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地区壮年会一日研修会「キリスト教とセクシュアルマイノリティ」

1 言葉について
2 聖書はなにを言っているか
3 教会はどう向き合うのか

1 言葉について

「マイノリティ」とは何か
少数派のこと、「マジョリティ・多数派」の反対。
マジョリティとは皆が「普通」だと思っていることを気にしないでいられる人、
気付かずにいられる人。
例)マジョリティの発言
「あの人、日本人なのにキリスト教なんだって。うちは日本人だから無宗教だけど」
マイノリティの心境
「(日本人でもクリスチャンはいます、ここに。あなたもお寺や神社は行くでしょ…)」

セクシュアリティの説明

まず、最もよく知られている(?)人たちがレズビアンとゲイの方々だと思います。
レズビアンと言えば女性の同性愛者、ゲイと言えば男性の同性愛者……日本ではそう理解されて
いますが、海外ではゲイと言った場合、同性愛者全般を指します。
ホモセクシュアルもヘテロセクシュアル(異性愛)に対する同性愛を意味する言葉です。ただし、「ホ
モ」と呼んだ場合、侮蔑的な言い方になってしまいます。
また、レズビアンの方を「レズ」と呼ぶのも侮蔑的な言い方になるので、「ビアンさん」という言い方
をすることもあります。
同性愛と言えば、呼んで字のごとく同性の人を好きになったり、同性の人に性的な欲求を覚えたり
することと理解されます。

もしかしたら、男性の同性愛者は女性っぽい性格で、女性の同性愛者は男性っぽい性格だと思っ
ている人が多いかもしれません。
テレビでは、ゲイといえば「オネエ言葉」を話している……という印象が強いですし、漫画やアニメで
もそんなふうに描かれることが多いです。

ただ、私の知っているゲイ男性の方は、ほとんどオネエ言葉を話しません。見た目も振る舞いも、他
の男性とあまり変わりませんでした。オネエ言葉を話しているゲイ男性の方と会ったのは一度だけ
です。
ビアンの方も、相手から言われる前に同性愛だと気づいたことは一度もありませんでした。女性的
(?)な人も男性的(?)な人もいて、特にどっちかが多いとは感じていません。
見た目ではわかるものではないということです。テレビなどではあくまでも誇張された、目で見て分
かるキャラだけがお姉キャラセクシュアルマイノリティとして登場しやすいのです。例えば牧師や神父
さんがドラマで出る時もTシャツ、ジーパンでスマホいじってたら、それっぽくないでしょう。黒い修道
服みたいなのに身をつつんで首から下げて、教会で静かに祈ってるみたいな、固定的なイメージで
登場します。でも実際ほとんど牧師会でラフな格好でスマホいじってるわけです。同性愛者も同じで 、
お姉キャラというわかりやすいキャラなら世間に受け入れられる、普通な私とは全然異なる存在の
オネエ、普通の日本人とは異なる神父さま。普通じゃない格好なら、普通じゃない人は登場するの
が許される、それがテレビの同性愛者がほとんどおねえと呼ばれる人たちである理由です。
 それと、性欲も異性愛者と同じく、強い人もいればそうでない人もいます。同性愛の人は見境なし
に同性を求めている、同性に興奮するというわけではありません。
久米は異性愛者です。男性です。ああ久米は「女性なら誰でもいいんだ」「女性と性行為がしたい
んだ」という目で見られたら…いやいやあなた、そんなに目てるんですか?と言いたい。女性の人が
男の人がすきって言ったって、男ならだれでもいいって周りから見られたくない。異性愛の人だって
同じです。
同性愛と聞いただけで「この人男の私と寝たいのかしら?」「私そういう趣味ないから……」と返
す人もいますが、それはとても失礼です。
ちなみに、今も病気と思っている人がいるかもしれませんが、WHO(世界保健機関)の見解では、
同性愛は病気や障害ではなく、自然な性の一つです。

【性同一性障害】
そして、「同性愛」と似たような言葉で混同されやすいのが「性同一性障害」です。
LGBT の T、トランスジェンダーの方々です。これは、性自認と生物学的性が一致しない、心と体の
性が一致しない人たちのことで、障害として認識されています。(2018 年の時点)
つまり、心は女性だけれど体は男性であったり、心は男性だけれど体は女性であったりする人た
ちのことです。(だれを好きになるのか、性指向についての話ではないです。)
治療を受けて、つまりカウンセリングを経て、性適合手術を受け、自分の性自認*1 と一致する体に
なる人もいます。ただし、それぞれが抱えている性別違和感は幅広く、手術を必要とする人とそうで
ない人、全身ではなく一部の手術でいい人もいます。
トランスジェンダーと言った場合は、これらの幅広い性同一性障害全般を指します。トランスセク
シュアルと言った場合は、手術を必要とするような心と体の不一致が著しい人を指すことが多いで
す。
ちなみに
「FTM」…… “female to male” 自分の性を女性から男性へ移行した(する)人。
「MTF」…… “male to female” 自分の性を男性から女性へ移行した(する)人。
という呼び方もあります。
私の知り合いのクリちゃんンの友人にもいます。
あくまでも心と身体が一致しないのがトランスジェンダーですから、「性同一障害で同性愛の人」と
いう方もいます。つまり、「心は女性だけれど体は男性で、好きになるのは女性」心の中の女である
自分が、出会う女の人と恋に落ちるという人もいます。

【バイセクシュアル】
LGBT の B、バイセクシュアルは好きになる対象が女性にも男性にも向く人のことです。もちろん、
両性愛だからと言って、異性愛や同性愛よりも性欲が強い……なんてことはありません、人それぞ
れです。初恋の人が女性だった、次に好きになってドキドキしたのがクラスの男の子だったという感
じです。
とってもシャイな方もいれば、好きになった人に声をかけることさえできない人もいます。男女両
方を好きになることがあるからと言って、常に何人もの人に情欲を抱いてアピールするわけではあ
りません。見境なく誰とでも関係を持ってる人ではありません。(異性愛と同じ)。

【インターセックス】
インターセックスとは、生物学的に両性の特徴を有する人や、染色体、生殖腺、外性器について、性
別が不明瞭な人のことです。たとえば、染色体は XY で精巣を持っているけれども、男性ホルモン
の影響を受けない疾患のため、乳房や女性器があり、見た目は完全に女性という人がいます。
本人も「自分は女性」という自覚を持っており、周りもそのように見ているので、検査をするまでなか
なか気づくことはありません。
つまり、誰でも当事者の可能性があるわけです。
なんなら、ヘテロ男性(自分は男性と思っていて、見た目も男性で、好きになる対象は女性)という
自覚を持っている私自身も、気づいていないだけで染色体が XY ではない……という可能性もあ
ります。

【アセクシュアル】
LGBTI の他に、アセクシュアル、あるいは A セクシュアルと呼ばれるセクシュアリティーがあります。
アはラテン語の否定語です。「無性愛」とも言われ、他者に対して恋愛感情や性的欲求を抱かない
人のことです。これも教会の中で出会いました。

「異性愛者の人が同性を恋愛対象として見ない、同性愛者の人が異性を恋愛対象として見ないの
と同じように、異性も同性も恋愛対象として見ない人のこと」ということです。

誰も恋愛対象として見ないからと言って、決して冷たい人たちではありません。同性や異性が嫌
いな人たちというわけでもありません。
それぞれ、大切にしたい人がいて、尊敬する人がいて、ある人の考えや行動を好ましく思ったりしま
す。多くの人と同じく愛情を持った人たちです。
ただ恋愛や結婚に進めないため、教会の中で「いい人いないの?」「孫の顔が見たい」などとい
う言葉は、その本人のセクシュアリティを否定することとなり、傷を負わせます。異性愛の方が同性
の方ともお付き合いしたら?なんて言われたら、それは余計なお世話どころか失礼ですが、それ以
上に自分は世間の言う「普通」と違うということに大変苦しんで生きています。

【クエスチョニング】【クィア】

クエスチョニングとは、自分のセクシュアリティを迷っている人、探している人、敢えて決めないで生
きている人などを指します。
「今まで異性を好きになったことしかなかったのに、同性を好きになり始めた……」
「男でいたいのか女でいたいのかよく分からなくなった」
「男とも女とも見られたくない」といった人たちです。

もちろん、これまで挙げてきたセクシュアリティに当てはまらない人もいます。固定化された規範(男
は○○である、女は○○である、同性愛は○○である……)に対して「奇妙さ」を持つ人たちもいま
す。

そういった「奇妙さ」を持つ当事者の間に、それぞれ差異があることを認めつつ、連帯することがで
きる呼び方として「クィア」という言葉も使われるようになりました。

一方、セクシュアル・マイノリティーの方々に対する異性愛者のことを「ストレート」と表現したり、
「ヘテロ」「ヘテロセクシュアル」と呼んだります。「ノンケ」は少し砕けた言い方です。

【「性」は先天的? 後天的?】
さてこうした性は「性」は先天的? 後天的?なのでしょう。
実際、同性愛者を断罪し、会話療法や電気ショック療法を用いて「矯正」しようとする試みが、かつ
ても(今も)行われてきました。その根底にあるのは、「性は男女の2つのみであり、異性愛以外の性
のあり方は後天的な混乱」という意識でしょう。
これを含めて「性自認や性的指向は先天的か後天的か?」という問題には、大きく以下の3つの立
場を挙げることができます。

1)性に伴う意識は混乱することがあり、それは生後に起きるという立場。
2)性に伴う意識は生来のもの、変更はできないという立場。
3)性は生涯一つに固定されたものではなく、変化することがあるという立場。

1)の「性に伴う意識は混乱することがあり、それは生後に起きるという立場」では、先に述べたよう
に、性は男女の2つのみであり、異性愛以外の性のあり方は後天的な混乱と考えます。
つまり、LGBT は治療の対象で、「治療可能」ということになります
キリスト教会の一部は、この立場に基づいて、コンバージョンセラピーという「治療」を行ってきまし
た。
会話療法や電気ショック療法など、幾つもの手法を組み合わせて行われます。
その代表的なものが、嫌悪療法です。

ようするに、不快な感情を連想させることで問題行動を抑える治療法で、「同性の映像などを見て
同性に性的興奮を覚える度に性器に電気を流す」「反対に自分の対象ではない苦手な画像を繰り
返し見させられる」といったことを繰り返します。治療ではなく拷問です。

簡単に言えば、「条件反射で同性愛を止めさせ、生来の異性愛に戻そう」という試みです。

かつて、ある男性に赤い靴を見せた後、女性の裸の写真を見せるという行為を繰り返す実験が行
われました。その実験の結果、男性は女性の写真を見なくても、赤い靴を見ただけで性的興奮を示
すようになりました。いわゆるフェティシズムの人工的な創造です。

これを、同性愛者の「治療」に転用したわけです。ただし、実験の内容からも分かるように、これは
「人間を生来の性質に戻す」方法ではなく、「後天的に性質を後付けする」方法です。
「治療」法自体が、その人が本来持っている性質を回復させる方法ではないのです。
さらに、現在ではこれらの治療法が有効である科学的根拠は全くないことが明らかにされています。
むしろ、LGBT 当事者が自身のアイデンティティに憎しみを抱く結果となり、深刻な後遺症や被害が
出ました。
コンバージョンセラピーの危険と問題については、こちらの記事に詳しく書かれています。

2「聖書に書いてある」

時々、耳にする言葉に「同性愛の禁止は聖書に明言されている」というものがあります。本当で
しょうか?試しに聖書検索サイトで同性愛、同性婚を検索してみてください。一件もヒットしません。
そもそも 19 世紀以降につくられた言葉である「同性愛」が聖書にないのは当然です。「パソコン」や
「渋谷スクランブル交差点」が聖書に書かれていないのと同じです。しかし、ある聖書の記述を、こ
の記述は現代の私たちが同性愛と考えるものに当たるのではないかと考える人が、その個所を根
拠に、聖書は同性愛を禁じていると“解釈”しているわけです。
 これに対する疑問や反論は二通りあります。
① そもそもその記述は本当に現代の「同性愛」に相当するのか?
② 聖書が禁じているものを本当に現代の教会は文字通り禁じるのか?

① 聖書の記述の中に同性愛に相当するものがあるか?

1.創世記
でも神様は、人を「男と女に創造された」と書かれているじゃないか……*3
多くの方からそう言われるかもしれません。実際そのとおりです。聖書には神様が同性愛の人を
造ったとは書かれていません。バイセクシャルとかトランスジェンダーは出てきません。ただし、私た
ちは本当に、「聖書に書いてないから」「聖書に書いてあるから」という理由だけで、異性愛に当て
はまらない人たちを断罪して良いのでしょうか?
創世記に書かれている生物だけを自然な存在と認めるなら、ちょっとおかしな話も出てきます。
たとえば、神様は「鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」と言われました。ところが、南極にいるペンギ
ンという鳥は水の中を泳いでいます。飛びません。
私これ大真面目言ってますけれど、ペンギンは聖書に書かれていない在り方をとる、不自然な、後
天的に神様の言うことを聞かなかった存在でしょうか?鳥として、あってはならない生き方をする存
在でしょうか?ダチョウ、エミュー、ヒクイドリ、そしてペンギンを無理やり電気ショックで飛べるように
治療して、無理やりにでも飛べる心と身体にすることが、彼らの回復で去り、聖書的な創造の秩序
なのでしょうか。
聖書は歴史を網羅的に、現実を余すところなく書こうとした書物ではなかったでしょう。すべてのこ
とは書けないとも書いてあるくらいですから。
聖書に「書いてない、男と女だけだ」というのを理由に、セクシュアルマイノリティやペンギンを不自
然な存在とするのは乱暴ですし、罪だと指摘することは私はそれこそが罪深い行為だと思います。
男と女
兄弟 姉妹いないことにならない

2.レビ記 18 章 22 節「女と寝るように男と寝てはならない。」

これを原文で見てみると
「あなたは、男(ザーハル)と、
女(イシャー)の寝床(ミシュハブ)で寝て(シャーカブ)はならない。」となります。

寝床と訳したミシュハブは動詞「寝る(シャーカブ)」の派生語で、「寝ること」を意味すると解釈で
きなくもないが、「寝床」「寝台」つまりベッドという場所を意味する語です。そして「寝るシャーカブ」
も睡眠や休息で横になることも意味しますが、性的関係を意味します。日本語の「寝る」と同様です。
創世記の創造物語において、神が人間の創造した際、「男(ザーハル)と女(ネケバー)」に創造
した(創世記1章 27 節)と告げられます。ここを。「男と女」と訳される際、「ザーハル」とは「男」を意
味すします。創世記 2 章 20-25 節の創造物語では、「男(イシュ)から取られた女(イシャー)」、「女
(イシャー)と名付けられた」は、「ふさわしい助け手」であり、イシュのパートナー、連れ合いであるイ
シャーは今日「妻」と呼ばれる存在を指しうる(アダムとエヴァの婚姻は描かれていないのであくま
で便宜上)。すると“妻”イシャーのパートナーとして、その相手を当時の社会通念上からも便宜上
“夫”と訳すこととします。
整理すると「男と女(ザーハルとネケバー)」「夫と妻(イシュとイシャー)」が創世記でもレビ記で
も「男と女」と訳されてしまっていますが、レビ記が直前においても親兄弟親族の妻、隣人や他人の
妻(イシャー)との寝ることを既婚の男性、つまり夫に禁じている文脈ですから、妻や夫という訳し分
けを 22 節でもすべきだと思います。
これらは踏まえて 18 章 22 節を訳すとこうなります。

「(夫である)あなたは、男(ザーハル)と、妻(イシャー)の寝床で寝てはならない。」

日本語訳聖書では、「男が女と寝るように男と寝る」つまり「男と男が寝る」となっていてます。し
かし原文のヘブライ語では「夫」が「妻」の寝床で「男」と寝ることが禁じられています。つまり、「夫
と男」の夫婦間ではない行為であって文字通りの「男性と男性」、「同性」とは言えません。もし同性
愛の禁止の成句ならば「男と男(ザーハルトザーハル)」あるいは「女と女(ネケバーとネケバー)と
なるはずです――ちなみに女性間の親密な関係(レズビアン)に関して、聖書では一切に言及があ
りません(百歩譲って、これが男性間性行為の禁止であると解釈したとしても、女性間の行為や関
係に関しては一言も聖書は禁じていないのです。だって女性の人権などありませんから。)あくまで
の妻が夫の所有物の考えられていた時代に、他人の財産に手を付けることが汚れた行為として戒
められている箇所です。

しかし、「聖書に書いてあるから」という理由で断罪するべきだとしたら、婚約者のいる女性が町の
中でレイプされた場合も、彼女を死刑にしなければなりません。
「その娘は町の中で助けを求めず、男は隣人の妻を辱めたからである*6」……

実際は、「叫べば殺す」と脅されたら、多くの女性は助けを呼べないでしょう。

私たちは倫理的に考えて、この聖句のとおり、助けを呼べずにレイプされた女性を死刑にするべき
だとは思わないでしょう。
また、かつてドイツでは、キリストが十字架につけられたことについて、「その血の責任は、我々と子
孫にある」とユダヤ人が答えたことを、この聖書の個所を理由に多くのユダヤ人が迫害され、殺され
ました……
聖書に書いてあるから……
本当に、「聖書に書いてあるから」という理由だけで、私たちは人を断罪するのでしょうか?
自分たちにとって不愉快な存在、嫌悪する対象、理解できない異質なものを排除するために、聖書
の言葉に乗っかっていないでしょうか?

2)の「性に伴う意識は生来のもの、変更はできないという立場」では、 LGBT を受け入れるべき有


りのままの姿と受けとめます。

「以前は異性を好きだったのに、同性を好きになるようになった」という人についても、性が変更さ
れたとは考えません。成人してから性的指向が変わったと思うのは、もともと持っていた意識に後
から気づいたからと考えるからです。私が教会で出会うセクシュアルマイノリティで一番多いケース
です。いけないものとして教え込まれて来たけれど、自分はその教えと違う方を向いている。ちょっと
教会を離れる機械などがあると本来の自分が何者であるのかに気づいたというケースです。この
場合本来の姿に気づいただけなので「矯正」する対象でもありません。むしろ、異性愛と同じく、生
来の自然なセクシュアリティという捉え方をします。

【人の性は揺れ動く?】
3)の「性は生涯一つに固定されたものではなく、変化することがあるという立場」は、私自身がとっ
ている考え方です。

たとえば、
・現在、異性愛者である人も、将来、同性愛者に変わる可能性がある。
・現在、同性愛者である人も、将来、異性愛者に変わる可能性がある。
というような話です。

正直、同じ考え方の人はあまり聞いたことがありません……
私たちの多くは、自分の性は生涯にわたって「変わらない」「固定されている」と思っています。私自
身も、将来、自分が異性ではなく同性を好きになる……あるいは、誰に対しても恋愛感情を抱かな
くなる……なんて予定はありませんし、願ってるわけでもありませんが、可能性がないとは言えませ
ん。
実際、私がお世話になった人は、20 代後半になってからセクシュアリティが変化したことを話してく
れました。その人が望む望まないにかかわらず……
人の性は揺れ動くもので、生涯そのままであることが保証されない……だからこそ、 LGBT に関わ
る事柄は誰もが関係することで、当事者の方々に「こうなりたい」と思う理想像があるとき、そうなる
可能性を否定しなくていいと思うのです。

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