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ハワイの歴史

出典 フリー百科事典『ウィキペディア(
: )』
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ハワイ州 > ハワイの歴史
ハワイの歴史(ハワイのれきし、英 : history of
Hawaii)では、50番目にアメリカ合衆国の州とし
て登録されたハワイ州を構成する、ハワイ諸島の
歴史を詳述する。
概要
有史以前は太平洋を渡ってやってきたポリネシア
人たちが持ち込んだ伝統を守りつつ生活を営んで
いたが、1778年のジェームズ・クックによる「発 ハワイのワイキキビーチ
見」以降、ハワイは近代化の波へ飲み込まれるこ
ととなる。島同士の内戦を経てハワイ王国という
100年に及ぶ統一国家が確立し、欧米人との接触に伴って社会は急速に変容し始める。19
世紀前半より宗教的基盤の確立と経済発展を求めた欧米入植者たちとその末裔は、次第に
経済的安定を保障するための政治権力を欲するようになり、その影響は時代を経るにつれ
て強力なものとなっていった。サトウキビ農園とその交易による莫大な土地と富を手に入
れた成功者たちは更なる産業発展を求めて安価な労働力を日本を中心とする様々な地域よ
り大量に呼び込み、ハワイ社会は多くの人種が混合した複雑な文化を育んでいった。
白人勢力はやがてハワイ人国家を倒し、近代化の名の下に1900年にはアメリカ合衆国の
領土として併合がなされた。さらに戦時下においては東西に台頭したアメリカと日本の確
執の余波をまともに受け、太平洋上の重要な軍事拠点として開発が進む一方で、ハワイへ
労働者としてやってきた大量の日本人移民は深刻な差別に曝された。現代は観光都市とし
て発展を見せる一方で、開発による環境汚染、歴史遺構の破壊や人口増加による地価・物
価の高騰、ハワイ人問題事務局が提唱しているハワイ人による自治権の獲得など、複数の
問題を抱えている。ハワイは、その解決の糸口を模索しながら今日に至っている。
先史時代
「ハワイ神話」を参照
ハワイの島々は火山の活動により海底から隆起して誕生したもので、北西部の古い島々は
500万年前から100万年前、ハワイ島などの新しい島は約50万年前に形成された[1]。

他の大陸と陸続きであったことはない[2]ため無人の島であり、ジェームズ・クックがハワ
イに到達する以前の先住民たちは、どこかから海を渡り、この地へやってきたことにな
る。ハワイは他の太平洋の島々の多くがそうであったように、19世紀にアメリカの宣教師
がアルファベットを伝えるまで、文字を持たない文化を形成していた[3][注釈 1]ため、これ
らの問いに応える歴史文書は存在していないが、言語学的な推測、熔岩に描かれたカハキ
イ(ペトログリフ)などの研究から[5]、最初にハワイへ
やってきたのはオーストロネシア語族のポリネシア人で
あると考えられており、マオリやタヒチ人と同じ起源に
さかのぼることができる[6]。その年代については諸説が
あり、遺跡の放射性炭素年代測定にもとづき紀元前 500年
前後から3世紀頃までと考えられている 。 [7]

また、ハワイに伝わる神話クムリポからも考古学的な考 カタマランを漕ぐポリネシアン
察と検討が行われている。クムリポは伝記(クアウハ
ウ)、お伽話(カアオ)、歴史伝承(モオレロ)といっ
たジャンルの神話が歌や舞踏、チャントなどで代々の王家に伝承されたものであり、
1700年頃に作られたものとされている[8]。公式な発表としては1881年[9]にカラカウアが
公表したもの、1889年にリリウオカラニによって英訳されたものなどがある[9][注釈 2] 。
クムリポでは創作された寓話を交えつつハワイ人の起源から13世紀前後の出来事までが語
られている。
言語学的見地、歴史遺構や伝承神話などからの類推により、ポリネシア人はカタマランや
アウトリガーカヌーを操り、マルキーズ諸島を経由してやってきたと見られ、さらに数世
紀後900年ごろに、タヒチ島を中心とするソシエテ諸島からやってきたポリネシア系移民
が定着したのが始まりとされている[12]。なお、このポリネシア人たちの航海が本当に可
能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行われた。ピウス・マウ・ピアイル
グら17人の男女が乗り込んだ丸木舟「ホクレア号」は、マウイ島を出発し、31日目にタヒ
チに到着、1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平
洋の航海が不可能ではないことを証明した[13]。
ただし、なぜ彼らが移動する必要があったのかについては、ハワイの神話やペトログリフ
を紐解いてみても遠方への航海や交流を暗示するものはあっても[注釈 3]、その明確な記述
は無く、それまで居住していた島が手狭になった、飢饉になった、他の島との戦で追放さ
れた、等の後年の歴史家による根拠の薄い仮説が打ち立てられているに過ぎない[14]。
彼らはハワイ諸島へ定住するため、タヒチ島間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッ
ツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった動物をハワイ諸島へ運び込んだ。この
「大航海」は14世紀頃まで続いた[12]。フラをはじめとする古きハワイの文化も、この交
流の過程でもたらされたと考えられている[15]。
12世紀頃には族長(アリイ)による土地の支配と統制がはじまり、階級社会が誕生した。
アリイを頂点とし、神官(カフナ)、職人や庶民(マカアイナナ)、奴隷(カウバ)が続
いた[16]。土地の支配はアフプアアと呼ばれる制度で規律され、山頂と海岸を結ぶ二本の
線を土地の基本単位とし、境界線には豚(プアア)をかたどった像(アフ)が備えられ
た[16]。
アリイはヘルメットを被り、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとさ
れた[16]。また、カウバは共同生活の規律を乱す犯罪者や他の土地の捕虜の階級で、顔に
入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていた[16]。時にはカフナの行うまじないご
との生贄とされることもあった。
ハワイ王国
クックの再発見
1778 年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1
月 日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が「発見」され、ワ
18
イメア・ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨
し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たした[17]。
クックは、上官の海軍本部長サンドウィッチ伯爵の名から、サ
ンドウィッチ諸島と命名した。しかし、クックがサンドウィッ
チ諸島と名づける以前より、現地ハワイ人の間では既にハワイ
という名称が定着していた[注釈 4]。
突然の見たこともない大 ハワイ島を統治してい
きな船の到来と、そこに た王・カラニオプウ
佇む異様な衣を纏う乗組
員に先住民は驚きおののいた。新しい海路の発見
を目指す一行は同年2月に一旦ハワイを離れ、北西
へと旅立った。その後、同年11月にハワイを再訪
したクックは、マウイ島とオアフ島の船上調査
後、1779 年 1月17日、ハワイ島ケアラケクア湾へ上
陸した[22]。ハワイ島の王であったカラニオプウは
ジェームズ・クックの最期 クックをロノの化身と錯誤し、ヘイアウの奥に鎮
座する祭壇へ案内し、神と崇めた[17][22]。クック
は先住民に神と間違えられる事は何度も経験して
おり 、先住民らが望みそうな振る舞いを演じてみせた。丁度マカヒキの期間であった
[22]
ので、先住民らにより豊穣の神ロノを讃えるその祭が執り行われ、クックらに酒池肉林の
もてなしを行う。長い航海で女に飢えていた乗組員らは現地の若い先住民の女を侍らせ、
約3週間宴に興じた[23]。
2月4日、クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へ漕ぎ出したが、カワイハイ沖で遭遇
した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、2月11日、再度ハワイ
島へ戻り修繕にあたろうとした。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲
を持っている」「ロノ神の乗る船があのように傷つくものだろうか」といった疑念を持ち
始める。先住民らが険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしたため、ク
ックはカラニオプウを人質として拘束した。
この諍いは乱闘へ発展し、 1779年2月14日、クックは4名の水兵と共に殺害されるに至っ
た 。ディスカバリー号を率いていたチャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終
[24]
え、イギリスへと舵を取った。クラークは同年8月に結核で死亡したため、その後はジョ
ン・ゴアが指揮を取り、イギリスに帰還した。海軍本部、英国王立協会にクックの死、北
方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らし
めた[25]。
この頃のハワイ諸島には大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われてい
た[26]。ハワイ島をカラニオプウが、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配し
ていた。大族長は世襲制であったため、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオ
が王位を継承した。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるカメハ
メハはこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地
を譲り受けた。これに立腹したキワラオはカメハメハに戦争
をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、逆に 1790 年、
カメハメハによるハワイ島統一が成された 。[27]

クックのハワイ諸島発見以降、交易を求める者や植民地主義
の帝国からの来航が頻繁に発生していたが[注釈 5]、カメハメ
ハは外交手腕に優れ、欧米列国の領土的野心を封じる先見性
も持っていた。カメハメハはクックの後継者とも言えるジョ
ージ・バンクーバーを懇意にし、1794年2月24日、ハワイに
おけるイギリス人水兵の安全保障の見返りとして外国のハワ
イ侵略をイギリスが防衛する防衛援助協定を取り付けること
に成功した。これを契機に、イギリスから仕入れた銃器を手
に1795年2月、カメハメハはハワイ諸島統一に向けて動き出
し、同年4月までにニイハウ島とカウアイ島を除くすべての ハワイ王カメハメハ1世
島を制圧し、ハワイ王国を誕生させた。
1800 年、残りの島の制圧を目指したが嵐や疫病の発生によ
り不調に終わった。1810年、アメリカ人ウィンシップ兄弟の協力を得てカウアイ島大族長
カウムアリイとの交渉を行い、カウムアリイの終身統治を条件としてカウアイ島およびニ
イハウ島の割譲に成功し、ハワイ諸島の統一を成し遂げた。
ハワイ王国の隆盛
カメハメハが1819年5月8日に他界すると、長男のリホリホが王位を
継承した。しかし、執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政
(クヒナ・ヌイ)の地位を新設し、リホリホの義母にあたる妻のカ
アフマヌをその地位に充てた。カアフマヌは、リホリホの母である
ケオプオラニと協力し 12世紀以降続いていた禁令制度(カプ)の廃
止を進めた 。土着信仰として根付き、かつカフナたちの立場的
[29]
優位性を築いてきたタブーを率先して破り、神および神官の存在を リホリホ(カメハメ
否定した。こうして古代宗教の神殿は破壊され、礼拝や生贄といっ ハ2世)
た儀式も中止されることとなったが、階層構造により保たれていた
秩序や規範も崩壊し、ハワイ王国は波乱の時代を迎えることとなっ
た[30]。
1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラ
ム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニ
ューイングランドよりコハラに到着した。彼らはそこで見たハワイ
先住民たちの伝統に衝撃を覚える。男はマロと呼ばれるふんどしの
ような帯だけを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、
フラダンスという踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの
文化は、西洋人から異常なものと見られた[31]。これらの伝統を破
壊するべく、ビンガムらはプロテスタンティズムによる社会統制を
試みた[31]。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、政
カアフマヌ
治、経済の各分野へ広がっていった。
外交の発展により、ハワイ王国では貨幣経済が急速に浸透し、後払いによる外国製品の輸
入を続けたため、みるみる負債が膨らんでいった[32]。この状況を打破しようと、1823年
11月23日、リホリホは王妃のカママルを連れ、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンド
ンへ赴いた。しかし一行は滞在先で麻疹に感染し、カママルは翌年7月8日に、リホリホは
7月14日に他界してしまった。リホリホの死を受け、わずか10歳の弟、カウイケアオウリ
が翌1825年6月6日に大王に即位する。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌ
に近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功した[32]。
1827年、フランスよりカトリック教会の宣教師がハワイへ上陸
したが、すでにプロテスタントが浸透しつつあったハワイでの
他宗派の影響による混乱を危惧し、カアフマヌは退去を命じ
る。しかし1837年、再びカトリック司祭が来航したことから同
年12月18日、ハワイでのカトリックの布教と信仰の禁止の命が
カウイケアオウリより下された。この命は1839年に解除された
が、太平洋の他の諸島と違い、ハワイにおけるプロテスタント
の影響は優勢であり続けた[33]。プロテスタントの宣教師らはま
ずハワイ人に読み書きから教え始め、1822年にはアルファベッ
トによるハワイ語が確立、1834年には太平洋地域で初となる新
聞『カ・ラマ・ハワイ』(1834年6月、マウイ島)、『クム・ハ カウイケアオウリ(カ
ワイ』(1834[34]
年10月、ホノルル)が発行され、1839年には聖書 メハメハ3世)
が出版された 。徹底した文教政策が奏功し、ハワイ住民の教
育水準は飛躍的な高まりを見せ、近代化が加速度的に進行し [34]
た。しかしこれは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味していた 。
1832年、カアフマヌが没したため、摂政の後任としてカメハメ
ハの娘にあたるキナウが就任した。ハワイ王国は西欧的社会の
移入を押し進め、イギリスのマグナ・カルタを基に 1839 年に
「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にハワイ憲法が公布さ
れ、立憲君主制が成立した。1845年には基本法によって行政府
として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が
置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員からなる立法議会が開
かれた。しかし、なじみの浅い西欧文化に戸惑うハワイ人を他
所に、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就
[ 注釈 6] 。こうした土壌で、 1852 年
く様子が見られるようになる
アレクサンダー・リホ にはハワイ新憲法が採択されることとなった。この新憲法には
リホ(カメハメハ4世) エイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を行うはるか前に奴
隷制禁止条項が盛り込まれるなど、リベラルなものとなっ
た[36]。こうした西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも
及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれた。[37] 1848年には土地法が制定され、ハワイ
の土地は王領地、官有地、族長領地に分割された 。しかし1850年、外国人による土地
の私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債
を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配す
る土地となり、生活の基盤を失うこととなった。
1854年、カウイケアオウリの没後、1855年1月11日、摂政であったキナウの次男アレクサ
ンダー・リホリホが王位に就いた。この頃の行政府内にはアメリカ系、イギリス系、先住
ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていた。前王が採択した一般成人男子
の参政権獲得による王権の失墜を危惧したアレクサンダー・リホリホは兄のロト・カメハ
メハと協力し、貴族主義的な君主制の確立を目指した。イギリ
スの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは1860
年、「ハワイアン改革カトリック教」という名のエピスコパル
をハワイに設立し、イギリス本土よりトーマス・ステイリーを
はじめとする英国国教会の聖職者を招聘した[38]。この背景には
息子アルバートを洗礼させ、イギリスのヴィクトリア女王を教
母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政
治的思惑があったとされる[39]。しかし、1862年に溺愛する息子
を亡くし、そのショックから立ち直れぬまま翌1863年11月30日
にアレクサンダー・リホリホ自身も死亡し、この目論見が未達
に終わる。王位は即日兄のロト・カメハメハが継承した。
ロト・カメハメハ(カ
ロト・カメハメハは王権復古を目指し メハメハ5世)
て 1864 年 8 月 20 日に新憲法を公布し
た。親英の王が続いたことでハワイ王 [注釈 7]
国がイギリスに傾斜することを危惧した [41]アメリカ合衆国
は、極秘裏にハワイ王国の併合計画を始めた 。こうした中、
次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872
年に急逝する。王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリ
ロが1873年1月9日に即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚に
据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執っ
た。アメリカとの互恵条約締結を目的とし、交渉がなされた
ルナリロ(初の選挙選 が、ルナリロが結核に罹り、そのまま没したため、王位は再び
議会に委ねられることとなった。選挙の結果、カメハメハの有
出によるハワイ王)
力な助言者カメエイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫に当たる
カラカウアが当選し、1874年2月13日に即位した。
カラカウアは前王の意思を継ぎ、1875年6月3日、米布互恵条約
締結を成し遂げた。この条約によりハワイの全ての生産品は非
課税でアメリカへの輸出が可能となったが、第4条として「ハワ
イのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権
も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ
拍車が掛かることとなった[42]。有効期限を7年と定めていた最
初の条約の期限が近づいた1883年、この条約は米や砂糖の生産
業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとし
て少なからぬ批判が噴出したが[43]、上院議員ジョン・モーガン
などの帝国主義的拡張論者らにより、「その他の、より高次元
な益がある」として反対勢力を押さえ込み、かねてよりモーガ
カラカウア(第7代ハワ ンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条
イ王) 件[注釈 8]として1887年11月に条約の更新がなされた[43]。
1887年、野党議員ロリン・サーストンが中心となって急進的な
改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグが設立された。同年6月30日、ハワイアンリー
グはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力し、カラカウアに対して首相であ
ったウォルター・ギブソンの退陣と新憲法の採択を要求した。これに対し有効な対策が取
れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散した。その後、ホノルルライフルズらが
起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させ、
注釈
1887年7月6日に通称ベイオネット
憲法[ 9] が成立し、王権の弱体化はさらに進んだ 。カラカウアは強大化するアメリ
[46]
カ系勢力を牽制しようと日本を盟主とする東洋諸国との同盟やベイオネット憲法の廃案を
画策するなど王権の復古を試みたが[46]、1891年1月20日、志を貫徹することなくサンフ
ランシスコにて客死した。
1891年1月29日、後任としてカラカウアの妹に当たるリリウオ
カラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣
僚が再三にわたりそれを拒否し、内閣が成立しない政治危機が
続き、 1892年11月8日、ようやく組閣のための閣僚承認がなさ
れた 。[47]

リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策とし
て宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律
を制定したが、この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳
的観点からの批判が噴出した[48]。また、ベイオネット憲法に
不満を募らせる王権派ハワイ人たちへの対策として1864年の憲
法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画した。こうし
た動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・スティーブンス
はロリン・サーストン、サンフォード・ドールらと接触し、ハ
ワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立とい
う具体的な計画を始めた[48]。 リリウオカラニ(最後の
ハワイ王(女王))

革命の舞台となったイオラニ宮
殿

ハワイ王国の崩壊
「ハワイ併合」も参照
1893年1月15日、サーストンらの呼びかけで前日(1月14日)結成された「公安委員会」を
名乗る組織が、一般大衆に対し、「ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く」旨
の呼びかけを行った[49]。これに対し王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を
避けるよう主張するアメリカ系閣僚の声もあり、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うこと
が決定された[49]。目的はこの集会にてリリウオカラニによる「新憲法を公布しない」と
いう声明を発表するものとし、これ以上の混乱を阻止しようというものであった[49]。
翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の
獲得を市民に訴えた[49]。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギ
ルバート・ウィルツへ「ホノルルの非常事態に鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全
確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装した海
兵隊164名がホノルル港へ上陸した。
1月17日、ハワイ王国最高裁判所の判事であったサンフォード・ドールは、新政府樹立の
準備のため判事を辞任した。同日午後2時、政府庁舎に公安委員会一同が集結すると、ヘ
ンリー・E・クーパーにより、ハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言された[50] 。
駆けつけたホノルルライフルズらによって政府庁舎および公文書館が占拠され、戒厳令が
布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、
暫定政府の樹立を通達した。リリウオカラニはスティーブンスに対し特使を派遣し、アメ
リカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、ア
メリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した[注釈 10]。これを受け、リリウオカラ
ニはドールに対し、

「 私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女
王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワ
イ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重
に抗議します。
……(中略)……
軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何
としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメ
リカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島の立憲君主と
しての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもっ
て、私の権限を放棄いたします。紀元1893年1月17日 R・リリウオ
カラニ[52] 」
との文書を送付した。暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、
ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベル
ギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々
が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカ
の保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月
1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワ
イ政府庁舎に星条旗が掲揚された[53]。しかし、リリウオカラニ
の抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブ
ンスの取った強引な手法に対する世論の反発などで、すんなり
と併合にこぎつけられずにいた。この事実を知ったグロバー・
クリーブランド大統領は、スティーブンスの更迭を行い、アル
バート・ウィリスを公使に任命した[54]。ウィリスはクリーブラ アメリカ合衆国大統領
ンドの指示のもと、道徳的観点から暫定政府の取り消しとリリ グロバー・クリーブラ
ウオカラニの復位の道を模索した。 ンド
1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホ
ノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリ
ウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との
認識を示したが、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府の死刑を求める」との文字が躍
った[55]。この報道は捏造であり、その後訂正がなされたが、ウィリスは12月20日、ドー
ルに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の
全てから退くこと」という、クリーブランドのメッセージを伝えた。
こうした状況からドールらは、クリーブランドの
在任中の併合は不可能であると判断し、「過ちが
あったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府
とは無関係である。クリーブランド政権の要求は
内政干渉に当たる」とした回答を 12月23日に発表
した[56]。さらに、暫定政府を恒久的な政府として
運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7
月[57]
4 日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言し
た 。初代大統領はドールが継いだ。
1895年1月16日、王政復古を目指す先住ハワイ人た
ハワイ併合で初代知事としての任命を受 ちが反乱を起こし、鎮圧に当たった政府軍に死亡
けるドール 者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与し
ていなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたと
いう理由[注釈 11]で他の王族とともに反逆罪で逮捕
され、イオラニ宮殿に幽閉された。1月22日、リリウオカラニは王位請求を諦め、ハワイ
共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名、ハワイ王国は名実
ともに滅亡した。
アメリカ合衆国ハワイ準州
年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争が勃発する。この戦争は太
1898
平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要で
あるとする世論が巻き起こる[59]。アメリカはすでにハワイの真珠湾独占使用権を獲得し
ていたが、これをより強固にするものとして俄然ハワイ併合派の声が大きくなった[59]。
そして7月7日、ウィリアム・マッキンリー大統領はハワイ併合のための決議案に署名し、
ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。1900年4月、ハワイ領土併合法が公
布され、同年6月にハワイ領土政府が設立された。要職にはハワイ共和国下の官僚が就く
こととなり、初代ハワイ準州知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任し
た。その後1900年ハワイ基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が
適用されることとなった。
軍事拠点としてのハワイ
アメリカ合衆国の併合により、既存の労働契約が無効化され、契約移民としてハワイに多
数居着いていた日本人労働者がその過酷な労働契約から解放された[60]。彼らは洪水のよ
うにアメリカ本土への渡航をはじめ、 1908年までに、3万人強の日本人がアメリカへ移住
したとされている 。こうした日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へ
[60]
と繋がった。1907年に転航禁止令が布かれ、翌1908年には日米間で行政処置としてアメ
リカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされた。また、ハワイ本土
においてストライキが法的に有効になったことを受け、これを挙行する労働者が増加し
た。
アメリカでの排日運動が活発化するにつれ、ハワ
イにおいても日本人に対する風当たりは日に日に
厳しいものとなっていった。当時ハワイに住む2万
人を超える日本人の子供たちのためにハワイでは
150校以上の日本語学校が開設されていたが、国粋
主義を吹き込んでいるとの批判がなされた。こう
した日本人の生活形態や日本人労働者やその子供
に対する批判は英字新聞によって頻繁に取り上げ
られ、日本人排斥論として世論を形成していっ
た[61]。こうした批判からくる不信感はやがて共産
主義者の陰謀論などと結びつけて日本人に対する パールハーバー1941年10月
恐怖感や嫌悪感を市民に助長する結果となっ
た[62]。そんな中で、第一次世界大戦が終結し、生
産の機械化や合理化が労働を奪い、アメリカに不
況の波が押し寄せると、移民の数を制限しようとする動きが出てきた。1924年には移民数
の上限を15万人に制限する法案が可決され、その割当数は北欧系に有利なものとされた。
1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた。約
8 時間半後の午後 4 時半にはハワイ全土に戒厳令が布か
れ[63]、1944年10月24日に解除されるまで、多くの戦時規
制がなされた。ハワイは重要な軍事拠点としてその役割
を果たすこととなり、軍事基地の建設が加速し、太平洋
戦遂行の本部としてイオラニ宮殿に軍事政府が新設され
た[64]。裁判権も軍の管理下におかれ、逮捕令状無しでの
拘束が認められた。住人には門限が設定され、身分証の
携帯が義務付けられ、指紋登録が強制された。電話の盗
炎上するアリゾナ 聴が実施され、全ての出版物、手紙が検閲の対象とな
り、日本語によるラジオ放送などは即座に禁止され
た[65]。
同時に、日系人に対する不信感はさらに高まり、1942年1月5日には徴兵年齢の日系2世男
子は4C(敵性外人)に分類され、すでに徴兵・編入されていた日系兵士は解任・除隊さ
せられた[64]。日本語学校教師やジャーナリストなど、「特に危険」とされた 1500人にも
上る日本人・日系人が強制収容所へ送られた 。ハワイ地方防衛軍として国防に従事し
[66]
ていた日系2世シゲオ・ヨシダは防衛総司令官デロス・エモンズにアメリカに対する忠誠
を誓う嘆願書を送付し、日系人による陸軍部隊である第 442連隊戦闘団の前身となる大学
勝利奉仕団 (V.V.V) を結成した[64]。
また、当時人口約26万人だったハワイに、 100万人とも言われる兵士と10万人近い新しい
労働者たちがやってきた
注釈
[67] 。軍需景気に沸くかたわら、男女比は著しく不均衡とな
り [ 12] 、アメリカ本土では1941年に兵士に対する売春行為が禁止されていたにもかか
わらず、特例的に認可される程であった[68]。こうした現象は地元の女性にとっては脅威
となり、アメリカ人兵士によるレイプ犯罪は後を絶たなかった[69]。
1942年6月、ミッドウェー海戦でアメリカ軍が勝利を掴み、日本軍によるハワイ侵攻の可
能性が低減すると、 1943 年に灯火管制が解除され、 1944 年 10 月に戒厳令が解除され
た[67]。翌年、第二次世界大戦が終結すると、ハワイでの日常に変化が見られるようにな
る。それまで白人に牛耳られていた政治・経済体制が、一時的にせよ権力を取り上げられ
たことで弱体化し[70]、1946年に発生したストライキでは初めて労働者側が賃上げに成功
した。また、アメリカ本土からやってきた兵士たちにとって、戦地へ赴くための一時の安
息地として機能したハワイは彼らに「ハワイは身近な楽園」というイメージを広め
た[70]。これを契機として、戦争特需に代わるものとしてハワイは観光施設の拡充に着手
し始め、後の観光都市としての第一歩を踏み出すようになる。
立州運動
ハワイをアメリカの領土の一部から、明確な州として確立させようという動きは、ハワイ
王国、カメハメハ3世時代から何度も持ち上がった意見であった[71]。
1854年、親米派として知られるカメハメハ3世は、内部勢力や欧州列強の圧力からの保護
を求め、ハワイ王国をアメリカの一州として併合するようアメリカ政府との交渉に乗り出
した[71]。しかし、次代のカメハメハ4世が親英であったことなどからうやむやのまま、カ
メハメハ3世死後、この話は立ち消えとなる。1900年のハワイ併合時にも議題としてハワ
イ立州案が挙げられ、サンフォード・ドールは知事就任演説でハワイの立州化について言
及した。1903年、ハワイ領土議会は連邦議会に対し、ハワイ立州法案の審議を請願し
た。1919年にはハワイ選出の連邦議会代議員であったジョナ・クヒオがハワイ立州を訴
え、連邦議会による立州に向けた調査が開始された。
そんな中、1931年9月、トーマス・マッシー中尉の夫人タリア・マッシーがハワイの地元
の若者集団「カリヒ・ギャング」に暴行を受けたとして訴え、5人の若者が容疑者として
逮捕された(マッシー事件)。タリア・マッシーはこの5人に間違いないと証言したが、
弁護側が5人のマッシー夫人の証言とは矛盾する材料を証拠として提示したため、「陪審
不一致」として5人の若者は無罪となった。この事件はアメリカ本土でセンセーショナル
に報道がなされ、「ハワイの警察制度は古臭く、治安を維持する能力に欠ける」といった
世論が形成された。マッシー中尉はこの結果を不服として、仲間と共に容疑者の一人ジョ
セフ・カハハワイを誘拐、拷問の末、殺害してしまう。陪審は加害者らを懲役10年の有罪
としたが、世論はマッシー中尉の行為を「正当防衛」「名誉ある殺人」とし、ハワイの裁
判過程に不満を評した。これを契機とし、連邦議会ではハワイの自治権剥奪などを盛り込
んだ改正法案の提出がなされるなど、この事件はハワイ自治権の危機にまで発展し、ハワ
イ知事はマッシー中尉らを「禁固1時間」に減刑するに至った[72]。
米国連邦議会の従属的な立場にあると痛感したハワイの指導者層は活発なロビー活動を行
うようになる。1934年に選出された代議員サミュエル・キングによって1935年、立州法
案が正式に提出され、ハワイ立州承認問題の調査委員会が組織された。1940年には立州
に関する住民投票が行われ、有権者の 3 分の 2 以上が立州を望んでいることが判明し
た[73]。こうした動きは第二次世界大戦により一時中断されるが、軍事政権下での抑圧と
その解放を経験したハワイの市民は、アメリカ合衆国の国家の一員としての意識が高ま
り、戦後はさらに声高に立州運動が叫ばれるようになった。
ハワイ出身の代議員ジョセフ・ファーリントンの強い働きかけにより、また、ハリー・
S・トルーマンの支持もあったことから[74]、1946年連邦議会はハワイをアメリカ合衆国
の正式な州とすべきかどうか、再度検討をはじめた。ファーリントンは翌年、ハワイ立州
法案を連邦議会に提出したが、上院で廃案となり未達に終わった。しかし、これをきっか
けとして立州化は共和党や民主党のマニフェストに組み込まれるなど、大きな動きを持つ
ようになる。一方で立州化反対派は、ハワイを東西冷戦を背景とした共産主義者の活動拠
点であると断じ、その分子をアメリカの政治経済の中に取り込むことは危険であるとし
た[75]。
アメリカ合衆国ハワイ州
年代に入ると公民権運動が活発化し、これに便乗する形で、ハワイおよびアラスカの
1950
立州化運動が行われ、1959年3月11日、連邦上院で賛成76、反対15で可決、連邦下院で賛
成323、反対89で可決し、連邦議会はハワイ州昇格を承認した。ドワイト・D・アイゼン
ハワー大統領が1959年8月21日、宣言書調印を行い、正式にアメリカ合衆国の50番目の州
に認められることとなった。「今や私たちは皆ハオレ」といった流行語が誕生するほど歓
迎ムード一色となり、ハワイ市民は達成感と新たな期待に酔いしれた[76]。
観光都市ハワイとしての発展
1959年に立州化して10年間で、ハワイはホテルやマンシ
ョンの立ち並ぶ都会へと変貌するため、総額 34億ドルに
も上る建築が行われた 。ディリンガムのハワイアン・
[77]
ランド社による初の大型ショッピングモール、アラモア
ナショッピングセンターの開業、ジェット空路の連絡、
貨物、旅客、車両を運搬する大型船舶のための埠頭の建
築、陸上幹線道路や水道の整備など、リゾート観光開発
とそれに伴うインフラの近代化が加速した。
1963年のアメリカ人に対するギャラップ調査「金銭的な
ことを考えずに休暇を過ごしてみたい場所」において、2
位カリフォルニアに2倍近い差をつけた1位を獲得するな
ど、立州を契機として観光産業が繁栄し、アメリカ国内
外を問わず、観光客の来州は着実に増加し、 1967 年 12 月
アラモアナショッピングセンタ
28日、100万人目の観光客を記録した[77]。
ー(1959年開業)
日本が旅行規制を解除した1964年、日本人観光客を見込
んだハワイでは日本語表示の導入や従業員への日本語教
育を本格的に導入する。1970年からはパッケージツアーが本格化し、日本資本がハワイに
は欠かせない収入源となるほどになった。
こうした日本の動きは投機面においても無視できない存在となる。日本の実業家小佐野賢
治が1962年、ワイキキのモアナ・ホテルとプリンセス・カイウラ・ホテルを1940万ドル
で買収したのを皮切りとして1972年までの[78]10年間で50以上の日本の会社がハワイの不動
産や企業を買収し、ハワイ支店を開設した 。1974年にはハワイ州上院議員アンダーソ
ンらが「日本の経済侵略」として警鐘を鳴らすなど、社会問題として取り上げられるよう
[注釈 13]、川本源司郎[注釈 14]
になった。1980 年代に入ってもこの動きは加速の一途を辿り
や、川口勝弘[注釈 15] といった日本人投資家の不動産買収の話題が紙面上で踊った。
「ジャパンマネー」に対する世論は非常に硬化し、ハワイ大学イースト・ウエスト・セン
ターの研究者や経済評論家クライド・プレストウィッツなどが「ジャパンマネー」がハワ
イに与える影響やその問題を強く憂慮した[78]。
また、高級リゾートホテルと並び、開発のシンボルとされたのがゴルフ場で、1992年時点
で68のゴルフコースがあり、さらに当年、州政府に対して 93件のゴルフ場開発の申請が
出されるなど、ゴルフ場建設ラッシュとなった 。しかし、ゴルフ場の開設は素朴で質
[81]
素な生活を求める地元住民との摩擦を生み、問題となった。これに対しファシ市長は、公
共設備開発使用料(インパクト・フィー)としてゴルフ場1件の開設につき1億ドルを支払
うよう開発者側に求め、それを地元へ還元することで、摩擦の解消を図った。
1980年代の後半になると、日本の国内外での投機的不動産投資の影響により、土地・住
宅価格の高騰が起こった。しかし、インフレを懸念した日本政府や日本銀行の締め付けに
より、投資欲が減衰し、1989年10月、東京株式の暴落(バブル崩壊)が起こり、ハワイ
においても日本企業、日本人投資家からの投資が減退した[注釈 16][83]。進行していた数々
のホテルやゴルフ場の開発プロジェクトがその計画半ばにして頓挫し、棚上げされた。
1967年に砂糖・パイナップル産業の収入を超え、
名実共にハワイ最大の産業となって右肩上がりを
続けてきた観光業は、1991年に初めて前年比 1.2%
減という落ち込みを記録した 。[84]

文化の変容
ジェームズ・ミッチェナーの小説『ハワイ』は、
アメリカ全土で広く愛読されている小説で[85]、映
画化もなされた。こうした文学作品の中におい ホクレア号

て、ハワイ先住民は前半の王朝史を彩る悲劇の主 (2005年、カイルアビーチ)
人公として描かれるが、近代化と共に姿を消し、
ハワイの歴史として「封建社会の滅亡と近代の夜 [86]
明け」といったステレオタイプに語られることが多い 。これは英語教育をはじめとす
る同化政策による民族意識の希薄化、混血が進みハワイ先住民が消滅していっている事が
原因と考えられるが、この状況に危機感を覚えた1970年代以降、黒人運動や文化的多元主
義の広まりとともにハワイ先住民の復興運動がにわかに叫ばれるようになった[87]。1974
年、アメリカ先住民事業法が連邦議会を通過し、ハワイ先住民が正式にアメリカ先住民と
して認められるようになると、1978年、州政府はハワイ人問題事務局 (OHA) を設置し、
ハワイ先住民が抱える問題への解決に注力するようになる。ハワイアン・ミュージック、
フラ、パニオロなどのハワイの伝統芸術を復古させようとする動きのほか、ハワイの伝統
ゲームコナネの普及[88]、アフプアアやペトログリフのような先住民が築いた制度や史跡
の研究と復活、ホクレア号によるハワイ先史時代の歴史の検証、食文化の復興によるハワ
イアン・パラドックスの解消など多方面に伝播して活発化され、ハワイアン・ルネッサン
スとも呼ばれるようになった[89]。
略年表
250 マルキーズ諸島からポリネシア系住民がハワイに定住
年頃 する
900 ソシエテ諸島からポリネシア系住民がハワイに定住す
年頃 る
先史時代 1778 イギリスのジェームズ・クックがハワイに来航する

1779 ジェームズ・クックがハワイ島で殺害される

1789 アメリカ国籍の船がハワイ諸島へ初来航する

ハワイ王国 1795 カメハメハ大王が王位に就く

1804 津太夫や善六ら若宮丸漂流民5名の乗ったロシア船がハ
年 ワイに寄港する
1806 平原善松ら稲若丸漂流民8名が日本人で初めてハワイに
年 上陸する
1819 カメハメハ大王が没し、カメハメハ2世が即位する

1820 アメリカからタディアス号が到着する。宣教師団の影
年 響がハワイへ広がる
1823 カメハメハ2世が没する

1825 カメハメハ3世が即位する

1834 マウイ島で初の新聞が発行される

1835 コロア製糖会社が設立され、製糖業が盛んになる

1837 カトリック禁止令発布

1839 権利宣言が発布される
年 フランスと不平等条約が締結される
1840 ハワイ憲法が公布され、立憲君主制が成立する

1842 アメリカとの独立承認交渉によりジョン・タイラー大
年 統領により独立が認められる
1843 ヨーロッパとの独立承認交渉によりイギリス女王・フ
年 ランス国王により独立が認められる
1844 ハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職へ
年 の着任が認められる
1845 第一回ハワイ議会召集、基本法が制定される
年 ホノルルが首都となる
1848 マヘレ法が制定される

1849 初の平等条約となるアメリカ修好通商条約が締結され
年 る
1850 クレアナ法が制定され、外国人による土地所有が認め
年 られる
1851 フランスの武力占拠に対し、ハワイを米国保護領下に
年 置くという声明を一方的に発表する
1852 奴隷禁止などの革新的な条項が盛り込まれた新憲法が
年 制定される
1854 カメハメハ3世が没し、カメハメハ4世が即位する

1863 カメハメハ4世が没し、カメハメハ5世が即位する

1864 新憲法が制定される

1868 ユージン・ヴァン・リードが日本人153名を無許可で
年 ハワイ渡航させる
1871 日布修好通商条約が結ばれる

1872 カメハメハ5世が没する

1873 ルナリロが選挙による初のハワイ王に就任する

1874 新憲法が公布される
年 ルナリロが没し、カラカウアが即位する
カラカウア訪米
1875 米布互恵条約が締結される

1881 カラカウアが世界周遊を行う

1882 イオラニ宮殿が建設される

1886 日布渡航条約が締結される

真珠湾の独占使用を盛り込み、米布互恵条約が更新さ
1887 れる
年 秘密結社ハワイアンリーグ設立
ベイオネット憲法公布
1889 ウィルコックスの反乱

1891 カラカウアが没し、リリウオカラニが即位する

ハワイ共和国 1月12日、リリウオカラニ新内閣に不信任決議が提出
される
1月14日、公安委員会結成
1月15日、公安委員会が市民集会の呼びかけを行う
1月16日、公安委員会主導の市民集会が開催される。
これを受け、米国海軍がハワイへ上陸
1893
年 1月17日、サンフォード・ドールが暫定政府の樹立を
宣言する
1月19日、欧米諸国が暫定政府を承認する
2月1日、米国公使が暫定政府の米国保護下の状態を承
認する
12月18日、グロバー・クリーブランドが米国公使の過
ちを認め、王政復古を求める
1894 暫定政府がハワイ共和国誕生を宣言する

1895 ハワイ人王権派が武装蜂起、リリウオカラニらが逮捕
年 される
1897 ウィリアム・マッキンリーによりハワイ併合が承認さ
年 れる
1900 ハワイ領土府が設立される。ドールが初代知事となる

1901 ジョナ・クヒオが共和党より連邦議会へ立候補し、当
年 選する
1907 ハワイから米国本土への渡航が禁止される

1919 クヒオがハワイ州の立州を訴える
アメリカ合衆国 年
ハワイ準州 1931
年 マッシー事件が起こる
1935 ハワイ立州法案が連邦議会に提出される

1941 真珠湾攻撃

1945 第二次世界大戦終結

1959 ハワイ立州法案が可決され、50番目の州としてハワイ
年 州が誕生する
ハワイ州 1974 ハワイ州知事として初の日系人ジョージ・アリヨシが
年 当選する
1978 ハワイ語が州の公式言語となる

脚注
注釈
1. ^ 文字を持った例外的なものとしてはイースター島のロンゴロンゴが挙げられる[4]。
2. ^ 1820年から始まるキリスト教化の一方で、キリスト教の教えに矛盾するハワイ固有
の文化や伝承を消滅させてしまうのは惜しいと考えた研究者らの手によりクムリポは
欧米人たちによって古くから英訳の試みがなされていた[10]。1823年にA Narrative
of a tour through Hawaii in 1823という現地人から聞き取ったハワイの神話や伝説
を盛込んだ旅行記を出版したウィリアム・エリスをはじめとして、1940年のマルサ・
ウォーレンによるハワイ神話の集大成 Hawaiian Mythology など、多数の史料が出さ
れている[11]。
3. ^ クムリポにおいてはハワイの王族はタヒチから来た家系に由来するとされており、
その時既にハワイにいた先住民にフラやパーカッション、儀式や儀礼を伝えた、とさ
れている。
4. ^ このハワイ(Hawaii)という名称に関しての由来は諸説あり、最初に発見したポリ
ネシア人ハワイ・ロアから取ったとする説[18][19]、ポリネシア語で「小さな故郷」を
意味する「ハワイキ」から来たとする説[20][19]、ポリネシアの西方にあるとされる伝
説の地ハワイキに由来するとする説[20]、紀元前7世紀から3世紀にかけて形成された
ポリネシア基語サワイキに基づくとする説[20]などがある[21]。
5. ^ 1789年のロバート・グレー(アメリカ)、1791年のマヌエル・カンペル(スペイ
ン)など[28]。
6. ^ 宣教師リチャード・アームストロング、1844年教育指導大臣就任、ニューヨークの
弁護士ジョン・リコード、1844年法務大臣就任、スコットランドの医者ロバート・ワ
イリー、1854年外務大臣就任、アメリカの宣教師団付の医者のジェリット・ジュッ
ト、内務大臣就任、弁護士ウィリアム・リトル・リー、最高裁判所判事就任など[35]。
7. ^ ハワイ駐在公使ジェームズ・マックブライドが国務長官ウィリアム・スワードに宛
てた1863年10月9日の報告には「ハワイ諸島のために過去40年にわたり親身を尽く
し文明を授けたというのに、イギリス人による支配を認めることはアメリカ人に対す
る不義である」と記されている[40]。
8. ^ カラカウアは真珠湾の独占使用権に反対したが、ヘンリー・カーターらの働きかけ
により、7年という期限付きでの独占使用が認められた[44]。
9. ^ ベイオネットは「銃剣」を意味し、威嚇のもとに強制的に調印された憲法であっ
た[45]。
10. ^ 『ハワイ・さまよえる楽園』(p.93)で中嶋は、「この回答はスティーブンスの独断
であり、正式なものではなかったが、アメリカが暫定政府側に付く事でもはや降伏し
かできないという印象操作を行うためのものであった」と解説している。事実、当該
内容の報告を国務長官ジョン・フォースターが受け取ったのは1月28日であり、暫定
政府を追認せざるを得ない状況になってからであった[51]。
11. ^ 亡き夫ジョン・ドミニスの収集していた骨董の銃器であり、リリウオカラニが所持
していたわけではなかった[58]。
12. ^ 若い女性一人に対する同年代の男性の割合が150人から1000人となった[68]。
13. ^ 1991年『ホノルル・アドバタイザー』は、日本の対ハワイ投資の調査結果を次のよ
うに発表した。1986年12億ドル、1987年14億ドル、1988年18億7000万ドル、
1989年27億8620万ドル、1990年37億8410万ドル[79]。
14. ^ 1987年、ハワイカイの高級住宅176件を買収、1988年、ヘンリー・カイザーの邸
宅を4255万ドルで買収など[80]。
15. ^ 1987年、ココナッツ島を870万ドルで買収、翌年2000万ドルで売却[80]。
16. ^ ケニス・レヴェンサル社の調査では日本の対米不動産投資は、1988年がピークで
165億4000万ドル、1990年の投資額は130億6000万ドル、1991年の投資額は50
億6000万ドル。うち約33%がハワイ州への投資であった[82]。
出典
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参考文献
ハワイの歴史通史
中嶋弓子 『ハワイ・さまよえる楽園 民族と国家の衝突』東京書籍、1993年。
ISBN 4-487-75396-1。
矢口祐人 『ハワイの歴史と文化 悲劇と誇りのモザイクの中で』中央公論新社〈中公
新書〉、2002年。ISBN 4-12-101644-0。
山中速人 『イメージの<楽園> 観光ハワイの文化史』筑摩書房〈ちくまライブラリ
ー74〉、1992年。ISBN 4-480-05174-0。
Daws, Gavan (2002) (英語). Shoal of Time: A History of the Hawaiian Islands.
University of Hawaii Press. ISBN 0-8248-0324-8
論集
後藤明、松原好次・塩谷亨編著 『ハワイ研究への招待 フィールドワークから見える
新しいハワイ像』関西学院大学出版会、2004年。ISBN 4-907654-56-1。
テーマ史
ハワイの神話
Beckwith, Martha Warren (1977) (英語). Hawaiian Mythology. University of
Hawaii Press. ISBN 0-8248-0514-3
後藤明 『南島の神話』中央公論新社〈中公文庫〉、2002年。ISBN 4-12-203987-
8。
後藤明 『ハワイ・南太平洋の神話 海と太陽、そして虹のメッセージ』中央公論社
〈中公新書〉、1997年。ISBN 4-12-101378-6。
ハワイ王国史
猿谷要 『ハワイ王朝最後の女王』文藝春秋〈文春新書〉、2003年。ISBN 4-16-
660300-0。
ジョン・タナカ 『ハワイ王国物語』佐々倉守邦訳、JTBパブリッシング、2007年。
ISBN 978-4-533-06777-8。
文化史
石出みどり 『これならわかるハワイの歴史Q&A』大月書店、2005年。ISBN 4-272-
50209-3。
矢口祐人 『ハワイとフラの歴史物語 踊る東大助教授が教えてくれた』イカロス出版
〈素敵なフラスタイル選書〉、2005年。ISBN 4-87149-690-2。
山中速人 『ハワイ』岩波書店〈岩波新書〉、1993年。ISBN 4-00-430291-9。
テランス・バロー 『Un-Official Hawai'i Book』原蓉子訳、集英社、2002年。
ISBN 4-8342-5079-2。
移民史
足立聿宏 『ハワイ日系人史』葦の葉出版会、1977年。ASIN B000J8XZXW (http
s://www.amazon.co.jp/dp/B000J8XZXW)。
沖田行司 『ハワイ日系移民の教育史 日米文化、その出会いと相剋』ミネルヴァ書房
〈Minerva21世紀ライブラリー35〉、1997年。ISBN 4-623-02718-X。
ロナルド・タカキ 『パウ・ハナ ハワイ移民の社会史』富田虎男・白井洋子訳、刀水
書房〈刀水歴史全書〉、1986年。ISBN 4-88708-071-9。
外部リンク
延江俊輝 (2000年7月30日). “ハワイの神話と伝説-創世神話クムリポ (https://www.l
egendaryhawaii.com/genesis/p01)” (日本語). 2009年6月28日閲覧。
延江俊輝 (2001年6月3日). “ハワイの歴史 (https://www.legendaryhawaii.com/hist
ory/p01)” (日本語). 2009年7月12日閲覧。
延江俊輝 (2000年7月30日). “ペトログリフの作られた時期 (https://www.legendary
hawaii.com/petro/p02)” (日本語). 2009年7月12日閲覧。
延江俊輝 (2000年7月30日). “ハワイ開国初期の来訪者 (https://www.legendaryhaw
aii.com/research/p03)” (日本語). 2009年9月6日閲覧。
延江俊輝 (2000年7月30日). “ハワイ神話の研究書 (https://www.legendaryhawaii.c
om/archive/p01)” (日本語). 2009年9月6日閲覧。
ハワイ州観光局. “ハワイの歴史とスピリット (https://web.archive.org/web/20101
216091303/http://gohawaii.jp/history/story/03.html)” (日本語). 2010年12月
16日時点のオリジナル (http://www.gohawaii.jp/history/story/03.html)よりアー
カイブ。2009年7月12日閲覧。

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