Download as pdf or txt
Download as pdf or txt
You are on page 1of 232

己PbC d聯f淵暮

ZJL、毎、ノ&公

攻と社会


言 彼 蓋

瀞 一 一 一


まえがき
ヒンドゥー教とイスラム教は、一般の日本人にとって、いわば未知の宗教である。実際、私
たちの生活のなかでは、ほとんど縁のない宗教だといっていい。しかし、アジアの他の国々で
は、この二つの宗教は、過去の歴史のなかで大きな役割を果してきたばかりか、今日なお、十
数億という人たちの生活のうちに厳然と生きているのである。
ヒンドゥー教とイスラム教についての文献の多くは、それぞれの宗教の専門家によって書か
れてきた。だから、この二つの宗教を同時にとり上げ、比較しながら考察した書物は、なかな
か見当らない。だが、過去の歴史や現状を見ると、アジアの一部の地域では、この両宗教がと
もに並存し、同じ民族、同じ国民によって信仰されてきたことに気づく。とくに南アジアでは、
この二つの宗教は、多年にわたって共存し、今日に至っているのである。
まえがき

同じ国や民族のなかでさまざまな宗教が並存している例は、過去・現在にわたって多々あろ
う。しかし、ヒンドゥー教とイスラム教の場合には、その性格が著しく異なっており、その違
いが、信徒の生活や社会の仕組みに反映し、それぞれのコミュニティーや国家間の関係にまで
影響を及ぼしてきた。そうなると、問題は、深刻で切実なものとなる。現に、︵宿命的な宗教対

●0


立﹀とか︿宗教戦争﹀といったような言葉さえ、しばしば用いられてきた。私は、そうした問題の


因ってくるところとその実態とを、歴史のなかで明らかにしてみたいと考えてきた。本書は、
そうした意図に基づくささやかな試論である。
冒頭の章で記すように、この二つの宗教に関する私の考察は、二十数年前のベナーレスとニ
ューデリーでの四年間の研究生活とその後の南アジア訪問の経験に拠るところが多い。だから、
本書も、史料や文献に基づくだけの研究ではない。問題によっては、歴史学を学ぶものとして
いささか限界を越えたかと思うほどに、自己流の推論を展開したところもある。それも、この
ようなエッセーでは、ある程度は許されると考えたからである。
﹃ヒンドゥー教とイスラム教﹄という題から、︿神秘﹀や︵ロマン﹀を期待される向きもあろう
かと思う。私自身、宗教の持つそうした側面には大いに惹かれるものの一人ではあるが、本書
では、もっと泥臭い、人間の生活・文化の問題や宗教と社会・政治との関わりの方に重点を置
いた。したがって、両宗教の内容の紹介やその比較はむしろ出発点で、南アジアでこの一一つの


宗教が出会い、共存していったとき、それぞれの社会の内部や権力構成の面でなにが起ったか、
思想・文化の内容がどのように変っていったかという問題の方が、主要なテーマである。
本書でとくに強調したかったもう一つの点は︿民族﹀の問題である。南アジアにおける︿多民
族性﹀の問題はしばしば指摘されるところだが、ヒンドゥー教とイスラム教やそのコミュニテ
ィーについても、民族の問題と切り離しては考えられないと思っている。
宗教学や、いわゆるインド哲学・イスラム思想には浅学の私であるから、宗教認識一般や教
義・儀礼などの解説においては欠けるところも多々あろう。その点、インド思想とイスラム学
のそれぞれの専門家である高崎直道・中村度治郎の両氏から助言をいただいたことは有難かっ
た。その他の方がたのご協力にも厚く感謝する次第である。
本書は、ここ十年来手がけてきた﹃インド史におけるイスラム聖廟﹄︵東京大学出版会︶とほぼ時
を同じくして刊行される運びとなった。出版に際しては、岩波書店の岩崎勝海氏と松嶋秀三氏
とにたいへんお世話になった。また、原稿を仕上げる段階で、弘重寿子さんと裕子さん姉妹に
助けていただいた。心からお礼を申し上げたい。
一九七七年五月
荒松雄
まえがき ●。■&
目次
まえがき
I・ヘナーレスとデリーで
1ガンガーの岸辺で三︶
2首都ニューデリーで毛︶
Ⅱ二つの宗教と日本人.:..::・・・・⋮・⋮・⋮:・・・・・・・・一軍
l宗教観とアジア認識I
1二つの宗教︵天︶
2接触と共存︵天︶
3宗教を見る目︵一三︶
目 次
4宗教認織とインド観︵美︶


Ⅲ対立する宗教.:・・:⋮・・・・:⋮・⋮:。⋮⋮・・・:.:一三


l神・教義・儀礼I
1多神教と一神教︵一一琴
2祈りと礼拝酉一一︶
3人生観と世界観︵災︶
4教典と聖職者念一一︶
5宗派と正統・異端︵君︶
Ⅳ異なる社会関係:・・:::⋮::::..・・・:⋮:⋮・・歪
︲1個・集団・政治︲1
1入信と改宗︵実︶
2階層秩序と連帯意識︵苫︶
3脱俗と社会規範︵宍︶
4宗教と政治︵茜︶
V宗教と民族・国家:.⋮..⋮⋮・・・⋮⋮・⋮⋮⋮⋮九一一一
11ヒンドゥー教の展開︲I
1アーリヤと非アーリヤ︵茜︶
2北インドと南インドニS︶
3支配層と階層社会︵一皇︶
4﹁民族宗教﹂と﹁世界宗教﹂︵一只︶
Ⅵ二つの宗教の出会い::.:⋮..::::::⋮⋮:・・一一五
Iイスラム教の浸透1
1イスラムの波及︵一天︶
2異民族の支配と宗教︵三e
3イスラムと民衆の世界︵一美︶
目 次

vii
4ヒンドゥー社会の反応︵一一一三︶
Ⅶ共通する基盤⋮・⋮⋮⋮::。⋮⋮⋮::⋮⋮:.一四一

V111
l共存と融合I
1民族の問題︵一空一︶
2混渚・融合︵一理︶
3宗教の世界で︵一蚤︶
Ⅷ反発する要因:.⋮:..⋮⋮⋮..:..:・・⋮.:.:・・一六一一一
l対立と抵抗1
1正統派の反応︵一茜︶
2支配と被支配︵一炎︶
3口ご己⑦四コ。宛三①︵一美︶
4︿異教徒﹀と︿異民族﹀︵六一一一︶
Ⅸ宗教の違いを超えるもの・⋮.:::⋮・⋮・⋮・⋮.:.一八九
l民族主義と近代の環境I
1十九世紀の状況︵禿巳
2ナショナリズム︵一蓋︶
3﹁近代﹂の諸環境︵一三︶
X現代と宗教:・・・・・:。⋮⋮・・・⋮・・・⋮・・・::⋮:三一
1宗教と民族・民衆︵一一三︶
2﹁分離独立﹂と﹁宗教戦争﹂︵一一一事
3﹁世俗国家﹂と﹁宗教国家﹂︵一三s
南アジア史略年表
目 次 ︵詠碑価酔率諏癖︾津し諏幹伽牽一一誰潮四郎氏が、︶・唾



ニー


、〉〃
−、lkrfXで

一鯛:塗

入十lマメⅡ耐て云守1片稚毒。

1ガンガーの岸辺で
私がはじめてインドへ行ったのは一九五一一年の六月も終るころだったが、カルカッタは、も
う雨期に入っていた。
ダムダム飛行場で私を迎えてくれたのは、なんと思いもかけないハプーーングだった。何日も
かけてやっと妻が用意してくれた大型トランクが、乗ってきた飛行機と一緒に飛んでいってし
まったというのである。三日目になって、やっと、トランクはストックホルムで保管されてい
るという連絡があった。このトランクはそれからひと月後に無事に私の手元に戻るのだが、こ
の︿不幸な﹀事件のために、私は、急速に︿インド化﹀させられる羽目になった。カルカッタでイ
ンド製の木綿のズボンやワイシャツ・下着の類を買い求めると、私はそれを着て留学先のベナ
ーレスヘ向った。大学では、荷物をなくした三十過ぎの留学生ということが教授や学生たちの
同情を引いたのか、私は、とたんに親切な友人に恵まれることになった。
そのベナーレスのヒンドゥー大学に、私は一一年近くいた。いまと違ってすべてに不自由な時
代の留学で、苦しいことも多かったが、ベナーレスという環境が私を圧倒し、日々経験する生
ガンガー
活は、私の知的好奇心をフルに刺激しつづけた。私は、暇をみてはガンジス河の岸辺へ行き、
この町特有の、迷路のような路地をうろつきまわった。
ベナーレスは、ヒンディー語風に呼べばバナーラス厩呂国の、その後、公式には、もっと古
い名を復活させてヴァーラーナスイぐ幽国目⑰一と呼ぶようになったが、よく知られているよう
に、インド最大の、ヒンドゥー教の聖地である。案内記には、この町には千を越す数の11︲と
きには二千もの111ヒンドゥー寺院があると記されている。小さな神洞まで入れたら、おそら
く、もっと多くの数になるかもしれない。沫浴する善男善女が集まるいわゆるガート警習、
その階段状の石畳のうえに坐って膜想にふける男たち、赤や黄に塗りたくられた奇怪な形相の
偶像、ガートに接して建てられた旧藩王や金持たちの大邸宅、その間にまじって饗え立つヒン
ドゥー寺院の塔。ガンガーの岸辺では、どの風景をとってみても、どこかでヒンドゥー教と関
Iベナーレスとデリーで

わりを持つものばかりである。
ベナーレスの町として発展してきたガンガーの左岸にくらべると、向い側、つまり右岸には、
建物らしいものはまるで見当らない。向う岸は不浄の地とされているからだと、この聖地に住
む人たちは説明した。ガートに立ってその対岸を眺めると、一一千年の昔も同じだったろうと思
わせられる。目を転じて、聖河に泳浴する人たちや膜想する.ハラモンの姿を見ると、まるで時


が静止したかと思われる瞬間もあった。︿悠久﹀︿永遠﹀といった言葉が実感をもって感じられる
のは 、 そ ん な と き で あ る 。

そのガンガーの岸辺に立ち、あるいは河上に舟を浮べるとき、河岸の風景のなかにひときわ
目立つものがあった。それは、鉄橋に近いパンチャガンガーと呼ばれたガートのそばに、一本
ミナール
にょきっと立っていたイスラム教のモスクの尖塔である。その塔は、最初見たときから私の印
象に残った。ムガル帝国の六代皇帝オーラングゼーブの時代に建てられたといわれるモスクの
塔で、高さ五○メートルに近く、もともとは二本あったのだが、はじめのものはずっと前に倒
壊していて、再建された北側の一本だけが残っていた。ある日、私は町なかの小路をあちこち
歩き回ったあげく、やっとこのモスクに辿りつき、その尖塔のてつ。へんまで登った。眼下には、
いくつものヒンドゥー寺院の塔が見える。そのときに撮影したガンガーとベナーレスの町の写
真は、いまでは貴重な資料となってしまった。というのは、のちになって、一本だけ残ってい
たその塔の方も、倒壊を恐れる人たちの手で解体され、なくなってしまったからである。
ベナーレスの日々を思い出すとき、その細く高い塔はいつも私の脳裡に浮んでくる。だが、
あの塔は、私にとって単なる回想のなかの遺跡だけではなかった。それは、ヒンドゥー最大の
聖地、聖なるガンガーのほとりに聾え立つ、イスラムのモスクの尖塔なるがゆえに、その印象
は鮮烈だったのである。
五○メートルにも及ぶその塔の高さにもかかわらず、そのモスクのことを、一部の人びとは
チョーター・マスジッド
﹁オー︲ラングゼーブの小モスク﹂と呼んでいた。ヒンドゥーの友人の一人は、その敷地には、
もとヴィシュヌ派のヒンドゥー寺院があったのだが、オーラングゼーブがそれを壊してモスク
を造らせたのだと、憤然とした調子でいった。だが、実際は彼の臣下だったヒンドゥー高官が
建てさせたのだともいう。十七世紀後半のこのムガル皇帝は、町なかにあった有名なヒンドゥ
・ヘラ
ーl寺院の一つをもモスクに改築させたという責任も負わされている。﹁オーラングゼーブの大
I・マスジッド
モスク﹂と呼ばれるのがそれだ。しかし、このモスクも、もっと前に造られたものだという説
がある。いずれにせよ、一裏手に回ると、古いヒンドゥー様式の壁面がそのまま残っている。ヒ
ンドゥーの聖地で、たくさんの寺院のなかに建てられたこの二つのモスクへ、私は、何度も足
を運んだ。
でベナーレス大学にいるあいだ、私は、お隣のビハール州にあったある村へ何回か出かけてい
昨ったことがある。その村の地主の息子が私と同じクラスにいて、誘ってくれたのがきっかけで
写あった。人口一一百人ほどの貧しい小村だったが、村民の七割はヒンドゥー教徒、残りの一一一割ほ
歴どがイスラム教徒だと聞かされた。行ってみると、両方の家族の子供たちは、実に仲よく、一
去緒になって遊んでいるのであるpヒンドゥーの祭にはムスリムの村人たちも活気づき、ムスリ

ムの大祭には、ヒンドゥーの子供たちも一緒になって騒ぐのだという。話に聞いていたヒンド
rL


ウーとムスリムの︿殺し合い﹀などは、この村に関する限りは、まるで別の世界のできごとのよ
うな感じがした。

聖地ベナーレスの町には、インド各地から敬虚なヒンドゥーがやってくる。聖なるガンガー
マンヂイ処
で泳浴し、そのとき汲んだ水をさげて寺院へ行く。主なガートから、チョウクと呼ばれる町の
中心地にかけての一帯は、いつも巡礼者で雑踏をきわめていた。行きかう人びとのなかには、
サンニヤースイン
半裸か、サフラン色の布をまとうヒンドゥーの行者や乞食の姿が必ず目についた。そのチ
ョゥクからヒンドゥー大学へ向う通りのすぐのところに、いわゆる﹁ムスリム側クォーター﹂
巨巨の一言C巨胃房吋があった。ムスリムつまりイスラム教徒が集まって住んでいる地区である。
私は、、三日に一度はそこを通った。ヒンドゥー人口に囲まれたそのムスリム居住区で騒擾事件
といわれるようなものがおきたことを、一一年間のベナーレス滞在の間、私は、一度も耳にした
こと が な い 。
ベナーレスⅢヒンドゥー大学では、十月になると三週間ほどの休みがあった。私は、アフガ
ニスタンから来ていた一一十歳の留学生のN君と一一人で、初めてのインド国内旅行に出かけた。
私たちは、ヒンドゥー川ラージプートの諸王国の故地、ラージャスターンの周遊を計画してい
たのである。若いムスリムの学生とのラージャスターンへの旅は、中世インド史上にその名を
知られたヒンドゥー王国の都を訪ねて回る旅でもあった。ジャイプル]四ざ員から始め、アジメ
ール鰐一目g・ウダイプルロg召昌・ジョドゥプル]o号己員・ジャイサルメール]昌麗一日の周.
ビーカーネール国富ロ日などのラージプート諸王国の旧都を回りながら、私は、中世以降のヒ
ンドゥー王国の支配者たちの生活のなかに、予想以上にイスラムの影響が深く及んでいたこと
を、自分の目で確かめていた。ヒンドゥーⅢラージプート諸族のかつての牙城だった町の至る.
ところで、私は、ヒンドゥー・ムスリム両文化の融合のあとを見出し、ある種の感動をさえ覚
えたのである。
2首都一三lデリーで
一九五四年の五月に、私は、ベナーレスから一言Iデリーに移った。このインド共和国の首
で都は、一九五○年代前半の国際政治の一中心で、中央官庁街では、世界各国からやって来た要
咋人や指導者たちの姿をよく見かけた。私は、自分が現代史の中枢にいることを思い知らされ、
毒満足感を覚えたものだ。しかし、私にとってニューデリーは別の意味をも持っていた︾今日と
座違って当時は、首都圏の南方の地域は、大部分、畑か荒地であったが、その方々に、六百数十
先年にわたってムスリムの王や貴族たちが造った建造物が何百となく点在して残っていた。また、
ペニューデリーの北方に拡がるいわゆるオールドデリーには、十七世紀中葉にかけてムガル五代


皇帝シャーⅡジャハーンが造営させた王城と大城壁都市とが、その宮廷建造物や、城門・城壁
の一部、あるいは巨大なモスクなどを、そのまま残していたのである。

そのころの私の仕事はインド人に日本語を教えることで、午後の時間は大抵は暇だったし、
日没前の一、二時間も自由だった。私は、よく、自転車に乗って中世の遺跡を探し回った。ベナ
ーレスの大学で学んだばかりのデリー諸王朝時代のスルターンや貴族たちの墓、彼らが建てた
モスク、巨大な廃嘘となっているその城塞や宮廷杜などをつぎつぎに探し当てては、なけなし
の金をはたいて買ったカメラとフィルムで、写真を撮って歩いた。私は、いまでも、人一倍、
夢想家で想像力が強い。こうした毎日の探訪は、講義や書物で学び覚えたイスラム教徒のスル
ターンや支配者たちの、その姿ばかりか、ときには彼らの立居振舞さえをも、まるで一度見た
映画のシーンを回想しているときのように、私の脳裡に浮び上がらせてくれた。こうして、私
は、十三世紀以降のデリーのムスリム支配者たちの歴史を、その現地で、ヴィヴィッドな感じ
を抱きながら辿り考えるという、またとない機会に恵まれたのであった。歴史学徒としては、
過度の空想癖は、プラスにもなるが、ときには危険な落し穴にもなる.歴史学は、︿想像﹀によっ
て歪められてはならない面を、厳然として持っているからである。それでもなお、私は、こう
した経験を、注意しながらも十分に生かしたいと思っている。
同時代の史書や研究書で読むムスリム王権の支配の歴史は、たしかに無味乾燥の感が深く、
ときには退屈きわまるものである。しかし、私にとっては、つまらぬスルターンの名でも、現
実に見た彼らとその一族の墓や、その時代に建てられたモスクとすぐに結びつけて考えること
ができた。巨大なモスクの遺構や、著名なムスリム聖者の墓廟の内域に立つときには、当時の
文献や史書にはほとんど記されなかったデリーの民衆の存在を感じ、その墓や建物を造った石
工たちの姿を想うことさえできた。デリー滞在の一年半のあいだに、私は、いわゆるインドⅢ
イスラムの文化を、ずっと身近なものとして感じられるようになっていた。
国際都市ニューデリーは、もちろん、インドの首都として国内政治の中心地でもあった。私
がいた一九五四年から五六年にかけては、ジャワーハルラールMネール︺煙葛農胃一璽一zの胃匡の
全盛期だったが、国内政治は多くの難問を抱えていた。そのなかで、私にとって忘れられない
政治家が一人いた。被差別階層の出身で初代ネール内閣の法務大臣となり、制憲議会の憲法草
案委員会の委員長を務めたアンベドヵル画.宛.ショ冨鼻胃である。ガンディーを批判し、会議
Iペナーレスとデリーで

派をこきおろし、のちに仏教に改宗したこのマハーラーシュトラ出身の政治家をめぐる話題は、
当時もなお、絶えることがなかった。しかし、私がとくに興味を覚えたのは、彼が手がけてき
た、いわゆる﹁ヒンドゥー法典﹂国冒目○○号をたたき台として国会に上提されていたヒンド
ゥー法の改正法案をめぐる連日の論議であった。
そのころの新聞は、連日のように、国会で交されるヒンドゥー婚姻法や相続法に関する質疑

と討論を、長々と掲載していた。改正法案の趣旨は、主に、長い歴史と慣習のなかで固定化さ
れていたヒンドゥー社会における婦人の地位を改善し、その社会の根幹の部分の改革をねらっ


1
たものだった。保守的なバラモン学者や議員たちは、法案の根拠となった﹁ヒンドゥー法典﹂
作成の親玉と目されていたアンベドカルとその支持者たちを、ときにはひどい言葉を使って容
赦なく批判し、攻撃した。のちになって、私は、マハートマⅢガンディーとの対立や仏教への
改宗の問題から彼に興味を覚えていったのだが、当時は、ヒンドゥー法改正の一方の旗頭とし
てのアンベドカルに強い関心を抱き、ひそかに彼に拍手を送っていたのである。私は、彼の活
動と国会での質疑討論に関する記事を通じて、ヒンドゥー社会の矛盾について、かなりの程度、
知ることができた。アンベドカルの半生については、かつて拙著﹃三人のインド人﹄︵柏樹社︶
のなかで紹介したことがある。
それまで、私は、主にベナーレス滞在の間に見聞きしたものを通して、自分なりにヒンドゥ
ー教とヒンドゥー社会のあり方とを学んできたつもりでいた。いま、私は、婚姻・相続といっ
たヒンドゥー法の主要な項目について毎日具体的に知らされる新しい知識によって、いままで
無知であったヒンドゥーの社会関係に興味を持ち、その改革への動きに注目する機会をも与え
られた。帰国したあとで、私が、ムスリム支配の権力構造の歴史を主要な専攻テーマとしなが
ら、十九世紀のヒンドゥーのいわゆる﹁社会改革﹂の。、巨宛瓜日日運動や、ヒンドゥーの社会
構成に関する論文をいくつか書いたのも、このときのニューデリーの生活のなかで抱いた具体
的な関心に基づくものである。
一九五四年に、私は、国防省の許可を得てカシミール屍尉︸︺冒胃の地へ行き、その帰途、アム
リッッァルショ員の胃のスィク盟喜教の総本山を見学したのち、国境を越えて、初めて。ハキ
スタンを訪れることができた。陸路、それも汽車で国境を越えるのは、私にとって初めての経
験だったが、緊迫する印パ情勢のなかで、約二時間に及んだあのときの国境通過のはりつめた
経験を、私は、生涯、忘れることができないであろう。
デリーからカシミールへの旅で、私は、国防上の機密保持という理由が、一般人にとって、
ときにはオールマイティーの力を持ち得ることを、いやというほど知らされ、戦前の日本や、
私自身の軍隊での経験を呼びさまされた。その直後だっただけに、国境通過の経験が、私を極
度の緊張状態に置いてしまったのも当然だったと思う。
Iペナーレスとデリーで

しかし、その国境を越えて見るパキスタンの自然も人も、通過以前のそれとほとんど変ると
ころはなかったのである。アラビア文字のウルドゥー語の駅の標示板がとくに目につくくらい
で、そこに見る人びとの顔も、特徴的なあの目つきも、それに服装さえもが、ほとんど変化が
なかった。ただ、インド国の側でいつも大勢いたスィク教徒の色とりどりのターバンが、国境
を越えた途端に、全くといっていいほど目につかなくなったことが印象に残ったくらいである。


1
ラホール旨9月の町は、さすがに歴史の都、イスラム文化の中心地だけあって、マール
富四一一大通りの辺の落ち着いた雰囲気といい、あるいは名にしおうアナールカリー吟愚民農の


大バーザールといい、ともかくも私を感激させてくれた。しかし、一九五○年代前半の.ハキス

1
タンは、インド国との分離の際のマイナス面を脱し切れず、インド国にくらべて、政治的に安
定していなかったばかりでなく、経済的にもひどく疲弊していたのである。私は、︿分離独立﹀
の結果の一端を、具体的に、そこに見たように思った。
しかし、アムリッッァルもラホールも、もともと、同じパンジャーブ地方の旧都である。住
民の大半がヒンドゥー・スィク教徒と、ムスリムであるという違いはあっても、そこに見る人
びとは、いずれも。ハンジャーブ人で、その容貌は、私には、全く同じように見えた。家の構造
も形も、そして食物も、ほとんど変りがなかった。言葉の点でも、英語のほかにはそれしか喋
れなかった私のウルドゥー語が、カシミールでもアムリッッァルでも、またラホールでも、一
般民衆と話すときには、私の英語以上に、そのまま堂々と通じたのである。
このカシミールからラホールへの旅は、私に、インドと。ハキスタンの分離独立の結果や、印
●ハ紛争の実態の一端を垣間見せてくれると同時に、ヒンドゥー教とスィク教、そしてイスラム
教が、この亜大陸の西北部でどのような歴史的役割を果したかについて、あらためて考えるチ
ャンスを与えてくれたのであった。
ベナーレスでの二年近くの生活、ニューデリiのやはり二年足らずの暮しのなかで、私は、
南アジアの過去と現在とについて、書物から学びとるとともに、自分自身の体験を通じて、さ
まざまなものを吸収し得たと思う。そのなかで、つねに私の頭のなかにあったのが、︿ヒンドゥ
ーとムスリム﹀の問題であった。そして、私の、ヒンドゥー社会やムスリム社会についての関心
や、彼らが生み出した文化に対する興味は、当然のことながら、私に、ヒンドゥー教そのもの
とイスラム教そのものとに対する関心を呼びおこしたのである。
考えてみると、本書の題とした︿ヒンドゥー教とイスラム教﹀というテーマは、私自身が二十
数年前の初めてのインド滞在のときからいつも私の脳裡にあり、そのままずっと抱えこんでき
た課題だったといえそうである。
Iベナーレスとデリーで


1
中央インドのヒンドゥー寺院のなかで

Ⅱ二つの宗教と日本人
l宗教観とアジア認識I

1
1二つの宗教
ヒンドゥー教やイスラム教について紹介した書物は、日本ではそれほど多くはない。もちろ
ん、南アジアや、西アジアその他のいわゆるイスラム圏の諸国では、この両宗教に関する多種
多様の文献・著書が刊行されてきた。ヨーロッ。ハやアメリカの学界はといえば、全般的には衰
えが目立つとはいえ、なお、すぐれた成果をあげている面もあるようである。全体としていえ
ば、ヒンドゥー教やイスラム教に関する研究は、世界の各国で、なお、着々と進みつつあると
いっていいであろう。
しかしながら、ヒンドゥー教とイスラム教について、その両者を比較しつつ、あるいはその
両者を同時にとりあげて考察を加えてきた概説乃至は紹介書の類は、全くないとはいわないま
でも、きわめて少ない。従来は、ヒンドゥー教はヒンドゥー教、イスラム教はイスラム教とし

多てで
い、も
て、それぞれ別個に、それぞれの専門家によって研究の対象とされ、紹介されてきたところが



のちに詳しく述べるように、ヒンドゥー教とイスラム教とでは、神観念や教義、儀礼や慣習
の全般にわたって、著しい差異が認められる。その違いたるや宗教の本質に関わるものである
だけに、この一一つの宗教が、別個のものとして、それぞれ独立してとりあげられることが多か
ったのも当然かもしれない。しかし、性格を異にするという点からすれば、それぞれの宗教を
別個なものとしてとらえるよりは、両者を比較しながら検討することによってそれぞれの特質
をより一層明らかにし得るのではないかと、私は思う。このような異質の宗教については、比
較しながら考察していけばその共通点も明らかになってくるだろうし、それぞれが持っている
問題点にも迫っていけるのではないかとも考えるのである。
ただ、私の問題意識からすると、性格を異にするこの二つの宗教を比較検討する場合、単に
その神観念や教義、儀礼や慣習などに認められる相違点を指摘するだけでは、なお、大事な問
題が抜けたままに終ってしまうように思われる。それらの面での本質的な差異が、それぞれの
宗教を信奉してきた信徒の社会に見られる人間関係、あるいは社会集団を律する諸関係にまで
Ⅱ二つの宗教と日本人

影響を及ぼしている点に注目するところに、つぎの問題があるのではないかと思う。そうした
視点から眺めてみると、この二つの宗教における本質的な性格の違いが、ヒンドゥーとムスリ
ムの意識構造にまで大きな影響を及ぼしていることにも気がつく。
しかし、ヒンドゥー教とイスラム教の宗教としての本質的な違い、あるいはヒンドゥー・ム



スリムそれぞれの社会の諸関係に見られる差異について比較し考察してみても、まだ、問題は
残る。異なる性格を持つこの二つの宗教やその信徒の社会関係に注目しながらも、異なる点ば


かりでなく共通する問題がありはしないかという点に注目することも大事だと思った。そうし

1
た角度から見てみると、ヒンドゥー教とイスラム教との差異を指摘することによって、ヒンド
ゥーとムスリムの両者が決定的な対立関係にあることを強調する傾向の議論が多いことに気づ
く。本書執筆の一つの動機は、そうした議論に対して、私自身かねてから疑問に思うところが
あり、それについての私見を述べてみたいと思ったからでもある。
2接触と共存
ヒンドゥー教とイスラム教の、あるいはその信徒の社会の性格の違いを考察すること、また
その両者に共通するさまざまな問題点を指摘することは、それだけでも意味があり、重要であ
る。しかし、本書においては、単にそうした比較検討をもって終るつもりはない。それらの比
較考察については、本書霞のⅢ.Ⅳの二章のなかで、この二つの宗教を紹介する意味も含めて記
すことにした。ただ、そうした考察は、私にとっては、問題の出発点に過ぎない。
この書物を記すに当って私が主な課題と考えたのは、この二つの宗教についての比較考察そ
のものよりは、むしろ、両宗教の接触・交渉によってヒンドゥーとムスリムの思想と文化、社
会や政治の面で見られた歴史現象について考えることである。いいかえれば、ヒンドゥー教と
イスラム教とがある地域において接触し、並存していかなければならなくなったときに、歴史
の現実の場ではなにが起ったか。相互に如何なる影響を与え合ったであろうか。また、そのな
かで、それぞれの信徒の社会関係や意識構造にはどのような変化が認められたであろうか。こ
れらの問題を具体的な歴史過程のなかで見てみようと思ったのが、私が本書を書くに至った一
つの動機である。
しかし、私の場合、実際には、そうした問題意識がさきにあったのではない。前章で記した
ように、私は、私自身のインドでの生活のなかでこれらの問題の所在を痛切に意識させられた
のである。そして、アジア史を勉強していくあいだに、私が現地で感じたこと、つまり、ヒン
ドゥー社会とムスリム社会との共存、あるいは思想や文化の面での両者の要素の融合といった
ことがらが、南アジアと、東南アジアの一部地域においては、現実に見られた歴史上の事実な
Ⅱ二つの宗教と日本人

のだということを確認することができたのである。実際、南アジアにおいては、これらの事象
が、早くは八世紀の初めごろから、さらに十三世紀以降になると地域的にも拡大の傾向を示し
ながら、現実の歴史のなかでひろく見られたのである。私は、このことは世界史のなかでも特
記されて然るべき問題だと思った。南アジアと東南アジアの一部地域で見られたヒンドゥー教


1
とイスラム教の接触・並存という事実は、性格を異にする宗教とその文化の共存という課題、
あるいは宗教と社会、宗教と政治の問題についての貴重な︵歴史的実験﹀と呼んでもいいとさえ


考えたのである。

2
それにもかかわらず、従来は、この問題が、単なる歴史過程の叙述のなかで、戦争や政治史
上の事件、あるいはせいぜいのところ、思想や文化の面に見られた変化として、表面的、概観
的にとりあげられることはあっても、それらを、この二つの宗教の比較、両教徒の社会関係や
意識構造の差異との関わりにおいて考察するということは、ほとんどなかった。
このことは、問題の重要性、あるいはその切実さを考えてみると、私には、いささか奇妙な
ことのようにさえ思える。しかし、事実は、ヒンドゥー教はヒンドゥー教、イスラム教はイス
ラム教として、またヒンドゥー社会とムスリム社会についても、それぞれ別個に論じられてき
た傾向が強かった。これまでも、両宗教の相互の関係を考え、南アジアの思想・文化に及ぼし
たその影響について解き明かそうとする研究はあった。しかし、この一一つの宗教の、または信
徒の社会の性格の違いや共通点が歴史事実や歴史過程とどのような関係にあったかという問題
になると、見逃されるか、ごく簡単に扱われてしまうきらいがあったのである。
さきにも触れたように、従来の論議のなかには、一つの目立つ傾向があった︶それは、中世
以来の南アジァの歴史の動きの表面をさっとなでただけで、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒と
の関係を絶えざる緊張と対立の関係においてとらえようとする歴史解釈が行なわれてきたとい
う事実である。そうした見方は、とくにわが国においては、たとえば、北インドにおける︵イス
、、、 、、、、、、
ラム教の侵入・征服﹀とか、十一一一世紀以降ムガル帝国全期にわたっての︿イスラム教徒による上

、、、、、、
ンドゥー教徒の支配﹀といった、宗教そのものや信徒社会と、権力集団との区別の認識を全く
欠いたような表現︵傍点は筆者︶にもあらわれている。また、印パ両国のいわゆる分離独立を、ヒ
ンドゥー教とイスラム教の︿宿命的な宗教対立﹀の結果と論断したり、独立後の両国をめぐる紛
争にも︿宗教戦争﹀というレッテルを貼って済ますといった歴史認識にも示されてきた。
ところで、ヒンドゥー・ムスリム両社会の動向に関する南アジアの歴史家の解釈では、当然
のことながら、その論者がヒンドゥーかムスリムかのいずれかであるかによって、その論調や
結論にはかなりの違いが出てくる。そのことは、たとえば、現代のインド・パキスタンあるい
はバングラⅡデーシュなどの大方の論者の立場を見れば明らかである。そして、それぞれの立
場に立つ見方が、もっと単純化され、種々の誤解をともないつつ、日本人一般のなかに見られ
Ⅱ二つの宗教と日本人

ることも指摘できるであろう。こうした理解と認識とに出会うと、日本人のアジア認識あるい
は日本人の宗教観との関わりにおいて、私は、さまざまな疑問を抱かざるを得ない。それにつ
いては、またあとで触れよう。


2
3宗教を見る目


2
ヒンドゥー教もイスラム教も、世界史のなかではよく知られた宗教であり、一般民衆が信
仰・実践する宗教内容から高度に体系化された教義・思想までをも併せ持っている。この二つ
の宗教について説明するためには、神観念や教義内容から入ってゆくのが適当であろう。その
あとでは、それぞれの宗教の信徒によって守られてきた儀礼や慣習などに説き及ぶ必要がある
と思う。宗教であるからには、どうしても、それらについての説明が前提になる。
しかし、神観念や教義、儀礼や慣習などについて説明しようとする場合、難しい問題につき
当る。それは、教義といい、儀礼・慣習といっても、一体、いつの時代のそれなのか、また、
どのような人たちによって信じられ、実践されてきたものなのか、そのあたりを正確に述べる
ことがたいへん難しいのである。高度に発達した神学体系や教義の内容には複雑・難解なもの
があり、時代を超えてその概要を、しかも簡単に説明することは、おそらくは専門学者にとっ
ても困難なことと思う。また、信徒といって吟、司祭者や教学にたずさわっていた人たちと、
行者や聖者といった宗教者たち、あるいは世俗的権力を握っていた支配層や、文字も読めない
人たちが大多数を占めていた一般の民衆とでは、同じヒンドゥー教、同じイスラム教といって
も、その宗教内容や信仰形態、または儀礼・慣習などの面で著しい違いが認められることも、
考慮にいれなければならない。
そう考えると、このような小さい書物では、この一一つの宗教について、そのおおよその内容
を概観し、その性格の違いについて比較してみるといっても、実は並大抵のことではないので
ある。だから、本書の前段での両宗教の比較説明については、歴史的に見るといっても、実際
には、長い歴史のなかで一般的な傾向として指摘できるような点、とりわけ今日にも通じる内
容に重点を置いて記すこととした。
この本を書くに当って、私は、この二つの宗教とその信徒の社会を見るためのいくつかの視
点を設定してみた。まず、ヒンドゥー教にしるイスラム教にしろ、それぞれの宗教内容や形態
あるいは信徒の社会関係などを、でき得る限り歴史的にとらえてみる、いいかえれば、それら
の歴史的変化にとくに注目するように努めたことである。しかし、そのことは、上にも述べた
Ⅱ二つの宗教と日本人

ように、実際に書いてみると、まことに難しい。ときには、どうしても歴史的に書けないこと
もある。ヒンドゥー教にしろ、南アジアにおけるイスラム教にしろ、このような歴史的視点を
ふまえての研究が著しく遅れていたという事実もその理由の一つにはなろう。それでも、私は、
本書においては、できるだけ歴史的な変化を重視し、この一一つの宗教の変容に注目するように



努めた。その点、紙数の都合もあって、近・現代の問題に十分説き及ぶ余裕がなかったのは残
念で あ る 。


第二に、とくに私が意識したのは、この二つの宗教を考察する場合の社会階層の問題である。

2
学界では、この二つの宗教については、どちらかといえば、難解な教義や思想内容が、これま
での主な研究課題の大半を占めてきた。ヒンドゥー教においては、哲学思想との関連において、
数多くの教典類を資料としての複雑な論理の解明や注釈などが中心テーマとされてきたし、イ
スラム教についても、法学・神学や思想史上の難解な問題点の解釈が、研究の主流となってき
た。大ざっぱにいえば、両宗教の教義や思想の解明・注釈を主とした、いわば︵教義と思想の上
部構造﹀ともいうべき面に、学界の主要な関心が向けられてきたといえるのである。
しかしながら、ヒンドゥーにしるムスリムにしろ、南アジアでは、その信徒の大多数は、字
も読めない、農民を主とする一般の民衆である。難解な教義の内容は、そのままでは理解でき
るはずがない。学界の主要な研究成果そのものからは、信徒の圧倒的多数を占める一般民衆が
信仰してきた宗教内容や、その人たちによって守られてきた儀礼や慣習などは、ほとんどわか
らないといっていいのである。それでも近年は、たとえば﹁ポピュラーⅡヒンドゥイズム﹂
両呂巳胃閏目昌の日とか﹁民衆レヴェルにおけるイスラム﹂といったような言葉も用いられるよ
うになり、また、農村や都市での民衆の生活に関する実態調査も行なわれるようになったりし
て、そのあいだで守られてきた信仰内容や儀礼・慣習とその意味に注目する研究の成果が発表
されるようになってきた。それらは、いわゆる民族学や宗教学、あるいは文化人類学などの進
歩の結果ともいえるが、ただ安易に︿現地調査﹀だけをやればいいというものではなし、問題意
識や方法の上でも、まだまだ問題はあるようだ。私自身、門外漢でもあり、そうした研究を十
分利用する余裕もなかったが、それでもなお、民衆の生活の場における宗教のあり方に注意し
つつ、問題を考えていきたいと思った。
このような視点とも関わることだが、本書において、私は、とくに宗教と社会構成、宗教と
権力構造との関連をつねに念頭に置きながら叙述を進めようと試みた。だから、はじめの章で
宗教内容の諸面からこの二つの宗教を比較してみたあとでは、私の考察は、ヒンドゥーとムス
リムの問題、すなわち、宗教そのものの検討というよりは、むしろそれぞれの宗教を信奉する
人たちの人間関係、あるいはその社会集団の構成の方に力点を置くように努めた。
このような視点に立てば、宗教の持つ二つの側面にとくに留意する結果となるのは当然のこ
nこつの宗教と日本人

とであろう。つまり、支配権力乃至は国家が、その支配を貫徹するために、宗教あるいは教団
や信徒社会に対して如何に対処したかという面と、逆に、宗教そのものが、政治権力や国家の
成立・存続にどのような役割を果したかという面とである。のちに述べるように、南アジア史
のなかでは、このことは、とくに︵民族﹀という複雑な問題との関わりにおいてあらわれる。だ


2
から、私は、必然的に、宗教と権力、宗教と社会の問題を、歴史のなかの民族の問題と関連さ
せながら考える必要を痛感させられたのである。


本書の題は、﹃ヒンドゥー教とイスラム教﹄である。しかし、実際には、むしろ﹃ヒンドゥー

2
教徒とイスラム教徒﹄か、あるいは﹃ヒンドゥー社会とムスリム社会﹄という題をつけた方が
適当であったかもしれないと考えている。私自身は、宗教学についてはいわば素人であるし、
いわゆる︿インド哲学﹀やイスラム研究プロパーについても門外漢である。その点からしても、
私は、自分にとって不得手な宗教内容それ自体についての考察よりは、むしろ、宗教そのもの
のうえに生れた、社会・政治あるいは文化に関するさまざまな問題を歴史的な視野からとりあ
げることに重点を置く方が、私自身の考察の特色が出せるのではないかと思った。自己流から
来る問題把握のアンバランスな点や不十分な説明については容赦していただき、御教示を得た
いと願っている。
4宗教認識とインド観
この︿序文﹀的な章の終りに、私は、日本人の宗教認識と日本人のインド観といった問題に触
れておきたいと思う。というよりは、その点に触れることなしには、本論に入っていけないよ
うな気がつよくするのである。
私たち日本人がインドについて持っている認識は、もちろん、人によってさまざまである.
だが、このごろつくづく感じるのだが、インドとパキスタンの独立後すでに三十年の年月を経|
ようとしているのに、また、経済の面でも、南アジア諸国との交渉が、大戦前とは比較になら
ないほど緊密なものとなっているにもかかわらず、私たち日本人のインド認識またはインド人
観がそれほど深まったとは、到底、思えないような気がするのである。
そう簡単にいい切れる問題ではないとは思うが、私たち日本人、とりわけ日本のインテリに
とって、南アジアは、どちらかといえば、単に眺める対象でありつづけたとはいえないだろう
か。幕末以降、いわゆる近代化の道を突き進んできた日本の課題は、いわば欧米先進国の体制
や思想・文化を追求する面であまりに忙しく、インドや西アジアは、全体としては、日本人の
直面する切実な問題の対象の外に置かれてきた感がある。だから、学者や作家などの実感に基
づくすぐれた紀行文や評論を読んでも、南アジアの風土や歴史遺産に対する知的あるいは感覚
Ⅱ二つの宗教と日本人

的な興味はそそられても、結局は、その地域、そこに住む人びとの抱える問題に対して切実な
関心を持ちつづけることは、大方の日本人にとって難しい場合が多いのだ。もちろん、そこに
住む人たちに同じアジア人の立場を見、連帯を意識することは大いにあるし、それについて強
調することも多い。しかし、日常の生活様式や経済・社会のメヵーーズム、あるいは思想や宗教


2
の面で、すべてが現代の日本とは著しく違う面が目立つのだ。だから、大事な問題があること
に気づいてはいても、どこかで、見るひと、眺めるものの立場.つまりは切実にコミットして


はいないものの意識や行動様式から抜け出せない。率直にいって、日本人と、インドや東南ア

2
ジアの人たちとは、コミットする場合は、︿戦争﹀かく商売﹀だったという感さえ強い。少なくと
も私には、そう思えてならないのである。
とまれ、日本人のインド観・イスラム認識は、交通手段や経済面での交渉が著しく進んでき
た今日においてさえも、インド人の日常の生活内容や人生観、南アジア社会のさまざまな問題
についての理解を古い認識にとどめたままである。それに、現代社会の一部のマスコミは、イ
ンドやイスラムのこととなると、むしろ珍奇や異常あるいはその︿神秘性﹀をことさらに強調し、
そのことが一般のインド認識をさらに歪めているという傾向をも指摘しておく必要があろう。
このことに関連して、日本人のインド認識が、知識の面ばかりか、意識に関わる面でさえも、
いつも西欧経由ででき上がってきており、日本人の主体的な視点や、南アジアの人びとの立場
に立つものとしては、ほとんどとりあげられなかったということも、大切な問題だと思う。日
本におけるインド研究が、そうした傾向のもとで行なわれてきたこともたしかである。このこ
とは、インドばかりでなく、アジア諸地域全般についても当てはまることである。つまりは近
代における日本文化や学問研究のあり方に関わる大きな問題だが、日本人のアジア認識を深化
させない一つの条件だったとはいえそうである。こうした日本人のインド観・アジア認識のあ
り方が、ヒンドゥー教に対する認識や理解の深化を妨げたり、あるいは偏ったものにしてきた
一因であると、私は考える。西アジアやイスラム教についても、ほぼ、同じことがいえるので
はな い か と 思 う 。
たとえば、日本人のなかには、ヒンドゥー教やイスラム教を、︿へんてこな宗教﹀︵おかしな宗
教﹀といつたふうに感じている人がまだ、かなりいる。仏教については歴史や現実の生活のな
かで深い経験を持っている日本人は、キリスト教についても、ヨーロッパの歴史を通じて、一
応は知っている。それにくらべると、ヒンドゥー教やイスラム教やユダヤ教、あるいはよく知
っているはずの仏教の場合でも東南アジアの仏教となると、その実体についてはもちろん、常
識的な知識さえ持ち合せていない人が大部分である。このことは、日本人の歴史経験からして、
実は、致し方のない面もある。自分の知らないことを、とかく異常な現象、おかしなことがら
と感じ、勝手な想像をし、偏見をもって断じてしまうのは、人間にとって、ある程度は仕方が
Ⅱ二つの宗教と日本人

ないことだからである。
だが、これらの宗教、とくにヒンドゥー教やイスラム教の場合には、世界史の面から見てみ
ると、日本を除くアジアの大部分の地域に拡まっていた宗教であり、その信徒の数からいって
も、また諸民族の生活や文化に対する影響の強さを考えてみても、まことに重要な役割を果し


2
てきた。そして、今日なお、その役割を果している宗教なのである。よく考えてみると、この
二つの宗教と切実な関係を持たなかったのは、アジアにおいては、どうやら、東アジアの隅っ


こにいた日本だけだったといってもいいほどなのに気がつく。日本人は、個人としても、総体

3
的な歴史の経験においても、この一一つの宗教の直接の影響の外側にとどまっていたし、実際、
私たちの社会には、大きな影響を及ぼさなかった。日本の教育が、詰め込み教育をしながらも、
このアジアにおける一一つの重要な宗教に対する認識はもちろん、まともな知識さえも与える努
力を怠ってきたという点も、この際、指摘しておく必要があろう。
それに、日本人の宗教観・宗教認識そのものにも問題があろう。外国人がよくいうように、
日本人は、さまざまな理由から、多くのアジア人や欧米人にくらべて、とかく、宗教を切実な
問題として考えない傾向がある。だから、南アジアにおけるヒンドゥー教、西アジアをはじめ
とする諸地域のイスラム教のあり方、それが人びとの生活や社会に占める位置については、今
日の日本人にはなかなか理解できない点があるのである。
こうした背景のなかでは、近代の日本においても、ヒンドゥー教やイスラム教が重要な課題
となることは、一部の限られた学問の領域を除くと、ほとんどなかったといっていいだろう。
太平洋戦争の最中に日本軍が東南アジア諸地域を占領し、インド亜大陸への進出を企図した一
時期を除けば、ほとんど実質的な関係を持たないまま一一十世紀後半を迎えたのである。このよ
うな結果が、近年、主に資源問題や経済関係を通じてアジアの諸民族との交渉を進める必要が
痛感されるたびに、慌てて︿反省﹀されるといった経験については、ここに一々あげつらうまで
もな い こ と と 思 う 。
このような傾向は、実は、学問研究の領域にもあらわれている。ヒンドゥー教にしるイスラ
ム教にしろ、近年、さまざまな新しい視点と方法とに立って論じられてきたことは指摘できる
のだが、なおそこには、従来の認識や方法の持つ狭さや偏りが認められると思う。たとえば、
ヒンドゥー教やイスラム教を扱う場合にも、いつも、いわゆる︿インド学﹀や︵イスラム学﹀的な
限界がつきまとっていて、専門家のあいだでしかわからないタームを用いつつ、狭い土俵のな
かで論じられ、より広い視野と姿勢とに欠けていたとはいえないだろうか。
学問であるからにはそれも当然だという反論もあるに違いない。だが、ここで私がいいたい
のは、さきに記した日本人の認識のあり方を考えると、専門的なタームを用いての、いわば︿特
殊インド学﹀的、︵純粋イスラム学﹀的な視角や方法からする狭い限界を超えて、もう少し一般的
Ⅱ二つの宗教と日本人

な、あるいは普遍的な視角や問題意識からライトをあてる姿勢が必要ではないか、ということ
である。従来の日本の学問領域からいえば、ヒンドゥー教は、主に︿印哲﹀の専門家によってと
りあげられ、特殊インド学的な関心から、難解な専門用語を用い、その対象も思想と教義の上
部構造に関する考察が大きな比重を占めてきた。それはそれでいいのである﹄しかし、たとえ


3
ば、民・衆レヴェルにおけるヒンドゥー教のあり方や近・現代のヒンドゥー思想などは、研究対
象としては、あまりとりあげられなかったのである。


イスラム研究についていえば、状況はもっと簡単であったといえそうである。というのは、

3
日本の大学では、ごく少数の研究者を別とすれば、ヨーロッパにおけるイスラム学の伝統さえ
ほとんど根をおろしてはいなかったからである。この点、言語学や文学、あるいは歴史学の専
攻者がイスラム教の研究に乗り出していったという、インド研究の場合とはいささか異なる状
況が見られたことは注目されよう。しかし、両宗教ともに、近年になって、一部の宗教学者が
その成果を公にしはじめたことは、遅ればせながら歓迎すべきことである。と同時に、ここで
は詳述する余裕はないが、ともかくも、より広い視野から、狭い意味での︿専門﹀の枠や限界を
抜け出そうとする問題意識と方法とに立つ研究が進められてきたことも、よろこばしい。本書
は、そうした今後に期待される精綴な研究とはほとんど無縁なところに位置するわけだが、少
なくとも、これまでの問題認識の欠けていた部分をいささかなりとも補うことに役立てば幸い
だと 思 っ て い る 。
この点に関連して、もう一言、つけ加えておきたいことがある。それは、ヒンドゥー教やイ
スラム教についての研究は、これまで欧米の学界において大きな成果をあげてきたが、近年は、
南アジアや西アジアにおいても、すぐれた業績があらわれてきているという点である。戦後の
日本の学界が、これらのアジアの諸地域における研究者の成果をも大幅に吸収しようと努めて
きたことは、当然のことながら、重要である。
ただ、そこにもいささか問題がある。欧米人の研究には、その問題の設定や分析の視角にお
いて、多かれ少なかれ、観察者の立場が目立ち、また、その一部にキリスト教的な立場に立つ
ものが顕著であったことは致し方ない。それに対して、アジア諸地域における研究者の場合に
は、それらとかなり異なった面が見られると、私は思う。たとえば、自らヒンドゥー教徒であ
る学者・研究者によるヒンドゥー教の研究、あるいは、自分自身がムスリムである学者による
イスラム教の研究などにときに見られる問題意識や視点がそれである。
宗教の解説や研究は、だれがやるかによってその内容や結論に著しい差異が出てくる。ある
特定の宗教を研究対象として選ぶときには、その宗教を信仰している研究者とそうでないもの
とのあいだには、さまざまな面で大きな違いが出てくる。それが、研究者個人の立場を超えて、
宗派や宗団、あるいは民族や国家という問題に関わってくるときには、より切実なものとして
Ⅱ二つの宗教と日本人

あらわれてくる。たとえば、シオニスト的な立場に立つユダヤ人のイスラム研究や、一部のヒ
ンドゥー学者によるイスラム教へのアプローチ、逆に、一部イスラム教徒の試みるヒンドゥー
教についての研究には、それぞれ、その視角や対象の選択、問題の解釈などに、ときには微妙
な、ときにはまことに切実な特徴が生れてくる。また、同じ南アジアのイスラム教徒にしても、


3
パキスタンの学者、バングラ川デーシュの研究者、さらにインド共和国のムスリム学者のあい
だには、イスラムやムスリム社会に関する歴史認識に、問題によっては、その解釈にかなりの


くい違いやずれが出てくるのである。私は、こうした研究者の意識に関わる切実な問題につい

3
ても留意しながら、本書を書いた。この点からすれば、さきにマイナス要因として挙げた日本
人のこの二つの宗教に対する視角は、いささか皮肉ではあるが、ある程度の客観性を持つこと
ができるといえるかもしれない。

対立する宗教
l神・教義・儀礼

三つの顔を持つシヴア神(エレフアンタ島)

3
1多神教と一神教
ヒンドゥー教が多神教でイスラム教は一神教だということは、日本人でも知っている人が多
いだろう。一神教と多神教の違いについては、宗教学でもいろいろなことがいわれてきたよう
だが、それは、単に、ある宗教が︾多くの神々を頂いているか、あるいは唯一の神だけを信じて
いるかという、いわゆる神観念の相違だけの問題ではない。多数の神々を持っているか、唯一
絶対の神だけを頂くかは、その宗教の教義や儀礼・慣習ばかりでなく、神と人間とのあいだを
とり持つ司祭者のあり方、教典の性格、信徒の人間関係や社会構成、さらには宗派のあり方、
︿正統と異端﹀といった、さまざまな問題までをも規制するものである。だから、この宗教は多
神教、あの宗教は一神教だといって、その神の具体的性格や神観念の違いなどを並べ立てるだ
けでは、それほど意味はない。しかし、それらの問題についてはつづく各章で触れるとして、
ここでは、まず、この二つの宗教︾における神観念の特徴とその相違点とについて述べることか
ら始めよう。
ヒンドゥー教の神観念は、時代によって変化している。具体的な神々そのものも、もちろん、
時代によって異なり、どんな神が影響力が強かったかということも、時と場所とによって異な
っている。しかし、今日なお有力な神々のなかには、その系譜を辿れば、紀元前一五○○’一
三○○年ごろにかけてアーリャ人が西北インドに侵入してきたのちに成立した﹁ヴェーダ﹂
ぐのgにあらわれる神々にまで遡り得るものも少なくない。この初期ヒンドゥー教典ともいう
●へき﹁ヴェーダ﹂については、ここで詳述ずる余裕はないので、たとえば、岩波新書の辻直四
郎著﹃インド文明の曙﹄を見てほしい。﹁ヴェーダ﹂の神々の多くは、自然現象を神格化したも
のが多く、日月・風雨・雷塞などの自然の表象が神として信仰の対象とされ、のちには人にな
ぞらえてあらわされるようになった。古代人の最高の知的遺産の一つとされるこの聖典では、
信仰・言葉といったような抽象概念までをも神格化している。
﹁ヴェーダ﹂の宗教は、アーリャ人がガンガー中流域に進出し、農耕生活をも営みながら部
族国家の体制を整え始めた時代に入ると、祭祁を重視しつつ、きわめて思弁的な性格を持つい
わゆるバラモン教として発展していく。バラモン教は﹁プラーフマーーズム﹂犀昌日鯉昌⑳日の
、対立する宗教

訳語ともいえるが、もちろん、その当時からの名称ではない。﹁バラモン﹂とは、司祭者たるプ
ラーフマナ陣・響冒嘩冨の漢訳仏典による音訳の﹁婆羅門﹂を、そのまま日本語流に書いたもの
である。この司祭者たる寺ハラモンたちが、祭祁や教典の前面に出てきて重要な役割を演じるよ


3
うになったところから、そう呼んだわけである。ヒンドゥー教とは、ふつう、このいわゆる︵
ラモン教から起った宗教とされているが、﹁ヴェーダ﹂の宗教やこのバラモン教と別の宗教体系
ではない。むしろ、ヒンドゥー教とは、﹁ヴェーダ﹂の宗教を基盤とし、そこから展開していつ調
た.ハラモン教が、後述するようにさらに拡大されていった結果の宗教と考えるべきで、その意
味では、﹁ヴェーダ﹂の宗教やバラモン教は、いわば︿原初ヒンドゥー教﹀あるいは︿初期ヒンド
ゥー教﹀と呼んでも差支えないものと、私は考えている。
いずれにせよ、私たちが今日いうところのヒンドゥー教の成立の背景には、本来アーリャ人
のものだった﹁ヴェーダ﹂の宗教と、同じくアーリャ人の司祭者が圧倒的に多かったと思われ
る.ハラモン教が、先住のドラヴィダ人やモンゴロイド系、あるいはもっと前から亜大陸に住ん
でいたより古い民族のあいだに拡がっていき、その人たちの持っていた宗教と混合し、一体と
なっていった過程を考える必要がある。言葉をかえていえば、アーリャ人だけの宗教から、非
アーリャ系諸民族の宗教の諸要素をとり入れ、より広い内容と形態とを持つものへと移行して
いくなかで成立していった宗教が、ほかならぬヒンドゥー教なのだと理解していいと思う。こ
の点については、のちに、もう少し詳しく記すこととして、話題をもとに戻そう。
神観念の内容が、具体的な神々の性格・資質やその呼称とともに、こうした歴史的変化に応
じて変っていったことはいうまでもない。その過程で、非アーリャ系諸民族によって崇敬され
ていた神々が、アーリャ人の神々のパンテオンに参加した。いろいろな動物・生物や物神の崇
拝、精霊信仰やトーテミズムなどの諸要素が、ヒンドゥー教の神観念のなかに混入していった。
こうして、紀元前後には、今日見られるようなヒンドゥー教の多彩な神々の原型が形成されて
いったものと思われる。詳しくは、たとえば、山崎利男著﹃神秘と現実Iヒンドゥー教﹄︵淡交
社︶、菅沼晃著﹃ヒンドゥー教lその現象と思想﹄︵評論社︶などに紹介されている。
多神教の性格を次第に強めていったヒンドゥー教の神観念には、いくつかの特徴が見られる。
その一つは、これらの数多くの神々のあいだに、さまざまな関係、つまり神々の系譜が認めら
れることである。それはきわめて複雑ではあるが、とくに記しておきたいのは、︵配偶神﹀およ
び︿化身﹀という考え方である。男性の神が配偶者として︿妃神﹀乃至は︿女神﹀を持つのは、ギリ
シア神話の例でわかるように、他の古代宗教にも共通する現象であった。たとえば、ヴィシュ
ヌぐ厨呂神に配するにラクシュミー旨厨目、シヴァの一国神にはウマーロョ凶あるいはパー
ルヴァティー闘局自画といった妃神がそれである。こうした男と女の神のほかに、ときに両性
教を具える神もあらわれた。また、女神だけが独立して崇敬されるようになる場合も見られた。
毒︿他ァ掴熱﹀四畠副国についていえば、それが最も極端に発達した宗教がヒンドゥー教であると
鐘さえいえるほどに、有名である。主な神々は、姿を変えて人間・動物としてあらわれる。ヴイ
対シュヌ神は、古代英雄叙事詩のヒーローたる王子ラーマ爵ョ陣や策士クリシュナ犀、急とし


3
て活躍した。仏教の開祖ゴータマ川ブッダの。冨昌毎m且旦冨つまりシャーキャムニもまた、ヴ
イシュヌの化身とされた。このヴィシュヌ神が、魚やカメなどに化身することは、インドでは


だれ知らぬものもないことである。一方、︿化身﹀とはいえないが、シヴァ神の象徴として最も

4
有名なのは、いわゆるリンガ冒鴇である。このリンガ崇拝が、もともと非アーリャ系先住民
の信仰に見られた生殖器崇拝の影響の結果であることは、すでに定説となっている。
多神教のかたちをとる宗教が汎神論的な傾向を示すことは、よく知られている。ヒンドゥー
教もその典型であって、汎神論的な性格をつよく持っている。神が、あまねく、いろいろな場
所にさまざまなかたちで存在するという考え方は、ヒンドゥー教の神観念を、さらに複雑・多
彩なものとしていった。
イーシユ︾・アラ8
このように、典型的な多神教であるヒンドゥー教の神観念のなかに、主なる神・主宰神目いく四.
国という考え方が成立し、いわば一神教的な傾向が認められる点に、この宗教の神観念におけ
る他の特徴がある。あまたの神々のなかから、次第に有力な神が台頭し、他の神々を従えるよ
うになっていく。ヒンドゥー教では、ブラフマー犀呂日画・ヴィシュヌ・シヴァの三神がその
権威を確立していき、やがて、やや難解な性格の持主であったブラフマー神を押しのけて、ヴ
ィシュヌとシヴァとがひろく民衆の崇敬をかちとり、一一大主宰神としての地位を確立して今日
に至っている。
主宰神の台頭とその権威の確立といった事実は、多神教のパンテオンの世界にも一神教への
傾斜が認められることを意味する点で重要である。つまり、典型的な多神教といわれるヒンド
ゥー教の世界でも、︿自分が頼りにする神﹀といったかたちで、絶対神への帰依に似た傾向が見
られたのである。それは、神観念において、いわゆる一神教とは明確に性格を異にするが、信
仰内容としてはそれに近いところまでいっていると思う。とくに、のちに述・へるように、この
傾向が、宗派の成立や宗派間の共存の基盤となったという点や、改革への動きが起きるときに
こうした一神教的なものを指向する傾向がつよく認められるといった歴史事実を考えると、社
会的には大きな意味を持つものといえよう。
それにもかかわらず、ヒンドゥー教は、世界の諸宗教のなかでも最も典型的な多神教といえ
るであろう。そして、この多数の神々を頂き、汎神論的性格をつよく示してきたヒンドゥー教
が、その神観念のゆえに多彩な儀礼と慣習、特徴的な宗派のあり方と共存関係を持つようにな
ったのも当然のことであろう。
教ヒンドゥー教が多神教の典型だとすれば、イスラム教の方は、典型的な一神教といえる。日
宗本語としては、むしろ︿唯一神教﹀といった方がふさわしいほどに、神は、まさに絶対にして唯
壷一、アッラー匿一響のほかに存在しないのである。ムスリムのだれもが唱える、いわばお題目

ともいうべき﹁アッラーのほかに神はない。ムハンマドは神の使徒である﹂︵厨旨冨三幽


4
シ一面宮巨巨富日日且困騨の昌醇一一豊︶という言葉は、すべてのイスラム教徒にとって、その信仰の
出発点であり、根本理念なのである。


4
ヒンドゥー教が特定の始祖を持たないのに対して、イスラム教を創始したのは、歴史上に実
在したムハンマド富巨富日日且なる人物、日本でいいならわされてきた呼び方をすればマホメ
ットである。ユダヤ教をもとにしてキリスト教を説いたイエスは、やがて︿神の子﹀の地位を与
えられ、キリスト教神学は、︿父と子と聖霊﹀という、いわゆる三位一体論を展開していった。
その神の子たるイエス川キリストは、実際には、神の地位と権威とを代行することもあった。
︽トウムル・アンピヤー ラスールッヲー
だが、イスラムにおいては、ムハンマドは、あくまで﹁最後の予言者﹂であり、﹁神の使徒﹂で
ある人間に過ぎない。素朴な民衆信仰のなかにおいてさえも、彼は、決して︿神﹀として崇敬さ
れることはなく、︿神の子﹀としての地位さえも許されない。神は、唯一にして絶対なるアッラ
ーを措いて他にはない。マホメットは、その神から遣わされたく使徒﹀なのである。
だから、ヒンドゥー教の複雑・多彩な多神教の世界にくら。へると、イスラム教における神観
念は、まことに明解そのものである。イスラム教は、、ユダヤ教とキリスト教の伝統のなかで成
立し、のちにはギリシア思想とくにネオ川プラトーーズムの影響を受けた。イスラム教に見られ
る厳しい唯一神に対する信仰は、西アジアにおける宗教的伝統の主脈であった絶対唯一の神の
信仰という系譜のなかに位置づけることができるであろう。
さきにも触れたように、いわゆる多神教と一神教との違いは、神が複数か単一かという、単
なる神の数の問題ではない。多数の神々の存在を認め、その多様な力と権威との並存を認める
宗教と、唯一の神だけを絶対者として崇敬する宗教とでは、狭い意味での教義内容にとどまら
ず、その信徒の人生観や社会生活全般にまでさまざまな差異をもたらす。だから、ヒンドゥー
教とイスラム教とを、多神教と一神教としてそれぞれの神観念の違いだけを指摘するのは、こ
の両宗教を多角的に検討する場合の単なる出発点にすぎない。しかし、それが、この二つの宗
教とその信徒の社会の性格に見られる差異を明らかにする大事な起点であることは、間違いな
いところである。なお、イスラムについての最近の紹介書としては、中村麿治郎著﹃イスラム
ー思想と歴史﹄︵東大出版会︶を、イスラム思想については、井筒俊彦著﹃イスラーム思想史l神
学・神秘主義・哲学﹄︵岩波書店︶などを参照されたい。
2祈りと礼拝
Ⅲ対立する宗教

ヒンドゥー教でもイスラム教でも、宗教的行為の最も重要なものとして、︿祈り﹀と︿礼拝﹀と
をあげることができよう。祈る対象が一方は異なる神々であり、一方は唯一絶対の神であって
も、この行為に関する限り、両教徒が目的とするところは、ほぼ同じといえる。だが、ヒンド


4
ゥー教とイスラム教とでは、祈りや礼拝という行為の具体的なかたちや内容において、著しい
差異が認められるのである。


その違いは、なによりもまず、祈り礼拝する対象としての神を、︿偶像﹀として具象化するか

4
否かという点にあらわれている。ヒンドゥー教では、いわゆる︿偶像崇拝﹀が、日常の宗教儀礼
や慣習のなかで当りまえのこととなっているのに対して、イスラム教では、礼拝の対象に偶像
を置くことは、この宗教の成立の当初から今日に至るまで、厳しく拒否されてきた。
ヒンドゥー教もイスラム教も、ともに、祈りと礼拝とを主要な義務としてその信徒に課して
きた。それは、私的な、個人的な行為、あるいは家庭内における家族集団の共同の行為として
行なわれると同時に、公共の場における、いわば社会的な行為としても儀礼化されてきた。祈
り、礼拝することの基本的な意味については似ていても、その表現と方法とは、偶像の存否を
めぐって全く違うものとなった。
祈りの行為に先立つ、あるいはそれにともなうさまざまな規則や儀礼・慣習などに見られる
差は、それほど重要な意味を持たないであろう。しかし、祈りを捧げ、礼拝の直接の対象とす
る神を偶像として具象化するか否かは、彫像・画像や物体をその神と人間とのあいだに置くか
置かないかといった単純に物理的な問題でないことはいうまでもない。それは、一つの宗教の
信徒の知的・心理的、あるいは情感の世界におけるさまざまな内的作用の違いを示している点
で重要なのである。知的思惟に慣れていない一般の民衆にとって、礼拝の対象たる偶像や物体
を神の顕現として目の前に確認し、それを媒介として神に祈念することが、宗教的意識や信仰
への情熱を高めるのに役立つことはいうまでもない。この点を考えると、偶像を拒否するイス
ラム教は、知的な行為としての祈りを要請する宗教として注目されてよい。
ところで、一方は徹底した偶像崇拝で他方は厳しい偶像拒否という、両宗教に見られる極端
な違いが、一つには多神教と一神教という神観念の差異に由来することは、認めざるを得ない
であろう。たしかに、具象化というやり方は、多数の神々が存在するとき、それぞれについて
区別し、選択する場合に役に立つ。この点だけからいえば、唯一絶対の神は、具象化される必
要はない。多神教が、さまざまな偶像を創り出すことによって多くの神々を選別させる手だて
としたのは、きわめて自然である。だから、多神教と偶像崇拝の慣習は、相互に依存し合う関
係にあるともいえる。ヒンドゥー教が、偶像を持ち、それを祈りと礼拝の対象とするに至った
理由の一端は、その多神教的な性格にあるといえよう。
イスラム教における徹底した偶像拒否が、その厳しい唯一神教たる性格によるものであるこ
、対立する宗教

とも、また、同じように指摘できるであろう。しかし、厳しい偶像否定の世界にあっても、偶
像あるいはそれに代るものが創り出される契機はつねに存在していたということに注意してお
く必要がある.とくに、偶像を拒否する宗教が、偶像崇拝の宗教の世界に接触し、またその内


4
部へ入りこんでいったときに、その傾向が強まっていったのは当然であり、歴史のなかで実際
に見られたことである.厳しい偶像拒否に徹したはずのイスラム教が、インドや東南アジアに


おいて、明確な偶像崇拝のかたちこそとらなかったものの、偶像に代る崇敬の対象をなんらか

4
の事物や現象、あるいは人格に求めるといった傾向をつよく示したことも、また事実である。
それについては、のちに触れたいと思う。
公共の礼拝を家庭の外の公共の宗教施設で行なうという点は、両宗教の場合、似ている.ヒ
ンドゥー教では、マンディルョ四目胃、すなわち神殿がある。仏教に親しんできた日本では、
ヒンドゥー教の場合も同じように︿寺院﹀といい、私もその言葉を用いているが、厳密な意味で
は︿神殿﹀というべきであろう。ヒンドゥー教のマンディルは、神に対する祈りと礼拝の場であ
り、とくに特定の祭日には、信者でひどく賑わう。ただ、特定の時間を決めて、すべての参詣
者が揃って礼拝するという慣習は、ヒンドゥーの場合には本来はなかった。いってみれば、ば
らばらに、自分自身あるいは家族とともに行き、祈願を捧げるのである。差別を受けてカース
ト外にランクされた人たちを内部に入れることを認めないマンディルも、一部にはまだ残って
いるという。もっとも、一般には婦人に対する禁忌はなく、ヒンドゥー寺院のなかでは、しば
しば、婦人たちの姿の方が目につくほどである。
日本人が、ふつう︿イスラム教の寺院﹀と呼んでいるモスクgo印呂のは、本当は︵寺院﹀でも
︿神殿﹀でもない。正しくはく礼拝所﹀あるいは︿礼拝堂﹀とでも訳すべきものであって、アラビア
語の原語ではマスジッド日曾の言といい、英語などでモスクというわけである。モスクの本来
の存在理由は、信仰をともにするムスリムが集まって共同の礼拝を行なうための公共施設とし
てである。もちろん、モスクでは、如何なる意味やかたちにおいても、偶像の存在は許されな
い。集まってきた信徒は、ただ、定められた同じ一地点、聖地メッカ言⑦、8︵正しくはマッヵ
ご煙雰昌︶に向って一斉に揃って礼拝を行なうのである。モスクにおいては、集団による共同・
連帯の行為としてのこの礼拝が最も重要な意味を持っている。それについては、また、のちに
触れよう。ヒンドゥーの場合と違って目立つのは、一般には、この公共的モスクのなかに、婦
人たちの姿を見かけないことである。南アジァのムスリム社会では、従来、女性は、家にあっ
て祈るべきものとされてきたらしい。ムガル帝国や各地の旧ムスリム王国の宮廷地域には、婦
人だけの礼拝用に造られた小型の美しいモスクの遺跡があるし、また︿ザナーナ﹀㈱自倒口昌と呼
ばれる婦人用の部屋が設けられていたモスクもある。だが、モスクについて、これ以上述べる
余裕はない。ここでは、この公共的な宗教施設であるヒンドゥー寺院とイスラム教のモスクの
Ⅲ対立する宗教

性格の違いを指摘しておくにとどめる。


4
3人生観と世界観


4
ヒンドゥー教の教義・教理の根本にあるものは、私たち日本人には、比較的わかりやすい.
というのは、その内容の多くが仏教に受けつがれていったため、日本人は、たとえ仏教の信者
でなくても、日本の歴史や思想・文化の伝統のなかで、その人生観あるいは世界観などについ
て一応は知っているところがあるからである。
ごう
ヒンドゥー教の教義とそれに基づく人生観・世界観のエッセンスは、簡単にいえば、業︵カル
リん ね
マン・弄胃日自︶と輪廻︵サンサーラ・の四日⑳動国︶という考え方にあらわれているといえるだろう。
こんじよう げんぜ
現在、この自分が生きている生、つまり今生あるいは現世は、いくつもの生や世のうちのただ
一つに過ぎない。人にはみな、前生・前世があり、さらに来生・来世が待ち受けているのであ
る。これらの生・世は、輪のようにつながっている。そして、今生・現世のあり方を規定する
のは、前生・前世の業である。業とは、簡単にいえば、人間の行為にほかならない。だから、
前世の業が、この世に生きている自分の生のあり方を決めているのであり、この世でなす行為
こそが、自分の来世の生きざまを決めるというのである。
てみしよう
さきにも触れたように、この業と輪廻、あるいはそれに関わる転生という考え方は、実際に
信じるか信じないかは別として、日本人には、一応、知られてきた人生観・世界観である。こ
うした考え方は、人間が持つきわめて素朴な道徳意識に基づくものであり、また逆に、倫理意
識を規制する役割をも果す.たとえば︿因果応報﹀といった言葉に示されるように、善行は必ず
報いられ悪行はそれだけの償いを受けなければならないという、まことに単純な道徳律の基本
型であるといってよい。ヒンドゥー教がその教義の根底をこのような人間の素朴な倫理感に置
いたことが、この宗教を長くつづけさせてきた一つの要因になったことは指摘できると思う。
ところで、業と輪廻の思想が、本来のアーリャ人のものではなく、むしろ非アーリャ的な観
念であったとする説は、本書の問題意識からすると、とくに興味がある。ヒンドゥー教がイン
ド亜大陸全域に拡まった一つの秘密は、この素朴な実践倫理をその教義の根本に据えたところ
にあると思う。この永劫の輪廻の生の輪から抜け出して天上の楽土に安住することが、ヒンド
ゥー教徒の理想である。神々とともにあるその天上の世界で、はじめて、永遠の平安と幸福と
教を得ることができるのである。
毒ヒンドゥー教徒が持っているこのような人生観と倫理意識にくらべると、イスラム教の教義
錘に基づく死生観は著しく違っており、仏教的倫理に親しんできた一般の日本人には、なかなか
対理解しにくいところがある。イスラム教も、究極的には天上の楽園を想定し、神の国を理想に


4
掲げる。人間は、死んだあとは、︵最後の審判﹀の日まで、いわば仮の眠りについているに過ぎな
い。肉体は朽ち果てても、魂は生きつづけて、神による審判の日を待たなければならないので


ある。イスラム教のこの終末観は、いうまでもなく、ユダヤ教やキリスト教から受けついだも

5
のと見ていいだろう。
︿最後の審判﹀における唯一神アッラーの裁きは、秋霜烈日、きわめて厳しい。イスラム教徒
たちの最後の運命を決めるのは、ただ、アッラーのみである。人は、この絶対者のまえでは、
全く無力である。ただ、そうした考え方だけでは、人間の一生においてどんな努力をしても仕
方がないという、徹底した宿命論に陥ってしまう。だが、イスラム教では、カダル色且胃︵定
命・予定などと訳されている︶という観念があり、それによって信徒の努力が報いられるとい
う余地を残している。たしかに、人間のすべてを掌握しているのは唯一の神アッラーだけであ
るが、信徒には、その短い生涯の間に、真にアッラーに帰依し、定められた戒律と行為とを厳
しく守ることによって︵最後の審判﹀に備える余地が残されている。アッラーがそれを認めてく
れさえすれば、それは審判に影響するはずである。ただ、その裁きは、あくまでも絶対者アッ
ラー の も の な の で あ る 。
ヒンドゥー教とイスラム教の教義の基底にある人生観・世界観をくらべ合せてみると、全く
違っているようでいながらも似ているところがある。両宗教ともに、内容は異なるにもせよ、
︵天国﹀とく地獄﹀とを想定し、究極の生を、天上の楽園、神とともにある理想郷に求めている。
ただ、そこに到達するまでの道は違っており、しかも、そこに行きつこうとする人間の行為と
それを規制する絶対者、神のあり方については大きな差異がある。そこから、絶対者に対する
人間の帰依の仕方、信徒たちの死生観や倫理意識の内容にも、現実の世界では、かなりの違い
が出てくる。
だしよう
ヒンドゥー教徒の場合、いまの生は、輪廻転生の長い他生とともにある一時期に過ぎない。
だが、イスラム教徒では、この現世における生き方こそが、厳しい︿最後の審判﹀に備えること
ができる唯一の機会である。ヒンドゥーの神も厳しいけれども、そこには、どちらかといえば、
その恩寵にすがるべくこの世で行ない得る善行の余地が多く残されている。イスラム教でも、
戒律を守って信仰に励めば希望は持てる。しかし、唯一神アッラーは、﹃コーラン﹄の至るとこ
ろに出てくるように、﹁すべてお見通し﹂なのである。定められた戒律を厳しく守っても、審判
にパスするという絶対的な保証はないのである。
人生観・世界観やそれにともなう倫理意識の違いは、ヒンドゥーとムスリムの生活のさまざ
Ⅲ対立する宗教

まな面に反映している。ヒンドゥー教徒にしばしば見られる︿悠容せまらぬ﹀態度や︿悟りきっ
た﹀境地といったものは、こうした教義や死生観と決して無縁ではあるまい。一方、イスラム
しもぺ
教徒の、戒律を守る厳しい生活態度にうかがわれる一種の緊張感は、アッラーの僕である信徒



に残されたわずかな人間的努力のあらわれともいえようか。
こうした両教徒の人生観と倫理意識に見られる相違は、次章に説くところの、両教徒の人間


関係あるいは社会集団の構成にも如実に反映しているし、また、のちに述べるように、両宗教

5
における宗派のあり方とその関係、さらには、いわゆる︿正統と異端﹀の問題にも関わりを持っ
てくるのである。
4教典と聖職者
ヒンドゥー教もイスラム教も、それぞれ、信徒がその信仰の拠りどころとする︿教典﹀を持っ
ている。しかし、その両者の内容と性格には、著しい差異がある。イスラム教の場合には、す
べての信徒がひとしく拠りどころとするのは、いわずと知れた﹃コーラン﹄煙一︲C員︾晋だが、
この﹃コーラン﹄は、マホメットに対する神の啓示を文章にしたものであり、まさしく︿天啓の
書﹀である。したがって、その内容も、唯一神たるアッラーが、マホメットに対して、あるいは
信徒に向って、直接に話しかけるというかたちをとっている。だから、ムスリムにとっては、
﹃コーラン﹄こそは、絶対的な権威を持つ無謬の︿聖典﹀なのである。
この点からいえば、イスラム教におけるコーラン﹄は、ユダヤ教やキリスト教における﹃旧
約・新約聖書﹄と同じ地位と権威とを持つものといえるかもしれない。しかし、キリスト教の
■・■■
﹃聖書﹄には、あくまで後代の信徒たちが編纂したものという性格がつよくあらわれており、
信徒もそうした心構えをもって読んでいる。それにくらべると、﹃コーラン﹄は、もっと絶大無
比な、神の権威の根元ともいうべきものとして受けとられている感がある。﹃聖書﹄のなかでも、
とくに﹃新約聖書﹄は、キリスト者にとってはいわば救いの書であり、希望の聖典でもある。
﹃コーラン﹄の方は、むしろ、畏れかしこんで、そのいうところに従わなければならない、絶
対者の︿教書﹀といった感じが強い。未読の方は、是非一度、目を通していただきたい。
ヒンドゥー教の場合には、﹃コーラン﹄に比すべき唯一絶対の聖書といった教典はない。広い
意味のヒンドゥー教の聖典の最古のものをいえといわれれば、﹃リグⅡヴェーダ﹄”ぬく⑦gに
始まるいわゆる﹁ヴェーダ﹂の聖典を挙げるべきであろう。ヒンドゥー教では、﹁ヴェーダ﹂
はシュルティ吟昌一すなわち天啓の書といわれているが、その内容は、神々への讃歌を主とし、
呪文や祭詞、あるいは祭紀・祭儀に関する規定や、秘儀について述べた多彩な内容にわたる文
献を広く包括したものである。だから、﹁ヴェーダ﹂は、同じように︿天啓の書﹀とされていても、
Ⅲ対立する宗教

﹃コーラン﹄とはその性格を全く異にする。
古典ヒンドゥー教では、﹁ヴェーダ﹂の宗教を基盤として変容していく過程で、﹁ブラーフマ
ナ﹂呼曽目色gや﹁ゥ.ハーーシャッド﹂ごロ目曾・の聖典が生れ、さらに、﹁プラーナ﹂冒副畠


5
の類が編纂されていき、今日のヒンドゥー教の主な教典となった。古代の宗教文献のなかで、
現在に至るまで多くのヒンドゥー教徒が教典として依拠してきたものに、﹃バガヴァッドⅢギ


ーター﹄国富忠ぐ且の爵がある。今日、ヒンドゥー教徒である知識人に、日常生活のなかで読

5
む聖典はなにかときけば、多くの人々がこの書物を挙げるであろう。しかし、しばしばキリス
ト教の﹃聖書﹄に比べられるこの﹃ギーター﹄は、実は、﹃ラーマーャナ﹄犀四日卿冨冒と並ん
で知られている古代インドの英雄叙事詩﹃マハーバーラタ﹄三号響冨3国の大詩篇の一部なの
である。だから、その宗教的内容の故に︵聖典﹀としてヒンドゥー社会に定着してはいても、そ
の本来の性格は、絶対者たる神の教書とはいい切れない性格のものだった。﹃ギーター﹄の読ま
れ方にしても、一部のバラモンたちはおこるかもしれないが、修養のための宗教書といった感
じがする。しかし、こうした書物が修道の導きの書とされるところに、ヒンドゥー教の幅広い
性格があらわれていると、私は思う。
ヒンドゥー教のパンテオンに多くの神々がいることに対応するかのように、これらの教典類
の内容も、そこにあらわれる神々や人間の性格も、また複雑にして多彩である。ヒンドゥー教
の聖典のあり方は、まさに、多神教としての性格をそのまま反映しているといえよう。だから、
ムスリムの場合のように、すべての信徒が唯一絶対の﹃コーラン﹄を頼りにするというよりは、
むしろ、自分が依拠し、自分が親しむ教典の類をそれぞれの信徒が持っている、という格好に
なる。こうした聖典や教典のあり方は、当然のことながら、さきに述べた宗派の性格や、なに
が正統派でありなにが異端であるかという重要な問題にも関わりを持つものである。
ところで、大部分の宗教では、絶対者すなわち神と、信徒つまり人間とのあいだを媒介する
ものの存在を認めている。神々のための祭祁を司るいわゆる司祭者を含めて神と人間との仲立
ちをするものを、ここではく聖職者﹀と呼んでおこう。ヒンドゥー教とイスラム教とでは、こう
した意味の聖職者についても、その性格に著しい差異が認められるのである。
ヒンドゥー教では、すでに﹁ヴェーダ﹂の時代から、神に対して人間が捧げる祭祁の儀は重
要な行事であったから、司祭者は高い地位を与えられていた。彼らは、﹁ブラーフマナ﹂すなわ
ち﹁バラモン﹂と呼ばれて、聖職者の階層を形成した。いわゆるバラモン教の時代に入ると、
彼らの役割は、ますます重要なものとなり︵だからこそ、のちに﹁バラモン教﹂と呼ばれるよう
になったわけだが︶、やがてバラモンたちは、ヒンドゥー社会のなかで、精神の世界、宗教の領
域における最高の指導者としての権威を確立するようになっていったのである。次章で説くよ
うに、当初は司祭者として出発したバラモンたちは、やがて、カーストⅡヴァルナ制が固定化
Ⅲ対立する宗教’

されていくなかで、最高の身分階層を占めるようになっていった。古代に確立したこのバラモ
ンの身分的地位が今日までそのままつづいてきたという事実のなかに、ヒンドゥーの世界にお
ける彼らの権威の重みを見てとることができよう。


5
イスラム教の場合はどうであっただろうか。ムスリム社会の一つの特徴は聖職者を持たない
ところにあると、私たちはよく聞かされてきた。たしかに、古代世界に興った諸宗教や、その


後発展したさまざまな宗教のなかで、司祭者とか僧侶を持たない宗教は稀で、その点を考える

5
と、イスラム教の場合は、例外といっていいくらいである。しかも、聖職者を持たないという
よりは、むしろ、その存在を許さないといった方が正しいほどである。イスラム教においては、
神こそが絶対者であり、すべての信徒は、直接、アッラーに帰依すべきものなのである。だか
ら、神の権威を代行する聖職者が、特定の権威と職能を持つものとして宗教的機能を果す必要
はないということである。この点は、やはり、イスラムにおける神の唯一性、その信徒の神に
対する全的な帰依と服従とが、神と信徒との間に仲介者の存在を必要としないほどに、直接的
かつ強烈であるところから来るものと見るべきであろう。
しかし、現実には、イスラムの世界においても、本来否定されているはずの聖職者に当るも
のが次第に顕在化していくようになった。このことは、イスラム教の拡大、イスラム世界の発
展の歴史の実態を見れば、明らかである。しかし、﹁ウラマー﹂︽匡匿日幽︾︵﹁アーリム﹂塑冒の
複数形、ここではく教学者﹀と訳すことにする︶と呼ばれたこれらの聖職者集団は、本来は、イス
ラムの法学あるいは神学の面にたずさわっていたいわば学識者であった。つまり、ヒンドゥー
教におけるバラモンのような司祭者としての機能を果すべき性格のものではなかったし、また、
後代においても、他の宗教における司祭者とは異なる役割を演じてきた点に留意しておきたい。
だが、これらのウラマーは、現実のムスリムの社会においては、いわば︵導師﹀といった機能、
つまり神と、信徒である人間とのあいだで導きの役目を果すようになっていった。今日流にい
えば、ムスリム社会にあって、聖法・教学の面を担当する、いわば︵専従者﹀的な役を務めるも
のとなったわけである。イスラムの法学・神学に通じたこれらのウラマーは、本来は、それな
りの主体性を持つべきものであったが、実際の歴史のなかでは、スルターンや貴族・権力者た
ちに従属して、彼らの支配の存続に欠くことのできない治安と秩序の維持のための︿法務官﹀と
いった役割を演じることが多かった。これについては、のちに触れるはずである。
5宗派と正統・異端
世界史にあらわれた宗教は、たいてい、宗派を持っている。本来、一つの宗教が成り立った
教直後には、教義の内容がまだそれほどはっきりしたものになっていない場合が多い。しかし、
蒜その宗教の教祖あるいは組織者が死んで、弟子や後継者の、いわば次の世代に移行すると、教
逓義内容の整理・確立、それにともなう統一教典の編纂などが行なわれ、それらをめぐって、宗
対派と呼べるようなセクトが生れてくるのがふつうである。この宗派の問題が歴史のなかでなん



らかの意味を持って表面化してくるのは、宗教本来の教義内容に関わるさまざまな見解や解釈
に見られる差異に基づくものだが、同時に、その宗団の指導者や継承者、その弟子や追従者た


ちの力関係によって、組織の面における緊張関係が激しくなるときである。

5
こうした緊張・対立の関係に置かれた宗派集団が、それぞれその正統性を主張するときに、
多数派に対立する側の少数派は︵異端﹀として批判・糾弾される。宗教集団においては、本来は、
その︿正統﹀性の主張は、教義内容やそれに関わる問題に限られるべきであるにもかかわらず、
宗派間の対立関係は、そうした枠をはみ出して、実際には、宗派集団のあいだの主導権の争い、
権威獲得の争いや信者確保の競争にまで拡がっていく。こうして、いわゆる︿正統と異端﹀をめ
ぐる争いは、単に教義や儀礼といった宗教本来の問題点の解釈をめぐる論議から、もっと泥臭
い宗派間の利害関係の対立、権威と力の獲得のための争いというかたちで、歴史の前面に出て

くるる。。そうなると、権力や利権をめぐる世俗世界の闘争と同じような性格をも持ってくるので
ある。
これだけのまえおきをしたうえで、ヒンドゥー教とイスラム教の場合とを見てみよう。この
二つの宗教は、宗派の問題においても、それぞれ違ったあらわれ方をしているように思われる。
それも、やはり、両宗教における神観念や教義の差異に基づくものと考えられるのである。
ヒンドゥー教では、いわゆる教団の組織というものが、近代の一部の改革派を除くと、どう
もはっきりしない。自分が信頼し、祭祁の儀式に際して司祭を頼むバラモンはほぼ決ってはい
ても、自分が所属する特定の︿教団﹀︿宗団﹀といったもの、キリスト教の場合の︿教会﹀に当るも
のはないといった方が適切であろう。その点では、自分の属するカースト共同体そのものがそ
うした役割を果しているのだとも考えられよう。
多神教の性格が強いヒンドゥー教では、異なった宗派は、ふつうは、異なる主宰神を中心と
する信徒の集団としてあらわれている。しかし、それ自体、漠然とした集団で、とり立てて組
織化されたものではなく、︿教団﹀︵教会﹀と呼ぶほどのものでもない。ヴィシュヌ神を信奉する
いわゆるヴィシュヌ派、あるいはシヴァ神を主な崇敬の対象とするいわゆるシヴァ派などは、
その典型的な例といえよう。つまり、こうした場合は、宗派の成立、セクトへの分裂は、ヒン
ドゥー教が多神教であることによるものといえそうである。ただ、このように、異なる神々を
主宰神として掲げる諸宗派の場合には、それぞれの神のあいだの相互の関係によって、宗派間
にある程度の関係が成り立つのは当然であろう。
しかし、すでに触れておいたように、ヒンドゥー教では、さまざまな神が、たがいに他の権
Ⅲ対立する宗教

威を認めつつ、ときには他の神には関心を寄せないままに、並立・共存の状態を保ってきてい
るのである。ヴィシュヌやシヴァのような偉大な神とされる主宰神のあいだにおいてさえも、
いわば平和的な共存関係が保たれており、この両者の神を崇敬する宗派の間で、教義の内容や
セクト


5
儀礼をめぐる争いや対立関係はほとんど認められなかった。だから、このいわゆる一一大宗派と
いわれる両派のあいだにも、たがいに他を批判し、攻撃するといった際立った論争もなかった


し、社会的、政治的な面での緊張・対立関係も、歴史のなかでほとんどあらわれなかったので

6
ある。このようにして、一般的には、これらの宗派のあいだには、それぞれ他の存在を容認す
るという共存の関係がつづいてきたし、大方は、他の宗教の場合に見られる宗派とは、その存
在相互の関係からして、性格を異にしていたのである。
このような宗派のあり方からして、ヒンドゥー教の場合には、教義の面でも、現実の場にお
ける集団関係においても、他の宗教にしばしば見られたような︿正統と異端﹀をめぐる激しい対
立・抗争の関係はほとんど認められない。この点は、ヒンドゥー教の宗派活動について指摘し
得る大きな特徴の一つといえよう。このことは、さきのヴィシュヌ・シヴァ両派のような大き
な宗派でも、正統性に対する主張が強くないということにもあらわれているし、また、いわゆ
る異端的な宗派の存在が目立たないという事実にも示されている。要するに、宗派への結合の
根拠そのものがそれほど明確でないし、ヴィシュヌ・シヴァ両派を中核に、その周辺に存在し
てきた宗派と呼んでいいようなさまざまなグループが、それぞれの神を掲げ、自己の主体性を
保ちながら、しかも、たがいに他の存在を容認し、あるいは無関心といった態度も含めていわ
ば不干渉の姿勢をとりつづけてきたということである。こうした事実を、一部のヒンドゥー教
徒は、他の宗教にくらべた場合のヒンドゥー教の︿寛容性﹀だと誇りにしているが、その宗派の
あり方の特異性からすると、どうやら、それも、いわば括弧つきでの寛容性といった方が当っ
ているのではないかと、私は思う。
もっとも、紀元前六世紀ごろには、バラモンの権威を批判する思想もあらわれたし、唯物論
や懐疑論、さらに快楽思想の如きものも含めて、さまざまな思想内容が見られた。それらのな
かには、﹁ヴェーダ﹂の権威やバラモンの地位を批判乃至は否定するものもあり、バラモン教か
らは︿異端﹀と見なされたらしい。それらについては、私もたいへん興味を覚える。なお、ヒン
ドゥー思想全般については、たとえば中村元著﹃インド思想史﹄︵岩波全書︶を参照されたい。
これに対して、イスラム教の場合には、宗派の問題には著しい違いが認められ、その存在と
性格も、比較的明確である。このことは、基本的には、まえにも触れたように、一神教と多神
教の場合の神観念と教義の差異に基づくものである。つまり、一神教の世界では、絶対者たる
神の唯一性に少しでも疑いを差し挟むものは、︿異端﹀として退けられる。もちろん、集団関係
の現実面では、この異端性は、宗団内のリーダーシップ、後継者をめぐる対立・抗争としてあ
、対立する宗教

らわれる。イスラム教もその例外ではなく、アリーをマホメットの正統な後継者とするいわゆ
るシーア派をめぐっての正統と異端の争いはその典型で、教義上の論争よりは宗団の主導権を
めぐる争いとして展開していった面が目立つのである。


6
イスラム教における宗派の問題には、もっと複雑な問題があるのだが、ここではそれに立ち
入っている余裕はない。ただヒンドゥー教との比較でいえば、イスラム教では、宗派同士の関


係においてヒンドゥー教には見られなかった激しい緊張・対立が見られた。そこでは、異端は、

6
正統たるべき教義、正統たるべきカリフへの挑戦として厳しく批判・糾弾されなければならな
い。こうした正統と異端との対立・緊張関係は、イスラムの拡大にともなって社会的、政治的
な対立関係に発展し、複雑な様相を呈していった。南アジアへイスラム教が浸透していったの
は、そうした歴史を経たあとであったから、正統と異端の問題をめぐるさまざまな対立関係は、
細分化された宗派集団を含めて、本来の宗教的な範囲を超えた非宗教的な関係にまで及んでい
った面もあり、その実態には、かなり複雑なものがある。
宗派の問題に関連して、一言ここに触れておきたいのは、いわゆる教義・思想の上部構造と、
民衆的レヴェルにおける、より素朴な信仰内容との問題である。前者の面で、ヒンドゥー教は、
古代世界が残した最大の知的遺産の一部を形成するさまざまな哲学・宗教思想および論理学な
どを生み出した。イスラム教も、その精繊な法学および神学体系で知られている。その一方で、
両者は、民衆的な信仰において、のちに述べるように、まことに多彩な形式と内容とを展開さ
せてきた。とりわけ、︿神秘主義﹀と概称されてきた一派の、民衆の生活面に深く立ち入ってい
った信仰の実態は、ヒンドゥー教ではとくにヴィシュヌ派のバクティ配冨胃一信仰に、イスラ
ム教ではいわゆるスーフィズム普詩日として活発な展開を示した。これらの信仰内容の一部
こま、
11 さきに述べた宗派や分派のものとは異なる意味での異端性を批判されたものがあるので
ある。 これらのいわゆる神秘派の問題については、次章で触れたいと思う。
、対立する宗教



聖廟前のモスクで祈るムスリムたち(デリー)


:
季零
弓吾へ
︽一・一一︾︾︾
●①冒凸冒冒十手一︲宮やむ
つ︲宮”①①|①F凸p守凸|凸﹄弘
︾︲一弾︸・一︲一郡一・|羅卒
︾︾一︲一一雌冒︾一寺一凸伽︲
・宮宮寺①bb宮I|〆①①食
異なる社会関係
﹃鋸少毒︾一宮﹄︽b法輪宮︾︲
一銅。︸一一一﹄一︸秘一一一


心①冒凸宮︲宮↓p︾﹂:一
坐︲諏一︲︾|︾岬一一﹃︾﹄︾︾全
1個・集団・政治
一△︸︲一﹃一︾垂。︾二一︲軒一一“
﹄:.:一︲一寺.


6
1入信と改宗
ある宗教の信徒となるには、ふつうは、定められた資格を満たすことが必要である。その資
格は、もちろん、宗教によっていろいろ異なるが、ヒンドゥー教とイスラム教の場合には、と
くに 著 し い 違 い が あ る 。
まず、比較的わかりやすいイスラム教の方から説明してみよう。この場合は、キリスト教と
くらべてみると理解しやすいかもしれない。イスラム教徒つまりムスリムになるには、もちろ
ん、アッラーに対する絶対的な帰依の信念を抱くことが前提である。それは、具体的にはいわ
ゆる︵信仰告白﹀としてあらわされる。すなわち、﹁アッラーのほかに神はない。マホメットは
神の使徒である﹂という、いわばムスリムのお題目を唱えることによって公に認められるので
ある。ムスリムたらんとするものは、さらに、﹃コーラン﹄を天啓の書と認め、︿ハディース﹀
題画gE︵マホメットの言行についての伝承︶および定められた戒律を守り、いわゆる︿六信﹀
︿五行﹀といわれるムスリムの信仰と戒律とを自ら実践することが必要である。︿六信﹀とは、
ア ッヲー マヲタ キタIブ ナピー アーヒヲ カダル
神匿一響・天使富四一烏・経典富国ウ・予言者室四頁霞の画一・来世幽匡旨農および定命呂Q胃
シヤハ1〆
である。︿五行﹀あるいは︿五柱﹀︵アルカーヌルⅢハムサ胃薗ご煙︸︲唇閏旨印昌︶の方は、信仰告白
サラート サウム ザ方I卜 ︽ク“ン
⑪冨一]圏幽・礼拝世倒・断食超巨冒・喜捨園烏堅およびメッカへの巡礼言菩である。本書で
は、必要に応じて他の箇所で説明するので、まとめての説明は省略する。たとえば、蒲生礼一
著﹃イスラーム﹄︵岩波新書︶などを見てほしい。
以上に記したことがらを自ら真剣に受け容れ、実践すれば、どのような人種・民族であって
も、また国籍の如何を問わず、だれでもムスリムになることができるのである。もちろん、ム
スリムとなったものは、現実の社会においては、信仰の面で、同じムスリムから成るなんらか
の宗派や宗団、あるいはいずれかのムスリム川コミュニティーの一員として生活ずる必要があ
る。それによって、彼は、自らムスリムたることを自覚し、同胞としての他のムスリムとの連
帯感を意識しながら生きていくわけである。
だから、新しくムスリムになったもののなかには、それまでなんの信仰も持たなかったもの
がイスラムに︵入信﹀する場合もあれば、また、それまで信仰していた別の宗教を捨ててムスリ
1V異なる社会関係

ムとなる、つまりイスラムに︿改宗﹀するということも可能なのである。つまり、原理的には、
帰依の証となる一定の事実を確認し、定められた戒律や儀礼に従いさえすれば、だれでもムス
リムになれるということである。こうしてみると、イスラム教への入信あるいは改宗というこ


6
とは、その細かい内容や形式・儀礼等の面での差異を別とすれば、一般の諸宗教に共通すると
ころが多いといえるだろう。


ヒンドゥー教の場合はどうであろうか。そこでは、右に説明したイスラム教の場合とはきわ

6
めて異なる原則と慣習とを見出さざるを得ない。私の知人に、ウィーン生れのオーストリア人
がいた。彼は、サンスクリットを学習したのち、インドへやって来てヒンドゥー教の行者に弟
サン・ニヤースイン
子入りし、いわゆる脱俗行者の四日昌凶印ざとしての生活を送ることになった。もちろん剃髪し、
服装も行者が着るサフラン色の布をまとい、聖典類を読破した。私がインドで初めて彼に会っ
たときには、すでにその名も﹁スワミMAⅢB﹂と変え、服装・名前ともに、完全にヒンドゥ
ー行者になりきっていた。実際、私は、彼の前にぬかずき、その足に触れて拝むヒンドゥーの
パジカI
男女を何人も見ている。つまり、だれが見ても、彼は、インド人のいう︿完全なヒンドゥー﹀そ
のものであった。しかし、この青い目のヒンドゥー行者が、果して、ヒンドゥーとして、すべ
てのヒンドゥー教徒から受け容れられていたかという点になると、問題はそう簡単ではなかっ
た。私の知人のヒンドゥーのなかには、﹁あれは外観だけ﹂といって、彼を、脱俗行者どころか、
ふつうのヒンドゥーとしても認めない人たちが、何人もいたのである。
このことは、私自身の個人的な経験に過ぎないが、ヒンドゥー教の信徒たる資格の問題点が
いずれにあるかを示唆する一例にはなり得ると思う。ヒンドゥーの神を信じ、サンスクリット
をマスターしてその聖典に通じ、ヒンドゥー教徒にふさわしい生活を実践しても、それだけで
峰ヒンドゥー教徒であることにはならない場合があるわけである。おそらく、ヒンドゥー社
会が自然に受け容れること、いわばそのサンクションを得ることが、ヒンドゥー教徒たり得る
道だといえば、正しいのかもしれない。もっと割り切っていえば、よくいわれるように、︿ヒン
ドゥーの子に生れる﹀ことこそ、実はヒンドゥー教徒たる条件なのだと説明すれば、一番わかり
やすいであろう。だから、はじめヒンドゥー教徒の社会の外にいたものにとっては、自分はま
さしくヒンドゥー教徒になったと自らは信じていても、ヒンドゥー社会のなかでヒンドゥーと
しての資格を得ることは、そう簡単にはできないのである。
もっとも、そうした意味での信徒たる資格は、ヒンドゥー教の一部の改革派宗団においては
かなり違う。そこでは、イスラム教の場合と同じように、ヒンドゥー社会の外にいたものでも、
ヒンドゥー教に入信乃至は改宗し、その宗派集団のものからヒンドゥー教徒たることのサンク
ションを得ることも可能である。しかし、そのような入信・改宗のあり方は、本来のヒンドゥ
ー社会においては認められなかったものである。
1V異なる社会関係

こうして、信徒たる資格の意味するもの、また、入信・改宗は如何にすれば可能であるかと
いうことをくらべてみても、ヒンドゥー教とイスラム教とでは、その間に著しい相違があるこ
とを認めざるを得ない。


6
2階層秩序と連帯意識


7
ヒンドゥーとムスリムの両者の人間関係・社会関係をくらべてみると、その階層構成と意識
構造に見られる際立った差異に驚かされる。ヒンドゥー社会では、それらは、のちに述べるよ
うに、カースト間の関係を秩序立てるヴァルナ階層制と、それに基づく身分意識としてあらわ
れている。一方のイスラム教徒の社会では、そうした階層秩序と身分意識とを否定する同胞認
識、あるいは平等感や連帯意識といったものが目立つのである。
本書では、ヒンドゥー社会のカーストの構成とその意味について詳述している余裕はない。
しかし、いつも問題とされることがらだし、宗教との関連においてだけ簡単に述べてみたい。
いくらか私流儀の解釈に偏るところがあるかとは思うが、その点、たとえば、少し表現は異な
るが、辛島昇・奈良康明著﹃インドの顔﹄︵河出書房新社︶のなかのわかりやすい解説などを参照
していただければ幸いである。
カーストの成立とそれが長い歴史を通じて存続してきたという事実はヒンドゥー教と無関係
であるとする議論が、一部のインド人のあいだにある。のちに述べるように、カーストと呼ば
れるようになった社会構成の成立の背景に非宗教的な諸条件があったことは事実である。しか
し、この特異な社会構成と身分意識とを南アジア全域のヒンドゥー社会に固定化させ、長いあ
いだにわたって存続させてきた最大の要因の一つがヒンドゥー教にあることも疑いをいれない
ところだと、私は思う。
﹁カースト﹂8の房という名称は、もともとは︿種﹀や︿血統﹀を意味するポルトガル語から出
た言葉といわれ、広い意味では英印語の一つである。インドでは地方によって違いはあるが、
北インドを中心に最もよく使われる呼称は、﹁ジャーティ﹂曹一つまり︿生れ﹀︿出自﹀を意味す
る語で、すでに﹁ヴェーダ﹂の時代から用いられていたという。この言葉の意味は、きわめて
象徴的である。つまり、ヒンドゥー教徒は、生れたときから、自分の家族だけでなく、もう少
し大きい枠の集団のなかに、否応なしに所属させられるという宿命を担っていたといえるから
であ る 。
カーストつまりジャーティの起源については、さまざまな説がある。これまでいわれてきた
諸説をつき合せてみると、アーリャ人がインドへ入ってきたとき以来の人種や民族の違いや、
Iv異なる社会関係

征服者集団と征服された集団、支配するものと支配される側の関係、あるいは社会的分業の発
達にともなって分化していった各種の職能・職業の区分などといった、いわば非宗教的な条件
がカースト集団を形成する原理・条件となったことはたしかなようである。問題は、これらの


7
カースト集団が、祭祁や、婚姻、飲食その他の交際関係の諸面でさまざまな禁忌条項を設け、
次第に分化していく過程で、身分的な差別意識をともなう上下の階層秩序に固定化されていっ
たと こ ろ に あ る 。


7
ところで、すでに﹃リグ肌ヴェーダ﹄の時代から、﹁ヴァルナ﹂ぐ四目巽すなわちサンスクリッ
ト語で︵色﹀を意味する言葉が、集団の別を示すものとして四つの階層に区分されて用いられて
いる。この四つのヴァルナとは、よく知られているように、バラモン︵ブラーフマナ画風亨
昌四目︶・クシャトリヤ屍樫月一胃・ヴァイシャぐ座詠旨およびシュードラの昌国である。はじ
め、この四つのヴァルナはそれぞれ、司祭者︵バラモン︶・戦士︵クシャトリャ︶・農民や商工
にたずさわる庶民︵ヴァイシャ︶の一一一階層と、これらの人たちに奉仕すべき階層︵シュードラ︶と
いつたふうに、その職能でも分れていた。もっとも、この職能の別は、次第に乱れ、とりわけ、
ヴァイシャは後代には商人が主になり、農民をシュードラに入れる場合も一般となったという。
いずれにせよ、この四区分は、いわばバラモンが主になってつくり出し、規制してきたものだ
が、実際には、カースト︵ジャーティ︶集団のなかには、自分たちはどのヴァルナに属するとい
った独自のランク・つけをするものもあったのである。
この﹁ヴァルナ﹂を、漢訳仏典では︵種姓﹀︿四姓﹀などと訳してきた。日本では、数多いカー
ストつまりジャーティ集団を︿種姓﹀と考え、そう呼んできた︵漢訳仏典にも、この用法はあると
いう︶。そこから、﹁カースト﹂と﹁ヴァルナ﹂の関係や﹁カースト﹂の用語法に混乱が見られ
るようになり、﹁ヴァルナ﹂そのものが﹁カースト﹂と同じ意味になってしまう傾向がある。私
は、この社会関係の総体を、本書でば、︿カーストⅢヴァルナ制﹀の階層構成といっておきたい
と思う。実際には、歴史の経過とともに、多くのカースト︵ジャーティ︶が、この四つのヴァル
ナの階層、およびもう一つの被差別階層にランクされていったわけである。
さきにも記したように、カースト集団自体の成立には非宗教的な要因があった。しかし、本
来、司祭者を職としていたバラモンが、祭祁を独占するもの、神と人間とを媒介するものとし
ての権威を背景に自らの身分的地位を最上位に置き、世俗的な権力の担い手となった戦士集団
やその頂点にいた王や王族がそれに次ぐ第二のヴァルナにランクされ、バラモン・クシャトリ
ャの両階層の優越が明らかになっていったとき、今日までつづいてきたカーストⅢヴァルナ制
の大体の方向は決ったものといえよう。もっとも、その限りにおいては、身分構成・階層秩序
としてのカーストⅡヴァルナ制も、他の地域の古代社会に認められた社会関係と、質的にはそ
れほど大きな違いはなかった。ただ、バラモンたちは、この四つの階層関係を、ヒンドゥー教
1V異なる社会関係

りんねごう
の教義や人生観の基盤となった輪廻と業の考え方と結びつけていった。そして、善行をすれば
来世は上のヴァルナに生れ変れるといったような素朴な︿因果応報﹀の倫理意識を確立すること
により、上層カーストによる、精神と世俗の世界における権威の独占と存続とを保証させた。


7
しかも、上位の三つのヴァルナだけを、﹁ヴェーダ﹂の恩典に浴する権利を得る資格があるいわ
ドウヴイジヤ
ゅる﹁再生族﹂1ぐ言として、最下層ヴァルナのシュードラから区別した。そればかりか、さら


に、のちに英語で﹁アンタッチャブル﹂目8月冨匡①αと呼ばれるようになった階層をこれらの

7
四種姓の下に置くという差別社会を実現させていったのである。
これらの四つのヴァルナおよび被差別階層に属するものをそれぞれ区別する身分意識の裏づ
けとして、特異な清浄認識を持ち込んだ点にも、ヒンドゥー教とカーストⅢヴァルナ制との関
わりを示す特徴の一端が認められると思う。ヒンドゥー社会は、。ハラモンの権威を背景に、
けが
浄・不浄についての独特の感覚と価値感とを創り出していった。︿不浄﹀つま胸ソ稜れを浄化する
ためには特定の祭式が必要とされ、それは、・ハラモンによって主宰された。こうして、本来、
非宗教的な要因から成立したと推定されるカースト集団は、バラモンのイニシアティヴのもと
に、ヒンドゥー教の教義と儀礼、さらにはヒンドゥー教徒の信仰および生活意識と密接不可分
のものになっていったものと、私は推察する。カーストⅢヴァルナ制は、こうしたヒンドゥー
教との強い結合関係によってこそ、長い歴史を通じて存続してこられたものと思う。
ムスリムの場合には、イスラム教の成立の社会的・政治的事情からして、ヒンドゥー社会と
は著しく異なる社会関係と階層意識とを発展させてきた。
イスラムは、それが成立した当初から、アラブ社会がそれまで結合の単位としていた部族集
団の枠を破る、新しい信徒集団の結合の原理としての意味を持っていた。初期のムスリム社会
においては、既存の宗教や部族集団と対決する必要からも、信徒同士の連帯がつよく説かれ、
信徒間に平等観や同胞意識といったものが育っていった。こうした社会的要請のなかで生れて
きたのが、︵ムスリム共同体﹀などと訳すことができる新しい﹁ウンごロョョ農の観念であっ
て、同胞感に基づくこの信仰共同体の意識こそ、のちのイスラムの拡大にともなう非アラブ異
民族の信徒間の連帯感をも強めるものとして、ことあるごとに強調された理念であった。
だからといって、私は、ムスリムに階層関係がなかったなどといっているわけではない。イ
スラムどいう同じ宗教の旗印を掲げるその信徒社会の集団としての結合に、同胞感・連帯意識
という心理と情念とが微妙に作用してきた点を指摘したいのである。ムスリム社会にあっては、
唯一神アッラーのまえでは、すべての信徒は同胞であり、平等な立場で連帯のきずなを強める
べきものとされている。もちろん、歴史の現実面においては、支配者と被支配者、搾取するも
のと搾取されるものとのあいだの経済的、社会的な不平等関係、上下の身分意識は、どうした
って出てくる。奴隷も存在していたし、婦人の地位にしても、実際の生活のなかでは男性にく
1V異なる社会関係

らべると不平等であった。しかし、唯一神アッラーによる︵最後の審判﹀に立ち向うときには、
すべてのムスリムは、全く平等で同じ立場に立たされるはずなのである。
このようなムスリムの集団意識は、さきに述べたヒンドゥーの場合におけるカーストⅢヴァ


7
ルナ制のもとでの身分意識とは著しく異なる性格のものだったといっていいだろう。カースト
的社会関係を成立させる条件は、本来のアラブ社会においても、また、ムスリム社会が異民族
を包含するようになってからはなおさらのこと、具わっていたはずである。しかし、ムスリム


7
社会が、ヒンドゥーのカーストⅡヴァルナ制とは異なる、むしろ、その対極にあるような社会
構成の原理と意識とを創り出していった点に、私はとくに注目したい。
﹁ウンマ﹂すなわちムスリム共同体の理念は、イスラムが、アラビア半島を中心とする、い
わばアラブ民族圏ともいうべき地域的、民族的な限界を超え、北アフリカからイベリア半島、
小アジア、あるいはイラン・中央アジアからさらに東方や東南方へと拡がっていく過程で、当
然のことながら、その規模と内容とを拡大していった。とくにアッバース朝のもとで政治理念
や文化の面にイラン的要素が加わったこと、さらに、各地でトルコ系諸民族が軍事と政治の面
で優位を占めていったという歴史的事実は、理念はともかく現実にはアラブ民族集団の範囲に
とどまっていた初期の﹁ウンどの観念を、よりスケールの大きいものに変えていった。だか
ら、︿多民族﹀︿多人種﹀という条件が当りまえのことになっていったとき、ムスリム共同体は、
社会・政治の面で、ある程度、当初の理念や概念とは違った別の構成原理を必要とするように
なっていった。たとえば、カリフ制の象徴化、つまり各地に成立していった地域的独立王権と
カリフとの間に見られた、実質をともなわない象徴的な支配と従属の関係は、その一つの側面
ともいえよう。とまれ、このような歴史過程のなかで、イスラムが、民族や人種の枠を超えて、
信徒の同胞意識と連帯感とを保ちながら、しかも、ある程度の政治的連携にも成功したのは、
世界史における宗教と政治の歴史のなかでは、キリスト教の場合にもまして注目されるところ
といえよう。
イスラム教徒は、世界の如何なる土地においても、人種と民族、言語の障壁を超えて共通し
た挨拶の言葉を持っている。﹁アッサラームⅡアライクム﹂﹁ワⅢアライクムⅡアッサラiム﹂
煙一・g一回日幽一豊冒昌葛色壁]畠百日四一’患罰昌︵﹁神の平安があなたの上に﹂﹁あなたの上にも神の平
安がありますように﹂︶というアラビア語の言葉がそれであるが、このような宗教は、世界の大
宗教のなかでも、他にその例を見ないであろう。
キプラ
モスクの内部には、礼拝する方向に、﹁ミフラーブ﹂目胃響と呼ばれる壁面の窪み・凹部を
持っている。このミフラーブは、それに向って信徒が祈るとき、必ずメッカの方向に対するこ
とができるように、地域によって一定の方角に設けられてある。つまり、全世界のイスラム教
徒は、すべて、この地球上の一地点メッカに向って礼拝をしていることになるわけである。こ
1V異なる社会関係

のような宗教が、果して、世界史のなかで、他に存在したであろうか。この知恵も、ムスリム
社会の、宗教共同体としての連帯性と同胞意識とを象徴しているものといえそうである。


7
3脱俗と社会規範


7
どんな宗教でも、自分自身が生きていくための精神的支えとして、あるいは怖ろしい死に対
決しなければならない人間の弱さを克服する力の源として、信仰を考える。つまり、自分自身、
げんぜりやく
個人のためにする信仰である。そうした願望は、多くの場合は、いわゆる︿現世利益﹀的な目的
意識をもってあらわれる。しかし、その反面、︿脱俗﹀すなわち個人に関わる現世の世俗的利益
を捨て去り、精神的な価値を求める生活への憧れとしてもあらわれる。もっとも、宗教には、
そうした世俗や脱俗の世界での個人的な利益や精神的平安というような希求とともに、もっと
広い、いわば社会的な面での救済への願望や義務の意識がともなうことも否定できない。たと
しゆじようさいど
えば、仏教の﹁衆生済度﹂という一言巨葉は、その目標をよくあらわしているといえよう。ヒンド
ゥー教とイスラム教の場合、信仰における個人の意味、俗世に住む意味とそれを超越したく脱
俗﹀︿出家﹀の生き方、奉仕や救済の社会的意義などについては、著しい違いがある。
ヒンドゥー教徒の生活をのぞいてみると、局外者の私たちには、表面的に、ずいぶん矛盾す
るところがあるように思われる。さきに述べたように、ヒンドゥーは、意識の面ばかりでなく、
現実の生活のほとんど全面にわたって、個人としてよりも家族の一員としてのあり方が目立つ。
さらに、自分をその属するカーストの枠のなかに置かなければならない。実際、今日のインド
においてさえも、ヒンドゥーの青年が、自分の家族やカーストの規律から全く離れて自由に生
活することは、社会的にはかなり難しいことだ。つまり、ヒンドゥーにとっては、現実の生活
面では、個人よりも集団の利益の方が優先する傾向が強いということがいえそうである。
その一方で、ヒンドゥー教徒にとっては、この現世、この俗世から離れて自分ひとり修行の
チヤトル・アーシユーラマ
道に入り、解脱への道を探ることが理想だったのである。ヒンドゥー教には、︿四住期﹀
、貰昌臥国日四という、人間の一生を四つの時期に分ける考え方ができ上がっていった。﹁学生
アーシユヲマ
期﹂﹁家住期﹂﹁林住期﹂﹁遊行期﹂などと訳される︿住期﹀がそれである。後半の﹁林住期﹂は、
俗世間を離れ、膜想にふけるための期間で、妻をともなう場合もあるらしいが、最後の﹁遊行
期﹂とともに世俗の家族生活からは離れて、ひたすら自己の解脱を求める時期なのである。家
族にはもう会いにくるなといい渡し、現世的、世俗的な職業を全く捨て、森や砂漠のなか、ま
こつじき
たは聖河のほとりで、粗衣粗食、ひたすら教典を読み、膜想にふけり、あるいは乞食の生活を
Iv異なる社会関係

送っていた人々を、現に私自身、インドで何人か見ている。歴史のなかでも、たとえばブッダ
の後半生に、私たちは、その典型を見出すことができよう。
このことは、人間の生き方として見ても、たいへん興味深い。つまり、一人の人間の一生に


7
ついて、成長期から青・壮年期にかけては、学習に励み現世の職業に就き、家族・カーストの
誠実な成員として生活し、結婚して世継ぎの男子を残さなければならない。だが、その人生の


後半には、世俗を離れ家族と別れて、ひたすら個人の解脱を追求する機会を与えられるという

8
わけである。家族やカーストの集団のなかでそれに尽し、その徒に束縛される個人と、その集
団と断絶してひたすら個人の幸福を希求するという人生の生き方とをつなぎ合せたところに、
ヒンドゥーの人生の知恵といったものを感じさせられる。現代社会では理想通りにはいかない
だろうが、,ヒンドゥーの倫理意識と社会規範の特異性を認め得るような気もする。
もちろん、︿脱俗﹀といい︿出家﹀といい、世俗の家族生活を自ら放棄したかたちで個に生きる
ことは、ブッダの一生に象徴されているように、単に自分本位の幸福追求の目的意識だけでは
なく、その延長線上の︿衆生済度﹀という大義に生きる前提たることもあった。ヒンドゥーの場
合でも、解脱への希求という個人的、利己的に見える動機の背後に、より大きな目標、つまり
社会に対する奉仕、人間救済の実践という目的が潜んでいないとはいえない。それにしても、
人間の生き方としては、世俗の面で一応の快楽を味わい、家族やカーストとともにする生活を
送ったあとに、精神的、宗教的な面で、集団から自由の身となって個人の解脱に専念する生活
に入るということは、いささか矛盾するもののように思える。いずれにせよ、世俗の世界にお
ける集団のなかに束縛された個と、脱俗の世界における集団から離れた自由な個とが、一人の
人間の一生のなかに、継起的ではあるにせよ、共存している点がたいへん面白い。
イスラム教徒にあっては、こうしたヒンドゥーの生活規範とはかなり違う点が目立つ。さき
に﹁ウンマ﹂について記したように、︿同じイスラム教徒﹀という同胞感と連帯意識は、ときに
は、民族や国家の違いを超えた次元でも認められる。まして、同じ民族、同じ地域、同じ職業
集団などでは、普段はともかく、外部の集団に立ち向うときには、とくにその意識は高揚され
〒..エロー
る。だから、時と場合によっては、個人や家族の枠を超えて、|︿同胞ムスリム﹀として共同体の
ジハ1F
ために奉仕するという責任感がつよく前面に出てくる。聖戦の場合におけるムスリム集団の、
個人や家族を超えての連帯行動は、こうしたムスリム共同体の成員としての同胞感や連帯意識
を抜きにして考えられないであろう。
ムスリムの人生観も、ヒンドゥーのそれとは著しく異なる。くすべてはアッラーがお見とお
し﹀という厳しい唯一神を頂く世界では、個人の成し得ることは、せいぜい、敬度な信徒として
定められた戒律と行を守り、︿最後の審判﹀に備えることである。なによりも、俗世間にあって
みこころ
自分の職業に励み、イスラムの聖法を守って正しく生活することこそ、︿アッラーの御心﹀にか
Ⅳ異なる社会関係

ダルヴエ
なう道なのである。世俗を離れ、自分だけの修道に励んで個人の解脱を求めることは、遊行の
Iシユ
行者にでもなればともかく、一般人にとっては、かえってイスラムの倫理にもとることにもな
りかねない。スーフィー聖者でさえ、家族と一緒に住むものが多かったのである。



ヒンドゥーとムスリム社会における個のあり方、家族の成員としての存在理由、個人と集団
との関係を見てみると、たしかに大きな違いがあることに気がつく。問題の一つは、この現実


の世俗の世界をどう見るかということ、信仰生活における脱俗︵出家︶と在俗︵在家︶ということ

8
に対する考え方や倫理観の相違ということになるであろう。一方では、世俗の富や権力は、と
きには︿悪﹀であり、解脱の道を妨げる条件となる。家族とのきずなも、大義に生きるためには
︿迷い﹀︿煩悩﹀にほかならない。他方では、俗世をもっと現実的にとらえ、むしろ、そのなかに
あって送る戒律を守る生活こそ、信仰に対する証である。そして、この現世における、同胞た
ちムスリムの団結と連帯こそ、絶対者の意志に沿うことである。そうした現世の生活を忠実に
行なってこそ、︿最後の審判﹀に選び抜かれ、来世を願う資格を得ることができるのである。イ
スラム教がヒンドゥー教の場合の。ハラモン司祭者に相当する司祭者や聖職者を持たず、モスク
やその他の宗教施設に勤めるものも、原理的にはすべて在俗の信徒であるという事実も、右の
ような実践倫理と関わりを持つものである。
このような個人と家族、個人と社会集団との関係、現世に対する認識、在俗と脱俗について
の意識と実践に見られる差異は、ヒンドゥー・ムスリム両社会の場合に、その法学や神学、あ
るいは広い意味での宗教教典や文学作品の内容などにも反映している。ヒンドゥーの世界では、
いわゆる身分法・慣習法が著しい発達をみたが、さきに述べたように、婚姻・相続や、家族・
カーストに関する規制が、その大きな内容を占めている。しかし、それらを超える社会的な関
係については、ヒンドゥー法の範囲から外れるものである.イギリス支配期になってからも、
いわゆる身分法・家族法の面ではヒンドゥー法が残されたにもかかわらず、刑法の面ではイギ
リス法が大幅に導入された。
イスラム法、正しくいえば﹁シャリーァ﹂陸属国︽号すなわちムスリムのための聖法は、その
性格において、いわゆるヒンドゥー法にくらべると、個人や家族のみならず、もっと広い社会
関係、たとえば政治のあり方や国家論、それに国際関係などに関わる規律も含んでいる。イス
ラム教徒の世界では、いわゆる神学がその地位を法学に譲ったとさえいわれる。神学の体系は
あるが、それよりはむしろ、ムスリム社会の規律を強調するための法学が重要性をもってきた。
つまり、個人や家族の枠の外の、あるいは個人の希求の範囲を超えた、より広いムスリム共同
体の存続のための原則こそが、シャリーアの重要な課題の一つだったのである。
ヒンドゥー教徒の世界では、霧しい数にのぼる古典文学作品があるが、その多くは、一面に
おいてヒンドゥーの家族倫理やカーストの規律について記し、他面において脱俗・解脱を希求
1V異なる社会関係

するテーマを描いている。﹃ラーマーャナ﹄や﹃マハーバーラタ﹄のような古代英雄叙事詩では、
氏族・部族や国同士の戦争が綴られる。しかし、その作品が強調するのは、なによりも、家族
とカーストの倫理であり、世俗の権力やヒンドゥー同士の連帯ではない。



このような個人と社会との関係は、当然のことながら、宗教と政治との関わり方の面にも反
映し、ヒンドゥーとムスリムのあいだにさまざまな違いをもたらしている。これについては次

節で述べてみよう。
4宗教と政治
宗教と政治の関わりの面を見ると、イスラム教とヒンドゥー教の場合とでは、かなり違って
いる.それも、基本的には、やはり、この一一つの宗教の成立過程やその教義内容によるものと
思われる。もっとも、その反面、支配層や権力者と宗教者との関係、民衆に対するいわゆる宗
教政策などをくらべてみると、宗教における本質的な差異にもかかわらず、政治と宗教の関わ
り方には似通った点を指摘することもできると思う。それは、︿宗教と政治﹀という一般的な課
題において、およそ、人種や民族、地域や時代の差を超えて、如何なる宗教にも共通する問題
があ る か ら で あ ろ う 。
りんね げだつ
脱俗を理想とし、輪廻の世界からの解脱を究極的な目標とするヒンドゥー教では、富や権力
に対する欲求は、理念的には、宗教の目指すところと相反する世俗のことがらである。富や権
力に執着する人間には、解脱に至る道はほど遠い。王や貴族、富裕な商人も、真の解脱の道を
模索するためには、世俗の世界での欲求を捨て去ることから始めなければならない。しかし、
現実の世においては、経済的な富や政治的な権力が力であることは否定できない。この矛盾を、
ヒンドゥー教では、一方で︿王権神授﹀的な考え方で妥協するとともに、他方では、カースト的
分業論や︿四住期﹀に代表される実践倫理を浸透させることによって、一応の解決を計ってきた
とはいえないだろうか。それらは、特異なものに見えても、実は、古代社会における他の宗教
の場合と共通するものがあると思う。
たとえば、カーストⅡヴァルナ制のなかで、バラモンに次ぐものとして、クシャトリヤすな
ラージヤ
わち政治権力の担い手たる王や戦士が第一一の身分にランクされたのも、このことを示してい
る。しかも、王はバラモンによって神から権力を授けられたのだという解釈もあらわれた。そ
れは、西欧にもあった︿王権神授﹀の考え方と似ている。つまり、人間の世界を統治する資格を、
神が認めたことになるのである。バラモンとクシャトリャという二つの上層ヴァルナは、こう
して、相互に結びつきを強めていった。言葉をかえていえば、宗教権威と世俗権力との結合あ
るいは妥協が、ヴァルナⅢカースト制によって裏打ちされたという格好なのである。
Ⅳ異なる社会関係

古代英雄叙事詩にあらわれる主人公、たとえば、﹃マハーパーラタ﹄の英雄クリシュナや、﹃ラ
ーマーャナ﹄の王子ラーマは、いずれも、ヴィシュヌ神の化身とされた。このことは、クシャ
トリャとバラモンとの結託、王族と司祭者との結びつきを象徴することがらと考えられないこ


どん


とはない。ここでは、王雄は、神の承認や委託を楯とするだけでなく、王子そのものが神の権

化、つまり神そのものなのである。
このような関係は、単に神話や叙事詩の内容だけではなく、現実の世界における王権と司祭妬
者との関係においても見られる。それが最も典型的なかたちであらわれてくるのが、九世紀以
降つまり古代末期から中世にかけての王権の歴史のなかで、ムスリムのスルターンたちととも
に一方の主役を演じたヒンドゥーⅡラージプートの場合である。ラージプート”助言日の王や
戦士たちは、いずれも、太陽や月にまで遡るクシャトリャのヴァルナの系譜を創り出し、バラ
モン司祭者のサンクションのもとに、ヒンドゥー教の信仰の擁護者という資格において、一般
の民衆を統治するのである。そして、王の宮廷と深い関わりを持つバラモン司祭者は、つねに、
王道の倫理を監視するかたちで、王権に密着していた。王権は、そのバラモンたちのうしろ楯
を最大限に利用しながら、西欧の封建道徳にも似た忠誠の倫理を臣下に求め、自らの権力によ
る支配の貫徹を計ったのである。
しかしながら、ここでは、ヒンドゥー教が理想とした︿出家﹀︿脱俗﹀の倫理は、そのままでは
貫かれていない。どうやら、宗教的理想と世俗的生活とのあいだの妥協の産物といったにおい
がする。だから、ヒンドゥー教は、ここでも、王や世俗の権力者・戦士に、最終的には脱俗の
生活を勧めたようだ。つまり、支配者・王としての義務を果したあかつきは、出家して解脱の
道を探ることがやはり理想とされたらしいのである。このような宗教的実践のために、世俗的
な権力の座を退いた王や貴族は、インド史のなかでも数多くいたに違いない。
とまれ、中世インドのヒンドゥー社会において、政治権力を掌握してきた支配層と宗教権威
の象徴たるバラモン司祭者たちがたがいに依存し合ってきた関係を、私はとくに強調しておき
たいと思う。この点では、脱俗の生活を貫いた多数のヒンドゥー宗教者がいる一方で、おそら
く、世俗の権力に寄生し、それを利用してきた聖職者もいたに違いない。彼らは、王権からの、
あるいはその背後にいた富裕な商人層からの寄進によって、その地位と身分とを保ち、彼らの
拠点たる寺院や宗教施設を維持していくことができたのであろう。中世ヒンドゥー寺院のなか
に、一部のムスリム征服者が掠奪の目標としていたほどに、財貨・宝玉の貯蔵で著名なものが
あったことは、歴史的にも知られている。
バラモンとクシャトリヤの上層ヴァルナ、あるいはバラモン・クシャトリャとヴァイシャと
いう再生族ヴァルナの地位と身分とは、このような︵政﹀とく教﹀との相互依存の関係によって保
たれてきたとはいえないだろうか。ヒンドゥー社会にあって、なに故に、こうも長い時代にわ
Ⅳ異なる社会関係

たってカーストⅢヴァルナ制とその身分意識とが存続してきたか。私は、右に述べたような、
宗教と政治との結びつき、バラモンと王権との相互依存・相互寄生の関係がその一つの要因で
あっ た と 考 え た い ・


8
イスラム教の場合には、その成立の歴史的背景や教義内容から、宗教と政治との関係は、上
ンドゥー教にくらべるとその出発点からして異なっていたように思われる。マホメット生前の


時代には、イスラム教は、部族の単位を超えた信徒集団の連帯の原理であった。聖職者や司祭

8
者といった特別な階層は存在せず、すべてのムスリムは、いわば在俗のままその信仰に生きて
いた。その意味では、イスラムの宗教自体が、いわば高度の政治理念を内包していたともいえ
る。本来のイスラム教に見られた連帯と団結の政治理念という側面は、その後、イスラムがア
ラブの他の多くの部族や非アラブ諸民族の世界に拡大していった場合でも、原則的には変って
いない。イスラムは、もはや、アラブ諸部族の連帯の理念としての枠を超えたものになってい
たが、人種や民族を超えてムスリムを連帯させる﹁ウンどの結合と団結の原理としては、依
然として、その政治的意味を持ちつづけてきたといえるのである。
そして、異民族・異教徒をイスラムに改宗させ、アッラーの支配する世界を拡大していくた
めの戦争や政治的行為は、すべて絶対者たるアッラーが嘉し給うこととされた。そのことは、
ジハ I F
︿聖戦﹀という、ムスリム征服者や聖戦士たちが掲げたスローガンに最もよくあらわれている。
それがく聖戦﹀である限りは、王や戦士は、戦うこと、あるいは征服し、支配し、統治すること
が、そのまま、神に対して忠実に帰依する証となった。カリフすなわち世俗の権力をも掌握し
た君主は、同時に﹁アミールルⅢムゥミニーン﹂陸目H四一,巨匡︾日目ロつまり﹁信徒たちの指導
スープイー
者﹂であった。一部の神秘家たちのグループを除けば、そこでは、世俗の富や権力から離れて
脱俗や出家を理想とする宗教に見られた精神的な悩みもためらいも、ほとんど必要ではなかっ
たのである。
ムスリム社会には、ヒンドゥー教的な意味での司祭者・聖職者は、原理的には存在し得ない。
しかし、現実には、司法や教学面での︿専従者﹀的な聖職者ともいうべきウラマーがいることは
すでに述べておいた。彼らは、現実の歴史のなかでは、おおよその場合、直接、王権に従属す
るかたちで体制のなかに安住していた場合が多かったのである。もちろん、ウラマーは、宗教
政策や司法・教学に関することがらにおいて、スルターンや支配層に対して指導的な役割を果
す権限が認められていた。しかし、実際には、彼らは、特定の王や権力者のもとにあって、法
の行なわれるのを監視し、ムスリム社会の倫理・道徳のいわば︿番人﹀として、王権の支配の貫
徹のために奉仕する役割に甘んじていたのである。
要するに、ムスリム世界にあっては、宗教と政治とは、イスラムのそもそもの成立の過程で
すでに密接不可分の関係にあったし、その拡大の過程においても、いささかの矛盾もなしに、
V異なる社会関係

いわば︿政教一致﹀ともいうべき体制に貫かれてきた。そこに、共通する点とともに、ヒンドゥ
ー社会の場合とは著しく異なる側面を認めざるを得ない。
さて、宗教と政治の問題については、支配層と民衆との関係という視角から一言触れておき


8
たいことがある。すでに述べたように、ヒンドゥー教とイスラム教とを問わず、難解な教義や
神学上の論争は、そのままでは、民衆とは全く無縁のことがらであった。いわゆる思想・教義


の上部構造は、支配層のなかでの一部の文人・教学者のあいだでは重要な問題であっても、民

9
衆生活の実際面ではそのまま通用するわけがなく、そこでは、もっと簡明で素朴な内容と形式
を持つ信仰が行なわれていたのである。この点、ふつう︿神秘主義﹀の名で呼ばれるところの、
ヒンドゥー教におけるバクティ、イスラム教の場合のスーフィズムは、思想の上部構造と民衆
レヴェルの信仰の両者に受け入れられる内容を備えていたといえる。ひたすらなる祈念を捧げ
て神と直接に向い合い、その恩寵に期待するバクティとスーフィズムの持つ神秘主義的・民衆
的側面は、たしかに共通する面を備えており、その社会的性格から、支配権力と支配される側
の民衆との関係のうえでも重要な意味を持っていった。民衆の世界に入っていったバクティと
スーフィーの指導者たちは、サンスクリットやアラビア・ペルシア語を用いる難解な教義の説
教に代って、民衆にわかる言葉による素朴な説話や、神秘体験・奇跡の行為などによって、神
との接触の道を説いた。パクティの信奉者やスーフィー聖者たちは、ヒンドゥーの聖地や、ス
︽−ン方1
1フィーの道場での生活を通じ、また、彼らが死んだあとしばしば誇張された内容で説かれた
徳行や奇跡物語を通して、それぞれ、ヒンドゥー・ムスリムの民衆のあいだに大きな影響力を
ズイヤーラト
及ぼしていった。ムスリム聖者の場合には、その墓所が、民衆の巡礼の場となり、やがてム
スリムⅢコミュニティーの重要な拠点となっていった例も、一部で見られたのである。
こうした民衆レヴェルにおける宗教者の影響力に対して、もちろん、支配権力の側は決して
無関心ではいなかった。ヒンドゥーの王権も、パクティの指導者たちに対しては、その個人的
な信仰心とは別に、支配者として政治的な関心を抱かざるを得なかったに違いない。ムスリム
支配層も、スーフィー聖者たちの言動には慎重な配慮と監視とを怠らず、ときには弾圧に乗り
出すことさえあった。彼ら支配層のなかには、民衆の世界で人気を博していたこれらの宗教者
たちを自らの権力の傘の下に置き、その影響力を民衆支配の手段として利用し、彼らを懐柔し
ようと試みるものがいたのも当然であった。
しかし、バクティとスーフィズムとをくらべてみると、神秘主義的な諸要素において似ては
いても、その現実の実践面では違った面も目立っている。パクティ指導者の場合には、やはり
ヒンドゥー教徒らしく、いわば、脱俗の境地からひたすらなる神への接近を説いた。スーフィ
ーの方は、︿聖者﹀とはいうものの妻帯者や子持ちも多かったし、世俗のなかにあっての修道に
専念するものがふつうだっただけあって、彼らの説く︿神人合一﹀の境地は、脱俗や解脱の理想
Iv異なる社会関係

を追い求めるよりは、もっと現実の場での実践倫理を説くことに重点がおかれた。
こうした差異はあったにもせよ、バクティ行者とスーフィー聖者には共通する点も多く、そ
の宗教的な熱情は、エクスタスィーの境地に没入して神の名を称え神を讃える歌を朗唱するこ


9
とに窺えるように、いずれも民衆の素朴な宗教的情感を高める役割を果した。このような情念
に基づく民衆信仰のエネルギーを媒介とする連帯感は、ムスリムはもちろんヒンドゥーの場合


においてさえも、ときに支配層の圧政やさまざまな社会的・政治的矛盾に対する抵抗のいわば

9
起爆剤となり得る可能性を持っていた。ひとたび指導者に人を得ると、こうした宗教的情熱は、
民衆の社会のなかでの集団的な行動のエネルギーとなって燃え上がり、ときに権力をも揺がせ
得る力にまで成長していった。王権や支配層が、ヒンドゥーとムスリムとを問わず、このよう
な民衆的神秘主義の指導者とその集団の動向に注目を怠らなかったのは当然である。もっとも、
このような民衆運動は、権力への抵抗という面を持っていながら、ときには、逆に反動的な役
割を果すこともあった。それに、もともと、宗教的熱情は、しばしば権力によって利用される
側面を備えていた.支配者の側も、ときに、こうした民衆宗教のエネルギーを十二分に利用す
る姿 勢 を と っ た の で あ る 。
ただ、このような場合でも、ヒンドゥーとムスリム宗教者の間には差異が認められる。パク
ティ指導者が、一般に世俗の権力の外にとどまっていたのに対して、南アジアにおけるスーフ
ィー聖者とそのグループは、原則はともかく、現実には権力者との接触の度合いが強かったよ
うに思われる。ムスリムの首都デリーにおける中世の有力な聖者の墓には、権力との接近を拒
んだその聖者の姿勢にもかかわらず、ムスリム支配層の墓や彼らが寄進したモスクその他の建
造物 が 多 く 残 っ て い る 。

宗教と民族・国家
ヒンドゥー教の展開

南インドのヒンドゥー寺院(マドウライ)

9
1アーリャと非アーリャ
南アジアは、しばしば︿多言語﹀︿多民族﹀の地といわれる。そのことは、インド共和国憲法に
明記されている言語のうちで千万単位の人口を抱えるものだけで十三にのぼるという事実から
もわかろう。しかし、それらの言語群や、今日では数万人ぐらいの人しか喋らない特異な言語
までをも数え上げた挙句、︿多言語﹀だく多民族﹀だといってみても、それほど意味はあるまい。
多民族・多言語という事実は、そうした多様性のなかに見られる緊張と融合の諸関係に注目す
るときに、社会的に切実な意味を持ってくるのである。
︿民族﹀の問題として、とくに本書の視角から指摘しておきたいのは、まず、アーリャ人と、
非アーリャ人との関係である。多民族といっても、大きく分けると、最古のネグリトzの曾寓○
からいわゆるオーストロ川アジァン5頁○,少の旨語族に含まれる諸民族、つまり、かつて南アジ
ア全域に拡がっていたと推定される先住諸民族を別とすれば、歴史的には、ほぼ、つぎの三系
統の民族群に大別できるであろう。すなわち、おそらくはもと地中海民族で、西方から南アジ
アに来たと推定されるドラヴィダ人︵英語でいえば胃胃言自の︶、上ビルマやヒマラヤ地方か
ら亜大陸東北部へ入って来た民族でかつて﹁モンゴロイド﹂冨○眉○一○己といわれてきた諸民族、
それに紀元前一五○○’一三○○年ごろに西北インドへ入って来たいわゆるアーリャ人跨儲︲
息邑的がそれである。︿人種﹀︿民族﹀︿語族﹀の意味や、その用語法と分類の基準には、今日なお、
いろいろと複雑な問題があるのだが、ここでは、必ずしも学問的には正確とはいえない右の分
類の呼称に従って述べておく。この三つの分け方は、今日の南アジアにおける民族構成を理解
するのには、体質人類学的な分類よりもずっとわかりやすい点があると考えるからである。
さて、皮一層の色合いから見ると、アーリャ人は白人で、ドラヴィダ人およびモンゴロイド系
民族とさきに挙げた先住諸民族とは、いずれも、いわゆる有色人種に属する。アーリャ人とは、
周知の﹁インドⅡヨーロッパ語族﹂の一支脈であるいわゆる﹁インドⅢアーリャ語族﹂であって、
古代イラン人やゲルマン諸族と起源を同じくするグループであったことはよく知られている。
今日、一部の保守的なバラモンのなかには、自らアーリャ人の末喬たることを誇りとしてい
v宗教と民族・国家

るものがいる。なかには、︿アーリャ至上主義者﹀とでもいえるようなグループで、優越感と差
別意識とをなお持ちつづけているものもいる。この人たちの考えは、その歴史的な意味はかな
h違うが、西アジアの一部のアラブ人ムスリムのあいだに見られたくアラブ至上主義﹀といえる
狭陰な民族意識と似た点がないでもない。


9
このような一部のインド人、そのなかでもバラモン階層に属する人びとのあいだでは、ピン
ドゥー教は、本来、アーリャ人の宗教であり、﹁ヴェーダ﹂こそがその原点であると、つよく主
張されてきた。当然、カーストⅡヴァルナ制に基づく差別観念も強く、なかには、︵アーリャ人%
に非ざれぱ人にあらず﹀といった差別意識を振りまわすものさえいる。今日、純粋なアーリャ
人がいるかどうかは、まことに怪しいものである。
こうした少数のアーリャ至上主義者がいる一方で、主に南インドのドラヴィダ系に属する民
族の一部グループのなかには、いわば︵アンチⅡアーリャ﹀といえるような抵抗意識が見られた。
●実際、今日でも、南インドを旅していると、インテリや学生のあいだに、アーリャ中心主義や
アーリャ的バラモン意識に対して批判や不満をぶちまける人たちに出会うことがある。また、
次節で触れるが、︿北インドと南インド﹀の関係は、古代・中世の歴史の上で重要な問題である
ばかりでなく、近・現代史の問題でもある。
インド亜大陸の歴史の基底に見られる民族の複合性がヒンドゥー教の内容と性格とに反映し
ている面を、私は、本書で、とくに強調しておきたいと思う。この問題は、これまでも指摘さ
れてはいるが、インド人の宗教を、その社会や政治と関連させて考えるときには、とりわけ重
要な意味を持ってくる問題だと思うし、宗教内容そのものの研究についても、こうした側面が
もっと突っこんで考察されて然るべきだと考えるからである。
ヒンドゥー教は、たしかに、その淵源をアーリャ人が創り出した﹁ヴェーダ﹂の宗教に持つ
ている。そこから、﹁ヴェーダ﹂不謬説や、さきに触れたようなアーリャ至上主義が生れてく
る余地もあったわけである。
しかしながら、そうした考え方は、狭義の﹁ヴェーダ﹂の宗教やいわゆるバラモン教を云々
する場合にはともかく、本書のように、広い意味から歴史的にヒンドゥー教をとらえようとす
る立場からいえば、明らかに間違っている。ここにくり返して述べるつもりはないが、これら
の考え方は、インド亜大陸における諸民族の接触と融合の歴史を無視するものである。
神観念における変化を見ても、教理・教義の展開、さらには信徒の儀礼や慣習等の実際面を
見ても、ヒンドゥー教が、北インドの全域に根を下ろし、やがて亜大陸の他の地域へ拡がって
いく過程で、本来のアーリャ的な宗教でなくなってしまったことは、全く明らかである。ヒン
ドゥー教は、﹁ヴェーダ﹂の神々を原型としながら、非アーリャ系諸民族の宗教信仰にあった神
観念や神格を大幅にとり入れ、まことに多彩な神々から成る。ハンテオンを創り出していった。
V宗教と民族・国家

、んねごう
また、輪廻や業の考え方が、本来、非アーリャ的な思想的要素を内包していたことも、ほぼ定
説となっている。偶像崇拝にしても、アーリャ人の定住前からあった宗教に見られたものであ
プージヤー
る。ヒンドゥー教の多種多様な祭祁の内容や形式のなかにも、本来アーリャ人のものにはなか
った要素も認められるのである。


9
今日行なわれているヒンドゥー教の信仰内容や儀礼・慣習から具体的な例を挙げてみれば、
もっとわかりやすいかもしれない。どこでも売っている宗教画に見るプラフマーの神は白人と


して描かれるのがふつうだが、大衆の崇敬の主な対象であるヴィシュヌやシヴァの二大主宰神

9
けしん
や、その化身であるクリシュナとラーマの一一人の英雄は、有色人種の肌色をしている。もとも
と、﹁クリシュナ﹂という語そのものが︵黒い﹀という意味である。シヴァ神の象徴として、おそ
らくインドの隅々まで崇敬の対象となっているリンガは、非アーリャ系先住民のあいだに見ら
れた生殖器崇拝の名残りとされている。そもそも、シヴァ神自体が、系譜を辿っていけば、そ
の一端は非アーリャ系の民族の神まで行きつくといわれているのである。
いわゆる﹁インダス文明﹂については本書では触れる余裕がないが、辛島昇氏や小西正捷氏
によると、最近では、ドラヴィダ人と結びつける説がますます有力となりつつあるという。こ
の特異な︿文明﹀を創り出した民族のことは一応措くとして、アーリャ人が西北インドへ侵入し、
前一○○○年から前八○○年ごろにかけて先住民を征服しつつガンガー中流域で部族国家を形
成していった過程で、非アーリャ系の先住諸民族との混血が行なわれたことは疑いをいれない。
そうした状況のなかで、宗教信仰の面でも、アーリャ人と非アーリャ人とのあいだに混清・融
合が見られたのは当然であろう。とりわけ、非アIリャ系民族の女性を通じて、非アーリャ人
の宗教内容と形式とが、それまで﹁ヴェーダ﹂に拠り。ハラモン司祭者に頼っていたアーリャ人
の信仰のなかに、さまざまな新しい要素をつけ加えていったことは、想像するに難くない。
この時期になると、社会関係の面でも、今日見られるようなカーストⅢヴァルナ制の階層秩
序と身分意識とが次第に明確なものとなっていったらしい。すでに触れておいたように、イン
ドにおいてカーストⅡヴァルナの秩序と身分意識とが根強く定着していった要因には、征服者
集団と被征服者集団との間の支配・従属関係、日常生活における職能の分化に基づく分業体制
の固定化といったことがらが認められるが、古代社会にあっては、それらの政治的・社会的関
係が、アーリャ人対非アーリャ人の関係に還元されることも多かったであろう。だから、カー
ストⅢヴァルナ制の成立の一つの基盤に、民族的要因を無視することはできない。既述のよう
に、﹁ジャーティ﹂という言葉自体︿生れ﹀を意味するものだし、﹁ヴァルナ﹂の語も皮膚の︵色﹀
から出ているといわれる︾その点からも、もともと白人であったアーリャ人が、皮膚の色を差
別の基準にしたことが推定されるのである。
﹁ヴェーダ﹂の聖典と神々とを頂き、アーリャ人バラモンに依存していた初期のアーリャ人
V宗教と民族・国家

の宗教は、こうして、彼らの集団がガンガー中流域に進出して定着生活を営み、やがて国家の
成立・統合へと進んでいった歴史のなかで、非アーリャ系諸民族の宗教信仰の諸要素を吸収し
ていき、今日見られるヒンドゥー教の原型を徐々に整えていったと思われるのである。
ヒンドゥー教は、一部のアーリャ至上主義者たちのいうような︿アーリャ人の宗教﹀ではない。


9
難解な教義と思想の上部構造の面では、﹁ヴェーダ﹂の伝統とバラモン教学とを基盤にしたアー
リャ的思惟がながく存続していったことはたしかである。しかし、ヒンドゥー教は、アーリャ

100
人の宗教を母胎として成立はしたが、古代社会においてすでに、アーリャ人と非アーリャ系諸
民族の宗教の混清・融合したものとして展開していたと見るべきであろう。次節に触れるよう
に、古代末期から中世にかけての時期に、南インドの非アーリャ系民族のなかから重要な思想
家・改革者が出ていることは、その事実と全く無縁ではあるまい。
2北インドと南インド
インド亜大陸は、ヴィンディァ山系とナルマダ河を境として、いわゆる北インドと、南イン
ドを含む半島部インドとに分れる。この山系と大河とは、古来、北インドと、デカン・南イン
ドとの交通を妨げる最大の障害となってきた。だから、北インドの支配者たちがデカン地方や
南インドへ侵入しようとしたときには、いつも、この大自然に悩まされた。
自然の障害は、人間の体力や意志の力、技術や戦力の向上・改善などによって、ある程度、
克服できた。しかし、民族の壁は、ときとして、それを乗り越えることがなかなか難しい。長
いインドの歴史を通じて、北インドに住む人たちと南インド諸地域の住民とのあいだには、さ
まざまな乳篠が生じてきた。それらは、主に経済的、政治的な利害関係によるものであったが、
微妙な民族意識に関わりを持つ場合も多かったであろう。
これまで述べてきたところからもわかるように、ヒンドゥー教の歴史を見ると、その最も初
期の﹃リグⅢヴェーダ﹄の時代からいわゆるバラモン教として栄えた時期にかけて、その成立
と展開の主な舞台は、なんといっても北インドにあった。しかし、古代末期から中世にかけて
は、ヒンドゥー教の思想的展開の歴史のなかで、デヵン地方や南インド諸地域に生れた人たち
が、きわめて重要な役割を果している。さらに、イギリス支配の時代から今日に至るまでも、
南インド四州は、ヒンドゥーの思想と文化の歴史のなかで欠くべからざる支柱の役割を果して
きたのである。このことは、とくに強調しておく必要があると思う。
前節で触れたように、北インドと南インドとは、しばしば対立関係に置かれてきた。近・現
代においてさえ、長い歴史のなかでの混血や政治的一体化の事実を無視するほどに、アーリャ
的優越感とドラヴィダ民族主義とのあいだには、激しい対立と緊張が見られた。もっとも、実
V宗教と民族・国家

際には、近代になったからこそ、それらを刺激し、助長するさまざまな要因が前面に出てきた
というべきかもしれない・
南インドの一部バラモンのなかにはカーストⅢヴァルナ制の身分意識を振りまわす超保守的
なものがいるということを、よく耳にすることがある。その一方で、同じ南インドにおいて、


11
バラモンへの抵抗意識からアンチ側バラモンを躯う政治運動を組織していった一部の活動家が
いたことも事実である。南インドに見られるヴァルナ身分制やバラモン意識の根強さは、カー


ストⅢヴァルナ制が、本来は北インドにおいて、アーリャ人。ハラモンを最優位に置く階層関



係・身分意識として成立し発展していったという歴史的背景を考えてみると、ちょっとばかり
奇妙 な 感 に 打 た れ る 。
そもそも、ドラヴィダ系諸民族は、どのようにして、カーストⅢヴァルナ制を自らの社会の
内部に持つようになったのか。果して、アーリャ人や北インドのバラモンによって南インドへ
持ち込まれたものなのか。もしそうでないとしたら、彼ら非アーリャ諸民族のあいだに、もと
もとアーリャ人を優位に置く社会関係として成立したカースト肌ヴァルナ制が、如何なる理由
と経過のもとに確立していったのであろうか。
これら疑問に対しては、残念ながら、今日の研究成果は、完全な回答を与えてはくれないよ
うである。ただ、はじめに北インドで成立し展開していったカーストⅢヴァルナ制とその身分
意識とが、北インドで上層ヴァルナの地位を占めていた人たちによる軍事的征服や大規模な移
住によって、デヵンや南インドの諸地方に拡まっていったのではないということはいえそうで
ある。つまり、政治的な支配体制・統治機構あるいは社会関係などが、しばしば、異民族によ
る他民族の地域への侵入・征服にともなって移入されたのと異なり、南インド諸地域における
カーストⅢヴァルナ制の確立は、北インドのアーリャ系諸族のこれら諸地域への大規模な侵入
乃至は移動の結果によるものだということは、全体としては、指摘できそうにない。とすれば、
さし当っては、南インドにおけるカースト・肌ヴァルナ制の成立と展開には、その基盤に、北イ
ンドにいた一部のバラモンの影響、あるいは本来、南インドに住んでいた人たちの主体的な要
請に基づくところが多かったものと考えるしかないであろう。いずれにせよ、南インドへのヒ
ンドゥー教の伝播と拡大という事実と密接な関わりはありそうである。この点は、今後の専門
家の解明に期待するより仕方ない。
さて、時代は少し下るが、南インドの諸地域においては、古代末期から中世に至るヒンドゥ
ー思想の展開のなかで、きわめて重要な役割を果した人物が続出している。たとえば、インド
最大のヴェーダーンタ哲学者の一人とされる八世紀前半のシャンヵラの昌冨目はケララ出身
だったし、中世ヴィシュヌ教学を確立した哲学者として知られる、+一一世紀前半に死んだラー
マーヌジャ雨幽自習昌幽と十三世紀のマドゥヴァ巨邑冒煙は、それぞれ、マドラス・マィソー
V宗教と民族・国家

ル地方の出身であった。十五世紀前半にヴィシュヌ派を世俗主義に近づけたヴァッラバく巴,
一号富も、アーンドラ地方から出ている。少し誇張していうならば、古代末期から中世にかけ
てのヒンドゥー思想の展開は、教義の上部構造においても、またのちに民衆に影響を与えた宗
教思想の面から貝ても、南インド出身の宗教者や思想家によってリードされる傾向にあったと

103
さえ思えるほどである。
視野を拡げて、文学や音楽、あるいは美術や建築などの面について見ても、南インドで展開

104
したヒンドゥーの芸術・文化は、北インド側からの波及と影響の結果というよりは、南インド
独自の主体性を保ちながら、豊かに開花していったことに気がつくであろう。全般的に見て、
南インドの中世ヒンドゥー社会は、統治の組織や機構の面ばかりでなく、文化と芸術のあらゆ
る面において、北インドの諸地域にくらべて、決して劣らない成果を生み出しているといえそ
うである。イギリス人によって書かれてきたインド通史や、北インドに生れ育った歴史家たち
が書いてきたインド史には、こうした南インドの文化史上の役割がややもすれば軽視されがち
で、北インド偏重の傾向が強かったことは否定できないであろう。このことは、ヒンドゥー教
の理解についても、そのまま当てはまるのではないかと思う。本章中扉の写真からも窺えると
思うが、南インド様式の寺院建築は堂々とした風格をそなえている。
南インドが、ヒンドゥーの思想・文化の展開のうえで重要な役割を果したとすれば、インド
亜大陸の他の地域においても、多かれ少なかれ、独自の展開が見られた。残念ながら、ここで
はそれらについて触れている余裕はない。しかし、その事実は、とりもなおさず、ヒンドゥー
思想とその文化が、南アジアの全域において、アーリャ人と非アーリャ系諸民族との混清・融
合の歴史過程のなかで展開し開花していったものであることを意味するものに他ならない。そ
のことだけは、くり返し強調しておきたい。
3支配層と階層社会
インドについて話をすると、あとできまって出される質問の一つにカーストの問題がある。
そのなかでも、︵カースト制度は、何故、これほど長いあいだにわたってつづいてきたのか﹀と
いう質問をする人がかなりいる。どの民族、どの国においても、歴史のある時期には、インド
のカーストに似た社会構成や身分意識は、存在したのである。しかし、一一千数百年も昔の古代
に成立したその階層関係や身分意識が、宗教と結びつき、まがりなりにも今日まで存続してき
たという事実は、世界史のなかでも他にその例を見ないといっていいのではなかろうか。
ヒンドゥー教とカーストⅢヴァルナ制との関係については前章で触れておいた。一部のヒン
ドゥー学者の主張にもかかわらず、カーストⅢヴァルナ制がこれほど長いあいだにわたって存
宗教と民族・国家

続してきた要因の一端が、カースト集団の構成原理とヴァルナの身分関係と差別意識とがヒン
ドゥー教と密接に結びついてきたところにあることは、疑いをいれないところであろう。ヒン
ドゥー教に特有な価値観や清浄感とヴァルナ身分意識との結合については、前章で述べたとこ
ろである。

105
ここでは、カーストⅡヴァルナ制の存続の背景にあったと思われるもう一つの歴史的要因に

ついて、ヒンドゥー教との関わりにおいて述べてみたい。それは、インド亜大陸における宗教

106
と政治との関係であり、宗教権威と世俗権力とのあいだに見られた相互依存あるいは相互寄生
といった関係である。
話をもう少し具体的なことがらに戻してみよう。ヒンドゥー教徒の社会を縦に分断してきた
四つのヴァルナのうち、最上位のバラモンと第一一の身分のクシャトリャとは、カーストⅢヴァ
ルナ制の全システムにおいて、ヒンドゥー人口に占める割合は少ないにもかかわらず、いわば
上層カーストをかたちづくってきた。今日でこそ、これらの二階層に属する人びとの現実の生
活面での職能は、まちまちである。しかし、古代および中世の社会においては、彼らは、自分
たちよりも下位にランクされた一一階層、すなわちヴァイシャ・シュードラに属する人たちとは
異なる職業に就くのが、むしろ、ふつうだったようである。一般的にいえば、バラモンは司祭
者たることを本来の任務とし、仮に他の職業に就いても、やがては司祭者の職に戻るか、また
は最上位たるバラモンにふさわしい仕事に励むことを使命と考えてきた。第二の身分のクシャ
トリャは戦士であったが、必然的に、武力を掌握する政治権力の担い手としての役割を果すよ
うになっていった。いってみれば、バラモンとクシャトリャとは、一方はヒンドゥー教徒の精
神の領域に君臨する宗教権威の象徴であり、他方は政治権力の掌握を最高の目的とするグルー
プだったのである。
今日でこそ、ヴァルナの壁は、少なくとも職業の面では、大幅に崩れてしまった。ヴァイシ
ャやシュードラに属する人たち、カースト外にランクされてきた人びとが富や権力の座に就き、
その上の一一階層といわれる人たちを支配する側に回っていることも、それほど珍しいことでは
ない。実際、古代や中世の環境においてさえ、それに似た関係は認められたのである。古代の
王や貴族のなかには、ヴァルナからいえば、クシャトリャやハラモンの家に生れたとは思われ
ないものもいた。しかし、全体としては、カーストⅢヴァルナ制の階層秩序と身分意識とは、
ヒンドゥー社会における宗教権威と支配権力とを一一つの上層ヴァルナの手に委ねてきたといえ
ると思う。私の推察では、バラモンの宗教権威と世俗権力との相互依存の関係が強まったのは、
とりわけ、九・十世紀ごろからインド各地にあらわれた中小規模のラージプート王権の確立・
存続と無縁ではなかったように思われるのである。
ラージヤ
王や高官・貴族として軍事力を独占し、支配権力の掌握者となったラージプートについて
V宗教と民族・国家

は、それが如何なる民族に起源を持つのか、今日の歴史学においてもなお明確にし得ない問題
があるようだ。だが、この中世ラージプート王権に触れずには、カースト川ヴァルナ制がこれ
ほどまでに強固にインドの社会に根を下ろし、長い期間にわたって存続してきた理由の一端が
解き明かせないように、私には思われるのである。この点については、次章の後半で、私見を

107
述べることにしたい。
108
4﹁民族宗教﹂と﹁世界宗教﹂
ヒンドゥー教とイスラム教については、イスラム教が﹁世界宗教﹂であるのに対して、ヒン
ドゥー教は﹁民族宗教﹂だということがよくいわれるようだ。もっとも、マックス川ウエーバ
ーのように、ヒンドゥー教を、儒教やユダヤ教とともに﹁世界宗教﹂としている学者もいる。
いずれにせよ、これらのことがらは、どのような意味を持っているのであろうか。
﹁世界宗教﹂﹁民族宗教﹂といういい方は、宗教学の一部で使われてきた用語で、前者として
は、イスラム教のほかに仏教やキリスト教などが挙げられ、後者の場合には、ヒンドゥー教が
ユダヤ教とともにこのなかに入れられることが多い。この場合、﹁民族宗教﹂が、ある特定の民
族・地域に限定された範囲で見られるものであるのに対して、﹁世界宗教﹂の方は、民族・人種
の狭い枠を超え、地域的にもずっと広い範囲にわたっているのがふつうである。
イスラム教は、本来はアラブの一部の部族を中心に、アラビア半島の一角に興った宗教だっ
たが、他のアラブ諸民族のあいだに拡がり、やがてイラン人やトルコ人、あるいは中央アジア
から小アジア・トルキスタン、さらに中国やインド・東南アジア、また北・中部アフリカやイ
ベリア半島にわたって、非アラブ諸民族の住む広範な地域に拡まっていった宗教である。まさ
に、﹁世界宗教﹂と呼ばれるにふさわしい性格と規模とを持っている。
一方、ヒンドゥー教は、今日では、インド共和国を主とする南アジア諸地域の住民がその主
な信奉者であって、その点では、俗に︿インド人の宗教﹀と呼ばれるのも理由のあることで、一
部で﹁民族宗教﹂といわれてきた所以であろう。インド半島以外でヒンドゥー教徒がその人口
の多くを占めているのは、たとえばインドネシア共和国のバリ島などを除いて、ほとんどない
といってよい・
だが、歴史的に見ると、ヒンドゥー教を﹁民族宗教﹂と呼んでしまっていいかどうか、いさ
さかのためらいを感じないわけにはいかない。この宗教は、かつては、東南アジア一帯、それ
も大陸部から島喚部にかけての広範な地域に拡まっていた。今日のカンボジアやヴェトナム等
の一部地域にヒンドゥー教とその文化が行なわれていたことは、史書の記述や残存遺跡からも
明らかである。同じようなことは、今日のインドネシア共和国に属する諸島嘆の場合にも当て
V宗教と民族・国家

はまるが、その影響が遠くフィリピン群島南端にまで及んでいたらしいことも、たとえば、同
群島のミンダナオ島に残る人の称号などから推定できる。
東南アジアの諸地域に、いつのころ、如何にしてヒンドゥー教が波及していったかについて
詳述している余裕はない。のちのイスラムの場合に似て、インド人による航海・交易にともな

109
う場合もあっただろうし、また、これら諸地域の王や権力者がすすんでこの宗教とそれに関わ
る制度・文物を摂取しようとした結果であることも推察し得るだろう。いずれにせよ、このよ

110
うな事実を見てみると、ヒンドゥー教を﹁民族宗教﹂とすることには若干の嬬跨を覚えざるを
得ない。歴史の一時期においては、ヒンドゥー教は、﹁世界宗教﹂と呼んでもいいほどの地域的
広がりと民族的多様性とをもって、東南アジアのほぼ全域に拡まっていたのである。
しかし、これらの地域で、支配層ばかりでなく、どの程度、一般住民のあいだに浸透してい
たのか、また、実際に行なわれていた信仰内容がインド亜大陸のヒンドゥー教とどう違ってい
たのか、そうした点になると必ずしも明らかにし得ないところもあり、各地域の本来の宗教と
の関わりを考える必要もある。それに、今日では、ごく一部の地域を除くと、これら諸地域か
らはほとんど消滅してしまった。その点からすれば、ヒンドゥー教を﹁民族宗教﹂のなかに入
れる理由もなくはないともいえる。
ただ、南アジアといい、インド亜大陸と呼ぼうと、それは、ソヴェート川ロシアとフィンラ
ンドとを除く今日のヨーロッパ全域にほぼ匹敵する広さを持ち、そこに住む民族も、まことに
多様なのである。その点を重視すれば、ヒンドゥー教を単に﹁民族宗教﹂といって済ましてし
まうことにも、かなり問題があるであろう。つまり、ヒンドゥー教が拡まった南アジアという
地域自体が、すでに狭義の民族性を超える条件と要素とをいくらも備えていたからである。
﹁民族宗教﹂か﹁世界宗教﹂かという問題に即していえば、それは、ヒンドゥー教の性格づ
け、あるいはそれに対する歴史認識の如何によって、結論も違ってくるであろう。私は、本書
で、この宗教を、多様な民族により、広範な地域にわたって信仰されてきた複合要素のコンプ
レックスとしてとらえようとしてきた。このようなヒンドゥー教に対する認識からすれば、こ
の宗教が、少なくとも﹁世界宗教﹂的な面を持っていたことは否定できない。ただ、くどいよ
うだが宗教としての性格に立ち入ってみると、そう簡単にはいえない面があるのである。
ヒンドゥー教を﹁民族宗教﹂、イスラム教を﹁世界宗教﹂とする場合の一つの根拠には、宗教
の性格、とりわけ布教や改宗、あるいはその波及・伝播などに関わることがらが関係してくる
と思う。イスラム教では、未信者や異教徒を積極的に自らの宗教へ導き入れようと努め、入
信・改宗をつよく勧誘しもする。この点では、キリスト教と並んで布教・改宗に熱心な宗教と
いえる。したがって、その宗教の歴史のなかでもかなり早い時期に、しかも、比較的短期間の
うちにアラブ以外の諸民族やアジア・アフリカの広範な諸地域にまで拡がって行き、﹁世界宗
V宗教と民族・国家

教﹂としての性格を如実に示していった。これに対して、ヒンドゥー教の場合には、一部の改
革派のグループを除けば、一般に入信や改宗への勧誘は行なわず、布教・宣教への努力を試み
ることもほとんどなかった。
すでに記しておいたように、ヒンドゥー教徒の場合には、ヒンドゥーの子として生れること


11
自体がヒンドゥーたる資格を得ることだといった性格が認められる。だから、ヒンドゥー教が
異なった民族や異なった地域の住民のあいだに拡まっていくには、おのずから限界がともなう.


こうした意味合いからすれば、イスラム教にくらべて、ヒンドゥー教の方が民族的性格も強く、


1
ヒンドゥー教徒のいない地域に浸透していった場合にも限界があったことが理解できるであろ
う。本来、北インドで成立したこの宗教が、南インドや他の地域へ拡がっていき、さらに東南
アジア諸地域にもヒンドゥー社会が成立したという歴史的事実も、布教や伝道の努力の結果と
いうよりも、ヒンドゥーの移住や定着にともなう現象、あるいはその地域の王や権力者、乃至
は商人層たちの側からするインドの制度や思想・文物を受容しようとした結果と見てよい。こ
の点は、私自身がとくに興味を覚えている問題だが、ヒンドゥー教本来の性格に照らしてみる
と、なお不明な点も多く、今後の課題として残しておきたい。
東南アジアにおいて、かって仏教やヒンドゥー教が拡まっていた広範な地域にわたって、そ
のあとからイスラム教が浸透していったという歴史的事実は、この点からしても、注目するに
値する。イスラム教の場合、同じように、それぞれの地域の王や権力者や商人層の側に、利害
関係に基づくイスラム化への主体的要請があったとしても、その前後の過程では、スーフィー
聖者の直接・間接の感化や影響も含めて、広い意味でのムスリムによる布教活動が行なわれた
という事実を、おそらくは認めざるを得ないであろう。ヒンドゥー教や仏教が拡まっていた東
南アジア諸地域の一部分が、今日、ムスリム人口が過半数を占める場所となっているという歴
史的事実の背景には、やはり、ヒンドゥー教とイスラム教との性格の違いが影響していたとは
いえないだろうか。私は、南アジアばかりでなく、東南アジアの諸地域も、ヒンドゥー教の消
滅とイスラム教の浸透・拡大という歴史を背景に、この二つの宗教の性格の差を明らかにし得
る貴重な歴史的実験の場であったと考えるものである。
V宗教と民族・国家

113

Ⅵ二つの宗教の出会い
lイスラム教の浸透I
116

1イスラムの波及
世界史のなかでイスラム教が拡まっていった動きを見てみると、他の宗教の場合と異なる一
つの特徴に気がつく。それは、アラビア半島の一角に興ったこの宗教が、わずか百年足らずの
間にこの半島以外の広範な地域に伝播していき、さらにその後も、アジアの大半の諸民族の社
会に波及・浸透していったという事実である。インドへのイスラムの伝播も、世界史における
イスラムの拡大の過程の一部をなすものといえる。
ある宗教がそれが興った地域から他の地域へ浸透していく場合には、そのプロセスとして、
布教によるもの、つまりその宗教の側の主体的な拡大の意図によってなされる場合と、逆に、
新しい地域の住民や異民族がすすんでその宗教を受容する、つまり受け容れる側の主体的な条
件によってその宗教が彼らのあいだに根を下ろしていく場合とがあるであろう。イスラム教の
場合には、その伝播と拡大の歴史を見ると、大部分の場合は、前者のケースが目立っている。
あるいは、少なくとも、そのように理解されてきたといえる。南アジアにおけるイスラムの浸
透の場合にも、たしかにそういう面が強かったと思う。しかし、同時に、後者のような状況も
見られなかったとはいえない。
インドへのイスラムの波及と伝播の歴史について考えてみると、およそ、以下に述べるよう
な三つの契機あるいは歴史的背景に整理することができるように思う。その第一は、アラブや
トルコ系・アフガン系異民族から成る軍事集団による侵入・征服、およびその結果としての、
いわゆるムスリム王権支配の成立という事実である。
この場合、時期的、地域的に、ほぼ、つぎの二つのケースに分けられよう。その第一は、八
世紀の初めに、ウマイヤ朝のイラク太守によって派遣されたアラブ軍隊のインダス下流域への
侵入の事実である。このアラブの侵入は、その後の亜大陸全般の状況には大した影響は与えな
かったが、それ以来、この地方がインドの思想や文化を西アジアへ伝える中継地点となったこ
とが指摘されている。これらアラブの兵士たちの定着にともなってイスラムも根を下ろしてい
き、インダス下流域におけるその後のムスリム社会の成立の一因となった。
Ⅵ二つの宗教の出会い

軍事的侵入の第二のケースは、ずっと遅れて十世紀後半以降に見られた西北インドへのトル
コ系民族の侵攻である。ほぼ二百年間にわたってくり返し行なわれたガズナ︵仔四目呂および
ゴールゆほヨ両朝の軍隊の北および西インドへの度重なる侵入は、十三世紀初頭になって、デ
リーを中心拠点とするトルコ系異民族の政権の成立を結果した。こうしたムスリムⅢアラブ、

117
あるいはムスリムとなっていたトルコ人やアフガン人の支配が、インドにおけるイスラム教の
浸透に及ぼした直接の影響については、歴史の現実面ではさまざまな問題があり、私にいわせ

118
れば、必ずしも、これまでいわれてきたほど単純なことがらではないのである。それについて
は、また、のちに触れたい。
インド史のなかで見られたイスラム教の浸透の他の二つの契機は、いずれも非軍事的なもの
である。まず、インドの各地、とくにアラビア海沿岸の漁村や港町へやってきた、アラブやペ
ルシア人のイスラム教徒の船員や海上商人たちの滞留の結果として見られたものである。イン
ド半島沿海の諸港市は、古くから、東西を結ぶ交易ルートの中継地点として、西アジア・アフ
リカ、あるいは東南アジア・中国からの船舶が立ち寄る場所であった。アラブやペルシア人あ
るいは北・東アフリカの諸民族がムスリムになったあと、これらの諸港市には、それらの外国
人船乗りや交易業者・商人たちの居留地を中心として、小規模なムスリムⅡコミュニティーが
つくられ、その範囲内でイスラムが浸透していった。同じような状況は、内陸部においても、
たとえばインド西部や西北インドの辺境の一部の商業都市にも見られたものと推定される。
このような異民族ムスリムの居留地のなかでのイスラムの定着が、いろいろな事情から周囲
のインド人に影響を及ぼし、小規模な範囲ではあっても、それらの地方にイスラムを浸透させ
ていく原因となったことは、多くの地域で指摘できるであろう。たとえば、その最も典型的な
例は、西南のマラバール冒巴号肖海岸地方の、のちに﹁モープラー﹂三○℃一号と呼ばれるよう
になったムスリムである。また、グジャラートやベンガルの一部でも、交易ルートに当ってい
た港町に小規模なムスリム社会が形成されていった。東南アジアへのイスラム教の波及の一因
も、おそらく、同じような面で指摘できると思う。もっとも、こうした場合、それぞれの地域
の権力者や有力な商人層の独自な政治・経済面での利害関係が、西方からのムスリム商人との
接触や、思想・文物の吸収・摂取といった状況を生み出し、それとともにイスラムが浸透して
いったことも、多くの場合に推定されるところである。
南アジアにおけるイスラムの浸透の三番目の契機として私が挙げたいのは、イスラムの宗教
者、とくにスーフィーの活動とスーフィー的環境の影響である。スーフィーとスーフィズムに
ついてはすでに触れたが、一般的にいえば、世俗の欲求を捨てて、ハーンカーー吟四目農︵道場・
庵︶を設けて修道の生活を送り、スーフィーの道の宣布やイスラムの布教に努力した。もとも
と、スーフィーの活動は、九世紀以来の西アジアにおいて、アッバース朝のもとでさかんとな
Ⅵ二つの宗教の出会し

式イルスイラ
リ、やがて、西北インドにムスリム支配が成立するのと相前後して、一部の宗派の指導者やア
クティヴな弟子たちが北インドの各地へやってきてその実践活動を始めたものである。︿聖者﹀
どもステイーク
といっても、彼らの目的は、神秘家としての自分の修道だけでなく、ムスリムのあいだにスー
フィーの道を拡めることにもあった。だから、いわゆる人里離れた静寂の地を選んで孤独の修

119
業に励むというより、むしろ、人間の多い都市やその周辺の地に拠点を設ける場合が目立った。
実際、インドでも、トルコ人征服者の支配の中心地であった首都デリーやラホール・ムルタi


ンあるいはその周辺の地が、スーフィーたちの最も主要な活動の場となった。のちに述べるよ



うに、インド人民衆がイスラムに改宗していった場合に大きな役割を果したのは、これらのス
ーフィー聖者の活動と彼らの与えた直接・間接の影響だと、私は考えている。
以上に述べてきたところからすると、イスラム教がインドに浸透していく条件を整えたのは、
商業・交易活動のために西方からやってきた少数のムスリム居留民、軍事的征服の結果インド
の地にムスリム支配を実現させたトルコ系民族から成る征服者たち、さらに、同じく西方から
来たスーフィー指導者とその弟子たちであったといえるのである。これらの経済的・政治的要
因と、スーフィーを主とする宗教者の活動とのあいだには、時と場合によっては、相互に密接
な関係があったことも推察されるところである。
2異民族の支配と宗教
前節で述べたインドへのイスラムの伝播と浸透の歴史的諸契機のなかで、ここでは、十三世
紀以降のトルコ人による征服・支配と、イスラムの宗教との関わりについて、いくつかの問題
点を述べてみたい。
やソ︿G1やr
八世紀初頭におけるインダス下流域へのアラブ軍隊の侵入・征服も、︿聖戦﹀の名のもとに行
なわれた。しかし、彼らの真の目的は、イスラムの拡大という宗教的なものよりは、伝え聞く
インドの富の獲得が主であった。また、アラブ帝国の支配の拡大の一環としてインドの地が選
ばれたものであることも、ほぼ疑いをいれない。
ムスリムの法のもとでは、異教徒たる被征服者の一部のものは﹁ズィンミー﹂︵﹄・画ョ目とし
て、ジズャ育冨︵人頭税︶を支払いさえすれば、その身分と信仰の自由とを保障された。ヒンド
ゥーや仏教徒のような偶像崇拝の徒は、このようなズィンミーの地位から排除されるのが当然
であった。それにもかかわらず、アラブ軍隊が侵入したスィンド地方では、征服されたインド
人の一部は偶像の徒であったにもかかわらず、ムスリム征服者によってズィンミーに準じて扱
われたらしい。つまり、異教徒打倒の聖戦の旗印を掲げていた侵入アラブ勢力も、その征服の
過程やそれにつづいた支配の実際面では、ヒンドゥーや仏教徒たちに対しても寛容な政策をと
Ⅵ二つの宗教の出会い

ったわけである。
十二世紀末の西北インドにおけるトルコ系ムスリムの侵入・征服と、そのあとにつづくムス
リム諸王朝の支配の場合にも、ほぼ同じようなことがいえる。それに先立って行なわれたガズ
ナ朝やゴール朝勢力のインドへの侵入も、聖戦を調ってはいたが、その主な目的の一つは、イ

121
ンドの支配層やヒンドゥー・ジャイナ教寺院が抱えていた莫大な富や貴金属の奪取、あるいは
エピソード
奴隷としての青年子女の掠奪にあった。インド史上の一つの挿話となっているグジャラートの

122
ソームナートの。自国岳にあるヒンドゥー寺院の破壊と掠奪︵一○二六年︶は、偶像崇拝を守る
異教徒の打倒、イスラムの宣布という宗教的な使命感と情熱とに基づくものとはいえ、本当は、
この寺院に貯えられていた莫大な財貨や貴金属を奪い取ることが大きな目的だったと見るべき
ではなかろうか。
実際に調べてみても、この時期のムスリム異民族による北インドへの侵入・征服については、
ジ ︽IF
聖戦の名における宗教的な意図が調われていたにもかかわらず、彼らによる征服・支配の実際
の過程においては、宗教そのものが、それほど前面に出てきていない点が目立つのである。
一一、三の例を挙げてみよう。たとえば、十二世紀のゴール朝のムスリム侵入軍が西北インド
で対決しなければならなかった相手には、ヒンドゥー王権ばかりでなく、さきにガズナの軍隊
の一部がインドに残したムスリム政権があったという事実がある。ここでは、インド侵入に際
して掲げたく聖戦﹀という大義名分は、ほとんど無意味なものとなってしまっている。また、世
界史にその名を知られたガズナのマフムード三島ョ目の冨曽曽昌の軍隊のなかには、少なく
とも三人のヒンドゥーの武将がいたという。十六世紀のムガル帝国最盛期の場合はともかく、
十一・十二世紀のムスリム侵入軍のなかに、兵士ばかりかヒンドゥーの指揮官までいたとなる
と、私たちの従来の歴史認識を改める必要を覚えさせられはしないだろうか。
ガズナおよびゴール両王朝の軍隊によるインド侵入のあと、十三世紀の初めからデリーを拠
点として支配権力を確立した、スルターン普一画邑︵俗にいうサルタン︶を頂点とするいわゆる
サルタナット蟹一宮ロ胃政権の場合を見ると、政治と宗教についていろいろな問題があるのに気
がつく。まず指摘しておきたいのは、ゴール朝から独立したデリーの支配者たちとそれまで彼
らが本拠としていたアフガニスタン地方との支配服属の関係が断たれてしまったということで
ある。デリーを首都としてゴール勢力から独立した﹁奴隷王朝﹂のトルコ人支配者たちにとっ
て、北インドは、もはや、侵すべき異境の地ではなく、守るべき自らの本拠だったのである。
たしかに、彼らは、インド人にとっては、いわば︿非インド人﹀たる︿異民族﹀であり、しかも、
ヒンドゥーやジャイナ教徒にとっては明らかに︿異教徒﹀たるムスリムであった。しかも、現実
はともかくとして、原理的には西方のカリフの権威を認めるムスリムの地方的首長であり、そ
の官僚機構や経済政策、司法行政などの面では、西アジアやアフガン地方で行なわれてきたい
Ⅵ二つの宗教の出会し

わゆるムスリム支配の内容と形式とをそのまま採りいれていた政権であった。サルタナットか
らムガル時代を通じて、統治機構や官職などの名称には、少数のトルコ語を除くと、・ヘルシ
ア・アラビア語系の言葉がほとんどそのまま用いられていたし、宮廷・支配層の公用語も。ヘル
シア語であった。

123
しかし、支配・統治の実際面を見てみると、徴税機構などによくあらわれているように、在
来のインドの諸制度が大幅に利用されていたし、また、上層から末端の役人に至るまで、多く


のヒンドゥー教徒が、信仰を変えることなしに登用されている。征服されたあとに本来は異教



徒の王として打倒・抹殺されて然るべきはずの旧ヒンドゥー支配層が、ムスリム支配の当初か
らすでに、改宗も強制されずにその地位を保っていた例さえ各地で見受けられた。つまり、侵
入し、権力を確立して︿インドの王﹀となったムスリム支配者たちは、むしろ、旧来のヒンドゥ
ー支配層をそのまま利用することによって、︿異民族﹀でしかも︿少数者﹀であった自分たち集団
が獲得した権力の存続とその経済的基盤たる地税収入の確保という現実的な利害関係を、まず
ソ︽IF
第一に重視した。聖戦の大義に則って、偶像崇拝の異教徒たちを強制的にイスラムに改宗させ
るということは、実際にはほとんど行なわれなかったのではないかとさえ推察されるのである。
﹁片手に剣、片手にコーラン﹂﹁改宗、然らずんぱ死か奴隷か﹂とまで広くいわれるようにな
った、ムスリム侵入者の︿強制改宗﹀の政策や彼らの︿狂信性﹀は、インドにおけるムスリム支配
の実態を見る限りでは、ほんの一部の支配者の場合を除くと、むしろ、見出すことの方が難し
いといってよい。
彼らムスリム侵入者や支配者たちは、たしかに、相当の数にのぼるヒンドゥー・ジャイナ、
あるいは仏教の寺院を破壊し、数知れぬ偶像を壊し、あるいはその面相を削り取っている。そ
れは、偶像崇拝をつよく拒否するイスラムの信徒として当然のことであった。しかし、その反
面、ムスリム支配下の多くの地域において、そのままに残された異教の寺院や宗教施設も数多
い。そのことは、今日、インド各地に現存している多数の宗教建造物や遺跡の存在からもわか
るであろう。壊す場合でも、名目よりは、実際に、石材そのものが欲しかったという理由もあ
った。異教の寺院の柱をそのままモスクに用い、あるいはヒンドゥー寺院の表面と内部だけを
改装してモスクや宮廷建造物の造営に利用したといった例も各地に見出されるのである。
これを要するに、トルコ系ムスリムの征服者や支配者たちは、彼らの置かれた立場をよく理
解していたというべきであろう。彪大な人口を持ち、すぐれた統治機構と高度な文化とを発展
させてきたインドの諸王国を征服し、旧支配層を自らの支配下に置いたとき、少数の軍勢しか
持たない外来の異民族集団に過ぎなかった彼らは、その獲得した権力と新しい体制の存続、と
くにその治安と経済的基盤の確保のためにまずなにが必要であったかをよく見極めており、そ
の配慮を、実際の統治に当って十分に活かしていったものと見るべきであろう。宗教の面でも、
Ⅵ二つの宗教の出会い

彼らにとって選ぶべき道は、いわゆる︿強制改宗﹀といったような方途ではなく、むしろ、寛容
な宗教政策を打ち出し、ヒンドゥーその他の異教徒たるインド人に対して、柔軟で現実的な姿
勢を採る以外になかったものと思われるのである。
このような初期のムスリム支配の環境のなかにあって、一部のヒンドゥー旧支配層のなかに

125
は、自分たちの一族の政治的・社会的利害関係から、彼らの上級支配者の宗教であるイスラム
への改宗に踏み切った人たちもいたであろう。﹁奴隷王朝﹂の後期、つまり十三世紀後半という


ムスリム支配の歴史のなかではかなり早い時期に、すでに、旧ヒンドゥー支配層からの改宗者



と推定される政府高官を見出すことができる。また、ムスリム支配の政治的拠点となった首
都デリーやその他の都市では、その職業上の必要や利害関係から、自らすすんで、あるいは止
むを得ず、イスラムへ改宗していった集団もあったであろう。このように、ムスリム支配層の
政策や意図とは別の面で、ムスリム支配の政治的拠点を中心に次第にイスラム教徒の人口が増
大していったことは、十分推定できよう。観光客が一度は訪れるニューデリー南部の名所の一
つに、十三世紀に完成した﹁クトゥブのモスク﹂と呼ばれる遺跡がある。﹁クトゥプの塔﹂︵Ⅵ
章中扉の写真を参照︶で知られるその巨大なモスクは、十四世紀に入るころには、その規模が倍
を越す広さにまで拡張された。インド人のムスリム歴史学者の故モハンマド川ハビーブは、か
つて、その事実を、単なる権力誇示の結果と見ずに、当時の首都デリーのムスリム人口の増大
に対応するものと考えた。卓見といえるかもしれない。
3イスラムと民衆の世界
インド亜大陸の住民のうちで四人に一人がムスリムだということは、トルコ人やアフガン人、
アラブや。ヘルシア人などの異民族が侵入あるいは移住して来てそのまま定着した結果によるも
のではない。南アジアでムスリム人口がそこまで増えていったのは、もとからいたインド人が
イスラム教に改宗したからである。
インドへやってきたトルコ人を主とするムスリム征服者たちは、インド人のイスラムへの改
宗については必ずしも積極的な姿勢をとらず、実際には、被支配者の宗教信仰にはほとんど立
ち入らなかった。ムスリム支配体制のもとでの司法や教学を担当していたゥラマーたちの権限
と責任の範囲も、一般的には、既成のムスリム社会集団の内部に限られることが多かった。彼
マドヲッサ
らのなかにはモスクや学校などの管理の任に当るものもいたが、そのゥラマーが、ムスリムで
ない一般のインド人に対して積極的な布教活動を行なったという確実な証拠はほとんどない。
それならば、インド亜大陸のなかで四人に一人という数までにイスラム教徒が増えたのは、
一体、どういう理由に基づくものなのだろうか。私の推察では、﹁シェイフ﹂や﹁ビール﹂と呼
Ⅵ二つの宗教の出会い

ばれたスーフィー聖者やその弟子たちの活動の直接・間接の影響によるところが大きいのでは
ないかと思われる。十三世紀の初めごろからインドへやってきたスーフィー聖者たちの生活や
思想については、スーフィー側の宗教文献に拠るより仕方なく、宗派の立場を超えて正確な実
態を知ろうとすると、意外に難しい。しかし、一般的にいうと、彼ら初期のスーフィー指導者

127
たちは、西アジアやアフガニスタンなどからインドへやってくると、ある土地を選んでその宗
教活動の拠点とした。ふつうは、その土地に、ハーンカーと呼ばれた道場を設け、多くは粗

128
衣・粗食、膜想や祈祷を中心とする修道の生活を営み、ときには、エクスタズィーの境地に入
︽1ンカー
リ、また奇跡を行なってみせ、民衆の崇敬をあつめた。こうした道場は、一般には信奉者の喜
捨によってまかなわれ、その聖者の著名度や影響力によって大小さまざまな規模のものができ
ているが、なかには、よそから来る旅人たちが自由に泊れるような建物もあったのである。
ハーンヵーヘの来訪者のなかには、ムスリムの王や権力者もいたし、豊かな商人や都市の一
マドラ
般の民衆や農民たちもいたと思われる。こうして、金曜日の集団礼拝の場としてのモスクや学
ヴサ
校などとともに、スーフィー指導者たちの修道場は、ムスリムの集まる場所として、とくに民
衆のあいだで大きな影響力を持つようになっていったのである。
スーフィーのハーンヵーを訪れるものは、必ずしもムスリムだけに限らなかった。聖者のな
かには、デリーやラホール、ムルターンといったムスリム支配の中核的な都市にその修道の拠
点を設けたものもいたし、ムスリムが全くいなかった町や農村地域に、実践の場を設けたもの
もいた。いずれにせよ、彼らが、ヒンドゥーの民衆の出入りを拒まなかったことは、ほぼ共通
して指摘できそうである。事実、スーフィー文献のなかには、かなり早くから、ヒンドゥーや
ヨーガ行者たちがハーンカーヘやってきたことを記しているものがある。
ここでスーフィーの思想について述べる余裕はないが、ふつう︵イスラム神秘主義﹀といわれ
るこのグループにもいろいろな流れがあった。ひたすらなる祈りによって神の恩寵を求め、そ
の愛にすがることによってついには︿神人合一﹀の境地に達するのを理想とするものまであらわ
れた。スーフィズムには、さまざまな点で、ヒンドゥーの中世バクティの思想と実践とに似通
う性格が認められる。
スーフィーの聖者は、﹃コーラン﹄の学習や祈りや礼拝などの場合のイスラム的な儀礼や慣習
を別にすれば、ヒンドゥーの一般民衆の目には、それまで自分たちが日頃親しんできたヒンド
.サンニヤースイン
ゥーの脱俗行者やバクティの指導者たちと、それほど変らぬ存在として映ったのではないだろ
うか。おそらく、インドへやってきたスーフィー聖者たちの生活や行動には、言葉や衣食住に
見られる慣習の違いやイスラム的な儀礼その他の異質な要素を除けば、一般のインド人のあい
だにそれほどの違和感を与えるものはなかったのではないかと、私は考える。ヒンドゥーの聖
者を崇敬し、ヨーガ行者を見慣れていたインド人の一般民衆は、おそらくは、スーフィー聖者
Ⅵ二つの宗教の出会し

たちに対しても、ごく素直に崇敬の念を抱いていったに違いない。こうした関係を通じて、イ
ンド人のなかに、スーフィー聖者たちの個性や人格、さらには彼らが行なってみせ、あるいは
噂にまでなっていった奇跡行為などによる影響や感化を受けて、イスラムの信仰に関心を抱い
ていったものもいたであろう。そのなかから、ムスリムに改宗していく人びとがあらわれたと

129
しても、あながち、おかしくはあるまい。初期においてはともかく、後代のスーフィーのなか
には、異教徒の改宗に努力するものもいたのである。

130
スーフィーが死ぬと墓がつくられたが、有徳の指導者や奇跡で知られた聖者の墓所のなかに
は、ムスリム大衆に崇敬され、多くの信者の訪れる巡礼地となっていったものも多かった。一
般に、ヒンドゥーの場合は墓をつくらない。だが、敬虐なムスリムが自ら崇敬していたスーフ
ィー聖者の墓の前で祈念する姿は、信仰深いヒンドゥーの民衆には大きな共感を呼んだことで
あろう。有名なスーフィーの墓廟のことをインドでは﹁ダルガー﹂g侭豊と呼ぶようになった
が、ヒンドゥーのなかにも、ムスリム聖者のダルガーに参詣する人たちがあらわれた。実は、
私自身、この十年来、ダルガーの研究をやってきたのだが、ムスリム民衆を中心に見られたこ
のような聖者崇拝や聖者のダルガーヘの巡礼の慣習が、ヒンドゥー民衆を直接・間接にイスラ
ムにひきつけていったと思われる点を重視したい。詳しくは、拙著﹃インド史におけるイスラ
ム聖廟﹄︵東大出版会︶を見ていただければ幸いである。
ところで、ヒンドゥー教徒にとっては、自らヒンドゥーたることをやめてイスラムに改宗す
ることは、個人の信仰、内的回心の問題として済ますことのできるような簡単なことではなか
ジョイント・ラアミリー
った。ヒンドゥー社会は、すでに述べたように、合同家族のシステムやカースト川ヴァルナ
制に緊縛されており、個人が他の宗教の信徒になることを妨げるさまざまな条件を内に持って
いた。一般に、成人したあとでも家族の成員の一人としての立場から離れにくかった個人は、
さらに大きな閉鎖的集団であるカーストの枠のなかに置かれていた.保守的ヒンドゥーの家族
やカーストにおいては、今日でさえ、そのメンバーの他の宗教への改宗は、実際には、彼の属
する家族やカーストからの追放を意味する場合が多い。十三、四世紀のころにあっては、少数
の例外を別とすれば、おそらくは、一人のヒンドゥーによる個人的な改宗は、上層のヒンドゥ
ーの場合でさえ、あまり見られなかったのではないかと思う。
一般のヒンドゥー民衆の世界においては、個人はもちろん、一家族の改宗も、ほとんど不可
能だったのではあるまいか。むしろ、ムスリム支配者やムスリム貴族となんらかの関係にあっ
た特定の職業ギルドや力lスト集団、あるいはムスリム支配の拠点またはその周辺に存在して
いたなんらかの共同体による、いわば集団ぐるみの改宗の方が、むしろ一般的ではなかったか
と推測せざるを得ない。スーフィーの聖者たちと接触し、ダルガーなどへ行く気になったヒン
ドゥーのなかには、とくにそうした集団に属する人たちが多かったのではなかろうか。
Ⅵ二つの宗教の出会し

イスラムへの改宗者の多くが、ヒンドゥー社会のなかでは、むしろランクの低いとされたヴ
ァルナに属するものが多かったであろうという推論は、すでに指摘されているところだが、私
がこれまで述べたことから推してみても、大いに有り得ることのように思われる。また、カー
ストⅢヴァルナ制の外で被差別階層としての扱いを受けてきた人たちの集団が、その身分的束


11
縛から自由となるために、平等観と同胞意識とを原則に掲げるイスラム教に改宗しようとした
ことも、十分、推量されるところである。


くり返して記すが、ムスリムヘの改宗という問題については、その徳行や奇跡の噂をも含め



︽1ン力−
て評判の高かったスーフィー聖者に対する崇敬、あるいは、彼らの修道場やそのダルガーヘ巡
礼するムスリムの慣習が、スーフィーの側からする改宗への働きかけとともに、インド人の非
ムスリム、とくに民衆のあいだに、直接・間接に、イスラムを浸透させる役割を果したと考え
られる点を、とくに強調しておきたい。と同時に、ムスリム支配層となんらかの関わりを持っ
ていたカースト乃至は家族集団が、その職業上の理由や利害関係から集団的にイスラムに改宗
していったと思われることも、これまた推測ではあるが、指摘しておきたいと思う。
4ヒンドゥー社会の反応
デリーに支配権力を打ち立てたトルコ系ムスリム勢力を、十三世紀ごろのヒンドゥー旧支配
者やバラモンたちは、ムスリムを意味する﹁ムサルマーン﹂冒匡②巴日目という呼称でいう代り
に、﹁トルコ人﹂を意味する言葉で呼ぶことが多かったようである。その時代のヒンドゥー支
配層が残している刻文などには、侵略者・征服者としてのムスリム諸勢力を、たとえば﹁トゥ
ルシュヵ﹂司員品冨という言葉であらわしている。つまり、ヒンドゥーを主体とする在来のイ
ンド人の支配者たちは、外来の異民族・異教徒たる征服者たちを、イスラムの信徒であること
を意味する呼び名よりも、民族を示す﹁トルコ人﹂という名で呼び、表現したわけである。こ
のことは、これら外来の支配者たちが、インド人によって、新しいイスラムの宗教の信徒とし
てよりは、まず、自分たちとは違う外来の異民族として受けとられていたことを示すものとい
えるであろう。
しかし、このことは、征服者たるトルコ人に対して、在来のインド人支配層が、相手がイス
ラムの信徒であった点を全く無視していたことを意味するものではないだろう。ただ、ヒンド
ゥー教徒、とくに宗教と世俗権力の面での支配者であったバラモンとクシャトリャにとっては、
ムスリムⅢトルコ人の征服・支配の当初にあっては、侵入者が異教徒であるという事実よりも、
異民族、それも、怖ろしい相手とされていた﹁トゥルシュカ﹂であることの方が問題だったと
いえそうである。実際、カーストⅢヒンドゥーは、これらの征服者たちを、異民族・外国人で
Ⅵ二つの宗教の出会1,

あるが故に、﹁ムレッチャ﹂ご庁R言と呼んで、社会的にも差別していたのである。﹁ムレッチ
ャ﹂とは、もともとサンスクリットの擬音語で、ぺちやくちゃおかしな言葉を喋る異国人を呼
んだ も の ら し い 。
すでに述べたように、ヒンドゥー社会においては、カースト川ヴァルナ制の階層秩序や身分

133
意識と結びついて、特異な︿浄﹀︿不浄﹀の感覚とそれに基づく差別意識が見られた。こうした上
ンドゥー社会にあっては、サンスクリットを解さず異国の言葉を話すもの、外来の異民族は、

134
︿不浄﹀で糠れたものとして差別の対象とする習慣ができあがっていた。﹁ムレッチャ﹂ばかり
でなく、﹁トゥルシュカ﹂という呼び方も、単に︿トルコ人﹀という意味を持つ以上に、当時は、
おそらく、一種の侮蔑乃至は差別の色合いをもって使われた言葉だったのではあるまいか。ヒ
ンドゥー、とりわけバラモンや王たちにとって、彼らの世界に侵入してきたトルコ人やアフガ
ン人たちは、明らかに彼らの住む世界の外から来た、︿不浄﹀の異民族だったのであろう。
だが、問題は、それだけでは済まなかった。つまり、この外来の﹁ムレッチャ﹂たる﹁トゥ
ルシュヵ﹂たちこそ、いまや、現実の世界にあっては、ヒンドゥーⅡラージプート王権を打倒
し、彼らの上に君臨する最高権力の掌握者であり、しかも、彼らの神殿や偶像をも平気で打ち
壊す︿野蛮な﹀征服者だったのである。十一一世紀後半の刻文のなかには、﹁ムレッチャ﹂を一掃し
て﹁アーリャ﹂の地の回復を調った内容を記したものが見出されている。
トルコ人の侵略者・征服者は、バラモンたちにとっては︿不浄﹀の相手であった。だが、現実
の世界では、﹁アーリャ﹂の地を守ってくれるヒンドゥーの王たちは、﹁トゥルシュカ﹂のまえに
次々に打倒されていくか、または、それに従属するかたちでその支配に組み入れられていった
のである。こうした状況に直面したとき、それまで、カーストⅢヴァルナ制という閉された身
分制社会の囲いのうちで特権にあぐらをかいていたバラモンたちは、当惑せざるを得なかった
ろう。﹁ムレッチャ﹂という焔印を押してきたトルコ人支配者に向ってひれ伏すことは、もちろ
ん、できない。しかも、その﹁トゥルシュカ﹂たちが彼らの宗教であるイスラムを﹁アーリヤ﹂
の地に拡めようとしていることを知ったときに、バラモンたちのなかには、これまでに経験し
たことのない脅威といらだちとを感じとったものがいたに違いない。しかも、自ら武力を持た
ない彼らには、もはや、多くの選択の余地は残されていなかったのである。
ところで、ここで触れておきたいのは、ヒンドゥー社会にあって、それまで上層カーストと
しての権威に安居していたバラモンとクシャトリャの、いわば意識と行動様式に見られる限界
が、異民族の侵入・征服を容易にした一つの理由ではなかったかという点である。すでに指摘
されているように、トルコ系異民族の侵入に対して、北インドのラージプート諸王権は、その
危機を認識し、連合・統一の体制をつくって侵略者に抵抗するということがなかった。それま
で彼らヒンドゥー支配層とたがいに依存し合う関係にあったバラモンたちが、宗教面、精神面
Ⅵ二つの宗教の出会い

での危機の認識に立ってヒンドゥーの連帯意識に訴え、侵入者たる異教徒に対するラージプー
ト諸勢力の連合に努力していたら、局面は別の展開を見たかもしれないと、私は、ふと思うこ
とが あ る 。

歴史家としてはいささか︵踏みこし﹀気味の想定だが、もしも、その問いに対して敢えて回答

135
を試みるとしたら、その要因は、ヒンドゥー教そのものが多年にわたってつくりあげてきた自
己中心主義に基づく徹慢さと散慢さ、︿寛容﹀という美名にかくれた外界に対する認識の欠如、

136
そして、そうした心理の象徴ともいうべきバラモン階層の尊大な特権意識、そしてなによりも、
ヒンドゥー社会全体をぱらぱらの集団に分裂させてきたカーストⅡヴァルナ制そのものにあっ
たのではないかと、私は主張したい。
カーストⅢヴァルナ制は、いわば︵分断﹀のシステムである。と同時に、精神的・宗教的価値
感と、それに基づく優越と隷属のコンプレックスとを背景に、︿対立﹀と︿共存﹀という社会関係
の矛盾をそのまま固定化してしまう︿保守﹀の原理でもある。だから、ヒンドゥー社会全体の危
機に際して、カースト体制やヴァルナ意識の枠を超えた連帯関係は、このとき、ほとんど生れ
なかったのも当然だったかもしれない。バラモンとラージプートⅡクシャトリャとのあいだに
見られた相互依存の関係も、連帯感に基づくものではなく、双方の利害関係から出た面が強い・
十世紀以降の西北辺境よりの度重なるムスリム侵入軍の脅威に対して、ラージプート諸王権は、
ついに、これに対する連合体を組織することができなかった。このことは、上層カーストのあ
いだに、﹁ムレッチャ﹂の侵入がもたらすであろう結果を予見するだけの危機感と歴史認識、そ
れに対応し得るだけの行動のエネルギiを生み出す素地がなかったことをも意味している。こ
うして、世俗的権力の世界に君臨していたラージプート王権は、辛うじてその独立を保ち得た
少数の支配者を除くと、ムスリム征服者たちと個々に戦って敗れ、その支配を受け容れるか、
あるいは消滅していくかのいずれかの道を選ばざるを得なかったのである。
ヒンドゥー王権の下で安居していたバラモンたちは、その宗教的情熱に訴えることによって
異教徒への抵抗を組織するだけの実力も意志もなかった。前節に述べたように、ムスリム支配
者の方でも、彼らの側の利害関係から、ヒンドゥーの社会の内部、とくに信仰の世界にまでは
立ち入ってこなかった。このことは、バラモンたちにとってある意味では幸いした。しかし、
それまで閉鎖的なカーストⅢヴァルナ制社会のなかであぐらをかいていたバラモンたちは、面
フラストレーション
と向っては抵抗できない新しい異民族・異教徒の支配下で、かつてない欲求不満を意識せざる
を得なかったのではなかろうか。つまり、それまで自分たちを保護してくれていたラージプー
トⅢクシャトリャ王権の上に、自らの権威がそのままでは通用せず、力となり得ない別の世界
が出現したからである。
結局、バラモン階層は、その権威を自分の地位がなお一応は保たれていたヒンドゥー社会の
Ⅵ二つの宗教の出会い

内部に向って強めていくという、一種の逃げ道を見出そうとしたのではないだろうか。ムスリ
ム権力が、その支配の貫徹のために、ヒンドゥー社会の構成についてはほとんど手を触れずに、
相手が徴税に応じさえすればあとは大した干渉を行なわなかったという事実も、このようなバ
ラモンの姿勢を助長する役割を果したものと、私は推量する。

137
バラモンの権威を容認しない異教徒の支配者たちは、バラモンの権威がなおまかり通ってい
た囲いの内側にまでは入ってこなかった。その囲いのなかの伝統的な世界では、バラモンの権

138
威は依然として通用し、力たり得た。しかし、その権威と力たるや、囲いの外に出ていくこと
はできない。その結果、抑制されたバラモンたちの欲求不満は、それまでにもまして、ヒンド
ゥー社会という囲いのなかで、そのはけ口を求めていったとは考えられないだろうか。
こうして、カースト的秩序を少なくとも原理的には否定し拒否するイスラムの信徒たる王権
がヒンドゥーの社会をその従属下に置いたときに、カーストⅡヴァルナ制は、解体に向うどこ
ろか、かえって、それ自体の内部にあって、旧来の社会関係と階層意識とを一層強固なものと
していったのではないかと、私は推察する。イスラムの浸透により、カーストⅢヴァルナ制に
貫かれていたヒンドゥー社会の一部が、︵改宗﹀という事実によって切り崩されていったことに
ついてはすでに述べたし、その歴史的な意義は大きい。しかし、ヒンドゥー社会の大部分にお
いては、カーストⅡヴァルナ制の秩序とその階層意識とは、そのまま温存されていったと見る
べきであろう。一部では、ムスリム改宗者に対する︿再改宗﹀の動きさえ見られたという。
トルコ系ムスリム諸民族の侵入・征服とイスラムの浸透とは、在来のインド社会に大きな影
響を与え、その変容を結果した。ヒンドゥー教とイスラム教とが、同じインドの地に並存する
ことになった。しかし、それぞれの宗教の内容と形式とに見られた明白な差異、さらにそれぞ
れの信徒の社会構成や意識のなかに指摘し得る極端な相違は、この二つの宗教の接触によって
その矛盾を明らかにしていくまえに、むしろ、非宗教的な世俗の政治・経済・社会に関わる利
害関係の展開するなかで、かえって、薄められていく結果となったともいえるのである。
こうして、全面的な対立と抗争は見られずに終った。しかし、この二つの異なる宗教の並存
という事実は、その後のインドの社会と思想・文化の世界に、︿共存﹀と︿対立﹀という複雑な関
係を持ち込んだのである。その問題の一端については、つづく二つの章で検討してみたい。
Ⅵ二つの宗教の出会い

139

共通する基盤
l共存と融合

ウルドゥー語を学習する子供たち
142
1民族の問題
Ⅳの章で述べたように、本書では、ヒンドゥー教を、アーリヤ人の﹁ヴェーダ﹂の宗教とそ
れから発展したバラモン教をもとにし、非アーリャ系諸民族の宗教の内容や形態が混入した結
果でき上がってきたいわば複合的な宗教と解釈してきた。だからこそ、ヒンドゥー教は、広大
なインド亜大陸のいずれの地に住む人びとにとっても、︿外来の宗教﹀といった意識を与えなか
った。まさに、︿インド人の宗教﹀といった感がある。しかも、その歴史は、ほぼ三千年にも及
んでおり、その点からも、歴史と伝統とに支えられてきた一種の︿悠久性﹀といったものさえ、
ときに感じさせる。
それに対して、イスラム教の方は、スィンドその他の一部の地方では、それがアラビアに興
ってからわずか百年足らずのうちに波及してきているが、決定的な影響力をもって亜大陸に浸
透していったのは、十三世紀半ば以降のことで、今日から数えてもせいぜい七百年余りの年月
に過ぎない。加えて、イスラムは、もともと西アジアのアラブ人が信仰していた宗教で、トル
コ人やアラブ・・ヘルシァ人などの異民族が持ち込んだ、いわば、れっきとした︿外来の宗教﹀で
ある。しかも、彼らは南アジアへの侵入者であった。そのあたりから、のちに述べるように、
一部のヒンドゥーの側からのさまざまな反発も出てくるわけである。
しかしながら、八世紀初頭のアラブや十二世紀以降にインドへ侵入してきたトルコ・アフガ
ン系の征服者だけが、南アジアの広範な地域に住むムスリムたちの祖先というわけではない。
。︽1ドシヤー
たしかに、征服の軍やインドにおけるムスリム支配の頂点にいたスルターンや皇帝たち、あ
るいはその周辺の支配層には、外来者や異民族の子孫が多かったし、のちのちまで、外国人の
血をひくものがかなりいた。しかし、彼らのなかには、ヒンドゥー出身のインド人の女性を妃
としたり、ハレムに入れたりして、混血の王子や王女たちを設けたものも大勢いた。同じよう
な例は、各地のムスリム王国でも、何人となく見出すことができよう。こうしたことは、ムス
リム上層支配者ばかりでなく、その体制下にいた一般の外来のムスリムたちについても当ては
まることである。
それよりも、問題は、インド亜大陸のなかで次第にその人口を増加させていったイスラム教
Ⅶ共通する基盤

徒の大部分は、ヒンドゥーその他インド在来の宗教の信徒が改宗してムスリムになったものや、
その子孫たち、つまりは、イスラムが入って来るまえからの︿インド人﹀だったという事実であ
る。彼らがムスリムになると、次の世代には、生れながらにしてムスリムであるインド人がで

143
きあがる。こうして、今日、インド亜大陸の全人口のほぼ四分の一を占めるというムスリムの
大部分は、外来の異民族やその子孫ではなく、まさしく、︵インド生れのインド人﹀そのものな

144
のである。
だから、あるとき、一人のインド人がムスリムになったからといって、それまでの生活様式
が急にすべて変ってしまうということはなかった。着る着物に僅かな違いが生じたり、帽子や
ターバンの巻き方が違うといった、日常生活の面での多少の変化を除けば、彼らムスリムの生
活様式の大部分は、ヒンドゥーや他の宗教のインド人と、それほど変るところがなかった。要
するに、同じような家に住み、同じような食物をとり、ほぼ似たような着物を身につけていた
トーピー
のである。ただ、ムスリムに特有な帽子や、チェックの柄の色物の布や。ハジャマを身につけた
り、豚肉には決して手をつけないようにはなった。今日でも、町なかで見かける洋服姿のイン
ド人や、村に住む農民たちを一見した限りでは、私たち外国人には、彼らがヒンドゥーなのか
ムスリムなのか、まるで見分けをつけにくい場合も多いのである。
それに、言葉の点でも共通するところが多かった。ムスリムになったからには、たとえ字が
読めなくとも、アラビア語や。ヘルシァ語の言葉や単語固有名詞の幾許かは、当然、知ってい
なくてはならない。毎日の祈祷の文句や信仰告白は、すべてアラビア語だし、﹁アッサラーム川
アライクム﹂という挨拶もアラビア語である。しかし、そうした宗教用語を別にすれば、あと
の日常の会話には、同じ町、同じ村の住人たるヒンドゥーと全く同じその地方の言葉を使う。
つまり、ベンガル人はベンガリー、マドラス人はタミル、ケララではマラヤラム語が、ムスリ
ム同士、ムスリムとヒンドゥー、ムスリムとクリスチャンとのあいだで、ごくふつうに使われ
てきたのである。
一部の宮廷人や支配層、ゥラマーあるいはスーフィー聖者のように、文字が読め、または学
識・教養の豊かな階層の人たちの場合には、一般の庶民・民衆とは若干の違いがあった。トル
コ人やアラブ・・ヘルシア人たちと接する機会も多かったし、サルタナットやムガル帝国の支配
体制のもとでの公用語はペルシア語だった。また、ムスリムの法学や神学、司法行政などの面
では、当然、ペルシア語に加えて、アラビア語の素養も必要だった。しかし、のちに説明する
ように、こうした人たちのあいだでさえ、実際の会話や詩や文学作品において、のちになると、
ウルドゥー語ごaロという、アラビア文字やペルシア語の単語は使うが語法はヒンディー語
リンガ・アラン力
閏且﹃と大差ない、いわゆる混成語が使われるようになったのである。それに、外来のムス
リム支配層や役人たちにしても、その支配下の一般の民衆を抱えて、ある程度、彼らの言葉や
Ⅶ共通する基盤

生活様式に通じている必要もあった。
もちろん、この広大なインド亜大陸で、︿インド人﹀という意識が、共通する基盤として、い
つごろ生れてきたかということは、歴史上の大きな問題である。つぎのⅧの章で述べるように、

145
ひと
自分も他人も同じくインド人﹀であるという共通の意識が生れるのには、ある程度のナショナリ
ズムが形成される時代まで待たなければならないであろう。サルタナットやムガル帝国の時代

146
には、同じくインド人﹀、同じ地方の人間という意識よりは、むしろ、職業やカーストの間での
同族・共同体意識の方が、実際には優先していたかもしれない。しかし、その一面で、大は今
日の州レヴェルから小は村落といった範囲に至るまで、同じ言葉を話し、同じ衣食住の生活を
送っている人間同士という意識や感覚の方が、出身地の違うヒンドゥーやムスリムといった宗
教の違いより強かったことも、十分、考えられるのである。
ベンガルでは、たがいにヒンドゥーとムスリムとして、全く別のコミュニティーのなかに離
れて住んでいた。しかし、ひとたび別の地方、たとえばベンガリーの通じない。ハンジャーブに
住めば、宗教の違いを超えて、同じベンガリーを話し、同じベンガル風のドーティーを着、ベ
ンガル人に欠かせぬ魚を毎日食べていれば、同じベンガル人同士といった意識も生れよう。各
地の出身者が集まる首都ニューデリーでは、ベンガル出身のムスリムとケララからのムスリム
の関係よりも、たとえヒンドゥーとムスリムの違いはあっても、同じベンガル人同士あるいは
同じケララ人といった親近感の方が優先していた例を、私は、自分の目で見て知っている。
なるほど、カーストⅢヴァルナ制のもとでは、今日でさえ同じ地方の出身者の親交を妨げる
障壁があることもたしかである。しかし、出身地や民族が同じであるという事実が与える親近
感は、しばしば宗教の違いを超えた共通の基盤を整える。とりわけ、近代になってからそうし
た関係がよりつよく見られたことは、のちにも記すとおりである。インド亜大陸に住むヒンド
ゥーとムスリムの場合にも、そのことは当てはまる。そして、ヒンドゥーとムスリムにとって、
自分たちは、︵異民族﹀ではなく︿同じインド国民﹀であるという意識は、今日では重要な意味を
持つ。過去においても、︿同じ村の人間﹀という意識が、宗教の枠を超えて共通の意識を生み出
すことがなかったとはいえないと思う。
2混精・融合
宗教学や言語学で﹁シンクレティズム﹂切言目①爵日という言葉がある。本来は、哲学や宗教
における異なった説やセクトの融合・調和を意味するものとして用いられてきたという。だが、
よりひろい意味では、異質の要素が混り合い、融け合う現象をいう場合にも用いられてきた。
私も、その意味で、思想や文化におけるさまざまな要素の混清・融合の現象を表わす語として
Ⅶ共通する基盤

使いたいと思う。宗教学の場合には︿重層信仰﹀と訳した人もいるようだが、単なる︿重なり合
い﹀の状態ではなく、ここでは、異質の宗教が接触し共存している状態のなかで、それぞれの
宗教信仰の形態や内容に見られる、相互の要素の混清・融合の現象の意味に用いたい。

147
このように一般の場合にはあまり用いられない英語にわざわざふれてみたのは、インドにお
けるヒンドゥー教とイスラム教の共存から起った融合現象を総体的に表わすのには、この言葉

148
がふさわしいのではないかと、私も考えたからである。
ヒンドゥー教とイスラム教の、宗教としての内容・形式の差異とその意味するものについて
は、本書の初めの方の二章︵Ⅱ.Ⅲ︶で、神観念と教義・儀礼・慣習から社会関係にわたって説
明し、私見を述べておいた。その際、ヒンドゥー・ムスリム両社会の構造と意識とが、さまざ
まな面で異なり、対立する要素を持っていることについても、説明を加えておいた。
しかし、その反面で、それほどに性格を異にし、ときに対立し、反発する要素さえ持つこの
一一つの宗教の信徒集団のあいだに、日常の生活様式や芸術・文化の全面にわたって、混清・融
合の事実や傾向が見られたことも、見落すことはできないのである。この事実こそ、広大な南
アジァの諸地域で、宗教を異にする何千万・何億という人々の共存を可能にしてきた最大の要
因の一つと考えるからである。
ヒンドゥー教とイスラム教、いわゆるヒンドゥー文化とムスリム文化とのあいだに見られた
シンクレティズムの傾向と内容とは、果してどのようなもので、如何なる面にあらわれていた
のか。宗教思想の内容については次節で触れるとして、まず、日常の生活面あるいは芸術・文
化の分野で窺えるものについて記してみよう。
民族・人種の違いは、人間相互の理解にとって、ときには如何ともし難い障壁となって立ち
塞がることがある。しかし、さきにも触れたように、南アジアでは混血という状況も見られた
し、同じ地域共同体や民族に属するという歴史的な条件も、ヒンドゥーとムスリムという宗教
の違いを超える共通の基盤を整えていった場合があることも説明しておいた。
ところで、民族の多様性は、まず言語の差にあらわれる。今日の憲法に明記されているイン
リンダイスティック・ステーソ
ド共和国の州の区分は、その大半が、・一九五六年のいわゆる︿一一一一口語州﹀再編の結果に基
づくものである。この︿多言語﹀という条件は、時代を中世に遡らせてみても、ほぼ同じといえ
よう。ムスリム支配下では、いわば公用語としてのペルシア語が大きな影響力を持つようにな
り、ムスリム上層ばかりでなくヒンドゥー支配層のあいだでも用いられるようになっていった。
それにともなって、トルコ語やアラビア語も入ってきた。右から左へ書きすすむアラビア文字
が、イスラム文化の浸透とともに、インド亜大陸の各地で見かける馴染みの文字になっていっ
たのである。
こうした状況のなかで生れ、とくにムスリム人口が多かった地域で使われるようになってい
Ⅶ共通する基盤

ったのがウルドゥー語である。﹁ウルドゥー﹂とは、もともとトルコ語源で︿軍営﹀を意味する語
だが、この言葉がはじめムスリム支配下の軍隊の内部で話されたところからそう呼ばれるよう
になったものといわれている。難しい問題は抜きにして簡単にいうならば、要するに、北イン


19
ドで多くの人が用いていたインドⅡアーリャ語系の言葉の口語として成立していたヒンディー
に、ムスリムが持ちこんだペルシア語やアラビア語・トルコ語の一部の語棄が混ざったもので、

150
書くときはアラビア文字を使う。この言葉は、十四世紀の中ごろには、首都デリーの地方でか
なり一般化していたらしい。ムスリム支配がインドの各地へ拡大していくとともに、パンジャ
ーブやスィンド・グジャラートなどムスリム人口が増えていった地方や、ベンガル北部あるい
はデヵンの一部のような地方でも次第に使用されるようになっていった。ウルドゥー語は、い
りシガ・ラランカ
わゅる混成語の典型的なもので、ヒンドゥー・ムスリム両要素に関わるシンクレティズムが
言語の面にあらわれた典型的な歴史の所産といえよう。
今日のインド人の生活様式全般には、一般の民衆から支配層に至るまで、ヒンドゥー・ムス
リムの両要素の混清・融合の傾向がつよく窺える。洋服を着ている人はもちろんだが、伝統的
なインドの衣服を着ているインド人に会っても、その着物だけから、相手がヒンドゥーかムス
トーピー
リムであるかを見分けるのは難しい。たとえば、ムスリムの男性に特有な帽子や色のついたチ
ェックのパジャマⅡズボン、アフガニスタン以西でよく見かけるだぶだぶで足もとが細くなっ
た下袴などは、一見して、その人がイスラム教徒であることを知らせてくれる。しかし、ムス
リムでも、ヒンドゥーがふつうに着るドーティーを腰に巻き、これまた同じようなクルターな
どをつけていると、もう区別がつけにくい。クルターの下につけるモンペに似た婦人用の下袴
は、もともとは西の方から入ってきた服装で、インドではムスリム女性だけが着るものであっ
た。しかし、今日では、ヒンドゥーをはじめ、宗教の別に関わりなく、インド人女性一般が広
く愛用する服装となり、とりわけ、パンジャーブ地方では最もありふれた着物になってしまっ
た。なお、このクルターⅡスタイルは、今日では、インド・パキスタンを通じて、女学生や女
生徒の制服になっていることも多い。
日本や外国で食くるいわゆる︵インド料理﹀のなかには、もともと西アジアやアフガニスタン
の料理で、ムスリムが入ってきたあとにインド全般に拡まっていったものが、かなり目につく。
インド共和国では、ヒンドゥーとムスリムの大衆食堂は区別されているのがふつうだが、料理
の種類も献立にも、いわゆるヒンドゥー風とムスリム風とが混ざっている場合もある。
インド亜大陸の住民の家屋となると、北インドの農村にありふれた土壁の家から、山地の木
造家屋に至るまで、その様式からだけでは、その家の主人公がヒンドゥーかムスリムであるか
はわからない。しかし、ムスリム人口の増大とともに、本来西アジアⅢスタイルの建築様式が
入ってきて、都市の比較的大きい家屋のなかには、ヒンドゥー・ムスリムの建築様式が混合し
Ⅶ共通する基盤

ている建物をよく見かける。
このように、衣食住全般の面で、南アジアの住民の日常の生活様式には、長いあいだにわた
ってヒンドゥーとムスリムの両要素が混清・融合してきた。そこではシンクレティズムの様相

151
を示している場合の方が、むしろ、ふつうなのである。
ところで、南アジアは、その歴史のなかで、多彩な芸術作品を生み出してきたことで知られ

152
ている。その分野では如何であろうか。
まず、文学の面を見てみよう。この領域でも、十八世紀以降は、近代のウルドゥー文学ばか
りでなくヒンディー文学の作品のなかにも、そのテーマやプロットをはじめ文章にあらわれる
単語や固有名詞に至るまで、ヒンドゥー・ムスリムの両要素が窺えるという。たしかにムスリ
ムの作品ではムスリムのことが扱われ、ヒンドゥーの作家はヒンドゥーの世界を描くことが多
かった。しかし、専門家に聞いても、今日のインド人作家の作品の随所に両宗教の要素の混清
の結果を見出すのはそれほど難しいことではなさそうである。
ヒンドゥー教では、絵画よりも、どちらかといえば、彫刻の作品の方がずっと有名である。
世界的に知られているアジャンターど自国やエローラ画き国その他の石窟寺院の壁画は別格
として、古代から中世にかけては、神像や女人像に代表されるヒンドゥー彫刻が、仏教美術と
ともに多くのすぐれた作品を生んできた。これに対して、ムスリムは、偶像を厳しく拒否して
きたために、人獣を象る彫刻作品は発達せず、わずかに草木や幾何学文様を主題とする作品を
生んできた。今日までインド各地のムスリム建造物に残されてきた多彩な文様彫刻のなかには、
ヒンドゥー石工の手になると推定されるものは多いし、ヒンドゥー・ジャイナ教の寺院に見ら
れた文様の技法やテーマをとり入れているムスリム彫刻文様のすぐれた例も認められる。
ミニアチユア
ムスリム支配が亜大陸各地に定着していくにつれ、・ヘルシァ絵画、.とくに細密画の形式と技
法とがインドにも入ってきた。ムガル宮廷や各地のムスリム支配層の宮廷でもてはやされた細
密画は、今日では、インドの︿伝統美術﹀の成果の一端として、世界各地でさまざまな機会に展
示されている。このような、本来ペルシア的要素の強い技法や形式の絵画は、中世以降のヒン
ドゥーⅢラージプート王国の宮廷や貴族のあいだでもさかんにもてはやされた。もともと。ヘル
シァで発達し、インド川ムスリムの上層社会で花開いた細密画の技法を用いて、ヒンドゥーの
神話・伝説や歴史上のできごとをテーマとして描いた作品は、南アジア各地のヒンドゥー王国
の旧都に数多くのこっている。
建築の面ではどうであろうか。ムスリム建築技術は、インドにアーチと円型ドームの構築法
午1.ストーン
をもたらした点で画期的な貢献をしている。いわゆる模石を用いてアーチを組む方法は、十
三世紀の初めごろまではインドでは知られていなかったらしい。また、ムスリム建造物に特徴
的な円型ドームがインドに普及するようになったのも、ムスリム支配者による墓建築やモスク
Ⅶ共通する基盤

が建てられてからのちのことである。逆の現象も見られた.仏教建築やヒンドゥー寺院に見る
ビーム・リンテルを用いた技法や柱の様式が、十五世紀ごろから、いわゆるインドⅢムスリム
建築のなかにとり入れられるようになり、西アジアのムスリム建築には見られない力強さを添

153
える効果を生み出している。
典型的なムスリム建築と思われているあのタージ川マハルの廟にしても、たとえば屋上に立

154
つキオスクなどの細部に、インドにおけるムスリム以前の伝統建築の技法と様式の影響を見て
とることができるのである。一方、中世以降、今日までに建てられたヒンドゥー建造物のなか
にムスリム建築様式や技法の要素を見出すことも、それほど難しいことではない。官庁や公共
建造物などのいわゆる現代インド建築に至っては、西欧近代建築の影響を別とすれば、仏教・
ヒンドゥー教系の古代建築様式とムスリム建築様式の諸要素が、混然として随所に用いられて
いて独特な雰囲気を示している。
今日の南アジア各地でもてはやされているインド音楽には、古典からいわゆる大衆音楽に至
るまで、明らかにイスラムが浸透してからあとの音楽の影響を広範に認めざるを得ない。一部
の地方的な伝統音楽を別とすれば、今日、世界の各地で演奏されるインドの︿古典音楽﹀には、
ムスリム支配以降に紹介された西アジア起源の楽器が、しばしば使われている。あのラヴィⅢ
シャンヵルが得意とするいわゆるシタール︵正しくはスィタールの岸肖︶は、本来は、﹁セⅡター
ル﹂の旨圃門で、ペルシア語で︿三弦﹀を意味する言葉である。この楽器が、詩や音楽で知られる
十四世紀のムスリム文人アミールⅢホスローショ茸穴目の国匡によって拡められたものである
という説は、今日なお有力である。
現代の南アジアでさかんな大衆娯楽といえば、映画と音楽であろう。日本の流行歌と違って、
インドの町でよく聞く歌曲といえば、そのほとんどすべてが、映画のなかの主題曲だ。南アジ
アばかりか、西アジアや東南アジアにまで拡まっているインド・パキスタンの映画やその歌の
メロディーは、ヒンドゥー・ムスリム両教徒やスィク教徒目当てに総花的につくられている感
がある。このことは、観衆や聴衆をあつめるのに宗教の差を云々してはいられないという現実
的な利害によるところがあるにもせよ、今日の南アジア全般の大衆文化の底に流れているヒン
ドゥー・ムスリム両要素の混清・融合の傾向を象徴するものといっていいと思う。
3宗教の世界で
民族的伝統や生活様式の諸面はさておき、ヒンドゥー教とイスラム教の共存は、宗教そのも
のとしては、可能だったか。また、この一一つの宗教は、相互にどのような影響を与え合ったの
だろうか。ヒンドゥー教とイスラム教とは、信仰の内容・形式、あるいは信徒の社会関係の面
Ⅶ共通する基盤

で、ときには相対立するほどの大きな差異を持っていた。そのことを考えれば、この疑問は、
南アジアの歴史のなかで避けて通るわけにはいかない問題なのである。
ヒンドゥー教が、その宗教思想・哲学・論理学などの面で高度に知的な遺産を残してきたこ

155
とは、ひろく知られている。これらの古代インドの哲学思想に対して、中世のムスリム知識人
は、どのような姿勢をもって臨んだのであろうか。あれほど性格を異にするイスラム教の側か


らすれば、ヒンドゥー教の文献に対しては、当然、そつぼを向いてもよかったはずである。



事実、ムスリム支配が成立した初期の支配層や文人・教学者たちは、言葉の制約もあったし、
ヒンドゥー典籍の類にはほとんど関心を示さなかった。しかし、ムガル三代皇帝アクバルの治
世が始まる十六世紀後半になると、この皇帝と宮廷内の一部側近のあいだで、イスラム教以外
の諸との宗教についての興味と好奇心が高まっていった。そうした傾向のなかで、ヒンドゥー
教学者やヨーガ行者などを通じて、古典サンスクリットの教典に対しても次第に関心が寄せら
れて い っ た の で あ る 。
自分は字が読めなかったというアクパルの宮廷内でのこのような知的好奇心の高まりは、歴
史のなかでのまことに興味深い現象だが、それも、非ムスリムに対する彼の政策的意図に基づ
く寛容な姿勢と無関係ではなかったと思う。そして、次のジャハーンギールを経て五代皇帝シ
ャーⅡジャハーンの治世つまり十七世紀の半ば近くなると、ムガル宮廷内には、インド人の知
的活動の歴史のなかで特記すべき状況が生れたのである。その代表的なチャンピオンの一人が、
シャーⅡジャハーンの皇子ダーラーⅢシコー周国陛房目であった。彼は、インド史のなか
では弟のオーラングゼーブと相争って処刑された︵悲劇の皇太子﹀としてよく知られている人物
だが、ヒンドゥー教とイスラム教における汎神論の思潮に共感を示し、その二つの思想の流れ
を︿二つの太陽﹀になぞらえ、自らそれに関する書物を書いたほどの知識人であり思想家であっ
た。その彼はヴェーダーンタ哲学の原典﹁ウ。ハーーシャッド﹂の.ヘルシァ語訳にも努力を払って
いる。アクバル以降のムガル宮廷におけるこうした傾向は、中世インドのムスリム知識人のあ
いだに、たとえ一時的であったにもせよ、イスラム・ヒンドゥー両思想のあいだの知的融合と
共存の状況が見られたことを示している。
一部のムスリム宮廷知識人のあいだに見られたこのような傾向は、当然、正統派のゥラマー
やその・ハトロンたる支配層の攻撃を受けた。兄ダーラーを倒して六代皇帝に即位したオーラン
グゼープの治世になると、ムガル支配層の政策に見られたく寛容﹀の度合いは薄らいでいき、知
的交流の傾向も弱まっていった。しかし、古典ヒンドゥー教の知的遺産が、少数とはいえムス
リム支配層や知識人の一部に受け容れられ、彼らの思想にまで影響を与えたのは、インド思想
史上でも特記す.へきことがらだと思う。
思想の上部構造に見られたこのような知的交流は、私の見るところでは、ムスリム知識人の
Ⅶ共通する基盤

側からするものが目立ち、逆に、ヒンドゥーの世界にあって知識を独占していた.ハラモンや一
部の上層貴族たちのなかでムスリム思想や法学体系に関心を示したものはほとんどいなかった
ように思われる。それも、おそらくは、ムスリム思想が、外の世界に対する積極的関心をつね

157
に持っていたのに対して、ヒンドゥー思想家たちは、どちらかといえば、自らの教学と思想の
枠のなかにだけ安住していたという一般的な傾向によるものではなかろうか。

158
ただ、このような知的交流への意欲は、ムスリムの場合にあっても、正統・派教学のなかから
はあらわれなかったと思う。ダーラーⅢシコーをはじめとする一部のムガル宮廷知識人が古典
サンスクリットの文献に興味を抱いたのは、一つには、彼らがスーフィー神秘主義思想に傾倒
していたからである。イスラムとは全く性格を異にするヴェーダーンタ哲学やヨーガ教典など
に関心を示したのも、両者に共通する汎神論や広義の神秘主義的傾向を媒介としてはじめて可
能だったと、私は考えたい。だから、ムスリム上層に見られたこのような知的シンクレテイズ
ムの一側面も、まさに中世インドの思想的状況を反映するものとしてとらえられると思う。
思想の上部構造に垣間見られたこのような知的融合の流れは、その一つの要因であったと思
われる神秘主義の実践を通じて、その本来の領域である民衆の世界において、一層はっきりし
たかたちであらわれたといえよう。
南アジアにおけるイスラムの浸透に際して、スーフィー聖者の活動が、非ムスリム社会の民
衆に対して直接・間接に影響を与えてきたことについては、前章で触れておいた。スーフイー
の拠点には、ムスリムばかりでなく、ヨーガ行者やヒンドゥーの民衆までもが訪れている。ま
ダルが−
た、南アジァでとくに注目されるのは、ムスリムが、スーフィー聖者の墓廟へ参詣・巡礼する
慣習が一般化し、ヒンドゥーまでもがイスラムの聖廟を訪れる傾向が見られるようになったこ
︿Iデイム
とである。高名な聖者の聖廟では、後継者たるスーフィーや管理者たちがヒンドゥーの来訪を
歓迎するといった傾向も見られた。今日でも、聖廟内で使用される建造物や物品をヒンドゥー
が寄進するという事例は、インド各地で見られるところである。
もともと、同じ土地に生れ、育ち、同じ言葉を話してきた同一地域の民衆にとっては、宗教
信仰に関わる面でも、ある程度の交流が見られた。一つの村に住むヒンドゥーとムスリムは、
それぞれの祭日などでは、その歓びを分ち合った。本書のはじめに記したビハール州の一村で
の私自身の経験に似たものは、インド各地の町や村ではそれほど珍しいことではなかったので
ある。
イスラム教では、厳しい唯一神への信仰から、本来は、さまざまな種類の精霊を信仰するこ
とを禁止している。樹木やその他の物体を崇敬したり、たとえ聖者のものであっても、墓その
ものを崇拝し、聖廟へ巡礼することは、原則的には︵異端﹀につながる行為である。しかし、南
アジアのムスリムのあいだでは、いわゆる墓崇拝や物神崇拝、精霊信仰などは、入信・改宗後
Ⅶ共通する基盤

もなくなるどころか、そのまま慣習化してきた場合が多い。このことは、改宗前のヒンドゥー
教その他の信仰に見られた儀礼や慣習の一部が、そのまま残っていったためと見ることもでき
るであろう。この点を重視すれば、南アジアのイスラム信仰は、その実態の面では、教義の上

159
部構造で説かれた宗教内容とはかなり異なるものに転化していったといえるかもしれない。換
言すれば、民衆の信仰の世界においても、イスラムとそれが浸透するまえからあった諸宗教と

160
のあいだの融合・混清の様相が、さまざまの面で窺えるということである。
ところで、信徒の平等と連帯とを主張するイスラムが、ヒンドゥー社会で下層にランクされ
ていたカーストや被差別階層のあいだに浸透していったという推論については、すでに触れた。
しかし、改宗後に成立した新しいムスリムⅡコミュニティーのなかにあって、かつて存在した
カーストⅢヴァルナ制の秩序や身分意識が全く消滅してしまったとはいえない。たとえば、今
日でも、ある地方では、ムスリム名のあとにかつての上層カーストのヒンドゥー姓を残して、
いわばヒンドゥーⅢムスリムの姓名の入り混じった名前を持っている家族もいる。また、本来、
カーストⅡヴァルナ制を否定したはずのムスリムのあいだで、依然としてもとの身分意識を持
ちつづけている一部の人たちがいることも、ときに見聞するところである。
ある意味では、南アジアに成立したムスリムⅡコミュニティーは、社会構成全体のなかでは、
︿一つのカースト﹀といつたふうに見られてきたふしがある。こうしたことは、本来のムスリム
の環境のなかでは容認され得ないはずのことなのだが、現実には、そうした点を指摘しないわ
けにはいかない。ヒンドゥー社会とムスリム社会の共存と融合という現実の背後には、このよ
うな側面もあることを認めざるを得ないだろう。広い意味では、このような歴史的現実も、異
なる性格のヒンドゥー・ムスリム両社会が平和裡に共存していくための一つの条件、あるいは
結果であったといえるかもしれない。
ところで、南アジアにおけるヒンドゥーとムスリムとの関係のなかで、その共存と融合とに
影響を及ぼした一つの要因として、ムスリム支配者の政策の影響を見ておく必要があろうP
すでに触れたように、ムスリム征服者たち、あるいは権力を確立したあとのムスリム支配者
ジ︿1F
たちは、依然として聖戦の旗は掲げながらも、実際には、その宗教・社会政策においては、ヒ
ンドゥーに対する寛容な姿勢を打ち出している場合が多い。このようなムスリム支配層の政策
は、その過程と結果において、ムスリム支配体制の内部へヒンドゥーの旧支配層を抱き込むか
たちになっていった。十六世紀の後半のムガル三代皇帝アクバルの治世以後は、ムガル帝国の
中枢に有能なヒンドゥー高官が相次いであらわれている。アク・ハルの政権自体、もし、ヒンド
ゥーの王将マーン川スイング巨曽のヨ答や、財政政策で力を発揮したヒンドゥー高官トーダ
ルⅢマール弓o号﹃三里がいなかったとしたら、その統治は、別の方向へ行ってしまっていたか
もしれない。四代皇帝ジャハーンギールが、マーンⅢスイングの叔母のマリャム冨肖ご煙日と
Ⅶ共通する基盤

アクバルとのあいだに生れた子で、いわばインド人とムガルとの混血だったことは、この点で
象徴的な意味を持っている。
事実、ムガル宮廷の皇族や貴族たちのあいだには、明らかに︿政略結婚﹀といえるような、ヒ

161
ンドゥーの地方権力者の娘との婚姻が見受けられる。当時の西欧人の記録には、ムガル宮廷の
ハレムのなかでヒンドゥーの祭祁を行なうヒンドゥーの女性や侍女たちのことが出てくる。こ

162
うしたムスリム支配層の政策や政略に起因する諸関係が、インドの政治の上層部に、ヒンドゥ
ー・ムスリムの共存・融和の雰囲気を醸し出す歴史的要因となっていった点にも注目しておく
必要があろう。
1

反発する要因
︲l対立と抵抗I

スィク教の会堂の前で(アムリッツァル)
164
1正統派の反応
前章で述べたように、十六世紀後半のアクパルの治世には、ムガル支配のもとで、ヒンドゥ
ーとムスリムのあいだに共存と融合の気風が高まった。それは、単に、一部の上層ヒンドゥー
がムガル支配のなかへ組み込まれていったというだけでなく、思想・文化の面や社会生活のな
かでひろく見られたく時流﹀ともいえるものだった。このような状況のなかで、ムガル宮廷や上
層貴族の生活から民衆の世界に至るまで、ヒンドゥー・ムスリム両要素の融合が見られ、イン
ド文化は、全体として活気を帯び、豊かなものとなっていったのである。
だが、一方では、こうした気運に対して反発する傾向もあらわれてきた。それは、ヒンドゥ
ー社会の内部にも、またムスリムの側にも見られたのである。
イスラムが徐々にインドに浸透していくにつれて、ヒンドゥー社会の内部に微妙な変化が起
ったと推測されることについては、さきにも触れておいたbもっとも、当時のヒンドゥー社会
は、次第にその数を増していったと思われるムスリムに対して、全体としてはそれほどの危機
感を抱いていなかったのではないかと、私は思う。カーストⅢヴァルナ制の階層秩序のもとで
身分的優越感を抱きつづけてきた上層ヒンドゥーのあいだでは、ムスリムⅡコミューーティーは、
新しく生れたカースト、それも、﹁ムレッチャ﹂に過ぎないといった受けとり方が多かったに違
いない。ムスリムⅡコミュニティーの成立と発展も、ムスリム支配層と切実な関係にあった一
部を除いて他の一般のヒンドゥーにどっては、入ごとのように無関心の対象であったか、ある
いは、抵抗なく受け入れられていったものと思われる。
しかし、一部の正統派のバラモンや、彼らを利用していた王や支配者たちは、宗教と政治・
社会の面での権威と地位とを奪われたことによって欲求不満に陥っていた。そのために、ヒン
ドゥー社会内部のカースト体制がかえって強まっていっただろうとする推察については、すで
に述べたとおりである。これらの、いわばオiソドックスな一部の上層ヒンドゥーは、ムスリ
ム支配が進展していくにつれて、かえって、その保守性を強めていった。ラージプートの一部
の王や貴族たちがムスリム宮廷や支配者たちと妥協し彼らに楯びを売るのを見て、耐え難く感
じていた上層カーストのものもいたに違いない。
Ⅷ反発する要因

十三世紀の初めにトルコ人の征服者がいわゆるムスリム支配をつくり上げたときには、一部
のバラモンとヒンドゥー支配者たちは、彼ら﹁トゥルシュヵ﹂の手から﹁アーリャ﹂の地を取
り戻すという気構えを見せ、抵抗の姿勢を示した。十六世紀の後半になってアクバルの折衷・

165
融和主義的な政策がひろく行なわれていくころになると、ヒンドゥー支配層の側でも、十三世
紀のころのそうした意識はずっと稀薄なものとなってしまっていたと思われる。一部のラージ

166
プート王権は、ムスリム支配に屈伏せずに抵抗をくり返したが、結局、ムスリム権力に対抗し
て連帯する大規模な抵抗運動は組織されずに終ったのである。
上層ヒンドゥーのムスリムヘの抵抗の意識と欲求不満とは、そのはけ口を、むしろ自分たち
の社会の内部に見出したと思われる。カースト制の固守や.身分意識の強化の傾向が見られ、上
層ヒンドゥーの社会は、一部で、ますますその保守性を強めていったように思われる。ムスリ
ム軍との戦闘に当って、最後の討死に出陣する父や夫を追って自決の道を選んだラージプート
の女たちの、﹁ジョゥハル﹂茜呂胃と呼ばれた壮烈な死にざまは、当時の上層ヒンドゥーのせ
めてもの抵抗の意識を象徴していたとはいえないだろうか。
ヒンドゥー社会のこのような傾向とくらべると、ムスリムの側の反応には、かなり違ったも
のが窺えるように思われる。すでに述べたように、スーフィー思想の浸透や聖者たちの活動に
よって、インドのムスリムたちのあいだには、本来のイスラムの厳しいあり方とはかなり違っ
た信仰形式と内容が拡まっていた。このようなスーフィーの影響は、とりわけ、一般民衆の世
界で著しかったと思われるのだが、支配層のあいだにも大きな影響を与えていた。アクバルか
ら十七世紀前半のジャハーンギール治世を経て五代皇帝シャーⅡジャハーンの時代になると、
エタレタチイシズム
このようなスーフィズムの影響は、一部ムガル支配層の折衷主義に基づく社会政策の進展と
文化の面での混清・融合の傾向と相まって、ますますその傾向を強めていった。
このような傾向に対して、正統派のウラマーと支配層の一部は反感を抱いていた。彼らのな
かには、このようなイスラムの思想を混乱と受けとり、インドの地を離れてヒジャーズ国冒雨
やメッカなどのアラビア半島の聖地へ、いわば︿精神的亡命﹀を企てるものもあらわれたりしか
し、大部分のウラマーたちはムガルの体制のもとで安住しきっていたので、その不満や批判を
公にして時の支配体制に内側から抵抗を挑むだけのエネルギーに欠けていたと思われる。
こうした状況のなかで、アクバルの時代以後、インドのスーフィー思潮のなかにも、それま
でとはかなり違った傾向が目立つようになる。その一つはいわゆるカーディリIC且旨派で、
汎神論的な傾向が強く、折衷・融合の道を指向しており、さきのダーラーⅢシコーもこのスク
ールに属していた。もう一つのナクシュバンディーzgggps派は、逆に汎神論的一元論を
シヤリーア
批判し、イスラムの聖法の固守をつよく主張した点で、南アジア史におけるスーフィー諸派の
なかでも最も正統派的な性格を持つものであった。﹁すべては神である﹂とするのを誤りとし、
Ⅷ反発する要因

﹁すべては神より出る﹂と説き、天啓に回帰しシャリーァを守ることの必要性を説いた。ナク
シュバンディー派は、十六世紀の末年にこの宗団に入ったシェイフⅢアフマド川サルヒンディ
ー⑳一邑昏シゴョ且の肖冨自己が出てから、とくにその影響力を強めていった。彼の思想と行動

167
とは、それまで大きく揺れていたスーフィーの道を正統派神学へ近づける役割を果した。そこ
では、アクバルやダーラー川シコーが模索した方向は否定され、イスラム神秘主義とヒンドゥ

168
ー思想との接近の傾向も、もちろん、弱まっていったのである.
こうした状況のなかで、正統派の擁護者で、武力と策略を用いて兄ダーラーの排除に成功し
た六代皇帝オーラングゼーブの時代になると、カーディリー派がムガル上層から支持者を失っ
ていったのは当然だろう。もっとも、このグループは、民衆のあいだでは、その後もチシュテ
ィー派と並んで、依然として大きな影響力を持ちつづけて今日に至っている。
オーラングゼーブの治世のもとで見られたムガル支配層の正統派的イスラムへの回帰の傾向
は、その後の十八世紀から十九世紀に及ぶインドⅡムスリムの思潮の主流となっていった。ち
ょうどオーラングゼーブが死ぬ五年前に生れたというシャーⅡワリーウッラー讐農弓昌’
四一一農は、ナクシュバンディー派によって批判された異端的スーフィー諸派の思潮を再び正統
派神学に近づけようと試みている点で、いわば過渡期的な役割を果した人物である。彼は、イ
ンドⅢムスリム思想史のなかで大きな位置を占めているが、その思想は、次節に述べるような
その後の政治と社会の新しい情勢のなかで、ムスリムが感じた危機を予見していたともいえる。
その後のイスラムの思想は、ワリーゥッラーの息子や弟子たちによって、復古的な傾向の道を
辿っていった。それについては次節で触れよう。
このように、ムガル最盛期に見られたヒンドゥー・ムスリム両思想の共存と接近の傾向、そ
の一つの基盤となったアクパルの政策やダーラーⅢシコーの哲学に代表される折衷あるいは融
和主義的傾向に対する反発として、ムスリムのあいだに、徐々にではあるが︿復古﹀とく純化﹀へ
のゆり戻しの徴候が見られたのである。それが、ヒンドゥーとムスリム両社会の妥協と融和の
方向、あるいは文化の面でのヒンドゥー・ムスリム両要素の融合・混清の傾向にも水を差すと
いう結果を生み出したことは、容易に推測されるところである。
2支配と被支配
ヒンドゥーとムスリムとの関係が緊張・対立の方向に向うのは、単に宗教の性格の違いから
おこるさまざまな軌蝶によるものというよりは、現実の歴史のなかでは、政治状況、それも権
力者の間の︿支配﹀と︿被支配﹀という政治的関係に基づく場合が多い。
ムスリム王権の支配は、十三世紀の初頭から西北および北インドで始まったのだが、やがて
Ⅷ反発する要因

東はベンガルの北部、西はスィンドからグジャラート、南は遠くマイソール冨蔚日①地方の北
部まで拡がり、北はカシミールの山岳地帯の一部にまで波及した。しかし、このムスリム王権
の支配は、十七世紀後半のムガル帝国の一時期を除くと、インド亜大陸の広範な諸地域をすべ

169
てその領域に包含した︵帝国﹀の支配というよりは、むしろ、いわば飛び石のように各地に散在
する中小の王国の支配といったかたちをとった。だから、ムスリム王国がヒンドゥーを首長と

170
する王国に連なり、そのヒンドゥー王国の向う側にまた別のムスリム王国の領土があるといっ
た、入り乱れた状況がふつうだった。もちろん、ムスリム王国の領域内にムスリム人口より多
いヒンドゥー人口が存在し、逆にヒンドゥー王領内にイスラムに改宗した人たちがコミュニテ
ィーをつくって住むといった状況も、ごく当り前に見られたのである。時代は下って十八世紀
以降になるが、ニザーム冨園日と呼ばれたムスリムの首長を頂きながらその住民の過半数は
ヒンドゥー教徒であったデカンの著名な王国ハイデラーバード国巴目働冨9国旨①国富・や、
逆にその王はヒンドゥーなのに人口の過半数はムスリムだったカシミール王国などもあった。
しかも、この両国の領域たるや、日本的スケールに当てはめてみれば、いくつかの県を合せる
ほどの広大なものだったのである。
このような状況のなかでは、インド亜大陸でのヒンドゥー・ムスリム両コミュニティーの関
係が、宗教の違いそのものによるよりは、むしろ、より世俗的な、経済や社会・政治の諸面に
おける状況によって左右されやすいものとなっていったのは、当然のことといえよう。宗教そ
のものは、むしろ、そうした世俗的な利害関係の対立と緊張とを増大させる一つの要因であっ
た。ただ、この要因たるや、ときには起爆剤にもひとしい危険な役割をも果し得る性格を秘め
たも の だ っ た の で あ る 。
中世以降の南アジアの歴史を通じて、ムスリム支配に対する抵抗の主要な基地の一つとなっ
たのは、サルタナットやムガル帝国の首都であったデリー・アーグラ吟唱四両地方の西南に拡
がるラージャスターン詞旦四m昏昌の地であった。この地方こそ、かつて、﹁ラージプーター
ナ﹂厨言ロ国冒すなわち︿ラージプートの地﹀と呼ばれて、ラージプート王権が分立していた、
いわばヒンドゥーの王と戦士たちの故地だったのである。
冒頭の章で記したように、私がインド国内で初めて長期旅行に出かけた地方が、このラージ
ャスターンであった。クシャトリヤ出身を称するラージプートの諸王国の都だったこの地方の
諸都市に、ムスリム文化の影響が意外に強かったのを知って驚いたこともすでに述ぺた。実際、
建築にしる絵画にしろ、あるいは服飾の点でも、ラージャスターンは、ヒンドゥー・ムスリム
の両要素の見事な混清の成果を生み出していて、私たち外国人を楽しませてくれる。
ラージプートの多くがムガル体制に協力したことはすでに説明したが、その一面で、ムスリ
ム支配に抵抗し、それに屈服することを拒んだのも、同じラージプートの一部勢力であった。
Ⅷ反発する要因

プリトゥヴィラージ勺昌言胃劃やラーナーⅢプラタープ厨3勺3国壱をはじめ、ムスリム勢
力に反抗したラージプートの英雄たちの物語は、今日なお、この地方に語り継がれているし、
堅城をもって知られるチットール○冨算日の城塞は、サルタナットからムガル時代にわたって、

171
ジヨウハル
ラージプートの戦士とその一族のムスリム侵略者に対する戦いと悲惨な殉死の歴史の度重なる
舞台であった。一部のラージプート王権のなかには、サルタナットやムガルの上級支配権を最


後まで拒みつづけたものもいた。



もちろん、このような対立・抗争は、第一義的には政治的闘争であり、領土や権力をめぐる
戦争である。だから、デリーのムスリム王権や皇帝権に対するラージプート諸王の抵抗を、た
だちにヒンドゥーとムスリムの対立、あるいはヒンドゥー教とイスラム教との関係に還元して
しまうのは、くり返し述べてきたように、正しい認識とはいえない。しかし、たとえ世俗的な
権力の争いや戦争だったとしても、ラージプートの王や戦士にとっては、デリーの中央権力と
の戦いが、しばしば、ヒンドゥー対ムスリムという意識においてとらえられていたことも否定
できない。また、ラージプート王権の背後には、彼らと相互に依存し合っていたバラモン司祭
者がついていた。これらのバラモンにとっては、ヒンドゥー王権のムスリムヘの屈服は、自分
たちが享受してきた精神的権威と地位の否定につながるものだった。だから、一部のバラモン
は、ヒンドゥー王権の擁護、ヒンドゥー社会の秩序の維持という錦の御旗を掲げるとともに、
自らの権威と地位の保全のために、反ムスリムの意識を駆り立てたものと推定されるのである。
ここで詳しく述べる余裕はないが、生活文化や芸術の面でデリーの宮廷の影響をつよく受けな
がらもF権力の面においては反抗の姿勢を貫いたラージプート王権のあり方は、私には、たい
へん興味がある。
︿支配と被支配﹀という世俗の権力に基づく関係が、ヒンドゥーとムスリムの宗教社会の対立
としてとらえられる別の例は、ムガル中期から後期にかけてのパンジャーブや、デカンのマハ
ーラーシュトラの場合などにあらわれている。それはスィク盟昏教徒とマラータ冒胃騨冨集
団の問題であり、ムガル体制との権力関係に宗教と民族の要素が関わり合っていると思われる
ところから、一応、ここに触れておく必要があると思う。
本書ではスィク教について詳述する余裕はないが、イスラム教の影響をつよく受けたヒンド
ゥー教の改革一派と見ることができよう。﹃グラントⅢサーヒプ﹄の国邑昏曾宮ずと称する聖典
を頂き、さまざまな戒律を守りながら、カースト制度を拒否し信徒の連帯を強調した点で異色
の宗教であり、偶像崇拝やカースト制を否定した中世の改革者カピール嗣号旬の影響をもつよ
く受けているという。十六世紀前半に死んだその創始者ナーナクz目鼻から数世代のあいだ
は、宗教教団としての枠内で活動を行なっていたが、五代目の指導者グルⅢアルジュンの貝ロ
シユ目の時代になると、ムガル皇帝ジャハーンギールとの対立が激化し、一六○六年に彼の処
Ⅷ反発する要因

サデイヤー・パードシヤー
刑という異常な事態を迎えるに至った。その結果、自らを﹁真理の大帝﹂と呼んでいたグ
ダル
ルⅢアルジュンはスィク教徒の殉教者に祭りあげられ、次の教主、十七世紀前半のハルⅢゴー
ヴィンド国胃のCa目の代には武装する軍事集団に転化していき、ムガル支配体制に対する抵

173
抗の姿勢を明らかにしていった。そして九代目の教主のテーグⅢバハードゥル目⑦、国呂豊員
もオーラングゼープによって処刑されるに至ったのである。

174
ムガルの側にしてみれば、スィクの首長の処刑という強硬姿勢は、さきに触れたオーラング
ゼープの政策とイスラム思想の面での正統派路線への復帰という、政教両面で見られた状況の
変化に対応するものだった。一方、スィクの側でも、ムガル体制への反抗の姿勢を強めれば強
めるほど、イスラム的要素は薄くなっていき、教団内部におけるヒンドゥー的なものへの傾斜
の傾向も次第に高まっていったと思われるのである。
こうした状況は、当時のムスリム思想家の政治・社会に対する理念にも反映していった。さ
きに紹介したシャーⅡワリーゥッラーとその一族や弟子のあいだでは、ムガル支配に対する抵
抗勢力の存在を脅威と感じ、それに対してムスリムの連帯を強調し、その実現のための具体的
運動を盛り上げる気運が次第に高まっていったのである。
十九世紀の前半におこった﹁ムジャーヒディーン﹂冨旦呂目ロ︵聖戦士団︶と呼ばれた一群の
ムスリム武装集団の運動は、本来は、ムスリム社会の復古と純化を目標に一種の理想社会・理
想国家を追求するものだったが、現実の場ではスィク勢力に対する攻撃を目標とするように
なっていった。この運動について注目されるのは、それが、広範なムスリム民衆をその活動に
参加させていった点である。のちに触れるように、この運動は、やがてイギリス支配下のイン
ダールル・イスラーム ダールル・︽雄プ
ドを﹁イスラムの地﹂から﹁敵の地﹂に堕落したと規定することによって、イギリスの権力
に対する抵抗運動へと転化していった。ムガル帝国の弱体化にともなうムスリム社会の地位の
相対的低下という現実のなかで、こうした戦闘的集団が、危機の意識を抱きつつ反ムスリムの
姿勢を強めていったスィク勢力やのちのイギリス支配に対する抵抗の主体となっていったこと
は、政治の動向と宗教の関わりの歴史のなかで注目すべきできごとといえよう。
デカン西部を根拠地として、一時、強大な政治勢力にまで成長していったマラータ集団も、
バクティ信仰を精神的・宗教的支柱としていた点で、カピールの直接の影響下に成立したスィ
ク教団と共通した性格を持っている。デヵンの民族的ヒンドゥー集団といわれるマラータの人
々の持つ宗教・倫理思想のなかに、偶像崇拝やカーストⅢヴァルナ制に対する批判的傾向が窺
えるのも注目に値することである。また、その初期の指導者であった十七世紀後半のシヴァー
ジーの宣く響と、ほぼ同じ時期のマラータ詩人トゥカーラーム目匡厨国日には、明らかに復古
主義的なヒンドゥー純化思想が見られるという。
しかし、マラータの連帯意識を盛り上げた要因は、宗教思想そのものにあるのではなく、ム
Ⅷ反発する要因

ガル権力との対決を余儀なくされたマラータ集団の政治・社会面での利害関係にあったことは
否定できないところであろう。カーストⅡヴァルナ制に分断されたヒンドゥー社会はかつて、
トルコ人侵入勢力やムスリム支配に対して同盟してそれに対抗するだけの連合勢力にまで成長

175
し得なかった。そうした歴史的事実を見るとき、民族内部の連帯意識を盛り上げたばかりか、
政治的にもいわゆるマラータ同盟を実現させ、ムガル権力への抵抗を組織化し、一時はデリー

176
の権力の奪取に成功したその活力は、さきに述べたスィクの場合と並んで大いに注目されると
ころである。
3口ご丘①四口。”巳①
十五世紀の末から十六世紀にかけて、南アジアの西海岸に、人数は多くはなかったが、新し
い集団が割り込んできた。アフリカ南端を迂回する船団を組んでやってきたヨーロッパ人であ
る。十六世紀にはポルトガル人が主だったが、十七世紀に入ってからはオランダ人とイギリス
人が主役になり、少し遅れてフランス人も加わった。
十六世紀に入ると、ポルトガル勢力は、その北方のゴァの8を占領し、その地と、マレー半
島のマラッカとを主な拠点として、アジアの南方海上に覇権を打ち立てるのに成功したのであ
る。ゴァは、このカトリック教国の宣教師たちのアジアへの布教の拠点ともなり、実際、イン
ドの各地で宣教師の活動が見られた。ヒンドゥーの上層カーストは、もちろん、ポルトガル人
やのちのオランダ・イギリスその他のヨーロッパ人を﹁ムレッチャ﹂扱いしたものと推定され
るが、西欧人のキリスト教信仰やその伝道活動にはほとんど干渉しなかったらしい。それも、
ヒンドゥーとくにバラモン階層に見られた自己中心的な意識と、他の宗派に対する一種の寛容
あるいは無関心といった姿勢のためといえそうである。
ムスリムの場合は、これらのョIロッパ人に対してどのように対処したのであろうか。もと
アハルル・キタープ
もと、ムスリムにとって、ユダヤ人やキリスト教徒は、いわゆる﹁聖書の民﹂であって、未知
の異教の信徒たちとは異なって柔軟に対応する姿勢ができ上がっていた。だから、ポルトガル
人やイギリス人に対して、ことさらに目くじらをたてる必要もなかったのである。しかも、十
六世紀の後半の皇帝アクバルの宮廷内には、他の宗教に対する共存の雰囲気が脹っていた。実
際、ファテプルⅢスィクリのアクバルの宮廷では、キリスト教宣教師をも含めた諸宗教の教学
者たちが召集を受けて、現代ならさしずめ︿ティーチⅢイン﹀とでも呼べそうな討論集会さえ、
小規模ながら開かれている。経済的、政治的な関係ばかりでなく、宗教の面でも、これら初期
の西欧人たちは、ムスリム支配層から、どちらかといえば平和裡に受け容れられ、寛大に処遇
されたといっていいだ−ろう。
Ⅷ反発する要因

しかし、このムガル対ヨーロッパ人の関係は、政治的、軍事的な面で次第に変化していき、
やがて逆転の形勢を示していったのである。周知のように、ポルトガル勢力に代ってイギリ
ス・オランダ、少し遅れてフランスの新興勢力が、いわゆる﹁東インド会社﹂をつくってアジ

177
ア貿易に本腰を入れるようになってくると、南アジアの歴史は、大きな曲り角に立つことにな
った。その西欧勢力の側では、十七世紀から十八世紀にかけて、まずオランダ勢力が後退し、

178
やがてフランス人も、亜大陸での覇権をイギリス人に許すという結果となったのである。
イギリス東インド会社の南アジア制覇は、十八世紀の後半から十九世紀の中葉にかけての、
さまざまな地方的権力の打倒・懐柔という手順を経て完成された。ガンガー中・下流域の権力
者たちを破った戦争を手始めに、マイソールの王やデカンのマラータ勢力、あるいは。ハンジャ
ーブ地方に拠るスィク集団とのあいだの数次にわたる侵略戦争を経て、一八七七年には、名実
クイーン
ともに﹁インド帝国﹂旨・一目両日ロー﹃のが成立し、イギリスの直接支配が完成した。女王ヴィク
エムプレス
トリァは、インドの女皇となったのである。
これらのできごとについては、大抵のインド通史に書かれている。本書の視点に立てば、む
しろ、イギリス人たちが、その侵略と征服戦争の過程でヒンドゥーの王権やムスリム支配層に
対してどのように対処してきたかということの方が問題である。イギリスの支配は、地域的に
はインド亜大陸全般に及んでいて一概にはとらえ難いし、地方的権力に対する対応の仕方や政
策も、時と場合によって異なっている。しかし、さすがに経済的制覇を目指しながら着々とイ
ンドの政治的支配をも実現しようとしたイギリス人のやり方は、だんだんと賢さを加えていき、
ついには、ヒンドゥーとムスリムの政治的・社会的地位やその歴史的背景を的確に掴んだうえ
で、驚くほど巧妙な方策を採っている。
征服戦争であるからには、相手の宗教の如何について表向きは問題にしていない。だから、
併合し、打倒し、懐柔したインドの諸勢力には、ヒンドゥーの王権もあればムスリムの支配者
。︽1ドシヤーヒー
もいた。しかし、イギリスは、衰えたりとはいえデリーに帝国の権威を保っていたムガル皇帝
を徹底的に利用した。最初、彼らは、ムガル皇帝の権威を十二分に利用し、のちには皇帝を年
金受領者という偲侭的な地位に落しながらも、なお、その名誉と権威とを一応は存続させた。
イギリス人たちは、ムガル皇帝がムスリム社会の頂点にいたという歴史的事実を十分に承知し
た上で、その権威を利用しつくしたといえる。
ムガル帝国とイギリス勢力の地位に決定的な影響を与えたのは、一八五七年の大反乱、すな
わち、イギリス人が﹁セポイの反乱﹂冨巨匡昌。[のgo房と呼び、今日、大部分のインドとパ
キスタンの歴史家が﹁独立戦争﹂乏胃o巨且g①目①貝①と称している大反乱である。戦闘の最
中に、反乱軍が十七代目に当るムガル皇帝バハードゥルⅢシャー因島圏員陛豊二世のかつぎ
出しを計ったところから、イギリス側は、ムスリム旧支配層への反感を強め、ついに年老いた
Ⅷ反発する要因

皇帝をラングーンに送り、帝国の廃絶を実現させたのである。一八七二年に﹃インドのイスラ
ム教徒﹄望、ご員一ミミ農ミ苓罵蕎吻と題する著書を出したハンタi言.弓.西屋貝閏なるイギリス
人の︿学者官僚﹀ともいうべき人物は、インド人ムスリムのことを、いみじくも、﹁イギリス支配

179
のもとで破滅した人種﹂含跨国8日g⑦旦匡目①﹃国昌一の彦昌一①菖といっている。
すでに記したように、十七・十八世紀のころから、ムスリム思想家のあいだにはイスラムの

180
復古と純化を目指す改革思想があらわれていたが、十九世紀に入ると、ベンガルなどにより過
激な改革運動が起った。﹁ファラーイズィー運動﹂冒働︾冒冨◎ぐ⑦日⑦貝と呼ばれた動きはその
フアラーイズ ダールル・
代表的なもので、イスラムの法の遵守を強調し、イギリス支配下のベンガルの地を﹁敵の
︿ルプ ヅ︽IF
地﹂と宣一一一一目し、聖戦を称してヒンドゥーやイギリス人の地主・企業家たちと対決する戦闘を呼
びかけた。
このようなムスリムの動きは、さきに述べたムスリム指導者の一部に見られだイスラムおよ
びムスリム社会の危機を予見した認識を受け継ぐものだが、当時の現実の社会情勢を反映した
ものともいえよう。イギリスの支配が拡大していくにつれて、インドのムスリム旧支配層は、
一転して被支配者の地位に落された。しかも、その多くは、それまで支配の対象であったヒン
マイノリテイー
ドゥーに対して︿少数者﹀の立場に置かれるに至ったことを痛切に意識させられたのである。
ところで、十九世紀のイギリス人のなかには、アラブやトルコ人に対して、十字軍以来の歴
史を背景に生れた、東方からの︿野蛮な﹀︿怖るべき﹀侵略者とするヨーロッパ人の伝統的な偏見
と敵意とを心情的に受け継ぐものが多かった。イスラム教やムスリム全般に対してヨーロッパ
のキリスト教徒の一部が抱いていた複雑なコンプレックスは、インドへやって来たイギリス人
のなかにも認められた。そうした傾向は、十八世紀以来、主にイギリス人によって進められて
インドロヅー
きたいわゆるイン︽卜学の内容や方法にさえあらわれているという見方もある。それを指摘する
論者は、イギリス人が、まず古代インドに注目し、ムスリム文化よりは古典ヒンドゥー文化の
方を尊重したという傾向を、その一つの証拠として挙げるのである。
しかし、南アジアにおけるムスリムは、全体としていえば、少数の旧支配層を除くと、都市
の貧しい民衆や農民層がその大半を占めていた。イギリス支配下で急速に成長していった新興
の諸都市でも、いわゆる中間層としての社会的・経済的地位は、ヒンドゥーにくら。へてはるか
に劣っており、英語の習得の面でも遅.れが目立った。商業や小企業あるいは官職の面において
も、そのヘゲモニーはヒンドゥーに握られていた。六百年以上にわたるサルタナットとムガル
帝国の支配の間に政治的・社会的優位を保ってきた旧ムスリム支配層も、いまや明らかに︿斜
陽の身﹀をかこつ立場に置かれたのである。
一八五七年に﹁大反乱﹂が起ると、ムスリムの一部がムガル皇帝をかつぎ出し、昔日の栄光
の回復を計ったのも当然であった。反乱軍がイスラムのシンボルである緑の旗を掲げたことは、
Ⅷ反発する要因

イギリス人に強い反感を与えたという。結局、反乱は失敗に終ったが、その鎮圧と事後処理の
過程で、ムスリムは高い代償の支払いを余儀なくされた。ムガル帝国再興の計画が公にされ、
しかも皇帝パハードゥル川シャ︲lのラングーンへの流刑が実際に行なわれたとき、反乱におけ


11
るムスリ.ムの役割と責任とは、かえって確認されるかたちとなってしまったのである。
かってクレイシー目.国.C員$宮が指摘したように、十九世紀にインドに住んでいたイギリ
マイルF ファナティックフイヤiス

182
ス人のあいだには、﹁やさしいヒンドゥーと、狂心的で怖ろしいムサルマーン﹂といった観念
が、次第にでき上がっていったのである。このパキスタン歴史学界の碩学の言葉は、当時の状
況をかなり正確に指摘しているように、私には思われる。イギリス人たちは、ムスリムおよび
ヒンドゥー社会の間に多年にわたって存在してきたさまざまな条件の違いにつけ込み、この相
異なる二つの宗教の信徒のコミュニティーを、全体として対立する方向に導き、両者の上に乗
るかたちで、自らの権力支配の貫徹を計ろうとしたのである。
倉pご国①四目”巳①旨という言葉は、︵分割統治﹀と訳されてきた。少しややこしいが、私は、
︿分裂させて支配する﹀と訳した方が適切であるように思う。この言葉は、ふつうは、十九世紀
後半以降、とくに二十世紀に入ってからの帝国主義の時代の南アジアの状況について用いられ
ることが多いが、私はそうした志向は、全体としてのイギリス権力ばかりでなく、インドにや
って来たイギリス人のあいだに、もっと早くから、徐々に、そして広範に認められると思う。
イギリス人やインド亜大陸に住む一部の人が如何に否定しようとも、その事実は否むことがで
きな い で あ ろ う 。
4︿異教徒﹀と︿異民族﹀
この書物のⅣの章で、私は、ヒンドゥー教には、その信仰の形式と内容のさまざまな面で、
アーリャ人と先住の非アーリャ系諸民族の要素が混清・融合している事実を強調しておいた。
一部のバラモンやアーリャ至上主義者たちがなにをいおうと、今日のヒンドゥー教は、インド
亜大陸におけるいろいろな要素の混合による民族融合の歴史の進展と並行しながら成立してい
った、南アジアに住む諸民族全体が関わる宗教というべきである。
これまで触れる機会がなかったが、日本語の﹁ヒンドゥー教徒﹂に当る﹁ヒンドゥー﹂屋早
目という呼称は、実は、イスラム教がインドに入ってきてからのちにひろく使われるようにな
った言葉である、もともと、﹁ヒンドゥ﹂目且.﹁ヒンドゥー﹂国旨目という言葉は、インダ
ス河の本来の呼称﹁スィンドゥー﹂餌且言のペルシア風の発音から出たものといわれており、
Ⅷ反発する要因

それがのちに、南アジアに住む人々をも意味するようになり、やがていわゆる﹁ヒンドゥー教
徒﹂をいう言葉になったものである。だから、﹁ヒンドゥー﹂という言葉の成立ちには、はじめ
から、かなりの広がりを持った地域とそこに住む人びとを呼んだ意味合いが強いのである。イ

183
スラムが入って来てから、いわゆるヒンドゥー教徒が、とくに﹁ヒンドゥー﹂と呼ばれて、他
の宗教の信徒から区別されるようになった。だから、﹁ヒンドゥー﹂という呼び方自体、それが

184
宗教の信徒を意味する場合には、ムスリムに、その間接的責任の一端があるということにもな
るわけである。
このことは、言葉をかえていえば、入ってきた側のムスリムの目には、﹁ヒンドゥー﹂はみな
同じくインド人﹀として映り、むしろ︵インドに住む人﹀というほどの広い意味でとらえられてい
たのではないかという推測さえ可能にするのである。
ところで、南アジァヘ侵入してきたムスリムは、八世紀にはアラブ人、のちにはトルコ人や
アフガン人の集団であり、それに付随して、少数の。ヘルシア人やアラブ、北・東アフリカのム
スリムたちが来たわけである。つまり、インド人にとっては、ムスリム征服者やその追随者た
ちは、︿異民族﹀にほかならなかった。この事実が、すでに触れたように、のちになってもなお、
南アジアのムスリムを︿異民族﹀︵外来者﹀としてとらえ、この地域のイスラムを︿外国人が持ち
込んだ宗教﹀というふうに考える意識を、一部のヒンドゥーその他の人たちのあいだに植えつ
ける根拠になったのである。
たしかに、イスラムは、ヒンドゥー教徒やジャイナ教・仏教の信徒にとっては、︿異教﹀に違
いない。だから、南アジアの大部分の人たちにとって、ムスリムは︿異教徒﹀である。そしてこ
の︿異教﹀を持ち込んだ人たちも、まさしく︿異民族﹀︿外国人﹀であった。こうして、一部の保守
的な上層ヒンドゥーのなかには、ムスリムは︿異教徒﹀であり︿異民族﹀であるとする観念を、つ
よく主張するものがあらわれてきたのであった。
このことは、たとえば八世紀の初頭に侵入してきたムスリム川アラブの軍隊や、十世紀から
十二世紀の末葉にかけて、侵入をくり返したガズナ・ゴール両朝の軍事集団にも当てはまる。
それに、十三世紀以降に北インドの諸地域を征服し、権力を確立した諸勢力もトルコ系ムスリ
ムであり、その支配は、まさしく︿異民族﹀︿異教徒﹀によるものにほかならなかった。
このように、南アジアにおけるアラブやトルコ系ムスリム勢力の侵入・征服・支配の初期の
歴史過程を見ると、そこに、たしかに︿異教徒﹀と︿異民族﹀の一体性を指摘せざるを得ない。問
題は、この事実が、歴史的条件が変ったのちの時代においても、そのまま、一部で強調された
という点にある。しかも、この問題は、とりわけヒンドゥー・ムスリム両コミュニティーのあ
いだに緊張が高まったときに、しばしば露骨にいわれるのであった。
たしかに、南アジァにおけるムスリム支配は、その当初はもちろん後代においても、一部で
Ⅷ反発する要因

は、︿異民族﹀による支配であった。しかし、そうした歴史事実が、そのまま、インド亜大陸の
ムスリム社会全般に対するレッテルとして用いられるとなると、それは明らかな誤謬に変って
しまう。それについては、すでにⅦの章のはじめの方で記したので、改めてこfくゾ返さな


15
い。今日、インド亜大陸に住むイスラム教徒の大半は、アラブやトルコ・アフガン系に属する
民族でもなければ、。ヘルシア人やムガルでもない。れっきとした南アジア生れの人たちである。

186
インド共和国のムスリムにしても、いってみれば、ヒンドゥー教徒やその他の諸宗教の信徒と
同じく︿インド国民﹀であるばかりでなく、︿インド人﹀にほかならないのである。
だが、社会的、政治的な緊張・対立関係が激化するときには、そうした厳然たる歴史事実も
忘れられ、事実に反することが声高くいわれるようになる。ムスリムは、︿異教徒﹀であるばか
りか、インド人を屈服・従属させ、支配するためにやって来たく異民族﹀︿外国人﹀の後窟なのだ
という宣伝が行なわれ、両教徒の心情を刺激し、その対立関係をことさらに激化させる。
一部のヒンドゥー論者には、南アジア史におけるムスリム支配を、イギリス人によるインド
支配と同じものと規定して、非ムスリムのムスリムに対する反抗の意識を駆り立てようと努め
たものもいる。数年前に一言lデリーを訪れたとき、インドの一新聞に、デリーに残存するム
スリム建造物についての私のインターヴュー記事が掲載された。数日後に、それらのムスリム
遺跡は例外なしにヒンドゥーが建てたものであり、タージⅡマハルもヒンドゥーの宮殿だった
という趣旨を書き添え、私の認識を改めるようにすすめた手紙を︿学者﹀らしい人物から受けと
ったことがある。もっとも、それを見た私の友人のヒンドゥーの一歴史家は、即座に一笑に付
し、無視するように忠告してくれたのであった。
この手紙の主のような歴史認識は、全く誤っている。サルタナットやムガル帝国あるいは亜
大陸各地に成立したムスリム支配は、インドの内地で成立した権力であり、ムスリム支配に特
有の宗教・社会政策その他の特異な面を除けば、その支配体制や統治機構は、それまでのヒン
ドゥー王権とそれほど大差はない。彼らが、たとえインド域外から来た侵入者・征服者であっ
た場合でも、﹁奴隷王朝﹂の例やムガル初期の場合で明らかなように、インド内域にその権力を
確立していく過程で、外地にあった彼らの本来の拠点との関係は、あらかた断絶してしまった
のである。この点においても、﹁遠くテームズ川のほとりからアジアを支配した﹂イギリスの
インド領有の場合とは、その構造を全く異にしている。まして、サルタナットやムガル支配の
性格は、近代ヨーロッパの拡大という世界史的現象を背景に持つイギリスの植民地支配とは、
その歴史的意味において明らかに違っているのである。
しかし、どのように正しい歴史認識でも、緊張・対立が激化したときには、心情的にもみ消
されてしまう場合が多い.︿ムスリム・即・外国人﹀説や、︿ムガルの支配・イコール・外国人の
支配﹀という説明は、それが増幅されていくときには、︿ムスリム支配・即・イギリス支配﹀とい
Ⅷ反発する要因

った観念にまで増幅されていく。こうした考え方は、容易に、ムスリム排斥のスローガンに転
化し得る性格を備えているのである。

187

宗教の違いを超えるもの
l民族主義と近代の環境I

争議雪雰f含識浄晦唾鴬?
_ _ ‐--◆..-_

リパブリックーデーにおける女学生の行進(ニューデリー)
190
1十九世紀の状況
イギリスのインド支配は、イギリス人が政治権力を握り、インド人がそれに隷属するといっ
た、いわば政治権力の面での支配と被支配という関係だけを意味するものではなかった。それ
は、インド人の社会そのもののなかに、それまで南アジアの歴史にあらわれなかった種類の社
会階層をつくり出し、新しい思想状況を生み出した。ヒンドゥー教徒もイスラム教徒も、その
影響から免れることはできなかったのである。
イギリス東インド会社が、南アジア全域にその支配を拡大していったとき、その本国および
西ヨーロッ・ハは、経済史と政治史の上でかつてない変革を経験しつつあった。いうまでもなく、
近代資本主義経済の発展とそれにともなう政治体制の変化がそれである。こうした変革にとも
なって、西欧における思想・宗教の世界にさまざまな変化が見られたことは、周知のとおりで
ある。十八世紀後半から十九世紀にかけて、南アジアへやって来たイギリス人や西欧人の行動
と思想は、一部のインド人に大きな影響を与えた。歴史のプロセスと内容あるいはその程度に
おいて著しい違いはあったが、その状況は、おそらく幕末から明治にかけて日本が受けた欧米
思想からの影響とくらべてみればいいかもしれない。その衝撃は、ヒンドゥーやムスリムにも
ソーシヤ必ロリラオーム
及び、彼らの一部にいわゆる︿社会改革﹀への道を辿らせる結果を導いたのである。
もっとも、︵近代西欧﹀からの︿衝撃﹀に対するヒンドゥjとムスリムの反応は、決して一様で
はなかった。前章で触れたように、一部のムスリム指導者のなかには、ムガル末期の状況をイ
スラムの危機としてとらえ、ムスリム社会の団結とイスラム思想の純化とを唱えるものがあら
われた。シャーⅢワリーウッラーの流れを汲むアフマドⅢバレルヴィー跨云日且国肖①一言もそ
の一人だったが、十九世紀の彼の一書簡には、次のような一節がある。﹁私の心はこの宗教的堕
ジハード
落を見て恥しさで満たされており、私の頭は、いかに聖戦を組織すべきかという一つのこと以
ムジヤーヒデイーン
外にはなにも考えていない﹂と。彼の死後、その影響のもとで組織されたいわゆる﹁聖戦士団﹂
の運動は、イギリス権力をも攻撃の対象としていった。これと並んで知られるベンガルのファ
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

ダールル・ハルプ
ラーイズィー運動の指導者がベンガルの地を﹁敵の地﹂と宣言して聖戦を呼びかけたことに
ついては前章で説明しておいたが、いずれも、ムスリムの復古・純化の思想の延長線上にある
と見ていいだろう。
このように、ムスリム社会の内部に、いわば戦闘的な反応が見られた一方で、十九世紀の半
ばには、サイイド川アフマド川ハーン等aシ宮日且︻富国に代表される別のタイプの指導者


11
があらわれた。もともとムガル廷臣の家に生れた彼は、さきの抵抗運動の指導者たちとは対礁
的に、イギリス支配のもとで、西欧近代思想の基盤となった合理主義とヒューマニズムの立場

192
からの批判に耐え得るようにムスリムの社会関係を変革し、理性と自然科学の成果を取り入れ
つつ、イスラム思想を新しい立場から解釈していこうとした。このアフマド川ハーンの思想的
そグニズム
立場は、十九世紀の西方ムスリム世界にひろく見られたいわゆる︿近代主義﹀の傾向と共通する
要素を持っており、世界史的に見てその大きな流れの一つの支脈といえよう。
アフマドⅢハーンは、五十歳を越えた一八六九年に、はじめてイギリスの地を踏んでいる。
イギリスから送った手紙のなかで、彼は、イギリスに﹁幼児のごとく幻惑﹂されたことを記し、
﹁インド人も努力次第では、イギリス人の水準にまでいけるであろう﹂と述べている。彼は、
一八七五年、デリー東南のアリーガル置一彊昏の地に大学を創ったが、そのカリキュラムから
キャンパスのあり方まで、オックスフォードやケンブリッジをモデルにしたという。この大学
で、彼は西欧の理性と合理主義、科学的思惟といわゆる近代ヒューマニズムに堂々と立ち向え
るようなムスリム知識人の育成を目指したのである。
ヒンドゥーには、ムスリムの場合にくらべられるほどに戦闘的な、反ムガル・反ムスリムの
抵抗運動は、マラータその他の一部集団を除いてほとんど目立たない。それに、支配層はとも
かく、一般の民衆の世界では、ヒンドゥーとムスリムのあいだに一種の共存関係が成り立って
いたことも多かった。政治への対応の面でも、十八・十九世紀のヒンドゥー思想の内部では、
サンニヤースイン
同じ時期のムスリムの場合とはかなり違っている。一部の出家行者の抵抗運動を除くと、全体
として、シャーⅢワリーウッラー以後のムスリムの場合に匹敵し得るような組織的活動は見ら
れなかったのではないだろうか。早急な結論づけは控えなければならないが、これもまた、ヒ
ンドゥー教とイスラム教のあいだの教義や社会関係、人生観や倫理意識の差異、あるいは支配
構成のなかでの宗教のあり方などの違いによるものであろうか。
十九世紀になってから、ヒンドゥー社会内部にも、一連の新しい改革思想の動きが出てくる。
たとえば﹁ブラーフマⅡサマージ﹂国昌彦昌煙留日畠・﹁アーリヤⅡサマージ﹂シミ四留日皇.﹁ラ
ーマクリシュナ教団﹂昏冒鼻1の冒四言ののざロなどの団体・結社は、そうした改革思想に立っ
て伝統的なヒンドゥー社会のあり方を改善しようとする運動の母体であった。ムスⅡ︽ムの場合
にアフマド川ハーンを挙げるとすれば、ヒンドゥー改革運動の指導者としては、この一一一団体に
亜宗教の違いを超えるもの

ついて、それぞれ、ラームⅢモーハンⅡローイ詞四日三○富ご冗昌・スワミⅡダヤーナンダⅢサ
ラスワテイーの湧国ヨーロ色竜四口四口。煙の胃尉言四三・ラー︲マクリシュナⅢ。ハラマハンサ”四日四一倉一の一昌煙
国風目鱈冨ロの図とその弟子スワミⅢヴィヴェーカーナンダの箸、一目くぎ①冨冒己四らの名を記し
ておく必要があろう。しかし、これらの四人はそれぞれ、思想内容や改革へのアプローチを
異にしており、十九世紀におけるヒンドゥーの思想と実践の多様性を反映している。

193
:ラームⅢモーハンⅡローイが、その成長と教育過程でイスラム思想に接していることは興味
がある。しかし、決定的な影響は、キリスト教の福音書やユーーテリアンの思想から受けている。

194
とくに新約的ヒューマニズムの倫理を強調し、穏健ながらもカースト身分制に対する批判を一
応実践に移し、女性の社会的地位の向上、教育の振興などをブラーフマⅢサマージの具体的な
運動の目標とした。アーリヤⅢサマージの創設者となったスワミⅡダャーナンダもほぼ同じよ
サンニヤースイン
うな改革運動を推進しているのだが、彼の出家行者的な半生は、キリスト教に傾斜したローイ
やその後継者たちの場合と違っているし、思想面でも﹁ヴェーダ﹂の初源の時代への復帰によ
るヒンドゥー倫理とその社会関係の純化・再建を主張し、改革の必要を説いた。ラーマクリシ
ュナを教祖にその弟子ヴィヴェーカーナンダが組織したラーマクリシュナ教団の場合はこれら
二つのサマージとも違っている。ラーマクリシュナ自身、。ハクティを一つの基盤とする神秘主
義的傾向の持主だったし、出身地のベンガル地方でのイスラム教やキリスト教との接触を通じ
て、宗教の目指すところは一つだとする信念に基づいて、ヒンドゥー教の立場から諸宗教の融
合を説いた点に特徴がある。
十九世紀のインドに見られたこれらのヒンドゥー改革運動は、その影響する範囲も主として
都市の中間層に限られ、とくにイギリス支配のもとで新しい役割を担うことになった教師・弁
護士・医師や、商人・中小企業主・不在地主などがその主導権を握り、また支持者であった。
だから、都市の下層の民衆のあいだや農村地域へは、直接、その影響はほとんど及んでいない。
この点、ムスリム改革運動におけるアフマドⅡハーンの思想と行動の場合とほぼ共通する限界
を持つものといっていいだろう。
この点に関連して、一言、述べておきたいことがある。それは、十八・十九世紀における南
インパクト
アジアの状況の変化を、︿イギリスの支配﹀や︿近代ヨーロッ。ハの衝撃﹀の結果としてのみ理解す
る傾向が、これまで、あまりにも強すぎたという傾向である。それは、アジアの諸社会におけ
る自生的なく発展﹀の事実に注目せずに︵停滞﹀の面のみ強調してきた西欧人の歴史解釈の影響で
もあった。近年、わが国の歴史学界でも、そうした視点から抜け出す成果が出はじめつつある
ことはよろこばしい。従来見られたアーリャ社会のいわゆる︿停滞論﹀の一つの根拠となる南ア
ジアの宗教と社会との関連についても、今後は、インド社会の内的・自生的発展の問題との関
わりにおいて考察がすすめられるべきであろう。その点、本書は不十分なところが多く、各方
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

面からのご教示を得たいと思っている。
2ナショナリズム
十九世紀の南アジア史の一つの特徴がナショナリズムの台頭にあることは、だれもが知って

195
いることである。だが、本書では、インドにおける民族主義の理念やその具体的な運動の実態
について簡単に述べる余裕さえなくなった。そこで、十九世紀の南アジアの民族主義思想が、

196
本書のテーマであるヒンドゥー・イスラムの両宗教とどのような関わりを持っていたかという
点にだけ、簡単に触れておくにとどめる。
十九世紀に入って、イギリスがその支配領域を全インド的な規模で拡大していったときでさ
え、、ハラモンやヒンドゥー上層は、彼らの地位とその将来とに対して、それほど切実な危機感
を抱いてはいなかったのではないかと思われる。ムガル帝国は、なお、首都のデリーにその権
威を保ってはいたが、それとてももはや名目的なものに過ぎず、やがてイギリスの年金受領者
となり、・事実上は、いわば地方的な一権力者といった地位にまでなり下がってしまった。この
かっての統一帝国を支えていたインド各地の︿太守﹀や地方権力者たちの多くは、すでにムガル
の中央権力からは離反していたが、それぞれの利害関係に応じて、その一部はイギリス側に屈
伏するのを余儀なくされ、他の一部は懐柔されて、イギリスの保護領となったり、あるいは偲
偏政権の地位に甘んじていた。
イギリス支配が進展していくなかで、ムスリム社会睦ある意味では分裂してしまっていた。
すでに述べたように、一部の復古主義的ムスリム思想家は、非ムスリム勢力やイギリス権力を
︿敵﹀と規定してそれに対抗する姿勢を整えようとしたのだが、結果は、理念だけが先行して実
力がともなわず、一時行なわれた戦闘行動も挫折してしまった。その一方では、すすんでイギ
リスの支配を認め、そのもとにあって、西欧のシステムや思想をある程度受け容れながらムス
リム社会の改革を計り、新しい時勢に適応していこうとするグループがあった。前節で紹介し
たアフマドⅡハーンをはじめとする十九世紀の改革者とその同調者たちがそれである。
十九世紀の指導的ムスリムのなかに見られたこのような二つの異なる動きは、ムスリムⅢコ
ミュニティー全体の立場と、その後の歴史の推移から顧みると、異なったグループへの分化の
傾向を促す要因になったということもできよう。つまり、十九世紀のムスリム社会に見られた
さまざまなグループは、新しい状況に対応していくための理念と方法とにおいて分れ、連帯と
統一の難しさに気がつき始めていたといえる。そのことは、一一十世紀に入ってからのムスリム
の政治活動にも反映していくのである。
ヒンドゥーの世界においても、西欧からの衝撃を直接・間接に受けとめて、旧態依然たる彼
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

らの社会を新しい体制に適応できるように改革しようとした少数のリーダーと集団とがあった。
しかし、彼ら改革者たちの動きもかなり緩慢だったし、その目標とするところも、従来のヒン
ドゥー社会のアキレス健とでもいうべきカースト川ヴァルナ制に基づく社会関係を覆すほどに
徹底したものではなく、概して表面的また穏健なものにとどまった。しかも、このいわば︿近代
化﹀への改革の動きは、たとえばアーリャ川サマージの一部の指導者を除くと、イギリス支配へ

197
の抵抗という政治運動のイデオロギーとしても高められてはいかず、教育の振興や女性の地位
の向上、あるいはどちらかといえば中途半端なカーストⅡヴァルナ制への批判といった程度の、

198
いわば括弧つきでの︿社会改革﹀にとどまる傾向が強かった。
それに、すでに触れたように、十九世紀のムスリムとヒンドゥーの改革運動は、概していえ
ば、イギリス支配の拠点となったカルカッタやボンベイなどの新興都市や、主に東インド会社
の吏員や将校、あるいは宣教師たちを通じて西欧のシステムや思想と関わりを持っていった地
方都市のいわゆる中間層を指導者に持ち、また主な支持者としていた。このような︿改革﹀運動
は、亜大陸の尼大な人口の大半を占めていた農村地域の住民や、都市在住の一般民衆の生活に
は、それほど影響を及ぼすことはなかったのである。
この点からいえば、新しい中間層や、バラモンやヒンドゥー上層、あるいは旧ムスリム支配
層の動向とは別の、民衆の世界における社会関係や意識構造、さらにその変化の動きにもっと
注目すぺきであろう。本書で述べたように、南アジアの民衆の社会では、ヒンドゥー教とイス
ラム教とが、ある程度共存し、その間にさまざまな混清・融合の徴候が認められた。そこでは、
上層ヒンドゥーの世界でつづいてきたカーストⅢヴァルナ制の身分意識や、いわゆるヒンドゥ
ー・ムスリムの︿宿命的な﹀対立といわれてきた社会構成や意識構造を突き破る動きもあったは
ずである。資料や方法の点でなお問題は多いが、今後は、そうした点にももっと注意が向けら
れるべきであろう。
ところで、イギリス支配の進展は、皮肉にも、南アジアのヒンドゥーとムスリムの社会に、
政治的な面で大きな変化を導入する結果となった。前章で説明したように、イギリスの支配は、
ムスリムとヒンドゥーのあいだに模を打ち込むことによって両者の分裂を策し、その間にあっ
て自らの支配を貫徹しようとする巧妙なやり方、つまりロヨロ①幽且目一⑦の方式をフルに利用
した。たしかに一部のムスリムは、ヒンドゥーに対抗する姿勢を強め、政治的にもヒンドゥー
社会に敵対する傾向を示した。別のムスリム川グループの指導者アフマドⅢハーンも、一応イ
ユニチイー ナシロナ必・コングレス
ンド人の一体化を目標に掲げながらも、実際の政治の面では新しく生れたインド国民会議
への参加を肯んぜず、ムスリム独自の道を進むことを選んだ。
このようなムスリム指導者のあり方にもかかわらず、インドにおける政治情勢は、全体とし
ては、民族的統一への方向へ向っていったのである。皮肉なことながら、少なくともその現象
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

的な要因の一端は、イギリス支配にあった。ただ、それは、イギリス支配のもとで、インド人
の置かれた地位を少しでも改善していこうとする、きわめて穏健な政治姿勢をもって始められ
たのである。そして、ヒンドゥーやムスリムの指導的立場にあるものが、宗教の違いを超えて、
運動に参加した。
宗教の障壁を乗り越えて︿インド人﹀の連帯へ向う動きは、十九世紀の後半に入って起った

199
﹁大反乱﹂の過程でも、たしかにその一部に見られたことである。この反乱の一つの導火線と
なったのは、東インド会社が雇ったインド人部隊の小銃の弾包に牛脂と豚の油を使用したとい

200
う噂であった。その問題は、ヒンドゥーとムスリムにとっては、自らの信仰に背くことにもな
りかねない切実なことがらであった。たしかに反乱が進む過程で、一部ムスリムの旧支配層と
兵士のあいだで、ムガル皇帝の擁立・復権が叫ばれたことも事実である。しかし、その一面で、
十九世紀後半のこの反乱には、ヒンドゥーの旧支配層からヒンドゥーの兵士や農民たちも有力
な反乱分子として参加していた。だから、宗教上の慣習の違いが発火点の一つとされながら、
実際の行動の過程では、イスラム教やヒンドゥー教という宗教の差異を超えた次元での集団活
動が実際に行なわれたのである。ヒンドゥーとムスリムとのあいだには対立もあったが、各地
で協力関係も見られた。抵抗の相手は、いまやイギリスの権力である。少なくとも、運動の前
面からは、ムスリムかヒンドゥーかという区別は、その影を薄くしていったのである。
もっとも、インド人がしばしば﹁第一次独立戦争﹂自営の国厨匡88①ggn①乏胃と呼ぶこ
の大反乱には、旧支配層をはじめさまざまな階層が関わっていたし、地域的な反乱勢力の動き
には、それぞれの利害関係に立つ利己的な動機も窺われ、必ずしもその団結や連帯の意義だけ
を強調するわけにはいかない。しかし、ともかくも、共同の敵、ともに目標とする相手である
イギリス権力に向って、宗教の違いを超えて共同の行動に出たという事実は、南アジア史のな
かでは、画期的というに値する。ただ、この大反乱が終ったあと、イギリス支配下におけるム
スリムの社会的立場は一層悪くなっていった。イギリス側は、;ムスリム社会の指導者や旧支配
層に対して警戒の色を強めていった。イギリス人のそうした姿勢は、十九世紀後半から一一十世
紀にかけてのインドの民族運動の動向にも微妙な影響を与えていくのである。
問題をもとに戻そう。十九世紀の後半になって、イギリス支配に対して武力的な抵抗ではな
しに、穏健な社会的、政治的な活動によってインド人の立場の擁護と向上を計ろうとする動き
がすすんでいった。それは、社会的には、さきに紹介したいわゆる︿社会改革﹀の流れと同じく、
都市の中間層を主体に、近代イギリスの政治制度や政治思想を受け容れつつ、穏健な方法によ
って行なわれたものである。その運動のなかで、各コミュニティーの指導者たちが、宗教の違
いを超えてともに語り合おうとする姿勢をとった点をとくに強調しておきたい。
一八八○年代に入ると、その運動は、全インド国民協議会ど一︲胃且旨z鷺ざg−Co具図①p8
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

の結成を導き、やがてインド国民会議言&旨z島。g一○○口喝⑦mのの開催というかたちで具体
化されていった。もちろん、この時点でのインドの民族運動の状況を過大に評価することはで
きない。現に、最初のボンベイ会議に参加した代表者の数は七十数名に過ぎなかったというし、
それらの人びとが、それぞれ、明確な団体や集団を代表していたというわけでもなかった。し
かし、これらの協議会や会議に参加した人たちには、宗教の違いを超えて、この集会に参加し

201
たという事実が目立っている。初期の数年の間の議長席には、第一回大会にインド人キリスト
教徒、第一一回大会に。ハールスィー闘風つまり拝火教徒である人物が着いた。第三回大会の議

202
長はムスリムである。こうしたことは、インドの政治的、社会的な面での会議の歴史のなかで
は、たしかに画期的なできごとだったといえる。
考えてみると、イギリスの支配が南アジア全域に及んだという事実が、結果において、少な
くとも表面的には、それまでのインド人の地方割拠という狭い枠組みをある程度外させ、北イ
ンドと南インド、ベンガル人とパンジャーブ人、マドラス出身者とグジャラート出身者たちを、
同じ政治目標のもとに集めるという結果を生み出したといえる。宗教の面でも、ほぼ同じよう
なことが見られた。いまや、ムスリムがムスリム社会の枠のなかだけで発言し、ヒンドゥーが
彼らの利害関係だけを主張し活動していたのでは、問題は進展しなかったのである。こうして、
イギリス支配という、いわば第三者の権力の出現によって、インドの社会と政治の状況のなか
で一一つの有力なコミュニティーを形成していたムスリムとヒンドゥーが、それぞれの社会の結
合の原理であった宗教そのものの違いを少なくとも前面に出すことなしに、会合し、討論し、
同じ決議をすることになったのである。
たしかに、それは、皮肉にも︿イギリス支配﹀という新しい事態が契機となっている。しかし、
実際には、インドの内部に、ヒンドゥー・ムスリム両社会の内奥に、すでにずっと前から、自
生的にそうした動きへの胎動が見られ、機が熟していたということを意味している。私が、本
書で述べてきた歴史的変化は、ヒンドゥーとムスリムの両社会の内部に、そうした傾向への接
近を示唆するものがあったといえると思う。
3﹁近代﹂の諸環境
十九世紀から二十世紀にかけてのさまざまな状況の変化が、インドの社会の、少なくとも表
面において、ヒンドゥー教徒かイスラム教徒かという問題をそれほど目立たないものにしてし
まった事実は、なんとしても否定し得ないところである。この節では、そうした問題に触れて
みたいと思う。ただ、そのことは、一面において、同じ環境の変化が、かえって両宗教の違い
を目立たせ、ヒンドゥー・ムスリム両コミュニティーの指導者のあいだの緊張と対立とを強め
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

る役割を果した面を否定するものではない。それについては次の終章で触れるつもりである。
まず、イギリス支配が持ちこんだ政治面での合議制・代議員制の問題について見てみよう。
少なくとも、近代西欧の政治制度のなかでは、宗教信仰の問題は、例外はあっても、そのまま
では、第一義的な意味を持ち得なくなっていた。宗教をその結合の原理とした政治結社や政党
はあっても、近代西欧の政治制度の基盤にある合議制のなかでは、宗教そのものが、直接、舞

203
台の前面に出てくることは、限られた場合を除いてほとんどなかったといっていいだろう。
イギリス支配下のインドの政治面で、限られた枠はあっても、一応の合議・代議員制が導入

204
されたとき、ヒンドゥー・ムスリムの関係は、宗教そのものの違いというよりも、そのコミュ
ニティーの利害関係の立場の相違から、切実な問題を提起することとなった。しかし、少なく
とも、宗教を異にするものが一堂に集まり、同じテーブルについて事を議すというシステムは、
まぎれもなく実現したわけである。前節で触れたように、インドのナショナリズムの新しい潮
流が、宗教の違いという枠を乗り越えて、イギリス支配下でのインド人の諸権利の確保と、そ
ユニチイー
のためのインド人の一体化という共通の目標を、曲りなりにもつくり出したからである。もっ
とも、この点をイギリス支配の功績、︿近代化﹀の成果としてのみ強調するのはいささかおかし
い。本書で述べてきたように、たとえば、ムスリム支配の初期にも、ムガル最盛期にも、政治
や軍事の上層には、ムスリム高官にまじってヒンドゥー高官がいたからである。ひょっとする
と、私たちの歴史認識は、予想以上に西欧的視点に引きつけられ過ぎていたのかもしれない・
その点は一応措くとして、西欧の近代民主主義政治体制下の合議・代議員制は、その目標を
︿議会﹀という具体的な場で結実させたわけだが、一面においては、それはさまざまな利害関係
に立つ集団の利益代表者の合議体制の成立でもあった。だから、ナショナルな目標のもとで一
旦は背景へ退いた宗教集団も、代議員制が実際に施行されたとき、再び前面にあらわれてきた。
マイノリ子イー
とりわけ、少数者集団の立場に立ったムスリムⅢコミュニティーにとっては、その利害関係の
確保は、切実な政治的課題となっていったのである。十九世紀末から一一十世紀にかけてのイン
ドの政治史においては、この問題は、具体的には、ヒンドゥーとムスリムの間の︿分離選挙﹀か
︿合同選挙﹀かという政治課題と、それに関連して激化していった両教徒社会の間の、いわゆる
コミュナルな対立関係をめぐってのさまざまな社会・政治上の動きとして展開していったので
ある。それが、イギリス側の植民地政策の巧みな︿挑発﹀の一つの結果であったことは、すでに
触れ た と こ ろ で あ る 。
しかし、ヒンドゥー・ムスリム両社会のコミュナルな対立が露呈されたとしても、それは、
かっての、いわば前近代の政治・社会体制の環境における場合とは著しい差異があった。もは
や宗教が、中世的王権のもとでの支配と被支配の体制に、直接、結びつくことはなかった。宗
教の違いは、現実にはその信徒のコミュニティーの利害関係をめぐる問題の起点として深刻な
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

意味を持ったが、それも、いまや、まず、合議・論争の場を通して争われることとなっていっ
たのである。
マイノリチイー
しかも、︿近代﹀の諸環境は、少数者たるムスリムⅢコミュニティーそのもののなかにさえ、宗
教上の問題とは別の要因に基づく新しい関係を生み出していった。つまり、イスラムの宗教を
共有するという宗教的・心情的連帯とは別の、近代のシステムの導入に基づくさまざまな連帯

205
と共存の価値基準や原理があらわれてきたのである。このことは、もちろん、ヒンドゥー社会
についても、同じように当てはまることがらであった。

206
生活環境のさまざまな面における近代的なシステムの導入は、政治や社会の面での諸関係に
くらべると、ずっと速い速度で宗教の別を消去するのに大きな役割を果していったように思わ
れる。たとえば、新しい交通のシステムについて考えてみよう。鉄道やバスなどを利用する場
合に、相乗りの乗客がヒンドゥーかムスリムであるかを云々している余裕はないだろう。同じ
列車やバスのなかで、宗教別によって異なる席を設けることがインド亜大陸で実施されたとい
う事実を、私は知らない。
たとえば近代的な病院や厚生施設について見てみよう。医師にはヒンドゥー出身者が多いが、
医師がムスリムだからといって診察を拒むものは、危篤の患者やその家族にも少ないだろう。
カーストの違いを云々し、宗教の違いで医師を選択する余裕は、少なくとも一般大衆にはない。
頑固な保守的バラモン層のなかに、バラモン以外の医師の診察を拒んだという話は、私も何度
か聞いたことはあるし、一部の保守的なヒンドゥーが、︿浄﹀︿不浄﹀の感覚に基.ついて注射や種
痘を拒みつづけるといったことについては、今日でもときおり見聞きする。だが、生死の境に
ある病人に対して、公共医療施設やその職員が宗教の差異を云々して差別することは、もはや
許さ れ な い こ と だ ろ う 。
都市の上水道の問題もいい例かもしれない。一部の上層カーストに属する者が、ムスリムや
外国人、あるいはいわゆる被差別階層に属するとされてきた人たちの使用する井戸の水を口に
せず、自らのカーストのための特別な井戸を確保してきたことは、インド各地でひろく見られ
た慣習である。しかし、仮にカースト的意識を固守して、だれが造ったかわからない施設で、
だれの手で導入されたかわからない都市の上水道の水を飲むことを拒む人間がいるとしたら、
今日では、大都市における生活は、半日とは過せないことは明らかである。
工場での流れ作業は、近代資本制のもとではありふれたシステムである。たしかに、インド
の工場では、工員の一雇用に、ある程度、宗教の違いやカーストを問題にしてきたということは、
私自身聞いているし、同族的・家族的企業では、とりわけその傾向が強いという。しかし、今
日の大方の工場においては、そうした問題を云々している余裕はない。ムスリムの手を経た部
品の組立てをヒンドゥーが拒否するとしたら、工場制企業は成り立たない。かって、分業体制
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

が、カーストの別やヒンドゥー・ムスリムの宗教的コミュニティーの違いによって成り立つ面
があったことは事実だが、今日の企業経営においては、雇用に際しての宗教による区別は、急
速に消滅していく傾向にあると聞いている。
一一十世紀以降、インドで急速に発展を見た労働運動が、宗教の別に基づいてその権利を個別
に主張し、運動を展開するとしたら、それは、さまざまな批判にさらされることであろう。労

207
働運動の面では、本来、宗教の差異が排除されるべき性格のものであることは当然であろう。
十九世紀から一一十世紀にかけて、南アジアは、芸術・文化の面で多くの作品や価値を生み出

208
している。文学・美術・音楽や、その他いろいろな芸術・文化活動乃至は学問の諸領域、ある
いは初等教育から高等教育にわたる教育施設の現場においては、たしかに一部で異なる宗教に
基づく別個の組織が設けられてきた場合もあった。しかし、全体としては、もはや、対象がヒ
ンドゥーであるかイスラム系統のものであるかということよりは、それとは別の独自な価値基
準や機能に対する評価の方が、はるかに優先している。たとえば、学校教育の例をとってみて
も、宗教の別を現実の施設内ではある程度は容認しながら、しかも、教育の課目や授業内容に
おいては、宗教の違いによって影響される度合いは著しく低下してしまっている。私自身、国
立大学である。ヘナーレスⅡヒンドゥー大学の大学院でムスリム支配の通史を学んだが、個人的
にはヒンドゥー意識の強い教授であったにもかかわらず、講義内容そのものからは、イスラム
やムスリムに対してなんらの偏見も感じられなかった。この大学には、もちろん少数ではあっ
たが、ムスリムの学生も在籍していたのである。
南アジアに成立していった︿近代﹀のシステムとそれに基づく環境の改変は、かつて︿前近代﹀
のインド社会のヒンドゥーかムスリムかの差異がもたらした社会的意味を変えていく結果を導
いた。たしかに、そこには、全く違った、いわば逆の方向があり、かえって、宗教の別を目立
つものにしたり、ヒンドゥー・ムスリム両コミュニティーの対立を刺激し、新たな緊張関係を
導く問題もあった。しかし、全体として、十九世紀後半から一一十世紀にかけての南アジアの環
境の変化は、ヒンドゥーかムスリムかという信教の違いが意味する内容を著しく変えてしまっ
たことは事実である。そして、これらの環境の変化は、宗教の別ばかりでなく、カーストⅢヴ
ァルナ制のもとで存続してきた階層別の社会関係や身分意識をも切り崩す役割を果している。
本節で、宗教の違いに関して述べてきたおおよそのことがらは、そのまま、今日のヒンドゥー
社会におけるカースト関係についても当てはまると思われる。この種の変化については、私た
ちはもっと注目する必要がある。と同時に、その変化を、近代西欧のシステムの導入の結果に
のみ帰したり、イギリス支配がもたらしたく恩恵﹀の如くに説くのは間違っている。くり返して
いうが、前近代の社会にあっても、宗教の差異がそれほど大きな問題とはならず、ヒンドゥー・
ムスリム両要素が共存し、融合していた面があったことを忘れてはならないと思う。
Ⅸ宗教の違いを超えるもの

最後に、むしろ二十世紀後半の今日の課題に連なる点だが、︿世代﹀の問題について触れてお
きたい。今日、世界のどの宗教でも、︿世代﹀の意味するものは切実な問題を示している。青年
のあいだで信仰心が薄れつつある事実は、諸宗教を通じて、ほぼ世界的な傾向となっている。
げんぜりやく
また、壮年に達した人たちの信仰が、病気平癒も含めて、いわゆる︿現世利益﹀的な目的意識に
偏しているといった傾向も指摘できるかもしれない。

209
南アジアにおけるヒンドゥー・ムスリム両コミュニティーについても、一般的には、その傾
向は当てはまるように思われる。私が知っていたヒンドゥーの学生をその両親や祖父母たちと

210
くらべてみると、一般的には、ヒンドゥr教に対する信仰心はかなり薄弱になっている感じを
受ける。事実、家庭における祭祁の行事でも、いわゆる︿お義理で﹀︿仕方なしに﹀つき合うとい
った青年も何人かいたし、寺院へ行くのも一年に数えるほどと肩をすくめる学生もいた。同じ
ことは、私の知っているムスリムの青年や学生についても、ほぼ、いえそうである。金曜日の
モスクでの礼拝をさぼるものは、大都会のインテリや学生の間ではそれほど珍しいことではな
いという印象を私は抱いている。もっとも、一見する限りでは、それに逆行する経験もあった。
私自身、かつてベナーレス大学で年末試験を受けたことがあるが、︿知恵の主﹀ともいわれる猿
神ハヌマーンを祁った近くのヒンドゥー寺院では、大学院生が、合格を祈念するために長い列
をつくっていた。もっとも、この辺になると、︿信仰心﹀というよりは、入試合格を祈願するわ
が国の受験生諸君や親たちと同じ心情に発するものというべきであろう。
実際には、宗教が青年の気持をひきつけなくなったという点は、必ずしも今日の問題だけで
はなかったかもしれない。純真な少年や青年が、ひたむきな信仰心を意識することはしばしば
あるし、今日でも、熱心なヒンドゥーやムスリムの青年や学生は多い。しかし、南アジアにお
ける現代の状況は、全体の傾向としては、宗教信仰の問題が若い世代の心から離れていく傾向
を示しているように、私には感じられるのである。

現代と宗教

ニューデリー市の中心部
212
1宗教と民族・民衆
およそ古代や中世に興った宗教で、その当初の時期の信仰の内容や形式をそのまま留めて今
日に及ぶということは、実際には難しいことだ。その間の歴史的条件の変化に応じて、変容・
改革を経験するのがふつうだからである。ヒンドゥー教に関しては、その三千年近い歴史のな
かで、それほど変っていないという人もいる。どこに焦点を定めるかがもちろん問題だが、そ
うした考え方は必ずしも正しいとはいえないと思う。本書で述べてきたように、ヒンドゥー教
の思想内容と形式あるいは信徒の社会関係や身分意識も、歴史の経過とともにかなりの変容を
経てきたといえると思う。このことはイスラムについても同じであろう。
私が本書でとくに注目してきた一つの問題点は、南アジアにおけるヒンドゥー教とイスラム
教の展開とそこに窺える変化の内容と、民族の問題との関わりである。﹁ヴェーダ﹂の宗教、す
なわち最も初期のヒンドゥー教の成立がアーリャ人によるものであったことはまぎれもない事
実である。しかし、その後にヒンドゥー教が各地に拡がっていった過程で、非アーリヤ系民族
の宗教信仰に見られた諸要素を吸収していった結果、南アジアにおけるさまざまな民族的要素
の混清・融合の結果としての複合的な性格を強めていった点を、私はとくに強調してきた。そ
のことは、もともと北インドをその成立と展開の主要な舞台としてきたヒンドゥー教およびヒ
ンドゥー文化が、古代の末期から中世にかけて、南インドにおいて著しい発展を遂げてきたと
いう歴史的事実にもあらわれている。
十一一世紀以降、南アジアにもイスラムが入ってき、定着していった。そこでも、西アジアや
中央アジア・アフガニスタンその他の地域から来た諸民族とインド在来の諸民族との交渉が、
イスラムの思想内容や文化の面ばかりか、ムスリムの社会・政治の全面に微妙な影響を与えて
いった。この場合にも、南アジアにおけるイスラムを、西アジアに起源を持ち異民族によって
持ち込まれたく外来宗教﹀だとはいい切れないほどに、南アジア独自の諸要素が混入している事
実を見逃すことはできないのである。インド亜大陸におけるイスラムは、︿西アジアのイスラ
ム﹀︿イスラムのイスラム﹀ではなく、いわば︿南アジアのイスラム﹀という性格を具えている面
に、少なくとも一度は注目しておく必要があると思う。
要するに、南アジアのヒンドゥー教とイスラム教について考える場合には、この亜大陸の歴
X現代と宗教
史に見られた民族構成、それも西アジアや北アフリカおよび中央アジア、アフガーースタン等の
諸民族をも含めたアジアの広範・複雑な民族の動向と民族構成の変化とを背景にした広い歴史

213
認識をもって見る必要がある。少なくとも、ヒンドゥー教を、︿インド人だけの宗教﹀というほ
どの単純な意味で﹁民族宗教﹂と呼ぶのは、仮に東南アジアへの過去における伝播の問題は一

214
応措くとしても、南アジアの民族構成の歴史的意味を忘れた狭い解釈に終ってしまうおそれは
ないかと考える。多様な民族的要素の融合・共存という南アジアの歴史の特徴のなかで、変化
に対応する視点を踏まえつつ、この二つの宗教の問題を考えていくことが肝要であると思う。
本書で私が強調したかったもう一つの点は、教義の上部構造としての宗教内容の面ばかりで
なく、民衆が実際にその生活のなかで受け容れてきた信仰内容にも注意を向ける必要があると
いうことである。本書を書くに当って、私は、過去において豊かな成果を生み出してきたヒン
ドゥーやイスラムの宗教思想そのものや、神学・哲学あるいは法学体系の内容に触れ、紹介す
ることに、それほど熱心ではなかったことを認めざるを得ない。そのことは、私の浅学のため
という理由もさることながら、それらの分野では日本語で書かれたすぐれた文献・著書が数多
くあるし、難解な思想内容を平易に紹介することは門外漢の私にとって適した仕事ではないと
思ったことにもよる。しかし、それにもまして、いわゆる思想と教義の上部構造よりは、どち
らかといえば、歴史のなかでもこれまで比較的触れられなかった民衆の信仰のあり方について
多少なりとも言及し、たとえ推論によらざるを得ないにもせよ、一応、問題のあるところを指
摘しておきたかったからでもある。
このようにして、いわば民衆の社会における宗教のあり方に目を注ぐ場合、私は、とくに一
っのことを思い知らされた。それは、ヒンドゥー教とイスラム教とが、その性格を著しく異に
する事実、とりわけ教義の内容や、儀礼・慣習の面、あるいは社会関係や倫理意識などにおい
て著しい違いを示しているにもかかわらず、民衆の生活の現実の場においては、その信仰の内
容や形式において、しばしば共通する、あるいは相互に似通う面を多々そなえているという事
実である。それは人間の素朴な宗教的心情が本来持つ共通性に根ざすものであるが、同時に南
アジアの民衆の生活のなかに、宗教の違いを超える面でのさまざまな歴史的条件がそなわって
いたという事実によるものでもある、私は、本書で、そうした側面に一つの焦点を当ててみた
いと思った。とりわけ、民衆の信仰と関わりの多かった神秘主義のあり方に重点を置いたのも
そのためである。
南アジアに見られたさまざまな歴史的条件は、逆に、この性格を異にした両宗教をたがいに
接近させ、それぞれの宗教内容や形式を変化させるという役割さえ果してきた。本書のなかで、
シンクレティズムの問題としてとり上げてみたさまざまな現象は、思想の上部構造におけるよ
りは、むしろ民衆生活のなかでの宗教信仰のあり方に注目するときに、一層よく、その問題の
X現代と宗教
本質を探り当てることができるように思えるのである。
すでに触れたように、従来の歴史認識にもかかわらず、南アジアの社会は、決して︿停滞﹀し

215
︿遅れた﹀ままの生活をつづけてきたのではなく、そこには、さまざまな自生的なく変化﹀と︵発
展﹀の契機があった。とりわけ、農村や都市の民衆のなかにそうした動きが見られたことを指

216
摘する見解もあらわれてきた。本書ではほとんど触れられなかったが、︵停滞﹀の一つの要因と
見られてきた宗教のあり方や、それと関わる社会関係や身分意識に見られる︿変化﹀の問題に焦
点を当てていくことも、今後の課題の一つの重要なポイントではないかと思う。
2﹁分離独立﹂と﹁宗教戦争﹂
一九四七年の八月の十四日と翌十五日に、パキスタン国とインド国とが、それぞれ、独立を
した。パキスタンは、インド共和国をあいだに挟んで東西二つの領域を併せ持つという、世界
史にも稀な形態を持つ独立共和国であったが、一九七○年の騒乱を経て、旧東パキスタンの住
民が、バングラⅡデーシュとして独立したことは、周知のとおりである。
この一九四七年のインド共和国とパキスタンのいわゆる﹁分離独立﹂について、日本では、
ヒンドゥー教徒はインド共和国へ、イスラム教徒はすべてパキスタンへ移住したものとして、
宗教別による国造りが行なわれたというふうに理解している人が、予想以上に多い。
本書の初めに記したように、インド国には、人口の一割を越す数の、つまり、今日なお六千
万近いインド共和国国民であるムスリムがいるし、バングラⅢデーシュと分れる前のパキスタ
ンには、東西両州を併せて、やはり一割を越す数の、パキスタン国籍を持つヒンドゥー教徒が
いたのである。そうした事実になると、日本ではほとんど知られていないのである。十万・百
万単位の人口の移動は容易なことではない。︿インド共和国はヒンドゥi教、パキスタンはイ
スラム教﹀といった図式で割り切ってしまえるほど、問題は簡単ではない。
インド亜大陸の民族独立の願いが、庭大な人口の移動や流血の惨事をともないつつ、インド
共和国とパキスタン両国とに分離したかたちではじめて達成し得たという事実の背景および根
底に、やはりヒンドゥー教とイスラム教という宗教の問題があったことは、否定できない事実
である。だからといって、インド共和国とパキスタン国との﹁分離独立﹂が、イスラム教とヒ
ンドゥー教との︿宿命的な対立﹀の結果、つまり両宗教の違いとその対立関係に起因するものだ
と即断するのは、宗教そのものと、社会・国家などとの関係を単純に割り切ってしまうもので、
明らかに軽率な認識だというべきであろう。本書を読んでくださった方々には、そのあたりを
理解していただければ幸いだと思う。
宗教の違いを起点としてヒンドゥーとムスリムのコミュニティーが成立し、インド亜大陸の
X現代と宗教
各地で、それぞれ別個な集団として、ときには別個の動き方をする。そして、その間に対立関
係が見られたことは、既述のとおりである。しかし、こうしたヒンドゥー・ムスリム両者の対

217
立関係は、宗教の違いそのものが、そのまま、両者のコミュニティーの対立を生んだのではな
い。共存しつつ、一応、別個のコミュニティーを形成してきたヒンドゥー・ムスリム両集団の

218
一部が、社会・経済あるいは政治の諸面におけるさまざまな要因によって緊張・対立関係に置
かれたという点を、もっと注意して見るべきであろう。その際に無視できないのは、これらの
両コミュニティーと直接・間接に関わりを持っていた支配層や権力者の動向である。また、十
八世紀以降になると、イギリス支配の下で、両集団の分裂・対立を計る政策的意図を含めての
さまざまな要因が新たに両集団の対立関係を激化させることとなったことも、すでに触れたと
おりである。また、前章で述べたように、近代のさまざまな環境は、宗教の違いがかつて意味
した切実さをも背景に押しやってしまった。しかしその反面で、新しい近代的要因のなかには、
かえって宗教の別を前面に押し出し、宗教集団の対立関係を助長する方向に動くものもあった
のである。十九・二十世紀の宗教の問題は、こうした多角的な側面から考えられる必要がある。
このように見てみると、ヒンドゥーとムスリムの、いわゆるコミュナルな対立関係は、宗教
そのものの性格の違いに根ざすものがあったにせよ、現実の社会や政治の場では、むしろ、世
俗的、非宗教的な面で見られた集団間のさまざまな利害関係に起因するものであり、それらに
よって促進されるところが多かったといえるのである。︿印パ紛争×印パ戦争﹀などと呼びなら
されてきたところの、係争の地カシミールやその他の諸地域に見られた紛争や戦争状態は、し
ばしば︿宗教戦争﹀という名で呼ばれ、ジャーナリズムも、好んでそうしたレッテルを貼ってき
た。この同じ言葉が、いわゆるイスラエル戦争や、ユダヤ人とアラブ諸民族とをめぐるさまざ
まな抗争に用いられ、そこでも︿ユダヤ教とイスラム教﹀の対立に還元され、これまた︿宿命的﹀
という形容詞つきで呼ばれてきたのは周知のことがらである。また、アイルランドにおけるカ
トリック系市民とプロテスタント系市民の争いにも、︿宿命的な宗教対立﹀乃至は︿宗教戦争﹀と
いった表現が、これまでもたびたび使われてきた。
ジャーナリズムが好む刺激や誇張のための表現と受けとれば、文句はないかもしれない。し
かし、︿宗教戦争﹀というレッテルを貼り、そのうえに︿宿命的﹀という形容句までつけるのは、
対立関係の真の事実と内容、あるいはその背景や基盤にある社会的・経済的・政治的要因を把
握するのを妨げる役割を果すものとはいえないだろうか。南アジアでも、︿宿命的な印パ抗争﹀
、、 、、
はそのまま︿宿命的なヒンドゥー教徒とイスラム教徒の抗争﹀となり、それは、やがて︿宿命的な
ヒンドゥー教とイスラム教の対立﹀に飛躍し、ついにはく宗教戦争﹀というレッテルが貼られる
、 、
︵傍点は筆者︶。歴史を学ぶものとしては、この間のけじめをはっきりつけたいと思う。それは、
アジアの社会の︿停滞﹀だけを強調する歴史認識とも相通じるものである。本書執筆の一つの意
X現代と宗教
図もそこのところを明らかにしたいという点にあった。
かつて、ダッカでの緊張が伝えられた夜、たまたま、インド国から来た友人とタクシーに乗

219
った。運転手が、友人を意識しながら私に質問してきた。﹁バングラもパキスタンも同じ回教
徒だというのにねえ。だのに、どうしてヒンズーのインドが.ハングラに味方するんです。﹂バン

220
グラ川デーシュをめぐる紛争の間、同じような質問を、私は、何度となしに聞かされた。
3﹁世俗国家﹂と﹁宗教国家﹂
この書物を終るに当って、簡単ながら、現代の国家と宗教の問題とに触れておきたいと思う。
分離独立後、パキスタンは、憲法を制定するに当って、国家の公式な名称として﹁パキスタン川
イスラム共和国﹂国四目、詞8厘go○︻毎画の国目を採用した。・ハキスタンでは、その後の憲法
改正乃至は新憲法公布に当って、この国名の初めにつける﹁イスラム﹂国四目oの形容を外すべ
きか残すべきかという点をめぐって、真剣な論議が交されたという。しかし、結局、今日まで
﹁イスラム共和国﹂という名称は変えられていない。
この問題は、単に公式の国名をどうすべきかというだけの単純な問題ではない。﹁イスラム
共和国﹂どはなにか。そもそも、現代における﹁イスラム国家﹂[の一画目、の国房とは如何なる国
家体制をいうのか。こうした問題は、パキスタン国の独立前後に、憲法の条文上の問題として
ばかりでなく、パキスタンの政界、法曹界あるいは学界で、さまざまな論議を呼んできたいわ
ば懸案ともいうべき問題であった。﹁イスラム﹂堕四目、という形容詞をつけた共和国において、
近代国家の統治の原則とイスラムの宗教とは、一体、どのような関わりを持つ。へきものなので
プレアンプル
あろうか。現に、いずれの時点においてもその﹁前文﹂に﹁信教の自由﹂を明記してきた同じ.
●ハキスタン憲法の条項と矛盾するところはないのであろうか。この問題は、今日なお、パキス
タンで論議の対象となっている。私自身、この問題について、ここで簡単に結論を述べる資格
はない。﹁慈悲深く、慈愛あまねきアッラーの御名において﹂という文言で始まる﹁パキスタ
ンⅢイスラム共和国憲法﹂を持ち、﹁イスラム共和国﹂を称する近代国家としてのパキスタンが、
司法・行政・立法の三権分立の体制のなかで、非ムスリムの国民を差別し、抑圧してきたとい
った証左はないようである。
インド共和国の憲法も、明らかに﹁信教の自由﹂を謡っているが、その政策の基本原則にお
いて︿世俗国家﹀の①2−胃の冨蔚たることを、ことごとに示している。ヒンドゥー教徒が全人口
の八割を越すこの国において、憲法のうえでは、他の諸宗教の信徒にくらべて、ヒンドゥー教
徒を優位に置く条項はどこにも見当らない。この点、インド共和国憲法は、まさに︵世俗国家﹀
たるにふさわしい内容を備えている。
X現代と宗教
しかし、現実面では、インド共和国政府は、絶対多数の人口を占めるヒンドゥー教徒の国民
のなかで、いわゆるマイノリティーⅢグループであるムスリムやキリスト教徒その他の諸宗教

221
の信徒たちの利害関係の保全とその調整に、つねに意を用いなければならない。独立後三十年
間に、国家の元首である大統領を再度にわたってムスリム社会の指導者のなかから選んできた

222
ことは、︿世俗国家﹀を称するインド共和国の基本的政治姿勢を象徴的に示すものとして、さま
ざまな問題を含んでいる。
ところで、南アジアのムスリムにとっての一つの大きな問題は、その同じイスラムの信徒が
人口の圧倒的多数を占める国を、アジアの他の諸地域に持っているという事実である。東南ア
ジアだけでも、インドネシア共和国およびマレーシア連邦とでは、その人口の絶対多数がムス
リムであり、西アジアやアフリカにも、多数のいわゆる︿イスラム教国﹀が存在する。イスラム
は、唯一神アッラーのもとにその信徒の連帯を強調し、すべてのムスリムが、その民族や人種
の違いを超越して、同じ同胞としての連帯感を強めるべきことを教えてきた。しかし、歴史の
現実は、すでに中世において、ムスリム王権の間の対立・抗争を経験し、近代における状況も、
こうしたムスリムの︿連帯﹀が、必ずしもつねに、国家レヴェルにおける協調と団結とを意味し
ないことを示してきた。トルコ帝国がヨーロッパ列強によって攻撃の対象となったとき、国際
政治のうえで、いわゆる﹁・ハン川イスラミズム﹂観ロ︲房一画目のョの思潮が国家間の新しい連帯の
原理となるかに思えた時代はあった。しかし、こうしたイスラムを基軸とした国際的な協調の
思想も、近代国家が直面する他の諸条件のなかでは、必ずしもつねに強靭なものではないこと
を、現代の状況は示している。
一九七一年、絶対多数のヒンドゥー人口を抱えるインド共和国との協調関係のなかで、ムス
リム人口を絶対多数とする旧く東.ハキスタン﹀の人たちは、﹁イスラム共和国﹂であるパキスタン
から分れてバングラⅢデーシュを独立させた。その国の名の意味は︿ベンガル人の国﹀である。
この事実はきわめて深刻であり、本書の視点から見ても重要な問題を含んでいる。
南アジアでは、中世以降、さまざまな面でヒンドゥー・ムスリム両要素の共存と対立の様相
が見られた。本書で、私は、そのいくつかの側面と歴史的意味の一端を明らかにしようと努め
てきた。この広大な地域におけるヒンドゥー教とイスラム教、ヒンドゥー社会とムスリム社会
をめぐる問題は、現代政治の複雑な条件と思想文化の多彩な状況のなかで、今後どのような展
開を見せるか、注目に値するところといえよう。
X現代と宗教

223
南アジア史略年表

マラータ勢力の指導者シヴアージー(1630-1680)
1658-1707 ムガル六代皇帝オーラングゼーブの治世
1659 ムガル皇子ダーラー‐シコー,処刑される
1675 スィク教九代グルのテーグーパハードゥル,処刑される
同十代グルーゴーヴインドースイング(1666-1708)
1724 アワド・ノ、イデラーパード,ムガル体制より事実上独立
シャー‐ワリーウッラー(1703-1762)
1739 ペルシアのナーディルーシャーの軍,デリーに侵入
1740-1761 マラータのペーシュワー‐パージー‐ラーオの治世
1744-1763 この間,三回にわたるカーナティック戦争
1757 プラッスィーの戦,イギリス,インド東部で覇権
1761 アフマドーシャ−,マラータ・ムガル連合軍を破る
1765 イギリス,ベンガル・ピハール・オリッサの諸地方でデ
ィーワーニー[租税徴収権]を獲得
1767-1799 この間,四回にわたるマイソール戦争
1775-1819 この間,三回にわたるマラータ戦争
1793 ペンガルで,永代ザミーンダーリ−定祖制が施行される
ラームーモーハンーローイ(1774?-1833)
1828 R−M‐ローイ,プラーフマーサマージを設立
アフマドーパレルヴィー(1786-1831)
1845-1849 この間,二回にわたるスィク戦争.イギリス側,パンジ
ャープを併合(1849)
スワミーダヤーナンダーサラスワティー(1824-1883)
ラーマクリシュナーパラマハンサ(1836-1886)
サイイドーアフマドーハーン(1817-1898)
1853 ポンペイ・ターナ間に,南アジア最初の鉄道が開通
1857 「セポイの反乱」おこる(-1858)
1858 ムガル帝国滅亡.十七代パハードゥルーシャー廃位
1877 ヴィクトリア女王,『インド女皇」を称す.名実ともに
「インド帝国」が成立
鴎砺妬
81

インド国民会議,第一回大会を開く
91

ベンガル分割法.国民会議派,自治などを決議
全インドームスリム連盟の設立
モーハンダース−K‐ガーンデイー(1869-1948)
1947 インド国とパキスタンの独立
1971 パングラーデーシュの独立


南アジア史略年表

B、C、2500-1500 インダス文明
1500-1300 アーリヤ人集団,西北インドへ侵入
1000−800 アーリヤ人集団,ガンガー中流域へ進出
1000ころ 「リグーヴェーダ」成立
500ころ マガダ国,ガンガー中流域の諸国家を統合
ブッダ(B、C、463-383)<B、C,566-486他の異説あり〉
317ころ マウリヤ朝始まる(B、C、18Oこる滅亡)
B、C、200 この間に「マハーパーラタ」『ラーマーヤナ』が成立
−A.D、200ころ (A、D、400ニらにほぼ現形ができあがる)

「マヌ法典」成立
A,D、25ころ クシヤーナ朝興る(A、D、200二亀衰退)

20 グプタ朝始まる(560ニら滅亡)
606−647 ハルシャーヴァルダナの治世
シヤンカラ(700ころ-750)<異説あり〉

12 ウマイヤ朝下のアラブ軍,スィンド地方へ侵入
846ころ 南インドのチョーラ朝(-1279)
976-1186 ガズナ朝の支配.マフムードの治世(998-1030)
1148-1206 ゴール朝の支配.ムハンマドの治世(1174-1206)
ラーマーヌジャ(1050?-1137?),マドウヴア(1197-1276)
'206-1526 デリー‐サルタナット五王朝の支配
1398 ティームール軍,西北インドへ侵入
1498 ヴァスコーダーガマの船隊,カリカットに来航
カピール(1440-1518)<異説あり,生没年不明確〉
ヴァッラパ(1479?-1531)
スイク教教祖ナーナク(1469-1538?)
1526 ムガル初代皇帝パープル,デリーを占領.ムガル帝国の
支配始まる(1858年滅亡)
1556-1605 ムガル三代皇帝アクパルの治世
1600 イギリス東インド会社設立
1602 オランダ東インド会社設立
1605-1627 ムガル四代皇帝ジャハーンギールの治世
1628-1658 ムガル五代皇帝シャー‐ジャハーンの治世


荒松雄
1921年東京に生まれる
1944年東京帝国大学文学部東洋史学科卒業
専攻一南アジア史
現在−東京大学名誉教授
著書一「現代インドの社会と政治」
厚サ2創△為王朝時代の建造物
の研究」(三巻・共著)
「インド史におけるイスラム聖廟」
「インドとまじわる」
「わが内なるインド」
「中世インドの権力と宗教」
「青春・さもなくぱ森」
「多重都市デリー」

ヒンドゥー教とイスラム教
定価はカパーに表示してあります 岩波新書(黄版)8

1977年5月20日第1刷発行。
1995年5月8日第28刷発行
あらまつお

著者荒松雄
発行者安江良介

発行所株式会社岩波書店
〒101-02東京都千代田区一ツ橋2-5-5

電話案内03-5210-4000営業部03-5210-4111
新書編集部03-5210-4054

印刷・三秀舎カバー・半七印刷製本・田中製本

lSBN4-00-420008-3PrintedinJapan
岩波新書新版の発足に際して
岩波新書の創刊は、一九三八年十一月であった。その前年、すでに日中戦争が開始され、日本軍部は中国大陸に侵攻し、国内もまた
国粋主義による言論統制が日ましに厳しさを加えていた。新書創刊の志は、もとより、この時流に抗し、偽りなき現実認識、冷静な科
学精神を普及し、世界的視野に立つ自主的判断の資を国民に提供することにあった。発刊の辞は、﹁今葱に現代人の現代的教養を目的
として岩波新書を刊行する﹂とその意を述ぺている。一九四四年、苛烈な戦時下にあって、岩波新書は刊行点数九八点をもって中絶の
やむなきにいたり、越えて四六年、三点を発行したのを最後に赤版新書は終結した。
一九四五年八月、戦争は終った。日本の民衆が、敗戦による厳しい現実を見据え、新たな民主主義社会を築き上げてゆくためには、
自主的精神の確立一︶そ一層欠くぺからざる要件であった。出版という営みを通じて学術と社会に尽すことを念願とした創業者の遺志を
継承し、戦時下の岩波新書創刊の趣意を改めて戦後社会に発展させることを意図して、一九四九年四月、岩波新書は、装を新たにして
再発足した。﹁現代人の現代的教養﹂という辞は、一一の青版新書において、以前にもまして積極的な意味を賦与された。幸いに博く読
者に迎えられ、本年四月、ついに青版新書は刊行総点数一千点を数えるに至った。創刊以来四十年の歳月を通じて、多数の執筆者が擢
力を害しまれず、広汎な層に及ぶ読者の支持を得た結果である。
戦後はすでに終罵を見た。一九七○年代も半ばを経過し、われわれを囲鏡する現実社会は混迷を深め、内外にかつて見ない激しい変
動が相ついでいる。科学・技術の発展は、文明の意味を根本的に問い直すことを要請し、近代を形成してきた諸fの概念は新たな検討
を迫られ、世界的規模を以て、時代転換の胎動は各方面に顕在化している。しかも、今日にみる価値観は、余りに多閣的であり、多元
的であるが故に、人類が長い歴史を通じて追究してきた共通の目標をすら見失わせようとしている。
この機において、岩波新書は、創刊以来の基本的方針を堅持しつつ、ここに、再び装いを改めて、新たな出発をはかる。二十世紀の
、、
残された年月に生き、さらに吹の世紀への展望をきりひらく努力を惜しまぬ真撃な人左に伍して、現代に生きる文字通りの新書として、
その機能を自らに課することを念願しつつ、︾一の新たな歩みは始まる。
赤版・青版の時代を通じて、この叢書を貫いてきたものは、批判的精神の持続であり、人間性に第一義をおく視座の設定であった。
いま、新版の発足に当り、今日の状況下にあってわれわれはその自覚を深め、人間の基本的権利の伸張、社会的平等と正義の実現、平
和的社会の建設、国際的視野に立つ豊かな文化創造等、現代の人間が直面する諸課題に関わり、広く時代の要請に応えることを期する。
読者諸賢の御支持を願ってやまない。︵一九七七年五月︶

You might also like