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や ま た い こ く

邪馬台国

三世紀の日本には、中国に使いを送っていたくにが三十ばかりもありました。
ま つ ら く に い と く に な く に ふ め い ふ み く に つ ま く に
北九州の末盧国・伊都国・ 奴国、それに場所が不明の不弥国・投馬国 などです。その中で、一

ひ み こ じょおう や ま た い こ く
番大きい国は卑弥呼という女王がおさめている邪馬台国でした。

こくない みだ あらそ
邪馬台国も、もとは男の王がいましたが、七,八、十年もの長い間、国内が乱れて、争

いがたえませんでした。それで、神を祭るのにすぐれた卑弥呼が女王になって、ようやくおさまりました。
うらな
卑弥呼は占 いがじょうずでした。このころの占いは、だれでもできるものでなく、よく神につか

しか かた ほね や わ うらな
える者だけができるものでした。神をまつり、その前で、鹿の肩の骨を焼き、割れめのもようから占 う

ふとまに
もので、太占というわれました。

ぎ し わ じ ん で ん
邪馬台国の都はどこにあったか、はっきりしませんが、そのころ書かれた「魏志倭人伝」とい

きゅうでん へいたい
う中国人の書いた歴史書には、りっぱな宮殿があり、そのまわりはいつも兵隊がまもっていたとあり

きゅうでん おくぶか
ます。卑弥呼はこの宮殿の奥深いへやで、ひとりで、神をまつり、だれにも会わず、なにかあると、し

んけんに占いをしてことをきめたというわれます。卑弥呼には弟がいて、この弟が卑弥呼と国民の間

をとりついでいました。
ぎ くに ぎ
ニ三九年に、女王卑弥呼は中国の魏の国へ使いを送り、みつぎ物をとどけました。魏の

こうてい し ん ぎ わ お う しょう ごう さず こ う か おりもの どうきょう かたな


皇帝はたいへん喜んで、卑弥呼に「新魏倭王」の称号を授け、高価な織物や,銅鏡や 刀 などを

やまと か んの わ の なの こ くおう と う じ
あたえました。倭 というのは、前にも「漢委奴国王」とあるように、日本のことを当時の中国でそうよ

んでいたのです。
つか ほうむ
卑弥呼が死ぬと、大きな塚をつくって葬 りました。そして、あとに男の王がたちましたが、ふ

みだ あらそ ころ
たたび国の中が乱れ、争 いが始まり、千人以上の人が殺されました。それで、卑弥呼のあとつぎで

い よ じ ょ し おう
十三歳の壱与という女子を王にして、やっとおさまりました。

「魏志倭人伝」は、 邪馬台国について以上のことしか書いてありません。この邪馬台国は

(やまと) ということばを 漢字であらわしたものといわれていますが、


き ん き ち ほ う や ま と せつ き たきゅう しゅうち ほう
それが 近畿地方の 大和、つまり現在の 奈良県にあったという 説と、北九州地方にあったという

せつ
説があって、まだはっきりしていません。

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