6 【テキスト】近世の災害1

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歴史 第6講 近世の災害(1)

1,慶長年間の地震と津波
2,元禄関東地震と宝永東海・南海地震
3,宝永の富士山噴火

1,慶長年間の地震と津波

1)慶長伏見地震(1596)
文禄 5 年(1596)閏(うるう)7 月 13 日、内陸型の大地震が近畿地方を中心として起こり
ました。この年は、明治以前に使用されていた太陰太陽暦の特色である月日と季節の推移の
ずれを調整するために閏月を入れる年で、月が 13 か月あり、7 月の次に閏月を入れて 7 月
が二度来たので、二度目の 7 月を閏 7 月と呼びました。地震後の 10 月 27 日に文禄から慶
長に改元され、一般には慶長伏見地震と呼ばれていますが、豊臣秀吉が太閤となってから居
城に定めた伏見城(京都市伏見区)を崩壊させたことにちなんでいます。
当時秀吉は、朝鮮半島に大軍を送り込み、文禄の役と呼ばれる征服戦争を展開していまし
た。しかし明・朝鮮の反撃や民衆の激しい抵抗により戦線は膠着状態に陥り、前線の小西行
長や中央政権を支えていた石田三成らは明との講和を模索しておりました。一方、同じく前
線に出ていた加藤清正は異を唱えて諸将の間に対立が生じ、行長と三成が秀吉に清正の朝
鮮での行状を批判すると、秀吉は清正を呼び戻して伏見の私邸での謹慎を命じました。やが
て講和交渉が進んで明・朝鮮の使節が来日することになり、秀吉は伏見城でこれを迎える予
定でありました。そこへ地震が襲ったのです。天守が崩れた伏見城では殿舎の下敷きになっ
た女房衆など多くの死者が出、徳川家康をはじめとする諸大名の屋敷でも犠牲者を伴う被
害が相次ぎました。伏見の城下町は低地にありましたのでほとんどが壊滅状態です。そのよ
うな混乱の中を清正は秀吉の護衛のために駆け付け、これを喜んだ秀吉により謹慎を解か
れています。
地震の被害は京都市中でも大きく、東寺・天龍寺・大覚寺・二尊院などの寺院では多くの
堂舎や門が倒壊しました。京都盆地の西部で桂川・宇治川・木津川の合流地点に位置した山
崎や八幡は壊滅状態、大坂では台地上の固い地盤の上にある大坂城の被害は軽かったが軟
弱地盤の低地にある町屋の被害が顕著でした。現在の神戸市の中心にあたる兵庫では、市中
の人家が倒壊したところに大火が発生しています。また、淡路島の地中からはこのとき激し
い揺れに見舞われたことを示す砂脈―地中の砂礫層(砂と小石から成る地層)の液状化が生
じていたことを意味する―が見つかっています。丹波亀山城(京都府亀岡市)や大和郡山城
(奈良県大和郡山市)も破損しており、京阪神地域一帯が被災したことがわかりますが、四

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国東部・阿波国の撫養(むや、徳島県鳴門市)で地震による地盤の隆起が起こっていること
がわかっており、地震の影響は四国にまで及んでいました。
1995 年の阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)以降、全国では内陸型地震を引き起こす
活断層の調査が行われていますが、伏見地震は、京都盆地南西部から大阪平野北縁を通り、
淡路島に至る長さ 80 ㎞の範囲にある多くの活断層が一斉に活動したものと考えられていま
す。内陸地震としては最大級のマグニチュード 8.0 近い大型地震と考えられます。一方、西
南日本を南北に分断する巨大な地質境界があり、
「中央構造線」と呼ばれています。この線
に沿って横ずれを主体とする断層活動が繰り返されたのですが、特に四国の中央を東西に
横切る断層帯は、16 世紀頃に活動したことがわかりました。実は伏見地震の 4 日前に現在
の大分県別府湾を震源とする地震が起きていて津波を含む大きな被害が出ているのですが、
この二つの地震の間に四国の中央構造線断層帯も活動した可能性が高いとされています。
この場合、九州北部から近畿西部にかけて、大きな断層がドミノ倒しのように次々と活動し
たことになります。
ところで、予定されていた明・朝鮮使節と秀吉との会見は、伏見地震のために大坂城に場
を移して 9 月初めに行われました。結局講和条件は折り合わず、秀吉は再び朝鮮半島へ武
将たちを派兵します。慶長の役です。しかし戦況は芳しくなく、朝鮮南部の戦線を維持する
のが精一杯でした。その一方で秀吉は木津川の河川段丘上にあった伏見城を木幡山に移し
て城と城下町を再建しますが、二年後そこで世を去ります。政権を預かった徳川家康は秀吉
の遺命として朝鮮からの撤兵を諸将に命じました。しかし戦争中に深まった彼らの間の亀
裂は回復されることがなく、やがてその内紛は関ヶ原の戦いとなって火を噴きます。毛利輝
元や宇喜多秀家と結んだ三成・行長らは、東北の上杉景勝征討に出ていた家康が留守部隊を
残した伏見城を攻撃し、落城させます。やがて毛利・宇喜田や三成らに勝利した家康は伏見
城を修復し、江戸幕府を開いた後も 20 年余り、幕府の城として機能します。伏見の町は廃
城後も京都南郊における商業・流通都市として、江戸時代を通じて栄えました。

2)慶長東海・南海地震(1605)
徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸幕府が開かれて2年後の慶長 9 年 12 月 16 日夜、
太平洋沿岸の広い範囲が津波に襲われました。浜名湖周辺では橋本宿の人家の八割方が波
にのまれ、四国東海岸の阿波国宍喰浦の被害が記録されています。また津波は土佐国も襲い
ました。しかし京都では大きな揺れは感じられておらず、南海トラフから東海地震と南海地
震が同時に発生したようですが、地震規模はいずれマグニチュード 7.9 程度で、揺れが小さ
くて津波だけが押し寄せる「津波地震」だった可能性が高いと考えられています。

3)慶長陸奥地震(1611)
慶長 16 年 10 月 28 日、東北地方太平洋沿岸に津波被害を与えた地震が起こりました。範
囲は現在の北海道から福島県に及び、津波による死亡者は、伊達政宗の仙台藩では 1,783 人、

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相馬中村藩(福島県相馬市)では沿岸で 700 人を数えました。調査では宮城県岩沼市でこ
の津波の可能性がある津波堆積物が見つかっています。津波の高さは、岩手県宮古市の田老
や大船渡市では最高 20m と推定されています。地震による被害はほとんどなく、あとの津
波による被害が大きかったようです。
ところで、この地震津波には、スペインが日本に派遣した使節で探検家でもあるセバスチ
ャン・ビスカイノが遭遇しています。彼の来日は、慶長 14 年に前フィリピン総督のドン・
ロドリゴ一行が、帰国のためにメキシコ南部のアカプルコへ向けて航海中、台風に遭遇した
ことに起因しています。ロドリゴらの船は上総国の海岸に漂着し、現地の人々に救助されて
無事アカプルコに帰ることができました。そのことへの答礼使としてビスカイノはサンフ
ランシスコ二世号で来日したのですが、それは建前で、実際はヨーロッパの鉱山技術に興味
があった家康の要請によるものであったとも言います。また、スペイン側も日本の金銀に興
味がありその調査をもくろんでいたとする説があります。この年 6 月に浦賀に入港したビ
スカイノは江戸城で将軍徳川秀忠に謁見し、8 月に駿府(静岡市)で大御所の家康に謁見し
ましたが、技術交流や通商を望んでいた日本側に対しスペイン側は前提条件としてキリス
ト教の布教を持ち出したため、話し合いは物別れに終わりました。それでも沿岸の測量につ
いては許可を得ることができたので、ビスカイノは 10 月 8 日に仙台に着き、10 日に政宗に
謁見、27 日から測量を始めました。そして現在の大船渡市沖を航海中に、この地震の津波
に見舞われます。海上にいたため船は大きく揺れたものの実害はほとんどありませんでし
た。こののちビスカイノは南下し、九州沿岸の測量も実施しています。このような測量の実
施も手伝って、やがて日本列島はヨーロッパの世界地図の上に具体的な姿を現すことにな
りました。

2,元禄関東地震と宝永東海・南海地震

1)元禄関東地震(1703)
元禄 16 年 11 月 23 日、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件から一年が経とうとする頃、南関
東を大地震が襲いました。江戸在住の幕臣の記録によれば、市中の方々で地割れが生じて砂
又は泥水を吹き出し、石垣は崩れ、塀は壊れ、蔵は潰れ、穴蔵は揺り上げられ、死人けが人
が一時にできて、老若男女の泣き叫ぶ声が大風のように鳴り渡ったと言います。この地震は
相模トラフのプレート境界地震とされ、マグニチュード 7.9~8.0 の津波を伴い、関東平野
を中心に約 1 万人の死者を出しました。1923 年の大正関東地震(関東大震災)と同様な地
震とされますが、元禄地震で被害が大きかったのは房総半島でした。次いで被害が集中的に
発生したのは相模湾沿いの小田原城下で、城は倒壊・炎上、城下の大半が焼失しています。
房総半島では沿岸の漁村で 6,000 人近い死者が出ましたが、その被害は地域によって様
相が異なります。地震の揺れによる被害は、房総半島南端部が隆起した館山沿岸での被害よ

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りもその内陸部で家屋の倒壊が著しく、逆に九十九里の海岸地域では家屋倒壊の記録はあ
りませんが死者は圧倒的多数に上ったと言います。このことは、九十九里の海岸では津波に
よって家が流され、それによる死者が多く出たことを示しています。九十九里の沿岸部には
今も元禄地震による死者供養碑が各地に残されており、千人塚・百人塚などと呼ばれていま
すが、津波に流された人々の遺体が流れ着いたところだとも伝えられています。
相模国では、東海道沿道のほとんどの宿場で人家は倒壊、また火災が発生したところでは
宿場の旅宿は焼き尽くされてしまいました。相模湾岸の被害は揺れによる家屋倒潰と人々
の圧死、火災発生に伴う焼失など深刻でした。津波は鎌倉・大磯・伊豆半島東岸の被害が知
られていますが、鎌倉や片瀬・腰越の海岸は津波により 200 艘の漁船が流され、鶴岡八幡
宮の二の鳥居(現在の鎌倉駅周辺)や材木座海岸の光明寺楼門まで達しました。鎌倉を出入
りするための七か所の切通しが揺れですべて崩落して通行困難となり、鶴岡八幡宮・円覚寺
などの主要な社寺が倒壊、長谷の大仏は前方の石段が崩れて 90 ㎝ほど傾いたと言います。
大磯でも漁村の損傷が甚だしく、熱海では人家 500 軒のうち津波により 10 軒しか残らなか
ったと記録されています。
この地震で、都市部で最も被害が深刻だったのは小田原でした。震源に近いために揺れの
被害も大きかったのですが、火災が発生して城下の大半が焼失、城下だけで 845 人の死者
が出ています。武家に限っても、藩士たちの約半数の家が全潰、あるいは焼失しています。
揺れはおそらく震度7に匹敵したようで、死者の多くは圧死と考えられますが、津波の被害
はさほど大きくなかったようです。ちなみに、小田原城は地震直後に天守・本丸御殿・二の
丸屋形が崩れ始め、石垣・門・櫓なども倒壊して、ほぼ同時に出火しました。この被災状況
に対して小田原藩(大久保家)が講じた対策が残されています。藩主忠増は 12 月 6 日に江
戸から小田原に帰り、直ちに被害地の実地検分を行いました。そして幕府から 15,000 両の
災害復旧貸付金を得て、次の七項目の対策に取り組んでいます。
① 城門内に仮設の寄合所を設置して災害対策本部とし、11 月 24 日から始動。
② 城内各所に治安確保のための番所を置く。
③ 大釜五つを城の箱根口に据え、7 日間の炊き出しを行う。
④ 奉行に命じて巨木や岩石で通行不可の道を整備する。
⑤ 幕府からの貸付金を利用して東海道筋や箱根の宿駅を整備する。
⑥ 藩士たちの被害に対して総計 7,500 両の救済を行う。
⑦ 村々の馬の大量死による助郷(伝馬制維持のために近隣の宿駅に馬を供出したり経
費を負担したりすること)の緩和策として 100 両の貸し付けを行うとともに、津波
などの被害を受けた伊豆における藩領の民衆に緊急の食糧 600 俵を貸し付ける。
江戸の市中の被害はどうだったのでしょうか。元禄地震の震源域は相模湾から房総半島
沖にかけての範囲と推定されており、東京湾の奥にある江戸については、地震・津波の被害
は大きくはなかったようです。江戸市中の被害記録は多くなく、町屋が町奉行に対して届け
出た被害届は 39 件で、その死者 40 人の内訳は使用人が土蔵に打たれたような例が主でし

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た。武家屋敷については、地震で被害の出た大名 36 例、旗本屋敷 44 例の記録が残ってい
ます。火災の発生は 1 件しか確認されていません。家屋の倒壊や死者の規模に関する噂話
は乱れ飛びましたが、実際のところはわかりません。江戸の最大震度は6強程度と推定され
ますが、本所や深川など、のちの関東大震災で被害が大きかった隅田川東岸(江東)地域の
被害状況が全く分かりません。市中人口の増大のために開発対象となったことで新たに武
家屋敷や町屋が進出するようになったこの地域―赤穂浪士が討ち入った吉良邸は本所松坂
町にありました―が町奉行支配に置かれるのは 10 年後の正徳年間以降で、低地で水害の頻
度も高く、地盤の弱い地であったため、元禄地震当時は人々が率先して住み着こうとする地
域ではありませんでした。また、地震発生をはさむ 11 月 18 日と 29 日には町屋や大名屋敷
が火元の大火が起きており、地震の被害が霞んでしまったこともあるかもしれません。
江戸で注目したいのは江戸城の修復工事です。地震で崩れた石垣の記録は多く、幕府は石
垣修復に二十三家の大名を動員して御手伝普請(おてつだいぶしん)で修復させました。地震
で被害を受けた江戸城の大名手伝普請による大規模な修復は初めてでしたが、その歴史的
意義は、災害に際して幕府自身が被害現地に復興資金を出すのではなく、災害現場とは離れ
た領地の大名に人足と資金を出させて復旧させることです。しかし普請に必要な資材は幕
府が提供するので、幕府の出費も少なくはありません。普請役を担う大名を助役と言い、修
復箇所の被害規模に応じて石高を基準とした助役大名が指名され、次の要領で任務を遂行
します。
① 助役大名は、指定された普請場で修築すべき対象の構造物を予め撤去しておく。
② 助役大名は、幕府支給の石材で、国元から調達した足軽・人足、あるいは江戸の日
雇人足を使役して、指定された普請場の石垣を修築する。
③ 助役大名は、指定された普請場での櫓や門などの再構築に必要な材木を幕府の材木
蔵で調達し、普請場近くまで幕府提供の舟を利用して自前で運搬する。
④ 幕府の作事奉行などの指示のもとに、幕府が派遣した職人が普請場の櫓や門などを
再構築する。
⑤ 助役大名方で幕府派遣の職人が担当した作業に関する経費を算出・集計して幕府作
事方の査定を受け、それに基づき幕府から職人に報酬を支払う。
⑥ ⑤の費用および幕府が助役大名に提供した資材を除く費用は、助役大名が支払う。
要するに、石垣構築以外の作事方を除く一切の雑用は全て助役大名が担うのです。そのう
え、ここには家臣や国元から徴用した足軽・人足、担当の家臣への手当ては挙がっていませ
ん。これらを合算すれば、大名家の普請金総額は相当な多額に上るでしょう。それぞれの助
役大名は負担する莫大な経費の調達に頭を悩ませ、金策に苦労していたのです。
個々の大名にとっては重い負担となりましたが、江戸城の修復に投入された多額の資金
の相当部分は、作業の労働力を調達した請負町人に支払われました。幕府が調達した普請用
の資材は、関東周辺の代官所から集められて江戸に搬入されました。こうした物流を活性化
させる作用がこの手伝普請にあったことも事実です。それは災害被災地の雇用を促す効果

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があったでしょう。大名手伝普請はこの時代の封建的強制により成り立つ災害復旧・復興策
でもありました。この背景には、普請に雇用される人足労働の需要に応じる市場が成立して
いなければなりません。この時期、遠方の大名が災害地での普請人足を調達できたのは、そ
れが成立していたからです。江戸幕府成立(徳川家康の征夷大将軍就任)からちょうど百年、
江戸と関東は経済・産業面においても着実に発展しておりました。

2)宝永東海・南海地震(1707)
宝永 4 年 10 月4日、南海トラフのほぼ全域でプレートが一気に破壊され、東海地震と南
海地震が同時に発生しました。マグニチュード 8.6 と推定される巨大地震です。四年前の元
禄地震の被害範囲とは異なり、伊豆半島から西日本の太平洋沿岸地域に被害が広がりまし
た。津波襲来によって多くの人命が失われた四国の太平洋沿岸や紀伊半島の沿岸部、九州の
豊後水道沿岸部などで激甚な被害を蒙りました。また、内陸部の中央構造線や糸魚川-静岡
構造線(フォッサマグナ)に沿った地盤の複雑な組成を持つ地帯においても、地震の揺れに
よる家屋の倒壊、あるいは山崩れによる河川の閉塞とその後の決壊による家屋や田畠の流
失など、極めて多様な被害が生じました。
太平洋に面した浜松城下では、全壊 71 軒、半壊 28 軒、大破 52 軒、小破 48 軒という被
害を受け、藩は御救米 1,374 俵で救済に当たりました。明応東海地震で浜名湖と海がつなが
った今切は渡し船が被害を受けて通行不能となりました。東海道筋の要衝である新居関所
を抱える同地の新居宿では人家の 40%余りが潰れたり流失したりして、町と関所は震災後
に現在の位置に移転しました。浜名湖周辺の被害は津波によるものだけではなく、北岸では
地盤が沈降して耕地が水没し、半世紀後でも回復していない地域がありました。
四国では、高知城下の被害が、流失 11,170 軒、全壊 1,742 軒、死者 1,844 人を数えまし
た。太平洋沿岸の浦に立地した集落は多くが津波に流されてしまいました。伊予国(現在の
愛媛県)の道後温泉では、湯が 145 日間も出なくなりました。讃岐国(現在の香川県)で
は、瀬戸内海に面して屋島の東に並ぶ五剣山の東端の峰が大音響とともに崩れ落ち、四つの
峰に分かれてしまいました。
大阪平野、特に南部では大きな被害が出ました。ある村の庄屋の記録によれば、各地の寺
院が崩壊したことや、ほとんどの村では被害を受けなかった家はなく崩れた家は数知れな
いこと、堺でも 381 軒の人家が崩れたことなどが、詳しく書かれています。しかし被害は
それだけに留まらず、大阪湾にも津波が押し寄せて大坂の町(大坂三郷)を破壊しました。
町の推定人口は 364,000 人ほどですが、被害世帯 3,537、被害家屋 653 軒、圧死 5,351 人、
溺死 16,371 人以上と考えられています。
またある尾張藩士の日記によると、名古屋では武家屋敷の塀の 7,8 割が崩れて市中や周
辺で地盤沈下が見られ、重臣の屋敷が立ち並ぶ城内三の丸では火事が起きました。紀伊半島
の尾鷲では津波で人家 1,000 軒余りが流されて住民が全滅したほか、伊勢湾岸の四日市に
も津波が押し寄せて 530 軒が流失したことなどが記されています。

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幕府はどう対応したのでしょうか。この地震が発生して八日後の 10 月 12 日、目付 2 名
が大坂までの被害状況調査に出張しており、その報告を受けて、幕府は 12 月 1 日に信濃松
代藩真田家・出羽鶴岡藩酒井家・越後村上藩本多家の三大名に手伝普請による東海道筋の修
復を命じました。ただしそれは被害の出た全ての宿場を修復するというわけではなく、幕府
領の宿場および路橋を修復するのです。幕府の首長である将軍は諸大名の主君ではありま
すが、大名領はいわば自治領であって、領民の保護と統治は領主たる大名の責任においてな
されるべきものでした。したがって元禄地震の際の小田原藩のように、幕府が諸藩に貸付金
を下す場合はありますが、地震の被害箇所はそれぞれの領主が修復するのです。
幕府が三藩に命じた東海道筋の手伝普請は、元禄地震の際の江戸城修復とは異なり、普請
実務を幕府指定の請負町人に任せるものでした。つまり、担当諸藩は普請金と普請現場およ
び資材の管理運営を負担し、普請作業自体は業者委託だったのです。このやり方は三年前の
宝永元年に起きた利根川筋の水害―北は下総古河から南は浅草や江東地域まで―を受けた
利根川堤修復の手伝普請の際に初めて実施された方法でした。ただし、上で述べた新居宿と
新居関所の移転に伴う普請については、前者を領主の三河吉田藩(現在の豊橋市)が担当し、
後者は幕府が管理することになったことから村上藩が担当しています。

3,宝永の富士山噴火

1)宝永の富士山噴火(1707)
東海地震と南海地震が同時に発生してからおよそ一か月後の宝永 4 年 11 月 23 日、富士
山が噴火しました。噴火の予兆は元禄関東地震の時に既にあったようです。ある僧侶の記録
によれば、元禄 16 年(1703)12 月 29 日に富士山が鳴り、翌年の年始にはだいぶ鳴り、そ
の後地震は少しになっていき、2 月 5 日までに地震が止みました。これが地震の予兆である
と考えられています。噴火の 15、6 日前から富士山東麓では鳴動が毎日のように感じられ、
さらに噴火前日には北東麓で群発地震が発生して夜に入ると大きい地震になりました。こ
れらの現象は地下でのマグマや水蒸気の上昇の様子を伝える前兆と考えられます。本格的
な噴火が始まるのは 23 日の朝、午前 10 時頃から正午頃でした。山頂から南東方向に下っ
た辺りから噴煙が昇りました。その後、五日間にわたって激しい噴出が続き、東麓の村々は
闇夜の状態が続きました。赤い高熱の火山噴出物が降り注ぎ、須走村の 75 軒の人家を壊滅
させ周辺の村々は埋もれてしまいました。まもなく江戸市中に雪のように白い灰が降り始
め、半月ほど降り続きました。
噴火は関東平野一円に影響を及ぼしました。現在の茨城県笠間市で火山灰が約 3 ㎝降り
積もっていたこと、また同県石岡市辺りでは噴火による灰のために朝も暗く、明かりをとも
して朝食をとらなければならなかったこと、栃木県茂木町でも火山灰が降り、富士山が太鼓
のように鳴って稲光が走っていたことが見えたことなどが伝わっています。また、西では遠

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く名古屋市内からも富士が焼ける様子がよく見えたことが記録に残っています。もっとも、
火山灰が降ったと一般には言われますが、実際に降ったものとして確認できるのは大量の
砂です。富士山の降灰(砂)分布図は下記の web サイトに掲載されていますが、降砂地域
は偏西風の影響により富士山よりも東側の地域で、噴火口からの距離により降砂の層に差
が生じていることがわかります。田畑の上に積もった砂を処理して耕地を回復するため、農
民たちは「うなへかえし」
(天地返し)という方法を用いました。それは降砂を埋めてその
上に土を置いて耕作面を確保する方法ですが、膨大な労力を要したことが推定でき、耕地回
復は降砂地域全体に及ぶ大土木工事でありました。

【富士山大噴火から 311 年】
「宝永噴火」がいま発生したら?(ウェザーニュース)
https://weathernews.jp/s/topics/201812/120105/

この噴火および降砂の被害が最も大きかったのは、元禄関東地震で大損害を蒙ったばか
りの小田原藩でした。城下の復旧が成らないうちに、富士山噴火によって、小田原藩の相模
国の城付(しろつけ)領 153 カ村 48,144 石と駿河国駿東郡 70 カ村 12,317 石のほとんどが降
砂によって覆われる被害を受けました。藩主大久保忠増は幕府の老中になっており、国元か
らの被害報告が 12 月 8 日頃に江戸に届きますと、折り返し検分の役人が派遣されました。
被害を受けた農民たちは砂除けの救済措置を期待して被害面積と除去作業に必要な人足数
を算出して報告しましたが、役人は自力復興を促したため、農民たちは救済を求める嘆願書
を江戸へ帰る役人に突きつけました。さらに、年を越すと農民たちは幕府に訴え出るのもや
むなしとする行動を起こしたので、小田原藩は 2 万俵の救米、砂除金 27,000 両の支給を準
備すると発表しました。しかし、これが実行される前に藩領の降砂の荒れ地が幕府に上地さ
れ、幕領に組み込まれることになります。
では幕府の対応を見てみましょう。例のない災害の被害に驚いた幕府は 11 月末に被害検
分の役人を派遣して報告を受けておりました。幕府への出訴もいとわない農民の動きを踏
まえ、勘定奉行は村々が自力で砂除けをするように申渡書を出して自力復旧を促しました
が、一方で前例のない小田原藩への救済策を講じました。それは、藩領の約半分に当たる
56,384 石分の被災地を幕領として上地させたうえで、よそでその分の替地を与えるという
ものでした。さらに、幕府はやはり前例のない、
「諸国高役金(たかやくきん)」の指令を幕領・
私領を問わず、全国に出しました。それは、武蔵・相模・駿河の三か国にわたる噴火降砂被
害の救済のため、寺社を除く全国の領主に対して「100 石に対して 2 両」の割合で上納を命
じたものです。これによって宝永 5 年の 6 月までに金 488,770 両(100 石=2両で換算す
ると 2,443 万石相当)が集まりました。幕領・私領を含む全国の石高は 2,587 万石余なの
で、除外された寺社領などの分を考慮すると、納入率はほぼ 100%になります。もっとも実
際に砂除けに使用されたのはこの 13%にも満たないので、この法令は砂除け救済を名目と
した幕府財政の補填策の疑いがありますが、砂除けの費用は、①旧小田原藩領の上地分村々

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への救済、②駿河・甲斐を結ぶ交通の要衝である須走村への特別復旧資金、③小田原平野の
中央を流れる酒匂川の大口堰の決壊修復工事関連、以上に使用されました。最も救済・復旧
に資金を投じたのは③で岡山藩(池田家)をはじめとする十藩が動員され、利根川や宝永地
震のときと同様に普請金や現場の管理運営を大名が負担する手伝普請方式で行われました。
ところで、宝永噴火に先行する二つの巨大地震では、大名手伝普請による被災地の復旧は
確認できますが、幕府が直接救済に乗り出した事実は確認できません。むしろ、大名手伝普
請による被害地への投資が一種の被災者救済と見なされていたようです。しかし宝永噴火
では、被災地の幕領への組み入れや全国への高役の課金など、新しい政策が展開されました。
それには次のような事情があると考えられています。
まず被災地の幕領への組み入れについて。元禄地震・宝永地震・富士山噴火という大災害
の続発は、幕府にとって前代未聞のことでした。先行する二つの地震災害では領主を超えて
幕府に直接救済を求める農民の集団的訴願は見られなかったのですが、噴火災害では、噴火
堆積物により川筋が一変した酒匂川の洪水などの大規模な二次災害が発生したり、降砂の
範囲が広すぎてその除去が村の負担に耐えかねるほどだったりしたことから、被災地農民
の騒動が起こりました。連続する巨大災害の救済に直接手を打たなかったために民心の不
安と動揺を招いたことが、この宝永噴火での幕府による直接の救済策に繋がったようです。
そして、被災地を上地して幕領にすることで、これまでの大名手伝普請と同様の措置をと
ることが可能になります。私領の耕作地の修復費用を諸大名に分担させることは不適切で
すが、幕領耕作地の修復であれば、「主君への経済的奉仕」に位置づけることができます。
つまり、
「被災地の幕領編入(上地)
」と「全国への高役金賦課」はワンセットなのです。
さて、こうした施策の結果、小田原藩に旧知が戻されるまでに復興はどの程度進んだので
しょうか。藩の年貢米の収量を検討したある研究によると次の結論が得られました。
① 上地された土地が戻された段階ではかえって減収となっている事実がある
② 噴火前の実態に近づくのに約百年を要している。

[参考文献]
北原糸子編『日本災害史』
(吉川弘文館)2006
北原糸子『日本震災史』
(ちくま新書)2016
寒川旭『地震の日本史 増補版』
(中公新書)2011
岳真也『今こそ知っておきたい災害の日本史』(PHP 文庫)2013
矢田俊文『近世の巨大地震』(吉川弘文館)2018
永原慶二『富士山宝永大爆発』
(集英社新書)2002

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[Web サイト]
伏見城 地震(Google 検索)
https://www.google.com/search?q=%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E+%E5%9C%B0%E9%9C

%87&rlz=1C1TKQJ_jaJP1012JP1012&oq=%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9F%8E%E3%80%80%E5

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慶長地震津波(Google 検索)
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iBNIBCjI3ODgwajBqMTWoAgCwAgA&sourceid=chrome&ie=UTF-8

―未だ謎の多い東海・南海地震津波や、東日本大震災級の可能性が考えられる東北地震津
波についての情報を整理した Web サイトを見ることができる。
元禄地震(Google 検索)
https://www.google.com/search?q=%E5%85%83%E7%A6%84%E5%9C%B0%E9%9C%87&rlz=1C1TKQJ_jaJP1012J

P1012&oq=%E5%85%83%E7%A6%84%E5%9C%B0%E9%9C%87&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyCQgAEEUYORiABDIH

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―内閣府防災情報や千葉県のものは、図表や数字等のデータを使用していて便利。また、
国立公文書館のものは、当時の記録等の史料を紹介してくれる。
宝永地震(Google 検索)
https://www.google.com/search?q=%E5%AE%9D%E6%B0%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87&rlz=1C1TKQJ_jaJP101

2JP1012&oq=%E5%AE%9D%E6%B0%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyCQgAEEUYORiAB

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―最初のページのものはどれも有益。南海トラフの巨大地震は今世紀半ばまでに発生す
る可能性が充分考えられるので、将来に備えるためにも勉強しておくことを勧める。
富士山噴火(Google 検索)
https://www.google.com/search?q=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E5%99%B4%E7%81%AB&rlz=1C1

TKQJ_jaJP1012JP1012&oq=%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUqDQgEEAAYgwEYs

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―噴火の歴史やハザードマップなど、
「富士山は活きている火山」であることを理解する
のに有益なウエブサイトを検索できる。地元自治体のサイトは必見。

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