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34 (『日本語の研究』第 16 巻 1 号 2020.4.

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日本語学会の社会的役割と
『日本語学大辞典』
──公共知としての『日本語学大辞典』に期待すること──

矢 田 勉

1. 俗説・ 説の多い「日本語」

個人的な話から始めることをお許し頂きたい。本稿の筆者が現在,大学において担っ
ている教育業務のうちの重要なものに,1・2 年次学生に対する導入教育がある。あり
がたいことに,
「日本語」という対象は,文系・理系,日本人学生・留学生を問わず共
通の議論の材料とするのに絶好のものである。言うまでもなく,大前提となる常識的知
識を受講者全員が共有していると考えて授業を進められることが大きな理由であるが,
もう一つ,残念な要素として,「日本語」に関することほど日本において俗説・ 説の
類が蔓延っているものもないという点がある。それは,書籍,公共放送を含むテレビ番
組,インターネットと,あらゆるメディアの中に見いだされる。それを俎上にあげるこ
とで学生は,知識の選別・検証の方法,科学的な論証のあり方,といったことについて,
実感を持って身に付けてくれているように思う。そして,日本語に関する俗説・ 説の
おかしさに気付くために手始めに取らせる手続きが,これまでは『国語学大辞典』の参
照であったし,現在は『日本語学大辞典』の参照である。
日本語に関する俗説・ 説には,例えば,大きな社会問題ともなっている医学や健康
科学に関わるそれとは違って,直接に個々人の生命を危険に晒したり,詐欺商法の種に
なったりとかといった,即効性の害はない。だからこそ看過されているのかもしれない
が,しかし多くの国民が自らの思考の基盤である日本語について正しからぬ知識を刷り
込まれてしまうことは,巨視的また長期的に見れば,深刻な社会の教養水準の低下,引
いては日本文化の衰退を招く遠因にもなりかねないと危惧する。私と同じような教育実
践をなさっている学会員も多いこととは思う。しかしそれでも,大学等でそういう授業
に触れて,日本語についての正しい捉え方を方法論として身に付ける機会を得られる人
は,日本語話者全体に比していえば,当然ながらごくごく一部に過ぎない。
そこで,既に学生の身分を離れている人を含めた大多数の日本語話者を,日本語を巡
る俗説・ 説の浸潤から守る防波堤として,『日本語学大辞典』(以下『大辞典』)に期待
される役割は断然大きなものがある。専門辞典には,その分野の研究者が知識の再確認
を行う目的以外に,その分野において現在もっとも正当と考えられる知識の標準を広く
日本語学会の社会的役割と『日本語学大辞典』 35

社会に提示する「公共知」としての役割がある。世の中が表層的な反知性主義・反教養
主義に流れること,あるいは似而非教養の毒に晒されることに対して強く抗うことは,
分野を問わず全ての研究者・学会の責務であるが,日本語研究に携わる者に求められる
ものは,上記の意味で日本社会において殊に大きく,その務めを担う我々にとって,そ
の意味でも『大辞典』を役立てていかなくてはならない。

2. 俗説・ 説に対抗する「公共知」としての『日本語学大辞典』

そこで以下では,いくつかの具体例から,日本語に関する「公共知」としての『大辞
典』の有用性について,検証してみたい。批判対象の論説を含む刊行物の著者名・書名
については,敢えて実名で取り上げる。些か剣呑ではあるが,公刊されている以上,学
術的観点からの批判は当然受けるべきと考えるからである。

2.1 事実の誤認,誤解に対して
日本人が日本語について語っている以上,事実そのものについては誤りなどないであ
ろう,著者の能力のほどが顕れるのは,そこからどれだけ魅力的な論を導き出すか,の
レベルだ,と多くの人が安心しているかもしれない。ところが,世にある「日本語本」
には,基本的事項の事実レベルでの単純な誤認,誤解が意外なほど多い。現代日本語に
ついてもそうであろうが,こと歴史的な事柄に話が及べば,枚挙に暇がない。
典型的なものとして,山口謠司『日本語にとってカタカナとは何か』(河出書房新社,
2012)を例に挙げる。この本に,例えば,「平安時代末期頃に写されたとされる『類聚
名義抄』という辞書には,「鼻水をすする」という意味の「洟唾」が「爪爪ハナ」と書
かれている。
「爪」は『広韻』では「ツゥ(tsau)」と書かれている。つまり,「啜る」は
「ツゥツゥる」と発音されていたのである。」(p.43)とある。どうやら著者は片仮名スの
古体をご存じなかったらしい。しかし『大辞典』の〔片仮名〕項(月本雅幸氏)に挙げ
られている書陵部本『文鏡秘府論』保延 4 年点の仮名字体表を参照すれば,スの片仮名
にこの形の異体があったことはすぐに分かる。
「〈カタカナ〉の初出とされる東大寺で写された『成実論』に見える〈カタカナ〉
また,
の「ト」
,「モ」なども宣命体と同じく,小さな文字で書かれている。まさにこれは小宣
命体の書き方を受けたものなのである。」(p.59)ともある。訓点と宣命体の区別が付い
ていないのである。『成実論』の訓点が,本文とは明確に異なる白墨で加えられている
ことも理解されていないのかもしれない。『大辞典』の〔訓点資料〕項(該当箇所,築島
裕氏)には,
『成実論』天長 5 年点について触れられている。一方で〔宣命書き〕項(乾
善彦氏)には,「平安時代に成立する片仮名宣命書きについて,訓点記入の方法から発
達したことがいわれる」とあって,訓点(仮名点)が宣命書きに倣ったものと考えるの
は因果関係が逆であることが明らかである。「宣命小書体」と「宣命大書体」の関係に
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ついても述べられているので,これを参照できていれば,「小宣命体」などという目馴
れない術語を使うこともなかったはずである。
「「豆仮名」とも呼ばれた小さな字で書き始められた「片仮名」は,じつは漢文を日本
語で読みながらも,まるでそれが中国語での注記のように見せかけるために生み出され
たものではなかったのだろうか。」(p.62)ともある。上述〔訓点資料〕項には初期仏書
訓点資料について,「一般に当座の備忘の用のみに供されたものらし」いと説明されて
おり,仮名点が「中国語での注記のように見せかける」ものであるはずなどなかったこ
ともやはり明らかにされている。

〈カタカナ〉で和歌が書かれることは,決してない。和歌は,日本の情緒だからであ
」(p.132)に対しては,上述〔片仮名〕項に「僧侶の自作の和歌や,僧侶による和歌
る。
集の書写に広く片仮名が用いられた」とあり,〔片仮名文〕項(矢田)でも片仮名書き
和歌の早い例として「醍醐寺五重塔初層天井板落書」を紹介している。「我が国では,
古くからまずカタカナを学んでからひらがなを習っていた。明治時代の教科書もこの伝
統に則ったものであろう。」(p.201)に対しては,同じく〔片仮名文〕項に,片仮名先習
は 1904 年から 46 年までに限られた習慣であったこと,〔平仮名〕項(矢田)には,遅
くとも院政期以降,第 1 期国定教科書以前まで,文字教育の最初には一貫していろは歌
を用いた平仮名教育があったことを述べている。
「現在の五十音図には,ヤ行の「イ」
「エ」の部分が空白になっているが,当時は「yi」
「ye」という音があり,同じようにワ行には「wi」「wu」
「we」という発音も存在してい
た。」(p.32)という記述,これについては残念ながら,『大辞典』によって簡便に誤解を
解くことがやや難しい。〔上代の日本語〕項(山口佳紀氏)に「[wa・wi・×・we・wo]」
という記述があって,ワ行ウ列が上代語まで っても独立したものとしてありえなかっ
た体系的なあきまであることが示されているが,一般にはやや分かりにくいし,ヤ行イ
列も同じく体系的なあきまであることの直接的な記述は,『大辞典』からは見つけにく
い。また,上記引用の「ワ行には「wi」「wu」
「we」という発音も存在していた」とい
う記述からは,著者が,現代日本語においてもア行オ列とは独立した音としてワ行オ列
に [wo] が存在すると考えているようにも見える。これは,初・中等教育の現場に意外
と根強く存する誤解だと聞くことがあるが,それに対しても,『大辞典』から明確な答
えを見つけることはやや難しく,〔音韻〕項(相澤正夫氏)の「英語をはじめとする外国
語の影響が一段と強まった現在,従来は音韻体系の周辺的な位置にあった/…(略)…
wo /などのモーラが,一般にも普及・定着する勢いを見せている。」という記述から間
接的に知られるだけになっている。こうした点に関連して,例えば,付録に時代別の日
本語音節音価一覧のようなものがあったら便利であったか,と思う。
さて,ここまで挙げたのは,この本に見える事実誤認のごく一部であり,実際には頁
を繰る度にこうした誤りが散在していて,知らずに読んだ読者に無数の偽知識をせっせ
日本語学会の社会的役割と『日本語学大辞典』 37

と植え付けていくことになりかねないのだが,厄介なのは,書店なり図書館なりで,こ
うした本も,真に優れた本も,一般読者には見分けが付かない形で並べられていること
である。それどころか,良書こそ往々にして品切れ絶版であったりするから,「悪貨が
良貨を駆逐する」ことも大いにありうる。マスメディアやネットの情報と比較して , 書
籍は情報源として信頼性が高いと一般的に思われている点でも深刻である。そこで重要
なのが,『大辞典』各項目の[文献]欄である。例えば,〔片仮名〕項では築島裕『日本
語の世界 5 仮名』(中央公論社,1981)のような紛れもない良書が紹介されているが,当
然この本は挙げられていない。正しい日本語の知識を得るために何を読むべきで何を読
むべきでないかが,これ以上にはっきりと分かるものはない。間違えないための読書ガ
イドとして,
『大辞典』の[文献]欄は広く利用されなければならない。

2.2 論証のない「思いつき」に対して
に れる「日本語本」でもう一つ多いのは,表面的な事柄に食いついて得た単なる
「思いつき」を,何の論証もなく示すものである。それらは往々にして ,「新説」発見の
高揚感を伴っていたり,また「専門の日本語研究者はこんなことにも気付かなかったの
か」と , 当たり屋のように我々を攻撃してくることさえある点で,タチが悪い。
ここでは,石川九楊『日本語とはどういう言語か』(講談社学術文庫,2015,元版は中
央公論新社,2006) を取り上げる。「「声」と「越える」とは,何らかの関係があるのか
」(p.142)程度のことなら,『大辞典』に依らずとも,古語辞典を引けば
もしれません。
直ちに分かる誤り──上代まで れば,この 2 語には 1 音の共通点もない──だが,
「か
もしれません」という保留さえすれば,前提からして完全に踏み誤った思いつきでさえ
本に書いてしまうことの免罪符になるという風潮があるとすれば,事態は深刻ではある。
それはともかく,次に引くような箇所は,多くの読者,殊に生半可に日本語史を囓っ
た読者が却って されかねない点で大きな問題がある。「ひらがなの出現により日本語
は原生の発音を失いました。奈良時代には八母音であって,平安の中期から五母音に
なったといわれていますが,こういう言語学者の説は嘘です。万葉の時代には八母音の
漢字で書きとめられた,それがひらがなでは五母音で書きとめられるようになったとい
う,ただそれだけの話です。現在の日本語でも,実際に話されている音は五母音である
かどうか疑わしい。…(略)…実際に母音があるかないかではなく,どう書き分けてい
るかの問題にすぎないのではありませんか。だから森博達さんなどは八母音説ではな
く,奈良時代七母音説を立てているわけです。」(p.262)。
引き合いに出された森氏にとっては迷惑この上ないことであろう。上記引用文の「だ
から」の意味するところが,全く以て理解できない。一般読者に森氏論文(「漢字音より
観た上代日本語の母音組織」『国語学』126,1981) に って検討することを求めるのは難
しいし,また読んでも容易に理解できるとも思われないが,それを逆手にとって,自己
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の論拠のように偽装しているところに,あざとさを感じざるを得ない。
この 論が,言語研究・言語史研究のそれぞれにとって極めて根本的な基礎理解であ
る,音声と音韻の区別と,音声言語と文字との関係性についての致命的な無知から発し
ていることは一読して明らかである。本書の他の箇所,例えば「濁点が,清音・濁音差
を生みました。「か」と「が」,「す」と「ず」,「た」と「だ」,「は」と「ば」と「ぱ」
が親戚だというのは濁点や半濁点ができてから生まれた概念です。」(p.268)などという
ところにも,同類の誤った思考経路が見える。
音声と音韻の区別と互いの関係について理解するには,『大辞典』の〔音声〕項(上
野善道氏)と〔音韻〕項を併せて熟読すれば良い。一方,音声言語と文字との関係を一
般の人達に正しく捉えてもらうことは案外難しく,一筋縄ではいかないところがある
が,〔文字〕項(犬飼隆氏),〔文献〕項(矢田),〔日本語の歴史〕項(金水敏氏)といっ
た所を正しく理解すれば,少なくともこのように致命的な誤 を犯すことはないだろ
う。先の引用で取り上げられている母音史に関わる個別の問題については,〔上代特殊
仮名遣い〕項(安田尚道氏)に説明されている上代特殊仮名遣いの区別の消滅の段階的
な進行,〔万葉仮名〕項(沖森卓也氏)に説明されている万葉仮名用法の経時的変化,こ
の二箇所を読んだだけでも,平仮名の成立によって一挙に日本人の音韻認識が転換し
た,などということが当たらないことは明々白々である。

2.3 「再生される俗説」に対して
音義説・相通説・神代文字説──言うまでもなく,中世後期以降,日本人自らが日本
語を意識化していく過程で生み出されてしまった徒花としての俗説・偽説の代表であ
る。初期の近代国語学にとって,これらを払拭することが務めの一つでもあった。とこ
ろが,これらは現代にあっても繰り返し り,モグラ叩きのようにあちらこちらに顔を
出す。
豊永武盛『あいうえおの起源 身体からのコトバ発生論』(講談社学術文庫,2019)も
そうした類の「日本語本」である。上記で言えば,「音義説」の一つのバリエーション
である。元版は 1982 年の出版(講談社)であるが,これが 2019 年に版を重ねていること,
それも「学術」文庫という名を冠して出版されていることには,驚きを通り越して,こ
の国の教養水準の先行きに対する空恐ろしささえ感じさせるものがある。ただ,これを,
そういったものを払拭し切れていない学界の努力不足,と嘆くのは,恐らく当たらない。
これら俗説・偽説の背景にある思考法には,人が陥りやすい論理の陥穽の型によく合致
する性質があるのだろう。だからこそ絶えず再生されるのであって,従ってこうした俗
説・偽説に対して,我々は根気よく対処し続けていかなければならない。
さて,上に述べたように,本書は音義説の系譜上にあるものであるが,「あ」は「汗」
で,「当つ」は「汗・つ」,「合ふ」は「汗・ふ」,「編む」は「汗・む」,「か」は「皮」で,
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「搔く」は「皮・く」,「勝つ」は「皮・つ」,「兼ぬ」は「皮・ぬ」,のように説かれる。
医師である著者らしく,音の根本義を「身体関連義」に求めた点が「独創」であるよう
である。しかし,どう捻ろうとも,音義説が語源を説明する学説として到底認められな
いことは,現代では揺らがない。
ただ,
「音義説」に問題有り,ということは,
『大辞典』の〔語源〕項(山口佳紀氏),
〔語
形変化〕項(前田富祺氏)などから,分かるといえば分かるものの,「音義説」自体は『大
辞典』では立項されておらず,〔オノマトペ〕項(山口仲美氏)で間接的に触れられてい
るのみであったのは,少し残念だったとも言える。「神代文字」はそのまま,「相通説」
は「音韻相通」として立項されているのだから,「音義説」の項もあって良かったので
はないか。日本語学の最新の研究状況を纏めたものとして,専門的にはとうの昔に否定
し去られた俗説を取り上げる必要はないという判断も理解できることではあるが,先述
したように,この手の俗説は絶えず再生されるものである,という観点からすれば,そ
の問題点を分かりやすく提示しておくこともまた,「公共知」としての『大辞典』にとっ
ては意味のないことではなかったはずだと思うからである。

2.4 大括りの「日本語とは」論に対して
日本語をめぐる俗説・ 説は,しばしば「日本語は∼」を主語とする,極めて大括り,
大雑把な論に行き着く。これこそ,一般読者をもっとも籠絡しやすく,かつその間違っ
ていることを理解してもらうのに苦労する,厄介な言説である。本節の最後は,このこ
とに関連して検討しておきたい。
ここでは,橋本治・橋爪大三郎両氏の対談,『だめだし日本語論』(太田出版,2017)
を例に挙げよう。表題通り,日本語学(のみならず国文学・歴史学にも)に対して,「全
体を貫く,問題意識がない。よって,それぞれの作業がピンボケなものになっている。」
(p.8)と「だめだし」している「日本語本」である。
確かに,日本語学についてもタコツボ化の批判は当たっていなくもないし,専門的に
扱っていると却って足がすくんでしまう大所高所的な視点からの議論を,外から刺激と
して与えてもらうことにも,それが正しく行われていさえすれば意味があろう。
しかしこの本はまず,そこに至るべき過程での個別的事柄の扱いがひどすぎる。「大
所高所」論とは,個別的事柄に拘泥しすぎることなく鳥瞰的に物を見ることであって,
個別的事柄の理解の不正確さに目をつぶることではない。ぐちゃぐちゃに積まれた石垣
の上の楼閣が,自立できるはずもないのである。この本の場合は,こんな感じである。
「橋爪 …(略)…橋本さんの著作に刺戟を受けて私が考えたのは,日本では,女性が
漢字を読み書きすることが禁じられていたから,ひらがなができたのではないか。もち
ろんそれだけでは,ひらがなはできないかもしれない。でも,女性も字を書く必要があ
るのに,漢字は使えなかった。それならば……,と工夫したのが,いちばん大きな要因
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になった。」(p.78)と,今や専門的には誰も採らない黴の生えた説が新見であるかのよ
うに述べられている。と思うと,「橋爪 そうか,カタカナは続け字がない。ひらがな
は原則,続け字ですよね。今われわれはひらがなを一字一字しっかり書いて,カタカナ
のように使っているが,それは本来の使い方ではなく,だらだらと続けて書くのがひら
がなであるということですね。 橋本 そう,だから,同じ言葉であるにもかかわらず,
音の体系が違うのだと思います。」(p.150)というように,石川氏に見られたのとは逆ベ
クトルで音声言語と文字の関係性を歪んで捉えるという,言語学の基礎に関わるところ
の誤 を犯していたりする(但し,橋爪氏はこのあと「そうかなあ。音の体系は同じで,流
。こうした,失望を禁じ得ない対
儀が違うから,じゃないかなと思うのですが。」と述べる)
話が続くのだが,そういう議論の前提として,次のような結論めいた総括が前もって提
示されているのである。「日本語は「意味の言葉」ではなくて「音の言葉」だ」(p.42,

橋本氏の発言)
こういった類の大上段に構えた 説を,辞典で糺すことは些か難しくはある。しかし
それでも,例えば〔言語〕項(上野善道氏)の「日常生活で最も使われるのが「意味の
伝達」である。通常は伝えたい意味があるから音声を発する。」,〔音声〕項の「意味と
いう言語情報を伝えるための手段である。音声自体が目的となるのは研究のためぐらい
で,通常は意味の伝達のために使われる。」というような箇所をきちんと理解すれば,
意味に優先して音がある言語,などというものを想像することのナンセンスさは,自ず
と見えるはずである。この辺りは,小項目ではなく,中項目主義を採った『大辞典』の
強みであるかと思われる。

3. 改めて『日本語学大辞典』に求めること

これまで例に挙げた山口・石川・豊永・橋本・橋爪の各氏は,それぞれ中国文学者・
書家・医師・作家・社会学者という専門を有している。それぞれの専門分野での御業績
には敬意を払いたいが,こうした肩書きを看板に日本語についての不正確な知識を語る
ことで一般読者を惑わせている点については,警告を発したいところである。読者に対
しては,日本人でありかつ知的・創造的職業人であれば,よもや日本語について誤りは
語らないだろうという思い込みは,全く正しくないことを伝えていきたい。
今更言うまでもないことだが,機関誌『日本語の研究』には,書評欄がある。ここに
は,編集委員会で一定の価値あり,つまり今後先行研究として参照されるであろうと判
断されたものが取り上げられる。時には厳しい批評が加えられることもあるし,その価
値があるにも関わらず何らかの事情で漏れるものもあるが,「 にも棒にもかからない」
ものは候補にもならない。それは仕方なくも当然でもある。しかし,学会の社会的責務
として,俗説・ 説に対しては誤りであるということを明確にし,一般社会がそれによっ
て悪しく感化されるのを防ぐことも,本来考えなくてはいけないところである。一方で,
日本語学会の社会的役割と『日本語学大辞典』 41

学会としてそうしたものに個別に対応することが困難であるなら,せめて,日本語につ
いての現在最も信頼に足る知識の基準として『大辞典』があるということを,持続的に
社会に発信していく必要があろう。
誤解されると困るのだが,日本語研究を職業的日本語研究者の専売にせよ,という了
見で言うのではない。ましてや,素人は『大辞典』の説くところに従っていればよい,
という押しつけでは,絶対にない。本稿の筆者はつねづね,歴史研究や文学研究に比し
て日本語研究の弱さは,裾野の狭さにあると思っている。例えば日本史学では,専門家
の仕事を下支えするように多くの在野の地方史研究者・歴史愛好者等がいて,研究全体
の質が保たれている。日本語研究にも本当はそうした体制があることが望ましい。専門
家を装って俗説・偽説・ 説を流布する者の存在は深刻な問題だが,本来専門研究者以
外に関心が広がることは,日本語研究の活性化にとって重要であり,正しく日本語を知
ろうとする人達が増えて,俗説・偽説・ 説が淘汰されていっても欲しい。しかし,そ
の入り口に立とうとする人達があったとしても,現状ではこうした誤った「日本語本」
が悪しき方向に誘導してしまっていることを危惧するのである。そうした人達を初め,
社会全体を日本語の正しい知識に導く道標として,『大辞典』に期待するところは大き
い。
『大辞典』の「刊行のことば」には,「今後永くこの分野の羅針盤の役目を果たしう
る書として世に送りたい」とある。これに全く異存はないが,「この分野」が即ち職業
的研究者の世界だけを指すものであってはならない。真の意味でこの辞典が「世に送」
り出されなくてはいけないと,切に思う。
最後に,私的な提言をしておきたい。ここまで,『大辞典』を「公共知」として見た
ときに,こうだったらもっと良かったのではないか,という点について幾つか述べてき
た。それは,将来的なこの辞典の改訂の時の課題であって,直ちに対処できない性質の
ものであることは勿論である。しかし一方で,「公共知」には,常に更新して最新の情
報であり続けることも求められるところである。しばしば事実に反することだが,多く
の人は,単に日付の新しい情報のほうが,よりアップデートされた良質の情報であると
思い込んでしまうからである。その意味でも,40 年近くを経た『国語学大辞典』の改
訂は是非とも必要だったのであるが,問題は今後のことである。
更新が必要なのは,
『大辞典』の情報全体ではあるが,これまでに述べたように,ブッ
クガイドとしての[文献]欄の持つ社会的役割は,特に大きい。これからも簇生するで
あろう低質な「日本語本」と,新たに生み出される良心的な研究成果とを明確に区別し
ていくために,せめて,[文献]欄だけでも常時アップデートする手段はないだろうか。
学会ウェブサイト等での情報追加という形でなら可能なようにも思う。検討を希望した
い。
──東京大学大学院教授──
(2019 年 12 月 31 日 受理)

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