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武 道 学 研 究18-2(1985)

近世米沢藩の武芸稽古所 に関する研究(一)

小 沢 博(東 京理科大学)

1は じめ に 沢 藩 で もあ らゆ る もの に倹 約 令 が 出 され 。 文 の 教
近 世 の 我 が 国 で は,わ ず か の 藩 を 除 いて 各 藩 と 育 施 設 で あ る興 譲 館 を含 め て 「
天 明7年 の 御 省 略
も藩校 が創 設 され て い た。 そ こで は 文 武 の教 育 が に武芸 所 を廃 せ らる」5)と 記 され て い る よ うに武

独 自の形 式 で 実施 され て い た。 と ころ が米 沢 藩 で 芸 稽 古所 は閉 鎖 され た。
は 武芸 教 育 や 稽古 所 に つ いて も その存 在 が 明 らか 2.門 東 町 下 へ 移転 再 建
に され て い な い22)「 日本 教 育 史資 料 」 に も曖 昧 天 明7年(1787)の 倹 約 令 に よ って 武 芸 稽 古 所
な 内容 で 記 され て い るだ けで あ るた め,昭 和58∼ や興 譲 館 が 閉 鎖 され た が,与 板 組 篠 田 甚 右 衛 門 は
60年 に か け て現 地 調 査 を行 い,ほ とん ど公 開 され 以下 の再 建 希 望 の 意見 書 を提 出 し た。 「異 変 打 続
て い な い 古文 書 や 絵 図 を見 出 す こ とが で きた 。 そ 候故 非 常 の御 大倹 御 取行 被 遊 学 館 の諸 生 を も御 減
れ らの資 料 か ら,「 武 芸 稽 古 所 」 の存 在 が確 認 さ 省 被 遊 候 へ は武 芸 所 御廃 し も無拠 儀 と存 罷在 候 処
れ,さ らに時 代 の 変 遷 に よ って どの よ うな歴 史 を 去 年 中 既 に学 館 は故 に御 復 し被 成 候 へ 共 武芸 所 は
た ど ったか を 明 らか にす る こ とがで きた ので 発 表 今 に至 て 何 の 御世 話 も無 之 儀 甚 残 念 に奉 存 候夫 れ
す る。 文 武 の御 国 体 に 於 る車 の両 輪 の如 く敦 れ も廃 され
II本 論 ま しき者 と存 候 … … 」6)藩 主 治 広 公 は この 意 見書
1.武 芸 稽 古所 の 創 設 と時代 背 景 を取 り上 げ,門 東 町 下 の御 用屋 鋪 に寛 政2年(17
米 沢 藩 は,安 永4年(1775)武 芸 稽 古 所,安 永 90)4月22日 に創 設 した。
5年(1776)興 譲 館 を創 設 した 。時 代 背 景 と して 3.米 沢 藩 の海 防 と武 芸 稽 古所
は,安 永 以 前 の 重 定公 の 時代 す なわ ち,宝 暦7年 米 沢 藩 で は寛 政 か ら文 化年 間 に か けて 海 防 問題
(1757)東 北 地 方 に飢 鐘 が 起 こ り,米 沢 藩 で もそ が 大 き く取 り上 げ られ,武 備 が 整 え られ て武 芸 が
の 影響 を 受 け重 定 公 は たび た び倹 約 の 法 令 を 公 布 盛 ん に 行 わ れ た時 代 で あ った 。寛 政 期 に異 国 船 の
して い る。 重 定公 の後,治 憲(鷹 山)公 が 明 和4 本 州 沿 岸及 び蝦 夷 地 へ の 来 航 に よ り,に わ か に海
年(1767),第 十 代 藩主 とな って 窮 乏 の 極 に 達 し 防 問題 が 台頭 した 。幕 府 は 直 ち に沿 岸 を もつ諸 大
た 藩財 政 を 立 て直 す た め に,ま す ます倹 約 に心 掛 名 に対 し,そ の防 備 を 命 じたの で あ るが 当 時 は幕
けて い る。 そ の後 宝 暦 の飢 饒 の 影響 を 受 けて 困 窮 府 を は じめ諸 藩 にお いて も財 政 改 革 の 機 運 に あ っ
の極 に達 して い た武 士 も百 姓 も十数 年経 過 す る と, た。 こ う した情 勢 の 中 で この 海 防 問題 は予 想 外 の
財 政 的 に 立 ち直 った反 面 規 律 が 乱 れ て きた 。 そ こ こ とで あ って大 き な負 担 とな った 。米 沢 藩 は内 陸
で 。 「太 平 に安 ン し候 こと も人 情 の常 二 候 ヘ ハ 御 の地 で あ るが,越 後 岩 船 郡 の 沿岸 が預 所(あ ず か
家 中 一統 怠 慢 の事 もや と被 思 召 候是 二 因 テ … … 」3) り ど ころ)と な って い るの で幕 府 の指 示 に基 づ き
武 芸 を盛 ん に しよ う と して,安 永4年(1775)に 海岸 の防 備 を 余儀 な くされ た 。 そ の海 防 に関 す る
武 芸 稽 古所 を創 設 した。 これ につ い て は 。 「安 永 軍 備 に つ いて 記 され て い るの が,「 蝦夷 松前 役 越
四 年十 月 武 芸 稽 古所 被 相 立 候 付 命 令 一 中 略 一一 後 岩 船 郡 役 予 備(全30巻)」7}で あ る。
二 之 丸 御 長 屋 江 稽 古所 被 相 立 候 …… 」4}と 記 さ れ 米 沢 藩 が 預 所 の 防備 に積 極 的 な動 きを示 し たの
て い るよ うに,二 之 丸 長 屋 を 修理 して創 設 され た 。 は 。寛 政5年(1793)頃 か らで防 備 の急 務 を痛 感
そ の後 次 第 に盛 ん に な って 来 た が,天 明3∼8年 し,3月4日 に家 臣達 に対 して,「 武 道 之 修 練 武
(1783∼1788)に か けて 大 飢 鯉 が起 こ り,東 北 地 器 之 用 意 疎 二有 之 ま し きハ 武 家 之 本 道 各 無 疎 意 二
方 か ら全 国 に まで 及 び幕府 で は天 明7年(1787) 候処 ・
一 中 略 一 従 是 猶 又 武 道 之 修 練 各 別 二相 は
松 平 定 信 が 老 中 筆 頭 とな って倹 約 令 を発 した。 米 ケ ミ,武 器 之 用 意無 疎 意 心 懸 置 … … 」8}と い う訓

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武 道 学 研 究18-2(1985)

令 を発 布 して,武 家 の 本 道 で あ る武芸 の 修 練.武 銭 拝借 之 事 」12)と記 され た借 用 書 で あ るが,明 治


器 の 用 意 の不 備 を戒 しめ 。 蝦 夷 地 が騒 然 とな って 3年(1870)12月 及 び明 治4年(1871)正 月の 日
きた ので 武 芸 の修 練 に励 み,武 器 を整 備 し要 請 が 付 で 「八 貫 文 」・「十 六 貫 文 」 を 貸 与 して い る。
あれ ば直 ち に出 陣 で き るよ うに 命令 して い る。 皿 まとめ
また,「 蝦 夷 松 前役 越 後 岩 船 郡 役 予 備 」 の 「一・ 以 上 の通 り米 沢 藩 にお け る武 芸 稽 古 所 の存 在 の
二 三 之 手 御 人 数積 」 には,「 騎 士 を減 し徒 兵 を益 確 認 と現 地 調 査 に よ って得 た 古 文 書 や 絵 図 か らそ
し。 弓鎗 を 少 し,鉄 砲 を多 ク積 り候者,海 憲 防戦 の変 遷 を知 る こ とが で きた 。安 永4年 か ら明治13
の 勝 利 二 候 条,尤 後 豊 と成 へ き二 者 無 之 事 」9)と 年(興 譲 小 学校 に改 築)ま で の104年 間 に様 々 な
記 され て い る通 り,騎 士 よ り も徒 兵,弓 鎗 よ り も 影 響 を 受 けた こ とが 理 解 で きた 。特 に 「
天 明 の倹
鉄 砲 を 用 い る とい うよ うに戦 闘 形 態 も改 新 され た 約 令 」 の 際 の閉 鎖 に つ い て は,鷹 山公 の財 政 再 建
傾 向 を 現 して い る。 ま た この こ とが,海 憲 に対 す の ため の大 英 断 とい え る。 ま た,海 防 問題 と武 芸
る防 戦 に お い て有 利 で あ り,勝 利 を も た らす こ と との関 連 は,開 幕 以 来 ユ80∼ ユ90年経 過 した武 士
で あ ると強 調 して い る。 しか し,こ の 戦 闘形 態 は 達 に と って 「武 家 之 本 道 」 を 問 われ た時 代 で あ っ
あ くまで も 「後 豊 と成 へ き二者 無之 事 」 と断 り, て,そ れ に対 して 武 芸 に励 み,武 器 を 整 備 す る と
この編 成 は異 国 船 防 備 と い う非 常 事 態 に備 え た変 い う緊 張 した時 期 で あ り,そ れ を 古 文 書(出 席 簿)
則 的 な もの で あ る こ とを示 して い る。 な お,こ の か ら確 認 す る こ とが で きた 。
海 防 の ため の 軍 備拡 充 に よ って藩 士 達 が 武 芸 を修 今 後 は さ らに細 部 に わ た って個 別 に考察 す る所
錬 す る よ う にな った 。 そ れ を示 す のが 武 芸 稽 古所 存 で あ る。
の 出席 簿 に あ た る古文 書 で あ る。 これ は文 化 元 年
q804)3月 の もので あ るが,内 容 に つ いて は武 <引 用 文 献>

芸 の 種類 ・出席 者 の氏 名や 出 席 状 況 を 示 して い る 。 1)笠 井 助 治:近 世 藩 校 の綜 合 的 研 究,吉 川 好 文 館,

4.米 沢 大火 後 の 武 芸 稽 古 所 PP.226∼242,1982.

元 治 元 年(1864)4月 ユ5日に米 沢 に 大火 が あ り, 2)今 村 嘉 雄:十 九 世 紀 に 於 け る 日本 体 育 の 研 究,不

細 工 町 に あ った興 譲 館 も類 焼 した。 しか し.門 東 昧 堂,PP.377∼551,1967.

町 下 に あ る武 芸 稽 古 所 は 風 向 が幸 い してi類焼 を ま 3)山 形 県史 資 料 第 四 「
国 政 談 」(武 芸所 御 取 立)

ぬ が れ て い る。 その ため翌 日16日 に は被 災 者 の救 4)米 沢 市史 編 さん 委 員 会 編 集:御 代 々御 式 目E),米

済 施 設 とな った。 そ して そ の 年 の11月1日 に武 芸 沢 市 史編 集 資 料 第 十 三 号,米 沢 市 史 編 さ ん委 員 会,

稽 古 所,6日 に興 譲 館 が落 成 した 。 そ の場 所 に つ PP.171,1984.
い て,「 日本 教 育史 資 料 」 に は,「 校 舎 ハ 米 沢 主 5)池 田成 章:鷹 山 公世 紀,陽 明 社,P.427,1906.

水 町 二在 リ始 ハ細 工 町 二在 リ元 治 元 年 四 月 類 焼 ノ 6)前 掲書 「
鷹 山 公世 紀 」,P.428.

災 二 罹 リシ時 今 ノ地 二転 セ リ此 地 ニハ 巳 二演 武 校 7)蝦 夷 松 前 役 越 後 岩 船 役 予 備(以 下 「


予 備 」 と略 す),
ノ設 アル ヲ以 テ 士族 ノ子 弟 二文 武 ヲ兼 学 スル ノ便 「上 杉 家 文 書 」,米 沢 市 立 図 書 館 所 蔵.

ヲ与 フル カ為 ナ リ」10)(校舎 所 在 地),と こ ろが 学 8)御 代 々御 式 目,「上 杉家 文 書 」,米 沢 市 立 図 書 館 所

科 学 規 試 験 法 及 諸 則 に 「兵 学 弓馬 槍剣 砲 術 柔 術 二 蔵

至 リテハ 別 二演 武 校 ア リ学 校 ニハ 並設 セ ス」11}と 9)前 掲 書 「予 備 ⊥

記 され て い るよ うに,同 一 資 料 の 中 で別 々 の 内 容 10)文 部 省編:日 本 教 育 史 資料 巻三,文 部 省 総 務 局,

で あ った 。 そ れが 元 治 元 年 以 降 に描 か れ た絵 図 を P。733,1890.

発 見 した こ とに よ って,元 治 元 年11月6日 の時点 11)前 掲 書 「日本 教 育 史 資 料 巻 三 」,P742.

で 門 東 町 下 に並 設 され た こ とが 明確 に な った 。 12)武 芸 稽古 所 御 備銭 拝 借 之 事,米 沢 市 立 図 書 館 所 蔵.

さ らに,明 治 維 新 後 武士 達 は困 窮 した が,武 芸
稽 古 所 を維 持 す る ため に貯 え て あ った金 銭 を貸 与
した時 の 証 明 書 を 発 見 した。 これ は 「武 芸 所 御 備

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