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Sobre Robert Lepage, Ou Pensamentos Sobre Teatro e Espelhos (JP)
Sobre Robert Lepage, Ou Pensamentos Sobre Teatro e Espelhos (JP)
ベ
ロ
あるいは演劇と鏡をめぐる思考について
井 慎太郎
藤
英meの stagqe rigqht、ω鼠αq①霞什という]呼称は、客席から見たものとは反対
[
だ。[舞台上では]左右が反対になった、さかさまの世界を見ている。そのこ
とは、鏡の概念、存在の鏡としての演劇の概念を再び想起させる。
ことが進行する、だが同時にある別のレベルでも物事が進行
つ
の
序
する、さらにもっとちがったレベルが存在する、そして物事が垂
207
︵2︶ ︵3︶
ール・ルパージュRobert Lepageは、その
直演 劇結
的に をびつく、積み重なる﹂︶からである。
ベ
ロ
し分析しようと思う者にいくつかの困難をつきつけて 多様性と重層性を読み解くにあたって、鏡と
解
理
演
劇
そ
の
の
る。表現の手段として仏英語をはじめとする複数言語を う概念的装置あるいは文字通りの舞台装置は、異なる作
い
い
使い分け、内容においては複数地域の文化、媒体も狭義の 品およびそこに内在する諸水準を貫く、ひとつの有効な切
なく複数領域にまたがり、またワーク・イン・ を提供している。ケベック市を創造の拠点としながら、
演
劇
け
だ
ケ 断
ベ 面
プログレスとして常に変容し続ける彼の作品は、視点を変 クのみならずヨーロッパ、北米、アジア、オセアニ
ッ
えればその受容の様相も変化してしまう多様体に喩えう を舞台として活動する彼とその協力者の姿を鏡映しにす
ア
る。さらに、︵映画が﹁水平的﹂であるのに対して︶演劇は﹁垂 るかのように、彼の作品の中心的な登場人物は世界を旅す
直的﹂なメディアだと捉える彼の舞台作品には、異なる水 るケベック人たちである。そのケベック人である登場人物
準で作用する複数の問いが同時に存在している︵﹁あるひと 多くが劇の中においても俳優となる。ルパージュの演劇
の
︵5︶
は、劇中劇の形式を用いて、さらに自らを二重化する。そ らないけれど、これらは非常に演劇的な社会なんです﹂と、
台空間も、鏡あるいは鏡像としての映像を多用し、あ ードルズ・アソド・オピウムLes Aiguilles et l’oPiscm﹄
『
ニ
舞
の
るいは舞台内舞台という入れ子構造によって、またも自分 九l︶においてルパージュ自らが演じる主人公は観客に
北 ス 語 (
︵4︶
自分自身の上に映し出している。 りかけた。事実、北米の英語の大海の中に浮かぶフラソ
鏡 姿
の
人 小
の の
裂する︶、そして同時に二重化話◎8三Φする︵その像は 口の約二%を占めるに過ぎない︶、私たちはケベック
場 鏡 分
しかないと同時に私でもある︶。舞台に立つ俳優が、登 を知っているのだろうか。確かにケベックは、
何
つ
て
い
に
人 像
で
物でもあると同時に俳優という個人であり続けるよう カナダであると同時に、あるいはそれ以上に、ケベックで
に、舞台上の出来事が、観客にとって第三者的な虚構であ あるという、演劇にも通じる二重性を背負った場である。
り同時に観客が俳優たちと共有する現実でもあるように、 ちは、英語圏カナダといかなる共通な特徴があると
「
僕
た
は演劇的なのである。あるいは、イタリア式と も信じていない。けれど、外国の文脈に身をおいた途端に、
208
れ 二
重
い 鏡
性
わ の
︵6︶
る近代劇場の舞台の額縁が強調するように、演劇空 自分がカナダ人であることを強く感じるのだ﹂とルパージ
間こそが、鏡的なのであるといえるだろう。 は別のところでも述べている。入植者として新大陸を目
ュ
うだとして、それでは﹁自己﹂でもあり同時に﹁他者﹂ しながら、英仏戦争敗北を機に英国によって再び植民地
化 指
そ
もあることを可能にする、まさに自己と他者を隔てる境 され、経済的に支配されるという逆説のもと二世紀を生
ね 界 で
線をめぐる鏡の演劇的機制を生かしながら、垂直的に重 き延びたケベック人たちは、六〇年代以降﹁国民﹂として
合わせられるそれらの物語の層とはどのようなものなの 意識を強め、フラソス語に根ざした社会の建設を目指す
の
ろうか。 な革命﹂を成し遂げ、カナダからの自立を強めてき
F 静
か
だ
た。そのとき、ケベック人であること、カナダ人であるこ
ケベック
ととは何を意味するのかo同l性をめぐる問いは、一時も
カナダとケベックについてあなたが何をご存じかは知 クを離れることがなかった。同一性とは、ソシュー
ベ
ッ
ケ
F
して構造主義理論に倣っていえば、あるものA ように、若いケベック演劇は、おそらくケベック社会以上
ル
語
学
言
︵1︶
とAでないものとの対立において要請されつくられる。﹁ケ に、正統性と同l性の問題に直面したのである。それを追
クが定義されるのは、英語圏カナダ、合衆国、フラソ て、ケベック演劇のもう1つの主流となる実験演劇、文
ベ
ッ
っ
︵7︶
ス、そしてイギリスとの関係においてだ﹂とルパージュも 的テクストよりも即興や視覚性を重視する演劇もまた開
花 学
しているように、ケベックはそのようなすぐれて近代 る。﹁少なくとも七〇年代、言葉があまりに政治によ
的 指
摘
す
な二項対立的な思考の枠組みに支配されてきた場なので られていたために、人々は異なるメッセージを
色
て
づ
け
っ
︵12︶
ある。 えるために非言語的な演劇へと向かった﹂とルパージュ
伝
ク演劇もまた、そのような同一性の問題と無縁で は当時を回顧する。だが、ここで特徴的に見られる上演テ
ベ
ッ
ケ
はなかった。フランスに倣った文化芸術制度の整備も手伝 クストの拒否もまた、﹁他所から借りてきた、ケベックの
て、独立運動は、確かに、かつて一九三〇年代にはモン も観客もそこに自分を再認できないモデルに仕立て上
っ
語 げ 役
者
トリオールにさえプロの演劇集団は二、三しかなかったと られた言葉﹂を拒み、﹁ケベックの現実とりわけその言 09
︵8︶ ︵−︶ 2
る地に、﹁ケベック演劇﹂という国民演劇をも生み と直結したその土地のドラマトゥルギー﹂を追求する試
わ
い
した。その誕生は、ミシェル・トランブレをその筆頭と とやはり不可分であった点において、ヨーロッパとはい
だ
み
るケベック人作家・演出家たちが、フラソス風の台詞回 ささか異なる意味合いを持っていたのである。
す
︵9︶
しを拒否し、joualを用いることを選択した一九六〇年代
境
越
に遡る。なぜ、日常フランス語を話していることが、ケベ
クにおいてもフラソス人作家の戯曲をしかも﹁フランス ク市に生まれ育ったルパージュを、まずはそのよ
ッ
ベ
ッ
ケ
台詞回し岳。けδづヰ鋤鍔巴ω⑦﹂で上演することを正当化 うな文脈に位置づけることは可能である。だが、それは彼
五 で 風
の
に
年ほどでしかない。僕達は古典を全く持ち合わせてお ク社会がしばしば当然のように強制する、独立派か連邦
十
ッ
︵1︶
らず、僕達の古典は借り物だ﹂とルパージュも述べている か、フラソス語か英語か、ケベックかフラソスか、とい
派
択一の問いは窮屈なものである︵英語を交えた作品 喜劇作品﹃マクシム亭の婦人﹄を上演するrepresenter
二
者
た
っ
をつくると﹁連邦派﹂と見なされた時期、多くの知識人がケベッ が、それがカナダを代表するrepresenterことでも
の
だ
ク誰を疎んだ時期もあったのだ︶。﹁僕たちは、文化とはフラ あるという皮肉さを描いた場面である︵万博の開かれた七〇
そしてそれに付随するものすべてだと考えるように はケベックにおいて独立運動が最も先鋭化し、ケベック解放戦
年
づ 語
条 ソ
件 ス
られてきた。それはそれで立派だけれど、次の十 線によるテロ事件を受けて戦争状態が宣言された年である︶。ル
け
︵1︶
年、次の世紀に進んでいかなければならない﹂と彼はいう。 ージュは登場人物ソフィをしてこう言わしめる。﹁あな
パ
とき、英語かフラソス語か、カナダかケベックか、と カナダ大使館の]外交官なんですって。それじゃ説明
[
た
の
略 い そ
た二者択一的な同l性の論理に抗うために彼がとる戦 してよ、なんでフラソス人演出家をモソトリオ−ルに来さ
っ
は、そのような問いに真面目に正面から答えるのではな たのか、それもフラソスの戯曲の中で、私たちにフラソ
博 ス せ
V︵あるいはケベックを無視するのでもなく︶、ケベック人俳 し方を教えさせるためにね、そしてこれが大阪万
で 風
話
の
ク人俳優を演じるという二重性を、演劇がそも カナダを代表するってわけを。言わせてもらうけど、
210
優
ベ
ッ
が
ケ
︵1︶
そも備える二重性に鏡的に重ね合わせること、自らに対す それがなぜって、私たち植民地化されてるからよ1﹂。連
る批評的次元を介在させることによって、彼はその問い自 とどまる限りケベックは多数派の︵英語圏︶カナダの
邦
に
身をケベックに投げ返すのだ。 陰にかすんでしまう︵そのカナダとて﹁アメリカ﹂の陰にじき
葉﹂と題された﹃太田川七つの流れLes SePt にn
bra か−
すんでしまう︶だろうが、フラソス語をアイデソティテ
コ
言
稽さを理解するためには、ケベヅクの歴史的文脈と はり二次的な地位しか得られないという、同l性の論理の
滑
の
ともにそのような彼の思考を理解しておく必要がある。大 袋小路が改めて浮き彫りになる。だが、それは二項対立的
博にやってきたケベックの劇団︵彼のカソパニi、エク られた問い、思考の枠組みによってこそ生み出され
立
て
に
阪
万
ス・マキナのケベック人俳優たちが演じている︶が、フラソス る袋小路であることを、ケベック自身に対して現在から向
家ジョルジュ・フェードーの空疎といえるほどに軽い られたこの場面の笑いは示している。
け
人
作
とき、ケベックもカナダもそして中国も、あるいは、 を濫用しながら、同時にそのことによって世界に観客を獲得す
そ
の
ラソス語も英語もさらにドイツ語も、といった多元的な る北米映画の多くに通じる戦略を見ることができるだろう。なる
選 フ
r
村 れ の
が、どうしたら西洋が何であるのかを、二十世紀の文化を は日本の表象に限られない︶。日本においても、たとえば川
きるだろうか。僕達には鏡が必要であり、そして僕 が﹁モンダイは、そこで描かれる日本の問題ですね[⋮
解
理
毅
で
︵1︶
とって最初の鏡の中の一つが東洋だったのだ﹂とルパー ⋮]そこに”新たなるオリエソタリズム”が構築されてい
に
ジュ自身述べているように、彼の作品に登場するケベック る。[⋮⋮]そこにはカナダの演出家が見た、い.わゆるひ
︵18︶
は異国を目指してやまない。そしてこれはジャソ・コク とつの﹃オリエンタリズム﹄がすべて現れている﹂と批判
トーとマイルス・デイヴィスに着想を得た﹃ニードルズ・ している︵ただ、この種の批判自体はもっともなのだが、ケベ ー1
2
ド・オピウム﹄においても、影絵や人形劇そして鍼、 クとカナダを同一視し、作品に﹁日本﹂しか読みとることがで
ン
ア
ッ
片ほかのモチーフにおける中国的なものとして介在し、 きず、無知によって無知を批判するのであればその批判は生産的
『 阿
ヴィソチくぎ巳﹄︵八五︶における日本、あるいは﹃地殻 なものにはなり得まい︶。
プレートト8℃ミミ翁§ミミ§8﹄︵八八︶におけるイタリ ずれにしても、日本をはじめとする﹁東洋﹂、さらに
仏 い
ないしスコットラソドや﹃月の隠された顔﹄における月 以外のヨーロッパという、ケベックにとって一見外部
面 ア
英
としても見出される。 的な文化的他者の表象は、ケベックを取り巻く同l性の政
シ
や
ア
ロ
もちろん、確かにその﹁東洋﹂の表象は、﹁世界を見る 治学から脱け出しながら、世界の観客に語りかけるための
文 泉をほとんど何も持たない﹂ケベック社会 りを作品に与え、同時にケベックについて語り続ける
化
的
源
切 「 め
紋 の た
無 の
広
が
知﹂の鏡であり、かなりのナイーヴな短絡性があり、 ことを可能にする。こうして、ごく近年まで﹁英語系多数
り型の描写が多用されている︵そこには、同じく紋切り による文化的、経済的支配に対する反動として、断固と
派
︵1︶
して島国的で内向き﹂であったケベックを超えて、現代の、 をわずかでも理解するならば、仏英二ヵ国語の使用を﹁カ
ナ 程
して来たるべき、世界に開かれたケベックとケベック人 ダ的な﹂特徴として解することはできない︵二言語使用
そ
が描かれ始めるのだ。 はケベック、とりわけモソトリオールに特有のものである︶。そ
姿
の
クにおいて、そしてルパージュにとっても、言語
ベ
の
ケ
ッ
葉
言
とはまず権力関係に関わる﹁政治的﹂なものである︵その
俳優たちが、ルパージュ自身を筆頭に、仏英語を中心に 点において、たとえばピーk“ e− ’ブルックにおける多言語使用と
を操ることによっても彼の演劇は知られる。たと は意味合いを異にしている︶。言語は、観客の理解を保証す
複
数
語
言
えば﹃ニードルズ・アンド・オピウム﹄、﹃エルシノアEIH るものでも、普遍的な意味を伝達するための透明な媒質で
§鳴ミ﹄︵九五︶、﹃月の隠された顔﹄などの比較的短い作品 もあり得ないのだ。
働
には、出演者を変えないまま英仏二言語のヴァージョソが 訳・翻訳のユーモラスな使用は、そのような言語観、
通
している。﹃ドラゴソ111$G−v La Trilogie dそ
eしsてd
彼rのa
演−劇に特有の批評的次元を示す格好の一例であ
212
存
在
gonsg ︵八五︶はモソトリオール、トロソト、ヴァソクーる。ルパージュの作品においては、公演先の観客に応じて
ヴァーの中華街を舞台に、英仏語に加えて中国語をも用い 使い分けられ、テクストも書き換えられる。それで
語
言
が
ながら、中国系移民が急増するなか、英仏カナダの伝統的 もなお字幕はしばしば不可欠になるのだが、その字幕はと
な二項対立が内側からその前提が崩れかけていることを映 きに舞台上の物語の進行に従属することをやめてしまう。
し出した。﹃太田川七つの流れ﹄もまた、フラソス語、英 ときには故意に字幕をつけずに︵あるいはパリの観客に日本
語、ドイツ語の三ヵ国語を主に用いて描かれた旅と出会い 字幕を見せ︶、観客を意味の外部に放り出し、物質性に
語
の
物語である。もちろん、彼の演劇の多言語性︵さらに後 しか還元できない言葉の他者性に戸惑わせもする。大阪万
の
述する視覚性︶は、ケベックないし仏語圏を超えて国際的 ク劇団公演を同時通訳するハナコと、その後の
ベ
の
ッ
ケ
に参加するためには、ひとつの必然的な要請でもあ
場 舞台上の会話をフラソス語から英語へと同時通訳する︵匿
た 市
な
ともいえよう。だが同時に、ケベック社会の変容の過 名の︶男性通訳者という二人の通訳が登場する場面のユー
っ
は、そのことをさらに強調する。後者の通訳者は、ハ としての強みが、視覚的な空間造形の巧みさにあること
字 ナ モ
家
幕 コ ア
鏡﹂、批評的分身を演じるのでなければ、まさに は、多くの者が認めるであろう。その視覚性は、カルポソ
「
の
を置き換えるためにのみ登場するのだ︵そのハナコ自 ヌー4をはじめとするケベック実験演劇の流れの上に位置づ
身、自らの通訳・翻訳者であるエクス・マキナの俳優たちの鏡で られるものだ。特定の国に限定されない﹁言語﹂をさら
け
ある︶。先ほどのソフィはその後も憤りが収まるどころで に獲得することは、国境を超えた作品の受容もより容易に
はなく、r罵りたくなってくy︿︶わ、 Tabarnac d’hostる
i。eだが
deそこにおいても彼の力量は、舞台装置のからく
す
alice de saint−ciboire1それに、あのドゴり
ーのル巧 妙て
だっ さ言
やっ映像の仕上げの正確さに限られるものではな
c
︵2o︶
わ、..自由ケベック万歳’ tabarnac1”って﹂と言っていのo
た
るのだが、この罵署雑言は同時通訳者も...①×且①け守Φ、[﹁罵 述したようなケベックに対する自己言及や、劇中劇形
け
前
り言葉﹂]’ ‘expletive’. It was De Gaulle who よsる
a演 劇自
id ’身
Loのn二
g重化は、空間的には、一方では文字
通 式
に
Live Free Quebec’, ’expleti<e’− ppという英り
語の 鏡か
にし ︵直あ
せるないは鏡像としてのスライド写真、ヴィデオ映像 13
2
いo彼の演劇は多様体であると先述したが、まさに、観客 など︶を用いた反射的な演出として、他方では舞台の中の
が馴染んでいる言語・文化によって、彼の作品は大きくそ 舞台という入れ子構造による反省的な演出として現れる。
を変えるし、作品はそのことに自覚的であり、観客 月の隠された顔﹄においても、上下するとともに回転す
容
貌
『
の
にもその自覚を迫る。ルパージュの﹁異文化﹂、r外国語﹂ る巨大な鏡のパネルは視覚的演出の上の核をなしている。
をめぐるアプローチは、よく批判されるほどにただ皮相的 台を備えた西洋近代劇場は、日常的現実とし
部 額
て 対
の 面
外 式
空 縁
舞
ある わ け で も な い 。 間と非日常的・虚構的な現実としての劇場空
で
間、さらにその内部を舞台と客席とに隔てるような二項対
劇場、演劇とその他者
鏡
の
境界線を幾重にも有しているが、観客席も舞台上に設
立
的
エクス・マキナ国×日90臣舜という名が、機械仕掛け えられた﹃ズールi−タイム Zulu timeS ︵九九︶は、額縁
︵21︶
覚性を意識してつけられたように、ルパージュの演出 台の中に劇場を鏡映しに移すことによって、そのような
視
舞
の
間構造が、観客の演劇経験の枠として一体何を課すのか きてしまい、おもちゃが入っていた箱と遊ぶほうがずっと
空
︵22︶
という問いを改めて投げかけている。 楽しかったのだ﹂とルパージュ自身述べていたが、まさに
﹃太田川七つの流れ﹄のまさに﹁鏡﹂と題された一幕は、 こには、幼いヤナが身を隠す鏡の箱、鏡で覆われた箱形
そ
なったヤナ・チャペックが自分の過去を回想すると 屋、やはり直方体的空間である舞台、さらに箱として
劇 家
大
人
の
に
う、語りの上の入れ子構造が、大人のヤナが身を置く舞 ラソ・バルトは映画館を﹁不透明な立方体﹂と呼ん
場
の
(
い
ロ
台上の家屋外部と、子どものヤナが現れる家屋内部︵鏡で だ︶という、﹁鏡の箱﹂が過剰といえるほどに重ね合わせ
覆われている︶という空間上の入れ子構造と対応する形を られている。さらに、それだけでなく、その入れ子になっ
とっている。そうして観客は、ある瞬間において、﹁自分 隠喩としての﹁鏡の箱﹂は、﹁演じることを演じ
場
劇
の
た
なったヤナ・チャペックが[ゲットーの住人達 る﹂、さらに﹁演じるのを見るのを演じるのを見る﹂とい
〈 『
モ 大
人
が
ーリスと幼いヤナ・チャペックが手品を演じる﹀の う、さらに二重三重の入れ子構造と重なり合うのだ。鏡の
が
を見ている]のを見ている﹄のを見ている﹂ことに気づく と二重化の機制は、こうして演劇・劇場の上にも重
214
ね 二
合 分
わ 化
し、あるいは﹁自分が﹃大阪万博会場の観客が[ケベ られ、彼の演出において反射と思考とは、まさに
せ
の
だ
ク人俳優がフェードーを上演している]のを見ている﹄ 6flexionとして同義といってよい価値を持つのである。
ッ
r
を見ている﹂ことに気づくのだが、それは観客が、自分 ところで、そこでルパージュが浮かび上がらせるのは、
気 が の
ージュの舞台を見ていることの鏡を見ていることに という物理的空間における境界線であると同時に、演
像 劇 劇
場
づ ル
パ
く瞬間なのでもある︵さらにこれらの登場人物はみな俳 という概念的空間の境界線でもある。彼の作品群は、映
優が演じているという二重性を背負っているのだ︶。﹁僕の父は にも、﹁演劇的﹂ではあるが従来﹁演劇﹂ではな
か
の
ほ
タクシーの運転手で、金なんか全然持ってなかった。でも とされてきた芸術形態を作品の内部に採り入れている
い
クリスマスには、両親は僕がひどく欲しがっていたかっこ そもそも彼は演出家・俳優であると同時にオペラ演出や映画監
(
もちゃか何かをいつも買ってくれた。そのおもちゃ
お
督さらには美術展のキュレーショソまで手がけている︶。﹃太田
い
僕 い
は遊び始めるんだけれど、三日もすると僕は完全に飽 川七つの流れ﹄においても、映像に加えて、舞踊、オペラ、
で
劇、生演奏の音楽といった媒体を用い、明確な物語を ある。たとえば﹃太田川七つの流れ﹄の上演は、三時
た 形
持 人
て
で
ない﹃ズールー・タイム﹄は、俳優、映像、装置によ 間の上演に過ぎなかった九四年の初演以来、九六年以降八
るパフォーマソスとして cabaret technologi
時q間u
近eくで
にあ及る
ぶこようになるまで、章立て、登場人物の設定、
とを謳っていた。それは、﹁建築、音楽、舞踊、文学、ア て 挿 内容、演出効果など作品を構成する要素のおよそ全
話
の
︵23︶
クロバシー、演戯などの出会いの場としての演劇﹂という が、場所を変えての公演の都度つくりかえられた。だが、
ージュの思考を裏づけるものであるとともに、従来演 その初演時に、公開リハーサルの類の形態を想定していた
劇 ル
に パ
固有のものではない表現形態をその内に取り込むこと らの意図に反して、作品はエジソバラ・フェスティヴァ
評 ル 彼
で、作品に演劇というジャソルから逃れ、拡散し、演劇で 開幕を飾ることになり、さらにその不満足な出来を酷
の
︵25︶
ありながら演劇でないものを志向する方向性を存在せしめ されるという苦い﹁失敗﹂を経験しているように、すで
る。そもそも﹃太田川七つの流れ﹄がその第一作とな に完成したと見なされる作品が流通する既存の舞台芸術経
て
い
るエクス・マキナの名には、それまでの作品の母体となっ において、彼の方法論は、舞台芸術の関係者にとってさ 15
2
済
トル・ルペールとは違って、劇団11演劇の語が えなかなか理解されにくいo
含 て
い
た
テ
ア
まれていない。ルパージュ自らがあっさりと説明してい ージュはいう。﹁僕が仕事をするサイクルというの
ル
パ
る。﹁演劇という語がそこに見つからないのは、それがも は通常の順番からいうとずれている。単純化していえば、
︵24︶
目的ではないからだ﹂AJO F演劇﹂という芸術 筆1 稽古− 上演− 翻訳は、稽古− 上演1 翻訳
に 作
業
執
領 は
域 や
︵2︶
引かれている境界線もまた、当然の前提として認め ー 執筆となっている﹂。テクストはあらかじめ固定され
ることなく、こうして問い直され続けるのだ。 ることなく、むしろ︵稽古から上演までを含めた︶演劇的活
稽古H反復の過程の産物である。そこでは作品とはも
動
の
と演戯
稽
古
はやテクストを再現前化するものではない。彼にとって上
が、ルパージュが既存の演劇の論理と最も齪鶴を来す は﹁過程の[最終]到達点というよりもむしろ稽古=反
演
だ ︵27︶
は、そのワーク・イソ’プログレスという方法論によっ
の 復同9伽什三8﹂なのである。まさにドゥルーズが反復の演
︵28︶
を表象の演劇に対置させたように、ルパージュにとって、 ころまで含めて﹁存在の鏡﹂たり得ていることを示してい
表 作 劇
の
パ
ある。そしてこれは皮肉ではなく文字通りにとられなけれ ると同時に消え去っていく点まで含めて、彼の演劇はそれ
ならない。完成作品という静的な対象があるのではなく、 が映し出す世界との鏡的関係を結び続けるのである。そも
面 そ ば
こに向かう運動があるだけであり、この運動のある一断 そも、彼にとって演劇とは、俳優が自分ではないものにな
が、観客の経験するある晩の上演なのである︵そこには、 る11生成するdevenir場であるように、同l性の論理が
ヵ月前あるいは一年前の作品の痕跡が、またあるいはさらに以 はりめぐらす境界線を越えようとする運動は、演劇にとっ
二
作品の痕跡が残像のように映し込まれている︶。そうし も私たちにとっても深く関わるものであることを、彼の
演 て
前
の
別
の
て、テクストの再現前化に従属させられた演劇が隠蔽して は教えている。 12
6
劇
きた事実が明らかになる。演劇作品の厳密な意味における 一方、そのような彼の作業の根底にあるのは、偶然に対
同l性は、その上演の都度つくられるのだといわなければ して開かれた即興、演戯の遊戯性である︵これは彼のもうひ
ならない︵あるいは、社会構築主義理論のいうように、あらゆ とつの強みであるユーモアにも、しばしば批判される﹁幼さ﹂に
る同l性は、﹁演じられる﹂ごとに強化され、あるいは変化して も通底している︶。ルパージュにとって、﹁演戯冨q臼σ聾目巴
︵3︶
くのだといえるだろう︶。そこでは、変化をはらみながら に遊び撤ロの概念を取り戻す﹂ことは重要な課題になる。
い
復11稽古を続ける、この過程こそが作品であるといわね 団での稽古、そこでの俳優たちとの即興と批評の交換か
集
ば 反
ならないのだ。 ら得られる、経験に裏付けられた直観が創作を進める原動
さらにいうなら、ワーク・イソ・プログレスという彼の 力になる。
方法論は、スペクタクル化した現代社会において、演劇が r公演前になると、俳優達の間で[アイディアの]長蛇
のl回性を体験する特権的な場となっているというと きる。﹃今夜はこのアイディアを劇に持ち込んで
列
験
が
で
経
ようと思うんだけど、君がこれこれを言ってくれないと、
み
び
結
こっちもそれを言えないんだ。だって、でないと君の言う
ことが関係なくなっちゃうから。だから、どこでやるのが ームの規則、自己と他者、成功と失敗とを隔てる境界
ゲ
番いいかな。﹄すると誰かが言う。﹃あそこでやったらど は、演劇にも、劇場にも、ケベックにも、私たちが生き
一
線
うoウェイターが入ってくると、話が遮られるから、そし る日常の世界にもあふれる、ありふれたものである。演劇
らその話題に切り替えればいい。﹄みんな公演の前に決 /社会、虚構/現実、舞台/客席、俳優/観客、母国/外
た
て、それでやってしまう。うまく行くときもあるし、そ 国、母語/外国語、テクスト/上演⋮⋮この境界に幾重に
め
︵31︶
うでないときもある。もうスポーツですね﹂と彼はいう。 も囲まれた場所に、ルパージュは、そして私たちも立って
が、それはスポーツというよりも、演戯、ゲーム、遊び、 る。﹁鏡﹂という装置は、彼の演劇が、自分自身 1
び 新 与 て 賭 だ
い
という︽Jeu︾そのものである。さらに、偶然に対し それはケベックであり、演劇であり、劇場であり、ルパー
け
217
られたゲームの規則を無条件に受け入れることなく、 に映し出すうちに、自らについて思考することを可能
え
二
重
しい境界線をも描き始める。それは彼の演戯が規則の遊 にする。鏡はまさに反射性H反省性村魯Φ嵐≦融の次元を彼
u de reglesを超えて、﹁おのれの規則自身を相手に に与えるのである。
j
境 そ 演
劇
の
e
︵32︶
る﹂とドゥルーズがいう﹁神的な遊び・賭けjeu divin﹂ してさらに、その演劇は、近代的な自己意識、反省性
す
あることをも主張しうる地点である。そしてこの遊び、 方へと逸脱していv運動性を持っている。演劇
で
彼
パ が の
の
られた賭けこそによって、彼の作品との出会い もはやそれ自体では目的ではないと彼はいったが、ル
の が 偶
で 世 然
の 委
ね
界 に
あちこちに一度限りのものとして反復されていく ージュは、演劇をして、ケベックをして、作品をして、
ある。 自己をして、ある画定されたそして守るべき領土とするの
はなく、その消滅をも恐れない運動、他なるものへと生
成 で
る場とするのだ。ワーク・イン・プログレス、多言語
す
性、多文化性、多領域性といった一連の語彙は、もちろん とともに、そこにはルパージュが一人で演じるフィリップ
とアソドレの兄弟の間の、さらに彼らとやはりルパージュ
ージュが独占するものではない。だが、これらの問い
ル
パ
が演じる母との間の、地球と月との間の、アメリカとソ連
が、鏡の機制を出発点として垂直的に重なり合いながら、
宇宙飛行士との問の、俳優と観客との間の鏡像的関係が
重 の
創造﹂を導きうることが、ルパージュの力量であること られる︵さらにいえば、フィリップとアソドレ
r
合
ね
わ
せ
もまた 確 か で あ る 。 という二人のケベック人は、それぞれ会議のパネリスト、
ウソサーであり、その人生史が自伝的であ
報
天
気
予
ナ
の
ア
る以前にそもそも、俳優としてのルo︿ r.ジュの分身でもあ
るのだ︶。
( 注
(
libertb, L’instant meme/Ex Machina, 1995, p.a
7s2.impulse, process, and outcome in the theatr
2︶ 1九五七年、ケベック州ケベック市に生まれる。七五年 Lepagqe﹀﹀, TDR, vol.43 no°1, 1999, p.85における引用。
(
(
か
218
ぶ。八一年以降、ジャック・レサールが創設したテアト う自らをO鼠900δ︵あるいは時にOき鋤象①コ
ふ
つ
ール↓げ融實Φ即①冨話に参加し、八五年に演出 frangais︶と定義するのに対して、英語系カナダ人は自分
ル
ル
ペ
・
した﹃ドラゴソ三部作﹄で世界に知られるようになる。シ ちを単にO鋤コ9象9昌だととらえているように、ケベッ
た
イクスピア作品など、すでに書かれた古典テクストを演 ク人にとって、ケベックはカナダであってカナダでない場
ェ
出した作品も多いが、ここでは、テクストと演出の双方が ある。反対に、それ以外の人間にとっては、多くの場
所
で
ージュの手による諸作品を考察の対象とする。 合カナダはあくまでも英語の領土なのである。〇一年初頭
ル
パ
上 京
い で 東
演 の
シ
ア
て 祭 に
(
( (
4︶ たとえば、もっとも最近の作品である一人芝居﹃月の隠 oo︶ Gilbert DAVID, <<Une institution the鋤trale a
(
されたus La Face cachee de la lune﹄ ︵1 10m
0a0
s︶sにお
meいdia﹀﹀, Theatre/Public, no.117, 1994, p.
て、装置としての鏡が視覚的に大きな役割を果たしている 団数は八〇年代以降百を超え、人口規模︵約七百万人︶
劇
を考えるなら、ほかにもカルポソヌー4、テアトル・ユビュ、 Hiroshima de 1945 a 1997﹀﹀, Le Monde, le 12
ラララ・sユ eマソ・ステップス、オ・ヴェルティ 1996.
舞
踊
の
質と密度の高さは特筆に値する。 なお、﹁しかもBAMでは﹃HIROSHIMA﹄とメイ
9︶ モントリオールの労働者階級に特有であった方言、俗語。 タイトルに謳っていないわけ。﹃太田川七つの流れ﹄と
(
い ソ
は︽cheval︾[馬]の誰った発音から。 う、日本公演ではサブタイトルだったほうで宣伝してい
語
源
記
劇 書
の 法
典 基
的
本
古 は
219
1︶ 付言すれば、現在のケベック演劇においても、俳優はみ TDR, vol.33, no°2, 1989, p°11o°
(
ラソスのアクセントを操ることができるし、そのこと
(
2︶ R. LEPAGE and Ex Machina, oP. cit.,p.87° <<tabarn
な
フ
は当然のように要求されている。 以下の単語はもともとカトリックの宗教的語彙であるが、
転じてケベック特有の罵り言葉になった、フラソスとの差
( (
化 の 異
E
い
1︶ Robert LEPAGE, <<Il faut que 1’acteur ait しnた
u eがs
、oも
iちfろdん
etabarnacなどと言ったはずはない。
(
gC] ( (
)
E〈S
tome 2, Editions Jeu/Editions Lansman, 1929
︶8,
R.pE
.Y1R
5E1,
° op cit., p°241°
15︶ Robert LEPAGE and Ex Machina, The Rv
Se .en
CHA
sRtE
rSeT
a, opof
ms cit.,p.32.
t{ ( ( (
)
(
(
17︶ Brigqitte SALIN0, <<Huit heures de theatr
)
:
27︶きミも画卜。08°
( (
82︶ F反復[目稽古]の演劇が、表象11再現前化[11上演]
に対立するということは、運動が、その運動を概念
演
劇
の
に関係させてしまう表象11再現前化に対立するのと、また
念そのものに対立するのと同じこと﹂なのだ。ジル・ド
概
ゥルーズ﹃差異と反復﹄河出書房、一九九二年、三〇頁。
29︶ その稽古では何がおこなわれるのか。﹁俳優はみんな即
(
し、自分のテクストを書き上げる。彼らは自分で自分の
興
いうべきことを決める。もちろんこれは全部ある1つの
パースペクティヴにまとめられるし、先に進むにつれて文
も統1されていく。﹂諺.MCALPINE, op°ミもμωΦム9
体
R°CHAREST, oP°ら舞も畳①①゜
( ( (
)
gig
3︶ A° MCALPINE, op°ミもμω㊤直O°
220
32︶ ジル・ドゥルーズ、前掲書、四二〇頁。