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『音楽の哲学入門』における崇高-『判断力批判』を引き合いに

はじめに
グレイシックは既存の哲学の系譜をなぞりながら、音楽の哲学における立ち位置について分析してゆく 。
そして、彼は本書の中で、至る所でカントを引き合いに上げる。1しかし、グレイシックはその崇高論において、
カントの主張の肝となる部分を取り入れずに語るように思われる。つまり、ある鑑賞者が崇高の念を抱く
際、そこには理性理念との直面があるという点だ。
本稿は、彼が意識するカントの議論、とりわけ『判断力批判』第 2 章「崇高なものの分析論」を確認しな
がらグレイシックの議論の射程を確認するものである。2

1.グレイシックとカントにおける崇高論の概要
グレイシックは本書の中で、崇高の経験について以下のように述べる。

「美と崇高という二つのカテゴリーは、美的反応の違いによって特徴づけられる。」

「以前に述べたように、崇高さの感じは、圧倒される感じに伴う畏怖・驚き・感嘆・(高揚感にまで至るよう
な)快によって特徴づけられる。(中略)崇高さの経験に強い生理的反応が伴っているからといって、その
経験が世界に向けられた判断を含んでいることを見失ってはならない。それは、並外れて特別で語りえな
いものを前にしているという判断である。この判断は、それに先立って生じる連続した二つの判断に依存
していると思われる。まず、自分が認知的混乱に陥っているという判断がすぐに生じる。次に、圧倒的な光
景や出来事の前では自分など取るに足らないものだという認識が生じる。(中略)およそ知覚者は、 知覚
している自分と知覚される対象との区別を失ってしまうのである。」(p.167)

これにあたり、まずはカントの崇高についての見解を確認しよう。ここではドゥルーズの整理が端的である
ため概観として引用する。

「〔対し〕〈崇高〉においては、構想力が、形式の反省とは全く別の活動に身を委ねる。崇高の感情が経験
されるのは、無定形なものないしは奇異な形態のもの(広大さもしくは威力)を前にした時である。ならば、
すべてはあたかも、構想力が己自身の限界に直面し、その極大へと向かうように強いられ、その力の果て
る点までこれを引っ張っていく暴力に耐え忍んでいるかのごとくに進行していることになる。(中略)一見し
たところ、われわれは、われわれの構想力を無力へと追いやるこの広大さを、自然対象に、すなわち、〈感
性的自然〉に帰しているように思われる。だが、実のところ、感性界の広大さをひとつの全体にまとめ上げ
ることをわれわれに強いるのは、理性以外の何ものでもない。この全体は感性的なものの〈理念〉である
が、そうであるのは、感性的なものが、その基体になるものとして、叡智的ないし超感性的な何かを有して
いる限りにおいてのことである。それゆえ、構想力を駆り立てて、その力の限界へと推し進めるもの、構想
力の全能力は〈理念〉に比すれば何ものでもないことを認めるよう強いるもの、それは理性に他ならない

1
彼は第 1 章 5 節で「哲学は良いアイデアが力を持ち続けることができる領域である」とし、『判断力批判』を自らの議論で
援用するハンスリックを紹介し、彼の立場を確認している。
2
引用部における下線部は本稿執筆者によるもの。また、ペーター・サンディの引用部は仏語版を執筆者が訳出したもの。
ということを構想力は学ぶのである。」『カントの批判哲学』(pp.104-105)

まとめれば、グレイシックにおいて崇高とは美的反応の一種であり、それがある芸術外のものを指し示す
ことはあれども、芸術の持つ特異な一属性なのである。他方カントにおいては、崇高は構想力の敗北を
もってして理性理念の圧倒性の前に生じる経験であるのだ。
以上を踏まえ、グレイシックの立場との合致点、相違点を確認してゆこう。

2-1 引用者としてのグレイシックの立ち位置
グレイシックがその崇高論においてカントを引用するのは大きく二箇所である3。
第一には、「崇高な」芸術解釈における近代の論者としてのカントである。グレイシックは、本書第四章二
節において「近世の多くの著述家にとって、崇高なものの典型は、山岳地帯や火山の噴火、暴風雨といっ
た人を圧倒する自然現象であり、芸術が崇高だと考えられることはほとんどなかった」とし、カントが「崇
高な芸術」を言葉にするのに苦心したと述べる。
第二には、崇高さを主観的なものとする論者としてのカントである。グレイシックは、同章四節において『判
断力批判』から「崇高さは自然のうちにあるのではなく、我々の心のなかにあるにすぎない」と引用する。
本稿で話題にしたいのは、まさにこの点である。
そしてグレイシックは、「典型的な崇高さの経験には、何か果てのないようなものの経験が」、「物事の
仕組みや範囲を設定するために通常使われる能力が圧倒される経験が必要になる」と述べるのだ。そう
した経験は、主に「知覚・認知システムを圧倒する何か」の直面に伴うものである。また、本稿 1 における
引用で示した箇所を再確認すれば、彼にとって、「崇高さの感じは、圧倒される感じに伴う畏怖・驚き・感
嘆・(高揚感にまで至るような)快によって特徴づけられる。」また、「その経験が世界に向けられた判断を
含んで」いて、この判断はそれ以前の「自分が認知的混乱に陥っているという判断」および「圧倒的な光
景や出来事の前では自分など取るに足らないものだという認識」に依拠しており「 知覚している自分と知
覚される対象との区別を失ってしまう」のであった。
グレイシックのこの立場は、カントの見解と全く一致するように思われる。カントにとっての崇高は無限
性に通ずるものであり、それは構想力、つまり日頃我々の判断において作動している能力/システムが圧
倒される経験であるからだ。

「自然が、したがってその現象において崇高であるのは、その現象の直観が 自然の無限性という理念
をともなう場合である。いま述べた件が生起するのはところで、私たちの構想力が最大限の努力を払って
も、対象の大きさを評価するさい、なおそれに適合していないという事情をつうじてのみ可能である。」
(p.196)

また、ペーター・サンディは以下のように述べる。
「どうあれ、崇高は本質的な不安定性を生み出すことによって果てしない視点を映し出す。言ってみれば
崇高は、視点の解放が不可能であるような視点をあらわにしているのだ。崇高はもはやあるいはまだいか
なる視点もないところ、Standpunkt のないところ、見、評価し、測定し、そして判断するための立脚点のな

3
本稿では省くが、同章五節において崇高さの表象として挙げられるゴッホとフリードリヒの絵画において、リオタールがそ
の影響もととして、カントの崇高の分析論を指摘するという記述において、カントは間接的に言及されている。
いところから始まる。それはつまり、どこかに見るための足場を確保することの不可能性である (auf diesen
Fuss zu betrachten)。」

しかし、グレイシックの引用はカントの崇高論における意図とあまり添わないように思われる。その理由を
確認したい。

2-2 グレイシックとカントの相違
グレイシックの引用に疑問が残る点は、2-1 の二点目で確認した、崇高さを主観的なものとする論者とし
てのカント像である。
この点は、以下二つの視点から指摘しうるように思われる。
一点目には、カントはその主張の中で、崇高とは心的現象に過ぎない、ということに力点をおいている
のではないことが挙げられる。崇高をこころに抱いた鑑賞者は、そこで「尊敬」の感情を覚えるのだ。それ
は理性理念への「尊敬」であり、またそれは「ア・プリオリに認識しうる唯一の感情」、つまり一種の人間の
基盤である。「崇高」の経験の際にこの「尊敬」が現れることを踏まえれば、崇高が心的現象であるに過ぎ
ないとしてある種の非実在的なものとみなすような論者としてカントを使うことができないことを意味する。

二点目には、グレイシックの「崇高なもの」の美的反応としての立ち位置である。彼が「美しいもの」と
「崇高なもの」を同じ次元における並行した別の判断として語るとは、 1 の冒頭で示した通りだ。しかし、カ
ントにとってその両者は全く原理的に別のものなのだ。

「崇高なものと美しいものとのもっとも重要で、内的な区別は、しかしおそらくつぎの点にある 4(中略)自
然美は、かくてそれ自体として適意の対象をかたちづくる。これに反して、私たちのうちに崇高なものの感
情を、理屈抜くにたんに把捉することで惹きおこすものは、形式からすれば私たちの判断力にとって反目
的的なものであることはたしかであって、私たちの呈示する能力に適合しておらず、構想力に対していわ
ば暴力的なものであるかのようにあらわれるとしても、しかしそれにもかかわらず、かえっていっそう崇高
であると判断されるのである。」(p.181)

前者が構想力の範疇におさまるのに対して、後者はそれでは太刀打ちできない次元のものなのである。
そしてこののちに、カントはその実践的な「取り違え」について言及する。こころに浮かぶ崇高の念を、理
性理念ではなく、目前の自然物や対象に投影してしまうというのだ。そして同時に、理念への尊敬が客体
への尊敬と「取り違え」られる。グレイシックは主観論者としてのカントの引用ののちに「崇高さ」への唯物
論的な反駁を紹介し、それに再反駁してゆく形で論を進める。しかし、そもそもカントにおける「崇高」が上
のような仕組みで成り立っており現実的な「取り違え」が認められている以上「自分の体内で生じた何ら
かの化学反応や神経発火を主観的に意識しているにすぎない」としてカントの引用から続けることはでき
ないであろう。

4
カントはここで「私たちは当然のことながら、ここで第一には、ひとえに自然のさまざまな客体における崇
高なものだけを考察に引きいれるとしよう。」として、芸術についての崇高なものは自然におけるそれと一
致するという条件に制限されるということを引き合いに、断っている。
おわりに
カントがその崇高論の肝においているのが理性理念である以上、崇高さを主観的なものとする論者と
して退けるカント像には無理があるのではないだろうか。
カントは、「私たちが語りうるのは、“対象が崇高さの呈示にかなっている”という以上のこと」ではないと
述べる。グレイシックは「記述が限界に達し、思考や伝達内容が真とか偽とかで評価できないような地点」
において生じるものとして崇高を述べ、崇高な音楽の経験が神秘を啓示しうるということについて肯定的
な評価を与える。ここで「神秘」というものをカントの理性理念になぞらえて考えることはできないだろうか。
本書は「音楽の哲学」への入門書であり、また日常的な経験が重視される論の展開である。その論法
をうまく押さえながら、今後また確認してゆきたい。

参考
Peter Szendy, Kant chez les extraterrestres. Philosofictions cosmopolitiques, Paris, Minuit, 2011, p127.
カント『判断力批判』熊野純彦訳(2015)作品社
ドゥルーズ『カントの批判哲学』國分功一郎訳(2008)(pp.104-105)

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