔講談社学術文庫係 代エ ジプ トにおいて、知恵の神の象徴と
されていたトキをデ、ザインしたものです。

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