歴史の中の拓殖大学

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歴史の中の拓殖大学

レポート
4 年生・外国語学部・英米語学科・G660012016
Alexander William (アレクサンダー・ウィリアム)

1.
私が最も強い印象を感じた事柄は、日露戦争です。授業では、日本海海戦の DVD を見たというこ
ともあり、非常に印象深く残っています。私はこれを見るまでは、日露戦争というものの大半が日本
海海戦が占めていてバルチック艦隊という当時、世界最新鋭を搭載した強い艦隊が日本に負ける
という話だと思い込んでいました。しかし、この文章を書くにあたって知らなかった事実を知るきっ
かけになりました。
日露戦争のきっかけは、ロシアが当時、不凍港を求めて南下政策を進めていき港を求めて続けて
いました。着々とアジア進出を進めるロシアに対して、日本は危機を感じ始め策を立て始めました。
しかし、ロシアがフランスとドイツに三国干渉を申し込み、その後、日本に日本が日清戦争で勝ち
取った遼東半島を返還するようにと促してきました。日本としては手に入れた土地でもあり、またロ
シアの南下政策を食い止めるためのものでもあったため、ロシアには譲りたくなかったのです。しか
しここで譲らなければ戦争になることは間違いなく、ましては、日清戦争で戦力を使い戦力が下
がっている日本にとって、厳しい選択を狭まれていくことになった。結果的に三国との戦ができるほ
どの戦力がない日本は、遼東半島を返還しました。それと同時にロシアの南下政策も増進し、日本
は危機を感じ始めました。
日本はそこでイギリスと日英同盟を結ぶことになりました。なぜ当時世界最強の国イギリスが日本
と同盟を結んだのかは、南アフリカで起きていたボーア戦争にとっかかり中でロシア相手に手が回
らず、日本を協力する形で挑むこととなったためです。そうしてついに日露戦争が始まっていくこと
になったのです。私としてはこれまでの道のりや背景から日本海海戦完勝までの間をしのぎ続け、
いくつもの戦を勝ち続けたことは日本の戦略力はとても高いものであり世界でも有数の強国だっ
たのではないかと感じました。

2.
拓殖大学は、1900 年に創立され、戦前から運営し今年で 119 年目を迎える。その大学の起源とは、
台湾がまだ日本の領土で未開拓の時でした。拓殖大学は当時、未開拓だった台湾を開拓する者を
育成する教育機関として、発展していくことになりました。台湾協会学校を設立し、初代総長には桂
太郎が就任、これが現拓殖大学の基礎となります。1907 年には、東洋協会専門学校へと改名し、
1918 年には、拓殖大学へと改名していくことになります。しかし、1946 年ごろ、海外大学だった拓殖
大学だが日本が徐々に国土を奪われていき、その影響を受けて海外に行ける国が尽きてしまいま
した。そしてさらに存立の危機にまでもさらされました。その中、世間には、「拓殖」という名前は侵
略にかかわる名前だとして、GHQ から追放を言い渡される危機までになっていました。だが、この
廃校の危機を大学名の変更により、印象を変えることに成功し、なんとか立て直すことができました
その時の改正名が紅陵大学です。同年に日本国憲法が公布され、その翌年には教育基本法、学校
教育法が公布されます。そのことを受け、紅陵大学では、6、3、3、4 制を実施し、飛び級を廃止したと
言われています。1948 年、紅陵大学(現、拓殖大学)は、七代目総長に高垣寅次郎を招くと高垣は、
これからの大学の道しるべとなる”レール“を引き、結果的に紅陵大学を廃校の危機から救うことに
繋がりました。さらに、政経学部を設置し、これをきっかけに総合大学へと発展させようとしていくこ
とになりました。その後、紅陵大学は、現、拓殖大学八王子国際キャンパスの土地、30 万坪を買収し
たのだが、この膨大な土地を十数年放置し続けていたと伝えられています。その間に、茗荷谷キャ
ンパスの補強に勤めていたという過去があります。そして、大学名を拓殖大学へと改名しました。
1967 年には、中曾根康弘氏が拓殖大学 12 代目総長に就任。中曾根総長はこの時期、他大学の
間で多発していたスポーツの不祥事に対して、拓殖大学では不祥事ゼロを目指し、「3 原則」を打ち
出しました。しかし、翌年6月に望んでいなかった出来事が起きました。空手愛好家による生徒一人
が命を落とす不祥事件が起きました。そして9月までは全学休校とし、自粛したとされています。
それからは、日本の経済も安定し、拓殖大学では、国際的分野に発展を続け、総合大学としても、
様々な学部、学科が増えて続けて、今に至るようです。

3.
この講義を履修し、最初は不安でした。留学生の私にはこの授業に付いて行けるのかどうかわから
ないまま挑戦してみました。そうして授業に出席回数を重ねるにつれ、自分が吸収しなければいけ
ないことが見えることができ、他の講義や自分のやらなければいけないことを自覚させてもらうきっ
かけとなりました。
 授業を通じて感じたことは、拓殖大学が発展するにあたって、まず今のような学び舎と言うよりは 、
一つの海外進出を目指す団体のような学校だったということを感じました。台湾への発展が著し
かったとありましたが、数年前自分は台湾へ行ったことがあり、現地の台湾の方の中でも、特に年
配の方に日本語で会話できる方がよくいたことを覚えています。
現地の方々が、直接拓殖大学に関係してるわけでは、全員にあるとは思いませんが、百年前ほど、
日本が本当に台湾を占領していたことが感じられました。また現地の方が日本語を話せることと拓
殖大学が台湾を植民地の時代に開拓したこととの関係性をこの講義を受けて改めて、感じること
ができました。
 講義を受け、改めて考えさせられたこともありました。それは、なぜ人類は昔、武装の力を使い、
領地、権力の強さを決めていたのかです。自分の考えですが、人類には考えることと言葉を使い、お
互いに考えていることを共有できる力を持っているのです。他の動物にはない、能力を利用せずに
争いごとを起こすのは、無能すぎではなかったかと思いました。今日では、どの国からも世界平和が
うたわれています。このことがうたわれるのは昔のような失敗があったからなのでしょうか。確かに
戦争によって兵器が徐々に威力を増し殺傷能力を高めていき最終的に核爆弾という最も恐ろしい
兵器までたどり着いてしまったという過去はあります。なぜ争いごとが起きる前から世界平和を求
めることが人類の考えになかったのか。そして、留学生として日本に来て事を為し日本に対してに
理解を深めて、次にどう進むべきか、これからも考えていきたいと思います。

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