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択滅無


宮下晴輝
はじめに ﹁無為﹂︵“闇昌ぃ阿冨ゞ儲旦喜四国形成されざるもの︶がある。
1.00.0

説一切有部における﹁非択滅﹂の教義 そして、後のアビダルマ教義学においては、浬梁を﹁無
﹃発智論﹂﹁婆沙論﹄以前の﹁非択滅﹂の規定
1.31.21.1

為﹂と規定することが一般的となる。しかし、この規定
﹃婆沙論﹄における﹁非択滅﹂の変容
の一般化は、浬藥を無為法の中の一つの法とみなすこと
﹃婆沙論﹄以後のテクスト
にもなっていった。そしてこの無為法を分析する過程の
﹃琉伽論﹂における﹁非択滅﹂の批判的受容、及び
.
20

﹁摂決択分﹂中のサンスクリット断片 なかで、﹁浬藥﹂は﹁択滅無為﹂と規定され、それに対
I︵以下別稿︶l する﹁非択滅無為﹂というきわめて特殊な概念が生まれ
﹁倶舎論﹄における﹁非択滅﹂の定義 てくる。﹁浬藥﹂からはおよそそのつながりを予想する
4.03.0

﹃順正理論﹄における﹃倶舎論﹂批判と﹁非択滅﹂ ことのできなかった言葉ともいえよう。
の教義の新展開
以下の論稿は、アビダルマ教義学の中で、﹁非択滅無
“はじめに 為﹂という概念がどのように規定されてきたのかを整理
し、そのことを通して、アビダルマ教義学史の展開の一
輪廻の流れがそこで止まるところとして、表現の消滅 断面を切り開こうとするものである。この教義学史の問
点であるということのできる﹁浬藥﹂には、むしろかえ 題に立ち入っていく前に、﹁浬渠﹂をめぐるいくつかの
って多くの異名があるように思われる。その中の一つに、 概念についても一瞥しておくことが必要であるかと思わ

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れる。しかし、それについては別稿ですでに考察したの 処・非想非非想処・縁起・道

46

で、ここではさしあたり、それぞれの部派等に伝承され これを見てわかるように、無為説を伝える部派の中で、
た無為説を通覧しておいてから、考察に入ることにする。 有部の三無為説を踏襲しない部派はない。各部派の教義
またそれによって、説一切有部の教義が占める位置もま は、有部の教義学の展開にきわめて多くを負うというこ
た多少窺えるかと思う。 とが出来るであろう。
以下、いくつかの無為説を列挙する。 1
M説一切有部における﹁非択滅﹂
②③
の三無為︾説一切有部
の教義
虚空︵鼻思騨︶・非択滅︵伊官鼻冒昌巨圃昌Hog四︶・択
④⑤
滅︵冒昌の騨昌唇乱昌尉○号煙︶ 説一切有部の教義が成立したのはいつ頃とす毒へきかは、
⑨四無為﹃五稲論﹄、旨且耳:①$の有部 定かではない。この学派の呼称が由来する﹁三世実有
虚空・非択滅・択滅・真如︵圃昏僅薗︶ 説﹂の成立をもってこの学派の教義の成立と見なすべき
⑥八無為﹃琉伽論﹄、﹃大乗阿毘達磨集論﹄ であろう。そしてこの三世実有説が明瞭に述べられるの
虚空・非択滅・択滅・善法真如・不善法真如。無記 は、﹃識身足論﹄が最初と考えられる。有部の論害の成
法真如︵百出画冒闇固く司屑国目日号胃日目目岸冨昏騨︲ 立過程の中では、﹃集異門足論﹄﹃法慈足論﹄などが第一
国︶・不動︵自且ご︶・想受減︵m月旨き且葛冒昌周。︲ 期の論書とされ、それに続いて﹃識身足論﹄﹃界身足論﹄
Q旨凹︶ などが成立したと考えられている。﹁非択滅﹂の語は、

側九無為︾化地部 すでに第一期の諭書の中に見いだされる。しかし、﹃婆
択滅・非択滅・虚空・不動・善法真如・不善法真如 沙論﹄中の確定した教義によれば、未来不生起の法につ
・無記法真如・道真如・縁起真如 いて非択滅が得られるとされるから、﹁非択滅﹂という

”大衆部、一説部、説出世部、鶏胤部 教義は﹁未来不生起の法﹂という教義概念の成立をまっ
択滅・非択滅・虚空・空無辺処・識無辺処・無所有 ててあることになる。したがって、それはさらに三世実
有説の確立以後に成立したものとしなければならない。 空択滅非択滅・・・云何無為界。謂虚空及二減。是
とすれば、第一期諭書中の﹁非択滅﹂という語は、後の 名無為界。

挿入ということになるであろうか。 ︵巻第十一、多界品第二十、目農︺己9台19部︶
このような事情が認められるが、﹃発智論﹄﹃婆沙論﹄ ⅢA、§さ&e畠冨言蚤
によって初めて詳細な規定が与えられていることから、 倒丙凶恥四門ロ︵詩四︶芹四民四庁.くいQ国一門勤曝四国胃・・・・・・︵P︶、己岸屋凹︶︲
それ以前の有部の諭書における規定と、それ以後の規定 H︵pごゆ凶豈︶.。:。.︵H︶ロ︵もい︶◇。。.:。︵いも感①はめ四尉巳]肉彦目倒ロ胃○・回騨琶︶
とに分けて考察することとする。 丙p庁四鼎色ゴ.く○国営○ロロ○口四戸口]ぐ尉色員胃く○mP岳.冠H色は、色
︵員冒〆旨琶画口胃○。ぽゆ迂丙四︶汁pHゆぽ.琶○ロ胃○。pゆずのゆ○い
皿﹁発智論﹂﹁婆沙論﹄以前の﹁非択
︵ぐ﹄︶めゆ儲恒冒○︵ぬゆぽ︶・
滅﹂の規定
色.冒昌回昌m亘①e︶b畠、窪魯。承己昌冒討Sぎぎ書風島田
I﹃阿毘達磨集異門足論﹄ 、亀詠。忠ご房曽言昌喜圏箇ややe
此中、有二法謂名色者、名云何。答。受瀧想禰行 虚空とは何か。??
瀧識濫及虚空択滅非択滅。是謂名。色云何。答。四 非択滅とは何か。減であって離鑿ではないものであ
大種及所造色。是謂色。 つ︵句。
︵巻第一、二法品第三、目思ゞや窓ぎご 択滅とは何か。減であってしかも離繋なるものであ
Ⅱ﹃阿毘達磨法瀧足論﹄ る。
云何法処。・・虚空択滅非択滅・・・ B﹃衆事分阿昆曇論﹄︵求那政陀羅訳。.E︶&農!
︵巻第十、処品第十八、目農︶やg胃隠︶ ﹄①“︶
云何滅界。謂択滅非択滅。是名滅界。・・云何無 云何虚空。謂虚空無満容受諸色来去無腰。
記界。・・及虚空非択滅・・・云何非学非無学界。 云何数滅。謂数減、滅是解脱。
・・及虚空択滅非択滅・・・云何無漏界。・・及虚 云何非数滅。謂非数滅、滅非解脱。

47
︵巻第一、五法品第一、目麗.や急ぎ霞l雪︶ もに﹁減﹂︵昌尉○号沙︶ではあるが、それが﹁離繋﹂︵﹁解

48
C﹃阿毘達磨品類足論﹄︵玄英訳︶ 脱﹂︶︵ぐ厨四日冒唱︶であるか否かによって区別されている。
虚空云何。謂体空虚寛曠無優不障色行。 この﹁離鑿﹂という教義概念も、有部独自のものであ
非択滅云何。謂滅非離繋。 る。﹁離繋﹂とは、有漏なる事態︵煩悩に関わりをもっ事

択減云何。謂滅是離鑿。 態︶と衆生の心相続との非結合関係を表わす概念である。
︵巻第一、弁五事品第一、目農︾勺邑奮患19︶ この非結合関係は、智慧を意味する﹁択﹂︵冒鼻§g唇︲
,﹃薩婆多宗五事論﹄︵法成訳シロや胃前半︶ 乱︶によってもたらされる。そして、有部の教義学にお
云何虚空。所行之因即是虚空。非有障擬諸色種類不 いて、このような特定の事態との結合・非結合関係が提
能遍覆此名虚空。 唱される背景には、三世実有説がある。有部は、時の流
云何非択滅。謂滅非離。 れの中にある存在況位を超えたものとして、法︵号胃日曾︶
云何択滅。謂滅亦離。胄麗.勺忠司暗l忠蟹望 の存在を定立する。したがって、特定の法の﹁減﹂︵巳︲
E﹃阿毘曇五法行経﹄︵安世高訳揚口.旨後半︶ 割○自沙︶とは、その法が存在しなくなったことを意味する
無為何等。空、減未離、滅不須受。・・ のではなく、その法が衆生の相続と非結合の関係にある
空為何等。虚空無所有無所著無所色是名為空。 ことを意味している。したがってまた、択滅も非択滅も
壼尚未離為何等。己壼不復更不復譽。 ともに﹁減﹂と呼ばれる限り、事態は同様である。とも
壼為何等。度世無為。宵麗︾やgsgle に非結合の関係を表わしているといえる。ただその関係
以上が、﹃発智論﹄﹃婆沙論﹄以前に成立したと考えら が、有漏なる事態に限ってしかも智慧によってもたらさ
れる有部論耆の中の﹁非択滅﹂の規定である。﹃集異門 れた場合に、﹁離繋﹂と呼ばれる。非択滅は離繋ではな
足論﹂﹃法穂足論﹄においては、規定はなく列挙されて いと規定されているが故に、有漏なる事態にも、無漏な
いるだけである。﹃五事論﹄︵、畠。§畠冒曹蒼︶において初 る事態に対しても成り立つ非結合関係を表わしているこ
めてその規定が与えられている。択滅と非択滅とは、と とになる。
日。若滅非解脱是也。云何無常減。答日。諸行散滅
理﹁婆沙論﹂における﹁非択滅﹂の変容
是也。
1A﹃阿毘達磨発智論﹄︵玄英訳崖ワ&雪︲急e 問日。非数滅無常滅有何差別。答日。非数滅者、疾
云何択滅。答。諸滅是離繋。云何非択滅。答。諸滅 痩困厄自作他作苦悩種種魔事如是随世等法、若得解
非離繋。云何無常減。答。諸行散壊破没亡退是謂無 脱、是名非数滅。無常滅者令諸行散滅。
常減。 ︵巻第十七、雑健度愛敬品中、閂麗︼や届旨?閏︶
非択滅無常滅何差別。答。非択滅者、不由択力、解 ⅡA﹃阿毘曇毘婆沙論﹄、B﹃阿昆達磨大毘婆沙論﹄
脱疫瘻災横愁悩種種魔事行世苦法、非於負欲調伏断 ︹11A︺︵]陰。畠︲届︶
越。無常滅者、諸行散壊破没亡退。是謂二減差別。 云何数滅。・・彼法滅彼得得解脱。得解脱得是名数
︵巻第二、雑穂第一中愛敬納息第四、日蹟︶や紹曾?巨︶
減。
B﹁阿毘曇八挺度論﹂︵僧伽提婆訳傍口路ご ︵彼の法は減し彼の得は解脱を得。解脱の得を得る是れを
数縁壼云何。答日。其壼者是解脱。是謂数縁壼。非 数滅と名づく。︶
数縁壼云何。答日。其壼者非解脱。是非数縁壼。無 云何非数滅。・・彼法若滅彼得不得解脱。不得解脱
常云何。答日。諸行変易滅壼不住。是謂無常。 得是名非数滅。
無常非数縁壼有何差別。答日。無常者諸行変易滅壼 ︵彼の法は若しくは減するも彼の得は解脱を得ず。解脱の
不住。非数縁課者、己脱苦患愁憂諸悩、不随欲意未 得を得ざる是れを非数滅と名づく。︶
得離欲。無常非数縁壼此是差別。 ︹11B︺肴臼魚屋︲弓︶
︵巻第二、阿毘曇雑健度愛恭敬政渠第四、目麗も. 云何択滅。・・謂諸法滅亦得離繋。得離繋得是名択
ヨョヨ○つl]↑︶
滅。
C﹃阿昆曇毘婆沙論﹂︵浮陀賊摩訳湯口烏や色ご ︵諸法の減し、また、得は離繋す。離繋得を得る是れを択
云何数滅。答日。若滅得解脱是也。云何非数滅。答 滅と名づく。︶・

49
云何非択滅。・・謂諸法滅得不離鑿。不得離繋得名 滅不由一向鋤労一向加行一向功用簡択諸法得故、名

50
非択滅。 非択滅。復次、此滅不要由数数決択苦等得故、名非
︵諸法の減し、得は離繋せず。離繋得を得ざるを非択滅と 択滅。
名づく。︶ 問。若爾此滅由何而得。答。由縁欠故。如対一方、
︹21A︺︵馬庁g︲喝︶ 余方所有色声香味触等境滅。於彼能縁心心所法、由
間日。非数滅無常滅有何差別。・・若説疾痩困厄自 縁欠故、畢寛不生。由此不生得非択滅。
作他作苦悩種種魔事等法、若得解脱、是名有漏諸行 ︹41A︺︵馬歯g︲鵠︶
得非数滅。若説随世等法、若得解脱、是名無漏諸行 間日。以何法能得此法耶。答日。或有説者以過去未
得非数滅。所以者何。無漏諸行亦在世故。 来陰入界、非現在世。・・復有説者未来世中得、非
︹21B︺︵屋医誤1尾︶ 過去。・・評日。於未来不生法中得。如是説者好。
非択滅無常減何差別。・・此中、解脱疫瘻災横愁悩 以是故一切時常増益。
種種魔事苦法者、顕有漏法非択滅。解脱行世苦法者、 ︹41B︺︵屋与国︲]霞品︶
顕無漏法非択滅。非於負欲調伏断越者、顕異択滅。 問。於何世諸法得非択滅耶。有作是説。於三世諸法
︹31A︺︵届含忌19︶ 皆得非択滅。・・有余師説。但於過去未来諸法得非
云何非数滅。答日。是滅非解脱。問日。何故名非数 択滅。・・或有説者。唯於未来法得非択滅。非過去
滅。答日。不以功作而得、是名非数滅。 現在。・・評日。此非択滅唯於未来不生法得。所以
所以者何。如人住此、四方所有色声香味触是五識身 者何。此滅本欲遮有為法令永不生。若法不生此得便
所縁法、不以功作而住不生法中。故非数滅。 起。如與欲法繋属有情。現在正行過去已行未来當行
︹31B︺︵届岸田l巴︶ 皆有生義。故於彼法不得此滅。
問。己知非択滅体非離繋、応説何故名非択滅耶。答。 ﹃発智論﹄は、﹃五事論﹄の規定をそのまま受け継い
不由択慧得此滅故、名非択滅。非択果故。復次、此 でいる︵1︶。そして、﹁無常減﹂と﹁非択滅﹂との差異
を述舎へるなかで、﹃五事論﹄の﹁離繋ではない減﹂とい ︵胃菩武︶という教義概念のもとに説明されている︵Ⅱロー
う規定を、さらに﹁非択滅とは、簡択︵智慧︶の力によ 捧巴︶。﹁離繋﹂は有漏なる事態との非結合関係を表わす
らず、疫瘻・災横・愁悩や種冷の魔事といった世に行ず 概念であるが、﹁得﹂は、有漏無漏にかかわらず、より
る苦法を解脱していることである﹂とする。この﹁簡択 一般的な結合関係を表わす概念である。
によらずに苦法を解脱する﹂というこのところに、﹁非 また、﹃発智論﹄の﹁非択滅とは、簡択︵智慧︶の力に
択滅﹂という概念を発想するにいたった端緒が窺われる よらず、疫痩・災横・愁悩や種々の魔事といった世に行
ように思う。 ずる苦法を解脱していることである﹂という規定が、﹃婆
古い経典の中に、﹁執着の残津がありながら︵“煙ロ忌日︲ 沙論﹄において読み変えられている。﹃婆沙論﹄は、こ
moぃ騨有余依︶命終わっても、地獄等の悪趣をまぬがれて の﹃発智論﹄の文を、﹁疫瘻・災横・愁悩や種々の魔事

いる者がある﹂ということを説くものがある。阿羅漢に という苦法を解脱していること﹂と﹁世に行ずる法を解
とっては、すべての生存が消滅している。それと同様に、 脱していること﹂という二つの文節に分け、前者は有漏
有学の者にとっても、なんらかの生存の消滅が問題にさ 法の非択滅を、後者は無漏法の非択滅を表わすとする
れる。例えば、預流果を得たものはもはや悪趣からまぬ ︵Ⅱ忌lシ里︶。原文にまで遡らない限り確言は出来ないと

がれていることが経典中に繰り返し説かれる。また、五 もいえるが、旧訳の﹃婆沙論﹄中に引用されている﹁如
順下分結を断じた不還は、もはや欲界の生を受けること 是随世等法﹂は、﹁種種魔事﹂と同格と見なさねばなら
はないとされている。このような事態が、後の教義学の ない︵IC︶。さらに﹃発智論﹄の﹁行世﹂は、元来、有
中で、﹁非択滅﹂という概念をもって表わされたのであ 為法一般を意味する言葉であろうから、やはり﹁種種魔
ろう。そしてそのことが、﹁悪趣に対して、あるいは欲 事﹂と同格に読むほうが自然である。﹁行世法﹂︵あるい
界の生に対して、非択滅を得ているからである﹂と説明 は﹁随世等法﹂︶を切り離して、ことさらに﹁無漏法﹂を
されることになる。 意味するものとするところに、﹃婆沙論﹄作者たちの意
﹃婆沙論﹄になると、﹃五事論﹄以来の規定が、﹁得﹂ 図があるように思われる。﹃婆沙論﹄においてこのよう

貝1
J 人
な読み変えが必要とされたのは、非択滅を苦法からの解 ものについて非択滅を得るのかを、﹃婆沙論﹄は詳細に

局ワ
凹 邑
脱とする﹃発智論﹄の文脈では、右澗無漏に通じて成立 列挙する。まず生処に関し、悪趣についての非択滅、善
するような﹁非択滅﹂を定式化することができなかった 趣についての非択滅が論じられ、次に煩悩についての非
からといえるだろう。 択滅が論じられ、そして聖道についての非択滅が論じら
すでに経典等で取り扱われていた、預流果を得ること れている︵玄英訳のみ目喝︾や勗肯以下︶。
によってもたらされる悪趣等の生存の消滅が、有部の教 ﹁縁欠不生﹂という言葉が現われるのは、玄英訳の
義学の中で﹁非択滅﹂と呼称されるようになり、それが ﹃婆沙論﹄においてであり︵Ⅱ田︲巴︶、旧訳にはない。
﹃発智論﹄において﹁簡択によらない苦法からの解脱﹂ しかし、﹁非択滅﹂の概念が諸法一般にまで拡大され適
とされた。ところが、﹃婆沙論﹄は、﹁解脱﹂という意味 用されているという点は同じである︵Ⅱ国︲ど︶。ただ、
を非択滅から剥ぎ取り、﹁無漏法﹂についても非択滅が そこに挙げられている事例は、旧訳新訳ともほぼ同趣意
あるとする。 といえるが、ただし玄檗訳では﹁能縁の心心所法が、縁
その場合に、﹃娑沙論﹄がとった非択滅のより一般的 の欠如によって、畢寛不生になる﹂とするのに対し、旧
な規定は、﹁縁の欠如による不生﹂である。この規定に 訳では﹁色声香味触という五識身の所縁の法が、不生法
よって、非択滅は、有漏無漏を問わず、諸法一般に適用 中に住まる﹂とされている。
されることになる︵Ⅲ包歩且︶。例えば、心心所がある一 また、﹁非択滅が、三世のうちのどの法について得ら
つの対象を把握している時、その他の対象は未来から現 れるか﹂という設問がある︵Ⅱ種歩巴︶。それについての
在、過去へと過ぎ去って行くが故に、その過ぎ去ったも ﹃婆沙論﹄の評家の説は、﹁非択滅は、未来不生法に対
のを対象とすることになっていた心心所は、その把握対 して得られる﹂とする。ここで取りあげられているいく
象を消失して、もはや生ずる機会を失ってしまう。この つかの異説は、﹁非択滅﹂という教義概念が初めから﹁未
ような事態を指して、﹁縁の欠如による不生﹂といわれ 来不生法﹂という有部独自の教義を前提にして発想され
ている。このような観点から、どういう場合にいかなる ていたものではないことを示しているといえる。とすれ
ば、三世実有説の確立以前においても﹁非択滅﹂という 沙論﹄評家の説に一致しているし、また有漏の智慧によ
教義の存在は許されるであろうから、有部の第一期の諭 っても択滅があるとする。ほとんど確定した教義学を反
書中にある﹁非択滅﹂という言葉は、必ずしも後の挿入 映している。
とみる必要はなくなるともいえることになる。 Ⅱ﹃舎利弗阿毘曇論﹄︵曇摩耶舎訳シロ.き?億s
ともかくも、﹁非択滅﹂という教義概念の意味が﹁婆 云何法入。・・智縁壼非智縁蒜・・・角路﹄や紹胃
沙論﹄において大きく変容したといえる。この変容がな 己︶云何法界。:智縁誰非智縁壼・・・︵や困目岳︶
にによってもたらされたのかが問題である。多少踏み込 云何滅界。二減。智縁滅非智縁減。是名滅界。守.
んだ言い方をすれば、﹁法の分析﹂の観点が、連続する 望ぎぎ︶云何無為界。若法無縁是名無為界。︵33閏︲
諸法問の関係︵事態と衆生の相続との関係︶から瞬間︵刹那︶ いい︶
の諸法問の関係へと移行し、前者を後者によって基礎づ このテクストの所属部派は明らかではない。択滅非択
けるという構想があるように思われる。 滅の教義を受け入れているようであるが、三無為を立て
ているわけでもない。
暇﹃婆沙論﹂以後のテクスト
Ⅲ﹁阿毘曇心論﹄︵法勝造シロ.胃半以前、僧伽提婆訳
ー﹃阿毘曇甘露味論﹄︵崔沙造シロ&邑山呂訳︶ 衿ロ.亀e
云何三無為。智縁霊、非智縁蓋、虚空。云何智縁蓋。 諸法衆縁起亦従依與縁
有漏無漏智慧力諸結使断得解脱。云何非智縁壼。未 不具以不生此滅非是明
来因応生不生。是謂非智縁壼。云何虚空。無色処無 一切有為法、従衆縁而生、無縁則不生。如眼識依眼
対不可見。是謂虚空。 依色依空依明依地依寂然。若此一切共和者便得生。
補註
︵巻下、雑品第十六、目麗﹄弓罷冒甲ご 若余不具便不得生。如眠時眼一切時生。爾時是余事
﹃阿毘曇甘露味論﹄が成立したのは、﹃婆沙論﹄以前 不具。眼識不得生。若彼眼識応當生而不生、眼生已
なのか以後なのか定かではないが、非択滅の規定は、﹃婆 終不復更生。離此縁故、是有未来不復当生。彼起具

戸 。
DJ
不具故眼識不得生。若眼識応依彼眼生者則不生。依

54
差異不和、是非数縁滅。如是一切行壼当知。
︵巻第四、雑品第九目路︺己路冒届19︶ 等已滅故至寛不生。以先無方便而滅故説非数滅。加
Ⅳ﹃阿毘曇心諭経﹄︵優波扇多造、那連提耶舎訳澤口. 眼識、一切識身亦如是。
、印つ1m⑭①︶ 又無漏者、随信行道進得、随法行道非数滅。一切道
依於衆縁法有依及筆縁 亦如是。随其義壼当知。問。若此勝進道得、何故非
若不具不生此滅非是智 道果摂。答。為余事故。断煩悩故。勤方便不為非数
有為法、依縁力能生、彼無不生。如眼識。眼色明空 滅故。是故非道果摂。
︵巻第九、雑品第九目鵠.己麗歯巨︲圏︶
憶彼生和合意作眼識生。余欠一則不生、若與余識相
応、念念眼生滅。和合欠此眼識不生。若彼眼依識欲 ﹃阿毘曇心論﹄の作者、法勝は、三世紀半ばより以前

生、彼不生。若彼眼生滅已、彼必定不復生。如是色 の人と考えられる。彼が伝える﹁非択滅﹂の教義は、﹁婆
彼縁欠、彼眼識未来滅不復生。如是余識身如得生説。 沙論﹄にいたって初めて展開されたものと見なさねなば
若彼生滅、彼初非智縁。如是事不数数而滅、名非数 らない。もしも﹃阿毘曇心論﹄が﹃発智論﹄や﹃婆沙論﹄
滅。略説、未来不生法中、縁欠畢寛不生、自然減、 の伝承と離れて成立したものであるとするならば、﹁非
名非数減。
択滅︲一の規定は少なくとも﹃五事論﹄の域を越えないも
︵巻第六、雑品第九目麗︾や雷9選ICS︶ のであったであろう。しかしながら、﹃阿毘曇心論﹄は、
V﹃雑阿毘曇心論﹄︵法救造、僧伽政摩訳シロ﹄鵠︶ おそらく﹁非択滅﹂という言葉が初めに意味していたで
依於諸縁法有依及境界 あろう﹁智慧によらない苦法からの解脱﹂といった事態
不具則不生此滅非是明 についてまったく言及せず、いきなりコ切の有為法﹂
一切有為法、依縁及境界力生。扇劣故。彼非分則不 についての非択滅を説く。﹃婆沙論﹄の種為の異説を考
生。如眼識依眼色明空及彼憶念和合故生。二不具 盧するならば、﹃阿毘曇心論﹂が離れた伝承のもとに成
則不生。余識現在前時、念念頃余眼滅余眼生。衆縁 立したとするには、その教義が整理されすぎている。し
たがって﹃阿毘曇心論﹄は、ある時点における﹃婆沙論﹄ 間、憶念︵作意?︶等が和合すれば、生ずる。一つで
の最も意を注いだところをそのまま伝えていると見なす も欠ければ生じない。もし他の識が生じていれば、
べきであろう。とすれば、﹃婆沙論﹄のこの説も、少な 眼根のみが瞬間ごとに生じ減していく。縁がそろっ
くとも三世紀半ばより以前には成立していたということ ていないので眼識は生じない。その眼根は生じ終わ
が出来る。 って再び生じないので、縁が欠けて、その眼識も未
Ⅲ﹃阿毘曇心論﹃Ⅳ﹃阿毘曇心論経﹄、V﹃雑阿毘曇 来に減して再び生ずることがない。このように、智
心論﹄の各々の記述を概略しておこう。 慧による修習を繰り返さずに︵不数数︶減すること
Ⅲ一切の有為法は、種々の縁によって生ずる。縁 を、非数減という。要約すれば、未来不生法のなか

がなければ生ずることはない。例えば眼識は、眼根、 で縁欠によってついに生ぜず、自然に減することを、
色、空間、明り、地、寂然︵?︶等が和合すれば、生 非数滅という。
ずる。もしも一つでも欠ければ眼識は生じない。眠 V一切の有為法は、弱体であるから、縁が境界の

っているときには、眼根は常に生じては減するけれ 力によって生ずる。その縁や境界がともに与って作

ども、すべての縁がそろっていないから、その時の 用しないならば︵非分I彼同分厨房四g凋騨︶、生じな
眼根によって生ずぺき眼識は生じない。そしてその い。例えば眼識は、眼根、色、明り、空間、憶念等
眼根はすでに生じ終わってもはや再び生じないが故 が和合して生ずる。一つでもそろわなければ生じな
に、生ずべきであった眼識は、その縁をもはや失っ い。他の識が起こっているとき、瞬間ごとに別々の
て、未来にあって決して生ずることがなくなる。こ 眼根が生じ減する。種々の縁がそろわないが故に、
のように、生起の縁がそろわないこと、これが非数 眼識は生じない。その眼根によって生ず令へき眼識で
縁滅である。 あれば、その眼識は生じない。依り所などがすでに
Ⅳ有為法は、縁の力によって生ずるが、縁がなけ 消滅しているので、ついにその眼識は生ずることが
れば生じない。例えば眼識は、眼根、色、明り、空 ない。なんの方策をももちいずに減するが故に、非


数滅というのである。 I四pH四丘mPRp炭ロくい口育○口ロ四ヶ丙四命四再昌四口へ、︶庁四QPpぐi

56
ト 、 。/、、 口
また、無漏法の場合には、例えば、随信行道の者 包、口旨ロロロ命○四斤陣pH②庁ぐゆく⑦、四属国Hご匡丙彦目ご彦画計①計②Q四国l
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︵胃P目目ロロい胃旨︶が修道にいたって信解者︵胃秒目目︲ ﹃○庁もP蒔庁詳色ゴ詐四Q色ごぐ凶口巨守も凹守はぐ]巨己四m口︻ロ四国胃OQぽゅ︲


目目烏冨︶となれば、随法行道は非数滅となる。 Hp凹庁H四戸四門口四℃H包画のP口︺丙ロ冒倒口胃OQpP芹く口︵。]四計①、
もしこの非数滅が、修道にいたるという勝進道に ・・・・・・四は丙吋倒︶ロ斥四ぽい四計①邑凹、秒寓目四割①ロ四℃ロロ四Hご口]②︲
よって得られたものであるとすれば、どうして非数 庁国守も四。﹃四命①、計砂、禺巨倒庁の○﹀己﹄bHP−酌色も武詳○︾印陣ロ四
滅は道果に含まれないのか。なぜならば、勝進道は 。Hいくぐゆ命○口色ロ]計pいく凹己ぐゆ計屏員ロ○拝のぐゆ]四局⑳四口四目屑

煩悩を断ずるためであり、その努力は非数滅のため pも四﹄ゆずロぐ口拝①、
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にあるのではないからである。 、四余口ロロ色周障口四﹃埋計貝四ぐ届四嵩画く○”色計ロロロ②HPロく①口淨
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邸﹁琉伽論﹂における﹁非択滅﹂の批 K 卜 唖卜亀
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判的受容、及び﹁摂決択分﹂中のサン
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スクリット断片
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﹁琉伽論﹄では、﹁本地分﹂中に八無為が列挙され、 ℃p計守①ロもロロ四円ウ冒四くゆ含Hmb煙bHPb﹄Q丘画ロ①ずぽ望四昏司pHご

その中に﹁非択滅﹂が言及されている。しかし﹁非択滅﹂ ゆpHゆ丘、pHご丙豈ぐ幽口茸○QpP閂己ご局四は﹂四ウロい↑①の四①丙脚ロは︲
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についての説明は﹁摂決択分﹂においてなされ、近年報 戸○ぐぃ丙庁Pくぐい曰く、口四画]一帥庁巨の四一丙の○QH切存四℃四。包己
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告された﹁摂決択分﹂のサンスクリット断片の中に、そ 1F。﹄︲・brp、
ロロロ四Hずぽ色ぐ幽ウロ建国の四pH四口﹄。p閏ロ四○四篇ぐ④ぐ四印計丘詳四口も︲
の当該箇所が見られる。 ロロ由局ウロPぐゆ﹃口ゆず丘﹄国営くゆ門寺井四ぐゆ陸、ロ倒口くゆ命月勵の④︻ロロ・’
く 阜
以下、サンスクリット断片中﹁非択滅﹂に関説する部 頤昏倒庁再③庁く山。固﹄ロの①めゅ芹司め画倒ウ目]色めくゆくヘ

分の校訂テクスト︵1︶、チ今ヘット訳︵Ⅱ︶、漢訳︵Ⅲ︶、試 へ冨胃OpOぐ○鼻巴侭zo・崖]︶司○唇Ozo,屋

訳︵Ⅳ︶を順に記載しておく。 ぐ①厨○つl聖

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もロ冒胃Qpいぬめけ色巨餉冠﹄汁のロ①Hぼく①目・ゆ口も旨月ゆQpp Ⅲ復次云何非択滅。謂若余法生縁現前。余法生故
宮ずぐ自画ずいH伝函く匡尉ずゆ、。①昏目もロ]胃、○の○吋ワ詐秒的い 余不得生。唯滅唯静名非択滅。諸所有法此時応生越
●F笛
︵b,ウ騨四照︶も四日p冒口も四宮伝函○ぬ己四口①昌哩四ロ 生時故、彼於此時終不更生。是故此滅亦此仮有非実
ロロヮ四月pゆく﹄ロロ○、 物有。所以者何。此無有余自相可得故。
、巴○ずも騨函の旨へ勺.ロ.ぴい旨︶日庁ロ○画す⑳。①mmop騨
一 〆 、
此法種類非離繋故。復於余時遇縁可生。是故非択
﹂⑳の印ぽぐ①ウpQ包己、QHOQmの①H]色のめ屍ぐ①ずゅ冒一、丙ぐ①
く 、 f t
滅非一向決定。
’乳日、。。●
函pゆめ口四口、ロ冒四巨函﹄めぬH色民口埠⑩ロ四口ロ巨巴内宮①。四
割 4
若学見跡、於卵湿二生北拘盧洲無想天若女若扇振
gP口べぽ旦巨の①、呂昌①Qdp己色ロ﹄い①民国、○沙ロ旦巨の丙ぐ① 迦若半択迦無形二形等生、及於後有若愛若願、所得

F 毎

Dイ
、■ 脂●﹄●■ 囚
非択滅、当知一向決定。由学見迩嘗不於後有起希願 の無い者として、二つの性機能を持つ者として生ま

58
纒発生後有。唯除未無余永害愛種子故。 れることに対して、︹及び︺次の生存への渇愛と願
︵巻第五十三、摂決択分中五識身相応地意地園・﹄ 望に対して、非択滅を得ており、それは決定的なも
鞆④的四房④lご目︶ のであると知るべきである。なぜなら、︹聖諦とい
Ⅳ非択滅とは何か。なんらかの生起の縁が現前し う︺立脚地を見た有学者が、次の生存への希求と願
ているとき、あるものが生起することによって、他 望に占有され、次の生存を現起するなどということ
のものの不生起、静寂、単なる消滅︹がある。それ は決してないからである。すなわち、渇愛の種子が
が︺非択滅といわれる。その時に生起せず、生起の 残らず全断されていない場合を除いては、︹次の生
時を過ぎてしまったものは、その時にもはや生ずる 存を現起することは︺ないのである。
ことは決してない。したがって、それ︹非択滅︺も ﹃琉伽論﹄もまた、その教義学の多くを説一切有部に
また表現︹機制︺の上で存在するのであって、実体 負っている。したがって、説一切有部の教義学中に現わ
として存在するのではない。なぜなら、それについ れる教義概念のほとんどが﹃瑞伽論﹄中に見いだされるα
ての固有相が何も他に認められないからである。 しかしながら、それらの教義概念は、説一切有部の教義
然るに、︹これは︺非結合︵離繋︶ではないが故に、 学にとって意義あるものであるが、教義学の意図が異な
それと同種の合肖自由は、他の時に縁に出会い、 っていると思われる﹃琉伽論﹄では、用いる必要がない
再び生起する。したがって、非択滅は、︹消滅とい ようなものもある。用いることによってかえってその教
う点で︺決定的なものではない。 義学全体の整合性を失う場合もある。しかし、教義学全
ただし、︹聖諦という︺立脚地を見た有学者は、 体の整合性を図ることは、﹃聡伽論﹂にとってさほど重
卵生や湿生として生まれること、あるいはクル洲に 要なことでないようにも思える。さまざまな教義概念が
生まれること、無想天の衆生に生まれること、ある ﹃琉伽論﹄のなかで混沌としている。それらの教義概念
いは、女性として、生来的にまたは後天的に性機能 が発想された地平を、時にはそのまま、時には無視し、
かなり自由に取り入れて、むしろそれらを取りあげてく び同種の法が生起するという。このように、一切の有為
るときの﹃琉伽論﹄独自の視角こそが大切であるかのよ 法にまで拡大された非択滅は、﹃琉伽論﹄においては、
﹄フに思われる。 ほとんど無化され、なんら特別の意味もない、無用の概
﹃職伽論﹄は、非択滅の教義を、﹃婆沙論﹂が展開し 念となってしまった。
たその頂点から、すなわち諸法一般にまで拡大された非 ﹃琉伽論﹄が説一切有部の教義概念の一々を取りあげ
択滅の教義を取り入れている。ところが、﹃琉伽論﹄と るのは、それを受容することよりも、むしろ無化するた
﹃婆沙論﹄では、その法の定立の仕方がまったく異なる。 めではないかとも思われる。ほとんど否認に近いかたち
三世実有説による﹃婆沙論﹄では未来不生法について非 で非択滅を論評した後で、まったく趣を変えて、聖者は
択滅が説かれるが、未来や過去の法には自性がないとす 悪趣等の生存に非択滅を得ており、それは決定的なもの
る﹃琉伽論﹄の場合、﹁未来不生法﹂という概念はなん である、とする。この事態そのものは、先にも指摘した
ら積極的な意味をもたない。したがって﹁非択滅﹂は、 ごとく、すでに経典等で述令へられてきたことであった。
﹁あるものの生起による、他のものの不生起、単なる消 それについては﹃琉伽論﹂も承認するのである。とすれ
滅﹂と規定される。未来不生法中になんらかの法が住ま ば、﹃琉伽論﹄において否認されているのは、特に﹁婆
るというのではなく、ある法が生起の時を失して生じな 沙論﹄において展開した部分であるということも出来る。
かったことそのことが﹁非択滅﹂であるとされる。それ さらに、﹁非択滅﹂という概念は単なる消滅という事態
故、このような﹁不生起﹂や﹁単なる消滅﹂という事態 を指すにすぎないから、この場合の消滅が決定的である
そのものが、なんらかの自性をもった法として定立され 理由は別のところに求められねばならない。そこで﹃琉
る余地はない。だから、﹁それ︹非択滅︺もまた表現︹機 伽論﹄はその点について、聖者が再び悪趣等の生存に堕
制︺の上で存在するのであって、実体として存在するの することはあり得ないからであるとする。そしてそれを
ではない﹂とする。そしてさらに、非択滅というその消 言い換えて﹁種子の全断﹂︵且Pめ四日ご括冨菌︶という。
ところで、種子の断は智慧によるものである。とすれ

59
滅は、何も決定的なものなのではなく、縁に出会えば再
ぱ、この場合、﹁智慧によらない苦法からの解脱﹂とさ 註

60
れた﹁非択滅﹂という意味はまったく無視されていると ①拙稿﹁浬築についての一考察﹂︵﹁大谷学報﹄第船巻第1
号、一九八九︶参照。
いえよ藩フ。
②、畠、罵言員言、害ミミミ急︾弓①冨侭&、弓馬.
﹃大乗阿毘達磨集論﹄では、﹃五事論﹄の規定が繰り ③﹁冨且ご畠。$の有部﹂については、菅冒冒ミ亀旨ミミ︲
返されているだけである。そしてその註釈では、﹁減で 。こ&︵弓⑦固品&.ご巳.農.z○.圏圏ゞ鹿島︲sを参照。こ
あって離繋ではない﹂ことの理由を﹁随眠が全断されて の点ツルティム・ケサン氏より御教示いただいた。同氏の
⑲ 著書﹃インド仏教思想史﹂︵日蔵仏教文化叢書1、四版仏
いないから﹂︵目尻昌尉騨目且瞥騨騨︶としている。しかし
教文化協会、一九八八︶上巻二一八頁参照。
ながら、﹃琉伽論﹂では、決定的な消滅としての﹁非択 ④恩曾昌量罫曽畠﹄砺旨胃go胃圃且。$.や副Hg︾
滅﹂を﹁種子の全断﹂とするのであるから、﹁随眠が全 い⑲い○。
断されていない消滅が非択滅である﹂という規定は無意 ⑤患言§ミミ畠自ミミ・ミ急︺周①医長8.馬g︲口
味である。 ⑥智ミミきぎ§︼目①国目○さ&.層.忍1国.
⑦旨昼.己路.
いずれにせよ、﹃験伽論﹄も﹃大乗阿毘達磨集論﹄も、 ③この場合逆に、﹁非択滅﹂という語があるから、すでに
説一切有部の﹁非択滅﹂という教義概念は用いながらも、 第一期の諭書において三世実有説が確立していたとも考え
その教義学とはまったく異なった方向を示しているとい られる。例えば、桜部建﹃倶舎論の研究﹄︵一九六九︶一
えよ、フ。
○八頁参照。この点は、﹁非択滅﹂という概念の成立をど
のように見るかにかかっている。
︵以下、﹃倶舎論﹄、﹃五濡論﹄、﹃順正理論﹄、スティラマティ ⑨﹁鑿﹂︵の四目苫噌結合︶に関しては、拙稿﹁連合と結合﹂
の﹃倶舎論﹄註釈等を取りあげていかねばならないが、紙幅 ︵﹃印仏研﹄三二’二、一九八四︶参照。
⑩シz冒唖認︾曾口目&、①印尉具国.この経は、﹁執着の残淳
も尽きたので、稿を改めることとしたい。
があるままで命終わる者はすべて、地獄等の悪趣から解脱
なお、この稿は一九八五年十一月二十二日、大谷大学仏教
していない︵色も秒国日匡#○日3くぃゅもPロ目色斥○陣目COぽぃロ②︲
学会の研究発表例会において発表した資料にもとづいたもの 冒昌鼠・:⋮︶﹂という外道の意見に納得できなかった舎利
である。︶ 弗が、世尊にそのことを質問し、世尊が答える、というか
たちではじまる。執着の残津があっても悪趣から解脱して 具.少属国寄宮.Pご彦己脚冒ロ日四目風ロ弄由菌目の、閨昌挫興国
いる者を九種挙げている。その九種の人︵冒閼巴四︶とは、 旦彦HH己幽伝もH秒匪いい模胃戸丘母脚固胃oQぼゅの○の陸の画の庁HP︻ごゞ
四口ザpH脚やい国ごぎぴ脚昌H︾ロもゆぼPC○四も抄門冒きず倒目閂﹀“、餌己胸彦倒HPもP︲ ⑰国冒茸色o胃冨&.思侭ミミ忌冒冒弔$・や司目g︺や
H冒旨ご倒首︾出め曾烏ロ目④。胃旨きず働剴.pQQ屋四日の○8④丙Pロ岸︲ い②四○。
曾四魁冒H﹄の巴6口倒魁日割︾の丙ぃ寓言冒匿日屏昌○︾閏洋騨丙丙屋胃︲ ⑬松田和信﹁ダライラマ聡世寄贈の一連のネパール系写本
冨勺胃四目○である。 についてl﹃聡伽論﹂﹁摂決択分﹂梵文断簡発見記l﹂
また、︽︽の画冒凰昌”のの四︾.という語が﹁執着の残津ある﹂ ︵﹃日本西蔵学会会報﹄第弘号、一六’二○頁、一九八八︶
を意味し、ほとんどの場合は﹁有学﹂を指すという点につ 参照。以下に載せたサンスクリット文は、松田氏の好意に
いては、前出拙稿﹁浬渠についての一考察﹂参照のこと。 よる。筆者が﹁摂決択分﹂中の﹁非択滅﹂について多大な
⑪のzく壁画以下の﹁預流相応﹂の諸経を見よ。 関心を寄せていることを知って、松田氏は写本のコピーと
⑫エーリヒ・フラウワルナー﹁アビダルマ研究﹂︵彦国国甲 写本を判読しローマナイズしたものを筆者に届けてくれた・
ご国琵罰冨揚め目ロロ日z︶︵﹃仏教学セミナー﹄第蛆号、一九 それからずいぶんと月日が経ったが、論稿全体の構想がま
八四︶一○五頁註⑳参照。 とまらないためにまことに失礼をした。サンスクリットの
⑬シ嗣国彦穏.巨には、他者の説として、非択減を﹁それ 読みは松田氏にまったく依存しているが、節の区切りは筆
自身の本性によって減すること﹂︵のぐ肖尉曾昌︺d昏凹︶とす 者が仮にもうけたものである。文法上破格ではないかと思
る説を引いている。 われるものや、サンディの不規則なものもあるが、できる
⑭﹃婆沙﹄目目︶や尉胃鵠︲雪には、同趣旨のことが述べ だけ写本のままここに掲載した。
られている。拙稿﹁﹁倶舎論﹄における本無今有論の背景﹂ ⑲﹁立脚地を見た﹂宜捌冨冨§︶という語に関し、この語
︵﹃仏教学セミナー﹂第“号、一九八六︶二一頁参照。 の古い用例として、﹃スッタニ・ハータ﹄醜の︽︽騨冨:9国
⑮﹃雑阿毘曇心諭﹂の﹁非分﹂については.目麗﹄や電号忠 g茸冒9号の3ぐ胃団・︾を挙げることが出来る。この箇所
以下参照。拙稿﹁同分彼同分について﹂︵﹃印仏研﹄三五’ は、︽d拝啓④口昏ウ国口四ぴゅQ⑳朋四q爵のppm協目ロ四国ロ尉思も巨寵P︲
二、一九八七︶参照。 首mのPゆずぽゅケウ⑪罰ご鼻団匪騨芹○︶︾︵、魯冒ミミ旨宕戴蔚員や
⑯勝進時における非択滅の得が道果の摂でない理由につい ここと註釈されている。村上真完・及川真介﹃仏のこと
ては、﹁婆沙﹂︵筍目.や屋冒巴陣︶参照。また、果法、非 ば註︵二︶﹄︵一九八六︶二八三、三一三頁註⑰参照。
果法については、﹃品類足論﹂︵目農︾やご弓や巨︶、及び あるいは、シz弓]gの︽︽自目言四呂茸冒冒号冒︾﹄を
挙げることができる。この文脈を示しておこう。﹁さて、

61
﹁婆沙﹂︵目閏︾己屋冒農l喝︶参照。
比丘たちよ、この大地と須弥山王とが焼かれ、壊され、存

62
在しなくなるであろうなどと、いったい誰が思い、誰が
信じているであろう。含意冒冨旨たちの他には︹誰も信
じてやしない︺・﹂含虐9.閏︲閉︶註釈は↑︽呂菩冒冨号
の ○詐
命餌脚ら
薄四口
ロロ①騨
酌昌風ぐ
割一四いいぐゆ戸○存底pも①含ぐ駒︾︾︵雲閏争、苫。亀全琴寧、詞ミミミ
ト K
﹄く己.、画︶し﹂紫のう①
前者では﹁浬桑という立脚地を見た者﹂、後者は﹁預流
の聖弟子﹂と註釈されている。﹁婆沙諭﹄にも﹁学見迩﹂
についての説明がある。﹁学謂預流一来不還補特伽羅。迩
謂四
四聖聖諦
諦。。以無漏慧已具見四諦迩故名学見通・﹂︵當閏︾や
鞆切函omlさ︶○
⑳患言皇ミミ員︵ミ︾§・魯急・喝・冨侭且.ggl拝筐善登言︲
ミミ急い§苫屋R急ぐ呉暑画の之邑.目色陣四①Q・己.﹄卸四l仁.
,、 ロ。、、 ト
︹補註︺大正大蔵経のテクストでは﹁如眼時眠﹂である。

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