千早振る

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千早振る︵ちはやぶる︶

無学者は論に負けずで、教育のゆきとどきました今日でも、論に負けない学者が多いようでございます。
﹁ごめんください﹂
﹁おや、これはよくおいで。まァ、こちらへお上りなさい﹂
﹁ありがとうございます。今日は少々教えていただきたいことがあって伺いました﹂
﹁ああ、そうですか。教えるというほどのこともできませんが、失礼ながらお前さん方のわからないことぐらい
は何事でも、森羅万象・神社仏閣、知らないことはなかろう。いったいどうしなさった﹂
﹁へえ、恥をお話しいたしますが、実はうちの娘なんでございます﹂
﹁ははァ、お宅の娘さんが男をこしらえて駈け落ちをしたとか⋮⋮﹂
﹁いいえ、うちの娘はまだ小学校に上っておりますのでそんな気づかいはございません。その娘がわるい遊びを
覚えてまいりまして、家で勝負事をやりますので困っております﹂

千早援る
﹁勝負事というと﹂
﹁なんですか、歌がるたとかというんだそうですが、花札みたようなものを並べましておおぜいで﹃なんとかの
−1塵てなことを一人が読み上げますと、みんなで取り合っておりますので﹂

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﹁ははァ、そりゃアきっと百人一首じゃアないか﹂
﹁へえへえ、百人一緒で﹂

8手
﹁百人一緒じゃアない百人一首だ。そのむかし小倉山において定家卿というお方が古今の歌人百人から一首ずつ
集めたのがすなわち小倉百人一首だ﹂
﹁つまり百人から割り前を集めたわけだ﹂
﹁割り前というやつがありますか。百人一首なら娘さんらしい遊びで結構じゃアないか﹂
﹁それがちっとも結構ではないのでl、その歌についていろいろと聞かれるので困ります。そういうことは学
校へいって聞いてくれればいいのに、あたしをつかまえては﹃おとつつあん、この歌はどういうわけなの﹄なん
て聞きますが、あたしにはなんのことだかいっこうにわかりません。今日も友だちを集めてやりながら聞きます
から﹃おとつつあんはいまいそがしいから﹄といいますと﹃でもきせるでたばこを吸っているじゃアないか﹄な
、、、、 、、、、
んて申します。﹃おとつつあんはいまはばかりに入るところだから出てから教えてやる﹄といってはばかりへ入
りましたが、出るに出られず、これが本当の雪隠詰めで﹂
﹁なさけない人だな﹂
﹁このまンま入ったきりでもいられませんから、窓をこわして飛び出して来ましたが、どうか歌のわけてえのを
教えてください﹂
﹁おどろいたなァ、いったいそれは何という歌なんだい﹂
﹁へえ、なんでも業平とかいう人の作った歌で、千早はやはや⋮⋮﹂
﹁うん、それは在原の中将業平朝臣というお方だ。この人はたいへんにいい男でいらっしゃる。いまだに本所に
業平橋という所がある﹂
﹁そんなことはどうでもいいので、歌の方を早く教えてください﹂
﹁百人一首にある歌は﹃千早ぶる神代も聞かず竜田川からくれないに水くくるとは﹄という有名な歌だな﹂
﹁ははァ、有名な歌ですか。それはどういうわけなんで﹂
﹁どういうといって、お前、﹃千早ぷる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは﹄といえば業平の歌に
まちがいない。もし誰かがこれは業平の歌ではないなどといったらあたしを呼びにおいで。あたしが出向いてす
っかり話をつけてあげるから﹂
﹁いえ、誰もそんなことをいっちゃアおりません。あたしはただこの歌のわけを知りたいというので﹂
﹁ほほう。この歌のわけが知りたい?お前さん、あわてて取り乱しちゃアいけない﹂
﹁いえ、別にあわててはおりません。ちよいと歌のわけだけを教えてもらいたいので﹂
しろうと
﹁よくまァ、そんな大それたことがいえるものだな、これだから素人はこわい﹂
﹁へ−え、大それておりますか﹂
﹁これほどのことを聞くのなら、せめて二三日前につくように葉書の一枚も出しておくとか、そうすりやアこち
らでも支度のしようがあるてえものだ。急に飛びこんで来られてもあたしはこの忙しさのなかだ﹂
﹁なんですねえ。忙しいつたって、あなただってさっきからたばこを吸っているじゃアありませんか﹂
﹁あたしは忙しくなるとたばこを吸うことにしているんだ。それじゃア、まァ、かいつまんで話して聞かせる。
しろうと
﹃千早ぶる神代もきかず竜田川﹄というが、そもそもこの竜田川というのは、お前さん、素人了見で何だとお思
いだい﹂
かいもく
﹁皆目わかりませんねえ﹂
﹁しょうがないねえ。まるっきり気がないんだから。これだから物を教えても張り合いがない。お前さんは、こ
の竜田川というのを⋮⋮つまり、川かなにかだと思っているだろう﹂

千早振る
﹁そうですね。竜田川というんですから川の名でしょうね﹂
﹁そこが畜生の浅ましさだ﹂
﹁畜生は恐れ入りましたね。じゃア川ではないんですか。するといったい何なので﹂

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﹁あれは相撲取りの名だ﹂
﹁へえ、相撲取り⋮⋮でも、そりゃアおかしいや﹂

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﹁なにがおかしい﹂
﹁だって歌のなかにどうして相撲取りが出て来るんです﹂
﹁そりゃァ出そうと思えばなんでも出て来るが、お前さんが不承知ならこの話はやめにしよう﹂
﹁いえ、やめなくても結構です。その相撲取りがどうなりますので﹂
﹁竜田川というのは江戸の相撲だ。子どもの時からあまり力が強いので十八の時にとうとうまちがいを起こして

勘当になったため、ある関取の弟子となり摩利支天さまに酒と女を断って修業をしたというのがこの人だ﹂
﹁へえ、感心なものですねえ﹂
かか
﹁八年の修業を積んでとうとう大関にまで出世した。そこであるお大名にお召し抱えになったがその祝いに繰り
出したのが吉原だ。何しろ今まで土俵よりほかに見たことのない竜田川だから、見るもの聞くものがみなめずら
あい か た お い ら ん
しい。とりわけ敵娼に出た千早という花魁は当時廓随一という美女だ。一目見るなり竜田川がボーッとなった
ナ﹂
﹁なるほど、無理もありませんね﹂
﹁摩利支天さまに掛けた願いもこれまでというわけで、ぜひにと頼んだが千早がうんといわない﹂
﹁どうしてなんで﹂
﹁わちきは相撲取りは大きらいざます⋮⋮と、ポーンと振ってしまった﹂
﹁なるほど、売り物買い物とはいいながら花魁の見識てえものはたいへんなものですねえ﹂
﹁竜田川もそのままでは帰れない。ちょうど千早の妹女郎で神代という女がいるから、この女に懸け合ってみた
ところが﹃姉さんのきらいなものは、わちきもいやざます﹄というので神代もいうことをきいてくれない﹂
﹁たいへんに振られたものですね。それからどうしました﹂
けいせい
﹁竜田川もすっかり力を落してしまって、かりにも天下の関取りが傾城遊女に振りつけられてはごひいきの手前
もあり身の不面目、このまま土俵に上ることはできないと相撲をやめて田舎に帰り豆腐屋になってしまったナ﹂
﹁へ−え、ずいぶんあっさりと相撲を止めてしまったものですねえ。それにしてもまたなんだって豆腐屋になん
ぞなつちまったんです﹂
﹁竜田川の生まれた家が豆腐屋だったからだ。つまり家にかえって親の商売を継いだのだから文句はないだろ
宗ハーグ0−
﹁ああ、そうですか。うちの商売を継いだんならおかしいことはありませんね。それからどうしました﹂
﹁十年というものは何の話もなく過ぎたが、豆腐屋になってからちょうど十年たったある秋の日の夕まぐれ、竜
田川の豆腐屋の前に一人の女乞食が通りかかった﹂
﹁へえ、へえ、それで﹂
、、、 、、
﹁頭には破れ笠をいただいて身にはあらめのようなぼろをまとい、細い杖にすがって﹃あわれな乞食でございま
す。ご商売の卯の花をひと口なりとおめぐみくださいまし﹄とたのんだ。竜田川も﹃気の毒にさぞ腹がへってい
ることじゃろう。さァこれをやるから﹄と卯の花で大きなおむすびをこしらえて女乞食にやろうとした。たがい
に見合わす顔と顔⋮⋮﹂
﹁なるほど、いいところですな﹂
﹁お前さんの前だが、この女乞食はいったい誰だと思う﹂
﹁誰って聞かれてもあたしには女乞食の知り合いはありません。わかりませんよ﹂
﹁これが誰あろう、もと吉原で全盛をうたわれた千早花魁のなれの果てだ﹂

千早振る
﹁じようだんいっちゃアいけませんよ。だって千早は吉原の花魁でしょう。その花魁が乞食になるなんて﹂
とき よ
﹁それがつまり時世時節でしかたがない。まして乞食なんてなろうと思えばいつでもなれるものだ。お前さんな
ら明日からでもできるだろう。やってみるかい﹂

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﹁やりやァしませんよ、乞食なんぞ。どうして千早花魁が乞食になったんです﹂
﹁あまたの客をだました罪のむくい。悪い病気を引き受けたため誰もかまってくれ手がなくなって、乞食にまで

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おちぶれたんだが気の毒なものだなァ﹂
﹁なるほどね。それで竜田川は卯の花をやりましたか﹂
﹁やらない﹂
﹁なぜ﹂
﹁なぜつたってやるわけがないじゃアないか。この女のためにおれは大関まで張った相撲をやめたんだなと思う
とくやしさがこみ上げて、卯の花を地面にたたきつけると﹃ヤイ、千早、おれの顔を見忘れたか。今を去ること
十年前、この竜田川を袖にしたことをよもや忘れはしまい。心がらとはいいながらよくまァその姿で物乞いに来
られたものだ。それもこれもみんな男のうらみから、ええ、ざまァ見やがれ﹄とことばも荒く外へつき出した。
千早も大きにはじらって、﹃まことに面目もない﹄と豆腐屋の店先にあった深い井戸に飛びこんで死んでしまっ
た﹂
﹁へえエ、それから﹂
﹁それで話はおしま い だ よ ﹂
﹁そんなことはないでしょう。それから千早が幽霊になって井戸から出て、鳴物が入って怪談噺かなにかになる
んじゃアありませんか﹂
﹁ならないね。この話はこれですっかりおしまいだよ﹂
﹁どういうわけで﹂
﹁考えてもどらんよ、はじめに千早という花魁に竜田川が振られたろう。だから﹃干早振る﹄さ﹂
﹁・⋮・・ハハァ、こりやア、あの歌の話だったんですか。すっかり忘れていました﹂
﹁のんきな人だね。千早が振った上に神代という妹女郎もいうことを聞かなかったから﹃神代もきかず竜田川﹄
となるだろう﹂
﹁なるほど﹂
﹁卯の花、つまりオカラをやらなかったので井戸の水に入って死んでしまった。これがつまり﹃からくれないに
水くくるとは﹄さ﹂
﹁なるほど。水をくぐって死にましたからねえ﹂
﹁わかったかい﹂
﹁あらかたわかりましたが、たった一つわからないところがあります﹂
﹁どこがわからないんだ﹂
﹁へえ。﹃水くくる﹄まではわかりましたが、そのあとの﹃とは﹄ってえのはなんのことです﹂
﹁いいじゃアないか。﹃とは﹄ぐらい負けておきなよ﹂
﹁いいえ、負けられません。この﹃とは﹄シてえのはなんのことです﹂‘
﹁くどい男だね。﹃とは﹄てえのはネ、⋮⋮うん、そうそう、思い出した。よく身元を調べてみたら千早という
、、
のは源氏名で、とわが千早の本名だった﹂
解釈と鑑賞

千早振る
古典と呼ばれるような作品は、いろいろな角度から自由な味わい方ができてその興趣の尽きないところに魅力
とし
がある。たとえば若い時には、読んで解釈して、それでわかったつもりでいたものが、年齢を重ねて自分の経験
に照らしたときはじめて合点がゆくようなことも少なくない。もはや古典と呼ばれるような名作落語などは、野

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暮天のわたしのようなものでも年齢に応じた味わい方ができて、人知れず、あるときはニャリ、あるときはクス
リと自分なりの﹁笑い﹂をたのしんでいる。

イ0
﹁千早振る﹂などもずいぶん小さいときからのおなじみである。中学一年の頃、古文を読んで解釈していた国語
の先生が、生徒一同あまり不出来なのにカンシャクを起こして、﹁なんでもわからない言葉があったら、まずつ
、、、、
ぎの語の枕言葉ではないかと思うべし﹂と中国靴りを出して力説したことがあった。つまり落語の﹁千早振る﹂
だな⋮⋮とひそかにわたしはニヤリとしたものだが、いまでも﹁千早振る﹂を聞いていると、愚ケ︽し﹂の先生
を思い出してなつかしくなることがある。あの先生に﹁水くくるとは﹂の﹁とは﹂を質問しておかなかったこと
は本当に残念なことであった。
古今和歌集の﹁千早振る﹂の項を見ると﹁二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみ
ぢばながれたるかたをかけりけるを題にてよめる﹂という前書きがあって素性と業平の歌各一首がならんでいる。
してみると業平は本当に竜田川の景色をみて作ったのではなく華麗な障屏画の印象から作られた歌なのである。
紅葉というと高尾・竜田を想い﹁千早振る﹂の歌を思い出すが、実はわたくしは落語の﹁千早振る﹂を通じて小
倉百人一首や古今集を知り、さらにそれらを媒体として高尾や竜田を想像しているにすぎないらしい。少なくと
もわたしの頭のなかにある紅葉は、ほんとうの、あの枯れシ葉の紅葉ではなく歌や物語などフィクションによっ
て織りなされた﹁紅葉の錦﹂なのである。
日本人の人情・風俗など森羅万象・神社仏閣⋮⋮教養のすべてが内包されている﹁落語﹂は、将来、国家的文
化通産として、たいへんな持ち上げられ方をするような日があるのかも知れない。︵永井啓夫︶

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