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「湾岸の夜明け」作戦に掃海部隊派遣

(「海上自衛隊50年史」から抜粋)

遠洋練習航海を除き我が国の艦艇等がインド洋を渡るのは旧海軍が実施した第 1 次世界大戦
の地中海派遣、第 2 次世界大戦のインド洋作戦以来であり、他国領海付近における掃海作業は
朝鮮戦争の元山沖以来のことである。掃海部隊のペルシャ湾での活動について述べる前に、この
実任務を通じて確認された将来の課題等について明らかにしておく。
片道約 6,800 マイルの航程は、米西岸までの 1.5 倍、ハワイまでの 2 倍以上であり、500 トン
前後の掃海艇が長駆湾岸地域を往復し、現地においては他の参加国に比しても遜色ない働きがで
きたものと自負している。
また、大型艦に比して若年の艇長や乗組士官の経験は、個人としても組織にとっても貴重な無
形財産として、海上自衛隊の将来に資するものであろう。
しかしながら中央施策面において、将来に向けて考慮を要する事項は存在する。
第一に、自衛艦等海上防衛力を運用する上で不可欠な交戦規定(ROE:Rules Of Engagement、
以下「ROE」という。)が整備されていないことである。戦時有事は当然のこととして、平時に
あっても不時不測の事態に遭遇した場合、いかなる対処を行うか明確な対処要領が示されていな
ければならず、またそれは共同する諸国海軍との共通性を持ったものでなければならない。
第二は、いかに直接戦闘行動が終結し米軍の圧倒的海上優勢の条件下にあるとはいえ、機雷処
分用の機銃を除けば、ほかには「寸鉄も帯びず」の状態で、硝煙未だきな臭い海域へ鈍足小型艦
艇を派遣することのリスクである。現地におけるリスクにとどまらず、軍用艦艇が行動する以上、
進出途上の洋上においても不測の事態に備えて、護衛兵力の帯同随伴等の諸対策は考慮されるべ
き事項である。
第三に、湾岸地域が今後とも日本にとってバイタルな海域であり続けるとすれば、より効果的
な国際貢献を行うために、当該海域に必要に応じて機動的に展開し得る装備面での検討も必要で
あろう。
1 掃海部隊派遣の背景

1イラクのクウェイト侵攻と直後の国際社会の対応
平成 2 年(1990 年)7 月下旬、クウェイトとの国境付近に部隊を集結させていたイラクは、8
月 1 日クウェイトとの交渉が決裂すると、翌 2 日クウェイトに侵攻を開始して同日中にはほぼ
全土を掌握し、イラク国営テレビは「クウェイト暫定自由政府」の樹立を声明するに至った。こ
れに対し、同日中に国連安全保障理事会(「安保理」)は、イラク非難決議を採決するとともに、
イラクの即時無条件撤退を「決議第 660 号」で要求した。一方、米国は直ちに空母機動部隊の
湾岸地域派遣を決定し、英・仏等とともに経済制裁措置を発表するとともに、中・ソもイラクに
対し軍事行動の停止等を要求した。翌 3 日には、複雑な利害関係が交錯する湾岸協力会議(GCC)
諸国も、おおむね同一歩調を取ってイラクに対し即時撤退を要求するなど、国際社会はほぼ一致
してイラクの行動を侵略的行動として非難するに至った。
5 日になって、イラクはクウェイトからの撤退を発表するが、実際には主要部隊の撤退は行わ
れず、翌 6 日安保理の「決議第 661 号」による対イラク経済制裁の採択に対し、8 日にはクウ
ェイト併合を発表し、次いでアラブ諸国やイスラム教徒に対し、帝国主義やシオニズムへの抗戦
を呼び掛けるなどの大義名分を掲げ、本軍事行動を聖戦として位置付けるよう働き掛けた。これ
に対し、アラブ諸国は緊急の首脳会議でイラクのクウェイト侵攻を非難するのみならず、サウジ
アラビアへの部隊派遣や経済制裁等を決議した。
7 日、米国はサウジアラビアの要請を受け、同国への兵力の展開を開始するとともに、英・独
を始めとする北大西洋条約機構(「NATO」)諸国の支持を得つつ、経済制裁措置の実効性をねら
った軍事的対応措置を決定した。その内容は、当面は米国単独で、態勢が整い次第、逐次多国籍
軍による対イラク海上封鎖を行う傍ら、初秋までに湾岸地域へ 25 万人の米軍を派遣する準備に
着手するというもので、ブッシュ大統領は 15 日、海軍に対し武力行使の権限を付与した。
イラクは、係争中の対イラン和平条件を全面的に受け入れてイラク軍の大幅な移動を可能にす
る一方、在留外国人を人質に取ることを公式に表明するなど、各国に揺さぶりを掛けた。これに
対し、ブッシュ大統領はイラクを激しく非難し、人質の即時解放を要求するほか、経済制裁措置
実施のため、武力行使を認める新たな安保理決議を採択するよう、他の常任理事国との協議を開
始した。英・仏両国は、自国艦艇に経済制裁措置実施のための武力行使の権限を認め、独は同国
の憲法(基本法)修正問題を検討することを前提に、取りあえず掃海艇 7 隻を東地中海に向け
出港させるなど、米国に対し同調する動きを見せた。一方、海上封鎖には消極的なソ連も含めて、
安保理は 25 日、対イラク経済措置の実効を上げるため、多国籍軍に対し限定的な武力行使を認
める「決議第 665 号」を採択するに至った。

2 日本政府の対応
イラクのクウェイト侵攻に対し、8 月 2 日の時点では、日本政府は「クウェイト侵攻は遺憾」
と談話したのみであったが、4 日に至り石油輸入禁止等の経済制裁措置を決定した。しかし、米・
英や NATO 諸国等が、次々と安保理決議に基づく経済制裁のための実効的措置の実施に傾く中、
以後も目立った動きを見せないまま、ようやく 13 日に至り、15 日から予定されていた海部首相
の中東 5 か国訪問の延期を決定するにとどまった。こういった動きに苛立ちを見せる米国は、
湾岸地域の安定化によって最大の恩恵を被る日本に対し、ブッシュ大統領自らが海部首相に軍事
的貢献の要求等を積極的に働き掛けるが、日本政府の対応は極めて慎重かつ否定的で、ボランテ
ィアの医療要員派遣の可能性表明等、極めて限定的な協力にとどまる模様を見せていた。
米国は日本政府に対し、米軍支援のための民間機や輸送機の提供を要請するほか、水面下では
掃海艇や輸送艦の派遣を要請し、30 日にはピカリング国連大使が、日本の中東貢献策への期待
として掃海艇や補給艦の派遣を第一に挙げるなど、軍事面に重きを置いた貢献への期待を再三表
明した。一方、イラクは「決議第 664 号」による外国人に対する不法な拘留と虐待への非難や
即時の出国要請にも応じず、30 日には在留邦人を軍事施設の盾にしていることが判明した。こ
ういった動きに対し 31 日、日本政府は、当面の局面打開を図るため「国連平和協力法(仮称)」
の検討を開始することを明らかにした。

3 海上自衛隊における国際貢献策の研究着手
海上自衛隊は、8 月 2 日のイラクによるクウェイト侵攻直後から、国連や米国を中心とする国
際社会の対応ぶりに注目する一方、早晩、日本として経済制裁以外の何らかの実質的貢献策が必
要となるとの見地から、海幕防衛課を中心として、運用課・装備課等により、現行法制内での白
紙的研究に自主的に着手した。8 日には、ホルムズ海峡が封鎖される可能性等についての見積り
と、その状況に対して海上自衛隊としてなし得る対応策についての検討結果を海幕長に報告し、
今後の展開によっては、海上自衛隊の部隊の行動を伴う貢献の要請が予告なしに突然行われる可
能性もあるとして、以後、できる限り幅広くかつ具体的な検討作業を進めていくこととなった。
14 日、ブッシュ大統領から日本の軍事的貢献についての要請が海部首相になされたとの外交
筋の情報に接する一方、政府筋や防衛関連議員等から自衛隊の部隊による軍事的貢献をめぐる観
測気球が盛んに打ち出される中、海幕においては第 1 回幕内検討会を実施し、護衛艦や掃海艇
等の派遣についての研究に方向を定めるとともに、日本の軍事的貢献策についての法制面の研究
も開始した。これは、あくまでも研究作業としてのものであったが、世間からの誤解を受ける可
能性もあるため、少なくとも防衛庁内では理解を得ておく必要があるとの観点から、取りあえず
非公式ではあるが、内局や統幕の上層部等に対し、現行法の枠内で実施可能と考え得る範囲(自
衛隊法第 82 条(海上における警備行動)、第 99 条(機雷等の除去)及び第 100 条(省庁間協力))
での対応策の概案について説明し、一定の感触を得た。
21 日には第 2 回幕内検討会を開催し、掃海艇派遣の研究に続き補給艦及び護衛艦の派遣につ
いての具体的研究を、関係者を限定しつつも全力で推進した。このころ、相前後して、国防 3
部会関係筋や外交筋等から軍事的貢献策についての非公式な打診を受けるなどしたこともあり、
23 日には関係者に対しペルシャ湾海域への護衛艦派遣等についての研究結果を説明し、以後本
研究を含む軍事的貢献策については、双方が十分な連携を取りつつ、政党や政府要人への根回し
を含めてタイムリーに各方面に対応していくことで意見の一致を見た。海幕では、政府の「国連
平和協力法」の検討開始決定に合わせ、31 日に第 3 回幕内検討会を開催し、9 月中旬をめどに、
日本の軍事的貢献策及び関連する法制面の研究を取りあえず終結し、以後本研究の成果を基に、
「国連平和協力法」の枠組での海上自衛隊の効果的活用と役割の明確化を追求していくこととし
た。

4 「砂漠の盾作戦」
クウェイト侵攻に次いで、イラクはサウジアラビア国境に向け軍を進め、サウジアラビアの油
田地帯や主要港湾の占領等が懸念された。これを未然に阻止するため、米国主導による多国籍軍
「砂漠の盾作戦」(Operation Desert Shield)と称して、逐次、湾岸地域に戦力が
が編成され、
派遣された。以後、国連の場や当事国間の交渉による解決が図られる一方、多国籍軍の戦力も増
強され、11 月上旬には、対化学戦能力も具備した米軍 20 万人を含む強力な地域防衛線が構成さ
れた。さらにブッシュ大統領は、米軍が防衛型から攻撃型の態勢への転換を決定したことを表明
した。
最終的に多国籍軍に参加する国は、湾岸諸国、NATO、アジア・オセアニア諸国等 42 を数え
るに至り、また「決議第 661 号」及び「決議 665 号」に加えて 9 月 26 日には空輸封鎖の「決議
第 670 号」も採択され、増強された多国籍軍部隊の展開とともに経済制裁措置が強化され、実
効性を上げていった。11 月 29 日、安保理は、イラクがそれまでの国連諸決議すべてに従う期限
として、翌年 1 月 15 日を設定した「決議 678 号」を採択するが、イラクは、12 月 6 日に外国
人人質を全員解放したものの、この決議の受諾は拒否し続け、時局は好転しないまま、期限日を
迎えるに至った。
こういった中、日本政府の動きは緩慢であり、8 月末には多国籍軍への財政支援や、4 輪駆動
車等の物資提供、医療チームの派遣等を表明するものの、米国は NATO 諸国の対応ぶりとの懸
隔に苛立ちをあらわにし、更なる具体的貢献を迫ってきた。この中には、下院本会議での在日米
軍駐留経費の全額負担要求や在日米軍の兵力削減等、日米同盟の存続にもかかわる内容も含まれ
るが、日本政府の対応は、相変わらず多国籍軍への財政支援の上積みや輸送支援等にとどまり、
国際社会に通用するような可視的かつ実質的な貢献には至らなかった。9 月 27 日、日本政府の
「国連平和協力法」案の骨子発表に対し、ブッシュ大統領は、ようやく日本の拠出金総額 40 億
ドルと合わせた形で評価するに至るが、同法が廃案となるや、日本にこれ以上の具体的な軍事的
貢献は期待できないと判断し、様々な形での財政負担増を声高に要求する方向へ転換していった。

5 「国連平和協力法」に関する経緯
先に述べた経緯により、日本政府は 9 月初頭から「国連平和協力法(仮称)
」に取り組むが、
参議院における保革逆転現象を背景として、政府内の官邸筋と外交筋、さらに防衛サイドとの間
には、当初からスタンスや思惑の相違があった。すなわち、官邸筋は、同法を成立させるにして
も、自衛隊法の改正や平和協力隊への自衛隊の組織的参加には反対の立場を採るが、外交筋は、
米国を含む国際社会の反応等から、自衛隊の何らかの形での参加を模索する、といった状況であ
った。
防衛庁・自衛隊の協議への実質的な参画が無いまま、官邸筋・外交筋主導という形で法案化作
業が進み、9 月 27 日、首相により「国連平和協力法」の骨子が発表され、以後、本法案は外務
省を中心とする事務当局の検討に移行した。これに反発する防衛庁・自衛隊の主張に妥協する形
「国連平和協力法」はようやく法案の原形ができ、10 月 9 日には条文案の骨子が発表された
で、
が、詰めの作業が十分に行われないまま、同月 16 日に法案を閣議決定し、18 日には国会に提出
された。しかし、当初から予想されていたとおり、11 月 10 日に廃案となり、以後は「国連平和
」の創設(法案提出は早くて翌年 1 月末)をもって、国際社会からの日本の
維持活動隊(仮称)
人的国際貢献の要請にこたえるという形で政治的決着が図られることとなった。なお、この時期、
隊法の改正や新法の制定によらない便法として、航空自衛隊輸送機による難民輸送が、「自衛隊
法第 100 条の 5(国賓等の輸送)」を根拠として急浮上し、3 年 1 月 29 日暫定政令として制定・
施行された。

6 「国連平和協力法案」に対する海上自衛隊の動き
9 月上旬、防衛局幹部からの働き掛けを受け、「国連平和協力法」に基づいて日本がなし得る
軍事的貢献策は必然的に海上自衛隊が正面となるとの認識の下、内局・海幕が一体となって同法
に関する法制面の研究を進めることで合意が図られた。海幕としては、それまでの研究作業の成
果を基に、同法を念頭に置きつつ海上自衛隊の果たし得る役割についての詳細検討を行い、逐次、
内局との調整を図っていく方針を固めた。さらに、「国連平和協力法案」の策定作業に関連し、
政府筋・外交筋から投げ掛けられる提案に自衛隊としての本質論をもって対応していくべきであ
るとの一貫した考えにより、内局と緊密に調整しつつ対応していった。
この中で幾つか問題となった事項を列挙すれば、①「国連平和協力法」の下に設置される自衛
隊とは別組織たる「平和協力隊」の設立(自衛隊としての国際貢献は不可、ボランティアなら可)、
②文民統制の実効性の確保策(首相が協力隊本部長として直接指揮監督することによる指揮の二
重構造化)、③ボランティアとして協力隊に参加する自衛官の「身分」(協力隊員との併任)、④
協力隊への自衛隊の組織としての「参加態様」(協力隊としての旗章の掲揚、制服の着用等、あ
るいは協力隊支援のための協力隊とは別組織での自衛隊の参加の可否等)
、⑤協力隊内の「指揮」
(指揮官の権限、混在する隊員への指揮の在り方)、⑥搭載・携行する武器の「範囲・使用許可」
(艦載武器の封印等)等々、軍事組織としての自衛隊の根幹を揺るがしかねない問題ばかりであ
り、これらについての地道な説得を続け、また、なし得るあらゆる機会を利用して海上自衛隊の
スタンスの説明に努めた。しかし、一定の理解は得られるものの、必ずしも法条文化作業には十
分に反映されないまま、停戦監視、輸送・通信、医療、救援、復旧を業務とする内容で、官邸筋
の意向が強くにじみ出た法案が、10 月 16 日に閣議決定された。
10 月 8 日、
「国連平和協力法」条文案骨子の発表に伴い、海幕内での軍事的貢献策に関する検
討作業も公開化・本格化し、従来の委員会を発展拡大させた形で、防衛部長を長とするプロジェ
クトチーム(ME(Middle East)プロジェクトと呼称)を公式に発足させた。さらに、自艦隊
司令官や関係地方総監の了解の下、自艦隊司令部等を参画させて、中東への補給艦の派遣計画を
皮切りに、諸計画についての部隊レベルの検討も推進させることとした。成果としては、①多国
籍軍に協力するのための海上輸送支援及び陸上自衛隊野戦医療隊支援のための補給艦の派遣、②
湾岸地域での掃海作業のための掃海部隊の派遣、③湾岸地域における邦船の護衛のための護衛艦
部隊の派遣、④湾岸地域からの邦人移送のための護衛艦部隊の派遣の 4 ケースに関する基本計
画の策定であったが、いずれも 12 月中旬には作業を完了した。
一方、米海軍からは、非公式な形ではあるが、海上自衛隊による様々な形での米海軍に対する
支援や協力の可能性についての照会が寄せられた。そのほとんどは、自衛隊をめぐる法的側面に
ついて十分な理解を示しながら、日米安全保障体制に基づく日米同盟の在り方に関し、従来から
一歩踏み込む形で日本側の政治的決断を促す内容となっていた。これに対し、内局を含む日本政
府は、無理を承知での政治的シグナルとして対応したが、海幕では、そのような意味を持つこと
は否定しないものの、むしろ米海軍が日米安全保障体制の充実のために、軍事的観点に立って送
ってきたシグナルと理解した。
すなわち、この米海軍からのシグナルは、日本が比較的穏健な形で国際社会に軍事的貢献をな
し得る絶好の機会であることを示唆しつつ、平素の共同訓練等を通じ、十分な実力を有している
と認められる海上自衛隊との実共同オペレーションを実施したいという願望の現われと解釈し
た。
こういった中、12 月の初旬には、イラク撤退期限の 1 月 15 日以降米国は戦争突入を決意と
の情報が米軍情報として寄せられ、海幕としては、戦闘開始後は日本に対し、今まで以上に可視
的な貢献の要求が増大するのは必至であるとの観点から、当面の検討作業の重点を邦人移送及び
難民輸送としつつ、他の 3 ケースについても遺漏無きよう、年末年始を含め、情報収集・配布
や連絡体制等、考え得る万全の体制(ME プロジェクト等)を敷いた。

7 「砂漠の嵐作戦」
3 年 1 月 17 日、湾岸地域時間の早朝、多国籍軍による「砂漠の嵐作戦」(Operation Desert
Storm)が開始された。
本作戦は、第 1 段階の「戦略航空作戦」、第 2 段階の「航空優勢獲得作戦」
、第 3 段階の「大
統領警護隊及びその他地上兵力への攻撃作戦」がほぼ同時に実施され、最小限の被害をもって完
了し、イラク軍の主導性を奪い、最終的な第 4 段階作戦である「空軍及び海軍によって支援さ
れた地上攻撃」のための準備が整えられた。多国籍軍政府からの最後通牒が 2 月 22 日に発せら
たが、イラクはなおも受諾に応じず、遂に 24 日早朝に地上戦闘が開始され、100 時間後の 28
日に多国籍軍の圧倒的勝利をもって戦闘が終了した。
イラクはこの間、多国籍軍の攻撃に対し見るべき反撃を行うことができず、スカッド・ミサイ
ルにより再三サウジアラビアやイスラエルを攻撃して挑発したが、このもくろみもイスラエルの
隠忍自重により目的を達せず、また、1 月 29 日にはサウジアラビア国境を越えてアル・カフジ
地域等を攻撃したが、米軍にたちまち奪還された。こうした中、イラクは、劣勢挽回のため、原
油の湾岸海域への意図的流出やクウェイトの油井への放火等、非常識な行動を起こした。さらに、
大方の予想どおり、クウェイトやイラク沿岸を主とするペルシャ湾北部に機雷を無差別に敷設し、
展開中の多国籍軍艦艇に大きな脅威をもたらし、現実に米艦「トリポリ」と「プリンストン」が
触雷して大被害を受けた。これらの機雷に対する掃海作業は、一部湾岸戦争中から実施されてい
たが、十分なものとは言えず、停戦に伴いイラクが提供した機雷敷設情報によれば、いまだ約
1,200 個の機雷が手付かずのまま同海域に残されており、ペルシャ湾を航行する船舶の安全とク
ウェイトの復興にとって大きな障害となった。
3 月 2 日、安保理は「決議第 686 号」を採択し、それまでの諸決議をイラクがいかにして履
行すべきかを提示し、翌 3 日イラクは同決議を受諾し、事実上の停戦を迎えた。また、4 月 3 日
の「決議第 687 号」により、正式停戦のための条件が規定され、同 6 日イラクはこれを受諾し 4
月 11 日に停戦が発効した。

8 掃海部隊の派遣に至る経緯
3 年 1 月 17 日に戦端が開かれるや、政府は内閣に「湾岸危機対策本部」を設置し、21 日には、
国際移住機構(IOM)からヨルダン国内のヴィエトナム難民輸送の要請もあり、23 日には「自
衛隊法第 100 条の 5」に基づく自衛隊輸送機派遣の方針を固め、多国籍軍への追加資金協力 90
億ドル拠出と合わせた貢献策を決定した。24 日には空幕長に対し、
「中東における避難民の輸送
の準備」に関する長官指示が発出され、25 日には事前調査団が出発した。2 月に入り、ヨルダ
ン国内の情勢が輸送機運航に適さず、かつ避難民の数が少ないことなどを理由に、政府・自民党
は自衛隊機派遣に関しては慎重となり、90 億ドルの資金協力を最優先させようという空気が支
配的となった。公明党は、この財源として防衛費削減を主張し、自民党執行部も、補正予算や関
連法案成立のため、この主張を受け入れる方針を固めた。航空自衛隊は 2 月 12 日、自衛隊輸送
機派遣の当面の見送り方針を受けて派遣準備の態勢を解き、C-130 の通常の任務飛行を再開し
た。
一方、初の自衛隊部隊の海外派遣としての輸送機派遣が挫折する中、政府・自民党の一部から
も、何らかの形での「可視的」かつ「具体的」な国際貢献を行うことが日本の責務であると主張
する声が大きくなり、14 日ごろには、こうした中から、湾岸戦争終結後の貢献策としての掃海
艇派遣を求める動きが一層表面化してきた。28 日の戦闘の停止に伴い、翌 3 月 1 日には自民党
内に、戦後復興への貢献策として国際緊急援助隊派遣法を改正し、橋りょう・道路建設等の土木
作業に非武装の自衛隊施設部隊等を派遣する案と併せ、法改正を要しない掃海艇派遣案が最有力
案として浮上した。
これを後押しするかのように、ドイツの政府報道官は 6 日、イラク軍によってペルシャ湾全
域に敷設された約 1,200 個の機雷を除去するため、米国及び国連から協力を要請されたことを受
け、ドイツ海軍掃海部隊が同海域に派遣される旨を発表した。しかし、政府首脳は、日本への派
遣要請が無いことなどを理由に、我が国の掃海艇派遣の可能性を否定するなど、政府は、戦後復
興のための PKO の組織作り(自衛隊は含めず。)や 90 億ドル拠出の財源としての防衛費削減対
策など、4 月 7 日の統一地方選挙(前半戦)を意識した姿勢を強く見せ、掃海艇派遣論議は表面
上沈静化した。
この間、2 月中旬には、海幕はもはや日本の行い得る国際貢献の可能性は、戦後処理としての
掃海作業にのみ求められるとの判断に立ち、計画策定努力の重点を邦人輸送から掃海部隊の派遣
に移行させた。そして 28 日の戦闘行為の停止、3 月 1 日の戦闘停止の状況を受けてからは、掃
海部隊の派遣に絞り、自艦隊・第 1 掃海隊群・関係総監部等を包含して、具体的計画の策定作
業を進めていった。
こうした中、3 月 13 日に、自民党首脳は社公民 3 党政調・政審会長との会談において、既に
前年 8 月の時点で、ペルシャ湾掃海のための海上自衛隊掃海艇の派遣について米国が打診して
きたことを言明し、掃海艇派遣論議が再燃した。政府は表向き、湾岸戦争終結後は米国を含む国
際社会からの我が国への要請は無いとして、掃海艇派遣の考えのないことを強調しつつも、一方
でペルシャ湾に残された機雷がある以上、前年 8 月の米国からの要請そのものは生きていると
の見解を示した。また、自民党有力者も公海上での掃海作業は全く法的に問題ないとの認識を示
すなど、政界での議論が掃海艇派遣に傾きつつある中、4 月 7 日の統一地方選挙(前半戦)は社
会党の惨敗という結果となった。
翌 8 日には平岩経団連会長が早速、掃海艇の派遣を主張し、以後、日経連、石油連盟、行革
審会長等が次々とこれに続き、また海員組合も掃海艇派遣を政府に要請するなどの動きがあり、
また官邸首脳もサウジアラビア政府からペルシャ湾への掃海部隊派遣の打診があったことを公
表した。11 日に停戦が発効するや自民党国防 3 部会は派遣を決議し、海部首相及び党三役に申
し入れ、政府首脳は、掃海任務を定めた「自衛隊法第 99 条」を根拠に、ペルシャ湾に掃海部隊
を派遣する方針をようやく固め、野党に協力を打診した。これに対し、社会党等は反対を表明し
たが、12 日には政府は長官に対し、14 日の統一地方選挙(後半戦)後に、海上自衛隊への掃海
部隊の出動準備指令を発出するよう指示し、15 日には難民輸送のため特別に設けた「自衛隊法
第 100 条の 5」に基づく暫定政令を廃止することを決定して、掃海部隊派遣のための出発のデッ
ドラインを 4 月中と定めた。
統一地方選挙(後半戦)の 2 日後の 16 日、池田長官は海幕長に対し「ペルシャ湾における機
雷等の除去の準備に関する長官指示」を正式に発出、同時に、派遣の政治決定に際して即応し得
るための準備を行うよう指示した。そして、本指示が発出されてわずか 1 週間後の 24 日、安全
保障会議及び閣議において掃海部隊の派遣が正式決定し、同日、長官は海上自衛隊に対し、「ペ
ルシャ湾における機雷の除去及びその処理の実施に関する海上自衛隊一般命令」を海甲般命とし
て発令し、出発日は 26 日と決定された。
4 月 26 日、奇しくも海上自衛隊の前身である海上警備隊発足 39 年目の創立記念日に、
「ペル
シャ湾掃海派遣部隊」
(以下「掃海派遣部隊」という。)は出動準備を完了し、部隊集結場所であ
る奄美群島に向け、それぞれの母港である横須賀・呉・佐世保を出港した。出動準備期間中は海
幕・自艦隊・第 1 掃海隊群を中心として計画作業を進める一方、ペルシャ湾という遠隔地域へ
500 トンに満たない小型の木造掃海艇を含む部隊を派遣するという未曾有の作戦を円滑に達成
するため、派遣部隊はもとより、派遣艦艇在籍の横須賀・呉・佐世保各地方隊は全力を挙げて出
動諸準備に当たった。16 日の発令後、わずか 1 週間余の準備期間をもって出動準備完成という
成果を上げ得たのは、関係部隊が打って一丸となり、関係者の一人一人がその職責において文字
どおり献身的な努力を払った結果であった。

2 掃海部隊の派遣準備
1掃海部隊派遣計画の策定
「ペルシャ湾掃海部隊派遣に関する海上自衛隊一般命令」及び海幕長指示を補足するため、海幕
は自艦隊等と調整しつつ実施計画を作成していた。実施計画自体は、海上自衛隊一般命令が海甲
般命の形を取ったため発出されなかったが、その内容は、「掃海部隊派遣に関する自
隊等の部隊計画」に取り込まれた。
派遣計画の策定に際しては、幾つかの重要なポイントがあり、このうち最も重視されたことは、
集団的自衛権の行使を禁じられているとの制約がある中で、ペルシャ湾での掃海作業に際し、既
に掃海作業を実施中の多国籍軍と調和を取りつつ、いかにして海上自衛隊としてのアイデンティ
ティを発揮するか、という点であった。
また、作業の実施に当たっては、補給・修理・磁気測定・キャリブレーション・休養といった
条件を満たす港湾等の利用について、湾岸諸国の協力を得ることが必要であった。特に、これら
の諸国が宗教的戒律の厳しいイスラム国家であることは、様々な面で問題が生起する可能性を秘
めており、慎重かつ周到な準備が必要であった。ペルシャ湾海域は、遠洋練習航海(遠航)でも
一度も寄航・訪問の経験の無い海域であり、行動計画の立案に当たっては、経験の深い海運会社
等、各方面からの情報収集が必要となった。
さらに、日本からペルシャ湾海域への進出・帰投の時期や、航路の選定も大きな問題であった。
小型の掃海艇はインド洋を横断しての行動には約 1 か月を要し、この間モンスーンの時期を避
けねばならないという課題があった。この解決策として、掃海艇を専用の輸送船で運ぶというこ
とも検討されたが、運搬中、木製である掃海艇の水密性保持や磁気低減についての確信が持てな
いため、各種方策を検討していたが、専用船のチャーターについての折合いがつかず、採用に至
らなかった。このため、以後は派遣時期と適当な寄港地の選定が課題となった。
また、掃海作業については、業務掃海という蓄積された実任務の経験があるとはいえ、作業環
境の異なる遠隔地での長期間にわたる任務行動や、米海軍の大型艦艇等の触雷被害、イラクの保
有する機雷についての情報の欠如など、多くの未知の部分に対する不安が完全に解消されていた
わけではなかった。
さらに重要なことは日本の国内事情であり、掃海部隊の派遣については、日本出発当時、国内
世論は賛否両論というよりも反対する勢力の声が強く、こういった中で、派遣隊員の士気を高め、
残された家族に対して一切の不安を与えないよう各種の措置を執る必要があった。また、いった
ん派遣された後、成果が上がれば日本国内の世論は一変するとの期待もある一方で、掃海派遣部
隊の行動態様いかんではネガティヴな方向で政治的に利用される可能性も捨てきれず、これらへ
の事前の対応策を十分に採っておく必要があった。
「ときわ」を中心に接舷する掃海艇

2掃海部隊派遣の目的及び編成
■掃海部隊派遣の目的
(平成 3 年 4 月 24 日
派遣部隊の使命は、「海上自衛隊一般命令」 海甲般命第 18 号)に示さ
れたとおり、
「我が国船舶の航行の安全を確保するため、ペルシャ湾における機雷の除去及びそ
の処理を行う。」ことにあった。同時に、4 月 24 日に掃海部隊の派遣が決定された際の政府声明
にもあるとおり、「ペルシャ湾における船舶航行の安全確保に努めることは、同時に、今般の湾
岸紛争により災害を被った国の復興などに寄与するものであり、我が国の平和的、人道的な目的
を有する人的貢献策の一つとしても意義を有する。」ものであった。
■編 成
自艦隊司令官に直属する「掃海派遣部隊」の編成は、掃海母艦「はやせ」、14 掃隊(
「ひこし
ま」
)、「ゆりしま」 、「さくしま」)及び補給艦「ときわ」の計 6 隻とし、
、20 掃隊(「あわしま」
第 1 掃海隊群司令(落合畯(たおさ)1 佐)が指揮することとなった(同部隊の各級指揮官は下
表 1 参照)。派遣部隊の人員は、司令部要員を増強したほか、艦艇乗員の充足率を 100%とし、
総員 511 名で編成した。隊員の年齢は、最年長者が派遣部隊指揮官で 52 歳、最年少者は 19 歳
で、平均年齢は 32.5 歳であった(ちなみに、当時の海上自衛官の平均年齢は、33.0 歳であった。
部隊別の人員構成は下表 2 参照)

部隊編成に当たっては、派遣時期を確定できないため、発令時期に対応して編成計画の変更を
強いられたが、海幕と部隊が一体となって向こう 6 か月の作業線表を作成していった。3 月の中
旬になって派遣の可能性が高まり、しかも約 1 か月を要する進出期間中にモンスーンを避ける
必要があることから、デッドエンドは 4 月末という見通しも立つようになり、具体的に艦艇を
確定した上での準備を進める態勢が整うようになった。
■艦艇の選定
掃海艇の隻数は、掃海作業実施上の戦術単位である 3 隻による作業を数か月間にわたり継続
的に実施することを可能とするため、予備艇を 1 隻確保し 4 隻編成とした。個々の艇について
は、主力の「はつしま」型掃海艇 25 隻のうち、長期にわたる航海と酷暑という過酷な条件下で
の長期連続運用に耐え得る信頼性の高い新型エンジン(6NMU-TAI)を搭載した 61MSC「ゆ
「ひこしま」及び 62MSC「あわしま」、
りしま」、 「さくしま」の 4 隻を選定した。最新の 63MSC
は就役後日が浅く、就役訓練及び新装備武器の性能試験を残しており、いまだ戦力化されるに至
っていない状況下であったことなどがこれら 4 隻の選定理由となった。
一方、掃海母艦の選定に当たっては、現場での作業の全般指揮及び掃海艇への補給支援のため、
司令部旗艦機能及び掃海艇への母艦機能を有する艦が必要であり、掃海母艦「はやせ」と機雷敷
設艦「そうや」の 2 隻が該当したが、旗艦機能は同等であるものの母艦機能に優れる「はやせ」
に白羽の矢が立った。また、長期間の行動中、掃海母艦と掃海艇への補給支援等のため補給艦が
必要となるが、保有 4 隻中、検査・修理の時期と派遣期間を考慮し、「ときわ」が選定された。
これらの艦艇の選定基準は、約 6 か月と見込まれる派遣期間中に支障無く任務行動を完遂し得
る状態を維持できるか否かに懸かっており、慎重に調査・検討がなされた上での決定であったが、
結果的にもくろみ通りとなり、技術陣の実力を証明することとなった。

3 派遣基本計画
派遣基本構想を策定するに当たっては、まず、掃海作業期間中に、米海軍を通じて各種情報及
び通信支援が受けられるよう調整がなされ、その上で米国中東艦隊司令部(米国中央軍海軍司令
部)に設置された調整委員会等に掃海派遣部隊から連絡幹部を派出し、各国の派遣部隊との緊密
な連絡・調整を行うこととなった。また、海幕から連絡要員を現地在外公館に派遣し、掃海派遣
部隊の掃海業務及び後方支援にかかわる調整及び連絡に当たらせることとした。
作業実施中の補給地及び整備根拠地は、後述する事前調査の結果を反映し、ミナ・サルマン(バ
ハレーン)を基本とし、予備地をダンマン及びカフジ(サウジアラビア)、ドーハ(カタール)
並びにアブダビ及びドバイ(アラブ首長国連邦(UAE:United Arab Emirates、以下「UAE」
という。)
)とした。
また、諸計画を策定する上で、行動期間を特定することは極めて重要ではあるが、今回の作業
の特質上、事前に決定し得ないので、取りあえず現地での作業期間を約 3 か月と見込み、進出・
帰投を合わせ、約 160 日間の行動期間を設定した。現地での作業が何らかの理由で長期化する
場合は、作業開始後 3 か月を基準として、艇長を含む掃海艇乗員の半数を交代させ、その他の
隊員は原則として交代させないこととした。一方、派遣艦艇そのものは基本的に交代させること
なく、全期間を通じて運用することとした。
ペルシャ湾へはそれぞれの定係港から出港し、奄美群島付近で集結した後に進出することとし、
運航上の安全を確保しつつも、極力速やかな掃海作業海域への進出を最優先し、帰投についても
これに準ずることとなった。進出・帰投の際の寄港地としては、スービック(フィリピン)、シ
ンガポール(シンガポール)、ペナン(マレイシア)
、コロンボ(スリランカ)
、カラチ(パキス
タン)及び前述の湾岸諸国寄港地が選定された。
各部隊の任務として、自艦隊及び派遣部隊には「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理」

関係の横須賀・呉・佐世保各地方隊には「派遣部隊にかかわる後方支援」、中通群には「自艦隊
の実施する通信への支援」の実施が付与された。
また、本掃海業務の終結は、別令されることとなった。

4 掃海作業実施構想
■掃海業務
上述の基本構想に基づいて、掃海業務に関しては、既に合意が得られている共通コンセプトは
これを受け入れることとした。また、必要とされる場合には、付与された権限の範囲の中で、掃
海派遣部隊指揮官と各国派遣部隊指揮官との調整により、各国海軍の派遣部隊と協力して掃海作
業を実施することとした。さらに、掃海艦艇及び人員の安全を最大限に考慮しつつ、機雷が敷設
された可能性のあるすべての海域を対象として、技術的に可能な限り作業を実施することとした。
この方針事項を受けて、掃海作業の細部は、①各国海軍の派遣部隊との機能分担、海域分担を
行っての協力作業とする。②イラクが停戦間際に行った浮流機雷対策のため、作業は原則として
昼間のみ実施する。③危険海域内の掃海作業は、掃海艇に危害を及ぼすおそれのある機雷排除の
ため、原則として米海軍の掃海ヘリコプターの支援を得て前駆掃海を実施する。④掃海作業の優
先順位は、水路、泊地の順とする。⑤原則として掃海艇 3 隻が作業に従事し、残る 1 隻は、2 週
間間隔で順次交代し、整備根拠地において整備・補給等に従事する。⑥掃海艇の作業周期は、原
則として 7 日間サイクル(5 日間:掃海作業、2 日間:補給整備等)とする。などが定められた。
■不測事態への対処
不測事態対処構想は、「教育訓練等のために海外に派遣する海上自衛隊の部隊及び隊員の遵守
(海幕総第 2523 号。昭和 41 年 6 月 2 日)によるほか、行動海域
すべき事項について(通達)」
の特性を考慮した対処構想に基づくこととした。また、本行動に関する関係省庁との連絡・調整
は内局が実施し、これに基づく外務省・海上保安庁等との細部調整、本行動に関する関係国海軍
との連絡・調整は海幕が実施することとなった。
■後方支援
管理後方の方針事項は、前述したほか、掃海作業実施中の掃海艇への補給は掃海母艦により、
掃海母艦に対しては補給艦による泊地補給を原則とし、補給艦は補給地において補給等を実施す
るといった基本方針が定められた。また、部隊内で対処不可能な被害や故障が生じた場合の対策
として臨時に特別移動整備隊を編成し、必要に応じ民間航空機により整備地に進出し、掃海艇等
の機関等の修理・整備に当たることとなった。
補給については、補給優先順位にかかわる任務区分、補給品保有基準、所要資材搭載基準、進
出時の補給計画等が策定された。また、上述の掃海業務実施中の補給細部要領として、補給艦は
補給地と作業海域を往復し、おおむね 7 日に 1 回の周期で掃海母艦への補給を実施し、掃海母
艦は掃海業務実施海域の近傍の安全な泊地等において掃海艇への補給を随時実施することとな
った。
整備・造修については、遠隔地であることから乗員整備を強化し、故障の未然防止及び早期発
見に努めるとともに、自隊の整備・造修能力を全幅活用し、装備機器の全能発揮に努めることと
した。特に、行動海域の特徴である高温・多湿な大気や砂塵による影響、あるいは塩害に十分留
意することとし、掃海艇の機関の点検等、比較的規模の大きな整備作業は、補給・整備地におい
て実施することとした。また、事前に収集した情報に基づき必要となった特設器材は、官民の総
力を挙げて極力出発までに仮装備されることとなった。
医務・衛生については、特に、行動海域の特性上、高温・多湿な大気条件下での長時間の業務
遂行となることから、可能な限り乗員の休養についての対策を取る一方、環境の変化に対応した
隊員個々の健康管理を強化するとともに、傷病者の発生の予防、的確な健康状態の把握、迅速か
つ適切な処置により可動人員の減耗防止に努めることとした。また、傷病者の処置は極力自隊で
実施するものとし、これにより難い場合は、沿岸国及び関係国海軍の支援を受けることとした。
なお、不幸にも後送を要する死傷病者が発生した場合は、状況に適合した処置が必要となること
から、その都度指示することとした。
■人 事
前述したとおり、派遣部隊の充足率を原則として 100%とし、また、派遣部隊司令部の強化を
図るため、第 1 掃海隊群司令部を基幹として、幹部は、警務、広報、情報、語学、掃海(2 名)、
整備(4 名)の各幕僚及び医官(4 名)を増員する一方、訓練幕僚を減員して計 13 名の増員と
した。准曹士は、警務(2 名)、広報、衛生(4 名)及び水中処分(2 名)を増員する一方、監理
及びデッカ員(3 名)を減員して計 5 名を増員した。また、掃海隊は、各隊共隊司令のほか運用
幹部 2 名、通信員 1 名の 3 名編成に縮小し、「ときわ」は、補給士 1 名を増員した。
■広 報
自衛隊初の海外派遣という国内外の耳目を集める事柄であることから、積極的な広報を行うべ
きとする意見と、慎重な姿勢に徹すべきとする意見が対立した。結局は、任務に支障の無い範囲
で積極広報を心掛けながらも、現地取材等については各種の制限を設けることで方針が決まった。
この結果を受けて、広報計画は一元的に海幕が作成し、派遣部隊への取材は原則として代表取材
とし、現地における取材要望に対する具体的対応は派遣部隊指揮官の所定となった。この際、外
国政府及び軍隊との広報活動に関する調整は、外務省・防衛庁(内局及び海幕)で実施すること
となった。一方、派遣部隊隊員に対する公表や隊員家族に対する広報は、海幕の指示に基づき派
遣部隊や各総監部において実施することとなった。
■指揮・調整
自艦隊司令官の指揮の下、派遣部隊指揮官(第 1 掃海隊群司令)は本行動の実施に関し派遣
部隊を指揮することとし、また、派遣部隊と各国派遣部隊との関係は協同の関係とすることとし
た。
■通 信
遠隔地であることと、国家又はこれに準ずる集団等による妨害的通信情報活動に留意した措置
が執られたほか、他省庁や現地在外公館との通信について、細部実施要領が定められた。

5 掃海業務実施計画
前述した計画・構想を受けて、掃海派遣部隊指揮官から掃海業務の実施に関する部隊レベルの
計画(派遣部隊般命第 1 号 平成 3 年 4 月 24 日)が示された。
基本方針としては、安全を最大限考慮した掃海作業を実施することとし、掃海作業・整備・休
養の均衡を保つとともに、適切な後方支援により長期掃海業務に耐え得る態勢をとることが強調
された。また、現地の米海軍を始めとする各国派遣部隊との連絡・調整及び情報交換を密にして、
安全で効果的かつ効率的に掃海作業を実施すること、並びに掃海作業は原則として掃海艇 3 隻
同時運用で実施することが示された。
安全を考慮した掃海作業実施のため、ペルシャ湾進出後、①安全海面において掃海作業の事前
訓練を実施し、諸条件を把握した上で実作業に臨む。②浮遊(流)機雷の危険を避けるため、原
則として掃海作業は日中に実施する。③掃海艇の安全確保のため本格的な掃海作業実施前に前駆
掃海を実施する。④水中処分員による水中処分は特令による。⑤航掃法は原則としてストリップ
航掃法とする。⑥正確な環境データの把握や敷設情報の入手に努める。などが示された。
掃海作業の実施順序は、前駆掃海、探索掃討、航法基準ブイ(MRB)の設置、係維掃海、次
いで複合掃海の順とし、以後、係維・複合掃海を繰り返しつつストリップ航掃により順次拡大し、
状況により、機雷掃討による逐次掃討を実施して全機雷の排除を図ることとされた。
掃海作業の評価要領は、処分機雷数、処分状況の実績と事前に得ていた機雷情報、初期見積り
等を比較・分析して総合的に評価することを原則とし、係維掃海は既掃面図法により、感応掃海
及び機雷掃討は実地の環境条件と機雷情報に基づく統計評価法によることとした。
機雷防御は、浮遊(流)機雷対策として、ペルシャ湾内行動中の目視見張りを厳格に実施する
こと、掃海作業及び危険海域周辺での行動は日中に限定し、かつ使用速力を制限することを方針
として定め、浮遊(流)機雷の処分要領を策定した。掃海作業中の被害未然防止対策は、消磁装
置への通電及び音響管制を厳格に実施するとともに、探知目標や射撃処分時等の離隔距離は 200
ヤード以上、爆破処分時は 500 ヤード以上とした。また、掃海作業中における被害の局限を図
るため、非常閉鎖や非番直員の指定場所での待機を厳正に実施するほか、機雷処分時の被害調査
の徹底、万一触雷した場合の被害局限のための対処要領を策定した。
磁気測定は、出国前には良好な結果を得てはいるものの、約 1 か月にわたる長期間、ほぼ同
一方位を針路とする航行を経ての掃海作業となることから、現地到着後、掃海艇に対して改めて
磁気測定する必要があった。このため、現地の状況が不明確なこともあったので、移動式船体磁
気測定装置を搭載し、必要の都度、磁気測定を実施し得る態勢を整えた。
掃海作業中の適用航法は MRB 航法を主用とし、音波ログ航法を補用とするほか、地理的位置
の確認や決定には衛星航法装置(GPS:Grobal Positioning System、以下「GPS」という。
)を
主用することとした。また、潜水管理は特に厳格に作業要領を定め、既定の作業標準等の遵守を
促すとともに、すべての潜水作業は派遣部隊指揮官の許可を必要とするなど、不慮の事態を生起
させないよう厳格な作業基準の下で臨むこととした。

6 出国準備
ペルシャ湾への掃海部隊派遣に伴う具体的な準備作業は、海幕内に設置された「ME プロジェ
クト」の研究成果に基づいて進められ、いったん下命があれば短期間で諸般の準備を完成し得る
態勢が取られていた。3 年 4 月 16 日に長官から準備指示が発令されると、出港までわずか 1 週
間余という短期間であったが、関係各部は計画に基づき集中的に作業を実施し、所要の派遣準備
を完成した。
補給品や所要資材は、派遣部隊の運用期間を約 160 日(現地での作業期間約 90 日)として計
画した補給品保有基準及び所要資材搭載基準に基づき、すべての補給品・所要資材を出港前日の
4 月 25 日までに各艦艇に搭載した。作戦資材、特に弾薬・火工品類は、現地での掃海作業等の
見積りに不確定要素が多々あって所要量の特定が困難であり、資材の性格上、出国後の再補充の
困難性が予想されていたことなどから、掃海作業の選択肢として可能性のあるすべてのケースを
想定して見積りを行った結果、やや余裕を持った搭載量となった。この際、弾薬・火工品類、予
備掃海具等の一部は、海上自衛隊全体の保有量も限られていたことから、補給所間や他の艦艇か
らの管理換えを行った。また、厚生物品・資材・個人用免税品等は、部隊要望を極力取り入れ搭
載した。
特設器材は、計画した一覧表に基づき、秘話通信装置や民用 GPS 等を装備したほか、派遣部
隊の要望や後方支援部隊の提言も極力受け入れ、次の特設器材が装備された。すなわち、①掃海
艇有人区画天井への衝撃緩衝用クッション材、②掃海艇甲板上の防暑テント用スタンション及び
キャンパス、③掃海艇艦橋内の衝撃緩衝用立直員固定椅子、④掃海艇 CIC 及び電信室へのユニ
ットクーラー、⑤掃海艇乗員用ベッドの増設、⑥掃海艇の防塵対策、⑦掃海艇搭載艇のリブ型へ
の換装、⑧掃海艇乗員用戦闘帽の軽量型への換装、⑨掃海艇膨張式救命筏の甲型(第 1 種)へ
の換装、⑩掃海艇乗員浴室シャワーの増設、⑪水中目標識別器材、⑫派遣部隊司令部用ミニ・コ
ンピュータ、⑬浮遊(流)機雷拘束用ネット等で、派遣部隊や後方支援部隊隊員の創意工夫の産
物であるとともに、海上自衛隊 OB や掃海艇関連メーカーの絶大な協力・支援の賜物であった。
なお、これらの装備の特設による船体磁気への影響が強く懸念されたが、ドバイで実施した磁気
測定の数値は各艇とも基準値以内であったため、全て特設したまま掃海作業に臨むこととなった。
派遣隊員の出国手続は、海外派遣訓練の参加機会が少ない掃海部隊にとって初めての経験とな
ったが、海上自衛隊が長年にわたり蓄積してきたノウハウを活かし、また中央及び地方の関係官
庁の理解ある協力を得て、短期間に漏れなく実施することができた。

3 掃海部隊の行動
1 行動概要
■日 程
掃海派遣部隊は、4 月 26 日に横須賀・呉・佐世保から各々出港し、奄美群島において合同し
た後、ペルシャ湾に向かった。
掃海派遣部隊は、進出途中、真水・糧食・燃料の補給のため、スービック(フィリピン)、シ
ンガポール、ペナン(マレイシア)
、コロンボ(スリランカ)
、カラチ(パキスタン)を経由し、
5 月 27 日 UAE のドバイに入港した。以後同月 30 日までは、同地において補給、船体及び装備
の点検整備、掃海艇の磁気測定(英海軍がドバイ港内に展開していた磁気測定装置を借用)、所
在各国派遣部隊との調整会議、部隊内研究会等の諸準備作業、事前の掃討訓練等を実施した。
31 日同地発、ペルシャ湾内公海上で各種の事前掃海訓練を実施しつつ掃海海面に至り、6 月 5
日から 9 月 11 日までの 99 日間にわたり、主としてペルシャ湾の北部海面において、米国及び
他の多国籍軍派遣部隊と協力して掃海作業に従事した。
■部隊の体制
ペルシャ湾の機雷敷設海域には、2 月 28 日の戦闘停止直後から、米・英・ベルギー・サウジ
アラビアの 4 か国海軍の派遣部隊が展開し、掃海作業に従事していた。また、仏・独・伊・蘭
の 4 か国も、3 月上旬には掃海部隊派遣を決定し、掃海派遣部隊が出発する 4 月末には、これら
8 か国の多国籍部隊による掃海作業が進捗していた。
掃海作業は、アラビア半島からの砂塵やクウェイトの油井火災による煤煙が舞い、日中の最高
気温が 40 度以上にも達する過酷な環境条件下で行われた。特に、多国籍部隊に遅れて参入する
こととなった掃海派遣部隊には、技術的に極めて困難な海面が割り当てられる結果となり、石油
パイプライン等の厄介な障害物が多い上に水深が極めて浅く、潮流の早い、水中視界も不良な場
所が多く含まれていた。
しかし、掃海派遣部隊は日ごろの訓練の成果を遺憾なく発揮し、過酷な環境条件を克服し、技
術的に可能な限り精緻かつ濃密に、3 か月余りに及ぶ掃海作業を遂行した。掃海艇の運用は、当
初計画では「3 隻運用、1 隻整備補給」としていたが、現地の過酷な自然環境への対応、整備補
給の効率等を考慮し、
「4 隻同時運用、4 隻同時整備補給」 「All-on All-off」に改める
、すなわち、
こととした。これにより、全作業期間を通じ隊員の人身事故は皆無であり、また船体や武器等に
行動に影響を及ぼす損傷も無く、掃海作業は順調に経過していった。
機雷の爆破処分と見守る掃海艇

■対象海域
掃海派遣部隊が参入した時点では、既に約 1,000 個の機雷が処分されており、残りは 200 個
程度と見積もられていた。しかし、これらは手付かずのまま掃海作業の難しい海面に残されてい
るものと考えられ、米海軍の現地指揮官テーラー少将の「最初の 100 個に比べ、最後の 100 個
の機雷の捜索は極めて難しいものとなる。」との言葉どおり、それ以前の作業とは比較にならな
いほど困難を極める作業となった。しかし、掃海派遣部隊は計 34 個の機雷を発見・処分し、他
国掃海部隊によるものと合わせ、イラクが敷設した機雷のほぼすべてを処分することに成功し、
与えられた任務を見事に完遂した。
掃海作業には、日本のほかに、前述の 8 か国の多国籍軍海軍部隊が参加し、9 か国艦艇の総数
は、ピーク時には、掃海艦艇 29 隻、支援艦艇 10 隻に達した。また、掃海作業の対象海域は、
①停戦後イラクの告白による機雷敷設海域情報に基づく機雷危険海域(MDA:Mine Danger
Area、以下「MDA」という。
)第 5 から第 10 までの 5 海域、②クウェイト主要港に接続する航
路及び主要泊地、③機雷残存の恐れのある他の MDA や航路・泊地及びその周辺海域に大別され
ていた。
■掃海作業の実施
掃海派遣部隊は他国海軍との調整の結果、参入後取りあえず米国が担当していた MDA-7 の
一部を分担した。これは、当海域は、①掃海派遣部隊が現地掃海作業に慣熟するのに適した海面
である。②米海軍から掃海ヘリコプターによる前駆掃海の協力が得られる。③比較的早期に可視
的な成果(機雷処分)が期待できる。ことなどを理由とした。掃海派遣部隊は、当該海域におい
て計 17 個の機雷を処分するなどの成果を上げ、参入後、1 か月余り経過した 7 月 20 日までの
間に、ペルシャ湾北部の MDA-10 を除くほぼ全海域の掃海作業を終了した。これを契機とし
て、西欧同盟(WEU:Western European Union、以下「WEU」という。)の英・仏・独・伊・
蘭・ベルギーの各部隊は、
「クウェイトへの船舶航行の安全確保のための掃海作業は、現在の掃
海技術で実行可能な範囲まで実施された。残された MDA-10 は、国連加盟国等に対しクウェ
イト再建のための行動を取るよう呼び掛けていた「決議第 686 号」の付託の範囲外である。
」と
の見解を示し、掃海終了宣言を発出して掃海作業を打ち切り帰国した。
日本と米国はこれに対し、「ペルシャ湾における船舶の航行の安全を確保するためには、引き
続き、MDA-10 の機雷の除去、クウェイト沖の航路等の安全確認のため、現在の掃海技術で実
行可能な範囲まで掃海作業を行う必要がある。
」とし、MDA-10 及びクウェイト沖の航路等に
おいて、9 月 11 日まで協力して掃海作業を継続した。掃海派遣部隊は、この間、MDA-10 に
おいて新たに計 17 個の機雷処分の成果を得た(クウェイト沖の航路等での機雷処分は無かっ
た。
)。さらに、サウジアラビア政府の要請に基づき、独自でカフジ沖の油井に至る航路の安全確
認を実施した。
■寄港先
掃海作業の期間中、補給・整備・休養等のため、UAE のドバイ及びアブダビ港、バハレーン
のミナ・サルマンに寄港した。また、イラン及びクウェイト両国の要請により、イランのバンダ
ル・アッバス港(8 月 22 日から 24 日)及びクウェイトのアル・シュワイク港(9 月 4 日から 6
日)に寄港し、友好親善に寄与した。
■掃海作業の終了
9 月 11 日の掃海作業完了後、ミナ・サルマン、アブダビ及びドバイ港で帰国準備をした後、
23 日にドバイを出港、マスカット(オマーン)、コロンボ、シンガポール及びスービックを経由
し、10 月 28 日夜半に広島湾小黒神島沖に到着、同地仮泊中に入国手続等を実施し、30 日呉に
入港した。翌 31 日に部隊を解散し、横須賀及び佐世保の部隊は、それぞれの定係港に帰港した。

2 現地事前調査
■調査団の派遣
本業務は、海上自衛隊はもとより、自衛隊にとって初めての海外派遣実任務であった。当時は、
依然として対イラク海上封鎖が多国籍軍により継続実施されているなど、緊迫感の残る状況下に
あり、その中で、米国を中心とする多国籍掃海部隊により北部ペルシャ湾での掃海作業が継続さ
れていた。
このような背景もあり、掃海部隊のペルシャ湾到着に先立ち、現地の実状調査と湾岸諸国に対
する協力要請のため、5 月 4 日から 17 日までの間、海幕、内局及び外務省から成る調査団を関
係湾岸諸国に送ることとなった。海幕からは、防衛部長以下、防衛班長、後方計画班長、教材班
長が、内局運用課長や外務省中近東 1 課首席事務官等とともに派遣された。その結果、現地在
外公館はもとより、調査先国関係当局や所在米海軍部隊等の全面的支援の確約を得ることに成功
し、所期の目的を達成した。
■関係国との調整
UAE では、当初念頭に置いていたアブダビに加え、ドバイ及びジュベル・アリ港を調査した
が、ドバイ港において英海軍の磁気測定施設の利用が可能であることが判明して、難問が解決す
る見通しが立ち、同港を最初の寄港先とすることが決まった。バハレーンでは、米海軍や WEU
部隊の主用根拠地であるミナ・サルマンの調査を行い、当初計画どおり、同港を掃海派遣部隊の
作業期間中の主用根拠地とすることで、同国関係当局の全面的支援の約束が得られた。
また、UAE 及びバハレーンでは、米中央軍海軍司令官(米海軍中東艦隊司令官)テーラー少
将や米海軍掃海部隊指揮官ヒューイット大佐等との数次にわたる会談を通じ、多国籍掃海部隊で
合意されている掃海作業基本構想と、従来までの掃海作業実施状況を把握する一方、掃海派遣部
隊の派遣目的や掃海作業に臨む基本構想についての理解を得た。この会談を通じ、到着後の当面
の担当海域等について大筋の合意を得るとともに、造修・整備等の後方支援に関し所在米海軍か
ら全面的協力・支援が得られることを確認した。
5 月 7 日、UAE 沖の米艦「ラ・サール」艦上で実施された第 3 回 MACOM(多国籍軍の海上
指揮官会議)に事前調査の一環として防衛部長と防衛班長が臨席(内局運用課長同席)し、掃海
派遣部隊の基本構想等の理解を得るとともに、所要の調整を実施した。サウジアラビアでは、後
方計画班長等がクウェイト国境に隣接するカフジに赴き、掃海作業予定現場と至近距離にある同
地の環境状況等を詳細に観察した。また万一の負傷者発生時の緊急後送地として、同地の医療能
力等の調査を実施したほか、同国海軍からの全面的支援・協力の約束を得た。カタールでは、ド
ーハ港を調査し、補用根拠地としての所要の情報と、同国関係先からの支援・協力の約束を得た。
■調査結果の反映
これらの調査結果は、掃海派遣部隊の実施する掃海作業に関する基本事項の策定に反映(掃海
部隊がカラチに入港する際、教材班長を派遣する。)された。また、他国海軍部隊との相互支援
問題解決のための所要の行政措置(事務次官通達「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理
の実施時における他国艦艇等への液体燃料の貸付について」平成 3 年 6 月 20 日)を促すととも
に、ペルシャ湾での派遣期間中、現地において調整連絡に任ずる連絡幹部(便宜のため、外務事
務官との併任)の派遣決定に寄与することとなった。
■外交上の問題点
事前調査の結果、外交上二つの難問があることが判明したが、これらへの対応策を検討する過
程で、外務省・内局・海幕の三者間で、任務の完遂に向け一致協力して難事に当たろうとする気
運が醸成された。一つは、掃海作業終結に向けての関係国との対応であった。WEU 部隊の掃海
作業が最終段階を迎えつつあることが判明したため、WEU を含む各国海軍の掃海作業終結の時
期と、WEU が発するであろう掃海作業終結宣言は、以後掃海派遣部隊が掃海作業を進めていく
上で、極めて微妙かつ甚大な影響を与えることが容易に予想された。このため、三者間では、湾
岸各国との関係を含め、事態の推移に応じ適切に対応する必要があるとの認識で一致し、以後緊
密な連携を取りつつそれぞれの関係先との調整を進めていくこととなった。
もう一つは、掃海派遣部隊が今後担当することとなるであろう MDA-10 は、その一部にイ
ラン及びイラクの領海を含む可能性があり、またクウェイト沿岸の掃海対象海域にも同国領海が
含まれることから、これら関係国の同意を得る必要が生じたという問題であった。特に、イラン
との正常な国交関係を有していない米国には、日本に対する大きな期待があったため、事前調査
の直後から、外務省を通じての対イラン外交折衝が鋭意推進されることとなった。

3 安保理決議に基づく共同終了宣言と日米部隊の掃海作業
6 月に入り、WEU 諸国は「決議第 686 号」に基づくクウェイトの復興促進を目的とした掃海
作業を 7 月下旬には終了させたいとして、掃海作業の共同終了宣言発出に向けての動きを活発
化させるようになった。このため、ペルシャ湾北部に残された MDA-10 の掃海作業が「ペル
シャ湾における(我が国)船舶の航行の安全確保のために不可欠」とする、海上自衛隊や米海軍
の主張を同宣言に反映させるための調整は、困難を極めた。
しかし、日米が緊密に連携し、加えて英海軍の建設的な提案もあり、最終的には双方の主張を
取り入れた形での共同終了宣言が発出された。すなわち、WEU の主張を受けて、「MDA-10
は安保理(決議第 686 号)の付託の範囲外」としつつも、
「この海域の掃海作業が現在継続して
実施されている。」ことが明記され、WEU にとっては掃海作業終了の、日米にとっては同作業
継続の根拠を与えるものとなった。また、このことは、日本にとっては MDA-10 のみならず
クウェイト沿岸等の掃海作業の実施にも支障を与えないとする根拠となった。
本問題に関し、海幕は、最終案が提案された 6 月 30 日の対機雷(MCM:Mine Counter
Measure)調整会議には防衛班長を、また国内での検討結果に基づき 7 月上旬には運用課長を、
現地に派遣して調整を行わせるなど、それぞれ現地の掃海派遣部隊と調整しつつ、事態の処理に
当たった。
一方、日米の部隊による掃海作業の終了時期は、現地の掃海派遣部隊と米海軍部隊との調整に
より、その時期を一致させることが最も重要との相互認識の下、9 月中旬を目途とすることで合
意が得られていたところ、前述のとおり、7 月下旬には MDA-10 の掃海作業に不可欠の条件と
なっていたイラン及びイラクからの領海内立入への同意が得られたことから、以後の掃海作業の
見積りが可能となった。この結果、米海軍との調整を経て、9 月 10 日をもって掃海作業を終了
することについて長官の承認を得た。

4 MDA-10 及びクウェイト沿岸の掃海作業に伴う関係国との折衝
前述のとおり、MDA-10 及びクウェイト沿岸の掃海作業に際し、日本が、当事国であるイラ
ン、イラク及びクウェイト 3 か国からの同意を取り付けることが不可欠であると認識していた
のに対し、現地米海軍部隊は当初、掃海派遣部隊を多国籍軍の一員と理解し、イラクとクウェイ
トから改めて同意を得る必要は無いとの考えを持っていた。このため、米側の説得に多少の時間
を要したが、最終的には理解されるところとなった。一方、前述したごとく、イランからの同意
の取付けについてはその必要性を認めており、正常な国交関係を有していない米国としては、日
本側の外交折衝に期待するところが大であった。
イランとの折衝は早い時期から始められたが、掃海派遣部隊の参入後、約 1 か月が経過した 7
月 20 日に至り、ようやくイラン政府は、イラン軍の代表者を立ち会わせること、日本の掃海作
業をいかなる政治的プロパガンダにも利用しないことなどを条件に、掃海派遣部隊の領海立入り
や掃海作業の実施について同意すると申し越してきたため、これらの条件を受け入れる旨回答し、
イランの同意取付けが成立した。また、7 月下旬には、イラン政府から同国バンダル・アッバス
港への寄港が招請されたので、外務省との調整により、外交上の観点からこれを受け入れ、時期
については MDA-10 掃海作業終了後(8 月 22 日から 24 日)とすることとした。なお、イラ
クからは 7 月 25 日に、クウェイトからは 8 月 12 日に、領海内での掃海作業を認める正式な回
答がなされた。

5 クウェイト寄港及びカフジ沖の掃海作業
8 月 7 日、バハレーン訪問中の黒川在クウェイト日本大使から掃海派遣部隊指揮官に対し、ク
ウェイト寄港の可能性について打診があった。このため、外交ルートによる正式な招請の取付け
を前提としつつ、掃海作業全般の進捗に支障の無い時期を検討し、後述するカフジ沖掃海作業と
の兼合いから、9 月 4 日から 6 日まで「ときわ」を除く全艦をアル・シュワイク港に寄港させる
ことで計画を進めることとした。しかし、外交ルートによる招請は一向になされず、海幕からの
要請による外務省からの督促により、ようやく前日の夕刻になって招請が到着し、クウェイト寄
港が実現した。
クウェイトが湾岸戦争終結直後に、ワシントンポスト紙の全面を使って謝意を表した広告には、
クウェイト解放に貢献したすべての国の国旗が掲載されていたが、日本だけは外されていた。こ
れに対し多くの日本人は憤慨するが、総額 130 億ドルの金銭的貢献という事実は、残念ながら
クウェイトという国に認識されていなかったか、又は評価されていなかったのである。しかし、
クウェイトは掃海派遣部隊の人的貢献に接して、日本への感謝の意を明確に表明するようになり、
掃海派遣部隊はクウェイト入港に際して熱烈な大歓迎を受けた。そして、クウェイトで目の当た
りにしたのは、日本の国旗が新たに他国に加わって印刷された記念切手であった。
一方、かねてより、日本、サウジアラビア及びクウェイトの 3 か国合弁事業であるアラビア
石油が、カフジ沖の同社海上油井付近海域の掃海作業を要望していることが海幕等に間接的に伝
えられていた。当該海域は MDA の外側にあり、掃海作業を協同で実施するに際し、各国掃海部
隊が合意していた掃海作業基本構想の中では最も優先順位の低い範ちゅうに属しており、各国と
の協調を最優先とする方針から、当初、掃海派遣部隊の掃海作業の構想外に位置付けられていた。
その後、バハレーンを訪問した恩田在サウジアラビア日本大使からも、掃海派遣部隊指揮官に対
して、サウジアラビア政府が掃海作業を要請する旨の意向が伝えられ、検討の結果、外交関係を
考慮して可能な限り本要請に応えるため、作業全般に支障を与えない程度の掃海作業を実施する
ことに決した。掃海派遣部隊は、クウェイト訪問終了後の 9 月 6 日から 8 日の間、掃海艇 4 隻
により、カフジ港から沖合の同社海上油井区域に至る作業船常用航路等に機雷が存在しないこと
を確認する作業を実施した。
記念切手

6 MDA-10 北端の浅海面(水深 10m 以浅)での掃海作業


MDA-10 での掃海作業は日米掃海部隊のみによって行われ、両部隊は海域を分担し、8 月中
旬まで技術的に可能な限りの濃密な掃海作業を実施した結果、掃海作業実施海面に残存する機雷
は無いものと判断するに至った。しかし、現実には、MDA-10 の北端には、掃海派遣部隊の装
備では対処困難な(技術的限界を超える。)水深 10m 以浅の浅海域が存在しており、未処理の機
雷が存在する可能性がまったく無いとは言えない状況であった。
このため、この部分の約 1,600 ヤードは手付かずのまま残ったとして、現地の米海軍部隊や国
務省筋から日米共同による確認作業の実施に関する申入れがあった。これに対し日本側は、技術
的検討結果等を論拠に必要性の無いことを主張して米側の説得を試みる傍ら、一方において、日
米共同による作業について、イランの同意を求める外交折衝を日本側のイニシアティブにより実
施しつつ、9 月 10 日の終了予定日以降の作業に備えての対策を立てていた。しかし、日本側の
申入れは、イランの同意を得られぬまま推移し、ついに作業終了予定日当日の 9 月 10 日、日本
時間の深夜になって、イラン側から領海内における日米共同の作業を認めないとの最終回答が到
着したため、米側も承諾せざるを得ず、MDA-10 の日米共同掃海作業の終結に同意し、これを
もって掃海派遣部隊の掃海作業はすべて終了した。
4 派遣掃海業務等の総括

1通 信
掃海派遣部隊の実施した通信を態様別に見ると、部隊内通信、対米通信(対米通信を通じた米
国以外の諸国との通信を含む。
)、対本国との通信及びその他の通信、に区分できる。
部隊内通信は、基本的に平素の訓練・業務の延長線上にあり、特筆すべき点は無かった。対米
通信は、経験を有する特技員が数名に限られていたため、出国前の準備作業の期間を利用して事
前教育を実施したほか、ペルシャ湾進出期間中に部隊内訓練を反復実施して習熟させ、現地到着
後は、現地米海軍部隊との打合せや事前チェック等を行い、万全の態勢で臨んだ。
問題は、対米通信や対本国との通信の回線確保であった。掃海派遣部隊の実施する通信の中で、
情報交換や調整等の対米通信や対本国との通信といった重要かつ頻度の多い通信は、通信回線の
限られた国際海事通信衛星(「インマルサット」)に頼らざるを得ず、結果的に電報処理の通信費
消時を増加させるとともに、通信員の負担を増大させることとなった。特に「はやせ」のインマ
ルサット用アンテナは、装備位置の関係で電波が構造物に遮られる場合が多く、最初から最後ま
で、非常に厄介な問題となった。
その他、独海軍ヘリコプターへの燃料補給に当たり、行動予定等の連絡調整用としてインマル
サットの FAX が使用されたほか、現地在外公館や連絡幹部との通信にもインマルサットが多用
された。一方、機雷処分警報や艦船の横付け作業に際しては他国艦船との間で、また港湾への出
入港に際しては港湾当局との間で、国際 VHF が用いられた。

2 造修整備
■自隊造修整備能力
掃海派遣部隊が任務を完遂し得た主たる要因の一つには、派遣中に装備品等の能力を全力発揮
させたことが挙げられる。本行動の全期間を通じて、任務達成に影響を及ぼすような大きな損傷
や故障は生起せず、常時 100%の可動率を維持できたことは、自隊造修整備能力の高さを示すと
ともに、事前の準備・計画・実施の各段階において実施した造修・整備支援の成果に負うところ
が大きい。
派遣中の故障・不具合の発生件数は 315 件に上るが、このうちの 98%、310 件は自隊整備で
処置し、現地や寄港地での業者修理を要したのはわずか 2 件にとどまった(任務行動に支障の
無い未処置事項 3 件は帰国後処置された。)

■出国前の準備
期間中に可能な範囲でなし得る検査・修理を行ったほか、特設器材等が装備され、司令部幕僚
部が充実された。夏季ペルシャ湾における連続掃海作業という過酷な条件下で何よりも心配され
たのが主機関や主発電機であったが、進出時のスービックからシンガポールへの航海中、特に高
温度環境(海水及び気温)が連続運転に与える影響を調査し、以後の使用速力の決定や、主機関
及び主発電機の整備所要見積りに反映させた。
■掃海作業の準備段階
司令部から部隊内整備調整会議の定期的な実施等による乗員整備体制の強化の方針事項を示
すとともに、劣悪な作業環境下(砂塵、高温の大気、高温・高濃度の海水、流出油に表層を覆わ
れた海面等)にある現地での装備品等の長期連続使用を考慮し、効率的かつ合理的な部隊及び個
艦(艇)の整備計画並びに乗員整備による予防整備の標準を策定した。
■掃海作業の実施段階
策定された整備計画に基づき乗員整備体制の維持・充実を進める一方、以後の整備計画の改善
や将来への教訓事項等を得るため、主機械や主発電機の運転時数調査、防塵フィルターの比較(日
本/現地調達品)調査、船底調査、EOD ゴムボート用船外機の水中雑音低減の応急措置、木造
船修理能力を備える現地造船所(BASREC:バハレーン)の能力調査等を実施した。
3 経 理
■経費の管理体制
「ときわ」の主用補給基地となった UAE のドバ
現地に派遣された後方支援担当連絡幹部を、
イに常駐させ、掃海派遣部隊の経理・補給に関し全面的に支援させた。連絡幹部と「ときわ」補
給長は、資金前渡官吏及び契約担当官に指定され、掃海派遣部隊に係る経費支出及び契約に当た
った。
今次派遣に要した経費は、掃海派遣部隊が使用した経費及び国内での補給・輸送支援等に使用
した関連経費を積算した結果、約 13 億円(当初見積り約 11 億円)となった(この中には、帰
国後の修理費等は含まれていない。)が、これらの大部分は、補正予算編成に合わせて、3 年度
予算の陸海空自衛隊の大蔵留保額の解除により補填され、また、一部は大蔵省の承認を得て科目
間流用により処理された。
■エージェントによる支援
湾岸地域に長期間所在する掃海派遣部隊にとって、補給活動はもとより出入国・出入港手続等
を円滑に行うため、エージェントの支援は必須となる。特に、
「ときわ」の主用補給基地である
ドバイでは、入港手続としてのディプロマティック・クリアランスを得るために、エージェント
の指定が不可欠と定められていた。今回は、現地大使館の推薦や実績等から、湾岸一体をサービ
スエリアとする GAC(Gulf Agency Company)を選択したが、GAC は UAE 及びバハレーンに
グループを展開させ、あらゆるサービスを支援する態勢を整えていた。支援実績は、艦艇の入港
申請、港湾への立入り申請、パイロット・えい船・係留岸壁等の調整、塵・汚水・廃油等の収集・
廃棄、真水・飲料水の供給、生糧品等の手配等はもとより、舶用品・事務用品の調達・修理、バ
ス便の設定、レセプションの手配等、各般にわたっていた。
■現地銀行への口座開設
湾岸での行動期間中、所要経費を常続的に派遣部隊に送金可能とするため現地銀行に当座預金
口座を開設する必要があった。しかし、UAE には邦銀の支店が無かったため、現地銀行のアブ
ダビ・コマーシャル銀行と交渉し、公金の取扱いに支障のない条件での開設にこぎつけた。一方、
隊員の一部から給与の一部現地支給の要望があり、遠隔地送金や現地出納機関からの直接払い等
につきその可能性や受容性を検討したが、総合的に判断した結果、給与の現地支払いは実施しな
いこととなった。

4 補 給
■補給体制
掃海派遣部隊の実施した補給は、本国への請求補給と現地での調達補給で、補給規模は 1 個
護衛隊群程度の部隊行動に伴う規模であり、態様は派米訓練や遠航と同様であった。すなわち、
補給の実施要領は海上自衛隊が従来から確立してきたものと原則的に変わるものではなく、また
今まで経験してきた補給の範囲を超えるものでもなかった。ただし、実任務であることから、不
測の事態が発生した場合は、補給についても状況に適合した柔軟な対応が必要とされる可能性が
常に存在していた。
補給の特徴としては、請求補給では本国からの遠隔輸送について、調達補給では調達品の品質
判定や劣悪環境下での品質維持についての配慮が必要となることで、今回は顕在化しなかったも
のの、海外派遣の実任務に際しては弾薬類や武器の補給といった問題についても、常に考慮し研
究しておく必要がある。
■現地での補給
出港に間に合わなかった物品は進出中の寄港地に輸送し搭載した。スービック、シンガポール
及びドバイで燃料を搭載したが、品質的に基準を満足してはいるもののややカーボンの付着が多
かった。また、すべての寄港地で真水を搭載したが、コロンボ及びカラチでは飲用不適であった
「はやせ」及び「ときわ」から縦びきでの洋上給水を計 3 回実施した。現地では、「とき
ため、
わ」の主用補給基地として UAE のドバイ及びアブダビの 2 港を選定したが、港湾機能、掃海海
域へのアクセス、物資の調達の容易性、港湾への車両等の立入り規制の程度等を勘案し、ドバイ
を主用することとなった。
現地における補給で最大の問題となったのは、真水の補給であった。ドバイの真水は海水を蒸
留して飲用に適するようにしたもので、水質的にも問題はなかったが、岸壁での給水能力の低さ
(300 トン/日)が問題となった。すなわち、
「ときわ」が掃海派遣部隊への真水補給に要する
平均量は 1 回約 800 トンであり、少なくとも 2 日半の岸壁給水が必要となり、結果的に、真水
搭載の所要時間が「ときわ」による補給サイクルを決定する上でのボトルネックとなった。この
ため、補給時間に制約を受けた状況下では経費増もやむを得ないとして、バージによる給水も併
せて実施することにより対応した。
燃料・潤滑油の掃海艇への補給は、作業効率を勘案し「はやせ」及び「ときわ」の両艦からの
横付け補給を実施し、問題なく経過した。生糧品は、質・量及び価格においてドバイは最適であ
った。掃海派遣部隊の生糧品搭載作業は約 1 時間程度で終了するのを常としていたが、米海軍
を始め他国艦艇においては 1 日がかりの作業となることも珍しくなく、
驚嘆の的となっていた。
修理用部品や予備品は、経験のない過酷な環境下での長期間実作業のため出国前の予想を上回る
状況も現出したことから、一部の消耗品や予備品に不足が生じることとなり、これら予備品等の
請求補給件数は部隊全部で 24 件となった。
燃料の貸付けは、新たに設定された事務次官通達の規程に従い、ドイツ海軍ヘリコプター(Sea
King MK41:HSS-2A と同等)に対し JP-5 を 2 万 3,204 リットル(20 回)、米海軍掃海艦
「ガーディアン」に対し主燃料(軽油 2 号)を 44 キロリットル(2 回)
、支援船にガソリン 1
キロリットル(1 回)を貸し付け、それぞれ現地で返還を受けた。
帰投時は、各寄港地間において「はやせ」及び「ときわ」から掃海艇に対し、計 4 回の洋上
補給(燃料及び真水)を実施したが、進出時の経験と事前の研究により極めて順調に推移した。
■郵便物等の取扱い
日本から送られてくる貨物はドバイの GAC 宛てとし、通関・輸送・保管等の全てのサービス
を委託した。公文書は外交パウチか荷物として輸送し、乗員宛て郵便物の宛先は、当初は各地の
「ときわ」の主用補給基地がドバイと決まってからはドバイ第 2 郵便局留めの扱い
日本大使館、
とした。郵便物の発送は「しらせ」と同様に、郵政省から郵便業務の委託を受けた「ときわ」郵
便局が、切手の販売、郵便物の受取り、消印の押印、ドバイ第 2 郵便局からの発送等の郵便業
務を実施した。

5 広 報
初の海外派遣任務であり、防衛庁、海幕、関係総監部及び掃海派遣部隊が一体となって実施し
た。既述のとおり、司令部に広報担当幹部及び写真員各 1 名を配員し、部隊の活動等について、
現地取材の制限付きではあるものの積極的に広報活動を実施する方針で臨んだ。これらの対応も
あり、内外、特に国内の報道姿勢は、当初は冷ややかなものもあったが、掃海派遣部隊の作業が
進むにつれ次第に好意的になり、機雷処分の実績を上げて以降、その傾向は特に顕著なものとな
った。
隊員及び家族への広報としては、隊内新聞「TAOSA TIMES」の記事及び隊員からのメッセ
ージを海上自衛新聞や朝雲新聞等の関係紙に投稿したほか、特に、留守家族に対して、隊員の活
動状況を記録したビデオや写真集の作成・配布、関係総監部による派遣部隊の現況説明や親睦会
等を実施し、それらを通じて緊密な連携関係を構築することができた。
報道関係に対しては、派遣決定時には海幕長が、出港前には派遣部隊指揮官等が、帰国時には
派遣部隊指揮官が日本で記者会見を実施したほか、現地においては数次にわたる派遣部隊指揮官
の記者会見に加え、現地視察時の機会に統幕議長及び防衛政務次官の記者会見を実施した。また、
6 月中旬に防衛記者会及び雑誌協会の「ぺルシャ湾における派遣部隊の活動状況」に関する取材
に、8 月下旬には日本テレビの「大追跡」の取材に協力したほか、各寄港地において、内外の報
道関係者の見学取材や乗員へのインタビューに応じた。
また、現地及び寄港地の一部において、在留邦人に対する艦内一般公開を実施したほか、派遣
部隊の帰国後は、派遣部隊指揮官等による取材協力や講演等により、全国の一般国民への広報を
積極的に実施した。

6 医務・衛生
隊員の健康を保つことは任務達成に不可欠の要件であり、ペルシャ湾での行動中は、実機雷に
対する掃海作業という任務の性格上、触雷による大量の負傷者等の発生を常に念頭に置いた態勢
をとって臨んだが、幸いにして懸念された状況は生起せず、任務は完遂された。本行動に伴い、
「はやせ」及び「ときわ」の医務室は厚生省から診療所と認められ、小規模ながら内科・外科・
歯科の診療機能を有した艦艇医務室としての業務を遂行した。このため、司令部に医官等 4 名
(外科、内科、歯科、薬剤科各 1 名)及び衛生員 4 名が増員された。
本行動の特徴を医務衛生の面から見ると、過酷な自然環境下で危険を伴う実任務に長期間にわ
たって従事するという状況の中で、結局 2 名の隊員が健康を損ね途中帰国したが、他の隊員に
ついては健康を維持することができた。
行動期間中の診療実績を患者実日数(延べ患者数)で見ると、延べ 3,784(内入室患者実日数
112)名に上り、平均すれば 511 名の隊員全員が、約 6 か月の行動期間中、毎月 1 回強の割合で
受診したことになる。患者実日数を統計的に見ると、実掃海作業によるストレスの蓄積のためか、
5 月から 9 月にかけて徐々に増加しており、特に胃炎・胃潰瘍等の上部消化器系疾患において顕
著であった。この傾向は、帰途についた 10 月以降激減した。
その他の医務・衛生業務では、潜水病対策や米・独海軍部隊に対する医療支援に加え、現地大
使館の要請により在留邦人の健康相談等を実施したほか、飲料水の水質と下部消化管疾患の相関
関係、現地医療事情、ペルシャ湾岸の環境(砂塵、煤煙、害虫、強い日差しと暑さ等)への対策
等についての調査・研究を行った。

7 諸行事
■出港時
掃海派遣部隊の出港に際し、出港前の 4 月 25 日(横須賀、佐世保)及び 26 日(呉)に海幕
長の視察を実施し、26 日には各関係総監が執行者となり、横須賀・呉・佐世保の 3 か所に分か
れて出港行事が行われた。
出国時点において、ペルシャ湾地域派遣に関して国論は賛否二分されており、少なくとも、官
民挙げて派遣部隊を励ますという雰囲気ではなかった。このことは、出港行事に際し、国防 3
部会や防衛庁関係を除いては、政府高官の見送りが、坂本内閣官房長官(呉)、大島内閣官房副
長官(横須賀)等の少数にとどまっていたのに対し、帰港行事の際は、海部首相を始め中山外相
その他多くの国会議員が参列したのを見れば明らかである。
こういった中で海上自衛隊は、自衛官・事務官・技官の分け隔てなく、全隊員が掃海派遣部隊
に対し、何とかこの困難な業務を成功裏かつ無事に完遂してもらいたいと願うことで一致してい
た。わずか 1 週間余の準備期間で本業務のための準備を完成させたのは、その気持ちの現れで
あった。
■現地滞在中
進出時には何よりもペルシャ湾への早期到着を第一義としたため、各寄港地における在泊期間
は補給・整備のみに限ったことから、現地での行事は現地在外公館や所在海軍部隊指揮官への表
敬訪問にとどまった。ドバイ、アブダビ、ミナ・サルマン、バンダルアッバス、アル・シュワイ
クの各寄港地及び掃海作業実施海面においては、在外公館や所在各国海軍部隊指揮官等への表
敬・相互訪問等をきめ細かく行ったほか、日本から激励・視察に訪れた国会議員、防衛政務次官、
統幕議長等への応接や、掃海派遣部隊指揮官主催の艦上レセプションや現地日本人会主催の慰労
会への出席等にも意を用いて交歓した。帰投時は在泊期間に多少の余裕もあったため、現地在外
公館の要望もあり進出時に比べ綿密なプロトコールを実施した。
■帰国時
10 月 30 日に海部首相出席の下、長官が帰国行事を主催することと決定されたが、行事当日に
帰国したばかりの隊員を長時間拘束することを極力避けるため、前日の 29 日、
仮泊地において、
統幕議長、海幕長、自艦隊司令官、海幕防衛部長等による乗員との懇談を実施し、在日米海軍司
令官ヘルナンデス少将も参加した。一方、呉以外の各定係港においても、それぞれの母港に帰投
した部隊に対し帰国行事が実施された。
30 日の帰国行事は、多数の来賓等からの訓辞や挨拶が続いたが、この中でも取り分け、アル・
シャリーク在日クウェイト大使の感謝の挨拶は、今次湾岸戦争に関する日本の国際貢献への対応
ぶりについての非難や無関心さを、当事国自らの言葉で一掃する内容であった。また、翌 31 日
派遣部隊の解散に際して、落合掃海派遣部隊指揮官は、派遣部隊隊員の労をねぎらう一方、「感
謝の気持ちを忘れない。」
、「誇りは自分の心を磨く糧とする。
」、「常に鍛えて逞しくなろう。」と
いう平易な中にも武人としての在り方を見事に表現したメッセージを訓示として与え、並み居る
隊員や参列者はもとより、本メッセージが伝えられた海上自衛隊各部隊を始め各方面に共感を呼
び、感動を与えた。

8 表彰等
掃海派遣部隊の功績に対し、表彰等、人事・服務面での各種措置が執られた。
部隊表彰は、政府決定に基づくペルシャ湾における機雷の除去及びその処理に当たり、厳しい
環境条件等様々な困難にもかかわらず、周到な準備と綿密な計画により任務を完遂し、ペルシャ
湾における船舶の航行の安全に大きく寄与することにより、我が国の国際貢献の一翼を担うとと
「自衛隊法施行規則第 2 条第
もに、自衛隊に対する国内外の理解と信頼を一段と深めたとして、
1 項第 3 号(職務の遂行に当たり、特段の推奨に値する功績があった部隊等)」に該当すると認
められ、帰国行事当日、首相から同部隊に対し特別賞状が授与された。ちなみに、特別賞状の受
賞は、自衛隊創設以来初めてのことであった。
個人表彰は、それぞれの責任とその業績に相応する賞詞が授与されることとなり、掃海派遣部
隊指揮官落合 1 佐には第 1 級賞詞が長官から、各級指揮官には第 2 級賞詞が海幕長から、また、
その他の派遣隊員に対しては第 3 級から第 5 級までの賞詞がそれぞれの表彰権者から授与され、
結果的に総員が受賞の栄誉に輝くこととなった。
また、この行動を機に、新たに国際貢献記念章が防衛記念章に加わることとなり、派遣部隊隊
員は、賞状・賞詞に対応した防衛記念章に加え、本記念章も併せて着用できることとなった。し
かし、叙勲については、叙勲基準(①非常災害の防止・救難・復旧の功労、②犯罪の予防・鎮圧
の功労、③危険な公務上の殉職、④これらに準ずる者)からして可能性がないわけではないとし
ながらも、過去に例がないことを主たる理由として防衛庁として申請は行わないこととされた。

9 総 括
3 か月余りに及ぶ現地での掃海作業において、掃海派遣部隊は米国及び多国籍軍の掃海部隊と
協力しつつ、過酷な条件を克服し、全期間を通じ、隊員の人身事故や船体・武器等の損傷も無く
見事にその任務を完遂した。その結果 34 個の機雷を処理するとともに、120.8 平方マイルの海
域を掃海することにより、使命である「ペルシャ湾における我が国船舶の航行の安全の確保」を
達成することができた。また、本掃海業務を通じ、我が国の行った最も実質的かつ可視的な国際
貢献として、湾岸戦争により被害を被った国々の復興、ペルシャ湾における船舶航行の安全確保
等に大きく寄与することができた。派遣部隊がその使命を完遂することのできた要因としては
種々挙げられ、また、その幾つかは既に述べているところであるが、あえて要約すれば、次の 3
点となろう。
第一は、
「使命の自覚に基づく士気の高さ」である。掃海部隊派遣決定後の内外の世論の変化、
派遣部隊に対する国民各層からの激励や慰問等を通じ、派遣隊員は本任務の重要性と派遣部隊に
対する国民の期待の大きさを実感し、困難な業務でありながらも士気は終始高く維持された。そ
れは、直接的には海上自衛隊が創設以来連綿と培ってきた良き伝統、平素の教育訓練の成果、適
切な指揮統率等に負うところが大であるが、他方、湾岸戦争の発生以来、掃海部隊の派遣に至る
道程において、海幕を始め自艦隊や関係地方隊が示した献身的な努力や、派遣部隊の任務遂行を
支えた海上自衛隊全体の態勢、あるいは隊員の留守を預かった家族の支え等がその背景としてあ
ったことは言うまでもない。また、見事に任務を完遂した 511 名の派遣隊員に加えて、現地に
おいて部隊の活動を支えた海幕 2 名、内局 1 名の連絡幹部の功績も特筆に値する。
第二は、「米海軍等との緊密な協力関係」である。掃海業務は、米国、WEU 諸国の掃海部隊
及び湾岸諸国の協力を得たことにより、予期した以上に円滑に実施することができたと言える。
特に、日米の派遣部隊は終始緊密な協力関係を維持したが、これは、日米共同訓練等を通じて積
年にわたり築いてきた相互の強い信頼関係によるところが大であった。さらに、今回の日米共同
の成果は、事後の日米(海軍)関係の一層の緊密化に役立つこととなった。
第三は、海上自衛隊の創設以来のモットーである「精強と即応」である。各部隊は平素からこ
の言葉を目標に掲げつつ練成に努めてきたが、掃海部隊の派遣という実任務において、この成果
は十分に立証された。
「精強」にしても「即応」にしても、言うは易くして行うは難く、しかも
一朝一夕にして獲得し得る伝統ではないことから、今後とも地道な努力が求められるゆえんであ
る。
さらに、掃海部隊派遣が成功裏に終了することができたのは、海上自衛隊の他の部隊や防衛庁、
他自衛隊はもとより、その他各方面からの多大な支援や協力があったればこそである。ここでは、
外務省との密接な相互協力、在外公館・現地日本人会・在留邦人の支援協力、海運・造船・商事
会社等、民間企業からの情報・技術支援協力を列挙するにとどめるが、これらは、積年海上自衛
隊が重視し努力してきた、関係省庁・企業・部外者等との良好な人間関係を構築してきた末のた
まものであることを忘れてはならない。

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