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プロティノスにおけるく㌦、◎ポミの 津り’﹀ の意味


金 井 多津子
人間が生きるにあたって何を目標とすべきかという問題に関
︵1一
プロティノスの思想については、ツェラー以来、﹁ト・ヘン﹂ しては、古代ギリシア以来、様々な考え方が示されてきている
から﹁ヌース﹂、﹁ヌース﹂から﹁プシュケー﹂という三つの原 が、プロティノスとのかかわりにおいて、彼の思想の歴史的背
理的なものの発出の過程によって宇宙の生成を説明をしようと 景をなすものとして注目されるのは、プラトンの﹃テアイテト
する側面と、われわれ各自の魂の﹁ト・ヘン﹂への還帰と合一 ス﹄︵一七六B︶にみられる︿讐o︷εq6茅Φ奮も㌻3養ま、﹀
という側面とが、いわば相即するものとしてプロティノスの思 という言葉であろう。
想の基本的枠組をなしているということが、用語は異なるにせ 紀元後三世紀のディオゲネスニフエルティオスの所伝によれ
よ、諸家によって指摘されてきた。これら二面を、人間が生き ば、﹁さらに、善や悪については、彼︵プラトン︶は次のように語っ
るにあたっての目標︵テロス︶という観点からみる場合、問題と ていた。−一人生の︶究極目的は神にすっかり似ることであ
一3︶
なるのは、﹁卜・ヘン﹂との合一という側面であろう。実際、 る。﹂といわれており、プラトンは、この﹁神に似ること﹂を
ポルフユリオスの﹃プロティノスの生涯と諸著作の順序につい テロスとしていたとされているのである。これについては、ディ
一2一
て﹄によれば、プロティノス自身、﹁すべてのものの上にある オゲネスニフエルティオス以前にもいくつかの伝承がみられる
神に近づき、合一すること﹂を目標としていたのであり、その のであって、たとえば紀元後一世紀のアレイオス・ディデュモ

21
目標に彼は四度到達したとされているのである。 スによれば︵ω8σ巴oω一卑ざ§♪F仁り一〇〇一ミ篶臣目■亭︶、プラト
ン以前、すでにピュタゴラスがこの﹁神に似ること﹂を人間の とができるのである。
^ ︶
テロスとして定め、それ を︿雪§茅玉 ﹀という表現で勧奨し、 次に、﹃国家﹄第一〇巻︵六二二AB︶においては、徳を実践

22
さらにプラトンはそれを発展させ、︿奮主ま3§﹁守一﹀とい することと︿一ざoざqδ茅o﹀とがいっそう強く関連づけられ、
う限定を付加したともいわれているのである。 さらにそれが神に嘉されるための手だてとして位置づけられて
プラトン自身の対話篇において、こうした報告と対応する主 いる。すなわちそこでは、﹁ ⋮徳を行なうことによって、人
な箇所として挙げられるのは、﹃テアイテトス﹄︵一七六AB︶、 間に可能なかぎり神に似ようと心がける人が、いやしくも神に
﹃国家﹄第六巻︵五〇〇C︶、同第一〇巻一六二二AB︶、﹃法律﹄ なおざりにされるようなことはない﹂、といわれているのであ
一4︺
第四巻︵七ニハC︶、﹃ティマイオス﹄︵九〇D︶である。これらは、 る。﹃法律﹄第四巻一七一六C︶にみられる叙述にもこれと共通
以下述べるように、内容上三つに区分されると思われる。 するものがあり、神に愛されるためにはどうすべきか、という
まず﹃テアイテトス﹄︵一七六AB︶においては、善いものの 問いに対する答えとして﹁神に似た者となる﹂ということがい
反対のものとしての劣悪なものの存在の必然性と、劣悪なもの われている。ここでは、神は万物の尺度と規定され、神に似る
が存在するこの世からの逃避︵喜ミふ■︶が主張され、その具体的 ために、四元徳の一つであるく■q“亀ε、Vという契機が強調さ
’ ︶ 一5︶
内容として、︿、暑良ε§の茅8套をふ︸ミρと・.Vが提示される。 れてくる。つまり、これら二箇所においては、神に愛される者
そして、ここでいわれている︿、ざ㌻ε具二烹︶
し﹀とは、 となるための人間のあり方として﹁神に似ること﹂が主張され、
︿ユぎ&、奮︷苧δ冒蕉を曾9ふ黒εη言泉qΦ§vどされている。 それが徳と結びっけられているのである。
つまり、﹃テアイテトス﹄︵一七六AB︶では、悪とのかかわり これに対し、﹃国家﹄第六巻︵五〇〇C︶と﹃ティマイオス﹄︵九
’ ︶
において、この世からの逃避という意味でく暑oへεq易茅ε干 〇D︶においては、これらとはやや異なる観点から、﹁神に似る﹂
ρをさ伽毫§宇Vがいわれ、さらにそれが徳の問題と関連させ という発想の展開がなされている。まず、﹃国家﹄においては、
られ、より具体化されているといえよう。こうした観点につい 第五巻の終りで哲学者による支配という理想国家のあり方が示
ては、アイリアノスによれば︵§ざSミ急ぎ§×戸竃︶、ピュタ された後、真の哲学者とは何か、が述べられてくる。第六巻︵五
一 ⊃
ゴラスは、︿皿ρζ茅片ミ止﹀と︿m宗ミ害耐疋﹀という点において、 〇〇C︶の記述によれば、哲学者とは、恒常不変のあり方を保
人間は神との類似性をもつと考えていたとされているのであっ つ存在に目を向け、それらの存在にみずからをできるだけ似せ
^6︶
て、すでにピュタゴラスにあっても、﹁神に似ること﹂は、人 ようと努める、とされる。そして、そうした意味で、哲学者と
問の生のテロスとして﹁徳﹂の問題とかかわっていたとみるこ は、神的にして秩序あるものと共に生きるのであるから、﹁人
^7︺
問に可能な限り神的で秩序ある者Lといわれてくる。ここでは、 本稿においては、プロティノスに着目し、﹃テアイテトス﹄一一
神に似た者となる遭筋として、愛知としての哲学が注目されて 七六AB︶とのかかわりにおいて、﹁神に似る﹂という問題を考
いるのである。これと同主旨のことを宇宙論的枠組の中で述べ 察したい。プロティノスを取り上げるのは、彼がネオプラトニ
ているのが、﹃ティマイオス﹄︵九〇D︶の叙述だと思われる。 ズムの端緒を開いた人物であるばかりか、彼自身、自らの教説
そこでは、人問のうちの神的なものを世話するためには、人間 をプラトンの教えのくポミ3さ◆と規定しているからである。
の頭の中にある循環運動を万有の調和と回転運動に似せ・なけれ
ばならないのであり、そうすることが、神から人間に与えられ ニ
たもっともよき生をまっとうすることだ、といわれているので プロティノスの﹃エンネアデス﹄において、﹃テアイテトス﹄
︵8︺
ある。 ︵一七六AB︶が引用されている主な箇所として挙げられるの
これらの箇所をみると、それぞれのコンテクストも表現も微 は、第一巻第二論文︵﹁徳について﹂、以下1,2と略記︶第一章、
妙に異なりはする。だが、いずれの場合も、先のアレイオス・ ならびに第一巻第八論文︵﹁悪とは何か、そしてどこから生ずる
ディデュモスの報告にみられるように、︿§志ま3さまξ のか﹂、以下1,8と略記︶第六−七章である。
に相当する表現がみられ、﹁神に似ること﹂に限定が付されて 1,8の第六章の冒頭において、プロティノスは、︿呈宇
^9︶ 、 ・ ’ 、 ・ ・ つ 一 .一、、 . ’ ’ ︶
いる。つまり、プラトンにおいては、﹁神に似ること﹂が、﹃テ p斗oン恥qoξ↓ρ宍ρ示89ンン^§塞黒ρ、ρ“示3の 医§電①m冥月
・ 、 つ ⊃ ’ ’ ・ 、 一 、
アイテトス﹄︵一七六B︶に典型的にみられるように、命看サー 、寒o異⑭ミ§一ミ恩ミoζ§箒﹃3ミ①ミヨ、号看ミ天ξさ呂n
︶ ・ ,. 、
qδ箒ε§ささ助ミミ§﹀という形で定式化されているとい ’
↓§↓ミ§Qg
.、 、 、
。﹀をプラトンの言葉として示し、フラトン


えよう。 がどのような意味でこれをいったのかを考察しなければならな
では、なぜ冒頭に挙げたディオゲネスニフエルティオスにお いと述べている。これは、﹁神に似る﹂ということがいわれて
いては、プラトンのテロスについて述べているにもかかわらず一 くる﹃テアイテトス﹄︵一七六B︶の直前の部分のほぼ逐語的引

︿套泣ま3o§守﹀に相当する表現が見当たらないのであろ 用である。この場合、プラトンは、善の反対のものとして︿さ
うか。そこには、一世紀から三世紀にかけての、いわゆる中期 §紅﹀の存在の必然性を主張している。悪の起源を探求しよ
プラトン主義を経てネオプラトニズムに至る思想史の流れにお うとするプロティノスは、こうしたプラトンの観点に基づいて、

ける、 ︿.暑◎サqs、茅

ε一﹀に関する何らかの解釈上の変遷が反 ここではまず、﹁反対﹂とは何を意味するかについて、考察を

23
. 一10一
映されているのではないか、と思われるのである。 進めていくのである。
, ・ 、
先にふれたように、プラトンにおいて﹁反対のもの﹂といわ 六AB︶においては、先にふれたように︿葛ρ養oミ﹀と反対
れているのは、︿まい言&ξと︿を蒼艮﹀である。ところ のものとして︿さ、養ξ﹀の存在の必然性が主張されているの

24
’ 、
がプロティノスは、プラトンの当該箇所を、彼独自の思想体系 であって、この前提に基づいて悪の起源としての︿一さ奮§、﹀
’ を探求しようとするならば、﹁反対﹂ということ白体について
から次のように再解釈している。彼は、まずプラトンのいうくさ
奮象◆を︿ふ養天町養∼晋Qギ宍婁ポ←と置き換え、先の 考察し直さざるをえなくなってくる。そこで、1,8の第六章
引用部分に続く﹁この世から逃れなければならない﹂というプ において、﹁反対﹂についての吟味がなされるのである。
ラトンの言葉を、へ小六婁宣﹀からの逃避を意味するものと解 プロティノスは、﹁反対﹂に関し、次のような二通りの関係
釈する。そしてその上で、改めて︿ふ天集更﹀と反対のものを を考えている。一つは同種あるいは同類のうちに属しながら相
問うのである。この場合、︿ホ宍婁サ﹀とは、後に第七章で︿ま 反するという関係であり、これは、いわば先にふれた︿“§㌻﹀
奮証、∵﹀という言葉で表わされる悪の起源ではなく、その現 、についていわれる﹁反対﹂に相当するといえよう。この場合、
象形態だと考えられる。つまり彼によれば、︿“決婁サ︶とは 相反する二つのものは、同種あるいは同類に属しているのであ
人間にかかわるものであって、その反対のものとして考えられ るから、共に何らかの共通のものに関与していることになる。
るのは、︿“幕ψo祉ぎpま二﹀ではなく、︿∫曾零ふ︶である。 これに対し、種も類もまったく異なる二つのものが相反すると
ここで注目されるのは、彼がプラトンにみられる︿ま享亀貧V いう関係が挙げられている。この意味での相反する二つのもの
をへ∼あミoみ㌻g宇−﹀と置き換えてしまっていることであ は、相互に遠く隔たっており、一方の本質を構成する要素が他
一12一
る。彼のいう︵卯奈専o㌻妾g守﹀とは、いわゆる三つの原 方のそれと相反しているといわれており、先の同種・同類に
理的なもののうちの﹁ト・ヘン﹂と同一視されうるのであって、 属しながら相反するという場合よりも、いっそう端的に﹁反対﹂
すべてのもののアルケーであり、﹁ヌース﹂のかなたにあるもの、 の関係にあると考えられているのである。そして、プロティノ
^11︶
すべてを超越し、言表不可能なものを意味する。プロティノ スは、後者の意味で相反するものとして、︿ふ一事αポ﹀と︿事
一 ・一 垂 一 ・ ︶ ・
スも当該箇所で指摘するところであるが、﹁反対﹂を、アリス ︷3.ε■岩︶、;ミ塁ら書§﹀とく“套さq書q巳
トテレス的観点から、基体の属性としてのヘミ事ξにおいて とを挙げているのである。
みようとする限り、こうしたいかなる属性ももたない︿∼奈田o ここにおいて、プロティノスは、﹃テアイテトス﹄︵一七六A
さ.㌢9苧∴﹀に関し、その反対のものなど考えられなくなっ B︶の見地に即して、あくまでも、︿ふ天婁苧﹀の存在の必然
一 ’ 、
てしまうことになるのである。しかし、﹃テアイテトス﹄︵一七 性を︿さミ亀§﹀と反対のものという規定に求めてはいる。
しかし、それを彼自身の思想体系の中で生かすために、行論上、 るかのように把握されうる面があることは否めない。だが、プ
’ ’ −
﹁反対﹂を︿§副、﹀においてとらえるアリストテレス的発想 ロティノスは、この第七章では、︿さミ亀§﹀と︿ま天婁§﹀
を援用しつつ、さらにそれとは別個の﹁反対﹂、つまり構成要 とを、存在の階層化という、いわば垂直方向の枠組の中に位置
素もまったく異なり、類・種を別にする二つのものの﹁反対﹂ づけることによって、︿乱奏昏この存在性そのものを否定
を示すことによって、悪の起源の探求の独自の道を歩み出して しようとするのである。
いると考えられるのである。 悪の存在性の否定については、すでに第三章、第四章でふれ
プラトンのこうした再解釈の背景にあるプロティノス独自の られている。すなわち、第三章においては、︿一乱天奏ぎ﹀は、
観点は、続く第七章において明確に示されてくる。すなわち、 ﹁ヌース﹂の次元に相当すると考えられる︿を宇蔓﹀、﹁ト・
最初のものがあれば、それに続くものがなければならない︵鮒 ヘン﹂を意味する︿㌫宰㌻9§↓臼、宇﹃ε、﹀に対し、︿ふ
か専事許;.毒㌻∼ざい§一とされ、この原則から 一 .,
ミ§Vであるとされ、﹁ト・ヘン﹂、﹁ヌース﹂は善きもの
して、すべてのもののアルケー、つまり最初のものとしての︿.ま であって、ハ㌫蒼穴苧■﹀はそれらと類を異にするとパわれて
享Qまミ﹀に対し、根源悪としてのくふ§奮三Vは、︿ふ いる。この点について、さらに第四章において、︿ふ天§宇﹀
寄ק§Vとして位置づけられ、さらにそれは、︿、ホチミ﹀ は善を欠いたものとされ、純粋の欠如と述べられているのであ
であるといわれる。つまりここでは、先の第六章で論じられた る一え§§さ茅ξρもい意あ奏;§婁.ジぎξ一。
く小婁亀も芝qSVと︿ふ弐婁あ象q嵩﹀との反対という位 こうした叙述からして、︿1詐天婁㌻Vは、プロティノスの思
置づけが、存在の階層化というプロティノス自身の枠組におい 想の枠組において、最低の次元に位置づ。けられ、その存在性は
︵14︶
て、︿主§O↓§一﹀︵Hふ印く9㌻︶と︵“苧×ρ↓e﹀︵1−主. まったく否定されていると考えられるのである。ここで注目
示婁苧︶としてとらえ直され、問題が展開されてくるのである。 を要するのは、プロティノスが、︿ふ奮弐㌻Vを︿。主︸苧、﹀

第六章では、彼独自の観点からする新たな﹁反対﹂概念が提 といいつつ、それは︿■㌫ミ§幕ンεの呈宇﹀ではない、と付
示され、その上でへ㌻享邑宇﹀と反対のものとしてく主 言していることである。もし、︿主示婁宇︶が﹁絶対的な非
§証こが位置づけられていた。しかし、﹁反対﹂ということ 存在﹂だとすれば、それは、先の﹁反対﹂概念に関してみたよ
をどのように解釈するにせよ、この言葉が用いられている隈り、 うに、やはり﹁ト・ヘン﹂つまり︿主宴亀㌻﹀と対等の否定
両者はいわば水平の次元におかれ、したがって︿ま示§㌻■﹀ 的原理ということになってしまうのであろう。そこで彼は、こ

25
は、対等の存在性をもって。︿壬享邑ざ.﹀と拮抗するものであ う付言することによって、自己の立場が善・悪の二元論に根ざ
・1 ・、 ⊃ ’
すものではない、ということを明確に打ち■出していると考えら 提示されている。だが、そこにみられる︿︷O§§久茅ε一§さ
れるのである。 乱助蔓§苧﹀の部分の引用、ならびにそれへの言及は脱落し

26
1,8においては、プロティノスのいわゆる三つの原理的な ている。これはいったいなぜであろうか。それは、﹃テアイテ
もの︵ヒュポスタシス︶、つまり﹁ト・ヘン﹂、﹁ヌース﹂、﹁プシュ トス﹄の当該箇所に対するプロティノスの解釈の立脚点に起因
ケー﹂という基本的枠組が端的に示されているわけではない。 し、ひいては彼の思想の枠組と密接に関運していると思われる。
しかし、その第七章では、︿よξふホ︷的↓量﹀、︿ξ①“V プロティノスの思想は、﹁ト・ヘン﹂、﹁ヌース﹂、﹁プシュケー﹂
という表現がみられ、特に後者は、﹁三つの原理的なものにつ という三つのヒュポスタシスを基本として展開し、その思想体.
いて﹂という表題をもつ第V巻第一論文︵以下V,1と略記︶に 系には、本稿冒頭でふれたように、﹁ト・ヘン﹂からの発出一高
おいて、﹁ト・ヘン﹂、﹁ヌiス﹂、﹁プシュケi﹂の秩序を示すキー 次のものから低次のものへ︶とそれへの還帰︵低次のものから高
ワードなのであって、双方は対応するように思われる。V、ユ 次のものへ︶という相即する二つの側面がみられるといわれて
においては、三つのヒュポスタシス相互の関連が、それらの階 いる。事実、V、ユにおいては、様々な比瞼を用いて﹁ト・へ
二 . 一 う 一15︶
層化を示すく葛①.OVと、起源からの生成を意味するく客εV ン﹂からの発出の体系が述べられると共に、われわれ各自の
という二つの観点からとらえられているのである。 魂は、忘却してしまっている父なる神の方へ向き直らなければ
V,1は、ポルフユリオスによる著作順序に一応依拠するな ならない、ともいわれているのである。そして同篇においては、
1 ⊃ 、
らば一〇番目のものであり、工、8は五一番目に著わされた これを可能にする根拠として、︿亀3曾qg.﹀にある三つの
とされているのであって、V,1の方が1,8よりも先の著作 ヒュポスタシスが︵ミ§,き?一﹀にもあるという発想が提起さ
一16︶
である。また、プロティノスは晩年になって一挙に著作を始め れている。さらにこの発想によって、われわれ各自の魂が高
たとされており、﹃エンネアデス﹄自体に彼の思想的発展が見 次の方向へと存在の階層秩序をたどり、﹁卜・ヘン﹂へと遡行
い出されないとすれば、1,8のみならず、﹃エンネアデス﹄ する過程が、実は、︿oポ&耐苧ε∼真q︷沓§︶という表現
一〃一
全篇を通して、三つのヒュポスタシスに関し、それを直接の主 。が示唆するように、われわれの内面への深化の過程であるこ
、題とするV,1にみられる︿ξ①、ポ,さ∼害あ﹀という観点が とも意味されているのである。これは、魂の上昇がしばしばそ
とられていると考えることができるであろう。 の内面への深化のイメージで語られ、両者が相即化されている
壼︶
1,8においては、先にみたように﹃テアイテトス﹄︵一七 ことからもうかがえるのである。
六AB︶がほぼ逐語的に引用され、以上のようなその再解釈が こうした﹁ト・ヘン﹂からの発出とそれへの還帰という自已
の思想体系の二面に基づいて、プロティノスは、﹃テアイテトス﹄ 悪の必然性とそこからの逃避の必要性がいわれ、それが具体的
︵一七六AB︶の叙述から、善の反対のものとしての悪の存在の には神に似ることだとされ、その方策として徳を備える必要性
必然性と﹁神に似る﹂という二つの論点を、区別して読み取っ が挙げられてくる﹃テアイテトス﹄︵一七六AB︶の行論と、一
ていると考えられる。つまり、﹁悪の起源とは何か﹂を主題と 見、完全に一致しているように思われる。しかし、後に論ずる
する1,8においては、彼の問題意識は﹁ト・ヘン﹂とは逆の ように、ここで、 ﹃テアイテトス﹄ ︵一七六AB︶にみられる
︶ ’. 一 。 ⊃
低次のものへと向い、そうすることによって、彼は、悪の存在 ︿きO“ε皇4箒ε奮さ暮3養ふこが。へ茅ε是Sε①3§“﹀と
“ ■
の必然性、ひいてはその起源を別挟しようとしているのであっ 換言され、︿ぎを斗α毫§宇﹀という限定が除かれている点に、
て、この観点から﹃テアイテトス﹄の当該箇所の再解釈がなさ この問題に関するプロティノス独自の見解が示唆されているよ
^ i
れているといえる。これに対し、︿o看§εの茅む︶という観 うに思われるのである。
点から﹃テアイテトス﹄︵一七六AB︶が引用されてくるのは、 プロティノスは、まず徳を﹁市民的徳﹂一§さン葦套“
﹁徳について﹂と称される1,2である。以下、1,2の叙述 曾零息︶と﹁より高次の徳﹂一“焉︸ざ、か焉主︶とに分け、わ
に即して、プロティノスにおいてくざOいεqδ箒臼Vがどのよ れわれが神に似るのは後者によるとし、第三章以降で具体的に
うな意味をもつか、 を 考 察 す る こ と に す る 。 それについて論じている。だが、それに先立ち、第二章におい
て、ここでいう︿ざ3εsの﹀の意味をプロティノス旨身が規定
三 しており、それにふれておく必要があると思われる。
工、2は、その冒頭において、逐語的とはいいがたいが、﹃テ プロティノスは、︿ざOサ負^﹀ の意味を次の二通りに区別し
アイテトス﹄︵一七六AB︶が引用され、内容上全体がその注釈 ている。一つは、AとBと二つのものの問に何か規準となるも
ともいえる体裁をとっている。まず、われわれは、多くの悪︵を のがあり、AとB双方がその規準となるものに同程度に似てお
§天牢︶があるこの世から逃れなければならない︵膏妄高§ り、したがってAとBは相互に類似しているという場合である。
∼ミ耐暮電︶といわれ、その場合、逃避︵ふ母ミ千︶とは、プラト いま一つは、BはAに似ているが、AはBより先のものであり、
ンの説として、︶︿箒
^ ︶
εoξξ① ミ§﹀だとされている。そして、 BはAに還元されえず、AがBに似ているとはいわれえないよ

この﹁神に似る﹂とは、︿更奮§奮ぺぎ§焉を魯もO王幕εのV うな二つのものの間の類似である。そして、プロティノスによ
となることを意味しているのであり、︿“ンε切讐宇耐主一Vと れば、︿ざOゼqδ茅〇一﹀という場合の︿讐O∼ε具の﹀とは、
● ・ “

27
なることだというのである。こうした叙述は、この世における 後者の意味での類似が意味されているのである。こうしたく
◎モε皇^﹀理解には、神とそれに似ようとするものとの間の次 のであろうか。プロティノスによれば、われわれの魂が悪しき
元の相違が示唆されており、そこには、先に1,8に関してふ ものとなっているのは、肉体と結びついていることによる。そ

28
れたように、﹁ト・ヘン﹂を頂点かつ起源とする存在の階層秩 して、魂が知性を働かせて、肉体から何の影響も受けず“
序というプロティノスの思想体系の枠組が反映されているとい ︿ギ亀ナ﹀になること、つまり肉体的な作用から浄化されるこ
えよう。この場合、神に似ようとする主体は、∫言誉一﹀と とによって、善き魂、有徳の魂となるといわれている。さらに、
いう言葉で示されており、これは、先にふれたV,1の叙述と こうした小いさ①す︶な状態になることを、プロティノスは、
考え合わせると、われ1われ各自の魂をさすと考えられ、﹁神に ﹁神に似ること﹂と呼んでも誤りではないとしているのである。
似ること﹂が、われわれの魂の﹁ト・ヘン﹂への還帰の過程と しかし、プロティノスにとって、﹁神に似ること﹂は、単に肉
重ね合わせて叙述されていると思われるのである。 体からの浄化のみを意味しているわけではない。浄化は、さら
このように、われわれ各自の魂と神とが次元を異にするとす に第四章において、プロティノス独自のくベミミ膏雪、Vという
’ く
れば、われわれの魂の次元においていわれる﹁市民的徳﹂によっ ︿8寒﹀への還帰の過程と結びっけられてくるのである。
て神に似ることは不可能なのであり、﹁より高次の徳﹂が要請 第四章において、われわれ各自の魂の有様が明確に示されて
されてくることになる。これに関し、第三章冒頭において、プ いる。プロティノスによれば、われわれの魂は、善悪両方向に
命︶
ロティノスは、プラトンのいくつかの箇所を根拠として、プ 向う可能性をもって生まれついている。そして、魂にとっての
ラトンもまた、徳を二通りに分け、﹁神への類似﹂は市民的徳 善とは、自己と同族のもの︵エ§ミ電oヅ︶と交わることであり、
によるとみなしてはいない、と主張する。そして、プラトンに 魂にとっての悪とは、自己と反対のものと交わることだ、とい

依拠しつつ、彼は高次の徳をわれわれの魂の﹁浄化﹂︵奏ざ干 われているのである。この場合、魂にとって同族のものとは、
暮二と結びっけるのである。ただし、プラトンが根拠とされ この章の後半で魂がその︿丁宇9﹀を有すると述べられる﹁ヌー
ているとはいえ、プラトンは、それらの箇所で、プロティノス ス﹂であり、反対のものとは、いうまでもなく肉体をさしてい
と同主旨において徳を二分しているわけではない。ここにおい ■ると考えられる。このようにみるならば、この1,2において
ても、プラトンの解釈という形をとりながら、それを巧みに用 は、︿ざまεqお寿心◇は、まず﹁ヌース﹂とわれわれの魂の
いて独自の思想を展開していくプロティノスの姿勢が認められ 問題として叙述されていると思われるのである。実際、後に第
るのである。 六章において、ここでの﹁神﹂とは﹁第一のものに続くもの﹂
’ 、 .︶ 、
では、なぜ﹁神に似ること﹂と浄化とが結びっけられてくる ︵葛∼;蕉§﹃ε;ε↓ε︶、つまり﹁ヌース﹂だとされている
のである。 が、単に神に似ること、近似的に神的なものとなることを意味す
こうしたわれわれの魂が﹁ヌース﹂と交わるためには、プロ るのではなく、神となって、神としてあることをさしているので
ティノスによれば、先に第三章においていわれた浄化と同時に、 ある。1,2の第一章冒頭の﹃テァイテトス﹄︵一七六AB︶の
’ 、 ︶ ︶
﹁ヌース﹂の方に転向すること 、つまり︿ミδ書O§ 一﹀が必要 引用において、︿茅ご讐9εΦミ星Vとのみいわれ、︿一套を■三・
− ・ ︶.
とされる。そして、高次の徳とは、浄化と︿∼ミミ君§﹀によっ 山き§↓も﹀という限定が脱落しているのは、︿◎、乳εq;箒㌻V
て魂に生じてくるものであり、﹁ヌース﹂のく。↓ミ9vといわ に対するこうした彼独自の意味づけのためだと思われる。ただ

れている。しかも、それが実際に活動していないにせよ、われ し、この場合、先にふれたように、︿津ポ詐↓εミ∼§t∼、εミ
,︶ 一
われの魂はそうした︿さ§ハ﹀をもともと有している、といわ ↓ε・宅ε﹃ε﹀といわれており、神とは﹁ト・ヘン﹂に続くもの、
れているのである。ここでは、﹁ヌース﹂とわれわれの魂との つまり﹁ヌース﹂を意味していると考えられる。たしかに、1、

関係が、いわば原型と似像の関係によってとらえられている。 2全体の叙述をみた場合、ここでいわれている︿川音o︷εqS箒ポ﹀
われわれの魂は、﹁ヌース﹂そのものではなく、ただ﹁ヌース﹂ とは、われわれの魂と﹁ヌース﹂との関係において論じられて
の︿。主ミ易﹀を有するのみであるという点において、われわれ いる、と一応いえよう。このようなわれわれの魂とヌースとの
の魂と﹁ヌース﹂との次元の相違が示唆されていると思われる。 関係は、V,1の第一〇章において、われわれの魂の高次の部
だが、プロティノスは、この︿↓宇g一﹀をその原型と合わせな 分は知性界にとどまっていると述べられていることと関運して
︵20︶ 玩︶
ければならない、ともいう。っまり、彼においては、われわ いると思われる。ここでいわれる知性界とは、直接的には三
れの魂と﹁ヌース﹂との次元の相違が自覚されながらも、なお つのヒュポスタシスの一つとしての﹁ヌース﹂をさすと考えら

﹁ヌース﹂という高次のものへの志向が主張されているので れるが、先にふれたように、︿苧ま科苧9一.にある三つのヒュ

あって、これは、次に述べるく讐とε§の票o︶の意味ともか ポスタシスが︿ミ冬、“忘ミ﹀にもあるといわれていることから
かわっていると考えられるのである。 すれば、それはまた同時にわれわれのうちにある﹁ヌース﹂を
このように、われわれの魂の肉体からの浄化と﹁ヌース﹂へ 意味するといえよう。そして、このことが、われわれの魂が﹁ヌー
の︿㌻δミ◎主.﹀を要請する︿一ざoピqs津ψ﹀とは、プロティ ス﹂になるといわれることの一つの根拠となっていると思われ
ノスにおいて何を意味㌧ているのであろうか。それは、第六章 るのである。

冒頭において、︿茅ζ①︸ξ﹀といわれている。つまり、

29
︿ざoピεの茅①一﹀とは、プロティノスにおいては、われわれの魂
一●

^ − つ
しかし、プロティノスにおいて、︿.︷OξqS茅a﹀は、わ そしてさらに﹁ト・ヘン﹂を観るということになると思われる。
れわれの魂と﹁ヌース﹂との関係についてのみいわれているの また、1,2において﹁ヌース﹂が言及される箇所では、たと

30
⊃ 一 ’ ’ ・ 一 ・ 一 つ 一
であろうか。彼は、﹁神﹂という語を、﹁ヌース﹂ばかりでなく、 えば、︿§9天9さ雪実9§﹀、︿さ︸O焉養↓εミε↓ε1■v
・ “
、﹁ト・ヘン﹂に対しても用いて︶
いる。たとえばY という表現がみられ、存在の階層秩序における第二位のものと
︶,1の第一一
章では、﹁ト・ヘン﹂について、︿↓ざ↓ε︵貫まεざx寺蒼一 しての﹁ヌース﹂の位置づけが示唆されている。こうした叙述
9↓漬、§“票§■﹀といわれている。また、同じくV、ユの第 からすると、1,2でいわれているわれわれの魂が﹁ヌース﹂
、’
六章においては、われわれ各自の魂が﹁ト・ヘン﹂へと還帰し になるという意味でのくOξεqお茅ε、Vは、﹁ト・ヘン﹂へ
ていく過程が、参詣者が神殿の内奥に鎮座する神を観ようとす の還帰の過程におけるいわば経過点を表わしているといえるで
る過程になぞらえられている。この場合、神殿の内奥に鎮座す あろう。
’ ︶ 、 ^ 、 一 − ^ −
るかの神︵−実§81︶は、︿苓;ミ舅言員ε賢実9、ρ§§↓ε、 さらに、﹁ヌース﹂が観ることに関し、第五巻第五論文︵﹁可

一﹀といわれており、︿。実§3一一V、一S実§ρ﹀という用語か 知的対象はヌース外部には存在しないこと、および善なるもの
らして、﹁ト・ヘン﹂を示すものと思われる。さらに、かの神 について﹂、以下V,5と略記︶の第七、八章において、感覚器
の像︵“専臥ξρ3︶が、いわば神のまわりに外に向って立って 官としての目が見ることになぞらえられて述べられている。こ
いるとされており、先にふれたように、﹁ト・ヘン﹂からの発 の箇所以外でも、プロティノスは、﹁ト・ヘン﹂への還帰の過
出の体系が原型と似像とのイメージにおいて述べられているこ 程を叙述するにあたって、視覚にかかわる表現を多用してい
一娑
とからして、ここでいわれている神像とは、﹁ト・ヘン﹂の似 る。その一つの理由としては、﹁感覚と記憶について﹂と題さ
像としての﹁ヌース﹂をさすと考えられる。そして、神殿に参 れている第w巻第六論文第;早において、視覚がく“.∼奏ミ8−
詣してかの神を観ようとする者に、われわれ各自の魂がなぞら ■さ皇量さミ葛Vといわれているように、プロティノスが、視
えられていると思われるのである。つまりここでは、神殿の内 覚を感覚の中でも卓越したものとみなすギリシアの思想家の伝
秦︶
奥にすべてを超越して静かに鎮座する神を観ようとする者は、 ■統的傾向を継承していることが挙げられる。だが、それだけ
まず、そのまわりに外に向って立っている神像から観ていかな でなく、プロティノスは、視覚にかかわる表現を彼独自の観点
ければならないといわれているわけである。このことを、﹁ト・ から用いているように思われるのである。
ヘン﹂への還帰の過程と重ね合わせてみるならば、われわれは、 V,5,6において、プロティノスは﹁ト・ヘン﹂の名称に
﹁ト・ヘン﹂からの発出の体系を遡行し、まず﹁ヌース﹂を、 ついて論じている。そこでは、﹁ト・ヘン﹂に対しては、﹁かの
一 ⊃・ ’ ︶
ものL︵実§P実§ε﹀という呼び方以外には、﹁いわば⋮⋮ は目から外に向ってほとばしるといわれている。こうしたプロ
のような﹂という比瞼的言表、もしくは﹁⋮⋮でないもの﹂と ティノスの視覚についての見解は、目に固有の光と昼に固有の
いう否定的言表しか妥当しえないといわれ、﹁ト・ヘン﹂の全 光、つまり目にとって内なる光と外なる光との衝突によって視
売︺
容を包括するような肯定的言表は不可能であることが示唆され 覚が生ずるとするプラトン的観点に立つものであり、その背
ており、﹁ト・ヘン﹂の不可言表性・非限定性が強調されている。 景には、︿O⋮ミーOξεvというギリシアの伝統的定式が存
実際、同章では、﹁ト・ヘンに関しいかなる名称もいうことは 在すると考えられる。事実、第−巻第六論文︵﹁美について﹂︶第
︵別︺
できない﹂と明確にいわれているのである。プロティノスに 九章においては、人が何かを見ようとする場合、まず、見るも
よれば、﹁ト・ヘン﹂という名称ですら、究極の根源の一性を の︵目︶を見られるもの一対象︶と同族かつ同類のもの︵qミベ豊κ
表わし、それに可能な限り適合するものとはいえ、われわれの §︸ざo蔓︶とする必要がある。といわれている。だが、さら
探求の究極の目標を示すために便宜上用いられているにすぎな にここでは、神や美を観ようとする場合には、目の場合と同様、
いのであって、ひとたびその探求がなされてしまうと、否定さ 完全に神や美に似たものとならなければならないとされている
一26一 = ’
れなければならないのである。そして、同章末尾において、﹁ト・ のであって、 ︿O看δミーO看ゼ﹀という原則が、﹁ト・ヘン﹂
ヘン﹂を探求しようとする者は、聞くことによってではなく、 への還帰の過程においても適用されることが示されているとい
﹁見ること﹂︵^㌫︷
︶εミ︶によらなけれぜならないといわれる。
えよう。
つまりここでは、﹁ト・ヘン﹂の不可言表性を踏まえて、﹁ト・ では、﹁ヌースが観る﹂とは、いったいどのようなことを意
ヘン﹂探求のいわば手だてとして視覚が重要視されているので 味しているのであろうか。V,5,7の叙述によれば、﹁ヌース﹂
ある。 も、目が見るように、︿ふ∼喬サ3ミ↑皇母甘易﹀によって照
次いで、第七章において、﹁ト・ヘン﹂への還帰の過程が、先 らされたものを観る。この場合、︿3実gミミε3曾ミニ
にふれたように、感覚器官としての目がどのように見るかを例 とは﹁ト・ヘン﹂をさすと考えられ、そうだとすれば、それに
に引き、﹁ヌースが観る﹂という表現によって述べられてくる。. よって照らされたものとは、﹁ヌース﹂自体を意味することに
プロティノスによれば、目は、光によって照らされた可感的対 なり、﹁ヌース﹂が観る際、対象となるのは白已自身だという
象を見るのであり、視覚の成立が、目と可感的対象とそれを照 ことになるといえよう。しかし、プロティノスによれば、照ら
らして可視的なものとする光の三者の関係によって説明されて されたものとしての自己に向かっている限り、﹁ヌース﹂は劣っ

31
いるのである。この場合、目自体も内に光をもつとされ、それ た意味において観ているにすぎない。これに対し、﹁ヌースが
真に観るLとは、﹁ヌース﹂が自已の内都に集中し、ついには のである。
自己をも捨て去り、突然に現われてくる光を観ることなので われわれが自己の内面への深化し、その究極において﹁ト・

32
一27︶ ⊃ ︶
あって、こうした叙述には、﹁ヌース﹂の視覚︵“ざC言巳。 ヘン﹂を観るといわれる場合、﹁ト・ヘン﹂の内在が前提とさ
ぎこの内面への方向性が明確に示されている。﹁ト・ヘン﹂へ れていると思われる。だが、他面、先の1,8における叙述に
の還帰の過程は、先の神像の比楡でみたように﹁ト・ヘン﹂か もみられるように、すべてのものの根源であり、発出の体系の
らの産出の体系を遡行することであると同時に、第二節でふれ 頂点としての﹁ト・ヘン﹂の超越も強調されている。先の﹁ト・
たように、われわれ各自の魂にとっては、、一白己の内面への ヘン﹂に関する一見矛盾する叙述は、いわば内在しかっ超越す
︿いミミ吾主﹀一を発端とし、われわれの内にある三つのヒュポスタ る﹁ト・ヘン﹂のあり方を示唆しているように思われるのであ
シスをたどって内奥へと深化していく過程なのであって、われ る、この問題に関しては、V,1,uにおいて、プロティノス
われ各自の魂が観るべき目標は、自己の内奥に求められなけれ が、︿蔓、ざゼ﹀にある﹁ト・ヘン﹂に対し、一註、バ多S﹀と
ばならないということが、V,5,7の叙述のうちに示唆され いう隈定を付していることが注目される。つまり、三つのヒュ
・ ︶
ているといえよう。 ポスタシスがく﹁ミ暑.ミ尽。vにもあるといわれ、﹁ト・ヘン﹂
表一
しかし、これに続く第七章末尾と第八章冒頭において、突 すらわれわれの内にあるとされているとはいえ、われわれ各自
= 二 う ’ o = り
然現われてくる光に関し、︿価邑ミ冬ρミ奮一、o妄冊邑ミ§﹀、 が﹁ト・ヘン﹂をのものをもっているわけではなく、﹁ト・ヘン﹂
︿書ポ蔓”言奮︸乳書ポ蔓↑﹀ という一見矛盾する表 とは別のいいわば﹁ト・ヘン﹂の影のようなものをもっている
現がなされている。プロティノスによれば、自己の内面への集 にすぎない、と考えられているのである。そうであるとすれば、
う ミ
中の究極において現われてくる光にっいて、それがどこから出 このくO§鼻ン男Vという限定は、われわれのうちにあると
現したかを問うようなことはなすべきではないのであって、敢 いわれる﹁ヌース﹂、﹁プシュケー﹂にも付ざれるべきであろう。
えて述べるとすれば、﹁それは内にあり、また同時に内にはな

すなわち、︿暮も”ざミ﹀にある三つのヒュポスタシス全体が、

かった﹂というような表現しかできないのである。これらの表 へ㌻ま享q2Vにある三つのヒュポスタシスのいわば影のよ
現には、﹁ト・ヘン﹂の不可言表性を踏まえながら、言表しが うなもαであって、両者が相即するとはいわれても、それは、
− 、■ .
たい瞬間を表わそうとするプロティノスの姿勢が反映されてい 決してへs3書黒、﹀にある三つのヒュポスタシスと同じも
ると思われる。しかし、そればかりでなく、そこには、﹁ト・ のがわれわれ各自のうちにあるという意味ではなく、むしろ、
ヘン﹂の超越と内在の問題がかかわっているように考えられる ︿.蔓、.きミ﹀にある三つのヒュポスタシスは﹁ト・ヘン﹂か

らの発出によって成立した︿サ喜芝黒一﹀にある三つのヒュ といった ﹁ト・ヘン﹂ との接触を意味する語、 そして、
︶ o −
ポスタシスの階層を反映するものであって、いってみれば実像 ︿qミ蔦石sミε﹀、︿︷ミミミ〇一﹀といった、いわば﹁ト・ヘン﹂
一30︺
とその影という意味での相即だと思われるのである。先の︿ と混ざり合うことを示す言葉が見い出される。また、第二巻
oԤ

多、ン2﹀という限定には、﹁ト・ヘン﹂の超越と内在の問 第九論文一﹁グノーシス派に対して﹂︶第九章においては、﹁ト・
題の調停を図ろうとするプロティノスの意図が働いているとい ヘン﹂をさすと考えられるく黒オVを目的語として、われわれ
えるのではないであろうか。 の魂についてく、茅ぎ↓豊讐§ミVといわれているのである。
このようにみるならば、V,5,7における、内面への深化 こうした表現は、﹁ト・ヘン﹂への還帰の過程の究極において、
の究極において﹁ヌース一が突然現われてくる光を観るという われわれの魂が﹁神﹂︵茅8川.さ阜︶となることが可能であり、
う ’、
叙述は、われわれが︿α§睾一6血﹀と限定を付された﹁ト・へ またそうなったとき、﹁ト・ヘン﹂への還帰が達成されるとプ
^、
ン﹂︵いわば﹁ト・ヘン﹂の影︶になることであり、先の︿O暮δ、 ロティノスが考えていたことを、いっそう明らかに示すものと
ーざ良ε﹀の原則からすれば、そうなったときはじめて、われ いえよう。つまり、プロティノスの場合、︿O忘OいεqS箒①︶は、
われは、﹁ト・ヘン﹂との究極的合一にふさわしいものとなる われわれの魂が﹁ヌース﹂になるということにとどまらず、さ
と考えられる。R・オットーは、§予9§き“ξ吻§︵畠Nρ らに﹁ト・ヘン﹂となることも含意しているのであって、われ
﹃召ユ津&H竃H一呂冒g①月︶において、神秘的直観に至る二つの われの魂の﹁ト・ヘン﹂への還帰の過程全体をさすと考えられ
道があると述べ、それを︿巳巴昌竃ω9竃﹀と︿昌①里亭黒ωωg昌﹀ るのである。
という言葉で表わし、これら二つの各々について、プロティノ プロティノスが人問のテロスとしてのくす葛舳ε具^箒Ov、
スの﹃エンネアデス﹄第六巻第八論文︵﹁一なる者の自由と意志 つまり﹁ト・ヘン﹂への還帰に言及する場合、﹃テアイテトス﹄
について﹂︶、第五巻第八論文一﹁可知的な美について﹂︶の一節を ︵一七六B︶にみられる︿蒼を㌻ざ養﹃宇﹀という限定をこと
一29︶
それぞれ引用して論を展開している。ここには、神秘主義に さら削除し、プラトンを再解釈していった背景には、このよう
関し、﹁内化﹂、﹁合一﹂、﹁見る﹂という三つの契機が提示され な彼独自の見解があったと思われるのである。そして、その理
“ つ 一
ているわけであるが、これは、プロティノスの思想の一側面を 論的根拠は、V,1にみられる、︿亀3魯盲2﹀にある三つ
^.⊃ 。
よく表わしているように思われるのである。 のレ﹂ユポスタシスが︿;も.ミミ﹀にもあり、それによって、
さらに、﹁ト・ヘン﹂への還帰を表わすプロティノスの用語 われわれの魂が﹁ト、・ヘン﹂への還帰することが可能とされて

33
をみると、視覚に関する表現のほかに、︿∼暮魯斗﹀、︿oミ害︶ いることだといえるのではないであろうか。
一 ’ ︶ ︶ ・ ︶ 、 一 ︶
一8一⋮さの⋮Sミ宍各鼻3⋮ミ§幕書3SΦ竃書、ミ、

・ ’ ・ ’ ︶ ’ ・ 一 ’
︿注﹀ 9β;奮さセ§①§耐ミさη↓8ミ§さη亀壱ミ募萬天ρo

34
、 ︶ ・ ’ ⊃ − つ
︵1︶N9−胃一甲一、ミー8魯ミ“包ミOざ§ざ§一目一トo︷.︵H⑩oω︶’oつ.杜べω. 墓、昏o、喀ユ﹃ε奮↓§8冬︷εさ示ミ§g§黒是o§q§
● ●
・ ’ ・ 一 ・ ’ う ■ ・ ・ ⋮ 一 、 ’ − 二■
︵2︶幕ンεべ§.S■1ε︵閉o.目ンε言9奮“臭ミ93・3 §さ・ミ亀’誉§言§一〇セ、o§q§さ宗幕ぎη呉§、
・ ︶ .一.. ン⊃ ⊃一 一⊃ ⊃ 一 ’ ︶ ’一 ︶ ⊃ −、
竃ε①ミε§い幕ζq§1↓ε㎞ミさ§寿ε︵目亀“﹃8. さ・吉o幕箒ミg§§ε司oおミo・§津§ξ専ε.
、 、 ’ ⊃ −二 ︶ 一 一 ⊃
目bε﹃ミ8bδe§い﹃妻 さ榊伽む二芦毫心も>’Fε、ε﹃;1・ 昏e⋮︵.冒ミ8昌よ︶.
﹂9甲β七− 宗 ︶ 1 一9︶この理由については、野町啓、﹃初期クリスト教とギリシ
一 一. つ 二 ⊃ ⊃ : 、
︵3︶鶉膏黒ミ塁、§3示集§さ§・葛タΦ宗︵蜆ρ1自ぎ↓§︶一 ア哲学﹄︵昭和四七年︶、第四章﹁テロスと神﹂参照。
一 ’ ヨ. 一 ・ 一 ︶ ︶
↓タεセ亀§ε﹃ミ黒是oξqミ↓ε茅︷⋮ 一10︶︿讐oポq易箒P﹀を思想史的観点から取り上げたものと
^ ●
1︵§亀§皆8 恩 ・ ミ さ 昌 一 量 しては、く撃頁勺−戸Oミ90MトM ◎向Oo§昏﹃ミミ㌣
⋮ ⋮ . ︶. ・ ︶一二 二 ︶
︵4︶oeベミ3ミo言茅ε・ρ焉宥い﹃§9§・一ミ9︷9亀ε 琴ま§ト逼ぎぎ轟§o§ヘミ9“§きh‡ミミo轟ミoo曽
凹 、 、 、 −.u 一 ・ ・ u
息㎞言婁§月くミ8①§天§§§他8§違sミ§ ξ§.一∼①巨曇畠竃一
・ ’ ・ 一 ・ ︶ ︶
8ミ3ミミ§書εミεoξ§q①§茅§︵尉Sや×一害ω ︵u︶﹁ト・ヘン﹂の呼称、ならびに不可言表性については、▽、
>一−宙ご 1,316において言及されている。本稿第四節参照。
・ ’ ︶ 一 、 、 : 二 ,一 一 一 ︸ 一 。一 ︶ , u 一
︵5︶◎ざ爵9書ミ暮ミ§×b書§§蔦暮ミ§§r 一12一〇S箒xε膏雪∼奮一9・ε、凧幕ξ8皇§ミξξq9
、 一 う ⊃ 一 ︶ i ︶’、︸
葛ζqさ“⋮﹃ミε.、﹃εさδミε︷S貴ζ宗ミ8焉§♪ ↓§o8;︵ガo。一9嵩lS︶.

・ 一 川一 、 一一 ︶ ・ ︶
①δ3§忘§oミセβン§さ註一ε9ミミさδミミ§3一§ドミ ︵13︶この点において、プロティノスはアリストテレス的観点と
’ ⊃
、Jミ罵Sε一さ↑奮ささミO、ざ↓ミζJ・ミOセ§ 明らかに異なっている。o︷.き叶亀ミHoo。べげN霊﹃忌﹃﹄。
・ ・ ⊃ ︶ 一
qε書ミ§§Φ⑫ε貴ぎρ...︵.完魯冒、宗O.杜−−︶P︶. 、§彗撃ミs§一く;.
⊃ ︶ 、 ’ξ 、 ” ︶
︵6︶ざミsセ冬§①§息奮;↓“茎ζqさ喜是o§qき二完⑭亀− 一14一・︷1穿二.芦彗巨昌ω昌豪幕;巨向邑.、ぎミ鼻くo[昌
1<一い89︶. ’昌﹄一H⑩害一らOIH濯−H①P8甲夢H竃−H8.
︷二 ・、 ・ ︶ 一
一7一箒ζ呈§︸奮暑モ。言黛ン。8母9這ン§奮暑§ ︵15︶父と子のイメージ、原型と似像、神話的表象等によって表
葛辻峯こ;ポ.喜ま二曇ト暮享奉9二塞. わされている。
8ooo1U−︶.

︵16︶ここでいわれている︿一曾具二をどう理解するかに関し、 スのアレクサンドロスの影響も指摘されており、思想史的
様々な見解があるが、プラトン的な意味での実在の世界と 背景を踏まえた上で、同篇に先立つW,3,W,4と合わ
みるアトキンソンの見解が妥当であるように、筆者には思 せて、魂の働きという観点から検討する必要があると思わ
われる。この問題については、いっそうの検討が必要であ れる。
一 二 ︶1 、 ⊃ 一 、 ︶ 1
ろう。F>け巨易o月声一曽oぎミミ吻一向ミ§ミくーH︵○氏o巨一 ︵26︶言幕9εひ3ミε↓ミ茅幕δミ⇒§§“蒼ζのミ舅一9
H竃ω︶一暑.胃㌣胃㎝. 慕事2茅苧§ぎ;耐も・^§一葛ζ・.一ト9ド嵩i
︵17︶V,1,12,12。 宝︶1
^、 、 ’
︶ ’ ’ o ’ −、 、 ’
︵18︶V,1においては、﹁ト・ヘン﹂への還帰の過程の叙述の ︵27︶oミεざ§“;;ε↓ミβSρンンε、蒼ンξβ=^ε
− − ’ − ’ 三 、 ・ つ 、 ︸ 二
中で、上昇のイメージを表わす語︵⑦・胴・§s昏ミ§︶と、 qミミミεセ§さ2qε;α蔓9£、茅S雪ε8宍鼻ζ
o ’ − − 一 ミ P ’ ’’ 一・ 、 一 一 ・
自己の内への還帰を意味する語︵①・σ。.異32qε雪〒 §鼻ζ言3ρ多εさ蒼①.8§ミ§奮書ミ答.
^ ⊃㌧ 一 、
q︷㌫豊︶の両方が用いられている。 βミO竈具ε竜ξ魯§亀︵<一戸一一旨−宝︶.
︵”︶ドぎ雨sミー]■↓①ω〇一、ぎs“卜①⑩O]jO0N>]■]■. ﹁ト・ヘン﹂への還帰の過程を叙述するにあたって、視覚に
︶ り ’ 、 つ,’ ︶ − −
︵20︶①9oミ↓§↓ミミさ涜睾3ミξS⋮告◎著S§︵一N一♪ かかわる表現がしばしば用いられているのは、﹁ト・ヘン﹂
墨18︶. が光源、もしくは﹁照らすもの﹂として言及されることと
︵21︶V、ユ、10.19124。 深くかかわっているように思われる。W・バイエルヴァル
︵22︶たとえば、V、ユ、4,1,6,9,V,8、ーユ。 テスは、光の働きを宰5;津冒σqと穿巨①富という二つの
一轟︶ρ明きミミ竃o>.R臼自目①旦巨ガ国﹂1、ミ︷§吻。ξきo− 側面においてとらえ、これら二側面と視覚ならびに思惟の
一〇§青思冒σ・員H署H︶一〇.一8. 構造とのかかわりにおいて、プロティノスにおける﹁光の
一一ξ ’つ 1︶’
一24︶ε箒・;葛εさ二蜆ρ§一§の︶ζべξ︵<し一9ε‘ 形而上学﹂を論じている︵冒①竃9署身ω岸qガ巨昌け8巨
︵25︶ネ、§§島ρ﹁視覚について﹂と題されたW,5では、視 痔﹃勺巨−OωOり巨①コO饒目ω、一N&芽き§さ、、ミH婁魯ミ︸き“、ミー
覚の成立に媒体が不可欠か否かが問われ、媒体の働きは否 きぎ§望.×くIH竃ガ8.。。ω†ω竃−一。
定されている。これは、プロティノスの立場が、﹃霊魂論﹄ ︵28︶この箇所の章の区切り方には諸説があるが、アンリーシュ
にみられるアリストテレスの見解とは異なることを示すと ヴィーツァー新版に従う。

35
思われる。W,5については、ストア派やアフロディシア ︵29︶四三ぺージ以下。ただし、オットーの引用は、必ずしも正
確とはいえない。

36
︵30︶︹︷−>﹃目o戸射.一ト∼−︶“︸︷﹃軋“b.むs,ss吻ざ、ざミo⑭sぎ膏∼“、ぎざ§・
︵﹃ρ﹃μ9]’⑩NH︶−O01N巳OωωO01
︵かな.い・たづこ 筑波大学大学院 哲学・思想研究科在学中︶

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