小川未明 春になる前夜

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2021/1/28 小川未明 春になる前夜

春になる前夜
小川未明

なが あいだ はな くに
すずめは、もう長い 間 、この花の国にすんでいましたけれど、かつて、こん
さむ ふゆ ばん で
なに寒い冬の晩に出あったことがありませんでした。
ひ にし しず じぶん あか そら も ひ く
日が西に沈む時 分は、赤く空が燃えるようにみえましたが、日がまったく暮
そら いろ あおぐろ さむ おと い わ おも
れてしまうと、空の色は、青 黒くさえて、寒さで音をたてて凍て破れるかと思
き しろ しも ひか
われるほどでありました。どの木のこずえも白く霜で光っています。ものすご
つき ひかり めん だま ひろ のはら て
い月の 光 が一面に、黙った、広い野 原を照らしていたのでありました。
ぽん えだ と きみわる さむ よる す
すずめは、一本の枝に止まって、この気味悪い寒い夜を過ごそうとしていた
した か くさはら はな な
のです。そのとき、ちょうど下の枯れた草 原を、おおかみが鼻を鳴らしながら
とお
通ってゆきました。
やま さわ た ひも
山にも、沢にも、もはや食べるものがなかったので、おおかみはこうして飢
はら まいよ
じい腹をして、あたりをあてなくうろついているのです。すずめはそれを毎 夜
み こんや さむ しろ いき
のように見るのでした。おおかみも今 夜は寒いとみえて、ふっ、ふっと白い息
は こおり は すいばん つき む うった
を吐いていました。そして、 氷 の張った水 盤のような月に向かって、 訴 える
ようにほえるのでありました。
こんや おも だま
すずめは、さすがのおおかみもやはり、今 夜はたまらないのだと思って、黙
した み きゅう はら ど たか こえ
って下を見ていますと、おおかみは、 急 に腹だたしそうに、もう一度 高い声で
さけ あれの もくさん か
叫びをあげると、荒 野を一目 散に、あちらへと駆けていってしまったので
うし すがた みおく すがた
す。すずめはしばらく、その後ろ 姿 を見 送っていましたが、いつかその 姿
しろ なか き み
は、白いもやの中に消えて見えなくなりました。
なが よ かげ こえ き
すずめは、もうこれから、長い夜をなんの影も、また声も聞くことがないと
おも こんや ふじ す おも め
思いました。どうか、今 夜を無事に過ごしたいものだと思って、じっとして目
と ねむ ようい さむ
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を閉じて眠る用 意をしたのです。しかし、寒くて、いつものように、どうして

もすぐには眠つくことができませんでした。
きゅう おどろ め あ み
そのうち、 急 にあたりがざわざわとしてきました。 驚 いて目を開けて見ま
つき おもて くも ほくせい ほう
わしますと、いままで、さえていた月の 面 には、雲がかかって北 西の方か
さむ かぜ ふ てんき か おも
ら、寒い風が吹いてくるのでした。すずめは、いよいよ天 気が変わると思いま
した。
ほっこく てのひら うら かえ てんき か
北 国には、こうして、 掌 の裏を返さないうちに、天 気の変わることがあ
ります。
あわ たびがくし む としよ おとこ
このとき、ここに哀れな旅 楽 師の群れがありました。それは年 寄りの 男
わか ふたり おとこ ひとり わか おんな ひとびと たび
と、若い二 人の 男 と、一 人の若い 女 らでありました。この人 々は、旅から、
たび わた ある あれの こ やま
旅へ渡って歩いているのです。そして、この荒 野を越して山をあちらにまわれ
となり くに で ちかみち くに おも
ば、 隣 の国へ出る近 道があったのです。もうこちらの国も思わしくないとみ
ひと となり くに みち まよ
えて、その人たちは、 隣 の国へゆこうとしたのでしょう。そして、道を迷っ
じぶん とお
て、こんな時 分に、ようやくここを通るのでありました。
きもの
みんなは、うすい着 物しかきていません。また、それほどいろいろのものを
も どうり まず ひと
持っている道 理とてありません。まったく、貧しい人たちでありました。
いた あ つき ひかり たよ ある
みんなはたがいに慰わり合いながら、月の 光 を頼りに歩いてきましたが、こ
ゆき ふ ぽ まえ すす
のとき、ちら、ちら、と雪が降ってくると、もはや、一歩も前へは進めなかっ
たのです。
ゆき ひとり おとこ いき
「ああ、とうとう雪になってしまった。」と、一 人の 男 が、ため息をもらして
いいました。
わたし こんや のじゅく わか
「 私 たちは、今 夜は、野 宿をしなければならないでしょうね。」と、若い
おんな たよ
女 が、頼りなさそうにいいました。
のじゅく ゆき
「野 宿をするにしても、この雪ではねるところもないだろう。」と、ほかの
おとこ
男 がいいました。
にん ころ つか ふあん まえ ふ だ
四人のものは、転げるばかりに、疲れと、不 安とで、もはや前へ踏み出す
ゆうき
勇 気もくじけていたのです。
ゆき ふ き おか
雪は、ますます降ってきました。そして、たちまちのうちに、木を、丘を、
はやし のはら めん ま しろ つき ひかり くもま
林 を、野 原一面を、真っ白にしてしまいました。月の 光 は、おりおり雲 間か

かお だ した せかい て ひかり たよ ある
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ら顔を出して、下の世 界を照らしましたけれど、その 光 を頼りに歩いてゆくに
ま しろ ほうがく
は、あたりが真っ白で、方 角すらわからなかったのであります。
つか さき ひとり
「おじいさんは、あんなに疲れていなさる。」と、先になっていた一 人がいっ
ふ む た ど ひと た ど
て、振り向いて立ち止まりました。すると、ほかのものも等しく立ち止まっ
おく ある としよ ま
て、みんなから遅れがちになって、とぼとぼと歩いていた年 寄りを待つのであ
りました。
いそ なにごと うんめい わたし
「ああ、みんなのもの、もう急いだってしかたがない。何 事も運 命だ。 私 た
みち まよ ゆき ふ うんめい
ちが道を迷ったのも、またこうして雪が降ってきたのも、みんな運 命だとあき
ゆき よみち
らめなければならない。この雪では、夜 道もできないだろう。そして、いつお
で さけ
おかみや、くまに出あわないともかぎらない。せめて、ここにある酒でもみん
の うた あ
なして飲んで、唄い明かそうじゃないか。」と、おじいさんはいいました。
わたし なが あいだ なか
「ほんとうにおじいさんのいいなさるとおりだ。 私 たちは、長い 間 、仲よく
しょこく ある さいご し
して、諸 国を歩きまわってきたのだ。最 後まで、おもしろく、いっしょに死の
わか おとこ ひとり
うじゃないか。」と、若い 男 の一 人がいいました。
かな
「わたしは、悲しい。しかし、いまはどうすることもできません。すべての
きぼう す おんな なみだ
希 望を捨ててしまいます。」と、 女 は 涙 ながらにいいました。
な わか おんな わか おとこ し
「ああ、泣くでない。若い 女 や、若い 男 が、このまま死んでどうするもの
う か わたし うたが
か、きっとすぐに生まれ変わってくる。 私 のいうことを 疑 うじゃない!」
と、おじいさんはいいました。
せなか お にもつ お ゆき うえ ひろ
みんなは、背 中に負っている荷 物を下ろしました。そして、雪の上に拡げ
とくり い さ さけ の
て、徳 利に入れて下げてきた酒をついで、めいめいが飲みはじめました。みん
さむ さけ ちから からだ
なは、いくら寒くても、酒の 力 で 体 があたたまりました。すると、おじいさ
んは、
うた ひ よ ちから だ
「さあ、みんなで歌うだ! 弾くだ! この世でのしおさめに、 力 のかぎり出
やま たに のはら こころ
してやるのだ。そして、くまも、おおかみも、山も、谷も、野 原も、 心 あるも
はげ
のを、みんなびっくりさしてやれ!」と、みんなを励ましていいました。
ねいろ やまおく のはら うえ お
やがて、ときならぬいい音 色が、山 奥のしかもさびしい野 原の上で起こりま
ふえ ね こきゅう おと ま かな うた ふし
した。笛の音、胡 弓の音、それに混じって悲しい歌の節は、ひっそりとした
てんち おどろ ゆき うえ おんど わか
天 地を 驚 かせました。おじいさんは雪の上にすわって音 頭をとりました。若い
おんな わか ひとり おとこ た おど ひとり おとこ ゆき うえ
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わ り り ゆ
女 と、若い一 人の 男 は立って踊りました。一 人の 男 は、やはり、雪の上に
こきゅう ひ おんな こえ うた た おど おとこ
すわって胡 弓を弾いていました。 女 はいい声で歌い、立って踊っている 男
かたあし あ くちびる ふえ あ ふ
は、片 脚を上げて、 唇 に笛を当てて吹いていました。
ゆき つき ひかり した ぶとうかい
雪は、いつしかやんで、月の 光 が、この下のときならぬ舞 踏 会をたまげた
かお かく ほし
顔をしてながめていますと、いままで隠れていた星までが、三つ、四つ、しだ
かお だ そら えんぽう あ さま
いにたくさん顔を出して、空の遠 方からこの有り様をのぞいていたのです。
き えだ と し かな かな
木の枝に止まって、すべてのことを知りつくしていたすずめは、悲しくて悲
あつ なみだ め で
しくて、たまらなくなって、熱い 涙 が目からあふれて出ました。しかし、その
さむ ひととお め で なみだ こお
ときの寒さというものは一 通りでなくて、目から出た 涙 は、すぐに凍って
りょうほう め あし め
両 方の目はふさがってしまいました。すずめは足をあげて目をぬぐおうとし
りょうほう あし えだ うえ しば こお
ましたが、このときは、はや 両 方の足が枝の上に縛りつけられたように、凍
はな
りついて離れませんでした。
かんき なさ れいこく おも
すずめは、つくづく寒 気というものを情けなしな、冷 酷なものだと思いまし
つき ほし ゆき かんしん あわ うた おんがく
た。月も、星も、また雪までも、ああして感 心して哀れな歌をきき、音 楽に
みみ す かんき ようしゃ つの はら
耳を澄ましているのに、寒 気だけが用 捨なく募ることを、すずめは腹だたし
おも
くも、またかぎりないうらめしいことにも思ったのです。
うた こえ おんがく ちい
そのうちに、どうしたことか、歌の声も、音 楽のしらべも、だんだん小さ
ひく とお かん あ ひ
く、低く、遠のいてゆくのを感じました。けれど、すずめは、ついに明くる日
あさ みうご め あ いもの き えだ
の朝まで身 動きもできず、目を開けることもかなわず、鋳 物のように木の枝に

止まっていました。
たいよう て し
太 陽が照らしたときに、すずめは、はじめてあたりのようすを知ることがで
きたのです。
ゆうべ ゆめ ひと
「昨 夜のことは、みんな夢ではなかったか、あの人たちは、どうなったのだろ
ちい あたま かたむ おも
う?」と、すずめは、小さな 頭 を 傾 けて思いました。なぜなら、あたりは、
ゆき しゃく じゃく つ め なか はい
雪が二 尺 も、三 尺 も積もっていて、そのほかには、なにも目の中に入らなか
ったからです。
なが あいだ ふしぎ
それからは、長い 間 、すずめは、このことが不思議でならなかったのです。
まいにち ゆき なか やま はやし と
すずめは毎 日、雪の中を山のあちらへ、また、 林 のこちらへと飛びまわっ
とお ゆき ひろの みわた な
て、だれも通らない、さびしい雪の広 野を見 渡して鳴いていました。
ふゆ た はる ちか ひ
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ふゆ た はる ちか ひ
そのうちに冬も老けて、だんだん春に近づいてまいりました。ある日のこ
にしみなみ そら くもぎ いろ
と、 西 南の空のすそが、雲 切れがして、そこから、なつかしいだいだい色の
そら かお だ き えだ と ほう み
空が、顔を出していました。すずめは、木の枝に止まって、じっとその方を見
てぼんやりとしていました。
あたた みなみ かぜ ふ まいにち
暖 かな 南 の風が吹いてきました。それからというもの、毎 日のように、
みなみ かぜ ふ つの ゆき き ふゆ
南 の風が吹き募って、雪はぐんぐんと消えていきました。すずめは、もう冬
い からだ まる ここち あたた かぜ はね ふ
も逝ってしまうのだと、 体 を円くして、心 地いい、 暖 かな風に羽を吹かれな
う やま はやし のはら こだち ゆき
がら、いままで埋もれていた山の 林 や、また野 原の木 立が、だんだんと雪のな
すがた あらわ たの
かに 姿 を 現 してくるのを楽しみにしていたのです。
はな さ たこく ほう な
「ああ、じきに花が咲くころともなるだろう。そうすると、他 国の方から、名
し うつく とり と はやし もり なか うた
の知らないような 美 しい鳥が飛んできて、 林 や森の中で唄をうたうであろ
き やま う
う。それを聞くのがたのしいことだ。」と、この山のふもとに生まれて、この
のはら はやし し たこく とり うた き
野 原と、 林 としかほかのところは知らないすずめは、せめて他 国の鳥の唄を聞
こうふく おも
くことを幸 福に思っていたのです。
あたた ばん のはら なか ふえ ね こきゅう おと
すると、ある 暖 かな晩に、すずめは野 原の中から、笛の音と、胡 弓の音
かな うた こえ き き
と、悲しい唄の声を聞きました。すずめは、それを聞くとびっくりしました。
あわ たびがくし おも だ
いつかの哀れな旅 楽 師を思い出したからです。
のはら なか こお ねいろ みなみ かぜ と
いままで、その野 原の中に凍っていた、それらの音 色が、 南 の風に解けて、
なが だ おも ひと しがい う
流れ出したものと思われます。しかし、その人たちの死 骸は、飢えたおおかみ
た み ものがな ねいろ
やくまに食べられたか、見つかりませんでした。ただ、この物 悲しい音 色は、
かぜ おく のち いくよ ひろの そら ただよ
風に送られて、その後、幾 夜も、この広 野の空を 漂 っていたのです。

底本:「定本小川未明童話全集 3」講談社
1977(昭和52)年1月10日第1刷
1977(昭和52)年C第2刷
初出:「東京日日新聞」
1922(大正11)年1月7日~10日
はる ぜんや
※表題は底本では、「春になる前 夜」となっています。
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入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:江村秀之
2013年12月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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は、ボランティアの皆さんです。

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