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2020 年度世界史・第1回

第1章 オリエントと地中海世界
1 古代オリエント世界
《オリエント世界の風土とメソポタミア文明》 (教科書p14~16)
オリエントとは「日ののぼるところ」を意味する言葉で、古代ローマの人々から見
て東方の西アジアとエジプトを含む地域をさしている。この地方の大河地域では、氾
濫によって積もった肥沃な土壌を利用して、早くから灌漑農業による穀物栽培が行わ
れた。
ティグリス川とユーフラテス川にはさまれたメソポタミア地方の南部では、前 3500
年ころから人口が急激に増え、神殿を中心とする大集落が数多く生まれた。やがて文
字が発明され、金属器が普及し、大村落は都市に発展した。こうして、前 2700 年ころ
までにシュメール人が都市国家を形成した。神権政治がおこなわれ、壮大な神殿・王
宮・王墓がつくられ、豪華なシュメール文化が栄えた。前 24 世紀ころ、セム語系のア
ッカド人がシュメール人都市国家を征服してメソポタミアを統一した。その後、アム
ル人のバビロン第一王朝が建国された。 【1 ハンムラビ王 】が、それまでの法慣習
を集成して法典を定めた。メソポタミアは多神教であり、文字はシュメール人がはじ
めた楔形文字が使用され、粘土板に書かれた。六十進法や太陰暦を用い、天文・暦法・
数学・農学などの実用の学問が発達した。

《エジプトの統一国家》 (教科書p16~17)
メソポタミアとならんでもっとも古い文明がおこったエジプトは、 「ナイルのたまも
の」といわれた。ナイル川の流域には早くから多くの村落が成立し、前 3000 年ころに
は統一国家が作られた。約 30 の王朝が交代し、とくに繁栄した時代を古王国時代・中
王国時代・新王国時代の3期に区分する。王はファラオとよばれ、神とみなされて絶
大な権力をふるった。古王国時代に築かれたピラミッドは、王の権力の大きさを示し
ている。中王国時代の末期にはシリアから遊牧民ヒクソスが侵入して、一時エジプト
は混乱した。しかし、やがて新王国がおこって、ヒクソスを追い出し、シリアにまで
進出した。エジプトの宗教は太陽神を中心とする多神教であった。エジプト人は霊魂
の不滅と死後の世界を信じて、ミイラや「死者の書」を残した。文字は碑文や石棺な
どに刻まれた象形文字の神聖文字(【2 ヒエログリフ 】 )とパピルスとよばれる一
種の紙に書かれた略字体がもちいられた。またエジプトで発達した測地術はギリシア
の幾何学の基礎となり、太陰暦とならんでもちいられた太陽暦は、のちにローマで採
用され、現在われわれが使用している暦のもととなった。

設問A ロゼッタストーンを手がかりとして、神聖文字を解読したフランス人は
だれか。 [教科書p17を参照]
( シャンポリオン )

世界史 R1 -1-
《東地中海世界の諸民族》 (教科書p17~18)
地中海東岸のシリア・パレスチナ地方では、セム語系の民族が活躍する。アラム人
はシリアの内陸部に多くの都市国家をつくり、内陸都市を結ぶ中継貿易に活躍した。
そのため、アラム語は、当時の国際商業語としてひろく使われるようになった。
【3 フェニキア 】人はシドン・ティルスなどの都市国家をつくって、地中海
貿易を独占し、カルタゴなど多くの植民市を建設した。彼らの表音文字はギリシア人
に伝えられ、アルファベットの起源となった。遊牧民であったヘブライ人は前 1500
年ころパレスチナに定住し、一部はエジプトに移住した。しかしエジプトでは新王国
の圧政に苦しみ、前 13 世紀にパレスチナに脱出した。前 1000 年ころ王国を建設し、
ダヴィデ・ソロモンの下で栄えたが、ソロモン王の死後、南北に分裂した。北のイス
ラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、南の【4 ユダ王国 】も新バビロニアに
征服されて、住民の多くはその都であるバビロンにつれさられた
(【5 バビロン捕囚 】)。こうした民族的苦難の中で、ヘブライ人は唯一神ヤ
ハウェへの信仰を守り、約 50 年後に許されて帰国すると、イェルサレムにヤハウェ神
殿を再興し、ユダヤ教が確立した。のち、ユダヤ教からキリスト教が生まれ、その教
典も『旧約聖書』としてキリスト教の教典となった。

《古代オリエントの統一・パルティアとササン朝の興亡》 (教科書p18~20)
はやくから北メソポタミアで活動していたセム語系のアッシリアは、鉄製の武器と
戦車・騎兵によって強力となり、前 7 世紀前半にエジプトを含む全オリエントを征服
した。しかしこの大帝国も、重税と圧政によって諸民族を苦しめたため、その反抗を
まねき、前 7 世紀末に崩壊した。その後オリエントには、エジプト・リディア・新バ
ビロニア(カルディア) ・メディアの4王国が分立した。前6世紀なかばころ、インド
=ヨーロッパ系のイラン人(ペルシア人)のアケメネス朝がイラン高原におこり、ダ
レイオス1世の時代には、エーゲ海北岸からインダス川流域にいたる大帝国となった。
しかし、前5世紀前半のペルシア戦争でギリシアに敗れ、前 330 年アレクサンドロス
大王に征服された。イラン人が信仰したゾロアスター教は、人間の幸福は最後の審判
によって天国に入ることにあると説き、ユダヤ教やキリスト教にも影響を与えた。ア
レクサンドロスの死後帝国は分裂し、ギリシア系のセレウコス朝が受け継いだ。その
後、パルティア・ササン朝が興亡した。ササン朝のホスロー1世はエフタルを滅ぼし、
ビザンツ帝国とたたかい黒海沿岸まで進出した。

設問B アケメネス朝の宮殿で、アレクサンドロス大王により破壊されたのは、
どこか。 [教科書p19を参照]
( ペルセポリス )

世界史 R1 -2-
2 ギリシア世界
《地中海世界の風土と人々・エーゲ文明》 (教科書p21~23)
地中海沿岸の地域は、比較的雨が少なく、夏の乾燥が激しい。土地がやせているた
め、一部の地域を除いて植物栽培には適していない。ほとんどの地域では、オリーヴ・
ブドウなどの果樹栽培や、羊などの牧畜がおこなわれていた。人々は早くから海岸に
そって都市を作り、地中海を重要な交通路として各地と取引を行い、それとともに文
化も相互に伝わり広がった。
オリエント文明の影響は東地中海に及び、エーゲ文明とよばれる青銅器文明が生ま
れた。エーゲ文明は、はじめクレタ島を中心に栄えた。前 2000 年ころにはじまるクレ
タ文明をきづいた人びとの民族系統は明らかではないが、クノッソスの大宮殿の壁画
や発掘された壺絵には、人物や海の生物などが生き生きと描かれており、海洋民族ら
しい開放的で明るく平和な文明であったことがうかがえる。前 2000 年ころギリシア本
土に移住してきたインド=ヨーロッパ語系のギリシア人は、クレタ文明の影響をうけ
て、前 16 世紀ころからミケーネ文明を形成した。彼らは巨石でできた城塞を中心に小
王国をたて、前 15 世紀にはクレタを支配し、さらにその勢力は小アジアの
【6 トロイヤ 】にまでおよんだ。しかし、ミケーネ文明は前 1200 年ころ突然
崩壊し、その後ギリシアは混乱した時代にはいった。

《ポリスの成立と発展・市民と奴隷》(教科書p22~24)
前8世紀にはいると、オリエント世界との交流が容易な沿岸地帯を中心に、ポリス
とよばれる都市国家が形成された。各ポリスは独立した国家で、それらの間には絶え
間なく戦争がおこなわれていたが、その一方で、共通の言語・神話、4年に1度ひら
かれた【7 オリンピア 】の祭典などを通じて同一民族としての意識を持ち続けた。
ポリスは、城壁で囲まれた中心部と、周囲の田園から成り立っていた。中心部にあ
るアクロポリス(城山)は、砦であると同時に神殿がたてられる神聖な場所でもあっ
た。そのふもとのアゴラ(広場)では市場や集会が開かれた。ポリスの住民は自由人
である市民とこれに隷属する奴隷からなり、市民には貴族と平民の別があった。政治
は国防の中心をになう貴族が独占していた。奴隷制度がもっとも発達したアテネでは、
総人口の3分の1が奴隷であり、家内奴隷・農業奴隷・銀山の採掘などに使われた。
アテネと並ぶ強国ポリスであった【8 スパルタ 】では、少数の市民が、商工
業に従事するペリオイコイや、征服された先住民の子孫で農業に従事させられた奴隷
身分のヘイロータイを支配した。そこでは、ヘイロータイの反乱を防ぐためにきびし
い軍国主義がとられた。

設問C 貿易商として巨万の富をたくわえ、【6】の発掘を行った人物はだれか。
[教科書p22を参照]
( シュリーマン )

世界史 R1 -3-
《民主政への歩み・ペルシア戦争とアテネ民主政》 (教科書p24~25)
アテネでは、前6世紀初めにソロンが貴族と平民の調停者として改革を行ったが、
やがて平民の支持により貴族の政権を倒して独裁政治を行う僭主があらわれた。僭主
政治がおわった後、指導者となった【9 クレイステネス 】が貴族の勢力を弱
める大改革を行い、民主政治の基礎を固めた。
このころ全オリエントを統一して大帝国となったアケメネス朝とギリシアの間でペ
ルシア戦争がおこった。 マラトンの戦いやサラミスの海戦で勝利を得たギリシア軍は、
ポリスの独立と自由を守った。サラミスの海戦において、軍艦のこぎ手として働いた
【10 無産市民 】の発言力も高まり、前5世紀なかごろには【11 ペリクレス 】
の指導のもとで徹底したアテネ民主政治が確立した。そこでは成年男性市民全員が参
加する民会が政治の最高機関とされる直接民主制がおこなわれたが、奴隷・女性など
には参政権があたえられなかった。

《ポリスの変容とヘレニズム時代》(教科書p25~26)
前5世紀後半、ギリシアを二分するペロポネソス戦争がおこった。アテネはこの戦
争中にペリクレスを疫病で失い、政治が混乱してスパルタに敗れた。その後ポリス間
の激しい攻防が続き、前4世紀後半、北方のマケドニアがフィリッポス2世の下で強
大化し、ギリシアを征服した。アレスサンドロス大王がギリシア連合軍を率いてアケ
メネス朝を征服、大帝国を築いた。大王の死後争いがおこり、エジプト・シリア・マ
ケドニアに分裂した。大王の東方遠征から約 300 年間の時代をヘレニズム時代という。

《ギリシアの生活と文化》(教科書p26~27)
ギリシア人はポリスの自由な市民生活の中から、合理的で人間中心の文化を生み出
し、その文化遺産はローマ人や近代ヨーロッパ人の模範となった。ギリシア人はオリ
ンポス 12 神らの神々を信仰し、ギリシア神話には人間と同じ姿の神々が、いきいきと
えがかれていた。ギリシア文学は、神々と人間のかかわりをうたったホメロスの叙事
詩『イリアス』 ・『オデュッセイア』から始まり、その後ヘシオドスなど多くの作家を
生んだ。学問では前6世紀に自然哲学が発達した。 【12 タレス 】は万物の
根源を水と考え、ピタゴラスは有名な「ピタゴラスの定理」を発見した。
【13 ソクラテス 】は真理の絶対性を説き、彼の哲学はプラトン・アリストテレ
スに受け継がれ、後世に大きな影響を及ぼした。ヘロドドスやトゥキディデスは神話
とは違う人間の歴史を書き残した。

設問D ペルシア戦争後、ペルシア軍の再来にそなえて、諸ポリスが結んだ軍事同盟
を何というか。 [教科書p24~25 を参照]

( デロス同盟 )

世界史 R1 -4-
3 ローマ世界
《ローマ共和政》 (教科書p28)
前 1000 年ころ、インド=ヨーロッパ系の古代イタリア人がイタリア半島に南下し、
その一派であるラテン人が前7世紀ころ、半島中部に都市国家ローマを建設した。ロ
ーマは、前6世紀末にエトルリア人の王を追放して共和政となった。初期の共和政で
は2名の執政官をはじめとする官職を貴族が独占し、元老院が国政の実権を握って平
民を支配していた。やがて平民は重装歩兵として国防に重要な役割を果たすようにな
り、政治の権利を求めて貴族と争うようになった。前5世紀初めに護民官の制度が生
まれ、つづいて慣習法を成文化した十二表法が定められた。さらに前4世紀前半には、
執政官の1人は平民から選ばれるようになり、前3世紀初めのホルテンシウス法で、
貴族と平民の政治上の差別はなくなった。しかし、その後もローマでは元老院が実質
的な指導権を持ち続け、ギリシアのような徹底した民主政は実現されなかった。

《地中海征服とその影響》(教科書p28~30)
ローマは、中小農民の重装歩兵を軍事力の中心として、周辺の都市国家を次々と征
服し、前3世紀前半にはイタリア半島全体を支配下におさめた。次いでローマは、当
時西地中海に大きな影響力を持っていたフェニキア人の植民市【14 カルタゴ 】
と3回にわたるポエニ戦争を起こした。一時はカルタゴの侵入に苦しめられたが、つ
いに勝利を得てカルタゴを滅ぼした。その後前2世紀なかばには地中海世界をほぼ支
配下におさめた。しかし、こうした征服戦争はローマ社会に深刻な変化をもたらした。
重装歩兵として活躍した中小農民は没落し、有力者たちは大土地所有制
(【15 ラティフンディア 】
)をおこなった。

《内乱の1世紀》(教科書p30)
前2世紀にあいついで護民官に選ばれた【16 グラックス 】兄弟は、中小農
民の再興をめざしたが大土地所有者の反対にあって失敗した。以後、有力な政治家は
閥族派と平民派にわかれて争い、政治が混乱した。こうした中で、実力者のポンペイ
ウス・カエサル・クラッススが第1回三頭政治をはじめた。【17 カエサル 】
はガリア遠征に成功し、ポンペイウスを破って天下を平定した。彼が元老院を無視し
て独裁者になる勢いを見せたため、共和派によって暗殺されたため、まもなく第2回
三頭政治がおこなわれた。オクタウィアヌスが、エジプトのクレオパトラと結んだア
ントニウスを【18 アクティウムの海戦 】でやぶり、1世紀に及んだ内乱は
ようやくおさまった。

設問E 伝説上のローマの建国者で、狼に育てられたといわれる双子はだれとだれか。
[教科書p28を参照]
( ロムルス と レムス )

世界史 R1 -5-
《ローマ帝国》 (教科書p31)
オクタウィアヌスは、前 27 年元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えら
れた。彼はカエサルと違って元老院の共和政の制度を尊重し、(【19 元首政 】)
とよばれる政治体制をたてた。しかし、彼はほとんどすべての権力をにぎり、その政
治は事実上の独裁であったので、これ以後を帝政時代とよぶ。これより五賢帝の時代
が終わるまでの約 200 年間は、
「【20 ローマの平和 】」とよばれ、平和と繁栄が続い
た。帝国内にはのちのロンドン・パリなど多数のローマ風の都市が建設され、3世紀
にはローマ市民権が帝国のすべての自由人にあたえられるなど、帝国のローマ化がす
すんだ。

《ローマ帝国の危機と分裂》(教科書p31~32)
2世紀なかばから、帝国の財政はゆきづまり、政治も乱れはじめた。そして3世紀
には、各地の軍隊が独自に皇帝をたてて争う軍人皇帝の時代となった。これまでの奴
隷を使った大土地経営はふるわなくなり、下層市民や解放された奴隷などを小作人
(【21 コロヌス 】)として働かせる大土地経営を行うものがあらわれた。3
世紀後半に皇帝となったディオクレティアヌス帝は、皇帝を神として礼拝させる専制
支配体制を強化した。これ以後の帝政を、元首政と区別して専制君主制とよぶ。つい
でコンスタンティヌス帝は、それまで迫害してきたキリスト教を公認することで帝国
の再統一をはかり、新たな首都コンスタンティノープルを建設した。これらの改革も
帝国の解体を防ぐことはできず、395 年帝国は東西に分裂した。

《キリスト教の成立・迫害から国教化へ》 (教科書p32~33)
ローマの属州となっていたパレスチナでは、古くからユダヤ教が信仰されていた。
ここに生まれたイエスは、 【22 律法 】の形式をまもることのみ重んじていた当時
のユダヤ教の指導者たちを批判し、身分や貧富の差に関係なくおよぼされる神の絶対
愛と隣人愛を説いた。このため、イエスは 30 年ころ十字架にかけられ処刑された。し
かし、その後弟子たちに間にイエスが復活したとの信仰が生まれ、イエスこそを救世
主(メシア)、すなわちキリストとするキリスト教が成立した。イエスの教えはペテロ
やパウロらの使徒たちの伝道活動によってローマ帝国内にひろがり、2 世紀ころまで
に『新約聖書』がまとめられ、 『旧約聖書』とともにキリスト教の教典とされた。当初
はさまざまな迫害を受けたが、313 年には【23 ミラノの勅令 】で公認され、325
年には【24 ニケーア 】の公会議でアタナシウスの説(三位一体説)が正当
教義とされ、392 年にはローマ帝国の国教とされた。

設問F ユダヤ人以外の人々に布教した人物で「異邦人の使徒」とよばれたのは誰か。
[教科書p32を参照]
( パウロ )

世界史 R1 -6-

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