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[論説]

中国における失業保険制度の創出
社会保障の構築をめぐる政治力学

許 楽

はじめに

中国では 1980 年代に入り、養老保険、医療保険、失業保険などを含む社会保障制度の


改革が行われた。計画経済体制下で構築された既存の福祉のあり方を市場経済に対応した
制度へと変革することが、改革の主眼であった。市場化の要である国営企業改革を実施す
1)
るためには、
「単位」による労働者の生活保障を改め 、国営企業に代わって政府を主体と
した新たな社会保障の枠組みを創出することが不可避であった(田多、2004; 塚本、2006; 鄭、
。一連の制度改革の中でも、企業保障から社会保障へ、計画経済から市場経済へとい
2007)

う改革を象徴するのが、失業保険制度の構築であった。そもそも、
「失業」の概念自体が
公式には存在していない計画経済下にあって、失業保険制度はどのように構築されていっ
たのだろうか。本稿は、1986 年から 2005 年までの失業保険制度を研究対象に据え、中国
における社会保障制度の構築過程とその特徴を考察する。
中国の社会保障制度に関しては、養老保険、医療保険を中心に先行研究が蓄積され、そ
の 多 く が 保 険 制 度 の 地 域 的 分 断 を そ の 特 徴 と し て 指 摘 す る(Duckett, 2003; Frazier, 2010;
。企業から地方政府への福祉責任の移転過程において生じた分断的な
Shi, 2012; Huang, 2015)

特徴は、いわば内生的な問題であったが、失業保険は、改革に応じ新設された制度であっ
たため、導入の過程においては、既存の秩序がもたらした内生的な分断化を克服する試み
が見られた。中国の社会保障制度に見られる分断化という特徴を理解するには、失業保険
の構築におけるこのような試みの展開過程を分析することが有益であろう。
本稿の構成は以下のとおりである。第Ⅰ節では先行研究を検討し、本研究の分析の視点
を示す。第Ⅱ節では労働制度全般における失業保険制度の位置づけに留意しつつ、中央の
政策構想とそれが孕む矛盾を描き出す。第Ⅲ節では遼寧省と上海市を事例に、地方政府 –
企業 – 労働者の 3 つのアクターに着目して、地方レベルでの失業保険制度の構築過程を分
析し、企業主体の福祉制度への磁力について論じる。最後に本稿の結論を述べる。

????? 1
Ⅰ 先行研究の検討及び本研究の視座

中国の失業保険制度に関する研究は、主に社会保障研究(田多、2004; 張、2001; 沈、2003;


、労働関係研究(岳、2011; Kuruvilla et al., 2017)、及び労働経済学の視角(山本、
埋橋ほか、2012)
2000; 程、2002; 上原、2009)からなされてきた。

中国の失業保険制度について、これらの先行研究が指摘したその特徴と問題点は以下に
まとめられる。第一に、失業保険制度の保障機能の低さ、具体的には給付金の低さ、保障
範囲の限定性、失業保険基金の収支の不均衡である(Solinger, 2005: 95; 丸川、2002: 79–83; 澤田、
。第二に、失業保険制度の実施
2016: 146–149; Duckett and Hussain, 2008; Vodopivec and Tong, 2008)

過程において、地方政府に普遍的に見られる腐敗問題である(呂・于、2004: 214; 山本、


。第三に、下崗問題に象徴される、経済改革における失業保険制度の不明瞭
2000: 440–441)
2)
な位置づけをめぐる問題である 。例えば Solinger や丸川は、失業対策において下崗者を
中心とした階層的な政策構造があったことを論じ、その原因を、政治的正当性の維持や労
働者の不満の緩和に求めた(Solinger, 2001: 684–688; 丸川、2002: 76)。これらの先行研究は多
くの知見を提供しているが、2 つの面において依然として検討すべき課題を残している。
第一に、研究対象時期の限定性である。上記の研究の大半は、失業問題が顕在化した
1990 年代後半に焦点をあて、下崗問題に対する失業保険制度の機能について疑問を投げか
けた。Duckett と Hussain(2008)は 1990 年代半ばから 2000 年代を対象に、国家の統治能力
の欠如、とりわけ情報収集能力や私営部門における動員能力の不足により、範囲が限定的
で保障が不十分な失業保険制度が形成されたと論じた。しかし、この解釈では、制度創設
初期に国営企業を中心に構築された失業保険制度の脆弱さを十分に説明できない。本来、
経済改革によって生じうる失業問題に対応するために創出した失業保険制度が、なぜ 1990
年代の失業問題に対応できなかったのか。先行研究が指摘する失業保険制度の様々な欠陥
の成因を捉えるためには、分析対象時期を広げ、制度の創設過程を解明する必要がある。
第二に、先行研究は、地方政府と中央政府の相互作用が失業保険制度に与える影響を過
小視してきた。失業保険制度については、社会保障分野で普遍的に観察される地域的な分
断や腐敗問題の存在が指摘されてきた。しかし、中央政府による新制度の試行とそれに対
する地方政府の反応については、上記の問題を分析する際に重要な視点であるのにも関わ
らず、十分な分析が行われてきたとは言い難い。Hurst(2009)は、1990 年代以降の地方政
府の政策執行能力と中央 – 地方関係に着目して各地方の失業対策を分析したが、制度構築
をめぐる中央 – 地方間の動態的な相互作用のメカニズムについては分析対象としなかっ
た。そこで本稿は、地方の資料を駆使し、失業保険制度の創設をめぐる中央と地方政府の
相互作用とそれをもたらすメカニズムに焦点にあてることによって、制度の執行過程にお
ける腐敗問題や失業保険制度の階層的構造が生じた要因を明らかにする。
社会保障制度の分断化に関する先行研究は、その原因を地方や政府各部門の独自性を中

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心に論じ(Duckett, 2003; Shi, 2012)、分断的なシステムを統合する中央の試みとそれに抵抗
する地方という構図を描いた(Frazier, 2010)。しかし、中央に統合の意図があるのにも関わ
らず、分断的な制度が構築されてしまった原因を探るには、創設時における中央の政策意
図及び異なる地方の政治過程についてのより仔細な分析が必要だと筆者は考える。改革初
期に新たに導入された失業保険制度は、中央政府と地方レベルの諸アクターとの相互作用
が、制度を分断的にしていく過程を分析するに適した題材であろう。
中国において失業保険制度建設の出発点となったのは、1986 年の待業保険制度の実施で
3)
あった 。その後、政府は 1993 年、1999 年に法改正を行い、1999 年の「失業保険条例」
が現在まで運用されてきた。筆者は、2005 年に行われた全国規模での失業保険制度と再就
職センター制度の合併をもって、市場経済下の失業保険制度の完成とみなし、1986 年から
2005 年までの失業保険制度を研究対象に据える。計画経済から市場経済への転換過程にお
いて、どのように失業保険制度が構想され、構築されたのか。その過程で中央 – 地方レベ
ルのアクターの間にどのような相互作用が生じ、どのように制度の構築に影響したのか。
上記の問いに対する筆者の仮説は、以下のとおりである。制度の創設段階では、中央は、
失業保険制度という新たなセーフティネットの構築を通じて、計画経済体制から市場経済
体制への移行に伴い発生しうる失業問題の解決を構想していた。しかし、その意図は必ず
しも各地方に共有されず、制度構築と政策実施の過程で形成された地方政府 – 企業 – 労働
者による利益連携により、中央の政策は変容を余儀なくされた。
この仮説を実証するために、本稿は遼寧省と上海市を事例として取り上げる。遼寧省は
計画経済時期に、重工業基地として国家経済の中核を担った。しかし改革開放以降、同省
の国営企業は経営不振に陥った。社会保障改革において、遼寧省を含む東北地方は深刻な
失業問題を抱え、養老保険や医療保険の改革においても大きな困難に直面した。そのため
中央政府は、2000 年から同省を社会保障総合改革の政策実験地に選んだ。他方、上海市は
直轄市として、改革開放以降中国の経済、金融の中心となり、社会保障制度改革において
も常に他省に先駆けてモデルを提供した。したがって、上記の 2 つの地域は、社会保障制
度改革において両極に位置する典型例と言える。本稿では、中央及び遼寧省、上海市の政
策文書、新聞資料、研究調査資料を用いて上記の仮説を検証する。

Ⅱ 失業保険制度の政策構想と現実

1980 年代に労働制度の改革を推進した中央政府は、どのような構想に基づいて失業保険
制度を創出したのだろうか。本節では、まず失業保険制度の創出時期における中央政府の
政策構想を明らかにした上で、地方での実施状況を踏まえつつ、労働体制改革における失
業保険制度の位置づけを軸に、失業保険体制の変遷と転換を時期ごとに概観する。

中国における失業保険制度の創出 3
1. 政策構想:流動的な労働市場のためのセーフティネットとしての失業保険

失業保険制度の構築は、1980 年代後半から始まった労働制度改革と連動していた。改革
開放を掲げる中央政府は、政府による統一管理、統一分配を特徴とする計画経済時期の労
働制度に市場メカニズムを導入し、社会主義社会に失業の可能性もたらした。1986 年、待
業保険制度が労働契約制度や解雇制度と同時に打ち出されたことは、同制度が、契約の終
了や解雇による失業の存在を前提に、失業者の生活を保障するための制度として位置づけ
4)
られたことを示している 。1985 年、中央政府は第七期五カ年計画において「徐々に各社
会保障制度、特に職工待業保険制度を建設する。これは経済体制改革を推し進め、成功さ
せるための重要な条件である」として、待業保険の導入を重視する姿勢を示した。労働
5)
部 も、待業保険制度は企業労働制度改革の構想において必要不可欠の外部条件であると
強調した(審計署行政国防司、1991: 410)。待業保険制度は、将来の経済改革により発生し
うる失業や余剰人員の問題に対する有効な対策として、その役割が期待されていたので
あった。
1987 年に労働部が発行した『待業保険工作手册』には、待業保険制度の展開について次
のような方向が示された。すなわち、
「待業保険制度の改革は、労働制度改革の深化と社
会保障制度の発展によって方向づけられるものである。第一歩として、現在の待業保険制
度の健全化を図る。次に、待業保険の範囲を拡大し、徐々に企業の余剰人員を吸収する制
度として整備すると同時に、保険料の徴収基準を引き上げる。そして最終的には、企業と
労働者が就労において自主権を持ち、労働者が異なる地域、異なる所有制の企業の間を自
由に動くことができる流動性のある労働市場を実現する」(労働部労働力管理和就業司、1989:
。以上のように、失業保険制度の創設期において、中央政府は、本制度を、流動的な
11)

労働市場を構築する前提として不可欠なセーフティネットとして位置づけていた。そし
て、労働市場の構築により大量に発生するであろう失業者の生活を同制度を用いて保障
し、それによって、一層の国営企業改革を可能にするという好循環の形成を構想していた。

2. 失業保険制度の変遷過程

しかし、失業保険制度は構築過程において変遷を遂げ、中央の政策構想が実現されるま
でに 20 年の歳月を費やすこととなった。その変遷過程は以下の時期に区分することがで
きる。
(1)待業保険制度の創設時期(1986–1994 年)

待業保険制度は、1986 年の「国営企業職工待業保険暫行規定」の頒布をもって実施され
た。この時期の待業保険制度は、その適用対象を、破産した国営企業の労働者に限定して
いた。しかし、労働部の報告書によれば、1992 年時点で、全国で破産した企業は僅か一企
業のみであった(労働部労働力管理和就業司、1993: 350)。中央政府はこのような状況を前に、
待業保険制度の適用範囲の狭さに問題を感じ、1990 年にはその適用範囲を、閉鎖された企

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業及び生産を停止した企業にまで拡張し(労働部労働力管理和就業司、1993: 339–345)、1993
年には「国営企業職工待業規定」においてこれを正式に制度化した。
このように、企業から流出した余剰人員と待業者を吸収し、労働市場の流動性を高める
という待業保険制度の初期の構想は、創設期から大きな困難に直面した。先述した 1992
年の労働部の報告書には、次のような記述がある。
「現段階の待業保険工作における主な
る問題は、待業保険の実施範囲が狭すぎたため、余剰人員が待業者として流出されるとい
う予想が外れ、待業保険基金が過剰に余っていることである。
『暫行規定』を実施した当
初は毎年 60 万人の待業職工が発生し、6 億元が支出されることを予想していた。(中略)だ
が政策の実施された 4 年間を通じて、待業職工の総計は、僅かに 20 万人であった」(労働

部労働力管理和就業司、1993: 350)

このように、待業保険制度は創設期に、適用範囲の狭さゆえに余剰人員を労働市場に流
出させるという本来の目的を果たすことができず、待業保険基金に大量な余剰を生み出す
結果となった。
(2)下崗者の再就職プロジェクトを中心とする失業保険の展開(1995–1999 年)

1995 年、中央政府は「再就職プロジェクト」を開始した。このプロジェクトは、すでに
300 万人以上に達した下崗者の再就職支援を目的とするものであったが、プロジェクトの
主たる資金源とされたのが失業保険基金であった(労働和社会保障部・中共中央文献研究室、
。これにより、失業保険制度の保障の重点対象は、余剰人員のみならず、余剰人
2002: 172)

員から転じた下崗者に移った。
国有企業改革の深化に伴い、1998 年中国における下崗者数は 600 万人に迫っていた(国
。このような状況は下崗者への制度的な対応を急が
家統計局人口和就業統計司等、2005: 162)

せ、中央はこれを「最優先の任務である」と認識していた(労働和社会保障部・中共中央文
。1998 年には、このような危機意識に基づいて対策が講じられた
献研究室、2002: 318–327)

結果、上海で始められた再就職センター制度が全国に普及し、下崗者に対する基本生活保
障制度が徐々に形成されていった。再就職センターとは、国有企業内部に設立された機関
であり、同企業の下崗者に対し 3 年間にわたり基本生活費及び社会保障費用を支払いなが
ら、彼らの再就職のための支援を提供するものであった。この制度はつまるところ、失業
者を企業から直接労働市場へと流出させることによる社会不安を回避すべく、新たに緩衝
地帯を設けるものであったと言えるだろう。この時期、失業保険と並行して下崗者に対す
る保障制度が作られ、失業保険制度は下崗者の生活保障制度の財源を担った。こうした状
況に対応するため、1999 年には「失業保険条例」に、失業保険の徴収額を賃金の 3% にま
で引き上げるとともに、労働者自身による納付を義務づけることが明記された。
(3)下崗者生活保障制度と失業保険制度の合併(2000–2005 年)

2000 年代に入り中央は再び政策を転換し、各地方の再就職センターに新たに下崗者を受
け入れることを停止し、2005 年までに全国で再就職センターを閉鎖した。中央政府は再就
職センター制度が当初より過渡的な制度にすぎなかったと強調した。他方、先行研究は再

中国における失業保険制度の創出 5
就職センター制度撤廃の背景には、同制度に関わる財政不足や保障機能の低下、深刻な腐
敗などの問題があると指摘している(Hurst, 2009: 67–74)。いずれにせよ、再就職センターの
撤廃と併せて、下崗職工基本生活保障制度を失業保険制度へと合併するという方針が、失
業対策の中心に据えられたのであった。これにより、労働者は、企業との労働契約の法的
解除をもって失業し、失業保険を受給することとなった。いわば計画経済体制下の労働者
への保障体制に終止符を打ち、市場経済的な失業保険制度という中央の当初の構想が達成
されたことを意味すると言えるだろう。
以上のように、中国における失業保険制度の創出過程は、下崗者への保障を資金面で支
える方向へと転換した 1995 年、再就職センターという制度を放棄し、改めて失業保険制
度への合併を図った 2000 年を境に 3 つの時期に区分される。そして筆者は、この中でも、
先行研究の多くが重視してこなかった、創設段階(1986–1994 年)の制度構築のあり方こそ、
失業保険制度のその後の展開の理由を解明する重要な鍵であると考える。この時期におい
て、中央の構想が、その実施主体である地方政府 – 企業 – 労働者によりどのように認識さ
れ、実施されたのか、実施過程でどのような逸脱が生じたのかを分析することにより、中
国における失業保険制度の構築をめぐる政治力学を解明することができると考えるので
ある。

Ⅲ 地方レベルの制度構築:遼寧省と上海市を事例に

遼寧省と上海市は失業保険制度の構築過程において、政策実験地としてそれぞれ異なる
段階で重要な制度モデルを提供した。本節では、この 2 つの地方を事例に、失業保険制度
の実施者たる地方政府と、利用者たる企業 – 労働者の 3 者を中心に、制度の構築過程を描
き出す(第 1 ∼第 3 項)。その上で、両事例の相違点と共通点を分析し(第 4 ∼第 5 項)、失業
保険制度の構築における政治力学を浮き彫りにしたい。

1. 地方政府の認識と戦略

(1)制度創設段階における地方政府の認識と目標

1986 年 7 月、中央が待業保険制度を打ち出したことを受け、遼寧省政府は制度の実施を
推進するにあたり、次のような指示を出した。
「企業の破産とそれに伴い職を失う労働者
の数を最小限に抑制する。規則を実施する初期段階において大量の待業職工が発生するこ
とを回避しなければならない」(遼寧省労働服務公司、1990: 57)。すでに多くの企業が操業を
停止し、労働者に長期休暇をとらせるというやり方で対応していた状況下にあって、遼寧
省は、この期に及んでも実在する待業問題の顕在化を阻止しようとしたのであった。
遼寧省が上述のような決定を下したのには、主に 3 つの要因が考えられる。第一に、イ
デオロギー上の制約である。計画経済時期に消滅を宣言された失業は、改革開放以降、資

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本主義下の失業と区別するべく「待業」と称されていたが、遼寧省政府の通知からわかる
ように、地方政府は依然として社会主義イデオロギーに縛られ、待業の出現をネガティブ
な事象として捉えていた。第二に、社会不安への懸念である。すでに多くの国営企業が経
営不振に陥っていた状況下で、企業の破産や労働者の解雇を許すならば、経済全体に対す
る政府の制御が失われ、それによって社会不安が生ずる危険があった(遼寧省労働服務公司、
。第三に、待業保険制度という新しい制度に対する不信感である。多くの待業者
1990: 58)

が一挙に社会に流出した場合に、待業保険制度で彼らを受けとめ切ることができるのか、
依然として確証が無かった。
これに対して、待業保険を所轄する省の労働部門は異なる意見を主張した。すなわち、
待業保険制度はすでに一定の適応能力を有しており、
「全省が毎年徴収する保険料により、
約 4 万人の待業職工を救済することができる。さらに基金の累積額を含めるならば、11 万
人の待業職工の救済分に相当する」と主張し、企業に滞留する余剰人員をより積極的に待
業保険制度の枠組みの中に組み入れるべきだと提言したのであった(遼寧省労働服務公司、
。だが、図 1 が示すとおり、この提言は受けられず、遼寧省において就業か
1990: 181–183)

ら待業に転じた人員数は 1995 年まで一貫して低いレベルに維持され、その保守的な傾向


6)
は顕著であった 。
他方、上海市は待業者の出現に対して、より開放的な姿勢を示した。1986 年から 1988
年に至る 2 年間、全国の登録待業職工数は 6.3 万人であったが、そのうち上海市が 3 万人
以上を占めていた(労働部労働力管理和就業司、1993: 325)。就業から待業に転じた人員数を
見ても、遼寧省とはかなり異なる構造を有していたことがわかる(図 1 参照)。上海市の総

図 1 上海市と遼寧省 就業から失業に転じた人員数(1990–1996 年)

(注)左側目盛は、就業から待業に転じた人員の総数(棒グラフ)を、右側目盛は、待業人員の当該
年度の増員数が待業人員総数に占める割合(折線グラフ)を示す。
『中国労働統計年鑑 1991–1997』に基づき筆者作成。
(出所)

中国における失業保険制度の創出 7
労働人口は遼寧省より少なかったにも関わらず、就業から待(失)業に転じた人員数は遼
寧省の数倍に達し、新たに増えた待業者に占める比率も高かった。図 1 は、遼寧省と上海
市の待業問題の構造が、全国的に見て両極にある事例だということを示している。
上海市が待業問題において遼寧省とは異なり、相対的に積極的な姿勢をとった理由は、
以下の 2 点により説明できるだろう。第一に、市場経済改革がより進んでいる上海市は、
企業改革と市場制度の構築を第七期五カ年計画(1986–1990 年)の柱の 1 つに据えるととも
に、待業保険制度を「労働改革の必要に応じ、労働力の合理的流動を促す」ための制度と
して位置づけ、待業者数の増加を待業保険制度が機能している成果として肯定的に評価し
た(上海市労働局、1991: 45, 100)。第二に、上海市の潤沢な財政資源は、待業保険制度の基
礎となる待業保険基金を資金面から支えていた。待業者等の労働就業を促進するために、
1980–1990 年の間に、上海市は待業の主管部門である上海市労働服務公司に計 3,518 万元
の財政資金を与えた(上海市財税務志編纂委員会、1995: 231)。待業保険制度の一環として設
けられた就業訓練に関しても、1992 時点で上海市の一人あたりの訓練経費は遼寧省の 2 倍
であった(国家統計局社会統計司、1993: 185)。
(2)制度の構築:失業保険制度の統合レベルをめぐる中央と地方

中央政府の法律規定が頒布された後、各地方もそれに従い地方レベルの法規を打ち出し
た。遼寧省と上海市がそれぞれ公布した 3 つの法規の内容からは、保険制度の統合レベル
をめぐる中央と地方のかけひきが観察される。中央の「暫行規定」が省レベルの統一的な
管理を要求しているのに対して、遼寧省が同年公布した「遼寧省国営企業職工待業保険実
施細則」には、保険基金は「市が統一的に管理し、不足部分は市財政で補填する」という
中央の法規に反する内容が明記された。所得の再分配を目的とする社会保障制度にとっ
て、一定規模を有する範囲での統合は、地域間格差を是正する意味で重要な課題である
。このような観点から、新設の社会保障制度である失業保険制度については、
(Hurst, 2009)

省レベルの統一的な管理が創設時から強く要求された。中央政府としては、分断的な社会
保障を、より広域レベルで統合することを志向していた。しかし、中央の要求は地方レベ
ルに下達されるや変更され、統一管理のレベルは省から市へと書き換えられてしまったの
であった。
結局のところ、失業保険についても、先行して実施されていた医療保険制度や養老保険
制度と同様に、
「市レベルでの統一的な管理+省レベルの調整金」というやり方が採用さ
れることとなった。市レベルの政府が、保険金を重要な政治的、財政的資源とみなし、省
レベルでの調整と再分配を拒むことにより、保険制度の再分配機能が十分に発揮できない
という先行制度の問題は、そのまま失業保険に引き継がれたのであった(石原、2003: 74)。
遼寧省は保険徴収額の 10% を調整金として省政府に上納するよう規定したが、1994 年に
おいて各市が滞納した調整金は 1,121 万元であり、上納すべき金額の 70% に達した。その
うち、76% にあたる 853 万元は省内の大都市による滞納であった(遼寧年鑑編集委員会、1995:

318)

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上記のような管理方式の逸脱は、遼寧省だけに見られた現象ではなかった。1986 年の
「暫行規定」を受けて各省が策定したほぼすべての法規は、省レベルの調整金を設けると
ともに、市レベルで統一的管理を実施する方針を定めるものであった。上海市においては、
他の地方より高い 30% の調整金の上納を要求することにより、保険基金制度についてはよ
り高次の統合が図られた。しかし、保険基金の管理主体を各区、県とし、調整金を上海市
に上納するという管理体制のあり方は、他の地方と同様であった(上海市労働服務公司、
。上記のような地方の対応を前に、中央は妥協と黙認を余儀なくされた。1993 年
1991: 30)

の「国営企業待業保険規定」は、このような地方の実態を法律によって追認したものと言
える。このような経緯を経て、失業保険制度における社会保障の広域統合という中央の試
みは当初より挫折してしまった。
(3)制度の実施:基金使用をめぐる問題と衝突

創設期の失業保険制度は、地方での実施において、待業保険基金の徴収や使用に関し以
下の問題を抱えていた。第一に、本来待業者となるべき労働者が企業内部に留め置かれて
いたため、待業者への直接給付が見積もりを下回り、多大な余剰金が発生していた。1988
年 6 月までに、遼寧省と上海市がそれぞれ徴収した 8,270 万元、4,944.9 万元の保険料のう
ち、待業救済金として支払われたのは、それぞれ 26.7 万元(0.32%)、137.67 万元(2.78%)
であった(遼寧省労働服務公司、1990: 168; 上海市労働服務公司、1991: 99)。このことは、待業
問題に慎重であった遼寧省政府のみならず、比較的積極的であった上海市政府も、待業保
険を十分に利用することができなかったことを示している。
待業者が企業内に留め置かれるという状況は、失業保険の支出構造にも際立った特徴を
もたらした。失業保険の多くは失業者への直接給付ではなく、失業者や余剰人員を有する
企業に対する補助として支出されることとなった。すなわち、支出の大部分は企業に対す
る救済費用、具体的には「転業訓練費」や「生産自救費」など、企業に給付される費目に
充当されたのであった。遼寧省においては、支出の 43.6% を行政管理費用、54% を上記 2
つの費目への支出が占めていた(遼寧省労働服務公司、1990: 168)。上海市においても、1990
年には、待業保険基金から生産自救費という名目で 500 万元が支出され、企業が待業者や
余剰人員を吸収するための奨励金として使われた(上海市労働服務公司、1991: 145)。
第二に、失業保険の運用において大きな権限を与えられた地方政府と主管部門による腐
敗や基金の流用も深刻な問題であった。1990 年、遼寧省大連市政府は、失業保険基金を含
む 5,500 万元を水道建設プロジェクトに流用した。地方労働部門によれば、
「地方財政が緊
迫している状況の中、待業保険基金を用いた債権の購入や地方財政の補填などが各地で蔓
延し、労働部門がこれを抑制することは困難で」あった(遼寧省労働服務公司、1990: 182)。
さらに、企業を介した失業保険の運用が展開される中で、保険基金の管理・使用権を掌握
する地方労働部門と企業との癒着関係が形成され、両者の間に賄賂や基金使用における不
正行為が生ずる事例も散見された(遼寧省労働服務公司、1990: 192)。
第三に、中央の方針の変化や、中央の各部門間の意見の相違も、地方における失業保険

中国における失業保険制度の創出 9
基金の管理に混乱をもたらした。1992 年、上海市は待業保険基金と工会資金から 3,000 万
元を拠出し、大型国営企業の余剰人員 10 万人を再配置するために上海市富余勧業開発総
公司を設立した。これについて労働部は、同年国務院に宛てた報告書において、大型国営
企業の労働改革を推進する取り組みの成果として紹介した(労働部労働力管理和就業司、
。だが、1996 年に実施された養老保険と失業保険の財務に関する財政部の検査は、
1993: 351)

この 3,000 万元の支出を、待業保険基金を直接投資に流用した規律違反行為の例として批
7)
判したのであった 。このことは、労働部門と財政部門の間に認識の相違が存在していた
こと、さらに失業保険基金が腐敗の温床とならぬよう、その使用方法について中央政府が
より強い規制をかけ始めたことを示している。
中央部門間、中央 – 地方間の見解の不一致は失業保険制度の管理権限の所在に関しても
生じた。1986 年の「暫行規定」に明記されたとおり、複数の部門に管理される養老保険と
は異なり、失業保険制度は労働部門のみによって管理されていた。しかし、実際の実施過
程においては、保険基金の管理をめぐり労働部門と財政部門の間に衝突が散見された。
例えば、1986 年の「暫行規定」によれば、待業保険基金は主管部門が開設した「職工待
業保険専門口座」に貯蓄されなければならなかった。だが、財政部は 1987 年の「国営企
業職工待業保険基金和退職養老基金預算管理暫定弁法」において、
「基金はすべて財政専
門口座に貯蓄し、同級の財政部門の審査を受けるべきである」と規定した。これに対し労
働部は、保険基金の管理権限を財政部に移管しようとするものであり、
「暫行規定」の原
則に反していると抗議し、国務院が新しい規定を出すまでは「暫行規定」に従うべきであ
ると繰り返し主張した(審計署行政国防司、1991: 42, 50)。さらに労働部は、1989 年に「国営
企業職工待業保険基金管理弁法」を定め、保険基金が「待業保険基金専門口座」に貯蓄さ
れる旨を改めて規定した(審計署行政国防司、1991: 72–75)。管理権限をめぐる中央レベルの
摩擦は、地方レベルに制度の混乱と分断をもたらした。例えば遼寧省では、地区ごとに異
なる管理方式がとられた。遼寧省労働部は、盤錦市と営口県、淩源県が保険基金管理体制
を変更し、待業保険基金を財政専門口座に入れたことを問題視する姿勢を示した(遼寧省

労働服務公司、1990: 90)

2. 企業の認識と戦略

では、制度の使用者である企業は、どのようにこの制度を受け入れたのだろうか。
当時、企業が置かれた状況は矛盾に満ちたものであった。労働市場の構築を図るための
待業保険制度において、労働者が待業保険を受給するためには、所属企業による待業保険
料の納付が前提条件であった。しかし、制度の創設段階において、潜在的な待業者が多く
発生したのは、総じて経営不振に陥り、待業保険料を納付することすら困難になった中小
の国営企業であった。1994 年の上海市の約 20 万人の下崗職工のうち、経営不振企業の職
工は、全体の 82.5% を占めていた(肖、1998: 30)。保険料を徴収する代わりに、国営企業に
余剰人員を放出させるために作られた待業保険制度であったが、余剰人員を抱えながら、

10 アジア研究 Vol. 68, No. 4, October 2022


同時に保険料を支払うことは、経営難に陥った企業にさらなる負担を強いることとなっ
た。これらの企業は地方政府に財政的な支援を求めたが、市場改革において弱い立場にあ
る彼らの発言力は弱く、遼寧省は「経営不振の企業からも待業保険料を規定通り徴収すべ
きであり、減免することはできない」という方針を変えなかった(遼寧年鑑編集委員会、

1997: 87)

他方、失業保険基金の大部分を納付していた大型国営企業もまた、納付に対し頑強に抵
抗した。その典型例として遼寧省鞍山鋼鉄公司が挙げられる。同公司は 21 万人の職工を
有しており、その負担すべき納付額は、1987 年時点で鞍山市の待業保険基金の 60.9% を占
めていた。だが、同公司は 1986 年から待業保険を企業内部で徴収、管理、使用すること
を主張し、鞍山市による待業保険基金の徴収と管理を拒絶した。鞍山鋼鉄公司、市政府、
市労働局の 3 者による交渉が繰り返し持たれたものの、合意には至らなかった(遼寧省労
。大型国営企業は、同地方の経済を左右し、発言力も大きいため、
働服務公司、1990: 93–94)

地方政府にとっては慎重かつ大切に扱わなくてはならないアクターであり、鞍山鋼鉄公司
の事例のように交渉が行き詰まることも数多く発生した(遼寧省労働服務公司、1990: 122)。
待業保険制度の主たる対象である国営企業が待業者や待業保険金を企業内に留保しよう
とするのには 2 つの理由があった。第一に、企業や産業が労働保険制度の管理と運営を
行っていた計画経済体制下の慣行による影響である。この慣行は改革開放以降の社会保障
改革全般に影響を及ぼし、1998 年時点でも依然として 11 種の産業部門の養老保険が企業
や産業により個別に管理されていた(宋、2021: 729)。鞍山鋼鉄公司の事例は、保険基金の
個別管理を求める国営企業の選好が、失業保険制度の創設に際しても、その動向を規定し
たことを示している。第二に、名目上失業があってはならないとされた計画経済体制にお
いて、余剰人員は、労働分配体制の硬直性を緩和する重要な労働力資源としての側面を有
していた。このような認識は、改革後も変わることなく国営企業の中に残存した。上海市
においても、多くの国営企業が 20 ∼ 30% に及ぶ余剰人員を抱えていたが、企業は余剰人
員を労働市場に放出させる対象としてよりもむしろ、企業、産業内部で自由に配分できる
労働力資源として捉えていた(市経済体制改革弁公室企業処・上海経済改革十年編集部、1989: 38)。
加えて、失業者の主たる再就職先も、国有企業と繋がりのある企業に偏る傾向にあった。
再就職先を手配するため、国有企業や地方政府は、国有企業の余剰人員や失業者を組織し、
集団所有制企業を新設するなどの取り組みを行い、失業保険基金からもそのための経費が
拠出された。このような経緯で誕生した新設の企業は、稼働後も国有企業や地方政府と緊
密な連携を保っていた。他方で、非国有部門は、再就職先として依然として不安定であっ
た。上海市総工会の調査によると、外資企業や私営企業も、失業者や下崗職工を雇用する
ことについて、政府の認可や財政的補助を受けていた。しかし、これらの企業の中には、
補助を受けながらも失業者らと恒常的な労働関係を結ばず、臨時ないし短期の契約での雇
用に留めることにより人件費を削減しようとするものも少なからずあった(全国総工会政策

研究室、1999)

中国における失業保険制度の創出 11
3. 労働者の認識と戦略

国営企業の労働者は、待業保険制度の核心的な保障対象である。では、これらの労働者
は制度の狙い通りに、待業保険の保障を活用し、労働市場に再び参入できたのだろうか。
1989 年、上海市の待業者は毎月 2,000 人のスピードで増加していたが、そのうち 67% は
8)
自ら離職した者であった 。1992 年時点では、上海市の固定工(終身雇用の労働者)及び契
約労働者は計 16 万人減少したが、そのうち、労働契約が打ち止めとなった者は 21.5%、企
業から解雇された者が 4.1%、労働者自身の都合により離職した者が 19.5% であった。こ
れとは対照的に、遼寧省においては、減少した計 20 万人のうち、労働契約の打ち止めが
7.5%、解雇が 6.4% であり、労働者自身による離職は僅か 0.9% であった 9)。このことは、
上海市の労働者と企業が、遼寧省に比して、より積極的に労働市場の流動化に対応したこ
と示している。上海市における非国有部門の発展や手厚い再就職支援が、労働者の積極的
な対応を支えていたと考えられる。
他方、遼寧省か上海市かを問わず、国営企業の労働者の志向には、共通の特徴があった。
労働者は、改革後も企業との労働関係を、社会保障を含むすべての福祉の源と捉えており、
待業者や余剰人員は何とかして企業との労働関係を維持しようとした。また、再就職先に
ついても、遼寧省の労働者には国営企業や集団所有制企業に固執する傾向が根強く存在し
た(遼寧労働就業研究課題組、1998: 20)。上海市でも、500 人の待業者を対象とした 1997 年
「待業」を理解する者の割合は僅かに 26.3% であり(全国総工会政策研究室、
の調査によると、
、労働者が待業後も元在籍企業に依存し、再就職を拒む現象も散見された(肖、
1999: 371)

。再就職の方法についても、国営企業の労働者は、企業や政府による再配置や再就
1998: 3)

職の手配に依存し、自ら労働市場に入り職を探すという願望と認識に欠けていた(王萍、
。結果として、労働市場の流動化は遅々としたものとなり、待業保険に対す
2006: 123–124)
10)
る人々の関心も養老保険や医療保険と比べ低迷した 。

4. 遼寧省と上海市における失業保険制度構築の特徴と影響

以上の分析から、遼寧省と上海市には失業保険制度の構築過程に相違と共通性が併存し
たことがわかる。本項では、相違点に着目し、両地方の特徴がどのように制度構築に影響
を与えたのかを論じる。失業保険制度の構築及び失業問題への対処において遼寧省に見ら
れた慎重かつ受動的な姿勢と、上海市に見られた積極的な姿勢は、何に由来するのかとい
う点を体系的に解明したい。
第一に、財政的資源は、地方の行政能力と社会保障を提供する能力を規定すると同時に、
社会保障基金の流用のリスクにも影響を与えた。財政資源が社会保障に与える影響につい
ては、すでに多くの実証研究が明らかにしているが(Huang, 2015; Dickson and Landry, 2016)、
失業保険についても、地方の財政力は、待業保険基金の 1 つの財源として、待業保険制度
の実施状況を左右した。第 1 項で論じたとおり、遼寧省が待業保険制度の導入に躊躇した

12 アジア研究 Vol. 68, No. 4, October 2022


背景には地方の財政負担増への憂惧があった。また、失業保険基金の流用問題の多くは、
地方財政の逼迫状況下で生じていた。
第二に、社会保障制度及び労働制度改革の進捗、さらには中央が地方に与える行政圧力
などによって構成される制度的資源も、待業保険制度の導入に対する地方政府の姿勢に影
響を及ぼした。例えば、上海市では、労働制度改革、市場改革が比較的早期に進展を遂げ
たことが、政府に失業保険制度の構築や拡張のインセンティブを与えた。また、上海市及
び遼寧省の事例が明らかにしたように、流動的な労働市場を前提に中央で構想された失業
保険制度が、企業を中心とした制度へと変化した背景には、企業を中心にすでに営まれて
いた他の社会保障制度や、依然として市場化の過渡期にあった労働制度も大きく影響して
いた。同時に、中央 – 地方関係も重要な要素であった。制度改革に慎重だった遼寧省が
2000 年以降、政策実験区として迅速に下崗者保障制度と失業保険制度との合併を進めたこ
とは、中央の地方に対する行政的な圧力が、地方の財政資源に直結すると同時に、地方政
府の改革に対するインセンティブにも影響を与えることを示している。
第三に、地方の置かれた経済環境、労働者、企業ら社会アクターの制度改革に対する認
識などによって構成される社会的資源も、失業保険制度の構築における地方政府の行動に
影響を及ぼした。経済状況や産業構造は、個々の地方が直面する失業問題の特徴や深刻度
に影響し、失業保険制度の導入に対する労働者や企業の認識を方向づけ、政府が政策を実
施する際の環境を醸成した。例えば遼寧省では、国営企業を中心とした経済構造の下で、
労働市場の活性化が遅れたことが、企業や労働者の保守的な態度を醸成し、それが失業保
険制度の導入に対する政府の慎重姿勢を助長した。
以上の要因に沿って整理するならば、遼寧省と上海市は失業保険制度の構築において、
以下の特徴を有していたと言えるだろう。遼寧省は深刻な失業問題に直面し、状況を改革
する必要に直面していたが、政府は財政的な逼迫により執行能力を欠き、政府 – 企業 – 労
働者がともに失業に対して保守的な態度をとったため、制度的資源、社会的資源の制約に
より制度の構築は妨げられた。他方、上海市は経済環境、労働市場ともに相対的に強い市
場経済への志向性を有し、財政的資源、制度的資源、社会的資源が相対的に豊富であった
ために、失業保険制度の構築を他に先んじて進めた。その結果、上海では企業を中心とし
た失業保険制度が早期に形成された。
異なる経済的、制度的、社会的資源の制約の下で進められた創設段階の制度構築は、両
地域のその後の失業保険制度の発展にも大きな影響を与えた。下崗者の保障を中心とした
1995–1999 年の段階において、上海市は企業を中心とした失業保険制度をさらに発展させ
た。1996 年に上海紡績、儀電の集団公司で実施された再就職センター制度は、1997 年に
は全国に普及した。他方、遼寧省の多くの企業は再就職センターの設立すらできず、1997
年時点で 50 万人に及ぶ下崗職工のうち、再就職服務センターに入ることのできた職工は
僅か 15.51% であった(国家統計局社会統計司・労働部総合計画司、1998: 435)。深刻化した下
崗問題に対応するため、遼寧省の失業保険基金の支出は増加の一途を辿り、1998 年には赤

中国における失業保険制度の創出 13
字状態に陥った(遼寧年鑑編集委員会、1998: 256)。下崗者保障制度と失業保険制度の合併段
階の 2000–2005 年になると、問題が最も深刻であった遼寧省は、政策実験地に選ばれ、
2003 年までの 3 年間で再就職センターの利用者 175.5 万人を失業保険制度に組み入れた(国
。だが、行政的な強制手段によるこ
務院完善城鎮社会保障体系試点工作小組弁公室、2004: 369)

の改革は、非常に大きなコストを伴うものであった。3 年間にわたって失業保険料の徴収
を強化し 36.7 億元を徴収したが、この 3 年間で使用した失業保険基金は 50.6 億元に達した。
他方、早期に再就職服務サービスセンターを創出した上海市においては、失業保険制度と
の合併もよりスムーズに進められ、2000 年時点で再就職センターの入所者は 14.7 万人に
まで減少した(祝均一、2001: 27)。しかし、2006 年の陳良宇元上海市書紀に関する一連の
スキャンダルとの関連で、上海市社会保障局局長が 1999 年から 2006 年にかけ莫大な社会
保険基金を企業への融資に流用していたことが白日の下に晒されたことにより、社会保障
制度の実施過程で構造化された地方政府と企業の癒着の実態も明るみに出た。

5. 企業を中心とした失業保険制度と利益空間

上記のように、失業保険制度の創設段階において、遼寧省と上海市との間にはそれぞれ
の社会経済条件の違いに応じて相異なる姿勢が観察された。しかし、より注目すべきは、
流動的な労働市場を育成するためのセーフティネットを構築するという失業保険制度設計
時の中央政府の意図が、いずれの地方においても共有されず、企業を中心とした形での失
業保険へと変容を遂げたことである。遼寧省、上海市のいずれの地域においても、地方政
府 – 企業 – 労働者には、失業を企業内部で処理しようとする傾向が強く見られた。その結
果、企業内部の潜在的失業問題が深刻化する一方で、失業保険基金が手付かずのまま大量
に残されるという事態が生じ、失業保険は企業を中心とした運営へと変容していった。
その背景として、企業を中心とした失業保険制度をめぐり、地方政府 – 企業 – 労働者の
間に一種の利益連携が形成されていたことを指摘できる。地方政府にとって、失業保険は、
失業保険基金の利用という利権の共有と分配をめぐり、企業との間に連携関係を築くため
の重要な政治的資源であった。企業もまた、所有形態や経営状況による違いはあるにせよ、
失業保険を通じて地方政府との間に利益の連携を形成することに旨味を見出していた。結
果として、失業者を企業から分離させるための社会保障として構想された失業保険制度
は、執行過程において、失業者と企業の関係を維持し、企業と地方政府の連携をいっそう
強化するものへと変容したのであった。
ではなぜ、異なる経済社会条件に置かれた地方において、上記のような類似した変容が
もたらされたのか。その理由としては第一に、計画経済体制期がもたらした共通の構造に
よる影響が挙げられる。計画経済期に形成された構造―国営企業が労働者の生活を終身保
障することにより生じた企業 – 労働者間の庇護と依存の関係、地方政府が行政命令により
労働力の配置を行うことにより生じた政府 – 企業 – 労働者の間の権力関係など―は、依然
として福祉の提供における企業中心主義、労働者の政府、企業への依存などの志向性を残

14 アジア研究 Vol. 68, No. 4, October 2022


存させていた。また、失業の存在をタブー視する社会主義イデオロギーの影響も、政府 –
企業 – 労働者の失業問題に対する保守的な姿勢を助長した。この点はとりわけ遼寧省の事
例で明白であったが、政府主導で市場経済化に向けた改革が進展しつつあった上海市にお
いても、企業や労働者は失業という現象を完全に受け入れるには至っていなかった。
第二に、社会保障制度全般の制度的構造や改革の進歩もまた、地方の諸アクターの選好
や行動に影響した。失業保険制度の再分配機能を高めるべく、中央は当初、省レベルでの
統一管理を目指したが、地方レベルでの実施段階において、養老保険や医療保険など、先
行して実施されていた他の社会保険制度の行政管理方式にのみこまれる形で、市ないしそ
の下位の行政レベルの管理となった。そのため失業保険制度も、先行する制度と同様に地
域分断的となり、その再分配機能は低下した。また、第 2 項で論じたとおり、他の社会保
障について保険基金の管理権限を有していた大型の国営企業や産業は、失業保険制度の創
設過程においてもその管理権限を主張した。
第三に、中央の各部門の間の意見の分岐に伴う混乱も、地方レベルにおける制度の分断
に影響を及ぼした。先述のとおり、遼寧省と上海市のいずれにおいても、失業保険制度を
主管する労働部門と財政部門の間には、見解の相違と衝突が見られた。そして、このよう
な衝突は、地方レベルの制度構築を混乱させ、1 つの省内においても失業保険基金を管理
する機構や方法に差異が見られるなど、制度の分断をもたらした。
第四に、上記の構造において、地方レベルにおける保険制度の導入と運用に対する中央
政府の監視機能が失われた結果、地方レベルでの腐敗や保険基金の流用が深刻化した。そ
の結果、利益に基づく連携を形成した地方政府と企業は、改革への抵抗勢力となった。
以上のように、失業保険制度の創設段階においては、地方政府 – 企業 – 労働者の間の相
互作用により、地方レベルで企業を中心とした失業保険制度が構築された。この特徴は国
有企業改革が難航した遼寧省だけではなく、市場経済の発展が著しかった上海市において
も見られた。相対的に良好な上海の経済環境は、企業を中心とする失業保険制度に関わる
利権の絶対量を増大させ、地方政府と企業を制度の構築と運用を通じた利益連携へと駆り
立てた。両ケースに確認された地方レベルの利益連携こそ、市場経済への転換を背景とし
た社会保障制度の再構築を方向づけた重要な要因と考えられる。

結論:失業保険制度の創設と歪曲

計画経済から市場経済への転換において、中国ではどのように、市場経済に応じた社会
保障制度の導入が模索されたのか。本稿は、労働市場の流動化を目的に中央政府により設
計された失業保険制度が、地方レベルでの運用過程で、企業中心の制度へと変容を遂げる
過程を遼寧省と上海市を事例として論じた。また、失業保険制度の創設段階で生じた制度
変容の要因として、失業保険の実施に関わる地方の諸アクターの関係が、生活保障におけ

中国における失業保険制度の創出 15
る労働者の国営企業への全面的依存、地方政府による労働力の配置といった計画経済期の
慣例に縛られていたこと、失業保険制度がもたらした新たな利権構造が、その関係を利益
に基づく連携関係として一層強化したことを論じた。さらに、失業保険基金の管理権など、
新たな制度の運用に伴う利権が、中央政府の部門間の対立を招くと同時に、中央の地方に
対する統制の揺らぎを導いたことも指摘した。
このような経緯を経て構築された企業を中心とした失業保険制度は、当初の構想が有し
ていた、労働市場の流動化を通じて再就職を促進するという機能を十分に果たすことがで
きなかっただけでなく、企業の中に滞留していた余剰人員や下崗者の問題にも対処するこ
とができなかった。それゆえに、中央政府は当座は失業保険という社会保障制度の実施を
諦め、計画経済期の労働者に対し、下崗者の生活保障を中心とする新たな制度で対応する
方向に転じた。このことは失業保険制度が社会保障分野及び労働改革分野の先行研究にお
いて重視されてこなかった原因の 1 つと考えられる。
また本稿は、失業保険制度創設時の制度変容の過程を分析することにより、分断的な社
会保障体制の統合を図る中央政府の試みが、地方政府を中心とした諸アクターの利益構造
によって挫折していく過程を明らかにした。遼寧省と上海市という異なる社会経済条件下
にある 2 つの地方が、失業保険制度の構築過程において示した共通する特徴とその背後に
ある利益構造を描き出すことにより、地方の自立性という観点から中国の社会保障におけ
る分断を論じた先行研究の議論を補完した。市場経済化に伴う社会保障の制度構築を論じ
る際の枠組みとして、本稿は中央 – 地方間、地方の政府 – 企業 – 労働者間に展開された政
治力学の一端を明らかにした。一方で、企業や労働者の視点から、この力学がどう映って
いたのかについては十分に解明できたとは言えない。このことは今後の課題としたい。

(付記) 本論文の執筆にあたり、
「潮田記念基金による慶應義塾博士課程研究支援プログラム」
(2021 年度)の研究補助を受けた。

(注)
1)単位とは、中国における国有企業を中心に構成された、労働者を行政、経済、思想、社会福祉のあら
ゆる面から管理する職場組織(work unit)を指す。
2)下崗とは、中国の改革時期に存在する特殊な失業の形態である。下崗職工とは、労働契約制度実施
(1986 年)以前から働いた正規労働者、あるいは労働契約期終了前の契約労働者のうち、企業との雇用関
係を維持しながらも、労働の現場に配属されず、再就職先も見つかっていない者を指す。労働和社会保
障部、 「関於加強国有企業下崗職工管理和再就業服務中心建設有関問題的通知(1998 年 8 月 3 日) 」、
『江
西省人民政府公報』 、1998 年第 18 号、1998 年 9 月 30 日、31–32 ページ。
3)「待業」とは、社会主義の中国において資本主義の「失業」を区別するため用いる言葉である。本稿に
おいて、 「待業」と「失業」は時代により使い分けるが、同じ社会現象を指す。中国において失業者/待
業者とは、法律の規定する労働年齢(男 16–50 歳、女 16–45 歳)にあり、就職する条件と意欲がありな
がら無職の者を指す(国家統計局社会統計司・労働部総合計劃司、1993: 585; 1994: 592) 。
4)1986 年 7 月、国務院は労働制度について、同時に 4 つの規定―「国営企業実行労働合同制暫行規定」 「国
営企業招用工人暫行規定」 「国営企業辞退違紀職工暫行規定」 「国営企業職工待業保険暫行規定」―を公
布した。
5)本研究の研究対象である 1986–2005 年の時期において、失業保険制度の管理部門である労働部門は幾
度かの機構変遷を経た。1985–1988 年では労働人事部、1988–1998 年では労働部、1998–2008 年までは労
働和社会保障部と称した。本稿は便宜上、以上の組織名称をすべて「労働部」と称する。

16 アジア研究 Vol. 68, No. 4, October 2022


6)『中国労働統計年鑑』には「待業職工」のデータは無いが、1997 年まで年鑑に掲載された「就業から待
(失)業に転じた人員」に関するデータは、彼らの多くがそのまま待業職工群を構成したことを踏まえる
ならば、待業職工数の変動を反映していると考えられる。
7)中華人民共和国国務院、 「国務院批転財政部関於対企業職工養老保険基金失業保険基金開展専項財務検
査情況報告的通知(1997 年 2 月 18 日) 」
、 、1997 年第 4 号、1997 年 4 月 1 日、6–10
『河南省人民政府公報』
ページ。
8)『上海市労働報』 、1989 年 8 月 31 日、第 1 版。
9)国家統計局社会統計司・労働部総合計画司(1993: 321)により筆者算出。
10)1997 年の全国総工会の調査によると、職工が最も関心を持つ社会保険は、遼寧省では高い順に養老保
険(75.7%)、医療保険(64.2%) 、失業保険(13.5%)であり、上海市では養老保険(93.4%) 、医療保険
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(きょ・らく 慶應義塾大学大学院後期博士課程 xuyue@keio.jp)

2021 年 6 月 22 日 第一稿提出

2022 年 2 月 28 日 第二稿提出

2022 年 4 月 14 日 掲載決定

2022 年 10 月 5 日 J-STAGE 早期公開

18 アジア研究 Vol. 68, No. 4, October 2022

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