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脱・ ﹁啓蒙の弁証法﹂ としての ﹃美の理論﹄

﹁真理内実﹂ の概念について

まるで深海の暗閣に身をひそめる隠微な魚が自らの出自の不条理さを訴えつ守つけるかのように、不毛な堂々巡
、4
りにも似たアドルノの憂欝な文章の奥底から執撒に問いかけてくるのは、 いつも同じひとつの問い、 、っこb、
JPU+'
ぜ人間(精神)と事物(自然)の関係は現在かくも歪みきってしまったのかという、まさに人間存在そのものの
不可解さを問う困難な問いかけである。古来より人類は、 一方では科学や技術を通して、他方では社会的規範や
道徳的慣習を通して、外部の自然(物)と内部の自然(肉体)を支配し、それによって自らを自律した主体とし
て形成してきた。しかし、理性を通してのそのような﹁輝かしい﹂啓蒙の努力の果てに、今や現実の歴史の地平
に極まったのは、有無を言わせぬ自然の収奪と徹底した社会管理システム、事物世界の完膚なきまでの商品化と
大衆操作としての巨大文化産業の蔓延など、人間の自律なるものなどことごとく総なめにしてしまうかのような
おぞましい状況である。よ く知られているように、﹁人類はなぜ、真に人間的な状態に踏み入らないで、新しい
種類の野蛮に落ち込んでいくのか﹂(巴巳・ 5 というのが、問題の立て方自体の是非はともかく、 こうした惨櫓

gg
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

gg
たる現状を見据えての﹃啓蒙の弁証法﹄のそもそもの問題提起であった。やや短絡的すぎるきらいはあるものの
アドルノはホルクハイマ lとともに、この元凶を、 ニlチェふうに、もっぱら自己保存のための支配の道具とし
てのみ使用されてきた人間理性そのものの暴力的ありように求める。自己保存のための自己保存という果てしな
いトートロジーのなかで、この道具的理性は、むろん自身に対する批判と反省の力を完全に枯渇させたわけでは
ないにしても、自らの暴力的本性をしだいに露骨に剥き出しにしてきたというのが、文明の歴史はそのまま野蛮
の歴史でもあると断じる彼らのいささか気の滅入る、だがそれなりに的を射た診断でもある。欝々としたアドル
ノの目に映っているのは、こうした啓蒙の自己破産のもとでとめどなく自己破壊へと蕪進してゆく人聞の倒錯し
た姿であり、 その盲目的暴力によっていわば不異化されて、沈黙のうちに嘆きの声をあげている肉体や物たちの
姿である。世界には肉体や物たちの悲しみの声が満ち溢れている。これは、文脈は異なるがベンヤミンが堕罪の
あとの﹁自然の深い悲しみ﹂と名づけたものにそのまま重なってもいる。﹁堕罪ののち、地を呪う神の言葉とと
もに、自然の外観はきわめて深い変化を被ることになった。今や、自然のもうひとつの沈黙、われわれが自然の
深い悲しみと呼んでいる沈黙が始まる。もし自然に言語が与えられたならば、すべての自然は嘆きはじめること
だろう。これはひとつの形而上学的真理である﹂(∞胃RZ・
5巴。
美学講義のためのノ iトにはじまり、ニO年近くにもわたって加筆、訂正が繰り返されてきたアドルノの﹃美
の理論﹄の直接的なモティ l フは、言うまでもなく、ますます反芸術に向かって突き進んでいる現代の芸術に正
当に対処する意志もすべももたぬまま安閑とアカデミズムに胡坐をかいている伝統的美学を根底から批判し、こ
れに代わる新たな芸術理論を、従来とはまったく異なった地平に模索することであった。﹁とうに誰の目にも明
らかになっているように、もはや芸術にかかわるいっさいのことが自明ではなくなってしまった﹂(﹀三宮・ 5
という冒頭の言葉は、 そうしたゼロからの根本的刷新をめざす彼の強い意気込みを表わしたものでもある。しか
し、学としての旧来の美学の批判と刷新というこうした意図とは別に、 その背後に拭いがたい執念のごときとなっ
てこの書全体を貫いているのは、﹁啓蒙の弁証法﹂をいかにして克服するのかという問題、 つ ま り 、 自 然 の 沈 黙
と悲しみの声にすすんで耳を傾け、人間と物の支配│被支配の関係にわずかでも模を打ち込むことによって、こ
の醜悪な関係をますます加速度的に強めている現行社会のゆゆしきありょうをいかにしてストップさせることが
できるのかという、彼が終生抱えつずつけた困難な問いかけであったことも疑いえないところである。アドルノは、
どこを向いてもまさに袋小路にしか突き当たらないように見えるこうした啓蒙の自己崩壊の問題を、この美学批
判の書において、彼にとって特権的なものとしであった芸術の領域へと持ち込み、現代芸術の自己破壊的なあり
ょうそのもののうちに、もしかしたらこの行き詰まりを越えてゆくかもしれない契機と方向性を見出そうとした
のだ。﹁あらゆる芸術は啓蒙の弁証法にかかわっている。芸術は、反芸術という構想でもって、 ﹂の弁証法に応
えてきた。この契機がなければ、もはやいかなる芸術も考えることはできないだろう﹂(﹀ az・8)。
アドル ノにとってそもそも芸術とは、自己撞着的ないし二律背反的ともいえる﹁二重特性﹂を生命とするもの
であり、 言う ならば、﹁自らが住まう国の憲法によって自らを否定する精神﹂、﹁人間の自然支配の反映でありな
b∞とであっ
がら同時に、反省を通してこの自然支配を否定し、自然に対して友好的たらんとするもの﹂(﹀与宮-
た。言い換えれば、芸術とは、自らの論理的思考を通して外界の自然支配を自ら再現するものとしての美的構成
力と、これに頑なに抵抗し自ら即自的な自然物に向かおうとする反力との二つの合力から成る、 いわば自己否定

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美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

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Z
I
の契機を自らに内在させた弁証法的形成物であって、 一方で、もろもろの素材(未分化の直接的自然)をいやお
うなしに美的統一体へと配列、統合してゆこうとする有無を言わさぬ形式化の力に駆り立てられていると同時に、
そうした美的主観の暴力的支配にあくまで抵抗せんとするこれら素材そのものの側からの生きた反力を、本質的
に自らのうちに保持したものでもある。﹁美的に形式化する精神は、自らがかかわったもの ︹素材︺ のうちから、
自らに等しいもの、自らが理解したかあるいは自らに一致させようと望んだものだけを通過させる。:::しかし、
統合へ向かおうとする個々の芸術作品の衝動のうちにはひそかに、非統合的方向をもった自然の衝動が現われ出
る。作品は、統合に向かえば向かうほど、 そのもとになっている力は崩壊してゆく。その隈りで 言 えば、作品の
成功はそれ自体の崩壊なのであって、それによって作品は見極めがたいものを獲得するのだ。この崩壊によって
同時に、芸術に内在する遠心的な反力が解き放たれるのである﹂(﹀2Z NR・-したがって当然のことながら、


アドルノにとっては、緊密な美的統一体として現われ出る古典主義的芸術に比べると、むしろ、 そうした﹁崩壊﹂
なるものを露骨に曝け出している現代芸術、 いっけん無意味で自己破壊的にしか見えない現代の反芸術のほうこ
そ、本来の意味での芸術にふさわしいもの、自然との宥和をめざす平和的意志に溢れたものということにもなる。
﹁芸術は、経験の細片をその現実的連聞から引き離し、芸術の内在的な構成原理に従属させるが、 その一方で、
純粋な内在性というこの虚偽を自爆せしめようとする。芸術は、生まの素材に対する断固たる譲歩を通して、精
神(つまり芸術の思考体としての側面)が他者に対して及ぼす危害を、わずかでも償おうとする。:::これが、
逸脱やハプニングも含めた現代芸術の契機、意味を欠き、志向を忌避する現代芸術の契機がもっ意味である。そ
れは芸術の否定すら芸術独自の力によって吸収しようとする試みでもあるのだ。:::芸術は、そうした理念にお
いてこそ平和に近づく。芸術は平和への展望を欠くなら、宥和を先取りする場合と同様、虚偽となるほかないだ
ろう﹂(﹀丘町四・包芦)。アドルノにとって芸術が特権的な座を占めているのは、それが、人間精神による形成物
としてもとより罪と暴力を免れえないにもかかわらず、この罪と暴力をどこかで清算して﹁啓蒙の弁証法﹂を乗
り越えてゆこうとする宥和的契機を本質的に内在させていることによっている。彼の結論先取り的な退屈きわま
りない反復の文体のなかでどこまで成功しているかはここでは間わないとしても、ともかく、意味と意図の欠落
した現代の反芸術に照準を合わせっつ、伝統的美学の批判のうちに、芸術のもっそうした宥和的契機を新たに際
立たせ強調すること、 そうした脱・ ﹁啓蒙の弁証法﹂の意志こそが、﹃美の理論﹄を貫く大きなモティ lフであっ
たことは否定できないところである。以下、及ばずながら本論で探ってみたいのも、この美学批判の書の底流を
なしているそのような意志に他ならない。
まず問わねばならないのは、そもそもアドルノは、具体的に芸術のどこに、この脱・ ﹁啓蒙の弁証法﹂として
の契機を見ていたのかという点である。言うまでもなく、ここですぐに誰もの目につくのは、﹃美の理論﹄

編にわたってちりばめられた﹁ ミメ lシス﹂の概念だろう。むろん一口に﹁ミメ lシス﹂といっても、 それはい 全
たるところでおそろしく多義的かっ自己撞着的な用い方をされており、なかなか一義的な定義づけは困難である
が、ここであえて一面強調的に照明を当てねばならないのは、事物を強引に操作可能なものに仕立てあげてゆく
理性(ラチオ!)とは逆に、主体のほうが没主観的に事物に接近し、それを模倣し、 それと一体化しようとする
態度としての﹁ミメ lシス﹂である。それは、 いわば啓蒙以前のアモルフかっ幼児的な魔術的思考の残津を通し
て、理性的主体の主観的意図としての合理的ないし同一化的契機にまつこう対立する非同一化的な契機であり、

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脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

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三E
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脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

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フ可
退行的であることによって逆に主体の暴力を中和し止揚する可能性をもった、 アドルノにとってはまさに救済的
ともいえる契機でもある。彼によれば、美的(感性的)なものとしての芸術作品にはそもそも対合理性としての
この﹁ミメ l シス﹂的契機が隅々まで貫通している。﹁芸術はミメ iシス的態度の隠れ家である。 そ こ で は 、 主
観が、自らのさまざまな段階に応じて自らの他者に向き合う。主観は、他者と分かたれてはいるが、完全に分か
たれているわけではないのだ。むろん芸術は、自らの出自としての魔術的実践を拒否しようとする方向をもって
おり、 その点で合理性ともかかわっている。ミメ lシス的なものとしての芸術が合理性の只中にあって合理的手
段を利用するのは、管理された合理的世界のもつ悪しき非合理性に対する反応なのだ﹂(﹀三宮・∞ e 。したがっ
てアドルノにとって﹁ミメ l シス﹂ならびにその隠れ家としての芸術は、ある種の認識のユートピアを無言のう
ちに指し示すものであり、 ひるがえってこれが芸術に二律背反的なアポリアの性格を与えることにもなっている。
﹁芸術に内在する合理性とミメ!シスの弁証法。:::芸術を魔術とみなす決まり文句はひとつの真実をついてい

つまり、主観的に作り出されたものとその他者との非概念的な類似性としてのこのミメ l シスの残津のゆえ

に、芸術は、認識の一形態、 そのかぎりで言えばまさに︿合理的﹀なものとして規定されるということだ。.
芸術は、認識から排除されたもののために認識を補充し、それによって同時に、認識特性、すなわち認識の一意
性を侵害するOi---芸術は、文字通りの魔術へと後退するのか、それともミメ l シス衝動を物象化された合理性
へと譲渡するのかという二者択一を迫られているのであり、この芸術のアポリアこそが、芸術の運動法則を規定
するものに他ならない﹂︿﹀三宮・∞2・
)

アドルノの繰り返し強調するところによれば、芸術におけるこの﹁ミメ lシス﹂的契機は、とりわけ、作品の
構成的、統合的な合理性に対するマテリア l ルそのものからの抵抗として姿を現わしている。たとえば、芸術作
品の﹁事物特性﹂と言われているのもそうしたもののひとつである。﹁芸術作品は、 それ自体の客観化を通して、
いわば第二段階の事物と化す。:・芸術作品の客観化とは、作品がマテリア l ルと一致するということではなくて、
二つの力の合力の結果として、ジンテーゼとしての事物特性に近づくということだ。それは、カントにおいて事
物が超越的な即自であると同時に、主観的に構成された対象、 つまり事物が現われ出る法則でもあるという二重
特性に似ている。ともあれ芸術作品は時間と空間のなかにある事物に他ならない﹂(﹀己Z・
5ほ・ )。あるいは、
芸術作品固有の特性として独自の意味を与えられている﹁言語特性﹂なるものも、 そうしたマテリア!ルからの
抵抗としての﹁ミメ l シス﹂の現われのひとつと言えよう。﹁芸術の媒体としての ︹伝達的︺言語とは根本的に
異 な る 芸 術 の 言 語 特 性 。 ; 新しい芸術がめざしているのは、伝達言語をミメ lシ ス的言語に変容させることで
・:
ある。言語は、 その 二重特性を通して、芸術の構成要素であると同時に、その不倶戴天の敵ともなるのだ。・:芸
術の真の言語は言語なきものであり、芸術のこの言語を欠いた契機こそが、たとえば文学の意味的な契機に対し
﹀三宮・コ巴。あるいはまた、たとえばカフカやベケ ットに顕著な破壊的なまでのナンセ ン
て優位に立つのだ﹂ (
ス性や不条理性も、こうした﹁ミメ l シス﹂の一例として説明される。 つまり、社大な矛盾としての現代芸術に
おいてはと りわけ、合理的なものの暴力を止揚せんとする﹁ ミメlシス﹂が、 マテリア l ルからの抵抗をそのま
ま露出させて、﹁何であるのか分からぬようなものを作る﹂(﹀巳Z・口品)という意味深長な逆説となって現出し
ているということだ。﹁構成的︹合理的︺なものとミメ l シス的なものとの対立は、 ナ ン セ ン ス で 馬 鹿 げ た 要 素
の出現ともかかわっている。:::芸術が整合的になり、論理的組織のようなものになるにつれて、芸術の論理性

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4ゴ
美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄


と外界で支配的な論理性の差異がはっきりパロディ化してくる。作品は、形式の面で合理的になるほど、現実の
理性の尺度に照らしてますますナンセンスなものとなってゆく。:::ナンセンスな要素は、芸術におけるミメl
シスの残津であって、芸術の息づまる密閉性に対する代償に他ならない﹂(﹀
・52・)。断わるまでもないこ a
z
とだが、脱・ ﹁啓蒙の弁証法﹂としての芸術作品というアドルノのそもそものモティ l フか'りしても、﹃美の理
論﹄において、芸術作品におけるマテリアlルからの抵抗としての﹁ミメlシス﹂契機がこのように特権視され
るのも、ごく自然のなりゆきと言わねばならないだろう。
しかしもちろん、 アドルノは、 マテリアlルからの抵抗としての﹁ミメlシス﹂ということだけで一件落着と
考えるほど能天気でも無責任でもない 。本当に困難な問題は、 アンチテーゼとしてのこの﹁ミメ l シス﹂契機が
いかなるかたちでその先へと展開されてゆくのかということだからだ。﹁ミメ l シス﹂契機の強調は、 な る ほ ど
純粋な理論的形成物とは根本的に異質な芸術固有の特徴をついてはいるとしても、 そ れ は た だ 、 芸 術 作 品 が 、 合
理的構成であると同時にミメ l シ ス で も あ る と い う 撞 着 的 な 二 重 特 性 の う ち に 、 語 り が た い も の を 語 り 出 そ う と
するものだという自明の事実を追認するだけのものにすぎず、けっしてその域を越えるものではない。この二重
特性を、さまざまな面から手を変え品を変え千年一日のごとく言い立てたところで、芸術作品に内在する弁証法
は、弛緩し硬直したまま一歩たりとも動きはしない。その地点に立ち止まっているだけなら、﹃美の理論﹄は、
まさに不毛な堂々巡り、気力を萎えさせる壮大な屑でしかあるまい。むろんアドルノは、たしかにそうした気配
を濃厚にただよわせてはいるものの、 そこで身動きならず立ち尽くしているわけではない。彼は、合理的構成と
﹁ミメ l シス﹂的マテリア l ルといったこのいかにも単純で静的な対立の図式を、 い わ ば 持 続 対 中 断 と い う 動 的
な図式へと拡大的にずらせるとともに、ここにさらに受容者という契機を持ち込むことによって、持続の突然の
中断の瞬間に受容者のうちに浮かび上がる、 いわば構成もマテリア l ルも突き抜けたある種ジンテーゼのごとき
ものに視線を集中的に移動させる。 つまり、芸術作品には本質的に、美的主観によって構築された持続的構造の
なかに、たんにマテリア l ルからの抵抗ばかりでなく、この持続そのものを衝撃的にぶち破り、受容者の震捕の
うちに、ある種極限的ともいえる均衡状態を作り出すものがはらまれているということだ。 アドルノは、芸術の
こうした動的な特性を﹁行動特性﹂と呼ぶとともに、芸術家自身の意図さえ越えたこの突発的で超越的なものを、
超自然的な星の突然の出現としての﹁アパリシオン﹂にたとえる。﹁芸術作品は、 マテリア l ル の な か で い か に
持続的なものとして現出していようと、自らに本質的な行動特性を通して、瞬間的、突発的なものに到達する。・:
その意味で芸術作品は、この対象化の時代における大昔の戦懐の模倣であり、対象化された客体の前でのかつて
の驚惇の再演と言ってよい。:::芸術作品にもっとも近い現象は、天体現象としてのアパリシオンである。芸術
作品とアパリシオンに共通しているのは、ともに人間の頭上に出現するという点、人間の意図からも事物世界か
らも離れているという点である。 アパリシオンが跡形もなく拭い去られた芸術作品など、まさに脱け殻以外の何
ものでもないだろう﹂(﹀三宮・ 5
ω ロ・)。﹁アパリシオン﹂とは束の間の﹁花火﹂であり、意味の読み取れぬまま
一瞬にして消え去る﹁文字﹂である。﹁芸術作品の原型は花火現象である。:::花火は本来の意味でのアパリシ
オンである。それは、経験世界に現われ出るものであると同時に、持続としての経験の重荷から解放されている。
天からの徴しであると同時に作り出されたもの、すなわち凶兆である。それは、 一瞬きらめいて消えてゆく文字、
しかしながらその意味が読み取れない文字である﹂(﹀三宮-
Em)。あるいは﹁アパリシオン﹂は、 いわば芸術作

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脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

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脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
美の理論﹄

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2玉
品におけるあの対立し合う二つの力の﹁爆発﹂とも言い換えられる。﹁芸術作品は、心像を持続的なものとして
つくるだけではない。それは、自らの心像を破壊することによって芸術作品となる。その破墳は爆発ときわめて
似通っている。:::今日の芸術は、黙示録を思わせる反応形式として以外に考えられない。物静かな身振りの作
品も、目を近づけて見れば、まさに爆発する。それは、作者の塞き止められた感情の爆発というよりむしろ、反
日し合う二つの力の爆発である。:::作品がイメージとなり、内的なものが外化する瞬間には、内的なものをめ
ざして外的なものの外皮が爆破される。作品をイメージに変えるアパリシオンは、同時にまた、作品の形象特性
を破壊するものでもあるのだ﹂(﹀ az・5ロ・)。作品を爆発させる契機としての﹁アパリシオン﹂ カントが


自然美の核心に置いたあの﹁崇古巴の概念に近いものであり、ちょうどカントの﹁崇高﹂において人間のちっぽ
けな想像力が一瞬にして崩壊し、超越的な無限の力が震捕的に感受されるように、芸術作品を崩壊させるととも
に、そこで新たに生まれ変わらせる 。﹁芸術作品は存在ではなくて生成である。:::それは、自身の性状を通し
て自身の他者へと移行する力をもっており、その他者のうちで己れを継続するとともに没落させようとする。芸
術作品は、この没落を通して自らのあとにつづくものを確かなものにする﹂(﹀ z
a-O
NR- アドルノは、

-

'
崩壊の地平に現われ出るものを、芸術作品が直接的に叙述しえない他者という意味で、﹁非存在﹂という言い方
で呼んでもいる。芸術作品は、この自らのうちに確たるかたちで存在せぬものを、受容者との協同作業のうちに、
われ知らず瞬間的なイメージとして浮かび上がらせ、これを受容者に有無を言わさず押しつけてくるのだ。﹁非
存在は作品のなかに瞬間的に出現するが、だからといって作品は、その姿をそのまま魔法の一撃によってとらえ
ることができるわけではない。非存在は、 アパリシオンとなるために集められた存在者のもろもろの破片を通し
て作品に伝えられるにすぎない。:::あくまで存在者としての芸術作品は、非存在を現存在に変えることなどで
きないにもかかわらず、非存在そのものでなくともその強力なイメージにはなりうる。それはいったい何にもと

づいてのことなのか。芸術作品の権威は、 そのような反省を強いてくるところにこそあるのだ﹂(﹀三宮・ HNC)
アドルノは、美的主観性の没落のうちに出現するこの花火のごとき﹁非存在﹂としての﹁アパリシオン﹂を、
さらに芸術作品の﹁真理内実﹂と呼び換え、 それによって芸術作品を、あくまで﹁真理﹂認識にかかわるものと
して、改めて強調的に規定し直す。彼によれば、芸術作品は、美的構成を極限まで押し進めた果てに、いわばそ
の破れ目のうちに客観的﹁真理﹂なるものをふと漏れ出させるものであり、 そのようなかたちで、途切れなき論
証的認識とは次元の異なる﹁真理﹂にかかわっている。﹁芸術作品は、たとえ直接的ではないとしても真理をめ
ざす。その意味で真理こそ芸術の内実である。芸術は真理との関係を通して認識となる。芸術が真理認識にかか
わるのは、真理が芸術においてふと現われ出るからに他ならない。とはいえ芸術による認識は論証的なものでは
ないし、芸術があらわす真理は対象の再現でもない﹂(﹀2Z・
含む。 つまりその﹁真理﹂は、 いわば解答として
)
ではなく謎として投げかけられるということだ。﹁芸術作品はすべて、真理内実がそれを通り抜けで消えてゆく
今際の瞬間に、これはいったい何なのかという問いを繰り返し執描に投げかけてくる。やがてその問いは、これ
は真理なのかという絶対的なものに向かう間いに変わってゆ く。だが、すべての芸術作品は、この間いに対して
論証的解答の形式を放棄するかたちでしか答えられない。:::すべての芸術は前世界のおののきを感知する地震
計である。滅び去った多くの民族の文字と同じく、芸術の投げかける謎にはそれを解く鍵が欠けているのである﹂

(丘田
町・ 5R)。芸術の内実としての﹁真理﹂、すなわち芸術作品の﹁真理内実﹂とは、作品が直接的に意味し
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
美の理論﹄

三E
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃美の 埋論﹄

ヨE
ているものでも意図しているものでもなく、言うならば、そのような支配的原理と、 それによって支配されてい
るもの (マテリア l ル)との対立関係の結果として、不意に現われ出るものに他ならない。﹁真の作品において
は、自然ないしマテリア!ルに対する支配と、この支配原理によって言語を与えられる支配されるものとが対立
している。この弁証法的関係の結果が作品の真理内実に他ならない﹂(﹀回答申・ぉ6。むろん、この ﹁弁証法的関
係の結果﹂とは、謎というかたちをとりながらも、仮象なきジンテーゼの可能性をはらんでいるという意味であ
る。超越的﹁アパリシオン﹂としての﹁真理内実﹂はそのようなものとして、 アドルノにとっては、たとえばべ
ンヤミ ンのいう﹁弁証法的イメージ﹂に重なっている。﹁アパリ シオンが、 一瞬ひらめきわたるもの、掠め過ぎ
るものであるように、 イメージは、ご く束の間のものをとらえようとする逆説的試みである。芸術作品において
超越化するのは瞬間的なものであり、客観化によって芸術作品は瞬間となるのだ。ここで思い出さねばならない
のは、弁証法的イメージの着想のコンテクストで構想された、静止状態の弁証法についてのベンヤミンの定式で
ある﹂(﹀三宮・52・)。ベンヤミンの﹁弁証法的イメー ジ﹂が﹁思考が緊張に満ちたコ ンス テラツィオ l ンにお
いて停止するときに不意に出現する﹂破壊の一撃 92-
∞g印)だったように、﹁真理内実﹂は美的構成の真っ只
中での極度の緊張の一瞬において、この美的仮象としての芸術作品そのものを崩壊させんとする一撃として現わ
れ出る。﹁芸術作品はその真理内実とこのうえない緊張関係にある。真理内実は、作られたもの (仮象︺ からの
み出現する概念なきものであるが、この作られたものの否定に向かうのだ。芸術作品︹仮象︺ はすべて、作られ
たものとして、真理内実のうちで没落する運命にある﹂(﹀忠宮・ 550 芸術としての仮象が没落するなかに現わ
れ出る仮象なき超越的﹁他者﹂、それがアドルノの 言う ﹁真理内実﹂に他ならない。﹁芸術作品は、俗にいう美的
創造という構成を通して超越化を行なう。芸術作品が、 つねに同一なるものの配列︹仮象︺を通してどの程度ま
でに他者︹仮象なきもの︺を作り出すことができるのか、芸術作品の真理内実はまさにこの点にかかっているの

である﹂(﹀三宮・怠 N)
fT 斗﹂串、 いったい芸術の超越的他者としてのこの﹁真理内実﹂なるものを具体的にどのようなものと
よ・刀 - lF

fレl/ノl
して想定していたのだろうか。芸術作品における超越とは具体的にいかなる状態を指しているのか。そもそも彼
は、この﹁真理内実﹂の概念を、 いかなる具体的モデルのもとに考えていたのだろうか。この点については、彼
は余りにも観念的すぎ、議論はいたるところでうとましい抽象論の泥沼で空回りしているだけのようにも見える。
むろん、カフカにせよベケットにせよシェ l ンベルクにせよ、 そうしたモデルらしきものにはその時々で触れら
れてはいる。しかし、 それはあくまで断片的な一般論の域を抜け出ないかたちにすぎず、﹁真理内実﹂ の具体的
ありょうはいつまでたっても釈然としないままだ。ここではアドルノ自身のためにも、あえて思い切った推測と
処置が必要なのかもしれない。独断の誇りを覚悟のうえでここで指摘しておきたいのは、 アドルノがつねづね自
らのプロジ クトの指針と目していたベンヤ ミ ンの批評﹃親和力論﹄が、 いわば彼の無意識のなかで、﹁真理内
L
実﹂をめぐる思考の具体的かつ決定的な契機のひとつになっているということである。﹃美の理論﹄にはただ一
箇所だけだが、ゲ lテの小説﹃親和力﹄の末尾近くから、 エlドゥアルトとオッティ lリエが湖畔で抱き合うシ i
ンに何気なく挿まれた文、﹁空から降る星のように、希望が二人の頭上をかすめ過ぎていった﹂というあのよく
知られた一文が引用されており、これに、小説の美的全体性を中断する不気味な一文といった意味のコメントが
添えられている k
(a
P- 話。)。後に見るように、この文は、ベンヤミンが、小説の﹁真理内実﹂が決定的に現わ
z

豆玉
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
美の理論﹄ 五回
れ出た箇所として、きわめて強いアクセントを置きつつ独創的かつ感動的な解釈をほどこしたものでもある。そ
の解釈の内容を見ても、これがアドル ノの﹁真理内実﹂の概念にとって決定的な刺激となっただろうことは十分
に推察できるし、 それよりも何よりも、この﹁真理内実﹂という言葉自体、ベンヤミンがここで、自らの文学批
評の生命ともいえる重みをこめて持ち出したものでもあるのだ。 アドルノの余りにも抽象的な﹁真理内実﹂の概
念に肉づけをほどこすためにも、彼と同じく芸術作品をひとえに﹁真理﹂認識のためのものと考えるべンヤミン
のこの﹃親和力論﹄にいささか立ち入った目を向けないわけにはいかない。
ベ ンヤミンの﹃親和力論﹄には、彼の批評の極意を凝縮したような文があちこちにちりばめられている。それ
によればまず、批評とは、作品の﹁事象内実﹂を探る注釈を土台として、そこから作品の﹁真理内実﹂を求める
作業ということになる Z巴。むろん、﹁求める﹂とは言っても、﹁作中にはっきり姿を現わすのは生の事
(000

5巴。﹁真理内実﹂は、まさにあの謎めいた﹁アパリ
象内実だけであって、 その真理内実は隠れている﹂ (02・
シオン﹂と同様、作品の﹁事象内実﹂のなかから一瞬燃え上がる﹁生きた炎﹂(の 00 S で中のって、 そもそも
﹁当の詩人にも同時代の批評にも余すところなく理解されることなどありえない﹂ ロ

(DS-E巴。 ベンヤミンによ
れば、芸術家の仕事は、伺らかの﹁真理﹂を明示的に描き出すことではなく、 いかに否定的な偏見とイデオロギー
にまみれていようと作品の﹁事象内実﹂を徹底して美的に構成することである。他方、批評家は、この﹁事象内
実﹂を微細に注釈することから始め、受容者としての己れの歴史的生に対する内省をそこにひそかに絡めながら
も、あくまで作品の内側から﹁生きた炎﹂としての﹁真理内実﹂を浮かび上がらせることを課題とする。かくし
てベンヤ ミ ンの内在批評は、この隠れた﹁真理内実﹂が一瞬ひらめきわたる地点をめざして、作品の具体的構成
深くに分け入ってゆくことになる。 1 1彼がまずこのゲ lテの小説に読み取った﹁事象内実﹂は、当時の社
の奥・
会に不動かっ不可侵の婚姻制度として現出している神話的、運命的な秩序である。それは、ゲーテが自身の生の
断片的経験をもとに構築した彼自身の美的構成物としての神話的世界であり、彼は、﹁その究極的な意味が何で
あるのか自身にも時代精神にも分からない﹂まま、﹁この神話的力を作中に定着させた﹂ (Coo-ES。ゲーテは、
自らの美的構成の力を存分に駆使して、小説の四人の無力な主人公が、婚姻というがんじがらめの制度のなかで、
その神話的な力に呪縛、翻弄されたまま、戦いを挑むこともなく、神々に対する臆罪を果たすかのようにして、
悲しみと諦めのうちに滅びてゆく姿を一貫して描いてゆく。そこには詩人としての彼の力のほころびは微塵も見
られない、とベンヤミンは言う。なるほど、美的構成物としてのこの完壁な﹁神話的暴力﹂の世界に対する直接
的なアンチテーゼとしての﹁神的暴力﹂なるものも作中に盛りこまれてはいる。べンヤミンにとっては、婚姻制
度という運命に命がけで立ち向かい、最後には祝福を勝ち得る恋人たちの姿を描いた短いノヴムレ﹁不思議な隣
の子供たち﹂がそれである。しかしこのノヴ占レは、小説の暗溜たる進行の背後にいわばかすかな霊気楼のよう
にかすんでいるだけで、もとより小説の現実的地平において主人公たちの破滅を押し止め、﹁神話的暴力﹂を打
ち破る契機とはなっていない。それどころかゲ l テ││生活者としてのイデオロギーにまみれた大詩人ゲ 1 テだ
ーーは、運命の打破としてのこの﹁神的暴力﹂をいわば徹底して黙殺したまま、小説の進展にとっての無意識の
不協和音とも言うべきこの力を、自らすすんで圧殺してしまう。ベンヤミンに言わせれば、ゲーテは、作品の首
尾一貫性と美的完成性をいっそう完壁にするために、デモーニッシュな呪力によってカオスの底からオッティ l
リエの途方もない美を呼び出し、戦いとも崇高ともまるで無縁の植物のごとき彼女のただただ仮象的なありょう

三五.
;:
s
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

.
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

E.


を描写することによって、作品における仮象としての神話的世界の堅固さをいっそう際立たせることに終始した。
﹁﹃親和力﹄では、呪力による呼び出しがもっデモーニッシュな諸原理が、詩的造形の真っ只中に入り込んで突出
している。呪力で呼び出されるのは仮象にすぎないというのが常であるが、オッティ lリエの生き生きした美も、
まさに仮象にすぎない。その美は、強烈で謎めいたまま、純化も何もなされない文字通りの ︿
素 材﹀ のまま、作
中に呼び出されたものなのだ﹂ (02 S。


ならば、この小説の﹁真理内実﹂はどうなるのか。ゲーテが、神話的世界の美的構築ををあくまで貫徹し、


こで没落してゆくだけのオッティ lリエのはかない美の仮象を定着させんがために、もてる力のあらん限りを尽
くしたのだとするなら、そのような仮象がかくも限界ぎりぎりまでのさばっているところには、当然ながら仮象
なき﹁真理内実﹂なるものが出現する余地はなくなってしまう。むろんそのとおりである。ベンヤミンが、


粋な 言葉︹意味︺とリズムに逆らってなされる中断﹂としてのへルダ lリンの﹁中間休止﹂の概念を自己流に解
釈しながら、﹁表現なきもの﹂という独自の概念を用いて、逆方向から照らし出しているのもこのことである。
﹁芸術の仮象に停止を命じ、動きを止め、調和の腰を折るのが、表現なきものである。芸術の生が秘密を作り出
すとするなら、この硬直は作品の内実を作り出す。:::この表現なきもののなかに、真理の崇高な暴力が立ち現
われる。カオスの遺産として美しい仮象をまとって生き長らえているもの、すなわち幻惑的な偽りの総体性、絶
対的な総体性を打ち砕くのが、この表現なきものである。これによって作品は完成される。 つまり、作品は、打
E
ち砕かれて破片に、真なる世界の断片、 ひとつの象徴のトルソーになるのだ﹂(の8・H)。ベンヤ ミ ンにとって、
作品の仮象を一瞬ぶち破るこの暴力的な﹁表現なきもの﹂こそ、作品の崇高な﹁真理内実﹂を現出させるもので
ある。 アドルノもまた、この﹁表現なきもの﹂の概念を自ら援用しながら、主観的表現でありながらそれを越え
てもいる芸術の二重特性をこう言い表わしている。﹁確たる芸術は二極分裂している。ひとつは、和解と慰めを
もたぬまま究極的な宥和を拒む自律的構成力としての表出の力であり、もうひとつは、やがて到来する表現の停
表現なきもの﹀ である﹂(﹀伯仲Z・40)
止をもたらす構成力としての ︿ 。だがそれはともかく、仮象の限界に危険
なまで接近し、この﹁表現なきもの﹂を追放したかのようなゲ lテの作品には、当然ながら﹁真理内実﹂は存在
できない。ベンヤミンはゲ l テに対する一抹の危慎の気持ちをこめつつ、こう言っている。﹁へルダ l リンの叙
情詩では表現なきものがぎりぎりまで際立っているとすれば、ゲーテの叙情詩では美が、芸術作品のとらえうる
限界にまで追っている。隈界を越えたところにあるのは、かたや狂気の産物であり、かたや呪力で呼び出された
現象にすぎない。文学はこのゲ lテの方向で一歩たりとも彼を越えようとしてはならない﹂ (02・冨巴。もしも
越えようとするなら、文学は悪くすれば、 一人よがりの仮象に没入したまま自ら﹁真理﹂との関係を断ち、文化
産業の餌食となるのがおちなのかもしれない。むろんこれはあくまで極論だとしても、﹃親和力﹄に娯楽的な姦
通小説としてのそうした一面が濃厚に感じられることも事実である。
しかし、 そうは言うもののベンヤミンは、最後の土壇場でゲ l テを救う、というか彼を強引に仮象世界から、
自らの言う﹁真理﹂の世界に連れ戻す。土壇場での反転はベンヤミンの十八番であり、その点は、対象が文化産
業としての大衆芸術めいたものであれ変わりはない。ここで彼が注目するのが、 アドルノも引用しているあの文、
﹁空から降る星のように、希望が二人の頭上をかすめ過ぎていった﹂という一文である。彼はこれを、﹁へルダ i
リンのいう作品の中間休止を含む文、抱き合った二人が死を覚悟するときに、万物に一瞬動きを止めさせる文﹂
五七
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹁
美の理論 ﹄ 五八
(02
・52・)と解釈し、ここに、圧倒的な仮象のなかで一瞬作裂する﹁ア パリ シオ ン ﹂ と し て の 仮 象 な き ﹁ 真
理内実﹂が決定的に出現していると見る。ここには、ォ ッティ lリエとエ lドゥアルトが、仮象としての小説世
界のなかで暴力的な運命によって有無を言わさず滅びを決定されながらも、なお心に抱く希望、この滅びの世界
を二人で抜け出して別の至福の世界へ至りたいという希望が、 いわば死刑執行人としてのゲ lテの意図を中断す
るようなかたちで現われ出ている。そして、この没落への確実な進行の一瞬の停止のなかに、読者であるわれわ
れの生きている世界の秩序そのものもまた、出口なき神話の世界に他ならないという認識と、この暗櫓たる世界
を突き抜けたところにもしかしたら現われるかもしれない﹁言語には到達できない﹂至福の世界のイメージとが、
沈黙のうちにネガとポ ジ のように二重映しになって広がっている、と ベ ンヤミ ンは見る 。彼にとって、否定の う
ちに一瞬現われ出るこうしたぎりぎりの認識と希望こそが、小説の﹁秘儀﹂としての﹁真理内実﹂に他ならない。
﹁希望はこうしてついに仮象から身をもぎ離し、あの ︿
なんと美しい ﹀という言葉が、震える問いのよ う に作品
の末尾で死者たちに向かって響き終える。その時われわれは、この死者たちがいつか目覚めることがあるなら、
それは美しい世界ではなく、至福の世界であってほしいと願うのだ。:::愛し合う者たちの頭上を流れ落ちる星
の象徴は、厳密な意味でこの作品に内在する秘儀を表現するにふさわしい形式である。秘儀とは、演劇的なもの
仮象︺ のなかにあ って、この演劇的なものが自身に固有の言語の領域から、言語には到達できないより高次の


領域へと突出してゆ くときの契機に他ならない﹂(。2・N O S
以上が、批評家ベンヤ ミ ンがゲ l テの ﹃
親和力﹄からやや強引に引きずり出した﹁真理内実﹂のありようであ
るが、ここで強調されているその中断性と﹁アパリシオン﹂性を見ても、あるいは、美的仮象に対するその徹底
して謎めいた﹁他者﹂性を見ても、これがアドルノにとって、﹃美の理論﹄のキーワードとしての ﹁真理内実﹂
の具体的モデルにきわめてふさわしいものであっただろうことは一目瞭然である。 アドルノが、このベンヤミン
の﹁真理内実﹂の概念を美学批判の領域に持ち込み、これによって、ともすれば空疎な趣味判断に堕しかねない
カント的形式美学と、芸術に外部から暴力的に観念を押しつけようとするへ lゲル的内容美学をともに乗り越え、
趣味(美)にも観念的暴力にもけっして収飲することのない﹁真理﹂の概念のもとに、統一も意味も欠落した反
芸術としての現代芸術の位置測定をも可能にする新しい﹁美の理論﹂を模索しようとしたことは疑いえないとこ
ろである。脱・ ﹁啓蒙の弁証法﹂の地平においては、唯一、理性の主観的暴力を自ら行使しつつ逃れてゆくもの
としてのこうした﹁真理内実﹂のような形式しか、客観的﹁真理﹂の名を担うにふさわしいものはありえない。
啓蒙の暴力を自ら断ち切る形式のうちにしかもはや﹁真理﹂なるものは存在しえないのだ。ベンヤミンは、そう
した意味で、﹁アパリシオン﹂としてのあの流れ星に、芸術家が無意識裏に自らの主観的暴力を停止させる瞬間
を見、 そこに、芸術家を取り巻く現実の歪んだ生の客観的なありようと、それを越えてゆく﹁至福の世界﹂の可
能性が浮かび上がるのを、そのような新たな﹁真理﹂の発現する形式としてとらえたのである。むろん﹁批評家﹂
ベンヤミンは、これについて概念的な説明は控える。彼はただ、主観の一瞬の中絶のうちに現われ出るこの﹁真
理﹂の客観性を強調するだけであり、そこでぴたりと筆を止める。その客観性についての反省的、概念的説明は
むしろ、 ベンヤミンとの共同プロジムクトの遂行を自ら意識しながら、美学に対する批判的理論構築に向かおう
とするアドルノの仕事である。
いったいこの﹁真理内実﹂はいかなる意味で客観的といえるのだろうか。 アドルノの説明によれば、ことは基
五九
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
美 の理論﹄





本的にすこ ぶる単純明快である。すなわち、﹁アパリシオン﹂としての﹁真理内実﹂は、主観の中断ないし没落
のうえに成り立つものであって、他でもないそうした主客均衡の地点においてしか、社会的、歴史的な意味での
物象化を逃れた客観的﹁真理﹂なるものが凝縮されて現われ出る可能性はないということだ。彼は、このことを、
﹁アバリ シオ ン﹂の瞬間を、主客の無差別という意味での﹁無記点(
-E 仲間3
叩8N宮口宮ないしは ZESSE)﹂ と
言い換えながら、べケットの作品を例に引きつつこう説明している。﹁主観とその反応形式に対する外的現実の
呪縛は絶対的なものとなっているゆえに、芸術作品は、自らをこの呪縛と同化させることによってしか、この呪
縛に反対できない。しかし、べケ ットの散文が物理学の徴粒子さながらその本領を発揮する地点としての無記点
においては、陰欝であると同時に豊かでもある第二のイメージ世界が突然現われ出る。それは、その直接性のゆ
えにこれまで主観的︹物象化的︺現実が空洞化するという決定的場面に遭遇することのなかった歴史的経験が濃
縮されたものである。このみすぼらしく傷ついたイメージ世界は、管理された世界の写しでありネガである。べ
ケ ットはこの点においてこそまさに現実的なのだ﹂(﹀三宮-
E)。言い換えれば、﹁アパリシオン﹂としてのこの
﹁無記点﹂において、 いわば物象化された主観的現実がほどけて﹁空洞化﹂され、そこに、これまで見られなかっ
た客観的な﹁歴史的経験﹂が、悲惨さのうちにも、ある種のユートピアの予感をはらみながら現われ出るという
ことだ。 アドルノにと って芸術作品とは、いわばライプニッツのいう﹁窓のないモナド﹂であって、外部に開い
た窓をもたないゆえに、あくまで主観的、閉鎖的、自己内在的に物象化の世界にとどまりながらも、同時に、


れぞれ個々の視点から全字宙のありょうを映し出すモナドとして、自己の外部の歴史全体、社会全体を客観的に
﹁表象﹂する。﹁窓のないモナドとしての芸術作品が、自身と異なるものを︿表象﹀するということは、こう理解
する他ないだろう。すなわち、芸術作品の固有の力学としての内的歴史は、自然と自然支配の弁証法として、外
的歴史と同一の本質をもつだけでなく、模倣せずともそれ自体として外的歴史に類似しているということだ。.
作品に固有の緊張は、外部に存在する緊張との関係で意味あるものとなる。芸術の動機としての経験の地層は、
芸術が避けている外部の対象世界と密接につながっている。解決されない現実の敵対関係が、芸術作品のなかで、
r
形式に内在する問題となって戻ってくるのだ﹂(﹀ao-
-R・)。あまり説得力のある説明とはいえず、むしろ何か
堂々巡りのような反復的独断といった響きが感じられはするが、はっきりしていることは、 アドルノが客観性と
いうことでアクセントを置いているのは、芸術家の意識が社会の下部構造を反映しているといったいわゆるマル
クス主義的反映論のようなものではなくて、あくまで﹁自然と自然支配の弁証法﹂であり、自然の暴力的支配と
しての啓蒙の克服という問題だということである。芸術作品は、 その自己否定の形式のうちに、外部の現実世界
における支配原理としての自己保存の原理を止揚する客観化の契機をはらんでおり、あくまでそうした主観の窓
意的な暴力の廃棄をめざすという意味において、﹁自らの形態を通して歴史に特定の批判をなす﹂(﹀乞 。
Z-NCO)
そのような意味でそれは、 マルクス主義よりもはるかに広い射程において、歴史のなかにあって歴史をその悪し
き進行から解放する力となりうるのだ。﹁芸術作品に現われる歴史は、作られたものではなく、 はじめて現実の
歴史を、たんなる措定ないし作成ということから解放するものである。真理内実は歴史の外部に存在するもので
はなくて、作品における歴史の結品化に他ならない。措定されたものではない作品の真理内実こそ、真理内実の
名を担うにふさわしいのだ﹂(﹀凹F0・
80)。﹃親和力﹄を例にして具体的に言えば、 ゲ ー テ は あ の 流 れ 星 の 一 文
でもって、自らと自らをとりまく外部世界を貫く暴力的な自己保存の原理を、自身の生身の肉体という無意識の
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄


フて
マテリア lルを通して、具体的な芸術作品のなかで、われ知らぬままふと暴露するとともに、連綿とつづく歴史
的、社会的な支配原理を一瞬否定し、そこに別の集団的原理のごときを未定のかたちで予示しているということ
にでもなるだろう。主観的自我を自ら乗り越え、そこに無意識の集団的なものを垣間見せるもの、 それがアドル
ノにとっての芸術作品に他ならない。﹁美的形象においては、自我から遠ざかってゆくものこそ、集団的なもの
である。この集団的なものでもって、社会が真理内実に内在することになる。芸術作品がたんなる主観をはるか
に乗り越えてゆくときに現われ出るものが、作品の集団的本質なのだ﹂(﹀三宮・ 580 したがって、彼にとって
芸術作品の﹁真理内実﹂の客観性は、 フロイト的精神分析のいう自我の解体と不可分一体の関係にある。 アドル
ノは、芸術作品のもつ自己否定性を、まさに震捕的な﹁自我解体﹂と言い換えながら、自らの﹁真理内実﹂の核
心をこう説明してもいる。﹁震掘とは自我解体への促しであり、自我は震摘させられて自らの限界性と有限性に
気づく Oi---自我はこの瞬間に、自己保存を中断する可能性に気づくのだ。:::自我は、己れが究極ではなく仮
象にすぎないという、美的仮象を砕く比喰的ならざる意識にとらえられる。かくして主観にとって芸術は、芸術
本来の姿、すなわち抑圧の内的な代理人としての自我原理に対して究極的に対立する抑圧された自然の歴史的語
り手に変わるのである﹂(﹀ ar・忠良・)。
とはいうものの、むろん芸術作品をその本来の姿で、すなわち﹁抑圧された自然の歴史的語り手﹂として現わ
れ出させるのは、作品自体に内在する精神ではなくて、むしろ、その外部にあってそれにかかわる批評であり哲
学である。﹁芸術の生の要素である精神は、芸術の真理内実と結びついてはいるが、それと一致するわけではな
ぃ。作品の精神が非真理であることもありうるからだ。真理内実は、自らの実質として現実的なものを要求する
が、精神はそれ自体でそのまま現実的なものとはいえないのだ。::;批評は、芸術作品の配置からその精神を読
み取り、諸契機を相互に対立させたり、あるいは諸契機をそれらのうちに現われる精神と対立させることによっ
て、美的配置を越えてその精神の真理へと向かってゆく。そうした意味で、批評は作品にとって不可欠なもので
ある。批評は、作品の精神から作品の真理内実を認識するか、あるいは真理内実を作品の精神から切り離す。芸
術にその精神のあるべき姿を命じる哲学などによってではなく、もっぱらこのような行為において、他でもない
芸術と哲学は一つになるのである﹂(﹀arm-52・)。哲学的解釈としての注釈と批評、 アドルノにとってはそれ
が、芸術作品が自らの虚偽を自ら抜け出て﹁真理内実﹂に到達するためにどうしても欠くことのできない共同作
業者となる。﹁解釈、注釈、批評の形式こそ、作品を乗り越えてゆくものとしての作品の真理内実に奉仕し、批

評の任務としての真理内実を、作品のもつ虚偽の契機から切り離すものである これらの形式は自らを研ぎ澄ま
し、哲学とならねばならない﹂(﹀田5 ε
0・自 。彼があくまで ﹁美の理論﹂にこだわるのも、美的なるものを哲学
的反省の場に引き込み、 それによって美そのものを越えた﹁真理内実﹂を獲得するために他ならない。﹁芸術作
品の真理内実は哲学的反省を通してのみ獲得できる 。他でもないこのことが美学に正当性をもたらす。:::作品
は、最高の威厳をそなえた作品ならなおさらだが、解釈を待ちのぞんでいる。作品に解釈をほどこすものがなく、
作品がただそこに存在しているだけなら、芸術を他のものと区別する境界線は消えてしまう。批評は、他でもな
い真理内実を理解することを要求するのだ﹂(﹀a m
r-ω 戸)。アドルノが求めているのは、作品が明示的にあら
E
わしている 意図や意味ではなく、 いわば作品の無意識としての志向なきものであって、この志向なき﹁真理内実﹂
を明るみに出すには、美的経験を哲学的反省に変えるものがどうしても必要なのである。﹁哲学と芸術は、芸術






脱・﹁啓蒙 の弁証法﹂として の﹃美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

[1B
/、
作品の真理内実において一つになる。:::作品の真理内実は、作品自体が意味しているものではなく、作品の真
偽を決定するものであるゆえ、こうした作品の真理は、哲学的解釈をまつ他なく、理念的には哲学的真理に重な
るものである。:::純粋の美的経験は、哲学とならねばならないか、もしくはそもそも存在しないかのいずれか
4
である﹂(﹀三宮・5)。ある魅惑的な美しい人物と知り合いになるとする。だがこの人物は何か秘密を隠してい
るためなかなか打ち解けない。その内面にむやみに踏み込むのは非難すべきだろう。しかしその人物の謎を明か
してくれる兄弟を探ってみることは許されるかもしれない。批評とは、このようにして芸術作品の兄弟を探し求
める行為に他ならない。そして﹁真の芸術作品はすべて、その兄弟を哲学の領域にもっている﹂ 。
・口 N)
(000




れはベンヤミンであるが、同じようにアドルノにとっても、美的主観としての作品から客観的﹁真理内実﹂を引
きずり出してくるものこそ、芸術作品の兄弟としての﹁哲学﹂、すなわち彼の模索する﹁美の理論﹂の仕事であっ
・d
T f
円J J 0
ep ︼
むろんアドルノにせよベンヤミンにせよ、芸術作品の理解のためにあくまで﹁哲学﹂が不可欠だとするのは、
何もありきたりの哲学なるものに芸術以上の意味をこめて、これを称揚するためではけっしてない。ことはむし
ろその逆である。 つまり、主観の没落のうちに客観的な歴史的﹁真理﹂を一瞬照らし出すものとしての芸術作品
の﹁真理内実﹂のありょうこそ、認識論ないし論理学の領域で純粋な論理的思考としての哲学を立往生させてい
る困難な問題を別次元へと突き抜け、理性のアポリアを脱出してゆく方向をもった本来の哲学の自己批判的思考
をはじめて始動させるということだ。彼らのいう﹁哲学﹂とは、 その意味で、哲学の全面的な自己批判のことで
あり、脱・ ﹁啓蒙の弁証法﹂の実践としての哲学のことである。それは言い換えれば、思考の全体性ないし統一
性と、経験の断片性ないし雑多性とのこのうえない緊張のうちにあって、自己のあくまで持続的、統一的な思考
を自らの力でもって中断し自爆せしめる新たな思考様式としての哲学に他ならない。芸術は、 そ う し た 自 爆 的 思
考様式の典型として、哲学を援助手として要請するのではなくて、むしろ逆に、哲学のアポリアを越えてゆくも
のとして哲学から要請されているのである 。 アドルノは、そうした特権的なものとしての芸術のありょうを、統
一性と多性の緊張に満ちた綜合というかたちに収数させながら、 ペネロ l ぺの比喰を用いてこう言い表わしてい
る。﹁いかなる芸術も、経験との対立を通して、 い わ ば 綱 領 的 に 自 ら に 統 一 性 を も た ら す 。 精 神 を 通 過 し た も の
は統一されて、悪しき自然状態ともいうべき偶然的、 カオス的なものに対立するものとなる。:::多としての個々
の衝動はしかし、己れを実現と宥和へともた'りしてくれるかもしれないこの統一を、憧れつつ必要なものとして
見つめはするものの、同時にいつもそこから逃れてゆこうとする。これは、統一と綜合を第一とする伝統的な観
念論哲学の偏見によってこれまで見過ごされてきた点だ。:::芸術作品の統一は、多なるものに対する暴力とな
らざるをえず、多なるものは、古代の神話における自然のはかない畢惑的な諸形象のごとく、統一を恐れざるを
えない。 ロゴスによる統一は、切り捨てを旨としているゆえに、いかんともしがたく罪の連関に巻き込まれてい
るのだ。昼に編んだものを夜ほどく、 ホメ l ロスの伝えるペネロ l ぺの物語は、それと意識されてはいないが、
芸術のアレゴリーに他ならない。すなわち、策略家の彼女は、自らの布に行なうことを、じつは自分自身に対し
て行なっているということだ。ホメ l ロ ス の 叙 事 詩 以 来 こ の エ ピ ソ ー ド は 、 よ く 誤 解 さ れ て い る よ う に 付 足 し ゃ
残り津ではなくて、芸術の構成的範障となっている。 つまりこのエピソードを通して芸術は、統一と多の同一化
の不可能性を、自らの統一性の契機として自らのうちに受け入れるのである﹂ a
EzN
-4)。 統 一 性 、 全 体 性
R

ヨ三
;T'ミ
美の理論﹄
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての ﹃
脱・﹁啓蒙の弁証法﹂としての﹃美の理論﹄

矛 τミ
フ『
を苦労して作り上げては、 それを自ら問い直しほぐしてゆくことを繰り返すペネロ lぺ的な芸術のありょうは、
﹁統一と綜合を第一とする伝統的な観念論哲学の偏見﹂を哲学の外部において克服し、理性のアポリアそのもの
を乗り越えてゆこうとするものである。ベンヤミンはこの理性のアポリアを、哲学のかかわるべき問題ーーとは
いえ哲学の内部では解決不能の問題ーーの﹁イデア lル (極致)﹂と呼び、芸術作品における ﹁真理内実﹂ のあ
りょうこそ、他でもないこの哲学の問題の﹁イデア l ル﹂を体現していると言う。最後に、﹃美の理論﹄に向か
うアドルノの脱・ ﹁啓蒙の弁証法﹂の意志をもっとも深いところで代弁するものとして、芸術作品の﹁真理内実﹂
と哲学の問題の﹁イデア l ル﹂との関係について述べたベンヤミンの言葉を引用しながら、 ひとまずこの論を閉
じることにしたい。﹁哲学の問題のイデア l ルが出現するのは、芸術作品という形態においてに他ならない。
哲学の全体、 つまりその体系は、哲学の全問題が要求する以上のものである。なぜなら、哲学の全問題が解けた
としても、 そこから統一性なるものは得られないからだ。:::哲学の統一を包括的に問いうるような問いは、
︹哲学そのものの問題のなかには︺ そもそも存在しない。したがって哲学の統一を問うこの存在しない問いの概
念は、哲学においては問題のイデア lルということになる。だが体系というものがいかなる意味でも︹哲学的に︺
問われえないものだとしても、問いというかたちをとらないでこの問題のイデア lルにもっとも近づいたものは
存在する。それが芸術作品である。芸術作品は、哲学自身と競合するのではなく、問題のイデア l ルとのそうし
た親縁性を通して、哲学とのみこのうえなく厳密な関係に入るのだ。:::批評︹アドルノならより広く美学とい
うことになろう︺ は、芸術作品のなかに問題のイデア l ルを現われ出させる。 つまり、具体的な作品のひとつの
うちに、問題のイデア l ルを立ち現われさせるのである﹂(。 0・
0コ芦)。

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*Benjamin,Walter:GoethesWahlver
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Tiedemann,Rolfu
. Schweppenhauser,Hermann. SuhrkampV
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.)(Goe.)
*B巴njamin,Walter・Ub巴rSpracheuberhauptundu
berd
ieSprached
esMenschen. (GesammelteS
chr
ift
en.
BandI-
1
.Herg. v
.Tiedemann,Rolfu
. Schweppenhauser,Hermann.SuhrkampV
erl
ag.1
980
.)(
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*Benjamin,Walter:DasPassagen-Werk. (GesammelteS
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en. BandV-
1
.Herg.v
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