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9 女神の死、または九相図を読み解く (中)

赤坂憲雄

女神の死、または……(中)
オホゲツヒメの死と作物の起源 
それにしても、食べることと排泄すること、交わること、そして死ぬ
こと、といった一群のテーマが交錯するあたりに眼を凝らしていると、

9
なにか生きものとしての人間にまつわる不思議が湧き出してくる気がす
る。ここでは、九相図という性と死の妖しい交歓の風景から、女神の死、

1
いや殺された女神についての神話伝承へと眼を転じてゆく。そこにもま

2
た、あの一群の魅惑的なテーマが折り重なるように姿を現わすはずだ。

(第 9 回)
はじめに、『古事記』上巻のオホゲツヒメ神話を取りあげる。

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
をしもの お ほ げ つひめ また くさ
食物を大気津比売神に乞ひき。爾に大気都比売、鼻口及尻より、種
ぐさ ためつもの そな たてまつ はやす さ の をの
種の味物を取り出して、種種作り具へて進る時に、速須佐之男命、
しわざ け が たてまつ おも
其の態を立ち伺ひて、穢汚して奉進ると為ひて、乃ち其の大宣津比
かれ な かしらかひこ
売神を殺しき。故、殺さえし神の身に生れる物は、頭に蠶生り、二
ほと
つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、
ま め ここ かみむ す ひのみおやの こ
尻に大豆生りき。故是に神産巣日御祖命、玆れを取らしめて、種と
成しき。(「日本古典文学大系」岩波書店、以下同)
スサノヲはアマテラスと争い、いくつもの天つ罪を犯した末に、たく
ハラへツモノ
さんの 祓 具 を負わされ、ヒゲと手足の爪を切り身を浄めて、高天原か

(中)
ら追放された。そうして出雲に降り立つわけだが、その前段に挿入され

女神の死、または……
ていたのが、引用した一節である。
ケは食物の意であるから、オホゲツヒメは食物にかかわる女神であっ
た。この女神はスサノヲに乞われて、みずからの鼻・口・尻からいくつ
ものおいしい食物を取りだし、いろいろと調理して、それをスサノヲに
奉るのである。しかし、スサノヲはその様子を覗き見て、わざと穢して

9
差しだしたと思い、オホゲツヒメを殺害する。ここまでが前段である。
なぜ、オホゲツヒメは殺されたのか、殺されねばならなかったのか。

3
穢れのタブーという問題が浮上してくる。オホゲツヒメは鼻・口・尻と

4
いう身体の開口部=穴から排泄されたモノ、すなわち、鼻水や唾液・嘔

(第 9 回)
タメツモノ
吐物そして糞尿、それらにまみれた食材= 味 物 を用いて、料理=作り
具えるという加工を施したのである。この「タメツモノから抽出される

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
動詞タムがタマヒ(反吐)
と関係があるかも知れぬ」と指摘していたのは、
西郷信綱の『古事記注釈』 であった。
(ちくま文庫)
ツク
同じように食物神の殺害伝承が、『日本書紀』神代上の一書には、月
ヨミノミコト ウケモチノカミ
夜見尊が保食神を殺す神話として語られている。そこでは、ウケモチは
ハタ
口から次々に、飯や鰭のヒロモノ・サモノ(大小の魚)
、毛のアラモノ・
ニコモノ(狩猟の獲物)
を出して、それらの物をモモトリノツクヱに並べ
て饗応した、という。ウケモチの場合には、こうした飯や海の魚・山野
けがらは いや
の 獣 は み な、 口 か ら 吐 き 出 さ れ て い る。 ツ ク ヨ ミ は「 穢 しきかな、 鄙
いづくに たぐ も あ あ
し き か な、 寧 ぞ 口 よ り 吐 れ る 物 を 以 て、 敢 へ て 我 に 養 ふ べ けむ」
(「日本
といって、剣でウケモチを撃ち殺してい
古 典 文 学 大 系 」 岩 波 書 店、 以 下 同 )

(中)
る。「口より吐れる物」という、まさにタマヒ=反吐とかかわるタメツ

女神の死、または……
モノではなかったか。ただ、ここでは調理されずに、神々に捧げられる
供物のように見えることは、オホゲツヒメの場合とは異なっている。
そもそも、自然から取りだされた食材とされるモノはみな、植物性で
あれ動物性であれ、泥や血や糞尿にまみれているのではないか。それは
「あらかじめ洗って、皮を剝いて、切ったうえで食べられる」
(クロード・

9
レヴィ ス
= トロース『神話論理Ⅲ 食卓作法の起源』渡辺公三ほか訳、みすず書
のであり、いわば料理とは、自然から切り取られた食材を前にして、
房)

5
自然状態としてのケガレを落とすことを第一段階として始められるので

6
ある。

(第 9 回)
オホゲツヒメはみずからの身体から取りだした食材を、まず洗い清め
てから、皮をむき切り分けたうえで、火にかけて焼くか、器に水を満た

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
してなかに入れて煮るか、どちらかの調理法を選んだはずだ。「作り具
へて」とある以上、生のままに提供されたとは考えられない。しかし、
しわざ
スサノヲはそうした一連の料理のプロセス(「其の態」)
が、ケガレに満ち
たものとして許せなかったのではないか。自然/文化のあいだに横たわ
る対立を超えて、それを架け渡す料理という作法が理解できなかった、
ということか。それでは、スサノヲは自然や野生の側に留まっていたの
か。
さて、あらためて、レヴィ ス
= トロースの『神話論理Ⅲ 食卓作法の
起源』の第七部の「料理民族学小論」の章に拠りながら、料理とはなに
か、という問いにたいしてのいくらかの応答を試みておきたい。

(中)
たとえば、レヴィ ス
= トロースは「料理は、身体の要求に応えながら、

女神の死、または……
そして人間が宇宙に組み込まれるそれぞれの様式における固有のやり方
にしたがいつつ、つまりは自然と文化の中間に位置するものとして、自
らの必然的な分節のあり方を確立している」と述べている。前の章の末
尾には、料理は「自然の素材を文化的に加工する方法を規定する」こと
であるが、それにたいして、消化は「すでに文化によって処理された素

9
材を自然に加工することである」と見えていた。すなわち、料理/消化
というふたつのプロセスが、
「対称的な位置にある」ことが指摘されて

7
いたのである。調理されたモノを口から食べて、消化器官によって消化

8
し、肛門から排泄するプロセスが、自然から文化へ(→料理)
/文化から

(第 9 回)
自然へ(→消化・排泄)
、という対称のうちに捉えられている。
消化とはなにか、排泄とはなにか。文化人類学的な問いの磁場のなか

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
で、レヴィ ス
= トロースが意表を突くかたちで取りあげるのは、口や肛
門の不在という負の状況である。不在こそが隠された真実をむき出しに
顕わす。たとえば、ボロロ神話には、尻がないために食べ物を摂取する
ことができずに飢えに苦しむ主人公が登場してくる、という。肛門の不
在は、そのままに消化器官の欠落を意味していたから、食べ物は消化さ
れることなく身体を通過してしまうことになる。
こんなギアナ地方のタウリパン族の神話があった。レヴィ ス
= トロー
スは「消化の起源」と名付けを施している。
昔、人間にも動物にも肛門がなく口から排泄していた。プイイト

(中)
すなわち肛門は人間と動物のあいだでゆっくりと歩き回り、顔に屁

女神の死、または……
をひりかけては逃げるということをしていた。怒った動物たちは話
し合って手はずを決めた。そして眠ったふりをして、プイイトがい
つもの仕業をしようと誰かに近づいたところで追っかけて取り押さ
え、ずたずたに切り刻んだ。
それぞれの動物が、今日見るとおりのさまざまな大きさの分け前

9
を受け取った。どんな生きものも口から排泄するかさもなければ身
体が破裂してしまうというかわりに、みな肛門をもつようになった

9
のはこのようにしてなのだ。

10 (第 9 回)
肛門の不在。そのとき、人間も動物も口から食べ物を取り入れ、口か
ら排泄していた。プイイト=肛門は、そのいたずらに業を煮やした動物

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
たちによって殺され、切り刻まれる。そうして肛門は分割されて、動物
も人間も肛門をもつ存在になったのだ、と語られていた。レヴィ ス
=ト
ロースによれば、神話伝承のなかでは、「口あるいは肛門を欠いた、し
たがって消化機能のそなわっていない」登場人物の造形は珍しいもので
はなく、その類型学を作ろうとしたら一巻の書物が必要となるだろう、
という。食べることにかかわる系列のなかでは、「(上部から)
取り込むこ
とのできない者」
、 あ る い は「( 下 部 か ら )
排泄できない者」
、さらには
「過度にあるいはあまりに早く取り込み排泄する者」は、神話的思考に
おいては「一定の基本的な観念に形をあたえるための根拠となる」こと
が指摘されている。それはたとえば、性にかかわる平面では、「ペニス

(中)
を欠いた者」と「長すぎるペニスをもった者」
、「ヴァギナのない者」と

女神の死、または……
「大きなヴァギナをもった者」の系列として見いだされるはずだ。
あるいは、「口の不在の場合には、食物は煙という形をとるしかない。
肛門の不在の場合には食物は同一の開口から摂取されまた排泄され、し
たがって食物は排泄物と混同されるのである」といった、関心をそそら
れる言葉が見える。強固な便秘状態のなかで、ついに口から取り込んだ

9
食べ物を、口から吐き出さざるをえないといった悲惨な事態を思い描く
ならば、それはまさに、つかの間ではあれ肛門の不在の疑似体験といえ

11
なくもない。そこではたしかに、「食物は排泄物と混同される」ことが

12
ありうるだろう。ここであらためて、西郷信綱の「タメツモノから抽出

(第 9 回)
される動詞タムがタマヒ(反吐)
と関係があるかも知れぬ」という言葉を、
タメツモノ
想起してみるのもいい。 味 物 と反吐はそこでも、なにか隠微にして淫

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
らな関係を取り結んでいたのかもしれない。
さらに、食べること/交わることをめぐって紡がれる、以下のような
神話のかけらに眼を凝らしておくのもいい。
ベネズエラ南部のサネマ族は、たいへんな速さで話し、食べる、地
下に住む小人をオネイティブ / oneitib と
/ 呼んでいる。彼らは内臓
と肛門をもたないために絶え間なく飢えに悩まされており、生肉と、
よくあることだが結婚を強いられるのを嫌がって月経が始まったこ
とを隠す娘たちを食べるのである。したがって、食物の点で開かれ
た人物が、性的な点で開かれていながら偽って閉じているふりをす

(中)
る者に罰を与える。女を食べるオネイティブはしばしば男たちのも

女神の死、または……
とを訪ね、激しい食欲をひきおこさせる。つまり性的な面で下部に
おいて過度に閉じていることを罰するかわりに、食べ物の面で上部
において過度に開くのである。
地下に棲む小人のオネイティブは、内臓と肛門をもたない。たいへん

9
な速度で食べるが、消化する能力はなく、だから、つねに飢えに苛まれ
ている。しかも、オネイティブが食べるのは、焼いたり煮たりといった

13
料理による加工が施されていない生の肉であり、月経が始まっていなが

14
ら結婚を拒んでいる娘である。生肉と生娘とが同値とされるのは、食べ

(第 9 回)
られること/犯されることを拒んで、自然/文化のあわいの境界領域に
留まろうとするためであったか。ともあれ、ここにもまた、食べること

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
/交わることをめぐって、かぎりなく不可思議なからみ合いの情景が見
いだされたのではなかったか。
さて、『古事記』のオホゲツヒメ神話の後段である。オホゲツヒメは
スサノヲによって殺されるが、その殺された女神の身体からは、頭に蚕、
ホト
目に稲種、耳に粟、鼻に小豆、陰に麦、尻に大豆が生ったのである。蚕
と稲・粟・麦・小豆・大豆という五穀などの起源が、女神の殺害ととも
に物語られている。
『日本書紀』の一書には、ツクヨミによって殺され
ひえ
たウケモチの身体からは、頂(頭)
に牛馬、額に粟、眉に蚕、眼に稗、腹
に稲、陰に麦と大豆・小豆が生ったと語られていた。これらの生る場所
と生る物とは、朝鮮語ではあきらかな対応関係が認められるという(日

(中)
。ここでは、牛馬や蚕、そし
本 古 典 文 学 大 系『 日 本 書 紀 』 上 の 頭 註 に よ る )

女神の死、または……
て粟・稗・稲・麦・大小豆という五穀などの起源神話となっている。
これについて、本居宣長の『古事記伝』 には、
(岩波文庫) 「右六品の中

に、食フべき物五品は、皆穴に生り、蠶一品は、穴ならぬ処に生れるこ
ユヱ ナレ
と、所由あるべし。又口に生る物無キもゆゑあるにや」と注が施されて
いる。たしかに、頭に蚕が生るほかは、五種の作物がすべて、目・耳・

9
鼻・陰・尻という身体の開口部としての穴に生ったと語られており、そ
れは「女性原理にもとづくもの」と思われる、そう、西郷は『古事記注

15
釈』のなかで述べていた。

16
宣長が周到にも、口という穴が外されていることに注意を促していた

(第 9 回)
ことも、気に懸かる。それは『日本書紀』のウケモチ神話でも変わらな
い。ウケモチは口から飯や魚・獣などを出しているが、それは「口より

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
吐れる物」と見なされている。オホゲツヒメは鼻・口・尻からタメツモ
ノを取りだしている。ところが、どちらの場合においても、口という穴
からは作物が生ったとは語られていない。ふたつの類似する神話の前段
では、まさしく主役を演じていた口が、後段からは姿を潜めていること
は、おそらく偶然ではあるまい。食べることにおいて主役そのものであ
る口は、肛門と対をなして、料理/消化という対称的なふたつのプロセ
スに深くかかわっていた。
穴はたしかに、身体の内/外にまたがる両義的な場所であり、そこか
ら分泌される唾液・鼻水・耳垢・糞尿・精液・経血などはいずれも、危
険なタブーの対象とされることが多かった。そのなかで、くりかえすが、

(中)
口と肛門とが食物の料理/消化というプロセスの起点と終点にあって、

女神の死、または……
特別な役割を果たすのである。
まったく唐突に、わたしは斎藤茂吉の「念珠集」
(『斎藤茂吉随筆集』岩
や そ きち
に収められた、
波文庫) 「八十吉」と題された随筆の一節を思いださずに
かなかめむら す か
はいられない。山形県上山の金瓶村では、旧暦六月二十六日は「酢川落

ち」の日と呼ばれていた。酢川の硫黄泉の酸い水を流し入れることで、

9
魚が弱って浮かぶので、たくさんの人が出て我先に捕る。その日、茂吉
よりひとつ年上の八十吉が深い淵にはまって溺死したのだった。

17
淵から引き上げられた八十吉は、ついに蘇らなかった。藁火を焚いて、

18
八十吉のからだを温めたことや、八十吉の肛門から煙管を入れて、たば

(第 9 回)
この煙を吹き込んだことを、茂吉少年は父に向かって、息を弾ませなが
けつ きせる は
ら話した。そして、
「八十吉の尻の穴さ煙管が五本も六本もずぼずぼ這

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
い けむ
入ったどっす。ほして、煙草の煙が口からもうもう出るまで吹いたどっ
す」と、茂吉が話すのを聞いて、父は睨みつけるような顔をして、あた
ふたと家を出て行ったのだった。忘れがたい茂吉の随筆の一節である。
蘇生術かなにかであったのか。いずれにせよ、肛門から口へと煙が逆流
したとき、少年の死をだれもが受け容れたらしく思われる。縄文の土偶
もまた、口から肛門へと一本の管で繋がっていたのではなかったか。身
体 イ メ ー ジ と し て 無 縁 で は な か っ た か も し れ な い。
「口の不在の場合に
は、食物は煙という形をとるしかない」という、先に引いたレヴィ ス
=
トロースの言葉も思いだされる。

(中)
ハイヌウェレ神話の原像をもとめて

女神の死、または……
先に触れたサネマ族のオネイティブ神話を、あらためて想起してみた
い。それはたとえば、肛門の不在という悲劇、にして喜劇であったか。
肛門をもたないオネイティブは、身体の条件において、小人という過小
/大食という過剰を両義的に負わされていた。しかも、そこでの大食は
消化を禁じられたたんなる通過にすぎず、それゆえ、大食/飢えが背中

9
合わせに捩れつつ見いだされることになる。ついでながら、オネイティ
ブはたいへんな速度で話すともされ、肛門の不在とは対称的に、食べる

19
ことと話すこと、という口のになうもっとも重要な役割において過剰な

20
存在であった。

(第 9 回)
そして、オネイティブが食べるのは生肉と生娘であった。それはとも
に、自然/文化の境界に滞留する両義的な存在であり、食べられるモノ

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
としては野生状態のケガレをまとうがゆえに、また、料理という文化的
なコントロールを拒んでいるがゆえに、危うい、タブーの対象であった。
月経が始まりながら/結婚をいやがる女たちを、オネイティブは食べる。
そこでの食べるには、当然とはいえ、性的に交わることが重ねあわせに
されていたはずだ。そうして食べられた娘たちは危険な境界状態を脱し
て、ほかの男たちによって安全に食べる=交わることができる存在とな
ったのではなかったか。
さて、神話の系譜学においては、オホゲツヒメ神話は神話学者のイェ
ン ゼ ン が『 殺 さ れ た 女 神 』 のなか
(大林太良・牛島巌・樋口大介訳、弘文堂)
で論じた、いわゆるハイヌウェレ神話に繋がるものであろう(『殺された

(中)
女神』と後に引用する『世界神話事典』ではハイヌヴェレであるが、本稿ではハ

女神の死、または……
。インドネシアのセラム島に暮らすヴェマーレ族
イヌウェレで統一する)
に伝わるものだが、殺されたハイヌウェレという少女の細断された死体
から、さまざまな食用植物が生まれたという作物起源神話である。オセ
アニア・アフリカ・アメリカ、またインド・イラン地域に、類似の祭祀
や神話が分布している。それが日本神話のなかにも見いだされること、

9
さらには、縄文の土偶祭祀や山姥の昔話のなかに古層の記憶として沈め
られていることを、神話学者の吉田敦彦は精力的に掘り起こしてきた。

21
『日本書紀』一書のウケモチ神話のなかに、朝鮮語の影があったこと

22
を思いだしてみようか。頭註によれば、朝鮮語をローマ字で表わすと、

(第 9 回)
頭( m )
r と 馬(
a a m)

ar 額
( )と 粟
ch
a ( )、眼
cho ( )と 稗(
nun )、腹
nui ( p)i
a
と稲( pyö
)、女陰
( pöti
)と小豆( p‘)と
t いった対応関係が見られる。あき
a

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
らかに、書紀の編者のなかに「朝鮮語の分る人」が含まれていたのであ
る。おそらく、事情はもう少し錯綜していたにちがいない。たとえば、
以下のような、済州島で採集された民話「門前ボンプリ」などは、朝鮮
半島にもハイヌウェレ型の神話があった可能性を示唆しているからだ。
実母に化けた継母が七人兄弟の末っ子に見破られ、便所に逃げ、首
を吊って死んだ。その死体の頭からは豚の肥料鉢が生じ、髪は馬尾
草になり、耳はサザエになり、爪は巻き貝になり、口は魚になり、
なまこ
陰部は鮑になり、肛門はイソギンチャクになり、肝は海鼠になり、
大 小 腸 は ヘ ビ に な り、 足 は 踏 み 石 に な り、 肉 は 蚊・ 蚤 に な っ た。

(中)
(大林太良・吉田敦彦ほか編『世界神話事典』角川選書)

女神の死、または……
たしかに、作物起源神話としてのあきらかな性格は認められないが、
ハイヌウェレ神話との親近性はうかがえる。この短く刈り込まれた伝承
からは、元のかたちを正確に想像するのはむずかしい。とはいえ、いく
つかの手がかりはある。なぜ、継母が首を吊って死んだのが、便所であ

9
ったのか。この便所は、豚の飼育場を兼ねた屋外型のトイレであった可
能性が高いのではないか。豚はひとの糞便を食べる。排泄というテーマ

23
が、豚を仲立ちとして、より広やかな食物連鎖系へと開放されてゆく姿

24
せっちん
を想像してみるのもいい。日本の暗くて狭い雪隠を思い浮かべてはいけ

(第 9 回)
ない。ともあれ、継母は便所へと逃走して、そこで死んだ。排泄のテー
マにとっては、自然な展開といっていい。この民話にはたぶん、神話的

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
な古態があったにちがいない。そこでは、この継母は大便を排泄して、
それを料理して食べ物として提供したために、子どもたちの怒りを買い
追放されたのかもしれない、といった想像を巡らすことはできるか。け
っして大胆にすぎる推測だとは思えない。
あるいは、継母の死体のそれぞれの部位は思いがけず、さまざまなモ
ノに化成している。頭は豚の肥料鉢に、髪は馬尾草に、耳はサザエに、
爪は巻き貝に、口は魚に、陰部は鮑に、肛門はイソギンチャクに、肝は
海鼠に、大小腸はヘビに、足は踏み石に、肉は蚊・蚤になった、と語ら
れているのである。四方を海に囲まれた、海女の島である済州島の暮ら
しや生業からすれば、作物の起源ではなく、魚貝類ことにアワビ・サザ

(中)
エ・ナマコなどへの化生が語られているのは、とても了解がしやすい。

女神の死、または……
それにしても、これはたんに、身体の開口部=穴からの生成ではなく、
肉も臓腑もこまかく切り刻まれた情景を思い浮かべざるをえない設定で
ある。この点はむしろ、本来のハイヌウェレ神話に近接するかもしれな
い。
やはり『世界神話事典』から、セラム島のハイヌウェレ型の神話をふ

9
たつほど引いてみる。これらもまた、イェンゼンの『殺された女神』な
どから採られた伝承のあらすじである。

25
26
さまざまな貴重な宝物を、大便として出すハイヌウェレという名

(第 9 回)
の妙齢の乙女がいて、踊りの間にその宝を人びとに、気前よく分け
てやることを続けていた。ところが人びとはしまいにそのことを気

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
味悪く思って、踊りながらハイヌウェレを生き埋めにして殺してし
まった。そのあとでハイヌウェレの父親が、娘の死体を掘り出して
切り刻み、破片を一つ一つ別々の場所に分けて埋めた。するとその
破片がそれぞれ種類の違う芋に変わって、そのおかげで人間は、そ
れらの芋を栽培し、食物にして生きていくことができるようになっ
た。
原話は『殺された女神』の第一章に見えるが、たいへん長大なもので
あり、ハイヌウェレ神話はその一部をなしている。ハイヌウェレはココ
ヤシの枝を意味する。この少女は、父のアメタ(暗い・黒い・夜の意)
の傷

(中)
ついた指から滴る血が、ヤシの花の小液と混ざりあって生まれた。サロ

女神の死、または……
ング・パトラという蛇模様の布にくるんで、アメタは少女を家に連れて
帰った。ハイヌウェレと名づけられた少女は、三日後にはムルア(結婚
へと成長を遂げる。そして、このとき不意に、排泄のテーマが
可能な娘)
姿 を 現 わ す。 ハ イ ヌ ウ ェ レ が 大 便 を 排 泄 す る と、 そ れ は 中 国 製 の 皿 や
ゴング
銅鑼のような貴重な宝物となり、アメタをたいへん裕福にするのである。

9
夢や神話のなかでは、大便と黄金とがきわめて強い親和性をもつことは
よく知られている。

27
それから、盛大なマロ舞踏が催される。ハイヌウェレは広場の中央に

28
立って、踊り手の男たちにさまざまな宝物をあたえるが、それが逆に、

(第 9 回)
ハイヌウェレを無気味な存在へと追いやり、嫉妬を呼び覚ますことにな
る。男たちはハイヌウェレを殺すことに決める。マロ舞踏の第九夜、舞

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
踏が螺旋状に旋回するなかで、男たちはハイヌウェレを広場に掘った深
い穴へと追いつめ、ついに投げ込んでしまう。けたたましいマロ唱歌が
少女の叫び声を掻き消す。男たちは土をかぶせ、舞踏のステップを踏み
ながら穴のうえの土を固めてゆく。そうしてハイヌウェレは殺害された
のである。
ここにはまさしく、
「人間の原古が終りを告げ、人間生活の形態が今
日と同じ特徴のものになるに至るあの劇的事件」
(『殺された女神』が語ら

はじまり
れていたのである。原初のできごと、ひとつの死、それは決まって殺害
というかたちで生起する。この物語のある異伝には、人間はココヤシの
実を味わったあとで、はじめて死ぬことになり、結婚もできるようにな

(中)
ったと語られているらしい。ここでも性と死は同伴する。イェンゼンは

女神の死、または……
さ ら に い う、 あ の 原 古 の 事 件 の も う ひ と つ の 重 要 な 要 素 は、
「神的少女
の死によって初めて有用植物が生ずる」ことだ、と。両親はハイヌウェ
レの死体を携えて、家々を巡り、
「おまえたちは彼女を殺した。今やお
まえたちは彼女を食わねばならぬ」と、人間たちに宣告したのだった。
ハイヌウェレの切り刻まれた身体からは、さまざまな芋が生じて、それ

9
以降、人間たちは芋を主食として生きることになる。ハイヌウェレ神話
の原像といったところか。

29
あるいは、セラム島にはこんな神話が語られていた。

30 (第 9 回)
ライという名の老女が、孫息子と一緒に住み、その子に毎日おい
しいお粥を食べさせてやっていた。少年はある日、祖母がどうやっ

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
てお粥を作るのか知りたくなって、こっそり覗き見してみた。する
とライは、体から垢をこそげ取り、それをお粥にしていた。食事ど
きになると少年は、
「祖母のしていることを見たので、もう食べた
くない」と言った。するとライは、
「三日後に帰って来て、家の下
を見るように」と言って、少年を家から出て行かせた。言われたと
おり三日後に帰って来たときには、ライが家の下で死んでいて、死
骸の頭からはビンロウジュが、女性器からはココヤシが、胴体から
はサゴヤシが生えていた。
祖母は孫のために、身体から垢を削ぎ落として、それを調理してお粥

(中)
を作っていたのだった。排泄のテーマとしては弱々しいものだが、垢は

女神の死、または……
角質化して古くなった皮膚の一部であり、そこにも身体の境界に生起す
るできごととしての面影は感じられる。少年はこのとき、むしろ料理と
いう文化が避けがたく秘め隠している、ケガレと暴力にまつわる内的な
情景を覗き見て、ひとが生きることの神秘に触れたのではなかったか。
ともあれ、年老いた祖母は孫の少年に、みずからの死と引き換えに、た

9
いせつな食用植物を贈与する。頭からビンロウジュ、女性器からココヤ
シ、胴体からサゴヤシが生じるのである。

31
さらに、いまひとつ、北アメリカのナチェズ族の作物起源神話を『世

32
界神話事典』から引いてみる。

(第 9 回)
一人の女が、二人の少女と暮らしていた。食物がなくなると彼女

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
は、両手に一つずつ籠を持って、ある建物のなかへ入り、じきに籠
を両方ともいっぱいにして出て来た。そしてその中身でおいしい料
理を作って、少女たちに食べさせていた。ところがあるとき少女た
ちが建物のなかを見てみると、からっぽで食物などどこにもなかっ
た。少女たちは相談して、次に女が籠を持って建物のなかに入った
とき、なかで何をするか覗き見した。すると彼女は、まず籠の一つ
を床に置き、その上に股を開いて立って、体を擦ったり震わせた。
たちまちがさごそと何かが落ちる音がして、籠はトウモロコシでい
っぱいになった。次にもう一つの籠の上で同じことをすると、同じ
ようにしてその籠が豆でいっぱいになった。

(中)
少女たちは顔を見合わせて、「彼女は大便をして、それを私たち

女神の死、または……
に食べさせていたのだから、あんな汚い物を食べるのはよしましょ
う」と言い合った。料理を与えても、少女たちが食べないので、覗
き見されたことを知った女の人は、こう言った。
「これが汚く思えて食べられないのなら、私を殺して死体を燃や
しなさい。そうすると夏にその場所からいろいろなものが生えてく

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るから、それを畑に植えなさい。実が熟すとおいしい食物になって、
おまえたちはこれからは、私がこれまで与えてきた食物の代わりに、

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それを食べて生きていけるでしょう」。

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言われたとおりにすると、女の死体を焼いた場所から、夏にトウ

(第 9 回)
モロコシと豆とカボチャが生えた。

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
物語の構造としては、セラム島のライ神話と瓜ふたつといっていい。
名前もない女が主人公だ。この女は、ふたつの籠に大便を排泄するが、
それはトウモロコシと豆に姿を変える。それを料理して少女たちに食べ
させていたが、ついに覗き見によって、秘密を知られてしまう。それを
汚い物と見なして、少女たちは食べることを拒絶する。女はそこで、自
分を殺して死体を燃やすように、と伝える。その言葉にしたがうと、燃
やした場所からは、夏になるとトウモロコシ・豆・カボチャが生えてく
るようになった。そう、語られている。ここに火のテーマが登場してく
るのは、あるいは焼畑農耕かなにか、火を使用しておこなう農業のかた
ちが沈められているのかもしれない。たとえば、
『会津農書』などには

(中)
「火耕」という言葉があって、農耕と火とのかかわりは思いがけず深い

女神の死、または……
のである。それにしても、死体から作物が化成するのではなく、死体を
焼いた場所から作物が生じているところに、説話としての変化が感じら
れる。
イェンゼンによれば、ハイヌウェレ型の作物起源神話は、もとは熱帯
地 方 で 芋(ヤムイモ・タロイモ)
と 果 樹(バナナ・ヤシ)
を 主 作 物 と す る、 原

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始的な作物栽培をして来た「古栽培民」の文化を母体として生まれたも
のだ、という。かれら古栽培民は祭祀のなかで、ひとや豚を犠牲として

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殺し、その肉の一部を祭りの参加者が共食し、残りの死体は破片に刻ん

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で、畑などに撒いたり埋めたりした。こうした古栽培民の血なまぐさい

(第 9 回)
祭祀儀礼は、おそらくハイヌウェレ神話との深い関連を有するはずだが、
あらためて触れたい。やがて、神話と祭祀という古さびたテーマが召喚

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
されることになる。

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