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JSALC 8 1-25 Kawamura
JSALC 8 1-25 Kawamura
川村悠人
1. はじめに
インド文化が世界に誇る至高の知的遺産として古典サンスクリット文学
とパーニニ文法学を挙げることができる。
〈美文〉
(kāvya)と称される古典サンスクリット文学は、インドの詩人
(kavi)達の異常とも言える美意識の所産であり、一種のパズルの如き様
相を呈した芸術作品である。サンスクリット詩人達は、外形と内容の面か
ら様々な工夫を凝らして、鑑賞者達を感動へと導く最高の作品を創り上げ
ることにその人生を捧げた。そうしてできあがった〈美文〉は、まさに詩
人達の魂とも言うべきものであり、作者に名声(kīrti)と歓喜(prīti)をも
たらすとされる1)。そして、
〈美文〉がサンスクリットという言語が持つ諸
特徴を存分に活かした言葉(śabda)と意味(artha)の芸術である以上(KA
、他の諸学問のうちでもとりわけパーニニ
1.16a: śabdārthau sahitau kāvyam)
文法学(pāṇinīyavyākaraṇa)に精通することが詩人達に強く求められたこ
とは想像に難くない。パーニニ(Pāṇini)の文法は彼の時代(紀元前 500
年頃)と地域(西北インド)における正しい言語運用を説明する規則の体
系であり、彼が残した現存するインド最古の文典『アシュターディアー
イー』
(Aṣṭādhyāyī)にはモデルスピーカーとしての教養文化人(śiṣṭa)達
の実際の言語運用が記述されている2)。パーニニ文法は『ヴァールッティ
カ』
(Vārttika)を著したカーティアーヤナ(Kātyāyana、紀元前 3 世紀)を
(
kaviḥ kurvan kīrtiṃ prītiṃ ca vindati //「詩的欠陥がなく、
詩的美質に溢れ、
修辞に飾られ、
ラサを具えた〈美文〉を創るならば、詩人は名声と歓喜を得る」 )
2) 「教養文化人」の概念の詳細については Cardona [1997: par. 834]を見よ。なお、パー
ニニは『アシュターディアーイー』中で彼の先師達(pūrvācārya)の見解にもしばしば
言及しているから、パーニニは彼らの伝統を継承して自身の文法学体系を築き上げたと
考えられるが、パーニニ文典に先行する文法学作品は現存しない。
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経て、
『マハーバーシャ』
(Mahābhāṣya)を著したパタンジャリ(Patañjali、
紀元前 2 世紀)
によって大成されることになる。
パーニニ文法の成立以降、
それは、特定の学派や学問分野に限定されることなく、サンスクリットを
使用する全ての者達の共通の規範となる。インド精神文化の中でパーニニ
文法学は極めて高い地位を有しており、それはサンスクリットによる文化
の営みの根幹に位置付けられ得るものである。
しかし、実際にサンスクリット詩人達とパーニニ文法学がどのような関
係にあったのか、彼らにとってパーニニ文法とは一体何であったのかとい
う問題が真正面から取り上げられることは、意外にもこれまでほとんどな
かった。本稿は、その問題に取り組む第一歩として、各詩論書中の記述及
び詩人達が実際に残した詩節を取り上げ、
〈美文〉におけるパーニニ文法学
の位置付けを明示することを目的とする。
なお、パーニニ文法学派に属さない仏教徒やジャイナ教徒達も、
『アシュ
ターディアーイー』の構成を通俗化し、その語句や内容を簡略化した独自
の文典を保有している3)。
〈美文〉の注釈家達がそのような文典に依拠して
詩人達の表現を説明する場合もしばしばあり、もちろん詩人や詩論家達
(ālaṃkārika)も仏教徒やジャイナ教徒達の手になる文典を知っていたと
考えられる。
しかし上述したように、
インド文法学の主流をなしたのはパー
ニニ文法学であり、詩人達が〈美文〉の創作の際に依拠し、詩論家達が「文
法学」として言及するのはまさしくパーニニ文法学である。本稿では、
「文
法学」
(vyākaraṇa)という言葉を「パーニニ文法学」を意図して、そして
「文法家」
(vaiyākaraṇa)という言葉を「パーニニ文法家」を意図して使
用する。
2. 〈美文〉創作における文法学の重要性
2.1. 詩人の教養としての文法学
詩論家達が要求する〈美文〉の条件を満たしながら、様々な人間の生き
様を詠い上げる詩人達には、当然あらゆる方面の知識が要求される。辻
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[1973: 1.7−10]の言葉を借りれば、詩人達は「諸般の学術(文法・修辞・
語彙・詩論・劇論・哲学・論理・宗教・法制・政治・外交・処世・性愛・
天文・占術云々)に関する完全な知識を作中に発揮しなくてはならない」
のである。そして、
〈美文〉が言葉と意味からなる芸術である以上、詩人達
にとって最も重要なのは文法学の知識である。詩論家ヴァーマナ(Vāmana、
8 世紀頃)は〈美文〉の要因(kāvyāṅga)の一つとして〈学識〉
(vidyā)
を挙げた後(KAS 1.3.1: loko vidyāḥ prakīrṇakaṃ ca kāvyāṅgāni)
、次のよう
に述べる。
ヴァーマナによれば、まずもって〈美文〉の創作には〈学識〉
(vidyā)が
必要である。そしてそれを成立させる要因のうち、文法学(śabdasmṛti、
正語を伝承する手段)の学習が最も重要である。文法学の知識なくして高
度な作品の創作が不可能であることは言うまでもないであろう。かの大詩
人カーリダーサ(Kālidāsa、4 世紀後半から 5 世紀前半頃)も次のように
吐露している。
4)この他、各詩論家が列挙する、 〈美文〉創作に必要とされる学術的知識については上村
[1972: 99–101]にまとめられている。
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言葉と意味のように結合している、世界の母父であるパールヴァ
ティー(山の娘)とシヴァ(最高主宰神)に私は敬礼する。言葉と意
味を正しく理解するために。
詩人達は様々な言葉を巧みに操ることで種々の魅力的な作品を生み出す。
そして当然作品の創作の際には、誤った言葉(apaśabda)ではなく清浄な
る正しい言葉(sādhuśabda)が使用されねばならず5) 、言葉の正しさ
(sādhutva)を確定する手段は文法学以外にない6)。もしパーニニ文法に反
する誤った言葉を使用すれば、それは〈文法性を欠くもの〉
(śabdahīna)
(asādhu)と呼ばれる詩的欠陥(doṣa)と見なされ7)、作
または〈不正語〉
品の〈美文〉としての価値が損なわれてしまう。従って、詩人たる者は何
としてでも文法学の習得に向けて努力しなければならないのである。
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2.2. 全ての学問の基礎としての文法学
ヴァーマナによれば、詩人の教養として文法学の知識は必要不可欠かつ
最も重要なものである。ではなぜ文法学がそれほど尊ばれるのか。文法学
が他の学問よりも重要視される理由は何なのか。9 世紀後半に活躍した詩
論家アーナンダヴァルダナ(Ānandavardhana)はその理由を次のように述
べている。
文法学は一切の学問の根幹(mūla)に位置付けられるものであり、従って、
それは詩人や文法家に限らずサンスクリットに携わる全ての者が学ぶべき
学問である。そのような文法学は「一切の学問体系の友」
(sarvapārṣada)
とも呼ばれる(Ṭīkā on VP 2.250: yataḥ sarvapārṣadam idaṃ hi vyākaraṇaṃ
。詩論家ラージャシェーカラ(Rājaśekhara、9 世紀末から 10 世紀
śāstram)
前半頃)によれば、この世の中で「言葉より成るもの」
(vāṅmaya)には〈論
書〉
(śāstra)と〈美文〉
(kāvya)の二種しかない(KM [2.16]: iha hi vāṅmayam
。そして、いずれも言語表現の形をとるもの
ubhayathā śāstraṃ kāvyaṃ ca)
である以上、それらの創作のためには、正しい言語形式について教示を与
える文法学の知識が必要不可欠なのである。
〈美文〉に携わる詩人や詩論家達にとって文法学が如何に重要なものと
見なされていたかを、我々は詩論家バーマハ(Bhāmaha、7 世紀頃)の次
の言葉から窺い知ることができる。
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sadopabhuktaṃ sarvābhir anyavidyākareṇubhiḥ //
nāpārayitvā durgādham amuṃ vyākaraṇārṇavam /
śabdaratnaṃ svayaṃ gamam alaṃ kartum ayaṃ janaḥ //
スートラという水があり8)、語(pada)という渦を巻き9)、
『マハーバー
シャ』という海底があり10)、動詞語根、uṇ 等の接辞、語群という大魚
達が泳ぎ回り11)、熟慮による理解を偉大な舟として賢者達がその対岸
8) sūtra という語によって意図されているのは当然パーニニが定式化した文法規則のこと
の理解は次の通りである。
当該詩節では全体的に「海に関わる事柄」が「文法学に関わる事柄」に比喩されてい
るので、 『ウドヤーナヴリッティ』に従って pārāyaṇa という語を『マハーバーシャ』を
指すものと解釈する。 『マハーバーシャ』を理解してはじめてパーニニ文法学の本質を捉
えることができるという意味において、 『マハーバーシャ』はまさに文法学の「最終地点
に到達するための手段」 (pārāyaṇa)であると言える。 「海底」(rasātala)が「対岸に到達
するため手段」であるというのは奇妙であるが、pārāyaṇa という語の語源的な意味を持
ち込まずに「 『マハーバーシャ』という海底」と理解すれば問題はない。その場合、 「文
法学という大海」の海底には『マハーバーシャ』という深遠なる存在がいる、即ちパー
ニニ文法学は『マハーバーシャ』を根底/拠り所とするという意味で pārāyaṇarasātala と
いう表現を解釈できる。だだしこの場合、 『マハーバーシャ』が海底にあるのならば「文
法学という大海」を舟(plava)で渡る際にそれに触れることなく対岸に到達してしまうの
ではないか、という疑問が生じる。 『マハーバーシャ』の理解なくしてパーニニ文法学の
理解はあり得ない。この問題を解決するために、rasā という語を「潮流」 、tala という語
を「表面」という意味で解釈し、pārāyaṇarasātala という複合語を「対岸に到達するため
の手段( 『マハーバーシャ』 )である潮流が海面にある[文法学という大海] 」と解釈する
ことも可能かもしれない。しかし、rasātala という語がそのように解釈される用例は見当
たらない。
11) 言うまでもなく、ここではパーニニ文法の付属文献である『ダートゥパータ』
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(終極)を見るものであり、愚者達が羨み12)、他の学問という一切の
雌象達が常に享受する、深みに入り難いかの文法学という大海を渡り
切らずして、私は正語という宝石を自ら獲得することはできない13)。
「他の学問という一切の雌象達が常に享受する[文法学という大海]」
(sadopabhuktaṃ sarvābhir anyavidyākareṇubhiḥ)という表現は、アーナン
ダヴァルダナの「一切の学問は文法学を基礎とするから」
(vyākaraṇamūlatvāt sarvavidyānām)という言葉と同趣旨である。バーマ
ハは KA 6.63 でも同様のことを述べ、パーニニ文法学の重要性を強調して
いる。
が意図されている。
12) 『ウドヤーナヴリッティ』によれば、愚者達が羨んでいるという事実は、 「文法学と
いう大海」には実に多くの美質(guṇa)が存在することを示している。UV on KA 6.4:
amedhasām asūyāpi mahatāṃ guṇabhūmānaṃ vyanakti /( 「愚者達の嫉妬もまた、偉大なる
ものが有する美質の豊富さを明示している」 )
13) バーマハは KA 6.62 でも「正語」 (śabda)を「大海」 (arṇava)に例えて文法学の深
遠さを語っている。KA 6.62: sālāturīyamatam etad anukrameṇa ko vakṣyatīti virato ’ham ato
vicārāt / śabdārṇavasya yadi kaścid upaiti pāraṃ bhīmāmbhasaś ca jaladher iti vismayo ’sau //
(「誰がパーニニ[サラートゥラ村で生まれた者]の以上のような見解[の全て]を整然
と語ることができようか。それ故、私はこの考察をやめる。もし正語という大海の対岸
に行き着く人がいるならば、それは恐ろしい水がある[実際の]大海の対岸に行き着く
のと同様、驚くベきことである」 )cd 句の直訳は「 『正語という大海の対岸と、恐ろしい
水がある[実際の]大海の対岸に誰かが行き着く』ということがもしあれば、それは驚
くべきことである」であるが、意図されている意味内容を考慮して上記のように訳出し
た。
14) Trivedī [1898]の‘tāsūktāṃ’という読みでは読解不能なので Sastry [1970]の読みに従
う。
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所であり、それら(他の諸学問)の中で述べられているどんな事柄と
も対立することはない。実にパーニニの見解は世で信頼されるべきで
ある。
[それは一切の学問にとって]中立的存在であるから、特定の者
[だけ]の権威というわけではない15)。
そしてバーマハは言う。
〈美文〉における文法学の重要性がここに明言されている。
15) Sastry [1970: 133.15–26]は当該詩節 ab 句に“Although (one) has made one-self the
permanent receptacle of the labours (i. e., the sciences) of others (one) does not intend hereby
to oppose the views of others.”という英訳を与え、当該詩節の内容に関して“The meaning
is not quite clear. I understand the first half refers to Bhāmaha himself who offers an apology
for not setting out the views of other grammarians. The school of Pāṇini may be taken to the
meeting place of the views of many ancient Grammarians. Therefore perhaps it is referred to
as occupying a central position.”とノートを付しているが、この英訳と解釈は誤りである。
第 6 章冒頭部(KA 6.1–3)に掲げられた詩節の内容を考慮すれば、第 6 章の末尾詩節で
再度バーマハが一切の学問に資するパーニニ文法学の重要性とそれが諸学問中に占める
中心的位置を強調しているのは明らかである。従って、 「拠り所」 (apāśraya)は c 句の
「パーニニの見解」 (pāṇinīyaṃ matam)を指すと理解すべきであり、そのことは KA 6.2
で使用される「他の学問という一切の雌象達が常に享受する[文法学という大海] 」
(sadopabhuktaṃ sarvābhir anyavidyākareṇubhiḥ)という表現からも支持される。当該詩
節でバーマハが言わんとしていることは実に「明晰」 (clear)である。即ち、あらゆる学
問体系が思想表明の手段として言葉を使用し、パーニニ文法学に基づいてのみ誤った言
葉と正しい言葉の弁別が可能であるという意味において、パーニニ文法学はあらゆる学
問の拠り所であり、他の学問と対立することのない中立的存在である。そのようなパー
ニニ文法学は世で信頼されるべきであり、それは誰か特定の人だけの権威ではなく、サ
ンスクリットに携わるあらゆる者達にとっての権威である。UV on KA 6.63: pāṇinīyaṃ
mataṃ vyākaraṇam ity arthaḥ / aparāsāṃ sarvāsāṃ vidyānām āśrayaḥ /
śabdasandarbhamayatvāt sarvāsāṃ vidyānām / śabdavivekasya caitadadhīnatvāt /( 「パーニニ
の見解とは[パーニニ]文法学という意味である。 [それは]他の、即ち一切の学問の拠
り所である。一切の学問は言葉が紡がれてできたものであるから。そして言葉の弁別は
それ(パーニニ文法学)に基づくから」 )
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3. 〈美文〉における文法上の欠陥
詩論家達は〈美文〉の魅力を損なう原因(saundaryākṣepahetu)となる詩
的欠陥について種々論じている16)。そしてこれまで見てきたように、詩論
家達が諸学問のうちでもとりわけ文法学を重視していたことは明らかであ
るから、詩的欠陥の中に文法上の欠陥が数え上げられていることは何ら不
思議なことではない。ここでは、初期の詩論家であるバーマハ、ダンディ
ン(Daṇḍin、7 世紀中頃)
、ヴァーマナが文法上の欠陥をそれぞれどのよう
に定義しているのかを見ておこう。
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KĀ 3.148: śabdahīnam anālakṣyalakṣyalakṣaṇapaddhatiḥ /
padaprayogo ’śiṣṭeṣṭaḥ śiṣṭeṣṭas tu na duṣyati //
正語に対する文法規則の手順が見出され得ない言語使用は18)、
〈文法
性を欠くもの〉である19)。
[また、
]言語使用は、それが教養文化人達
によって認められないものであれば、
[たとえ正語に対する文法規則の
〈文法性を欠くもの〉である20)。一方、
手順が見出され得るとしても]
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言語使用は、それが教養文化人達によって認められるものであれば、
[たとえ正語に対する文法規則の手順が見出され得なくても、
]欠陥と
はならない21)。
ここでバーマハ、ダンディン、ヴァーマナの定義の内容を逐一検討するこ
とはしない。要点は、正語に関する権威である教養文化人達(MBh on A
6.3.109 [III.174.10]: . . . śiṣṭāḥ śabdeṣu pramāṇam . . .)の言語運用を分析、説
明することでパーニニ、カーティアーヤナ、パタンジャリが確立したパー
ニニ文法学に反する語(pada)やそのような語の使用(padaprayoga)は、
〈美文〉における欠陥と見なされるということである。
の「理論上結果し得るもの(prāpti)は必ずしも望ましいもの(iṣṭi)ではない」という
原則は anabhidhāna 原則と言われる。この原則は実際の言語運用(prayoga)の文法規則
に対する優先性を示している。或る語が何らかの文法規則の適用により派生可能である
としても、その語が教養文化人達の実際の言語運用に見出されなければ、それは正語と
は見なされないのである。anabhidhāna 原則の詳細については Cardona [1997: par.
836–837]を見よ。
21) 例えば次の規則を見よ。A 6.3.109 pṛṣodarādīni yathopadiṣṭam //(
「[ゼロ代置や附加辞
導入や音素変化に関する操作が規定されていない]pṛṣodara( 「斑点のある腹をした」 )
に類する語形は、教養文化人達が使用する通りに受け入れるべきである」 )
ここで提示される pṛṣodara( 「斑点のある腹をした」 )という語形及びそれに類する語
形は、教養文化人達の実際の言語運用に見出される正しい語形である。しかし、パーニ
ニはその語形派生を説明する文法規則を用意していない。その理由は、それらの派生を
説明する規則を個別に定式化するよりも、それらを正しい語形として直接提示する方が
より経済的であるとパーニニが判断したためである。このような語形はパーニニ文法学
の体系で〈既成形〉 (nipātana)と呼ばれる。それは、文法規則を考慮することなくパー
ニニが提示している通りに、即ち教養文化人達が使用している通りに受け入れられるべ
きものである。 pṛṣodaraという語及びA 6.3.109の詳細についてはCardona [1997: par. 834]
を見よ。
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4. 文法学の知識を活かした技巧
最後に、詩人達にとって文法学というものが如何に身近な存在であった
かを示しておこう。
4.1. 文法学用語を使った比喩表現
サンスクリット文学中には多種多様な比喩表現が見受けられることは周
知の通りであるが、詩人達が〈比喩基準〉
(upamāna)として用いるのは太
陽や月等といったものだけではない。興味深いことに、しばしば彼らは或
る事態を比喩するのに文法学上の用語を用いている。ここではカーリダー
サの『ラグヴァンシャ』
(Raghuvaṃśa)からその一例を紹介しよう。
ここでは、ジャナカ王(Janaka)の娘であるシーター(Sītā)達とダシャラ
タ王(Daśaratha)の息子であるラーマ(Rāma)達の結婚の様子が描かれ
ている。そして当該詩節では「花婿と花嫁の和合」
(varavadhūsamāgama)
が「接辞と語基の結合」
(pratyayaprakṛtiyoga)に比喩されており、各語の
性、数、格も見事に一致している。ここで「花婿」
(vara)は「接辞」
(pratyaya)
に、
「花嫁」
(vadhū)は「語基」
(prakṛti)に、そして「和合」
(samāgama)
は「結合」
(yoga)に対応する。
接辞(pratyaya)とは、パーニニ文法の体系において、
〈動詞語根〉
(dhātu)
または〈名詞語基〉
(prātipadika)の後に導入が規定されている言語項目の
ことである(A 3.1.1 pratyayaḥ; A 3.1.2 paraś ca)
。語基(prakṛti)とは、注釈
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家マッリナータ(Mallinātha、14 世紀から 15 世紀頃)の言葉を借りれば
「それの後に saN 等の接辞の導入が規定されているもの」
(Saṃjīvinī on RV
11.56: pratyayāḥ sanādayo yebhyo vidhīyante tāḥ prakṛtayaḥ)であり、即ち何
らかの接辞が後続する言語項目のことである。しかし、実際の言語運用の
場では接辞と語基は常に結びついたもの(nityasambandha)として使用さ
れる22)。言語運用の場で実際に使用される文(vākya)から名詞接辞で終
わる項目
(subanta)
と定動詞接辞で終わる項目
(tiṅanta)
を抽出
(appoddhāra)
し、さらにそこから接辞と語基を抽出するのは、正語の派生手続きを文法
規則によって簡潔に記述するためであり、それは我々の概念構想(kalpanā、
kalpana)に過ぎない23)。本来は分割し得ず、常に一体となって言語運用の
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場に現れる接辞と語基が〈比喩基準〉として使用されることで、花婿と花
嫁の完全な和合が表現されていると同時に、接辞と語基が一体となって一
つの意味の表示を実現するのと同様(KV on A 1.2.56: prakṛtipratyayau
、花婿と花嫁も二人で力を合わせて一つの事柄(幸福等)
sahārthaṃ brūtaḥ)
を実現するという内容が含意されているのである24)。
現代の我々からしてみれば奇妙な比喩表現に見えるが、パーニニ文法学
の知識を前提とするサンスクリット文化の中に生きた詩人達にとっては、
或る二者間の結合関係が完璧であることを比喩を用いて示すのに「接辞と
語基の結合」はまさに〈比喩基準〉として相応しいものだったのである25)。
詩人達が使用するこの種の比喩表現は、パーニニ文法学上の用語とその概
念が彼らの間で常識であったことをよく示している。
4.2.〈正しい語形成〉
古くはバーマハが修辞(alaṃkāra、alaṃkṛti)として言及し26)、その後、
意味であり、継起する意味は継起する言語項目の意味であると」 )
24) Saṃjīvinī on RV 11.56: yathā prakṛtipratyayayoḥ sahaikārthasādhanatvaṃ tadvad atrāpīti
RV 1.1 では「パールヴァティーとシヴァの結合」が「言葉と意味の結合」に比喩されて
いる。
26) KA 1.13–15: rūpakādir alaṃkāras tasyānyair bahudhoditaḥ / na kāntam api nirbhūṣaṃ
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詩論家ヴィディアーナータ(Vidyānātha、13 世紀末から 14 世紀初頭)が
詩的美質(guṇa)と見なした〈正しい語形成〉
(sauśabdya)と呼ばれる美
的要素がある27)。この〈正しい語形成〉と呼ばれる美的要素は、パーニニ
の文法規則に従って正しく派生した名詞形または定動詞形が使用され、か
つ或る一定の条件が満たされた時に認められるものである。
修辞であり、それは他の者達によって多様に生み出されてきた。女性の顔は、たとえ魅
力的であっても、装飾がなければ輝くことはない。他の者達は〈隠喩〉等の修辞は[ 〈美
文〉にとって]外的なものであると主張する。そして彼らは、名詞接辞で終わる項目と
定動詞接辞で終わる項目の[正しい]派生を、表現( 〈美文〉 )を飾る[本質的な]修辞
(alaṃkṛti)として望む。彼らは当該のそれを〈正しい語形成〉と呼ぶ。 [そして彼らは]
意味の派生( 〈意味の修辞〉 )はこのようなもの( 〈美文〉を飾る修辞)ではない[と主張
する] 。しかし、 〈言葉の修辞〉と〈意味の修辞〉が区別されるならば、我々は両者を[ 〈美
文〉を飾る修辞として]認める」 )
KA 1.14d 句で vāc という語が単に「言葉」ではなく、言葉と意味からなる「表現( 〈美
文〉 )」を指示するものとして使用されていることは文脈上明らかである。このことは『ウ
ドヤーナヴリッティ』の説明からも支持される(UV on KA 1.15: na hi śabdamātraṃ vāk
kiṃ tarhi ubhayaṃ śabdaś cārthaś ca / tañ ca naḥ kāvyam) 。バーマハは KA 1.3、KA 2.4、
KA 2.96、KA 5.64、KA 5.69 でも vāc を「表現( 〈美文〉 )」を指示するものとして使用し
ている。
27)
「名詞接辞で終わる
PYBh (328.2): supāṃ *tiṅāṃ ca vyutpattiḥ sauśabdyaṃ parikīrtyate /(
項目と定動詞接辞で終わる項目の[正しい]派生が〈正しい語形成〉と呼ばれる」 )*テ
クストは‘tiṅā’となっているが単なる誤植であろう。
なお、ラージャシェーカラもこの〈正しい語形成〉に言及している。KM (20.4–8):
satatam abhyāsavaśataḥ sukaveḥ vākyaṃ pākam āyāti / kaḥ punar ayaṃ pākaḥ ity ācāryāḥ /
pariṇāmaḥ iti maṅgalaḥ / kaḥ punar ayaṃ pariṇāmaḥ ity ācāryāḥ / supāṃ tiṅāṃ ca śravaḥ
yaiṣā vyutpattiḥ iti maṅgalaḥ / sauśabdyam etat / . . . (
「常に反復練習に励むことで、優れた
詩人の文は成熟する。 【問】 「しかしこの成熟(pāka)とは何か」と学匠達は問う。 【答】
「変化(pariṇāma)のことである」とマンガラは答える。 【問】「しかしこの変化(pariṇāma)
とは何か」と学匠達は問う。 【答】 「名詞接辞で終わる項目と定動詞接辞で終わる項目が
[具体的に]聞こえることが他ならぬ vyutpatti( 「派生」 )であり[、それが変化である] 」
とマンガラは答える。 【反論】 「これは〈正しい語形成〉 (sauśabdya)である」. . .[と学
匠達は言う] 」 )
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ŚV 1.51: purīm (1)avaskanda (2)lunīhi nandanaṃ
(3)muṣāṇa ratnāni (4)harāmarāṅganāḥ /
vigṛhya (5)cakre namucidviṣā vaśī ya
ittham asvāsthyam ahardivaṃ divaḥ //
その力強き者(ラーヴァナ)はインドラ(ナムチの敵)と戦った後、
繰り返し都(アマラーヴァティー)を猛襲し、繰り返しナンダナ園を
切り裂き、繰り返し高級な品々を奪い去り、繰り返し天女達を連れ去
る。このようにして、彼は日々天界を悲惨な状態にした。
下線で示したように、当該詩節では五つもの定動詞形が使用されており、
我々は作者マーガが意図的にそれらを使用していることを容易に見て取る
ことができる。これらの定動詞形には若干の文法学的説明が必要である。
まず(1) avaskanda(
「繰り返し猛襲する」
)、(2) lunīhi(
「繰り返し切り裂
く」
)、(3) muṣāṇa(
「繰り返し奪う」
)、(4) hara(
「繰り返し連れ去る」
)は、
いずれも動詞語根 ava-skand(
「猛襲する」
)、lū(
「切り裂く」
)、muṣ(
「奪
う」
)、hṛ(
「連れ去る」
)の後に命令法接辞 lOṬ が導入され、それに hi が代
置された語形である。lOṬ の導入と hi の代置は次の規則に基づく。
28)
A 6.4.105 ato heḥ //(「短音 a で終わる aṅga に後続する hi にゼロ(luK)が代置される」
)
29)
「
A 3.1.68 kartari śap //(〈行為主体〉を表示する sārvadhātuka が後続する時、動詞語根
の後に ŚaP 接辞が起こる」 )
- 16 -
に後続する hi にゼロが代置された語形であり、(3) muṣāṇa は、A 3.1.81
kryādibhyaḥ śnā によりvikaraṇa であるŚnā 接辞が動詞語根muṣ の後に起こ
A 3.1.83 halaḥ śnaḥ śānaj jhau によりŚnā 全体にŚānaC が代置され31)、
り30)、
ŚānaC に後続する hi にゼロが代置された語形である。一方(2) lunīhi は、同
じく A 3.1.81 kryādibhyaḥ śnā により動詞語根 lū の後に Śnā 接辞が起こり、
A 6.4.113 ī haly aghoḥ により Śnā の ā 音に ī 音が代置された語形である32)。
(2) lunīhi の場合には、hi は短音 a に後続していないので、hi に対するゼロ
代置を規定する A 6.4.105 は適用されない。
そして、上記四つの動詞語根が表示する行為に共通の行為(sāmānya)
を表示するものとして、(5) cakre(kṛ「なす」3rd sg. perfect Ā.)という定
動詞形が使用されている。積み重ねられる行為(samuccīyamānakriyā)と
共通の行為を表示する動詞語根の追加使用(anuprayoga)は、次の規則に
よって規定されている。
『カーシカーヴリッティ』
(Kāśikāvṛtti)中で挙げられる以下の例に基づい
て当該規則を説明しよう。
30)
A 3.1.81 kryādibhyaḥ śnā //( 「〈行為主体〉を表示する sārvadhātuka が後続する時、krī
( 「買う」 )群(第 9 類)の動詞語根の後に Śnā 接辞が起こる」 )
31)
「hi が後続する時、子音に後続する Śnā 接辞全体に
A 3.1.83 halaḥ śnaḥ śānaj jhau //(
ŚānaC が代置される」 )
32)
A 6.4.113 ī haly aghoḥ //(「KIT または ṄIT である、子音で始まる sārvadhātuka が後続
する時、Śnā 接辞で終わる aṅga の最終音と、ghu を除く、ā 音で終わる abhyasta である
aṅga の最終音に ī 音が代置される」 )
- 17 -
【例】この者は繰り返し粥を食べ(bhuṅkṣva)
、繰り返しひき割り大
麦を飲み(piba)
、繰り返し穀物を味わう(svāda)
。この者はまさにこ
のような仕方で食事をしている(abhyavaharati)
。
この例文中で、bhuṅkṣva(
「繰り返し食べる」
)、piba(
「繰り返し飲む」
)、
「繰り返し味わう」
svāda( )は、上述の A 3.4.3 により動詞語根 bhuj(
「食べ
る」
)、pā(
「飲む」
)、svad(
「味わう」
)の後に命令法接辞 lOṬ が導入され
て派生する語である。そして当該の A 3.4.5 に基づき、上記三つの動詞語根
が表示する行為に共通する「食事行為」を表示する動詞語根として、例文
中では abhi-ava に先行される動詞語根 hṛ(abhyavaharati)が追加使用され
ている。
ŚV 1.51 中では、A 3.4.5 に基づき、四つの動詞語根が表示する猛襲行為
等(avaskandanakriyādi)に共通する「なす行為」を表示する動詞語根とし
て(dhātupāṭha VIII 10: ḌUkṛÑ karaṇe)動詞語根 kṛ(cakre)が追加使用さ
れているのである33)。
以上のように、様々な文法規則に従った正しい派生形として、ŚV 1.51
では上記五つの定動詞形が使用されているわけである。
4.2.2. マッリナータの言明
マッリナータは当該の ŚV 1.51 に〈正しい語形成〉を認めている。そし
て注目すべきはその理由である。マッリナータは当該詩節に対する注釈中
で次のように述べている。
33)
なおパタンジャリによれば、動詞語根 kṛ( 「なす」 )、bhū( 「ある」 )
、as(
「ある」)は
行為一般(kriyāsāmānya)を表示する動詞語根であり、動詞語根 pac( 「料理する」)等は
特定の行為(kriyāviśeṣa)を表示する動詞語根である(MBh on A 3.3.18 [II.144.20–21]: atha
。
vā kṛbhvastayaḥ kriyāsāmānyavācinaḥ kriyāviśeṣavācinaḥ pacādayaḥ)
- 18 -
には〈正しい語形成〉と呼ばれる詩的美質が存する。
「名詞接辞で終わ
る項目[または]定動詞接辞で終わる項目が転換することが〈正しい
語形成〉である」という定義に基づいて34)。
マッリナータによれば、
定動詞形が単に一つや二つ使用されるだけでは
「定
」は認められない35)。それが認
動詞接辞で終わる項目の〈正しい語形成〉
められるのは、多種多様な複数の定動詞形が詩節中で使用される時のみで
ある(tiṅvaicitryāt)
。
続いてマッリナータは、自身の説明の根拠として〈正しい語形成〉の定
義を引用している。この引用の典拠は不明であるが、その定義に従えば、
詩節中で定動詞接辞で終わる項目が次から次へと転換する(parāvṛtti)時、
「定動詞接辞で終わる項目の〈正しい語形成〉
」が認められることになる。
詩節中で定動詞接辞で終わる項目が次から次へと転換するとは、端的に言
えば、それぞれ語形の異なる多数の定動詞形が詩節中で使用されるという
ことである。マッリナータが述べるように、当然そのような詩節には定動
詞接辞で終わる項目の多様性(tiṅvaicitrya)が認められることになる。上
に見た ŚV 1.51 がこの条件を満たしていることは明らかであろう。ŚV 1.51
では(1) avaskanda(
「繰り返し猛襲する」
)から(2) lunīhi(
「繰り返し切り裂
く」
)へ、(2) lunīhi から(3) muṣāṇa(
「繰り返し奪う」
)へというように、語
34)
sauśabdya と sauśabda はいずれも bhāvapratyaya で終わる語であるから、語形は違えど
その意味に違いはない。
35)
マッリナータは〈正しい語形成〉に「名詞接辞で終わる項目の〈正しい語形成〉 」と
「定動詞接辞で終わる項目の 〈正しい語形成〉 」
の二種を認めている。 Sarvapathīnā on BhK
14.1: iha sauśabdyaṃ nāma kāvyaśobhākaro guṇaḥ / sa ca supāṃ tiṅāṃ ca vyutpattiḥ
sauśabdyaṃ parikīrtitam iti dvividha uktaḥ(
/「我々の見解では、 〈正しい語形成〉 (sauśabdya)
と呼ばれるものは、 〈美文〉に輝きをもたらす詩的美質である。そしてその[ 〈正しい語
形成〉と呼ばれる詩的美質]は「 〈正しい語形成〉とは、名詞接辞で終わる項目または定
動詞接辞で終わる項目の[正しい]派生であると言われる」というように二種述べられ
ている」 )
「名詞接辞で終わる項目の〈正しい語形成〉 」と「定動詞接辞で終わる項目の〈正しい
語形成〉 」のうち、マッリナータが当該の ŚV 1.51 に認めているのが後者であることは先
に引用した彼の説明から明らかである。
- 19 -
形の異なる定動詞形が次々に起こっている。もちろん「定動詞接辞で終わ
る項目の〈正しい語形成〉
」が認められるためには、詩節で使用される定動
詞形が文法規則に従って正しく派生したものであることが大前提である。
このように、
〈正しい語形成〉は、まさにパーニニ文法学の知識を最大限
に発揮して構成された詩節に見出されるものである。この美的要素が詩論
家や注釈家達によって認められ、実際に詩人マーガが ŚV 1.51 のような詩
節を残しているという事実は、文法学の知識を十二分に活かした表現の使
用を詩人達が詩的技巧の一つと見なしていたことを示している。
5. まとめと今後の課題
パーニニ文法学はあらゆる学問の根幹に位置付けられるべき最高の学問
であり、
サンスクリットに携わる全ての者が学ぶべき最重要の学問である。
鑑賞者達を感動させる〈美文〉の創作に人生を捧げた詩人達もその例外で
はない。言葉と意味の芸術である〈美文〉の創作にとって、パーニニ文法
学の知識が必要不可欠でかつ最も重要なものと見なされていたことは各詩
論書中の記述から明らかであり、実際に詩人達が文法学を深く学んでいた
ことは、彼らがなす文法用語を使った比喩表現や文法学の知識を遺憾なく
発揮して構成された詩節等から見て取ることができる。
しかし、詩人達が作品中で常にパーニニ文法に従った表現を使用してい
るかと言えば、決してそうではない。周知のように、詩聖カーリダーサを
はじめとして、実に多くの詩人達がパーニニ文法に反する表現を作品中で
しばしば使用しているのである。我々はそのような事態を一体どのように
説明すればよいであろうか。詩人達は意図的にパーニニ文法に反する表現
を使用しているのか、それとも単に間違えてしまっただけなのか。最重要
の学問とされ、絶対にそれに反してはならないとされたパーニニ文法を、
サンスクリット詩人達はどのようなものとして捉えていたのか。パーニニ
文法学の知識は、彼らにとって作品を飾り立てるための一要素に過ぎな
かったのか。これらの問題に対する考察は今後の課題としたい。
- 20 -
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