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【ワークショップ】

変愛のフランス文学
―レチフ、ヴィリエ、コレット

コーディネーター・パネリスト:藤田尚志(九州産業大学)
    パネリスト:相野 毅(佐賀大学)
・村上 舞(西南学院大学)

 「変愛」であって「恋愛」ではない。岸本佐知子編訳の『変愛小説集』(講談
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社、2008 年)は、現代英米文学の中から、変愛かつ純愛小説を集めたアンソ
ロジーだが、柴田元幸はその帯に、「奇想天外な展開にもかかわらず想いは切
実、なのか。奇想天外だからこそ切実なのか。
「変」と「恋」はどこまで似てい
るのか。それが問題だ」という言葉を寄せている。私たちもまた、フランス文
学・思想の領域において、
「変愛」のさまざまな様相を探究することを試みた。
 18 世紀からレチフ・ド・ラ・ブルトンヌ(1734-1806)
、19 世紀からヴィリ
エ・ド・リラダン(1838-1889)、20 世紀からはコレット(1873-1954)を選
んだ。いずれも一筋縄でいかない作家である彼らの作品にあっては、見かけと
は裏腹に、単なる優生思想ではない、いわば“獣婚”、単なる人形愛を超えた
間主観的揺らぎ、単なる女性同性愛ならぬ三者関係が問題となっていることを
明らかにする。

獣人と結婚する
――レチフ『南半球の発見』における優生学と反優生学
藤田尚志

 近代的結婚観の解明に、虚実皮膜の無数の生を語る=騙るレチフ文学は寄与
しうる。本発表では、レチフのユートピア文学作品『飛行人間の南半球発見、
あるいはフランス版ダイダロス。きわめて哲学的なる小説』に描かれた巨人族
や獣人族との結婚に注目した。

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 主人公ヴィクトランは南方探検に飛び立ち、様々な島に住む奇妙な種族(猿
人間・熊人間・蛇人間…)を発見しながら、広大な植民地を設立する。そこで
興味深いのは、人間種族を超えた結婚の展開である。ヴィクトランの二人の息
子は、巨人族の娘と結婚して中人族の子をもうけるが、その理由は巨人族の知
的・肉体的優越性の獲得という優生学的なものだ。
 孫エルマンタンによって探索は継続され、ついにメガパタゴニーが発見され
る。「あらゆる習俗がヨーロッパと反対であり、それゆえ完全な」この国は、
平等に基づく財産共同体であるばかりか、「君自身、人間より高等な動物にか
く振る舞ってもらいたいと思うように、動物に対しても振る舞え」という法規
を備え、ほとんど反優生学的である。獣人への優生学的な介入は許されず、そ
れぞれの種族の現在のあり方はそのままでよいからである。
 帰国したエルマンタンは、メガパタゴニーの原理を参考にして新しい制度を
設立するよう進言し、ヴィクトランと彼の王族は、自由・平等・父性尊重など
を旨とする法典を人民に提案し、君主制から共和制への移行を宣言する。だ
が、人間のあいだに平等が実現し、共和制が敷かれても、獣人たちへの優生学
的政策は変わらない。
 優生学的な側面と、動物への正義というラディカルな側面のいびつな混在。
レチフの立場をどう考えればよいだろうか?おそらくは、今なお未解決の問題
である動物との性愛関係、動物との結婚にまでつながりうる、愛・性・家族の
徹底的な変容の可能性が問題となっているのではないか。

アンドレイド
人造人間の愛し方
相野 毅

アンドレイド
 ヴィリエを出発点として広く比較文化的研究を展開する相野は、人造人間と
の恋愛関係を1)機械/人形愛、2)独身者の機械、3)コミュニケーション、
4)空虚の充満と段階を踏んで考察した。対象となるのは、ヴィリエ・ド・リ
ラダン(1838-1889)の『未来のイヴ』(1886)、フィリップ・K・ディックの
小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)とリドリー・スコット
の映画化『ブレードランナー』、押井守の2作品『攻核機動隊』(1995)と『イ

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ノセンス』(2004)である。
 1)機械/人形愛では、恋愛の対象は必ずしもロボットに限らない。「人形」
やゾラの『ジェルミナル』における機関車の性愛化などが広く見られる。これ
については、Tristan et Yseult の Salle aux Images に面白い例がある。
 2)独身者の機械はミシェル・カルージュの著書に基づくもので、ここで対
象とする作品の多くに当てはまる。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
よりも『ブレードランナー』のほうが、その構造からより「独身者の機械」的
である。
 3)「独身者の機械」では主体の欲望を機械を介して迂回させているだけだ
が、より恋愛関係をすすめるには、コミュニケーションの問題を避けて通れな
い。これにより間主観性が確立し同じ主体としての相手への感情移入ができる
ことになる。フレデリック・ジェイムソンも、ディックの『ブラッドマネー博
士』(1965)の登場人物のシステムにおけるコミュニケーションの軸の重要性
を指摘しており、この構造は、ここで対象としている作品にも当てはまる。で
は、誰が空のアンドロイドの中で話しているのか?
 4)ヴィリエのアンドレイド・ハダリーの中で話しているのは金の蓄音機の
はずだったが、作品の最後では催眠術の動物磁気とアンドロイドの電気の流体
が繋がって、空虚が充満し、彼岸の存在が語りだす。一方『攻殻機動隊』の草
薙素子はネット上の AI「人形遣い」と合体して、ネット上へ昇天する。両者
の構造は対照をなすが、ヴィリエの作品では果たして本当にそうなのかという
謎が残る。

トリオ
―コレット的女性同性愛の可能性
村上 舞

 コレットにおける女性同性愛のあり方について考察するために、同性愛が主
題の作品『純なものと不純なもの』に登場する数多くの女性同性愛者たちの中
から、ひとつのパターンの女性同性愛、すなわち、トリオにおける、男性をな
かだちにした女性二人の関係について取り上げた。

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 『純なものと不純なもの』において、コレットという名を持つ語り手は、ト
リオの関係における男性を、二人の女性による陥穽に陥った存在として描いて
いる。この点についてはジュリア・クリステヴァも「結局のところ、コレット
作品において男はつねに敗者である。トリオの関係においてさえそうであり、
しかも特にそうなのである。」と指摘している。
 このトリオの関係性を体現しているコレット作品に『第二の女』がある。
この作品の眼目は、浮気性の劇作家の夫ファルーとその妻ファニーと、秘書
ジェーンとのいわゆる三角関係の主題にある。注目すべきは、ファニーと
ジェーンという女性二人で完結的な存在なのではなく、その二人の女性たちを
包囲するファルーという男性の存在を条件としてはじめて実現可能になる関係
性だということだ。男を頂点に屹立させておきながらも一方で侮蔑の対象とす
ることで、女性同士の間には、三角関係に見られるはずの嫉妬が抜け落ち、つ
いには連帯が生じる。ライバル関係ではなく相補関係となった二人の女性の根
底には平等が根ざす。したがって、ファニーとジェーンの恒常的な女性同士の
関係は、ファルーへの軽蔑感情で支えられており、互いに連関しながら、トリ
オとしてひとつの秩序をなしていることを確認した。
 一昨年の発表で、男性性をまとった女性同性愛から精神的な両性具有へと、
コレットの目指す女性のあり方が変容していることを明らかにした。そこで、
このトリオにおける女性同士の関係性を、コレット作品の系譜に照らしてみる
と、官能的な女性同士の関係性からコレットの理想とする「精神的両性具有」
の中間領域に位置していると言えるのではないかと結論づけた。

 三つの発表後は活発な質疑応答がなされた。一人の講演ではなく、複数の提
題者、それもさまざまな世代や男女取り混ぜたワークショップ方式を取り入れ
た効果はあったのではないかと期待したい。

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