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〔書評〕

現代日本のジェンダー・セクシュアリティをめぐる状況と
これからのフェミニズムについて考える
~菊地夏野『日本のポストフェミニズム:女子力とネオリベラリズム』を読んで

荒木 菜穂
Araki Maho

女性の鼓舞と違和感

ここ最近、世の中は「女子」を鼓舞するメッセージで溢れている。この雰囲気には、若干の既視感が
ある。私が子どものころ、ちょうど男女雇用機会均等法施行すこし後の時代、女性は応援されるカッコ
いい存在として華々しくメディアに登場していた。大人になるにつれ、自分が、80 年代のキラキラ輝
く女性のような生き方ができる人間でないことは理解していった。そんな激しい「鼓舞」の時代に大人
じゃなくってよかったと思う。
現在の「鼓舞」は少し違う。オトコ並みに活躍することへの「鼓舞」だけでなく、歳をとっても綺麗
でいること、気遣いができる「能力」を磨くことなど、フェミニズムを経て、過去の遺物となったと思
っていた「女性らしさ」が、高めるべき能力として再評価され、それらを手に入れて成功することが
「鼓舞」される。期待されていた女性像になれず 80 年代的「鼓舞」にモヤモヤしていたわたしにとっ
ては、現在のそれもまた同様にモヤモヤするものではある。政策のレベルでも、女性が働くことに関し
ても、ジェンダー規範は問題のあるものという一定の認識が進んだこの社会で、フェミニズムに相反
するような空気はなぜここまで拡大してしまったのだろうか。

日本のポストフェミニズム的状況の背景としてのジェンダー関連法

菊地夏野著『日本のポストフェミニズム:女子力とネオリベラリズム』(大月書店 2019)では、現
在の日本社会における女性を取り巻く状況について、ネオリベラリズム批判および、ポストフェミニ
ズム批判の観点から考察されている。本書を通じ、鼓舞、応援されて「自分らしく」女性が生きていけ
るように見える様子を、フェミニズムの成功と認識することの危険性を再認識でき、現代のジェンダ
ー状況への批判的視座を持つツールを得ることができる。
本書ではまず、ジェンダーについてのネオリベラリズム的状況は、ハーヴェイの論から「新自由主義
理論は『性別に関わらない能力ある個人の活躍と成功』を約束するが、実践面では、社会的再生産論か
らわかるように、ネオリベラル化の進展は、女性に課する市場と家庭双方での負担を増大させる」
(p.14。
以下、本書からの引用はページ数のみを記す)と説明される。表向きは男女平等の尊重、性の多様性の
尊重がなされるが、
「実際には競争の前提となっているさまざまな社会的差異や権力関係は不可視化す
る」
(p.15)ものであるゆえ、結果的に女性はケア役割も職業役割も引き受けざるを得なくなる。

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日本女性学研究会 女性学年報 第 40 号 2019 年 12 月

このネオリベラルな経済社会状況は、日本においては、1985 年の男女雇用機会均等法(以下均等法)
以降の社会に顕著に表れてきたという。男女の機会の平等を掲げる均等法は女性が自ら女性的役割を
選択するコース別人事とセットであったが、本書では「均等法によるコース別人事と非正規の問題と
をつなぐのはジェンダー秩序であ」り、
「それは不可視化されている」と述べられる。そしてこのこと
は、「日本型新自由主義の不可視化された導入の始まり」(p.46)であるというi。また、日本のネオリ
ベラリズムとジェンダーについて重要な意味を持つ法律として、ほかに男女共同参画社会基本法(以
下基本法)
、女性活躍推進法(以下推進法)が挙げられている。1999 年の基本法についての見解では、
「差別的な慣習や制度や意識を見抜き是正していくのではな」いままの社会に、
「強制力をもって『参
画』させられる不安」が生じる(p.51)と示されている。また、2016 年に施行された推進法について
も、
「すべての女性に『活躍』を望むよう強制しているわけではない」が、
「そのようなあり方を望まし
い女性像とみなす視線が社会的に生じることは避けられないだろう」
(p.60)と述べられている。ネオ
リベラルな「女性を応援する社会」は、あくまで、ジェンダー構造の変わらない社会で「活躍」できる、
能力のある女性のみが応援される社会である。
「法が必要であるとすれば、あくまでこの現実の中に切
り込むものでなければならないのではないか」(p.52)「新自由主義は性における平等を目指す思想や
運動と親和性はない」
(p.64)と述べられているが、これらの法について女性解放として無批判に賛美
することなく、あらためて、社会への働きかけを続けていく必要があると感じる。

ネオリベラリズムと日本のポストフェミニズム

また、ネオリベラリズム的社会では、ポストフェミニズムという認識が持たれていることについて
触れられている。本書では、ポストフェミニズムについて複数の論者の論から、
「フェミニズムは正し
かった。だがもう必要ない」ということ(p.74)
「フェミニズムは女性の集合体としての社会的地位の
向上を目指したが、ポストフェミニズムにおいてはあくまで個人的な成功に価値がおかれる」(p.75)
と説明されている。本書においても言及されているように、日本においても 1990 年代~2000 年代に
は「フェミニズム嫌い」
「フェミニズムばなれ」という言葉で、ポストフェミニズム的状況の到来が示
されていた。私個人は、
「フェミニズムばなれ」については、
「『女』という一般的なカテゴリーで世界
を把握しようとすること自体ありえないこと」(山下 1991:30-31)という言葉に示されているような、
女性の同一性への反発があるのではないかと考えている。それは、フェミニズムは、
「強い女性の思想」
だから、または「弱い女性の思想」だからという、相反するイメージによる反発でもある。前者につい
ては、
「『もっとがんばれ』とか『あなたにだってできる。可能性がある』というフェミニズムのメッセ
ージ」という江原由美子の言葉にあるような、
「女性の自立」を強制する抑圧的な思想だと捉えられて
いる(江原・大橋 2000:18-20)ことや、外見上は自由な選択肢が広がっても現実には従来型の生活を
選ばざるを得ないとき、フェミニズムは、
「あなたたちの選択はまちがい」と「高みから言う思想」
(伊
藤・海妻 2004:94)と捉えられるという海妻径子による見解など、政策やアカデミズムとしての「強
いフェミニズム」イメージが背景にあるのではないかと思われる。ここでいう政策とは、本書で述べら
れている「参画」
「活躍」を強制する政策である。
「フェミニズムが国家や政府をあたかも『牛耳ってい
る』とイメージされ、実際以上に権力をもっている」
(p.80)とみなされ、能力や活躍を基準に女性の
自由を保障するネオリベラリズムが、あろうことかフェミニズムの帰結とされる歪んだポストフェミ
ニズム的状況が示されている。また、 (荷宮 2004:127)と
「理屈はいい、さっさとやり方を教えろ!」

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現代日本のジェンダー・セクシュアリティをめぐる状況と~(荒木)

いうように、自分の力で人生を切り開ける「能力のある」女性からすれば、いつまでも差別や社会構造
にこだわる役に立たない理屈と捉えられる。
2000 年代の議論から十数年、後者の「自分の力で人生を切り開ける女性」からの反フェミニズムが、
この社会では色濃くなってきたのではないかと感じる。正確には、「自分の力で人生を切り開くべき」
というネオリベラリズム的な社会意識がより拡大していった、ということなのかもしれない。本書で
も、
「日本社会では『女性差別はなくなった』というイメージが醸成され、
『にもかかわらず「女性は差
別されている」というプロパガンダを唱えるフェミニズム』への反感」
(p.81)と示されているように、
ジェンダー構造を問わない、問うべきでないという感覚の拡がりはより深刻なものとなっている。

女子力とポストフェミニズム

本書では、より具体的なポストフェミニズム的状況として、マクロビーの論を使用し、
「フェミニズ
ムの要素は政治的制度的生活に取り入れられ、
『エンパワメント』や『選択』という言葉がより個人主
義的な言説へ転換され、メディアやポピュラーカルチャーの中で、さらに国家の政策として、それらの
言説がある種のフェミニズムの代替として展開されている」と解説されている(p.72)
。そして、日本
において女性の「エンパワメント」や「選択」とともにあるものとして、
「女子力」という概念が挙げ
られている。
「女子力」という用語には複数の使われ方があるとのことであるが、本書では、若者を対象とした調
査を経て、従来の女性性と重なる意味での「女子力」が多く共有されているとの結論が示されている。
女子力は、
「女性の心身に自然にそなわっているものとみなされ」る従来の女性らしさとは異なり、
「そ
ういった古典的な女性性を、改めて、女性自身が身体化しようと努力する」
「規律訓練的側面」
(p.87)
を持つという。本書では、フェミニズムが過去のものとされる中で「再編されたジェンダー・セクシュ
アリティ秩序が現在どのように分節化されているかを鮮明に表現しているのが『女子力』という語彙
ではないか」(p.98)という考察が述べられている。規範を強制する、問題のあるものであった「女性ら
しさ」が自ら選ぶべき能力として再編されることは、ある種のフェミニズムへの反動にも感じられる。
ところで女性が自ら選択した「女性らしさ」としてのここでの「女子力」として、数年前に放映され
た資生堂「インテグレート」のCMを思い出す。25歳を過ぎると女子は人生が厳しくなる、だから
「カワイイ」を努力して維持していこう!というストーリーのこの化粧品CMは、キラキラ素敵に女
性たちを鼓舞するイメージであるが、深読みすれば、歳をとり「可愛く」なくなった女性には価値がな
い、という「呪い」を女性たちにかける内容となる。本書での調査における女子力の定義にも、外見に
関する内容が多く示されていたが、そういった深読みをさせないこと、すなわち女性のみに外見や若
さを求めるジェンダー構造について思考停止させることこそが、ポストフェミニズムであると思われ
る。
「25」という数字が目立つ誕生日ケーキが画面に大きく映し出される様子もまた、かつて「クリ
スマスケーキ」や女子早期定年を批判してきたフェミニズムにたいする、ポストフェミニズムからの
挑戦のようにも見える。
また、本書で興味深く読んだひとつに、
「日本のポストフェミニズムにおいては性的含意が前面に出
ていない」
「英米では、女性自身が性的主体となっていくありようが特徴的だが」
「その代わりに強調さ
れるのが『家事』の能力である」
(p.88)という箇所がある。
「女子力」とは、主体的に欲望するもので
はなく、あくまで受け身なもののようである。

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日本女性学研究会 女性学年報 第 40 号 2019 年 12 月

たしかに欧米のポストフェミニズムでは、女性の性的自立は女性の主体化か、都合の良い客体化か
をめぐって議論されていた。また、女子力は「
『被差別者、被害者、犠牲者』としての女性からの価値
転換という意味が含まれていることが推測される」
(p.85)とのことである。女性の性的客体化する社
会構造を批判した第2波フェミニズムを「犠牲者フェミニズム」として断罪したウルフ(Wolf 1993:136)
や、性暴力を生み出すジェンダー構造を批判することは「理想的な世界という絵空事」である(Paglia
1992=1995:79,153)と述べるパーリアなど欧米のポストフェミニズム論者は、あくまで女性が欲望を
持つ存在という前提があっての主張を行っていた。そこでは、女性が男性同様、主張し、力を発揮する
ための「パワー・フェミニズム」(Wolf 1993:136)や、女性が「現実的な政治力を手に入れ」ること
(Paglia 1992=1995:387,401)で性暴力への抵抗が可能になるという理想が示されているが、これら
は、ネオリベラリズム的能力主義としてジェンダー構造を不可視化する問題を含む。しかしながら、女
性が主体的に欲望を持つこと自体は、実現の意義がある事柄と考えられる。となると、主体的な選択と
言いつつ、主体的な欲望さえ持てない、日本のポストフェミニズム的「女子力」女子は、より深刻にジ
ェンダー構造の再編に巻き込まれていると考えることができる。

これからのフェミニズムの戦略に向けて~「女子」の力

本書では、今後のフェミニズムに望まれることとして、
「必要なのは、運動の断続的であれ生じるさ
ざ波の継続と、それを支える理論の再生だろう」と述べられている(p.191)
。では、日本のフェミニズ
ムが「さざ波」を起こし続けるための戦略には、今後どのような選択肢が考えられるのか。ひとつに
は、政策の実現に向けての働きかけがあるだろう。政策の実現には、例えば議会における男女比率の問
題など、解決すべき政治的問題も多い。法律の面でいえば、2018 年「政治分野における男女共同参画
推進法」が施行された。政党単位のみでの男女候補者同数を目指す法であり、逆差別批判や実効性につ
いて疑問の声もあるが、女性議員の割合を増やす、という目的には一定の意義がある。男性議員中心の
議会では目を向けてこられなかった生活や命への視点は、女性議員比率が高い議会のほうが共有され
やすいという。女性議員を増やすという目的の新旧の運動も各地で展開されている。
女性ならではの視点、という切り口が本質主義的であるという批判もあるだろうが、従来の良妻賢
母的女性らしさが「女子力」として賛美される社会であれば、男性中心主義社会のオルタナティブとし
ての女性の視点という「女子力」をもっと前面に出したフェミニズムや運動を展開していってもよい
のではないかと思う。
また本書にて、近年の新しい女性の運動としての「女子デモ」と、女子という名称をめぐっての議論
が紹介されていた。フェミニズムを想起させるものとして「女子」への違和感が示されていたとのこと
であるが、たしかに 2010 年代という時期、
「怒れる女子会」など、
「女子」を掲げた社会運動が多く登
場した。おそらく多くの運動で、このような葛藤があったのであると思われる。ちなみに、私自身は
「怒りたい女子会」という会に参加しているが、その立ち上げの際、多くの「女子」の運動がフェミニ
ズムと距離を置いているならあえてフェミニズム的な運動をやろう、という声があった。会では、現在
の女性が日常的に感じるモヤモヤを、すぐにフェミニズム的な言葉で説明してしまうのではなく、自
分たちで言葉にすることなどを行った(「エロは男のものだけちゃうで」「立ちションするなら掃除し
ろ」
「結婚結婚うるさいわ」などとコールする女子デモなども実施した)。しかしそうでなくとも、男性
中心主義社会へのオルタナティブとしての「女子」であるならば、フェミニズムとなんら齟齬はないの

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現代日本のジェンダー・セクシュアリティをめぐる状況と~(荒木)

であるように思われるが、それだけフェミニズムの固定的なマイナスイメージは強かったのであろう。

女性の多様性への想像力

さらには、日本社会ではとかく軽視されがちだった女性の欲望についても、その持ち方の多様性も
含め、あらためて認識されるべきではないだろうか。フェミニズムの最重要の目的に、女性の多様性の
尊重がある。多様な女性が多様なまま生きることをできなくさせているから、ジェンダー構造への批
判は続けていかなくてはならない。ならば、女性ごとに異なる欲望もまた、尊重されるべきではない
か。近年、〇〇女子(鉄道女子、酒場女子、相撲女子など)などと呼ばれ、それまで男性領域とされた
文化(スポーツや趣味など)を楽しむ女性たちが話題となることがある。その中には、その領域を支配
する男性中心主義に不快な思いをしたり、批判的視点を持ったりする女性も少なからずいるのではな
いかii。また、女性の性的主体性についても、近年の若い女性たちが「男性の特権的な領域であった『エ
ロ』に対して、自身の性的自由の在り方や快楽について、自分たちのカルチャーのなかで捉えなおして
いくこと」を重視し、ジンやミニコミを制作する様子(元橋 2018:33)などが紹介されている。
性的なものであれ知的なものであれ、趣味的なものであれ、女性が自らの欲望を充足させたいと思
うとき、その前に立ちはだかる男性中心主義や女性排除と出会い、そこからジェンダー構造への批判
的視点が生じることもある。ならば、フェミニズムが、固定的なイメージを超え、ポストフェミニズム
的な女性たちの欲望やその隙間に見え隠れするジェンダー構造批判をすくい上げ、多様な女性を巻き
込んだ運動を展開していくことも可能なのではないか。女性の主体的選択はポストフェミニズム的で
あっても、そこにもしかしたらフェミニズム的な力を見出すことも可能かもしれない。納得できない
女性の生き方でも、この部分では共感できる、共闘できる、ということがあるかもしれない。ポストフ
ェミニズム的状況打破のための今後のフェミニズム(第3波?第4波?)には、
「強い」個人、
「弱い」
個人、皆が、多様性を認めるだけでなく、複数の視点を持ち、それぞれの事情への想像力と、それぞれ
の事情へ配慮する/される、義務/権利の認識の共有が必要である。

現代のジェンダー・セクシュアリティをめぐる状況に必要な視点として

本書では、
「ジェンダーとセクシュアリティの秩序を認識するときに資本主義のイデオロギーに沿っ
て理解してしまう危険性が常にあることを、新自由主義下ではとりわけ意識しなくてはいけない」
(p.190-191)と記されているが、こういった認識は、ジェンダー・セクシュアリティに関わる、特に
実践的な活動を念頭に置く際、重要な認識であると思われる。
新自由主義下にての「女性が(男性同様に)自由に〇〇ができる」という盛り上がりは、一定の女性
のエンパワーとはなるだろうが、結果として「労働力の活用」という消費の客体、または新たな市場の
消費の主体と位置づけられるに過ぎない場合もある。さらには、
「男性領域」とされる活動への女性の
参加は、女性ジェンダー、女子力を備えた場合のみ参加資格を得られる場合もあり、女性ジェンダーを
消費される客体ともなる危険性を孕む。労働しかり、性的欲望しかり、ファッションしかり。若い世代
の女性たちを応援する場において、このようなジレンマをしばしば感じる。
おそらく、そういった場では、女性であるゆえに受ける差別や、女性性の「強制」は語られないこと
が良しとされる。しかしそれらを我慢し乗り越えることではなく、女性たちが連帯し、ともに声を上げ
ることにより、次世代の女性たちが受け続けるであろうジェンダー差別の連鎖をどこかで断ち切らな

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日本女性学研究会 女性学年報 第 40 号 2019 年 12 月

いといけないiii。女性たちが、
「女性のみが気遣い求められるなんておかしい」
「女性だけがなぜこんな
思いをしなければいけないのか」と、それらを仕方ないとせず、まずは語り合える状況が作られるだけ
でも、意義はある。そして、フェミニズムもまた、そういった彼女らの声を、社会構造批判までいかぬ
些細なつぶやきとせず、拾い上げ、向きあうことができるなら、何らかの社会変革につながるのではと
思う。
また、女性の欲望や選択の自由を鼓舞する活動が、経済的、精神的、健康状態など、それが可能な環
境にある者のみの特権的活動になってしまうことにも注意が必要である。
「できる」個人が前提となっ
てしまうと、時としてなぜ自由に欲望できない女性、選択できない女性がいるのかということの背景
にある権力構造を不可視化してしまう。とはいえ、エンパワーや欲望の鼓舞自体を否定する形になる
ことも、問題である。前述のような複数の視点、多種多様な事情や欲望を持つ女性がいる現実と向き合
い、ジェンダー平等を視野や構造への批判を視野に入れ、エンパワーや欲望の実現を目指していくこ
とが必要であるだろう。消費の客体の批判による欲望や選択の否定と、自らのエンパワーや欲望の実
現を目指すことの間で、女性同志の分断が生じるなら、それはフェミニズムの後退ともなりうる。

一見すると、女性が活躍でき、鼓舞されているように見える社会で、真の女性解放を常に問い続け、
ジェンダー構造への批判的視座を持っていくことの意義を、本書を通じあらためて考えさせられる。

参考文献
荒木菜穂,2017,「女子の日常とロックのアンビバレントな関係」吉光正絵・池田太臣・西原麻里編著『ポ
スト〈カワイイ〉の文化社会学』ミネルヴァ書房,141-166.
江原由美子・大橋由香子,2000,「浸透したがゆえの伝わらなさ」
『インパクション』117 インパクト出版
会,12-36.
伊藤公雄・海妻径子,2004,「メンズリブと歴史認識」『情況 第三期』5(10) 情況出版,88-107.
錦光山雅子,2018,「取材先からのセクハラ、語り始めた女性記者たち 苦悩と後悔、メディアへの提言
自分が「鈍感」になることで、やり過ごしてきた。そしていま、後悔している。」
https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/21/shuzaisakikaranosekuhara-katarihajimetajoseikishatachi-
kunotokokai-mediaenoteigen_a_23416818/(2019 年 10 月 5 日アクセス)

元橋利恵,2018,「新自由主義的セクシュアリティと若手フェミニストたちの抵抗」牟田和恵編『架橋する
フェミニズム : 歴史・性・暴力』松香堂書店,25-36.
荷宮和子,2004,『なぜフェミニズムは没落したのか』中公新書ラクレ.
Paglia,Camille. 1992. SEX, ART, AND AMERICAN CULTURE(=1995. 野中邦子訳. カミール パー
リア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』河出書房新社).
塩見翔,2013,「大学鉄道サークルにおける女性メンバーたち」
『女子学研究』vol.3 女子学研究会,9-12.
竹中恵美子,2012,「婦人の低賃金と今日の課題――ウーマン・パワー政策および所得政策に関連して―
―」
『竹中恵美子著作集Ⅳ 女性の賃金問題とジェンダー』明石書店(初出 1971,『月間 総評』1971 年
臨時号〈婦人問題特集〉
).
Wolf,Naomi,1993,Fire With Fire: The New Female Power and How It Will Change the 21st
Century, Random House.
山下悦子,1991,
『「女性の時代」という神話』青弓社.

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現代日本のジェンダー・セクシュアリティをめぐる状況と~(荒木)

i
「男女平等」の前提が「労働力の戦略化のための母性保護規定の緩和」(竹中 2012:126)であ
もっとも、
ること、すなわち男性同様に働くことを目指す政策は、すでに、パートタイマーとしての既婚女性の労働
力の活用を目指す 1970 年代の「ウーマン・パワー政策」の議論の際にも提示されている。本政策が「婦人
の能力開発・職域拡大をキャッチフレーズとし」
(同上:126)としていたことを考えると、そもそも戦後日
本の性別役割分業規範は、矛盾を孕みつつ、女子労働力の活用の側面とセットになっていたと考えること
もできる。
ii 例えば、鉄道趣味において、女性が、男性から受ける「鉄子」という呼称について「男性の『鉄』に比
して知識や関心のあり方が『浅い』というイメージを暗に含んだものであることを察知している」
(塩見
2013:11)ということがあるという。また、ロック文化における「女性を対等な個人として扱わず、ある時
は性的対象、ある時は消費の主体=資本主義的客体=二流のファンと位置付ける男性中心的価値規範」
(荒
木 2017:146-147)にたいし、女性ロックファンから批判の声が示されることもある。
iii
例えば、メディア業界で働く女性たちが「セクハラなんか適当にいなしてあしらってネタをとってき
て、後輩にもそう言ってきた。
」ことで、取材先でのセクハラが生じる状況を容認してきたことを反省する
様子も示されている(錦光山 2018)
。その後、2018 年 5 月に、メディア業界で働く女性たちによる業界
を変えていく取り組みである「メディアで働く女性ネットワーク」(代表世話人 林美子 fttps://www.
facebook.com/WiMNJapan/)が設立された。

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