太宰治「男女同権」におけるジェンダー化された敗戦言説からの逸脱被害者と加害者の関係の複雑化

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太宰治﹁男女同権﹂におけるジェンダー化された敗戦言説からの逸脱

││ 被害者と加害者の関係の複雑化 ││
タリヤルヴ・マルギス

れてきた。こうした解釈にはほぼ賛成できる。しかし、本稿にお
一 はじめに
いては、自らを被害者と見なす老詩人の﹁複雑﹂な語りを戦後社
太 宰 治﹁ 男 女 同 権 ﹂︵﹃ 改 造 ﹄ 一 九 四 六 年 一 二 月 一 日 ︶は 老 詩 人 の 会の諷刺としてだけではなく、戦争を支えてきた﹁女性﹂を﹁弱

〔 90 〕
講演の形を取る短編小説である。﹁十年ほど前から単身都落ちし 者﹂、戦争の﹁犠牲者﹂の枠組みに落とし込んでしまったジェン

て﹂いた老詩人は戦後、地方の教育会の講演に招かれ、﹁男女同 ダー化された敗戦言説を攪乱するテクストとして検討するつもり
権﹂と題して、﹁生みの母親﹂を初めとして、おいらん、三人の である。
女房、女性教授などの様々な女性に虐められてきたという半生に
二 ジェンダー化された敗戦言説
ついて語る。老詩人は﹁この民主々義のおかげで、男女同権!﹂
と喜びながら、民主主義のもとで﹁余生は挙げて、この女性の暴 まず、ジェンダー化された敗戦言説の意味を確認していこう。
力の摘発にささげるつもりでございます﹂と誓っている。 一九七七年に創刊された女性雑誌﹃銃後史ノート﹄とその影響を
男女同権という女性解放政策について、一般的な常識と異なり 受けた数多くの日本女性史の研究によって既に明らかにされてい
﹁男性の権利を女性に対して主張する事が出来る﹂と解釈する老 るように、戦時下の女性たちは︿受動的な犠牲者﹀ではなく、男
詩人の講演の形をとる太宰治﹁男女同権﹂は、山崎正純をはじめ 性と同様に戦争を応援し、戦争のために貢献的に働いていた。な
として、先行研究において﹁新型文化をほぼ無批判に摂取しよう お、彼女たちが戦争のために働くことになったのは、必ずしも愛

とする戦後日本の社会・文化状況に対する痛烈な皮肉﹂というよ 国主義に洞察力を奪われたからではなかった。というより、若桑
うにユーモアを含んだ社会批判、すなわち諷刺作品として解釈さ みどりが﹁家父長制の下辺と周縁で無名の歴史をもたない存在で
あ っ た 女 性 た ち に と っ て、 そ の 潜 在 的 欲 望 と 能 力 の 発 露 で あ っ 制度の︿悪﹀、民主主義の︿善﹀を発見し、精神的に成長する主

た﹂と述べているように、戦時の活動は、女性にとって社会的ア 人公が主に女性たちであったということを指摘している。
イデンティティーを得るという近代的な欲望の意味を持ってい
た。しかし、敗戦後の政治やメディアは女性の戦時活動について 軍国主義や封建的家父長、軍閥や財閥などが打倒すべき悪
沈黙し、日本人の女性を母性的存在、︿無罪無垢な被害者﹀とし として描かれ、主人公がその抑圧の中で 藤し、苦しみ、精
て描いた。 神的成長をとげて正義を勝ち取るまでが劇的に物語化され
その上、米山リサが指摘しているように、こうした女性像は敗 る。占領初期の作品にはこうしたメロドラマ的傾向がとりわ
戦 と 占 領 が も た ら し た 変 容 を 理 解 し、 表 現 す る た め に 動 員 さ れ け強く現れている。なお、封建的な制度を牽引してきたのが

た。いわゆる五大改革指令のなかでも﹁選挙権賦与による日本婦 もっぱら男性とみなされたことから、封建的・家父長的・女
人の解放﹂︵一九四五年一〇月一一日︶
、新憲法の公布 ︵一九四六年一 性蔑視的・軍国主義的制度や男性に対して、被害者となって
一月︶による両性平等を定めるという女性解放政策は敗戦直後に きた女性が立ち上がり戦いを挑むという、女性を主人公とし

〔 91 〕
実行され、軍国主義的すなわち男性的な日本の敗北、平和的すな たドラマ︵女性解放映画︶が盛んに作られた。
わち女性的な日本の誕生の象徴となってきた。
なお、米山リサが述べているように、こうした被害者や解放物
最も重要なことは、憲法が性別をふくめ、あらゆる差別を 語の中で﹁母性が一般市民の無罪、平和、被害性に関連づけられ

否定し、国民すべての平等を義務づけたことである。日本女 るように﹂なり、軍隊や財閥などいわゆる男性的な権力者以外の
性の新しい地位は、何にもまして国民国家が全面的に刷新さ 日本国民は戦争の︿被害者﹀であったという戦争の記憶の形成を
れたことの具体的表現であり、これを劇的なかたちで立法化 維持していた。ただし、女性性と男性性という表象によって日本

したものであった。 の新しい位置を確定するという傾向は、GHQ の検閲によって押
し付けられた政治的戦略だけではなかった。それは敗戦後の文化
女性解放、男女同権は新聞、雑誌、映画などのメディアにおい や 文 学 表 象 の 中 に も 確 認 す る こ と が で き る。 例 え ば 敗 戦 直 後 の

ても話題とされ、解放と平和を宣言していた。例えば、伊津野知 ﹁肉体だけが真実である﹂と主張したいわゆる︿肉体文学﹀は、
多はGHQ が映画界において女性解放政策を積極的に民主主義プ 弱くなってきた男性像、また体を売る女性像などという比喩を通
ロパガンダに動員し、GHQ によって支援された映画の中で封建 じて敗戦した大日本帝国と占領期を表現したといえるだろう。特
に、田村泰次郎の﹁肉体の門﹂︵﹃群像﹄一九四七年三月︶は、女性 ア、 文 学 表 現 が 形 成 し て い た 想 像 力 に 挑 戦 も し て い る と 思 わ れ
の身体が敗戦の表象として体現されている画期的なテクストと考 る。それを示すために、老詩人の発語とジェンダーの関係を検討
えられる。 していこう。
既に指摘したように、﹁男女同権﹂は先行研究において敗戦後
み ん な 人 間 の 少 女 と い ふ よ り も 獣 め い て ゐ る。 そ れ も 山 猫 の社会、文化あるいは国民を諷刺する作品として読まれてきた。
か、豹のやうな小柄で、すばしつこい猛獣である。さういふ しかし、老詩人の発語とジェンダーの関係はまだ十分に論じられ
猛獣たちが獲物を狙つて、夜のジャングルをさまよふのとか ていないと思われる。例えば、前述した﹁男女同権﹂を主に諷刺
わらない、必死な生存欲に憑かれて、彼女たちは宵闇の街を の観点から論じる斎藤理生は、語る内容より、語り口に注目する
うろつくのだ。︵中略︶法律も、世間のひとのいふ道徳もな ことで、老詩人の発語とジェンダーの間にかえって距離を置いた

い。 とみることができる。
一方で、鈴木直子は、﹁男女同権﹂において次のようなジェン

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法 律 と 道 徳 を 完 全 に 否 定 し、 身 体 に よ っ て の み 生 活 し て い る ダー配置の突き崩しの可能性を指摘している。
﹁肉体の門﹂の女性像は、一見すると政治領域や女性解放映画な
どにおける民主主義に目覚めた女性像と正反対なものにも見え 老詩人はミソジニストよろしく徹底して﹁女の残忍性﹂
﹁無
る。しかし、﹁肉体の門﹂においては、女性の肉体が﹁国体﹂に 慈悲﹂さを並べ挙げ、彼自身の凋落の元凶として︿女﹀なる
抵抗する個性、また自由と解放という民主主義の主な価値観を発 ものを呪詛するのだが、そのような彼の語りは﹁女性は弱い﹂
見できる領域になっていることで、ジェンダー化された民主主義 ものであるという ︵﹁男女同権﹂という理念が暗黙の前提にしてい

言説と密接に重ねあわされているといえるのだ。 る︶ジェンダー配置そのものを突き崩し、ひいては彼自身が
さて、太宰治﹁男女同権﹂に戻ると、日本の新しい位置がミソ 属しているはずの︿男らしさ﹀という規範をも動揺させてい
ジニーや男女同権によって表現されているテクストとして、当時 ることに注意を払いたい。﹁女性は弱いと言ひ、之をいたは
のジェンダー化された言説を反映する典型的なものとして考えら つてもらひたいと言ひ、さうかと思うと、男は男らしくあつ
れるだろう。しかし﹁男女同権﹂は、女性 ︵国民︶が︿弱かった﹀、 て欲しいと言ひ、男らしさとはいつたいどんなものだか、大
ゆえに男性 ︵軍隊︶の犠牲者になった、かつ女性の肉体が軍国主 いに男らしいところを発揮して女に好かれようとすると、こ
義 か ら の 解 放 と 自 由 へ の 可 能 性 を 包 含 し て い る、 と い う メ デ ィ れは乱暴でいけないと言われ、さうして深刻な手痛い復讐を
されて、もうどうしたらいいのか﹂などという、尻に敷かれ ねばして、気味がわるいから、あなたに一度うんと叱つていただ
た亭主のぼやきに酷似した老人の訴えは、︿女﹀を残忍なも きたい﹂というように少年であった老詩人を先生の前で裏切り、
のとして規定するかわりに、﹁男らしさとはいったいどんな 泣かせるのだ。このような先生の奥さんの行為はやはり残酷に聞

ものだか﹂という問いをも発生させてしまう。 こえるが、次の引用からわかるように、老詩人は同時に財産家の
長男として優越感と支配者の意識も表現しているのだ。
ただし、鈴木はこのようなジェンダー配置の突き崩しに注意し
ながら、それに﹁説得性を感じるか、あるいはナンセンスとして やはり私の家はこの部落では物持ちで上品なはうなのだか
斥 け る こ と は テ ク ス ト に お い て、 ま っ た く 読 者 に 委 ね ら れ て い ら、私の物腰にもどこか上品な魅力があつてそれでこんなに
る﹂というテクストにおける曖昧性を指摘している。なお、鈴木 特別に可愛がられるのかしら、とまことに子供らしくない卑
はこうしたテクストにおける曖昧性をそれより具体的には問題と 俗きはまる慢心を起し、いかにも坊ちゃんと言われてふさわ
せず、結局﹁男女同権﹂を女性への不信感によって﹁日本の戦後 しい子みたいに、わざとくにゃくにゃとからだを曲げ、こと

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そのものへの不信感を語る﹂ものとして読み取っているのだ。本 さらに、はにかんで見せたり︿後略﹀
稿においては、そうした単純な解釈を許さない老詩人の曖昧な発
語に焦点を当て、そこにおけるジェンダー化された敗戦言説の攪 なお、同様な支配者の優越感は、老詩人が子供のころよそから
乱を指摘したい。 貰った犬の子を母親と弟に見せた回想からも確認できる。弟が子
犬を見て嫉妬心で泣いたとき、母が、﹁その犬の子は兄さんのご
三 ジェンダー化された敗戦言説の攪乱と脱構築
はんで育てる﹂と言い、老詩人を混乱させた。﹁自分でたべるご
ここで老詩人の発語の曖昧性をもっと具体的にみよう。まず注 はんをたべないでその犬の子に与へて養ふべき﹂か、それとも、
意したいのは、老詩人の発語から、実際に彼自身が︿加害者﹀で ﹁私の家でたべてゐるごはんは、全部総領の私のものなのだから、
はなかったかという疑問が持たれることである。たとえば、老詩 弟などには犬の子を養ふ資格が無いといふ意味だつたのでせう
人は、小学校の頃、先生の若い奥さんに﹁坊ちゃん、かくれんば か﹂といまでも理解できない老詩人は、残酷な母に虐められた弱
うでもしませうか﹂と誘われた事件を回想している。老詩人は奥 い子供の自意識だけではなく、家父長制度における長男の優越感
さんの誘いに乗り、﹁教室の隅の机の下にもぐり込んでし﹂まっ も示しているのだ。
た。ところがそのあと奥さんは先生と一緒に教室に戻り、﹁ねば また、老詩人が東京に出たばかりの頃、知り合いの職工ととも
に吉原に行き、天ぷらを食べている時、おいらんに﹁お前、百姓 図書、二〇〇二年一月︶に基づきながら、近代国家は個人を動員す
の子だね﹂とテーブルマナーが悪いと冷やかされた事件も似たよ るために、モラルと価値観によって︿被害者﹀と︿加害者﹀を区
うな例として挙げられる。老詩人の回想から分かるように、女の 別できるメロドラマ的な物語を要求しているという。なお﹁個人
方は自己を﹁百姓﹂より階級的に上に置いている。一方で、老詩 が常に、自分をそのように主体化 ︵動員︶してくれる表象的なも

人は﹁おいらんの中でも、あれは少し位の高いほうだった﹂とい のを求める﹂ので、メロドラマは権力から押し付けられたプロパ
う階級的な認識を示しながら、男性優位の立場から﹁女性のうち ガンダであるだけでなく、その要求は相互的である。
で、最もしひたげられ、悲惨な暮しをしてゐると言われてゐるあ
のおいらんでさえ、私にとつては、実におそろしい、雷神以外の 聖なる時代は神が人間に存在の意味や世界の意味を保証し
ものではなかつたのでした﹂というように彼女を可哀想な存在と てくれていたため、人々は不安を抱く必要がなかった。しか
して見下しているのだ。 し、神の権威が失墜し人間が世界の中心となった近代におい
要するに、老詩人は女性の︿悪行﹀の説明として﹁ほとんど道 て、人間は自らの存在の不安におびえるようになる。そこで、

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理を絶して、何が何やら、話のどこをどう聞けばよいのか、ほと 神に代わってそれを保証してくれる﹁メロドラマ﹂を生み出
んど了解不可能な性質を帯びてゐまして、やはりあれは女性特有 し、主体性や﹁私﹂の輪郭を保持しようとした。私や世界の
の乱酔﹂を挙げているが、テクストは女性の︿悪行﹀が必ずしも 意味、信じるべきモラルを強迫的に求めてしまう人間の欲望
本質的なものではなく、老詩人の階級的、ジェンダー的優越感に がメロドラマ的欲望にほかならず、そのような欲望は、まさ

対する復讐であったということも示唆しているのだ。ただ、こう しく近代の産物であるというのである。
した老詩人の︿悪﹀は断片的にしか示唆されていないので、女性
の︿悪﹀のすべてを取り消し、老詩人を加害者に転換するわけで 伊津野知多によると、﹁大日本帝国﹂の﹁国民﹂としてのアイ
はない。むしろ、それは老詩人と女性の関係においてどちらが︿被 デンティティーを失った、占領期の混乱の中の人々の欲望もメロ
害者﹀でどちらが︿加害者﹀だったか、と判断することを不可能 ドラマ的であり、彼女はそれを提供するものとして善悪関係が主
にし、老詩人と女性の関係が二項対立的な︿被害者﹀と︿加害者﹀ にジェンダー的二項対立に基づく女性解放映画を挙げている。な
の関係よりはるかに複雑だったという可能性を明かしているのだ。 お、伊津野はこうしたメロドラマ的な構造に対して、女性達がし
前述した映画論において伊津野知多はピーター・ブルックスの ばしばお互いに敵になって争い、男女の間の被害者、加害者関係
メロドラマ論 ︵﹃メロドラマ的想像力﹄、四方田犬彦、木村慧子訳、産業 が複雑になる、女性の被害者としての主体性がパロディ化されて
いる﹁女性の勝利﹂︵一九四六年︶
、﹁夜の女たち﹂︵一九四八年︶
、﹁西 ないと思ひますが、しかし、その問題にされ方が、如何に私
鶴一代女﹂︵一九五二年︶などの溝口健二の映画が、民主主義言説 がダメな男であるか、おそらくは日本で何人と数へられるほ
に挑戦するものだと指摘している。 どダメな男ではなからうか、といふ事に就いて問題にされた
本稿においては太宰治﹁男女同権﹂についてこれと近い指摘を のでありまして ︵中略︶甚だ妙な言ひ方でございますが、つ
してみたい。老詩人はジェンダー関係に基づいて白黒をはっきり まりその頃の私の存在価値は、そのダメなところにだけ在つ
させた世界を描こうとし、﹁民主主義のおかげで男女同権﹂、﹁女 たのでして、もし私がダメでなかつたら、私の存在価値が何
性の暴力の摘発にささげるつもりでございます﹂というように女 も、全然、無くなるといふ、まことに我ながら奇怪閉口の位
性を︿加害者﹀として宣言し、︿被害者﹀として民主主義国民の 置に立たされてゐたのでございます。
主体性を求めている。しかし、既に指摘したように、彼の回想に
おいては、どちらが︿被害者﹀でどちらが︿加害者﹀か、が明白 要するに、老詩人は、その詩人としての生涯について﹁ダメ﹂
にならないため、ジェンダー化されたメロドラマが成り立たない だったと認めながら、同時にその﹁ダメ﹂な位置に詩人として﹁存

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のだ。こうした﹁男女同権﹂におけるメロドラマの不可能性は、 在価値﹂があったとも認識している。しかも、次の箇所から、老
ジェンダー化された敗戦言説からの逸脱として考えることができ 詩人は﹁ダメ﹂というスタンスを文壇によって若い作家たちに与
る。 えられた記号として解釈し、それを引き受けるために意識的に働
そのうえ、老詩人の曖昧な発語は、彼が︿弱い﹀、というより︿弱 いたということを認める。
さ﹀を演じているという可能性を示唆するのだ。その可能性を老
詩人が自分の存在価値について語る箇所から確認できる。 にはかに詩人の友だちもふえて、詩人といふものはただも
う大酒をくらつて、さうして地べたに寝たりなんかすると、
いったい私は、いまではダメな老人である事はもちろんで 純真だとか何だとか言つてほめられるもので、私も抜からず
ございますが、それならば、若い時の、せめて或る一時期に 大酒をくらつて、とにもかくにも地べたに寝て見せましたの
於いて、ダメでない頃があつたかと申しますると、これもま で、仲間からもほめられ、それがためにお金につまつて質屋
た全然ダメだつたのでございます。私が東京に於いて或るほ がよひが頻繁になりまして、印刷所のおかみさんと、れいの
んの一時期、これでも多少、まあ、わずかな人たちのあひだ 千葉県出身の攻撃の火の手はほとんど極度に達しまして、さ
で、問題にされた事もあつたと、まあ、言つて言へない事も すがに私も防ぎ切れず、たうとうその印刷所から逃げ出して
しまひました。 その脱構築は次のように考えられる。ジェンダー化された敗戦
言説は家父長制度によって支配された女性たちを受動的な犠牲者
そこで、老詩人の若い頃の︿ダメ﹀のアイデンティティーが、 として描いてきた。また米山リサが述べたように、こうした受動
文壇で成功するためのパフォーマンス、即ち演技だったと考える 的な被害性は、女性だけではなく、一般市民の表象とみなされて
と、彼の現在の行為もそうではないかと疑われる。つまり、﹁私﹂ きた。一方で、もともと被害者であったというより、民主主義に
は︿弱い﹀、女性の︿被害者﹀である、という老詩人の主張を、
︿被 受け入れられるために︿弱さ﹀を演じるという解釈を可能にして
害者﹀という記号を模倣するものとして考えることができる。な いる老詩人の発語は、こうした︿被害者﹀の歴史を転倒している。
お、昔の演技が文壇で受け入れられるための行為だったのと同様 というのは、老詩人が︿弱さ﹀を演じることは、女性や一般市民
に、現在の演技は、軍隊を想起させる︿男性﹀的な国民より無罪 の︿弱さ﹀もその本質ではなく、権力の規範に応えるための演技、
無垢で︿女性﹀的な国民を歓迎する戦後の民主主義に受け入れら すなわち男性や軍隊に支配されたことの結果であるという可能性
れるための行為であろう。しかも、老詩人の︿被害者﹀の物語に を可視化しているのだ。こうした︿被害性﹀を文化的な行為とし

〔 96 〕
おける曖昧性、﹁やがて恋を打ち明けられたる処女の如く顔が真 て語ることは、ジェンダー化された敗戦言説の脱構築として考え
赤に燃えるのを覚えまして、何か非常な悪事の相談でもしてゐる られる。
やうな気がしてまゐつたのでございます﹂というような自己を
四﹁男女同権﹂における歴史観
︿処女﹀に喩えるようなわざとらしさを考慮すると、その演技を
︿被害者﹀という記号を模倣する演技だけではなく、パロディと ここまでは、﹁男女同権﹂をジェンダー化された敗戦言説に挑
して考えることもできる。 戦し、脱構築するテクストとして指摘した。次にはこうした読解
こうした解釈は﹁自分を劣位に位置づけることに関しては、老 可能性を持つ﹁男女同権﹂がどのような歴史観を持っていたかを
詩人は今も昔も、きわめて意識的である﹂という斎藤理生論文に 見てみよう。
近い。しかし、既に述べたように斎藤理生論文は、﹁男女同権﹂ ﹁男女同権﹂が発表された一九四六年は、政治と文学論争が注

における諷刺に着目している。一方で、ここでは、老詩人の︿被 目を浴びた年である。政治と文学論争とは、主に旧プロレタリア
害者﹀のパロディが当時の歴史的なコンテクストを諷刺するので 文学者を中心とした﹃新日本文学﹄と、同じくプロレタリア文学
はなく、ジェンダー化された敗戦言説を脱構築しているというこ の反省の上に立ちながら、別の方向を目指した﹃近代文学﹄の間
とに注意したい。 で行われた論争であった。その論争の本格的な問題点を簡単に要
約すれば、﹃新日本文学﹄の方は文学において政治の優位性を主 する人々への諷刺だけではなく、より具体的に新日本文学会の諷
張したが、﹃近代文学﹄の方は個人性を主張した、ということに 刺として読むことができるだろう。テクストはその諷刺の機能と
なる。 して、男女同権という民主主義の主なスローガンを戦略的に利用
例えば、﹃新日本文学﹄をリードした蔵原惟人は一九四五年一 している。老詩人の語りは女性との複雑な関係を可視化するが、
二月三〇日に開かれた新日本文学会の直前に﹁新文学への出発﹂ 老詩人はそれを深く考察せず、イデオロギーからの解放を求めて
︵﹃東京新聞﹄一九四五年一一月一〇、一一日︶という小論文を発表し、 いるのだ。なお、﹁男女同権﹂が発表された﹃改造﹄が社会党対

日本が連合国軍のおかげで皇軍から解放され、民主化することを 共産党の論争が行われた雑誌だったという事実も、﹁男女同権﹂
歓迎しながら、これからの芸術作品の価値は﹁過去と現在とにお が民主主義文学に名を変えたプロレタリア文学に反発したという
ける民衆の真の姿、民衆の真の声を作品の中に再現すること﹂、 解釈を支持するだろう。しかし、本稿においてはこうした解釈の
かつ﹁民衆に新しい、より良い生活への道を示しうるものでなけ 可能性より、新日本文学会と﹁男女同権﹂における歴史の語り方
ればならない﹂というように社会主義イデオロギーを伝えること における相違点に注目したい。そのために、﹁男女同権﹂の構造

〔 97 〕
だと宣言した。 を見てみよう。
一方で若い世代の知識人にとってはこうした科学的基準と客観 先行研究において既に指摘されているように﹁男女同権﹂の構
性の主張が、新たな権力や戦時下の﹁滅私奉公﹂を思い出させ、 造の主要な特徴とは、テクストが大きく二つに分けられているこ
否定的な反応を呼び起こした。一九四六年には平野謙、本多秋五 とである。﹁男女同権﹂は主に老詩人の一人称独白体からなって
ら三十代の作家・批評家主導で、若い世代の左翼作家たちを多く いるが、テクストの冒頭には違う語り手によって次のような断り
集める新たな文学雑誌、﹃近代文学﹄が創刊された。﹁人間はエゴ 書きがある。

イスティックだ、人間は醜く、軽蔑すべきものだ﹂という荒正人
の主張からわかるように、それは﹃新日本文学﹄の対極として、 これは十年ほど前から単身都落ちして、或る片田舎に定住
政治の優位性よりエゴと個人性を優先するものだった。 してゐる老詩人が、所謂日本ルネサンスのとき到つて脚光を
なお、肉体が真実であると強調することで、肉体を通じて、戦 浴び、その地方の教育会の招聘を受け、男女同権と題して試
争と敗戦の﹁真実﹂を追求する︿肉体文学﹀も、﹃新日本文学﹄ みたところの不思議な講演の速記録である。
の社会主義リアリズムへの反発として捉えることができる。

こうした背景を考慮すれば、老詩人の講演を﹁民主主義踊り﹂ 先にも挙げた孫才喜論文をはじめ、たいていの先行研究は、老
詩人の講演は﹁不思議﹂なものだという断り書きの箇所に注目し、 学のメディアでよく見られる傾向である。その喩えの意味は評論
それを﹁語り手の﹁私﹂︵老詩人︶の語る自己物語を相対化してい 家によってかなり異なっているが、たいていは﹁日本ルネサンス﹂
る﹂という読解コードとして解釈している。なお前掲の斎藤理生 を歴史の前進を表現するために利用している。たとえば、杉浦明
論文はこうした一般の解釈と異なり、﹁断り書き﹂が老詩人の語 平は一九四六年八月に発表した﹃ルネサンス小説集﹄︵十一組出版
りの相対化というより﹁このような滑稽な語りが今の世の中にあ 部 ︶の﹁ 序 論 ﹂ で、﹁何故かなら現在僕たちが民主々義日本の建
ふ れ る 言 説 の 典 型 に な っ て い な い か、 と 問 い か け る た め に さ れ 設に努力してゐるやうに、ルネサンス市民たちも近代民主々義の
た﹂というように諷刺の装置として考えている。つまり、断り書 基礎構造を確立するために全力をそそいでゐたのであるから﹂と
きは老詩人の講演に記録の形を与え、﹁不思議な講演﹂を単なる いうように封建制度から民主主義日本への道をルネサンスに喩え
ナンセンスではなく、歴史的な時代状況から生じた﹁不思議な﹂ ている。なお、蔵原惟人は同年の三月に発表した﹁新日本文学の
現象に対する批判として読むべきだということを明示していると 社会的基層﹂︵﹃新日本文学﹄︶において、﹁日本ルネサンス﹂にもっ
考えられる。 と過激な意味を与えるのだ。

〔 98 〕
一方で、本稿においては﹁不思議﹂という言葉だけでなく、﹁十
年ほど前から単身都落ち﹂と﹁日本ルネサンス﹂という言葉が老 それと同時にわが国の文学の前にも広大な展望がひらけた
詩人の講演と歴史との相互参照を強調していることに注意した わけである。︿中略﹀それは長い中世期の圧迫から解放され
い。例えば、
﹁十年ほど前﹂は明らかに戦間期を示している。また、 て、市民的、農民的および手工業者的な文学や芸術が一時に
東京に出たのは﹁十七の春﹂で、﹁ちょうどその頃は日露戦争の 開化したヨーロッパのルネッサンスを想はせるものがある。
直後﹂という老詩人の発言も念頭におけば、彼の大人としての回 ただその本質的に異なるところはそれが本質主義台頭期に行
想は日露戦争後から日中戦争前の戦間期を網羅しており、戦争期 はれた民主主義的文化運動であつたに対して、これが資本主
を省略しているということが分かる。総じて、冒頭の断り書きも、 義変革期に行はるべきそれであるといふことである。︿中略﹀
老詩人の語りも、彼が戦場という加害者︿男性﹀の領域との関係 いはば資本主義から社会主義への発展を可能ならしめるやう
を持たないことを主張しており、それは老詩人が教育会に招聘を な民主主義的社会でなければならないのである。
受けたことの前提条件にもなっていることを推測させるのだ。
次に﹁日本ルネサンス﹂という喩えの歴史性を確認していこう。 引用からわかるように、蔵原惟人は帝国から民主主義へ、では
敗戦を﹁日本ルネサンス﹂に喩えることは、戦後初期の新聞や文 なく、次の段階、資本主義から社会主義へ、すなわち社会主義革
命という極端な移行の意味で敗戦を日本ルネサンスに喩えるの 芸復興﹂││ルネサンスに当たっていたことがわかる。

だ。 つまり、老詩人が敗戦という現在において歓迎する﹁昨今のこ
一方で、太宰治﹁男女同権﹂の断り書きにおいては﹁日本ルネ の文化復興﹂は彼の生涯において既に三回目のルネサンスになっ
サンス﹂にむしろ懐疑的な意味が込められている。語り手は﹁所 ているのだ。斎藤理生も指摘しているように、老詩人は﹁新型文
謂﹂という修飾によって﹁日本ルネサンス﹂の意味を相対化して 化をほぼ無批判に摂取し﹂、その﹁調子に乗った直後に叩かれる
おり、断り書き自体が過去形で書かれていることから、老詩人の という構図が反復されている﹂のである。つまり、まず、﹁ダメ
講演の記録が読者の手に入ったとき﹁日本ルネサンス﹂は既に過 な詩人﹂、次に﹁道徳﹂という流行に乗ろうとして失敗し、これ
ぎてしまい、恐らく老詩人にとっても日本にとっても大きな変化 から﹁男女同権﹂という思潮に乗り、おそらくもうすぐまた失敗
をもたらさなかったということを示唆しているのだ。 する老詩人の物語において、﹁日本ルネサンス﹂は歴史における
さらに、前述したテクストにおいて﹁日本ルネサンス﹂は歴史 前進ではなく、権力の期待に応えようとしている個人が常に繰り
の前進を示していたのと異なり、老詩人の語りにおいて﹁日本ル 返しているパターンを示しているのだ。ゆえに、﹁男女同権﹂は

〔 99 〕
ネサンス﹂はむしろ個人と権力の相互関係に繰り返されているパ 具体的なイデオロギーに拘わらず、もっと広い意味で歴史におけ
ターンを可視化している。つまり、老詩人にとって戦後の﹁日本 る個人と権力の関係を問題化しているといえる。
ルネサンス﹂は決して最初のルネサンスではないということが分 一方で、個人性と肉体を主張する﹃近代文学﹄や︿肉体文学﹀
かる。例えば、老詩人は詩人として活躍を始めた日露戦後から五 と﹁男女同権﹂はどんな関係を持っているのだろうか。まず、男
年後 ︵即ち大正元年︶という時期を﹁日本では非常に文学熱がさか らしさを失った語り手が、女性を他者化することによって主体性
んで、もうとてもそれは、昨今のこの文化復興とか何とかいふお を確立しようとすることで、﹁男女同権﹂は︿肉体文学﹀に近い
通夜みたいなまじめくさつたものとはくらべものにならぬくら テクストであると思われる。また老詩人が回想する﹁乞食みたい
ゐ、実に猛烈でハイカラで、まことに天馬空を駆ける﹂というよ な生活﹂をしており、﹁夜鷹くらゐまで落ちた﹂三番目の妻とそ
うに真の文化復興、すなわちルネサンスとして考えている。 の母親は、﹁肉体の門﹂における獣のような女性像によく似てお
また、老詩人の﹁単身都落ち﹂が一九三六年前後に当たるので、 り、その先駆的なものとしても考えられるだろう。なぜなら、三
テクストで言及されていないとはいえ、彼の詩人の生涯の致命的 番目の妻とその母親は非常に貧乏で、身体を売る女性たちである
なミスになった﹁ダメな詩人﹂から﹁道徳﹂へという変容が起こっ が、老詩人は彼女らを弱い存在ではなく、男性を騙している妖狐
たのは、一九三五年前後、つまり文芸ジャーナリズムにおける﹁文 のような強いアンダーグラウンドの女性たちとして描き出してい
るからだ。 の上塗りを致しました。ナンジニ、セツプンヲオクル﹂という説
明から、彼は婆さんにマゾヒズム的な欲望も覚えていたというこ
私はこの四十ちかい大年増から、たちの悪い病気までうつ とが分かる。なお、﹁文明国﹂と﹁教育﹂﹁男らしさ﹂によって描
され、人知れぬ苦労をしたのでございますが、婆と娘はかへ 写されている婆さんは国家の表象としても考えられるので、ここ
つてそのとがを私に押しつけ、娘は何か面白くない事がある でのマゾヒズム的な欲望は権力をも対象とするだろう。その上、
と、すぐ腰が痛いとか何とか言つて寝て、さうして婆と娘は、 老詩人は今回の教育会へ招聘されたことに対しても似たようなマ
ろくでもない男にかかはり合つたから、こんな、とりかへし ゾヒズム的な欲望を表現しているのだ。
のつかないからだになつてしまつた、と口々に私を罵り、さ
うして私にやたらと用事を言ひつけてこき使ひ︵後略︶ この世に於いて最も崇高にして且つ厳粛なるべき会合に顔
を出して講演するなど、それはもう私にとりましてもほとん
しかし、︿肉体文学﹀と異なり、﹁男女同権﹂において女性の肉 ど残酷と言つていいくらゐのもので、先日この教育会の代表

〔 100 〕
体 は 個 人 の 解 放 を 可 能 に す る 想 像 の 領 域 に な ら な い の だ。 そ れ のお方が、私のところに見えられまして、何か文化に就いて
は、老詩人が最後に回想している﹁六十歳をすぎた、男子にも珍 の意見を述べよとおつしゃるのを、承つてゐるうちに、私の
らしいくらゐの大きないかめしい顔をしてゐる﹂女子大学の婆さ 老いの五体はわなわなと震え、いや、本当の事でございます、
んとの関係から確認できる。 やがて恋を打ち明けられたる処女の如く顔が真赤に燃えるの
老詩人はこの婆さんに﹁あの顔を見よ、どだい詩人の顔でない、 を覚えまして、何か非常な悪事の相談でもしてゐるやうな気
生活のだらしなさ、きたならしさ、卑怯未練、このやうな無学の がしてまゐつたのでございます。
ルンペン詩人のうろついてゐるうちは日本は決して文明国とは言
へない﹂と批判され、﹁詩の生命を完全にぷつつと絶つてしまつ 老詩人にとっては、国体と女性の身体が重なっており、戦前に
た事﹂になる。現時点で語る老詩人はその婆さんの為に﹁一行の も戦後にも恐怖だけではなく、性的欲望の対象になっていたとい
詩も書けなくなり﹂というように自分を︿被害者﹀として捉えて うことが考えられる。ただし、自由を理想化し、個人の肉体を国
いる。しかし、﹁そのすさまじい文章を或る詩の雑誌で読み、が 体に抵抗できる力として理想化していた︿肉体文学﹀と異なり、
たがた震へまして、極度の恐怖感のため、へんな性欲倒錯のやう 老詩人は国体に対して性的な欲望を抱きながら、国体と肉体の二
なものを起し ︵中略︶こんな電報を打つてしまつて、いよいよ恥 項対立関係を転倒し、自由が常に個人の理想であるというイデオ
ロギーに疑問を呈しているのだ。なぜなら、老詩人は女性をうる ダー化された敗戦言説を考えるうえで重要なテクストであると思
さく訴え、解放を求めるが、彼の教育会に対する謙虚な態度から われる。
は、実際にこうしたマゾヒズム的な関係の継続を期待しているの
ではないかと推測されるからだ。 注︵1︶ 本稿の全ての引用文の旧字は新字に改め、ルビは省略した。﹁男
女同権﹂の引用文は﹃太宰治全集第八巻﹄︵筑摩書房、一九八九年
五 おわりに 六月∼一九九二年四月︶に拠る。
︵ 2︶ 山 崎 正 純﹁ 太 宰 治 に お け る ロ シ ア 文 学 の 問 題 ││ プ ー シ キ ン と
本稿においては﹁男女同権﹂を発表当時の敗戦言説に合わせて
チェーホフの持つ意味﹂︵﹃語文研究﹄一九八四年一二月︶
読んでみた。米山リサが論じるように、敗戦の混乱の中における ︵3︶ 山崎正純と同様な結論に着く論としては、孫才喜﹁太宰治﹃男女
政治的、社会的変化、また戦争記憶と責任は、よく女性性、男性 同権﹄論││二つの語りと﹃私﹄のイメージ﹂︵﹃日本文藝研究﹄一
九九八年九月︶、金子幸代﹁太宰治﹃男女同権﹄論││昭和二一年
性といった比喩を通じて理解され、単純化されてきた。︿弱い男
への問いかけ﹂︵﹃太宰治研究 ﹄和泉書院、二〇〇六年六月︶など

14
性﹀、︿強い女性﹀をテーマにする﹁男女同権﹂は、こうしたジェ が挙げられる。なお斎藤理生は﹁諷刺の方法││﹃男女同権﹄論﹂

〔 101 〕
ンダー化された敗戦言説から生じたテクストでありながら、そこ ︵﹃太宰治の小説の︿笑い﹀﹄双文社、二〇一三年五月︶で﹁老詩人
からの逸脱をも示すのだ。この逸脱は、男女間の︿被害者﹀と︿加 の語る内容に批判が含まれているというより、老詩人の語る行為が
戦後社会に流行していた言説の語り口を模したものになっており、
害者﹀の関係を混乱させ、またジェンダー化された︿被害者﹀の
諷刺はそこでなされているのだ﹂と同様に諷刺小説として読みなが
言説の脱構築から確認できる。 ら、語り行為における滑稽に着目している。
また﹁男女同権﹂は発表当時の政治と文学論争にも挑戦してい ︵4︶ 若桑みどり﹁チアリーダー﹁戦争援護﹂集団としての女性の動員﹂
る。﹁男女同権﹂は歴史を進化するものではなく、個人と権力の ︵﹃戦争がつくる女性像﹄筑摩書房二〇〇〇年一月、一二六頁︶
︵5︶ 米山リサ﹃広島││記憶のポリティクス﹄︵小沢弘明、小田島勝
間に繰り返されているパターンとして語ることで、民主主義を歓
浩訳、岩波書店、二〇〇五年七月︶
迎した新日本文学会とは異なる歴史観を提示している。また、個 ︵6︶ 米山リサ前掲書、﹁戦後の平和と記憶の女性化﹂二五七頁
人と権力の関係におけるマゾヒズムを発見することで、﹁男女同 ︵7︶ 伊 津 野 知 多﹁ 女 性 は 勝 利 し た か ││ 溝 口 健 二 の 民 主 主 義 啓 蒙 映
権﹂は、個人が常に権力からの自由と解放を目指しているという 画﹂︵﹃日本映画史叢書︿占領下の映画││解放と検閲﹀﹄岩本憲児
編、森話社、二〇〇九年一月、一二三頁︶
﹃近代文学﹄および︿肉体文学﹀に見られるイデオロギーにも挑
︵8︶ 米山リサ前掲書、﹁序論﹂五五頁
戦しているといえるだろう。総じて﹁男女同権﹂は女性性=被害 ︵9︶ 田村泰次郎﹁肉体は人間である﹂︵﹃群像﹄一九四七年五月︶
者 お よ び 解 放 と い う 表 象 の 構 造 を 複 雑 化 し て い る た め、 ジ ェ ン ︵ ︶﹃田村泰次郎選集 第三巻﹄
︵日本図書センター、二〇〇五年四月、

10
三〇∼三一頁︶ 本の民主主義革命と主体性﹄
︵ 西弘隆訳、平凡社、二〇一一年四月︶
︵ ︶︿肉体文学﹀とそこにおけるジェンダーとイデオロギーについて を参照。
11

は Douglas N. Slaymaker, “Tamura Taijiro,” ︵ ︶ 荒正人﹁第二の青春﹂︵﹃近代文学﹄一九四六年三月︶


17 16
, (London and New York, Routledge Curzon, 2004) ︵ ︶ 1946年に﹃改造﹄で社会党や共産党の政見を討論している記
を参照した。﹁ Tamura invokes the to represent the physi- 事としては次のものが挙げられる。山川均﹁民主戦線のために﹂
︵一
cal, carnal body and to concentrate on the individual, with a 九四六年二月︶、森戸辰男﹁救国民主連盟の展望││その難関と克
subversive political agenda to overturn the collective and still-res- 服﹂︵一九四六年七月︶、田辺元﹁社会党と共産党との間﹂︵一九四
onant . Tamura erected an ideological framework and 六年七月︶三田村四朗﹁共産党の誤解を批判す││民主戦線の新方
image system wherein emphasizing the physical was subversive 向﹂︵一九四六年八月︶志賀義雄﹁三田村批判に答ふ﹂︵一九四六年
to the reigning ideology. (. . .)The liberation the flesh writers pro- 十月︶。
︵ ︶ 注︵3︶
に同じ。

19 18
pose looks very similar to the society they decry. Their liberation
is gendered, dependent, as it is, on a sexualized woman’s body-as- ︵ ︶ もうひとつ、ルネサンスをキーワードとして使用する興味深い説

object discovered by a virile man-as-actor. として花田清輝の﹁変形譚﹂︵﹃復興期の精神﹄我観社、一九四六年
﹁田村が﹁肉体﹂を召喚するのは、生身の情欲的な身体を表象し、 十月︶があげられる。

〔 102 〕
個人に注目し、それによってまだ共感されている集合的な﹁国体﹂ ﹃復興期の精神﹄の﹁初版跋﹂では、次のように書いてある。﹁そ
を打倒しよう、という政治的な目的のためだ。つまり、田村は肉体 の主題といふのは、ひと口にいへば、転形期にいかに生きるか、と
を強調することによって、支配しているイデオロギーを倒壊させる いふことだ。したがつて、ここではルネッサンスについて語られて
というイデオロギー的フレームワークと文学表象の制度を構築し はゐるが、私の眼は、つねに二十世紀の現実に、││さうして、今
た。︵中略︶しかし、︿肉体文学﹀の作者が追求する解放のパターン 日の日本の現実にそそがれてゐた。︵中略︶﹁変形譚﹂は戦後に書い
は、彼等が批判する社会とよく似ている。というのは、その解放は た。﹂ルネサンスを歴史の前進というより転形期、また歴史を文化
女性の身体を対象にし、男盛りの男性によって実践されている、す における収縮と拡張の間における力学として描写している花田清輝
なわちジェンダー化されているものである。﹂︵訳文は拙訳︶ の歴史意識は必ずしも直線的ではない。しかし、拡張の場合は本態、
︵ ︶ 鈴木直子﹁太宰治とジェンダー││流通する女性身体と︿戦後﹀﹂ 感情、欲望、すなわちエラン・ヴィタールの人間が支配的であるに
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﹃国文学﹄︵二〇〇二年一二月︶ 反し、収縮の場合は理知、計画、規律、即ちフラン・ヴィタールの
︵ ︶ 伊津野知多前掲論文、一二〇頁 人間が優位性をもつという歴史の語りは幾分メロドラマ的であると
15 14 13

︵ ︶ 同前、一二一頁 いえるだろう。
︵ ︶ 政治と文学論争についてはJ .ヴィクター・コシュマン﹃戦後日

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