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ISSN1

343-

仏教橘仏
2
001年 3月

N
o.
3.4

浄土宗総合研究所
4
ム私橘仏
2
001年 3月

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第三回誌上シンポジウム

7
。 道隆・・ ・


服奈
部倉


本司



深見慈孝
コーディネータl 長 谷 川 匡俊
特集﹁四無量心と仏教福祉﹂

9
﹁喜 ・捨 ﹂ ということ・・・ ・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
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・・・
・・・・
・・・
・・
・・
・・・・・・上田 千年・・・

16
慈悲思想の現代社会的展開 仏教福祉の展開を中心として :::::::::::ji--・
:硯川 員旬 ・

8


研究論文
•••••.••••••
•••••••••

7
創刊初期における雑誌 ﹃
共生 ﹄ から見る稚尾弁匡と﹁共生﹂運動の展開::::::::::・藤森 雄介・・ ・

69
••.•••
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長 谷 川良 信 の 目 指 し た も の ・
•••

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・・
・・
・・
・・
・ 梅原 基雄

2
••

1
••

••
・・
順 問

井 物

弘 訪




細 人

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JV
編集後記

1
1
﹁浄土教と福祉﹂
仏教福祉における湯布施研究の視点



*
入浴のサービスは、 主 として地方自治体が肢体 できる 。 湛 項 ・洗 礼 ・耐駄などがそうであり、古来、

A
1

不自由者などを対象に行っているが その行為の源流は 浴 ・湯 浴 は 単 に 身 体 を 清 潔 に す る 以 上 の 見 方 を も ってい

1
どこにあるのだろうか 。 また、 仏教において湯または水 た。 仏 典 に は 、 釈 迦 が 得 道 後 に 洗 浴 し た 事 例 や 比 丘 が 池
(l)
による泳浴は どのような意味を持 って行われてきたの 中で洗浴することなどを伝、えている 。 また、その効能に
であろうか 。 そして わたしたち日本人は、泳浴をどの ついては、﹁罪絵積むとい、えども、日沫浴すれば便ち除
ように生活の中に取り入れて来たのであろうか 。 布施と く。﹂(﹃
大唐西域記 ﹄ 第四)などと示し、 ﹃
温室洗 浴 衆 僧
しての泳浴の歴史的解明は、仏教社会福祉の視点から極 経﹄ (大正 三回) は、釈迦が老回域なる者に説いたとされ
ZD
めて 重要な課題と考えている 。 る泳浴の方法である 。 それによると
水または湯を神聖なものととら、ぇ それに身体の全部 操浴の法は、まさに七物を用い七病を除去すべし 。
または 一部 を 触 れ さ せ る こ と に よ って、清浄な存在とな 七福の報を得ん 。 何をか七物と謂う 。 一は然火
る考えは、今日でも 宗教 行 事 の 場 な ど で よ く 見 る こ と が は浮水、 三 は 操 豆 、 四は蘇育、五は 淳灰、六は楊枝、
七は内衣。此れは是れ操浴の法なり 。何をか七病を 、 ﹃
①永観 三年(九八五)、源為憲の ﹃三宝絵詞 ﹄ に 温
除去すると謂う。 一は四大安隠(穏)、二は風病を 室洗浴衆僧経 ﹄ による温室湯布施あり 。
三は湿療を除く 四は寒氷を除く 五は熱気 ②康治元年 (一
一 四二)、播磨極楽寺僧禅慧による諸

を除く、六は垢識を除く 七は身体軽便にして眼目 ﹃
人 への沫浴布施あり (瓦経摺文 ﹄
)。
精明なり。是れを衆僧の七病を除去するとなす。 ③永 万 元 年 (一
一 六五)、僧珍慶、東大寺に温室田を
とある 。 そして、このように供養すれば﹁七福を得る﹂ 施 入 す (﹃ 。
正倉院文書 ﹄)
として﹁四大無病﹂以下七条の功徳を説いている。右の 一 八O)
④治 承 四 年 (一 、勧進僧観海、京都に温室を
経典等の解説を含め その詳細の検討は別の機会に譲ろ 設 け て 利 民 を 図 る (﹃
品川五文集﹄
)。
うと思うが、今、この経典に限 って言えば、時の慧速に ⑤ 元 暦 元 年 (一
一 八四)、 吉 田経 房
、 父の遠忌に左右

2
よって ﹃
温室経義記 ﹄ とな って 解 説 さ れ 、 唐 の 慧 浮 も 獄に湯布施し、清水坂に浴室を設く(﹃ )
吉記 ﹄。
温室経疏﹄なるものを認めて慧遠の説を敷延している 。
﹃ ⑥建永 二年 ( 一二O 七)、東大 寺重源 、諸国に湯屋を
、 小論で取り上げよ うとするいわゆる ﹁
したが って 湯布 ﹃
設ける ( 。
南無阿弥陀仏作善集﹄ )
施﹂は、 既に中国において布施供養の 一つとしてその功 ⑦承元 二年 ( 一二O 八) 山城 最福寺 僧延朗、癒病者
(
2)
徳が認識されていたということができよう。 に 湯 浴 の 布 施 を 行 う (﹃
元亨釈書
﹄)。
わが国における歴史資料に ついては、こ のような視点 ⑧ 延 応 元 年 (一二三 九
)、 これより先、北条義時鎌倉
から古くは辻善之助が ﹃
慈善救済史料﹄を収録した 。そ 法華堂脇に温室を建てる。この年、六斉日湯布施の
のうち、湯布施に関する史料を抜粋すれば左のようにな ﹃
薪代銭のことを定む ( )
吾妻鏡 ﹄。
⑨寛元 三 年 ( 一二 四五)、平経高 亡父の冥福のため

に湯布施を行う(﹃平戸記 ﹄ ⑬永禄八年ご五六五)、醍醐寺、功徳風目を張行す

)
⑮正 応 二年 (一二八 九)、僧 一
房稔、東大寺大湯屋に釜 (﹃
三宝院文書﹄
。 。
)
を 寄 進 す (﹃東寺百合文書﹄
) 以上のような史料を載せている。中世を中心に湯布施を
。康安元年(一三六一)、法隆寺僧禅観、同寺大湯屋 考察するならば ﹂れらの史料が基礎になることは 守フ


に多くの衆徒を湯布施す(﹃斑鳩嘉元記﹄)。 までもない。とくに、寺院の風目について今日知る限り
⑫ 永 享 十 年 (一四三八)、将軍足利義教、京都本能寺 以上のほかに東大寺関係の史料が多く それの検




に非人風呂を建つ (本能寺文書﹄)。 討が基本となろう。 しかし、私の研究課題は、単に寺院
⑬ 長 禄 三 年 (一四六九)、これより先、京都光雲寺某、 における僧侶の湯布施ではない 。 むしろ一般庶民への入
義教の非人風呂の再興を願う。将軍義政これを許す 浴布施や、 それが地方へ展開する過程が主眼である。

3
(﹃蔭涼軒目録 ﹄ ﹂れまで湯屋や風目に関する論文も数多く見られる。

) ﹃
⑪文 明三 年 ( 一四七一)、興福寺大乗院、功徳風呂を 古くは、柳田国男の﹁風呂の起源 ﹂ (定本柳田国男集﹄
立てる (﹃経覚私要抄﹄)。 があり、このほか通説としては、中桐確太郎 ﹁


⑬文 明 八 年 (一四七六)、大和浄瑠璃寺、大湯屋の修 呂﹂(﹃ )、藤浪剛
日本風俗史講座 ﹄ ﹃
東西沫浴史話 ﹄、
理完成す(﹃浄瑠璃寺流記事 ﹄ 武田勝蔵﹃風呂と湯の話﹄、中野栄三 ﹃銭湯の歴史﹄、植

)
⑬文明十三年 (一四八一 )、白河資益 風呂を張行す 屋春見 ﹁日本人の泳浴 習慣の変遷について 1 ・2L(﹃

(﹃資益王記﹄)。 知学院文学論叢﹄四五 ・五二)、武田勝蔵他 ﹃
公衆浴場
⑪文 明 十 六 年 (一四八四)、河内観心 寺
、 功徳風呂を 史﹄などがある。温泉や風呂の特殊な形態を扱ったもの
定 置 す (﹃
観心寺文書﹄ に川勝政太郎﹁石風呂雑考﹂(﹃
史控と美術﹄二 九 │ 七
)、

)
茨木一成﹁塩湯小考│平安時代における│﹂(﹃
史泉﹄ 八 ・中世 ・二)などが注目されよう 。 見落としの恐れが
江 谷 寛 ﹁ 湯 屋 の 石 風 呂 と 鉄 釜 ﹂ (﹃
物 質 文 化﹄ あるかもしれないが、仏教の観点から泳浴を含め入浴に

六)、西尾正仁﹁温泉薬師の展開 L( ﹃
御影史学論集﹄ ついての論文はあまり見ていない。また、福祉の視点か
七)、鶴崎裕雄﹁風巴と寄合の文化﹂(﹃日本史研究叢刊 ﹄ らも論じられてはいないようである。歴史的にも﹁湯
天野繁子﹁風目の風流﹂(﹃法政史学﹄)などである。 屋﹂などが特殊な寺院において展開する例や大和や京都

)

一方、寺院と風呂について取り扱った論文には、黒田国舛 の地域で見られるものの紹介であって、 一般庶民に対す


義 ﹁ 東 大 寺 大 湯 屋 と 重 源 上 人 ﹂ (﹃
大和志﹂四│四) る湯布施が 地方寺院や武士に展開する過程についての

1
)
勝政太郎﹁東大寺大湯屋論の検討﹂(﹃
史迩と美術 ﹄二 七 考証はこれまであまり存在しない。
山本栄吾﹁東大寺大湯屋私考!故黒田日舛義氏説 ひるがえって、温浴を含めた泳浴が一般に普及したの

4
の批判と二月堂湯屋の紹介﹂(﹃大和文化研究 ﹄ 四│一二) はそれほど古い時代ではない。温泉浴などの史料は古く
山本栄吾﹁東大寺大湯屋考補説﹂(﹃
史越と美術 ﹄二 七! からみられるが、古くは泳浴が主流であ ったことは 言う
中 世 東 寺 の 湯 結 番 に つ い て ﹂ (﹃日本の
八)、首藤善樹 ﹁ までもない。その歴史をさかのぼれば、平安時代の中期
社 会 と 宗 教 ﹄千 葉 乗 隆 博 士 還 暦 記 念 論 集 ) 、 首 藤 善 樹 次に日を捧ぴ泳浴せよ 。
に藤原師輔がその教訓として ﹁
﹁中世東寺の湯﹂(﹃
同朋 ﹄ 一九八 三│一 乙 な ど が 見 ら れ 五箇日一二度。﹂(﹃
九条殿遺誠 ﹄)と記していることが参
る。また、僧伝や制度史の中で論じられた湯屋や風巴に 考になろう。それがどのように 一般に普及し、僧侶に対
ついての論文は極めて多く、近年では 山本栄吾﹁金剛 する布施とその功徳が 一般庶民に対する布施(慈善救
三 昧 院 開 基 行 勇 と そ の 周 辺 ﹂ (﹃高野山史研究﹄一二)、 済)と変化していったのか。ここでその事例の全ては紹


生谷哲 ﹁非人・河原者・散所﹂(﹃
岩波講座日本通史 ﹄ 介しきれないが、再ぴ史料をあげて研究の方向性を紹介
するならば ﹃今昔物語﹄(一九 ﹁
参河守大江定基出家 の研究の立場と住置付けておきたい。それはともかく
語﹂ 二)には、﹁湯ヲ湧シテ大衆浴サムトシテ ﹂ とあり、 ﹂うして僧侶のみならず 回向した者たちも入浴して貴
わが国でも十世紀後半ころには、湯布施が僧侶の修する 族の風になら った
。 しかし 一方においては ﹁
触 様﹂

3
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功徳と位置付けられていたのは事実である。僧侶入浴の ﹃
者 と の 入 浴 は 峻 別 しているし (資 益 王 記 ﹄文 明 十
順などは﹃天台座主記﹄(第六十六法印実全)等にあり、 年
)、 非人などとは風呂は勿論、 入浴を共にしなかった 。
入浴順が決まっていたことなど 鎌倉時代初期には寺院 それらの綿密な考証や結論はまだ先のことであるが、今
の風目が一般 化 していたことがわかる 。湯布施は、同じ 後このような史料を参考に仏教社会福祉からみた湯布施
く鎌倉時代のはじめには、 吉田経一房が父の回向に清水坂 の歴史的展開を追求してみたい。それを基礎にして浄土
の 非 人 に 温 室 を 布 施 し て い る (﹃
吉記﹄) のにはじまり、 教と福祉について考えてみたい 。

5

吾妻鏡﹄にも温室を作り 一般 に 解 放 し た 記 述 が 見 ら
れる。 いわゆる湯布施の地方への広がりである。中世末


期には、斉日や忌日に湯を焚いて社交の場となっていた

太子瑞応本起経 ﹄ (巻下)、 ﹃
南 海 寄 帰 内 法 侍﹄ (
第 二二等
ことは当時の貴族の日記にもよく記されている 。 それを
参照
テーマにした 研究も先に紹介した。このような経過をた

華厳経普賢菩薩行願品 ﹄ には温浴香水浴の功徳の十カ条

2

どって 地方 の武士などが斉日の湯木を支配し (鍍阿寺
が示されている 。
文書﹄仁治 二年)、先祖の回向に湯木や湯田を寄進した 各家庭の﹁内風呂﹂で入浴することが普及したのは、昭和

3

(長 楽寺文書﹄ 元亨 二年 ・ ﹃
西福寺文書﹄宝徳三年・天 三0年代 以 降 の こ と で あ る 。温 浴 は 銭 湯 ゃ い わ ゆ る ﹁ も ら い
文 二年)。これらの古文書を中心に考えてみるのも今後 湯﹂が主流であり、最近まで、湯は十分に布施の対象として存
在していた 。
(大正大学助教授)

6
第三回仏教福祉シンポジウム
祖師の教説と福祉思想
日 時 平 成 十年五月 二十九日
場所東京・浄土宗東京事務所

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コl テ イネlター 長 谷 川 匡 俊
坂上 ) そ れ で は 定 刻 に な り ま し た の で 、 第 三 回
司会 ( ンポ ジ ュ ウ ム を 開 催 す る に 至 ったわけです 。
の仏 教 福 祉 シ ン ポ ジ ュ ウ ム を 開 催 さ せ て い た だ き ま す 。 長 谷 川 先 生 を は じ め 、 本 日 のシン ポ ジ ス ト の 先 生方に
浄土 宗 総 合 研 究 所 の 仏 教 福 祉 研 究 班 で は シ ン ポ ジ ュ ウ 心か ら お 礼 申 し 上 げ ま す と と も に、本日 、 来会の皆様方
ム を 毎 年 開 催 し て お り 、 本 年 で 三 回 目 に な り ま す。 にもお礼を申し上げたいと思います。
本年のテーマは﹁祖師の教説と福祉思想 L です 。 な お 、 京 都 の 方 で い ま そ ち ら のテレビに写 っておりま
最初に 主 催 で あ り ま す 浄 土 宗 総 合 研 究 所 の 水 谷 幸 正 所 すが、 宗 務 庁 の 方 で 、 同 時 に こ の シ ン ポ ジ ュ ウ ム に 参 加
長にご挨拶をお願いいたします。 できるようにしてあります。 京都の宗務庁にご参集して
い た だ い た 方 々 に も 心 か ら お 礼 を 申 し 上 げ た い と 存 じま
水谷幸正所長・挨拶

8
水谷所長 ﹂んにちは 。 私がいまさら申し上げるまでもなく、大正時代か ら
た だ い ま 司 会 の 坂 上 先 生 がお っし ゃ い ま し た よ う に つま り 七01 八O年前か ら 浄土 宗 は 社 会 福 祉 宗 とさえ
私ども 総合研究所としては いろいろなプロジェクト 言わ れ て お り ま す 。 長 谷 川 匡 俊 先 生 の ご 尊 父 の 長 谷 川 良
に 取 り 組 ん で お り ま す が 、 仏 教 福 祉 の 総 合 的 研 究 は 一つ 信 先 生 、 矢 吹 慶 輝 先 生 、 あ る い は 渡 辺 海 旭 先 生 等 々、仏
の 大 き な 目 玉 で あ り ま す 。 こ の目 玉 の プ ロ ジ ェ ク ト は 教福祉、 仏 教 精 神 に よ る 社 会 福 祉 に つ い て は 、 浄 土宗は
皆さんよくご存知の淑徳大学 の 学 長でもあられ、また 先駆的な役割を果し そ の 伝 統 が 現 在 の 浄 土 宗 に脈々と
日本仏教福祉 学会 の 代表理事 を な さ ってお ら れ た 長 谷 川 受け 継 が れ て い る わ け で す 。 大 学 で い い ま す な ら ば 、 大
匡俊 先 生 に チl フにな っていただきまして 一昨年か ら 正大 学 、 例 教 大 学
、 さ ら に淑徳大 学 と い う 各 大 学 で社会
研究を着々と進めていただき、本日 ここに第 三 回のシ 福 祉 を 真 剣 に 研 究 さ れ 、 ま た 実践もいただいている 。 各
寺院においても非常に活発な社会福祉の実践が行われて そして本日のシンポジュウムのコ ー ディネーターであり
い る わ け で す。 ま す 本 研 究 所 代 表 の 長 谷 川 匡 俊 先 生 で す。 よ ろ し く お 願
﹂ういう一つの浄土宗の風土の中で、私どもの研究所 いいたします 。
の果たす役割も非常に大きいものがある ﹂ういう自覚 それではただいまよりシンポジュウムを開催させてい
をもって私ども、 研 究 所 の 者 は 取 り 組 ん で い る わ け で す 。 た だ き と 思 い ま す。司会の方 を コ ー デ ィ ネ ー タ │ の 長 谷
どうぞ、 ひ と つ 、 本 日 の こ の シ ン ポ ジ ュ ウ ム を 契 機 に し 川先 生 に パ ト ン タ ッチ し た い と 思 い ま す。 長 谷 川 先 生
て 、 さ ら に 浄 土 宗 が 社 会 福 祉 に な お 一層前 向 き に 、 積 極 よ ろ し く お 願 い い た し ま す。
一二世 紀に向かって取り組んでいただくことを心

シンポジュウム ・開 始
から祈念いたしまして、簡単ですが 研究所の責任者と

9
してのお礼とお願いのご挨拶に代えさせていただきたい 長 谷 川 (コ ー デ ィ ネ ー タl) そ れ で は た だ い ま か ら 第
と 思 い ま す。 ど う ぞ ひ と つ よ ろ し く お 願 い い た し ま す。 三回のシンポジュウムを開催させていただきます。
実は 過去 二 回 私どものプロジェクトでこのシンポジ
司会 水谷先生、ありがとうございました 。 ュウムを催しておりますけれども、最初は 一昨 年 で す
それでは本目、このシンポジュウムのシンポジス卜と が、﹁仏教福祉を現代に問う﹂ということで、仏教の立
してご出席賜っております先生方をご紹介させていただ 場 、 あ る い は 社 会 福 祉 の立場 、 さらにその 二 つに橋をか
きます。 発 表 順 に 紹 介 さ せ て い た だ き ま す。 けるような形でお 三 方の先生方からご発題いただきまし
東海学園短期大学名誉教授の服部正穏先生、偽教大学 た。どちらかというと、仏教福祉に関する原理的な枠組
教授の深貝慈孝先生、東海学園大学教授奈倉道隆先生 みを考えていく上で参考になるご提言も合め、貴重なシ
ンポジュウムを催すことができたかと思います。 ょうだいいたしたいと思います。その次に宗祖法然上人
そ れ か ら 昨 年 の 第 二 回目は﹁今日の社会福祉改革 ﹂ と に立ち返 って 法然上人の教説、またそこから引き出さ
いうことで、改革の進捗状況をにらみながら 仏教系の れるであろう福祉の心というものを深員先生からご発題
福 祉 施 設 、 も し く は 仏 教 者 の 立 場 か ら 改 革 へど の よ う な いただきます 。 そして 三 番 目 に 奈 倉 先 生 か ら は 浄土教
提 言 が可能であるか、 とい った観点から、 かなり突 っ込 の福祉思想と福祉実践ということで、実践の方にも力点
ん だ ご 意 見 を い た だ い た よ う に 思 い ま す。 を 置 い て い た だ い て 、 ご 発 題 を い た だ く 予 定 で あ り ま す。
そこで第 三 回 目 の 今 回 は 、 ち ょ う ど 宗 祖 法 然 上 人 の 本 日 の 予 定 と し て は 、 各 先 生 方 か ら 二五 分 程 度 の ご 報
選 択 本 願 念 仏 集 ﹄ 撰述から八O O年 と い う 記 念 の 年 に
﹃ 告をいただきまして 一巡したところでそれぞれ、



も当たりますので あらためて宗祖・祖師方の原点に返 程 度 の 補 足 を し て い た だ き ま す。 その後、 若干の休憩を

0
1
って その教説に学びながら、福祉思想の問題を実践と とらせていただいて フロアとの質疑応答、 テイスカ ツ
つなげて考えてみてはどうか、こういうことできようの シヨンに入 って い け れ ば と 考 え て お り ま す 。 フロアにお
シンポジュウムに臨まさせていただいています。 集まりの諸先生方、皆様方 よろしくご協力のほど


したがいまして ﹂れか ら ご 発 題 い た だ き ま す 三 先 生 願い申し上げます。
方には、最初に、仏教と社会福祉とのつなぎ方といいま それでは、最初のご発題を服部正穏先生から﹁仏教と
しようか ﹂れはこれまでの研究の上でも多くの論議を │ 先学の 研 究 を 通 し て ﹂ と い う こ と で お 願 い
社会福祉│
呼 ん で き た と こ ろ で あ り ま す。 学 説 史 的 な 整 理 と い う と を 申 し 上 げ ま す。
大仰なことになってしまいますが 仏教と社会福祉をつ
なぐ上での先行研究を踏ま、えたご発題を服部先生からち
﹁仏教と社会福祉││先 学の 研究を通 それをいろいろな形で発表してきましたのが どうも
して﹂・服部正穏氏 長谷 川 先 生 の 目 に 止 ま っ た よ う で 、 今 回 、 長 谷 川 先生の
方から、 そ の 点 に つ い て 話 を し て ほ し い と い う お 話 が あ
ご紹介いただきました服部でございます。 りまして、今日、 こうして出てきております 。

最初にお断りにしておかなければなりませんが、私は 仏教社会福祉論について考えますと ﹂れには



社会福祉学者ではありません。私の専攻は ﹁
仏 教学﹂ いろ い ろ な 考 え 方 が あ る わ け で す が 、 私 は 大 き く 二 つに

浄 土 学﹂ あ る い は ﹁
宗 教 学 ﹂とい う
、 そちらの方面で 分けた方がいいのではないかと思っております。
ありますが たまたま、仏教福祉について研究しよう 一つは、仏教プ ロパ ! と い い ま す か 、 仏 教 を 中 心 にし
あるいは学ぽうというきっかけがあったわけです。 て 社 会 福 祉 を 考 え て み る い き 方 、 も う 一 つ は 、 社 会 科学

1
1
私 は 東 海 学 園 の 女 子 短 大 に 勤 め て お り ま し た けれど も の一科として仏教社会福祉というものを考える考え方
昭 和 五 十 九 年 に 短 大 の生活学 科の中に﹁生活福祉﹂とい こ の よ う な 分 け 方 を し て み た ら い か が か と 思 い ま す。
うコ l スを設けようという動きがありました。 せ っかく そこで仏教プロパ│の仏教社会福祉については


浄土宗関係の大学ですので 仏教福祉というものを学生 も 二つ に 分 け る こ と が で き る の で は な い か と 思 い ま す 。
に学ばせる必要があるのではないか、こういうことにな 中村元先 生 、 道 端 良 秀 先 生 な ど の 考 え 方 、 こ れ は よ く
ったわけです。 そ の と き に 私 が 提 案 し た 以 上 は 自 分 で や 言われるのですが いわゆる仏教の歴史の中で、あるい
らなければならないということで、諸先輩の先生方のい は日本の仏教の中で、聖徳太子をはじめいろいろな方々
ろいろな仏教福祉についての考え方を学ぶ機会があった が社会的な活動をしておられる それをひとまとめにし
わけです。 て仏教社会事業ということができるのではないかという
考 え 方 で す。 これはそれなりに批判されておりますが は考えられない という考、ぇ方である 。 つまり仏
と に か く そ う い う 考 え 方 が 一つあります 。 教理念が人間に受けとめられ実現されものをすべ
それからもう 一つは 先ほどのわれわれの研究所長で て社会福祉という﹂
あります水谷先生の考え方です。 お配りした資料にあり ﹁すべてのことを仏教社会福祉という﹂という考え方で
ますように、水谷先生の仏教社会福祉についての考え方


を ①1④ に あ げ て お き ま し た 。 見 て い た だ き ま す と わ か それから④のところでのポイントは ﹁仏教即社会福
りますが、 祉﹂という考え方、 仏 教 と 社 会 福 祉 で は な く て 、 仏 教 即
﹁・:・:社会福祉のあり方が仏教的理念にもとづい 社会福祉ということです 。

2-
て明らかにされたところに打ちたてられるもので 以上のような考、ぇ方をとられているわけです。

1
ある﹂ 基本的に考、えられることは、要するに仏教というもの
という考え方。 が土台にあって、 そ れ が い ろ い ろ な 形 で 社 会 的 に 展 開 を
﹁::仏教みずからにおいて生み出されていく社 していくこと それ自体がすでに仏教社会福祉といわれ

会的実践の理論:::﹂ る も の な の だ 、 こ う い う 考 え 方 な の で す 。 この考え方と
﹂れが仏教社会福祉といわれるものではないかというこ いうのは、社会学者からは批判されているわけです。



ろいろな点からこれはいわゆる社会福祉とはいえないも

それから 三番 目 は も っと幅が広いですね 。 のなのだというわけです。私に言わせますと、 だから、


﹁・:仏教が人聞社会へ展開するには社会福祉と 社 会 科 学 的 な 社 会 福 祉 と は 違 った 一つの 社 会 福 祉 の 考 え

いう形でなければならい 。 そ れ 以 外 の 展 開 の し 方 方なのだということがまずいえると思います。
次 に 社 会 科 学 の 一科 と し て の ﹁ 社 会 福 祉 ﹂ と い う こ と 非人間的な、あるいは官僚主義的な傾向に流れていく側
﹂れは大体社会科学者がいわれる考、ぇ方です。まず、 面がある、この点を十分注意しなければならない。そう
つ考えられることは、仏教が社会福祉の補完的な役割 いう点から見たときに仏教というものが生きてくるので
いわゆる社会科学的な社会福祉では十分ではないので はないか。仏教の役割というのは、森永先生の場合は
それを補う意味において仏教というものが大いに生きて ﹁
主 体的契機﹂、実践者そのものを育てあげるという大き
そういうあり方 そこに仏教社会福祉の主張が考 な意味があるといわれております。 そ れ が 資 料 の ⑤ の と

えられるのではないか。 ﹂ろにあげである 言 葉です。


たとえば、森永松信先生ですが、この方は社会学者で ﹁社会福祉は、要約すれば、社会的資源の準備された
あり、仏教の中でも代表的な社会福祉学者ではないかと 社会環境の中で とりわけ、社会関係や社会制度に関

3
1
私は思うのですがこの先生は いろいろ社会福祉プロ 連づけて、社会成員としての人間個々の生活上の困難
パーの研究をしながら、 そ こ か ら 出 て く る こ と に は ど こ に対する措置といわれるのである﹂
か足らないものがある、 そ れ は 何 だ ろ う か と い う こ と で ﹂の場合に大事なことは
いろいろ考えられたわけです。 ど う も 近 代 的 な 社 会 福 祉 ﹁人間対人間の人格的かかわりであ って ﹂
というものが客観主義的であり 組織的であり 計画的 ﹂の辺のところを十分に注意をしておく必要があるのだ
であり、 予 防 的 で あ り 、 公 的 で あ り 、 科 学 的 で あ り 、 技 と い う こ と を 言っ ているわけです。ということから、
術的であるのは、まことに結構なことではありますけれ ﹁
そ の 最 も 典 型 的 な ﹃ パ タ ーン ﹄ こ そ 、 他 な ら ぬ


﹂のような形でおし進められる中で そこでは 乗萱口薩の思想と行道 ﹄ なのである﹂


﹁人間性﹂というものが軽視され、 ときには無視され、 と い う よ う な こ と を 言っ て お ら れ ま す。
そしてもう 一つ、⑥ですが、特徴としてあげられるの 福 祉 と い う も の が 踏 み 込 ん で 考 え る 必 要 が あ る 。 それは
一般的な社会事業というものでは十分に尽くされな 何 か い う と 、 典 型 的 な も の は ﹁ 死 ﹂というものです。 人

l

いような点について ﹁
仏 教﹂が役立つのだというわけで 死 ぬ ﹂ と い う こ と で す 。 一般的な社会福祉事業は
聞は ﹁
日常的な生きるということだけを考えるわけですが



仏教社会福祉は 対象者を基本的に単に事故者のみ うではなくして さらに進んだ人間の死というものも社
にとどまらず、広く 一般の人びとことごとくに求める 会福祉の範曙の中に入れて考えていくということが必要
﹂とが望ましい ﹂ ではないかというわけです。
まず、 その社会福祉の対象者は誰にするか ﹂れは実は それから次に守屋茂先生ですが、この先生も社会学者

4-
社会学者から質問が出ると思うのですが、対象をきちん であり 非常に仏教をよく勉強されておられる方ですけ

1
と押さえていくということは大事だという意味です 。 そ れども ﹂の先生なども、社会福祉というのを社会科 学 、
の仏教社会福祉の対象はただ単なる事故者 │ │事故者と 経 済 学 だ け で は な く し て 、 社 会 学 から心理 学 から 、もろ
いうことは、要するに保護が必要な人たちのことを 号P 7 も ろ の 科 学 の 応 用 の 総 体 だ と い う 言葉を使 っておられま
わけですが そういう人たちだけではなくして、広く す。 社 会 科 学を総動 員 して そして組み立てていく 、 こ
般の人たちもその対象に入るということなのですね 。 こ れが社会福祉であり、社会 事 業 であると 言 われておりま
のところが 一つ、大事な点かと思うのですね。


それからもう 一つ考えられますことは、社会福祉の範 しかしながら、社会福祉の究極の目的は何かというこ
固というものは日常的なものが多いわけですから それ とですね 。 それは人聞を救済することだ、私が最初に社
だけではなくして 非日常的な事柄についても仏教社会 会福祉を勉強したときには 社会福祉というのは社会が
よくなることかなと思ったのですが そうではないので ﹁社会的救済の 一こま 一こ ま が 精 神 的 な も の の 裏 付 け
すね。人聞の福祉を増進するための社会的な装置といい によって処理されることが望まれる 。社会的救済プラ
ますか、 そういうものではないか考えるのです。そうい ス宗教的救済ではなく むしろ両者の統 一的 相 乗 積 を
う 意 味 に お い て ﹁ 人 聞 の 救 済 ﹂ と い う こ と が 大事 な の で 期待することが、問題解決の鍵となるのではないだろ
うか 。言 葉をかえてい、えば、両者の絶対矛盾の自己同

﹁人聞 の救済 ﹂ を 考 、
えるときに われわれ普通 一と も い う べ き 統 一的展開こそ、喫緊の時務であると

は物質的なものを考えます。 物であるとか、身体的であ いわねばならない 。


るとか、 さらにもう少し 言 いますと、社会の制度の問題 要 す る に 両 者 の 統 一的 展 開 と い う こ と は 、 社 会 的 救
と か を 考 え や す い わ け で す。 社 会 的 な 救 済 と い う こ と だ 済とか宗教的救済とかの何れかの一方に片寄ることで

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1
けを考えていきますと どうしても人間というのは物格 はなく、社会的救済の施策の 一つ 一つ が宗教的救済に
化、物化した 一つの単位として扱われる可能性がある 相即していなければならないことである﹂
﹂れでは十分ではないのだ、本当の人間の救済というこ ﹂ういう 言葉 で 表 現 さ れ て お り ま す 。
どうしてももう一つ、宗教的救済が必要なのだ 。 これはどういうことかというと、社会的な救済を受け

守屋先生は﹁社会的救済﹂と﹁宗教的救済﹂ということ る人たちがただ、物をもらえばそれでいいのだ、身体的
において人聞の福祉というのは成り立つのだと 言っ てお に助けてもらえばそれでいいのだというのではなくして、
られるわけです。 もう一歩踏み込んで その人たち自身が人間としての自
そこでその両方がどのような形で結合されているかと 覚を高めていくということが大事なのだ、こういう点を
い う こ と が 、 資 料 の 真 ん 中 の と こ ろ に あ げ で あ り ま す。 主張されているわけです。ただ、物がもらえればそれで
自分は救われたのだというのではなくして、宗教的な自 います。
覚というものがあって はじめてそこで本当の﹁救い﹂ 資料の③のところにあげておきましたが、両者の結合
というのは成り立つのだ、こういうようなことを先生は がどうなるかというと
主 張 さ れ て い る わ け で す。 ﹁::: ﹃
仏 教 的 カ ラl﹄ は 、 本 来 的 に 透 明 ・無 色 で な
それからもう一つの社会科学の一科としての社会福祉 け れ ば な らなかった ﹂
ですが、これについては孝橋正一先生という先生がおら とあり
れるのですが、私は仏教社会福祉を学んだときに ﹁
社会科学の理論と法則が指示する合理的指針に基づ




先生の見解を見て、 ﹁ああ 、 こ う い う も の か このよう いて その路線のうえで論理的 ・意欲的にすべりつづ
に考えるのか﹂と思ったのです。それほど、この先生の けるという状況となるであろう﹂

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1
考え方はわかりやすいのです。 社会科学の示す法則によるところの指針に従って実践し
孝橋先生の考え方は、仏教と社会科学の役割をはっき ていくということですね。その実践主体をつくる そ
、フ
り さ せ る 。 そ れ で ﹁ 仏 教 ﹂ の役割というのは ﹁
主体的な いう形で結合するということです。
契機﹂という言葉を使われておりますが、実践者、人間 ⑨のところでは
そのものを育て上げるのですね。それから﹁社会科学﹂ ﹁仏教社会事業においては、慈悲 の 仏 教 理 念 が 社 会 科
いろいろな社会福祉問題を分析したり そしていろ 学 を も っ て 歴 史 的 社 会 の な か に 自 己 実 現 │ │ある意味

いろな実践の指針を与えるものだ ﹂のように先生は 言 で仏教と慈悲は、 言葉もなく姿もなく、 しかもすばら


われているわけです。この仏教と社会科学が結合される しく情熱的で理性的なエネルギーとなって社会事業的
形として﹁両者の弁証法的結合﹂という言葉を使われて 存 在 と 行 為 の な か に 変 身 ー ー する﹂
つまり、慈悲の心は一つの情熱的、 理性的な エネルギー 的な意味、 一般の社会福祉では十分でないので 仏教思
と な っ て 変 わ っ て い く 、 実 践 者 の 一つの エネルギーにな 想がそこで生きて 人間の福祉としての社会福祉をより
っていく ﹂ういう形で仏教というものが生かされてい 充 実 さ せ る た め に 仏 教 と い う の は 重 要 な 意 味 を も ってい
くのではないかということです。 ﹂ういう立場だと思いますね 。

仏教と社会福祉についての考え方はたくさんあります と こ ろ が 次 の 孝 橋 先 生で す が 、 私 が こ れ を よ く 読 ん で
けれども、 主 だ った 先 生 方 の ご 意 見 を 以 上 の よ う に と ら みて考えたことは わかりやすいのですが、仏教は第
えてみました 。 義 的 意 味 し か も っていないのですね 。 別 の 言 葉 で い い ま
一体 こ れ は ど う い う 意 味 な の か と い う こ と を 考 すと﹁社会科学の中に仏教は埋没する﹂ということにな

7-
えてみたいと思います。 つまり それぞれのパターンに るのではないかと思います。 実践 者 を 育 て あ げ る に は 仏

1
おける仏教の位置づけというものです。 教は大いに役立つと主張されるわけですが、 そ の 裏 に は
最初の中村先生や道端先生のお考えは ﹂れは仏教そ 実践者は社会科学の示す法則に従って実践する そうい
のものからいろいろな形で仏教信仰者が実践していくと う 思 想 な の で す 。 そ の 主体 は 何 か と い う こ と で す 。それ
いうことです 。 そ の 基 本 は 仏 教 に あ る わ け で す 。 は 、 た だ 、 社 会 の 法 則 に 従 って実践する 主 体 で あ って
それから水谷先生の場合でも 仏教思想信仰というも 社会科学が示した社会の法則そのものに対して それを
のが社会福祉の思想的 ・実 践 的 な 基 盤 に な っ て い る と 思 そ れ を 超 え て い く よ う な 主 体ではないというこ




います 。 仏 教 は 主 体 な の だ と い う と こ ろ か ら い ろ い ろ な と な の で す ね 。 私 は こ こ の と こ ろ が 非 常 に 大事 だ と 思 う
形 で 展 開 し て い く こ と が 社 会 福 祉 だ と い う と ら え 方 で す。 のですね 。 ﹁主体﹂とい っても 社会科 学が示 し た 法 則
それから守屋先生や森永先生のお考えは、仏教は補完 性というものに対して批判し、 そ れ を 超 え て い く よ う な
主体ではなさそうだ ただ単に法則性の中に自己実現し 社 会 科 学 の 中 に 仏 教 が 埋 没 し て い く 、 社 会 科 学 の法則性
ていく、 そ う い う 主 体 を 育 て る の だ と い う と こ ろ だ と 思 を仏教は主体的に批判する立場たり得ない そういう問
います 。 も っ と 異 な っ た 表 現 を し ま す と ﹁階級闘争に 題がはらまれているという学説のご紹介もありました 。
勝てるような人聞を育てる﹂のが仏教の役割なのだとい それでは、次に少し観点を変えて、浄土宗義の原点に
う よ う に 解 釈 で き る の で は な い か と 思 い ま す。 こ れ は お 返 って 、 浄 土 宗 の 立 場 か ら 福 祉 の 問 題 に と申しまして
そらく議論があるかもしれません 。 私はそのように思い も、特にその思想的な、あるいは実践者の心組みとでも
ま す。 申しましょうか そういう問題を考えていく上で、宗義
とりあえず、時聞がきましたので、 こ の 辺 で 終 わ り た に立ち返るということは大切かと思いますので、 その観

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いと思います 。 点 か ら 深 貝 先 生 に ご 報 告 を ち ょ う だ い い た し ま す。

1

浄土宗義と福祉の 心﹂・ 深貝慈孝氏
長谷川 服部先生 ありがとうございました 。
服部先生からはきわめて明快に これまでの仏教社会 深貝 失 礼 い た し ま す。 私は このよ う な 場 で 福 祉 のこ
福 祉 に 関 す る 考 え 方 を 二 つに分けて、各 学 説についてコ と に つ い て 申 し 上 げ る の は 初 め て の 経 験 で ご ざ い ま す。
メン卜していただきながら、ご報告をちょうだいしまし 平生もあまりそういう方面では心を用いたことことがあ
た。 りませんでしたので ﹂こへ出させていただくこと自体
その中で仏教と社会福祉のかかわりという点からして、 が間違 って い る か も し れ ま せ ん が た って と い う こ と で
先生は、まず仏教を主体とする立場、 いま 一つは、仏教 ﹁浄土宗義と福祉の心﹂というお題までちょうだいいた
を社会福祉を補完するという意味での立場、 いま 一つは しましたものですから、私の考えておりますところを少
し申し述べさせていただきたいと思います。 ﹂れがそのまま人々の 幸せを招くものでなければならな
二五O O年前にお釈迦様が ﹁人生は苦なり﹂とお っし ﹂ういうことに尽きると私は思 っております 。


ゃいました 。 まことに人間苦でありますし 現実苦であ 浄土宗について、 釈迦に説法ですけれども、確認をさ
ります 。 その解消が宗教の役割としますと この浄土宗 せていただきたいと思います。
義、お念仏の教えも現 実 に社会の人々の幸せに貢献する それはお渡しした資料にありますように、浄土宗とい
も の で な け れ ば な ら な い と 思 わ れ ま す。 う仏教は、﹁所求﹂﹁所帰﹂﹁去行 ﹂ の 三 つを離れては


浄土宗 ﹂ と申しますと、 ややもすると、 死 後 の こ と 成り立たないもので、これを必ず守られなければ、法然
ばかり 言う、死後往生、 死後往生という、 そんなことを 上 人 の お 立 て に な った浄土宗ではありません。

9-
言っ て何になるのだというおしかりを受けることがあり ﹁所求﹂、求める所ですから、

1
ますが、実際 死後のことは何も 言っ ておりません 。死 ﹁十方に浄土多けれど西方を願うは﹂
ぬまでのことが大切なのです 。 いまから死ぬまでのこと 十方に浄土をおいているのは大乗仏教の立場ですね 。
いかなるあり方が正しい往生か われわれはどうや 大乗仏教の立場は十方に諸仰の浄土を認めるという、仏

っていくかということが 示されているわけで、 死後の、﹂ 陀というものは 一物ではなし 十方にわた って出現する


とは絶対約束せられておりますので そういうことは と い う の が 大 乗 仏 教 の 立 場 で す 。 まずその立場に立ちま
切、私たちは関係しなくていいわけです 。実 際 、 浄 土 宗 ﹁十方に浄土多けれどへなぜ、私たちは西方を願



の教えは﹁現 実 宗﹂とい って い い と い う 心 を 常 に 私 は も 、 のか
7 それは
っております 。 ﹁十悪五逆の衆生の 生るる故なり﹂
だから、浄土宗の教えは念仏相続ということですが と法然上人がは っきりとお っしゃっています。
だから 正式には浄土宗は﹁往生浄土宗﹂でなければ ﹂とを﹁去行﹂と申します。 それも十方に諸偽まします
いけない 。 浄土に往生するということを心としなければ のですから、諸行のことごとく大乗菩薩道の菩薩行です、
ならぬということです。 ﹂れがすべて往生の行になるわけですから、諸行の中の
それから﹁所帰﹂ どれを用いてもよろしいはずですが
﹁帰する所﹂ですが ﹁諸行の中に念偽を用うるは 彼の悌の本願なる故な
﹁諸仰の中に弥陀に帰したてまつるは﹂


L
とおっしゃ っています。 いま、申しましたように、大乗 このように法然上人はおっしゃっております。 ですから、
仏教ですから十方に諸偽まします そのいずれの仰にす ﹁彼の仰の本願なる故なり﹂、すなわち﹁選択本願念偽
が ってもよさそうなものですが、諸偽の中のなぜ弥陀に 宗﹂なのです。 お念偽ですが ただのお念仏ではありま

0
2
帰したてまつるのですか それは せん 。選択本願のお念仏である、 ﹂ういうことです。
コニ念五念に至るまで自ら来迎したまう故なり﹂ ﹁所求﹂から見ますと﹁往生浄土宗﹂、﹁所帰﹂から申
と法然上人はお っしゃ っているわけです。 その﹁所帰 L しますと﹁南無阿弥陀仏宗﹂ ﹁去行﹂から申しますと
というところから申しますと、浄土宗というのは、﹁南 ﹁選択本願念仏宗﹂、 それを略して浄土宗とか阿弥陀仏宗
無阿弥陀仏宗﹂ですね 。 阿弥陀仏に南無するということ とか念仏宗と申しているわけです 。
を心とする仏教であります 。 そしてまた そのよりどころというのは、最初に返 っ
それか ら ﹁去行﹂ ですが、﹁往生の行﹂ということで ていただきますと
すね 。 ﹁去﹂ということは場所を移動するということで ﹁浄土宗とは法然上人が仰せられたように正明往生浄
すから、横土から浄土へ往くということで、往生の行の 土之教である ﹃
浄土 三部 経 ﹄ に依る仏教である﹂
浄土宗とは法然上人が仰せられたように まさしく往生 いるということです。その中で何を説かれているかとい
浄土の教えであった まさに浄土に往生することを心と 、
フと お念仏なのです。それは法然上人がは っき り と 指
する仏教である そのよりどころは浄土の三部経です。 摘しておられます。選択本願のお念仏である、 選択讃嘆
浄土の三部経については、神話であるとか お伽話で のお念仏である、選択留教のお念仏である、 お念仏が
あるとか、全く問題でないようなことをおっしゃる方が ﹁
無 量 寿 経 ﹂ の心である ﹂のようにお っしゃ っている
いますが、 そ ん な こ と で は と う て い 浄 土 宗 は 成 り 立 た な わけです 。
いわけです。 ﹃
浄土三部経 ﹄ の 諸 説 に 基 づ い て 浄 土 の お そして﹁観無量寿経﹂においては﹁諸行往生称名勝﹂、
念仏﹁南無阿弥陀仏﹂ということが出てきていますから、 ﹁
無 量寿経﹂において、すでに建立させれました弥陀の
三部経を否定してしまえば ﹂れはお念仏は出てこない 浄土に生まれていくという、往生するという、 それがそ

1
- 2
わけです 。 浄 土 宗 の よ り ど こ ろ は ﹁
浄土三部経 ﹂ である の心ですので、諸行往生すれども称名勝れたりという方
ということです。 そしてその浄土の三部経は、御承知の 向で、 お釈迦様は三輩九品の諸行をお説きにな ったうち
ように大乗仏教の究極の教えである、 そういう立場に立 に心として、﹁汝この語をたもてこの語をたもっとは無
っております 。 これは宗派の立場によりまして、教派が 量寿仏の名をたもっとなりたもて﹂とお っしゃ って、弥
異なりますから 天台宗や日蓮宗の場合には﹁妙法蓮華 陀の心は無量寿経に書かれた本願のお念仏であるという
経﹂が最高の教えである、真実の教えである、 そ、ついう ことを指し示しておられるわけです 。 法然上人は、



立場に立ちますけれども わが浄土 宗 は、究寛大乗浄土 は選択摂取のお念仏である 選択化讃のお念仏である
門が大乗仏教の究極であるというところに立ちます。 こ 選択付属のお念仏である、弥陀の心をそのようにお示し
の﹁究寛大乗浄土門 ﹂というのは﹁無量寿経 ﹂をい って になっているわけです。
それから﹁阿弥陀経﹂ ですが、﹁我閣万行選仏名﹂ ﹁
至心 に 信 楽 し て 我が国に生ぜんと欲して﹂

万 行 を 差 し 置 い て 、 仏 名 を 得 る ‘ こ う い う こ と で す。 ご と 申 し ま す の が 、 法 然 上 人 の お っしゃ って お ら れ る ﹁ 本
象 知 の よ う に 阿 弥 陀 経 に は 諸 善 万 行 は 一切 説 か れ て お り ﹂ です 。 ﹁
願の 三心 三 心﹂﹁ 三 心 ﹂ と や か ま し く 申 し ま す
ません 。 南 無 阿 弥 陀 仏 の 一心 不 乱 の お 念 仏 が 説 か れ て い 阿 弥 陀 様 の 本 願 に ち ゃ ん と 誓われているからです。


σ

るだけです。それをすべて、﹁そうだ そうだ﹂と釈尊 それも親驚上人のように如来から賜りたる信心ではな
のおしゃ った こ と に 対 し て 異 口 同 音 に 念 仏 と い う も の を くして、私たちが阿陀の浄土に入る、このように心の底
称揚しておられる そういう形です。 から願って起こすところのコ二心﹂、 ですからこれは一
それゆえにわが浄土宗としては、この三経に説かれて 心にな って い る の で す 。 一つには、 二 つには、 三 つには
いるお念仏に導かれて 往 生 浄 土 見 尊 体﹂、浄土に往生
﹁ と い う 関 係 に は な って お り ま せ ん 。 横 一列にな っている

2
2
して尊体 阿弥陀様にまみえて 阿弥陀様の説法を聞か わけです 。 一心が 三 つにな って い る わ け で す 。 法 然 上 人
せていただいて、仏と合わせていただくという、 そうい は﹁本願の 三 心﹂﹁械の 三 心 ﹂ │ │ ﹁ 横 の 三 心 ﹂ と お っ
う 道 を 歩 ま せ て い た だ く の が 浄 土 宗 で す。 しゃったのは鎮西上人ですが それはそのまま観経の
したがって 浄土宗義というのは お念仏を相続する 心である 。 こ れ は て 二、 三 とありますから、 ﹁
縦 の三
ということです。第十八念偽往生の願文がそれでありま 心﹂、このように法然上人はお っしゃったわ け で す 。
す。 選 択 本 願 の お 念 仏 が そ れ で あ り ま す 。 そ の こ と が 書 ﹂の﹁安心 (あんじん)﹂ということですが 世俗で
かれているのであります。ご承知のように第十八願文は、 は﹁安心 ( あ ん し ん ご と 申 し ま す ね 。 安心 (あんじん)
﹁もし我れ仏を得たらんに、十方衆生﹂ す る と い う こ と は 、 安 心 (あんしん)することができる
と す べ て の 人 に 呼 び か け て お ら れ ま す。 と い う こ と で す。 ﹁安心﹂ということはやはり大切なこ
とです。鰯の頭も信心からと申しますが 鰯の頭に全身 は、往生ということで安らぎが得られるというように受
全霊を預けきることはできませんが 阿弥陀様には私た け止めさせていただけば 一番いいのではないかと思って
ち は 預 け る こ と が で き る 。真実 者 に 対 し て は 預 け る こ と おります 。
ができる、 絶対的に悔いがないという、 そ、ついうところ もしそれが果たせなかったならば、 ﹁
も う生ぜずんば
があるのです。そのもとにな ったものが声にな って出て 正覚を取らじ しかし、 阿 弥 陀 仏 は 十 劫 以 前 に す で に


くるのが起行ですから 成仏しておられる、すなわち本願成就心である、応身の
﹁乃至十念せんに﹂ 阿弥陀様である、 ﹂ういうことです 。大 乗 仏 教 、 大 乗 菩
﹂の﹁十念﹂ ﹁念﹂は十声と善導様がおっしゃいま 薩道を成就せられた方が阿弥陀仏であるということです。

したように、﹁乃至十念﹂というのは、﹁上は 一形 を 尽 く 、-J- この浄土教というのは、釈尊の教えであると同


JJJJ

3
2
上 は 一 生 涯 尽 く し て い く と い う こ と で す。 ﹁下は十 時に阿弥陀様の御本願、すなわちご承知のように 二尊教

声 一 声 等 に 至 る ﹂ この 一戸
、 一声の 念 仏 が ﹁ 起 行 ﹂ でしたね。十方恒沙仏 ハ通照知我 今乗二尊教



あります 。 そして信仰に入 って、最 後 臨 終 の 念 仏 相 続 が 浄土門 皆 釈 迦 の 教 え で あ る 。 それをすべての仏がしょ
作業 ﹂ で あ り ま す。 安 心 ・ 起 行 ・ 作 業 と い う の は
﹁ 可
F うじようするという形になっている。本願浄土宗であっ
弥 陀 様 の 本 願 に は っ き り と 誓 つ で あ る か ら で す 。 安心 た、だからお念仏を唱えれば必ず救われるという道理が
起行 ・作業を必要とするとお っしゃ っている 。 、- J -
JJJJ 成 り 立 っ て い る の で す 。 そういうことですから、義口導様
方で念仏するなら ちゃんと安心・起行 ・作業が備わっ はそのことをおっしゃるわけですね。
て い る わ け で す 。 そうしたならば 必ず救われるのであ ﹁仰ぎ願わくは 一切の行者 等 ﹂
る、必ず安らぎが得られるのである 。 ﹁
安心 L とい うの ﹁行者 等 ﹂とい う の は 浄 土 宗 徒 の こ と で す ね 。 念 仏 を 信
じ て お ら れ る 方 が 行 者 で す 。 私たちは念仏を相続してい ﹂とが お念仏を信じ お念仏を申していく正しい上げ
くという念仏行者でなければならないわけです。 方で、これが本 当 の仏教徒とお っしゃ っているわけです 。
﹁一心ただ仏語を信じて身命を顧みず﹂ したが って、浄土宗義としては ﹂の随順仏教、随順
仏語というのは、最初に一番最初に申しました﹁究寛大 仏意、随順仏願することが正しいあり方でなければなら
乗門﹂ のところの弥陀、釈迦、諸仏ですね 。 だから、弥 いなわけです 。 これが浄土宗義であります 。 お念仏を相
陀、釈迦、諸仏がお っしゃったことを必ず行じていく 。 続 し て い く と い う こ と で あ り ま す 。 それが善導大師があ
お念仏のことですが、﹁ただ仏語を信じて身命を顧み の 一心専念の本に正しく示されているわけです 。 法然上
ず﹂、自分の働いたところに加えるな、智者の振る舞い 人はこのご本に基づかれて浄 土 一 宗 をお立てな った




をせずとおっしゃっているわけです。 ういうことであります。

4
- 2
﹁決定して依行せよ﹂ ﹁一心に、専ら弥陀の名号を念じ﹂
決定的にそれによりなさい 。 南 無 の 形 で す ね 。 本 当 の 宗 ご心﹂は安心で 起行、﹁専ら弥陀の名号を念じ﹂


教 の 正 し い 姿 が こ こ に あ る わ け で す。 してそれを相続していくということが作業になるわけで
﹁仏の捨てしめたものはすなわち捨て 仏の行ぜしめ


たまうものはすなわち行じ、仏の去らしめたもう処を ﹁行住坐臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざる
ばすなわち去れ 。 これを仏教に随順し、仏意に随順と ﹂れを正定の業と名づく 。 彼 の 仏 の 願 に 順 ず る が 故
名づけ ﹂れを仏願に随順すと名づけ これを真の仏 噌


弟子と名づく﹂ これがまさしく往生を決定するものである 。ま さ し く 安
だから 皆さんが諸仏の御心、すべての仏の御心に沿う らぎが得られることであり、まさしく不安が取り除かれ
る行為である。なぜか かの阿弥陀機の本願に従うから 見ていきますと、実践にかかわる担い手の いわば主体
である 。 阿 弥 陀 様 の 本 願 に 従 う と い う こ と は そのまま 的契機とでも申しましょうか そういう問題を考、えてい
安らぎが得られることなのです。 一番簡単で一番正しい く上で、示唆に富んだご発題だったかと存じます。
最も優れた行為である。これが浄土宗義ですから そ れ で は 次 に 、 こ れ ま で の お 二人 の 先 生 の ご 報 告 を 取

宗義を自信教入信いたしますことが 浄土僧侶の立場で り込んでいただいて、奈倉先生の方からご発題をちょう
あ り ま す 。 そ れ に よ って 社 会 の 人 々 の 幸 せ が 得 ら れ な け だいいたします。 奈 倉 先 生 は 、 こ れ ま で に も 浄 土 教 の 福
れば浄土宗のお念仏の教えというものは存在感がないの 祉思想の問題にずいぶんとご発表をしていただいており
であります。 お念仏を申すことによって 人々の心が潤 ます。今回もまた﹁浄土教の福祉思想 ﹂ と ﹁
福祉実践﹂
ぃ、本当の安らぎが得られるという、 そういうのが浄土 との架け橋ということで これからご報告をちょうだい

5
2
宗の 教 え で あ ろ う 、 私 は そ の よ う に う け と め さ せ て い た い た し ま す 。 よ ろ し く お 願 い い た し ま す。
だいております。 ﹁浄土教の福祉思想と福祉実践﹂
・ 奈
どうも失礼いたしました。 倉道隆氏
長谷川 どうもありがとうございました。 奈倉 奈倉でございます。このような機会をお与えくだ
深員先生からは、ご懇切に浄土宗義の核心について、 さいましたことに感謝申し上げます。
レジメに従 って お 話 を ち ょ う だ い い た し ま し た 。 社 会 福 浄土宗義には暗い私ですが、幸い、大先輩の深貝先生
祉問題は、社会科学から見れば客観的な認識の対象です から浄土教の祖師の教説の極意をおっしゃっていただき
Jf
1 一方
、 ただいまの浄土宗義と福祉の心という点から ましたので そ れ を 受 け さ せ て い た だ い て 、 提 言さ せて
いただきます。 ま ず 第 一に ﹁ 浄 土 ﹂ と い う と こ ろ は ど う い う と こ ろ で
浄土教の中には福祉の思想があると私は受け止めてお あ る の か 、 こ れ は 四 十 八 願 が 成 就 し た 世 界 で あ り ま す。
ります。その浄土教の中の福祉の思想によって福祉の実 その四十八願は福祉の世界であると私は読み取らせてい
践を進めていくことが祖師の教説に基づく福祉活動では た だ い て い ま す。
ないと思います。社会福祉は実践の学問ですから、議論 A. 法蔵 笠口薩が選択された四十八願の多くは福祉を

よりも実際にどのように活動していくかという実践が大 目指すものであった﹂
事だと思います。また、仏教、 いろいろな教えのある中 たとえば第 一願 の 無 三悪趣、 地獄、餓鬼、畜生のない
で祖師の教えは、念仏という実践 ﹂れを中心に展開を 世 界 を 浄 土 と さ れ た わ け で す。 地 獄 と い う の は 身 体 的
なさいましたので ﹂の場で考えますことも、観念では 精神的な苦悩でありましょう、餓鬼というのは物質的に

6
2
なく実践から入っていくことが大切ではないかと思いま 飢える貧困でありましょう、畜 生というのは人権が無視
されている状態、差別の問題 あるいはいじめの問題

それではお配りしたプリントに従ってお話を進めてい こうい ったものがない世界、 ま さ に こ れ は 福 祉 が 一番 願


きたいと思います。 うところです。
祖師法然上人の教説を﹁所求の浄土﹂﹁所帰の阿弥陀 第二願は そういう状態が 一度得られて またもとに
仏﹂﹁去行の念仏﹂ととらえ、 そ こ か ら 仏 教 福 祉 の 思 想 戻 っ て し ま う と い う こ と は な く 、 再 ぴ も と に 戻ることの
を見い出し、仏教福祉の実践の方法を学びたいと思いま ないような、ここは悪趣の願ですが 永続的な福祉の状
態を確立しようとい うものです。時聞があれば



四十八願が成就した浄土は福祉の世界 つの願について・申し上げたいと思うのですが、要するに、


四十八願の 三分の 一ぐらい は そ の ま ま 社 会 福 祉 の 教 科 書 です 。 そ れ は あ と で も 申 し 上 げ た い と 思 い ま す が 、 真 に
に引 用 し て も い い と 思 わ れ る ほ ど 福 祉 の 世 界 を 願 わ れ た 人間らしく生きることを目指す、 そ れ が 往 生 の 思 想 だ と
も の で す。 思いますので、 そ れ に 裏 付 け ら れ た 福 祉 を 私 た ち は 求 め
それが成就したお浄土を所求する、求めていく私たち ていかなければならないと思います。 ﹁
往生 ﹂ について
ですから は恵谷隆戒先生が 知恩院浄土宗 学 研究所が出した ﹃

B eこ れ ら が 成 就 し た 浄 土 を 求 め る 浄 土 教 徒 は
﹁ ,

生 浄 土 の 理 解 と 表 現﹄ の中で次のように述べておられま


の 世 に お い て は 福 祉 社 会 を 実 現 す る 努 力を す べ き で あ す。

念仏するたびに如来と我とが互いに返照しあい、働

7-
こ の よ う に 私 は 思 い ま す。 お 浄 土 に い く こ と が 保 証 さ れ き あ う こ と に よ って 、 香 り 高 い 人 格 を 形 成 し て い く の

2
て いる私たちは せめてこの世においてはこの世を少し が往生である 。 そ れ は 平 生 に 始 ま り 臨 終 に 完 成 す る も
でもお浄土に近い社会にしていくということが宗義では のでなければならぬ ﹂
ないでしょうか 。 ﹂のあたりに法然上人 の法 を
ただその福祉は、欲求充足のみをもたらすものではい 二 念 に 一度 の 往 生 は よ き た ま え る 本 願 な れ ば 、 念 念
け な い と 思 い ま す 。 ともすると、福祉というのは、 生 活 ごとに往生の業とはなるなり ﹂
の足りないところを満たしていく、欲求の満たされない と い う こ と も 引 用 な さ ってい らっしゃいます。 臨 終 往 生
ものを充足していくということに陥りやすいですが、仏 だ け で は な く し て 、 平 生 往 生 、 常 日 頃 の生活の 中 で 香り
教 は さ ら に そ れ を 超 え て い く も の で な い と い け な い 。と 高い人格を形成していく、 そ し て 最 後 に お 浄 土 に 生 ま れ
いうのは ﹁
往生﹂を目指すということが大事だと思うの 変わる 。 ﹂の世においても日々生まれ変わ ってい


くのだ、これは私がそのように受け止めさせていただい です 。 アミタl ユスというのは 限りなく大いなる命
ているのですが、往生というのは 肉体を失ってお浄土 命の根源と申しましょ う か、すべてのものを生かそうと
に生まれるという分段生だけではなくして、変易死生 す る 大 慈 悲 の 働 き で あ り ま す。 プ リ ン ト に は そ の こ と だ
つまり日々 心が生まれ変わ っていく、人格が向上して けを書きましたが まずそれを読まさせていただきます。
そ の 最 後 に 臨 終 往 生 を 迎 え て い く 。宗 義 と 決 し て A .人間 一人 ひ と り に は 生 命 が 備 わ り
﹁ いのちの法


矛盾するものではないと思います。最後にお浄土にいく、 則によ って成長 ・老 化 、 病 い の 癒 し ・安らかな死など


そ の と き だ け を 待 っているのではなくて 日々の念仏 が営まれる ﹂
平生の念仏、 そ こ に 私 た ち は 往 生 の 行 を 願 う と い う こ と 死もまた生の 一部 で あ り ま す 、 表 裏 一体ですから 。 これ
を 自 覚 し て い く こ と か 大 事 だ と 思 い ま す。 福 祉 実 践 も ま

8-
ら す べ て が ア ミ タl ユスによって営まれ アミタl ユス

- 2
たそのような往生に支、えられていかなけれはならないと によ って 私 た ち の 体 の 上 に 実 現 し て ま い り ま す 。 したが
思います 。 って
次に何をよりどころとして福祉を進めていくかという ﹁アミタl ユ ス に 帰 依 す る 念 仏 者 は いのちの法則に
ことです 。 ほ か な ら ぬ 所 帰 の 阿 弥 陀 仏 と い う こ と に な り 随 順 す る 福 祉 を 実 践 していくのでなければならない﹂
ます 。 したが って 、 福 祉 の 原 動 力 と い う の は 、 こ の 大 き な い の
二、 ア ミ タ │ ユ ス は 、 す べてのものを生かそうとい ち の働きである 。現実の 世 界 に お い て は 生命の法則、



る大慈悲の働き のちというものがまず中心におかれなければならないと
阿弥陀仏は申すまでもなくサンスクリットのアミlタ 思います。
ここには 書 きませんでしたが、 アミタl パが原語 それとアミタl パ 、 こ れ は 知 恵 の 光 と 理 解 さ れ て お り
L


ますが、仏教の知恵は いうまでもなく﹁縁起の理法﹂ す力に支えられて営まれている 。 社会福祉は個人の自
に基づく知恵であります。阿弥陀如来は縁起の理法の人 力によるのでなく社会の力で生活問題の解決をはかる
格化したものだとお考えの方もあるようですが そっい ものである﹂
う縁起の理法に基づく知恵というのは 現代科学を踏ま ﹂れが慈善事業と違うところですね。自分のも っている
え な が ら も 、 科 学 の も っている形式論理性、そういうも 財産で人を救 ってやろうというものではなくて 一人ひ
のを超えていく それにとらわれない。あるいは主体 とりがも っている力をお互いに出し合 って、あとで申し
客 体 を 分 離 し て し ま う 。 近代社会の福祉もまさにそれで ます﹁共生﹂によ って社会の力を高めていく。そういう
私は援助する人、あなたは援助される人というように分 社 会 の 力 で 問 題 解 決 を 図 っていくというのが社会福祉の

9-
け て い く 、 仏 教 は そ う い う 主体 ・客 体 を 分 け な い 、 主 体 特色であります。

- 2
-客体は相互展開していく、こういったところに社会科 ﹁共生によ って 社 会 の 力 を 高 め 、 社 会 の 力 ( 資 源 ) を
学 の社会福祉と仏教とを結び付けるということでは満た 活用して互いによりよく生きられるように支援するの
さ れ な い も の が あ る と い う よ う に 私 は 思 い ま す。 近 代 科 が共生の社会福祉であり その充実をめざすのが念仏
学 の論理を超えた、も っと幅の広い、縁起の理法に基づ 者 の 福 祉 活 動 で あ る 。 それは如来によ って救われ 生 か
く 知 恵 で も って 仏 教 の 福 祉 は 進 め て い か な け れ ば な ら な されていることへの報恩感謝の心ですすめられてい
いと思います 。 し た が っ て ﹁ い の ち の 働 き ﹂ ﹁ 縁 起 の 理



﹂ の 二 つを尊重していくことが仏教福祉の原動力
﹂ と て も 人 間 は 一 人 で は 生 き ら れ な い 、 私 一人がこの地上
になると思います。 におかれても、生きることができない 。空 気 や 水 や 食 物
B. 人 び と が 共 に 生 き る 社 会 も ア ミ タl ユスの生か
﹁ ゃ、あるいはさまざまな人の働きや そういうものによ
って生かされて生きているという自分の存在を深く見つ の理法のよって支えられ、生かされているいのちという
めるとき、生かされていることへの感謝、喜ぴ そこか ことの自覚が、 口で﹁南無阿弥陀仏﹂を唱えることによ
ら他者への報恩感謝の働きをしないではいられなくなっ って深ま って い き ま す と 、 人 々 に も そ れ が 聞 こ え て い く
ていく、こういう自発性が福祉では大切だと思います。 社会的達体を高めていきます、 そういう意味で念仏を唱
その福祉の自発性というものが単なる正義感とかヒ子│ ぇ、念仏によ って生きるということは、福祉の実践にと
マニズムとかといったものではなくして、もっといのち って私は欠かせないものであると思います。
の存在そのものに目覚める、縁起の理法に目覚めていく ﹁
A. 真 の 福 祉 は 自 立 ・ 共 生 を め ざ す べ き で 、 依 存
ところから生まれてくる、これが仏教福祉が原動力にな 孤立を助長するものであ ってはならない。先に述べた
ると思います。 往生をめざす念仏は真の福祉を導く 。三 心の念仏に徹

0
- 3
最後に﹁去行の念仏﹂ですが することが大切である﹂
コ二心の念仏はアミタl ユスと交流し、自立 ・共生の やはり福祉というもので大事なのは自立だと思うのです
向上心をもたらす﹂ ね。 ともすると、福祉というのは弱い人を助けてやる
法然上人が念仏は心で唱えるのではなくて口で唱えな あるいは自分は力がないから、大きなものに寄り掛か っ
さいと 言われているのですが ﹂れはコミュニケ│シヨ ていこうという依存に陥りやすい 。 あるいは福祉の援助
ンを重視された結果だと思います 。 アミタl ユスと交流 を受けることによって、これで自分の人生は何とかや っ
をはかる、 ﹁南無阿弥陀仏 L と 口 に 唱 え る こ と に よ って
、 ていけるのだ、福祉の援助さえあれば、親子のつながり
仏に向か って自分のいのちが聞かれていく、閉鎖した自 はなくてもいいのだとか、近所の助けは要らないのだと
分ではなく 聞かれたいのち さまざまなものとの縁起 いうような孤立を招くという傾向が出てきています 。 そ
う で は な い の だ 。 福 祉 と い う の は ﹁ 自 立 ・共生 ﹂ が大事 る心と そのような自分でありながら多くの人や物の
なのだということを私たちは強調しなければならない 。 支 え に よ って 生 か さ れ て い る こ と を 喜 び 聞かれた生
その﹁自立 ・共生﹂はどこから出てくるかとい、えば き方を自覚する心を呼ぴおこす﹂

生 を 目 指 す 念 仏 か ら 生 ま れ て く る と 思 い ま す 。 それでは つまり、深心は、 二 種深心によ って コ ン バ ー ジ ョ ン を


ど う し て そ う なるか、 そ れ は 念 仏 の 心 は ほ か な ら ぬ ﹁ 三 も た ら し て き ま す 。 浄土教の 一番の極意は、深心のコン
心﹂です 。三 心 の 念 仏 に 徹 し て い る 。 その結果としてい バ ー ジ ョ ン に あ る と 思 い ま す。 や は り 福 祉 に お い て も コ
ま 申 し 上 げ た よ う な 自 立 ・ 共 生 ﹂ の心が生まれてくる 。 ンバージョンが福祉に携わる人にも、また福祉の援助を
なぜか 。 活 用 す る 人 に も 必 要 で あ ろ う と 思 い ま す 。 そのことにつ
B. 至 誠 心 は
﹁ かぎ ら ぬ 心 で あ り 、 自 己 一致 へ と 導 、 申 し 上 げ さ せ て い た だ き ま す。
いてはあとでもう 一度

1
- 3
く。 自 分 で で き る こ と で き な い こ と を あ る が ま ま に 認 ﹁回向発願心は、自我中心の心を転じ、真の自己に生
識させる﹂ ま れ 変 わ る 願 い を も って 日々生活の向上に努める心
や は り 赤 裸 々 な 自 己 と い う も の を 知 る こ と が 大 事 で す。 を引起、﹂す﹂
できないことがやれる やれることがありながらそれを 人 間 と い う の は 自 我 中 心 の も の な の で す ね 。 その自我
しないで楽をしよう、 人に依存していく、 そういう心を 中 心 の も の が 深 心 の コ ン バ ー ジ ョ ン に よ って転換してい
捨て去るためには、 至 誠 心 が 念 仏 に 与 え ら れ る 必 要 が あ く、そして真の自己に 生 まれ変わる、往生を願う、自分
ると思います。 のいままでしてきだささやかな努力はそれはもはやそれ
﹁深心は、深く自己をみ つめ、なすべきことをせず、 によ ってではなくて それは仏に捧げ、仏の力で生まれ
すべきでないことをしてきた自分をかえりみて機悔す 変わらせていただこう ﹂うすることによって人間的な
恵谷先生がおっしゃるような﹁香り高い人格﹂を 主 体 ﹂ の 面 な の で す ね 。 そ れ は ソl シャル ・ワークに


形成していくプロセスが進むのではないかと思います。 携わる専門職の人、あるいはボランティア活動をする人
﹁これによ って 依 存 性 や 孤 立 を 招 か な い 真 の 福 祉 が 実 ﹂の人の 主体の 側 そして相手に対して自分が何かをし
現していく﹂ てあげようとか、自分はこれからいいことをするのだと
﹂れからの社会福祉で非常に大事だと思うのは かというような自負があってはならない。 ひ た す ら 命 に



d
ては、社会資源も少なかった。社会資源をたくさんつく 対して奉仕していく、相手の命は阿弥陀の命、 阿 弥 陀 様
れば、 そ れ で 福 祉 が 豊 か に な る 、 人 聞 が 幸 せ に な る と い への御恩報謝として私は尽くさせていただくのだという、
うように考えていろいろな法律をつくったり、制度をつ そういう奉仕の心がなければ、福祉は相手を支配するも
くったり、あるいはさまざまな活動が行われるようにな のになる そして相手を依存的な人間にしてしまう。

2
- 3
ったのですが、本当にそれだ け で い い の か と い う こ と で 福祉は非常に人聞を幸せにする面と人聞を堕落させる
すね。やはり福祉というのはそういう社会資源も必要で 面と 二つ ・あると思います。これから警戒しなければなら
すけれども その社会資源を活用して援助していく人 ないのは堕落する面、 ﹂れをいいますと、福祉に依存さ
主体の問題 そしてさらにその社会資源を幾つかの生活 すような、福祉はやめた方がいいのだ 人間を堕落する
の 中 に 生 か し て よ り よ い 生 活 を 目 指 す 、 クライアントの からいい加減にやめようではないかということに利用さ
主体の問題、 ﹂れがこれから問われていくと思います。 れやすいので ﹂ういう発 言 と い う の は 、 福 祉 の 専 門 職
法律さえつくれば福祉が発展するというのではない はなるべくしないのですが それを伏せたままでは福祉


しろそれを活用していく人聞の側がこれから問われてい が沈んでしまう。仏教福祉はむしろそれを真剣に、人間
きます。仏教が大きな働きをしなければならないのは というものは決してそんな理想的な知性だけで動いてい
るものではない、罪業甚重をみずからやろうとすること でお互いの間で新しい関係というものを創造していかな
もできない や る ま い と 思 って い る こ と も や っ て し ま う け れ ば な ら な い こ と だ と 思 う の で す。
そういう人間というものをしっかりと見つめて、 そ
、7い お手元に﹁浄土宗に基づく共生思想と大学教育﹂(﹁印
う人聞が本当の幸せに至るにはどうしたらいいのか、 度思 偽
T 教皐研究﹂ -第四十六巻第 二号 ) と い う 私 の 論 文

'
-

れは宗教の役割だと思います。科学というのは、人聞の をお配りしてありますが、これの説明は時間もかかりま
欲 望 に 従 って 、 欲 望 の 方 向 へ ど ん ど ん 発 展 し て い き ま す。 すので、省かせていただきますが、私は一年前から、浄
あ る い は 制 度 も そ う で す。 し か し 、 本 当 に そ れ で い い の 土宗が立てた東海学園で﹁共生人間論﹂を担当しており
かということを反省し むしろそれを危険なときには逆 ます。﹁共生﹂ということがいま浄土宗では常識になっ

3-
転させる、転換する働き、これは宗教にしかできない。 ておりますが 一体 ど こ か ら き て い る の か 、 決 し て ﹁ 共

3
自動車でいえば アクセルをどんどんふかしていく に生きる﹂という意味ではなくて、﹁共に生まれ変わ


ピードが高まれば大変快適になるけれども、危険なとき ﹁共生﹂の﹁生﹂は﹁往生﹂の﹁生(じよう)﹂で


に は ブ レ ー キ が 必 要 で す。 ブ レ ー キ は 誰 が か け る の か す。 た だ 生 き る で は な く て 、 生 ま れ 変 わ っ て い く 。 恵谷
宗教の大きな役割だと思います。 先 生 の お っしゃる﹁より高い人格﹂ へと発展向上してい
﹂ういう﹁ 主 体﹂ の 問 題 と も う 一 つ が ﹁ 共 生 ﹂ く。 特 に 異 な る 性 、 気 色 を も っ 人 同 士 の 触 れ 合 い の 中 で



人 間 と い う のは大きく成長していくわけです。


共 生﹂というのは、単なる 人 と 人 と が 仲 良 く 生 き る ﹂の論文の終わりの方で、﹁共生人間論の実習﹂とい
という意味ではなくて、考え方の違う人、 と き に は 利 害 うことを述べているのですが、学生を高齢者施設あるい
関係の違う人 そういう人間同士が集まり合って 糸、、﹂ は障害者施設へ五人ぐらいのグループで四日間あるいは
五日間送り込んでいます。 その間授業を休んで学生は行 ちの働き﹂と﹁縁起の理法﹂というものに着目していた
っているのでが 四日間 五日間、施設の 中 で 障 害 者 と だきました 。 そ れ か ら の 、 あ る い は そ れ へ の 目 覚 め と い
共に生きる、あるいはお年寄りと共に生きる、 ﹁共生﹂ うものが報恩感謝の心として福祉実践の力強い原動力に
の体験をもつことによって生まれ変わっていき ま す。本 変化していくという問題、また、人間主体の問題



当 に 前 の 人 間 と は す っか り 違 う 人 間 へ と 、 人 格 が 発 展 て最後の方にお触れいただきました﹁共生﹂の問題



向 上 し て い き ま す。 こ う い う こ と が 浄 土 教 の 目 指 す と こ ずれも仏教福祉を今後、 私 ど も が 考 え て い く 上 で 重 要 な
ろの人開発展・向上の力、﹁共生﹂ということかなとい ポ イ ン ト に な る ご 提 言をちょうだいいたしたように思い
う こ と を 、 私 は そ う い う 学生の 変化を通して学ばせてい ま す。
た だ い て お り ま す。 したがいまして また後ほど フロアからのご質問、

4
- 3
福祉においても ﹂ういう人聞の変化が必要ではない ご意見をちょうだいしながら、内容を深めていくことが
か。 現 代 の福 祉 で 欠 け て い る も のは 、 社 会 科 学 か ら 出 発 できればと思います。
し て 、 社 会 科 学の 枠 の 中 に 閉 じ こ も っている社会福祉が それでは 一応 お三方 か ら そ れ ぞ れ ご 発 題 を い た だ き
やはり限界にきている それを打ち破っていくのが仏教 ましたので、 ﹂こでお 三 人 の 先 生 方 、 補 足 す る 点 な ど お
社会福祉ではないかと考えております 。 ありかと思いますので 五分程度を目安にして服部先生
以 上 で 私 の発 題を終わ ら せ て い た だ き ま す 。 の方からよろしくお願いいたします。
長谷川 奈 倉 先生 どうもありがとうございました。 私のプリントの終わりの方の 社会福祉の構




奈倉先生からは、特に仏教福祉の原動力として ﹁
いの 造﹂という点ですが 私はどちらかというと マクロな
点から仏教と社会福祉を考えようとしているわけです。 お く 必 要 が あ る の で は な い か 思 い ま す。
奈倉先生、深員先生は必ずしもそうではなくミクロの そ れ で は 、 社 会 福 祉 問 題 と い う の は 社 会 科学 だけでは
面 か ら こ の 問 題 を 考 え て お ら れ た よ う に 思 い ま す。 なくて、仏教は全く関与しないものかどうかということ
も う 一つ、大 事 な こ と は 、 社 会 福 祉 と 仏 教 と の か か わ です 。 孝 橋 先 生 は そんなところにまで仏教は踏み込む
りを考えますときに、 や は り 社 会 福 祉 の 構 造 と い う 点 か も の で は な い の だ と い う こ と を 言わ れ て お り ま す 。 その
ら見る必要があるのではないか 。 こ れ は 大 き く 二 つ に 分 分限をわきまえろということなのです。わきまえること
﹁社会福祉問題の分析﹂ということがまず第一に必 は な い の で す が 、 仏 教 の 中 に ﹁ 知 実 知 見 ﹂と いう言葉が

要 だ と 思 い ま す 。 ﹂の場合に普通は社会科学がそれをす あるのですね 。 ありのままにそれを見るということ。問


る の だ 、 社 会 科 学 の仕 事 なのだと 一般 に い わ れ て い ま す 。 題の状況というものをいろいろな色眼鏡で見るのではな

5
- 3
しかし 一口 に 社 会 科 学 といいましでも、 そ れ に は い ろ できるだけそれに即してものを見るという

- の

い ろ な タ イ プ が あ る の で す 。 ですから どういう社会科 仏教のご如実知見﹂というものの見方というものは



学 か に よ って 分 析 結 果 も 違 って く る わ け で す 。 心 理 的 ﹂に役立つのではないかと思うのです 。
な 社 会 科 学もあれば ウェ l パl の社会科 学も あ れ ば われわれは まず人間と社会とのかかわりの中で生き
あ る い は も っと 広 く 人 間 行 動 学 と か 心 理 学 とか そのよ ております。さらに人間と人間との関係の中で生きてお
つなものも入ってきますので それをどれによ って 分 析 り ま す 。 さらには 一個 人 で も 、 精 神 的 な も の と 身 体 的 な
す る か と い う こ と に よ って か な り 結 果 が 違 う 、 そ れ に 対 も の 、 物 心 一如 の 中 で 生 き て お り ま す 。 これが人聞が生
し て 応 え て い く と い う わ け で す 。 し た が って そ の よ う き て い る 姿 だ と 思 い ま す。 これをそれとして見ていく
つ 問 題 と し て あ る わ け で す。 その辺を押さえて
な点が 一 ありのままに見ていく ﹂ういう見方があるのではない
いわゆる社会福祉的な問題に直面したときに そ
、っ くことはできるだろう。しかしながら その問題に対し

いう側面から見ていくというのは可能ではないか。 てどうこれを実践していくか どう解決していくか




仏教的な見方としてそういうものはあり得るのではない のときの実践指針というものは別なものなのだ ﹂の辺
かということをひとつ思うわけです。 のことを言っておられるのは、社会福祉学者の嶋田啓
それからもう一つは、実践者の主体の育成ということ 郎先生とかわれわれの林霊法先生もそうなのです。仏教
です。社会福祉の問題が明らかになった場合、 その因果 者が一番勘違いするところは、両方ともできるのだとい
関係が明らかになって どのような形でこれを援助して つので むしろ社会科学の結果というものを十分に学ば
いくかということについて、 その援助者を育成する、こ ﹂れを学ばなければいけないということを林先生




れに対して仏教が大いに役立つということは誰も否定し は常に言っておられるわけです。しかし、 そ う い う 社 会

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- 3
ておりません。社会科学者も十分それを認めております。 科学的に分析した結論に対してどうそれに応えて実践し
ですから、実践者のあり方なのですが、実はこの場合で ていくかということは、これは別なのです。 つまり、仏
も、実践規範の問題 先ほどいいましたように、孝橋先 教的な倫理に従って実践していくことが大事なのです。
生の場合は、社会科学の法則に従って そこから出てく ですから、同じ社会福祉の問題として、実践倫理、規範
る指針に従って実践していくことが社会福祉のあり方だ というものがかなり違ったものがそこにあるということ
と言われるわけです。だから、実践規範、実践指針とい を一応心得ておく必要があるのではないか。
うものは社会科学から出てくるのだというわけです。 その背景に何があるかというと それは人生観の問題
ところが社会科学者の中では そうではないのだ、社 なのですね。科学的・合理的な人生観に立つか、宗教的
会的な問題というものは社会科学で分析して解明してい -仏教的人 生 観 に 立 っ か と い う こ と が 出て くるわけです。
で す か ら 、 わ れ わ れ は 仏 教 的 ・宗 教 的 な 人 生 観 に 立 って ですから、浄土宗で申すお念仏とは 一番は っきりし
この問題に対処していくことが必要ではないかというこ ているのは、鎮西上人の ﹃
末代念偽授手印 ﹄ の序文です
と で す。

以 上 で す。 ﹁念偽とは 昔の法蔵菩薩の大悲請願の筏
今の弥陀覚王の広 度衆 生 の 船
長谷川 ありがとうございました 。 (念仰とは ﹂れすなわち 菩薩 の利益衆 生 の約束
それでは深貝先生 お願いします 。 ﹂れすなわち知来の平等利生の誠 言
も っとも渇もしきかな

7-
念仏を申して何になるやということですね 。 ﹁
南 もっ とも真なるかな﹂

3
無阿弥陀仏﹂というのはどういうことだ、春の田んぼで ﹂れが 一番は っき り し て お り ま す 。
蛙が鳴いているのと同じである、牛がもうもうはえてい 念 仏 と は 昔 の 法 蔵 菩薩 の 大 悲 請 願 の筏である 。 あれは
ると同じで 、何 に も な ら ん、法然上人の教えをわか つて 人を乗せます 。 今 の弥 陀 覚 王 の広度衆生の船であ った。
く だ さ ら な い 方 は そ う お っし ゃる わ け で す。 覚王 は仏ですので 阿 弥 陀 仏 の 広 く 衆 生 に渡すという約
浄 土 宗 で い う お 念 仏 と い う の は 、 浄 土 宗 以外の 、特に 束の船であるとお っしゃ っている 。 ですから、念仏とは
通 仏 教 で い う よ う な 念 仏 で は あ り ま せ ん 。 通仏教で 言う すなわち菩薩の利益衆生 の約束である 。衆 生を必ず救お
念仏というのは﹁南無阿弥陀仏﹂、自分で申す念仏であ うという約束である 。 これすなわち如来仏の平等利 生 の
って ﹂れは 一番 も と っております 。 そんなことで往生 誠言 である 、 真 実 者 の本 当 の言葉である、 それを 信ずる
とか、悟りが得られるとか そういうことはありません 。 以 外 に な い わ け で す。 最 も 渇 も し き こ と 、 最 も 頼 り が い
のあること、 ﹂れがお念仏なのです 。 本願のお念仏とい 心が向くことである ﹂のようにお っしゃ っております 。
、つのは そ の よ う な 阿 弥 陀 様 の 約 束 な の で す。 だ か ら ﹁阿弥陀仏というは、すなわちこれその行なり﹂
お念仏申すということは、約束の船に乗せさせていただ これは南無の心がそのままこれに出たことである 。 願
くことであ って
、 自分の力で向こうに渡ることではない と 行 、 真 と 行 、 こ の 関 係 で す。
わ け で す。 ﹁この義をもっての故に 必ず往生を得﹂
だから、私もきょう、京都駅で走って、新幹線の切符 そういう関係だから 必ず安心が得られる 必ず往生
を 買 って 飛 び 乗 り ま し た け れ ど も 、 東 京 へ 新 幹 線 が 運 ん ができるとお っし ゃ っ て お り ま す 。 ですから、鎮西上人
でくれました 。 お 念 仏 と い う の は や は り 乗 せ て い た だ く は わ れ わ れ 、 浄 土 宗 僧 侶 に こ う お っし ゃ っ て い る の で す 。

8-
ことですから、 阿 弥 陀 さ ん の ご 本 願 に 随 順 す る こ と で あ これは浄土宗門人として宗教的に世の中の人を 幸 せ に 導

- 3
ります 。 ですから 絶対安心の船であります、幸せの船 くという、 そ う い う 役 割 の 形 で あ れ ば 、 念 仏 の 自 信 教 人
であります。往生は約束せられておるのであります。 信以外にないわけです。法然上人が四三歳のときに
﹁南無阿弥陀仏﹂という 言 葉 自 体 は 、 こ れ も 釈 迦 に 説 ﹁今日に 至 る ま で 、 自 行 化他 に 進 む べ き も の で あ る ﹂と
法ですが、善導様が次のように 言っ ておられます。 お っ し ゃ っ て い ま す 。 鎮西上人は
﹁南無というのは、すなわち帰命 またこれ発願回向 ﹁
至誠 心に住して念仏を修して、往 生を志す人は




の義 ﹂ れはこれ、大乗の行者なり﹂
﹁南無﹂というのは﹁帰命﹂なのだ、 全身 全 霊 全 部 預 け 浄 土 宗 門 人は大乗 の行者である。
き っていいのだ 預けることである。またこれ、発願回 ﹁自行化他に進む べ き も の で あ る 。 自 信 教 入信 す べ き
向である 。 いままでよそにい っていたのが、阿弥陀様へ ものである ﹂
とおっしゃっています。 めに尽くしているのことはまた自分のためである



﹁大乗とは自行化他をも って 菩 薩 の 大 乗 の 行 と す 。 こ ため 人のために尽くすことがまた自分の往生を来すと
の念仏をも っては、自他の往生の功徳に廻向すべし﹂ いうことになる、 そういうことですので、浄土 宗 僧 侶 と
自 分 だ け 一人占めではない 。 みんなに振り向けることに お勤めをし そういうことをいたすとも


よ って功徳になるのだ 。 そ れ が ﹁ 廻 向 発 願 心 ﹂ と い う 心 ﹁たとい講用の念仏なりとも雄も 、 自 他 と も に 往 生 の
でもあるのだとお っしゃ っています 。 だ か ら 、 礼 讃 な ど 因となる﹂
﹂のようにお っし ゃっ て い ま す 。 大乗韮口薩の行者である
﹁並国 ・・・同得往生﹂
為師祖父母・・ ・ という点ですね 。 こ れ は 後 ろ の 方 に 関 係 さ せ て い た だ け
とありましたね 。 ば、まことにぴ った り で は な い か と 心 得 る 次 第 で あ り ま

9
3
﹁あまねく師僧を父母と同じ往生をせしめんがために﹂ す。 そ う で な い と
﹁もししからずんば小乗偏執自調自度の失を招かんか﹂

﹁願わくば、諸々の衆生とともに無 量 寿 国 に 往 生 せ ん L とお っしゃ って い る わ け で す 。
とお っしゃ って お り ま す ね 。 だから、 以上、感じたまでを申し述べさせていただきました 。
﹁いわんやまた大乗の意は初心の行より ﹃
化功帰己 ﹄
と習うなり﹂ 長谷川 ありがとうございました 。
大乗菩薩行というものは 出発点から スタートから それでは奈倉先生 お願いします 。
化 人を導くことが自分の本来のあり方であり、教化

の付属という のは自己に 全 部 帰 す る も の で あ る 、 人 の た 奈倉 お 念 仏 が 般 若様 の お 力 で さ せ て い た だ け る と い う
﹂とは、実際を念仏を申していくうちにだんだんと目覚 ただいて、この世で生きていくのだよということでお話
め、自覚されてきます。ですけれども、念仏を申したこ をしてまいりました。
と の な い 人 に そ れ を 言 っても、 そ れ は 何 の こ と か わ か ら 念 仏 も ま た ア ミ タl ユスのお力でさせていただく 。




tdL
六 して私たちの心を聞いてくださる、自分が自分だけでは
現に私はいま﹁仏教概論﹂を担当しています。偽教大 ない、大きな命の、縁起の理法によってつながっている
学のように 仏教を目指してこられる、 僧侶になろうとい 天地万物とのつながりをもった聞かれた命ということに
う人にお話をするのと違って、在家の いままで仏教な 目覚めていく お釈迦様は目覚めの宗教として仏教をお
んて聞いたことがない いや、あれは迷信だなどと思つ 説きになられたという、法然上人もひたすら念仏せい
ている、 そ う い う 人 た ち に 仏 教 の 話 を し て い く 。 そ れ に 念 仏 す る 中 か ら 目 覚 め が く る よ と お っしゃ っている 。

0
4
はやはり仏教用語を使わないで話していかなければなら 現代はなかなかその念仏ということをお勧めしてもし
ないのですね。 ていただけない 。 そ こ で 私 は ﹁ い の ち の 働 き ﹂ │ │ 現 に
私は﹁いのち﹂ということ ﹂れは自分が勝手につく 私の心臓は動いている、 それを私が動かしているのでは
ったものでもな い 生まれようとして生まれたのではな ない、寝ても覚めても心臓が動いている ﹂れは大いな
ぃ、また、死にたくないと言っていても、 やはり死ぬと るいのちの働きの一つのあらわれとして生きているのだ
き が 来 れ ば 死 ん で い か な け れ ば な ら な い 。生 身 、 す べ て よ と 申 し 上 げ て お り ま す。
私を離れて、与えられてくるものだ そのもとは大きな 生命の 一番 の 特 色 と い う の は 、 自 発 性 、 協 調 性 を も っ
﹁いのち﹂の流れがある 。 こ の 大 い な る 命 の 流 れ を ア ているということですね 。 物というのは、外から力が加
ターユスという 。 このアミタl ユスから私たちは命をい わらなければ動きません 。 生命は自ら分裂したり



し 、 老 化 し 、 死 ん で い く と い う 自 発 性 を も って お り ま す 。 近 代 科 学 の 上 に 立 った医学に基づいて患者さんの治療を
し か も そ れ が 自 分 だ け が 勝 手 に 動 く の で は な い 。 たとえ し て い る わ け で す が 、 近 代 医学 のも っている限界という
ば右手が成長するときには左手も成長するという協調性 も の を し っか り 踏 ま え て 、 仏 教 思 想 に 基 づ く 本 当 の い の
をも って 生 命 は 常 に 調 和 を 求 め な が ら 発 展 し て い く 。 ち の 医 療 を 目 指 し て い く 。社会福祉もまた いのちの社
調和を求めて協調していくということと、自発性をも 会福祉へとこれから発展していく そのよりどころを与
っていること の 二つ を 踏 ま え て 社 会 福 祉 も 進 め て い
﹂ え て く れ る の が 仏 教 で は な い か と 思 い ま す。
か な け れ ば な ら な い だ ろ う と 思 い ま す。 繰り返しになりますが いのちの働き、縁起の理法と
西欧から入 って き ま し た 近 代 社 会 福 祉 と い う の は いうものを踏まえた新しい社会福祉を構築するのが仏教

西
洋近代思想の上に成り立っているわけです。それは因果 福 祉 の 役 割 で あ る と 考 え て お り ま す。

1
4
論に立 っています 。 私 た ち は 縁 起 観 、 仏 教 は 因 果 論 を 超
えた、もっと幅の広い、物事の関係性ということを非常 長谷川 どうもありがとうございました 。
に重 視 し て い ま す 。 ですから 社会福祉でも、援助する 諸先生方からそれぞれ補足を含めて貴重はご発表をち
人、援助される人、福祉の対象者という考え方を ょうだいいたしました 。


はかりの考え方としては大切にしなければならないけれ O分 ほ ど 休 憩 を い た し ま し て
﹂こで 一 そのあと


それだけではだめで そ う い う 近 代 科 学の ものの ロアか ら の ご 質 疑 等 を ち ょ う だ い し た い と 存 じ ま す 。 そ

見方では行き 詰 ま る と い う こ と を 知 って
、 それを超えて の 際 に は い ろ い ろ な 観 点 か ら、 ご 質 問 な り ご 意 見 を ち ょ
いくことがいま求められてきているのではないかと思い う だ い で き れ ば 幸 いです 。
ます 。 科 学 を 無 視 し ろ と い う わ け で は な い 。 現に私は、 ひとまず、 先生方、 ど う も あ り が と う ご ざ い ま し た 。
止』

東 洋 大 学 ) 三人 の 先 生 か ら 非 常 に 貴 重 な お 話 を
恩田 (
'

長谷川 それでは再開させていただきます。 ありがとうございました 。


質疑応答に入る前に会場の皆様方にご案内申し上げて 私 は そ の お 話 に 対 す る 一つの 所 感 と い い ま す か そう
おきたいと思います。 いうことを披漉させていだきます。
実はきょうには間に合わなかったのですが、前回の偽 そ れ は ま ず コ ニ心﹂ の面に関してですが それはすで
教大学で行いました仏教福祉に関するシンポジュウムの にほかの先生方にもお話しいただいたと思うのですが、
記録については総合研究所で発行しております﹁仏教福 そこからお話ししたみたいと思います。
祉﹂ の 第 二 号 に 掲 載 さ れ ま す 。 そ し て きょうのシンポ まず﹁至誠 心
﹂ ですが ﹂れは服部先生が述べられた

2
- 4
ジュウムについては、来年のい ま ご ろ 、 発 刊 予 定 の 第 三 と思いますが これはあるが ま まの 心 で 一生 懸 命 、 自
号に収録させていただく予定です。 分でよこしまのない心だということなのですが ﹂れは
﹁無生法忍﹂ いわゆる悟 った 立 場 か ら い い ま す と


ζ


仁ヨ

は知実知見 、 あ る が ま ま の 心 で 至誠心でもあります。
長谷川 それではただいまからフ ロア の 皆 様 方 か ら ご 質 それは 一応 、 仏 教 の 出 発 点 で は あ る け れ ど も ﹂れは
司J
:
Fl ご意見等ちょ、 7だ い い た し た い と 思 い ま す 。 恐縮で 要するに仏教の究極の内容で浄土教では﹁無生法忍 ﹂ と
すが、 そ の 際 に は 記 録 の 関 係 も あ り ま す の で 、 ご 所 属 と 回っておりますが
一 ﹂れはまさしくそのとおりだと思い
名前を最初に 言っ て い た だ れ ば 幸 い で す 。 ます 。
それではどうぞ 恩田先生。 それで奈倉先生がの ﹁
自己 一致 ﹂ と い う の は ロ日
ンャ
ース先生の体験と意識が 一つだ ﹂れは矛盾がないとい っき り き
うことで、これは私は非常にカウンセラーの態度として ﹁南無阿弥陀仏﹂というのは、結局、 仏様がいれば、
大 事 だ と思うのですね 。自己 一致 と い う の は ま さ し く 無 阿弥陀様がおまえと一緒なのだということで それがす
心であり 至誠心なのですね 。 そ の と お り な の で す 。 こ べてを接取するという法がすべてにあらわれている 。
れは一番大事なところだと思います。 そ れ か ら も う 一 つ は 、 仏 様 は 確 か に あ な た と 一緒 に そ
二番目の﹁深心﹂ ﹂れに対して意見があるのですが こに行きたいのだ、 その心がお任せする心、﹁深心﹂に
先生は故意にお説きにな ったのでけれども、 やはり本願 な っていくわけですね 。 要するに 凡夫からいえば 可phM
a
を信ずるというか、 皆さん、 それからいえば、これはお 南 無 阿 弥 陀 仏 ﹂ なのです 。
弥陀様は 一つ、これが ﹁
任せする心ではないかと思うのです。 要するにすべてを そ れ が 奈 倉 先 生 の い わ れ た ﹁ 共 生 ﹂ な の で す 。 この論

3
4
無 に し て お 任 せ る す る 。要するにこれをお任せできると 文を読みますと、﹁共生 ﹂ よ り ﹁ 共 存 ﹂ な の で す ね 。 こ
いうのは大変なことな ので、人を 信 ずるということはな れはカウセリングでも心理療法でも セラピストやカウ
かなか容易ではないわけです。 お任せするという心は、 ンセラl がクライアントと 一緒にいるというシェアする
安 心 が で き る わ け で す よ 。 この人だったら間違いない と こ ろ に よ って ﹁ 安 心 ﹂ が 得 ら れ る わ け で す。 ﹁シェア﹂
これは子どもの親に対する心ですね、 浬繋の心、懐に抱 というのは共にあるということです。 そこに居るという
かれ、赤ちゃんが無心にお っぱ い を 飲 む 、 こ れ は 阿 弥 陀 ことです 。 そこに今度は﹁共に 生き る ﹂とい う ことが あ
様 の 心 で す 。あのお任せする心、すべてを託してしまう、 って それで最後に先生がいわれたマイルド 治癒する
﹂れが私は ﹁深心﹂ の心だと思 って い ま す。 成長する 、 創 造 す る 、 展 開 す る と い う と こ ろ に 出 て く る
そしてそ の説 明 は ﹁廻向発願心﹂にある、これはは わけです 。 そ の 存 在 は 共 存 だ と 思 う の で す。 ここに 居 る
のだ 心だけでも﹁安心﹂が得られるわけです。これこ 長谷川 どうもありがとうございました 。 た だ い ま の 恩
そ 一番基本で、浄土教の 一番大事なところはここにあ 田 先 生 の ご 意 見 、 奈 倉 先 生 の 先 ほ ど の コ ニ心﹂について
ると私は思うのです 。 の説明との関連もありますので、奈倉先生 お願いしま
そういう商からのものは﹁ 三 心﹂の中にすべて含まれ す。
て い る と 思 う の で す 。 こ の よ う に 私 は 見 て い る の で す。
実は﹁共生﹂の問題では カウンセリングでは﹁共 奈倉 恩 田先生 の 方から 専 門家の 立 場でコ 二心﹂をカウ
シ ン パ シ ー と い う わ け で す 。 いわゆる﹁共に感じ ンセリングの三つの柱に通じるということをおっしゃ っ
る 感
L

﹂れが実はアイデアの慈悲なのです。こういう心 て い た だ い た わ け で す。 ﹁
至誠 心﹂は﹁自己 一致 ﹂ と か
L

なのです 。 思いやりですよ 。 いまの若い子に思いやりが ですね 。大変ありがたいと思います 。

- 44
あるなんて ﹁共感﹂﹁愛﹂﹁慈悲﹂ ﹂んな大事なものが それで﹁深心﹂、結論として﹁お任せ﹂ カウンセリン
全部﹁三 心﹂の中に出てくる お念仏の中に全部出てく グでいいますと﹁無条件の肯定、信頼﹂といくわけです
るわけです 。 が、そこにいく過程というものが実は浄土教で非常に大
﹂ういうことが社会福祉の思想で、最後の ﹁廻向発願 事で、二種深心ですね 。深く人を顧みて、罪業忍従のじ
共存・共生の心 ﹂こに仏教福祉、 いわゆる浄土 ん、救われがたき私、救われがたき私を救 ってくださる
'
L
.

L

教における福祉の思想があると私はみたいと思います 。 仏様がある、﹁ああ ありがたい﹂ ﹂ういう仏様なら 全


勝手なことを申しましたが、私はそのように考えてお 部お任せしようという だから 、-J-
JJJJ 阿弥陀様にお
ります。 以上です。 任せしないと 言っ ても お任せできないのが凡夫の私た
ちで、 そこにいくためには、まず自己を深く省みる、 己
の深心、 そしてこうの深心、これは 二 つに分けるもので いま、世の中で﹁共生﹂と 言 わ れ て い る も の の か な り
はなく一つにはなるのですが、 わかりやすいいえば、 多くが﹁共存﹂なのですね 。二 つのかかわるものがなれ

ういうプロセスを経て、大きなコンバージョンをしてい 合いで何とかなるということでやっていく、利益が共通
く。浄土教もコンバージョンを目指していますし、私も だから一緒にやりましょう、こういうのは﹁共存﹂だと
京 大 病 院 で ず っと カ ウ ン セ リ ン グ を 毎 週 一回お年寄りに 思うのですが、共生というのは、 むしろ利 害 相反するよ
聞いてきましたが やはりカウセリングで大事なのはコ つなもの あるいはお互いに緊張関係をも つようなもの
ンバージョンだと思います 。 の中か ら お互いが自己を変え、他者も変わることによ
それから﹁回廻発願心﹂、共存 ・共 生 と い う こ と を お って新たな調和関係が生まれてくる、仏教の﹁浬般市寂

5-
っしゃ っていただいて、私、大変ありがたいのですが 静﹂というのはまさにそうなので、 ﹁浬繋﹂という のは

4
た だ ﹁ 共 存 ﹂ と い う 言 葉は、私の勝手な理解かもしれま そんなに簡単に安らぎまでくるわけではなくて いろい
せんが、何か独立したものが 二 つ並んでいるのが ﹁
共 ろなプロセスを経ながら、最後に到達していくものだと
存 ﹂ の よ う に 思 う の で す 。 ﹁共生﹂というのは、 むしろ 思 い ま す 。 そういう意味で、 カウセリングは﹁共生﹂だ
縁起の存在として 互いに入りくみ合って、我あ って他 とお っしゃる 。
他あ って我ありという相互関係の中にある 私はカウセリングの柱といえば ﹁共感的理解﹂は


σ


相 互 関 係 の 触 れ 合 い の 中 で 、 自 分 が 変 わ って い く 相 手 ﹁回廻発願心﹂に通じると思います 。
も 変 わ っていく、弁証法的に発展していくのですが 専門家からそのようにお っしゃ っていただいて大変光


ういうものが﹁共生﹂、 共 に 生 ま れ 変 わ る こ と で は な い 栄 に 思 い ま す 。ありがとうございました。
かと思います 。
長谷川 どうもありがとうございました。 る寛容性みたいなものを生み出したりとか、あと生かさ

三心﹂ の解釈を、特に関係性の中で専門的なご見解 れているという自覚とかを生み出すものだと思うのです。
をそれぞれお示しいただいたわけですが、 ほかに何かご 浄土宗的な立場からい、えば、 凡夫が凡夫にかかわ ってい
質問ありますか。 くことになると思うのですが、 そういう点から考えると、
﹁悟り﹂の仏教としての﹁仏教福祉﹂というものと


曽根(大正大学総合研究所) 実 は 大 学 の 研 究 所 の 方 で れから﹁救い﹂ の仏教としての ﹁仏教福祉﹂という もの
四年ほど前から、臨床仏教学研究会というのをやってい の方向性の違いみたいなものが‘もっと私はあってもい
ます。 私は別に福祉は専門ではないのですが それでち いのではないかという気がしているのですが、 その辺の

6-
ょっとターミナルケアとかを中心にやってきたのですが、 ご意見を聞かせいただきたいと思います。

4
そこで﹁福祉﹂とか ﹁
看護﹂とかに関する本も読むこと
になったのです。 長谷川 深貝先生 どうぞ 。
そこですごく感じたのは﹁人間観﹂といいますか
﹁凡夫観﹂といいますか つまり、物付属の凡夫という 深貝 ﹂承知のように、仏教は成仏の教えと往生の教え
か、私であるというような、 そういった問題というのが がございますね。それは浄土門の立場で、法然上人によ
すごく希薄なのだなというのが、私も宗学をやっていた って初めてはっきりとせられたわけです。それは九夫が
ものですから、すごくそういうことを感じたのですね。 弥陀の方土に生まれることはできるのだ、真実の世界に
そこで、深貝先生と奈倉先生にお伺いしたいのは いくことができるのだ、こういうことですね。それが阿


f
とえば、人聞の九夫の自覚というのが他者の弱さに対す 弥陀仏にすがることによって 一心にお念仏を唱えてそ
れが叶うのだ そういうことですね。 正しい動きはそういうことですので 一念に 一度の 往
われわれの立場としては、対機の浄土教を自信教に さ っき 出 て き て お り ま し た け れ ど も 、 念 念 不 拾 の


任する以外にないわけです。相手の程度に応じて お 念 仏 も 、 皆 往 生 と し て は 決 定 す る 声 で あ り ま す 。要 は

は条件の立場からいろいろな影響を受け、帰己ほうげん、 そういう立場において、念仏の﹁自信教人信﹂﹁自行化
相手相手に応じて相応しい念悌の教えの説き方というも 他﹂ということ、 そ れ 以 外 の こ と は な い 。 ﹁
三 心﹂とい
のは考えられねばなりませんけれども、要は、念併の信 いましでも、念仏のための 三 心││﹁ 三 心﹂ということ
仰 を 示 し て い か な け れ ば 浄 土 宗 の 立 場 に な り ま せんね 。 を 中 心 に 申 せ ば 、 諸 行 に も 通 じ ま す け れ ど も 、 まずは本
浄土宗は念仰を相続していくという それが浄土宗であ 、 そ こ に あ る わ け で す 。 その上で心行具足とい
願の 三 心
りますからね。それは頭で考えることではない 。 鎮 西 上 う こ と で す。 そ れ で 浄 土 宗 の 宗 義 、 信 仰 と い う こ と に な

7
4
人の 言 われるように頭で考えてだめな仏教は、 三 心だけ るのです。 それを自信教にしている それがわれわれの
の仏教だったら そ れ は 浄 土 宗 の 教 え で は な い わ け で す。 立場である、 ﹂のように思います 。
鎮西上人はそれは安心門だとおっしゃっている。そうか
とい って 、 ぎ ょ う ま に 偏 ってもいけないのです。﹁南無 奈倉 仏 教 二五O O年 の 歴 史 の 中 で 、 行 者 と し て 自 ら 理
阿 弥 陀 仏 ﹂ と い う 言 葉が、﹁安心 L ﹁起行﹂、 心 と 行 が は 想的な自分を追求していく 。 そして多くの人がその行者
っき り と か ね 備 わ っ た も の で す 。 ど ち ら に も 偏 し て お り に対して帰心をしていく いわば非常に恵まれた状況の
ま せ ん 。信 行 具 足 と い う こ と で 貫 い て お り ま す 。 だから 中での僧侶というのは、 やはり理想化された自分なり、
こ ネ ¥ 往生も 可 能 、 成 仏 も 可 能 と い う こ と に な っ て い く 自分の中に仏性を見い出していくということがあるでし
のですね 。 ょうけれども そのままでは結局、 そ う い う 仏 教 、 特 殊
階級の仏教にとどまると思うのですね。それが振り返 っ るかもしれませんが 仏教の一般化が進んで 一般 に 広
て、現実の自分に目を向けて しかもその現実の自分と が ってい った わ け で す 。 そ の よ う に 法 然 上 人 が 大 転 換 を
いうのは生きるために働かなければいけない 殺生もし なさ った。 も ち ろ ん そ れ は 阿 弥 陀 様 の 教 え に よ って法
なければならない、 ときには自分が生き残りために人の 然 上 人 様 が そ れ を 私 た ち に 伝 え て く だ さ った わ け で す 。
ものを奪うという、 そ う い う こ と を 現 に し て し ま う 自 分 だから聖道門的な福祉、念仏の福祉というようには私
というも のを見たときに そんなきれいごとの仏性あり は思わなくて、本 当 に生きていく福祉というのは、念仏
ということでは済まされない 。 そ こ か ら 私 は 浄 土 教 、 念 によ って 進 め て い く 福 祉 で は な い か と 思 い ま す。 聖 道 門
仏の教え 罪業深重を深く書いてみて そのような私で 的 な も の 、 悟 り の 仏 教 は い わ ば 一つの そこに至るため
すら救 って く だ さ る 弥 陀 な の だ な あ と 言っ たときに初め の準備段階みたいなもので、本 当 に生きた自分の仏教と

- 48
て蘇 っていくという、この念仏の教、えが生きてくるし いうときには、主体的に仏法を受け止めていけるのは念
もちろん、 ﹂れはお釈迦様が説かれたわけですけれども 仏 の教 え で は な い か 少 な く と も 私 は そ う で あ った と 思
﹂の現実 の世界の中に浄 土教 、 特 に 法 然 上 人 の 念 仏 の 仏 います 。聖 道 門 的 な 仏 教 信 仰 を も って い た と き に は 非 常
教 と い う の が浮かび上が って き て い る 。 そ れ が 在 家 仏教 に観念的であ って、念仏 の教えに触れて、 初めてそれが
にもな って い く つまり、僧侶という特殊な人ではな く 自 分 の実 践 に 生 き る よ う にな ってきたとい う 体 験 を も っ
て、現に働く人、 世 の中 で 下 積 み に な っている人も仏教 ていますので、 発 展 段 階 と い う よ う に 私 は と らえ て い き
信仰がもてるという、こ う いう仏教の大革命が法然上人 たいと思います 。
のところで起きていると思うのですね 。その法然上人を
モデルにして、 そうい って は 他 宗 の方 か ら お 叱 り を 受 け ちょ っといいですか 。



うものを阿弥陀様が救ってくださるのだという そ、つい
長谷川 どうぞ。 う こ と を 本 当 に 心底 、 感 じ た と き に つまり廻心だと思
うのですね。そうしたときに、私は、今度は自分が何か
いまの問題はこのように考えたらどうでしょうか 。 の形でそれに報いなければいけないのだ、仏恩報謝とい

やはり私は実践者主体を育てる上げるのに仏教は有効 うことでしょうね 。 そういう形で実践をしていく。自分


だ と 思 う の で す 。 その場合に 一般には大乗菩薩の行と が力をも ってどんどんや って い く の で は な く し て 、 救 わ
いう形で、菩薩行をする それが実際に福祉という形で れたとき その喜びを今度は社会のために何らかの形で
展開をしていくのだという考え方があるわけですね。こ 生かしていく。 九夫 で あ る 自 分 は 非 常 に 限 ら れ た も の で
れ は ご く 一般 的 な 考 え 方 だ と 私 は 思 い ま す 。 それほどま あろう。 し か し 、 何 か そ う い う こ と が や っ て い け る 、 こ

9
4
でに人間というものを律して、きちんと人のために働い れ が 仏 が 私 を 救 ってくださった その恩返しである、こ

自行化他﹂であり ﹁
自 利 利 他 ﹂ の行、菩薩行とい の よ う に 考 え た ら い か が か と 思 い ま す。

う形で展開していると思うのです。 わななべゅうき先生は どちらかというと 四恩の中


ところがもう 一つ、私は 言 えると岡山うのです 。 社 会 福 の衆生恩に報 いるのだということを 言っ ておられますが、
祉の実践に当たっては、これを ﹁
報 恩 行 ﹂ として押さえ ﹂れは一番わかりやすいことですね 。 も ち ろ ん そ う な の
る押さえ方です。 です。私は総合的には、 や は り そ の 衆 生 恩 は 結 構 で す。
私は浄土教はどちらかというと、 そ う い う 形 で 押 さ え 四恩、すべていいと思うのですが、 やはり救われがたい
た 方 が わ か り い い の で は な い か と 思 い ま す。 先ほど来、 自分、救われがたい凡夫、 それを救 っていただく仏に対
出ておりますように 、 自分の力では救われない自分とい して、 そ れ に 報 い て い く と い う 形 で 実 践 を し て い く と い
うように受けとることができるのではないかと思います。 ま す。
そういうこともあって、私もあえて救いの仏教として
長谷川 あ り が と う ご ざ い ま し た 。 ご質問いただた曽根 の福祉と 言っ たのは どうしたらものの具足の私たちと
よろしゅうございますか 。 何 か も し 、 さ ら に あ り いう概念が、 共 通 概 念 と し て そ う い う も の を 出 発 点 に 置

ましたらご遠慮なく どうぞ 。 けるのかなというところがいまわからないものですから、


そ れ に 少 し ご 示 唆 を 与 え て い た だ け れ ば と 思 って質問さ
曽根(大正大学総合研究所) ど う し て そ う い う 質 問 を せ て い た だ い た わ け で す。
したかと申しますと つまり たと、えば、私は福祉の方
より医療関係者とお会いすることが多いのですが たと 思田(東洋大学) ちょ っとよろしいですか 。

0
- 5
えば﹁九夫﹂というようなことを話すときに、 共 通 の 概
念 と し て そ れ が 作 用 し な い と き が あ る の で す ね 。 つまり 長谷川 どうぞ 。
私たちは浄土宗で 人聞は凡夫ですよとい う の が 人 間 観
として当たり前のように思 っていますけれども そうい 思田(東洋大学) 私 は 心 理 療 法 臨床心理 学 とかカウ
うものを投げかけたときに、 た と え ば そ れ は 人 聞 を 官漬 セ リ ン グ の 仕 事 を や っているので いまおっしゃってい
している見方だ、 人 間 と い う の は 、 常 に 本 質 的 に 自 立し ることが非常に大事なことだと思うので、 ち ょ っ と お 話
ているのだから、 そういう考え方はおかしいというよう しさせていただきたいと思います。
なことを 言 わ れ る こ と が あ る わ け で す 。 そうすると、 まず、 九 夫 と い う 一つの 意 識 は い ろ い ろ な 面 か ら 見 て


﹂から先、 話が進まなくな って し ま う よ う な 場 面 が あ り 断言 は で き る わ け で す。 凡夫だけの意識では、自覚では
だーめんなどは出てこない 。 たとえそこに仏教のいろい えましょうというけれども ﹂れは仏教界で一番正当だ
ろの問題、仏性ありというものは、自覚がある人、ない ったのは そ の 人 が 手 を 握 って あ げ る こ と な の で す よ 。
人、それが活動しているからあるので それで結局、 高 見 順 と い う 人 が 亡 く な っ た と き に 、 中 川 宗円という

のわれわれのいう浄土へお念仏という形で往生させてし 臨済宗のお坊さんがそばにいて、私がそこにいる、ある

宇品、
つ。 人は﹁ 一緒 一緒﹂というけれども、 そ ん な 言 葉 は 要 ら
その場合の大事なことは いずれも﹁凡夫﹂ だという な い の で す 。手を握って、 そ こ に い る だ け で 安 心 が 出 て
﹂とは 凡 夫 の み が あ る わ け で す よ 。 われわれが仏とい くる 。
っても 仏性があ ってもみんな ﹁
凡 夫﹂ なのですから それからもう一つは 生命のポテンシャルが病人とい
そういう商を研究したのが唯識なので その唯識の方の うポテンシャルにいくものですから、共存とか共生、

1
5
相手をするのは唯識をやればいいのですが いまでは臨 こ に 居 る と い う こ と 、 こ れ は 大 事 な ので す よ 、 こ れ が
床心理学とか精神医学とか、あるいはカウンセリングと ﹁
南無阿弥陀仏﹂ の 精 神 な の で す 。 そ れ を 説 く こ と が

し 、、 そ う い う 面 で は 凡 夫 論 と い う の を い わ ば 体 系 的
、っカ a
番 大 事 な の で す 。だから 共感で話を聞くことというの
につかむ、 そ う い う 場 合 に は 先 輩 の 悩 み と い う の は ど う が あ る の で す よ 。 聞 く こ と に よ ってス ペー ス が な く な り
いうものであるか はっきりわかっているから理解でき ますから、非常に楽になりますしね 。
る わ け で す。 つまり理解できていることが いわゆる共 そ し て そ こ に ﹁ 気 づ き ﹂ が あ る わ け で す 。 ﹁そうなん
感 的 理 解 に よ って実は悩みや苦しみが減ずるわけです。 だ﹂と ﹁ あ な た も 私 も み ん な こ れ を 持 って い る ん だ
要 す る に そ こ に 私 が そ ば に い る と い う だ け で で す。 私 だ け だ と 思 って い た ﹂ と い う こ と で 安 心 が 得 ら れ る わ


大事なのは、 その人が安心しているときに、 お念仏を唱 けです 。 そ う い う 気 づ き と い う も の が あ る 。
だから そこに﹁居る﹂ことと ﹁
気づき﹂ ﹂、つい、っ う観点から、宗派宗団を超えて大同団結というか、協力
面が出てくるわけです。 ですから、持っていていいわけ 関係を切り開いていくという場合に、通仏教の基盤の上
です。 ですから、浄土教と言われれば、 そこに悩みがあ に、さらにお念仏という独自の浄土宗の立場を位置づけ
る凡夫が ー ー そ の 凡 夫 の 先 輩 が 悩 ん で い る 、 同 じ 凡 夫 で て い く こ と が 求 め ら れ ま す。
ある後輩としてそこに居ること それは先輩でなくて弟 したが って ま た 、 他 の 宗 団 の 教 説 等 に よ った場合


でもいいのですよ、 そこに居るということによって救い、 うなのかという、 そ う い う 問 題 が 一 方 で は あ る の で は な
安らぎが得られますから、浄土教の教えとしてそれが いかという気もしているわけです。
番いいのではないか そ う 思 い ま す。 そういうことを含めて何かご質問、 ご意見でも結構で

2-
す が 、 あ り ま し た ら ど う ぞ お 願 い い た し ま す。

- 5
長谷川 恩田先生 どうもありがとうございました。き
わめて具体的に、 どういう関わりを持つことによって、 思田 (
東洋大学) もう一回いいですか。
そこに含まれいる問題を解消させていくか、 お話しいた
だきました 。 長谷川 まい 。
、-J- 先ほどの質問者のご意図を考えてみますと、 A1
JJJJ
回のシンポジュウムのテーマは ﹁
祖師の教説﹂というこ 恩田 (
東洋大学) 私 は ね を 聞 き ま し た の で 、 聖 道 門 の
とで、浄土宗の立場からいろいろなご発題、ご意見をい 立場からいいます。
ただいたわけですが ﹂の中にはおそらく浄土宗以外の 服部先生がおっしゃいましたように それはすべて
方 も お ら れ る か と 思 い ま す。 ま た 同 時 に 、 仏 教 福 祉 と い 知 実 知 見 ﹂ な の で す よ 。 これに同州、きてしまうわけです 。

はっきりいえば いま心理療法は、あるがままに││こ それがどうも違ってきているような気がするのです。
れは積極的にですよ。あきらめるのではないのですよ。 だけど それではわれわれの大乗仏教という北伝の仏教
奈倉先生がおっしゃった 共生の中に自立心があると でそまっているために、 そ う い う よ う な と こ ろ を 見 落 と
いうのは全くそのとおりです。 していた面がある。それはなぜかというと、行としてつ
そこが私は一番大事だと思います。実はこれで私は かんでいる。そういう面がひとつあるわけで ﹂れは当
聖道門の勉強して、修行して それで浄土教あたりで非 然 の 問 題 が あ る の で 、 実 は い ま の 瞬 間 瞬 間 に 起 こ ってい
常にいま大事なところに入ってきたわけです。それで大 る現状について気分を集中して聞くというやり方は精神
乗仏教の場合は北伝の仏教で いわゆるシャマタ 療法のやり方です。それでモニターの商は禅かというと


3-
方なので、 ピパサナl (観) という面は いまビルマと そうではなくて そういう観の方のやり方ではないかと

5
かタイとかという浄土仏教のものなのですよ。 そ、つい、っ いう感じを受けて、 実 は こ れ は 学 会 で 私 が 申 し 上 げ て き
面で、 その修行をして、 ビパサナl のやり方とい たわけですが、 どうもそういうような問題があるので、


うのは あるがままの 一つの 瞬間瞬間に起こっている その気づきの問題が大事で、浄土教においてもこういう
現象についてそれにちいを集中して気づいているという 問題もひとつ、 ﹂れから考えないといけないのではない
方がいわゆる観の方なのですよ。 か。本 来 は 止 観 と い う 一つのものなのですが そういう
ところがわれわれのお念仏も お題目も 禅んもそう ﹂とも考えた上で、もう 一度 、 浄 土 教 と い う も の の 今 後
ですが ﹂れはいわゆるシャマタ(止) の方で の発展をわれわれは期すべきかという感じを受けていま


σ


対象を決めて そこに注意を集中していくというやり方 す。まだ、私 わからないことがありますけれども


な の で す。 ういう面が一つあるので ちょうどわれわれが知らない
ためにずいぶんいろいろなことを誤解していたのではな いしたら、 それを﹁共生 L と い う よ う に 日 本 語 に訳して
いかという感じもちょ っとしております 。 も ち ろ ん 、 私 おら れ る 学 者はた く さ ん い ら っしゃいますね 。 共通 言 語
自身の勉強不足や修行不足の面もありますが そんな感 にな って い な い の に 共 通 と お 伺 い し た も の ですから、


じを受けてい ま す 。 以 上 で す。 の同質性と相違性といいましょうか、 それ の関連性に つ
いて教えていただければさいわいです。 また私たちが従
長谷川 ありがとうございました。 来 考 え て い た ﹁ ノ l マライゼ l ション ﹂ ということ


それではいま提起された問題、福祉における人間観と れ か ら 発 展 し て 最 近 ﹁ワl カビリティl ﹂ とか ﹁
インテ
か対象者観にかかわる問題についてはひとまずここで終 グレ l ション L と い わ れ て い る 議 論 で 、 社 会 福 祉 の固有
わ ら せ て い た だ き た い と 思 います 。 性を議論しているわけですが その辺のお考えをち ょっ

4
- 5
それ以外の問題で何かあましたら、ご質問、ご意見等、 と教、えていただければと思います 。
いかがでしょうか 。
お三方 の 先 生 方 どの先生に対しましでも結構ですか 奈倉 ありがとうございました 。
ら、何かご質問ございますか 。 い ま 二 つ の こ と を お っし ゃら れ た と 思 う の ですね 。
ノ l マライゼ l ション ﹂ を 共 生 と 考 え て い い か と い う

(
淑 徳 大 学 大 学 院) 奈 倉 先 生 に ご 質 問 し た い と 思 こ﹀﹂﹀﹂

﹁共生 ﹂ と い う 言 葉 が 非 常 に 多 岐 に わ た って使


います 。 われているということですね 。
私 ど も 、 社 会 福 祉 を 勉 強 し た と き に ﹁ノl マライゼ │ あとの方から先に申しますと、私が ﹃
印度聞学偽教研
ション ﹂ という言葉を教わ った わ け で す 。 きょう、 究﹄ の 方 に 書 き ま し た ﹁
共生の意味 というところで、



L

共生 L という言葉は生物学の﹁印可ヨσ吉 包 ど と い う こ と の段階では必要ではないか、統一するということもでき
か ら き て い る と い う こ と を 言って い る わ け で す 。 これは ないでしょうし またする必要もないのではないかと私
非常にわかりやすい概念なのですね 。 それを社会現象に は 考 え ま す。
まで拡大してきた そ れ が 現 在 で は な い か と 思 う の で す。 次に﹁ノl マライゼ 1 ション﹂ のことですが ﹂れは
ですけれども、 そ れ は や は り お 互 い に 利 害 関係を調整し 西 洋 思 想 に 基 づ く ﹁ノl マライゼl ション L
です 。 これ
合 っ て 共 に 生 き て い る と い う こ と に と ど ま っているよう は 個 か ら 出 発 し て い き ま す。 佃 と 佃 の 関 係 │ │社会とい
に思います。 つのはノーマルなものとアブノーマルなものがあるので
私の論文ですと、﹁仏教における共生 ﹂ と し て 、 椎 尾 はなくて みんなノーマルなのだ たとえば知能を検査

5-
緋匡先生の ﹁共生 ﹂ と い う の は ど う い う も の か 椎尾緋 すれば高い人もあれば、低い人もある それが社会なの

5
匡先生 は ど う 理 解 さ れ た か と い う の を 書 き まして、私は だ と か 、 あ る い は 手 足 が 非 常 に 自 由な人 も あ れ ば 不 自 由
その椎尾説明匡先生の﹁共生﹂に基づいて さらにそれを な人もいる、どちらも同じ人間なのだという そ、ついう
徹 底 し て ﹁ 共 に 生 ま れ 変 わ る ﹂ ﹁ 共 に 生 ま れ る ﹂ という いままでの分けてみていく考え方から、 共 通 性 を 見 い だ
﹂とで使 っております 。 や はり仏教独自の考え方をその 人間の同質性ということから出発して 差 別を乗り



中 に 入 れ な け れ ば い け な い と 思 って お り ま す 。 越 え て い く 考 え 方 と し て 出 て い る と 思 う の で す。
いろいろな使い方があって、 それが共通 言 語にな って 仏 教 の 場 合 に は 個 か ら出 発 し な い で 、 関 係 か ら 出 発 し
、 t、
し 式d b ﹂れはやむを得ないことではないかなと思いま ている 。 縁 起 の 理 法 と い う の は ま さ に 関 係 性 と い う こ と
す。 ですか ら
、 私 は ﹁ 共 生 ﹂ と い う こ と を こ う い う意味 を 強 調 す る も の で す 。個とい う も の も 実 は 関 係 の 中 に 成
で 使 い ま す と い う こ と を 断 り な が ら 使 っていくのがいま り立 って い る ﹁ 個 L なのだという考え方でいきますから、
ノl マライゼ l シ ョ ン ﹂ と い う こ と は 当 た り 前 の こ と
﹁ ヨン﹂と ﹁
共生 ﹂ということについて、申し上げさせて
と し て と ら え ま す か ら 、 ことさら強調しなくてもいい いただきました。もし不十分でしたら、また後ほど


仏教そのものはいいと思うのですね 。 話し合いをさせていただきたいと思います。
-
-
-ィ
- J Jナ J 現代社会では 仏教もかなり西洋思想的なとら
え方をされていきますから いまあらためて仏教におい 長谷川 ありがとうございました 。
てそういう差別を乗り越えていくような考え方が必要に ほかにいかがでしょ、っか。
なってきている ﹁ノl マライゼ l ション ﹂と い う こ と
を﹁共生 ﹂と関連づけて理解していくということも、あ 恩田(東洋大学) い ま の 議 論 で ﹁ 共 生 ﹂ と ﹁ ノ l マラ
るいは必要になってきたかと思います。 イゼ l ション ﹂ の関係について、もう一度説明していた

6
- 5
私は近代思想と仏教思想の違いというものはいつも念 だきたいと思います。どちらでもいいのですが:::。
頭に置きながら、近代思想の限界というもの、仏教はそ というのは、私たちは﹁ノl マライゼl ション ﹂ とい
の鍵を握っているのだと考、えております。だから -アン うのは﹁正常 化 L と い う 言い 方をしているのです 。 要す
マークに私も行きまして、﹁ノ│マライゼ│ション﹂と るにわれわれの日常生活で 子どもでもそうですが


いうことがすごく日常的なものになっているのに非常に 常 に 育 て て い て も 、 皆 ゆ が ん で い る わ け で す 。 心 とか体
感銘を受けました。 むしろ日本ではそういうものが失わ にいろいろ問題があるわけです。それを正常化するとい
れていることが大変残念だなということを感じておりま うことによって治癒が生ずる、治療を行うのですね。そ

。 れで ﹁
正常化
﹂ という言葉を使っているわけです。だけ
ちょ っと明快ではないのですが ノ l マライゼ l シ
﹁ その ﹁
共生 ﹂ と ﹁ノ │ マライゼ│ション ﹂ との関



係ですね、 そ れ は ど う い う よ う に つ な が る の で し ょ う か 。 な面に着目して できるだけ同質性を見い出していこう
ノ l マライゼ l シ ョン ﹂ と い う の は 、 有 名 な 方 が 言 つ
﹁ としている、私はその努力だと思うのですが:::。
ているのですが 名前がちょっと出てこないのですが それを何も正常化して、治療効果を上げる そもそも
お教えいただきたいと思います。 正常、 異 常 と い う よ う に 分 け る こ と 自 体 が 非 常 に 合 理 主
義的であり、功利主義的なもので それが批判されてき
奈倉 パークウィルセンは みんな正常だというように て い る の で は な い か と い う 気 が い た し ま す。
正常という概念の中に全体を包括しようとしたのではな
いと思うのですね。現実には、 た と え ば 知 恵 遅 れ と い わ 恩田(東洋大学) ありがとうございました。
れる人もいるし それから普通に生活をしている人もい

7
5
るという 現実はゆがんで見える、観念化してしまわな 長谷川 京都の会場の方にもお越しになられている方が
いで、 それはそれなのだけれども、 しかし、 そ、ついうい おられますがもしご質問、ご意見がありましたら


ろ い ろ な 人 が い る のが社会なのだという、 そ れ が 当 た り うぞ遠慮なくお願いいたします。
前の社会なのだということですね。だから、異常といわ 差、よ、っ せっかく遠方からお見えになった方もおられ
れるような人がいるのはおかしいというのではなくて、 るかと思い ま す が どうぞ、何でも結構ですので お気
そ う い う の を 含 ん だ の が 実 際 の 現 実 の 社 会 な の で す。 だ 軽 に ご 質 問 い た だ け れ ば と 思 い ま す。
共に生きていく 知能のいい人だけが得をすると


か、知能の遅れている人を人間扱いしないというのは許 奈倉 す み ま せ ん 。 先 ほ ど の ﹁ ノl マライゼ l ション﹂
せない どこまでも人間として、人間の共通性、基本的 のことで大事なことをちょっと言い忘れたので っけ加
え さ せ て い た だ き ま す。 パークウィルセンはどんな人も る と 聞 い て お り ま す。
可 能 な 限 り 同 じ 条 件 で 生 きられ る よ う に し て い く ち ょっ と つ け 加 えさ せ て い た だ き ま し た 。

﹁ノl マライゼ l シ ョ ン ﹂ の 社 会 だ と い う の で す 。 だ
J
1'

から、 た と え ば 知 能 の 遅 れ て い る 人 は 、 あ な た は 遅 れ て 長谷川 ありがとうございました 。


い る か ら 貧 し い 生 活 で も 仕 方 が な い と か 、 仕 事 に は つけ そのほかに何かございますか 。
ないというのではなくて そ の 人 が そ の 人 な り に も って
い る 力 を 精 一杯発揮して、 そ し て 知 能 の こ と ば か り 呈 7 藤森(淑徳大学大学院) 奈 倉 先 生の 方 に ご 質 問 と い う


のもおかしいのですが ほ か に 活 動 し て い る 人 が 幸 せが か、もし知 って い る こ と が あ れ ば お 教 え い た だ け れ ば と
追求できるのと、 で き る だ け 同 じ 条 件 に も っていく 。 だ 思います。

8
- 5
か ら 、 身 体 が 不 自 由 で あ ったら その不自由さを乗り越 椎尾緋匡 と い う 人 物 に 私 も 興 味 が あ る の で そち らの
えるようないろいろな援助というものを提供して 人 物 研 究 を テl マ に と い う よ う に 考 え て い る の ですが、



てご本人が身体の不自由きということを忘れられるぐら ﹂ちらで見る限り 椎 尾 緋 匡 の﹁共 生 L というものは
いに条件をできるだけ近づけて生活していこう、 そ、つい 教 化 運 動 と い う か 、 修 養 運 動 と い う 部 分 に のみ止ま った
う こ と を 理 想 に し て や ってこられたわけで、 みんな 一緒 の か 、 直 接 的 に は 教 化 運 動 だ と は 思 う の ですが、 それを
一緒 だ と い う わ け で は な く て 、 違 い は 違 い と し て 認 受 け て 社 会 的 な 実践 に 何 か 波 及 し た も の が あ る と す れ ば

f
め な が ら 、 違 い が あ る か ら こそ それをできるだけ違い ど ん な も の が あ る のか も し ご 存 知 な と こ ろ が あ れ ば
を人間の力で乗り越えていく そ し て 平 等 に生 き て い け 教 え て い た だ け れ ば と 思 い ま す。
る 社 会 に し て い き た い と い う こ と を 目 指 し て い ら っしゃ
奈倉 仏教思想、縁起の理法をわかりやすくいえば﹁共 仏 教 法 話 だ け を な さ っているのではないのですね。たと
生﹂だとおっしゃるわけですね 。 これは浄土宗だけに限 えば、商人の方が大勢集まられるようなところに行かれ
定したのではなくて、宗派を超えての仏教思想の普及と ると株の話をしたり そういう話に魅力を感じて集ま つ
いうことをなさった。 てくる人もたくさんいたということを聞いています。



共 生 の 結 集﹂ と い う こ と が 行 わ れ た の で す が
-
も、それは単に株が上がるとか下がるとかという現象面
)

J
(
﹁結集﹂には念仏者だけではな くて、 他 宗 の 方 、 あ る い だけではなくて そういうものを通して物事の動く元気
はキリスト教の方 無宗教の方 いろいろな方が参加さ み た い な も の 、 究 極 的 に は そ れ は ﹁ 縁 起 の 理 法 ﹂ に基づ
れるのです。 そ れ ぞ れ の 思 い を も っ て 来 ら れ る 。 そ れ で くのだということを気づいてもらう、目覚めてもらうよ

9-
すべての人に念仏者になれとかというお立場をとられな うな そ う い う お 話 を な さ っ て こ ら れ ま し た 。 ですか ら

- 5
、 一 ・-
. 3 、 そ う い う 仏 教 思 想 普 及 運 動 で あ った と い う こ と 仏教教化ということにと らわれない、森羅万象、あらゆ

刀 ナヘ
をひとつ申し上げたいと思います 。 るものの中に仏教の原理を見いだしていく また、仏教
そ し て そ れ を さ ら に 社 会 実践 それは日々の生活や仕 として追求していくだけではなくて、 天 台 大 師 の言葉を
事を通して ﹁共生﹂ の思想を実践しなさい、発揮しなさ 借りますと ﹁
しせい産業、 ﹂れみな仏教﹂ ﹁しせい﹂
いということを強調しておられます。 ですから、商売を と い う の は 医 療 と か 福 祉 と い う の は し せ い で す。 それか
する人は、商売の活動にあたり、社会事業に携わる人は 産 業 ﹂、 物 を つ く った り 流 通 さ せ た り す る 。 ﹁しせい
ら ﹁
社会事業のよりどころとして﹁共生﹂ の 思 想 で 活 躍 し て 産業 これみな仏教﹂ これは江上先生から教えていた
くださいとおっしゃっている 。 だいた 言葉です。そういう思想で仏教思想、 それを﹁共
それで椎尾先生自身はずいぶん法話をなさるのですが 生﹂とい う言葉で広めてこられましたから、 目に見えた
福祉活動をやりましょうというようなことは おっしゃ 現川 (
悌 教 大 学) 服 部 先 生 に お 教 え い た だ き た い と 思
った か も し れ ま せ ん が そういうことをメインになさ っ います 。
たのではなくて それぞれの人が自分の立場で、商売し 三先生の祖師の教説に基づいて仏教福祉についてお示
ている人は商売している場所で、教員の人は教育の現場 しいただいたわけですが、服部先生の場合もそれが基礎
で共生を実践していきましょう それがこの世の中を仏 にあって、先ほどのようなご報告をちょうだいしたいと
教思想に基づく基づいて、本当に平和で、本当に皆が真 思うのですが、 それについては具体的なことをもとに、
の人間として生きる、幸せな社会をつくる出発点である も う 少 し お 教 え い た だ き た く 思 い ま す。
そういうお考えで活動しておられました。 祖師の福祉、あるいは仏教福祉という場合 そういう
だから いわゆる社会的実践としてこれをやるという 福祉概念、現代社会にいういわゆる社会福祉と称される

0
- 6
も の で は な く て 、 先 生 の 活 動 全 体 が 社 会 的 実 践 で あ った ものですね。そういうものと同じものなのか それとも
とい ってもいいのではないか 。 ま た そ れ を 皆 さ ん に 勧 め 違うのか 。 そ の 辺 は 先 生 の ご 論 文 を 拝 読 い た し ま す と
てくださったお蔭であるというように理解しております。 はっきり書いておられるのですが きょうはあまりはっ
以上です。 きりおっしゃらなかったように承ったわけです。
先ほどの先生のご指摘の中で、孝橋正一博士 上田千
長谷川 ありがとうございました 。 よろしゅうございま 秋博士の名前も出てきましたが いわゆる資本主義政策
すか 。 としての社会福祉 それと仏教でいう福祉、あるいは祖
ほかにありますか。 師のお っしゃ っている教説としての福祉、 それとどうい
うふうに違うのか、同じものなのか、あるいは祖師の教
説から考えた場合に、孝橋正一博士がおっしゃっている 第一に、社会福祉の概念というのは、ご承知だと

よ う な 社 会 福 祉 の と ら え 方 に つ い て は 私 た ち 浄 土 宗派と 思いますけれども、 いろいろあるわけですね 。狭い意味


してはどういう評価をしていったらいいのか その辺を の社会福祉というのと、それから広義の意味 それから
お教えいただきたいと思います。 最広義の意味。
というのは、先生が最後に孝橋正一博士は、社会科学 上田千秋先生がわかりやすく教えておられるのですが
によって実践者のあり方、 つまり実践規範とか主体的契 社会福祉の狭義は狭い意味の社会事業あるいは社会福祉
機 を つ く っていく そういうようなことをおっしゃって 事業と同じなのだというわけです。
.
l

L-、
4
JO
ですから、孝橋博士のおっしゃることに対して先 孝橋先生は 一貫 して﹁社会事業﹂と言っていら っし
生はどうお思いでいらっしゃるのか。特に最初の問題提 ゃいます。この孝橋先生の社会事業もはっきりしており

1
6
起をなさったときに 階級闘争に耐えていく主体を育て まして、資本主義社会存続のための 一つの 装置である。
ていくというようなご表現をさなったのですね。これは しかも社会的要因によっていろいろな困難を生じている
私にはもう少し、 わ か ら な か っ た の で す 。 というのは、 そういうものに対する 一つの 援助という形だということ
私も自分なりに勉強しておりまして、考、えれば考えるほ ですね。孝橋先生は﹁社会事業﹂という 言 葉 を 一貫 して
ど、自分の考えをどのように整備していけばいいのか、 使われております 。 ですから 仏教社会事業といわれる
ますますわからなくなってきたわけです。その辺をひと のです。孝橋先生の場合は ﹁
社 会事業 ﹂ と﹁社会福祉 ﹂
つお教えいただきたいと思います。恐縮ですが、よろし は違うのです 。 ﹁社会福祉﹂という の は 、 私 の 解 釈 に よ
くお願いいたします。 れ ば 、 社 会 主 義 社 会 、 反 資 本 主 義 社会、共産 主義 社会に
おいて優先されるものだ 。 ﹂れは引用してもいいのです
が、そういうものでまず違います。 一般には狭義の意味の社会福祉、 ﹂れは社会事業


そして社会科学の社会事業というのはそうい決まった 孝橋先生を代表していう資本主義社会云々の定義です。
概 念 が き ち ん と あ る の で す 。 この概念として し宇品しい それから広義、 そ れ を も う 少 し 幅 広 く や っ て い る 。 こ れ
ましたような孝橋先生の考え方が一つあります。 も現在行われているものですが そのようにしてこれは
それから広義の意味の社会事業というのは、社会政策、 はっきりと概念が出来上がっております。社会科学的な
社会保障というようなものから、教育、住宅 公衆衛生 社会福祉、社会事業ということをいう場合には決まって
犯罪関係など、主として社会生活を営む人間の精 いるのです。


T

道徳的 肉体的、 生 理 的 、 並 び に 労 働 的 、 経 済 的 ところがいまここでいう仏教福祉というような問題を



- 62 -
諸条件に密着した社会的施策の総称として使われる。 もってきますと、水谷先生のお考え方というのは全く別


なり幅が広くなっております。社会政策、社会保障、こ だと考えたらいいと思うのです。これは仏教の思想に基
れも社会科学としてきちんとした概念があります。通俗 づく社会福祉なのだ、 で す か ら こ れ は 社 会 科 学 的 な 社 会
的な概念ではいけません。とにかくそういうことから教 福祉からは批判されますけれども ﹂れは私にいわせれ


育まで入ってくるのです。しかもそれは精神的 道徳的 ﹂れは同じ言葉を使っていても 全然ジャンルが違

l
肉体的な面。 うような気がするのです。そのように考えたらいいので
さらにこれが最広義、もっと広い意味では狭義と広義 はないかと思うのです。
の内容の上にさらに土木、建設、財政 金融、軍事、警 それに関して社会科学の一派である森永先生やら守屋
察など、全国民の社会生活の安定と発展に貢献するとい 先生などは、やはり社会科学をきちんと押さえておられ
うもの、 ﹂れが社会福祉という言葉で呼ばれているのだ ます。 そこの中での かつそれだけの一般的な社会科学
に社会福祉では足らない部分があるのだということを専 はーーーいきなり階級闘争を出したので、あまりにも 言 葉
門 家 と し て 発 見 さ れ た わ け で す。 そ こ で や は り 仏 教 の 思 が強過ぎますから、私はこれを出そうか出すまいか迷つ
想 、 信 仰 と い う も の が 本 当 の意味での社会福祉を構築す たのです。 し か し 、 孝 橋 先 生 は こ の よ う に 言っ ておられ
るものだということで、 そういう考え方を展開されてい るのです 。 ち ゃ ん と 階 級 と い う も の を 押 さ え て お か な け
る わ け で す 。 そ う い う こ と だ と 思 う のです 。 れ ば だ め だ と い う こ と を 言っ てお ら れるのです 。 ですか
孝橋先生の考え方を私はいろいろ、 最 初 申 し 上 げ た よ ら、そういう階級闘争を通して そ の具 体 的 に 本 当 の 意
7に
、 、 非 常 に わ か り や す く て 関 心 を も って私なりに読ん 味の福祉社会というものを実現していくのだということ
たのですが、きちんとした考え方ができ上がっているの な の で す。 で す か ら そのときの実践する人聞は、孝橋
です 。 社 会 科 学 といえば ﹂れはマルクス 主 義 的 社 会 科 先生は、人間をつ く る こ と に は 仏 教 は 非 常 に 役 立 ってい

3
6
学な の だ と い う こ と が は っきりでき上が っているわけで るとお っし ゃ る わ け で す。 で す か ら 、 私 は 孝 橋 先 生 は
す。そういう線でどんどん議論を展開されているわけで 生懸命勉強しておられて、 ち ゃ ん と 本 も 出 さ れ て お り ま
す。 そういうマルクス 主 義 的 な 社 会 科 学 が い わ ゆ る 唯 物 す け れ ど も 、 本 当 によく知 って お ら れ る と 思 う の で す よ 。
史 観 に 基 づ い て い る も の な の で す。 これはは っきりと単 ただ、私は解釈の問題だと思うのですね 。 仏教のとらえ
なる科学的社会科学、 い わ ゆ る ウ エ │ パ ー な ど の い う 社 方に問題があると思うのですが これをやるとまた時間
会 科 学 と 違 う の で す。 が長くなりますので・:
ですから、孝橋先生の結論は、本当 は社会福祉という 孝橋先生は、要するに社会科 学 的な法則の中に自己実
のは社会 主 義 社 会 、 共 産 主 義 社 会 に お い て 実 現 さ れ る と 現してい って し ま う わ け で す 。 ですから そこには仏教
いうことなのですよ 。 ですから そこへいくための実践 は全然出てこないのです。 だ か ら 、 私 は ﹁ 仏 教 の 社 会 科
学 への埋没﹂という 言 葉を使 った の で す 。 得る仏教思想というものは、 やはり現実の社会福祉のあ
と い う の は 、 孝 橋 先 生 が 森 永 先 生 を 批 判されるときに り方でも、 いろいろ批判し よりよいものをつくってい
森永先生は 仏教思想を意識された ﹂れは ﹁
宗教への社 くための力をも っているのだ、このことは奈倉先生がい
会科学の埋没 ﹂ と 言 っておられるのです 。 だから、私は ま ず っ と 言 っ て お ら れ ま す ね 。 そういうことだと思うの
それを引っ繰り返してい った の で す よ 。事実、孝橋先生 ですよ 。 そ う い う ふ う に 私 は と ら え て い ま す 。
の や り 方 で は 、 仏 教 は 表 に 出 な い の で す 。 出ているのは
何かというと、実践者の私生活そのものなのです。その 長谷川 ありがとうございました 。
実践者を育てるのが仏教で、特に﹁空﹂の考えなど、す ﹂の問題はなかなか容易ならざるもので :::。

4-
ばらしいよということを言っておられるのです。

- 6
ですから、私は結局実践者と 言っ ても そ、
つい 東 洋 大 学) いまのにちょ っと コ メ ン ト し て よ ろ
恩田 (


?
f

う唯物史観に基づく社会進展に寄与する、 そういう人間 しいですか 。
を育てるに過ぎないのだということになるわけです。
そこで私は、仏教の世界観、人生観が大事だと思うの 長谷川 はい 。 それでは先 生、手 短にお願いいたします 。
です 。 この唯物史観というものがはたして正しいものか
どうなのかというとにメスを入れるのは 仏教的な世界 東 洋 大 学) 私 は こ の よ う に 考 え る の です 。ちょ
恩田 (
観だけではだめなのです 。結 論 的 に い い ま す と 、 仏 教 は っとこれは短見になるかもしれませんが 仏教も社会科
│ 社会事業とい ってもいろいなタ
いろいろな社会事業│ 学 に基づく社会福祉といいますか、 そこにいろいろ矛盾
イプがあるのですが やはり 批 判 す る 一つの基盤となり を感じますけれども いわゆる仏教 の縁起という考えか
らいえば一つなのですね 。 それは区別がない。 実感として知らないのだ だから それを教えてあげる
し か し 問 題 は 、 仏 教 の 考 え は ﹁ 自 他 一行﹂なのです。 のが仏教者の立場ではないかというのが私の考えです。
ところが社会科学は自と他が必ずくる。科学がそうです。 勝手なことを申しました 。
見るものと見られるもの、 ﹂こが違う。だから、場合に
よっては、仏教は悟りのもので、自他を分けるというの 実は私が読んだものの中に その孝橋理論を批判



は迷いなのですね 。 ここがは っき り 相 隔 た る と こ ろ で す。 し て い る 仏 教 者 は な い よ う に 私 は い ま 受 け 取 っているの
問題は、 たとえば階層というものがあるという見方は、 です。私が知らないということがあるかもしれませんが
一つは﹁因縁和合﹂であるということの自覚が足りない

5-
から、こういうものがあると思います 。和合だから、こ 私は最初はこの孝橋先生の考え方に、﹁ああ つい
﹂、

6
れは本来はないわけです 。 か り に 結 び つ い て 階 層 と い う つものか ﹂と 非 常 に い ろ い ろ 学 ん だ わ け で す 。 それでず
姿を、層をなしてきた、 いわゆる自他がないわけです。 っと見ていったら、何か少しおかしいのじゃないかとい
空なのです 。 そこのところの考え方が全く違うのです。 うことで、私なりにこういう結論を出させていただきま
自他を分ける そういう分け方がどうも社会科学や科学 した 。 どうも失礼いたしまた。
に基づいた思想にはなるだろうと思います 。 と こ ろ が 仏
教には自他がないのです 。 一つなのだという見方、悟り 長谷川 ありがとうございました 。
の 見 方 、 こ こ か ら 出 て い る 。 ですから それはずっと上 だんだん質疑応答も佳境に入 ってきたように思います
なのですよ 。 ですから、社会福祉の科学に仏教が含まれ が、ちょうど四時になりましたので この辺でまとめて
るのではなくて、実は含んでいるのだけれども 彼らが い き た い と 思 い ま す。
長C トふ 二つ
ノ お三人 の 先 生 方 か ら そ れ ぞ れ ご 発 題 を い た だ をチェ ック し て い く 。もちろん チェ ックとか補完とい
いて また 真 剣 な 論 議 を フ ロ ア と 交 わ し て ま い り ま し た 。 う機能だけではありませんが、 そ う い う こ と を 含 ん で 仏
そ こ で 振 り 返 って 、 き ょ う 、 出 て き た 問 題 を き ち ん と 教福祉の固有性というものをどのように構築していくか、
整理できるわけではありませんが およそ 三 つぐらい ﹂の点が一つあ った よ う に 思 い ま す 。
記 憶 に 止 め て お き た い と 思 い ま す。 それからもう一つは その際に きょうのテーマであ
仏教と社会福祉というもののかかわり、結合 ります祖師の教説、これをどう踏まえていくかの問題で

の仕方というものをどのように促えていくのか、 ﹀
﹂い、
っ す。 こ れ に つ い て は 、 深 員 先 生 の 方 か ら 、 所 求 ・所 帰
問 題 で す 。 この点については、 た だ い ま の 服 部 先 生 の お 去行とい った 、 浄 土 宗 義 の 核 心 を き ち ん と 踏 ま え て お か

6-
話の中にも またそれにコメントされた恩田先生のご発 なければならない、 そ う い う 意 味 で ご 示 唆 を い た だ い た

- 6
言、 あ る い は ま た 奈 倉 先 生 の ご 発 言 にもありましたよう よ う に 思 い ま す。
に、社会科 学としての社会福祉とは別に、仏教福祉の固 そして 三 つめには、 そ れ を さ ら に 新 し い 視 点 か ら 再 解
有性とい う ものをどのように構築してい ったらいいのか、 釈して、ご提示いただいた の が 奈 倉 先 生 の ご 発 題 だ った
そういうところでご発題の内容が展開されたように思え ょ う に 思 い ま す。 とりわけ﹁いのちの働き﹂と﹁縁起の
た わ け で す。 理法﹂というものに着眼されて、 そ れ こ そ が ま さ に 仏 教
たとえば社会科学 としての社会福祉を相対化して そ 福祉 の原 動 力 に な る の で は な い か と い う ﹂ういう問題
こに批判のメスを入れていくとか、 実 態 と し て の 社 会 福 があ った よ う に 思 い ま す 。
祉 に 対 し て 一つの理念とい う か
、 目的概念としての福祉、 今後の問題としては、ご質問の中にもありましたが
それを支、える仏教の思想、 そ う い う 価 値 の 商 か ら 、 こ れ いわゆるきょうのテ l マ で あ る ﹁ 祖 師 の 教 説 ﹂ と い う 浄
土宗の立場のほかに、 それぞれの宗派の宗義という立場 提示していくかという問題もあるように思います。この
がありましょうし、 それを超えた仏教の立場、大乗仏教 点についてはまた今後、 ご専門の先生からいろいろお教
の菩薩道という話もありました。 この両者、 つまり ﹁
仏 えいただきたいと思っております。
教の通途﹂と﹁宗派の別途 ﹂を 仏 教 福 祉 の 思 想 の 中 に ど きょうは三時間強にわたりまして、 お三人の先生方か
のように位置づけていくかの問題があるのではないでし らの示唆に富んだご提言、さらにフロアからのご熱心な
よ、っか。 ご質問やご意見をお出しいただきまして、大変実りのあ
﹂のあとは私見ですが、先ほどの深貝先生の レジュメ るシンポジュウムになったと思います。どうぞ皆様方に
にもありましたけれども、要するに ﹁
念仏 ﹂というもの おかれましでも、 ﹂れからさらに仏教福祉に関するご関

7-
を大乗仏教の菩薩道の中でどうとらえていくかです。私 心 を わ れ わ れ の プ ロ ジ ェ ク ト の方にもお寄せいただいて

6
は専門外でまことに宗義にはうといものでありますが、 またお教えをいただければ幸いです。
先の聖光上人の、 ﹃
徹 選 択 本 願 念 仏 集 ﹄ に注目してみる 最後にお三人の先生方にお礼の拍手をお送り申し上げ
必要があるのではないかと思います。ここではまさに大 まして ﹂のシンポジウムを閉じさせていただきたいと
乗菩薩道が展開せられ、六波羅蜜と念仏の関係等が説か 思います。どうも三先生方、ありがとうございました
れて、 仏教福祉思想の通別二義の内在関係を探る格好の (拍手)。
材料があるように思われます。
そういう意味で、念仏の福祉思想の立場というものが
通仏教の立場の中にどういう位置を占め しかもそこか
ら離れないという、 その点をどのように宗義の立場から
特集﹁四無量心と仏教福祉﹂
﹁宣
口 ﹂ ということ



はじめに

9-
- 6
阪神淡路大震災以後、民間奉仕活動としてのボランティアに従事する人々、あるいは関心を抱く人々が大
変顕著にみられるようになった。
更 に 仏 教 福 祉 研 究 の 分 野 で も ボ ラ ン テ ィ ア に 関 す る 研 究 が 従 来 と は 異 な る 形 態 で 進 め ら れ て い る 。それは 、
実践面に関する技術的な研究や実状調査といったものではない。
むしろ日本におけるボランティアの概念と、その背景にみられる宗教観(仏教観)を探求しようとする動
きがみられることである 。 そ の 例 と し て 平 成 九 (一九 九 七 ) 年 、 日 本 仏 教 社 会 福 祉学会の主題は ﹁仏教とボ
ランティア ﹂ と し て 、 シ ン ポ ジ ウ ム を 開 催 し た こ と か ら も 挙 げ ら れ る 。
学会の流行を追いかける次第となって多少自責の念もないこともないが、筆者も仏教ボランタリズムに関
、 思考の類であるけれど述べてみたい 。 尤 も 社 会 福 祉 に 関 し て も ボ ラ ン テ ィアに関し
連したほとんど独り 言
ても門外漢であるから、ボランティアという自発的な奉仕活動に際して、仏教の立場で該当する、あるいは
類似した概念は何か、また仏教的なボランティア活動がどのような住置づけとなるかを概観したい。
ここでは、﹁喜﹂と﹁捨﹂ということについて考えてみたい。ただし現状のボランティア実践に直接結び
つくのかは疑問がある。ただし、仏教ボランタリズムとしてみるならば、その源泉の一つに﹁喜﹂や﹁捨﹂
があたると考えているし、 またそれを加えてみるべきだと考えているのでその点を記しておきたい。
ボランタリズムに関して
I
I


喜 ﹂や﹁捨﹂に ついて調べる前に ﹁ボランテ ィア ﹂ と ﹁ ボ ラ ン タ リ ズ ム ﹂ に 関 し て 少 し だ け 挙 げ て お き

0-
たい。﹁ボランタリズム﹂に関して、

- 7
民間社会福祉の思想的基盤はボランタリズム(︿。ZDEミ訪日)にある。ボランタリズムとは、元来、
国教として税金で維持される宗教制度から分離して、信者が自らの献金で宗教を支える意志を表現する
宗教用語である 。 自 己 の 生 命 を 犠 牲 に し て も 守 り ぬ く だ け の 価 値 を 対 象 に 見 出 す が ゆ え に 、 積 極 的 に 自
主と自由を確保しようとする主体的決断を指している。 近 代 社 会 事 業 に お い て は 、 民 間 社 会 福 祉 は 、 任
意団体(ボランタリ l ・アソシエーション)として勃興してきた。この任意団体の歴史的性格にまでさ
かのぼることなくしては、民間社会福祉活動を正しく理解することは難しい。社会福祉におけるボラン
タリズムの中心的生命は、社会的条件のなかで阻害されている対象への人格的応答としてあらわれる。
人 聞 を 個 別 的 存 在 と し て で は な く 、 あ く ま で も 人 格 と し て 理 解 す る こ と か ら 出 発 す る 。 人聞を経済 ・労
働価値においてではなく、存在そのものにおいて評価する人間観に立っている。ボランタリズムは、隣
人の福祉ニ lド に 対 し て 、 愛 と 善 意 を 分 か ち 合 お う と す る 実 践 と な っ て 現 さ れ て い る 。
﹁ボランテ ィア﹂は、 通 常 ﹁ ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 ﹂ と 同 義 で あ っ か わ れ る の で こ の よ う に な る で あ ろ う 。
ボランティア活動は地域連帯のヒューマニズムと個人の自由な社会的貢献への動機によって行われる福
祉参加の市民活動である 。 市 民 は ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 に よ っ て 権 利 と し て の 社 会 福 祉 を 地 域 社 会 に 定 着 さ
せ、コミュニティ・ケアの視点を市民生活のなかに 浸透させうる 。 地域住民は、すべてボランティアの
の資格をもち、その役割・技術を習得することにより地域福祉の資源として貢献しうるのである 。
とあるので、とくに﹁ボランテ ィア﹂は、公共機関による大規模なものとはなり得ない代わりに、独自性が
望まれる地域福祉などにおいて有効な民間福祉活動と考えられている 。
また 一般的にボランテ ィアに従事 す る も の は ﹁ 自 発 性 に 裏 付 け ら れ た 奉 仕 者 ・ 篤 志 家 ﹂ と い わ れ て い る 。

1-
7
特に福祉・教育・ 医療・文化興隆 等 の活動の成果がよくあらわれているのはその証明といえるかもしれない 。
ま た そ の活動に際しては自発性が尊 重 さ れ る た め 、 金 銭等 の利益を目的としない無償性が要求されている 。
このことは、ボランティアに求められる四つの性格として挙げられている 。自 発 性 ・ 福 祉 性 ・ 無 償 性 ( 無
給性)・継続性である 。 そしてボランティアへのき っかけを与えるべくボランタリズムには、社会的状況の
知何に関わらずそれ(ボランティア活動による成果)を必要とする対象に応えようとする性質があるといわ
れる。それは募金という形でよく顕著にあらわれる 。
共同募 金 は 拠 出 さ れ る 金 額 の 量 よ り も 、 自 分 た ち の 町 や 国 の 人 々 の 福 祉 を 高 め る た め に 、 住 民 お 互 い の
思いやりを深める運動であり、募金はその象徴にほかならない 。 そして、そのために、自己の時間と労
力とを捧げている 二O O万 の 人 々 の ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 に 大 き な 意 義 を 認 め る こ と が で き る 。 昔
、 スイス
の山村で一人の牧師が ﹁与えよ、取れよ﹂と 書 き つ け た 箱 を 木 に 吊 し た の が 共 同 募 金 運 動 の 起 源 で あ
るといわれる 。すなわち、 ﹁与えよ、 取 れ よ ﹂ │ 相 互 の 深 い 信 頼 に も と づ い た 任 意 に し て 主 体 的 な 善 意
を行動にあらわすーが ボランタリズムである 。 こ の ボ ラ ン タ リ ズ ム 精 神 の 具 現 化 が 、 共 同 募 金 に 代 表
される民聞社会福祉活動なのである。
以上のなかから考えてみると、 ボ ラ ン タ リ ズ ム の 持 つ 自 発 性 や ボ ラ ン テ ィ ア の 性 格 は 、 隣 人 愛 を 基 礎 と し
て い る の で あ ろ う 。 自己の金銭的あるいは物質的な利益を求めず、他者の不幸を取り除き、 そ の 幸 福 を 心 よ
り願う思念・遂行しようとする行為がボランタリズムあるいはボランティアといえる 。
YEEA
仏教ボランタリズムへ向けて

-72 -
YE-A
YE-A
さて、 ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 に 従 事 し よ う と す る 者 の 間 に は 、 宗 教 観 や そ れ に 類 す る 情 念 が あ る の で は な い か
と考える 。 前述には
人 間 を 個 別 的 存 在 と し て で は な く 、 あ く ま で も 人 格 と し て 理 解 す る こ と か ら 出 発 す る 。 人 間 を 経 済 ・労
働 価 値 に お い て で は な く 、 存 在 そ の も の に お い て 評 価 す る 人 間 観 に 立 っている 。 ボランタリズムは、隣
人の福祉ニ lドに対して、愛と善意を分かち合お う とする 実 践 と な っ て 現 さ れ て い る 。
とあるように、 そ の 活 動 に よ る 利 益 を 目 的 と し た 行 動 で は な い こ と は 明 ら か で あ る 。
ボ ラ ン テ ィ ア 活 動 に は 人 格 尊 重 か ら 生 じ る 、 相 互 理 解 や 他 者 に 対 す る 憐 倒 を 動 機 と す る 無 償 の 奉 仕活動で
ある 。
ではその思念 ・行為の動機は、 人 の ど の よ う な 思 考 に 由 来 す る の か 。
ひとつに利益を目的としないから、功利的な欲求ではない 。 また、ボランティア活動の性格や共同募金の
起 源 か ら も 考 え ら れ る よ う に 、 特 定 の 対 象 へ 向 け る こ と を 目 的 と し な い か ら 、 特 定 の 対 象 へ 向 け る 思 慕 ・恋
愛等も当てはまらない 。
な ら ば 、 前 述 の ご と く ポ ラ ン タ リ ズ ム が 宗 教 用 語 に 由 来 す る こ と を 鑑 み 、 ボ ラ ン テ ィアを志す各人の 宗 教
観 に 根 ざ し た も の で あ る と 考 え る の が 妥 当 で は な い か 。 ちょうどボランティアは、キリスト教でいう﹁愛﹂
が発露した姿といえる 。
筆者も 一応仏教者として末席には寄せて項きたいと常々思う身であるので、﹁愛﹂ に 変 わ る 仏 教 の 概 念 を
強く求めている 。
愛 ﹂ に相当す べきかという点を中心として考えてみたい 。 井上 真 六氏の﹁仏教とボランタリ

3-
そこで何が ﹁

- 7
ズム﹂の中に、仏教の特色を 三 つ挙げ た 上 で 、 ボ ラ ン タ リ ズ ム と の 関 係 を 述 べている 一節 が 見 受 けられた の
で引用しておこう 。
① 人 間 の 幸 福 を 追 求 す る 宗 教である 。 そのためには 幸 福とは何かを知 ら なくては な りません 。 ボランタ
リ ズ ム は 人 間 の 不 幸 な 状 態 に 対 す る 一 つ の 活 動 で あ り ま す 。 人 聞 は 何 故 に 不 幸 になるのであろうか 。 ど
うしたら本当の幸福があるのか 。 これが仏教の出発点と 言っ ても差し支えないのです 。
②現実認識から出発する 宗 教であること 。 ですから創造神を考えない 。 又、摂理 の全 能 者 と し て の 神 を
考えない 。 そして自分たちの存在はどういうも のか と い う こ と を 、 で き る だ け 先 入 観 念 を 払 って直 視す
ることから出発します 。 そ のために、人聞 の根 の深 い自 分 中 心 の 見 方 ・考 え 方 で あ る ﹁ 我 執 ・我見﹂と
いう潜在的な先入観念を洗い 去り、如 実 に現実を 認 識 す る こ と を 心 が け 、 我執 ・我 見 に ﹁ 執 わ れ た ﹂ 見
方である﹁迷い﹂を離れ、(中略)本当﹁知恵と生命愛﹂に目ざめさせる宗教であります。
③ 仏 教 は こ の よ う に 心 を 整 理 し 、 反 省 し ( 内 観 し て 心 の 視 野 を 聞 か せ て ゆ く 宗 教 で あ り ま す から、そ
の教理の説明や考え方の整理のために哲学的な思考を道具として利用します 。 世 間 に は 、 仏 教 は 科 学 と
抵触しないとか、合理的であるとかの評 言もききますが、仏教における哲 学的思考はあくまでも道具で
あって、仏教は単なる哲学体系ではなく、それを利用する宗教であります 。
V

仏教に根ざしたボランタリズム構築のために
I

では、 ボランタリズムの動機となる宗教観、 またそれに類するものを仏教の個々の概念と対応させてみた

4-


- 7
相互理解や憐側とい ったものを中心にすえた場合、それは﹁四無量心﹂に代表される 。 更にこの点から、
筆者は ﹁慈・悲・ 喜 ・捨﹂という概念が、仏教ボランタリズムの源流となり、キリスト教の﹁愛﹂の代わり
に﹁四無量心 ﹂ が仏教ボランティア活動への動機となるのではと期待する。またそれは井上真六氏の記述に
も見られる。
四 無 量 心 の ﹁ 慈 ﹂ と は 仁 に 似 た 心 で す 。 人と人の親愛感、﹁ご機嫌ょう、お達者ですか﹂とその願いと
共に 言う心です。 ﹁悲﹂とは共患同苦の心で、人の苦しみ悲しみを見て自分も心が痛み、その憂い苦し
みを共に感ぜずにいられない気持で人がその悲しみから救われることを願う心です 。﹁
喜﹂ と は 人 のた
めに 喜 ぴあれかしと願い、その 喜 びを共に 喜ぶ 心。 ﹁捨﹂とは人聞が間違 った執着を離れ、つ まらない
心を捨て、正しい智 慧 に 照 ら さ れ て あ れ か し と 願 う 心 で す。 (傍点引用者)そして﹁すべての衆生﹂を
対象にして この四つの心をかぎりなく遍満させてゆく想念の集中を説いておられるのです。即ち﹁願
くはすべての衆生が苦しみを離れ平安であれかし、願くはすべての衆生が悲しみから救われてあれかし、
願くはすべての衆生に喜びゃよきことあれかし。願くはすべての衆生が正しい智慧に照らされて迷いを
離れてあれかし。﹂という想念に心を集中し、而もそれを限りなく全世界・全空間に遍満させてゆく精
神統 一です。 ﹂
井上氏は、 八正道中の正見を起こすため、 正定のなかに見出す四無量心として定義しているので、大乗仏
教にみられる菩薩の慈悲とは相違がある。
ただボランタリズムの中にみられる人間の不幸な状態に対する 一
つ の活動という点からみた場合、他者の

5-
不幸(苦痛)を単なる状態とは考えないで、 それが自己の耐え難い ﹁
苦﹂ であると捉えることを志すべき点

- 7
はどちらも同一である 。
この﹁慈悲﹂に似た私たちの心 (良心といってもよい) の働きが仏教福祉や仏教ボランタリズムへの機縁
ではないだろうか 。
人 の苦しみゃ悲しみを見て自分も 心 が 痛 み 、 そ の 憂 い 苦 し み を 共 に 感 ぜ ず に は い ら れ な く て 、 そ の 悲 し み
から共に救われることを願う﹁共患同 苦 L という心の状態を起こすこと、それが仏教ボラ ンタリズムへの動
機といえる。それ故﹁四無量心﹂が、ボランティアへの発心 (起動力) になると考える 。
V 喜と捨ということ
こ こ で い う ﹁ 共 患 同 苦 ﹂ に 重 き を 置 く な ら ば 、 むしろ﹁慈悲﹂が中心であろう。その中、 一般 的 に は
﹁悲﹂に関して述べる方が良い。あえて今回は﹁喜﹂や﹁捨﹂に関して考察したい。
喜捨﹂と聞けば、﹁ご 喜 捨﹂というように﹁厚意からでた寄付﹂の意味で用いられる場合が多い 。
﹁ ﹃ 広辞
苑﹄などでは、
進んで寺社に寄進し、または貧しい人に施しをすること。﹁応分の lを乞う。

喜 捨﹂と記述されている 。
とあるから、自発的に何らかを施す行為が ﹁
そのため日本では、﹁四無量心﹂のうちの ﹁
喜捨 ﹂もこのように﹁布施﹂とほぼ同義とみ られているよう
で、﹁慈悲﹂と比べると特別、注目される概念とはいえない。

喜﹂は、 ﹁よろこ ぶこと、おもしろがらせること ﹂とい った意味が一般的である。仏教用語としても﹁歓
﹁喜悦 ﹂とい ったように喜ぴを指 しているが、 多少違う点は﹁盲目的な 喜ぴ ﹂とい ったような迷いの根
喜﹂

6
- 7
元としての喜ぴも指している点が挙げられ、二種類あることが定義されている 。

大漢和辞典 ﹄ には、﹁よろこぶ、このむ、たのしむ﹂等が挙げられ、心に何らかの楽しみが生じ、極めて
良好な状態を表している 。
﹁捨﹂についてもみてみたい 。 ﹁捨﹂と聞いて想起することは、﹁何かを捨てる 。﹂であるとか、﹁ 喜 捨す
る。
﹂等が思 い浮か ぶ。そこでは、自分が所有している財産や権利あるいは 地位を放棄するこ とや、財産を
施すとい った印象が強い。事実 ﹃広辞苑 ﹄ には
①捨てること。 ﹁
│象 ﹂﹁取l﹂ ② ほ ど こしをすること﹁ 喜 │﹂

﹂ホマ
令。

大漢和辞典﹄ にある﹁捨﹂は
①すてる。(イ)おこたる 。やめる 。 (ロ)てばなす。 (ハ)きる。しりぞける 。 かへりみない 。


(

)
(ホ)ほどこす 。 ② おく 。さしおく 。 ゆるす。 (説文、③④は省略)
とあり、 ﹃
広辞苑 ﹄等 と類似した意味が多く見受けられる。しかし仏教用語としての﹁捨﹂には意味に違い
が現れる 。
⑤ 心が常に平かで執着 がない意 。 ︹倶舎論、四︺心平等性、無警質性、説名為捨。
︹大乗義 章、二 ︺内心平等、名之為捨。 ︹大乗義章、十一一︺亡懐称捨。
つ として位置付けられている 。
とあり、心の働きの 一
中村元氏の ﹃
悌教語大辞典﹄ の中から幾っか挙げてみると、﹁捨てること﹂﹁(悪い見解を)捨てること﹂

7一
﹁比丘が 悪い行いを捨てること ﹂﹁解き離れること﹂﹁(煩悩などを)滅し捨て 去ること ﹂﹁(迷い の状態)を転

- 7
じ捨てること 。 除去、転捨﹂﹁戒律を捨てること﹂﹁与えること 。提供すること﹂﹁無関心で争わないこと L
﹁顧みないこと﹂などが挙げられる 。
I

最後に
V

きて以上のように﹁四無量心﹂に関連して仏教ボランタリズムの根幹にすえてみた場合、﹁慈﹂や﹁悲 L
に関しては 一応の概念が構築されているとみることができるが、﹁喜﹂や﹁捨﹂に関しては、あまり仏教ボ
ランティアとしての概念としては押えにくい点がある 。
また、﹁慈悲﹂が 一般用語として定 着 し、仏教福祉の領域でも特筆されるべき概念として 挙げられている
が、﹁喜﹂や﹁捨﹂は、ほとんど見受けられない 。
その理由は、 慈悲の中に包括されるものと位置づけられているからであろう。
それでも筆者は、執均に﹁喜 と ﹁
﹂ ﹂ 慈 や ﹁
捨 に注目している。それは ﹁ ﹂ 悲 ﹂ が機縁あるいは動機、起
動力となるけれど、継続や持続力も伴うように願うならば、むしろ﹁喜 ﹂ や ﹁
捨﹂といったものが必要とな
るのではと考えるからである。
そこで、 心 の 経 過 と い う に は 多 少 不 具 合 が 生 じ る け れ ど 、 行 為 と 合 わ せ て ﹁
慈﹂ ﹁喜 ﹂
﹁ 悲﹂ ﹁ 捨﹂を考え
てみたい 。
仏教の立場では、心と行は常に離れないものである。環境や状況に応じて心の働きが変わると行為にも変
化 が 生 じ る 。 他 者 の 不 幸 ( 苦 痛 ) を 耐 え が た い 苦 痛 と し て 自 己 の 心 に捉えたとき、そこには ﹁
慈 ・悲﹂ の働
きがある 。 しかし苦痛を感じたならば、それを除く行為をはじめなければ何も意味はないであろう。

8-
- 7
不幸な状態を共に脱するために、功利的ではない、ここでは仏教によって位置付けられた心の働き﹁四無
量心 ﹂を我がものとしているなら、自己の物質的な充足を捨てても、その他者と共に不幸な状態(苦痛)を
除こうとするだろう 。 そ こ に は 、 何 か 物 質 的 な 利 益 や 利 潤 が 生 じ る こ と は な い し 、 所 謂 社 会 的 地 位 や 名 声 が
約束されているわけではない 。
しかしその苦痛から開放されたときに得る心のうちには、何らかの充足感、あるいはそれに似た喜びがあ
るのではないか。
ごく 一般的な道徳観からみても、功利的なものでない行為に関して、私たちは二疋の良い理解・評価を与
える 。 そこには無償の行為に関して共感できる意識があるからであろう。
以上のような 喜 びが感じられなければボランティアは、 とても継続できるものではないと筆者は考える 。
いつまでも苦痛を感じたままではなくそれを脱する行為、 その経過、 つまり苦痛が少しでも改善されるに応
じ て 何 の功利的なもの無しで喜べるのではないかと思う。
﹁捨﹂として、後に期待すべき利潤 ・利 益 な ど を 最 初 か ら 捨 て て い な け れ ば 、 そ れ は 無 償 性 を 持 つ ボ ラ ン
ティアにもならないだろう 。 更に個々の地位や立場を捨て、共通の価値観を持でなければ、他者の不幸な状
態を理解することも共に解決することも難しいだろう。
筆者は﹁慈悲﹂を機縁に何らかの活動をはじめたなら、その行為(活動)自体に喜びを感じつつ ﹁
喜 捨﹂
とい、ヮ、 自己の棲小な価値観や欲求を捨てていく心の働きも要るのではと考えている。
ただ自分自身にこの ﹁四無量心﹂を宿らせているのかといえばとても自 信がない。 しかし、 ボランティア

9-
に従事する人々には おそらく﹁慈悲﹂ の み で な く ﹁ 喜 捨 ﹂ と い う 心 を 持 ち 活 動 し て い る の で は と 考 え た と

7
き、強い共感と尊敬を抱くのである。
(浄土宗総合研究所研究員)
(注記)
、 ﹃
浦辺史・岡村重夫・木村武夫・孝橋正一 一
編 社会福祉要論 ﹄、ミネルヴア書房、 53uEι
1

浦辺史・岡村重夫・木村武夫・孝橋正 編 、 ﹃ 、 ミ ネ ル ヴ ア 書一
社会福祉要論 ﹄ 房

、 5 3・
匂 -M品仏
3 2



浦辺史・岡村重夫・木村武夫・孝橋正一 一、 ﹃
編 、 ミ ネ ル ヴ ァ 書一
社会福祉要論 ﹄ 房

、 5aEH2l呂町
(4) ここでは、無差別平等にそそぐ無私の愛の具現化として顕れたものと考えている。
(
5) 浦辺史 ・岡村重夫・木村武夫・孝橋正一 一
編 社会福祉要論 ﹄、ミネルヴァ書房、 5
、 ﹃ 3-u'HC 品
ボランティア研究報告書 ﹃ポランタリズムの思想と実践 ﹄、財団法人社会福祉研究所、 E3・
6

H︼ 同 日
ボランティア研究報告書 ﹃ポランタリズムの思想と実践 ﹄、財団法人社会福祉研究所、巴叶申円 yNm
7

ただし井上氏は八正道中の正見を起こすために、 正 定 の な か に 見 出 す 四 無 量 心 と し て 定 義 し て い る 。

0
- 8
慈悲思想の現代社会的展開
│ │仏教福祉の展開を中 心 とし て│ │


'


E,ノ


はじめに
仏教福祉﹂をあげることができよう。
﹁慈悲 ﹂ 思想の社会的展開の 一形態として、所謂 ﹁
仏教福祉は、慈悲思想を基盤にして ﹁ 自他不 二﹂ の考え方を背 景 にした、人間生活全般における ﹁

1-
福祉 ﹂

- 8
追求(至 幸)概念であり、 ﹁一切衆生悉有仏性 ﹂ の客観的表現としての布施 ・福田 ・福業 ・福善 ・福 勝等 の
総括概念である 。
仏教福祉は、優れた普遍的理念 ﹁
慈 悲 ﹂ の具体化を促進する形態であり、仏教の役割の社会的展開として、
社会の福祉危機へ対応し、人びとの苦悩(貧窮、病苦、厄苦、孤独等)を除き 、豊かで、安らかな生活の 実
、﹁
現をめざす社会の公益のための慈悲行である 。すなわち、﹁平等の大慈悲 ﹂ 無限の慈悲 ﹂を原型にして、
菩薩行として、あるいはこれを更に超える報恩行として、この実践は必然的に多種多様な愛他的 ・利他的な
布施行へとつながる。
なお、伝道 ・布教活動の手段(極論すれば、仏教者の隠れ蓑)として展開される場合もあるが 、 この方便
的な取り組みは、仏教宗派・寺院の施策として展開されるものであり、 筆者は、これらをも含めて﹁仏教福
祉﹂と呼ぶことにしている。
﹁慈悲﹂ の一語音 ω
一、

慈悲は仏教の根本である。仏そのもの、仏教そのものであり、仏は慈悲によって衆生を救う。仏の根源的
な権威(心情・行いの純粋・誠実なることの権威)の底にはたらいている徳であり、純粋の親愛の念である。
あるいはまた、慈悲は仏教の実践における中心の徳であり、他者に対する暖かな心からの共感である。し
たが って、仏の本願である、この慈悲を自覚して生活することは、より心豊かで楽しい生活になるであろう 。
このように、慈悲は人類生活の指標であり、仏教に特徴的な、暖かい未来的な性格の理想概念である。
言わば、 慈は﹁友﹂、﹁親しきもの﹂からの派生語であり、真実の有情のことである 。すなわち、同朋に利

2-
8
益と安楽・喜楽をもたらそうと望むことである 。 いっぽう、悲は、﹁哀憐﹂﹁優しさ﹂という語源を持ち、同
朋から、 不利益と種々の心身の苦を抜こうと欲することである 。 このように、慈も悲も心情的には類似して
おり、両者は結びつけて、ひとつのまとま った観念として理解してよいであろう 。
一般的な精神的 ・肉体的 安楽を与えることを小慈悲といい、絶 対楽の世界(極楽) に入らせようと

するのが大慈悲(仏の慈悲) である 。
このよ、つに、 慈悲とは愛憎の対立を超越し、人間の本然の性に復帰することである 。したが って、慈悲は
一切の 美徳の成立する根拠であり、慈悲の実践には周到な思いやりを必要とする。したがって、慈悲の実践
は﹁ひとが自他不 二の 方向に向って行為的に動くことのうちに存する﹂と


﹂の慈悲が ﹁仏教における福祉﹂そのものである 。 つまり、仏教福祉は慈悲を根幹にして、抜苦与楽に
よる苦難救済・幸福増進のための民間事業である。

慈悲の性格

慈悲は、すべての人々に及ぶ純粋な愛である。つまり、自分は感性的な好悪の情念を超越(無視)するが、
他者の感性的なものは尊重して、あまねく人びとを愛することである。例えば﹁自分には厳しく、他者には
寛大﹂という理念である。つまり、慈悲の心がなければ人倫にならないということである。
さて、慈悲の立場は、親しいものから始まって親しくないものまで平等に及ぶべきことが要請される。ま
た、慈悲は﹁人間を超えて、一切の生きとし生けるものにまで及ぶことを理想とする﹂が、動物にまで慈悲
を及ぼすことは不可能に近い。しかし、この理想まで思い至らすところに、人間としての心情の美しきがあ
るといえよう。言い換えると、慈悲の心情は人間にのみ存するということもになる。


また、その慈悲は性愛とは区別されるとともに、それは愛憎から超越したものであり、例えば子に対する
親の愛情の純粋化したものがその好例である。つまり、﹁人間を超えて、しかも人間のうちに実現されるべ
き、実践の究極的な理想なのである。﹂
したがって、慈悲の実践は自己と他者が相対立している場合、他者に合一する方向にはたらく運動であり、
且つ高次元的には、 一切の対立を離れた境地の立場を自覚して、﹁自他不 二﹂ の 方 向 に 向 か って合一すると
こ ろ に 成 立 す る 。 こ う し た 実 践 に よ り 慈 悲 行 が 純 粋 な も の と な る 。 言 わば、﹁無差別﹂を実現する実践であ
り、それは、修業者の理想であり、他者を自己のうちに転廻せしめる﹁自他平等﹂の実践である。
次に、 慈悲の行動的性格についてみておきたい。
慈悲は、抽象的 ・観念的に生死、罪悪 ・汚 濁 の 現 世 か ら 離 脱 し た も の で は な く 、 人 倫 的 組 織 に 即 し て 実 現
される。その慈悲行は﹁他者の苦しみを苦しむ ﹂ ことであり、この実践者(求道者日菩薩)は、他者の身代
わりとなる誓願を立てて、献身的に他者を愛する心を起こし、 人 々に安心感を与えることとなる。しかし、
凡夫がこの要請を実践することは大変困難な課題な課題であり、微々たるものでしかない。とは申せ、九夫
でも ﹁
仏の大慈悲 ﹂ と 連 絡 を も ち つ つ 、 自 己 反 省 を 通 じ て 慈 悲 の 徳 を 実 践 し 、 幾 分 な り と も 現 実 に 具 現 化 す
ることはできよう。ここに、九夫の宗教的実践の基盤があり、 ﹁ 慈悲心を行為のうちにあらわそうとする努
力のうちにこそ信 心 があり、 そこにこそわれわれは仏を認める ﹂ のである 。し た が っ て 、 慈 悲 の 完 全 な 実 践
は不可能であるということにもなろう。

4-
ところで、教学上、 浄土教においては念仏によ って救われ、仏になってこそ慈悲のはたらきをなしうると

- 8
されるのであるから、 人間としてできることは宗教的には念仏をとなえることであり、それが慈悲行である
とされる 。なお、 この念仏は、仏の大慈悲に救われて自分がいまここにあることへの報恩感謝の念仏であり、
かかる念仏を申せるのも、仏の本願によるはからい(慈悲)であるとされる 。
ところで、教義学上は、このような慈悲が強調されるが、同時に慈悲は、人間の行為のうちに具現される
のであるから、宗教倫理的な人間の実践的構造として、前述のとおり、凡夫の﹁慈悲の実践 ﹂ の成立をも認
フるのである 。
め、
なお、インドの大乗仏教で、修業者は ﹁
貧 窮 を 滅 ぽ す 方 策 ﹂ を 重 ん ず べきことを説いているが、関連して
わが国の先師先徳の慈悲観についても確認をしておきたい 。
学問はわが身その器に非ざる故に力なし 。 何とかして衆生を度すべし 。﹂
良観 ﹁
鉄眼﹁たとひ寺を売り指を刻みて施し申すとも。﹂
道元﹁今の学人も、栄西ような心がけを学ばねばならぬ。﹂
栄西﹁たといこの罪(仏の物を衆生に供した││筆者)によって地獄に落ちても、 ただ衆生の飢えを救い
たい。﹂
指月﹁今寺々の人、其の寺院の有を以て、方来老病を養い、 お よ び 窮 乏 を 救 う て 、 大 慈 忍 行 を 興 起 す
べし 。﹂
言わば、既成教学 ・教団を守る立場と、現世の物質的諸条件改革の立場が相矛盾せぬように、 慈悲の実践
展開がなされることが重要である。

5-
すなわち、仏典の語句や祖師のことばを与えるだけに止まらず、慈悲心をもって老病を養い、窮乏を救う

- 8
べく、 口よりも手足を動かすという慈悲方便によってすすめることの大切きである。
慈悲の実践化と仏教福祉
一、

慈悲思想への理論的要請は、必然的に組織的な仏教福祉の展開へと至らしめ、インド・中国・日本を通じ
て、盛んに仏教福祉の活動が展開されてきた。
ところで、近代インドの宗教家は、﹁奉仕﹂を強調する。古代インドにあっては、慈悲の理想に基づく社
会政策的施設経営や病人看護等に献身するなど、政治的・社会的活動(例えば、アショカ王の﹁施しの家﹂)
が展開されたといわれる。このように、自他不 二の 倫理が脈打っていたといわれる 。まさに、仏教福祉の推
進そのものである。
中 国 に あ っては、 旧くから慈悲の理想にしたが って 、 利 他 行 と し て の 社 会 施 設 経 営 や 治 病 、 施 療 、 植 樹 ・
架 橋 ・井戸堀 ・宿 提 供 、 質 庫 等 貧 民 救 済 等 が 僧 ・尼によ って行なわれてきたと 言われる 。
日本においても、仏教伝来以来、聖徳太子、叡尊、良観ほか多くの聖によって偉大な実践が行なわれた 。
近世以降においては、社会的な職業(商業等)生活のなかに慈悲を生かす努力が盛んになったようである 。
例 え ば 、 近 江 商 人 中 村 治 兵衛の家訓には ﹁
信心慈悲を忘れず心を常に快くすべし﹂として、その社会的実践
に努めた 。 こうした人間相互の関係交渉において、仏の慈悲の実現のための努力がなされている 。 さて、
日本で、慈悲の思想が根底となった実践 (
仏 教福祉)としては、孤児愛護事業、社会教化事業、国家鎮護活
動 、 善 導 ・寺子屋事業、貧民救護事業等の愛 他的・利他的行為があり、現代に 至っ ている 。
ま た 慈 悲 は 、 帝 王 ・為政者の﹁徳 ﹂ として備わ っているべきものであると考えられたようである 。 例えば、

6-
- 8
北 畠 親 房 や 一条兼良 、 月 庵 禅 師 、 徳 川 家 康 、 大 久 保 彦 左 衛 門 、 禅 僧 鈴 木 正 三等 が書き残したものにもそれが
みえる 。 また、封建諸候や 一般 武 士 の 間 で も 、 慈 悲 は 不 可 欠 な 徳 で あ ったよう で ある 。 但し、﹁集権的政治
権 力 の 強 化 に つ れ て 、 慈 悲 と い う 宗 教 的 な 政 治 理 想 が 現 実 の 政 治 の う ち か ら 退 い て し ま った事実 ﹂ を も 見 逃
してはならないであろう。
こ の よ う に 、 仏 教 教 理 、 な か ん ず く 慈 悲 思 想 は 、 歴 史 的 風 雪 に当たりながら厳然として世俗的現 実の なか
で諸々の社会現象の解釈や社会的諸問題の緩和 ・解 決 の た め 、 必 然 的 に あ る い は 方 便 と し て 広 汎 な 指 導 性 を
発揮してきた 。 こうした社会的有用性については、今日においても持ちうることを明確に意識しうるが、



-


れ を 、 現 代 に お い て そ う で あ る と 積 極 的 に 立 証 で き え て い な い よ う に 思 わ れ る 。願わくば、 いつの時代にあ
って も、仏教の理想を実現する誤りのない目標とその方策が要請 さ れる 。
それは、 現代社会の構造変化のもとで、人ぴとの生活と密着できうる慈悲思想の具体的・実践的展間にあ
って、何らかの問題性が生じているということに他ならない 。言 わば、仏教の﹁社会化﹂﹁現代化﹂という
課題でもあろう。
周知のとおり、 現代社会は健康で豊かな感情等健全な生活を求めていくうえであまりにも劣悪である 。特
に 経 済 ・ 物 質 中 心 の 価 値 観 が 横 行 し 、 物 質 的 な 欲 望 に 支 配 さ れ が ち な 社 会 状 況 に あ る 。 そのことが、生活環
境汚染、精神的な荒廃・欠如にも 一層の拍車をかけ、且つ孤独や人間関係・紳の稀薄化、過度の情緒不安定
・精神的 緊張 ・自己疎外などを増大させる原因ともな っている。その結果、人間関係は 人工的で虚飾に満ち
たものとなり、例えば共同・連帯意識、相互信頼を薄れさせる等、対人関係・家族関係・社会関係の荒廃を
もたらしている 。

7-
- 8
このように、現代社会は、人間性の喪失や人間関係の希薄化が叫ばれる 等、 いのちの尊さや、人間として
の基本的な生活の在り方が問われている 。つ まり、﹁こころの問題﹂が正しく自覚されにくい現状にある 。
そこで、こうした意識の改造・変革における仏教の有用性、具体的には、例えば慈悲思想による﹁こころ﹂
の裏づけが期待される。かかる実践、こ﹂そ慈悲の現代的展開の中中.心的機能であると


優先の価値観を是正する方向で、これらの病根に介入し、人さながらな﹁慈悲思想が充満する価値志向の生
活環境﹂を築くはたらきが要請される 。
それは、すなわち仏の超越的な光に浴し、生活における﹁生きた証﹂を相互に経験しあ って、日常 生活に
心 のうるおいと安らぎ ・豊かさをもたらすための魂を身につけるよう相互に促す(触れあい ・支えあい)実
践である 。 そのために、 人さながらな優しさと思いやりのある文化的な生活を奨励し、信仰心の芽生えと成
仏性をよびさまし (仏に帰依して自己を知り、報恩感謝の生活を送ることの 重 要 性 を 知 ら し め

い Bを
。促
た長

このように、あくまで慈悲思想に基づく﹁純粋な行動﹂をどこまでも発展せしめたい。

、 現代日本社会の特徴と仏教福祉
現代日本社会の特徴は、資本主義の構造的な欠陥と激変する社会 ・経済変動により、生活構造・様式の変
化をはじめ、技術革新・合理化、地域・農業構造の変化、労働力の流動化等の現象がみられ、 これらが生み
落としたさまざまな社会的諸問題は一層深刻化している 。 ま た 、 家 族 形 態 の 変 化 、 人 口 の 高 齢 化 ・ 少 子 化 等
人 口 構 成 の 変 化 は 、 新 た な 社 会 福 祉 ( 生 活 ) 問 題 を 生 み 出 し て い る 。 このように、現代社会に生活する私た

8
- 8
ちは、さまざまな生活問題の発生と紙 一重 の生活を強いられており、常に生活の危機・生命の危険にさらさ
れ続けていることを忘れてはならない 。
これら現代社会状況を背景に、八0年代から九0年代にかけての日本の社会福祉政策の流れは、日本型福
祉社会の追求とこれに基づく﹁福祉改革﹂が推進されているところである。特に、経済の低成長 ・鈍化は、
経済政策との関連において、社会福祉の政策 ・制度の合理化、サービスの効率化、行 ・財政のあり方等の課
題を形成した。
そ の 結 果 、 人 び と の 生 存 権 保 障 に お け る 国 家 責任(費用負 担 の 回 避 を 含 み ) を 暖 昧 に し 、 受 益 者 負 担 ・ 自
助努力の強調や、家族・隣保相扶の強化にな っている。あわ せて、物質・金銭給付を等閑視し、 比較的に財
政的負担の軽い対人福祉サービスや家庭(在宅)ケア中心のサービスへと変換させた 。また、人びと・ボラ
ンティアの連帯 ・役割分担による安上がりマンパワl代替策が見込まれていると指摘するものも少なくない 。
こうした状況の時代にこそ、仏教の社会的価値とその存在意義が問われる。つまり、慈悲思想に基づく
﹁資本主義政策としての社会福祉﹂の点検 ・批判 ・制 御 ・補 完 の 実 行 と 、 慈 悲 思 想 に よ る 仏 教 福 祉 の 推 進 の
活発化が叫ばれて然るべきである 。
なお、その際に留 意す べきことは、仏教、もしくは仏教福祉が﹁資本主 義政策としての社会福祉 ﹂ に従属
・埋没するようなことがないようしなければならない 。 言うまでもなく、 ﹁資本 主 義 政 策 と し て の 社 会 福 祉 L
と仏教福祉とは別個の 実 践形態であり、両者は併存関係にあることの基本的認識が必要だからである 。
言わば、仏教が社会科 学の 法則性を批判する立場たらないで、埋没してしま ったのでは仏教の根源性の自
己否定となる 。 こ の 点 、 特 に 要 注 意 で あ る 。

9-
- 8
つまり、政治・経済的行使は、本来、慈悲の精神にもとづくものであるというのが仏教の立場か ら の考え
方であり、そのように仕向けてい く (心の裏づけをしていく)ことが仏教の役割ということになる 。言 わば、
﹁仏教のも っすぐれた思想を歴史的社会 へ対決せしめ、それを 生成する L ことが極めて 重 要 な 現 代 に あ る 。
この基本的思想こそ、慈悲にほかな らない 。
したが って、現代社会において﹁資本 主 義政策としての社会福祉 ﹂ における社会科学の 限界を、仏教によ
って打ち破ることができるか 否 か、あ る い は 、 こ の ﹁ 資 本主義政策としての社会福祉﹂を批判的に超えると
いう立場から仏教がいかに 貢献するか、またそのことが可能であるかどうかということである 。
かかる認識をも って﹁資本主義 政策として の社会福祉 ﹂ へかかわ っていくとともに、同時に、こうした姿
勢で仏教福祉の 実践 に 従事 しない限り、仏教者の純粋な実践行も結局は、経済 ・物質中心の資本 主義的価値
に基づいて予期しない方向へと転用されがちである 。 その限りでは、人びとの福祉追求に 貢献することはで
きないであろうし、仏教の崇高な教理﹁慈悲﹂を人びとに伝えることもできない。
ところで、筆者は、慈悲思想に立脚して﹁現代社会への対応﹂を行なう際に、その 一環として、﹁資本 主
義政策としての社会福祉﹂に対する仏教の役割については、次のような点に留意すべきであると考えている 。
ω科学 における﹁人間﹂不在状況について、慈善思想に基づき点検・批判・制御することである 。 つまり、
現代の社会科学的(資本主義政策としての)﹁社会福祉﹂論がその科 学性 ・客観性を重んじるあまり、個々
の人聞の﹁価値・尊厳性の軽視﹂傾向を生じさせていることについての省察とそれへの﹁心の裏づけ﹂であ

ω現 代 の 社 会 福 祉 に お け る 官 僚 主 義 的 傾 向 の 問 題 点 へ の 補 完 と し て の 介 入 で あ る 。

- 90 -
ω ソlシャルワlヵーが自らの倫理感・人生観 ・科学観等 に樟さす場合の﹁実践規範﹂として、慈悲思想
は有意義である 。 ソlシャルワ lカl の実践の主体的契機として慈悲思想を活用する 。
い っぽう、仏教福祉の現状については、﹁資本 主 義政策としての社会福祉﹂が拡大 ・伸 展する今日、独自
の進むべき道に迷 っているのではないかという指摘も多い 。 つまり、仏教関係者の﹁資本 主義政策としての
社会福祉 L への関心が薄くなり、あるいは 、仏教福祉としての取り組みも消極的にな ったのではないかとい
う懸念である 。
慈悲の 実践は、法(教義)を説き、仏教を他者へ伝えること (仏に対する報恩) であるが それにもまし
て、慈悲心 の実 践化である社会奉仕(仏教福祉の 実践としてとらえる 。)こそ第 一に つとめられるべきこと
である 。また、戒律や教団経営よりも、この実践的行為が大切なのであることを認識しなおしたい 。 但し 、
この実践は、精神的側面だけに対応するだけでなく、物質的諸条件にはた らきかけ、その改良につとめるこ
とも慈悲行・利他行であるということをも忘れてはならない 。 それはまた、個別的・散発的なものだけでな
く、まとま った集団的な社会運動の形態をとることがのぞましいと考えられる 。
浄土宗義における福祉と慈悲思想
最後に、浄土宗における仏教福祉に ついて考察しておこう 。
法然の教説の極意は、﹁正明往生浄土﹂の教えである 。すなわち、念仏の教えが活きてくるように、﹁凡夫
の自覚﹂に立 って念仏を相続し、現実の自分に目を向け、自分のなかに仏性を見いだし、仏性を活動させる
ことによって自己を省察していくことにある 。 こうした念仏(人間苦・人生苦から衆生を救う約束)のため

1-
- 9
の﹁ 三心﹂(至誠心・深心・廻向発願心)が浄土教における﹁福祉﹂要素 であるといえよう。だからこそ、
仏の慈悲(大慈悲)に報恩しつつ、﹁命終を期とする救済﹂を確信する生き方は三心具足の念仏(本願に陪
順する行為)により可能なわけである 。
つまり、深く自己をみつめ、機悔しつつ、生かされていることの 喜 ぴをも って、仏(救われがたい私を救
ってくださる仏)の本願に従い(無条件に 信頼・肯定しておまかせ(全託)して、かぎらぬ心で聞かれた
(慈悲がみなぎる) 生 き方を自覚(われわれはどうあるべきかを自省)しつつ、弁証法的に﹁真 の自己﹂に
生まれ変わりあ っていくことをめざす。 そこに、生活向上に努める心も引き起こされ、必ずや苦悩・貧窮・
人権無視なども無くなる 。そこに、安らぎ(安心)が得られ、相互 に支援しあえ、共存・共栄していくこと
のできる﹁共生社会(福祉コミュニティ)﹂の 実 現を可能にするであろう 。 そのことが 浄土宗 における﹁福
祉﹂の大要である 。
このように、筆者は、慈悲を原型とした報恩行(菩薩行を超えたところ)として、人びとの幸せ(福祉)
を招く実践、すなわち念仏をすすめ、現世に﹁浄土﹂(福祉社会)を実現する努力、言い換えると、人びと
が平生に﹁人間らしく生きる﹂ことをめざす(往生思想)ことこそ、浄土宗における仏教福祉の機能である
と確信している 。
むすびに
回うまでもなく、慈悲思想を基盤とする仏教の指導性は極めて広汎なものであり、時代の潮流で行き詰ま
一言

ることはありえない 。要は、その顕し方が十分であるかどうかである 。

2-
- 9
そこで、これまで指摘してきた諸問題を克服していくうえで重要と思われる要点についてかかげておく。
例 慈 悲 思 想 に 基 づ い た ノl マライゼl シヨン(あたりまえ化)理念の具現化
慈悲思想の社会的実践における指標の一つとして、﹁ノ l マライゼl ション ﹂ の理念は重要な鍵と言えよ
う。具体的には、慈悲理念に基づいて、人びとが平等に交流しあうことのできる機会均等な社会の建設をめ
ざし、そのような社会的・精神的・物理的環境(人にやさしいまちづくり、人さながらな暮らしづくり)へ
貢献すべく、そうした仏教福祉の展開が待たれる 。
川慈悲思想に基づいた自立、共生をめざす福祉文化の創造
慈悲思想に立脚した﹁優しき ・思いやりあふれる福祉環境﹂ づくりにより、過依存 ・孤立のない自立した
個の確立と、触れあい ・支えあいの雰囲気に富んだ心暖かい慈悲ある生活をめざす ﹁福祉の文化 化
﹂ に尽力
すべく、そうした仏教福祉の展開が待たれる。
ω 慈悲 思 想 に 基 づ く 人 権 意 識 の 定 着 化
慈悲の思想に立脚して、人間の生の真実を直視し、生存権的人権の視点に立って、人ぴとの自己実現(自
立)をサポートすることを促進するために、人びとのこころや台所と直結することが不可欠である。また、
バリアフリーを暮らしのなかに根づかせ、 あらゆる差別をなくし全人間的復権を実現すべく、そうした仏教
福祉の展開が待たれる。
ω 慈悲思想に基づくQOL(生命 ・生活の質)の追求
人びとの 生活(経済 ・環境 ・健康 ・精神等の)がより豊かで文化的なものとして展開するよう、 Q O Lの

3-
向上に貢献すべく、そうした仏教福祉の展開が待たれる。

- 9
例 慈 悲 思 想 に 基 づ く 総 合 的な福祉サービス供給への参画
慈悲思想に立脚して、人びとの身近なところに一元的 ・計画的な福祉サービスを用意し、それらを﹁いつ
でもどこででも ﹂利 用できるようにするとともに、人びとの地域の福祉への理解を促進し、﹁最適な生活 ﹂
を創造するために寺院 ・僧侶が地域の福祉推進に全面的に参画すべく、そうした仏教福祉の展開が待たれる 。
なお、仏教福祉の推進にあたっては、要求充足だけをもたらすだけではなく、人間的な自覚をもたらすよ
う助成することが肝腎である。
要は、慈悲思想に基づいた社会的活動(仏教福祉)の展開をおこなうべく、国 ・宗教の違いや宗派を越え
て、地球的規模 ・通仏教による大周団結が喫緊の課題である。
註配
中村元 ﹃
慈 悲 ﹄ 平楽寺書庖 一九五七年。道端良秀 ﹃
中国仏教と社会福祉事業 ﹄ 法蔵館、 一九六六年などに詳しい 。
1

長谷 川良 信 ﹁偽教社会事業に関する 管見﹂(﹃
講 座 近 代 偽 教﹄大五巻、法蔵館、 一九六一年所収 一五一ページ 。
0 9 8 7 6 5 4 3 2

中村元 ﹃
前 掲 書 ﹄二 七二ページ。
例えば スッタニパ l夕、二二三ページ。
中村元 ﹃
前掲霊園﹄ 一七七ページ。
前 掲 書﹄ 一九 二 ページ 。
中村元 ﹃
宝 行 王 正 論 ﹄ に詳しい 。

4-
前 掲 書﹄二二 六ページ 。
中村元 ﹃

- 9
鉄限禅師 ﹄教養文庫、 八八ページ 。
赤松晋明 ﹃

正 法 眼 蔵 随 聞 記 ﹄第三巻

2 11 1

和辻哲郎 ﹃日本精神史研究 ﹄三O 六 ページ以下。


禅門法詩集﹄ 上)四八0 ページ 。
﹁行乞篇﹂(﹃
1

内藤完爾﹁宗教と経済倫理﹂(日本社会 学会 年 報 ﹃ 一九四一年所収) 二六0 ページ 。


3

社会 学
﹄ 第八緒、
4 1

中村元 ﹃
前 掲 書﹄ 。
一一 ﹂ハ四ページ
5 1
清水澄﹁仏教と現代﹂(﹃
偽 教 福 祉﹄第 二号 、 偽 教 大 学仏教社会事業研究所、 一九七五年所収) 三七ページ 。
6 1
拙論﹁ ﹃
浄土教報 ﹄等にみる社会事業展開の 一考 察 ﹂ (﹃日 本 仏 教 社 会 福 祉 学 会 年 報 ﹄ 第 二二 号
、 一九 九 一年 所 収 ) に 詳
1
述している 。
拙著 ﹃ 一九九七年。
7

仏教野外教育論 ﹄八千代出版、
8 1

拙論﹁青少年野外活動における宗教情操の教育・溺養﹂(﹃
偽教福祉 ﹄第 十五号、側教大 学仏教社会事業研究所、
1



八年所収)に詳述している 。
水谷幸正﹁仏教社会福祉論の展望﹂(﹃ 一九七五年所収)、三四ぺ l
9

偽教福祉 ﹄第四号、偽教大学仏教社会事業研究所、
1



詳細については、拙論﹁所謂 ﹃ 課題﹂(守
0

仏教福祉 ﹄論の明確化とその - 水谷幸正先生古稀記念論集 ﹄忠文閣、 一九九八年


2

所収) 七七 1八八ページ 。拙論﹁現代仏教福祉考﹂(﹃


福祉と文化 ﹄花田順信先生の古稀を記念する会、 一九九八年所収)
三01 一四0 ページを参照されたい 。
三浦文夫 ﹃
社会福祉経営論序説 ﹄碩文社、 一九八0 ページ。
1
2 2

5
- 9
一番ケ瀬康子﹃一二世紀社会福祉学﹄有斐閣、 一九九五年、 三四三1三四六ページに 学んだ 。
3 2

拙著 ﹃
現代社会福祉方法体系論の研究 ﹄ 八千代出版、 一九九五年。二八三 l二八四ページ 。
4 2

守屋茂 ﹃
仏教社会事業の研究 ﹄法蔵館、 、 七1十ページ 。孝 橋正 一 ﹃
一九七 一年 社会科 学と現代仏教 ﹄創元社 一九六
2

八年、二三0 ペー ジ。上回千秋 ﹁仏教社会事 業理論の学問的性質﹂(日本偽教学会 ﹃


年報 ﹄第 三 九号、 一九七O年所収)三
東海仏教 ﹄第 三二輪 、 一九八六年所収) 一1十 一
五六ページ。服部正穏 ﹁仏教社会 事業論 ﹂(﹃ ペ ー ジに学ぶところが大きい。
森永松信 ﹃ 一九七五年、 三九 三1四六五ページ。
6 25

社会福祉と仏教 ﹄誠信書房、
高橋弘次 ﹃
法然浄土教の諸問題 ﹄ 山喜
一房、 一九九三年。服部正穏 ﹃
続法然浄土教思想 ﹄千子閣、 一九九五年 。奈倉道隆
2
﹁浄土教に基 づく 共生思想と大 学教育﹂(日本印度仏教 学会 ﹃
印度拳偽教象研究 ﹄第四六巻四二号、 一九九八年所収) 三O 七
i三一 三ペ ージ。深貝慈孝﹁法然上人と ﹃ ﹂(悌教大学法然上人研究会 ﹃
観念法門 ﹄ 法然上人研究 ﹄ 一九九五年所収)などを
参考にした。
(幻) 一番ケ瀬康子 ﹃
前掲書 ﹄ に詳しい。
(却) 長谷川匡俊 ﹃
近世浄土宗の進行と教化 ﹄北辰堂 一九八八年、 三i 二七 ページに学んだ。
(悌教大学教授 )

6-
- 9
創刊初期における雑誌 から見る椎尾弁匡
士t

﹁共生﹂運動の展開


ホ水
オミ




はじめに
、、

.-
.'


"


/

7
- 9
一九九O年を前後して以降、 ﹁
共生﹂なる用語が生物学や生態学における ﹁
異種の生物が一緒に生活し、
E22の 訳 語 と し て ば か り
互 い に 行 動 的 あ る い は 生 理 的 な 結 び つ き を 定 常 的 に 保 つ こ と ﹂ を意味する a B
でなく、様々な領域から ﹁一 二 世 紀 に 向 け て の キ ー ワード ﹂ と し て 取 り 上 げ ら れ て い る が 、 近 年 で は ﹁ 共
生﹂ の先駆的な提唱 ・実践者として浄土宗僧侶の椎尾弁匡(一八七六 l 一九七一)を取り上げるものも少な
くはない。
椎尾は明治 ・大正 ・昭和にかけて仏教の社会 化 に尽力し 、 その生涯において様々な活躍をされた人物であ
るが、同時に ﹁共生 ﹂を ﹁
ともいき ﹂と読み、浄土宗門の枠を越えて広く 仏教と寺院の社会的展開を重視し
つつ、 地域に根ざした ﹁共生 ﹂ 運動の提唱 ・実践者として、渡辺海旭、矢吹慶輝、長谷 川良信等とともに近
代仏教社会事業史に名を残す先達でもある。しかし一方、椎尾における﹁共生 ﹂ 思想そのものに対する教義
的内容検討等の先行研究は少なからず見られるものの、 椎尾の社会的活動や﹁共生 ﹂運動の実態を史資料に
即して明 らかにしていくような歴史的検証を伴った研究については、筆者の知る限りその数は少ない。
共生 ﹂運動は、椎尾の ﹁
﹁ 共生 L の思想 ・信仰を基調として一九二二(大正一一)年に発足した ﹁
共生会 ﹂
を中心に、その後の椎尾の積極的な社会的活動とともに全国的に展開され、一九一二一(昭和六)年には財団
法人﹁共生会﹂として再組織 化 さ れ る に 至 っ て い る が 、 そ の 運 動 の 根 本 に は 、 常 に ﹁
共生 ﹂ の理念を知何に
現実生活に活かし且つ実践していくか、というものがあったと考えられる。
そこで本稿においては、 ﹁
共 生 会 ﹂ の機関誌﹃共生 ﹄を基礎資料として、その創刊初期の誌面を通して明
共 生﹂ 運動の展開について、考察を試みてみたい 。
らかとなる ﹁

8一
発足前後の ﹁

共生会 ﹂ について


-

.
-

9
-

本稿を進めるにあたり、まず﹁共生会﹂発足に至る経緯及び雑誌 ﹃
共生 ﹄創刊前の活動状況について若干
触れておきたい。
山﹁共生全 発足の経緯

一 )年に行われた ﹁
先に述べたように、﹁共生会 ﹂ は 一九 二二 (大正 一 第一回共生結衆﹂がその運動の具
体的な始まりであったが、その着想は数年前に遡る事が出来る 。 その発端は、広く社会的背景としてみれば
第 一次世界大戦を契機とした急激な好景気による国民 一般の害修と、それとは裏腹の社会主義、労働運動等
を通じて煽られる社会不安、思想的動揺等が挙げられよう。そのような社会状況の中、椎尾個人としては、
一九 一七(大正六)年 一
二 月 二八日、﹁毎月のごとく 二燈全に出席したとき、あるお方より大正天皇は日本
の現状をことのほかお悩み遊ばされたもうていることを承った。(中略)誠に畏れ多き御悩みあらせられる
ことを洩れ承 って、赤子として大いに考えねばならぬと深く決するところがあ﹂り(椎尾弁 匡 一 九七 三 一
三一二)、また期せずして翌 一九 一八(大正 七)年、浄土宗管長山下現有の伊勢大廟並びに明治天皇の桃山
御陵への参持を機とする国民覚醒運動としての時局特別伝道の開始に伴い、﹁まず一宗をあげて時局覚醒の
運動に着手し、五条七件の要目に基づき正義、業務、時間、節約等の項目について仏教信仰上または国民生
活 上 か ら い か に 処 す べ き か に つ い て 極 力 覚 醒 に 努 力 い た し ま し た 。 これが共生運動の起源といわれるべきも
のであります ﹂(同 上一 三二ニ )と述べている 。
その後、 芝中学校寄宿舎講堂興国殿における仏教の連続講演会、布教師の伝道指導の場である白明会の例

、 二灯会の運動、本郷十方寺にて行われた﹁正態の浄土教﹂連続講演会等の﹁共生結衆﹂の準備運動と見

9
9
るべき様々な活動を経て、一九二二(大正一一)年春には﹁共生 ﹂という会名も決まって ﹁
第一回共生結
衆 ﹂ の準備が行われ、開催の運びとなったのである。
間﹁第 一回共生結衆﹂の内容とその後の状況
一九 二二 (大正一 一)年、鎌倉光明 寺にて六月二一日夕刻の 開会式から二六日の夕食後の解散までの六日
間(実質五日間)、(椎尾を含め)講師共合わせて五三名の参加者によって行われた﹁第 一回共生結衆 ﹂ は

私 共は人生共存の大義と共生極楽の決定を
そ の ﹁ 結 衆 の 趣 意 書 共 生 会 の 第 一回結衆に就て﹂によれば、 ﹁
致すものとして、この共生会を企てました 。 要 は 真 の 人 生 を 求 め 、 強 い 信 仰 に 立 ち た い と す る 集 ま り で あ り
ます﹂(吉原自覚 一九一
一 一二七九)としており、また ﹁

一 此 の会は 一宗 一派に偏するものではありません。
仏教の本義と極致とに 立ちて、真 人の生活を体現せんとするのですから、これに共鳴せらるる諸君は皆共生
の同法同行であります﹂(向上一二八O) とその門戸を広げると共に、参加者に対しては﹁六日間の会合に
依りて緊張と真実とを体験して、家に、隣聞に、寺門に、宗派に、総ての共生に於ける範式となって項きた
いのであります﹂(同上) と、その効果の程を期待している。
さて、このような趣意のもとに行われた﹁第一回共生結衆﹂の具体的な内容とは、椎尾の指導講演を主と
しつつ、参加者 全員が起居寝食を共にして、清掃、体操、静坐、念仏、礼拝、共生のっとめ、読諦等の 折り
込まれた、朝四時半起床夜一 O時就床の六日間の日程を過ごすというものであり、実際の結衆の中にあって、
椎 尾 の ﹁ 深 奥 な る 法 界 の 実 相 よ り 湧 き 出 る 口 業 説 法 ﹂ ( 藤 井 賓 謄 一 九 八 一 一 四)のみならず、参加者に


混じって草むしりから配膳給仕まで分け隔でなく行う率先垂範の身業説法は、参加者に大いなる感動を与え
るとともに、一同﹁緊張充実の生活を体験するものであった 椎尾博士喜寿記念会一九五一二一八六)。ち
L(

0
- 10
なみに、本結衆の参加費用は、 一人五固(食費等込 ) であった。
その後、﹁第 一回共生結衆﹂の成功を踏まえ同年中に﹁第二回共生結衆﹂を大阪西福寺で 一O月二六日か
ら三O 日までの五日間、﹁第三国共生結衆﹂を釜山知恩寺で一一月 一日から五日までの五日間、﹁第四回共生
一 月九日から 一三 日までの五日間を、それぞれ行っている 。発足初年度にしてすで
結衆﹂を桐生浄運寺で 一
に全国に跨って四回の結衆を実施するという 事実 は、﹁共生会 L がすでにある 一定の組織力と実行力を伴 っ
ていたことを示しており、この﹁共生﹂運動が 一朝 一夕の思いつきの下に始められたものでなく、先の﹁ ω
﹁共生会﹂発足の経緯﹂で述 べたように椎尾の深い思想信 仰を経て 生み出された、ある程度の準備段階を経
て実施に移された運動であることを物語っているといえよう 。
創 刊 初 期 の雑誌 ﹃共生﹄ に つ い て


'

一 -
-
..
-

-

雑誌﹃共生 ﹄ は ﹁
第一回共生結衆 ﹂ から遅れること約一一ヶ月、 一九 二三 (大正 三 乙 年 五 月 一日に第 一
巻第一号が創 刊されて以降、戦前 ・戦 中 ・戦後を通じて ﹁共生会 L の機関誌として常に定期的な発行がなさ
れてきた雑誌である。ただし、創 刊 四ヶ月後に関東大震災という予想外の影響を受けたこともあり、(﹁
共生
会 ﹂ としての震災後の建て直しも含めて) 雑 誌 と し て 安 定 し た 編 集 構 成 及 ぴ 発 行 が な さ れ る ま で に は 暫 く の
時間をか けなければならなかった。そ こで本稿では、 一応雑誌の発行が軌道に乗り始めたと考えられる、一
九 二五(大正 一四)年 二月二O 日発行の第 二巻第 一
O 号までを創刊初期と位置づけて、まず同期にお け る雑
誌 ﹃
共生 ﹄ の全体像を簡単に紹介 し ておきたい。
ハU
川創 刊 初期の雑誌 ﹃共生 ﹄ の全体像
一九 二三 (大正 一二)年五月一日の第 一巻第 一号 (創刊号)は四六版で全七六頁、目次構成は ﹁
発行の趣
意﹂ 二頁に続いて六O頁 を 用 い て 椎 尾 の 講 説 ﹁
真 生 の 函 養 ﹂ の掲載があり、以降 ﹁
時事 開宗 記 念 事 業 ﹂・

質疑 ﹂﹁ 会た よ り﹂・﹁ 要求 L と続いているが、 全頁数の九割以上が椎尾のみの執筆で占め られている点に

ついては創 刊号のみの変則的な編集構成であるといえる(この事は 、創 刊時点での編集方針の細部における
未確定 を示して いる反面、満を持して発刊された雑誌 ﹃
共生 ﹄と ﹁
共生 ﹂運動にかける椎尾の 意気 込みが窺
えるものでもあると


この後月刊誌として毎月 一日発行であ ったが、同年九月の関東大震災の 影響 により、 第一 巻第 五号の発行
一 月にずれ込んでいる 。 ただし第六号及び七号は不安定ながらも月 一回の発行がなされており、
のみ同年 一
翌一九 二四(大正一三)年の第八号より発行日が毎月 二O 日と変更になってからは、定期的に発行がなされ
ている。また、(第一巻弟一号及び 二号は未確認の為)第 三 号の奥付には、編集発行兼印刷人は福井明賢、
印刷所は東京小石川の株式会社博文館印刷所、発行所は東京芝公園十号地一番の共生会中央事務所となって
いる。その後印刷所については第二巻第一号までは株式会社博文館印刷所であるが、第二巻第四日すからは名
古屋市中区の名古屋印刷株式会社へと変わっており(第 二巻 弟 二号 及び 三号 は未確認)、発行所についても、
第 二巻第六号巻末の﹁謹告﹂にて﹁近時益々事務の繁忙を加えて参りましたので、今回本曾の出版に関する
諸 般 の 事 務 を 東 京 麻 布 区 奔 町 百 武 拾 六 番 地 共 生 全 出 版 部 振 替 五 七 四 八 三番 に 別 置 移 管 す る 事 に な り ま
した 。 従 って発行所も出版部に移す事と致しました﹂として同号より共生会出版部に変更となっている。実
際、移転後の第 二巻 第 九 号 巻 末 に は 、 共 生 会 出 版 部 発 行 の 稚 尾 の 著 書﹃ 聞 か る る は 生 か 死 か 活 け る 浄 土
教 ﹄ の発売広告も見られることから、これら印刷所や発行所の変更・移管は、関東大震災という災害に見舞
われながらも、会として新たな活動展開の段階にはい った 事 を 示 し て い る と い え よ う 。 (尚、編集発行兼印
一 )年の第 一回結衆の準備段階より﹁共生﹂運動に関わ っている人物で
刷人の福井明賢は 一九二二 (大正 一
あり、 一九一

一一 (昭和六)年 の財団法人 ﹁
共 生会﹂設立に際しては、常務相談役となっている。)ちなみに、
雑誌の定価は大震災の前後も変わらず 一部 二O 銭であ った。
ω執筆陣及び編集方針等
次に編集方針及び執筆陣等についても若干触れておきたい 。
O号)﹂からも明
資料として本稿末に添付した﹁雑誌 ﹃共生﹄ 目次 一覧 (l)(第 一巻第 一号1第二巻第 一
らかなように、毎号とも執筆の少なからずの部分は椎尾弁匡の論文や講演録等であり(その内容が全て平易
なものであるとは言えないが)、常に椎尾自身の 言葉 を通して﹁共生﹂の思想を 一般読者に伝えていこうと
する姿勢が窺える。それにしても、毎号掲載される主要論文の量は決して少なくなく(三O頁から四O頁前
後)、またそれ以外でも﹁(維尾)節堂﹂(号)名義で複数の文章が掲載されており、椎尾のある種超人的な
活動の一端をかいま見ることが出来るといえよう 。
また、椎尾以外の執筆陣については、富津説成や吉原自覚、伊藤宏天等とい った浄土宗僧侶として椎尾に
師事するとともに、﹁共生会﹂発足時からその運営を担 っていたと考えられる人物が、椎尾の﹁共生﹂思想
を受けての悌教的自覚や修養等について論じているものが数多くみられ、創刊初期に関していえば、執筆陣
や目次内容を多彩にすることで読者の目を引くというような編集方針は窺えない。ただし、その後 ﹁
共生

3-
会﹂では 一九 二四(昭和四)年一 一月より ﹃
共生﹄ とは別に ﹃ともいき ﹄を毎月発行、徐々に掲載内容の棲

0
み分けを行 ってい ったものと考えられる 。例えば 一九 三五(昭和 一

- 1
O)年四月の第 一三 巻第四号の奥付には、
﹁機関 誌改良の方針 L とし て ﹁﹃
ともいき ﹄ 四六版 三 十 二頁、定価五銭、美談実話を多くし、平易に肩のこ
らないものにし、 なるたけ多くの人より原稿を募集す。 ﹃ 共生 ﹄ 頁数は六十頁前後、内容精選、変化を与
へ時代的感覚を益し、 地方と の連絡をはかる﹂と記されている 。
(四) 創刊初期の雑誌 よ り 窺 え る ﹁共生﹂ 運動の展開




山﹁共生結衆﹂の展開について
表①は第一巻第 一号 中の﹁会たより﹂に掲載された、 一九 二三 (大正 二一 )年の五月から六月にかけての
椎尾の講演日程を 書 き 出 し た も の で あ る 。 ﹁
私 の講演は特殊の講義でない限り当分は ﹁
共生 ﹂主義の 講演の
みの積りですが、今の処定ま って居る日取は左の通りです﹂と前置きの上提示された日程は、 その日程の過
密さもさることながら、表① の通り前年にも増して﹁共生﹂運動の全国的な展開を視野に入れた講演活動で
あると 言えよう。

-名商会、名古屋、瑞賓寺(五 / 六) -二燈会、大阪、泉吉次郎宅(五 /二O)


・慈友会、名古屋、伊藤銀行中支庖(五/六) ・大国寺、京都、同寺(五 /二一 )
-記載無し?(五 /七) 五 /二 五)
・心法寺、東京、同 寺 (
・白明会、芝、常行院(五 / 九) ・上毛モスリン社、群馬、同社(五 /二 六)

4-
・光明会、長岡(五 /一一 l 一四) ・二燈会、足利、法玄 寺、(五 /二 七)

0
- 1
・二燈会、和歌山、寓性寺(五 /一 八) ・名古屋、慈友会(五 /三一 1六/ 五 ) 第 八 回
・兵神組、神戸、勧業館(五 /一 九) 共生結衆 !
※ ﹃
共生 ﹄第 一巻第 一号七 一1七 二頁より
共生 ﹄ から窺える 主 な共生結衆関連事項を掲載号順に整理したものが表② である 。
また、創刊初期の雑誌 ﹃
この表からも知られるように、この時期の 主 な﹁共生﹂運動の実際とは、全国各地で行われた﹁共生結衆﹂
である 。 ﹁共生結衆﹂の開催状況は、雑誌創刊の前年である 一九 二二 (大正 一
一 )年に四回、 一九 二三 (

正 三 乙年には九回、 一九 二四(大正 一三 )年には 主だ った結衆だけで 一二 回が数え られ、その規模も東北
から九州、釜山までまさに全国規模の運動であり、その 実施状況についても決して人口が多いとはいえない
地方町村にあって、例えば長野県の上諏訪で行われた第九回の結衆のように一 O O名を越える参加者がいた
事にも驚かされる。また、それぞれの ﹁
共生結衆 ﹂ の開催予告や開催後の実施報告は比較的正確になされて
おり、それに参加した読者からの便り等も各号より確認することができる。

掲載号 共生結衆関連 事 項
第 一巻 -第 一回、鎌倉、光明寺(六/一 一1二ハ)
第 一号 -第 二回、大阪、西福寺 (一O /二六1三O)
一 / 一1五)
・第三回、釜山、知恩寺 (一
ハU
-第 四 回 、 桐 生 、 浄 運 寺 (一 一 /九 1二ニ )
※以上、第四固までは大正 一
一 年中に行われた事の報告 0
・第五回、芝、増上寺 (一/二 五 i三O)
-第 六 回 、 松 江 、 東 林 寺 (三/二 六 1三O)
-第七回、東京、 宗教大学 (
四/一 八 よ 一
三)
-第八回、名古 屋、慈友会(五 /三一 1六/ 五)
・第九回、上諏訪、正願 寺 (六月中)
O回、釜山、知恩寺(八 /二 より)
-第 一
一 回、京都、開教院(開催の形跡確認出来ず)
-第 一
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-その他、長岡は五月中旬、滋賀は希望はあるが日程調整が難しい様子、七月上旬には台湾に
て講演、鳥取県米子は七 / 一八より、八月上旬は朝鮮各地、中旬から下旬は長崎、佐賀、福岡
地方に、その後香川、奈良等にて開催予定 。 関東各地、静岡、金沢は未定 。
※以上、﹁各地の共生運動﹂より
創刊初期の各 号 の目次構成のみを見た場合(添付資料参照)、 一見、雑誌 ﹃
共生 ﹄は ( 一部機関誌が陥り
がちな)椎尾の個人雑誌のような印象を与える場合もあるかもしれない 。 し か し 実 際 に は 、 椎 尾 の 思 想 信 仰
を一方的に発信するだけではなく、創刊初期の比較的早い段階から機関誌として全国各地の﹁共生同人﹂を
結ぶ情報交換的な場の役割も果たしていたのである 。 n
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本稿はあくまで創刊初期のみに限定した 一考察であり、本稿をも って早急に結論を出すつもりはないのだ

、 一九三一 (昭和六)年の財団法人共生会へと連なる﹁共生﹂運動の全国的な発展過程には、(むろん椎
尾自身の超人的な社会的実践活動があ ってこそではあるが)雑誌 ﹃
共生 ﹄ の安定した発行による広報的な相
乗効果もその 一因として考えられるのではないだろうか 。
ω ﹁共生同人﹂の活動について
今 一つ、﹁共生結衆﹂以外で指摘しておくべき点としては、﹁共生全﹂そのものの活動という位置づけでは
必ずしもないものも含めて、いわゆる﹁共生同人の活動﹂として時に紹介されるその活動の間口が非常に広
いということである 。表③ は、表② と同様に創刊初期の雑誌 ﹃
共生 ﹄ から窺える 主な共生同人 の活動関連事
項 を 掲 載 号 順 に 整 理 し た も の で あ る が 、 こ の 表 ③ からも明らかなように、その活動は﹁朝鮮釜山での共 生女
学院開校 ﹂(第 一巻第九号)、 ﹁郡山 生 活 改 善 委 員 会 の 設 立 趣 意 書 及 ぴ 規 約 紹 介 ﹂
(共に第二巻第八号)等、教育事業、教化事業、社会事業等とまさに様々である 。
表③
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発足前後の ﹁
共生会 ﹂自体には具体的な事業目的が必ずしも明確にあるわけではなく、 しいていえば毎号
とも巻頭に掲載されている ﹁共生の主張﹂(または﹁主張﹂)に述べられているところの、
-私共は同信協力を通じて成就衆生の大道を辿らんとするもの、国境も民族も選ぶ所ではありません 。
・私共は同事の聖訓を奉じて分担強調の 二辺を完ふせんとするもの、貧富も男女も隔つる所ではありません 0
・私共は共存の実義を体して共生浄土の成就を念ずるもの、利鈍も強弱も相携ふる考えです。
・私共は無量の光蕎に接せられて智目行足の精進を心とするもの、智思も能不も帰一する積りです 0
.私共は知来の霊徳に 化 せられて偏狭愚痴怠慢卑弊の打破さるることを希念して己みません。
(一部 抜粋)
※ ﹁
共生の主張 ﹂ または﹁主張 ﹂ は、第 一巻第一号の み ﹁
発刊の趣意﹂として掲載されている。
等といった理念としての真の生き方を、社会的な日常生活での実践の中から見いだしていこうという思想
・信仰の実践がその目的であるといえよう。そして、この事が共生同人が真筆な姿勢で行うさまざまな社会
実践活動の、その全てが幅広い意味での ﹁
共生 ﹂ 運動の一環として捉えられ、また受け入れられてい ったと
考えられるのではないだろうか(更にいえば、活動の間口の広さはそのまま椎尾の様々な社会的実践活動と
も一致するものであり、その意味では ﹁ 共 生 会 ﹂ 以前より行われていた椎尾の関わる様々な会や活動が、
﹁共生﹂活動の 一環と し て 収 敵 さ れ て い く の も あ る 種 納 得 の 出 来 る 事 で は あ る 。 つまりこの ﹁
共生﹂運動の
解釈の幅の広さは、まさに﹁共生﹂思想に基づきつつも様々な社会的実践を行 った椎尾弁匡自身の活動その
ものを表しているともいえるのである)。
(五)


創刊初期の雑誌 ﹃
共生 ﹄ の内容検討等を行う事により、同時期の﹁共生会﹂及ぴ﹁共生﹂運動の展開状況
の一端が明らかに出来た と思う。ただし筆者は ﹁
共 生会 ﹂及び﹁共 生﹂ 運 動 の 一つのピークは一九 一
二一 (

和六)年の財団法人﹁共生会﹂としての再組織化であると考えており、そこに至る﹁共生﹂運動の実体を資
料的に明らかにしていくことが、椎尾弁匡の社会的実践活動と﹁共生﹂思想を理解していく方法論の一つで
あると位置づけている 。 その意味で本稿は、その道のりのほんの入り口にすぎないと認識しており、今後も
共生 ﹄ の内容検討を継続して行 っていきたいと考えている 。
年代及び巻 ・号毎の雑誌 ﹃

(l) 例えば ﹃日本仏教 学会年報第六四号 ﹄ (一九九九)は、﹁仏教における共生の思想﹂なるサプテーマの


もとコ二論文が掲載されているが、直接椎尾弁匡について論じられた大南龍昇 ﹁
椎 尾弁匡師と共生浄
O論文において、何らかの形で椎尾弁匡と﹁共生 ﹂につ いて触れられていた 。 ただし、
土﹂を含めた 一
いわゆる﹁仏教﹂という比較的限られた枠内にあ ってもその評 価 は 非 常にばらつきがあり、今後ある 一
定の共通認識を築く為にも、椎尾弁匡に関する基礎的な調査 ・研 究は必要であろうと考えられる 。
(
2) 藤吉慈海は、渡辺海旭、矢吹慶輝、長谷川良信、椎尾弁匡等を﹁浄土宗社会派の人びと﹂して評価を
している(同著 現代の浄土教 ﹄大 東 出 版 社 他 )。また長谷川匡俊は﹁近世・近代浄土 宗
一九八五 ﹃
における仏教福祉思想の系譜﹂(一九九七﹃大正大学研究論叢第五号﹄) の中の一人に椎尾弁匡を取り上
げて論じている。
(3) 歴史的検証を伴った先行研究として代表的なものは、﹁共生会﹂に関するものとしては藤井賓謄 一九
七七﹁椎尾弁匡先生と共生の教化運動﹂(﹃
浄土宗学研究第九号 ﹄)、椎尾弁匡の社会実践活動を資料的に
明らかにしているものに長谷川匡俊 一九八九﹁大正期の﹁寺院改造﹂運動における慈友会の社会事業﹂

(仏教福祉第一五号 ﹄
)等があげられる程度であろうと考えられる。なお、椎尾弁匡に関する先行研究
については、稿を改めて論じたいと考えている。
(4) ﹁
共 生会 ﹂ 及 び ﹁ 共 生 ﹂ 運 動 に 関 す る 歴 史 的 な 部 分 を ま と め た も の と し て は 、 先 に あ げ た 藤 井 実 応
(3) 前掲論文の他に、吉原自覚一九 一三 ﹁共生の思想 信仰と其の運動﹂(﹃
浄土宗布教全書第二四巻 ﹄
共 生三O年 史 ﹂(同会編著 ﹃喜寿 記 念 椎 尾 博 士
浄土教報社)、椎尾博士喜寿記念会編集部編 一九五 三 ﹁
と共生 ﹄非売品)、浄土宗布教伝道史編纂委員会一九九 三 ﹁第六 章 昭 和 初 期 ﹂(閉会編 著﹃浄土宗布教
伝道史﹄神奈川新聞社) 等があげられる。
(5) 二燈会とは、一九 一五(大正四)年頃より福原俊丸元男爵邸宅にて毎月行われていた求道の会合であ
り、当初は宮津説成が中心となっていたが、後に椎尾弁匡が中心として関わるようになっていた(椎尾
博 士 喜 寿 記 念 会 編 集 部 編 四 ) 前 掲 書 他 )。
(6) 国民覚醒運動及び時局特別伝道等については、浄土宗布教伝道史編纂委員会 (4) 前掲書の他に、今
本地垂遮信仰と念仏 ﹄ 法議館)等が詳しい 。
堀太逸一九九九﹁第七章浄土宗の時局特別伝道﹂(同著 ﹃
ちなみに今堀論文によれば、 一九 一六(大正五)年当時、﹁仏教連合会においてその指導的役割をはた
していたのが、浄土宗では椎尾弁匡であ﹂ることや (同書三九一頁)、 一九 一七(大正六)年八月四日
付けで浄土宗管長より任命された 一七名の特命巡教使に椎尾弁匡が 加わ っていること等が確認できた
。これら は、今後椎尾弁匡の﹁共生﹂運動着想の時機を再検討していく上でも、 重要な
(同書四 一六頁 )
点となってくると考えられる。
(7) 共生会発足に際しては、宮津説成、吉原自覚、福井明賢、戸松学瑛等の同人が準備に関わったが、中
でも強く椎尾弁匡に会の発足を強く働きかけていたのは宮津説成であった。(吉原 (4) 前掲論文二七
四 1二七八頁及ぴ、椎尾博士喜寿記念会編集部編 (4) 前掲書八三頁)。宮津説成については、 ﹁
共生
会﹂発足時より閉会理事の立場にあった人物でもあり、今後﹁共生﹂運動を研究していく上で欠かせな
い人物の一人であると考えられる。
8) この ﹁趣意書 ﹂は ﹁共 生 会 代 表 文
( 椎学尾博弁
士匡 ﹂ の名義で﹁大正一一年六月 ﹂ に出されている
(椎尾博士喜寿記念会編集部編 (4) 前掲書八五頁)。
(9) 研究、教育、社会的実践と、実際に椎尾弁匡と関わりをもった人々の中で、様々な場面において椎尾
弁匡のその精神力や行動力の強さについて触れる人は少なくない。(ここでは一例をあげるに留めてお
くが)碩学として名高い中村元氏をして、﹁先生の透徹した理解力と学問的気暁は全く超人的であ った
と申し上げてよいでしょう。 (中略)当時は資料も少なく、指針も与えられなか ったでありましょう 。
そのような時代にあのように鍛密なご研究をいくつも発表になられましたことは、これは全く人間業を
越えているとしか思えません。超人的であると申し上げるゆえんでございます。 ﹂(同著一九七三 ﹁
椎尾
一 l 一二頁
先生の教学﹂ 一 共生全編 ﹃
椎尾弁 匡先生の教学と信 仰 ー周忌追悼講演集│﹄共生会)と
いわしめている。
(叩) 第一巻第一号にて開催が告知されていた第一一回の京都、開教院での共生結衆については、その後の
共生 三O年史﹂においても開催の
号でも(開催の有無も含めて)特に触れられておらず、先に掲げた ﹁
記録は残されていない。本稿においては、一応雑誌 ﹃
共生 ﹄ での当初の記載を尊重して 一九 二三 (大正
一二)年の ﹁
共生結衆﹂の回数を九回としているが、実際は京都では行われず八回であ った可能性が強
いと考えられる。
※本稿は、淑徳大 学平成一一年度大学院生 研究費補助金による研究(研究題目一椎尾弁匡の社会的実践活動
と共生思想)の成果の一部をとりまとめたものである 。
※※淑徳大学大学院社会学研究科社会福祉学専攻博士後期課程
[引用文献]
・椎尾弁匡 一九七 一
ニ﹃ 共生の基調 ﹄﹃ 椎尾弁匡選集第九巻 ﹄山喜房 悌 書 林
・椎尾博士 喜寿 記 念 会 一 九 五 三 ﹃喜寿 記 念 椎 尾 博 士 と 共 生 ﹄非売品
・藤 井 実 応 一 九 八 一 椎尾弁匡先生の片影② ﹂ ﹃
﹁ 在家仏教第三O巻第三四一号 ﹄在家仏教協会
-吉 原 自 覚 共 生の思想信 仰と其の運動﹂ ﹃
﹁ 浄土宗布教全書第 二四巻 ﹄浄土教報社


資料一雑誌 ﹃
。第 一 巻 第 二号

。第 一 巻 第 一 号
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大正 一二 年 六 月 一日発行

大正 一二 年 五 月 一日発行
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。 第 一 巻 第 四号

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大正一二年六月一日発行

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。第一 巻 第 六 号

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大正 一二年一二月一日発行

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大 正 一三 年 一月 一日 発 行
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。第 一巻第八 号
。第 一巻第九号
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大正 二二 年 二 月 二O 日 発 行
大正 二二 年 三 月 二O 日発 行


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大正 二二年五 月 二O 日 発 行

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。第二 巻 第 二号


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大正 一三 年 六 月 二O 日発行

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。第二巻第四号

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大正 一三年八 月 二O 日発行

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。第二巻第五号
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大 正 一 三 年 九 月 二O 日 発 行

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。第 二 巻 第 六 号

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。第二巻第八号

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。第二巻第九号
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※※各号の 一部 に 、 奥 付 等 の 正 確 な 最 終 頁 が 確 認 で き な

※本資料は、大正大学図書館所蔵の雑誌﹃共生 ﹄第一巻
第 一 号1第二巻第一 O 号をもとに作成した。
同 新 同 質 各 湖 神 我 i
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記してある。
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平成十 二年 に 介 護 保 険 制 度 が 実 施 さ れ る こ と に な り 、 社 会 福 祉 基 礎 構 造 改 革 と い う こ と が 話 題 と な っ て い
る。新しい制度が実施されることにより、利用者とサービス提供者との聞に契約概念が導入されたり、施設
経営という観点が重視されるようになることで危倶を憶える声も挙がっている 。
確 か に こ れ か ら 行 わ れ よ う と し て い る 社 会 福 祉 に お け る 構 造 改 革 に よ って、福祉に対する考え方の変化が
生じてこよう。
こ の よ う な 状 況 に お い て 小 稿 で は 、 仏 教 を 前 提 と し た 社 会 事 業 を 行 った長谷 川良 信 ( 以 下 長 谷 川 とする)
が 、 目 指 そ う と し た も の に つ い て を 考 察 す る 。 長谷 川 に つ い て の 研 究 は 、 そ の 福 祉 思 想 、 人 物 研 究 と も 多 く
の先行研究があり様々に語られている 。 ここでは、長谷 川 の残した膨大な著作から、その思想を検証するの
ではなく、仏教社会事業についての考えの一端を示すものである 。 時代は異なると錐も、長谷川の思想と実
践を理解することは、これからの社会福祉についても、宗門社会福祉の在り方にも、大きな示唆を与えてく
れるものと考える。
先ず、 長谷 川 の社会事業を理解する手掛かりとなるための著作を、芹 川博通 の例にならって、 ﹃
長谷川良
信選集﹄上 ・ 下 (長谷 川仏教文化研 究所、昭和四八年)に収録されているものを中 心としてい くつか挙げて
みる(下部に(上)と記してあるものは﹃長谷川良信選集﹄ 上巻に、(下)と記してあるものは下巻に収録
さ れ て い る も の で あ る 、 ま た ( ) 内 の ﹃﹄ は底本を示している)。
本宗社会事業の大体を論ず ﹂(﹃
﹁ 浄土教報 ﹄大正六年)(下)
﹁マハヤナ学園創立趣意書﹂(マハヤナ学園、大正八年)

社会事業とは何ぞや ﹄ (マハヤナ学園出版部、大正八年)(上)
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﹁社会事業と宗教との一面観 L(浄土教報 ﹄大正八年)(下)
﹁浄土宗社会事業の将来﹂(﹃ O年)(下)
浄土教報 ﹄大正 一

社会問題と宗教思想﹄(共著、大東出版社、大正 一五年)(下)
﹁通仏教及浄土宗の信仰より見たる社会事業﹂(﹃
浄土教報 ﹄大正 一五年)(下)
﹁社会 奉仕に就いて(上) ・ (下)﹂(﹃
教学週報 ﹄一 八・一九号、大正 一五年)
﹁仏教社会 事業概観(一)﹂(﹃
浄土教報 ﹄大正 一五年)(下)
﹁仏教社会 事 業 概 観 士 乙 ﹂(同 右)(下)
﹁昭和 二年度仏教社会事業の大勢﹂(﹃ 中央仏教﹄昭和二年) (下)
﹃新 訳 仏 教 護 国 経 世 諸 経 ﹄ (甲子社、昭和 二年)(下)
﹁社会問題と寺院の使命﹂(﹃
浄土教報 ﹄昭和六年)(下)
﹁仏教社会事業の躍進﹂(﹃
大正大 学 社会事業室報﹄第 一号、昭和一二年)(下)
﹁私設社会事業家は何処へ行く﹂(﹃
社会 事業研究 ﹄ 昭和 一五年)(下)
﹁仏教社会事業の動向﹂(﹃
大正大学社会事業研究室紀要﹄四十周年特集号、昭和三四年)(下)
﹁仏教社会事業に関する管見﹂(﹃
講座近代仏教 ﹄第五巻、法蔵館昭和 三六年)(下)
﹁浄土 宗社会 事業の理念と 実践﹂(同右)(下)
﹁宗教における教育及社会事業﹂(不詳)(上)
﹁仏教社会事業に就いて﹂(一)(不詳)(下)
﹁仏教祖会事業に就いて﹂士二(不詳・未定稿)(下)
﹁仏教社会 事業要項﹂(不 詳 ・未定稿)(下)
一 年 か ら 同 一二 年にかけての視察記録)(下)
﹁欧米の宗教及び社会事業視察記﹂(大正 一
﹁仏教社会 事業はなぜ振わないか﹂(不 詳 ・未定稿)(下)

長 谷 川 良 信 遺 滴﹄ (大乗淑徳 学 園、昭和四 二年)

随 縁 随 想 仏 教 ・ 社 会 事業・教育﹄ (マハヤナ 学 園、昭和五 二年)

仏教社会事業についての考え方
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先ず、 長谷川の社会事業理念とは、 どのようなものであ ったのかを考察してみる 。 ﹁宗教と社会事業と教
育の三位 一体﹂による人間開発・社会改良の必要性を強く訴え、隣保事業、仏教社会事業の 具 体化に力を注
い だ 長 谷 川 は 、 ﹁ 坊 さ ん と し て の 本 領 を 社 会 事 業 に 見 つ け ﹂ と 語 る よ う に 、 仏 教 お よ び 仏 教 者 の 社 会 的 実践
が社会事業であるとしている 。 このことは、
自分は宗教人とい った環境児として、ただ読経僧の徒食主義に憤慨して立ち上がったので、坊さんの
仕事は社会事業以外にない筈だ 。
立って貧民を救え!貧児を救えー 貧民窟に入って 一生 を 奉 仕 の 生 活 に 捧 ぐ べ き だ ! そこに仏教
がある 。 そこに念仏が叫ぴ出される。
と、社会事業の第 一歩を踏みはじめたころのことを語 った言葉に先ず表れているし、
(前略)私の人 生観は﹁感恩奉仕﹂の 一語につき る の で あ り ま し て 、 南 無 阿 弥 陀 仏 の 生 活 が 、 そ の ま
ま社会奉仕の生活であり、私の仏教観によりますれば釈尊仏教の精髄、大乗仏教の精髄は社会事業の実
践より外にはないという識見所信に立つ外はないのであります。
というように、仏教、それも大乗仏教の思想と信仰に裏付けられた社会実践が、社会事業であるとしている 。
また、たんなる公的救済行政や慈善事業及ぴ階級闘争を否定する長谷川は、
(前略)真の社会事業は社会を組織して居る各人が其の社会の共同生活に対する連帯責任の観念に依
って社会に奉仕することでなければならぬ。換 言すれば仏教の教ゆる正道大慈悲或ひは四恩報答の精神
を基礎としてこそ始めて社会 事業の 徹底を期することが出来る 。 現今の社会 事業 は往々にして政策万能
を信ずる為政家や階級意識に膏着する闘争主義者や、温情主義を利用する資本家等 に依って濫用せ られ
る傾向があるが、真の社会事業は信仰に基く社会道徳的行為でなければならぬ 。 此 の意義に於て仏教精
神に燃ゆる仏教僧侶又はその檀信徒の自覚によるの仏教的社会事業が創始せられ経営せられねばならぬ
のである。
と述べ、仏教に基づく社会事業による問題解決を考えていた。
このような考え方をもっ長各川は、寺院ならびに宗門教育における意識変革を求めている。
(前略)寺院が、仏教の根本精神から、同胞への奉仕、社会の改善に奮起し、又その本務が、人間の
物心両面の救済にあるという自覚から社会事業に挺身したのならよいが、そうではなくて、戦後の寺院
経済の逼迫から、(中略)住職が教員や役場の吏員などに出勤するか、寺内に幼稚園とか保育所とかを
建てその事業収入により寺院生活を打開するがよいという考えから、此の方面に向う者が少くない。

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(中略)こうした重大な誤謬を根本的に更め、仏教社会事業による環境社会への奉仕活動こそ本来最高

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の任務であるという聖職意識に徹せしめるよう寺院形態なり宗門教育なりを根本的に改革する必要あり
(後略)
という提言を行うとともに、僧侶、檀信徒の仏教への心構えの在り方について、
今日の寺院は、決して神聖なる霊場でもなく、公開の教会堂でもなく、僧侶の一私邸に過ぎぬもので
ある。今日の僧侶は、宗教そのものとは絶縁なる葬儀受負の一職人と化している。
而も仏教を誤解している世人は、自ら仏教寺院の檀信徒であり乍ら、仏教の何たるかの如きは全く無
頓着で愚劣無残なる天下の俗僧と相和して寺院を葬儀場と心得、僧侶を葬儀係と見倣して何のあやしむ
所もなく、平然として愚俗の旧習を墨守している。
という苦 言も呈している。
仏教者としての生き方、檀信徒として仏教に対する認識の仕方について、深く考えきせられるものである。
そして、仏教社会事業のあるべき姿として、
仏教社会事業は近来社会事業一般の公営態勢に動かされて宗派、教団、寺院の経営する各種社会事業
が近年国の法規に基く委託事業となったものが多数であって、宗教的民間社会事業としての特色が失わ
れて来る傾向があるが、仏教社会事業は決してこれに満足するものではない 。勿論国の行政の 一端を荷
い国家と民衆に奉仕することの義務を果すことに寄でないのだから、法規に遵い、少くともその最低基
準を上廻る程の施設と運営をやるのは固よりであるが同時に公営社会事業が容易に為し得ない精神的救
済、人格及個性の教育矯正 、 個人的社会的道徳性の緬養、宗教性、社会性、国際性の訓練、等について
私 営 社 会 事 業 と し て の 独 自 の 使 命 と 特 色 と を 発 揮 す べ き で あ る か ら 、 社 会 事 業 公 営 化 に押されて単なる
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国家や自治体の下請的事業に堕してはならないのである。
と、法の枠内でのその独自性の必要性を強調しているが、仏教社会事業に関わる者だけではなく、福祉事業
に従事する者すべてに関わることであり、今後その重要さは益々大きくなることであろう 。
長 谷川が 目指した もの

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長谷 川 の社会事業理念には、慈善救済事業の否定も含まれている 。 このことは、長谷 川 の社会事業理念を
考察するうえに、最も重要な課題を与えているものの一つと考えられる。それは、
長谷 川社 会 事 業 思 想 の 理 念 的 根 拠 が 仏 教 に あ っ た の は 後 述 す る 通 り で 、 そ れ は ﹁
社会共済﹂﹁ 共済互
恵﹂ ﹁衆生報恩 ﹂ 等である。とかく資本主義社会の中で、近代化されたキリス ト教
﹁ 能所共済二利具足 ﹂
的慈善事業が上下の差別観を払拭できなかったことに対し、﹁仏教的共済﹂という仏教有機体に立脚す
る ﹁
平等﹂性の提示でもあった。
と、吉田久一が述べていることであり、長谷 川匡俊も、
(前略)優者が劣者に、強者が弱者に、しかも一方的に救ける入貧民救済事業Vを、良信がなぜ嫌 っ
たかが理解できる。このような事業は、ある意味で差別的人間観の上に立つもので、良信の事業はこれ
とは正反対のものであった。
良信の社会事業は、主客│ │主 体 と 対 象│ │、この場合は救済するものも、 されるものも、あくまで
も対等である。つまりは、平等性が絶対的な基調となっていた。
qd
と、述べていることである 。 これらは、長谷 川二九歳の時の著作 ﹃ 社会事業とは何ぞや ﹄ に述べられている 。
﹁フォア ・ヒム (彼のために) ではなく、 ト ゥギャザ ー・ ウィズ ・ヒム (彼と共に) でなければならない﹂
について語 っているものである 。
長谷 川 は

(前略)大体に於て社会事業の概念は従来の慈善事業救済事業なども類同されて居る 。 市 し て 其 の 慈
善、救済といふ事に就ても各定義のある事であらうが私共が特に社会事業と呼んで慈善事業救済事業と
簡別する所以の心いきを 一言 しゃう 。
我々社会事業の徒は世の慈善家救済家の様に被慈善者被救済者といふ者を新立して見ない 。 (中略)
我々は受身といふ 一部人衆に拘泥せぬ 。 社会は重重の帝網相即相入の網の目である 。能所共済 二利具足
でなければならぬ。
慈善や救済は尊い。然し之を現実の事業に徴する時に、我々は我々の拙き共済的努力を慈善と称し救
済と標梼するのを心苦しく思ふ。唯り社会事業の語は切実に衆生報恩、共済互恵の精神を詮すかに思ふ
のである。
と述べ、仏教を根拠として差別観に立脚する慈善救済事業を否定し、絶対的平等観に基づく社会事業を提出
している。
後年においても、社会事業家としてのあるべき姿として、
(前略)仏教社会事業は、どこまでも他人に奉仕するというような、他人行儀のしてやる的な、お為

3-
ごかしのものであってはならないし、どこまでも自分を愛する知く、それと同質な深さ、厚さ、切実さ

3
- 1
とを以って、拡大された自分であるに過ぎない他に対してつくすのでなければならない。(後略)
と、語っている。
長谷川は、福祉サービスの提供者と利用者との関係についてのみでなく、今日においても解決されていな
い対人間観に関わる﹁平等性﹂の問題を、仏教を理念的根拠にして提出してきたのである 。人聞の﹁平等
性﹂については、仏教または福祉を担 っている者に対して課せられている、解決していかなければならない
重要な問題であろう。
(四) おわりに
我れは 一個 の 仏 教 人 と し て 感 恩 奉 仕 の 生 涯 を 貫 き 、 以 て 教 家 の 使 命 に 生 き ん と す る 者 、 そ の 研 究 、 そ
の事業、その職務は偏えに是の思想信念の表現に外ならず
と 仏 教 理 念 を 基 に し て 、 社 会 事 業 と り わ け 隣 保 事 業 を 中 心 に 行 って き た 長 谷 川 は 、 人 間 尊 重 を 基 本 と し た
﹁平和で福祉に充ちた 学 園 社 会 を 中 心 と し た 地 域 社 会 ﹂ の 形 成 を 構 想 し 、 大 巌 寺 、 淑 徳 大 学 を 中 心 と す る
﹁大巌寺文化苑﹂建設に 着手していったが、それはあくまでも、﹁念仏し つつ 社 会 を 浄 化 し 、 社 会 を 浄 化 し つ
つ念仏を盛ん﹂にすることの 具 体 化 で あ る と 思 わ れ る 。

4-
長谷川は浄土宗に ついて、

3
1
浄土宗は 一種 の 環 境 教 育主 義であるということで、 阿 弥 陀 様 の 御 浄 土 へ 送 り 込 め ば 自 然 に 立 派 な 仏 に
成 れ る と い う こ と は 、 同 時 に 現 実 の此の世に於ても、 出来るだけ社会悪を少なくして、社会を浄化し、
良 い 環 境 を つ く って 行 く と い う こ と が 、 人 間 を 向 上 さ せ 、 進 歩 さ せ る 所 以 で あ る 。 即ち往 生 浄 土 の 目 的
達 成 の 為 の 念 仏 の 出 来 る 環 境 と い う も のが 一番 大事 だ と い う こ と に な る 。
と述べている 。
浄土宗宗侶として、 仏 教 を 前 提 と し た 社 会 事 業 を 行 った 長 谷 川 の 目 指 し た も の 何 で あ った のかと い うこと
を 考 察 す る こ と は 、 こ れ か ら の 宗 門 社 会 福 祉 の 在 り 方 に つ い て の 指 針 と な る と と も に 、 現 代 に お け る 宗 教の
意義についても認識させてくれるものである 。
(註)
(1) 吉田久 一 ﹁解説 ・長谷 川良 信と社会事業 L (﹃ 長 谷 川 良 信 選 集 ﹄下、長谷川仏教文化研究所、昭和四八
年)、上回千秋 ﹁仏教と社会 事 業 に 関 す る 管 見 長 谷 川良 信 ﹃ 仏教社会事業に関する管見﹄を足がかり
にして﹂(﹃ 仏教福祉﹄第五号、仏教第が仏教社会事業研究所、昭和五 三 年)、長谷川よし子編 ﹃ 仏教と
社 会 事 業 と 教 育 と 長 谷 川 良 信 の 世 界 ﹄ (長谷川仏教文化研究所、昭和五八年)、長谷川匡俊 ﹃
卜 ゥギャ
ザーウィズヒム 長谷川良信の生涯﹄(新人物往来社、平成四年)、石 川到 覚﹁長谷 川良 信﹂(原典
仏教福祉編集委 員会編 ﹃
原典仏教福祉﹄北辰堂、平成七年)、﹁特集 ﹃
長 谷川良信に関する総合研究﹄
(
﹃長 谷川仏教文化研究所年報 ﹄第 二二 号、長谷川仏教文化研究所、 一九九八年)などがある。
(2) 芹川博通﹁長谷川良信の仏教謝意事業論序説﹂(長谷川よし子編 ﹃ 前 掲 書 ﹄) 一四 二1 一四四頁
qd
遺滴﹄)大乗淑徳学園事務局、昭和四 二年 、 二九頁
(3) 長谷 川よし 子編 ﹃長谷 川良信造滴﹄ (以下 ﹃
(4) ﹃
遺滴﹄二三頁
(5) ﹃
長谷 川良 信選集 ﹄下(以下 ﹃
選集﹄ 下)長谷川仏教文化研究所、昭和四八年、五四七頁
(6) ﹃
造滴﹄一九六 1 一九七頁
(7) ﹃
選集﹄下 四七 一頁
(
8) ﹃
選集﹄下 四九八 1四九九頁
(
9)

下 三
選遺
集滴


(叩) 四九七 1四九八頁
(日) 吉田久 一、前掲書 六七O 頁
(
ロ) 長谷川匡俊、前掲書 八O頁
(日) ﹃
長谷川良信選集 ﹄ 上(以下 ﹃
選集 ﹄ 上)長谷川仏教文化研究所、 昭和四七年、 八六頁
(
H) ﹃
選集 ﹄上

(日) ﹃
選集﹄ 下 四八五頁
(日) ﹃
遺滴﹄

(口) ﹃
選集﹄ 下 五九 三頁
(日) ﹃
遺滴 ﹄ 六五 i六六頁
(日) ﹃
遺滴 ﹄五六頁
現代仏教福祉人物訪問
学 細井 弘 順先生




イ ンタビュアl 安藤 和彦先生
今 日 は 、 大 照学 園 様 へ お 邪 魔 し 理事長の細井弘



順先生から、 学 園 の 沿 革 や ご 苦 労 話 を お う か が い し た い
と 存 じ ま す。
大 変 お 時 間 を と って 申 し 訳 ご ざ い ま せ ん が よ ろ し く お
願 い い た し ま す。
早速ですが、 一般に社会福祉施設の多くは、社会福祉
法人として、運営されていますが そこにおいて




に宗教色特に 仏教 色 を 出 す か と い う 問 題 、 も っと言 えば、
仏教福祉あるいは浄土宗福祉ということをか らめて、今
ま で の 経 験 の 中 か ら お 教 え い た だ け れ ば と 思 い ま す。
取り敢えず、沿革からお話しいただればと思いますの
で お 願 い い た し ま す。
学園の沿革ですが大正十五年に京都市下京区富小 るお金が要るので売る。﹂とい っていました 。 私 の 衰 え

路五条﹁本覚寺﹂境内に竹内大観氏が要保護少年の施設 た記憶にもその時の様子が残 っています 。 それは横山大


として司法省の認可を受けて開設され 昭和十五年( 観先生、竹内栖鳳先生等の軸、本物か偽物かはわかりま
九四O) 先代が事業を引き継ぎました 。 今のご時世と異 せんでしたが、後にな って父の交友録等から面識をいた
なり事業は大変困難があったと思いますが、僧職にあり だいていた手紙があ った り し ま し た の で 、 多 分 本 物 だ っ
知恩院に奉職併せて京都保護観察所の嘱託保護司をして たと確信しております 。資 金 造 り 等 、 何 の 関 心 も 無 か っ
いた関係で、この事業を受けた事と思います。 たものですから聞き流していましたが今のご時世のごと
その時私は園長の息子であ ったと 言う事で手伝う事と く人様の理解等が無い時代であってみれば、資金造りも

8-
な った訳ですが、何年何月にどうな ったと 言 う事よりも 大変だ ったと思います 。 私 が 手 伝 い に 行 く き っかけは、

3
一 1
むしろ、会いがたい仕事に会わせていただいた、内なる べつにこの仕事に意義を感じてとか、使命感に燃えたと
様子をお伝えさせていただいた方がありがたい 気が 致し かその様な美しいものではなく 上から命じられて、訳
ます 。 が判らず動いたと 言うにすぎません 。当 時は今と異なり、
その時、昭和十四年ごろ (
中 学一年ごろ) 母が私の問 上からの命は絶対のものであり、ましてや怖い父からの
い掛けに﹁何か不良少年(当時の呼称)を預かる仕事を 依 頼 で あ っ て み れ ば ﹁ 厭 だ 。﹂とは 吾

されるらしい﹂との答、ぇ 。 した 。時は戦争もたけなわ むしろ破局に近づいていた
それきり忘れ去 っていたある日 父は薄時い裸電球の のでしょうか知る由もなかったのですが、昭和十九
下が った奥の問で掛け軸を 二、 三本持ち出し聞いていま 九 四 四 ) 年 当 時 学園を手伝 っていた内の 一人 の山下 さん
した ど うするの。 ﹂と の私の問い掛けに ﹁
﹁ 学園を建て に召集令状が来て﹁いよいよ面倒をみてくれる人が少な
く ど う に も な ら ぬ か ら 、 手 伝 っ て 欲 し い 。 ﹂と 言 う事が して宜しくとの事、 その後調理の北川さんに紹介される。
出発点となりました。 これだけで 三 十 人 近 い 園 生 さ ん と 過 ご す 。 勤 務 時 聞 は 無
知恩院前から市電に乗り、河原町四条で乗り換え切符 制限 。 保 護 少 年 施 設 で す か ら 、 警 察l少 年 審 判 所 1 学園
を貰い河原町五条下車一間半程の五条通りを(今通 つ のコ l スで預かる訳です 。 戦 争 に よ る 家 庭 破 壊 、 生 き る
ているバイパスは空襲火災を防ぐ為の恨みの強制疎開の 為 に は こ う し な け れ ば 生 き て い け な か った 子 供 達 、 捕 っ
跡 ) 西 へ 富 小 路 を 下 が り 本 覚寺 境 内 の 学 園 へ た ど り 着 き た内容はスリ 、 置引き、 畑荒らし 。 時代は
カツ パラ イ
ま し た 。 正 面 が 閉 じ ら れ た 大 門 の横のくぐ り 戸 を 押 す と 戦争中、家庭崩壊物資不足生きていく為走った悲しい道
ガラガラと鎖の擦れる音がして聞き、子を離すと下げら でした 。
れた分銅の重りで閉まる、当時の自動ドア 。

9一
当時はまだ京都に少年審判所は無く、大阪まで引き受

3
- 1
玄関を一歩入った時プ│ンとす、えたような異臭が鼻を けに出掛けていました 。 そ の 後 京 都 に 審 判 所 が 設 置 さ れ
突く 。 そ れ は 封 筒 や 荷 札 を 貼 る 腐 り か け た 糊 の 臭 い 。 そ 初代所長は宇田 川潤 四 郎 先 生 、 随 分 お 世 話 に 為 り ま し た 。
の時 中か ら出てきた 今 も そ の 時 の 様 子 が は っ き り 思 い 浮 その生活は起床、洗面、清掃、勤行(仏間にて)皆大
かぶ 。 ドンゴ ロスのよれよれの半ズボン 上半身裸 きな声で子をあわし、親兄弟の無事と健康を祈りました 。


r二
兄 ち ゃ ん 何 し に 来 た 。﹂ 貰 色 い 歯 を 出 し て
ルトは荒縄、 ﹁ 朝と夕べの二度行いました 。 そして朝食、作業、畳食
笑 っ て 立 つ あ ば ら 骨 の 見 え た 栄 養 失 調 の 後 で 分 か った木 作業、夕食、自由時間、就床の日課でした 。作業内容は
下くん 。 皆 一生 懸 命 机 の 前 で 作 業 中。 封筒貼り、荷札貼り 。敗戦近くには庭に防空壕を一生懸
事 務 室 に は い っ て ま も な く 山 下 さ ん か ら 簡 単 な 事務連 命皆で掘 った も の で す 。
絡。 判らぬ事は先輩の川村さんや後藤さんと連絡を密に 戦が終わ って か ら は 米 軍 の 放 出 物 資 に 随 分 助 け ら れ ま
した 。作業 の 一つにバター チーズの空き缶をタイヤの 前も、すらすら思い出す事ができます。
無いリヤカーを引きなが ら集 め て 回 り 耳の所を切りお ま ったく民間人感覚の方ばかりでした 。 戦後少年審判
とし平たく聞いて苛性ソーダで炊いて 塗料を落としてそ 所主 催で鍛練の為と 一泊 二 日の比叡山での修練会、畳雑
の上でホ ック 屋 さ ん に 売 り に 行 き 収入を得ました 。 炊、夜大豆粕をつぶして焼いた パ ン状 の物、食べられぬ
数々の苦しく且楽しか った 思 い 出 も た く さ ん 有 り ま す。 どうしでも喉を通らぬ 明くる朝早く中 川 調査官と 二人
強制疎開 の五 条 通 り は 恰 好 の 野 球 場 に 使 え ま し た 。 は散歩に出て目にとまった胡瓜をもぎとってかじ った
元々野球が好きでしたから子のあいてる時は子供達と野 人間空腹になるとどうなるか身を持 って体験をした悲し
球に興じました 。 町内のチl ム と 対 戦 し た り 私 自 身 は 少 い記憶があります。
年審判所や町内チl ムに雇われて出掛けたものでした 。 昭和 二 四(一九四九)年少年法が改正され 全国 の私立
しかし 草 野 球 に 熱 中 し て 子 供 が い な く な って困 ったとき 矯正施設が廃止となりました 。
が時々ありました 。 然る べき 所 で 見 つ か って警察に叱ら 、 耳の不自由な 子達に教
時 た ま た ま 目 の 不 自 由 な 子達
れた時もありました 。 育の義務制が敷かれ通 学 の道が聞かれました 。 それまで
収容された子供達の審判が月 一回持たれました少年調 は就学免除、猶予の制度で、行きたくとも行けぬ状態で
査官が来られ、親の有る子は親元へ (時には戦災孤児と した 。 京 都 府 下 に は 府 庁 前 の 聾学校 し か 無 く ( 現 第 二日
い つわ って収容されている子供もいる)、引き続き収容 赤 病 院 ) 市 内 の 人 は と も か く 、 府 下 の 人 は 通 学の 道がな
した方が良い 子 はそのまま預かる決定がなされる。 .
カ、3:。
一大
菊 谷 調 査 官 、 浅 田 調 査官 、徳 主 席、中条、青池、中川、 或る目、府児 童課の本庄課長が 学園を 尋 ねて来られ
藤野井各調査官忘れる事の出来ない方ばかり、名 君 一つ聾児施設をや って く れ ん か ね ﹂ と の 事
﹁ 。 今でこ

1

)
まま一見無謀に見えましたが、若い力は困難を順次克服
4年保護少年施設廃止。別れの記念写真。

し て 行 き ま し た 。 学 校 へ 付 き 添 い を し て 子 供 達 と 一緒に
教室に入れて戴き 口話法手話法の勉強に務めました 。
後列左、山添指導員、右、細井指導員。

生まれながら聴力の無い子供、残聴のある子達、途中疾
患の子達発生能力はそれぞれ異なりました 。 しかし家庭
での孤の生活から集団で友達が出来日毎明るさの増す子
らの姿は頼もしい限りでした。 そ こ に は 陰 で 支 え る 職 員
各住の努力を見逃す訳にはまいりません。
しかし戦後の厳しさ苦しさは増すばかり特に人不足
物資不足、資金不足はその極に達しこれを切り抜ける為

昭和 2
知恩院の承諾を得、良正院の承諾を得てその境内に移転
を決意、 そ の 準 備 に は い っ た が 借 家 三軒の内 二肝 は 立 退
そ耳の不自由な方に対する理解も深いものの、当時は残 を快く承諾されたが 一軒 が 立 ち 退 き 料 を よ こ せ と な り
念ながら欠ける場面が見られた 殆ど町でその姿を見掛 計 画 が頓挫のやむ無きとなった 金額は 二十万円 その
け な い の が 実 状 で し た 。 慎 重 を 期 し て お 医 者 さ ん や 学校 ような大金は学園にあるはずもなく園長に伝える術もな
の先生の意見も伺いました。慎重論が多数を占めました、 く、途方に暮れ 母と相談し誰かお願い出来ないかと毎
が 結 局 受 け 入 れ を 決 心 し ま し た 。 ﹁お役に立つ事ならや 日その悩みばかり たと、ぇ貸して戴けても絶対に口の固
らせて戴こう ﹂ と衆議 一決 し ま し た 。予 備 知 識 も 持 た ぬ い方、貸して戴けたとしても園長に﹁御宅の息子が金借
りに来よりました﹂と告げられてはどれだけ叱られるか した。
分からない しかし何とか目途を着けなければならない 数日後ふらりと玄関に来られた安藤さんは出てきた私
思いあまった母と私は意を決して安藤総代の御宅を尋ね に﹁これおつかいやす。﹂と金封にはいったお金を渡す
た。家空きを着けねば施設が移れない事 お借りしても と、振り返りもせず帰って行かれました。 ぽ、っ然と声も
すぐ返せ無いこと、 そ し て 今 一 つ 絶 対 に 園 長 に 言 わ な い 出 ぬ ま ま お 見 送 り を す る 私 で し た 。 このような方もある
で欲しい事。黙ってきいてられたご主人は奥さんを呼ば のかと 言 葉 も 出 ま せ ん で し た 。 普 通 な ら 寄 付 す る と な る
れて﹁ちょっと二十万円持ってきてんか﹂と事もなげに とまあご承知のような状態が世の常ですが 二十万円と
言われました。奥さんは直ぐその額を持って来られた い う 大 金 を 寄 付 し て 家 に あ が り も せ ず 、 何 事 も な か った
慌てた母と私﹁いま直ぐではないんです それに借用証 ように帰って行かれた姿、事ある毎に思い出しては自戒
も持って来ていません。﹂﹁そんなん宜しいがな お使い の糧とさせて戴いています、進か遠く及ばぬことですが 。
なさい。﹂当時の 二 十 万 円 半 端 な 額 で は あ り ま せ ん 。 返 本当に多くの心有る方のご支援を裁き今日生きさせて戴
す手だても無いまま戴き帰り、家空きをつけました 。 い て お り ま す。
この資金ぐりが着かなければ今ここに恐らく学園は建 御蔭で移転の目途がたち小康を得たものの日々の生活
っていない筈です、 そ う し て 母 は 少 し で も 早 く 返 済 し な の苦労は並たいていの事ではありません。ご飯を炊くま
け れ ば と 自 身 や り 繰 り を し て は 一万 円 溜 ま れ ば そ の 時 に き 、 風 巴 を 沸 か す 木 。 丹 波 の 子 供 の 家 に 頼 ん で ト ラ ック
返しに行きました。申し訳なくも少しづっ少しづっ、借 で送 って も ら う 、 こ れ も 統 制 品 で 許 可 な く て は 運 べ ず
用 証 も 書かず 利 子 も 払 わ ず 。 や っ と 十五年目元金の 二十 そ の 度 に 警 察 署 長 さ ん に お 願 い し て 許 可 証 発 行 。 進駐軍
万円をお返しして とにかく良かったと母と話し合いま の指導も厳しく衛生面の立ち入り検査。国状の違いドカ
ドカと靴の催中へ 炊事場の釜に行列する蟻が見付かっ
て﹁不衛生﹂ 。蚤 しらみ、南京虫退治に DDTの洗礼。
京 都 軍 政 部 で 名 高 い パ ト ナ ム 女 史 の 査 察 。 その日我々は
かねて噂を聞いていたので念入りに掃除をして子供達に
はき っば り し た 服 装 で 待 機。 我々四名の職員は当た って
砕けろ玄関に並んで待つ前に、 ジl。
クスダ
フから通訳の楠田女
史 と 共 に 粗 末 な 応 接 室 へ 。責 任 者 と し て 職 員 を 紹 介 。
進駐軍将校婦人の学園慰問 ﹁職員はこれだけですか﹂﹁はい﹂﹁皆若いのに大変です
ね 、 頑 張 って下さい﹂それで終わり 。 さすがパトナム女
d
η︿
史 一行は靴を脱いで上がられました 。 以後は楠田女史が
二度程来られただけでした 。
昭和 二六 (一九五 二 年 施 設 移 転 完 了 。 境 内 に 在 っ た
審 正 館 と 言う弓道場の射場を調理場に借家はガタガタの
キ A宇
F品 正 に 落 ち 武 者 の 隠 れ 家 の よ う 。 その内に進駐車の
将校婦人の慰問が始まり 子供たちには嬉しい一時であ
りました 。
その内に聾学校 は 仁 和 寺 裏 へ 移 転 、 寄 宿 舎 も 完 備。 こ
こに於いて大照 学 園の使命は終わ ったと判断し知的障 害
の子達に対する援護の声の高まりに応じて後発ながら現 帰りました 。﹂と 言うことが 出 来 る 場 作 り が 保 護 者 の 問
児童部の設立許可を受けました 。時、昭 和 三 七 ( 一九六 から出されて来ました 。当 然 の 事 と 思 わ れ ま す 。 京 都 市
一一)年四月一日 付け 。 何分にも職種変更で園生の対応に でもその重要性を認識され、当園に設立の可能性を尋ね
馴染まぬ職員も居るため児童相談所にお願いをして比較 て来られました、 しかし限られた寺の敷地でありますし、
的軽度の子達の措置をお願いし 申し訳なくも重い子達 建物を建てる場所がありません 。 他にも数箇所打診をし
は伝統と格式のある白川学園にお願いしました。だが知 て来られたようですが、何等かの理由で実現不可能に傾
的障害児に対する就学の壁は厚く、就学猶予 免除の適 きました。
用を受けて進学する事が出来ず、 国での指導が主でした。 何としても在宅の方の希望を実現したいと 圭守つ市の再
比較的軽度な 学 齢 児 は 、 特 殊 学 級 へ 進 学 が 続 けられま 度 の 願 い も 有 り 、 学 園 側 も ﹁お役に立つのな ら ば ﹂と

4
- 14
したが当聞の場合地域に(粟田小、弥栄中)特殊学級が ﹁
寺﹂側と の 話 し の 末 、 本 堂 横 の 庫 裡 を 解 体 そ の 跡 地に
無い為、受け入れ学級を求めて流浪の旅を続けていまし 施設を建設すべく、良正院の役員、総代の承認を得て施
た。 やがて、昭和五四(一九七九)年義務制しかれる事 設建設の意志表示を行いました 。 その後昭和六十一
となり該当児が全員養護学校へ進学出来ました 。 九八六)年良正院本堂が国の重要文化財の指定を受けま
しかし やっと義務制がしかれたけれども、就学猶予 したが、重文の指定後なれば解体出来ず したがって授
免除の問中学校へ行けなか った人達が沢山居ました 産 部 は 出 来 て い な か っ た 訳 で す 。 そ し て こ こへきて再び


の方達はず っと在宅のまま、殆ど隣近所との交流も無い 先の児 童部 生 活 棟 の 老 朽 化 の 為 改築の計画を京都市へ
まま過ごして来られた訳で その方たちが健常な方と同 提出 。京 都 市 部 の 場 合 成 人 施 設 の 不 足 が あ り 少 し で も そ
じ よ う に 朝 ﹁ 行 って来ます 。﹂と 家 を 出 て 夕 方 ﹁ただ 今 の問題解決の一端として現児童生活棟五十名を三十名と
1
良正院の庫裡を取り壊し授産部の建設へ

安藤 先生、今度新しい施設を 一つ お 作 り に な る よ う
ですが 地域のニ l ズ に 対 応 さ れ て い る わ け で す が


ットワ ー ク って言う ん で し ょ う か 、 福 祉 に 関 わ っている
者の幅の広さといいますか そういったものも必要かと
思 い ま す。
ま た 先 生 、 御 苦 労 を な さ っ て い た 時 代 と く ら べ て 、 A寸
は 福 祉 と い う 言葉 を 聞 か 無 け れ ば 一日 も 過 ご せ な い 時 代
に変ってきていますが、福祉について当たり前のように
語られるような時代に、社会福祉事業に従事している 人
し更生部三十名を新設の計画を起て関係方面の了解を得 たちへの、福祉への取り組みに対する 先生からの提 言
て 第 一期 工 事 は 日 本 自 動 車 振 興 会 と 京 都 市 の 補 助 金 で 建 あるいはご期待とかありましたら、是非お聞かせいただ
設平成十一 (一九九九)年 三 月 一日 引 き 渡 し 、 続 き 第 けたらと思います。
期工事は継続事業として国庫補助、京都市の補助を受け
て取り組む事と為りました それにしましでも園、京都 私の場合 三 ついや今度更正をするとなると凹種に



市 日本自動車振興会、浄土宗務庁 総本山知思院始め な る と 思 い ま す が 、 底 流 に 流 れ て い る 物 は 同 じ で あ って

各方面からお寄せ戴きましたお 心 に厚く御礼を申し上げ 異種の物と う思いはありません 。



る 次 第 で ご さ い ま す。 曲 が り な り に も 五 十 年 間 続 け て 米 られたと言う事は、
﹂んな事 一人 で 出 来 る 物 で は な い で す し 、 多 く の 方 の 計 どい時に 誰かが助けてくれはるように仏さんにお願い
り 知 れ ぬ 支 え が あ って初めて可能な 事 と 感 謝 し て い ま す。 してるのや﹂
それと同時に私を育んでくれた土壌、 七十余年ここで生 寺なので時々来客がある その時近くに居る私達兄弟
ま れ 育 て て 戴 い た 感 謝 そ し て 母 親 の 姿 が 根 底 に あ ったと の誰かに﹁お玄関へい って 履 物 を 揃 え て き な さ い ﹂ と 礼
信 じ て い ま す。 儀 を 体 で 覚 え さ す。
幼 い 頃 の 母 の 温 も り が 幸 せ (金銭的なものでなく)と お 客 さ ん が お 帰 り の時 は お 見 送 り を し な さ い 、 玄 関 口
して支えてくれたと思います。 暑い時も寒い時も働き続 で お 送 り す る 時 は 直 ぐ扉 を 閉 め て は い け ま せ ん 、 角 を 曲
ける母の姿、締麗な着物も無い、 きらめく指輪もない、 が ら れ 姿 が 見 え な く な ってから静かに閉めなさい 。 、-J-
ふ'
'JJ

6-
時計も無い、 子供の前では 一切恐痴は 言 わない、 人様を 今 のご時勢 のよ う に 短 大 、 大 学 は 卒 業 し て い な い 、 高 等

4
- 1
批 判 す る 言 葉も聞いた事はない、 人前には出たがらない、 小学校卒 。 今 こ の 人 聞 社 会 は 余 り に も 不 作 法 、 不 細 工 が
いつもひか、えめ後ろに居る 。 ま か り 通 り す ぎ て い る 気 がします 。 私 の底 流 に は 母 親 の
そんな事で人生楽しいか と設問する人もいるだろう 後ろ姿があります 。
けれど意には介していなか った 。 小、中 学生 の頃 のアル 新装なる 喜 び と う ら は ら に 恐 らく 利用者 一人 一人 の心
、の弁当箱開ける時の楽しみ た と え お 采 が 梅 干 一つで には家族と共に生活をしたい、家族と日日を過ごしたい
も。 傘 を 持 た ず に 登 校 し 下 校 頃 降 り 出 し た 雨 、 校 門 に 傘 と思いが詰 って い る 人 が 大 多 数 と 思 い ま す 。 五十年前か
と 長 靴 を も って待 って い て く れ る 母 。 暑 い 夏 た ま た ま 小 ら親とこの無情な別れの場面を目にしてきた者として、
包を配達に来た人に麦茶を差し出す母、何故との私の問 己れの姿に疑問を感じる時も何度も経験してはきました 。
いに﹁あんたが大人にな って何処かへ仕事にい ってしん 円円の生活 の中 に あ って子 にと って母 の懐こそ 心の安
住の場である事。夜中体調が悪く目醒めた時﹁お母さん
しんどい おなか痛い ﹂ そ の 時 頭 を 撫 で る 母 の 姿 が あ っ
良正院座敷でのスキヤキ会

てこそ 子供達は優しく育つ。学校から帰って来る
ただ今 K ま
﹂ ﹁ リm
川つヨ J
市? ど う だ つ た ﹂ と 母 の 声 が 聞 け る 子 達
の 幸 せ 。 我 々 の 時 代 は こ れ が あ った。 現在は 立派なマ
ン シ ョ ン は あ ち こ ち に 建 っている、 そ こ に は 人 の 生 活 が
あ る 。鍵を聞け中へ入る、 机 の上に一 O O円 のおやつ代

た だ 今﹂ と 声 を 掛 け る 相 手 も 無 く ﹁
お帰り ﹂ と 声 を 掛
け優しく頭を撫でてくれる人もない 。 育 ち 行 く 子 等 は 芙
しく飾られた部屋と、愛しい母のどちらを選ぶのでしょ
、.。
よJ A U

聾唖児施設)
人 の 命 を 仮 か る と い う の は 、 責 任 の 有 る 恐 ろ し い 仕事

領張りの食堂でクリスマス
です 。 こ の職に つく 人 は 資 格 を 試 験 で 取 って、合格した
だけではできません。人育ては困難にも拘わらず



(
社 会 人 と し て の 常 識 に 欠 け る 人 を よ く 見 掛 け ま す 。 少な
くともその子を産んだ親が養育が困難と言う事でやむ無
く施設に預けられた 。 それほど養育する事が困難な子達
を、子供を産んだ事もない学校出たばかりの人が育成の
仕事に拘わる 。
ですから、 熱 心 に 上 司 、 先 輩 の 助 言を 聞 い て 、 努 力 し
て取り組んでくれる方には ﹂ちらも救われる 。 探究心
を 発 揮 し て 組 織 の 重 要 な 一員 と し て 花 を 咲 か せ て 戴 き た
いと思います 。
大照学園)門前にて
先生、今日は長時間にわたり、実践を通した社会



福祉事業への対応や先生ご自身の貴重なご経験を聞かせ

8-
ていただき本当にありがとうございました 。

4
- 1
今後ともご指導、ご鞭捷をいただきますようお願いい
たします 。

良正院 (
もありましたが、 お 陰 を 持 ち ま て お り ま す。 予 定で は 地 域 や 人
編集後記
して 全 寺 院 に 送 ら せ て い た だ け 物 に 関 し て 焦 点 を 当 てたもの他、
マ浄土宗総合研究所発行 ﹃
仏教福 ることになりました。刊 行 が 遅 鋭 意 構 想 中 で す。 今後 と も ﹃

祉 ﹄三 ・四 号 を お 届 け し ま す 。 れました、﹄と心よりおわび・申し 教 福 祉﹄ 刊 行 に ご 高 配 賜 り ま す
本誌は水谷幸正前所長(現宗務 上 げ ま す 。 また紙面にて、執筆、 よ う お 願 い 申 し 上 げ ま す。
総長)・石上善応所長のもと 寄稿いただきました先生方に心
﹁仏教と社会福祉に関する総合 よ り お 礼 申 し 上 げ ま す。 ま た 刊
研究﹂研究班が担当したもので 行にご尽力いただきました関係
す。 各 位 に 心 よ り 感 謝 申 し 上 げ ま す。

9-
マ仏 教 福 祉 人 物 伝 掲 載 に あ た り 、 マ社 会 福 祉 の 領 域 で は 介 護 保 険 制

4
度 が 導 入 さ れ ま し た 。 また 一方

- 1
大照学園(京都)の細井弘順先
生 に ご 快 諾 い た だ き 、 学 園創立 では、 宗 教 の 立 場 か ら の ア プ ロ
当時の経験談、貴重な写真をい ーチが強く求められ、福祉へむ
ただきここに掲載することがで けた新たな価値観の再構築が望
き ま し た。戦 後 ま も な い 頃 、 浄 ま れ て い ま す 。 本 誌 も そ の 一助
土 宗 の 社 会 事 業 に 関 わ る 貴重な となるべく今後も努力していく
事例となるお話、てす 。 ご 一読い 所 存 で す。
た だ け ま し た ら 幸 甚 で す。 マ次 号 に 向 け て 紙 面 の 充 実 、 刷 新
マ第 三 号より折込ハ、ガキ 等 によ っ に 遁 進 し た く 存 じ ま す。従 来 の
て、購読希望の方だけにとの案 連載に加え、新たな企画を考え
仏 教 福 祉 第 3・4号
平成 1
3年 3月2
5日 発行
発 行 人 水 谷 幸 正
編 集 浄土宗総合研究所
印刷所 株式会社共立社印刷所

発行所 浄土宗総合研究所
〒1
05-
001
1東京都港区芝公園 4 -7
-4明照会館内
電話(0
3)5
472-6
571(代表)FAX(
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