燈火

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「そして、連れて行ってください。地上で最も高い場所へ。天国へ一番近いところへ。翼を失った私が、天上

へのきざはしに足をかけられるように」

剣の切っ先が震える。ダンテはここに来て、まだ迷っていた。この哀れな女に引導を渡すべきか、迷ってい
た。
女は天窓を見上げる。青い空がそこにある。どこまでも広がっていることを、ダンテは知っている。
(彼女は、どうだろう?)
ある国では、魂は部屋の一番高い窓から天に昇るとされる。あの窓は、魂のための扉だ。だのに、この女は
空を飛べず、自ら肉体から解放されることも叶わない。

女は不死であるが、死なないわけではないという。
魂は天に昇る。しかし本当に、ひとりでに魂は天へ上るのだろうか? 俺は唐突に思った。見送る者も、涙
する者もいない世界で? たった一人で?
どんな神話にも、どんな奇跡にも、傍らには観測者がいる。死者、精霊、神、あるいは。あるいは、人が。
「……私は」ダンテは、ようやっと言葉を絞り出した。「死が、恐ろしい。君と共に、飛んでは、行けぬ…
…」
女は這い寄り、震える指先をダンテの剣へと向けた。
「私の魂はここに在ります。あなたの剣の中に」彼女は翼の意匠へ視線を滑らせる。「この剣の白き翼をもっ
て。私は、天へ昇ります」
俺は息を飲む。
彼女の視線は、ダンテを通してこの俺を捉えていた。なぜか、そんな気がした。
気付くと、剣は俺の――フレイヤ・グラムの手の中にあった。それは強烈にすぎる幻、まやかしの現実だっ
た。
けれど、この瞬間。確かに俺はダンテとなり、彼女の胸を貫いていた。

――視界が、白い靄に包まれていく。
それは翼から抜け落ちた無数の羽から、身を切るような吹雪へ変わっていく。視界は次第に風に洗われ、ど
こまでも静かな、真っ白な世界だけが残った。
俺から近くも遠くもない場所で。男が一人、ぽつんと立っていた。まじない師ダンテ。その表情は硬く、ど
こまでも悲しげだ。
「もし、私が山頂までたどり着けなかったときは――」
男は俺に、恭しく跪く。震える両の手で、俺に剣を差し出した。
「私の代わりに、この剣をどうか山頂へ」
どうか、とダンテはもう一度かすれた声で告げた。
「この翼の剣を、世界で最も高い場所へ。連れて行ってくれ。彼女の魂を、天上へのきざはしへ……」
翼が、暁の海と黄昏の空を映した宝玉が、瞬く。金の柄、漆黒の持ち手。白銀の刀身。愛しき故郷へと繋ぐ
一振り。
「……」
俺は壊れものを扱うかのうように、剣をそっと受け取っていた。剣は、なぜか燃えるように熱い。
伺うようにダンテを見る。老まじない師はもう、顔を上げなかった。

「……ダンテ」
伸ばしたと思った手には、しっかりとした重みが残っていた。手の中にあるのは、不死殺しの剣。眼前には、
冷たく横たわる老人。
俺はふらふらと数歩下がり、誰ともなく問うていた。
「俺たちが打ってきた剣に」知らず、みっともなく、声が漏れる。「意味が、あったのか?」
視線を手元に落とす。レダ工房の剣でありながら、不死殺しの銘を持つそれは、妙によそよそしい。ほの暗
い、ただならぬ気配を薄く漂わせている。
鞘に恐る恐る触れ、撫でる。あまりに懐かしい重みに、俺は唇を噛む。
「この剣には、意味があるのか?」
レダの剣、不死殺しの剣、余白、可能性、秘められた真実、あるいは。
(俺が今、手にしたものは、一体『何』だ?)
「俺は、この剣を……」
静かな世界に、俺のか細い声が響き渡る。森の中で一人死にかけたときよりも冷たく、もっとずっと静かだ
った。崩れた天井の隙間から、濃紺の空が俺を見下ろしている。
天国に最も近い空。みんながいるであろう、その広がりが俺を見つめている。
そこには、きざはしがあるという。
「俺は砕いてきた。みんなが生きた証を。みんなで築き上げてきたものを。それなのに、最後の最後、こんな
ところで――」何かが、頬を濡らしていく。「俺は、もっと、レダの剣を信じるべきだったのか?」
それは頭の隅に追いやっても、決して消えてはくれない思いだった。だのに、騎士の誓いを交わしたあの夜、
クリスに話すことさえ思い至らなかった。

「俺は、レダのフレイヤとして、工房の技術を継いで、遠い国のどこかで工房を開いて……小さくても、ささ
やかでも、みんなが積み上げてきたレダの技術やその歴史を、どうにかして繋ぐべきだったのか? それこそ
が、俺だけが生かされた理由だったのか? なあ……」絞り出した声から、ついに嗚咽が漏れる。

眠る巡礼者は答えない。不死殺しの剣もまた、答えない。
「こいつを砕けば、今度こそ終わる。なんて。――嘘なんだよ」目の奥が、燃えるように熱かった。「俺は、
まだ持ってる。回収したレダ工房の技術を。その、研鑽が記された記録群を。俺は、それだけは、この世から
消し去ることができ、……できなかったんだ」
だからこそ、俺は、剣の亡霊の前で、あの剣を生み出すことができた。親方たちが生前に成し得なかったで
あろう、神秘の剣の完成を。
俺は結局、レダの剣を憎みながら、レダの剣に生かされていた。憎悪は切り離せない。消し去ることも、な
かったことにも、できない。けれど。
口元を押さえる。目から次々にこぼれるものを、俺は止めることができない。
剣は、願いや祈りを乗せるものでもあるとクリスは言った。
「俺たちの剣に、願いや祈りは込めるべくして込められていたのか? その資格があったのか? あの、空っ
ぽの剣に?」
レダのフレイヤの絶叫が、脳裏でこだまする――俺たちの剣に、魂が宿っていれば! 魂が宿ってさえいれ
ば――
「ダンテ。この剣には、本物の魂が宿っているのか? この剣は、魂の器だっていうのか? 不死殺しの剣は
……俺たちの最後の剣は――」
冷たい静寂ばかりだった。
凍り付いた巡礼者は、ただ眠っているようにも見える。けれど。春が訪れ、溶けだした氷が彼の体を山の麓
で吐き出す日が来たとしても。きっと、誰にもわからなかっただろう。男が、翼の刻まれた剣を大事に抱えて
いる意味を。その、祈りを。
クリスが後ろで、一歩踏み出す気配がした。
「ダンテは、身命を賭してここまで来た。天国へ一番近い場所へ行くために。すべては、哀れな不死の女の御
魂のために」
それがすべてだと言わんばかりに、クリスは言葉を切った。
たまらなくなって、俺は振り返る。クリスの姿を、滲む視界に収めることができない。
何か言葉をと口を開けば、唇がみっともなく震えた。喉の奥が苦しい。胸が熱い。俺はすがるように、レダ
の剣をかき抱く。
激しい感情の奔流がそこにあった。ただただ、手放しで流されるしかない。他の誰でもない俺のものなのに。
どうすることもできない。
俺は声を上げ、子供のように泣きじゃくる。
脳裏に焼き付いた、翼持つ女の言葉が響く。クリスもきっと、同じ声を思い出していた。

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