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2017年8月26日~10月27日

鉄の消えた地球
玉藻 力

はじまりは南半球の古い安定した大陸だった。オーストラリアのビルというビルが崩れ、
数多の車両があっ、と消えたのだ。これと同時に台所のほとんどや水道管の大部分がなく
なる。通りではマンホールがどこかへ隠れた。日曜日の朝なのは幸運だったと言えるだろ
う。
「きゃっ。なにこれ。ちょっと、あなた。あなたったら!」
「うん。ううん」
「あれ、おかしいな。シャワーが。次の雨を待つか」
がくっ。
「うわっ!いってえ。右足が落ちた。どうしてこんなところに人の入るマンホールがない
んだ」
紅い土はいびつなクレーターに変わった。1000mほど凹んだところもある。ラテラ
イトの消失。
そのとき、日本に向かうタンカーはピッチング、ローリング、ヨーイングの末、ヒービ
ングを断末魔にして海域に沈む前にいなくなった。飛行機だった時空から時速200km
で乗客たちらしき雨が自由に降る。残ったのはすすのような炭素の粉のほか、プラスチッ
ク、ゴム、木、ガラス、炭素繊維、非鉄金属であった。これらはそのまま落ちたり、浮か
んだり沈んだりした。車両では、高速道路や高速鉄道を除き、なんとか無事だった。助け
てくれた慣性によるすり傷がなかなか治らなかったようだ。ただ、交差点や下りの山は悲
惨だったという。瞬く間に消える親日鐵と真日本鋼管。自動車や重工業産業もやや遅れて
消滅した。プルシアンブルーなどの花紺青も消滅し、北斎と広重が草葉の陰で悲しむ。乗
りものはどうすればいいのか?世界には馬車が、日本には牛車、駕籠、人力車があった。
世界中で多くの死傷者が出た。日本の新聞では『玉藻の前の嫁入り』事件と呼ばれる。
間もなく識者や評論家に高官が集まり、対策を練ろうとしていた。
「今や鉄がないことは火を見るより明らかです」
「金を失ったわけですな。我々は。我らが鐵にしておけばよかった」

- 1 -
「鉄は熱いうちに打て、と言われております」
「その鉄がないんじゃよ」
「ここは一つ、錬金術で」
「錬金術は化学技術、魔術、呪術でしょう。物理の問題です。そんな無鉄砲な」
「人類の使える鉄はストロマトライトとか、植物とか。生物によるところが大きいのでは。
私のこれまでの研究では」
「あの焼き直しの」「事なかれだった」
「後光の七光りでしたかな」「日和見」「洞ヶ峠」
公の辺りはその程度だった。学術の世界では好奇心の方が強かったのかもしれない。シ
ンポジウムの議題は<鉄イオンはなぜ消えなかったのか?>
「鉄イオンは2+や3+で電子2つとか3個の-とめぐりあえば電気的な中性を超えて対
消滅であります。生まれた光はどこへ行ったのか?γ線もしくはX線として宇宙へ散乱し
て見えなかったのがその論より証拠です。コヒーレントな光でも波長多重なら1波長あた
りのエネルギーはごく小さなものです」
「荒唐無稽にも程がある!鉄以外に周りを守られて±0だからだ。ちがうかね」
「では、鉄イオンだけのときはどうでしょう?鉄イオン単独でも存在していますわ」
「ぐうっ」
どうして『ニセ・似非・疑似物語』みたいな科学はなくならないのか?きっと、鉄と鉄
イオンは外づらの殻、ものがちがうからである。いやいや、鉄イオンが消えると動物かつ
植物はいなくなって話が一行しか続かないからだ。と自問自答する者もいた。
「まずは、鉄の代わりを見つけることではないでしょうか」
「そうだな」「そうね」の200か国以上の言葉で会場はがやがやし、第1回の討論会は
終わった。

慣れとは恐ろしくも怖い。すでに人びとは鉄のない暮らしを楽しんでいた。たった一つ
を除いて。「ないなら、つくれば」よいが、これは先の軽くて薄い口を叩いた錬金術。星
の中でつくられるものをヒトがするのは畏れ多い。「ないなら、ないでその日の風」だっ
た。昔は鉄などなかったのだから。さきたま古墳に眠っていた鉄剣よりも前のような生活
に戻ったのだ。少し不便になったものの、使えない材料は鉄だけなので、慣れるのにさし
て時間はかからなかった。後の歴史家には新青銅・樹木時代、非鉄金属桜花文化と呼ぶ人
もいた。木材の資源はないものの、技術では日本の知恵が役に立った。でも、本当の恐怖

- 2 -
は目に見えないものではないだろうか。
地球の中心核はほぼ鉄であり、その質量はかつての地球のだいたい1/3である。だか
ら、この時代の重力ではかつて体重60kgあった女性たちが40kgを切る。月の4倍
くらいだ。それらの女性は地表面から浮き足立ってふわふわ歩き、夢のような世界とほく
そ笑んでいた。ただ、地球の自転は速くなっていたので、本当はもう少し重かったのであ
るが。筋肉への負荷が変わる。軽い方へ。それは、こういうことだ。
ほんの半年足らずで足、腕、首の筋力が落ちた。自分で気づかないだけである。一年後
には脳が萎縮している人間が増えてきた。大脳新皮質の厚さがおよそ0.2mm薄くなり、
小脳の体積がだいたい5%減ったのだ。年齢とは無関係であり、文章に触れず、運動をし
ない者に多い構造の変化であった。今のところ自覚もなく、無症状だったのが救いなのか
もしれない。発見者は<進行性重力依存型脳神経細胞消失症候群>と呼んでいた。
すべての重さが軽くなった。軽くて困ること。を人びとはまじめに考えはじめる。
「空気が薄い」
「からっ風が吹かなくなったなあ」
「高気圧と低気圧のちがいがわかんない」
「なんか3月になるとさ。肌痛いよね」
「早く塗りぬりしなきゃ」
「オゾン層の体積が半分だって!」
「先生。素潜りで50mとんぼ返りできた!」
「はいはい。窒素酔いじゃなくて、自分に酔わないでね」
異常気象で説明できるうちはよかった。すでに月が離れはじめており、潮の干満に歪み
が出ていた。海の生態系がゆっくりと崩れてゆく。地球の公転軌道もずれ、離心率が大き
くなってより楕円らしくなった。火星と衝突するおそれを指摘する惑星科学者もいた。年
の平均気温も下がってきた。
「セカンド・スノーボール・アースへの恐怖!」と牛車の扉、
駕籠の側面、人力車の梶棒にマスコミが躍っていた。
夕暮れの商店街は大渋滞。
「鉄はないけど、この杉とゴムでできた自転車いいわね」
「そうね。チェーンと変速器はアルミだし、花粉症も減ったし。私たちは男みたいにあま
り遠出しないから」
「でも、旅行がねえ」

- 3 -
「足と帆船があるじゃないの」
「雨、風、荷物に弱いし」
「それは言いっこなし。ね?」
銅器で名高い燕市の名工なら。
「俺はここで。この街で鉄一筋に生きてきた。これは廃刀令に同じ。今さら」
「あんた。本町通りのおかみさんから新しい包丁の注文入ったよ」
「よしきた!ファインセラミックスでいいか聞いてくれ」
庶民はいつの時代もたくましい。みじめだったのは髑髏製鋼と日散自動車だった。
鉄のない生活に慣れながらも綻びが見えはじめたころ、海洋学者から深海に避難するの
はどうか?という提案があった。海はこれまでとちがうとは言うものの、冷めにくく暖ま
りにくい。陸に比べればまだ温室である。水圧も小さくなった重力をうずめてくれるであ
ろう。問題は、どうやって全人類を移民にするのか?陸上のいきものを見捨てるのか。
「我々は人工物に囲まれてきました。ヒトがいちばん脆いのではないでしょうか。これは
地球の与えた6回目の試練なのです」
とその科学者は結んだ。
特に批判も反論もなく、各国で移住の計画が持ち上がり、場所は水深200mまでの大
陸棚に決まった。ここがいちばん豊かな海であり、行きやすく帰りやすいからだ。海のな
い国は、沿岸国に一時金を払い、契約書に1年ごとの借地の賃貸料と将来なら見込めるで
あろう自国の農産物や地下資源の交換率を記し、海へ入る腹づもりだった。居住ドームと
発電所や上下水道などのインフラの建設は、初めこそ人が行ったけれども、それと同時に
製造された自己増殖するマリン・オートマタのAl(アルミニウム)合金製の手足で進め
られた。大変な難事業であったが、このときの人類はわずか8億人であり、それほど手間
はとらない。陸の動物や植物は、かつての南極のように見捨てられた。実験に使うマウス、
ラット、サルを除いて。みな人間よりたくましいのだろうという楽観とともに。すべての
人類を収容する居住ドームは5年でできた。その数、二百余り。農業と畜産業は、LED
や有機EL照明、合成肥料、魚肉肥料、人工飼料、はんぺん、海藻エキスで賄った。野菜
やくだものもできたが、すべてミニサイズであった。ただ、マリン・オートマタも8億体
いた。
新たな問題の発生である。海底生活を支えるには1億体あればいい。自己増殖する機能
はNi(ニッケル)合金でつくられた古代のハード・ディスクに格納されており、設計図

- 4 -
は基地局から超音波で送られる時限消滅プログラム付きのデータである。壊れやすいので、
反抗や反乱は仮に起きたとしても短い間。「もったいない!」という声がアフリカの諸国
から上がる。

ガーナの奴隷海岸を臨む第4回ソルトペッパー会議。それぞれの手元には5つの議題が
記されたプログラムがあった。みなさん。鉄がなければ私たちは地上へ戻れません。是非、
地球史と共にある我々人類の英知を結晶化しようではありませんか。
「8億総合活気世界」
を議長は高らかに宣言した。ぱら。ぱら。ぱら、ぱら。ぱらっと拍手があった。
①核の陰陽遺跡の地下で実験核融合炉
わたくしどもの国には、もはやマグマにしかないウランのヒロシマ、プルトニウムのナ
ガサキ・モンジュ・フゲンの遺跡があります。人口の減少とともに周りを緑で潤し、国民
を陰に陽に守ってくれた国立公園であります。実は、これらの地下に核融合炉をつくる計
画が70年前からありまして、いえ。まだSi(シリコン、ケイ素)+Siは実験段階で
はありますが、「きれいな国ニッポン・ジャパノロジー」の百年構想であります。・・・・
そもそも、陽出ずる国から落日旗までシナツヒコの神風吹く大和魂と大和撫子におきまし
ては、砂の鉄からたたらを踏んで銅鐸ないし銅鏡から鉄の剣へ日本刀の武と国宝を極めた
のであります。
「博士」
「はい。私は広報官であります」
「新しくつくっても、また消えてしまうのでは?」
「それもそうですね」
この男、自分に酔ってるわ。本当にニホン男児なのかしら。あれ?ニッポンかな。
②家庭用核融合タンク
私たちはすでに人工の熱核融合の技術をだいたい確立しております。すなわち、炭素繊
維箱のすき間に人工ダイアモンドを満たして入れものにし、超流動の液体ヘリウムで冷却
した超伝導コイルに交流を流して磁場をつくり、海水から抽出した重水素+三重水素のプ
ラズマを閉じ込めます。小さな太陽のように莫大なエネルギーが出るため、安全を優先し
てほとんどの熱を家庭用核融合タンクから今は深海へ捨てております。資源の無駄づかい
とも言えますし、海洋の環境を破壊しているとも申せます。このサイズでHe(ヘリウム)
+Heももう間近です。「ゆくゆくはご家庭でもSi+Siの熱核融合から出るゴミの鉄

- 5 -
を売鉄であります!」と2番バッターはホームランを夢見て声も高らかに放った。
「こことあそこ。無理ね」
「論理飛躍」
「荒唐無稽じゃな」
「頭おかしい」
一礼して下がった。
③海溝に重金属を投下
鉄がないのなら、代わりをつくろうではありませんか!まずは、重さが大切であります。
とすれば、かつてのRoHS指令の柵を乗り越えて重金属を使うほかはありません。人工
の放射性物質もよろしいのですが、原子量が大きくなればなるほど危険な未知との遭遇で
あります。すなわち、速すぎる+のα、-のβや小さい波のお化けみたいなγにより、気
の遠くなる億年の崩壊へいざなう半減期であります。これらがDNAのほんの一部たる遺
伝子のA,T,G,Cの組み合わせを痛めつけるのは、みなさんもご存じの通りです。まさ
に今、・・・・。20分も続いて予定を押した。
「ご高説はごもっともで、おっしゃる通りですが。それは不法。いや、失礼。合法投棄に
なるのですか」
「もちろん、各国の超法規である憲法に則っております」
「地殻でなければいいということでしょうか」
「え。ま、まあそういうことです」
「重金属の循環は解明されていませんし、マントルまではどのようにして」
「あの、その。それを火口に」
(不法投棄じゃん)
④遅延式核分裂爆弾をマグマへ
わーたしの国では、ニホンの歴史を踏まえ、プルトニウム処理の確固たる技術にビキニ
観賞。いえ環礁を破壊した水素爆弾の罪を滅ぼす破滅的な。もとい建設的な原子核干渉技
術を罪重ね、いいえ重ね合わせ、これからの教科書となるような遅延式のテクスト核分裂
爆弾を開発いたしました。もちろん遅延式とは、多重の耐熱壁で保護した爆弾の逐次投下
です。さらに、ざっと言えば不要な過去の遺物であったプルトニウムが増えるみたいな高
速増殖炉のようなものも投入します。やはり、シュールな。いえ、女性だけでなく男性の
みなさんも現実へ過剰に近寄って今、確実にできることをしなければなりません。もとも

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と地球にあったものを還すだけですの。壊変とか崩壊しますけれど。少しだけですわ。
「ボンソワール。マドモワゼル」
「ウイ」(どちらの殿方かしら)
「何発くらい必要ですかな」
「億は下りません」
⑤「公立の小中学校に、」
「ちょっと待ちなさい」
「発表の途中ですが」
「うるさい」右に向き直って「子どもたちになにをさせる気だ!」
「いや、あの。鉄のふしぎとか鉄学を必修に」
「下らん」
会場はややざわついた。
「錬金術ならぬ、錬鉄じゃな」
「どれも非現実的ですわ。生活からはかけ離れています」
「ですが、このままでは人類が不自然な進化を」
「今、も自然なのでは。と私は確信していますの。生物はいつも身の回りを利用してきま
した。新しさに目を奪われる時代は終わったのかもしれません」

空気は人の手やマリン・オートマタの手足だけでは生産に時間、場所をとるので、地上
の空気を液体にしてパイプラインで海中のドームに運んでいた。これを気化するとき、供
給の効率を高くするため、30%ほど高濃度の空気としてドーム内に撒いていたのだ。そ
ういうわけで、みなが多少の差はあれ、窒素分子を過剰に吸っていた。研究者は少し夢見
がちなところがある。夢や理想も大切だが、生活、締め切り、ノルマ、お客さまを蔑ろに
はできない。技術者と営業マン・ウーマンも海で奮闘していた。ストロマトライト類、ひ
じきや天草の養殖と改良、鉄の代わりを模索してご近所のMn(マンガン)、Co(コバ
ルト)、Ru(ルテニウム)、Os(オスミウム)の組み合わせに挑戦などだ。マグマダイ
バーという新しい職業も生まれた。学者たちも負けじとばかり、隕石の誘引、火星・金星
・水星の探査と着陸、木星は遠くて重力が強すぎるも衛星のイオに光あれと対抗していた。
もちろん、理学と工学が手を取って安全な人工の核融合への挑戦も進められた。エネルギ
ーの集積に重力、温度、圧力、熱効率の壁、量子サイズでの試みなどであった。その甲斐

- 7 -
あって、しくみはブラックボックス(D→f(D)→E)のままだが、海底で電気をなん
とか効率よく確保できた。これにはすべて接続されたマリン・オートマタたちの二交代制
による実験・観察・分析の試行錯誤があった。鉄不足の慢性化は続く。
一方、見捨てた陸上では、植物と菌類に古細菌も加わって鉄に代わる金属を探しはじめ
た。ヒト以外の動物はそれらを取り込みつつ、弱い重力と自転速度の増加で大きく進化す
る兆しを見せる。動植物は生存に必要のない争いをしない。さながら楽園のようであった。
ただし、進化の向きと大きさはあてのない矢印たるベクトルである。地球のプレートと同
じく、ゆっくりと進むのだ。だがしかし、一点に向かって急に走り出すこともあるのだろ
う。
人類は海中に慣れてきたが、地上へ引かれるこころを消せなかった。いつでも生命のゆ
りかごであった海の暮らしは思いの外、心地よかった。今の地上ではもっとも弱くても、
海では頂点に立ったと思いたかったのかもしれない。こころは微生物さえ持つ。と考える
ヒトも増えてきた。こころに謙虚さとゆとりができたからであろう。ヒトは鉄が消えた原
因を真剣に考えはじめる。由緒ある国際会議は、二十年を節目にくじ引きで一般の人びと
を招待していた。海中旅行とか海底32000km、海底博物館、海嶺・海溝ツアーなど
の感覚の人も多かった。
「おお、なかなか見られるもんじゃない」
商魂たくましく、しんかい10000を量産する業者すらいた。

ハワイ島の海の麓で開かれた第24回ソルトペッパー会議。
地球でもっとも多い鉄と地殻でいちばん豊富な酸素。鉄はさびやすく、酸素を運ぶのに
便利。イオンはいまだ健在なのだ。陽子も崩壊する。なら、いつどこで鉄は壊れるのか?
まず、砂のように静かな時の砂鉄に還る。それは蹉跌であろうか。酸化鉄だったら核分裂
と核融合のあいだで安定か。いや、もはや海中公園の砂場にも地上の川原にもとうに砂鉄
はない。
「ちょっと待たんか!わしの計算だと、鉄が崩壊する確率は陽子よりも少し高く、10の
右肩に32を乗せた年月くらいですぞ。そんな不思議なできごとがあっていいものかと」
「ですが、現実に中心部の鉄はなくなっております。理論はあくまでも理論でございます。
実験や観測に合わないのなら、どうか棄てる勇気を私にください。いや、お持ちください。
地震による解析で明らかであります」

- 8 -
「むう。た、確かに。では、なぜ?」
「ふしぎの芽を育て、見守ること。それが、いつの時代もわれわれの仕事だと考えます」
「思うだけでは足りないと言う訳じゃな」
「いいえ。思い込みも大切だと思います。しっかりしていれば自信になります」
「わしもまだまだ教えてもらうことがあるんじゃなあ。ははは。とんと笑いや感動など忘
れておったのに」
「恐縮です。地球の中、足の下を見ること。これは、記憶とだいたい同じなのかもしれま
せん。見えないものを見ようとする意識や無意識は、再構築である。と私は信じておりま
す」
鉄ってなんだろう?はじめから考えてみましょう。鉄鉱石、銑鉄(ずく鉄)、鋳鉄、C
(炭素)入りの鋼、Cr(クロム)とNiが入ればステンレスのSUS、ほかの鉄合金、
鉄の金属間化合物、酸化でくろがね、
「血の味は鉄か赤血球なのかヘモグロビンだろうか」
(血は血の味だよ)・・・・血以外のはなしは虚空に響く。「もっと生活に寄り添って議論
しませんか。これからきっと鉄を作る太陽と地母神の地球を」生活も女性にとっては男よ
り大切だ。だが、生活から遠く見える真理も捨てがたい。
太陽は太陽系の99%以上の質量。太陽の中心核は2000億気圧。「かつての横浜市
民330万人が私の背中に乗ったくらいですわ」1500万℃で、エネルギーが表面に届
くまで200万年。白昼なら手が届きそうな究極の核融合炉。ありし日の地球の外核は液
体Fe(鉄)合金で135万気圧~内核は固体Fe合金の360万気圧。「昔の館林のみ
なさん8万人でつくる器械体操のピラミッドくらいかしら」
たとえはわかりやすいものの、いつも近似で難しい。たかがもっとも弱い万有引力も、
集まれば常軌を逸する熱と圧力の働き。
「そんなに物理ブツリとおはじきみたいに考えるのはどうかと。鉄を食べるスーパークマ
ムシもいないとは限りませんもの。生物物理的化学。うん、もう。翻訳機の調子が悪いの
かしら。設計ミスね。地球の生理科学の視点で当てずっぽうや闇雲あるいはめったやたら
から演繹へ。翻って帰納まで」
三階の殿から波紋が届いた。
「おう!ちょいと邪魔するぜ」
もはや気分くらいしか流れない日系人の夫が一張羅のスーツを脱ぎ、間隙を縫ってくる
りと立ち上がった。鯔背な藍の法被の背に白き乾と○があざやかだ。満月ほどの明かりの

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下、妻は顔を赤らめていただろうか。そこは、くじ引きで選ばれた傍観者席であった。
「おらっちの先祖はニッポンはセンジュで1800年に創業の乾物屋よ。こちとら三十一
代目のミソヒトモジでいっ!」
「あのう。質疑応答まで今しばらくお待ちください。差し支えなければ。恐れ入りますが、
お手元の端末にお名前とご質問を入力してただけないでしょうか。必ずご期待に、とは申
し上げられませんが、きっと」
「てやんでい!インギンなのは性に合わねえんだよ。三分もらった」
妻は半被の裾の左を引っ張っているのかもしれない。
「俺が若いころは干物ならなんでもござれだった。魚はもちろん、イカ、昆布、わかめ、
干し椎茸、干しアワビ、鮭とば、ルイベ、寒天、葛・・・・それがどうだ。今もあるさ。
ハムやソーセージの燻製用の部屋で乾燥機、送風機、白熱電球でこさえたもんが。お天道
様なしでな」
みな太陽には敏感だった。
「それでなくったって、年金崩壊しても30%の消費税を払ってるんだ。お前らにゃ俺に。
いや、俺たちにはわかりやすく説明してもらう権利がある」
「あなた、やめてください」
「うるせえ!お前は黙ってろ」
「お前、とはなんですか」
「えっ?わ、悪かったよ」
この島の日系人と神奈川県座間区民だった二人は退場した。
「それでは、みなさま。たいへん長らくお待たせいたしました。ご質問を承りたいと存じ
ます。まずは、こちらで集計しましたみなさんの入力データからランダムに」
(あれ、開かないな)
ごにょごにょ。(え、なに?一つもないの)
「困ったなあ」
「あ、いえ。ごほん。続きまして、会場のみなさんでこちらの博士らにご質問のある方は
いらっしゃいますか」
・・・・(1階)・・・・・
(二階)・・・・・・(3F)(・・・・)(司会)
(あっちで黄色いじょうごの巻きが入ってるな)
「あるひと組を除いて。いや、失礼。大変わかりやすくためになったのではないかとお見

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受けいたします。以上をもちまして第24回ソルベー」
「おら、聞きたいことがあるだ」
もう終わる、明日から会えない時にこそ、本音やラブレターが出る。
「あ、はい。えーと、フランスドームにお住まいの方ですね。どうぞ」
「さっき、お日さまとか核融和のはなしがあったども」
「あ、はい」
「それはもう国際的に商標とTRIPsで守ってくれたぶどうがさ、ちっこいだ。白も赤
も・・・・ワインは、できるだ。だども。みんなようゆわんだけじゃ。光の味がせんのよ。
半胴体じゃなんかが足りん」
ちらほらと周りから声が上がり、みなの手元にちらちらと文字列が並んだ。
「じゃがいも」
「トマトを忘れるな」
「ねぎだって青いとこが。あれじゃあ、ちょっと太い貝割れ」
「紅とか碧の蒼を重ね合わせてRGBの光の三原色では、赤外線や紫外線が足りないのだ。
しょせん紛いもの。まともな作物などできはせんよ」
うん、うんとうなずきながら。「要領のいいやつばかりじゃないずら。おらみたいに不
器用な女もいるだ」
「わかりました。先生方、いかがでしょう」
水を打ったような場内。あまり季節感のない海底で沈黙の春を破ったのは、やはり最上
階だった。
「農業だけではない。我々ロシアの林業はもはや園芸に変わってしまった」
そうだ。林業ばかりじゃない、とばかりにフランス語が飛んできた。
「日本にも負けないカナダの漁業を決して忘れないでほしい。漁師はいつも養殖だけの水
産業である。春と秋に二週間ずつの沿岸表層漁を除いて。この魚たちは庶民の口に入らな
い」
「ノルウェーもだ!」
「チリをほかさないでくれ」
半袖半ズボンの男が身を乗り出した。
「いやあ、ごもっとも。BSEをごまかしでしれっとやりすごしたかの国とは異なり、私
たちオーストラリアのビーフとシープ。なんと、合成たんぱく質工業団地に成り下がって

- 11 -
しまいました」
オーストラリアドームやニュージーランドドームでは、ニッポンドームへ出家した人も
それなりにいたという。いちばん悲惨だったのは誰であろうか。
早口の音声を母国の音声に変換する未来の翻訳機であれば、ここで上を下への大騒ぎと
なるところだった。だが、この時代の最も優秀な翻訳器は先ほどの端末に表示される文字
への翻訳をするものであった。そのため、見つめて読んで考える間というクッションがみ
なを少し落ち着かせていたらしい。
言葉と想いは必ずずれる。言語をこなすとは、人工知能がおそらく超えられない壁を鍛
錬・試練・慣れで乗り越えることなのだ。訳せる言葉と訳せない言葉を峻別し、削り補う
終わりのない労働。一方通行ではない情熱なら、相手に届くはず。
それからのシンポジウムたちは建設的な干渉で進んだが、足下も見えない惑星と深遠な
恒星の溝は深く、いつも進展はあまりなかったらしい。なぜ鉄だけが地球から消えたのか?
は未来に委ねられた。ヒトの精神・思考・認識は、数万年前からそう変わらない。個人を
取り巻く世界の大きさが人類の都合で変わるだけだ。しかし、環境というものは、国やそ
れを超えた組織だけで守ればよいのではない。
「壮大だね」
「すごいね」
「しょうがないよ」
と言われながら、報われないかもしれない努力を一人ひとりで続けなければならないので
ある。周りの環境はつくることだってできる。月は小さくなった。

三万年が過ぎた。
人類、いや新たなホモ・サイレンスはK淘汰かつr淘汰と運を乗り越え、地上に再び適
応していた。脳は軽く小さくなったが、より緻密な脳神経細胞のネットワークと、その細
胞に寄生させた微生物の代謝物で鉄の消失を補っていた、いや、正確には老いによる時計
の遅れと資源の枯渇を防いでいた。この微生物はAgも食べるのだ。Agを含む植物ない
し微生物由来のサプリメントも新しいヒトに不可欠となった。その銀を含む老廃物を新し
き人は神経伝達物質として利用している。手足は細く薄く短くさえなった。
ゼットさんは研究室の非ノイマン型量子重力コンピューターを走らせながら考える。星
では、Si+Siの熱核融合で1核子あたりの結合エネルギーが最大の、つまり安定なF
eができる。これに電子を一つ加えるのだ。今ならできるはずだ。ならば、化石で発見さ
れた古代の技術を見習おう。初期のICや太陽電池で活躍した純度が99.999999999%Si
の再登場である。鉄を地球の中心部へうまく送り込むには。

- 12 -
「いや、地表に遍くゆき渡らせてもいいのでは」
鉄は星が終わる直前に生まれた。星の、そう星屑の死体。どうしてつぶれなかったのか?
「博士。太陽系の全データから割り出してみました」
「ありがとう」
和紙の質感の電子ペーパーにゼットさんは目を落とす。
(A)コアの重力崩壊。自由電子の異常な偏り。マグマが吸われている。
(B)外殻は少し残った。内核のひび割れ。
(C)マグマの最外層も固まりはじめた。地磁場が弱くなり、太陽風が吹きすさぶ。いず
れ月並みに冷える。
(D)コアがLi(リチウム)、Na(ナトリウム)、Mg(マグネシウム),Al,Si,
Ca(カルシウム)の少なくとも一つに置き換わった。
(E)現在のコアは電子の運動エネルギーと輻射圧である。
「4番目と5番目は無理があるなあ」
「蓋然性と可能性を確率や統計を加味して考慮しております」
うーん。太陽系の中だけでも惑星や衛星のテクトニクスはみなちがう。常識やデータだ
けでは科学にはならない。実験は無理でも、せめて観察できればなあ。科学もまた、人の
営み。
その三万年前、太陽系の対蹠点にある天の川銀河のδ大陰系の第三惑星。彼ら彼女たち
には地玉と呼ばれていた。そこでは、後に全玉降雨と記される長いながい雨が続く。鉄の
PM1.5である微粒子を含む赤い雨であった。地玉人はどうするのであろうか。

(参考文献)
1 残像に口紅を(筒井康隆・中公文庫)
2 地球惑星科学入門 第2版(北海道大学出版会)
3 地学(磯崎行雄、江里口良治編・啓林館)
4 シリーズ現代の天文学 太陽系と惑星(渡部潤一、井田茂、佐々木明編・日本評論社)

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