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久松真一 禪畫的本質
久松真一 禪畫的本質
禅画とはいかなるものであるか。普通、禅僧が描いた画とか、禅に関する事
柄が題材にとられている画とかを、大ざっぱに禅画と呼んでいるようである。
しかし、そのような規定が厳密でないことはいうまでもない。いかに禅僧が
描いても、画面に禅が表現されていないような画を禅画とはいえない。
古来、禅僧にもいろいろあって、ただ禅教団に属しているというだけの禅僧
は問題にならないが、たとい嗣法の禅僧であっても、その描いた画に必ずし
も禅が表われているとは限らない。禅僧が描いても、ただに禅が表われてい
ないだけではなく、単なる画として見るに堪えないものが、近来はことに多
い。
たとい、いわゆる禅僧でなくとも、宮本ニ天の画などには、 禅が潑刺と表わ
れておって、それは実にすぐれた禅画である。
また、題材が禅に関するものであるからといって、禅が表われているとは限
らない。明治以来、名実ともにすぐれた有名な画家が、たとえば達摩の画と
か、寒山拾得の画だとかいうような、禅に関するものを随分多く描いている
が、禅が表われているものは極めて稀である。もちろん禅が表われていない
から、その画が必ずしも画として価値がないとはいえないだろうが、すくな
くとも禅画とはいえない。
たとい題材が禅に関するものでなくとも、牧溪の柿とか、ニ天の百鳥とか
いったようなものには、禅が生き生きと表われておって、有名画家の達摩の
画よりも、どれだけすぐれた禅画であるかも知れない。
したがって禅画であるためには、描き手が禅僧であるとか、題材が禅に関す
る事柄であるとかいうことは必ずしも不>'1 欠な条件ではなくして、画面に
禅が表われていることが第一条件である。
しかし、禅が画而に表われるためには、その画に発露するだけの禅が、その
描き手に生き生きと体得されていなければならないから、禅画の成立には、
禅僧であるなしにかかわらず、描き手に禅が体得されておらねばならぬこと
は不可欠のことである。
禅の体得のない人や時代には禅画は生まれない。禅の体得とは、禅に関する
対象的知識を持つことではなくして、禅が主体的に生きていることである。
禅に関するいかに広くかつ精緻なる対象的知識を持っておっても、それは 禅
の軍なる学者に過ぎぬのであって、禅が主体となってはたらく禅の体得者、
すなわち禅者ではない。禅の学者があっても、禅者のないところには禅の生
きた表現はあり得ない。したがって禅画も生まれない。
禅者の多い時 代には、禅は時代的に表われて、禅的な時代を形成する。屮国
の唐末から宋元にかけての時代、H 本の鎌倉から 室町、桃山にかけての時代
は、禅者が多数に輩出した時代であったので、禅的な時代が形成された。
禅両もこの時代に全盛期を出現した。この時代ほど禅が主体的に生きてはた
らいていた時代はない。
シナの唐宋元時代には、禅月、石格、梁楷、牧溪、玉澗、因陀羅等、日本の
鎌倉、室町、桃山時代には可翁、
黙庵、免芳、如拙、相阿弥、等伯等、多教の禅画の巨^が輩出した。現存の禅
画の傑作は多くこれらの時代に描かれた。しかもこれらの禅画は、西洋には
見られないのみならず、東洋においても他に類の無い独得な一類型を作り上
げた。
同じく仏教的な画ではあっても、禅両は、净土教的なものや、密教的なもの
とは著しく異なったものである。
かょうに禅画は禅が画面に表われているという点で、独自な性格を持つもの
であるが、然らばその最 も主要なる契機である禅とはいかなるものであり、
また、禅が表われることにょって画はどんな特徴を持って来るのであるか。
普通、宗教といわれているものは、クリスト教にしても仏教にしても、その
多くが、超人間的で絶対他者的で、対象的な神とか仏とかいうものを信ずる
とか、礼拝供養するとか、あるいはそれに帰依するとかして、何事かから受
動的に救われることであるが、禅は、宗教であり、ことに仏教ではあっても、
そういうふうの宗教とはやや 趣を異にし、畢宽は超人間的でも絶対他者的で
もないところの本来の自己、あるいは真の人間を自覚し、その自己が心身
の;切の形を脱却した無相なるものであるために、われわれが、その自覚と
同時に、自然法爾に、自発的に、頓に一切から解脱し、その本来の自「しが
主体となって、独脱無依に作用らくことである。禅では、この本来の自 d の
ほかに真仏はない。
それゆえ、六祖慧能は r 自仏是真仏」といい、永嘉玄覚は「本源自性天真
仏」といい、臨済義玄は、仏とは「一無位真人」にほかならぬといって、本
来の自己のほかに仏を求めることの方向違いを強調している。
『血脈論』(3 述摩撰述)には「顚倒の衆生は、自心是仏なることを知らず、
外に向かって馳 求し、終日忙々として念仏礼拝し、仏の所在を探しているが、
それは間違った考え方である。
但、自心を識れ。心の外さらに別の仏があるわけではない。」と力説してい
るのである。本来の自己の自覚のほかに別に仏はないのであるから、他に仏
を求めることの方向違いであることは当然のことである。自覚は対象にはな
らない。
したがって禅は、往々東西の神祕主義といわれるものにおいて見られるよう
な、予め対象的に存在する絶対他 者的な神や仏に合一することでもない。
禅は、向こうの仏にこちらが一致するというような仕方ではなくして、まだ
自覚されておらない本来の自己が、内から自覚されてくるというような仕方
である。
あたかも感性的自己が脱皮して、内から理性的自己が覚めて来るように、心
身的な形のある普通の自己が自己を脱皮して、内から一切 の形を絶する本来
の dLi が覚めて来るのである。
坐禅とか、公案工夫とかは、かような仕方で本来の自己が覚め る契機にほか
ならぬ。坐禅とは普通のメディテーションやコンテンプレーションのように、
何かを対象的に静思することではなくして、主体的に心身を脱落して本来の
自己に覚めることである。
公案工夫も、何か対象的なも のになり切って、それと合一することではなく
して、形ある自己の表皮を脱いで、内外無一物の本来の面目が現成すること
でなければならぬ。『証道歌』に「了々として見るに一物無し。亦、人も無
く、亦、仏も無し」とか『六祖壇経 J に、「心量広大にして猶虚空の如く辺
畔有ることなく、亦方円大小無く、亦青黄赤白に非ず、亦上下 長短無く、亦
瞋なく喜無く、是なく非なく、善なく悪なく、頭尾有ることなし、善知識よ、
吾れ空を説くを聞いて便ち空に著することなかれ」とかあるように、本来の
自己は、仏や空に著することがないのはもとより、本来の自にさえも著する
ことはない。
著する自-しも、著せられる自己も本来の自「しではない。一切の形を脱却し
ても、脱却したところに著したならば、そこにまた形が生じて、徹底的に形
を脱却したことにはならない。それで 龎滬は「但願わくば諸の所有を空ぜよ、
謹んで、諸の所無を実とすること勿れ」といったのである。
普通の自—J のあり方は内有外有であって、内に著し外に著する。たといさら
に一歩進んでも、外空内有か、内 空外有かである。しかし本来の自己は外空
内空である。ここにはじめて絶対抽象が現成する。
普通の抽象はまだ相対的柚象で単なる過程に過ぎず、主体的抽象は依然なさ
れておらないような内有外有である。そこで抽象はま ずさらに対象的抽象に
徹して外空内空になり、最後に主体的抽象にも徹して外空内空になって抽象
の極致に達するのである。
人間が何かきまった枠にはまることを生命の礙りと感ずるのは、絶対無著で
あり絶対抽象であり、絶対無扣である本来の Iwr-J への郷愁であるといわね
ばならぬ。禅は、この本来の自己に覚めて、それが主体とな って作斯らくこ
とである。六祖恵能が「自性、もと動揺なくして能く万法を生ず」とか、
「一法の得べきなくして、方に能く万法を建立す」とかいい、『維摩経』に
「無住の本より一切の法を立つ」とあるのは、本来の自己の無礙な作用を言
い詮わしたものにほかならぬ。
臨済義玄がいうように「色界に入って色惑を被らず、声界に入 って声惑を被
らず、香界に入って香惑を被らず、味界に入って味惑を被らず、触界に入っ
て触惑を被らず、法界に入って法惑を被らず、所以に六種の色声香味触法呰
是空相なるに達すれば、此の無依の道人を繫縛すること能わず」「過然独脱
にして物と拘わらぬ」のである。
結局、禅とは、内外一切の形から脱却して、何ものにも繫縛されることなく、
自在に作用らく本来の自,しにほ かならぬ。
かかる本来の自己が表現された両が禅画ということになるのである。それで、
禅画において禅が画面に表われるというのは、禅を対象化して描くとか、対
象化された禅が描かれるとかいうのではなくして、禅が画となって、それ自
身が务如办に自己表現することである。
禅の観念を念頭において、それを描くのではなくして、 描かれるものは何で
あろうと、—人物、山水花鳥、静物等—描くことにおしてまた描かれるものに
おして禅//-生き生きと自己表現することである。
禅が描くのであって、禅を描くのではない。禅が描くのであって初めて、真
の意味で禅を描くことになるのである。たとい達摩とか南泉斬猫とかいうよ
うな、いわゆる禅の題材を 描いたり、禅そのものを描こうとしても、描き手
が禅でなかったならば真の意味で禅を描いたことにはならない。描かれる題
材が何であっても、描き手が禅であるならば、真の意味で禅を描いたことに
なるのである。禅両であるかどぅかは、描かれる題材によってきまるのでは
なくして、描き手によってきまるのである。
禅画は、禅の自,し表現であって、画面には禅と同じ性格のものが表われて
いるのであるから、禅画を見る人はそこに禅的なるものを感ずるはずである。
その禅的なものとは、とりもなおさず人間の本来の自己にほかなら のである
力-レ' 禅評を見る人はそこに一切の形から脱驾した本来の自己を感ずるので
ある。すなわち、心身の 一切の形からのみならず、いわゆる神や仏からさえ
も脱却し、さらに脱却したといぅことからも此却いた自分を 感ずるのである。
普通の宗教画において感ずるよぅな神や仏への依属的懸絶感ではなくして、
全くの打成一片感 である。
禅画から感じられるのは、外に仰ぐ超越的崇高さではなくして、内に沈潜し
て行く内在的な幽玄さ、深奥さ、神や仏に帰依する感情的興奮ではなくして、
どこまでも一切から脱却して深く落ちついていく静寂さ、一切の対立や差別
から平等無差別なる一への還帰、有無的あるいは生死的存在から不生不滅へ
の脱皮、是非、善悪、美醜、浄穢等価値の二律背反の克服、無一物から生ず
る簡潔、形にこだわらぬことから起こる不均斉、内への沈 潜から来る落ち付
いた喑さ、なにものにもこだわらぬことから来る禅機の洒脱さや自在さ、一
切から解脱した安らかさ、こだわらぬ虚心さ、一切を脱皮した赤裸々の自然
さ、何ものにも拘束されない強さ、形あるものに表わしつくせない無限定性
等は、本来の自己の性格であるから、禅画も自然に同じ性格を持っているの
である。
宗教と花との関連性.について、一般に花を見、活け花をし、あるいは花を仏
前に供えるとかいった場合、ただちに花が宗教的意味をもって来るかどうか。
たとえば花を見るにしても、如何に見る時に花が宗教的意味を有ってくるか、
活ける場合にも、如何なる活け方をする時に宗教的意味をもってくるか、ま
た人に見て頂く場合、如何なる見て®き方により宗教的意味をもって来るかに
ついて、素人考えを述べて見たいと思います。
普通、花が宗教的意味をもつというのは、ごく通俗的に申しますと、神、仏
の前に花を供える場合のように考 えられます。自分に花を活けて愉しむとか、
友だちに見て愉しんで貰う場合には、祌、仏が何らそこに入って来ないから
宗教的意味をもって来ないと一応考えられます。しかし、仏や神に花を供え
るといったことでなかったら花に宗教的意味を生じ得ぬかどうか、その点問
題であると思います。私は、結論を言うと、たとえ神仏に供えるのでなく、
自分が活け花をして楽しみ、あるいは人に楽しんで貰うための花でも、その
こと自体の中に宗教的意味が決してないとは言えぬと思います。しかし、如
何なる場合にも、宗教的意味をもってくるかと言えば、そうは言えぬ。宗教
的意味をもってくるには、花を活ける場合の活ける人の態度とか心構えと言
うものと、またそれを自分で楽しむ時の態度、あるいは人に見て頂く時の態
度というものによってそれが宗教的意味をもって来る