三須田善暢 (2023) 村落社会学者と調査対象地との関わり 似田貝-中野論争および柿崎による新池調査の事例から

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第五章 村落社会学者と調査対象地との関わり
|| 似 回 貝| 中野論争お よび柿崎による新池調査の事例から
三須 田 善暢
本制では、いわゆる ﹁ ・村型諭﹂の立川柳の研究から、村山市川究におけるアクシ ョンリ サー
チ︵A R︶に対する示唆系山
を与えるそのために、似川以丙川と小川町引の聞でおこなわれた ﹁ 共
川行為﹂に 関する論争と、柿川町点 −ら によ っておこなわれた附山県新池での訓伐を検討する。
まず、﹁共同行為﹂はA Rに通じるものといえるが、それよりも広い内実を持つものである重
悦する側面や性的側、よ って立つ方法的立判明が岡持で 相述 してはいるが、似凹貝 ・中野両おとも
﹁共同行為﹂をめぐる 問題の大枠は共通しており、 ﹁ 共同行為﹂自体は否定していない 。次に、
新池調査は ﹁社会実験﹂ではあるものの、 A Rとはいいがたい 。しかし、柿崎らの参与的観察
共同行為﹂につながる基礎となるものであり、新池調査はA Rの前段階に位佐づけられる
は ﹁
といえる。そのほかで新池調査において屯視されるべきは 、教条や即一忽と距離を置き、事前の
則論︵仮説︶を同執せず、被調査者から教わり学ぼうとする研究態度と万法であろう。剛町忽の
実現を志向するA Rは、それに伴うある桁の佑険性を伊む可能性を持つが、それを川避しうる
方途を新池判例任は示唆して いるそのほか、 柿崎のエスノ グラフィ lの先駆性を与慮する とき、
ARの導入が多綴なぷ税庁法を取り入れる契機となって 収状必識 の住山化に寄りするという側
而にも注目できよう。

6
15
6
16

はじめに
本稿の謀題は ︷
掛 以下A R
か ・村理論﹂ の立場の研究から、 村落研究におけるアクションリサーチ ︵
いわゆる ﹁


して示唆を導くことである。 ﹁家・村理論﹂ の内実 は論者によ って差異と多様性を持 つが 本稿では、家や村という生
活組織に焦点をあてた研究および研究手法と広くとらえ、 有賀喜左衛門とその系譜の論者を念頭に置いている。鳥越結
之の主張に よれば 有賀は ﹁実践﹂ を強く意識して研究をしており、有賀の生活論を ﹁いざ現代の環境問題の理解のた
めに使ってみると、驚くほど有用﹂ ︵鳥越、 ︶という。 しかし、鳥越がいう ﹁
一九八八、五一一 一 実践﹂ の射程はとても広
いものであり、A Rの文脈での ﹁実践﹂ と結びつけるのは難しい 。そこで本稿では やや迂回的ではあるが、 以下の
点を検討することによって 。研究者と対象地との関係。という 一般的な次元において考察し 上記の謀題に応えたい 。
ARを考えるに際して、まず、 一九七0年代に似団員香門と中野卓の聞でおこなわれた ﹁共同行為﹂ に関する論争を
とりあげる。当時日本農村社会学にお いてはマルクス主義の立場から福武直の構造分析を批判 ・発展させていた時期で
あり、 主体と構造の関係をどうとらえるかが焦点となっていた。 くわえて、 学生運動の影響を受けて研究者の知的誠実
性が問われ、研究の存在理由および研究者と市民との関わりが問題祝された時期でもあった。そうしたなか似回貝は、
社会問題||それは主体と構造の ︿
隙間﹀ の空白部分である| |の調査を通じて、主体と杭造を結びつける方途を模索
した。その際、異議申し立てをする人々に研究者が寄り添い出来事を見ていくことが求められるとして ﹁
共同行為﹂を
︶ 。 この論争は現在まで折に触れ参照されるもの
提起し、それをめぐる論争が起こったのであった ︵似回貝、 二O O七
であり、 A Rを検討する端緒として相応しいであろう。次に、 一九五0年代後半に柿崎京 一らによ っておこなわれた岡
山県新池での調査を検討する。 乙の調査は、長期滞在の参与的観察を取り入れた 日本人による戦後はじめての組織的民

村調査と考えられ、 こんにちでも興味深い論点をみいだしうる 周知のように、中野も柿崎も有賀の影響を強く受けた
家 ・村理論﹂的立場からの示唆を考えたい 。
研究者であり、彼らの営為の再検討から有賀系譜の ﹁
似回員|中野論争概説
似田員|中野論争とは
1

似回貝|中野論争を簡述すれば次のようになろう。すなわち、﹁マルクスの疎外論や共同体論に準拠して理論研究を
社会調査の曲り角﹂ ・::と題 して発表し、これに戦前
進めてきた似団員香 門:::が﹁住民運動調査後の覚書﹂・::を ﹁
t 村務社会学者と翻査対象地との関わり

から地域調査を基本にした﹁歴史社会学的調査﹂ ・::を継続してきた中野卓が反論を加えたことで開始され、サンプリ
ング技法に基づいた標本抽出と標準化された質問紙による戦後主流となる社会調査法を福武とともに牽引し、社会移動
と社会階層の研究を展開してきた安田三郎::・が両者を批判することで基本的な構図が作られた社会調査論争﹂︵井腰、
二O O一
一、二七、﹁:
一 ::﹂は引 用者中略︶ である。
共同行為﹂ の渇望
似田貝の問題提起| |みせかけの人間関係と社会科学者としての役割関係への疑問、 ﹁
2
六O年1七O年にかけての地域社
似団員は、新全国総合開発計画へ反対する住民運動を調査対象として選ぶなか、 ﹁
第五e

6
17
会の変動によって、従来の地域社会論やその調査法が現実に適合的ではなくなってきていることから、これまでの


一一寸
似田民、 一九七問、 一︶という問題怠識を持
域調査法﹂ を再検討し 加えて現代社会の構造的な課題を発見しよう﹂ ︵
68

つようになる。
1

そこでみられた ﹁
調査遂行上の困難性﹂ ﹁第一に、住民運動参加者の 研究所や研究者に対するかなり強い不

信感。/第 二に 研究者や調査主体の、 ︿ 巾 gz
﹀ へのかかわり方の 執助なま での問い。/第三に住民運動参加者の
研究者や調査者への情報・知識の要求﹂ ︵似田貝、 ﹁
/﹂ は文小 の改行。以下同様︶に起閃するもの
jL


であった。たとえば 一休何のために調査をするのか﹂ 体あなたがたはどこのどういう研究団体なのか ﹂ 、



﹁ 一

うような質問に加えて その地域で起っている ︿ 巾﹀||版乙 g
z
﹄力発泡所住設問題 ・新幹線問題等々ーー への私述の
とりくみ方の姿勢などが、繰返し繰返したずねられる﹂ ︵似回日 一九じ問、 二︶と いうような・ものであ った。


似旧貝は、 こうした ﹁被調代者の淵任者への先のような質問や疑念や不信は、判州代技法によるラポ lト関係や符倒的
︵同︶
調査を行なおうとする調荷主体の容体へのみせかけの人間関係 ︵調査者|被調代者関係︶ への鋭い問題促起﹂

あると考えたのである。
似田貝によると、この︿みせかけの人間関係﹀︵およびそれに伴う疑念や不信︶は次の ことに起閃する。まず、社会
科学は ﹁精密な演縛的体系﹂ ︵似田貝、 一九七四、凹︶をつくるようになり、そのために﹁調査者のリアリティ ︵
現実︶
への関心の薄さ﹂︵同︶が生じてくる。 この関心の希薄さは、﹁調査過程のブラック・ボ ックス 化 同︶がすすむ一 九
﹂ ︵
七四年当時の巨大化する社会調査にお いては、﹁調査項目の選択肢と現実のズレ﹂が ﹁
リアリティを 一つの選択肢のな
かに強引にとり込んでい﹂き、 ﹁
リアリティをフィクション化させてしまう﹂
︵似川口、 一九七問、五︶ことによっても
促進される。社会科学者によるこのようなリアリティ担保に作い、調脊や利学的制拠は ﹁
聞発推進の後揃﹂
︵似山只、
一九ヒ四、 三︶になって いく。すなわち ﹁
社会科学のリアリズム ︵
評問主、必︶が、政策のリ アリズム ︵
呪実主鍛︶

’\

。 ・状況を ﹁住民運動の場で鋭く
易に移行﹂︵似田貝 一九七四、四︶ しやすくなるのである 被調査者はこうした関係
この人間関係は﹁生の人間関係そのものではなく、社会科学者としての役
見抜﹂︵同︶ き、︿みせかけの人間関係﹀||

割関係﹂︵似団員、 一九七回、 二︶である||に伴う疑念や不信を、調査者に向けるわけである
。 。
それでは、この︿みせかけの人間関係﹀に対して調査者はどのように対応したらいいの だろうか 似田貝は述べる
ここで私が最も痛切な実感を込めてふれなければならないことは、人々が、社会科学そのものと社会科学者︿点門研

。 ティを抄ってくれ
究者﹀とを注意深くわけている、ということ である つまりこの区別の立昧は、住民の側でのリアリ
すなわち、被訓
る、人間としての研究者への住民の主観的な期待感といってもよいだろう﹂ ︵似山以、 一九七問、五


いるものでもな い むしろ、人々
当面、調作!被淵代という関係の枠組みそのも のを取り払うことを.民ボし て
抗告は ﹁
。 、 、︿共同行為﹀
はこの関係の枠組みを十分に前提とすらしているよう である その上で 制作名と被判例代符との関係が

の関係になりえることを渇望しているのである﹂︵似田良、 一九七問、 二︶
活社会学者と調査対象地 との|刻わ り

こうして、被調査者は ﹁ 共同行為﹀を渇望する﹂︵似出以、 一九七四、六︶ものとされた。こ の被


専門研究者との ︿
調査者は、﹁︿確かな﹀知識の源泉を、計画主体や知識人や研究者の独占体制から解放し、自己向身 の手に取り戻そう﹂
︵同︶とするのである。
近代科学の前提とな っている、
似田貝は、このように社会調査をめぐる問題状況を整理したうえで、この問題状況は ﹁
主体﹄と ﹁
﹃ 客体﹄ の分離という認識前提が、あるいはまた、ごうした認識前提による研究者の調査活動が、危機に瀕
︵同︶ことをな昧すると述べる。別言すれば、 ﹁研究省が白己を大衆や住民の 一日であることを感じることな
i
t やt

している﹂
しに、客体としての大衆を論じることのできた、近代社会科学の ﹁幸福な時代﹂の終尚﹂︵同︶であり、﹁調査と いう附

9
;
第五1

6
1

究者の活動が 一つの山り向に来ている﹂︵同︶ことを怠昧すると述べるのである
こうした﹁曲り角﹂の状況に対して、似回貝が一示す﹁暫定的な課題﹂︵似田員、 一九七回、七︶||解決策ともいえ
70

ょうー ーは次のとおりである。 1︶大衆のなかの今日の文化形成の担い手や問題提起者の動きに、研究者自身が少な


1



くとも一つでもコミッ トメン 卜し ていく必要があること。このコミットメン卜は、従来のように、外からの観察や調査
2︶ここから私達は、個別・ 具体的な範
ではなく、自己が運動者との日常的交渉を常にもつことが必要となろう。/ ︵
例化という作業を行う必要がある。今日の社会科学の普遍化志向による、 リアリティの排除を防止する手だては、こう
した個別・具体的な範例化の繰り返し、という作業による他はないと私には思える﹂ ︵
同︶。
中野の批判|| ﹁
共同行為﹂の可能性を認めつつも、歴史性の看過への批判
3

1︶水島調査の経験から

この似田貝の論考に対して批判をおこなったのが中野であった ︵
中野、 一九じ五 ale−一九七六
、 中野ほか


七五 aib︶
− ZIキ品、
AHEM3po 一九六八年からの東京都府中市史調査を踏まえて、近郊都市の比較検討のな昧で岡山県倉敷市と石川県七尾
市の調査をおこなっている。その過程で共同研究者であった柿崎は 一九七 一年九月に倉敷市役所から、公害被害地住民
の集団移転をめぐっての住民意向調査を依頼された。柿崎は中野や有賀へ相談する。すると有賀から中野に対して﹁公
害問題は、産業公害問題は社会学が是非今やるべきだ﹂︵柿崎談 一二O 一五年四月二日聞き取り︶ という趣旨が伝えら
OOO世帯の住民意向調査に取り組むこ とになったのである。
一九七 一年に水島工業地帯に隣接する地区約 一

このとき、水島地区住民、市役所、大学調査団との聞には不信感や対立が存していた。中野は、 ﹁
我々は充分:: :市
役所を信用しうるか否かに疑いをもった﹂︵中野、 一九七五 a、 ︶ため、﹁市役所や市議会などにこれ[H調査報告苫]


区住民に報告する機会をつくってくれることという条件﹂ ︵ 問、[ ]は引用者の補足︶
を報告すると共に直接調査対象地
て受入れられ ている﹂ ︵中野、 一九七五
をだした。中野ら研究者は﹁村の人たちには、権威を背景にしているものとし
ので﹁それだけに慎重でなければならないし、また被調査者からの信績を裏切る結果になってはならぬ﹂︵同︶
a、三︶
と考えたからである。
住民の]市役所の側の人々に対する質問や意見の表出 は厳しく激
O月の調査説明会では、﹁[地域
実際、 一九七 一年 一
。 地区住民の人々は容易に﹁我々﹂
しく ヤジの罵声も加わ﹂︵中野、 一九七五
a、四︶ るといった状況であった ﹁被調査

などと言わせてもらえるような相手にはなってくれはしなかった﹂︵中野 、 一九七五 a、六︶ ﹁調査地区の住民たちに
もし我々が﹁共同行為﹂などという言葉を使 ったと したら
ll、もし、市役所の人々に対し て﹁彼ら﹂と呼び、その住
害地区
民たちと我々調査者が、あたかも共に歩む者でもあるかのように ﹁ 我々は﹂などと呼びかけたとすれば、彼ら公

。 。あるいは丁重にこう言ったかもしれない 思い上らないで下さい、と﹂
住民は我々をはねつ けたろう 甘 った れるな
社会学者と調査対象地との関わり


このように、中野のスタンスは、﹁共同行為﹂に批判的である
︵中野、 一九七五 a、五︶||
2︶追跡調査と学生の意見を踏まえて

かっ、学部ゼミ生のコメントもひ
九七四年以降の追跡調査の経験を踏まえ、
中野は 一九七 一年調査から三年後の 一
。 。
き、﹁共同行為﹂について敷街している これを述べてみよう
①時間をかけた相互信頼の構築
。﹁三年後、私は岡市を再訪して追跡
まず中野は、 三年間で相互信頼が構築されたことを大きな変化として指・揃する
i
第五主主 村 W

中野ほか 、 一
﹂︵
調査を再開した。驚いたのは地区住民のな かに市 の企画部長への信頼感が見出されたことだった 寸七

7
11
Lf
五b、三二︶。 また、 三年前の中野らの調査票を参考にして住民みずから調査票を作成し、部落全世帯を調査して
のである。 −﹁ 信 頼 は誠 実 よ eft−
t dfH

世 私
f 的な活動によって生み出しうるものだ。:、
四年前にはあれほど激しく対立と不信にみ
ちていたこの村で : :
・ [ こう し た状況になったのは]驚
2

くほかなかった﹂ ︵中野ほか 一九七五b、 。ここには住


7


一三︶
1

民と役所の倒係変化が大きいといえようが、媒介となる中野ら調査者の役割にも触れて
﹁研究者の生活と印刷究対象た
る生活が触れあうなかで
相互信頼の場を発見し或は創り出すことなしに社会学的な現地調官に成功したという
ない﹂ 日1l’
v齢
マ 、品、 一九七五 a u
iiugI
f ま
とする。
ZE
町主にk, 刀


②論理の短縮さへの批判
次に中野はゼミ生 N H

の以下のコメントを﹁手厳しい光吉﹂、l JV’匹 、、

FA1削みMM44 一
LR
九七五 a、三O︶としつつ紹介する。
﹁﹁似田貝氏は:


; ﹃
主 体﹄ と ﹃容休﹂ の弁証法的統 一を: :
; ﹃
研究者が自己を大衆や住民の 一日円である﹂
求め﹂ ているが ﹁このよう とすることに
な短縮的な思考をもたらすのは ﹃ 研究者﹂ の思いあがり﹂で、﹁その思いあがりは何に起同
するか﹂ といえ ば ﹁
﹃大 衆﹄ や ﹃
住 民﹄ に対する ﹃
無知﹄ であると言えよう﹂ ︵ ︶ 。﹁
同 私 H NH の与えでは ﹃
住民連動﹂ [ ]
地域
は生、活者大衆の日常の生活過程のなかでの現実的諸利害から不可避的に創出されるので
盾することになれば 内己の請利古に矛
それまでは好意的に過してくれていたとしても、隙ねつけるようになることはある。
深く深く押さえてお﹂ く必要がある﹂ ︵ このことを
︶ 。これは、論埋の短絡さと、

いか ようにも その点返しとして地域住民が利害状況の変化で
変化するという点を電加すべきとの指摘といえる。
①情緒面への批判
次の学生︵F ︶
H のコ メント はこ うで ある。似四良の﹁共同行為﹂ の提起は、心情的にはわかるものの
﹁彼自身拒再する ﹁
み その結果は
せかけ の人間 関係 ﹂ そのものに陥ってしまうのではなかろうか﹂ 、
、 けHl川正 にh・4M 一九じ五 a 三こ。
JJV S Eh B


それというのも、﹁その場の感情や自らの正義感などで
F
勤することはあまりにも安易だし、そこに

量 生れると彼の信じ
ていヲ。 ﹁連帯﹂ は自分でそう思い込んでいるだけ﹂ ︵同︶かもしれないからである。これは ﹁共同行為﹂ に伴・つ仙紺面
の問題の指摘である。
④﹁共同行為﹂が字む自己美化の指摘、 調査対象者から教えてもらうことの重要性
このコメントを受けて学生M Sは﹁共同行為﹂という語の背反の心的 に者Hして述べる。﹁
行政官や社会学告が調査
者として被調在者に悼惜するとき、 被調査者は当初好立的でない態度をとる喝合が多く、 それが成果を刊行しく削押する﹂
一九七五 a、三二︶
︵中野ほか 。そのため﹁﹃共同行為﹄というスローガンで打開をはかり、白己の也助や行為を防衛
し美化しようとする﹂︵同︶ 。しかし、そのように美化しても調査者の﹁主張や行動は被調査者に受入れられ難く、その
結果を不充分なものとするだろう﹂︵同︶ 。だが、﹁彼ら[ H調査者]が自己の限界を知り、 しかもなお普立と良心、彼
らの理怨を実行に移そうという気概を失なわないなら、被調査者の多くは彼らをみちびくだろう。:::被調査者の多く
は最小限そのような好意をもっている。::被調査者が教える態度をとってくれぬ限り、充分な怠昧での調査はなりた
第五章 村滋社会学者と調査対象地との関わり

たないと思う﹂︵同︶ 。
被調査者の好意的でない態度を克服して調査の成果を仰ょうとするな肉のもと﹁共同行為﹂が調読者側から提起され
るとの理解は、 三浦倫平︵二O 一八 二ハ︶がいうように似回貝の提起︵H被調究者の側から﹁共同行為﹂が求められ
ている︶ とはややずれていてベクトルが異なっている。とはいえM Sのこの指摘は、﹁共同行為﹂の苧台自己美化 ・白
己欺備を気づかせる重要なものといえる。
くわえて、被調査者に教えてもらうことの重要性について中野はいう。
﹁調査者は被調査者との接触を通じて教わる
のだ。社会学的調査は、調査対象者から教えてもらうのだ、という乙とは、有賀存左衛門先生が社会調査実習で学生た

73
ちに教えられたことの重要な 一点であった﹂︵中野ほか、 一九ヒE b、二八
︶ 。 ﹁とすれば、そういう調作行が村人に向 つ

1
て ﹁
共同行為﹄ を提唱するなど不可能に私[
HMS]には思える﹂︵中野ほか、 一
九七五 a、三二︶

似回貝も、﹁調査者は被調査者との接触を通じて教わる﹂という点について否定はしないであろう。
74

だが、中野 −M
1

S
が﹁共同行為﹂に否定的であるというごとは、彼らが対象者から教わり学ぶことに力点を置いていて、似田貝の提起
する﹁共同行為﹂を調査者優位のものと理解していることがうかがえる。
⑤相互信 の困難さ、激烈な相互作用の
11 必要性と記述的資料の重視
学生SAは、①
に類 似し た相 互信頼の不 可 能性 につい てコメントを おこなうが、
それに対して中野は述べる。﹁反復
調査が長期にわたって行われるとき、
しかもそれが参与的観察法などを伴うとき、:・:調査者と被調査者とのあいだに
相互信額が生れ深まることは当然ありうる事実である﹂︵中野ほか、
一九七五b、二八︶ 。しかし、それは簡単ではない 。
調査者 ・被 調査者双方 の﹁ 火花 が散る﹂︵中 野ほ か、 一九七五b、二九︶ような触れあいのもとで、

調査者は、間いを
発し、教わり、被調査者は、問いをうけとめ、教えながら自らもまた認識をあらたにするというような人間どうしの相
互作用﹂︵同︶をおとなうととにより﹁共同行為﹂が可能となると中野は主張する。
そのために ﹁﹁記述的﹂な資料には
そういう手ごたえが重みとなって残っていなければならない﹂︵同︶として、質的調査が重視されるのである

@綿密な歴史的現実把握の研究の必要性
研究手法について中野は次のように総括する。
﹁私はやはり従来私たちが行なってきた調査方法、各小
地域社会の
ひとりひとりの人間の生活と私たち研究者の研究生活とが触れ合いながら、綿密に歴史的社会的現実をこまごまとした
生活事実としてとらえその集積を手がかりに研究を進めていくのがいいと考えている﹂

中野、 一九七五 c、四七︶ 。別
言すれば ﹁長期にわたり 反復 調査 を同 一対象について行なうほか 歴史的社会的現実としての社会、
的行為、 社会的人間、 社会
社会的なものであ る文化 をと らえ 、
ごれについて実証的に考える方法はない﹂ ︵
中野、 一九七五 c、四八︶。そ
うした研究は、 ﹁必ずしも実践的には間に合わないと性急な期待からは批判される﹂ ︵
同︶ 。 しかし、 そうした調査研究
﹂そが、﹁多少とも科学的な調査結果と いえるものを提供しうるために﹂ ︵同︶必要である。
3︶歴史社会学的立場からの似田貝批判

以上見てくると 中野と似田貝で ﹁共同行為﹂ の内実に相違があることがわかる。中野らは ﹁
思いあがり﹂という言
葉に象徴されるように調査者 ・被調査者関係の心情的な側面に力点を置いてとらえているのに対し 似田貝はより実践
的かつ近代科学批判の視点で強くとらえている。 ただし、 ﹁
共同行為﹂ の困難さと研究者優位になりがちな点への中野
による批判については、 似田貝もその批判を受け入れるように思われる。実際
、 三浦も﹁似田貝が言っ ていることとほ
とんど同じで﹂﹁基本的に中野と似回貝の問には論争というほどの対立点はなく﹂、﹁本人たちの聞では誤解は解けていた﹂

三浦 、 一七︶としている。
、 二O 一八
とはいえ、 似回貝の証言によると、 似団員と中野は ﹁曲り角﹂ の歴史性の認識では共通理解に至らなかったという
第五主主 村裕社会学者と調査対象地との関わり


同︶ 。 つまり、 ﹁いま社会調査が曲り角にあるとは考えていない 。もし今が ﹁
曲り角﹂とすれば これまで、 いつでも
そういう曲り角でだけ社会学的調査は行なわれるはずな のではなかったろうか﹂ 一九七五 a、 ごという点は



両者の間で共通理解に至らなか ったといえる。
この点は、 井腰圭介が指摘するように 中野が歴史社会学の立場に立つがゆえの批判といえる。 hドぽぜ, + ﹁社会︵社 AF


rL
FU F
“斗& eb
中野、 一九七五 b、 布団
会的現実︶ は歴史的現実よりほかの何ものでもありえない﹂ ︵ 〆がゆえに、 ﹁社会学の 研究方法
は、歴史社会学という方法でなければならない﹂︵同︶とする。 この歴史社会学では、 超歴史的 ・普遍主義の理論化は
否定され、 社会過程の精密な把握が必要とされる。﹁﹁超歴史的﹂と評されている間違った﹁普遍主義﹂ の理論に堕する

7
15
よりは、 歴史社会学が個別の事例的研究をもうすこし多くそれを集柏しながらでなければ 各々の歴史的 ﹁段階﹂



内での、 また継起する諸段階の関連の仕方についての普遍的な理論をそれなりに立てていけるものでもない 。
事例研究
6

に力をそそぐことが ﹁
7

個別主義﹂ で記述に偏するという非難をまねくとしても 歴史の展開とともに梢造が変質す


1

るような社会変動が生ずれば崩壊するような普遍主識の理論を呼号することだけはしない方がよいと私は思 ってい る﹂
︶ 。公害問題のような ﹁環境問題を解くことのできる社会学は﹂ ︵
︵中野 一九七五 b 六 巾野 一九七五b、 ︶ このよ
うな ﹁実践的にして経験科学的な、 自然 ・文化・社会の社会学的総合研究としての 歴史社会学で なければ一

ならない﹂

同︶。
こうした歴史社会学の立場にたつゆえに ーマ V− J ﹁
JHaHUJみt 調査 ・被調査という相互行為じたい、 歴史的な相互行為なのであ
A
p
る︵社会学的調査におけるこの相互行為が果たして ﹁ 共同行為﹂と呼びうるものになりうるのか、逆に ﹁共同行為﹂が
社会学的調査になりうるのかという問題のまえに こ のへんから私たちは 思い知っていなければならないのだ ろう。
︵中野ほか 一九七五 b、 O︶という認識になるのであった。それゆえ 似悶員の 立論には ﹂

﹁調査行為の歴史性につ


いての認識前提の欠如﹂ ︵井腰、 二OO三、三四
︶ があり、 ﹁福武が推進した社会調査のあり方を批判して構想されたは
三塁
:
E

似田貝が批判した当の社会調査と共通する問題﹂︵同︶
判 l
をず
中 の

t
し 空l
野似
は田
み貝

ぞ界
執空
いの


『 ノ 、



あ語


~t ~~
,_と





柿崎の新池調査
柿崎京 一と新池調査
1

っ 。
新池集落はミシガン大学日本研究所による研究プロジェクト ︵一九五01五五年︶ の調査対象地の一つであ た そ
っ 。 時東京教育
の後、 その調査への返礼の意味で新池における農業機械化の実験がアジア文化財団によ て企画される 当
大学大学院生であった柿崎はこの機械化実験の調査への参加を森岡消美から打診され、出業経済班の 川本彰︵当時東京
大学大学院生︶とともに、社会班の駐在研究員として長期滞在︵二ヶ月ごとに交代︶ の参与的観察調査をおこなうこと
になった︵期間は一九五六年一 O月から 一九五九年六月まで︶ 。
羽交対象地との|刻わり

調査地と機械化の概要
2

調査地と機械化の経緯については紙数の関係から大幅に訓愛せざるをえない 。詳細は柿崎︵二O二0 ・二O二


一 ︶を
裕社会学者と i

参照してほしいが、以下重要な点のみ触れておく。
。 戸
調査対象集落は、岡山県吉備郡高松町大字新庄上字新池︵現在岡山市北区新庄七︶ である 調査当時の戸数は二四
で階層格差は大きくなく、兼業従事者は 一七名、民業生産には水稲と裏作の麦作のほかイグサ栽培があり機械化も 一部
第五章 村i


進んでいた。二O二二年でも戸数は 二六戸、うち農業をしているのは六戸である

7
17
、中層であるE府︵約五反1 一町
柿崎らは集落内農家を耕地総面積別に 三 つの階層︵下層であるI用︵約五反以下︶ ︶、
上層であるE屑 ︵約一町以上︶ に分け、 二つの同姓集団と五つの同族団 ︵
株内︶ も考慮して分析する。新池は 一九五五
78

農業機械化委員会﹂ ︵部落長で 皿層のF氏が委日長話任︶ を組織し機械化融資の対応を開始する。と


1

年八月に六名で ﹁
ころが、 その過程は紛糾する。機械導入計画は各層の利害から数度変更され、 またそのリーダーもF氏からO氏 ︵県庁
とのパイプが深いE陪分家筋の酪出家︶ へ、さらにはG氏 ︵元村議で元老と目される田府有力家︶ へと変↓史することに
なる。
柿崎らは 参与的観察を通じて農民たちの心情によりそいながら、 機械化にどる山凶作業・家事への影山科︵例 一段作業
が能率化して多角経営化した結架による家族内作業分担の変化、 水道の施設による家事労働時間の減少と単独化、余
暇時間の増加、等︶を詳細に分析しているが、 残念ながらそれについても割愛する。 乙こでは融資過程での部落体制
の変動を描きながら柿崎が発見した出民の三 つの﹁平等﹂について紫述したほ。それは次のようなものである。①当初
は、﹁融資は新池全体を対象とするものだから、 皆 一線に融資を受ける資格がある﹂ ︵
柿崎、 二O二O、三二︶という﹁総
I ・E屑に強い︶ があらわれ、 ①その後融資がすすむにつれて交渉力のある中岡山にリーダーが 交
花的形式的な平等﹂ ︵
H用 ・若手の支持︶
﹁新しい蛍肢に怠欲的な店業者に重点的に融資すべき﹂︵同︶という﹁重点的実質的な平等﹂ ︵

が強くなる。①しかしその後上層にリーダ ーが交替することで ﹁経営規模に比例抜分して各戸の融資額を決めるべき﹂



柿崎、 二O二O、三三︶という﹁経営階層基準にもとづく実質的な平等﹂ ︵皿府を代表︶が主流となる。 この三 つ目の
平等は ﹁部落における従来からの手法﹂︵同︶で、﹁既存の部落秩序を崩さない平等﹂︵同︶であり、 その発露により﹁各
層聞にそれぞれ一定程度の満足感を抱かせ﹂︵同︶て農業機械化の実験を終結させたのであった。
新池調査の特徴
3

柿崎らが機械化融資の調査からこうした発見をおこなったということは 機械導入およびそれに伴う共同化の展望に

特に由来経済学のそれとは異なるものを柿崎らが持っていたことを怠昧しよう



ついて 当時の学界の問題意識、
︵それに伴う資本主義的経嘗あるいは協同労働の展開︶と
わち、 いわゆる生産力の発展による農民層の両極分解の進展
|悪くいえば教条的公式的な|義和から距離をとっていたといって
いった 原理論の ﹁適用﹂ で説明するような|
柿崎らの研究結果はそれと
よい。自立経営はすすまず多くが兼業滞留した機械化進展後の日本位業の展開をみるとき、
。柿崎らがこうした把握を可能とした
は位相を異にし、人間行動を奥底から理解しようした射程の広いものといえよう
のは、 事前の理論 ︵仮説︶ を固執せず、 有川以や中野が力説しているように長則的な相互関係にもとづき被調査者から教

わり学ぼうとする姿勢によるものと考えられる。柿崎らのこうした柔軟な態度と分析は評価されるべきであろう
対わり

。すなわち|!?﹂の種の調査に対して時に言 いはなたれが
t 村落社会学者ーと調査対象地との l

この点について、 塚本哲人の書評が的確に表現している
ちな、﹁民族的個性の内側に根ざしていない教条や理想の形式的摘用に流されてしまうか、それへの余りに楽天的な逃
。 条件のうちには、この落し穴
避におわってしまいがちな安易さ﹂をまったく感得しえない﹂ ﹁本研究に与えられた外的
それにもかかわらずとの安易さを克服できた理由のひとつに、本附
に陥いる危険が伏在していなかったとはいえまい 。
ってはいいすぎであろうか。﹂﹁参加研究者全
究を 一貫している参加研究者たちの正しく強い研究態度と方法があるとい
員にみなぎっている対象農民に寄せる人間的なあるものとが、従来の枠を破った参与観察的方法を深化せしめたにちが
。﹁比較的派手
いないし、そこからえられた成果が資料そのものに語らせる重厚な説得力を生みだしているわけである ﹂

9
;

7
i
第五:

1
に感じられる本書の課題を、きわめて念入りな取扱いに終始し、実験に徹しきっておられる態度が充分うかがわれる﹂
「一
木下 ・塚本、 一九六
︵ 一六一︶ 。
8
10

報告内とは別のエスノグラフィ!の先駆性
4



一九六=−
8
柿崎は調査報告代川とは別にエ ッセイ的エスノグラフィ| ︵柿崎、 ale−一九六川 al e−一九六九 ai
f −一九七五 ・一九七六 alb︶も執筆している。執筆の背景には 中野による ﹁君のように長期にわたって実施した
失言号観察調慌の例は珍しいから﹂ ︵柿附、 一九六三 a という般的があ 匂た。 この両行を比較すると エスノグ

ラフィ lの方がより直哉的に現場のリアリティが描写されており 調査報告書では詳細にとりあげられなか った知見が


多々あげられているととがわかる。
たとえば|| 村入りのエピソード ︵酒飲みでの酢町と軍隊経験の岐濯が受け入れを促進したこと︶ ︵
柿崎、 一九六
。組合と部部のそれぞれのリーダーの差異と柿遣の相述の摘写 ︵新規の部門に次々に挑む山学校出のインテリ組合
a︶
部落の既存秩序を重視し村山重な部落長︶ ︵
柿崎 。その構造の述いから融資の配分案が 二転三転した
、 一九六三b︶

具体的な事情 ︵
柿崎 。若く航極的な組合長が、出促旅間以で問題を起 こして昨職する経緯、およびそれを
、 一九六三 C︶
総会時の公会堂における出席者の座席位世の動きや発言内容を交えて叙述すること ︵
同︶ 。問題を起こした人間の立任
の取り方と、 それが札蝶をのこさないようにする様子︵あえて発言をしなか ったり、冗談をい って笑いを取 ったりする
など︶ ︵
柿崎、 。香典聞きでの柿崎、 川本両氏の械いと 文宇の上予さをダシに他有の香典簡を知ろうとす
一九六凶 a︶
。イグサ刈収作
柿崎、 一九六回 C︶
る様子、 およびその怒昧 ︵喪家を中心に成良相互の地位を雌認しあっていること︶ ︵
業において柿的が ﹁
雨引﹂として忌避されることと そのな昧の与京︵肉体的和神的に限界状況のなかでの笑いと気分
。イグサ仲買人と出民との共接関係と家族内緊張関係の説明 ︵
−九六四d︶

L
転換があることの発見︶ ︵
柿崎、 柿崎、

J

六四 e︶ 機械の故障をめ ぐる共同 メンバーの対応から共同の体験に服申さした 問題の解決という経験科学的手法の発見
。柿的自らが山凶作業の手伝いをするなかで、円身の﹁村人り﹂の位閉山 ︵ 弔肘的社会聞係の川縁部︶
︵柿崎、 一九七六b︶
柿崎
︵ 、 二O二 一、三五
︶︶ 。聞き取
とその位置にいるがゆえのメリット ︵微妙な領域にも介入可能であること︶ の認識
り剖査時に他聞する川部への反省と発見 ︵出家の 加入﹁集問﹂ を聞いたところ ﹁ 集川と呼ばれるような] そんな立派

なものには入っていません﹂と返附合され、﹁集団﹂という用語が良民の生活には線ざしていない状況を認識したこと︶︵柿
、 二O二
崎 ︶。
一 、二六
こうした叙述||柿崎は﹁ドキュメンタリー記録﹂︵柿崎、 二O二 ︶ と呼ぶ| |、すなわちエスノグラフィ l
二八

一 諸制されるべき
と知比は長則山の参与的観・ 祭でなければ卜分に鎚引できなかったものであり、 その先駆性とともに尚く
代以上に、具体的な個別股民のミクロな動きや心情
であろう。むしろ、参与的観察ならではの成果をいうならば、報告 田

を拙いているこれらエスノグラフィーをあげるべきだろう
刻わり
, 社会学 Eと淵査対象地とのl

おわりに

共同行為﹂と A R

1

。 共同行為﹂
|小 野論争で 川凶となった ﹁
これまでの検討を防まえたうえで A Rへの示唆を述べてみたい まず、似川 HH
H吉

。ただし、歪祝する側面や性格、よって立
、 ARに通じるものといえるが、それよりも広い内実を持つものといえる
l

81

.i

1
。とはいえ、両
i

こったのであった
百U

つ方法的立場の相述のために、 似凹貝と巾・野の 問で川請をめぐっての混乱や批判が起


者とも ﹁ ﹂ をめぐる問題の大枠は共通しており、 中野も ﹁共同行為﹂自体は否定して いない。 こうした相違点
共同行為
82

が明般になり、 研究者と対象地との闘係についての議論の先駆的位世づけを内めたことが、 本論争の怠、必といえよう。


1

A Rの前段階としての新池の実験
2

新池調査は機械導入の﹁社会実験﹂ ではあるもの の そこではARで用いられるようなW S等をおこなってはいない 。



実 験﹂ とはいえその内実は出民の自主的活動に多くをまかせたものであり、 調査者である柿崎らはアドバイス等によ
る民民たちの活動への介入はおこなっていないのであった。だから この新池調査はARとはいいがたい 。 しかし
らの参与的観察は 中 野が述べるように相互信頼を生む防相
川 共同行為﹂ につなが っていく
町の事 例となるものであり、 ﹁
基礎となるものではある。それゆえ 新池調査はA Rの前段階に位置づけられるものといえよう
教条や理想と距離を世き 理論︵仮説︶ を固執しない態度
3

そのほかに柿 崎らの 研究において重視されるべきは 教条や理想と距離を世き 事前 の理論 ︵


仮説︶ を固執せず、被
調査者から教わり学ぼうとする研 究態度と方法であろう。 そのことによって 当時 の学界の問題意識に強く制約される
ことによる教条的 ・公式的な議論への 呪縛から距離をおくことができ、対象者の心情に寄り添いつつ人間行動を理解す
る射程の広い研究成果を得られたのである。
こうした態度と方法は傍観の立場ではない 。柿崎の回想にもあるように 有賀も社会学者は時代 の課題に積極的 に関
わっていくべきと考えていた。だが、ある価値にコミットしその実現を志向するようになるとき、 ややもすると原論の
﹁適用﹂をおこなう危険性が生じかねない 。 それを避けるために、 前述 の態度と方法が重要なのである。中野が述べる

歴史社会学と実践性との関連もこの点に通じよう
が苧む危険性からの回避の庁途を、柿崎
課題解決を優先し理恕の実現を志向する種類の研究|| A Rもその 一つ| |

らの研究は示唆して いるといえよう
多様な表現方法を取りいれる媒介
4

冗の観・僚はあまり組み込まれず、
一九六O︶には参与的制策での ミクロな次−
新池調査の報告苫︵岡凹・神谷責任編集、
。柿崎のエスノグラフィ lは優れた描写・分析となっている
エッセ イ的エス ノグラフィ lにお いてそれが描かれていた
。報告丹とエスノグ ラフィ!の両者があ
が、しかし、もう 一方に全体の桝 造を考・対する報告占があることが重要である
。 優位性は、旧来のような研究
いまって事象の理解が深められているからである すなわち、新池調査の 一つの成果 ・
いることだといえよう。
と、当時の日本村部研究では珍しく先駆的であ ったエスノグラフィ !の二 つが連関して存して
首と調査対象地との関わり


、 エスノグラフィ!との親和性が高いといえよう ただ
ここ でARを考えてみると A Rは参与観察的な手法が強く、
。 、 エスノグラフィ lに限らず、それ以外の多
し、A Rと参与観察とは相述点もある それゆえ A Rを単入することは、
。徳野貞雄らの槻木プロジェクトを記録したドキュメンタリー映
様な表現方法||たとえば、中野の生活史をはじめ
をも研究成果として位m叫つけることにつながりう
像、徳野が﹁天性の山村社会学者﹂と評する山下惣 一の符 作などーー
t 村税制会学1


而 にも註口してよいであろう
A Rは問題解決に力点が置かれがちであるが、現状認識の盟−U化 に寄与する側

3
;
!

8
第五:

1
一部である。
付 記︶本析はJSPS科研費17K04150による研究成果の

84

1︶ARの限解は論的によ って異なるが、 本稿では・山


1

︵ 寸介太郎がいう、 現均 でワ lクシヨツフ︵以ドW S︶等を反作的におこない、


組に向き合う﹂︵平井、
﹁やりながら考える、省みなが らやってみる、と いったかたちで実践と研究を循環的 に組み合わせ、剤師 a
二O二二、一ヒ︶ことと理解しておく。
2︶私たちの研究グル ープ ︵
︵ 矢野皆目、高凹知和、牧野修也、一悩凹必および三須町︶では、 柿崎氏 に対し てその 研究歴・生祈史の
ヒアリン グをおこなっている。本稿はその成果を利用している。また、執筆にあたっては武笠俊 一氏からも示唆をいただいた 。
3︶原文巾でM Sのイニシャルとなっている学生は武笠俊 一氏である武技氏本人から教示をいただいた。

4︶中野ほか︵一九七五 a︶ではS Aとあるが、中野ほか︵一九ヒ五b︶ではSTと誤記されている。

5︶しかし、似凹貝は将遍主筏の均泌を滋出しようとしていたのだろうか。似旧日は﹁例別・μ体的な範例化の繰り返し﹂ ︵
︵ 似川良、
一九七問、七︶と述べていた 。これを、具体の方に力点を白いて将沼化と異なるものととらえるか、あるいは範例化に力点を
置いて?﹂れは 明らかに法則定立をめざしていることに 外な らない﹂︵安田、 一九七五、 問九三︶ととらえるのかで、この筒
所への批判 の埋解は変わりえようなお、この治争にはその後安凹も参加する ︵
女山、 一九ヒ五 安山の主仮には多くの点


で首肯で きないの であるが 、本稿 では割愛する。
6︶附田 ・仲谷氏任編集︵ 九六O︶では充分に繋 できていないように思われるため、本航では柿崎 ︵
︵ 8
ニO二O︶で の盤 を参

剛 刊

考にする。
7︶こうした論調への批判は玉真之介︵ 一九九問︶を参照されたい

8︶本・制ではエスノグラフィーを、
︵ M点を世いた作品とし、モノグラフとは異なるな昧で使っている。なお、
ル ポルタ ージュ的な叙述に −
参与的観察﹂の用語は調査手法として使用している。
本稿では ﹁
9︶むろん、すべての研究行は何らかの立ぬや仮説をもとにものをけんている。柿的らに してもそれは同級であり、 測
︵ 点川 の前総にい
くつか 仮説 ︵とい うよりも問題立識︶を提示しているし︵岡田・神谷口任編集、 一九六O、一および 一七三︶、﹁家 ・村出諭﹂
の立均に依拠しているともいえよう。しかし、ここで直視したいのは、仮説を同執せず被調作脅から学ぼうとする態度である。
引用・参考文献
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村活社会研究ジャーナル﹄ニヒ巻 一号、ニOニO年
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村治社会研究ジャーナル﹄ ニヒ巻二号、二O二一年、二五l三八頁
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未来﹄一二三号
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﹁構造分析﹂の 調査を振り返って||︿主体を介しての構造分析﹀をめさ
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原山 浩介 日本大学法学古都教授
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平井太郎 弘前大学大学院地成社会研究科教授
田村典江 事業m
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教津元輝 京都大学大学院段学研究科教綬
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徳野貞雄 熊本大学名付数段、
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:村研究所代表理事
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福田 恵 広応大学大学院人I
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石橋留美子 益田t
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三須田普暢 岩手県立大学』I
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岩島 史 京都大学大学院・
経済学研究科講師
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佐藤洋子 高知大学I
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アクションリサーチとし、う問し、一一フィールドとの向き合
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