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1はじめに

いまの教科書をみて前九年・後三年合戦は国家に逆らう東北の豪族を源氏がうつことで、東
日本での支配力を源氏が強めたということがかかれ、うたれた豪族である清原・阿部氏は引
き立て役とされた(入間田宣夫 坂井秀弥 前九年・後三年合戦:11世紀の城と館p1
高志書院 2011)しかしその説が正しいのかということに関して研究している方がお
り、前九年・後三年合戦の真実について考えそれとともに、その争いの後に栄えることにな
る。都市平泉についても書こうと思う。

2本論
前九年合戦で頼義によって攻め滅ぼされた安部氏とは何者なのかについて考える。
どのような出自、どのような方法で勢力を伸ばしていったかについてだが、国司など中央政
府から派遣された官人が地元の有権者の娘などと結婚してそのままその地域に根付いてい
き、安部氏という強力な豪族を輩出したと考えられている。
(同書p10)更に言及した書
物では様々な説が考えられている。①在地族長の発展した形態とみなす説②安部氏を蝦夷
反乱や北方貿易に対応するために中央権力によって登用された存在という説である。
(樋口
知志 前九年・後三年合戦 高志書院 2011)①の説としてあげられるのは全て話記が出
典となっており、話記は源氏側に有利に書かれていることが多くその信頼性について疑問
が残されているため、正しい説としないと考えられる。なので、安部氏は中央政府から送ら
れた官人が現地の豪族と結びつき発展した形だと考えられる。先述した通り地方の有力豪
族へと成りあがった安部氏であるがなぜ、源氏によって滅ぼされるという末路をたどって
しまったのか考える。従来の考えでは安部氏は悪人で中央政府に牙をむいたということが
いわれているがそんなことはなく、当時の朝廷ではそれまで東北を治めてきてしっかりと
した統治を行ってきた、安部氏に対して攻撃するのはあまり賛成的ではなかったとする朝
廷内部での意見もあったとされる。
(前九年・後三年合戦:11 世紀の城と館p33)しかし
黄海の戦いで安部氏が源氏軍に対して圧勝したことで朝廷側から完全なる反逆者ととらえ
られてしまった。(同書p33)そして安部氏の敗北が決定亭となった出来事は安部氏と並
ぶ東北の豪族であった清原氏の参戦である。清原氏が一万の軍をよこした時点で安部氏の
敗北は決定的なものとなった。
(細井計 伊藤博幸 菅野文夫 岩手県の歴史 山川出版社
1999)しかし、東北の豪族の間には源氏によって強制的に悪者にしたてあげられた安部氏
に対する同情の声もあり、頼義を孤立させる“頼義包囲網が形成された。
(前九年・後三年合
戦と奥州藤原氏p215)そんな中姻戚関係にあった安部氏へなぜ清原氏が攻めたのかという
ことである。前九年合戦の火種になったともいえる貞任が関係していたのではないかと考
えらえている。源氏によってうたれた頼時の息子のなかで一番次期当主にふさわしかった
のは宗任であったが、この戦いで源氏に因縁をふっかけられてその上に頼義を退けたとな
れば安部氏内での評価は上がるものとなり、そうしたら安部氏の次期当主は清原氏と関係
の薄い貞任になってしまうかもしれない。そのことを避けるために、今まで軍隊を送ること
渋っていた清原氏が参戦して後の東北の利権争いを有利に進めたいという目論見があった
のではないかという意見がある。その結果として安部氏は源氏軍の前に敗北して一族が崩
壊するという結末を迎えたのではないかと考えられる。
前九年合戦に関する議論はここで終わりとして、次に後三年合戦について考える。後三年
合戦は現在も明らかになっていない点が数多くある。後三年合戦は清原氏の内紛であった
とされる。その前後関係として、清原氏の出自について触れる清原氏は先述した安部氏と同
じように、中央政府から任命されて派遣された役人が現地豪族とむすびついて発展したと
考えられている。そして清原氏の内紛についてだが当時の清原氏の当主である光頼と弟の
武則についてだが、武則は前九年合戦で清原氏の軍隊を率いて安部氏を滅ぼし、兄を超える
役職についていた。武則の孫である真衡は息子が生まれず源頼義の娘を嫁がせて権力を握
ろうとしていた。藤原氏などと使った方法と同じであったが時代が早すぎたため一族から
受け入れられなかった。真衡に強く反発していた清衡と家衡兄弟が義家の介入などもあり
兄弟で対立していくこととなる。武衡が家衡川につき義家が清衡側について戦いがはじま
っていく。当時武衡は東北豪族の中で一目おかれる存在でありなぜ家衡側についたことは
いまも疑問視されることである。
(前九年・後三年合戦:11 世紀の城と館)研究者の間でも
意見がはっきりしていないことではあるが自分の考えた意見としては、武衡は兄である武
貞とは兄弟でありその兄一族が絶大な権力を持っていたため、今武衡が表舞台にでていっ
て権力を掌握することになったとしても、武貞の部下など武貞側からの反発が大きくなる
ことは予測できたため高齢な武衡は家衡を使い自分か権力を手にして、自分が死んだ後は
家衡が権力を握るという利害関係が一致したためこのような勢力図で後三年合戦が勃発す
ることになったのではないかと考えた。結局後三年合戦は義家・清衡陣営の勝利で幕を閉じ
たが、清衡としては戦いよりも戦後の後処理が問題であった。戦前までは後三年合戦の研究
などがあまりなされておらず、義家陣営の独り勝ちと思われていたが、清衡は朝廷からした
ら東北を荒野へと追い払った危険な人物であり、一族も自分の手で滅ぼしてしまったこと
で頼れる先もなく、さらには自分が利権を手にしたとしても東北は荒んだ土地になってし
まっているため復興する必要もある。罪のない人々を死に追いやり、その上に一族も崩壊し
てしまったことへの罪悪感で仏教と向き合うようになり、そのあとの平泉の文化形成にお
ける一部となっている。その証拠として家衡の命日でもある日に関白に馬を送り、一族の関
係修復と再発展に対して動いていた。
後三年合戦のことはここまでとして平泉のその後について書く。

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