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インド学チベット学研究 No. 25 (2021) 002李学竹・加納和雄・横山剛「梵文和訳『牟尼意趣荘厳』――器世間解脱前半部――」
インド学チベット学研究 No. 25 (2021) 002李学竹・加納和雄・横山剛「梵文和訳『牟尼意趣荘厳』――器世間解脱前半部――」
梵文和訳『牟尼意趣荘厳』
−器世間解説前半部−
李学竹・加納和雄・横山剛
はじめに
インド仏教終焉期にあたる 1108 年1、アバヤーカラグプタによって著された『牟尼意趣荘厳』
(Munimatālaṃkāra)は、顕教(波羅蜜理趣)の教えを包括的に論じ、修習階梯の俎上に載せた
大著である。近年、その梵文写本が確認され、同論の研究は新たな局面を迎えている。
その第一章は仏教の学説体系を網羅し、律儀、六波羅蜜、衆生世間、器世間、一切法、二諦、
一乗などに及ぶ。テキストの校訂や和訳などの第一章に関する研究状況は以下の通りである。
1
または 1109 年。著作年代については、加納・李(2021)を参照。
2021 Copright Association for the Study of IndianPhilosophy
梵文和訳『牟尼意趣荘厳』 21
本稿では器世間の解説箇所を扱う(上記太字箇所)
。この箇所は、大半が『倶舎論』の第三章
「世品」の解説にもとづく(引用の体裁を取らず借用する)
。アバヤーカラグプタは、
『倶舎論』
の所説を巧みに切り抜き、適所に配置することで、当時の仏教における世界観を教科書的に描
き出す。このことは、
『倶舎論』に伝えられる世界観が、12 世紀に至るまで、インド仏教の標準
的な教説とみなされていたことを示すともいえる。本来であれば器世間の解説全体の和訳をま
とめて提示するべきであるが、紙幅の都合上、本稿では前半部を扱い、後半部は稿を改める。
本稿で梵文和訳を提示する箇所は、磯田(1991b)により蔵文からの和訳なされている(D 113r6
から 121v4 まで)
。本研究では、磯田の訳ならびに『倶舎論』における並行文に注意を払いなが
ら、梵本からの和訳を提示する。
科段
本稿で扱う器世間解説の前半部の科段は下記の通りである。科段では見出しに続いて、
『牟尼
意趣荘厳』の梵文写本(Ms)の葉番号、チベット語訳デルゲ版(D)の葉番号、および素材とさ
(AKBh)の対応箇所(文言の借用元)を示す2。
れた『倶舎論』
2
本頌と長行との両者を含む場合は、個別に表記することはせずに、AKBh ad というかたちで表記した。
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22 インド学チベット学研究 25
凡例
本稿では『牟尼意趣荘厳』第一章における器世間解説の前半部(導入から三界の解説まで)の
和訳を提示する。本和訳は、李と加納によって校訂が進められている梵文テキストにもとづく。
梵文テキストについては、稿を改めて発表を予定している。和訳に際しては『倶舎論』に見られ
る並行文に特に注意を払ったが、それら並行文については、逐一示すと紙幅を徒に費やすこと
になるため、ロケーションのみを提示する。また、器世間の解説では、世界の構造を示した図や
各種の数値の一覧が理解の助けとなる。この点に関しては、本稿で改めて図表を作成すること
はせずに、定方(1973, 2011)における図表の頁数を示した。
略号と一次文献
AK / AKBh = P. Pradhan (ed.), Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu, Patna: K. P. Jayaswal Research
Institute, 1967.
AKVy = U. Wogihara (ed.), Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā by Yaśomitra, Tokyo: Publishing
Association of Abhidharmakośavyākhyā, 1932–1936.
T = Taishō Shinshū Daizōkyō 『大正新脩大蔵経』
Viṃś = S, Lévi (ed.), Vijñaptimātratāsiddhi, Deux Traités de Vasubandhu : Viṃśatikā and Triṃśikā, Paris:
Libraire ancienne honoré champion, 1925.
二次文献
(和文研究)
石田一裕
2009 「西方諸師説の一考察―色界説を通して―」
、『佛教文化学会紀要』17、47–65 頁。
磯田煕文
1981 「
『Munimatālaṃkāra』について」
、『印度学仏教学研究』29-2、93–99 頁。
1983 「
『Munimatālaṃkāra』について(2)
」、『印度学仏教学研究』32-1、116–121 頁。
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梵文和訳『牟尼意趣荘厳』 23
1991a 「Abhayākaragupta「Munimatālaṃkāra」(Text)-3」
、『東北大学文学部研究年報』41、188–
147 頁。
1991b 「
『Munimatālaṃkāra』に説かれる有情世間・器世間」
、『インド思想における人間観:東
北大学印度学講座六十五周年記念論集』41、487–510 頁。
1993 「Abhayākaragupta と『Madhyamakāloka』
」、『インド学密教学研究:宮坂宥勝博士古稀記
念論文集・上』
、法蔵館 、501–516 頁。
加納和雄・李学竹(順不同)
2013 「梵文『牟尼意趣荘厳』
(Munimatālaṃkāra)第一章の和訳と校訂―冒頭部―」
、『密教文
化』229、37–63 頁。
2014 「梵文『牟尼意趣荘厳』第1章末尾部分の校訂と和訳―『中観光明』一乗論証段の梵文
断片の回収―」
、『密教文化』232、7–42 頁。
2015 「梵文校訂『牟尼意趣荘厳』第一章(fol. 48r4–58r5)―『中観五蘊論』にもとづく一切法
の解説―」
、『密教文化』234、7–44 頁。
2017a 「梵文校訂『牟尼意趣荘厳』第一章(fol. 58r5–59v4)―『中観光明』四諦説三性説箇所佚
文―」
、『密教文化』238、7–27 頁。
2017b 「梵文校訂『牟尼意趣荘厳』第一章(fol. 59v4–61r5)―『中観光明』世俗の定義箇所佚文
―」
、『密教文化』239、7–26 頁。
2018 「梵文校訂『牟尼意趣荘厳』第一章(fol. 61r5–64r2)―『中観光明』世俗と言説および唯
心説批判箇所佚文―」
、『密教文化』241、31–56 頁。
2021 「梵文校訂『牟尼意趣荘厳』第一章(fol. 64r2–67v2)―『中観光明』佚文・行者の直観知
と無自性論証―」
、『密教文化』245/246(印刷中)
。
楠本信道
2001 「
『縁起経釈』における無明の語義解釈」
、『印度學佛教學研究』50-1、
(169)–(172)頁。
櫻部建・小谷信千代・本庄良文
2004 『 舎論の原典解明 智品・定品』
、大蔵出版、東京。
定方晟
1973 『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』
、講談社現代新書、講談社、東京。
2011 『インド宇宙論大全』
、春秋社、東京。
鈴木紀裕
1977 「経典類の部派所属について―色界天説より見た分類をふまえて―」
、『駒沢大学大学院
仏教学研究会年報』11、59–67 頁。
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24 インド学チベット学研究 25
林隆夫
1993 『インドの数学 ゼロの発見』
、中公新書、中央公論社、東京。
御牧克己
2014 「 (rma bya kha 'bab)
「孔雀の口から流れ下る河」 [I]─四大河をめぐるインドの伝承─」
、
『奥田聖應先生頌寿記念 インド学仏教学論集』
、502–513 頁。
横山剛
2014 「
『牟尼意趣荘厳』
(Munimatālaṃkāra)における一切法の解説―月称造『中観五蘊論』と
の関連をめぐって―」
、『密教文化』233、51–77頁。
2019 「インド仏教最後期へと至る法体系の系譜―解脱の構成に注目して―」
、『国際仏教学大
学院大学研究紀要』23、135–174頁。
李学竹・加納和雄・横山剛
2015 「梵文和訳『牟尼意趣荘厳』―一切法解説前半部―」
、『インド学チベット学研究』19、
139–157 頁。
2016 「梵文和訳『牟尼意趣荘厳』―一切法解説後半部―」
、『インド学チベット学研究』20、
53–75 頁。
(欧文研究)
Akahane Ritsu and Yokoyama Takeshi
2014 The Sarvadharma Section of the Munimatālaṃkāra, Critical Tibetan Text, Part I: with Special
Reference to Candrakīrti’s Madhyamakapañcaskandhaka,『インド学チベット学研究』18: 14–
49.
2015 The Sarvadharma Section of the Munimatālaṃkāra, Critical Tibetan Text, Part II: with Special
Reference to Candrakīrti’s Madhyamakapañcaskandhaka,『インド学チベット学研究』19: 97–
137.
Kapstein, Metthew
2001 Abhayākaragupta on Two Truths. In: Kapstein, Reason's Traces, Boston: Wisdom Publications,
393–415.
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梵文和訳『牟尼意趣荘厳』 25
和訳
(AK 3.48a)
一方、円周は[直径の]三倍である。
3
風輪・水輪・金輪については、定方(1973: 13) (2011: 209)の図も併せて参照。
4
但し、asaṃkhya を単位として考えれば 1059 を意味すると理解できる。数詞については、AKBh ad 3.93cd(cf. 林
(1993: 10)
)を参照。
5
九山については、定方(1973: 15–17)
(2011: 213)の図も併せて参照。
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26 インド学チベット学研究 25
八万[由旬の深さの海の]水の中に沈んでいる。水[面]よりも上に須弥山はさらに八
万[由旬突き出している]
。八[山]において、
[高さは順番に]半半ずつ減ってゆき、
そしてそれらは[各々の]高さと同じだけの幅をもつ6。
(AK 3.50b–51b)
(AK 3.52c)
残りの海は、半半ずつ[幅が減じていく]
尼民達羅山と鉄囲山の間において、外の大海は塩水で満たされ、幅は三ラクシャ二十二千
(322,000)
[由旬]ある。
贍部洲は、台車の形をしており、三辺は[各々]二千[由旬]ある。一方、一[辺]は
(AK 3.53b–54a)
三由旬半ある。
それ(贍部洲)の中央にある、黄金でできた地面の上に金剛座が出現していて、そこに座して、
あらゆる菩薩たちは金剛喩定を生み出す。ここから東にある、
東勝身洲(プラーグヴィデーハ)は半月のような形をしている。 これの三辺は[各々、
、一[辺]は三百五十由旬ある9。
贍部洲の三辺の長さと]同じで[二千由旬ずつあり]
(AK 3.54bc)
ここから西には西牛貨洲(アヴァラゴーダニーヤ)があり、
[円周は]七千五百[由旬]あって、
満月のように円い。
6
すなわち、持双山の高さは四万由旬、乃至、鉄囲山の高さは三百十二半由旬となる。
7
八海については、定方(1973: 15–17)
(2011: 213)の図も併せて参照。
8
この一文は、次の倶舎論の本偈の文言の語順を変えたものである。AK 3.51c: śītāḥ saptāntarāṇy eṣāṃ.
9
半月状とあるが、贍部洲(ほぼ正三角形)と比較して考えると、台形か。
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梵文和訳『牟尼意趣荘厳』 27
(AK 3.55c)
これの直径(madhyam)は二[千]五[百由旬]ある。
ここから北には、四角形をした北倶盧洲(ウッタラクル)がある。各辺は二千由旬ある。
そして洲ごとに形があり、そこ(各洲)における人々の顔[の輪郭]は、それと同じ形であ
る。ある人は「 」という10。
[各洲に住む女性たちの]女陰も[その洲と同形だ]
提訶洲(デーハーハ)
、毘提訶洲(ヴィデーハーハ)
、矩拉婆洲(クラヴァハ)
、憍拉
婆洲(カウラアヴァーハ)
、遮末羅洲(チャーマラーハ)
、筏羅[遮末羅]洲(アーヴ
ァラーハ)
、舍搋洲(シャーターハ)
、 怛羅漫怛里拏洲(ウッタラマントリンナハ)
という八つは11、それ(四洲)の中間にある洲である。
(AK 3.56)
[八中間洲の]すべては、人々が暮らしている。ある人々は「ひとつ[の中間洲]は、羅刹たち
が[暮らしている]
」という。
[地獄]14
(Ms 41r1–2, D 119r3–4, AKBh ad 3.58)
(八熱地獄)
同じこの贍部洲の下方、二万由旬下に、無間(アヴィーチ)大地獄があり、深さと広さが二万
[由旬]ある。無間地獄の上方、上から上へ、大熱地獄(プラターパナ)
、炎熱地獄(ターパナ)
、
10
出典未詳。
11
これらの中間洲(antaradvīpa)の名称は、すべて複数形で綴られている。その理由について、称友は以下の様に
述べている。AKVy, 326.6–7: dehā videhāḥ kurava iti. sthānināṃ bahutvāt sthānasyāpi bahuvacananirdeśaḥ.「
『提訶洲、毘提
訶洲、矩拉婆洲』というのは、 [それら中間洲の]住人たちが多いので、 [その]場所も複数形で示している」 。した
がって、本和訳においても複数形で表記した。
12
贍部洲の地理については、定方(1973: 19) (2011: 217)の図も併せて参照。
13
四大河をめぐるインドの伝承については、御牧(2014)を参照。
14
地獄の構造については、定方(1973: 41)の図も併せて参照。
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28 インド学チベット学研究 25
大叫地獄(マハーラウラヴァ)
、叫喚地獄(ラウラヴァ)
、衆合地獄(サンガータ)
、黒縄地獄(カ
ーラスートラ)
、等活地獄(サンジーヴァ)という七つの地獄がある。他の人々は、無間地獄の
側面に[七つの地獄がある]
、という。いっぽう、それら八つは、各々、十六の追加部分(utsada,
近辺地獄)をもつ15。というのは、
[八大]地獄に堕ちた者たちが、さらに最後に(ante)それら
(追加部分)に赴くからである16。
15
≈ AK 3.58d: sarve 'ṣṭau ṣoḍaśotsadāḥ.「追加部分」については以下の様な説明がある。AKBh ad 3.58d: adhikayā-
tanāsthānatvād utsadāḥ ity ucyante.「追加で処罰がなされる場所だから、諸々の追加部分(utsadāḥ)といわれる」 。
16
この一文は「さらにそれらの辺(ante)に赴くからである」とも解釈しうる。
17
Cf. AKBh ad 3.59c: krodhanāḥ krūrakarmāṇaḥ pāpābhirucayaś ca ye, duḥkhiteṣu ca nandanti jāyante yamarākṣasā iti.
18
Cf. AKVy, 327.16: kṛtāvadhitvāt kṛtamaryādatvāt narakapālān prati.
19
Cf. AKVy, 327.16–18: bhūtaviśeṣanirvṛtter vā. bhūtaviśeṣās tādṛśās teṣāṃ karmabhir abhinirvṛttāḥ, yat tenāgninā na dahyante.
「 『あるいは特殊な諸大種として生じているから』とは、彼ら(地獄の衆生たち)の諸業のせいで、特殊な諸大種が、
そのような[獄卒などの表象として]生じているのであり、それはその(地獄の)火によって焼かれない」 。『唯識
二十論』にも同様の記述がみられる。Cf. Viṃś, 4.27–5.2: teṣāṃ tarhi nārakāṇāṃ karmabhis tatra bhūtaviśeṣāḥ saṃbhavanti
varṇākṛtipramāṇabalaviśiṣṭā ye narakapālādisaṃjñāṃ pratilabhante. 「その場合、彼ら地獄の衆生たちの諸業のせいで、特
殊な色、形、量、力を伴った特殊な諸大種がそこに生じ、それらが獄卒などという想念(または名称)を得るにい
たる」 。
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梵文和訳『牟尼意趣荘厳』 29
[諸天]
(Ms 41v3–42r1, D 120r1–4, AKBh ad 3.63–64c)
(空居天と地居天)
これらの太陽などの天宮には、天宮住まいの四大王衆の神々(空居天)が住んでいる。いっぽ
う、地に住む[神々]
(地居天)は須弥山のベランダなどの場所に[住んでいる]
。須弥山のベラ
20
『倶舎論』称友注によると、ここでの pūrvācārya たちとは、瑜伽師(yogācāra)たちのことである。AKVy, 238.5–
6: vāhayogaḥ sa tādṛśa iti. punas tiryag avanāmonnāmayogenādhobhāgaś candramaṇḍalasya kṣīyate. ūrdhvaṃ vardhate ceti
yogācārāḥ.「『その運行のあり方とは、次のようなものである』とは、再び、水平方向に、低くなったり高くなった
りするやり方によって、月輪の下の部分がなくなり、上が増える、と瑜伽師たちは言う」 。(月輪の形状が物理的に
変形していることを意味するか) 。
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30 インド学チベット学研究 25
ンダは四層であり、そこにおいて、
[海面から]一万由旬上に行くと一つの[ベランダ]があり、
第四番目の[ベランダ]に至るまで同様である。
十六千、八千、四千、二千[由旬、各々のベランダは水平方向に]出っ張っている。
それらにおいて、堅手(カロータパーニ)たちと、持鬘(マーラーダーラ)たちと、
恒憍(サダーマダ)たちと、四天王たちがいる。七つの山にも[彼らは]いる。
(AK
3.63cd–64)
つまり、持双山など[の七つの山]に[彼らはいる]
。第四のベランダにおいて、毘沙門天、持
国天、増長天、広目天、という四天王たちは、
[順番に]北を始めとする方角に住んでいる。こ
れら堅手をはじめとするすべての[神々]は、
[四]大王衆の神々である。
21
三十三天の住みかについては、定方(1973: 54–55) (2011: 229)の図も併せて参照。
22
Cf. AKVy, 254.10–11: sahakṛtasukṛtair atropapadyanta iti trayastriṃśāḥ. samānapuṇyair ity arthaḥ.
23
AKBh ad 3.66: sumerutalasya madhye sudarśanaṃ nāma nagaraṃ dairghye (read: dairghyeṇa) sārdhatṛtīyayojanasahasre (read:
-saharam) ekaikaṃ pārśvam ucchrāyeṇādhyardhayojanam.
24
sauvarṇanānāratnacitrabhūtalaṃ.『倶舎論』の対応箇所では次のようにやや異なる。AKBh ad 3.66: prākāraḥ sauvarṇaḥ,
ekottareṇa dhātuśatenāsya bhūmiś citritā. tac ca bhūmitalaṃ tūlapicuvat mṛdusaṃsparśaṃ pādakṣepotkṣepābhyāṃ natonnataṃ.
( [その都城の]壁は黄金製であり、これの地面は百一種類の要素によって彩られている。そしてその地表は、綿の
ように、柔らかい感触をもち、足を降ろしたり上げたりすると浮き沈みする。 )すなわち、 『倶舎論』において「黄
金製」 (sauvarṇa)という語は、都城の「壁」 (prākāra)のみを修飾している。
25
梵本では tanmadhye vaijayanto nāma prāsādo dairghyeṇārdhatṛtīyāni yojanaśatāni pratipārśvam ucchrayeṇa yathā śobhaṃ
(read: śobhaḥ) |とある。拙訳では śobhaṃ を śobhaḥ と訂正して、善見城(sudarśana)を指すと理解した。なおチベッ
ト語訳は ring ba dpangs su ji ltar mdzes pa'o とある。
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梵文和訳『牟尼意趣荘厳』 31
を広げて立っている。そのすべての花の香は、風に乗ると百由旬にわたって広がり、向かい風
では五十由旬[にわたって香が広がる]
。
【問】それでは、その花の香の連続は、自らの大種に依拠してのみ生じるのか、あるいは、薫
じられた風26が生じるのか。
【答】ここにおいて決まりはない。というのは、両方ともが先生の
認めるところ(ācāryeṣṭi)だからである。
善法堂(スダルマー)
[という名の集会堂]が南西にある。その神々の集会堂では、神々が座
って、なすべきこととなすべきでないことについて論議している。以上が、三十三天の住処の
構造(bhājanasanniveśa)である。
[三界]27
(Ms 42v1–3, D 120v4–121r2, AK 3.1, 3.69–71)
(欲界)
[以上で述べた]その中で、八熱地獄、四洲、六界(六欲天)の天王衆などの神々、畜生、餓鬼
という区別による二十の場所が欲界である28。
その中で欲生の者たちは三種類である29。というのは、
(1)人間と四天王は、生起したままの
欲望の対象を享受することに基づき30、
(2)いっぽう楽変化天たちは、自ら欲望の対象を化作し
てから享受し、
(3)他化自在天たちは、他によって化作された欲望の対象に対して自在に支配
するからである。
ここ(欲界)において、地面から離れないで暮らす四天王たちと三十三天たちには、人間のよ
うな、交接(dvandva)による淫事がある31。いっぽう、夜摩天たちなど(つまり、夜摩天、兜率
天、楽変化天、他化自在天)には、順次、抱擁、手を取ること、微笑むこと、見つめあうことに
[まぐわいがある]32。ただし[人間と違って]
よる、 、神々は、
[性器から]風が抜け出れば、欲
の熱は離散する。精液が存在しないからである。
26
花の香に関与する風界とは別の風がここで生じるのか否かが議論されている。
27
三界の構造については、定方(1973: 66–67) (2011: 235)の一覧表も併せて参照。
28
Cf. AK 3.1: narakapretatiryañco manuṣyāḥ ṣaḍ divaukasaḥ / kāmadhātuḥ sa narakadvīpabhedena viṃśatiḥ //
29
AK 3.71ab: kāmopapattayas tisraḥ kāmadevāḥ samānuṣāḥ.
30
Cf. AKBh ad 3.71: santi sattvāḥ pratyupasthitakāmāḥ pratyupasthiteṣu kāmeṣv aiśvaryaṃ vaśe vartayanti.
31
Cf. AKBh ad 3.39cd.
32
Cf. AKBh ad 3.39cd.
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32 インド学チベット学研究 25
「すべて(夜摩天から他化自在天にいたるまでの神々)は、交接(dvandvasamāpatti)によっ
て[まぐわうのであり、
]抱擁などによって[要する]時間の量が『施設論』に述べられた」と
毘婆娑師たちは[いう。また]
「[淫事の]対象が激しければ激しいほど、欲望もまた一層激しく
[ともいう]33。
なる」
ある神あるいは女神の膝の上に[生まれた]息子または娘が、そのふたり(両親)の子供
(tadapatya)である。
[その子供の大きさは、六欲天の]神々の集まりにおいては、順次、五歳、
六歳、七歳、八歳、九歳、十歳の[人間の子供の]ようである34。
33
ここまで AKBh ad 3.69 に基づく。
34
ここまで AKBh ad 3.70abc に基づく。
35
「女根と男根を持たず」は『倶舎論』3.70c に無い。
36
衆賢によると、āryabhāṣā とは、中印度(*madhyadeśa)の言葉と同じであるという。Cf.『順正理論』巻 31(ad AK
3.70)、T29, 519b28–30: 皆作聖言。謂彼言詞、同中印度。然不由學、自解典言。
37
Cf. AK 2.7cd.
38
AKBh ad 7.41a: tad api prāntakoṭikaṃ caturthaṃ dhyānaṃ.
39
Cf. AK 8.8cd.
40
例えば、初禅の「下」は梵衆天、 「中」は梵輔天、 「上」は大梵天となる。
41
Cf. AK 3.2bcd. 第四禅の「下」は無雲天、 「中」は福生天、が広果天、 「上の下下」が無煩天、 「上の下中」が無熱
天、 「上の中上」が善現天、 「上のより上」が善見天、 「上の最上」が色究竟天となる。
42
AKBh ad 3.2d.
43
Cf. AKBh ad 2.41d: bṛhatphalānām devā, yeṣāṃ kecid asaṃjñisattvāḥ pradeśe bhavanti, dhyānāntarikāvat.
44
色界の天の数に関する諸説については、鈴木(1977)と石田(2009)を参照。
45
Cf. AKBh ad 6.43ab: tāsāṃ yathāsaṃkhyaṃ pañca śuddhāvāsāḥ phalam. yat tatra sāsravaṃ tadvaśāt teṣūpapattiḥ.
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梵文和訳『牟尼意趣荘厳』 33
無色界は、
[物理的な]場所がなく、
[そこには苦楽を離れた]捨なる経験があり(捨受)
、受を
始めとする四つの蘊がある(色蘊は欠く)46。しかし、生起の区別によって四種ある。つまり、
空無辺処、識無辺処、無処有処、非想非非想処である。しかし、これらには、場所によって作ら
れた上や下は存在しない47。というのは、それら(空無辺処など)の等至(samāpatti)を得た者
達が死没する場合、同じその場所で[彼らは再び]生まれる。そしてまた、そこから死没する者
たちの中有存在は、同じ場所に生じる。
46
ārūpyadhātur asthāna upekṣānubhavo vedanādicatuḥskandhakaḥ を訳した。upekṣānubhavo vedanādicatuḥskandhakaḥ は処
格の所有複合語として理解した。ここでの主題は器世間なので、その一部としての無色界を意識してこのように和
訳したが、物質的な要素が存在しない領域であるため、器とそこに住む衆生(精神的な要素のみ)の区別がないと
いう理解もありうる。ただし、直後でも述べられる通り、無色界にも、わずかではあるが、物質的な要素が存在す
るという説がある。Cf. AK 8.2c: catuḥskandhāḥ.
47
「存在しない」 (na ... vidyate)という語は、AKBh では「分けられない」 (na ... bhidyate)とある。
48
Cf. 楠本(2001).
49
無色界に色が少し(īṣat)あるならば、その色から死没後の色が生じる。
50
≈ AKBh ad 8.3d: rūpasya cittād evotpattis tadvipākahetuparibhāvitāl labdhavṛttitaḥ.
51
Cf. AKBh ad 8.3ab: īṣadrūpatvād āpiṅgalavat. 櫻部ほか(2004: 229)の注 2 は、光記(巻二十八)にもとづいて、大
衆部と化地部が無色界に色を認めることを紹介する。
52
= AK 8.22a: aṣṭau sāmantikāni.
2021 Copright Association for the Study of IndianPhilosophy
34 インド学チベット学研究 25
支をそなえる(caturaṅga)53。
(以上、器世間の解説前半部。後半に続く)
Abstract
53
初静慮支については AK 8.7ab を参照。