详解 小仓百人一首

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百人一首

坂田火魯志

PDF小説ネット
Byウメ研究所
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︻小説名︼
百人一首
︻Nコード︼
N5926F

1
︻作者名︼
坂田火魯志
︻あらすじ︼
百人一首を小説にしていきます。かなり短い短編ごとにして百首
全て書いていきます。
百人一首
第一首
第一首 天智天皇
その時帝は田を御覧になられていた。宮中を出られ御覧になられ
る田はもう実り秋に相応しい黄金の色を見せていた。
しかしそこで帝は見られたのだった。一軒の小さな仮小屋を。そ
してそこで一人番をしている年老いた役人を。
彼は薄い服を着てそこにいた。秋の米の実りを見守りつつそこに
いる。
夜はもう寒く凍えそうである。しかし彼はそれでもそこにいて番
をしているのだ。
もう米は実り後は収穫を待つだけだ。しかしそれまで彼はここで
番をしなくてはならないのだ。
秋の夜に凍え朝になると露が冷たい。その露が衣まで濡らしてし
まいそれもまた年老いた身体を鞭打つ。実に厳しい番である。
一人で、年老いた身体でも一人で昼も夜もそこにいて。寒さに震

2
えながら番をしている。それが終わるのは実りが刈られてから。そ
れまではずっとここにいなければならない。
帝はその老人も御覧になられていた。ただ一人そこにいる老人を。
しかしふと思い歌を口ずさまれた。その歌とは。
秋の田の かりほの庵の 苔をあらみ 我が衣手は 露に濡れつつ
帝は一首詠まれると周りの者に声をかけられた。そしてこう告げ
られるのであった。
﹁あの者に衣を﹂
﹁衣をですか﹂
百人一首

﹁そうじゃ。せめてあの番が終わるまでな﹂
こう周りの者達に命じられたのであった。
老人は今も粗末な仮小屋で番をしている。しかしその彼に帝から
暖かい服が贈られて。
それだけでも何とか暖かくなって番ができるようになったのだっ
た。冷たい秋の田の番は。確かに年老いた身体にとっては辛いもの
だけれども。帝はその老人に心を向けられた。それが今この歌とな
って残っているのである。
第一首 完
2008・11・29

3
百人一首
第二首
第二首 持統天皇
帝はその時宮廷から香具山を御覧になられていた。それと共に過
去の様々なことを思い出されていたのであった。
天智帝の娘としてこの世に出て叔父である後の天武天皇の后とな
られ父と夫の対立、そして兄と夫の戦いも見てこられた。兄は死に
夫が帝となりそれを助けてこられた。今は御自身が帝であられる。
その数奇な運命を思い出されながら香久山を御覧になられているの
だ。
もう初夏になり暑くなろうとしている。緑の香具山には干してあ
るのか白い衣も見える。緑の中に見える白に香りを感じそれが宮中
にまで入って来るように思えた。その香りは父と夫の、兄の、そし
てもうこの世から去ってしまった我が子とその忘れ形見であり今御
自身が育てておられる孫の。全ての想い人のことを思い出させるも
のがあった。とりわけ父と夫の。

4
今その香りに誘われ歌を詠まれた。その歌は。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
香具山を御覧になられつつ詠まれた。帝は詠まれてからもまだ香
具山を御覧になられていたがやがてそこから去られた。だが香具山
にはまだ白い衣がたなびいていた。それが夏の香りを宮中に送り。
季節の移ろい、それと時の移ろいも教えているのであった。
﹁帝、こちらにおられたのですね﹂
﹁藤原様が御会いされたいとのことです﹂
﹁わかりました﹂
百人一首

歌から政へ。心を向けなくてはならなくなった。帝というお立場
がそうさせる。帝は心も香具山から今は離れざるを得なかったので
あった。
長い長い時も一瞬に思える。それと共に起こったことも。帝はそ
のことを想われながら今は香具山から離れられた。この歌を残され
たうえで。
第二首 完
2008・11・30 5
百人一首
第三首
第三首 柿本人麿
秋の夜は長い。とりわけ愛しい人が来ないのを待ちながら過ごす
夜は。俗にそう言われてきたが彼は今そのことを誰よりも実感して
いた。
酒を飲んでも美味くはなく月を見ても侘しいだけだ。孤独に凍え
時を過ごす辛さを今感じている。それをどうにかしてくれる人も来
ずただ時間だけが長い。月が照らし出す己の影を見てもそれは語ら
ず誰も慰めてはくれない。すすきが風にたなびき左から右へ。満月
が黄金色に輝くがその光も弱い。彼はその中で一人。夜も遅いのに
一人で己の家から外を眺めている。そうして時間を過ごしていく。
だがやがてあるものを思い出した。鳥を。自分と同じように一人
で夜を過ごす鳥を。夫婦だというのに夜は別れて眠るという鳥を。
その鳥のことを思い出し余計に寂しさを増していく。寂しさを紛ら
わせようと酒を口にしてもその酒も心を楽しくはさせてくれず。彼

6
は遂に筆を手にした。そうして書くものは。
あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を 一人かも
寝ん
書き終えて溜息をつき。どうにもならない気持ちを抱いたまま今
度は恋文を書き。それを送ろうとするがそれも止めて。溜息だけを
残してこの夜は眠りに入る。来ることのない愛しい相手のことを想
いながら。寂しさと哀しみにその身を浸しつつ。眠れぬとわかりつ
つ横にはる。寂しい夜の中で一人。長い夜を過ごす。
百人一首
第三首 完
2008・12・1
7
百人一首
第四首
第四首 山部赤人
元旦に向かった場所は富士。本朝の聖地であるそこにわざわざ元
旦に来たのには理由があった。理由がなければ向かうことはない。
辿り着いたそこは雪に覆われ白銀の世界だった。そこで従者の一
人が霊峰を指差して彼に言うのであった。
﹁藤も見事な衣も着ていますな﹂
﹁そうじゃな﹂
彼は従者の言葉に笑顔で応える。従者の言葉通り富士は今は雪に
より白くなっている。この富士を見る為にわざわざ大和からこの富
士まで来たのだ。
だが彼はやがて従者を休ませて一人で田子の浦に出た。そこから
も富士は見える。白銀の富士はそこからも見事な姿を見せている。
彼はそれを見つつ詠うのであった。

8
田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
周りには白い雪が降っている。冬の田子の浦は寒い。しかし彼は
それでも微笑みその田子の浦に立ち続け富士を見ていた。その美し
い富士を。
従者が来て彼に寒いから場所を移ろうと言うがそれでもだった。
彼は残ると言うのである。
﹁いいではないか。雪位﹂
﹁ですが﹂
﹁今は富士を見ていたい﹂
これが彼の言葉であった。
百人一首

﹁今はな。だからこそ﹂
﹁ここにおられるのですね﹂
﹁そうだ。見てみるといい﹂
従者にも富士を見るように勧める。
﹁あの白い衣を着た富士をな﹂
白い富士はこの時も彼の前にその姿を見せていた。元旦の白い衣
を着た富士。それは何時までも彼の心と歌に残ることになった。
第四首 完
2008・12・2
9
百人一首
第五首
第五首 猿丸太夫
山の奥深くに入る。すると従者達が太夫に対して言ってきた。
﹁流石にここまで来ると見事なものですね﹂
﹁そうじゃのう﹂
太夫は満足した顔で彼等の言葉に頷く。そうして山の紅葉を眺め
ている。紅葉を眺めるうちに彼は恍惚とさえしている。秋の深まり
をその紅から感じ取ってのことである。
その恍惚と共に紅葉の葉を踏む。自らもその紅に染まるようにも
思える。秋の中に入っていくように。しかし秋の深まりを感じさせ
るものはこれだけではなかった。
鹿の鳴き声が聞こえてくる。木と木の間に鹿の姿が見える。その
立派な体格から雄鹿だとわかる。鹿は首をあげてゆうゆうと鳴いて
いる。どうやら己のつがいを探しての声であるらしい。

10
鹿の角は見事なものでありその姿も。太夫はその鹿がつがいを呼
ぶその声に悲しさを感じた。そしてもう一つの感情も。今それを感
じ取りふと口ずさむのであった。
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋はかなしき
こう口ずさんだ。紅葉と鹿を見ながら。口ずさんだその歌はすぐ
に従者達に覚えられてしまった。
﹁よい歌ですな﹂
﹁そうであればよいがのう﹂
謙遜して従者達に返す。彼にとっては今は歌の出来はまずはどう
でもよかった。まだ紅葉とその間にいる鹿を見ているのであった。
百人一首

そのうえで一言言った。
﹁つがいに会えればいいがのう﹂
﹁はい。それは確かに﹂
従者達もその言葉に頷く。紅葉と鹿はそのまま秋の絵となって。
その深まりを見せていたのであった。
第五首 完
2008・12・3
11
百人一首
第六首
第六首 中納言家持
寒く凍えるような冬の夜。その冷たさの分だけ清らかで澄んでい
るようだった。
その清らかさを見上げつつ物思いに耽っていた。考えることは浮
世のことであったがそれはふと目に入ったもので変わった。
それは橋だった。星達の河に橋がかかっていた。それは彼が今こ
の夜空には見えなかったものだ。しかし今それがふと目に入ったの
である。かささぎが列をなして作っているその橋が今天の河を渡し
ているのである。星と鳥のその調和が今家持の目にも入ったのであ
る。
その橋がかかっている河を見て彼は二人のことを考えだした。い
つも年に一度しか遭えないという牽牛と織女。二人は河に阻まれて
年に一度しか逢うことはできない。

12
だが今は橋がかかっている。その二人を隔てている橋に。それを
見て彼は今宵は二人が密かに逢っているのではないかと考えるので
ある。
﹁だとすれば﹂
微笑を浮かべつつ述べた。微笑みと同時に歌が宿ってきているの
がわかる。それを感じてまた微笑む家持であった。
﹁それはまことによいことだ﹂
二人のことを想いつつ呟く。そうして冬だが七夕の二人のことを
詠おうと考え。今静かにひとつの歌を口ずさむのであった。
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける
百人一首

かささぎがかけたその橋を見上げつつ。今はこの歌を二人に捧げ
る家持であった。今宵は密かに逢うことを楽しむ二人の為に。静か
に捧げつつ冬の夜空を見上げているのだった。
第六首 完
2008・12・4
13
百人一首
第七首
第七首 安倍仲麿
もう長い間この国にいる。どれだけいるのか。数えることはでき
るが数えてもどうにもならないこともわかっている。
少なくともあの頃のことは覚えているし懐かしさも感じる。しか
し今自分はこの異国の地にいる。ここから離れることは今はできな
い。
郷愁の念は堪えようとしても湧き出てくるもので。それを抑えて
何とかこの地に留まっている。
今宵も故郷のことを考えながら空を見上げて。そこにある満月を
眺めている。
その満月を眺めているとまた思い出してしまう。子供の頃に、少
年と呼ばれる頃に見たあの満月を。三笠山に登って見たあの月を。
その輝きも同じだが今いる場所は三笠でも日本でもない。異国の地

14
で一人なのだ。
だがこの月を今故郷では誰が見ているのだろうか。父や母はまだ
生きていて見ているだろうか。もう長い間会っていない幼馴染達か。
それとも憧れていたあの人か。想いを募らせていると自然にその口
から歌が出て来た。それは故郷の歌だった。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
この国の詩ではなく歌を歌ったのだった。故郷の歌を。だが今飲
むのは故郷の酒ではなく異国の酒で。また共に側に置いている肴も
また故郷のものではない。異国のものだ。
その異国の中にありながら今故郷の歌を詠んだ。読み終えると涙
百人一首

が一条流れる。それを感じつつ今は満月を眺め続ける。故郷にもそ
の輝きを見せている満月を。一人見上げるのだった。
第七首 完
2008・12・5
15
百人一首
第八首
第八首 喜撰法師
俗世がわずらわしくなって世を離れ。今は一人この山に住んでい
る。
一人で小さな庵の中に住んでいる。この暮らしが実にいい。のど
かで静かで落ち着くものだ。
ところが世の人々は自分をこの世に対して悩み苦しみそれから逃
れる為にこの山に潜んでいると思っている。
この宇治山もそれで憂山と言っている。
このことを思うとおかしくて。自分はそんなことは全く思ってい
ないのに世の人々がこう思っていることが。それでそのおかしさを
歌にしたくて今硯をすり筆を手にして。そのうえで静かに一首書く
のであった。

16
我が庵は 都の巽 しかぞすむ 世をうぢ山と 人は言うなり
一首詠んでみるとさらにおかしいと思う気持ちが強くなり。つい
くすくすと笑ってしまう。そのおかしさを我慢できなくなっている
とそこに珍しく人がやって来た。すると自然に話をしたくなった。
﹁実はですね﹂
﹁はい。何か?﹂
﹁これを﹂
その歌を手渡した。歌を渡すとその客人も微笑んでくれた。客人
にもおかしさが伝わったようだ。
﹁成程、そういうことですね﹂
﹁はい。これを世にお伝えして欲しいのですが﹂
百人一首

﹁わかりました。それでは﹂
客人も微笑みそれを受けてくれた。世に一人いるとこういうこと
もある。彼は今そのことがわかった。わかってそれをおかしいとも
思いついつい笑ってしまう。そんなことを詠った歌であった。
第八首 完
2008・12・6
17
百人一首
第九首
第九首 小野小町
宮中にいるとつい外の世界を忘れてしまう。
ふと気付くと春でしかもそれが終わろうとしていた。
ついこの間まで雪で化粧されていた庭は今は桜が咲き誇っている
かと思っていたらそれが散っていっていた。花も色褪せてしまって
いて。
その散ってしまい色褪せてしまった桜の花びらを見て思うのだっ
た。これは自分だと。
どれだけ美しいものであろうともいつかは色褪せてしまい散って
しまう。それが人間なのだと。そして自分もまた。何時までもこの
ままでは、美しいままではいられないのだ。そのことに気付き思う
のだった。思えば思う程憂いは募っていく。
その憂いを堪えることができずに。いたたまれなくなって。言葉

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が歌となって出て来た。その歌に今の彼女の想いを込めていた。
花の色は 移りにけりな 悪戯に 我が身世にふる 眺めせしまに
歌を詠うその間にも花が散りそれが庭を色褪せてしまった桜色で
覆っていく。地面も池も木々も何もかも。それは彼女の今の心をそ
のまま表わしたものになってしまっていた。儚い桜雨はそのまま彼
女のところにまで来て。儚い香りを彼女にかぐわせる。けれど今は
その香りをかぐだけでいたたまれなくなり。その場を去るのだった。
晩春のある昼下がりの話。桜は儚く散っていく。その桜を見てこの
歌が詠まれたのだった。
百人一首
第九首 完
2008・12・7
19
百人一首
第十首
第十首 蝉丸
都に向かう人も出て行く人もそれぞれ行き交う。この関において
誰もがすれ違う。
出会いを楽しみ別れを悲しみ。関において人々はそれぞれの顔を
見せている。
笑っている人もいれば泣いている人もいる。希望を見ている人も
いれば悲しみに包まれている人もいる。その人によって顔が違って
いる。
けれど。知っている人も知らない人も遭っているこの関でそれを
見ていると自然に口ずさんでしまっていた。人々の姿を見ていて。
それがこの歌だった。
これやこの 行くや帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関

20
歌うと何故か微笑みそれと共に寂しい気持ちになってしまった。
自分がその出会いと別れを身に受けているわけではないのに。それ
でもつい笑い寂しさを感じてしまったのだった。
その歌を関に置いて去ろうとしたら人々がそれを見て。自分が置
いたことには気付かなかったけれどそれでもその歌を見て言うのだ
った。
﹁私達そのものだな﹂
﹁全くだ﹂
自分達のことを詠ったものだとすぐにわかって言い合っていた。
それを聞くだけで何か嬉しいものがある。
﹁この歌。また会おうぞ﹂
百人一首

﹁何時か何処かで﹂
そんな声さえ聞こえてきた。今も人が行き交う逢坂の関。それを
見つつ彼は今はその関を後にする。またここに来ることもあるかも
と思いつつ。関を後にし何処かへと向かうのだった。彼の道に。
第十首 完
2008・12・8
21
百人一首
第十一首
第十一首 小野篁
唐に行くのを断りその罰として流されることになり。今彼は見送
りの人達を前にして船に乗ろうとする。その手にはあるものがあっ
た。
﹁それは﹂
﹁小袖です﹂
問われてこう答えた。
﹁これを持って行きます。あの方のものを﹂
﹁そうですか。それでですか﹂
﹁はい﹂
悲しみに頭を垂れつつ答えた。
﹁あの方はもうおられませんが。それでも﹂
﹁わかりました。それではどうぞ﹂

22
﹁そしてです。あの方にお伝え下さい﹂
今度は寂しさに身体を責められつつ言うのだった。
﹁貴女の心を抱いて私は海を渡ったと﹂
﹁左様ですか﹂
﹁はい。そして﹂
さらに言うのだった。彼の言葉は悲しみに覆われ出すのも辛かっ
たがそれでも出て来る。言葉はやがて歌となりこう詠ったのだった。
わたの原 八十島かけて 濃ぎ出ぬと 人には告げよ 海人のつり舟
悲しみの心のままに詠った。詠い終えた彼は海に顔を向ける。海
は静かであるが暗く沈んだものであった。まるで彼の今の心をその
百人一首

まま表わしているかのように。
﹁そしてこの歌も﹂
﹁あの方にですね﹂
﹁贈らせて頂きます﹂
その沈んだ顔で述べたのだった。
﹁そのうえで今。向かいます﹂
﹁御元気で﹂
﹁また。御会いしましょう﹂
最後にこう告げて舟に乗り海を渡る。悲しみをそのままに流され
る彼はもう振り向かなかった。胸に今は亡き想い人の心を抱いて。
今は流れていくのであった。
第十一首 完
2008・12・9

23
百人一首
第十二首
第十二首 僧正遍昭
今日は五節。高貴な生まれの五人の美女達がその舞を披露する日。
彼は今その舞を見ている。舞は今まさにそのさなかであり彼はうっ
とりとしてそれを見ていた。
﹁如何でしょうか﹂
﹁言葉もありません﹂
こう連れの者にも答える。
﹁これ程とは。今年の五節の舞は﹂
﹁はい。確かに例年なく素晴らしいものです﹂
﹁最早人ではありません﹂
恍惚とさえした声で述べるのであった。
﹁これはまさに天女です﹂
﹁天女ですか﹂

24
﹁見えませんか?あの方々はこの地上に下りた天女なのです﹂
﹁言われてみれば﹂
連れの者も彼のその言葉に頷いた。言われてみれば確かに。それ
程までの美しさである。彼が言うのももっともであった。
﹁この舞も終わってしまう時が来ますが﹂
﹁ええ﹂
﹁できればこのまま見ていたいものです﹂
彼は舞を眺めつつ述べた。
﹁この舞を。ですから﹂
歌が出た。しかも自然に。彼は己の歌心のままに今詠うのであっ
た。
百人一首

天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 暫しとどめぬ


こう詠った。詠い終えてからもその目は。ただ天女達に向けられ
ている。
﹁何時までも見たいものです﹂
﹁確かに﹂
連れの者は彼の言葉に頷くばかりであった。ここは地上だがそれ
でも雲さえ見えていた。それ程までに美しい美女達の舞が今行われ
ているのであった。
第十二首 完
2008・12・10

25
百人一首
第十三首
第十三首 陽成院
最初は見ているだけだったのに。それが何時の間にか大きくなっ
ていって。
やがて少しずつ流れるようになっていってやがては川になってし
まった。
向こう岸が見えなくなってしまいその底が何処にあるのかさえも
わからなくなった。
果てしなく長く大きな川になってしまったこの想い。想いはじめ
たその胸の動きが積もりに積もってそうなってしまった。
今はもうこの気持ちを抑えられず。寝ても覚めても想うのはあの
人のことだけ。
ただひたすら想い歌を詠んでもあの人のことばかり。それは今も

26
同じで筆を取りそこに書いた一首の歌は。
筑波峰の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
川になってしまったこの想い。恋の川は底なしの淵で。もう彼に
はどうこうすることもできなくなってしまっていたのであった。
﹁愛されずにはいられない﹂
男と女に分かれている筑波山に自分と想い人を例えそこから流れ
ている男女川に自分の想いを重ねて。その歌を書いてもやはり想い
は消えない。
どうしても消えないこの想いを胸に今も溜息をつく。遂にはどう
しても抑えられなくなりこの歌を想い人に贈った。返事を待つのも
百人一首

辛く苦しい。けれどその返事は。
彼の想いは適った。適ったその想いで今度は川の流れが急になっ
ていく。喜びが今彼の心を満たしていくのであった。
第十三首 完
2008・12・11
27
百人一首
第十四首
第十四首 河原左大臣
何もしていない、やましいところなぞないというのに彼女は疑う。
やましいところがあればどうして今こうして彼女の前にいるのか。
そう思うだけで胸が張り裂けそうになる。
かつては何の色もなく白いだけだった自分の心を染めた人だとい
うのに。それなのにどうして自分を疑うのか。それを思うと心の乱
れを収められない。どうにかして収めようとしてもである。
今もこれ程乱れた心になってしまっているのはただひたすら恋焦
がれているから。だからこそなのに。
黒髪も乱れに乱れ忍ぶ心もどうしようもなくなり。ただひたすら
疑いの目と言葉に気持ちをかき乱される。
それに耐えられなくなり今遂におもむろに筆を取り。歌を書くの
であった。

28
みちのくの 信夫もち摺り 誰故に 乱れそめにし 我ならなくに
一首書いてそれを彼女に贈る。そうして今自らも言うのだった。
﹁これが私の気持ちです﹂
悲しみを押し殺して言葉を告げる。何とか乱れに乱れているこの
気持ちを抑えて。今言うのであった。
﹁それだけです﹂
これだけ言うとその場を後にする。そうして今は一人乱れに乱れ
た気持ちを抑えようと心を堪えている。堪えることもできそうにな
いけれど。嘆く心は黒髪と白布が乱れ飛ぶ様に。ただただ吹き荒れ
ていた。彼の心の中に。
百人一首
第十四首 完
2008・12・12
29
百人一首
第十五首
第十五首 光孝天皇
一年がはじまった。これまでの一年は過ぎ去って新しい一年がは
じまった。
その早春の日に想い人の為に若菜を摘みに外に出られた帝は。そ
の衣に雪を受けられた。
七草を摘みに外に出るとそこで出会ったのはその雪。早春の初雪
が帝の手を濡らされる。
﹁帝、雪ですので中に﹂
﹁そうです。我々が摘みましょう﹂
﹁よいのですよ﹂
帝は周りの者達に笑顔で言葉を返された。雪を受けつつの御言葉
だ。
﹁この雪がいいのではありませんか﹂

30
﹁この雪がですか﹂
﹁御覧なさい﹂
そしてその周りの者達に対して告げられる。
﹁この野雪を。袖の上で楽しそうに遊んでいる雪達を﹂
見ればその雪は一つ、また一つと帝の袖の上に降ってきている。
帝はその様を御覧になられて目を細められておられるのだ。
﹁緑だけでなく白もあります。はじまりから美しいではありません
か﹂
﹁はじまりからですか﹂
﹁確かに﹂
﹁だからです。このままでいいのです﹂
また供の者達に対して述べられた。
百人一首

﹁この一年がこのように美しいものであって欲しいものですね﹂
そう仰られ一首詠まれた。その歌は。
君が為 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ
﹁この緑と白とあの方の為に﹂
微笑んで詠まれたのであった。緑の中で帝の袖の上で遊ぶ雪達を
御覧になられながら。
第十五首 完
2008・12・13

31
百人一首
第十六首
第十六首 中納言行平
もう行くと決めたことは決めた。任地になる因幡の国に。それは
決めたのだけれど。
あの人のことを想うと後ろ髪が引かれ。どうしても行きたくなく
なってしまう。今その二つの気持ちの中で心を揺るがせているので
あった。
それであの人のことを想いつつ松を見る。
﹁因幡は松が有名でしたね﹂
﹁はい﹂
供の者が彼の問いに答えた。
﹁そう聞いています﹂
﹁そうですね。松が﹂
﹁ええ。ですがそれが一体﹂

32
﹁松です﹂
彼はここで言った。
﹁松と待つ。思えば言葉は同じです﹂
﹁言葉がですか﹂
﹁あの人が言ってくれれば﹂
未練がましいと思いつつも思わずにはいられなかったのだった。
それが例え誰かに女々しいことだと言われようとも。それでも思わ
ずにはいられなかったのだ。心を止めることは誰にもできないこと
であるのだから。
﹁それですぐにでも都に戻るのですが﹂
﹁左様ですか﹂
﹁せめてこの気持ちを﹂
百人一首

歌に込めようと思った。そうして詠った歌は。
立ち別れ 因幡の山の 峰に生きる まつとし聞かば 今帰り来む
こう詠った。詠い終えてまず出したのは溜息であった。その溜息
と共に都に背を向けた。
﹁では。行きますか﹂
﹁わかりました。それでは﹂
想い人へのその想いを歌に込めてそのうえで因幡に向かうのであ
った。その彼の後姿を松が静かに見守っていた。何も語らず。ただ
彼を見守っているのであった。
第十六首 完
2008・12・14

33
百人一首
第十七首
第十七首 在原業平朝臣
秋に竜田川に行ってみると川は青ではなかった。
紅葉が川にまで落ちてそれで紅に染まっている。
それはもう衣を着ているようで。川が絞り染めの錦帯を着ている
ようだった。
こんな川は彼にしろ今まで見たことも聞いたこともなく。おそら
く神代の世界にもないであろうとさえ思われるものであった。
その川を見て恍惚とさえなり。自然に歌が口に出てしまうのだっ
た。
ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれないに 水くくるとは
こう歌を詠った。静かに歌うその間にも紅葉が川を染めているの

34
がわかる。
紅の他に見えるものは虹。水の輝きと合わさって虹色の光もまた
見えるのであった。その輝きを見て目を細めているとそこに供の者
が声をかけてきて。彼が今詠んだその歌に対して言うのであった。
﹁この歌なのですね﹂
﹁あっ、はい﹂
その声に応えて顔を向ける。
﹁今しがたできたものですよ﹂
﹁紅葉のものですか﹂
それが紅葉を詠ったものであることを彼もまたすぐにわかったの
だった。
﹁これが﹂
百人一首

﹁如何でしょうか﹂
今は彼に応える。やはりその目を細めさせて。紅の川を見つつ目
を細めさせている今の彼の心は何時になく澄み切ってさえいる。川
のあまりもの美しさにその心まで澄み切らさせられたのである。
第十七首 完
2008・12・15
35
百人一首
第十八首
第十八首 藤原敏行朝臣
想いは募りそれで胸が張り裂けそうになってしまった。
起きていて想うことはあの人のことだけ。けれど。
会えはしない。会えないことそのことさえもが苦しみになってい
く。苦しみはさらに苦しみとなり彼の心をさらに責め苛んでいって
いる。
その苦しみを抑えられず。気が狂わんばかりになってしまってい
る。
床に入っても想うのはあの人のことで。せめてそこで思うのは。
﹁会いたい﹂
やはりこのことだった。だがこれは起きている時とはまた違って
いた。
夢の中でも、せめてあの人に会いたい。

36
こう思うのだった。せめて夢の中だけでもあの人に会いたい。こ
の片想いを夢の中だけでも晴らしたい。そう思うのだ。起きている
間は決して晴らすことはできないものになってしまっているがせめ
てと思い。
人目がありどうしても会えないけれど夢の中ならと。そう思いつ
つ眠りに入ろうとする中で思い。つい床において詠うのだった。誰
もいないが今はそのことこそが彼にとって最も救いになることであ
った。
住之江の 岸に寄る波 寄るさへや 夢のかよひ路 人目よくらむ
﹁せめて。夢の中だけでも﹂
百人一首

儚い想いを胸に抱きつつ眠りに入っていく。そこで出会えるかど
うかはわからないのだけれど。愛さずにいられぬこの想いを。己の
中に。
第十八首 完
2008・12・16
37
百人一首
第十九首
第十九首 伊勢
一時でも、それが無理なら人目でも逢いたいと思っているのに。
ただその人に逢いたいと思っているそれだけのこと。
けれど逢えず。今日も逢えず。今は一人で昼も夜も過ごしている。
そのことにどうしても耐えられず悲しみに打ちひしがれて。
そうして過ごすその夜はどれだけ悲しいものなのか。それをあの
人はわかっているのか。わかっていたらどうして今自分を一人にし
ているのか。
そんなことを思いながら一人時を過ごすこの悲しみ。
この悲しみに涙を流しつつそれでもあの人を想い。逢いたいと思
いつつただひたすら悲しみを噛み締めている。
その中で悲しみに髪も心も乱れさせ。そうしておもむろに筆を取
り書くものは。それは歌だった。歌に己の今の悲しみも寂しさも込

38
めたくなったのだ。そこに何を見るのかはわからないままに。
難波潟 みじかき葦の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよ
とや
一人で書き詠い終えても口から出るのは溜息ばかり。目からは涙
ばかり。どちらも悲しみの色に染まっている。その悲しみ、寂しい
悲しみに心を傷ませながらもあの人のことを想う。想っても仕方な
いのにどうしても想ってしまう。想えど想えど悲しみも寂しさも尽
きることはなくそれは自分自身が最もよくわかっていることなのに。
それでも想わずにはいられないのだ。想わずにいられぬこの心。
今日も一人で悲しみに涙し時を過ごす。その中で時だけが過ぎて
百人一首

いく。一人だけの時が。
第十九首 完
2008・12・17
39
百人一首
第二十首
第二十首 元良親王
あの人とのことが知られてしまった。それも一人ではなく世間に。
もう宮廷はおろか都中でそのことを噂せぬ者はいなかった。
﹁帝もこのことを御聞きになられています﹂
﹁左様ですか﹂
﹁はい﹂
親王は周りの者の言葉を聞きまずは目を伏せた。しかし伏せても
どうにもならないことは他ならぬ親王が最もよく御存知のことだっ
た。
﹁わかりました﹂
﹁どうされますか?﹂
﹁悩んでいても仕方ないでしょう﹂

40
親王は目を少し開かれたうえでこう述べられた。言葉は明瞭でそ
こには迷いがなくなっていた。より確かに言えばその迷いが消えよ
うとしていた。
﹁それ位なら。私は﹂
﹁殿下は﹂
﹁会いに行きましょう﹂
顔をあげられて述べられた。毅然とした顔になられ。
﹁あの人に﹂
﹁ですがそれは﹂
﹁いいのです。私は決めたのです﹂
周りの者達の制止も今は聞かれなかった。
﹁今の気持ちを。歌にして﹂
百人一首

さらに今のお気持ちを歌にされるのだった。その歌は。
わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身を尽くしても 逢はむとぞ
思ふ
﹁この気持ちです﹂
﹁そうですか。そこまで﹂
﹁はい。ですから牛車の用意を﹂
今まさに出て行かれるのだった。その御自身のお気持ちのままに。
その想い人のところに。例え何があろうと愛を貫かれると決意され
て。
第二十首 完
2008・12・18

41
百人一首
第二十一首
第二十一首 素性法師
﹁今宵お伺い致します﹂
その言葉を信じて待っていた。
すだれをあげて月を眺めつつ。
月もまたあの人を待ってくれている自分を気遣ってか優しい光で
辺りを照らしてくれている。
けれど来ない。もう来るだろうもう来るだろうと思っていたが来
ない。遂に夜は明けて夜明けの月を見ることになってしまった。そ
の間一睡もしてはいない。
呆れるよりも心配になってきた。あの人のことは誰よりもよく知
っているつもりだから。
想いは強いけれど移り気で。すぐに誰かに心変わりしてしまう。
昨日の相手は今日の相手とは別の人。そんなことはいつものこと。

42
今度もそうだった。そうだとわかる。わかっているからこそ移り
気なことそのことは怒りに思わない。ただありのままに受け止めて
いる。
そのうえで悲しいというか心配になってくるのだった。その移り
気のことを。その気遣う気持ちを歌に託した。
今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
九月のこの寒空も気にはならないけれどそれでも気になるあの人
の移り気。昨日は昨日、今日は今日。まるで風に吹かれるすすきの
よう。そんな移り気な人。
その人に対する気持ちを歌に託して今日も待つことにした。果た
百人一首

して来るかどうかはわからないけれど。それでも待つことにしたの
だった。長月のある日のことだった。
第二十一首 完
2008・12・19
43
百人一首
第二十二首
第二十二首 文屋康秀
秋の山は美しい。しかしそれと共に荒々しい。
風が吹きすさび草木が揺れて唸り声をあげる。それは実に凄まじ
い唸り声であった。
そんな中にいてもついつい言葉を感じるのはどうしてか。今もそ
れでこの荒々しい山風を荒らし、即ち嵐と思い嵐が吹き荒れるこの
山を嵐山という。そう思えてきた。
そして木ノ火と書いて色づく秋だとも思う。二つの気持ちが吹き
荒ぶ嵐の中で揺れ動いているのだった。
木が古くなって朽ちていってそうして枯れていく。その感じを漢
字と書くのかとさえ思う。ただ秋の山にいるだけだというのに言葉
は次々と思い浮かんでそれが消えはしない。何時までも残ってしま
うかのようだった。

44
その消えない言葉が集まりやがて一つになり。そうして出て来た
ものはというと歌だった。今日は歌を詠うつもりはなかったけれど
ついついそれを詠ってしまうのだった。
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
嵐の中で静かにこう詠った。詠ったその傍からまた風が吹き荒れ
て。寒々としているどころか全てを凍りつかせそのうえで吹き飛ば
してしまいそうだ。
その荒々しい嵐の中で詠った歌だけは吹き飛ばされも揺れ動きも
しないのだった。ただそこにあって静かに山ではなく人の心に残る
のだった。
百人一首
第二十二首 完
2008・12・20
45
百人一首
第二十三首
第二十三首 大江千里
夏には一緒だったのに。そのままずっと一緒だと思っていたのに。
恋は終わってしまった。呆気なく終わってしまった。
今は秋だけれど一人になってしまっている。恋の終わりは実に儚
いものだ。
けれど心はまだ夏にあって。夏に別れたあの人を想わずにはいら
れない。
夜にこうして月を見上げていても。
あの人のことを思い出して涙で月が滲んで見える。泣くまいと思
っていたがそれでも涙は出てしまうのだった。静かに、だがとめど
なく流れてくる。それを止めることは自分ではどうしようもなくな
っている。

46
その悲しみの心を風が吹き抜けていく。
月は夜空に一つあるだけだけれど。今は自分も一人だと思い。し
かも風も一人だと思い孤独に心を覆われてしまっているのを感じず
にはいられない。想いは次第に募りどうしようもなくなっていき。
やがて孤独を深めさらに強くなっていく。彼の中で。
そうしてその孤独を感じながら。今歌を詠むのだった。
月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ 我が身一つの 秋にはあら
ねど
歌に今の心を詠ってみた。詠ったところでこの孤独は癒されはし
ないけれどそれでも。今は詠うのだった。その深い寂しさを己の中
百人一首

に感じながら。今は一人その夜の中で沈黙と孤独を噛み締めつつあ
の人と歌のことを想うのであった。
第二十三首 完
2008・12・21
47
百人一首
第二十四首
第二十四首 管家
心の中に密かに思うことがありそれへの願掛けと秋の紅葉の美し
さにもついつい誘われて手向山の神社に立ち寄った秋のある日のこ
と。
紅葉は主ではなくあくまで思うことへの願掛けであったのにそれ
でも社も庭も池も全てを覆って染め上げているその紅葉があまりに
も紅く鮮やかなのに目も心も奪われてしまった。
くれないのその美しい葉が何にも替え難いと想ったので。
神に捧げる幣のかわりにその一枝を捧げることにした。
その一枝を捧げつつ願うのはあえてここに来て無事を願掛けしよ
うと決めていたあの人の旅のこと。互いによく知っているので願わ
ずにはいられない。あの人の旅が無事であることを。
今思いも寄らなかった程にまで美しいその紅葉の葉を神に捧げつ

48
つ。その旅の無事を祈る。無事を祈り終えて一人静かにたたずんで
いると。その気持ちが歌になって自然と口から出て来たのだった。
この度は 幣もとりあへず 手向山 紅葉の錦 神の万に万に
自然と流れるように出て来た歌だけれど。詠ってみるとこれが周
りに喜ばれ。自分でも詠ったことと周りの笑顔がとても嬉しく感じ
るのだった。
何はともあれ今はあの人の旅の無事を祈ろう。静かにこう思いつ
つ神の社を後にしそのまま立ち去る。秋の紅葉が何もかもを紅に染
め上げているのを見ながら。そう心の中で一人思いつつ今は社を後
にするのだった。願掛けを終えて紅葉も見た満ち足りた気持ちで。
百人一首
第二十四首 完
2008・12・22
49
百人一首
第二十五首
第二十五首 三条右大臣
どうしても会いたいというのに会うことができないので。
それで身を焦がしどうしようもなくなっている。
この気持ちを我慢できずに思うのだった。思わずにいられないあ
まりにも苦しく抑えきれない気持ちである。
逢坂山、愛しい人に逢えるというその山のことを。その山のこと
を思った。
共に一夜を過ごせるという小寝蔦。そういった場所のことを。こ
このことさえも心に思った。やはり思わずにはいられなかったのだ。
思わずにいられない。そこにいけばあの人に会えるのではないの
かと。
けれど会えない。どうしても会うことはできない。二人で一夜逢
うことが夢にさえ出て来るというのにそれができないでいるのだっ

50
た。
それが呪縛であるかのように。出会うことはできない。出会えた
としてもいつも誰かがいて。二人きりで会うことはできない。その
苦しみに耐えられないので。
胸が潰れそうになってしまう。愛さずにいられない、会わずにい
られないのにどうしても。
そのあまりにも辛い気持ちが今歌となって出て来た。一つの歌に。
今口から。
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしも
がな
百人一首

歌にもその気持ちが満ちていて。苦しい歌だった。どうしてもこ
の苦しみから逃れられずにどうしようもなくて。
苦しみはさらに募っていく。胸どころか心まで潰しそうだった。
その気持ちに耐えられないでいる今。自分でもどうしていいのかは
わからなかった。さまよう気持ちはそのまま荒れ狂うまでいかず留
まりつつ己を責め苛み続けどうにもならなくし続けてしまっていて。
心が散り散りに乱れていく中で祈りもするのだった。その儚い想い
に。
第二十五首 完
2008・12・23

51
百人一首
第二十六首
第二十六首 貞信公
秋に小倉山を登るとそこで風を感じた。それは紛れもなく秋風で
香りさえ感じられるものだった。まずはそこで秋を深く感じ取った。
そして桂川に行けば紅葉があった。川の流れを紅に染める紅葉を
見ることができた。それはとても奇麗な紅で見ているだけで実に美
しいものがある。
紅葉はただ紅であるだけでなく陽の輝きも受けてさらに美しい光
を見せている。
その紅の輝きを見つつ思うのはささやかなことだけれど。それで
も静かに思うのだった。
若し紅葉に心があるのなら。人と同じように心がそこにあるのな
ら。
散らずに永遠にそこにあって。その美しい姿をそのままにしてお

52
いて欲しい。そう思うのだった。
あの人にもこの美しさを見てもらいたいから。この紅に染まった
美しい世界を見てもらいたいから。だからずっとここに留まって欲
しいと。そう思うのだった。
その気持ちはやがて歌心となって。静かに口から出て来た。
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびのみゆき待たらむ
歌となって出て来たこの気持ち。それを書き留める中にも秋の紅
葉が目の前に広がっていて。それでさらに思うのだった。この美し
さを是非あの人にも見てもらいたいのだと。
百人一首
第二十六首 完
2008・12・24
53
百人一首
第二十七首
第二十七首 中納言兼輔
あの人に直接会ったことはないけれど。それでも恋しい。姿形、
それに声だけで忽ちのうちに恋に落ちてしまった。まるで何かに誘
われたかのように。この気持ちは何処から出て来るのかわからない
けれどそれでもまるで泉から水が湧き出るかの様に出て来る。
それが胸の奥から出て来ているとわかっても気持ちは変わらず。
この抑えられない気持ちのままあの人の黒く長いあの美しい髪を追
いかけてみたくなる。追いかけてそれで捕まえられればとさえ思う。
思っても今は儚いことであるのだけれど。
美しいのはわかっている。まだ会ったことはないけれど。十二単
が振り返ってそうして出会って朝になる。そのことを思うだけでも
心が締め付けられてそれでいて楽しくなる。この楽しみは心を燃や
し己をさらに苦しめまた楽しくさせ燃え上がらせて延々と繰り返さ

54
せてくれる。不思議な炎である。
けれどまだその人には一度も会ったことがない。顔を見合わせた
ことはない。それなのにここまでいとおしい。それがどうしてかは
自分でもわからない。
けれどいとおしいのは確かで。この気持ちは偽りではないから。
だから今こうして歌にも詠うのだった。
みかの原 湧きて流るる いづみ川 いつみきとてか 恋しかるらむ
こう詠った。詠い終えてもやはりあの人のことを想う。想わずに
はいられない。頭から離れることはない。この恋焦がれる気持ちは。
百人一首

どうしても湧き出て来て心を締め付けそれでいて楽しいものにさせ
てくれる。不思議な泉だと思うのだった。
第二十七首 完
2008・12・25
55
百人一首
第二十八首
第二十八首 源宇干朝臣
冬になって何もかもが静まり返ってしまって。
この山里も今はもうひっそりとしてしまっている。
夏の蝉の鳴き声も今はなくて。夜毎の寒さは厳しく鳥も虫もいな
くなってしまって。
木を見ればその歯は枯れ葉さえもなくなってしまって草は灰色に
なって朝には霜で白くなってしまう。時には雪が積もり水は氷とな
ってしまう。全てが冬の中に覆われそこで凍てついて枯れて寂しさ
を募らせていく。
秋までは多くの人がここに来てくれていたのに今はもう誰も来な
い。山里は静かなのを通り越して沈黙しきっている。その沈黙を打
ち破ろうにも今はどうこうすることもできない。ただただその寒さ
を眺めるだけだった。

56
そこにいる自分も今は栄華とは無縁で。誰からも忘れ去られてし
まったかのようだ。
そんな寒々とした中でも筆はあり幸いにしてそこに書くものもあ
った。それで徒然なるままに今歌を書き留めた。
山里は 冬ぞ寂しさ まさりける 人目も草も 枯れぬと思へば
詠ってみると寂しさがより募ってくる。冬の木の枝は細く今にも
折れてしまいそうだ。そうした寒々とした世界を見て春は来るのだ
ろうかとさえ不安になってくる。今この静まり返り何もない世界を
見ていて。今は冬の世界が全てを覆っている。何もなくなり静かな
沈黙だけになっているこの世界は。冬によってそうなりただそこに
百人一首

寂しさを見せているだけなのだった。
第二十八首 完
2008・12・26
57
百人一首
第二十九首
第二十九首 凡河内躬恒
﹁おや﹂
﹁どうされました?﹂
﹁いえ、菊が﹂
供の者にまずはこう答えたのだった。
﹁見えなくなってしまって﹂
﹁菊がですか﹂
﹁はい。あの白い菊は何処に﹂
昨日までそこに咲いていた白菊を探す。しかし初霜のせいで菊は
見えはしなかった。
白い霜と白い花ではわかりはしない。菊は霜の中に隠れてしまっ
ていた。それで少し見ただけでは何処に咲いているのかわからなく
なってしまった。

58
﹁これは困りましたね﹂
そのことについつい微笑んでしまう。何故微笑むかというと。
いじらしく思えたのだ。小さな菊が霜に隠れてしまっているのが。
そのことを思うと微笑まずにはいられなかったのだ。思えば思うだ
けその気持ちが強くなり、冬の寒さを忘れて心は楽しいものになる
ばかりであった。
いじらしく可愛い小さな白い菊。その菊のことを思いふと口ずさ
んだのは歌だった。その歌は。
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花
霜の中でこう詠った。冬の朝は寒いけれどそれでも心は微笑んで
百人一首

いた。それが歌にも出ていた。
﹁ゆっくりと探しますか﹂
﹁そうですね﹂
供の者も微笑んでくれた。冬の静かな朝。ゆっくりとその白菊を
探すのだった。時間をかければかける程いい、それだけ今の楽しみ
が長くなるからと。そんなふうに思いながら菊を探す初霜の朝であ
った。
第二十九首 完
2008・12・27
59
百人一首
第三十首
第三十首 壬生忠岑
分かれることになって。一晩あれこれと考えてもその考えがまと
まらずにいて時間だけが過ぎていって。気付けばもう朝になってい
た。
暁の朝焼けを見つつ想うのはあの人のこと。あの人のことは瞼を
開いても閉じても思い出される。まるで幻想のように。それでいて
はっきりと。頭の中にも目の前にも浮かんでそこに現われるのだっ
た。
今この帰る道を歩きつつ。やはりあの人のことを想う。想えば想
うだけ姿が現われて。そうして惑わせるかのようだった。
もう朝なのにそれでも空にはまだ月が残っていて。その有明の月
が今帰っていく自分を見送っていた。
それがはじまりとなって暁の空を見るとついつい涙もろくなって

60
しまった。
朝が悲しい者に思えるようになってしまって。それがどうにも辛
い。
もう逢ってはくれないだろう。そのことだけはわかる。わかって
いてもどうにもならないのだけれどそれでもこのことを考えずには
いられない。
この辛く儚い気持ちが歌になって。不意に口から出て来た。
有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
今この歌が口から出た。口から出た言葉はそのまま心に留まりさ
らに寂しさを深いものにさせていく。深い悲しみを己の心に感じつ
百人一首

つ今は。ただあの人のことを想う。今日もその悲しいものを感じず
にはいられない。その暁の空を見つつ想うのだった。あの人のこと
を。もう逢ってはくれないだろうあの人のことを。想いは消えない。
第三十首 完
2008・12・28
61
百人一首
第三十一首
第三十一首 坂上是則
朝になってまず気付いたことは。
そのあまりにも明るい夜明けだった。今まで経験したこともない
ような明るい夜明けなのに最初に気付いたのだった。
これは有明の月のせいでそのおかげで明るいのだろうとまず思っ
た。
それで窓を開けてみるといきなり眩しい位の光が飛び込んで来た。
その白く眩い光に目を奪われてしまったが暫くしてその光にも馴
れてきて目の前をしっかりと見てみると。
そこには雪があった。一面に降り積もった雪があった。見渡す限
り一面の銀世界でまるで光がそこにあるかのようだった。
その雪を見て思い出した。ここは都ではないのだ。
ここは吉野。旅で来た吉野の里。そこなのだ。都にはないまた別

62
の美しさがある世界だった。自分は今そこにいつのだということを
思い出したのである。
その吉野の雪鏡を見て歌心を思い出した。雪に誘われ歌心を思い
出しつつここで詠うのは。
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に ふれる白雪
こう詠った。吉野の静かな白雪。その雪の原を見つつその明るさ
に親しみ。
今は旅先のこの白を楽しむことにした。一人静かに。ささやかか
も知れないけれどとても贅沢な旅の楽しみ。冬にしか味わうことが
できない楽しみを今この吉野で味わうのだった。
百人一首
第三十一首 完
2008・12・29
63
百人一首
第三十二首
第三十二首 春道列樹
ふと川辺を見ればそこで紅葉が舞っている。
風の悪戯に乗ってひらひらと舞いながら鬼ごっこを楽しんでいる。
人間、それも男女が行うその鬼ごっこをさえ思わせるものがそこに
はあった。
山川を駆け巡るようにして舞い散っている。
逃げる紅葉もあれば追いかける紅葉もあって。それぞれがひらひ
らと舞い飛んでいる。
やがて疲れた紅葉達は。捕まえて捕まえられて落ちて。
そのまま川の中で身体を休める。
水の中で重なり合って。流れたくても流れられなくなっているか
のよう。それがまた実に美しいものであった。
紅の柵が川の中で何時の間にかできていて。それで流れられなく

64
なっている。紅と紅が重なり合ってまた紅を作って。その紅が一つ
の世界になっていた。
それを見ていると自然に言葉となって出て来たのは。歌だった。
まことに自然にその口から出てしまった歌だった。
山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり
山の中に流れる川を染め上げる紅葉。その美しさを見つつ詠った
歌は。今ここで紅葉を讃えている。
あまりにも美しい紅葉の舞と水の中の柵。そのどちらも眺めつつ
詠った歌。今ここに留めておくのだった。この静かな山と川に。歌
を詠うその気持ちまでもを残しておきこの場を後にしたのであった。
百人一首
第三十二首 完
2008・12・20
65
百人一首
第三十三首
第三十三首 紀友則
春になった。今まで世を覆っていた厳しい冬が過ぎ去った。
あの暗くどんよりとした空は消え去って。ちぎれ雲が穏やかに空
に漂っている。それだけで空が見違える感じになっていたのだった。
そして日差しは静かに、淡い影を作りながら降り注いでいる。そ
の日差しもまた冬のそれのように弱くはない。強くもないがそれで
も確かな暖かさを感じさせるのに充分なものであった。
そんな穏やかで美しい、そんな素晴らしい春の日だというのに。
晴れやかになって当たり前の心なのにどうしても心が晴れやかにな
れない。その理由はもうわかっていた。それは。
折角咲いた桜はもう散っていく。
ついこの前に咲いたばかりだというのに。咲いてまだ僅かしか経
ってはいないというのに。

66
もう儚く散っていこうとしている。
花びらがひらひらと舞い。そうして散っていく。
桜だけが。春のこの中で散っていく。まるで散り急ぐかのように。
そんな桜を見ていていたたまれなくなって。それでそのいたたま
れない気持ちは自然と言葉になって出るのだった。歌という言葉で。
久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
春の晴れやかな世界の中でただ一つ散っていく桜。これ程悲しく
残念で寂しいものはない。それを思うとこうして。ついつい歌とな
って口ずさんでしまうのだった。
百人一首
第三十三首 完
2008・12・31
67
百人一首
第三十四首
第三十四首 藤原興風
長生きをするというのも考えものだとも思う。そう思わざるを得
ないことになってしまっていた。気づけばもう。
何故ならあまりにも長く生きると周りがいなくなってしまうから
だ。
親しい友人達は誰もいなくなり。残っているのは自分だけ。周り
には誰もいなくなって本当に一人ぼっちになってしまっていた。
残った自分の前にいるのはたった一人。
一人と言っていいのかどうかわからないけれど。
松が前にある。今では松だけが自分の前にいてくれる友達だ。た
った一人の友達なのだ。
そんな松を有り難く思う。何しろ自分の前にいてくれるただ一人
の友達となってしまったから。

68
松と昔話ができるわけではないけれど。それでも。それでも有り
難いと思うのだった。
松が前にいてくれるだけでとても有り難い。その松を見ながらふ
と口ずさんだのは歌だった。その歌を今自分でも詠う。誰もいない
けれど松に聞かせるつもりで詠った。
誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
たった一人残ってくれた古い松を前に見つつ詠ってみた。詠って
みても松は何かを言ってくれるわけではないけれど。それでも今は
詠ってみた。この友達の為にも。何も言ってくれない友達でもそれ
でも大切な友達なのだと思う。周りに誰もいなくなってしまった自
百人一首

分だけれどこの松だけは残ってくれた。このことに心から感謝しつ
つ。今はこの歌を詠って己の心の証とするのだった。
第三十四首 完
2009・1・1
69
百人一首
第三十五首
第三十五首 紀貫之
久し振りに会った人に言われたことは。これまた戯れのわざとら
しいつれない返事だった。
たわむれなのはわかっているけれど。それでも少しむっとしたも
のを感じずにはいられなくて。その気持ちを歌で詠うことにした。
戯れには戯れで返すのが礼儀だがここは一つ趣向を凝らして歌でと
いうことにしたのである。
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける
﹁その歌は一体?﹂
﹁故郷の梅の花は変わりません﹂
悪戯っぽく笑って言葉を返した。

70
﹁今年も今までと変わらず初々しい香りで私を懐かしく、優しく迎
えてくれます﹂
﹁ふむ﹂
﹁花の心は変わりません﹂
その花のことを言ってから。
﹁けれど人の心は。本当に変わりやすいものですね﹂
﹁うっ、これは参りました﹂
自分の歌を聞いて言葉を詰まらせてしまって苦笑い。戯れには戯
れで返してそれで終わらせた。たったそれだけのことだけれど。
それでも歌に託したこの気持ち。やはり残念なものもあった。
その気持ちを詠ったところでやっと落ち着いて。それでその人を
見てみれば実に申し訳なさそうである。その申し訳なさそうな顔を
百人一首

見て気が晴れたかというとそうではなくこれでお互い様かしらと思
い水に流すことにした。
後は二人で再会をあらためて楽しみ合いそうして杯を持って酒を
飲む。再会の酒はやはり実に美味いものであった。梅の花も映って
いるその酒は。
第三十五首 完
2009・1・2
71
百人一首
第三十六首
第三十六首 清原深養父
夏の夜は不思議なもの。ただ夜になるだけではなくて。
その短さは驚くばかり。
まだ宵だと思って月を眺めつつ酒を楽しんでいると。酒の美味さ
に心を奪われてしまっていたとしても。
何時の間にか夜が明けてしまっていた。気がつかばもうそれで夜
が終わってしまうのだ。
気付けば朝になっていて。まるで夜なぞ最初からなかったかのよ
う。酒はまだかなりあるのにそれを置いて勝手に終わってしまうの
だ。
月はどうなってしまったのか。
急いで沈んでしまってそれっきりなのか。まるで最初からそんな
ものはなかったかのように、出てはいなかったかのように姿を消し

72
てしまっている。本当にそれっきりで姿を消してしまって後には影
も形もない。
それともただ雲の何処かで休んでいるのだろうか。そう思ってし
まう程だった。月を探してみても見当たらずさらにそう思わざるを
得なかった。本当に何処にも見えはしなくなったのだから。
そんなあっという間に過ぎ去った夏の夜を思い歌を詠ってみた。
それがこの歌。
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
本当に夏の夜は一瞬で。気がつけば過ぎ去っている。そんな早い
夏の夜のことを詠って今は一人。一人夏の朝を過ごしている。過ぎ
百人一首

てしまった夜のことを思いつつ。
第三十六首 完
2009・1・3
73
百人一首
第三十七首
第三十七首 文屋朝康
秋になってふと気持ちがそのつもりになって。
それでやって来たのがこの野原。まずは何もないのどかで静かな
朝の野原だった。ところが立ち止まって見渡してみると。あること
に気付いた。
秋の野原は露に覆われていてそれに飾られていて。もう服はその
露で濡れてしまっていたけれどそれでもそれは全く気にならなかっ
た。ただその露が目に入ってその目を細めさせている自分に気付い
ただけであった。
風が少し吹いただけ、その度に露が煌き放っていって。
それで一瞬で消えていってしまう。
本当にそれで消え失せてしまう。儚い命。一瞬のうちに風が吹い
ただけでそれで消えてしまう。そんなものでしかないのだけれど。

74
水晶の玉の様に煌いていて。そして一つ一つがあまりにも小さく
てそこに糸を通すことすらできない有様で。そんなとても小さな露
の集まりを見て消えて欲しくないとこうも願うのだった。
それで願わずにはいられなかった。風に対してどうかこの露を壊
さないでそのままで保っていて欲しいと。こう願わずにはいられな
かった。
その気持ちが歌になって出て来て。そうして出て来た歌は。
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
この歌が出て来た。野原にある露は何処までも美しくしかも儚い。
その儚さを今ここで歌に残した。儚い命は歌に詠うそばから風によ
百人一首

って消されてしまうけれど。
第三十七首 完
2009・1・4
75
百人一首
第三十八首
第三十八首 右近
あの時誓ったことは幻だったのか夢だったのか。
若し心変わりをしたその時は。
どうかこの命を裁いて欲しい。何があってもいい。
そこまで神の御前でまで誓った愛だというのに。
それなのにあの人は忘れてしまった。裏切ってしまった。
自分のことを忘れてそして裏切ってくれた。
このことを怨んでも怨みきれず。どうしても心が張り裂けそうに
なってしまう。
けれど怨んでも。それでもあの人を愛する気持ちはまだ強く残っ
ていて。
それで怨みの中でも気になってしまう。あの人のことは。
神罰が下っても。それで何があろうとも。

76
それは自業自得である筈なのに。
それでも気になってしまう。あの人のことは。忘れようとしても
とても忘れることはできなくて。それでついつい思ってしまってそ
のうえで。
その怨みと気遣う二つの気持ちを今一緒にさせて。その気持ちは
歌になって表われたのだった。
忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
複雑な二つの気持ちを今歌に詠う。あの人への想いは今歌になっ
た。歌になったけれどそれで終わったわけではなく怨みと気遣いは
そのままだけれど。
百人一首

それでも詠うのだった。あの人のことを。果たしてどうなってし
まうのかと気掛かりで。
第三十八首 完
2009・1・5
77
百人一首
第三十九首
第三十九首 参議等
どうしてこうなってしまったのか。どうしてここまで思いつめて
しまうのか。
自分で自分がわからなくなる程で。この気持ちに気付いた時には
もう遅かった。
ふと小竹を見ればそれは伸びはしない。
伸びずにそこにあるだけで。それは今までの自分と同じだった。
じっと耐えていてそれだけで。気付いてからもじっと耐えてはき
ていた。
けれどもうこの気持ちは抑えられなくなってしまっていて。遂に
は心を散り散りにさせて狂わせんばかりになってしまった。それを
抑えたくても抑えることができずに身悶えさえしてしまうけれど。
この気持ちに耐えることができない。どうしてこんな気持ちにな

78
ってしまったのか。あれこれと頭の中で考えはするけれどそれでも。
答えは出ない。出なくとも苦しみは続いていきどうにもならない有
様で。ここでも己が狂ってしまうのかとさえ思ってしまった。
自分の心がわからなくなって散り散りになってしまった心のまま
で彷徨い。その中で乱れた心に儚い気持ちになり。言葉は歌になっ
て心から出た。
浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき
恋は止まることはない。思えば思うだけその心を乱していく。そ
の乱れてどうしようもなくなってしまった心を胸に抱いて今日もま
た。一人辛い気持ちを乱れさせる。
百人一首

どうにもならないこの気持ちは抑えられなくなった。後はどうな
るのか。それは全くわかりはしなかった。
第三十九首 完
2009・1・6
79
百人一首
第四十首
第四十首 平兼盛
誰にも言われるようなことになってしまったようだ。
もう皆気付いてしまっているようだ。
心の中に隠していたのは理由があったから。
隠していなくてはならなかったから。だからなのに。
悩みある恋。密かでなければならない恋。
だからずっと自分の中にだけ秘めていて。それは口にも誰にも決
して出さず語らなかったのに。それでも。
どうして皆にわかってしまったのか。想いが。
そのことを考えている時に鏡に出会い。そこでわかった。
鏡に映る自分の顔に書いてあった。想っていることが。
恋にやつれて見違えるようになってしまった顔。その自分の顔に
気付いたから。

80
だから皆にわかってしまった。己のこの想い。想い募ってどうし
ようもなくなっていることが今顔に出てしまっているから。このや
つれてしまった顔にこそ。そのことがこれ以上になくはっきりと出
てしまっているのだった。
秘めて誰にも言わなかったこの想い。その知られてしまった想い
は。そのままでは済まず。何時しか声になって歌になって口から出
てしまったのだった。
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふ
まで
歌にもなって出て来たこの想い。想いは尽きず果てず自分の心を
百人一首

さらに想い募らせていく。
この気持ちはもう表にも出てしまった。この想いを胸に今も。あ
の人のことを想わずにはいられない。
第四十首 完
2009・1・7
81
百人一首
第四十一首
第四十一首 壬生忠見
気付けばもう。噂は広がってしまって。
ふと見て想いはじめて。そうしてまだ感じだしたばかりなのに。
これから打ち明けようと想っていたところ。考えだしていたとこ
ろ。
まだそれだけのところだったのに気付いた時にはもうだった。
噂が広がり伝わってしまった。
言葉に戸口は立てられず。瞬く間に広がってしまった。
気付いた時にはもう手遅れで。皆が知ってしまっていた。
言葉は風よりも早く、何にも防がれず広まってしまう。
そのことを今自分でも知るのだった。
知ってしまってももうどうにもならない。折角の初恋が。
気付いてしまった時にはもう壊れてしまいそうになっていた。

82
皆が。周りが知ってしまっていて。
それで誰もが自分を見て囁き合うので。
そのことを耳にしてどうにもならないことがわかって。もう自分
ではどうにもならなくなってしまっていて。
壊れてしまいそうな初恋。そのことを嘆いているとふと出て来た
のは。歌だった。
恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめ
しか
歌を歌えどどうにもならず。心がいたたまれなくなってそれでど
うにも仕方なくなって。
百人一首

それで嘆く心を抑えられず。今こうして歌に留めてこの場を去る
しかなかった。他には何もできなくて。
第四十一首 完
2009・1・24
83
百人一首
第四十二首
第四十二首 清原元輔
変わる筈がないと思っていた。
あの人に限ってそれはない、絶対に有り得ない。
信じ込んでいたし信じたままでいたかった。
けれどそれは裏切られて。
変わらぬ心を約束したのに。涙で濡れた袖を交えさせてまでした
約束だったのに。
それは変わってしまった。信じられないことだけれど変わってし
まった事実は自分でも受け入れるしかないものだった。事実なのだ
から。
女心は変わりやすい。そんな言葉はあの人に限ってないと思って
いたのにそれは違っていた。そう思わざるを得なかった。
あの人は忘れてしまったのか。あの約束を。

84
嵐が来ようが浪は山を越えたりはしない。それと同じで自分達の
誓いもまた変わることはないと二人で言い合ったのに。それでも変
わってしまったのだった。何事も、あらゆることが変わってしまう
という現実は。ここで自分自身に刻み込まれてしまうことになった。
そうなっては欲しくなかったというのに。
その変わってしまった女心を思うとどうにも辛くて。それで今そ
の気持ちを歌に託すことにした。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは
詠ってみても心のこの悲しさは消えることはない。それでも今は
心を静かにしていたかった。
百人一首

だから詠う。この歌を。涙を堪えつつ詠いそれを終えてから一人
去る。このいたたまれない気持ちを胸に抱いて。
第四十二首 完
2009・1・25
85
百人一首
第四十三首
第四十三首 権中納言敦忠
この想いは尽きることがない。
抱き締めることができればそれだけで。胸も何もかもを締め付け
ているこの苦しみが消えるだろうと思っていた。そうすればそれで
救われるのだと思っていたのだった。あの時は。
けれどこの手で実際に抱き締めてみると。
それで終わりではなかった。
苦しみは募るばかり。愛の苦しみは深まっていく。
思いを遂げるまでこの苦しみは。尽きることがないのだろうか。
そうも思いさらに苦しみを感じていき。
その中で焦がれて身体も心も燃やしていく。
この苦しみ。どうにもならない苦しみ。
この苦しみに耐えることはできなく狂いそうになりその想いを今

86
歌に託し口ずさむのだった。
逢ひみての 後の心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり
詠ってみても心が苦しみから解き放たれることはない。その苦し
みの中で耐えられなくなりそうになる中で今も苦しむ。最後まであ
の人と共にならなければ何もなかったのと同じとさえ思いを募らせ
ながら。苦しみを抱き続ける。
苦しみに耐えることはできそうにはないけれどそれでも今は受け
ることしかできなかった。抱き締めても幾ら恋焦がれても果てまで
辿り着かなければどうにかなるものではないものだけに。今はただ
受けるしかなかった。この果てない恋焦がれる苦しみを。
百人一首
第四十三首 完
2009・1・26
87
百人一首
第四十四首
第四十四首 中納言朝忠
今になって。一人になってそこで思うようになった。
それまでは思うことはなかった。
春の中にあっては思うことはなかったこと。
若しもこの世に契りというものがなかったら。
彼女との思い出がなかったならば。
そうしたことがこの世にありはしなかったならば。
そうだったならば今嘆くことはなかった。起こってしまったこと
を今更悔やむ日々を送ることもなかったというのに。
別れを恨むこともなかったし今の我が身の不幸を嘆くこともなか
った。
悲しむこともなく。世の中そのものを悲しみで見ることもなかっ
た。

88
そんな悲しみと嘆きで思うことはもう一つ。その一つを思うこと
だけでもこの身を引き裂いてしまわんばかりに辛く生きづらくなっ
てしまうのだけれど。
あの人を恨んでさえいる自分への腹立ち。その浅ましさへの腹立
ち。
そのことに何ともし難いものを抱きつつ歌を口ずさむ。それは。
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざ
らまし
歌になって出た嘆きと悲しみ。恨みを抱いている己への嫌悪。そ
うしたものを胸に抱いてそのまま眠る日々。
百人一首

あの時の夜はもう帰っては来ない。そのこともまた思いつつ一人
の夜を過ごす。悲しい夜はこれからも続いていくのであろうか。
第四十四首 完
2009・1・27
89
百人一首
第四十五首
第四十五首 謙徳公
慰めはなかった。慰めてくれる人なぞいはしない。
いらないと言えばそれは強がりになってしまうのかも知れないが。
他の人を愛せばいい。人は言う。
けれどそれができるのならば。
想いを振り切ることが簡単にできるのならば。
それ程安易な想いであったならば。
それはできない。自分にはできない。
一途に想い続けている。今も。
別れてしまった今も。
一途に愛し続けて。愛を忘れることはできなくて。
このまま想いを募らせて。
そのまま消えてしまうのだろうとさえ思うけれど。自分自身は。

90
この身体は。それでも。
あの人の心変わりが辛く。
その心変わりがどうしようもなく悲しくて。
それが元に戻れば。そのことを願う。
この気持ちはやがて歌になって。口から出た。
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべ
きかな
歌にも込められている悲しみ。この悲しみを胸に今も溜息をつく。
忘れられぬこの想い。想いを募らせ一人の夜を過ごすのだった。い
たたれぬ心を。癒されぬ心をそのままにして一人。傷はそのまま残
百人一首

ってどうなってしまうのかわかりはしないけれどそれでも今は。心
の傷はそのままにして眠りにつくしかなかった。傷心は何時までも
心に残っていく。
第四十五首 完
2009・1・28
91
百人一首
第四十六首
第四十六首 曾禰好忠
恋の行方がわからなくなってしまった。
少し前までは自信を持てていたのに。どうなっていくのか、自分
の中では確かなものがあると思っていた。
けれどそれはただの思い込みに過ぎなかった。そのことを今心の
中で悲しみと共に噛み締めている。そうなってしまったと言えばそ
れは感傷になってしまうだろうか。
今ではどうなるか全くわからなくなってしまった。どうなってし
まうのか、自分には全くわからなくなってしまった。
それを例えるとするとまさにこれは。梶を失って彷徨う小舟。
まさにそれで。ただ彷徨うばかり。
ゆらゆらと揺られるだけで。波と波の間を漂うばかり。
どうなってしまうのかは全くわからないし。流れていくのかどう

92
かさえもわかりはしない。
そこに漂っていて。不安定に浮かんでいるだけ。
そんな自分のことをあの人はどう思っているのか考えてみても。
やはり漂うようにわからないので。困惑してしまうことしきりだ。
けれどこの気持ちは歌に託したい。そう思って今は詠った。この
歌を。
由良の門を 渡る舟人 かぢを絶え 行方も知らぬ 恋の道かな
歌にした今の自分自身。あてもなく漂い彷徨う自分を。恋の道に
迷ってしまって漂うばかりになってしまった。そんな自分の今の気
持ちを。歌にしてみたがやはり彷徨い続けるのだった。
百人一首
第四十六首 完
2009・1・29
93
百人一首
第四十七首
第四十七首 恵慶法師
荒れ果ててしまった庭に古ぼけてしまった屋敷。
かつては栄華を誇ったこの屋敷も庭も今の有様。
かつては華やかだったのに今では雑草に覆われて。
百年前の姿は忘れ去られてしまった。
雑草は茫々と生い茂って。屋敷の中にまで生えている。
そんな屋敷に誰かがいる筈もなく。
誰も訪れることすらなくなってしまい。
寂しくそこに朽ち果てていっていく。
けれど一人だけ。昔をしのんでやって来た。
秋だけは。かつてのその栄華を忘れずにこの屋敷にやって来て。
せめてもと。この荒れ果てた屋敷に何かを置いていく。
その何かは人である自分にも目には見えるし心には届くけれど。

94
それでもささやかなものに思えて仕方がない。
そのささやかな、けれど秋が置いてくれたものを偲び。今歌にす
る。
八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は来に
けり
秋だけが訪れるこの荒れ果てた屋敷。そこにあるものを詠い今は
その場を去る。
秋が一人で残るこの屋敷。かつての栄華は秋だけが覚えている。
最早人はそんなことは忘れ去ってしまって誰も覚えてはいない。け
れど秋だけは違っていた。何時までもかつての栄華を覚えていて。
百人一首

そうして今もこの屋敷を訪れるのだ。人もいなくなってしまったこ
の屋敷を。
第四十七首 完
2009・1・30
95
百人一首
第四十八首
第四十八首 源重之
この身は波の前にある砂のようなもの。
心はよりそうなってしまっている。
波の前にある砂は儚く消えて崩れていってしまうもの。
今の自分は身も心もそうなっている。
見れば岩も砕けている。
波が岩を動かす筈もないのにそれでも。
波は繰り返し岩を打ちそれにより砕いていた。
波に打たれた岩が砕け散って。
それでそこには砕けた岩の残りがあるだけ。
こうして岩でさえもやがて波の前には砕けていく。
けれどあの人は違う。あの人だけは違う。
いつも冷たく。岩のように冷たく。

96
ずっとそこにあるだけ。振り向くことすらない。
そんなあの人を想っている自分が波になろうとも。
それでもあの人の心を砕くことはできない。
どうやっても砕くことはできない。
この気持ちを歌にしてみようと思い。一つ詠ったその歌は。
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけてものを 思ふころ
かな
歌にかけている波と己の願い。けれどあの人は岩になってもその
岩は波の前にある岩とは違い。何処までも固く冷たく。身動き一つ
しはしない。
百人一首

そんなあの人を今でも想う。想ってもあの人の心は砕けてはくれ
ないけれどそれでも。想わずにはいられない。自分の心が先に砕け
てしまいそうになるのも感じながらも。それでも想わずにはいられ
ない今なのだった。それが何時終わるのかさえもわからない。辛さ
は募るばかりなのだった。
第四十八首 完
2009・1・31
97
百人一首
第四十九首
第四十九首 大中臣能宣朝臣
篝火が燃えて辺りを照らしている。
夜になり暗闇が世界を支配するこの時になって篝火が頼りになる。
篝火だけを友として夜を過ごし。
気付くともう朝になってしまっていた。
朝は静かにやって来て。
灰が篝火の後にあるだけ。
朝がやって来てもそれは静かなもので。
今の自分の心をそのまま現わしているようだった。
あの人に逢えないこの辛さ。
辛いものはそのまま心に残って。
心はその辛さを忘れずにそのままで。
昼も夜も心はあの人に向けられている。

98
恋しさは募るばかり。辛さもまた募るばかり。
募っていくこの辛さを心に残してそれを今歌に詠う。
みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ ものをこ
そ思へ
歌にしてみても気持ちは消えない。ただひたすらあの人のことを
想い恋焦がれるだけ。
篝火は消えて灰になって。そうして朝が去って昼になって。それ
でも想うのはあの人のことばかり。
そうした中で忘れられずに想いを募らせていく。火は消えても想
いは消えはしない。そうした辛さが何時まで続いていくのか自分で
百人一首

もわかりはしない。けれどそれでも想い続けるのだろう、このこと
だけはわかるのだった。わかってはいてもどうすることもできはし
ないのだけれどそれでも。
今日もまたあの人を想いこうして夜の訪れを受ける。篝火はその
まま灰になってしまうのをわかっていながら。また朝が来るのを一
人で待つだけだった。
第四十九首 完
2009・2・16 99
百人一首
第五十首
第五十首 藤原義孝
昨日までは思いつめていた。どうにもならない程で時分でもどう
していいのかわからない程だった。この想いに偽りはないことは自
分自身がよくわかっている。
けれどそれは昨日までのことで。今は違っていた。少なくとも今
はそうしたことは全く思ってはいない。無論考えてもいないことだ。
これもまた偽りではない。
命を捨てても惜しくはないと思っていた。あの人に逢えるのなら
もうそれだけで。それだけで充分だと思っていた。満足だと思って
いた。やはりこれも偽りではない。自分の中に偽りがないことは何
度でも言えた。潔白であるというこのことを。
しかし。今は違う。今は違っている。

100
逢えた今では。この気持ちは変わってしまった。
この命は惜しい。惜しくて仕方がない。生きていないとどうにも
ならない位だ。この気持ちもまたやはり偽りではない。
何故か。あの人に逢ったから。あの人と少しでも共に、少しでも
長く生きていたいから。そう思うようになってしまったから。
あの人と少しでも長く生きていたい。暮らしていたい。二人でい
たい。
命は儚いもので何時消え去るかわからないものだけれどそれでも。
少しでも共にいたいから。この気持ちは抑えることはできず隠すこ
ともできず。歌に託した。
君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
百人一首
歌に託したのは心だけではない。自分の全てを託した。何時消え
去りなくなってしまうかわからない自分のことを。全てを託して今
詠った。この儚い命のことも想いつつ。今は詠った。
第五十首 完
2009・2・16
101
百人一首
第五十一首
第五十一話 藤原実方朝臣
今の自分の心に火をつけたのは誰なのかというと。
それはあの人だ。私の心を知らなくても私の心に恋の火をつけて
くれた。
それはまるで草に火がついてそれが炎となって燃え上がっていく
ようであり。
そのまま私の胸を焦がしていきそのまま燃え盛っていき心を散り
散りに乱してくれる。
けれど思い悩んでしまう。どうしてもそうなってしまう。
それはどうしてなのかというと。
この思い焦がれて焼けているこの想いをどうしても。
あの人に言えない。素直に告げることができない。それはどうし
てもできはしない。しようと思ってはいるけれどそれでもどうして

102
もできはしない。
そのことに悩む。悩んで怯みそのまま時を過ごしている。
恋の炎は消えることなく燃え盛っている。この炎をどうしても伝
えることができずに今この気持ちを歌にすることにした。そうしな
いともう死んでしまいそうになる程に辛くてどうにもなりはしない
から。だから今こうして詠う。この辛い気持ちを今一人で詠った。
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる
思ひを
この想いはどうにかならないのか。告げてしまえばそれで静かに
なってくれそうだけれどその勇気はなく。今も一人で心を焦がして
百人一首

続けている。たった一人で。
第五十一首 完
2009・2・17
103
百人一首
第五十二首
第五十二首 藤原道信朝臣
夜が来ることが待ち遠しくなった。
そうなってしまったのはどうしてかというと。
その理由はもう自分でよくわかっている。
あの人がいるから。あの人がやって来るから。
だから夜が好きになった。夜が来てくれるのが待ち遠しくなった。
暗闇に覆われ何もかもが見えなくなってしまった世界であの人と
逢う。
誰も知らず誰にも気付かれることのない。密かな恋ではあるけれ
ど。
それでもその夜のことが待ち遠しくなった。夜が来るのを朝から
待つようになって今までは明るく楽しいものに思ってきた昼が今で
は味気なくつまらないものに思えるようになってしまった。

104
夜は楽しいものになった。けれど。
夜明けは辛い。嫌なものになった。
あの人に出会えるのは夜。けれど夜が来れば夜明けも必ず来るも
のだから。
夜明けが来るとあの人は帰ってしまう。別れなくてはならなくな
ってしまう。
だから夜明けが恨めしいものになってしまった。別れなくてはな
らないから。
夜は来て欲しい。されど夜明けはその夜の後に必ずやって来る。
この二つの矛盾すること、けれど共にあることに心を乱されて。
今はこの気持ちを歌に託すことにした。
百人一首

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼら


けかな
朝が恨めしい。このどうしても堪えることのできない寂しい気持
ち。歌にもそれは出ていた。夜明けは来ないで欲しい。永遠に夜で
あったならば。そのことを想いつつ今日も夜明けを迎えるのだった。
あの人が去ってしまう夜明けを。
第五十二首 完
2009・2・18
105
百人一首
第五十三首
第五十三首 右大将道綱母
夜は長いもの。このことに気付いたのはあの人を知ってからだっ
た。
今宵も来ない。昨日と同じで。
一人でいる夜がこれだけ長いとは。気付いた今はあまりにも悲し
かった。
黒髪よりも長い夜明けがこれだけ辛いとは。これだけ寂しいとは。
夢にも思わなかった。
寂しく一人で過ごす夜。我が子を寝かせてそのうえで一人で過ご
す夜。
夜空に月はあれど語り掛けてくれる筈もなく。また一人で夜を過
ごすことになっている。
あまりにも長く寂しい夜。ただあの人を待って月を見ているだけ。

106
月は何も語らず輝いているだけ。ただそれだけで。何もしないし
まるでそこに永遠に留まっているかのようで。見ていると余計に寂
しさが増してくる。
そんな寂しい夜の中であの人を怨み。怨みつつも来て欲しくもど
かしく思い。その二つの気持ちの中でやはり寂しさを感じている。
自分でもわかっている。それはあの人を慕っているから。けれど
移り気なあの人はそんなことはお構いなしに今宵も来ない。この慕
う気持ちは自然に歌になって出て来た。
なげきつつ ひとりぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものと
かは知る
百人一首

歌になって出て来たこの気持ち。詠えどあの人は来ないけれどそ
れでも気持ちは伝えたく。今こうして詠った歌はいずれあの人に送
ろうと思いつつまた一人でその人を待つ。待てど来はしないことは
わかっているけれどそれでも。待たずにはいられないこの気持ちを
抑えられないのだった。
第五十三首 完
2009・2・19
107
百人一首
第五十四首
第五十四首 儀同三司母
この言葉が聞きたかった。ずっと待っていた。
もう悔いはない。こうも思ってしまう程だ。今死んだとしてもそ
れでいい。幸せの中に死ねるのだからそれでいい。
こうまで思えるのは何故か。それはどうしてかというと。
あの人の言葉を聞いたからだ。愛していると。自分を愛している
と。確かに言った。
この言葉さえ聞いたならばもう、こう思うのだった。愛している、
この言葉を聞いた時自分はどれだけ幸せなのだろうかと思った。
けれど。それでもこうも思うのだった。
人の心は変わりやすい。それこそ花の色が変わるかのように。
明日にはもう変わってしまうかも知れない。とても移り気なもの
だから。

108
このことからも思う。死んでもいい、いや死ねたらいいと。思う
のだ。
あの人の心が変わってしまう前に。私を愛さなくなってしまう前
に。
そうなる前に死にたい、死ねたらいいと。こう思うのだった。
そしてこの気持ちを。歌に託すことにした。歌に託さなくてはあ
の人の心が本当に変わってしまうかと思ったから。だから今歌に託
すことにした。
忘れじの 行末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな
どうか変わらないでいて欲しい。こう強く願うけれど人の心はど
百人一首

うしても変わってしまうものだから。
今は歌にこの気持ちを託すことにした。変わってしまうのならそ
の前に死んでしまいたいというこの気持ちを。愛は永遠にあって欲
しい。せめて自分が生きている間は。
第五十四首 完
2009・2・20
109
百人一首
第五十五首
第五十五首 大納言公任
昔のことだ。昔のことになってしまったと言うべきだろうか。
かつてこの離宮の庭には滝があった。嵯峨の帝が造られた滝。そ
の滝がかつてこの離宮には存在した。昔のことであるが。
その滝の前に多くの文人や歌人が集まっていつも宴が催された。
雅な宴が昼も夜も催されそれが宮廷を華やかにさせ帝もその御心
を楽しいものにされた。そこには見事なまでに大きな花が咲き誇り
誰もが滝を褒め称えそれを造られた帝のことも褒め称えられた。昔
のことであるがそのことは今も伝わり。そしてその時の美しさを偲
ばせてくれる。
けれど今はその滝はない。
枯れてしまい今はもう見る影もない。ただここに枯れてしまった
その後を見せているだけだ。他には何も見せてはいない。見せるこ

110
とはもうない。
滝は枯れてしまい後には何もないのかというと。決してそういう
ことはなくて。
滝はなくなろうとも名は残っている。かつて栄華を見せてくれた
というその名は残っている。人が死のうともその名は残るけれど滝
もまた。その名を残すのだ。
だから今詠う。その滝のことを偲び。かつて滝が流れていたここ
で詠うことにした。
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ
今はない栄華も偲びながら。今は詠う。詠ったこの気持ちも今の
百人一首

ものだけれど。それでも感じるものはあった。その滝の名にこそ。
だからこそ詠ったのである。今の時に。
第五十五首 完
2009・2・21
111
百人一首
第五十六首
第五十六首 和泉式部
決して治ることのないこの病。
自分が病にかかりそれにより苦しんでいること。
一人になった時それを深く強く感じずにはいられない。
一人になれば余計に感じる。感じてその苦しみの中にさらに落ち
てどうしようもなくなっていく。
間も無くこの世を去ってしまうだろう。
そのことすら感じている。
病はどうしても離れはしない。それでもだった。
彼岸に旅立ってもあの人のことは忘れない。
どうして忘れられるというのか。
彼岸でもあの人のことは忘れないし恋慕い続けていく。
この恋は真実だからだからこそ。

112
永遠に恋になる。慕う気持ちは彼岸でも変わらない。それは変え
ない。
だからこそ。だからこそ今心の奥底から強く願う。
あの人に逢いたい。一目でいいから逢いたい。
最後の思い出に逢いたい。それを願いさらに苦しみの中に身を置
いて、それでも願う。
その願いを今歌に託して。そのうえで詠う。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこと
もがな
歌をあの人に届けこの想いを伝える。もうすぐ彼岸に旅立つこと
百人一首

になろうと思っているからこそ逢いたい。逢ってこの想いを伝えて
満ち足りて旅立ちたい。そう思いつつ歌を詠う。このどうにもなら
ない気持ちを抑えつつそうして。今は一人心の中にそれを持って。
詠うのだった。儚い想いを。
第五十六首 完
2009・2・22
113
百人一首
第五十七首
第五十七首 紫式部
久方ぶりに出会ったあの人は。
本当にあの人なのかという程変わってしまった。
変わってしまったというよりは。
まるで別人のようだった。
以前のあの人とは何もかもが変わってしまっていて。それで昔の
ことをすぐに言葉に出すことも話をすることもできはしなかった。
けれど何とかして思い出して。それで昔のことを話そうと思って
いたのに。
あの人はすぐに帰ってしまった。挨拶をしてすぐに。私の前から
姿を消して帰ってしまった。本当にあっという間に帰ってしまった。
その様子は月が雲に隠れるようで。早々に帰ってしまった。
その帰ってしまった様子を見送って驚くばかりだったけれど。

114
それでも思わざるを得なかった。去ってしまったあの人のことを。
もっと話がしたかったのに。思い出を一緒に話したかったのに。
その思いはあっという間に消えてしまって。後にはやっと思い出し
てきた昔の思い出があるばかり。今思い出しても仕方ないけれど。
それでも今になって思い出してしまう。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半
の月かな
歌はその中で自然に言葉となって出て来た。詠ってみるとこれで
どうにもやりきれない気持ちが幾分かだけれど和らぐような気もす
る。
百人一首

けれどあっという間に消えてしまったあの人と思い出した思い出
はそのままで。このことにどうしてもいたたまれなくなりながら。
一人たたずむばかりだった。一人でいてもどうにもならないのだけ
れど。
第五十七首 完
2009・2・23
115
百人一首
第五十八首
第五十八首 大弐三位
風が吹けばそれで笹の葉がゆらゆらとまるで生きているかのよう
に揺れ動く。
それを見てふと思い出したのはあの人のこと。
来ると言ったり来ないと言ったり。どうにも言うことがその時そ
の時で変わってばかり。揺れ動く笹の葉を見てあの人のことを思い
出してしまった。
けれどそんな人のことへの想いは。
変わることがない。変えることがない。
決して変えることはないと自分で強く思っている。
忘れてはいないし忘れる筈もない。心変わりはありはしない。そ
のことを自分の心の中で強く思い。そのうえで心にさらに刻んでい
く。

116
生きている限りあの人のことを想っていよう。忘れることも心変
わりも決してない。そんなことは自分に限って絶対にない。どんな
ことがあってもあの人のことを想い続ける。何度も何度も心に言い
聞かせてそうして今も笹の葉を見ている。
笹を見ていると今度は歌が心に宿った。
歌はいつも詠おうとしても出て来ない。自然と宿ってくるもの。
詠おうとしてもそれは決して出て来ないのに。今も笹を見てあの
人のことを想っていると出て来た。その歌を今静かに詠う。
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
歌に自分の気持ちと地名を重ね合わせた。それが自分では秘めた
百人一首

つもりではないけれど秘めたものになっていると世の人は言うだろ
う。けれど秘めてはいない、あくまで己の気持ちを率直に伝えてい
る。どうしても伝えずにはいられないから。笹を見ながらまだあの
人のことを想う。何があろうと変わらないこの想いのこともまた。
第五十八首 完
2009・2・24
117
百人一首
第五十九首
第五十九首 赤染衛門
来るなら来ると。来ないのなら来ないと。
わかっていたのならよかったのに。今ではこう思うばかり。
来ないのだとはっきりわかっていたのならもう休んでいた。迷う
ことなくそれで休んでいた。
あの人を信じたばかりに。あの人は来ると思っていたばかりに。
そのせいで月を見ることになってしまった。
今まさに沈もうとする月を。日がそのかわりに空に来るまで。月
は沈み長かった夜は遂に終わった。あの人は最後まで来ることがな
かった。
来なかったことは恨めしく思って。その気持ちはどうしても抑え
ることはできないのだけれどそれでも。心を何とか静かなものにさ
せて。そのうえでまた思う。

118
自分に逢いたかったことは間違いないと。そう考えていたという
あの人の文は受け取ったから。だからその気持ちは受け止めておく
ことにしようと。
不誠実な人は何処まで不誠実でそれを自覚したりはしないものだ
けれどそれでも。
今はそう思うことにした。けれど今の気持ちは歌に残しておくこ
とにした。
やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を
見しかな
歌に残してそのうえであの人に昨日のことを伝えよう。この歌を
百人一首

目にしてもわからないような人では流石にないだろうから。そう思
いながら歌を詠った。来なかったあの人のことへの恨みをまだ抑え
つつ。
第五十九首 完
2009・2・25
119
百人一首
第六十首
第六十首 小式部内侍
確かに母の歌は知ってはいるけれど。
それでも今その母がいるのは丹後の国。あまりにも遠くにいる。
それこそあの大江山を越えてそれから生野の道を行かなければな
らない。
そうしてやっと行けるもの。
自分も美しいと噂のあの天の橋立に一度は行ってみたいと思って
いる。けれどまだ丹後には行ったことがない。それは自分がよく知
っていること。
勿論その母からの便りはなく。今お互いにどうしているのかは知
らぬこと。無論歌のやり取りなぞしてもおらず考えたこともない。
それでどうして今の自分が謡ったこの歌が母の歌だと思えるのか。
そのことに怒りは覚えず笑いを感じる。ついつい笑ってしまう。

120
そんな今の気持ち。自分の歌は母のものである。幾ら母がその歌
で知られているとしても。このことをつい歌にしたくなり詠ってみ
た。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
この歌を皮肉と取ってくれるのも受け流しと取ってくれるのもど
ちらでもいいこと。ただ母に頼んで作ってもらった歌ではなく自分
で作った歌であることは今ここで申し上げたくこの歌を詠わせても
らった。それにしても思うのはその丹後の母のこと。こうして自分
に疑いをかけてくれたあの人は今はどうしているのか。またのどか
に天の橋立を見てその美しさを歌にしているのだろうか。そしてま
百人一首

たその歌が自分があの人に頼んで作ってもらった歌になってしまう
のだろうか。あの人はこのことを知る由もないのだけれどつい考え
てしまう。
第六十首 完
2009・2・26
121
百人一首
第六十一首
第六十一首 伊勢大輔
もう昔のことでありそれは今のこの京の都の話ではない。だから
この目で見たわけではないことだけれど。
かつて奈良の平城の都にも桜が咲いていたという。それは八重桜
で。普通にある桜とはまた違っていた。
普通の桜とはまた違った趣と美しさを奈良の都に見せていたとい
う。このことを聞いている。
奈良の都は遠くになり今の京の都とは違う。時代も移ろいで世界
は完全に変わってしまった。けれど同じものはある。
それがこの八重桜。奈良の都にあったのと同じ八重桜が今ここに
咲いている。今日は宮中の宴の席で美しく咲き誇っている。あの時
の奈良の都と同じように。春のこの都に美しく咲き誇っている。都
は変わり時は気の遠くなる程移ろいでも。これだけは同じだ。

122
歌人としてもはじめての舞台で即興で歌を詠わせてもらうことに
なった。何を詠おうと思っていたがふと心の中に浮かんだのはこの
八重桜のこと。それで桜のことを詠うことにした。
いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな
舞台で謡うのははじめてで。とかく心が張り詰めてしまうけれど
それも詠ってみた。この歌は周りの人達にどう思われるだろうか。
若しかしたら帝の御耳にも入るかも知れない。そうしたことをあれ
これ考えてさらに心は張り詰めてしまうけれどその自分の前でも八
重桜は咲き誇っている。本当にそこだけ何も変わっていないように。
都も移ってしまったのに桜だけは変わらない。春にその美しい姿を
百人一首

見せてくれている。
第六十一首 完
2009・2・27
123
百人一首
第六十二首
第六十二首 清少納言
あの人はまたやって来た。
昨日もそうだったしそれから前も。いつも足しげく私のところに
やって来る。
そのことにどう思っているのかというと。あの人のことがわかっ
ているから。わかってしまっているから。
あの人は私を好きなわけではない。ただ誘っているだけ。好きな
わけではなく誘ってそうして遊びたいだけ浮気性な遊び人なのがわ
かっているから。それはもう見抜いているつもりだ。
だから私は心を開けない。あの人には決して心を開けない。
宋の国の古い話にある関所の関守は鶏の鳴き声を真似たその声に
騙されて門を開けたと聞いている。
けれど自分は関守ではないから。この国にあってあの時の宋の古

124
い時には生きてはいないから。だから騙されはしない。心を開きは
しない。
心を開くことなくあの人を迎え入れずただ無視するだけ。あの人
のことはもうわかっているから。
その今のことを歌にしようと思い筆を取り。そうして書き留めた
その歌は。
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ
あの人はこれで来なくなるのだろうか。それはわからない。それ
とも心を入れ替えてそのうえで心をしっかりと持ってくれるのか。
どちらもないだろうとは思う。けれど今はこの歌をあの人に届けて
百人一首

自分の心を伝えようと思った。歌に託した自分のこの気持ち。果た
してあの人に届くだろうか。
にくいと思っていてもそれでも歌にしてしまう。自分のこの曖昧
さにも腹が立たないわけではないけれど。それでも今はこの歌を託
すことにした。そうして今は静かに夜を過ごすことにした。一人の
夜。あの人を入れず一人のままの夜。その夜の中で思うのだった。
第六十二首 完
2009・2・28 125
百人一首
第六十三首
第六十三首 左京大夫道雅
こうなることはわかっていた。
何時かはこうなってしまう。わかっていたことだった。
あの人は皇族で内親王の地位にある。それに対して私はただの人
でしかない。それだけの違いがもうあった。そのことはどうしよう
もない。
あの人との仲を引き裂かれることもわかっていた。何時かはこう
なるものだと。そのことはわかりきっていた。
けれどそれは今のように人を介しての別れなぞではなく。そんな
味気ない、何も心が動かないような、そんな別れではなくて。
あの人に直接会って。そのうえで言葉を交えさせて別れる。それ
で全てを終わらせてしまう。そんな別れがしたかった。
けれどこのことすら適わずに。ただ一人でこの場で別れの話を聞

126
いただけ。あの人は自分の前には出ずに。ただ人から聞くだけだっ
た。
このいたたまれない思いをどうしようかと思い歌を詠った。その
歌は何かというとこの歌だった。今この気持ちを詠った歌を詠う。
詠わなくてはこの気持ちがどうにもならないものであったから。だ
から今詠った。
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしも
がな
あの人に最後だけ会いたいのだけれど。それも適わない。あの人
は元々雲の上におられる方だった。私はこの地にいて仰ぎ見るだけ
百人一首

だった。それは最初からわかっていたけれど。それでも最後位は奇
麗に粋に終わらせたかった。それも適わず今はこうして歌を詠うだ
け。それだけしかできない今の自分。その自分のことも思い気持ち
はさらに沈んでいく。どうにもならない程に。
第六十三首 完
2009・3・1
127
百人一首
第六十四首
第六十四首 権中納言定頼
今見えるものといえば。霧だけだ。
真っ白い霧だけが見えるだけで他には川のせせらぎが聞こえるだ
け。音以外は何もない冬の朝だった。その冬の朝の世界に今いるの
だった。
宇治川は今は霧に覆われて他は何も見えない。見えるのは霧だけ
で他には何もありはしない。
けれどそれもやがて終わって。やがて幕を上げるように霧が消え
ていく。
次第に晴れてきて白い中から川の世界が現われる。その川の世界
にあるすのこや杭が出て来た。それは変わった形だけれど川の世界
であってそこに確かにある。
次第に次々と。姿を現わすその川の世界を眺めているとこの冷た

128
い冬の朝も悪くないものだと思う。
冬は確かに辛いものだけれどそれでもこうした次第に姿を現わし
てくる世界の美しさがそこにはある。その白い中から姿を現わして
きた世界を見ているとこの光景を歌にしたくなった。そうして詠っ
てみた。
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
この宇治川にある白い世界はもう今消えようとしている。霧は少
しずつだが確かに消えていきその中から姿を現わす川の世界の後ろ
にはせせらぎという音まである。冬とはいっても美しくその心に残
るものもある。確かに何もかもが枯れてしまって雪の中に白く消え
百人一首

ていってしまう季節であるけれど。今自分が見ているような世界も
そこにはある。そのことを今歌にした。冬の中に現れていく世界を
歌に詠った。己の目にあるものを託して。
第六十四首 完
2009・3・2
129
百人一首
第六十五首
第六十五首 相模
女心は変わりやすいと人はいう。
けれどそれを言う男心も変わりやすい。
それを今わかって嘆き悲しむばかり。
涙で袖が乾くことはない。ただただ泣き悲しむばかりになってし
まっている。
愛を謡い貴女しかいないなどと言っていたあの人が。
今日は他の女の人を誘いその人の家で楽しんでいる。まるであの
時の言葉が最初からなかったかのように。
男心は変わりやすい。あれ程誓ってくれた恋も今ではただの絵空
事。過ぎ去ったことでしかなくなっている。
そのうえ世間ではこの恋のことを愚かな恋などと噂する。自分の
ことをあれこれと中傷しているのが聞こえる。もう諦めてしまえば

130
いいとさえ言っている人がいる。
けれどこのままではいられない。あまりにも口惜しい。
諦めることなぞできるよしもない。自分にはこの恋だけしかない
のだから。
だから今謡う。自分のこの気持ちを。あの浮気な人にもこの恋に
も届くように。
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜し
けれ
こう謡いそのうえで届けたいと思う。それはあの人だけでなく自
分を愚かなことを言う人達にも。愚かならそれでいい、けれど自分
百人一首

のその愚かな恋に向けた気持ちを知ってもらいたいから。だから今
ここで謡った。この歌を。
第六十五首 完
2009・3・3
131
百人一首
第六十六首
第六十六首 前大僧正行尊
ここに来たのはあくまで他の理由からだった。
言い訳ではなくて本当のことだからあえて言うけれど。
ここに来たのはあくまで修行の為だった。この生涯を仏門に捧げ
ることに決めているのだから。だからこそこの山に来た。
桜を探しに来たわけではない。確かに桜は好きだけれど。
この山深い霊山で一人こもって修行する為にここに来た。桜のこ
とは考えもしなかった。そのつもりでここに来た。
けれど。それでもだった。
もうすぐ春が変わり桜は散ろうという時になろうとしているのに。
桜は残っていた。その華やかな姿を見せてくれている。
ふとこう思いもした。図々しい考えではあるけれど。
桜は待っていてくれた。散らずに待っていてくれた。自分がここ

132
に来るまで待っていてくれた。
そう考えると気持ちが楽しくなる。図々しい考えだけれどそれで
も桜を見ることができたのが嬉しいから。
だから今この歌を謡った。桜のことを思い謡ってみた。
もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
山桜は今も咲いている。咲き誇っていて山に入った自分を楽しま
せてくれる。修行の為に来たのだけれどそれでも。桜を見てその美
しさに触れて。心が和やかで楽しいものになってしまった。今その
気持ちを謡った。謡わずにはいられなかった。この桜を見ていると
どうしてもそうせざるを得なかった。
百人一首
第六十六首 完
2009・3・4
133
百人一首
第六十七首
第六十七首 周防内侍
春のこの月夜がまずあった。それに誘われてのことだった。
月夜の誘いは何よりも強くて。ふと気付いたその時にはもう。
あの人と共にいて。あの人の腕の中に自分がいる。
そう噂されてしまう夢を見ることになってしまうだろう。月夜に
誘われればそれだけで全てが変わってしまうことはわかっている。
けれどそれはつまらない話。つまらない噂でしかない。
そんな噂が立ってしまえば。自分の様な者とそんな噂になってし
まえば。
困るのはそちら。そう忠告した。
月夜は確かに不思議な魅力があって。その下にいるとそれだけで
心が揺らぎその誘いに乗ってしまい最後には過ちを犯してしまう。
これは誰にでもよくあることで自分にとってもあの人にとっても同

134
じことなのだと強く心に留めておく。
しかしそれは愚かなこと。愚にもつかないことなので。
それで今この歌で釘を刺すことにした。噂ができてしまうその前
に。
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
こう忠告を出しておく。何かあればつまらないことだから。月世
の中でつい揺れてしまうその心を抑える為にも。一時の気の迷いで
過ちを犯してしまう前に。この歌をあの人に贈りそんな馬鹿なこと
にならないようにしておいた。春の静かな月夜の下でこの歌を贈っ
て。
百人一首
第六十七首 完
2009・3・5
135
百人一首
第六十八首
第六十八首 三条院
また一つ。また一つ消えていく。
この目の前からまた一つ美しいものが消えていってしまう。
そのことを嘆き悲しむばかり。
その嘆きがあまりにも強く激しいので。涙と悲嘆のあまりこの目
が見えなくなってしまうのではないのかと自分でも思ってしまう程
だ。
これ程辛い世の中とは思わなかった。今までこれ程強く思ったこ
とはない。
この世の辛さを感じそれに我が身を打たれてしまい。
もう去りたいとさえ思うようになった。
こんなに辛いこの世の中から去って。苦しみから解き放たれたい。
そう思わざるを得ない日々を送るようになってしまっている。

136
けれどそれでも。若し心にもなくこの世を生き長らえるとすれば
その時は。
今夜のことを思い出すのだろう。今見ているこの月を。きっと思
い出す筈だ。
美しいものは次から次に消えていく。そんな儚い中でこの月を思
い出す筈だ。そう思いながら今こうして今のこの心を歌に託すこと
にした。そうしないと涙でもう何も見えなくなってしまうから。涙
が全てを覆う前に詠うことにした。
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
世を儚んでいる今の自分の上には月がある。あらゆるものが消え
百人一首

ていってしまうこの儚い世の中。月も今はあるけれど次の日にはど
うなってしまうかわかったものではない。この世にあるものは全て
消えていく運命にあり自分はその消えていく様を見る運命にあるの
だから。だからどうなってしまうかはわからない。けれどそれでも。
今見ているこの月のことは見えているうちに歌に残すことにした。
今見ているうちに。そして今書き残した。何もかもが消えてしまい
己のこの目がまだ見えているうちに。そのうちに果たしておいた。
第六十八首 完
2009・3・6
137
百人一首
第六十九首
第六十九首 能因法師
三室山の紅葉は不思議なもの。今それをつくづく感じていた。
まずは散りその紅い模様で龍田川を覆う。
それで川を紅く染め上げてしまう。それがまずとても不思議なこ
と。
けれどそれだけには留まらず。風に吹かれて散らず川を染め上げ
るだけではなくて。それだけには留まらず。
秋そのものになって旅をはじめる。ゆらゆらと川の水に乗っての
どかに。
この秋の楽しい思い出をその中に持って川を下って旅をはじめる。
龍田川は紅に染まりその思い出を乗せていく。川は紅葉の帯とな
ってその美しい姿を見せている。秋にしか見られない姿。
その秋にしか見られない姿を見つつ今は静かにたたずみ。歌を口

138
ずさんだ。
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり
歌にしてみても感じるのは秋。秋の風情と美しさ。そのことを深
く感じるのだった。
秋はただそこにあるだけのものではなくて。そこに無限の深さと
美しさがある。それを感じ取り詠った歌はそのまま紅葉に向けたも
の。紅に染まった川は静かに流れ深いものをそこにたたえ続けてい
る。秋の紅葉は山を染め上げるだけではなくて。こうして川を染め
上げそのうえで旅に入る。旅を見送りつつそれを感じ取る。人もま
た秋の中に身を置きその美しさの中に浸っていく。
百人一首
第六十九首 完
2009・3・7
139
百人一首
第七十首
第七十首 良暹法師
秋にここにいた。寂しい秋のこの日に。
暫く中にいたが時間が深くなってきて少しずつ寒くなってきて。
冷たい風も吹いてきてそれが外だけでなく中にも入って来た。
そのこと自体はよかったけれど。それでも心が寂しいものを感じ
てきたのでそれにいたたまれなくなって。
それで外に出てみた。
外に出るともう夕暮れで。静かな長い影があってそれは自分も同
じだった。
長い影は何処までも続いていくかのようだった。
奥の山は夕暮れで緑が赤くなっていて。鐘の音が遠くから聞こえ
てくる。それがまた寂しさを増していく。
落葉は辺りに満ちていて全てを覆い隠してしまいそうだった。た

140
だ散っていくだけではなくてそこには風情というものがあった。た
だ散るだけではない。美しさというものまで備わっていて世界とい
うものを映し出している。それがわかる秋の落葉だ。秋にしかあり
はしない、笹屋かだけれどそれでもさかやかでありながら静かな美
しさのある世界だ。
そうした全てが何か寂しくもの悲しいこの夕暮れ。それはここだ
けではない。
全てが同じこの夕暮れに包まれている。そのことを思っていると
自然に歌が出て来た。
さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕
暮れ
百人一首
この寂しさを歌にしてみた。詠ってみると寂しさが余計に募って
くる。けれどそれは全てを覆っていてしかも美しくもあり。歌に残
してよかったとも思う。そう思いながら今詠い終えた。そうしてみ
ると寂しさはそのままだけれど美しさに満足もした。そんな秋の夕
暮れだった。
第七十首 完
2009・3・8 141
百人一首
第七十一首
第七十一首 大納言経信
夕暮れ時。その日の光は昼のそれよりは穏やかなもの。
その穏やかな光は眩くはないがそこにも美しさがある。
どういった美しさかというとそれは見てこそわかるもの、感じて
こそわかるもので。
門の前の稲穂を見るとそれがわかる。
稲穂はその光を受けて黄金色に光り輝き。その輝きが風の中で揺
れている。
その静かで穏やかだけれど眩くそれでいて美しい光はそこに留ま
らず。
門を通って家の中にまで入って来る。
葦ぶきの家の中まで入って来て照らしてきて。自分の服の袖まで
照らしてくれる。

142
袖は黄金色に輝いて。そのうえで風に揺れている。
光と風のこの中でたたずみながら。心の中に歌が宿ったのを感じ
取った。
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
秋の中静かに心の中に出た歌はそのまま黄金色の光を見ての歌だ。
夏のあの激しいまでの強さはもうなく優しいものになっている。そ
の優しい光を感じながら歌うこの歌もまた優しいものになっていた。
秋風も今は優しく穏やかなもの。まだ寒くはなく実に心地よい。
心地よい風がこれまた心地よい光を運んでくれる。その二つの中で
過ごす秋の夕暮れ。決して悪いものではない。このことを歌にも残
百人一首

して今は穏やかに時間を過ごしているのだった。
第七十一首 完
2009・3・9
143
百人一首
第七十二首
第七十二首
祐子内親王家紀伊
もうわかっているから。わかっていたから。
どれだけ声をかけてこようとも。どれだけ優しい顔を見せてこよ
うとも。
それで心を動かされることはない。決してそうはならないと自分
に強く言い聞かせている。
高師の浜に打ち寄せてくるあの高波の様に言い寄ってきても決し
て情をかけたりはしない。もうそれはないと強く誓っているから。
その挙句この袖を涙で濡らすことになるとわかっているから。泣
くのは、後悔するのは自分だとわかっているから。だから決してそ
れはない。
あの人は世間で知られている。どう知られているかというと悪い

144
ことで。そのことで知られているような人。
恋多き人で浮気者で。そんな人に情をかけたらどうなるか。それ
がわからない程愚かではないから。
だから心を動かすことはない。優しい笑顔にも穏やかな声にも心
を動かされることはない。何度も何度も自分自身に言い聞かせる。
そして今この気持ちを歌にしたためた。あの人にその自分の決意
を教えてあげる為に。それがこの歌だ。
音にきく 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ
高師の高波が来ようとも自分の心は変わらない。もうこの袖を涙
で濡らしたくはないから。だから今はこうして一人でいることにし
百人一首

た。寂しいのは確かだけれどそれでも。もう泣きたくはないから。
だから今こうして歌を作りこれをあの人に贈る。この気持ちを伝え
る為に。
第七十二首 完
2009・3・10
145
百人一首
第七十三首
第七十三首 権中納言匡房
春も終わりになってから。まだそこだけは春を知らなかったと見
えて。
あの山の峰に今桜が咲いている。それが遠くから見えているのだ。
これまで冬の中にいたのか。桜が咲くことはなかった。どの場所
も咲き誇っていたと言うのにあの山の峰だけは桜が咲いてはいなか
った。
最後に桜が咲いた場所。春も終わりに近付いての桜。もう全ての
桜は散ってしまったというのにあの山の峰にだけは桜が咲いている。
今やっと咲いた。
だから。だからこそ心から願うのだけれど。
霞が起こらないで欲しい。それで桜を隠さないで欲しい。
そう心に願うばかりだ。

146
桜がやっと咲いたのだから。他の桜は全て散ってしまってそれで
その桜だけが残っているのだから。
だから霞に願う。あの桜だけは隠さないで欲しい。どうかそのま
までいさせて欲しい。桜を見せ続けていて欲しい。心から願うばか
りだ。
その願いを今歌にしてみた。歌に託してそのうえで願いを届ける。
高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
この気持ちを歌に託す。それで霞が桜にかからないように願いを
かける。どうか霞よ最後の桜だけは隠せないでくれ。最後まで見せ
てくれと。そう願いながら今歌を詠う。これで桜が残って欲しい。
百人一首

心からの願いはそのまま歌になる。そうして今ここに書き留めるの
だった。
第七十三首 完
2009・3・11
147
百人一首
第七十四首
第七十四首 源俊頼朝臣
祈った。祈りに祈った。
とかく全てをかけて、全てを捧げて祈った。
観音様に祈りを捧げてそうして何でもした。してきたつもりだっ
た。
そうして祈ったことであったのに。ただ一心に祈ってきたことだ
ったのに。
それでもあの人の心は変わらなかった。
心は変わらず動かず。そうして今もそのまま。
あの人の心は変わらず動かなかった。むしろ。
その心は冷たいものになってしまった。どうにもならないまでに。
初瀬の激しい風の如く。冷たくなってしまった。
観音様は間違ってしまったのだろうか。それとも何か考えがある

148
のだろうか。
だからあの人の心は変わらずさらにつめたくどうにもならないも
のになってしまった。自分の心こそその中で激しく揺れ動いて吹き
荒れている。
その心を今歌にした。あの人のさらに冷たくなってしまった心に
ついて思いながら。そうしてその中でこの歌を詠った。
うかりける 人をはつせの 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬ
ものを
歌にしたところでどうにもなるものでもなく自分の心もあの人の
心もそのままだ。けれど歌は詠えた。それでどうにかなるとは思え
百人一首

ないけれど。この歌を残しそのうえで今静かに場を去っていく。ど
うにもならないことに辛さと悲しさを感じながら。
第七十四首 完
2009・3・20
149
百人一首
第七十五首
第七十五首 藤原基俊
約束してくれた。その時のことをどうして忘れられようか。
忘れられる筈がない。己よりも大切な我が子のことだから。
昇進させるという言葉。その言葉を聞いた時はどれ程のものだっ
たか。
その時の歓びを忘れることは決してない。どうして忘れられよう
か。
心から嬉しくとても頼りにしていた言葉だった。その言葉をどう
して忘れられようか。心から頼りにしていたのだから。
けれどそれは儚い思い出でしかなく。今年の秋も結局のところぬ
か喜びに終わってしまった。
選に漏れて時間だけが空しく過ぎ去ってしまった。後に残ってい
るのはぬか喜びの空虚な名残。それだけが残っている。他には何も

150
ありはしない。
親としての儚い望みか。このことは。そう思いながらもそれでも
思いは消えずそれは歌になる。歌にせずにいられない今の辛い気持
ち。それを今ここに書き留めることにした。
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
秋の空しい木の葉の漂い。それを見つつ思うのはそれにも似た今
の自分の心。我が子のことを思わずにはいられないけれどそれでも。
どうしても思わずにいられなかった。詠わずにはいられなかった。
この辛く空しい心。何時か実りの秋になるのだろうかと儚く思いな
がら。
百人一首
第七十五首 完
2009・3・21
151
百人一首
第七十六首
第七十六首 法性寺入道前関白太政大臣
今まさに漕ぎ出さんとしていた。
自分を乗せた船は大海原に漕ぎ出そうとしている。
船はその大海原に比べればとても小さなものでしかなくて。
ただひたすらその広さを最初に感じた。
けれど感じたことはそれだけではなかった。
白い雲と青い空が見えた。
海の上にはその雲と空がまずある。
白と青。その美しさが目に入った。
けれどその白と青は空にだけあるのではなかった。そこにだけあ
るのではなかった。
海にもあった。まず雲の白は波の白で。
空の青は海の青だった。どちらも白であり青であるけれどそれぞ

152
れ違う白であり青である。それぞれの自然の青と白が限りなく広が
りその美しい姿を見せている。
二つの白と青が今自分の目の前に広がっている。それを見て思っ
たことは。
この世の果てしない広さだけでは終わらなかった。それだけじゃ
なかった。
その美しさも感じ取った。すると歌が自然に口から出て来た。何
も思わなくとも自然と湧き出て来た言葉だった。
わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波
歌にしてみたこの広さと美しさ。この二つの中に身を置けたこの
百人一首

幸せ。深い幸せを感じながら今海と空の間にいる。この幸せは例え
ようもないものだということも感じ取っていた。
第七十六首 完
2009・3・22
153
百人一首
第七十七首
第七十七首 崇徳院
激しい思いはまさに激流だった。
どうにもならないまでに狂おしい気持ちに心を支配されてしまっ
て。
この気持ちは自分でもどうしようもなくなってしまっていた。
けれど激流は岩にせき止められるのと同じで。自分のこの気持ち
も今はせき止められてしまっている。そうでもしなければ止まりは
しなかっただろう。
今は二人は別れてしまっている。このことはもうどうしようもな
い。別れてしまっているのは確かでそのことをどうこうすることは
自分にもあの人にもできはしない。
けれどそれでも。運命は変わりそうして再会というものがあるの
だから。

154
滝川の水が再び出会ってそうしてまた一つの流れになるように。
そうしてまた巡り会うように。
あの人との恋を貫こう。今は別れ別れになってしまっていてもそ
れでも。この恋が再び一つになることを信じてそれで。今は願おう。
この気持ちを歌にすることにした。この歌を心の支えにしたいか
ら。だから詠うことにしたのだった。この気持ちを詠うことにした。
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢わむとぞ思ふ
詠って今はそれを心の支えにすることにした。何時か再び巡り会
うその日の為に。心が変わってしまってあの人とまた巡り会うこと
を悲しんではいけないように。だから今はこの歌を詠うことにした。
百人一首

歌は何時までも残って心に刻まれるものだから。今は詠うことにし
た。この気持ちを。
第七十七首 完
2009・3・23
155
百人一首
第七十八首
第七十八首 源兼昌
夜はまだ明けてはいない。明けてもいないというのに。それでも
声が聞こえてきた。
千鳥の鳴く哀れな声が聞こえてきた。
その声に起こされて。旅寝から目を覚まされてそれで起こされて
しまった。
起きてみるとまだ暗く。空には星や月が残っている。
朝は来ていないのに起こされて。まずは虚ろな気持ちになった。
けれどそれでも。起きてしまったからには仕方がない。起きてし
まったらまた眠るのもどうかと思われた。
それであれこれと考える。考えているうちにふとあることについ
て考えた。
須磨の関守。須磨には千鳥が多い。だからいつもこうした声を聞

156
いているのだろう。あの関守達はこうして幾夜も目が覚めているの
だろうか。そうして眠れないでいるのだろうか。そんなことを考え
た。今ふと須磨のことを思い。それだけでは終わらず今度は歌が心
に宿った。歌が心に宿ると自然と口から出て来る。それがこの歌だ
った。
淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守
淡路にいてそのうえで須磨のことを思う。千鳥に起こされてその
うえで思いはじめたことだけれどそれでも。歌は言葉に出て来た。
虚ろな気持ちの中で。今この歌を詠い朝を待つことにした。まだ暗
いけれどもうすぐ朝になることを思いながら。そうして待つことに
百人一首

した。
第七十八首 完
2009・3・24
157
百人一首
第七十九首
第七十九首 左京大夫顕輔
夜になって静かになった。
夜風が心地よくこちら側に吹いてくる。
流れる雲の間から姿を現わしてきたものがあった。
それは月だった。月が雲の絶え間から姿を現わしたのだ。
この黄金色の月は大きく。その姿をはっきりと見せている。
けれど威圧するものは何一つとしてなく。その姿も光も優しいも
のだった。
その優しい月は。光も清らかで。
もれさすその日カリを見ているとそれだけで心を落ち着かさせて
くれる。
夜風もあって月の光もあって。その二つの中に身を置きながらさ
らに時間を過ごす。

158
するとこう思えてきた。今の月の光は何かというと。それは自分
なのだと。
月の光は自分の影。だから自分なのだと。自分で勝手にだがこう
思うのだった。
そう思えてくると自然に歌が心に宿ってきた。その宿ってきた歌
を口ずさむ。その歌がこれだ。
秋風に たなびく雲の 絶えまより もれ出づる月の 影のさやけさ
静かで優しい夜風と共に差し込める月の光は自分の影に思えてき
た。思えてくるのもまた自然に思えてくるこの夜の世界。その夜の
中に身を置いて静かにたたずんでいる。昼には決して感じることの
百人一首

ないこの夜の清らかさと美しさ。何時までもいたいと思いながら今
その中で月の光を見続けている。
第七十九首 完
2009・3・25
159
百人一首
第八十首
第八十首 待賢門院堀河
この夜のことは忘れない。
生きている限りずっと忘れない。そう心に誓った。
あの人にはじめて心を許した夜。昨夜の幸せのことは忘れない。
何があっても忘れない。どうして忘れることができようか。
けれどそんな中で。どうしても思ってしまうのだった。
今身を置いている昨夜の幸せは。一体何時まで続くのかと。不安
を感じることもある。
思い乱れたもつれ髪。今乱れてしまったこの長い髪。
この髪を今は櫛で解きほぐしているけれど。これからもそれはで
きるだろうか。
櫛で解きほぐすことはできなくなるのではないか。心の中に生じ
てしまった不安はそのまま続いていく。それは消えはせずつきまと

160
う。
女は悲しいもの。因果なもので。愛を得た喜びの日から。よりに
よってその時から。
その心に不安がつきまとうようになる。どうしようもならなくな
る。不安で心が苛まれてしまってどうしようもなくなってしまう。
そんな因果なもの。その因果を思っていると歌が心に宿った。そ
の不安に苛まれながらも今その歌を詠った。
長からむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
歌に託してみたわけではなく。ただ今の不安を詠っただけ。けれ
どその不安は喜びと共に大きくなるばかり。喜びが大きくなれば不
百人一首

安も大きくなってしまう。そうして苦しみに苛まれていく。因果な
この相反する二つのものを感じながら今は。まずは歌を詠うことに
した。この苦しい気持ちを。
第八十首 完
2009・3・26
161
百人一首
第八十一首
第八十一首 後徳大寺左大臣
初夏の朝。まだ空には月が残っている。
朝が早くなったけれどそれでも月はまだ空に留まり続けている。
その初夏の朝にまず探したのは。
今年はじめての声。それを探していた。
けれど今は見当たりはしない。何処にも聞こえはしない。折角そ
の声を聞きたくて今探しているのに。けれど声は全く聞こえはしな
い。何も見えはしない。
それで残念に思っていると聞こえてきた。あの声が。
やっと不如帰の声が聞こえてきた。このことにまずは歓びを覚え
た。
けれど歓んでいるだけではなくなった。声は聞こえたけれどそれ
でも姿は見えない。何処にいるのかはわからない。姿はどうしても

162
見ることができなかった。
ただ空に月があるだけ。有明の月があるだけ。それだけだった。
まさか月が鳴くということがあるだろうか。そんなことがある筈
がない。月は声をあげはしない。それはもう知っている。だからそ
れは疑いはしない。
だから姿は見えないだけ。不如帰の声だけで満足しようと気持ち
を切り替えると自然にこの朝が気持ちよく思えてきた。
清々しいこの初夏の朝。この朝を楽しく思えてきた。
すると自然と歌を詠いたくなった。それでこの歌が口から出て来
た。
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる
百人一首
不如帰の声はすれど姿は見えない。このことが残念ではあるけれ
ど。それでも今はこうして声を聞いた。それと一緒に清々しい朝を
感じることができた。それでもう満足だった。
第八十一首 完
2009・3・27
163
百人一首
第八十二首
第八十二首 道因法師
儚い恋なのはわかっている。それは自分自身が最もよくわかって
いること。
長い年月あの人だけを見てきた。あの人だけを恋慕い続けそうし
て生きてきた。
もうどれだけ恋慕い続けてきたのか。自分でもわからなくなって
きた。
それだけ長い年月慕い続け。命だけは耐えている。それだけはあ
る。
けれどその命があるということそのこと自体が耐えられないこと
で。そのこと自体が悲しみで。
涙は堪えることができず。ただただ流れてくるだけ。とめどもな
く流れてくるだけ。

164
それを抑えることもできず。流れるのに任せるだけだった。
恋とはこういうものなのか。儚い恋とはこういうものなのか。そ
のことを思いまた涙を流す。涙だけが流れるだけで。生きていても
悲しみと儚さだけを知る。そんな恋だ。
そんな儚い恋を知り辛い中で生きていて。このいたたまれない気
持ちを歌にした。悲しい気持ちもまた歌を作ってくれる。このこと
もまた知ることになった。儚い恋は様々なものを自分に与えてくれ
た。望んではいないものばかりだけれど。
思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
歌ってみても心にあるのは悲しみばかり。涙は相も変わらず流れ
百人一首

続けている。この悲しみを抑えることはどうにもできずやはりただ
ただ泣くばかり。辛い恋を今まで続けてきた。それは今日もこれか
らも続いていく。悲しみは終わることがない。この儚い恋を続けて
いる限りは。
第八十二首 完
2009・3・28
165
百人一首
第八十三首
第八十三首 皇太后宮大夫俊成
この世が辛くて。苦しみがあまりにも多いので。それでそんな世
を逃れようと思って。それでこの山奥に来た。
静かな山奥ならばもうこの世の苦しみを忘れられると思ったから。
だからここに来た。けれどその山奥で。
声が聞こえる。それは雄鹿の声だった。その声は何故しているの
かと思っていたら。
探しているのだtった。つがいを。雌鹿を探して鳴いているのだ。
つがいを探して鳴く声。その声を聞いていてわかった。こんな山
奥でも誰かを探す声がある。世というものはこの山奥にもあるのだ
と。そのことがわかった。
するとそれは自分にも当てはめて考えてしまうようになった。自
分もまた。

166
どうしても気にかかってしまう。気にせずにはいられなかった。
家族のことも世間のことも。どうしても頭から離れはしない。気に
なって仕方がない。それから逃れることはやはりできなかった。
それで今この気持ちを詠おうと思った。どうしても忘れられず離
れられないのならばどうせなら。そう思って今この歌を詠むことに
した。
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
苦しみを避ける為に入った山奥なのにその山奥で知らされた俗世
のこと。家族のこと。そういったものをまさかここでも見せられる
とは思わなかった。けれど鹿の鳴き声は嫌なものには聞こえなかっ
百人一首

た。美しく聞こえた。その美しい声を聞きつつ今はこの山奥にいる。
誰もおらず鳴き声だけが聞こえてくるこの山奥で。ただただその中
で声を聞くだけだった。今は。
第八十三首 完
2009・3・29
167
百人一首
第八十四首
第八十四首 藤原清輔朝臣
生きていればこそ。そう、生きているからこそ。
ありとあらゆることが変わってくれることがわかるもの。
それはその時はわからない。後になってやっとわかるもの。
あの時は辛く。とても耐えることができず。
その中で死んでしまいたい、この世から去ってしまいたい、そう
思った。
しかも一度や二度ではなくて。何度も思った。
何度も死にたいと思った。そこまで辛く苦しかった。
けれどその辛く苦しかった昔が。今では懐かしく思える。
今ではそういったことが思い出になっていて。振り返ってそれを
見るだけ。
生きているからこそそうなってくれる。時が思い出に変えてくれ

168
る。そうしてくれるのだ。
それがわかるようになるのも今になってから。時が経ってから。
それがわかった今こそこの気持ちを詠うことができる。あの時の苦
しかった想いを胸に。
ながらへば またこの頃や しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋
しき
詠ってみてもあの時のことは思い出に過ぎない。時が経てそうな
ってくれた。死にたいとさえ思った辛いことも今では振り返って懐
かしむことができるようになった。時というものの有り難さを感じ
る。それを歌に詠うことさえできるようにしてくれるのだから。こ
百人一首

れ程有り難いことはない。
第八十四首 完
2009・3・30
169
百人一首
第八十五首
第八十五首 俊恵法師
夜も寝てはいない。眠れなくなってしまった。
思い悩みそれで眠れなくなった。
そうなってしまってからどれだけ経ったのか。
少しであるように思えるしもうずっとにも思える。もうどれだけ
そうなったのかわからない。それ程まで思い悩んでしまうようにな
ってしまっている。
夜になればいつも待ち焦がれる。
あの人が来てくれるのかと。
そのことばかり待ち想いを募らせ。
今日もあの人を待つ。
障子ごしにあの人の影を待つのだけれど。
それでもあの人の影は来ず。そのまま朝になってしまう。いつも

170
それだけ。
たったそれだけのことで。いつも過ごしている。朝の光さえ入っ
てこなくなってしまった。朝になっても一人。自分だけがいる。朝
の中に取り残されている。そんな侘しい気持ちを今歌に詠った。せ
めて歌にしてこの気持ちを慰めようと思って。それでこの歌を詠っ
た。
夜もすがら もの思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれな
かりけり
詠ったこの歌を残してもまだ気持ちは侘しいまま。その侘しい気
持ちを胸に今も夜を待つ。また来ないだろうと思いながらもそれで
百人一首

も。あの人を待つ。また障子には誰の影も出てこなくともそれでも。
今日もあの人を待つ。こうして何時まで夜を過ごすのかわからない
まま。また夜を迎えるのだった。
第八十五首 完
2009・3・31
171
百人一首
第八十六首
第八十六首 西行法師
何のせいだろうか。若しかして月のせいだろうか。
この月のせいで今花びらが散っているのだろうか。夜桜は今静香
に散っていっている。それまで咲き誇っていた花びらが今静かに散
っていっている。それを見届けているだけで心がいたたまれなく寂
しいものになっていく。
そして次に。これも月のせいだろうか。月のせいで恋しい人を思
い出すのだとうか。月を見るとそれだけで涙がこみあげてくる。
それがどうしてかというと自分ではわからない。けれど月を見て
いるとそれだけでもの悲しくなり。そうして涙がこみあげてくるの
だ。
月は不思議なもの。桜の花びらを散らしてそのうえで恋しい人を
思いださせる。そうしたことを忘れたくて今こうして俗世を捨てて

172
いるのに。
それでも思い出す俗世のこと。月に思い出させられる。このこと
を思い今歌を詠った。今いるのは月だけで他には誰もいはしない。
それでも月が誘い出したもの悲しさに心を動かされ揺らされて。そ
うして今詠った。この歌を月明かりの中で。
なげきとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
歌にしたこの気持ち。静かに詠いその中で見るのは夜桜。想うの
はあの人のこと。そうしたことを思いながら今こうして一人俗世を
離れているつもりだった。けれどそれもどうにも適わず月明かりの
中で俗世のことを思い出してしまう。月は何でも思い出させてしま
百人一首

う。このことにも気付いた夜だった。
第八十六首 完
2009・4・1
173
百人一首
第八十七首
第八十七首 寂蓮法師
雨が降りだした。この突然の雨。
にわか雨が突然降ってきて辺りを覆う。それはすぐに止んだのだ
けれど。
残していったものはあった。ほんの一時のにわか雨だったけれど。
それは何かというと。霞だった。
槙の葉に残していった霞。それがにわか雨の残していったもの。
静かな木立の間からそれが見える。
白い霞が霧の如く立ち込めて。
秋の夕暮れを包み込む。
その白い世界の中に隠れた赤い世界。けれどそれはその向こうに
うっすらと見えている。
にわか雨がなければとても現われはしなかったこの世界。幻想の

174
世界。
その中にいて見ていると。にわか雨の如く気持ちが沸き起こって
くる。歌を詠いたいという気持ちが。
それがこの歌を詠わせてくれた。ただここにいるだけでは気持ち
が収まらなかっただろう。けれどそんな自分に歌を詠わせてくれた。
この世界が。
村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
白い世界の中にたたずむ自分が見ているものはただの幻想ではな
くまことの世にあるもの。この中にいて歌を詠う。それで何か満ち
足りた気持ちにもなる。秋は実りの秋だけれど自分が実り満たされ
百人一首

たのはこの霞によってだった。それをもたらしてくれたにわか雨に
今は感謝したい。突然降り出した雨だったけれど。自分にも多くの
ものを与えてくれた。
第八十七首 完
2009・4・2
175
百人一首
第八十八首
第八十八首 皇嘉門院別当
その出会いは偶然だった。
旅先で出会った見知らぬ人。けれどとても麗しい方で。
一目で好きになってしまった。
普段は決してこんな女ではないのだけれど。
そんな軽い女ではないと自分では思っているのだけれど。
それでもその旅先ではその思いも寄らぬ麗しい人に出会って。
それで夜を共にした。それで別れた。
ほんの一時だけのことだった。たったそれだけだった。
けれどあまりにも麗しい方だったので。忘れられない程の方だっ
たので。
今も覚えている。ほんの短い恋なのに忘れられない。どうしても
忘れることができない。

176
そんなあの人のことをまだ覚えている。忘れることができない。
このまま一生思い続けることになるのだろうか。そう思う。この
想いは何時しか歌になって。こうして口から出てしまった。
難波江の 葦のかりねの ひとよゆえ みをつくしてや 恋わたる
べき
この歌にした気持ち。歌に託した気持ち。決して忘れることはな
いだろうと思う。たった一夜のことであったのに。それだけで終わ
ったほんのいきずりの恋だったのに。それでも忘れることはできな
い。今もはっきりと覚えている。あの夜のこともあの方のことも。
どうして忘れることができようか。忘れることなぞできる筈もない。
百人一首
第八十八首 完
2009・4・3
177
百人一首
第八十九首
第八十九首 式子内親王
そうなってしまえ。そうなってしまって欲しい。もうこうなった
ら。
糸がそのままぷつりと切れてしまうように。玉の命も散ってしま
うように。
何もかもが終わって欲しい。全てが終わって何もなくなって欲し
い。
こう思わずにいられない。そうして何もかもが嫌になってそれが
壊れて何もかもがなくなってしまえばいい。そう思うようになって
しまった。
若しもこの先生きているのなら。これからも生きているのなら。
この心の奥に秘めているこの気持ちを。誰にも言えない、誰から
も許されない。この禁じられた恋の気持ちを。

178
誰にも隠しておくことはできないだろう。誰にも言えない、誰に
も許されないものだけれどそれでも。生きているのならこの気持ち
を隠しておくことはできない。
だからこそ今思う。何もかもが消えて欲しいと。この隠せなくな
ってきている禁じられた恋への気持ちを。だから今こうしてせめて
と思い歌に託した。
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞ
する
歌に託したらせめてこの苦しみといたたまれなさは消えると思っ
ていたけれど。そうなってくれるとばかり思っていたけれど。それ
百人一首

は適わないことだった。
心はさらに辛くなりどうにもならなくなってしまう。散り散りに
なって欲しい。消えて欲しい。この気持ちは増すばかり。自分では
どうにもならず苦しみを続ける。ただただひたすら。
第八十九首 完
2009・4・4
179
百人一首
第九十首
第九十首 殷富門院大輔
色は変わるもの。変わらないものではない。
どうしてそのことに気付いたかというと。
それはまず波を見て気付いたことだった。
漁師達はいつも海に出ている。
それでいつも波を浴びている。
波で濡れていて潮の匂いがする。そうして濡れているのだけれど。
それでもその袖の色までは変わらない。そこまでは変わりはしな
い。
けれど自分の袖の色は変わってしまっている。
涙で濡れていつも濡らしてしまった。
そうして遂に色まで変わってしまった。波ですら色を変えないと
いうのに涙は変えてしまった。

180
どうしてそこまで泣いてしまったのか。自分でもうわかっている
こと。それは。
逢いに来てくれないのだから。あの人は。それで恨んで涙を流し
ているから袖の色は変わってしまった。
このいつもとめどなく流れている涙を今歌にした。それがこの歌。
悲しみを込めた歌。
見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変らず
歌に詠ったこの悲しみ。歌にしても悲しみはそこに封じられはし
ない。余計にそれが増していくだけ。けれどその悲しみの中でも結
局はあの人のことを想ってしまう。恨んではいても愛しているから。
百人一首

だから今日もあの人に逢いたいと思う。今日も来ないとわかってい
るのに。それでも思わざるを得ないのだった。
第九十首 完
2009・4・5
181
百人一首
第九十一首
第九十一
首 後京極摂政前太政大臣
寒い夜だった。この寒さは一人では辛い。
けれど今は一人。側にいてくれる筈のあの人はおらず一人きり。
一人でこの寒い夜を過ごしている。
その寒い冬に霜が降り。余計に寒さを深いものにさせている。
このような寒い夜に鳴くのを聞いた。
こおろぎが鳴いている。雄のこおろぎがつがいを求めて鳴いてい
る。
静かだけれど清らかな音を立てて鳴いている。
その鳴き声でつがいを呼んで一匹ではなくなる。
こおろぎもそうだ。
けれど今の自分は。そうしたことは適わず。今も一人でいる。

182
あの人と二人でいればこんなことはないのに。寒さを感じること
もないのに。
一人でいるとどうしても感じてしまう。
寒さが身に滲みて余計に一人でいることを感じてしまう。この一
人でいることとそこから感じる寒さに身を震わせながら。その中で
今歌を心の中に思い浮かばさせた。それがこの歌だ。
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも
寝む
虫の鳴き声を聞きながらそのうえで寒さを感じている。その中で
一人でいることの寂しさも感じる。あの人は来ない。自分は一人で
百人一首

この霜さえ降る夜の寒さの中にいる。こおろぎの鳴き声はさらにそ
の寒さを感じさせてくれる。美しいが寂しいその鳴き声で。
第九十一首 完
2009・4・6
183
百人一首
第九十二首
第九十二首 二条院讃岐
決して出ることはない。表に出ることはない。
それは絶対になり何があっても出ないようにしている。
この恋は世間に知れることはない。知られてはならないものでも
ある。
今自分がしている恋は人目を忍ぶ恋だから。何があろうとも知ら
れてはいけない恋だから。
だから隠し通している。誰にも知られないように。決して。
それをしている自分の心は何かというと。石になってしまってい
る。
今の心は沖の石。何があろうとも姿を表わさない。それを見せる
ことは決してない。引き潮であろうとも姿を現わさず。そこに見え
るものは何もない。

184
けれどその中でも思うことはあり。それは募っている。
流す涙は乾くことがなく。今も泣き崩れてばかり。
誰にも知られてはならない恋だけれど。悲しみも出しはしないけ
れど。
一人になればその心を自分だけに見せて泣いている。このことを
歌にして今慰めとした。
わが袖は 汐干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾くまもなし
今詠うこの心。悲しみも隠してその中で泣く。泣いてそれでも見
せることはないけれど。それでも泣いて今も一人で過ごす。そうし
て今も見せることはない。恋も自分の気持ちも。知っているのは自
百人一首

分だけ。この人に見せることのない涙と悲しみもまた。
第九十二首 完
2009・4・7
185
百人一首
第九十三首
第九十三首 鎌倉右大臣
網を引く漁師達。そして海辺を進む舟。海に来てそれを見ること
になった。
そこにいるのは漁師や舟達だけではなかった。その他にも海女が
いた。
海女達は今は塩を焼いている。磯で塩を焼いている。
ここにまで塩を焼くその匂いが漂ってきている。塩の香りが実に
心地いい。
海から漂ってきている潮の香りとはまた違って。ただ純粋な、そ
れでいて実に味わいのある塩の香りがする。それがとてもいいもの
に感じる。
塩と潮。そしてそこにいる人や舟達。そういったものを見ていて
感じ取るのは自然。自然の中の小さな営み。それを感じずにはいら

186
れない。
その自然とそこにいる人達を見て願うことは。変わらないこと。
このまま変わらずにあって欲しい。変わらずにこのままでいて欲
しい。
今そのことを願う。
願うとその気持ちが自然に歌になった。自然を詠う歌が出て来た。
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
海の渚で見る自然の姿は青く何処までも美しい。そこにいる人達
までも。この青くそれでいて力強い自然は永遠にこのままであって
欲しい。こう願いながら今この歌を詠った。塩と潮の香りが何時ま
百人一首

でもこの身の周りに漂っている。実にかぐわしい香りに思えてなら
ずいとおしくて仕方がなくなってきていた。
第九十三首 完
2009・4・8
187
百人一首
第九十四首
第九十四首 参議雅経
今来ているのは吉野。かつて本朝の都があったという古の場所。
今ではとてもそうは思えないまでに奥深くにあるように感じられて
ならないが。
大和の奥深くにあるこの里に今来ていた。
こんな山奥で。何もなくあるのはただ木々だけ。
人もおらず聞こえてくるのは何もない。
夜風が冷たく吹き渡りどうにもいられない程度。そんな吉野に今
来ていた。
旅の宿にいてもその寒さは伝わり。えも言われぬ寂しさともなっ
て心に滲みてくる。
そんな中で今まで何も聞こえてこなかったのに。不意に物音が聞
こえてきた。

188
それは冬への音。冬の仕度をする音。それに着物を打つ音。その
二つが聞こえてきた。
夜の中でその音を聞くことになった。それまでは音もないただた
だ寂しい中にいたのに。
それでその音を聞いているとそれまではどういうことも思わなか
ったのに不意に。歌に対する思いが心の中に起こってきた。それに
よりこの歌を詠った。
み吉野の 山の秋風 小夜更けて ふるさと寒く 衣うつなり
歌を詠うその間も音は聞こえてくる。それを聞いていると何かま
た思うところが出て来た。それはこの吉野を楽しむ気持ちだった。
百人一首

確かに何もない。けれど音が聞こえてくる。冬への音が。それを楽
しもうと思う気持ちが出て来た。そんな旅の宿の夜のことだった。
第九十四首 完
2009・4・9
189
百人一首
第九十五首
第九
十五首 前大僧正慈円
自分のことを知れば。身の程を知れば。
決してこんなことは思えない。こんなことは言えない。それはわ
かっているのだけれど。
それでも思わずにはいられず。願わずにはいられず。
この墨染の法衣を着て。そこから袈裟を着て。そうして修行に励
む日々を送っている。
この比叡山にはその為にいる。永遠の聖地とも言っていいこの山
に。
この世の人々を救いたい。心を落ち着かせてあげたい。そう思っ
ているから。
だから俗世を出てそのうえで山に入って修行を積んでいる。修行

190
を積んでそうして人々を助けてあげられれば。そう願っているから。
だから今は僧となっている。
この決意。確かなものだと思っている。だからこそ今この決意を
歌にすることにした。誰かに見せたいわけではなく自分のこの決意
を自分に見せて揺らぐことがないように。
おほけなく 憂き世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染めの袖
この法衣はただ着ているわけではない。その心があってはじめて
着られるもの。それはよく忘れられてしまうこと。自分もまた同じ
でいつも忘れそうになってしまう。けれどその気持ちを戒めてこの
世で悩み苦しむ人々の心を救う為に。その為に比叡山にいるのだか
百人一首

ら。決して忘れまいと誓い歌を詠ったのだ・
第九十五首 完
2009・4・10
191
百人一首
第九十六首
第九十六首 入道前太政大臣
もう春の一つの区切り。それはいつも思うことだけれど本当に早
いもの。気付けばもう終わってしまうもの。楽しい一時だったのに。
風に吹かれて桜の花びらが散っていく。はらはらと儚く散ってい
く。
それはまるで雪が降るようだ。
いつも見る悲しい光景だ。桜が散るのを見ること程忍びないもの
はない。
けれどこうなのかも知れない。形あるものは何時か必ずなくなっ
てしまうものだから。だから古いものはこうして何時か必ず消えて
しまうものなのだろうか。
だとするとそれは桜だけでなく。自分もそうなのかも知れない。

192
それなりに長く生きてきた。これまでのことを振り返るとそれは
とても多かった。年月はとても長く。それを見てきたことも思い出
させる。
そして今の自分を見れば。頭には白いものが増えてきている。も
う決して若くはない。今散っている桜達と同じで間も無く散ること
になるのかも。そう思うと何か心がしんみりとして。それで今この
歌を詠った。
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
歌にしてみてもこのもの悲しくなってしまった心は変わらない。
桜が散るのと同じで自分も去ることになるのかと思うと。けれどそ
百人一首

れはどうしてもそうなってしまうものだから。形あるものはどれも
そうなるのだから。受け入れるしかないことはわかっているけれど。
それでもどうしてももの悲しくなってしまう。
第九十六首 完
2009・4・11
193
百人一首
第九十七首
第九十七首 権中納言定家
待つのは辛いもの。待ち続けるのはさらに辛い。
風のない夕方の海岸であの人を待つ。
藻塩草を燃やす炎。その炎に身も心も焼き尽くされそうになりな
がら。その中で待った。
この炎はあの人を待ち焦がれる炎。どうにもならない辛い炎。そ
の炎で身体を焦がしながら待ち続けていた。
けれどあの人は来ない。まだ来ない。ずっと来ることはない。来
ると言ってくれて約束してくれたのに。それでも来なかった。
しかしだった。自分は待つことにした。この海岸で。
あの人を待ち続けた。来るのを待ち続けている。
来ないかも知れない。あの人は不実かも知れない。そういう人も

194
いることも知っている。顔では誠実でも心は違う人は。そんな人も
いる。
けれどそれでも待つのだった。あの人を。その待つ気持ちを今歌
にした。
来ぬ人を まつ帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
この歌を詠った。あの人を待つ気持ちを詠った。それで本当に来
るのかどうかわからないけれどそれでもあの人への気持ちを歌にし
た。これで心が慰められるわけではないけれどそれでもだった。歌
にしてそれで気持ちを確かめた。あの人への切実な想いを。今ここ
に歌に留めてそのうえでさらに待つのだった。辛いことさえ受け入
百人一首

れて。
第九十七首 完
2009・4・12
195
百人一首
第九十八首
第九十八首 従二位家隆
秋が来た。夏は終わり今度は秋がきた。
それは暦だけのことではなかった。ちゃんとしたものが自分にそ
れを教えてくれた。
それが何かというと。目に見せてくれたもので。
楢の葉に涼しい風が吹いてきていた。それは夏の風じゃなかった。
紛れもなく秋の風だった。あの暑さを癒してくれる優しさはないけ
れど物静かで何かが香ってくるような。まさしく秋の風だった。
その秋の風を見ていると。今度は川で禊をしているのが見えた。
夏越しの行事をしているのが見えてきた。
そういったものが教えてくれるものは。季節の変わりめで。
夏が終わり秋になろうとしている。それを教えてくれる。今まで

196
それを感じることはなかったけれど今風がそれを教えてくれたのだ
った。
風が教えてくれたその変わり。そして目に入れてくれた。そうい
ったものを見ていると自然に歌になって出て来た。それがこの歌。
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
静かな秋になってきている今はそれを見るだけで清らかになる。
夏もよかったけれど秋もまたいいもの。そのことに微笑みつつ今は
秋が来たことを感じていた。この静かで美しい秋を。今は感じてそ
れを歌にした。風が教えてくれて川が伝えてくれたその秋のはじま
りのことを。
百人一首
第九十八首 完
2009・4・13
197
百人一首
第九十九首
第九十九首 後鳥羽院
この世のことを思うと。この世のことを考えると気付くことがあ
る。
この世に対して尽くしてくれる人がいる。そういう人がいてくれ
る。
けれど。それだからこそ。そうして尽くしてくれる人がいるのと
共に裏切る人がいる。
そして愛しい人がいるからこそ憎い人もいる。尽くしてくれる人
がいるのとは逆に裏切る人がいるのと同じで。愛しい人がいるから
こそ憎い人もいる。
この二つは反するようで同じで。いつも一緒になっている。
これが世の中というものだろうか。不本意な世である。気付いて

198
はいたのだけれど。
この世を何とかしたいとは思っている。しかしそれは思うように
はいかないもので。何かをしようとしてもできず。ただ不遇でいる
ばかり。
その不遇を思っていると言葉が出て来た。言葉は歌となって形に
なっていく。それがこの歌だ。
人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに もの思ふ身は
悩みの中で詠う歌はやはり憂いのあるもの。この憂いを読んでみ
てまた憂いに耽る。
憂いは消えることなく続いていく。それは何処まで続いていくの
百人一首

かさえわかりはしない。けれど思わずにはいられない。これこそが
憂いの源なのだとはわかっているが。それでも止められないのだ。
第九十九首 完
2009・4・14
199
百人一首
第百首
第百首 順徳院
古い軒並はもう何もかもあの時の面影をなくしてしまって。
ただただ荒れ果てているばかり。そこに見るものは栄華ではなく。
かつては栄えていたものが荒れ果てるその姿。そして昔から受け
継がれていたものが今遂に衰えようとしている。そのことだった。
それでもこう思わずにはいられない。どうしても思ってしまう。
この荒れてしまった庭にまた栄えが欲しい。もう一度美しい花を
咲かせたい。そんな思っても仕方のないことを今思ってしまう。思
いたくはないのに思ってしまう、これも因果なのかと考えてしまう
がそれでも思ってしまうものだった。
どうにもならないことはわかっているけれどそれでも。この荒れ
果ててしまった古い軒並を見ていると思わざるを得ない。この思っ
ても仕方がない気持ちを胸に抱いていると歌が心に宿った。その歌

200
がこれだ。
ももしきや 古き軒場の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
今はもう昔のこと。思ってもせんないことではある。けれど思わ
ずにはいられず今こうして歌に詠った。心に宿ったその歌を。
歌にしてみても消えはしないこの寂寥の気持ち。この気持ちを抱
いたまま庭を眺め続ける。どうにもならないことではあってもそれ
でも。思わずにいられずそれが歌になって出た。栄華はもう昔のこ
とだった。
百人一首

第百首 完
2009・4・15
201
百人一首
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。

2009年7月23日23時49分発行
http://ncode.syosetu.com/n5926f/

百人一首

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PDF小説ネット発足にあたって
PDF小説ネットは2007年、ルビ対応の縦書き小説をインタ
ーネット上で配布するという目的の基、小説家になろうの子サイト
として誕生しました。ケータイ小説が流行し、最近では横書きの書
籍も誕生しており、既存書籍の電子出版など一部を除きインターネ
ット関連=横書きという考えが定着しようとしています。そんな中、
誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、公開できるようにしたのが
このPDF小説ネットです。インターネット発の縦書き小説を思う
百人一首

たんのう
存分、堪能してください。

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