小川未明 春

You might also like

Download as pdf or txt
Download as pdf or txt
You are on page 1of 5

2021/1/28 小川未明 春


小川未明

たの
「なにか、楽しいことがないものかなあ。」と、おじいさんは、つくねんとす
かんが こ
わって、 考 え込んでいました。
おも まち ひとびと おも
こう思っているのは、ひとり、おじいさんばかりでなかった。町の人 々は思
おも かんが
い思いにそんなことを 考 えていたのです。しかし、しあわせというものは、
ふこう おな み うえ
不 幸と同じように、いつだれの身の上へやってくるかわからない。ちょうど、
かぜ あしおと ちか
それは風のように、足 音もたてずに近づくものでした。また、だれもかつて、
すがた み
しあわせの 姿 というものを見たものはなかったでしょう。
ひと じぶん み うえ
こうして、たくさんの人たちが、てんでに自 分の身の上にしあわせのくるの

を待っていました。
ある
「しあわせは、いま、どこを歩いているかしらん……。そしてだれのところへ、
やってくるかしらん……。」
かんが ふしぎ
こう 考 えると、まったく、不思議なものでした。そして、このしあわせに
おお ちい
も、大きなしあわせと小さなしあわせとあったことは、むろんです。けれど、
ちい うつく ひか ちい
ダイヤモンドは、いくら小さくても 美 しく、光るように、それが、たとえ、小
ひと にち せいかつ
さなしあわせであっても、その人の一日の生 活を、どんなにいきいきとさせた
かしれません。
たの ま
おじいさんは、なにか楽しいことがあるのを待っていました。いつものごと
ひ かんが こ まいにち
く火ばちにあたって 考 え込んでいました。すると、毎 日のように、あちらの
まち ほう お ねいろ とお
町の方から起こってくるいろいろな音 色が、ちょうど、なつかしい、遠くの
おんがく き みみ たっ
音 楽を聞くように、おじいさんの耳に達してきたのでした。
ね みみ かたむ
おじいさんは、だまって、じっとして、その音に耳を 傾 けていました。する

ねいろ なか はな ほそ す ね
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/52653_64364.html 1/5
2021/1/28 小川未明 春

と、このいろいろの音 色の中から、ひとつ離れて、細く澄んだ音が、おじいさ
たましい ひ よ き
んの 魂 を引きつけるように、呼びかけているのが聞こえたのです。それは、
ふえ ね に
笛の音に似ていました。
おと おも
「あれは、なんの音だろう?」と、おじいさんは、思いました。
おと き きも
おじいさんは、その音を聞いているうちに、だんだん、気持ちがさわやかに
いえ き
なってきました。そして、家にばかりいたのでは、気がふさいでしかたがな
まち で ある かんが お
い、町へ出て、歩いてみようという 考 えが起こったのです。
さむ ふ
「寒いけれど、降りもしまいな。」といって、おじいさんは、つえをついて、
そと で
とぼとぼと外へ出かけました。
ある まち かぜ さむ とお ひとびと
いつ歩いてみても、町はにぎやかです。しかし、風が寒いので、通る人 々
みち いそ
は、道を急いでいました。
みぎ み ひだり み よ つじ かど
おじいさんは、右を見たり、 左 を見たりしてきますと、四つ辻の角のところ
ふくじゅそう みち なら う
で、福 寿 草を道に並べて売っていました。
め た ど
「ああ、これは、いいものが目にはいった。」といって、おじいさんは立ち止
ひとはち か よろこ いえ かえ みず
まり一 鉢 買って、 喜 んで家へ帰りました。おじいさんは、それに水をやり、
ひあ だ ひ おお
日当たりのいいところへ出してやりました。つぼみは日にまし大きくなった。
はな さ たの
おじいさんは、花の咲くのを楽しんだのであります。
* * * * *
おな まち す ねが
また、同じ町に住んで、このようにじっとすわって、しあわせを願ったもの
は、おじいさんばかりでありません。
あわ ははおや ひ ひるまえ こども み
哀れな母 親がありました。その日の昼 前のこと、子 供が見えなくなったの
ぽうさが こども おさな みち
です。八方 探したけれどわからなかった。子 供は、まだ、 幼 かったので、道
まよ し ま えんぽう ほう
を迷って、知らぬ間に、どこか遠 方の方へいってしまったとみえます。
かあ かあ さけ かな
「お母さん、お母さん……。」と叫んで、どんなに悲しがっているであろうと
おも ははおや こども よる ひる あん く
思うと、母 親は、子 供がいなくなってから、夜も、昼も案じ暮らしていたの
でした。
かえ いの
「どうかして、帰ってきてくれないものか。」と、ひたすらに祈っていまし
た。
ひ かのじょ いえ なか こども おも
その日も、彼 女は、ぼんやりと家の中で、子 供のことを思いながらすわって

とお とお まち ものおと き かのじょ
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/52653_64364.html 2/5
2021/1/28 小川未明 春

いました。すると遠くの遠くから、町の物 音が聞こえてきました。彼 女は、


き おと みみ す き ひと
聞くともなく、その音に耳を澄まして聞いていると、たくさんの人たちが、う
ま こうけい め うつ ちい
ず巻いている光 景が目に映ったのでした。すると、たちまち、ひとつ小さな、
ほそ おと べつ みみ き みち まよ
細い、さびしい音が別に耳に聞かれたのでした。それは、ちょうど、道に迷っ
じぶん こども おも
た、自 分の子 供を思わせたのであります。
わたし こども はな みち まよ
「ほんとうに、あんなように、 私 の子 供は、みんなから離れて、道に迷ってい
ははおや め なみだ ねっしん ちい
るのだ……。」と、母 親は、目にいっぱい 涙 をためて、熱 心に、この小さ
はな き おと みみ かたむ
な、ひとり離れて聞こえる音に、耳を 傾 けていました。
ちい おと ひろ みち うえ ただよ
その小さな音は、あてもなく、広い道の上を 漂 っているのでした。しかし、
おも ちい おと ちか き
思いなしか、だんだん、その小さな音は、こちらへ近づいてくるような気がさ
れたのです。
おと わたし こども あわ
「ああ、あの音が、 私 のかわいい子 供であってくれればいい。」と、哀れな
ははおや おも
母 親は思いました。
かのじょ いえ なか
彼 女は、もはや、こうして、じっとして、家の中にすわっていることができ
とぐち そと で
なかった。それで、戸 口から外へ出ました。
ひ く まち ともしび
もう、日は暮れかかって、町には、燈 火がついていました。
かのじょ とお ほう ある あわ
彼 女は、あてもなく、にぎやかな通りの方へ歩いていった。このとき、淡い
ちい くろ かげ あらわ ちか
もやのかかっているうちから、小さな黒い影が 現 れて、こちらへ近づいてきま
し ぐる さが
した。それはまちがいもなく、いままで、死にもの狂いになって探していた、
こども
かわいい子 供でありました。
ははおや か よ こども だ あ
母 親は、駆け寄って、子 供を抱き上げると、うれしさのあまり、ものをいう
ふたり だ あ な
こともできなく、二 人は抱き合って、しばらく泣いたのであります。
* * * * *
ふしぎ ちい おと
この不思議な、小さな音は、いったいなんでありましょうか? いつしか、
ちい おと まち ひと き
この小さな音は、町の人たちにだんだんと気づかれるようになりました。
まいにち ばんがた とお おと
「このごろは、毎 日、晩 方になると、遠くで、いい音がきこえますね。あれ
おと
はなんの音でしょうか?」
ほう
「それは、どちらの方からですか。」
まち みなみ ほう ゆうや にし うみ ほう
「町の 南 の方からするときもあれば、また、夕 焼けのした西の海の方からす
https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/52653_64364.html 3/5
2021/1/28 小川未明 春

ることもあります。」
わたし き
「こんど、 私 も聞いてみましょう……。」
ひ ひとり まちびと ふえ ね たよ ある まち
ある日のこと、一 人の町 人は、その笛の音を頼りに歩いてゆきました。町を
はな の こ おと き
離れ、野を越えて、その音は、あちらから聞こえてきたのでした。
とお き おと
「まあ、なんというたいへんに遠いところから聞こえてくる音だろう……。」
うみ で うえ しょうねん うみ
ついに海のほとりへ出ました。すると、あちらのがけの上で、 少 年が、海
みわた ふえ ふ
を見 渡しながら笛を吹いているのでした。
あぶ しょうねん の ふえ ふ
「まあ、なんという危なかしいところへ、あの 少 年は乗って、笛を吹いてい
す とお ひび ふえ おと
るのだろう。そして、また、なんという、澄んで、遠くにまで響く笛の音だろ
う。」
まち ひと おどろ かえ きんじょ ひと はな
町の人は、 驚 いて、帰って、そのことを近 所の人たちに話しました。みん
しょうねん み
なは、こんどいっしょにいって、その 少 年を見とどけようといいました。そ
ふえ ね き まち ひとびと
して、ふたたび笛の音が聞こえたときに、町の人 々は、いってみると、
しょうねん すがた うつく みどりいろ くさ めん
少 年の 姿 はそこになかったが、そのがけには、 美 しい 緑 色の草が一面に
め だ かぜ うみ わた ふ
芽を出して、あたたかな風が海を渡って吹いてきました。みんなは、はじめ
ふえ はる つか ふ し
て、あの笛は、春の使いが吹いたことを知ったのです。

底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集4」丸善
1930(昭和5)年7月
はる
※表題は底本では、「春」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2018年3月26日作成
2020年11月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫
(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったの
は、ボランティアの皆さんです。

https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/52653_64364.html 4/5
2021/1/28 小川未明 春

●表記について

このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

●図書カード

https://www.aozora.gr.jp/cards/001475/files/52653_64364.html 5/5

You might also like