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ガンダーラから極楽浄土図?
古代オリエント博物館寄託の仏説法図について

A Depiction of Sukhavatıfrom Gandhara?


A Sculptural Relief of a Preaching Buddha on Loan to
the Ancient Orient Museum

田中 明
Kimiaki TANAKA

Abstract
The Ancient Orient Museum has in its custody a sculptural relief with a Tathagata in the
centre displaying the dharmacakra-mudra and surrounded by numerous figures. When this
relief was exhibited at the exhibition Gandhara Art & Bamiyan Site held at Shizuoka
Prefectural Museum of Art, the supervisor Miyaji Akira noted that while it is unclear
whether or not it represents Sukhavatı
, it is a valuable work in that, in terms of its
composition, it could be described as a prototype of representations of a pure land.
Not only the central figure displaying the dharmacakra-mudra but also the left-hand
attendant in the half-cross-legged meditative posture holding a lotus flower in his left hand
bear a resemblance to an image held by Ringling Museum of Art in the United States and
identified as an Amitabha triad by J. Brough. The right-hand attendant, missing in the
image held by Ringling Museum of Art,is seated with pendant legs crossed at the ankles but,
unlike M aitreya,has a turban on his head and may represent Mahasthamaprapta. Further,
to the left and right in front of the central figure there are two figures with clasped hands who
are shown with their upper bodies emerging from lotuses,and these could be regarded as an
early representation of metamorphosic bodhisattvas depicted in later representations of
Sukhavatı
. In this article, I also point out that the eight bodhisattvas arrayed in the upper
half of the relief may correspond to the eight great bodhisattvas mentioned in the
Pratyutpanna-samadhi-sutra,regarded as a precursor of the Pure Land teachings. In view of
the above points, this sculptural relief would seem to be the most likely to represent
Sukhavatıamong the many such reliefs from Gandhara.

K. TANAKA, Research Fellow, the Nakamura Hajime Eastern Institute, Tokyo


( 財)中村元東方研究所 専任研究員

101
BAOM XXXV, 2016

Key words:Gandhara, Sukhavatı


, Pensive Bodhisattva, Pratyutpanna-samadhi-sutra,
Eight Great Bodhisattvas
ガンダーラ、極楽浄土、半 思惟菩薩、『般舟三昧経』
、八大菩薩

⑴ はじめに

古代オリエント博物館寄託の仏説法図(以下「本作品」
=図1)は、転法輪印を結ぶ如来像を中
心に、多数の人物を配した浮彫彫刻である。本作品が静岡県立美術館の「ガンダーラ美術とバー
ミヤン遺跡展」で展示されたとき、監修者の宮治昭氏は「阿弥陀浄土図かどうかは不明だが、構
図的にはその原型と言え、貴重な作例である」(宮治 2007,66)と指摘された。いっぽう田辺勝美
氏は、本作品を般涅槃の後、梵天界に赴いたブッダを表現したものと解釈されている
(田辺 2014,
53-56)
。何れにしても本作品が、ガンダーラ出土の仏説法図の中でも異色の存在で、注目に値す
る作品であることに疑いはない。そこで本稿では、とくに本作品が、極楽浄土図である可能性に
ついて検証することにしたい。

図 1 仏説法図(古代オリエント博物館寄託)

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Kimiaki TANAKA:A Depiction of Sukhavatıfrom Gandhara?

⑵ 作品の概要

本作品は、やや青みがかった片岩に彫られた高さ 64.5cm、幅 65cm の浮彫彫刻である。本尊


は転法輪印を結ぶ通肩の如来坐像で、下端には 14本の蓮華を配して蓮池を表現している。いっぽ
う上部には花樹が表現され、そこから3人の天人 が出現し、中央の天人はブッダに花綱を捧げ、
左右の天人はブッダを礼拝している。さらにブッダの台座の左右には、蓮池から生じた蓮華の上
に、2人の人物が上半身を現し、ブッダを礼拝している。
本尊の左右には、下段左右に4人の人物、上段には8人の人物が前後2列に配されている。こ
のうち下段の左脇侍像(図2)は、右手の人差し指を額に当て、左手は垂下して蓮の蕾をもつ半
思惟像である。いっぽう右脇侍像(図3)は、左右の手先を欠失しているが、左右の足を 叉
させた 脚倚像である。さらに向かって右端の人物は、花綱を捧持する 脚倚像、左端の人物は、
左手に蓮の蕾を持つ 脚倚像であるが、右手は欠失している。これら下段の四人は、何れも蓮池
から生じた蓮華を台座としている。
これに対して上段は、本尊の左右にターバンを巻いた人物を4人づつ、前後2列に配している。
このうち前列向かって右、本尊寄りの人物は両手先を欠失しているが、残存している痕跡から、
転法輪印に近い印を結んでいたと推定される。前列右外側の人物は、禅定印を結んでいる。いっ
ぽう前列向かって左、本尊寄りの人物は、右手は拳にして臍前に置き、左手は臍前に仰向けてい

図 2 仏説法図の左脇侍 図 3 仏説法図の右脇侍
(古代オリエント博物館寄託) (古代オリエント博物館寄託)

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BAOM XXXV, 2016

る。前列左外側の人物は、両手先を欠失している。
上段後列の4名は、下半身が前の人物の背後に隠れ、上半身のみが現されている。向かって右、
本尊寄りの人物は、右肘より先が欠失しているが、それ以外の3人は、右手で蓮の蕾を持つか、
持っていた痕跡がある。
本尊以外の人物のうち、上段・下段に配される 12人の人物は、何れもターバン頭飾であるが、
本尊脇の蓮台から上半身を現した2人の人物は、ターバンを着けていない。

⑶ ガンダーラと大乗仏教

仏像不表現の伝統を破って仏像が制作される
ようになったのは、クシャン帝国治下のガン
ダーラとマトゥラーである。日本仏教の源流と
なった大乗仏教が興起したのも、この時代とさ
れている。
なおマトゥラーのゴービンドナガルから出土
し、現在マトゥラー博物館に収蔵される如来立
像は、踝から上を欠失しているが、商人のナー
ガラクシタが阿弥陀如来(アミターバ)像とし
て造立したことが台座に銘記されている(図
図 4 阿弥陀如来像断片(マトゥラー博物館)
4)
。なお銘文にある紀元 26年を、マトゥラー
博物館では西暦 106年と換算しているが、中村
元は西暦 156年としている(中村 2000, 493-
495)。いずれにしてもクシャン帝国治下(2世
紀)のマトゥラーで、阿弥陀如来を信仰する大
乗仏教が行われていたことを証明する貴重な遺
品といえる。
これに対してガンダーラからは、大乗仏教と
の関係を示す美術品は発見されていなかった。
ところがC・キーファーによって紹介されたガ
ンダーラ出土の三尊像(右脇侍が欠失)に刻出
されたカローシュティー文字の銘文 を、ガ ン
ダーラ語の権威J・ブラフが解読したところ、
阿 弥 陀 三 尊 像 で あ る こ と が 明 ら か に なった
(Brough 1982)
(米国フロリダ州立 Ringling 美
術館蔵=図5)
。ブラフの解読については、賛
同・否定・修正など種々の意見が提出され、い
まだに決着を見ていないが、ガンダーラで大乗 図 5 仏三尊像断片
仏教が信仰されていたことを示す初の物的証拠 (フロリダ州立 Ringling 美術館)

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Kimiaki TANAKA:A Depiction of Sukhavatıfrom Gandhara?

として、学界に衝撃を与えた 。阿弥陀如来に代表される他土仏信仰は、大乗仏教を特徴づけるも
ので、阿弥陀如来像の発見は大乗仏教の存在を示すものだからである。
この三尊像の左脇侍は、半 思惟形で左手に蓮華を持っている。ガンダーラからは多数の半
思惟像が出土しているが、 岡美術館の半 思惟像は Ringling 美術館像の左脇侍と図像・服制が
酷似しており、もしブラフの解読が正しいのなら、この作品も当然のことながら観音ということ
になる
(図6)
。そして本稿で取り上げる仏説法図の左脇侍も、これとほぼ同じ半 思惟像である。
さらに本作品には、Ringling 美術館像で欠失していた右脇侍が残存しているが、半 思惟ではな
く 脚倚像となっている。
そこで本作品と同じ転法輪印如来(本尊)・半 思惟像(左脇侍)・ 脚倚像(右脇侍)の組み
合わせを捜索したところ、インド博物館
(コルカタ)所蔵の仏説法図(ロリヤン・
タンガイ出土、2∼3世紀)が、ほぼ同
じ図像であることが判明した
(図7)
。イ
ンド博物館像の右脇侍は、頭部を欠失し
ている。その右手は胸前に挙げ、左手は
膝上に垂下しているが、何れも手先を欠
失しているため、持物は判別できない。
いっぽうチャンディーガル州立博物館

図 6 半 思惟菩薩像( 岡美術館) 図 7 仏説法図(ロリヤン・タンガイ出土・インド博物館)

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所蔵の上部に兜率天上の弥勒を現した浮彫では、転法輪印如来の左右に花綱を奉持する人物が立
ち、その左右に半 思惟像(向かって右)と倚坐像(左、足先を欠失しているので 脚であった
のかは判別できない)が坐している 。これは本作品の下段の4尊を逆転した配置と見ることがで
きる。これらの作例は、本作品に見られる転法輪印如来(本尊)・半 思惟(左脇侍)・ 脚倚像
(右脇侍)
の組み合わせが、けっして特異なものではなく、ガンダーラに流布していた三尊像の一
類型であったことを示唆している。したがって Ringling 美術館像の失われた右脇侍も、 脚倚像
であった可能性がある。
ガンダーラと大乗仏教の関係では、ラホール博物館所蔵のモハマッド・ナリーの浮彫が、極楽
浄土図の可能性のある作品として注目されてきた(図8)
。小野英二氏は、モハマッド・ナリーの

図 8 モハマッド・ナリーの浮彫(ラホール博物館)

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Kimiaki TANAKA:A Depiction of Sukhavatıfrom Gandhara?

浮彫が阿弥陀仏五十菩薩の図像に影響を与えており、少なくとも中国においては極楽浄土図と解
釈されていたことを指摘した(小野 2010)
。ただしモハマッド・ナリーの浮彫に現された場面の
多くは、
『阿弥陀経』
『無量寿経』など、インド成立が確実視されるテキストに説かれた極楽浄土
の記述に一致せず、千仏出現や兜率天上の弥勒菩薩など、阿弥陀如来とは関係しないモチーフが
現れるなどの疑問点もある。
これに対して岩 浅夫氏は、従来は釈 ・観音・弥勒と えられていた阿含宗蔵の仏五尊像(カ
ニシカ紀元5年銘)などの右脇侍を大勢至に比定し、阿弥陀・観音・大勢至の阿弥陀三尊である
とした(岩 1994)。これは、宮治昭氏が批判したように、インド仏教図像学の上からは、にわ
かに承認し難い。釈 ・観音・弥勒の三尊形式は、文献的には典拠を見い出せないとはいえ、イ
ンドではパーラ朝まで連綿として制作され続けた 。またブッダガヤ金剛宝座本尊像については、
釈 ・弥勒・観音の三尊であることが、『サーダナマーラー』に収録される2篇の成就法によって
確認されている(宮治 2010, 143-144)。つまりインド亜大陸においては、観音を脇侍とするだけ
では、阿弥陀三尊とは断定できないのである。
いっぽう能仁正顕氏は、主として『無量寿経』の古訳『大阿弥陀経』に基づき、ガンダーラか
ら出土した同種の三尊像には、釈 ・観音・弥勒と、阿弥陀・観音・大勢至のイメージが重複し
ていると説いている(能仁 2008)。

⑷ 左脇侍(半 思惟像)の図像解析

それでは本作品の左脇侍と右脇侍の図像を検討してみよう。まず左脇侍は Ringling 美術館像と


ほぼ同じ半 思惟像であり、ブラフの解読が正しいなら、観音の原初形態である Oloispara という
ことになる。
これに対してG・ショペンは、ブラフの解読を否定するとともに、ロサンゼルス郡立博物館所
蔵の半 思惟像(AC 1994.8.1=ガンダーラ出土、3∼4世紀)に関説する形で、蓮華を持つ半
思惟像を観音に比定することにも異を唱えた 。そこで本稿では以下に、ショペンの論点を整理し
ながら、検討を加えてみたい。
まずショペンは、この作品のような半 思惟像は、金持ちの寄進者や支援者を理想化した肖像
であるという。インドの仏像に寄進者の肖像が添えられることは、稀なことではない。最もよく
知られた例は、サールナートの初転法輪仏坐像(5世紀)に配された寄進者の女性とその子供の
像であるが、寄進者は台座下の五比丘の脇、左隅に小さく表され、両手は合掌してブッダを礼拝
している。ガンダーラにおいても、ペシャワール博物館蔵の樹下観耕像(サーリーバーロール出
土)の台座下には、牛に鋤を引かせて耕作する農民と、太子を礼拝する仙人の脇に、顔を見上げ
て合掌する寄進者と覚しき人物が刻出されている。このようにインドにおいては、仏像の寄進者
の像は下段に小さく配され、その印相は合掌が通例である。本作品のように、本尊と同じ蓮池か
ら生じた蓮台上に坐し、蓮の蕾を持つ半 思惟像を、作品の寄進者に比定することには無理があ
る。
つぎにショペンは、蓮華手(パドマパーニ)を観音の異名とすることに異を唱える。本作品が
成立した2∼3世紀、観音の持物あるいはシンボルとして、明確に蓮華を規定するテキストは存

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在しなかった。筆者の知る限りでは、観音の持物あるいはシンボルとして蓮華を明記するテキス
トは、5∼6世紀の初期密教経典にまで下がる。また本作品には、左脇侍以外にも蓮華を持つ人
物が見られるので、蓮を持つだけで観音に比定することはできない。しかし本稿⑺で見るように、
蓮華を菩薩一般の徳の象徴と見る思想は、すでに成立しており、蓮華を持つ人物を菩薩と える
こと自体に無理はない。なお半 思惟像はマトゥラーからも出土しており、メトロポリタン美術
館所蔵作品は、蓮華は持っていないが、頭上に化仏を現しているので、観音である可能性が高い。
さらにショペンは、半 思惟像がマーラ(魔王)である可能性に言及する。降魔成道図におけ
るマーラの図像については、中川原育子氏が、先行研究を整理しつつ、まとめた論 (中川原 1988)
がある。それを参 に論評すると、マーラが思惟形をとる図像はバールフットから存在するが、
その持物は鉤のような棒状のものであり、その後ガンダーラでは刀剣を構えてブッダを威嚇する
ポーズ、南インド ではブッダを弓箭で射る図像が一般的になる。また降魔成道のブッダの印相も
ガンダーラでは触地印、南インドでは施無畏印となり、本作品のように転法輪印のブッダを本尊
とする降魔成道像は存在しない。
いっぽう仏伝においてマーラが登場するもう一つの重要場面は、ヴァイシャーリーにおける入
滅の勧請であるが、そこにはアーナンダがいなくてはならないが、本作品には比丘形の人物が一
人も現れない。つまり降魔成道図のマーラが半 思惟、あるいはそれに近いポーズをとることは
承認できるが、それは本作品には当てはまらないのである。
さ ら に ショペ ン は、
『説 一 切 有 部 律』等 で 半 思 惟 の ポーズ を 説 明 す る 時 に 用 い ら れ る
cintapara という語に注目し、これが通常言われるような熟 (思惟)ではなく、むしろ困惑(憂
悩)に近い含意であり、律では僧侶がこのような不作法
なポーズをとることを禁じていることを指摘し、高位の
菩薩がこのような困惑のポーズをとるはずがないと断じ
ている。なお律からの引用を見る限りでは、ショペンの
説には一定の説得力があるように見えるが、インド文学
では、若い男女が一心に恋人を思うのも cintapara と表
現される。また大乗最初期の仏伝『ラリタヴィスタラ』
では、樹下観耕において四禅を成就した菩薩(シッダー
ルタ太子)が、dhyana-cintapara つまり「禅定に専念し
た者」と称えられている(Vaidya 1953, 90)。このよう
に、菩薩が cintapara になるのはおかしいという議論は
成り立たない。
なお西北インドでは、ガンダーラ以後もスワットやカ
シミールで半 思惟像が制作され、数点の遺品が伝存し
ている。またオリッサのラトナギリからも、半 思惟菩
薩像が発見されている
(図9)
。ラトナギリ像は奉献小塔
の正面仏 に刻出された小像であり、たとえショペンで
も、
これを仏塔の寄進者や魔王とは見なさないであろう。 図 9 半 思惟菩薩像(オリッサ・ラト
さらに西北インドには、半 思惟像に脇手を付加した4 ナギリ遺跡)

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臂、6臂、8臂の観音像が存在することも明らかになった(安元 2004,74-77;安元 2014,27-30)。


この事実は、敦煌や日本の思惟手をもつ観音=如意輪観音の6臂像の原型が西北インド起源であ
ることを示唆するものといえる。
いっぽう文献的に見ると、かつて筆者が蔵漢対照テキストを発表した『一切仏摂相応大教王経
聖観自在菩薩念誦儀軌』
(大正 No.1051)が、観音の半 思惟像の思惟手を「左手 作 作思念
利益一切衆生相」と説くのが注目される(田中 1993, 22-23)。本文献は最初期の母タントラで、
ウディヤーナつまりスワットと関係が深い『サマーヨーガ・タントラ』の蓮華舞自在族の関連儀
軌で、成立年代も8世紀まで下がるが、この頃には、半 思惟が観音の衆生救済の思念と関連づ
けられていたことが確認できる。
このように本作品の左脇侍の半 思惟像について、これを観音の前身とする同時代資料は、ショ
ペンが否定した Ringling 美術館像銘文のブラフによる解読以外には見いだせないが、後代のイン
ド・シルクロード地方ならびに日本の作例、
『一切仏摂相応大教王経聖観自在菩薩念誦儀軌』等の
密教儀軌を見る限り、ガンダーラの半 思惟像が観音の前身である可能性は高いのである。

⑸ 右脇侍の図像解析

いっぽう右脇侍は、半 思惟ではなく 脚倚像となっている。Ringling 美術館像が学界に紹介


されたとき、筆者は欠失している右脇侍は、左脇侍の半 思惟像を左右反転した像ではないかと
推定していた。半 思惟像と、その左右反転像は、上述のモハマッド・ナリーの浮彫の上部左右
にも現れる。また雲崗第 10窟にも、 脚弥勒を中尊として左右に半 思惟像と、その反転像を配
した三尊が浮き彫りされている(図 10)
。ところが本作品とインド博物館像では、半 思惟の左脇
侍に対して、左右非対称となる 脚倚像が右脇侍となっている。このような 脚倚像は、通常は
兜率天上の弥勒と解釈されており、
宮治昭氏も頭部と手先を欠失するインド博物館像の右脇侍を、
頭部が束髪で水瓶を持つ弥勒と推定している(宮治 2010, 477)。ところが本作品の右脇侍は、
脚倚像ながら頭部にターバンを巻いており、弥勒の図像と一致しない。この事実を、どのように
解釈すべきだろうか。
ガンダーラ彫刻では、釈 菩薩と観音菩薩が頭部にターバンを巻いたクシャトリアの若者の姿
であるのに対し、弥勒はターバンのない束髪あ
るいは髻で、手には水瓶を持っている。これは
ブッダがカピラヴァストゥの王子、つまりク
シャトリアとして生まれたのに対し、弥勒が下
生する時には、バラモンの子として生を享ける
と授記されたためといわれる。
脚倚像は、下生前の兜率天上の弥勒である
から、理論的にはバラモン型の菩薩として造立
する必要はない。しかし実作例では、平山郁夫
コレクション像やベルリン・アジア美術館所蔵
作品のように、兜率天上の弥勒もバラモン型と 図 10 脚弥勒三尊像(雲崗第 10窟)

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して造立した例が多い。
これに対して本作品の右脇侍は、 脚倚像でありながら頭にターバンを巻いている。これは、
右脇侍が弥勒以外の尊格である可能性を示唆するものといえる。
そこで半 思惟像と 脚倚像の象徴性について、いま一度 察してみよう。半 思惟が える
ポーズであることは論を俟たない。しかし前述のように、その思惟が熟 であるのか困惑である
のか、思惟する者が誰なのかについては種々の解釈がある。ただし本稿⑷で見たように、ガンダー
ラやマトゥラーで頭上に化仏を戴いたり、左手に蓮華を持つ作例は、観音と見るのが妥当と思わ
れる。しかし中国では、上海博物館蔵の半 思惟菩薩像(北斉の天保四=553年銘)のように「太
子像」
、つまり悉達太子と銘記した作品が多い。つまり中国では、ブッダが出家前、生老病死の苦
と解脱について思いを巡らす姿として、半 思惟像を受容したことが かる。未来に成仏が約束
された存在という意味では、弥勒も悉達太子と共通する要素をもっている。このような共通点か
ら、半 思惟像は弥勒にも転用されたと思われる。
これに対して観音は、衆生救済のため、あえて涅槃に入らない大悲 提の菩薩とされている。
しかし初期大乗経典の一つ『観世音菩薩授記経』によれば、極楽浄土の阿弥陀如来が涅槃に入っ
て正法が滅盡した後、観音が悟りを開いて普光功徳山王如来となり、さらに普光功徳山王如来が
涅槃に入って正法が滅盡した後は、大勢至が悟りを開いて善住功徳宝王如来となり、浄土を継承
するとされている 。
ここで想起されるのは、三尊像の脇侍菩薩が、しばしば一生補処の菩薩と呼ばれることである。
一生補処(Ekajatipratibaddha)とは、一生のみ輪廻転生の世界に留まるが、つぎの生では成仏
が決定しているという意味で、観音・大勢至は、極楽浄土における一生補処の菩薩として、娑婆
における弥勒と同じ地位にあると見なされる 。
いっぽう 脚倚像は、兜率天における弥勒の図像であるから、これも一生補処の菩薩の表現と
して相応しい。時系列で整理すると、一生補処の菩薩は、まず兜率天において下生の時期を待ち、
地上に現れてから出家修行して悟りを開くというプロセスをたどる 。その場合、この一生で悟り
を開く観音を、出家前の悉達太子と同じ半 思惟像とし、その次に悟りを開く大勢至を、兜率天
上の弥勒と同じ 脚倚像で表現することは不合理ではない。また右脇侍の頭部を、束髪ではなく
ターバン頭飾としたのは、弥勒と大勢至の差別化をはかったためではないだろうか。

⑹ 蓮華化生菩薩

本作品の本尊、転法輪印如来像の台座の左右には、蓮池から生じた蓮台上に、二人の人物が上
半身を現し、ブッダを礼拝している(図 11・12)。宮治昭氏は、
「仏陀の蓮華座の両側から上半身
を現す2人の合掌する人物は、この浄土世界に生まれることを願った寄進者ではなかろうか」
(宮
治 2007, 66)と指摘している。なおチベットの極楽浄土図では、阿弥陀如来の前面に蓮池が描か
れ、そこに生じた蓮台上には化生菩薩、つまり極楽浄土に化生した信徒が描かれる。その場合、
作品を寄進した施主の極楽往生を願って、化生菩薩を施主あるいは施主夫妻に似せて描く慣行が
ある。宮治説は、現在もチベット仏教圏で行われている慣行に照らしても、妥当なものといえる。
いっぽうモハマッド・ナリーの浮彫では、転法輪印如来像の台座の左右で、男女の供養者がブッ

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図 11 化生菩薩(向かって左) 図 12 化生菩薩(向かって右)

ダを礼拝しているが、両足で台座の上に立っている。彼らは作品を寄進した施主夫妻の可能性が
あるが、蓮台の上に化生する姿では描かれていない。これに対して本作品の供養者は、蓮台の上
に上半身のみ現し、左右とも男性である。
なお極楽に往生する衆生は「変成男子」といい、女性でも男性に性転換して生まれるとされて
いる。また女性が子供を産むことがない極楽浄土では、衆生が蓮台の上に化生するのが大きな特
徴とされている。したがってモハマッド・ナリーの寄進者夫妻と同じ位置に配される上半身のみ
の人物は、まさに極楽浄土に往生した信徒すなわち化生菩薩であり、左右ともに男性として表現
されるのは、女性でも男性として生まれ変わる極楽浄土の特性を表現したものと えられる。
なお極楽浄土の化生菩薩は、唐の阿弥陀仏五十菩薩を経て、法隆寺金堂6号壁の下部に描かれ
た蓮華化生菩薩となった。いっぽう同寺の伝橘夫人念持仏では、蓮池から生じた蓮台上に三尊を
配し、後屛に蓮華化生の菩薩が浮彫されている。蓮華化生菩薩の存在は、本作品が極楽浄土図で
ある可能性を強く示唆するものといえよう。

⑺ 阿弥陀如来と八大菩薩

本作品の特徴の一つに、上段の前後2列に配された左右4人、合計8人の人物像がある(図 13)

これら8人を菩薩と見なすべきかについては、意見が かれるだろうが、本作品を大乗の浄土図
と見るならば、これらも菩薩と見なしうる。
彼ら8尊の中で、2尊は蓮の蕾を持っており、上段後列左端の菩薩も蓮の蕾を持っていた痕跡

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図 13 上段の八菩薩

がある。上述のように蓮華や蓮の蕾は、観音と関係する持物ではあるが、観音の持物として明確
に蓮華を規定する文献は、5∼6世紀にならないと現れない。ガンダーラとマトゥラーで仏像が
制作されはじめた頃、確実に成立していたテキストの中で蓮の象徴性に言及するものとしては、
『普賢行願讃』の「 諸の惑業及び魔境、世間道の中に於いて解脱を得、猶蓮華が水に著せず、亦
日月が空に住さぬ如く、悉く一切 道の苦を除いて、等しく一切の群 生に楽を与う」 karmatu
.u vimuktu careyam/ padma yatha salilena aliptah
klesatu marapathato lokagatı
s . suryasası
.//20// sarvi apayadukham
gaganeva asaktah ./
. prasamanto sarvajagat sukhi sthapayamanah
(Vaidya 1960, 431)が思い当たる。
このように煩悩の渦巻く世間にあって、その悪に染まらず、衆生を悟りへと導く菩薩の徳が蓮
に喩えられ、それがやがて数多い菩薩の中でも、とくに観音の持物として定着する原因となった
と思われる。したがって、これらの人物が持つ蓮の蕾も、彼らが菩薩であることを暗示するもの
といえる。
そこで想起されるのは、ありし日のインド仏教美術の伝統を今日に伝えるチベット・ネパール
仏教美術では、極楽浄土に八大菩薩が常套的に描かれることである 。いっぽう中国・朝鮮半島・
日本でも、阿弥陀如来に八大菩薩を配した阿弥陀曼荼羅や、阿弥陀如来八大菩薩図が多数制作さ
れた。とくに阿弥陀如来八大菩薩図は、高麗時代の朝鮮半島で多数の作例を遺している。
なお八大菩薩とは、大乗仏教で信仰される8尊の主要な菩薩をまとめたもので、故頼富本宏氏
によれば、
①『般舟三昧経』
、②『薬師瑠璃光如来本願功徳経』
、③『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』

④『舎利弗陀羅尼経』、⑤
『理趣経』、⑥
『八大菩薩曼荼羅経』
、⑦『文殊師利根本儀軌経』所説の7種
の組み合わせがある(頼富 1990, 608-609 )
。このうち最も一般的なのは、⑥『八大菩薩曼荼羅経』
所説の1.観音
(観自在)
、2.弥勒、3.虚空蔵、4.普賢、5.金剛手、6.文殊、7.除蓋
障、8.地蔵の組み合わせで、これを頼富氏は「標準型の八大菩薩」と名づけた。
阿弥陀曼荼羅や阿弥陀如来八大菩薩図に描かれる八大菩薩も、この組み合わせに一致する。阿
弥陀如来と標準型の八大菩薩の組み合わせは、チベット仏教圏と東アジアに多数の作例が存在す
るにもかかわらず、明確な文献的典拠が見いだされないという問題がある。
また教理的に見ても、観音は極楽浄土の菩薩であるから、極楽浄土図に描かれても不思議はな

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Kimiaki TANAKA:A Depiction of Sukhavatıfrom Gandhara?

いが、弥勒は釈 如来の後、この娑婆世界に出現する未来仏であり、極楽浄土とは直接の関係が
ない。これに対して観音とともに阿弥陀の脇侍とされる大勢至は、標準型の八大菩薩には含まれ
ていない。そのためチベットでは、大勢至(mThu chen thob)とは「大きな勢力を持つ者」と
いう意味だから、金剛手の異名であるといい、大勢至を金剛手と同じ図像で描く。いっぽう日本
では、阿弥陀曼荼羅で観音の反対側に描かれる金剛手を、大勢至に入れ替える説があった 。この
ようにアジア各地では、阿弥陀・観音・大勢至の阿弥陀三尊と、阿弥陀八大菩薩という二つの伝
統の会通が図られたのである。阿弥陀如来と標準型の八大菩薩の組み合わせは、多くの作例に恵
まれるにもかかわらず、仏教教理上は不自然な点を含んでいるのである。

⑻ 『薬師経』の八大菩薩

この問題について、かつて筆者は、
『薬師経』に「彼ら(極楽往生を願う善男子善女人)が、か
の婆伽梵薬師瑠璃光如来の御名を聞いたなら、彼らが末期の時に、8人の菩薩が神通力によって
来たりて、
(道を) 教示し、彼らは、そこ(極楽浄土)の種々の色の蓮台上に化生するであろう」
yaih. punas tasya bhagavato bhais .ajyaguruvaid.uryaprabhasya tathagatasya namadheyam .
srutam. bhavis.yati, tes
.am
. maran.akalasamaye as .t.au bodhisattva r
.ddhyagata upadarsayanti,
.
te tatra nanaranges .u padmes
.upapa duka h
. pradurbhavis .yanti /(Dutt 1939,14)と説かれること
に注目し、 「8人の菩薩」つまり八大菩薩が、信徒の極楽往生を案内する存在と えられたため、
極楽浄土図に描かれるようになったと推定した(田中 1990, 97)。
ところがこの推定には、いくつかの難点があった。まず『薬師経』の最古訳は 312年頃、 康
に至った東晋の帛 梨蜜多羅訳『灌頂経』(大正 No.1331)巻第十二であり、その成立は4世紀を
下らないのに対し、標準型の八大菩薩に言及する最古の漢訳経典は、663年に唐に来朝した那提訳
の『師子荘厳王菩薩請問経』
(大正 No.486)で、
6世紀以前に り得ない(頼富 1990, 620; 小野
2010)。つまり『薬師経』が成立した時点で、標準
型の八大菩薩は成立していなかった可能性が高
い。
いっぽう『薬師経』のサンスクリット原典(ギ
ルギット出土)
、達磨笈多訳、玄 訳、チベット訳
の何れにも8人の菩薩の具体的尊名は説かれない
が、
『灌頂経』
巻第十二には1.文殊師利、2.観
世音、3.得大勢、4.無尽意、5.宝檀華、6.
薬王、7.薬上、8.弥勒の8尊の名が挙げられ
ている 。これが頼富氏のいう②『薬師瑠璃光如来
本願功徳経』の八大菩薩である。この組み合わせ
には観音・得大勢=大勢至が含まれるので、阿弥
陀三尊とは整合的になるが、やはり薬王・薬上や 図 14 『薬師経』の八大菩薩(『大正大蔵経』図像
弥勒など娑婆世界の菩薩が含まれている。 部三「別尊雑記」より)

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BAOM XXXV, 2016

また『別尊雑記』には薬師八大菩薩の白描図像が収録されるが、そこでは観音・大勢至、薬王・
薬上、弥勒・文殊、無盡意・宝檀華が対称的な位置に配されている(図 14) 。薬師八大菩薩とい
いながら、薬師如来の脇侍である日光・月光を含まず、観音と大勢至を左右に配するのは、彼ら
が信徒を極楽に導くとされたためであろう。しかし八大菩薩の尊名は、サンスクリット原典だけ
でなく、他の蔵漢訳の何れにも説かれず、帛 梨蜜多羅が漢訳に当たって補足した可能性が高い。
2∼3世紀と推定される本作品の成立時に、ガンダーラで『薬師経』が知られていたかは微妙
な問題であるが、本作品の上段に配された8尊が②『薬師経』の八大菩薩だとすると、阿弥陀曼
荼羅や阿弥陀如来八大菩薩と同じく、脇侍の観音・大勢至と八大菩薩が重複することになり、不
合理となる。

⑼ 『般舟三昧経』の八大菩薩

このように本作品の上段に配される8人を八大菩薩に比定すると、作品の成立年代や構成上の
齟齬をきたすことになる。ところが頼富氏のいう7種の八大菩薩のうち、2∼3世紀とされる本
作品の成立時期に、すでに存在しており、構成上も齟齬をきたさない組み合わせが一つだけある。
それは①
『般舟三昧経』所説の八大菩薩である 。
『般舟三昧経』Pratyutpannasamadhi-sutra は、支婁 による初訳が現存しており、漢訳仏典
中でも最古のテキストの一つと えられている。また他土に現在する諸仏を目前に観想する「般
舟三昧」を説き、阿弥陀如来に初めて言及するところから、浄土経典の先駆ともされてきた。
同経に説かれる1. 陀和
(Bhadrapala)
、2.羅隣那竭
(Ratnakara)、3. 曰兜(Guhagupta)、
4.那羅達(Naradatta)
、5.須深(Susı
ma?)、6.摩訶須薩和(Mahasusarthavaha)、7.
因 達(Indradatta)、8.和倫調(Varun
.adeva)の8人の菩薩は、 陀和がラージャグリハ、
羅隣那竭がヴァイシャーリーというようにインド各地に定住する在家居士とされ、従来から在家
仏教的な背景をもって成立したと推定されてきた。この8菩薩について、平川彰は、
「これらの長
者がそのまま歴 的実在であったのではなかろうが、しかし長者が経典の中で大きな役割を果た
していることは、在家菩薩で深い悟りに達した人びとが実際に存在したためであろう」
(平川
1974,396)と述べている。この8尊には観音・大勢至が含まれないので、標準型や『薬師経』の
八大菩薩とは異なり、下段の両脇侍と重複することがない。
同経(三巻本)の「授決品」によると、般舟三昧は仏滅後四十歳にして失われるが、仏滅度の
後、正法隠滅・諸国相伐の時、この経典は仏の威神の故に現れ、 陀和・羅隣那竭等の八菩薩が
流布教授するとされる。
同経が成立した紀元前後 、インド中央部では南インドを本拠とするシャータヴァーハナ朝
(アーンドラ国)
が最大版図に達し、ガンジス河以南をほぼ統一していた。これに対して西北イン
ドでは小国が乱立し、
「諸国相伐の時」を迎えていた。また『般舟三昧経』は、広義の『大集経』
に含まれるが、これら一連の経典には、西北インドで成立したものが多く含まれている。このよ
うに『般舟三昧経』の八大菩薩は、上掲の7種の八大菩薩のうち、本作品が成立した2∼3世紀
のガンダーラ地方で、確実に知られていた唯一の組み合わせと えられる。
『薬師経』
の前掲箇所では、極楽往生を願う信徒の末期に際して、8人の菩薩が神通力によって

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Kimiaki TANAKA:A Depiction of Sukhavatıfrom Gandhara?

来たり、彼らは雑色の蓮台上に化生すると説かれていた。しかし『薬師経』の成立時点では標準
型の八大菩薩は成立しておらず、
『薬師経』
の八大菩薩も帛 梨蜜多羅訳以外には説かれていない
ので、
『薬師経』が本来意図していたのは、浄土教の先駆経典である『般舟三昧経』の八大菩薩で
あった可能性が高い。
本作品が成立した2∼3世紀頃に、4世紀前半までは上げられる『薬師経』の現行テキストが、
ガンダーラで知られていたのかは微妙な問題である 。しかし漢訳で東方の他土仏=薬師 に言
及する最古の経典は、三国時代の呉の支謙訳『八吉祥神呪経』(大正 No.427=3世紀)である。
そして同経の末尾には『般舟三昧経』の八大菩薩が、信徒の臨終に当たって往迎すると説かれて
いる(大正 No.427,Vol.14,73a.)
。同経には呉から隋まで5本の異訳があるが、
『般舟三昧経』
の八大菩薩に言及するのは、呉訳と西晋の竺法護訳『八曜神呪経』(大正 No.428=3∼4 世紀)ま
でである。この事実は、3∼4世紀にかけて薬師信仰と『般舟三昧経』が近い関係にあり、『薬師
経』に説かれた八菩薩による臨終時の引導が、『般舟三昧経』の八大菩薩と関連づけられていたこ
とを暗示している。
いっぽう作品に目を転じると、下段の菩薩とは異なり、上段の前列4人の蓮台(後列4人の蓮
台は、前列の菩薩の背後に隠れて現されていない)は蓮池から生じたのではなく、中空に浮き上
がった形で表現されている。これは、彼らが下段の蓮華化生の信徒を導くため、神通力によって
現れたことを示すとは解釈できないだろうか。

⑽ 結論

古代オリエント博物館寄託のガンダーラ仏説法図は、転法輪印を結ぶ本尊だけでなく、左脇侍
が半 思惟形で左手に蓮華を持つ点まで、ブラフが阿弥陀三尊に比定した米国 Ringling 美術館像
に類似している。いっぽう Ringling 美術館像で欠失していた右脇侍は、 脚倚像ながら弥勒とは
異なるターバン頭飾をもち、一生補処の菩薩としての大勢至を表現した可能性が えられる。ま
た本尊の前面左右では、蓮台から2人の人物が上半身を現して合掌しているが、これは後の極楽
浄土図に描かれる化生菩薩の原初的表現と見なしうる。さらに本稿では、上段に配された8人の
人物が、浄土教の先駆経典とされる『般舟三昧経』の八大菩薩である可能性を指摘した。
これらの点から えて、本作品は、ガンダーラから出土した数多い浮彫彫刻の中でも、極楽浄
土図である可能性が最も高い作品と思われる。
学界ではこれまで、極楽浄土を表現した可能性がある作品として、モハマッド・ナリーの浮彫
が注目されてきた。フーシェによって「シュラーヴァスティーの神変」に比定されてから 100年
あまりの間に、多数の解釈が現れたが、いまだに確たる結論は得られていない。モハマッド・ナ
リーの浮彫には題記の銘文が存在せず、その複雑な図像のすべてを完全に説明できる文献も、現
在までのところ発見されていないからである。これに対して本作品は、ブラフの解読を信じるな
ら、阿弥陀如来であることが銘文から確認できる唯一の作例である Ringling 美術館像と図像的特
徴が近似している。今後は本作品のような、本尊が転法輪印如来で、左脇侍が半 思惟菩薩であ
る作品を中心に、ガンダーラに極楽浄土図が存在したのかを検討する必要がある。
本稿を結ぶに当たって想起されるのは、前述の伝橘夫人念持仏の須弥座背面に描かれた化生菩

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BAOM XXXV, 2016

薩の中に、半 思惟と見られる菩薩像が存在することである。日本の浄土教美術の起源探求は、
多くの紆余曲折を経て、やっとガンダーラにまでたどり着いたといえよう。

平成 27年度学術研究助成基金助成金 基盤研究(C)
「インド・チベット密教と曼荼羅の研究」
の成果の一部。

1 吉村怜氏は、蓮華から上半身を出現させる人物を天人 生と解釈した。吉村説については、朴亨國氏
の反対意見が提出されているが、本作品を最初に紹介した宮治 2007も、この3人を「天人」としてい
るので、本稿ではそれに従った。
2 ブラフの解読に対する学界の反応については、宮治 2010,156-157 の[補注1]にまとめられている。
3 チャンディーガルには、インド・パキスタン 離にともないインド側に譲渡されたラホール博物館旧
蔵のガンダーラ美術 612点が収蔵されている。
4 写真が宮治 2010, 151 に掲載されている。
5 モハマッド・ナリーの浮彫についての研究 は、小山 2008,36-38 にまとめられている。小山氏はモ
ハマッド・ナリーの浮彫を『観無量寿経』に基づいて読み解こうとするが、同経のインド成立は疑問
視されており、牽強付会ともいえる解釈も目につく。
6 弥 勒 は 慈 氏 菩 薩 と 意 訳 さ れ る よ う に、慈 maitrıか ら 派 生 し た 語 と え ら れ、観 音 は 大 悲 尊
.ika、悲よりなる者 karun
mahakarun .amaya と呼ばれるように、悲 karun
.a を代表する菩薩と えら
れた。筆者は、弥勒と観音の組み合わせは、ブッダの慈悲を象徴すると えている。
7 ショペン 2000,79 -98.なお本書には、蓮華手(パドマパーニ)をヴァジュラパーニと誤るなど、いく
つかの問題があるが、大谷大学における講演の邦訳で原著が存在しないため、原語を確認することが
できなかった。
8 中川原氏は降魔成道の図像を、ガンダーラと南インドの対比で えるが、施無畏印のブッダをマーラ
が弓箭で射る図像は、マトゥラーの仏伝五相図(マトゥラー博物館蔵)にも見られるので、むしろ西
北インドと中・南インドの対比で えた方がよいと思われる。
9 この例では、観音が右手で念珠を持つため、左手が思惟手になっている。
10 大正 No. 371, Vol. 12, 357a-b. なお同様の説話は、『大阿弥陀経』や『悲華経』にも見られる(能仁
2008,14-15)
。しかし時代が下がるにつれ、阿弥陀仏の不滅が強調されるようになったため、現行の
『無量寿経』には見られない。
11 能仁 2008は、釈 と弥勒の関係が、阿弥陀と観音の関係に相当することに注目しているが、ガン
ダーラの三尊像では、クシャトリア型の脇侍菩薩が蓮華や花綱を持たない場合、釈 菩薩つまり悉達
太子と見なされる。能仁説は、釈 ・観音・弥勒の三尊像より、釈 如来・釈 菩薩(悉達太子)・弥
勒の三尊に当てはまるように思われる。
12 ブッダの前世=白 菩薩 ́
Svetaketu もかつて、弥勒に一生補処の菩薩の地位を譲り、兜率天から下生
したことが、
『ラリタヴィスタラ』に説かれている。
13 大正 No. 293, Vol. 10, 847b を読み下しにして示した。
14 チベットにおける極楽浄土図については、筆者が学術顧問を務めた韓国ハンビッツ文化財団の 式図
録(田中 1998-2015)に都合 17点の作例が収録されるが、このうち 15点に八大菩薩が描かれている。
15 「此八曼荼羅者何。或云。八大菩薩也。如経。或人此中除金剛手。安大勢至菩薩」
『図像抄』巻二、
『大
正大蔵経』図像部 Vol.3, 8c.

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Kimiaki TANAKA:A Depiction of Sukhavatıfrom Gandhara?

16 upadarsayanti には種々の含意があるが、ここでは達磨笈多訳「示其道 」、チベット訳 lam ston par


gyur te にしたがって「 (極楽への)道を教示する」と解す。
17 大正 No. 1331,Vol.21,533c.また玄 訳の敦煌異本(大正 Vol.14,406 の 11)、 才の『浄土論』
(大正 No. 1963, Vol. 47, 94b)にも出るが、『灌頂経』からの引用と思われる。
18 『別尊雑記』巻四、
『大正大蔵経』図像部 Vol. 3, p.89 、図版 16。
19 『般舟三昧経』の八大菩薩については、田中 2012 を参照。
20 『般舟三昧経』の成立過程については、末木・梶山 1992 を参 にした。
21 現地の学者の間では、タキシラのジョウリアン遺跡に見られる腹部に孔があいた仏像を薬師如来に比
定する意見があるが、筆者は懐疑的である。
22 これについて詳しくは別稿を期したいが、
『八吉祥神呪経』の薬師具足王仏の原語は、対応するチベッ
ト訳から Bhais.ajyaguru ではなく Bhais.ajyaraja であった可能性がある。ただし同経所説の東方八
仏と七仏薬師の間には共通する要素が多い。

引用文献
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BAOM XXXV, 2016

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安元 剛 2014「北西インドにおける金剛手・金剛薩埵と多臂半 思惟観音の作例について―インド密教
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頼富本宏 1990『密教仏の研究』法藏館。

図版出典
図 1:仏説法図(古代オリエント博物館寄託)
図 2:仏説法図の左脇侍(古代オリエント博物館寄託)
図 3:仏説法図の右脇侍(古代オリエント博物館寄託)
図 4:阿弥陀如来像断片(マトゥラー博物館)筆者撮影
図 5:仏三尊像断片(フロリダ州立 Ringling 美術館)Art of the Indian Subcontinent from Los Angeles
Collections, Los Angeles:UCLA 1968 より引用。
図 6:半 思惟菩薩像( 岡美術館)
図 7:仏説法図(ロリヤン・タンガイ出土・インド博物館)『コルカタ・インド博物館所蔵「インドの仏」
仏教美術の源流』(東京国立博物館 2015)より引用。
図 8:モハマッド・ナリーの浮彫(ラホール博物館)筆者撮影
図 9:半 思惟菩薩像(オリッサ・ラトナギリ遺跡)筆者撮影
図 10: 脚弥勒三尊像(雲崗第 10窟)
図 11:化生菩薩(向かって左)
(古代オリエント博物館寄託)
図 12:化生菩薩(向かって右)
(古代オリエント博物館寄託)
図 13:上段の八菩薩(古代オリエント博物館寄託)
図 14:『薬師経』の八大菩薩(『大正大蔵経』図像部三「別尊雑記」より)

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