第9章 正義の善 後半

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第 9 章 正義の善

第 83 節 幸福と有力な人生目的

正義と善がほんとうに一致するのかという疑問に取り組む姿勢をとるため、正義にかなった制度が
私たちのなす合理的な計画の選択を枠づけ、私たちの善が有する統制的な要素をそこに組み入
れる流儀について論じる。

この論題に遠回りの接近を企てるべき、本節においては幸福の概念へと立ち戻り、<有力な人生
目的>が幸福の決定要因をなすと考える誘惑が存在することを指摘する。そうすると、快楽主義や
自我の統一性にまつわる問題に立ち返ることになる。

<ある人が幸福である>のは、当人が(多かれ少なかれ)好ましい条件のもとで策定した合理的な
人生計画を(多かれ少なかれ)成功裡に遂行している最中にあって、しかもみずからの意図が完遂
されうることを無理なく確信しているときである。

第一に、幸福は二つの側面を有する。ひとつは、ある人が実現を目指している合理的な計画 (さまざ
まな活動および達成目標からなる予定表)の成功裡の遂行であり、もうひとつは、当人の心理状態 、
すなわち自分の成功が持続することに対する、じゅうぶんな理由によって裏打ちされた確かな自信
である。つまり幸福であることには、(1)行為における一定の達成と、(2)行為の結果に関する合理的
な確信が含まれている。

以上の定義にならならば、幸福は自己完結的である。すなわち、幸福はたんに幸福それ自体のた
めに選択される。

幸福は自己充足的でもある。すなわち、合理的な計画が確信をもって実現されるとき、その人生は
十分選択に値するものとなり、ほかの何かを追加せよと要求することはない。状況がとりわけ良好
で、計画の遂行がことのほか成功しているとき、当人の幸福は完璧なものとなる。

それゆえ、合理的な計画を成功裡に遂行しており、自分の努力が実を結ぶはずだと根拠をもって
確信できる間は、その人は幸福である。しかしながら、ひとつの合理的な計画を促進しているとき、
当人が幸福を追求しているということにはならない。ひとつの理由として、幸福とは、私たちが熱望
する達成目標の飛び切りのひとつではなく、計画全体の達成それ自体を指すということがある。

しかし、一般に複数の計画の中から合理的な選択をすることは、いかにして可能であるだろうか。原
理の導きにそれ以上頼らずに、いちばん選好する計画がそれなのかをまさしく意思決定せねばなら
ない地点に、私たちは最終的に到達する。しかし、まだ言及していない熟慮の仕掛けがある。それは

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私たちの達成目標を分析するという熟慮である。すなわち、計数原理がこの事例を解決するものと
期待しつつ、自分の欲求の対象についてのより詳細な記述がないかを探ることができる。

ある二つの手段を比較するときに、次のような可能性(蓋然性)を考慮に収めねばならない。すなわ
ち、遅かれ早かれ私たちは比較不可能な達成目標群にたどり着き、それらの中から熟慮に基づく
合理性を用いて選択せねばならなくなるだろう、ということである。

実践的な熟慮にあっては、多数の停止点が存在し、また私たちがそれ自体のために欲するものご
とを特徴づける多くの方法が存在する。したがって、目指すことが合理的であるような唯一の<有
力な人生目的>が存在する、という考えが人々の心に強く訴えるのはどうしてなのか、を理解する
のは難しくない。なぜならば、他のすべての目的を従属させる、そのような目的が存在するならば、
おそらくあらゆる欲求は、分析の余地を残すことになり、その分析を通じて、計数原理が適用される
ことが示されるからである。

有力な人生目的を説く者が欲しているものとは、合理的な選択をなすための選択の一方法として、
熟慮の構想は(1)一般的な適用可能性を有し、(2)最善の結果に導いてくれることを受け合う、(3)一
人称の手続き、を特定しなければならない。だが、この三条件を充たす手続きは存在しない。しかし、
最善の行動方針を選び出すために、もしくは少なくとも思考の上でその方針を識別するために、相
反する達成目標間の兼ね合いを図る一般的な手続きを探し求めているのならば、<有力な人生目
的>という理念は単純で無理のない解答を与えてくれるように思われる。

第 84 節 選択の一方法としての快楽主義

快楽主義を解釈する仕方は、伝統的に 2 つある。(1)内在的な善は、ただひとつ快い感情のみであ
るとの主張として、もしくは(2)個々人が得ようと努力するものは、ただひとつ快楽だけであるという
心理学的な命題として。しかしここでは、快楽主義を、<有力な人生目的>によって導かれる熟慮
の構想を貫徹しようとする主義だと理解する。

快楽主義者は次のように推論するものとする。第一に快楽主義者は、もし人間の生活が理性によっ
て導かれるべきものであるならば、ひとつの有力な人生目的が存在せねばならない、と考える。第
二に、快楽主義者は快楽を快適な感情として狭義に解釈する。感情や感覚の属性としての心地よ
さは、有力な人生目的の役割を担える唯一もっともらしい候補であると考えられ、またそれゆえ心
地よさが善それ自体である唯一のものとなる。しかし、唯一快楽だけが善であるということが、第一
原理として即座に要請されるということはなく、また私たちの熟考された価値判断とも合致すること
も考えられない。むしろ消去法によって、快楽が有力な人生目的であると結論づける。

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快楽主義者によれば、合理的な行為者は自らの善を意思決定する際にどのような手続きを踏めば
よいのかを正確に知っている。合理的な行為者は、選択肢として提示されている複数の計画のうち、
どれが快楽から苦痛を差し引いた正味残高を最大にする見込みがあるのかを突き止めることがで
きる。

次の 2 つの点を指摘することが重要になる。第一に、快楽が感情や感覚の特別な属性であるとみ
なされるとき、快楽は計算の基礎となりうる明確な尺度として理解される。第二に、快楽を有力な
人生目的と見なしたとしても、私たちが特定の客観的目標を有している、ということは含意しない。
快楽は、きわめて多様な活動や多くのものごとを追い求める営みの中にある、私たちは考えている 。
それゆえ、快い感情の最大化を目指すことは、少なくとも狂信や非人間性という体裁を避けており、
なおかつ一人称の選択を導く合理的な方法を規定しているように思われる。

快楽主義は、ひとつの理にかなった有力な人生目的を定義できない。なぜなら、ひとたびその強度
と持続性を行為者の計算に加えることができるほど十分に明確な仕方で、快楽が了解されるなら
ば、快楽こそ唯一の合理的な達成目標だと捉えるべきだとの言い分はもはや説得力がなくなる。感
情や感覚の一定の属性を何にもまして選好することは、他者にふるう権力や物質的な富を最大化
することを最優先する欲求と同様に、疑いなくバランスを欠いており非人間的である。

さらに、快楽の量的な側面に関してと同様に、さまざまな強度と持続性が存在するという事実があ
る。ただし、合理的な選択手続きを提供できないという快楽主義の欠陥は何ら驚くべきことではな
い。

快楽主義の弱点は、最大化されるべき適切な一定の目的を定義できないことを反映している。目
的論的な学説の構造が根本的に間違っていることを示唆してくれる。正とは独立に定義される善を
まず目指すことによって、私たちの生活を形作ろうなどと試みるべきではない。私たちの自然本性を
第一義的に、私たちの達成目標ではなく、むしろ複数の条件および原理こそが、私たちの自然本性
を浮き彫りにする。なぜかというと、自我は自我が確証・肯定する諸目的に先立つ存在だからであ
る。

第 85 節 自我の統一性

それを参照することによって私たちの選択のすべてが理に適った仕方でなされうるような、ひとつ
の達成目標は存在しない、というのが前節までに得られた結論だった。

私たちは次の疑問に直面する。複数の達成目標を適切に配列したパターンを決定する、単一の目

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的が存在しないのであれば、合理的な人生計画をしかと見定めるためには実際どのようにするべ
きなのか。この問いに対する回答は、合理的な人生計画とは、善の完全理論が定義するような<熟
慮に基づく合理性>を用いて選択されるであろう計画だ、と。しかし契約説の文脈で右の回答が申
し分のないものであり、快楽主義を悩ます諸問題が生じないということは未確認のままである。

道徳的な人格性は、2 つの能力、ひとつは善の構想のための能力、もうひとつは正義感覚のため
の能力によって特徴づけられている。道徳的人格は、自分が選択した複数の目的を備えた主体で
ある。

人格の統一性は、当人の計画の整合性を通じて表明される。すなわちこの統一性は、自らの正およ
び正義の感覚と首尾一貫したやり方で、合理的選択の原理に従おうとする高階の欲求に基づいて
いる。

公正としての正義にあっては、正の優先権およびカント的解釈が視座の完璧な逆転をもたらしてい
る。当事者たちは、快苦を感受する能力ではなくて道徳的人格性を、自我の根本にある様相と見な
す。人々がどのような最終目的を抱いているのかを当事者たちは知らず、有力な人生目的を掲げる
構想はすべて却下される。したがって、快楽主義の原理を採用しようという考えは当事者たちには
生じない。

選択の不確定性に関しては、正の優先権を前提するならば、私たちの善の構想は一定の制限の枠
内で選択されるというものが本旨である。つまり、私たちの善を確定するための演算手順、すなわち
一人称の選択手続きは存在しないけれども、正と正義の優先順位はこうした制約することによって 、
熟慮をより処理しやすいものとなる。

目的論的な理論と契約説との対照は、以下のように記述される。目的論的な理論は、善の限局的
に定義し、何らかの総計高にいたるまで最大化しうる外延量とみなしている。他方、契約説はそれと
は正反対のやり方をする。

第 86 節 正義感覚の善

ここで立証されるべきことがらは、秩序だった社会に住まう人々にとって、自らの人生計画を統制す
るものとして自らの正義感覚を確証・肯定することは合理的だ、という点に絞られる。正義の観点を
採用し、その観点に導かれて行為するという性向・構えは個人の善と合致するということが、ここま
での議論では明らかにされていない。

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ここで以下のように想定しよう。秩序だった社会に住む人は、制度が正義にかなっており、他者も自
分と同じような正義感覚を持ち、そしてそれゆえ彼らはそうした制度編成に従うということを知って
いると。

正義の原理は公共的でなければならない、という契約説の要求事項があった。すなわち、正義の
原理は秩序だった社会の成員たちが共有している、一般に承認された道徳的な確信を特徴づけ
ている。

以上の所見は、正しく行為することと自然本性的な態度との間にはつながりがある、という事実に
よって支持される。さらに、アリストテレス的原理に基づくならば、秩序だった社会の生活に参与す
ること自体が卓越した善をもたらすものとなる。最後に、カント的解釈に繋がる理由が存在する。す
なわち、正しく行為することは、私たちが自由で平等な理性的存在者として行いたいと欲しているこ
とである。

秩序だった社会にあっても自分の正義感覚を確証・肯定することが当人たちにとって善とはならな
いような人々がいるとする。この場合、自らの正義感覚を確証・肯定する人々はそうした人々を、正義
に適った制度につき従うように要求するという点で不当に取り扱っているのかどうかが論点となる。
しかし、ある正義の構想を正当化するべく、すべての人がおのれの正義感覚を保持するためのじゅ
うぶんな理由を有していると主張する必要はない。というのも私たちの善は、私たちがどのような人
物であるのか、どんな種類の願望や希求を私たちは持ちかつ持つことができるのかに左右される
からである。

最終的なしめくくりとしては、公正としての正義における正と善の一致によって、善さの定義の一連
の適用が完結できるということである。秩序だった社会にあっては、善い人であることは実際その当
人にとって善(単一の財)となり、この社会形態は善い社会であるともいえる。したがって原初状態か
らみて、秩序だった社会は集団にとって合理的だと判定される正義の原理を充たしている。そして
個人からみれば、正義の公共的構想を自分の人生計画を統制するものとして確証・肯定したいと
いう欲求は、合理的選択の原理と合致する。

第 87 節 正当化に関する結語

今までの議論を擁護すべく提供した論証に関する注釈を述べる。

哲学者たちは一般に、倫理の理論を 2 つのやり方のうちのどちらか一方でもって正当化することを
試みている。①私たちの熟考された諸判断を説明するために、じゅうぶんな数の基準と指針を導き
出すことのできる自明な原理を発見しようとの試みが幾たびかなされてきた(デカルト派)。②道徳

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外的概念を用いた道徳概念の定義を導入し、次いで常識と科学の一般的に認められた手続きに
よって、主張された道徳的判断と対になる言明は真であると主張する(自然主義)。

正当化に関するこれら 2 つのどちらとも、ここでは採用しなかった。なぜかというと、一部の道徳上
の原理は無理がなく、しかも明白であるように思われるにもかかわらず、それらは必然的に真だと
主張することに対しては大きな障害があるからである。

必然的な道徳的真理の候補としてより適当であるのは、原理それ自体ではなく、それらの採用に課
せられ得る複数の条件である。したがって道徳的理論の<ソクラテス的>な側面を正当に斟酌し
つつ、道徳理論をその他の任意の理論とまさに同じようなものとみなす方がよい。

ここで使用してきた原理群や条件・定義は、確かに理論の中心的な要素にして概念装置である。し
かしながら正当化は、構想全体に基づいており、そしてこの構想が<反照的均衡>
における私たちの熟考された諸判断とどのように適合し、かつそれらをどのように組織化している
のか、ということに左右される。

この種の正当化に突き付けられる疑問がある。それは、この正当化は合意という単なる事実に訴え
ているだけではないか、というものである。しかし、正当化とは、私たちと見解を異にする人々に、あ
るいは私自身に差し向けられた論証なのだと答えることができる。

正義は社会の制度がまずもって発揮すべき効能であるとする、最初の確信に立ち返ることになる。
正義の至上性について理解・評価した結果が公正としての正義である。公正としての正義は、正義
の至上性に関する所見を明確に表現し、そうした見方が有する一般的な傾向性を支持する。

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