Download as pdf or txt
Download as pdf or txt
You are on page 1of 27

法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「鷰尾」の

関連性について
―東アジアにおける舌とその源流の系統的再考―
  
唐 聡
    
肘木の端部におけるデザイン要素であるが︑時代的にかなり離れてい
一 はじめに
るので︑これまで個々に研究されてきた︒しかし︑一九八〇年代以来
日 本 の 奈 良 時 代 に お け る 古 建 築 に お い て 特 殊 な 細 部 様 式 と し て︑ 中国で新たに発表された幾つかの考古発掘の調査結果により︑両方の

-2-
﹁舌﹂と呼ばれる肘木の下面に沿って作り出された舌状の薄い突起が 存続時代が近づくことが認められ︑その間に関連性がある可能性が提
ある︒極めて特殊な細部形式で︑日本では奈良時代におけるいくつか 示された︒本論では先学の研究成果を踏まえ︑舌と燕尾の関連性に注
の古建築にしか見られない︒名前の出典については︑最初に法隆寺国 目し︑その前後の源流と変遷に関して東アジア全体の視点で再検討を
(一)
宝保存工事報告書の中で﹁舌状の作出﹂という言葉で表現され︑以後 試みる︒
このような細部が﹁舌﹂と呼ばれるようになった︒日本で最も多く議
二 先行研究
論されたのは法隆寺金堂・五重塔の雲形肘木であるが︑今まで知られ
ている一番古い例は山田寺跡から出土した舌の着いた肘木である︒他
 「舌」について

1
にも奈良時代の例として︑薬師寺東塔の肘木に舌が確認された(図︱ 現在まで︑舌に関する研究は日本の学者が中心となり行われた︒一

︒ 九六〇年代︑井上充夫氏が初めて専門的な検討を行い︑法隆寺雲形肘
1

一方︑中国の十二世紀の北宋末頃刊行された建築技術書である﹃営 木と高句麗時代における古墳壁画中の雲の図の曲線との類似性を論じ
(二) (三)
造法式﹄において︑
﹁鷰尾﹂と呼ばれる肘木の下面を飾った門型の彩 た︒その後︑上原和氏が新たに発見された古墳資料と発掘成果に基づ
色文様がある︒この七世紀の﹁舌﹂と十二世紀の﹁鷰尾﹂は両方とも き︑朝鮮半島における東晋永和十三年(三五七)の墓誌銘をもつ安岳
三号墳の石造方柱上︑双斗を載せる石造肘木下端の斜
めの部分に舌が作り出されたことを指摘し︑舌の源流
(四)
について有力な検討を加えた(図︱ )︒ 更 に︑ 一 九

2
七〇年代︑関口欣也氏が中国の舌の例を発見した︒後
漢時代における四川の雅安高頤闕(二〇九ごろ)が現
在確認されている最古の舌の実例と考えられ︑次いで
後漢末と推定された山東福山東留公村磚墓画像石の双
斗下端︑後漢末から魏晋時代とされる山東沂南古画像

 図-2 朝鮮半島における舌の実例:安岳三号墳とその石造の組物
石墓の画像斗栱にも舌の表現が認められる︒関口氏が
尾」の関連性について

これらの例に基づき舌の変化を跡づけ︑朝鮮半島の安
岳三号墳の舌は中国山東省のものと関連性のあること
(五)
を論じられた︒その後︑稲葉和也氏が当時新たに出土

-3-
した山田寺回廊遺構の肘木にも舌が認められることを
指摘し︑更に高句麗古墳と中国四川省の漢闕に多く見
られる皿斗を関連して論じ︑皿斗は斗と下の斗を支え
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

る台座である板からなるように︑舌の祖形は肘木の下
(六)
に重ねた水平な部材に起因するという論点を強調した

 図-1 日本における舌の実例
(図︱ )︒

3
(七)
以上の研究により︑舌の由来が明らかとなった︒即
ち斗栱構造上での役割をもつ機能的なものから︑肘木
下端につく薄い刳り出しの装飾細部である舌に退化し
たことである︒しかし︑古形については推測の域を超
え ず︑ 実 際 に 証 明 で き る 例 が 挙 げ ら れ な か っ た︒ 次
に︑舌が中国から朝鮮半島を経由し︑日本まで伝わっ
たことが概ね明らかになった︒そのうち︑特に関口氏の論文で
は︑様式の比較研究のみならず︑高句麗の工匠︑僧侶の来朝と
文物請来などの面から︑舌を含めた法隆寺金堂の様式と高句麗
様式の関連性が説明された︒それを通して︑朝鮮半島から日本
へ伝わる経緯が明らかになったが︑舌はどうやって中国から朝
鮮半島に伝わってきたかに関しては︑沂南漢墓の例と安岳三号
墳の例は細部の類似性があると言及されるに留まり︑更なる研
究の余地が残された︒
その一方︑中国の学者による舌に関する研究は大変少ない︒
張明皓氏が二〇一一年に提出した博士論文の中で中国の淮陽北
関におけるある漢墓にも舌の例が認められると言及したのが唯
(八)
一とも言える︒その原因は︑おそらく舌が中国の現存する木造

-4-
 図-3 中国の後漢時代における舌の古形の実例
建築では一例も認められなかったことにより︑研究者の関心が
低いためであろうと推測される︒
 「鷰尾」と『営造法式』

2
﹁鷰尾﹂という言葉は︑彩色の術語として︑今知られている
限 り 十 二 世 紀 初 頭 の﹃ 営 造 法 式 ﹄ の 掲 載 が 最 初 の も の で あ る
が︑一般的な名前として︑既に六世紀初頭に編纂された文献に
(九)
現われる︒以来︑十八世紀までの中国の古文献に燕尾を含む名
称が多く見られる︒これらの名称は地理︑服飾︑植物︑器具な
どの幅広い分野にわたるが︑意味は大抵比喩として︑燕の尾の
(一〇)
ような二つに分かれた形を指すことが多い︒﹃営造法式﹄にお
ける﹁鷰尾﹂も同様のものである︒
﹃ 営 造 法 式 ﹄ は 政 府 の 命 令 で 編 纂 さ れ︑ 北 宋 崇 寧 二 年( 一 一 〇 三 ) よ う に 二 つ に 分 か れ た 形 の 彩 色 で あ り︑ し か も 肘 木 に 限 ら ず︑ 実 肘
に当時の工程技術予算書として刊行された本である︒文字と図面を合 木︑木鼻などに広く用いられていることがわかった︒更に︑色に関し
わせた形で当時の建築様式と技法が大量に記録されている︒そのうち ては白と青︑緑の三種類が明記された︒﹃営造法式﹄に掲載された燕
の彩色に関する部分には︑肘木の下面の先端部に施す﹁鷰尾﹂という 尾の図様を照合するとわかるように︑写本により多少の誤りと抜けが
文様に関する記述があり︑図様も揃っている︒ 生じ︑それぞれ少し異なっているが︑全てにおいて燕の尻尾のような
『営造法式』巻第十四 彩画作制度 二つに開く形のイメージが認められる(図︱ )︒

4
    解緑装飾屋舎 ﹃営造法式﹄の﹁鷰尾﹂に関する研究は︑まず中国の李路珂氏の研
 原文:解緑刷飾屋舎之制︒応材︑昂︑枓︑栱之類︑身内通刷土 究があげられる︒李氏の﹃営造法式﹄の彩色の研究を中心とした博士
朱︑其縁道及鷰尾︑八白等︑並用青︑緑畳暈相間︑若枓用緑︑即 論文では︑﹃営造法式﹄の記述と実例を合わせた研究により︑﹁鷰尾﹂
尾」の関連性について

(一一) (一五)
栱用青之類︒ の基本形と幾つかのバリエーションの図様を整理して描き上げた(図
 訳文:屋舎に解緑刷飾を施す場合の制度は︑材・昂・枓・栱の ︱ )︒

5
類に応じ︑身内は土朱を通刷する︒その縁道及び鷰尾・八白など 更 に︑ 文 献 の 記 述 で は 十 二 世 紀 以 降 の も の し か 確 認 で き な か っ た

-5-
は︑いずれも青・緑の畳暈を混ぜて用いる︒もし枓に緑を用いた が︑燕尾の実物がより早い年代の八世紀ごろの建造物に確認できた︒
(一二)
ならば︑栱には青を用いるというような類をいう︒ それは︑既に先学に指摘されたように︑中国における最古の木造建築
(一六) (一七)
    丹粉刷飾屋舎
である南禅寺大殿(七八二)と仏光寺東大殿(八五七)にも燕尾の彩
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

 原文:
(前略)栱頭及替木之類︒綽幕︑仰 ︑角梁等同︒頭下 色の痕跡が認められることである(図︱ )︒

6
面刷丹︑於近上棱處刷白︒鷰尾長五寸至七寸︑其広随材之厚︑分
(一三) 三 舌と燕尾の関連性に関する検討
為四分︑両辺各以一分為尾︒中心空二分︒上刷横白︑広一分半︒
 訳文:栱頭及び替木の類︒綽幕・仰 ・角梁なども同じ︒頭の 舌と燕尾の関連性を検討する上で︑まず形の相補性から始めたい︒
下面は丹を刷毛塗りし︑上棱に近いところは白鷰尾に塗る︒長さ 両方とも肘木の端部におけるデザイン要素である上で︑長方形の舌と
は五寸乃至七寸にする︒その広さは材の厚さに随い︑それを四分 門型の燕尾がお互いに嵌め合う形になっていることは明らかである︒
し︑両辺の一分を︑それぞれ尾とする︒中心の二分はあける︒上 もし舌が平面化すれば︑その変化に従って人々の関心がだんだん中心
(一四)
部は横に白塗る︒広さは一分半にする︒ の 長 方 形 の 部 分 か ら 外 側 の 部 分 に 移 り︑ そ の 門 型 の 形 に 注 目 し﹁ 鷰
この二ヵ所の記述によると︑燕尾は言葉の意味のとおり︑燕の尾の 尾﹂と名付けたこともあり得るだろうと︑まず想定しておきたい︒
 図-4 『営造法式』に掲載された「鷰尾」の図様

 図-5 李路珂氏が整理した『営造法式』による  図-6 中国における燕尾の実例
     「鷰尾」の基本形とバリエーション

-6-
しかし日本では︑八世紀の薬師寺東塔以後の遺構には舌の姿が見ら
組物の

双斗系

双斗系

三斗系
様式

れず︑痕跡を辿ることが難しいのみならず︑燕尾の姿も確認できてい
ない︒その一方の中国では︑関口欣也氏が提示した高頤闕における舌
楔 形 の
出っ張り

薄い実肘
木の作り

舌様の浮
舌の形

き彫り
の古形から南禅寺大殿と仏光寺東大殿における燕尾の間に︑半世紀以

西 晋 早 期 M37:290 年 以 出し
上の隔たりがあり︑その変遷の脈絡が認められるだろうか︒幸いにも

後漢晩期 2 世紀後半―3 世紀
後漢建安 14 年(209 年)ご
その時間の空白を埋める実例が中国にて確認できた︒

後漢中晩期(124 年ごろ)

後漢晩期 2 世紀以前

西晋早期 291 年以前

西晋早期 291 年以前
後漢晩期(147―220)

北魏太和元年(477)
前,M39:292―294
中国における「舌」の変容

年 代
 
1

前述のとおりに︑中国の現存する木造建築では︑舌が一例も認めら
尾」の関連性について

れなかった︒したがって︑考察の対象が八世紀以前の彫刻︑画像︑墓

初頭
及び出土の文物に及ぼされた︒関口欣也氏が指摘した三例と︑張明皓


氏が挙げた一例のほか︑更に六例が確認された︒この一〇例により中

-7-
中国・河南

中国・四川

中国・四川

中国・山東

中国・山東

中国・甘粛

中国・甘粛

中国・甘粛

中国・山西
地 域
国における舌の変容がある程度追跡できる︒
表︱ に示したのはこれまで確認された中国における舌の関連する
1

例であり︑いずれも木造でなく︑石造物と煉瓦造のものである︒これ

石造の副葬器物

煉瓦造の擬木楼

煉瓦造の擬木楼

煉瓦造の擬木楼
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

 表-1 中国における舌の関連する例

説 明

石彫の組物

石彫の組物
らの例は舌の形により︑二つのグループに分けられる︒

注:6,7 番は同一の家族集団墓地に属する.
家形石棺
画像石

画像石
まずは 番から 番まで︑高頤闕の組物をはじめ薄い実肘木の作り
2


出 し で あ る︒ 舌 の 古 形 と 考 え ら れ る こ の 作 り 出 し が 肘 木 の 底 面 に 付

敦煌仏爺廟湾画像磚

敦煌仏爺廟湾画像磚

敦煌仏爺廟湾画像磚
き︑大斗の開口部と密接した部分から両脇に伸び出したのはこれらの

淮陽北関一号漢墓

烟台東留公村磚墓
綿陽楊氏闕右闕

雅安高頤闕右闕
例の共通的な特徴である︒

墓 M37,M39
実 例

沂南北寨漢墓

大同宋紹祖墓
高頤闕の例を見ると︑弓のような肘木の底面に付いたこの作り出し

墓 M118

墓 M133
が大斗の開口部を通し抜けたかどうか確認できないが︑敦煌仏爺廟湾
画像磚墓を見ると明らかとなる︒仏爺廟湾画像磚墓のM 号は同家族

37

番号

6,7

10
集団墓地のうちの一番年代の早い墓である︒そこで発見された煉瓦造

9
 図-7 仏爺廟湾画像磚墓における煉瓦造の擬木楼門

 図-8 北関一号漢墓から出土した舌付きの石造承盤

 図-9 宋紹祖墓に出土した舌付きの家形石棺

-8-
の擬木楼門における組物は︑全ての肘木の底面に薄い実肘木の作り出 形石棺は︑桁行三間︑奥行二間の母屋とその前一間の庇からなる︒庇
しが付いている︒真ん中の長い肘木の中央部が装飾化した大斗とリボ が吹放しとなっており︑四本の柱を立てて台輪のような部材を載せ︑
ン形のものにより切断されているが︑両側のより短い肘木を見ると︑ その上に平三斗と人字形の割束を載せて軒を支える構造である︒これ
その底面の薄い実肘木は完形を持つものである︒また建造年代が近い ら全ての平三斗の肘木には薄い舌様の浮き彫りが認められる︒特に宋
と認められるM 号の墓では︑その中央の長い肘木にも底面の付いた 紹祖石室では舌の付く肘木が皿斗と同時に用いられることにより︑前
118

薄い実肘木が明白に見られる(図︱ )︒ の仏爺廟湾画像磚墓群における皿斗と板付きの肘木を併用する意匠か
7

更 に︑ 仏 爺 廟 湾 画 像 磚 墓 群 に 見 ら れ る 煉 瓦 造 の 擬 木 組 物 に お い て らの継承が窺える(図︱ )︒

9
は︑肘木の底面に板が付いたものだけでなく︑その上の斗も底面に板 このように︑中国における舌は早期の薄い実肘木の作り出しから︑
(一八)
が付いたものと認められる︒即ち皿斗である︒これは︑舌の古形と皿 後期の舌様の浮き彫りに変容したことが明らかである︒しかも︑この
尾」の関連性について

(一九) (二〇)
斗が関連性があるとする稲葉氏の推論の︑初めて確認された実例であ 変容が組物の双斗系から三斗系への様式の変化と連動して発生したと
る︒このような底面に板付きの肘木と底面に板付きの斗(皿斗)を併 考えられる︒
用する意匠も重視すべきだろう︒

-9-
次の種類は 番の北関一号漢墓と 番の宋紹祖墓の例である︒この  燕尾の実例と年代の論考
10

2
1

二つの舌の作り出しでは肘木の底面の先端だけに沿って剞み出され︑ 舌の次に︑燕尾の実例を整理する︒
根の部分が大斗から少し離れているのが共通の特徴である︒前の種類 表︱ に示すように︑﹃営造法式﹄の記述による﹁鷰尾﹂の基本形

2
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

(二一)
より退化したものと見られる︒ に類似した門型の彩色を持つ実例が少なくとも五つ認められる︒
そ の う ち︑ 北 関 一 号 漢 墓 は 年 代 的 に 高 頤 闕 よ り 上 る に も か か わ ら これらの例における燕尾の彩色について︑墓である宣化張氏家族集
ず︑その舌はこの退化した装飾細部となっている︒そこで出土した石 団墓地の三つの例では燕尾の彩色年代と建築年代が同一とされるのは
造承盤における肘木の端部には楔型の出っ張りが付いている︒地域の 問題ないが︑残った二つの仏殿では燕尾の彩色年代と建築年代の関係
差異による退化の段階の違いであるか︑あるいは副葬品であるため実 を説明する必要がある︒
際 の 建 物 と 多 少 離 れ て い る か︑ 両 方 の 可 能 性 が あ る と 考 え る( 図 ︱ 唐建中三年(七八二)に再建された南禅寺大殿は三間×三間の小さ

︒ な仏殿である︒現存する建築彩色は十九世紀清の時代に修理した(一
8

(二二)
最後に宋紹祖墓で出土した家形石棺は最も年代が下る例であり︑そ 八二〇年と一八七三年それぞれ一回)ものと考えられ︑一九七四︱一
の舌も最も装飾細部化したものである︒この宋紹祖石室と呼ばれる家 九七五年の解体修理の時︑室内の一部の部材で古い彩色の痕跡が発見
された︒それは燕尾と白い丸い点の連珠文であ
*:この燕尾の様式と色塗りは,天津大学の丁垚先生から見せていただいた近年の調査資料と復元研究成果に
門型,土朱塗りに白燕尾
門型,末端曲線,朱塗り

門型,丹塗りに白燕尾
門型,丹塗りに白燕尾
門型,丹塗りに白燕尾
門型,丹塗りに白燕尾

り︑燕尾が室内に伸び込んだ肘木の端部におけ
る表の丹塗の下に発見され︑連珠文が頭貫と通
燕尾の形

肘木の室内側の表面に描かれた松木の紋の下層
に白燕尾 ﹡

(二三)
に確認された︒これらの古い彩色の痕跡は実物
の年代が不明であるが︑彩色の様式を比較検討
することで彩色の年代を考察したい︒
中国・河南(初回の刊行地) 北宋崇寧 2 年(1103)
建築年代・刊行年代

遼晩期 12 世紀初頭
唐大中 11 年(857)

遼大安 9 年(1093)
遼大安 9 年(1093)

まず丸い点の連珠文は隋唐時期に流行ってい
唐建中 3 年(782)

(二四)
た文様と認められる︒建築の頭貫に用いられた
例として︑南禅寺大殿を含め︑敦煌莫高窟第

 図- 10 唐宋時代における頭貫に連珠文を用いた実例の比較

361
窟(中唐吐蕃時期:七八一︱八四八)における

- 10 -
建築壁画︑高平開化寺大殿(彩色年代一〇七三
(二五)
︱一〇九六)︑ 登 封 高 村 壁 画 墓( 北 宋 末 ) の 四
つの実例に認められる︒そのうち︑前の二例で
地 域

注:③,④,⑤番は同じ家族の墓地に属する. は長い部材に七点︑短い部材に三点の丸が施さ
れたのに対し︑後の北宋の二例では柱間ごとに
中国・河北
中国・河北
中国・河北
中国・山西

中国・山西
 表-2 中国における燕尾の実例

九点の丸が用いられた(図︱ )
︒丸の点の連

10
珠文は時代が下るにつれて数が増え︑様式も複
雑化する傾向が見られ︑南禅寺大殿はその時代

『営造法式』基本形
五台仏光寺東大殿
(二六)

宣化張姓六号墓
五台南禅寺大殿

を遡るものとして位置付けられるだろう︒
宣化張匡正墓
宣化張文藻墓
実 例

燕尾の痕跡は仏光寺東大殿と照合して考察す
る︒

よるもの.
唐大中十一年(八五七)に建立された仏光寺
番号






東大殿は七間×四間の大規模な仏殿である︒創
建当初以来組物と壁以下までの解体大修理がなく︑創建期の壁画が一 に一つの地域単位として考えられる︒次に﹃営造法式﹄の刊行地も含
(二七)
部残されてきた︒建築彩色については後世の描き重ねが多いが︑肘木 めて考えると︑河南省がそのもう一つと言えよう(図︱ )︒

11
における丹塗の下層に燕尾の痕跡が確認された︒それを壁に残された これらの舌の例と燕尾の例が共存する地域では︑舌と燕尾の間に関
白土の痕跡と関連して一体化していたと理解できるゆえ︑唐の時代の 連性がある可能性を提示した︒しかし︑現在まで確認できたものに限
ものと考えられ︑しかもこの白い燕尾の末端の形は︑当初曲線となっ り︑山西省北部における一番時代が下る舌の例である宋紹祖石室(四
(二八)
ていたと指摘されている︒ 七七)と南禅寺大殿(七八二)の間に︑たとえ南禅寺大殿の燕尾を創
仏光寺東大殿の燕尾に準じて︑南禅寺大殿燕尾の燕尾は︑前に論じ
た白い丸い点の位置付けを関連して考えると︑様式的年代が唐の時代
のものと考えられるだろう︒科学的な検証の結果が今の段階で得られ
尾」の関連性について

ないものの︑創建期のものである可能性も残されている︒
このように︑南禅寺大殿︑仏光寺東大殿︑宣化張氏墓地により︑八

- 11 -
世紀の末頃から十二世紀初頭にかけて(中唐︱宋末)中国の北部地方
で燕尾が流行っていたと考えられる︒また﹃営造法式﹄の河南省での

 図- 11 中国における舌と燕尾の実例の分布
刊行を含めて考えると︑燕尾という彩色の様式が中国の中部地方でも
採用されていたと推測できるだろう︒
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

 舌と燕尾の実例の地域性から見る両者の関連性
3

表︱ と表︱ に挙げられた舌を燕尾の実例と合わせて︑地域の分
1

2
布について考察したい︒図︱ に示すように︑舌の例は所在地が限定

11
しておらず︑中国の中部︑東部沿海地方から南西部︑北西部にかけて
広がっているのに対して︑燕尾の例はいずれも所在地が山西省の北部
と河北省の北部に集中している︒舌の例と燕尾の例の両方とも確認さ
れた地域は︑まずこの山西省の北部と河北省の北部が挙げられる︒こ
の二つの地域は隣接する地域であり︑かつ文化的にも密接であるため
建当初の様式と考えても︑時間の隔たりが三百年程あり︑直接な繋が
りを得るには根拠が乏しい︒だが︑舌と燕尾両方とも肘木の端部にお
けるデザイン要素として︑各時代の組物の装飾史に関する比較研究に
 表-3 中国における 2 世紀から 3 世紀末ごろ肘木の造形
よりその関係性が側面からある程度証明できる︒
代表例
 組物の装飾史から見る舌と燕尾の関連性

後漢建安14年(209)ごろ
4

後漢晩期 2 世紀以前
後漢元年(121)ごろ

後漢晩期 2世紀以前
古建築の木部装飾では技法上三種類に分けられ︑造形(形を作る)︑

後漢中晩期 2世紀
後漢晩期 2世紀
彫 刻︑ 他 材 料 で 表 面 を 飾 る こ と( 彩 色︑ 金 属︑ 織 物︑ 金 箔︑ 螺 鈿 な

四川・渠県

四川・綿陽
楊氏闕右闕

四川・綿陽
楊氏闕左闕

司馬孟臺闕
四川・雅安

河北・望都

四川・徳陽
ど)である︒実際に応用する時︑これらの技法を一つのみではなく︑

漢代陶物
馮煥闕

高頤闕
二つを併用することが多い︒組物も基本的に同様な技法が用いられる
が︑肘木は特殊な部材として︑まず金属︑織物で包まれる例が殆どな

端部が連続な内凹

底部に実肘木付き

- 12 -
く︑ ま た 金 箔︑ 螺 鈿 の 例 が 認 め ら れ る が 中 世 以 前 に は 極 め て 稀 で あ

造形の特徴

(*舌の古形)
る︒従って︑ここでは二世紀から十二世紀初頭にかけての肘木装飾を

端部が曲線

端部が斜線

腕型など
実肘木
造形︑彫刻︑彩色の三種類に類別し︑それぞれ舌の古形︑舌︑燕尾に
対応する三つの段階に分けて比較し︑舌と燕尾の同時代の装飾史にお

実肘木型
ける位置付けを考察する︒

種類

他の形
弓型
第一段階は後漢晩期から三世紀末の西晋までである︒この段階の肘
木装飾は︑まず造形の変化が多く見られる︒表︱ に示すように︑古

3
代以来普通に見慣れた端部曲線である肘木に限定されず︑多様な形が 掲の沂南漢墓における石造の組物が挙げられ︑幾何紋の枠に植物紋︑
(二九)
見られるうち︑実肘木型︑腕型と弓型がその主な三種類である︒その 動物紋︑神話人物などの中身をはめるパターンの装飾である︒彩色の
うち︑舌の古形である薄い実肘木の作り出しが弓型肘木の底部に付く 方面にも同様に枠+文様の装飾形式が認められる(前掲図︱ )︒

7
ように見える︒元は構造材とも言えるが︑装飾化が始まり肘木と一体 次 の 段 階 は 舌 の 段 階 で あ り︑ 中 国 の 四 七 七 年 の 宋 紹 祖 石 室 の 例 を
的 に 作 り 出 さ れ る よ う に な っ た ら︑ 造 形 の 類 と し て 理 解 で き る だ ろ もって︑南北朝の時期即ち五︑六世紀を中心に考察したい︒当時期で
う︒次に彫刻の方面︑肘木の表に満遍なく文様を刻んだ例として︑前 は斗栱の実物が石造物だけでなく︑考古学の発掘により煉瓦造︑木造
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「 尾」の関連性について

うち︑前の段階の既存する造形を継承しながら︑当段階では端部が連
弓型の肘木を中心に考察したい︒表︱
型の肘木が主流になった︒舌も弓型の肘木に限定される装飾なので︑
の段階と比べて︑腕形のような特異な形の肘木の数が少なくなり︑弓
のものも多少出ている︒これらの例によると︑まず造形の面では︑前
 表-4 中国南北朝時代( 5 世紀- 6 世紀)における弓型肘木の装飾技法と
形式

技法 形式 代表例 地域 年代
端部が曲線 敦煌莫高窟北魏第 251 窟斗栱 甘粛 北魏中期 5 世紀
華陰楊舒墓煉瓦擬木造楼門 陝西 北魏煕平 2 年 517
端部が斜線 北魏末 5 世紀末ご
龍門石窟古陽洞屋形龕 河南

寿陽庫狄迴洛墓家形木椁室 山西 北斉大寧 2 年 562


造形
北 魏 末 ― 北 斉 6 世
天竜山石窟第 16 窟前廊 石造 山西
端部が連続な 紀
内凹 南響堂山石窟第 1 窟前庇 石造 河北 北斉 565 ごろ
4

に示すように︑弓型の肘木の
安陽修定寺塔基壇に出土した浮
河南 北斉 6 世紀
彫付きの煉瓦

端面における
彫刻 大同宋紹祖墓家形石棺 山西 北魏太和元年(477)
突起(*舌)
敦煌莫高窟北魏第 251 窟木斗栱 甘粛 北魏中期 5 世紀
枠+文様 安陽修定寺塔基壇に出土した浮
河南 北斉 6 世紀
彩色 彫付きの煉瓦

忻州九原崗北朝墓壁画(実肘木 東 魏 ― 北 斉 初 頭 6
色塗り 山西
型) 世紀後半

が確認され︑また壁画において簡単に色塗りした例も見られる︒
が確認された︒彩色の実物は少ないが︑前段階と同じ枠+文様の形式
面に実肘木付きの肘木が姿を消した一方︑彫刻のものとしては舌の例
続な内凹む曲面からなるものが多数を占めた︒舌の古形と見られる底
 表-5 中国中唐-北宋時代( 8 世紀 -12 世紀初頭)における弓型肘木の装 最後に燕尾の段階は八世紀末の中唐から十二世紀初頭の北宋末まで
飾技法と形式

技法 形 式 代表例 地域 建築年代

端部 | 型切断面 仏光寺東大殿 山西 唐大中 11 年(857)


造形
端部 / 型切断面 独楽寺観音閣 天津 遼統和 2 年(984)
(弓型)
端部 > 型切断面 高平開化寺大殿 山西 北宋熙寧 6 年(1073)

色塗り 彬県馮暉墓 陝西 後周顕徳 5 年(958)

枠+色塗り 新密平陌宋代壁画墓 河南 北宋大観 2 年(1108)

定州開元寺料敵塔基
枠+文様 河北 北宋咸平 4 年(1001)
枠あり 壇下層暗室

畳暈+色塗り 白沙宋墓 1 号墓後室 河南 北宋元符 2 年(1099)


彩色
畳暈+文様 高平開化寺大殿 山西 北宋熙寧 6 年(1073)

広い横縞 定州静志寺塔地宮 河北 北宋太平興国 2 年(977)

端 面 に *燕尾 宣化張匡正墓 河北 遼大安 9 年(1093)


施す
敦煌莫高窟第 427 窟
工字 甘粛 北宋開宝 3 年(970)
木造前庇

注:各種類は実例が多数あるが,その一番年代が上る例あるいは形式の最典型例を一つ選んで
挙げた.

- 13 -
である︒当段階では弓型の肘木の装飾について︑一番顕著な特徴が造 像にならないが︑現在得られた情報に基づき前後を比較して見ると︑
形上の簡素化と彩色の多様化と言える(表︱ )︒前の段階で端部の 舌と燕尾のそれぞれの位置付けを考察するには十分である︒
5

造形が多様化したものは殆ど端部が曲線に見えるものに整えた︒ただ 舌の古形︑舌︑燕尾が所属する三つの段階を比較すると︑まず技法
その曲線を作り出す時の切断面の形により細かく区別する︒しかもい 上は時代が下るにつれて主流的な造形の簡素化と彩色の発展傾向が認
ずれの切断面になっても︑その正面に見える曲線が実は加工の技法よ められる︒そのうち︑舌と燕尾は弓型肘木の装飾史において︑技法の
り三段から五段までの連続する短い折れ線からなっている︒ 面ではそれぞれ彫刻と彩色の系統に属するように見えるが︑様式の面
これらの弓型の肘木における彩色のうち︑一番よく見られる形式は では実際は同じである︒
枠+文様のものである︒はるか昔から継承された形式であり︑この段 もう一度淮陽北関一号漢墓と宣化張氏六号墓の例を詳しく比較する
階では枠と文様の変化によりますます多様化する︒まず文様には植物 と更に明らかである︒舌を持つ淮陽北関一号漢墓の例が彫刻の技法を
紋︑幾何紋︑複合紋様などがある︒枠も近い色合いをつけた二重以上 用いた例であり︑燕尾を持つ宣化張氏墓の例が彩色の技法を用いた例
の細い枠を重ねる﹁畳暈﹂という技法が発達した︒また︑以上の形式 である︒技法が異なるが︑この二つの例における肘木の装飾形式は全

- 14 -
が肘木の正面と端面の両方に用いられるのとは異なり︑肘木の端面の く同様である︒即ち肘木の正面に同じく枠+文様の装飾が用いられて
みに施される特別な形式の彩色は三つ出ており︑いずれもこれ以前の いるのに対して︑肘木の端面にそれぞれ形式上非常に似通う舌と燕尾
段階で確認されなかったものである︒一つ目は広い横縞︑二つ目は本 が施された︒もしその枠+文様の彫刻が彩色に書き換えられるのであ
論の燕尾︑三つ目は﹁工﹂字である(図︱ )︒ れば︑端面の舌の彫刻も燕尾に書き換えられるだろう(図︱ )︒

13
12
この三つの彩色がどうやって生まれたかについて︑広い横縞と﹁工﹂ このように︑舌と燕尾は形式上の関連性をもち︑一つの構造材から
(三〇)
字は明らかになっていないが︑燕尾は形式上の相似性を持ち︑前の段 退化した装飾の題材が︑時代が下るにつれて技法を変えて作り出され
階に確認されこの段階に姿を消した舌から継承した可能性が高いと考 たものと認められよう︒
えられ︑以下ではその理由を詳しく説明する︒ 更に概観すると︑中国の南北朝時代から宋の時代まで(約五世紀︱
これまでの考察の内容をまとめて二世紀から十二世紀初頭にかけて 十二世紀)の彩色の発展史において︑同じく部材から彩色へ変容した
の弓型肘木の装飾技法と形式を見通す︒表︱ に示すように︑縦には 事例として︑舌と燕尾は決してその唯一な例ではなく︑中備の人字栱

6
装飾技法の類別︑横に展開したのは段階ごとの具体的な装飾形式︑網 もその一例である︒南北朝から初唐(七世紀)にかけて流行っていた
を付したものは舌と燕尾の位置である︒特に四世紀と七世紀における 人字栱は︑唐宋の間に彩色に変容し︑宋の時代において﹁影作﹂という
肘木まで詳しく確認できる実例が不足しているため︑精度の高い全体 人字栱の形の彩色として燕尾と共に﹃営造法式﹄に掲載されている︒
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「 尾」の関連性について

 図- 12 北宋時代に確認された肘木の端部における特別な彩色

 表-6 2 世紀~ 12 世紀初頭の中国における肘木の装飾技法の一部及び舌と燕尾の位置付け

技法 2 世紀- 3 世紀末 5 世紀- 6 世紀 8 世紀- 12 世紀初頭


特別な形:腕型など 特別な形:虎の形など 特別な形:雲型,翼型,葉型など
実肘木型 実肘木型
弓型 端部:曲線 弓型 端部:曲線 弓型 端部曲線:切断面|型
造形       斜線       斜線         切断面/型

      連続な内凹       連続な内凹         切断面>型


底部:実肘木付き
   (舌の古形)
遍く文様 端部:薄い舌様の突起
彫刻 -
枠+文様 (舌)
色塗り 色塗り 正面と端部に:色塗り
枠+色塗り 枠+色塗り        枠+色塗り
枠+文様 枠+文様        枠+文様
       畳暈+色塗り
彩色
       畳暈+文様
端部のみに: 広い横縞
       燕尾

       工字

 図- 13 装飾技法から見る舌と燕尾の形式上の関連性

- 15 -
ものと見られ︑両者の違

図- 14 半幅の舌と広幅の舌
四 東アジア範囲での再考
いは地域性よりも時代性
中国における舌と燕尾の形式上の関連性を確認した上で︑東アジア のほうが影響を及ぼした
の範囲で舌と燕尾の実例を関連して再考し︑その変遷の全体像︑伝播 と見られる︒それは楔形
のルート及び様式的特質を検討する︒ の出っ張りが常に双斗系
の組物とともに姿を現
時代区分:全体像 し︑舌様の浮き彫りより
 
1

図 ︱ と 表 ︱ に 示 す よ う に︑ 今 ま で 明 ら か に な っ た 資 料 に 基 づ 古い形であると考えられ
15

き︑舌から燕尾への変遷は概ね三つの段階に分けられる︒それぞれ形 る︒時代が下るにつれて肘木の形が柔軟になってきた三斗系の組物に
の変化が技法の変化に応じ︑造形︑装飾化した彫刻︑平面化した彩色 は︑形が柔軟な舌様の浮き彫りのようなものしか見られない︒
の順番で︑古形期︑脱化期(舌)
︑余韻期(燕尾)と区分した︒ また舌の幅に注目すると︑時代の上ったものと下ったもののうち︑

- 16 -
更 に そ れ ぞ れ 肘 木 の 幅 を 基 準 と し︑ そ の 半 分 程 度 に と っ た﹁ 半 幅 の
第一段階 古形期 三世紀末まで/薄い実肘木の作り出し 舌﹂と︑それより幅の広い﹁広幅の舌﹂の二種類に分けられる︒例え
この段階については︑すでに述べたように︑双斗系の組物の肘木の ば︑楔形の出っ張りの舌は中国の北関一号漢墓と朝鮮半島の安岳三号
下端には舌の古形と考えられている薄い実肘木の作り出しが認められ 墳の二例しか認められていないが︑半幅と広幅の区別の通りに細部が
る︒この肘木の底部にもう一つの薄い実肘木が付く構造は︑仏爺廟湾 異 な っ て い る( 図 ︱ )︒ そ の 後︑ 舌 様 の 浮 き 彫 り の 時 代 に な っ て

14
画像磚墓群と沂南漢墓画像石の例から見ると︑意匠的には当初皿斗と も︑日本における舌の諸例のうち︑法隆寺金堂と薬師寺東塔にはそれ
合わせて用いられた可能性が高いと考えられる︒ ぞれ半幅と広幅のものが認められる︒図︱ に示す如く︑真ん中の時

15
間軸を境とし︑上の実例は敦煌仏爺廟湾画像磚墓を除き全て半幅の舌
第二段階 舌:脱化期 約二世紀︱八世紀/側面が楔形である出っ のシステムに属し︑下の実例は広幅の舌の系譜に位置付けられると考
張りと舌様の浮き彫り えられる︒
この段階は中国の北関一号漢墓の例をもって後漢末からすでに始
まったと考えられ︑前の段階と時間の重なった部分がある︒側面が楔 第三段階 鷰尾:余韻期 八世紀︱十二世紀/門型の彩色
   
形である出っ張りと舌様の浮き彫りの両方とも舌の古形から脱化した この段階の始期ははっきりしないが︑南禅寺大殿の例などから︑舌
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「 尾」の関連性について
 表-7 東アジアにおける舌から燕尾への変遷に関する時代区分

時代区分 実例 地域 時代 舌・燕尾の形 組物の様式

綿陽楊君闕右闕 中国・四川 後漢晩期 2 世紀以前


雅安高頤闕石彫の斗 後漢建安 14 年(209)ご
中国・四川
栱 ろ
烟台東留公村磚墓  後漢晩期 2 世紀後半 -3
中国・山東
画像石 世紀初頭
第一段階
古形期 沂南北寨漢墓画像石 中国・山東 後漢晩期(147-220) 薄い実肘木の
双斗系
3世紀末 作り出し
敦煌佛爺廟湾画像磚 西晋早期 M37:290 年以
まで 中国・甘粛
墓 M37,M39 前,M39:292-294
敦煌佛爺廟湾画像磚
中国・甘粛 西晋早期 291 年以前
墓 M118
敦煌佛爺廟湾画像磚
中国・甘粛 西晋早期 291 年以前
墓 M133

淮陽北関一号漢墓石
中国・河南 後漢中晩期(124 年ごろ)
造の副葬器物 楔形の出っ張
双斗系
安岳三号墳石造の斗 朝鮮半島・黄海 り
東晋永和 13 年(357)
栱 南道安岳
第二段階 大同宋紹祖墓家形石
脱化期 中国・山西 北魏太和元年(477)

舌 三斗系
約2世紀 山田寺回廊跡出土し 日本・奈良 奈良時代 7 世紀半ばごろ
-8世紀 た肘木 舌様の浮き彫
法隆寺金堂 日本・奈良 奈良時代 7 世紀 り 雲肘木・雲斗
(双斗系の余
法隆寺五重塔 日本・奈良 奈良時代 7 世紀 韻あり)
薬師寺東塔 日本・奈良 奈良天平 2 年(730) 三斗系

南禅寺大殿 中国・山西 唐建中三年(782)

仏光寺大殿 中国・山西 唐大中 11 年(857)


第三段階
余韻期 宣化張匡正墓 中国・河北 遼大安 9 年(1093)
鷰尾 宣化張文藻墓 中国・河北 遼大安 9 年(1093) 門型の彩色 三斗系
8世紀
-12世紀 宣化張氏墓 M6 中国・河北 遼晩期 12 世紀初頭
中国(刊行地:
『営造法式』 北宋崇寧 2 年(1103)
河南)
着したと見られる︒
する﹁鷰尾﹂という名前が定
り︑門型の形式の特徴を表現
法式﹄に掲載されるようにな
いたようであり︑更に﹃営造
の北部地方を中心に流行って
型の彩色が十二世紀まで中国
る︒実例から見ると︑この門
飾文様に移行したと推測でき
色で彩った外周部の門型の装
人々の注目点が中心部と違う
意 味 が 忘 れ ら れ つ つ あ り︑
中心にあった元の舌の部分の
れないが︑平面化したあと︑
がすでに存在していたかもし
を失う前に彩色を施したもの
てきたと考えられる︒立体感
彫りが更に退化し︑平面化し
紹祖石室のような舌様の浮き
きない︒前の段階における宋
まった可能性が完全に否定で
の退化は八世紀からすでに始
このように︑舌の古形期か

(三一)

- 17 -
- 18 -
図- 15 東アジアにおける舌から燕尾への変遷とその時代区分
ら舌の段階へ︑また余韻期である燕尾の段階までの変遷がほぼ千年の の実例が確認できたのに対し︑北における山西省の北部と河北省の北
時間に亘り︑中国︑朝鮮半島︑日本にかけて︑その起源と変容の大筋 部 で は 舌 と 燕 尾 の 実 例 し か 認 め ら れ ず︑ 舌 の 古 形 の 例 が 発 見 さ れ な
が展開された︒全体像の視点から︑狭義の舌と燕尾はそれぞれこの変 かった︒よって核心地域では進化の流れの前半がより南の地方で起き
遷の第二段階の後半と第三段階に属することが明らかになった︒現在 ていた可能性が高いと理解できる︒特に︑この南の地方における淮陽
僅かにしか残されていない舌と燕尾の実例が︑実はこの膨大な流れの 北関一号漢墓は︑他の地域の例より早く舌の古形から舌へ変化した歩
異なる段階から残された小さな歴史の痕跡であり︑貴重なものと理解 みを示した︒即ち他の地域の例がいずれも古形期のものであった二世
すべきであろう(図︱ )
︒ 紀において︑淮陽北関一号漢墓はもう次の脱化期に進化した︒一般的
15

に起源地での変化が伝播地での変化より早く進む特徴が認められるこ
地域性の検討:その発生と伝播のルート とで︑河南省とその隣の山東省からなる中原地方が舌の関係する起源
 
2
尾」の関連性について

東アジアの範囲で時代区分を検討した結果︑全体的流れにおける舌 地と想定できるだろう︒
と燕尾の位置付けが明らかになったが︑その全体像をより詳しく考察 実例が少ないため︑遥かな時代における建築文化の発展と変化が詳

- 19 -
するために地域性の分析を試みたい︒ しくは解明できなかったが︑更に政権の領域史の視点と文化史の視点
からこの変化の背景を考察したい︒
―  中国内部の状況 領域史については︑現在舌と燕尾の実例が集中した華北平原では二
2

地域性について︑まずは第一段階の古形と第三段階の燕尾も含んだ 世紀から十二世紀にかけての間︑前半の統一と後半の分裂という特徴
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

舌の関連する事例を合わせてみると︑その地理的分布は中国の楊子江 が見られる︒後漢の末から唐の半ばごろまで(二世紀︱八世紀)当地
より北の地域でかなり広がっている︒特に第一段階と第二段階の例が 域では政権が何度も交代したにもかかわらず︑地域内部の分裂がほぼ
(三三)
当時の国の中心部でなかった南西部と北西部まで伝わったことによ なかったのに対して︑唐末から北宋まで(九世紀︱十二世紀)︑当地
り︑舌の古形を作る習慣は漢から晋にかけて全国範囲で伝播していた 域では政権の交代に従い︑地域内部も南北の二つの部分に分かれて対
と理解できる︒この広い範囲のうち︑第一︑二︑三段階の実例がより 峙していた︒その境は山西省と河北省の北の周縁部にある︒即ち舌と
集中的に認められる地域は山西︑河北︑河南と山東の四つの省からな 燕尾が両方確認された宣化︱大同地区と︑それ以南の地域が長い間異
(三二) (三四)
る華北平原である︒ なる政権の下に支配されていた︒したがって︑当地域では︑八世紀を
次にこの核心地域を更に分析すると︑南北で実例の時代性の差異が 境とし︑八世紀までの建築文化が比較的に自由に伝播していたことが
見られる︒即ち南における河南省とその隣の山東省では舌の古形と舌 可能であったと見られる一方︑八世紀以降は統治の分離により北の周
東部地方に起源した遼燕文化であり︑南部に強い影響を与えたのは黄
河中下流の地域で発生した中原文化である︒この二つの文化は春秋戦
国時代(紀元前七七一︱紀元前二二一)から各地域の独自の天候︑民
族︑生産文明の土壌から生まれた文化であり︑当地域での建築文化︑
:実例の分布と文化圏の対応

技術への影響が深いとされる︒このような文化的要素と実例の状況を
合わせてみると︑舌の古形に関係する建築文化は︑やはり漢代以来中
国の中部地方に深い影響を与えていた中原文化圏で生み出されたもの
であろう(図︱ )︒

16
― 東アジアにおける伝播のルート
 

2
2
 図- 16 地域性の検討( 1)
東アジアにおける舌の伝播するルートに関して︑舌と燕尾に関連す

- 20 -
る例の多数を占めた墓の実例がその要になると考えられる︒既存研究
により︑これらの墓の墓葬文化と建築形式がそれぞれ解明され︑また
部分的に文化の相関性と繋がりまで解明されたが︑舌という建築細部
に注目して中国内部の状況も含んだ中国から朝鮮半島にかけての相関
例の見通しがなかった︒ここでは墓文化に関する先行研究を踏まえ︑
歴史時代における人口の分布と移動も含めて考え︑舌が墓の建築文化
の伝播につれて伝播した実態を解読したい︒
(三五)
辺部とそれ以南の地方が建築文化においても隔絶した状況であった可 まずは早期の舌の伝播について︑朝鮮半島における中国東晋の﹁永
能性が高いと推測される︒これこそが舌と燕尾の変遷において︑当地 和十三年﹂という年号の墨書を持つ安岳三号墳(三五七)と山東省に
域における南北の実例に時代の差異が認められる理由であろう︒ おける後漢晩期の沂南漢墓を挙げたい︒この二つの墓は墓の構造上の
文化史についても︑前述の核心地域ではやはり南北の二つの部分に 特徴︑八角形の断面の石柱と天井の形式など︑また蓮華の文様及び画
分けられ︑それぞれに長い時間の中で二つの異なる文化からの影響を 像石に反映される内容の類似性から建築文化上の関連性が認められる
(三六)
各々が受けていたと思われる︒北部に当たるのは中国の北部地方と北 ことが既存研究で指摘されている︒のみならず中国漢末の中原地方の
戦乱により山東省地方の貴族が遼東地方も含んだ中国周辺部へ移動し が り が 遼 の 支 配 に よ り 切 断 さ れ た ゆ え︑ 進 化 が 中 原 地 方 よ り 緩 慢 で
(三七)
たことも挙げられた︒また︑時代が下った魏晋時代の戦乱により遼東 あったと見られ︑十一世紀末から十二世紀初頭にかけて造営された張
(三八)
地方の人口の一部が更に高句麗へ移動したことと︑高句麗壁画古墳は 氏墓地には︑実際に元の中原地方における唐の半ばごろの漢族の墓文
(四四)
中国遼東地方の壁画古墳と関連性があることもしばしば日中両国の研 化が反映されるところが多いと指摘されている︒したがって︑張氏墓
(三九)
究者により指摘されている︒連続的に言うと沂南漢墓を始めとする山 室に確認された燕尾の彩色は必ずしも遼燕文化圏で産まれたものに限
東︑ 河 南 の 漢 画 像 石 墓 か ら︑ 東 北 地 方 の 遼 陽 地 区 の 壁 画 石 墓 を 介 し らず︑それ以前に中原地方でも既に変化が発生し燕尾が存在していた
(四〇)
て︑朝鮮半島の壁画石墓に発展した経緯である︒ 可能性もあるだろう︒宋の時代の壁画墓が数多く確認された河南省北
上述の経緯に対して実証的な例の一つになるのは舌を持つ安岳三号 部と山西省南部では︑発掘資料の多数が未公開であり︑今のところ︑
墳である︒安岳三号墳の墓主人は冬寿という人であり︑古文献での考 燕 尾 の 実 例 が 確 認 で き て い な い が︑﹃営造法式﹄の河南地方での刊行
尾」の関連性について

(四一)
証により彼は元の前燕の官吏︑後に前燕の内部戦争に巻き込まれ負け を 考 え る と︑ こ れ か ら 燕 尾 の 彩 色 を 持 つ 墓 が 確 認 さ れ る 可 能 性 が 高
(四二)
たために高句麗に駆け込んでこの世を送ったことが分かった︒故に彼 い︒

- 21 -
の墓誌は高句麗王朝の年号ではなく中国の東晋の年号をもっており︑
彼の墓は遼東地方の墓文化が高句麗に転入する媒介の一つであると言 以 上 の 考 察 を ま と め る と︑ 長 い 目 で 見 る と 舌 と そ の 後 の 燕 尾 が 流
(四三)
えよう︒そこで石造の組物に側面が楔型の出っ張りである舌が付いて 行っていた地域は南から北へ変わった流れが見られる︒舌の伝播につ
いるのも︑前の沂南漢墓では画像石に舌の古形が認められることと関 いて︑その始まりがおよそ中原︱東部地方であると考えられ︑中原文
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

連させて見ると︑その墓文化が沂南漢墓の所在する山東省から北の遼 化圏の核心地域である河南省を中心にまわりの山東省︑四川省︑甘粛
東 地 区 を 介 し て 朝 鮮 半 島 へ 伝 わ っ た こ と を 裏 付 け て い る だ ろ う︒ 即 省まで古形期のものが広がっていた︒そして︑その終り︑即ち燕尾へ
ち︑舌は墓文化の建築細部として中国から朝鮮半島へ伝わったのであ 変容してから煙滅するまでの段階に関しては︑今のところまだ不明な
る︒ 点が多いが︑遼燕文化圏に属する北部地方での存続はより下った時代
次は燕尾に関する例︑表︱ の最後尾の河北宣化における張氏家族 まで続いていたと推測される︒中間期については人口の移動に従い中

3
の集団墓地に属する三つの墓である︒九〇七︱一一二五年︑遼の政権 部の中原文化圏の地域︑特に東部の山東省から北の遼燕文化圏の地域
の下に領有された宣化は︑遼と北宋の対峙した最前線に近い地域であ へ伝わり︑遼東地方を介して朝鮮半島へ︑更に日本に伝来したと考え
り︑遼王朝を創建した契丹族と漢族の遺民が長期間にわたり混住して られる(図︱ )︒

17
いた︒地元の漢民族文化は︑漢族の核心文化区である中原地方との繋
― 様式の特質:日本における舌の多様性とその意味
 
2

3
前の節に述べたように︑様式上︑舌はその幅と肘木の幅の比例によ
り︑﹁半幅の舌﹂と﹁広幅の舌﹂の二種類に分けられる︒この特徴に
ついて︑まず進化の歩みと関連して考えたい︒つまり︑構造の機能を
持つ実肘木の段階では上の肘木と同様の幅で作られる可能性があり︑
構造上の機能が弱くなるにつれてその幅が狭くなってもよいと理解で
きるだろう︒
実際の例で見ると︑中国の場合︑古形期の段階における綿陽楊氏闕
と仏爺廟湾画像磚墓の例が肘木の幅に準じたものであり︑高頤闕の例
も広幅のものである︒次の舌の段階に入ると︑北関一号漢墓の例と宋
紹祖石室の例両方とも半幅の舌であるが︑宋紹祖石室のほうがやや広

- 22 -
い︒更に次の燕尾の段階では︑燕尾自体は二分の一の比例に規制され
たものになった︒
これをもって日本の舌の例を考察したい︒日本では山田寺回廊跡か

 図- 17 地域性の検討( 2):伝播のルート


ら出土した肘木と薬師寺東塔の例は広幅の舌であり︑法隆寺金堂・五
(四五)
重塔の例は半幅の舌である︒そのうち︑広幅の舌が朝鮮半島の安岳三
号墳のシステムから継承したものであると考えられ︑更に遡ると︑舌
の前の段階︑山東省における沂南漢墓の画像石に認められた実肘木と
似た作り出しの系統に位置付くことになる︒つまり︑山田寺跡と薬師
寺東塔の広幅の舌にはより古い特徴が認められ︑法隆寺金堂系の半幅
の舌には時代の下った特徴が反映されたと見られる︒
五 まとめ
 東アジアで見る舌と「鷰尾」:変遷の全体像、時代区分と伝播

1
のルート ﹁広幅の舌﹂の二種類に分けられる︒この様式的区別から時代性の特
本論において︑中国における舌から﹁鷰尾﹂へ変容した流れが明ら 徴が物語られている︒この認識を背景にして日本の舌の例を再検討す
かになった︒既存研究を踏まえ︑高頤闕の例(二〇九ごろ)に更に仏 れば︑山田寺跡と薬師寺東塔の広幅の舌ではより古い様式であるのに
爺廟湾画像磚墓の例(三世紀末)を加えて︑舌の古形が肘木下の大斗 対して︑法隆寺金堂・五重塔における半幅の舌は様式的に時代の下っ
の開口部に嵌めた薄い実肘木のような部材からなると証明した︒その たものと考えられる︒
上で︑装飾的な楔形の刳り出しへ脱化し︑さらに薄くなった舌様の浮 また︑広幅の舌の例が中国で残されていないことで︑朝鮮半島の安
き彫りに変容したと見られ︑それぞれ北関一号漢墓(一二四ごろ)と 岳三号墳の例と日本の山田寺跡と薬師寺東塔の例は︑東アジアの視点
宋紹祖墓石室(四七七)の例を取り上げた︒更に︑平面化が進み南禅 で広幅の舌の変遷史を補完する重要な意味を持つ︒この四世紀から七
寺大殿(七八二)と仏光寺大殿(八五七)に見られる門型の彩色にな 世紀にかけての舌の伝播した足跡は今後日本古代寺院建築における技
尾」の関連性について

り︑ 人 々 の 注 目 点 も 中 心 部 か ら 外 周 り の 塗 装 に 移 る に 従 い︑ つ い に 術源流の研究に示唆を与えると期待できよう︒
﹃営造法式﹄
(一一〇三)に掲載された﹁鷰尾﹂という彩色制度が定着
六 考察

- 23 -
したと考えられる︒
東アジアの全体像として︑時代区分については︑三世紀末までの舌 舌と燕尾の関連性についてのテーマは︑日本では︑薬師寺東塔以後
の古形期︑二世紀から八世紀にかけての舌を中心とした脱化期︑八世 の遺構には舌の姿が見られず︑痕跡を辿ることが難しいのに対して︑
紀から十二世紀ごろまで燕尾の時代である余韻期の三つの段階が見ら 一方の中国では︑木造建築には舌の実例が一例も確認できず︑鷰尾が
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

れる︒伝播のルートについては︑その始まり︑すなわち舌の古形は中 単なる一種の彩色として扱われており︑由緒を探ろうとしてもなかな
国の中原︱東部地方の中原文化圏で生まれたと見られ︑後に北部の遼 か見当がつきにくい︒しかし︑東アジア建築史の統合的視点からは︑
燕文化圏の地域へ伝わり︑更に朝鮮半島︑日本に伝播したと考えられ 両者に関連性のあることが想定され︑考古資料に基づき︑詳しい比較
る︒そのうち︑四世紀の安岳三号墳は舌が墓文化に従って中国の遼東 と検討を加えることで︑同じく肘木の端部におけるデザインの要素で
地方から朝鮮半島へ伝播した実証の例である︒ ある﹁舌﹂と﹁鷰尾﹂の彫刻から彩色への変遷が中国を中心とした範
囲で解明できただけではなく︑東アジアの範囲でも朝鮮半島は伝播の
様式の特質:日本の舌の意味とその示唆 橋梁であることが実証的に確認され︑日本の舌の多様性及びその意味
 
2
様式の視点では実例が限定されるが︑舌の幅が肘木の幅の約二分の も明らかになった︒ただし︑残された課題も多く︑燕尾の彩色に関し
一 に 取 る﹁ 半 幅 の 舌 ﹂ と︑ 幅 が 顕 著 に 広 い 肘 木 の 幅 を ほ ぼ 埋 め 込 む て東アジアの範囲における展開の研究などが待たれる︒
このように︑日中韓三国の研究成果が今回の研究の基礎となってお る特定な形を持っている﹁舌﹂とは別の話とする︒関口欣也﹁西域古
り︑今後ほかのテーマに関しても三国の研究成果を統合することで︑ 建築小遊﹂
﹃文建協通信﹄七〇号︑二〇〇二︑ p.57
従来の研究からさらなる発展が期待できるだろう︒ (八)張 明 皓﹃ 高 句 麗 宮 殿 建 築 研 究 ﹄ 南 京: 東 南 大 学 二 〇 一 一 年 度 博 士 論
文︑ p.119

(九)
︻北魏︼酈道元︑﹃水経注(巻三十四)﹄︑六世紀ごろ︒
﹁燕尾洲﹂という
(一)法隆寺国宝保存委員会﹃国宝法隆寺金堂修理工事報告(法隆寺国宝保 地形を表現する地名の掲載があり︑二つの川の合流点における両側川
存工事報告書 第十四冊)﹄一九五六初版︑二〇一三再発行︑ p.320 に囲まれて半島のような長細い部分を指す︒
(二)
﹁鷰﹂は﹁燕﹂ の 古 字 で あ る ︒ (㆒零註(九)の例の他︑また以下の例があげられる︒

井上充夫﹁舌について﹂﹃日本建築学会論文報告集﹄第一〇三号︑一九
(三) 地 理:﹃ 南 斉 書 ﹄( 六 世 紀 ) 巻 四 十︑﹁ 燕 尾 洲 ﹂ /﹃ 徐 霞 客 遊 記 ﹄
六四 (一六四二)巻一下︑﹁燕尾泉﹂/﹃遼史拾遺﹄
(十八世紀)巻十
上 原 和﹁ 玉 虫 厨 子 問 題 の 再 検 討  続 編 ﹂
(四) ﹃ 仏 教 芸 術 ﹄ 八 六 号︑ 一 九 七 五︑﹁燕尾河﹂︒前後の文により︑全て二つの川の合流点が燕尾の

- 24 -
二︑ pp.1-15 ようであることから名付けられた地名であることが分かる︒
(五)関口欣也﹁朝鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統﹂
﹃日本建築の 服飾︑礼儀:﹃晋書﹄(七世紀半ば)巻二十五には﹁青翅燕尾﹂と

特 質  太 田 博 太 郎 博 士 還 暦 記 念 論 文 集 ﹄ 一 九 七 六︑ pp.31-33 pp.60- いう言葉があり︑服の礼儀に関する格式の高い飾りの名前である
61 /﹃三礼図集注﹄(十七世紀末)巻九︑﹁繋旆於末若燕尾也﹂
︑燕
(六)稲葉和也﹁四川省に見られる漢代の皿斗と舌の形式について︱漢代建 の尻尾のようになった旗の末を指す︒
築の復元的研究 その ﹂﹃日本建築学会大会学術講演梗概集﹄一九八 植物:﹃通志﹄(一一六一)巻七十六︑﹃本草綱目﹄(一五七八)巻
10
七(一〇)︑ pp.811-812 二︑﹁燕尾草﹂︑その草の葉は形が燕尾の如く︒
(七)ま た 近 年︑ 関 口 欣 也 氏 の﹁ 西 域 古 建 築 小 遊 ﹂ と い う 文 章 の 末 に イ ン 兵器:﹃籌海図編﹄(一五六二)巻十三︑﹁燕尾牌式﹂︑先端が二つ
ド・ デ リ ー 国 立 博 物 館 で 展 示 さ れ た 一 つ の 木 造 装 飾 肘 木 の 写 真 が 掲 載 に開く形にしている盾である/﹃皇朝礼器図式﹄(一七五九)巻
さ れ︑ そ の 下 の 解 説 文 に ﹁ エ オ リ ア の 両 側 の 玉 の 下 に 舌 の よ う な 突 起 十四︑﹁燕尾鈚箭﹂︑先端が二つに開く形にしている矢である︒
がある﹂と書いているが︑当写真から見ると︑その突起は先端がS字 (㆒㆒)宋・ 李 誡﹃ 営 造 法 式 ﹄( 四 庫 全 書 文 淵 閣 蔵 本 )
︑ 人 民 出 版 社︑ 二 〇 〇
形に曲がり巻いており︑花弁のようである︒したがって︑ここの﹁舌 六︑ p.100
のような突起﹂はたんなる比喩であるだろうと考えて︑本論で検討す (㆒㆓)竹島卓一﹃営造法式の研究 三﹄中央公論美術出版︑一九七二︑ p.471
(㆒叅)前掲註(一一)︑ p.100 〇年全国科学技術史学術会議論文︱﹂
(﹃建築考古学論文集﹄文物出版
(㆒㆕)前掲註(一二)︑ p.458 社︑一九八七︑ )︑張明皓﹁双斗斗栱﹂
pp.253-267 (
﹃高句麗宮殿建築研
(㆒五)李路珂﹃﹁営造法式﹂彩画作部分註釈研究﹄北京:清華大学二〇〇四年 究﹄南京:東南大学二〇一一年度博士論文︑ )などを参照︒
pp.116-127
度 博 士 論 文︒ 李 路 珂﹃ 営 造 法 式 彩 画 研 究 ﹄ 東 南 大 学 出 版 社︑ 二 〇 一 (㆓㆒ここでは舌との関連性を説明するために﹁鷰尾﹂の基本形に倣った早

一︑ p.280 期 の も の だ け を 取 り 上 げ る︒ も し 様 々 な バ リ エ ー シ ョ ン も 取 り 込 め
(㆒六)祁英涛・柴沢俊﹁南禅寺大殿修復﹂
﹃文物﹄一九八〇(一一)︑ pp.61- ば︑より大量な実例が認められるが︑それは別の課題とする︒李路珂
75 ﹃営造法式彩画研究﹄(東南大学出版社︑二〇一一) を参照︒ただ
p.185
(㆒柒)祁英涛・杜仙洲・陳明達﹁両年来山西省新発現的古建築﹂﹃文物参考資 し︑ 前 掲﹃ 営 造 法 式 ﹄ の 記 述 に 基 づ き 計 算 す れ ば︑ 実 は こ の﹁ 鷰 尾 ﹂
料﹄一九五四(一一)︑ には仏光寺東大殿の組物に関して﹁在栱頭
p.83 の基本形は両尾が李氏の作成されたものより長く︑李氏の図面におけ
尾」の関連性について

下端︙刷凸形土朱﹂(肘木の端部底面に︙凸形の土朱塗りがある)とい る肘木の三番目の折り線に揃えば更にふさわしいと検証できる︒
う説明がある︒ほかに︑この彩色を﹁鷰尾﹂と指摘したものとして︑ (㆓
㆓)前掲註(一六)︑ p.62

- 25 -
前 掲 註( 一 六 ) と 傅 熹 年 ﹁ 五 台 山 仏 光 寺 建 築 ﹂
﹃傅熹年建築史論文集﹄ (㆓叅)柴沢俊﹁南禅寺大殿修繕工程技術報告﹂﹃文物保護技術﹄一九八一年第
などを参照︒
文物出版社︑一九九八︑ p.241 一輯︑ pp.29-36
た だ そ の 皿 斗 の﹁ 皿 ﹂ は 下 の 肘 木 と 一 体 化 し て 作 ら れ た よ う に 見 ら れ
(㆒丷) (㆓㆕)田 自 秉・ 呉 淑 生・ 田 青﹃ 中 国 紋 様 史 ﹄ 高 等 教 育 出 版 社︑ 二 〇 〇 三︑
るが︑それは煉瓦造の擬木組物であるゆえ︑作りの便利上の考えによ ︒傅熹年主編﹃中国古代建築史:両晋︑南北朝︑隋唐︑五代建築﹄
p.226
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

るものだろう︒ 中国建築工業出版社︑二〇〇一︑ ︑
pp.268-269 p.620
前掲註(六)︒
(㆒九) (㆓五)李路珂﹁山西高平開化寺大殿宋式彩画初探﹂
﹃古建園林技術﹄二〇〇八
双斗系とは肘木の上に両端一つずつ︑計二つの巻斗を載せる組物であ
(㆓零) (〇三)︑ pp.36-45
る︒ そ れ に 対 し て ︑ 肘 木 の 真 ん 中 で も 両 端 と 同 じ く 巻 斗 を 置 き 総 計 三 (㆓六)参考として︑南禅寺大殿の再建から清の修理の間に︑もう一回彩色に
つの巻斗を載せるものが三斗系と呼ばれる︒中国の場合︑漢の末︑即 関わったと認められる修理の記録がある︒それは北宋元祐元年(一〇
ち三世紀初頭まで組物は双斗系のものが主流であった︒その後︑時代 八六)の大修理である︒この修理は一〇三七年と一〇三八年に起きた
が下るにつれて三斗系のものが発達し双斗系に代わって普及してき 二回の大きな地震による被害に対することであったと考えられ︑唐の
た︒ 鮑 鼎・ 劉 敦 楨 ・ 梁 思 成 ﹁ 漢 代 的 建 築 式 様 与 装 飾 ﹂
(﹃中国営造学社 当初の部材が多く保存されたが︑﹁竪柱檯枋﹂(柱を立て︑横材を架け
彙 刊 ﹄ 五 ︱ 二︑ 一 九 三 四 ︑ )︑楊鴻勛﹁斗栱起源考察︱一九八
pp.13-17 る ) の 記 録 が あ っ て( 前 掲 註( 一 六 )︑ )︑彩色を少なくとも
pp.61-62
一部書き直す必要が窺える︒ただし︑書き直す時も当初の様式を襲っ により︑後漢の末から唐の初頭まで︑当地域で交替した政権は以下の
ていた可能性も あ る ︒ 通り:魏︑晋︑後趙︑前燕︑前秦︑西燕&後燕︱東晋︑北魏︱劉宋︑
羅哲文﹁山西五台山仏光寺大殿発見唐︑五代的彩色和唐代的壁画﹂
(㆓柒) ﹃文 東魏︑北斉︑隋である︒その中で︑西燕&後燕︱東晋が対峙する時期
物﹄一九六四(〇四)︑ pp.31-35 (三八四︱三九四)と北魏︱劉宋が対峙する時期(四二〇︱四七九)で
(㆓丷)天津大学建築学院︑山西省古建築保護研究所仏光寺管理所﹁仏光寺東 は︑山東省の南部が境となり︑その北と南の二つに分けられ異なる政
大殿的建築彩画﹂﹃文物﹄二〇一五(一〇)
︑ ︑ p.85
pp.70-76 権に属していた以外︑他の時期では当地域がまるごと一つの政権に属
(㆓九)曾昭燏・蒋寶庚・黎忠義﹃沂南古画像石墓発掘報告﹄文化部文物管理 していた︒
局︑一九五六︑ 図 版 ~ ︑ ~ ︒ (叅
㆕)郭沫若﹃中国史稿地図集 下﹄(中国地図出版社︑一九九〇)による
11
17
38
41

中国側ではこの敦煌莫高窟の工字を燕尾と考える説もある(傅熹年主
(叅零) と︑唐末から宋までの間︑後唐(九二三︱九三六)以外のすべての時
編﹃中国古代建築史:両晋︑南北朝︑隋唐︑五代建築﹄ )︒もし
pp.596 期では︑当地域の大同︱宣化地方である部分と︑それ以南の部分が異
門型の白い燕尾は上部の横に白く塗る部分を変えて丹に塗ったら︑そ なる政権に属していた︒

- 26 -
の丹と頭の下にある丹の部分が連続するようになり︑﹁工﹂字に見える (叅
五)東晋(三一七︱四二〇)は︑中国の淮河以南の地域を領有した政権で
わけであるとい う 理 解 で あ ろ う ︒ ある︒
(叅㆒)宋紹祖石室における石造の肘木の彩色については︑発表された発掘報 (叅六)沂南漢墓と安岳三号墳を始めとする高句麗壁画墓の建築文化上の類似
告には詳しい情報が言及されておらず︑確認できていない︒ただし︑ 性 に つ い て の 論 述 は︑ 前 掲 註( 二 九 )﹃沂南古画像石墓発掘報告﹄
山西省博物館に出展中の宋紹祖石室の複製品によると︑その肘木の正 を参照︒
p.52-58
面は雲文のような赤い彩色の痕跡が認められるが︑舌のある側面は漠 (叅
柒)同前︑ pp.64-65
然としてどうなっているのか判断できない︒ (叅丷)韓 昇﹁ 魏 晋 動 乱 与 朝 鮮 的 中 国 移 民 ﹂﹃ 韓 国 学 論 文 集 ﹄ 第 八 輯︑ 二 〇 〇
省は中国の行政区域の単位である︒性質上はおよそ日本の県に当る︒
(叅㆓) 〇︑ pp.33-41
これらの省の境は歴史時代に何度も変化してきたが︑山西︑河北︑河 (叅九)高句麗壁画古墳と中国遼東地方の壁画古墳との関連性については︑壁
南と山東の四つの省は︑現在の区分によると︑ちょうど中国の一つの 画に反映された漢代絵画の性質における類似性が一九三〇年代に既に
地形単位である華北平原の大部分を占めて︑地形単位としての統一性 濱 田 耕 作 氏 に よ り 指 摘 さ れ た が︑ 平 面 の パ タ ン と 構 造 の 系 譜 も 含 め て
のある地域と見 て よ い ︒ この分野で系統的に検討を進めたのは近年の東潮氏らの研究である︒
郭 沫 若﹃ 中 国 史 稿 地 図 集  上 ﹄( 中 国 地 図 出 版 社︑ 一 九 九 六(
(叅叅) 版)) 東 潮﹁ 遼 東 と 高 句 麗 壁 画 ︱ 墓 主 図 像 の 系 譜 ︱﹂
﹃朝鮮学報﹄第一四九

2
輯︑ 朝 鮮 学 会︑ 一 九 九 三 年 一 〇 月 ︑ ︑東潮・田中俊明﹃高句麗
pp.1-46
図版出典
の歴史と遺跡﹄中央公論社︑一九九五(特にそのⅥ:石室墳の成立と
)︒
発展︱後期の墓制︱︑ pp.247-310 図︱
 
山田寺跡に出土した肘木:﹃山田寺発掘調査報告﹄︑法隆寺五重塔
1
宿 白﹁ 朝 鮮 安 岳 所 発 見 的 冬 寿 墓 ﹂﹃ 文 物 参 考 資 料 ﹄ 一 九 五 二( 一 )
(㆕零) ︑ の舌:﹃国宝法隆寺五重塔修理工事報告﹄︑薬師寺東塔の舌:温静 撮
p.101-104 影
(㆕㆒)前燕(三三七︱三七〇)は︑遼東地方における中国北部の遊牧の鮮卑 図︱
 左:自筆︑右:
﹃高句麗古墳壁画﹄

2
民族により建て ら れ た 政 権 で あ る ︒ 図︱ ﹄︑A :自筆︑B:
﹃中国画像石
 A

﹃ Chinesische Architektur

2
3

1
前掲註(四〇)︒
(㆕㆓) 全集  山東漢画像石﹄︑C :﹃山東沂南漢墓画像石﹄
︑C :﹁朝

2
岡 崎 敬﹁ 安 岳 三 号 墳 ( 冬 寿 墓 ) の 研 究 ︱ そ の 壁 画 と 墓 誌 銘 を 中 心 と し
(㆕叅) 鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統﹂
尾」の関連性について

て︱﹂﹃史淵﹄第九十三輯︑九州大学文学部︑一九六四年七月︒当論文 図 ︱   文 淵 閣 蔵 本:﹃ 印 景 文 淵 閣 四 庫 全 書  第 六 七 三 冊 ﹄︑ 張 蓉 鏡 写 本 :

4
は 安 岳 三 号 墳 を め ぐ っ て︑ 遼 東 地 方 と 高 句 麗 に お け る 同 時 代 の 墓 に つ 上海市図書館蔵︑陶湘校勘本 東 : 南大学建築学院中文図書室蔵

- 27 -
い て の 詳 し い 比 較 研 究 で あ り︑ 冬 寿 が 遼 東 地 方 か ら 高 句 麗 に 移 動 し た 図︱ ﹃
 
﹁営造法式﹂彩色研究﹄

5
話も紹介されて い る ︒ 図︱  左:﹁南禅寺大殿修復﹂よりトレース︑右:﹃仏光寺東大殿建築勘

6
宿白﹁関於河北四所古墓的札記﹂﹃文物﹄一九九六(九)
(㆕㆕) ︑ pp.58-62 察研究報告﹄
(㆕五)
﹃国宝法隆寺金 堂 修 理 工 事 報 告 ﹄ と﹃国宝法隆寺五重塔修理
pp.322-327 図︱ ﹃敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓﹄
 

7
法隆寺金堂の「舌」と『営造法式』の「

の実測値により︑金堂の上重における舌(初重
工事報告﹄ pp.218-223 図︱ ﹁河南淮陽北関一号漢墓発掘簡報﹂
 

8
の も の が 焼 き を 受 け︑ 舌 の 寸 法 が 取 れ な か っ た ) は 幅 の 寸 法 が お よ そ 図︱ 左:自筆︑右: 撮影
offshore
 

9
〇・二七~〇・三四尺の間にあり︑肘木の幅が〇・六六~〇・七二尺の範 図︱ 南禅寺大殿:﹁南禅寺大殿修復﹂ ︑開化寺大殿:﹁山西高平開化寺大

10
 
囲にとっている︒五重塔における舌は幅の寸法が〇・三四~〇・三九尺 殿宋式彩画初探﹂ ︑ 敦 煌 第 窟: ﹃中国敦煌壁画全集 敦煌中唐﹄︑

361
 

7
の値であることに対して︑肘木の幅がおよそ〇・七〇~〇・七四尺の間 高村壁画墓:﹁河南登封黒山溝宋代壁画墓﹂
にある︒両方とも隅方向の舌の寸法が以上の寸法よりやや大きいが︑ 図︱ 自筆

12 11
 
およそ肘木の幅の二分の一強にとっている︒ 図︱ 左: 張 十 慶 撮 影︑ 中:﹃ 宣 化 遼 墓 ︱ ~
1974 年考古発掘報告
1993
 
︱﹄ ︑右:﹃敦煌建築研究﹄
図︱   左:
﹁ 河 南 淮 陽 北 関 一 号 漢 墓 発 掘 簡 報 ﹂︑ 右: ~
﹃ 宣 化 遼 墓 ︱ 1974

13
年考古発 掘 報 告 ︱ ﹄
1993 周口地区文物工作隊︑淮陽県博物館﹁河南淮陽北関一号漢墓発掘簡報﹂﹃文
図︱  上:自筆︑下:﹁朝鮮三国時代建築と法隆寺金堂の様式的系統﹂よ 物﹄一九九一(四)
︑ pp.34-46
14

りトレース 山西省考古研究所︑大同市考古研究所﹁大同市北魏宋紹祖墓発掘簡報﹂
﹃文
図︱ 敦煌仏爺廟湾画像磚墓M :﹃敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓﹄
︑南禅 物﹄二〇〇一(七)
︑ pp.19-39
15

 
37

寺大殿の燕尾の彩色:﹁南禅寺大殿修復﹂︑法隆寺五重塔の雲肘木の 張海嘯﹁宋紹祖石室研究﹂
﹃古建園林技術﹄二〇〇四(四)
︑ pp.53-56
︑ p.19
図:﹃国宝法隆寺五重塔修理工事報告﹄
︑薬師寺東塔の組物の図:﹃薬 清華大学建築設計研究院︑北京清華城市都市計画研究院文化遺産保護研究
師寺東塔に関する報告書﹄︑安岳三号墳の石造組物の図:﹁朝鮮三国 所﹃仏光寺東大殿建築勘察研究報告﹄文物出版社︑二〇一一
時代建築と法隆寺金堂の様式的系統﹂
︑他の図:自筆 張映塋・李彦﹃五台山仏光寺﹄文物出版社︑二〇一〇
図︱ ・  自筆 河北省文物研究所﹃宣化遼墓︱一九七四~一九九三年考古発掘報告︱﹄文
16
17

物出版社︑二〇〇一
  表 における図 弓型の各図と腕型の図:
﹃四川漢代石闕﹄︑実肘木の
3

図:自筆 甘粛省文物考古研究所﹃敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓﹄文物出版社︑一九九

- 28 -

参考文献
重慶市文化局﹃四川漢代石闕﹄文物出版社︑一九九二
﹃ 山 田 寺 発 掘 調 査 報 告 ﹄ 山 田 寺 発 掘 調 査 報 告 ︱ 創 立 周 年 記 念  奈 良 文 化 財 崔忠清︑山東省沂南漢墓博物館﹃山東沂南漢墓画像石﹄斉魯書社︑二〇〇

50
研究所学報第 冊︱(本文編︑図版編) ︑奈良文化財研究所︑二〇〇二・ 一
63

〇三 中 国 画 像 石 全 集 編 輯 委 員 会﹃ 中 国 画 像 石 全 集  山東漢画像石﹄山東美術

3
法隆寺国宝保存委員会﹃国宝法隆寺金堂修理工事報告書(報告︑附図)
﹄一 出版社︑二〇〇〇
九五六初版︑文生書院再発行︑二〇一三 (とう そう 東京大学大学院工学系研究科)
法隆寺国宝保存委員会﹃国宝法隆寺五重塔修理工事報告書(報告︑附図)﹄
一九五五初版︑文生書院再発行︑二〇一三
浅野清﹃薬師寺東塔に関する報告書﹄薬師寺︑一九八一
朝鮮画報社﹃高句麗古墳壁画﹄朝鮮画報社出版部︑一九八五
梁 思 成﹃ 梁 思 成 全 集( 第 七 巻 )﹄(﹃ 営 造 法 式 ﹄ 注 釈 )
︑中国建築工業出版
社︑二〇〇一

You might also like