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第一章 序 論
一 対象と方法
唯s 識比量について
s

本書は︑論理と歴史との共生的な関係を考察しようとするものである︒その対象となるのは︑三蔵法師として有名
ゆいしきひりょう
な玄奘 (六〇二~六六四(がインドで説いたとされる︑
﹁唯識比量﹂という名でしばしば呼ばれる論理式である︒厳密に
言えば︑唯識比量そのものというよりも︑それを伝承し解釈し続けた東アジアの人々の書き残したものが対象となる︒
周知の通り玄奘は︑自らの著作らしい著作を残していない︒有名な﹃大唐西域記﹄が著作と言えるかもしれないが︑
みことのり
﹂とある一方︑撰者名としては﹁大
興味深いことにそこには﹁三蔵法師玄奘奉 詔訳 (三蔵法師玄奘が︑ 詔 を奉って訳す(
べん き
総持寺沙門 弁機撰﹂と記されており︑玄奘を著者と言うにはやや微妙な書かれ方である (近代的な著者概念をあえて適
︒いずれにせよ︑玄奘の発言や学説として伝わっているものは︑弟子たちによる伝承として残され
用すれば︑であるが(

論理と歴史1,2章.indd 3
︒しかし︑それは玄奘
たものであり︑唯識比量もまた本当に玄奘本人が立てたものなのかはわからない (第二章参照(

3
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の真説として現在にいたるまで信じられ︑後世の学僧たちはそこから玄奘の﹁真意﹂を読み取らんとして多くの議論

4
を重ねたのである︒
かいにちおう
唯識比量とは︑インド留学中の玄奘が︑戒日王 (シーラディティヤ︑あるいはハルシャ・ヴァルダナ(主催の大規模な法会
( (
において︑王の依頼を受けて唯識無境 (あらゆる認識対象は認識作用から独立して存在しない︑という主張(を証明するために

立てたとされる︑次のような論理式である︒本書では原則として引用を現代語訳で行なっているが︑これからの論述
において原文の知識を前提とするところもあるので︑ここでは原文も含めて引用しておきたい︒
真故極成色不離於眼識 宗
自許初三摂眼所不摂故 因
( (
猶如眼識 喩

ごくじょう しき
︻現代語訳︼ 真理においては (真故(
︑立論者・対論者のあいだで承認された (極成(色や形 (色(は︑眼の認識作
げんしき しゅう
用 (眼識(を離れて存在しない︒
︿主張 (宗(

なぜなら︑私が承認しているところによれば (自許(
︑︹立論者・対論者のあいだで承認された色や形は︑十八界の︺最初の
げんこん
三つ ︹=眼の器官(眼根(・色や形(色(・眼の認識作用(眼識(︺には摂められるが︑眼には摂められないからである︒
︿理

由 (因(
たとえば眼の認識作用 (眼識(のように︒
︿喩例 (喩(

唯識比量の詳細な内容については第二章以降で検討することになるが︑伝承によればこの法会に参加していた他の

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仏僧や仏教外の論客のなかに︑玄奘のこの主張を論破できる者はいなかったとされる︒
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き いん みょう にっ しょ うり ろん しょ
唯識比量の伝承は︑玄奘の弟子である慈恩大師基 (六三二~六八二(の﹃因明 入正理論疏﹄で紹介されているのが︑
現在知られているなかでは恐らく初出である︒
﹃因明入正理論疏﹄は︑その名の通り﹃因明入正理論﹄という論理学の
書に対する註釈書 (疏(である︒﹃因明入正理論﹄と﹃因明入正理論疏﹄は︑東アジアにおける因明学 (仏教論理学(の
いんみょうだいしょ
根本となる文献であり︑特に後者はしばしば﹃因明 大疏﹄と呼ばれ尊重されてきた︒
( ( じんな
(とは︑インドで発展した論理学の一種であり︑特にディグナーガ ( Dignāga
因明 ( hetuvidyā


・陳那︑四八〇~五三〇頃
いんみょうしょうりもんろん
か(が大成し︑玄奘訳の﹃因明 正理門論﹄
﹃因明入正理論﹄などによって東アジアへと伝えられたものを指す︒因明
が玄奘によって伝えられると︑玄奘門下のみならず︑律・三論・天台・浄土などの各学派においても盛んに研究され
るとともに︑様々な批判的な議論をも呼び起こした︒
唯識比量もまた︑推論式として不完全ではないか︑という疑義が早い段階から指摘されたが︑一方で当時の中国仏
教界最大の人物の一人である玄奘が仏教の本場であるインドにおいて立てたものである︑と紹介されたこともあって︑
玄奘の弟子たちによって擁護されるなど︑賛否双方を含む多くの論点が提出された︒そのような議論の輪のなかには︑
朝鮮半島 (新羅(出身の学僧たちも少なからず含まれていたし︑またほぼ同時期に遣唐使等によって古代の日本にも
伝えられ研究が蓄積されたため︑東アジア全域での議論に発展した︒議論の伝播は︑中国↓朝鮮半島︑中国↓日本︑
(1(﹁識﹂を﹁認識作用﹂という心理学的な用語で訳してよいのか︑という点について︑筆者は疑問を持っている(師茂樹 (が︑
((((


本研究ではそのような理解に立っている資料を扱うので︑その点については論じない︒
(2( 基﹃因明入正理論疏﹄( T((, (((b
(など︒


(3( 本論文では︑研究史や現在の学界の通例に従って﹁仏教論理学 ﹂や﹁論理学的~﹂という言い方をしているが︑
Buddhist logic

第一章
論理学 という用語は︑厳密にはアリストテレスなどに由来しヨーロッパを中心に発達した(西洋(論理学を指すのであって︑
logic
そ れ 以 外 の 推 論 や 論 証 の た め の 体 系 に 対 し て﹁論 理 学﹂と い う 術 語 を 用 い る べ き で は な い︑と い う 意 見 も あ り う る︒谷 澤 淳 三

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0 0 0
( ((((
(は﹁一般に﹁インド論理学﹂と総称されているものは︑実は︑インドにおける︑真なる結論を導きだす論証( argument

の学なのである﹂とし︑前提が真かどうかなど︑論理学( logic
(の範囲を超えている部分があると指摘する︒

5
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朝鮮半島↓日本という流れがやはり多いものの︑朝鮮半島↓中国︑日本↓中国という流れもあり︑相互交流的なもの

6
であった︒また︑単なる因明や唯識に関わる問題ではなく︑仏性論争などの幅広い議論へと接続するものであった︒
唐や新羅以降の中国・朝鮮半島では︑因明研究の主な担い手であった法相宗の衰退とともに唯識比量研究を含む因
明研究も衰微していったが︑日本においては中世まで法相宗の興福寺が大きな勢力を誇っていたため︑南都仏教を中
ほ ご え
心に因明についても重要な研究が数多く積み重ねられてきた︒現在でも︑東大寺の方広会などで因明に関する論義が
行なわれている︒また︑唐からは断絶があるものの︑宋代以降の中国においても因明研究が行なわれ︑唯識比量に関
するものを含めていくつか著作が残されている︒もっとも︑東アジアにおける文化交渉という視点から考えると︑前
近代における因明研究は︑玄奘帰国直後の期間 (唐・新羅・奈良時代~平安時代初期(以外は各地域間での活発な交流があ
ったとは言いがたい︒
因明が再び︑東アジアにおいて様々な文化的な交渉を生み出すようになったのは︑近代以降である︒明治維新を経
た日本において急速な西洋化が行なわれるなかで︑江戸時代まで継続してきた因明もまた欧米で発達した論理学と出
( (
会い︑そこで新たな議論が発生した︒一方で︑因明を含めた東アジアの唯識教学が︑清末民初の中国において西洋近


( (
代科学に匹敵︑もしくはそれを超越するものとして再発見︑再評価されると︑江戸時代までの文献や研究の蓄積があ


り︑中国に先行して西洋の論理学と接触していた日本の仏教界︑哲学界との交流も始まった︒同時期にヨーロッパか
らサンスクリット・チベット文献を中心としたインド学・仏教学が伝わると︑日本における因明学は衰退していった
が︑上記のような背景がある中国では因明の研究が活発に行なわれており︑欧米や日本のインド学・仏教学とは異な
る独自の展開をみせている︒そして︑唯識比量もまた︑そのようなナショナリズムや西洋近代との交渉などがからみ
あう思想史的な文脈のなかで︑前近代とはまた異なった形で賛否両論の議論を呼び起こしている︒
近年︑東アジアの因明学の価値が再評価され︑国際的な研究交流が盛んとなってきた︒中国・台湾・韓国といった

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東アジアの研究者だけでなく︑むしろ欧米の研究者が中心となって国際シンポジウムなどが開催されている︒これら
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の新しい場でも唯識比量の妥当性に関して議論されているが︑どのように解釈すべきなのかについては未だ決着がつ
いているとは言いがたい︒唐代に﹃因明入正理論疏﹄で発表されて以来︑現在にいたるまで論争が続いているのであ
る︒言うまでもなく本書も︑その流れの末端に属している︒
本書では︑玄奘帰国直後の唐から平安時代初期の日本までという時代の東アジアにおいて︑唯識比量がどのように
受容され︑議論が展開していったかについて検討する︒
仏s 教論理学は仏教なのか
s

ところで︑先にも述べたように︑因明とはインドを源流とし東アジアで発展した論理学の一種であり︑しばしば現
代語として﹁仏教論理学﹂という術語が用いられる︒
﹁仏教﹂という名を冠する仏教論理学については︑しばしばそれ
が仏教的であるのかどうかが問われてきた︒
東アジアに本格的に因明=仏教論理学を輸入したのは玄奘であるが︑﹃大唐西域記﹄巻十ではディグナーガの伝承
として次のような話を載せている︒
所行羅漢の伽藍を西南に行くこと二十余里で︑孤山にいたる︒その山の嶺に石のストゥーパがある︒ディグナー
ガ (唐の言葉では授という(菩薩が︑ここで因明の論書を作られたのである︒︙︙因明の論は︑言辞は深淵で理論は


広汎︑学者が無駄な努力を重ねても身につけることが難しいものである︒そこで ︹ディグナーガは︺深山幽谷に足


第一章
(4( 厳密に言えば因明は︑唯識思想だけでなく仏教からも独立したものであるが︑因明を大成したディグナーガや︑それを東アジア
にもたらした玄奘らが唯識派であったために︑その研究を東アジアで継承してきたのも玄奘の弟子たち(日本では法相宗(が中心

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であった︒したがって︑因明はしばしば唯識の隣接分野として扱われている︒
(5( 葛兆光( (参照︒

7
((((
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跡を消し︑禅定に入って︑︹因明に関する書物を︺撰述することの利害について観想し︑文章や意味を詳細にするか

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簡潔にするかを審究していた︒そのときに崖や谷が震動して大きな音を立て︑雲は色を変えた︒山神が菩薩を捧
げ持ち︑高さ数百尺のところで次のようなことを述べた︒
﹁昔︑ブッダ世尊は︑すばらしい手段によって衆生を導き︑慈悲心を以て因明論をお説きになりました︒︙︙如来
が寂滅して︑大いなる理論が失われてしまいました︒今︑ディグナーガ菩薩はその福徳と智慧が悠遠で︑深く聖
なる教えに通達しております︒因明の教えは今の時代に再び広まるでしょう﹂

すると菩薩は大光明を放ち︑︹世の︺暗がりを照らした︒そのとき︑この国の王は深く尊敬の念を生じ︑この光明
を見て誰かが ︹阿羅漢になる直前の︺金剛喩定に入られたのではないかと疑った︒そこで ︹王は︺菩薩に再び輪廻の
世界に生まれない ︹という阿羅漢になる︺ことを要請した︒ディグナーガは言った︒
﹁私が瞑想 (定(に入って観察し
ているのは︑甚深なる経典を解釈したいと思っているからです︒︹大乗の︺真実の悟りを得ると決心しており︑阿
羅漢になることは願っておりません﹂︒王は言った︒
﹁阿羅漢になるのは︑多くの聖者の願いです︒︙︙願わくは
すみやかに ︹阿羅漢の︺悟りを得んことを﹂

ディグナーガはこのとき︑王の要請を心よく思い︑阿羅漢になろうかと思った︒しかしそのとき︑マンジュシュ
リー菩薩 (妙吉祥菩薩(がこのことを知って惜しく感じ︑注意を促そうとして弾指し︑これに気づいた ︹ディグナー
ガに次のように︺告げた︒
﹁惜しいことであるよ︒どうして広大な心を捨てて狭く劣った志を持つようになり︑︹自分さえ輪廻を脱すればよい︑
という︺独善的な気持ちになって ︹他の人々も︺いっしょに救おうという願いを捨てなさるのか︒すばらしい利益を
ゆ が し じ ろん
なそうと思うなら︑マイトレーヤ菩薩が著わされた﹃瑜伽師地論﹄を広め伝えれば︑後学を導きその利益は甚大
であろうに﹂︒

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ディグナーガ菩薩はその教誨を恭しく受け︑あちこちに出かけ︑深く研究して因明の教えを広めた︒それでも
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︹因明を︺学ぼうとする者がその説明が少なく省略が多い ︹ために理解できない︺ことを恐れて︑因明についての論書
( (
を作り︑後進を導いた︒それより後︑瑜伽唯識の教えを宣揚した︒ (
ここでは︑因明が仏教であることについての重要な論点がいくつか示されている︒まず一つ目の傍線にあるように︑
釈尊が因明を説いたと明確に述べられている︒またもう一つの傍線部にある﹁甚深なる経典﹂とは︑先の釈尊の説と
しての因明を指しているのであろう︒そして伝承の後半部では︑因明が大乗仏教の利他行と結びつけられている︒
ゆ がぎょうゆいしきは
﹃瑜伽師地論﹄は言うまでもなく大乗の一派である瑜伽行唯識派の論書であるが︑一方でディグナーガ以前に因明を
( ( かんしょえんねんろん
説いた書としても知られている︒ディグナーガもまた﹃観所縁縁論﹄などの著作も残している唯識派の論師であるが︑

ここでは唯識派を念頭に置いた大乗仏教と因明とが同一のパースペクティヴで論じられていると見たほうがよいだろ
う︒
( (
玄奘の弟子・基の﹃因明入正理論疏﹄の冒頭でも﹁因明は仏説のみを源とする﹂と明確に宣言されており︑右のデ


唐言菩薩於此作因明論︒︙︙因明之論︑言深理広︑学者虚功難以
(6(﹁所行羅漢伽藍西南行二十余里︑至孤山︒山嶺有石窣堵波︒陳那 授
成業︒仍匿迹幽巖︑拪神寂定︑観述作之利害︑審文義之繁約︒是時崖谷震響煙雲変釆︒山神捧菩薩︑高数百尺︑唱如是言﹁昔仏世
尊︑善権導物︑以慈悲心説因明論︒︙︙如来寂滅︑大義泯絶︒今者陳那菩薩福智悠遠︑深達聖旨︒因明之論︑重弘茲日﹂︒菩薩乃放


大光明︑照燭幽昧︒時此国王深生尊敬︑見此光明相疑入金剛定︒因請菩薩証無生果︒陳那曰﹁吾入定観察︑欲釈深経︒心期正覚︑非
願無生果也﹂︒王曰﹁無生之果︑衆聖欣仰︒︙︙願疾証之﹂︒陳那是時心悦王請︑方欲証受無学聖果︒時妙吉祥菩薩知而惜焉︑欲相


警誡︑乃弾指悟之而告曰﹁惜哉︒如何捨広大心為狭劣志︑従独善之懷棄兼濟之願︒欲為善利︑当広伝説慈氏菩薩所製瑜伽師地論︑

第一章
導誘後学為利甚大﹂︒陳那菩薩敬受指誨︑奉以周旋︑於是覃思沈研広因明論︒猶恐学者懼其文微辭約也︑乃挙其大義綜其微言︑作因
明論︑以導後進︒自茲已後宣暢瑜伽︒﹂( T((, (((b‒c
((傍線は引用者(︒

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(7( 宇井伯寿( ((((
(︑梶山雄一( ((((
(等参照︒
(8(﹁因明論者︑源唯仏説︒﹂( T((, ((c
(︒

9
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そくもく
ィグナーガの伝承がほぼそのまま引き写されている︒その一方で基自身が︑因明仏説論を述べた直後に﹁劫初の足目﹂

10
すなわちニヤーヤ学派の伝説的な開祖・アクシャパーダ (足目(について言及しているように︑実際には因明=仏教
論理学の淵源がニヤーヤ学派にあり︑仏教はむしろ後発である︑というのは︑すでに基の頃からゆるやかに共有され
( (
ていたのではないかと思われる︒

先学によってこれまで何度も論じられてきたように︑唯識派のディグナーガが画期的に進展させたことによって仏
教との結びつきが強くなったものの︑ディグナーガの論理学は︑その後仏教内外で広く利用されていくので︑仏教が
独占的な地位を保っていたわけではない︒ディグナーガ論理学の入門書として作られたシャンカラスヴァーミンの
﹃因明入正理論﹄のサンスクリット本が︑ジャイナ教徒の註釈とともに伝わっていることからも︑そのことはよくわ
かるであろう︒桂紹隆は﹁論理学は仏教か?﹂という問いに対して﹁ディグナーガは︑仏教の枠組みを超えて︑如何
なる教理的立場からも受け入れられる一種の形式論理学を目指したが︑ダルマキールティは仏教の立場に立って︑他
学派の教理を否定し︑仏教教理を論証するために︑ディグナーガの論理学を継承・発展させたと言えよう︒ダルマキ
( (

((
ールティの論理学こそ﹁仏教論理学﹂という名前に相応しいものである﹂と述べている︒ディグナーガの論理学に根
拠 を 置 く 因 明 も ま た︑そ の 意 味 で は﹁仏 教 の 枠 組 み を 超 え﹂る も の と 言 え よ う が︑一 方 で ダ ル マ キ ー ル テ ィ
( ・法称︑六〇〇~六六〇か(の論理学が伝わらなかった東アジアにおいては︑一部の例外 (後述(を除くと︑仏
Dharmakīrti
教以外の議論において因明が用いられることはなかったことも事実である︒ともあれ︑大乗仏教もしばしば非仏説の
誹りを受け︑それに対する反論が何度も繰り返されてきたが︑因明の立場はそれよりもなお不安定なものであったの
である︒
また︑そのような歴史的な面以外に︑そもそも論理学的な営みが︑仏教の目的である解脱︑悟りなどに結びつくの
ごしょうかくべつ
か︑という議論が存在してきた︒東アジアでは︑玄奘が因明とともにもたらした五姓各別説 ─ 生きとし生けるもの

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は先天的に五種類の仏教的素質が決まっており︑その一部はブッダになることができない︑とする思想 ─ に対して
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ほうぼう ( (

((
徹底的な批判を試みた法宝が︑因明に対してもその信憑性に対する批判的な発言をしている︒また日本では︑最澄が
とくいつ ( (

((
﹁三支による推論が︑どうして法性を顕すことができようか﹂という発言で論敵・徳一を批判した︒最澄の後継者の
ひとり源信は︑﹁法華円宗は直に真理を保持しているので︑因明の論証・論破の言論を借りる必要はない﹂と述べて
( (
((

いる︒またチベットでも同様の議論があったようで︑シチェルバツキーをはじめ︑幾人かの研究者が︑
﹁論理学はまっ
たく世俗的な学問であり︑仏教的なものは何も含んでおらず︑医学や数学と同じである﹂というサキャ・パンディタ
( (
((

(一一八二~一二五一(の言葉を紹介している︒一方でクラッサーは︑仏教論理学を大成したディグナーガやダルマキー
( (

((
ルティらが︑因明がいかに仏教に必要かを説く発言を紹介している︒
(9( 基の孫弟子にあたる智周は﹁質問︒最初に﹁因明は仏説のみを源とする﹂と言うのに︑なぜここでは﹁アクシャパーダが初めて
説いた﹂と言っているのか﹂と自問し︑﹁答える︒︹現在・過去・未来の︺三世を通じて論ずれば︑久遠実成の諸仏がすでに︹因明
を︺説いている︒﹁因明は仏説のみを源とする﹂とはそのことである︒﹁劫初﹂というのはアクシャパーダが正しい︹論証︺と誤っ
た︹論証︺について初めて述べた︑ということである︒したがって矛盾はない﹂と︑永遠の過去から存在する諸仏(久遠諸仏(に
よる仏説であると主張することで(卍続 (︑因明の創始者をアクシャパーダとする説と﹁源唯仏説﹂との会通を試みてい
((, (((b
る(このような起源と非歴史性に関する議論は︑後に見るフッサールの議論とも関連し興味深い(︒


( ( 桂紹隆( ((((
: ((
(︒
(( ((

( (﹁宝公云﹁因明但是立論証成︒設無過︑未為契経︒故智論九十三云︑阿羅漢成仏非論義者︑知唯仏能了﹂︒﹂(﹃成唯識論本文抄﹄


(︒
T((, (((a

第一章
( (﹁三支之量︑何顕法性︒﹂(﹃守護国界章﹄ T((, (((c
(︒
( (( (( (( ((
(﹁源信云﹁法華円宗直存理︑不借因明立破言論﹂云云︒﹂(﹃唯量抄﹄(︒

論理と歴史1,2章.indd 11
( ( ( ((((
Shcherbatskoy (参照︒

11
( ( ( ((((
Krasser (参照︒
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︵仏
s 教︶論s理学の非歴史性・歴史性
s

12
このような因明=仏教論理学が仏教なのか︑という問題は︑因明が仏教という文脈を離れて議論し得るのか︑とい
う問題として言い換えることができる︒この点について考えるために︑ここでは (仏教(論理学と仏教的実践とのあい
だに見られる共通性について考えてみたい︒なぜなら︑形而上学的な色彩の強い (仏教(論理学と︑瞑想修行などの仏
教的実践とのあいだには︑非歴史性と歴史性という二つの相補的な性質が同居している︑と考えられるからである︒

仏教に見られる仏法の非歴史性については︑しばしば﹁ブッダが世に現われようと現われまいと (如来出世若不出世(
因果の法則は常住である﹂というような定型句によって表現される (﹁因果の法則﹂は経典・論書によって﹁諸法空性﹂などに
︒人間が神になることなど考えられないキリスト教などとは異なり︑仏教では原則として修行をすれば誰
入れ替わる(
でも阿羅漢やブッダといった超越的存在になることができる︒それだけでなく︑独覚 (辟支仏(という存在を認めてい
ることからもわかるように︑場合によっては仏教の教えがなくても阿羅漢やブッダと同等のゴールに到達することを
認めている︒ゴータマ・シッダッタがブッダになり︑仏教を創始したことは歴史的なことであるが︑真理を悟りブッ
ダになるという現象は一回起性のものではない︒科学的な真理がそうであるように︑仏教における真理もまた歴史を
超えて再現 (追体験(が可能なのである︒
論理学の非歴史性については︑ことさら言うまでもないかもしれない︒仏教論理学についても︑中村元がしばしば
その普遍性を強調している︒これに関連して上田昇が︑仏教論理学の研究方法を考察する際に︑思想史的研究と論理
学的研究との区別を説いている点が注目される︒上田は︑ディグナーガの論理学の鍵概念の一つである遍充関係と因
の三相の第二相・第三相との比較について︑次のように述べる︒
もし︑ここで立ち止まって︑遍充関係と第二相と第三相との論理的関係について解決を行おうとすれば︑文献的

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思想史的研究の領域を越えざるを得ないであろう︒確かに︑遍充関係︑第二相︑第三相についてそれぞれの意味
15/07/24 17:05
内容を明確にする作業は基本的には文献を通して行われなければならない︒しかし︑遍充関係が第二相に﹁外な
らぬ﹂かどうかは必ずしも文献的に結着のつく問題ではないであろう︒仮に︑ディグナーガが︑遍充関係は第二
相に外ならぬと述べていたとしても ─ そのような言明は見当たらないが ─ ︑この問題を解決したことにはな
らない︒なぜなら︑ディグナーガの論理学はディグナーガの思い通りの振舞いをするとは限らないからである︒
ディグナーガの立場に身を置くことが即ディグナーガ論理学を理解したことにはならない︒ディグナーガ論理学
の目的や動機を理解することがそのままディグナーガ論理学を理解したことにはならない︒つまり︑一般に思想
( (

((
と呼ばれるものを理解する方法と論理学を理解する方法は必ずしも同じではないと思える︒
文献に書かれている論理学的な内容が︑その文献や文献の作者から自立して存在していることに︑右に見た﹁ブッ
ダが世に現われようと現われまいと﹂との共通性を見出すことは可能であろう︒シャカの悟りもディグナーガの論理
学も︑それぞれの創始者の個性や思想に依存した属人的なものではなく︑たまたま彼らが見つけただけで他の誰でも
代わりに発見する可能性があったのだ︑という具合に︒
これに対して︑仏法や論理学などに見られるこのような非歴史性が︑実際には歴史性によって支えられているので
はないか︑と指摘したのがフッサールである︒フッサールは晩年の論文﹁幾何学の起源﹂において︑数学的な対象
─ たとえばピタゴラスが﹁発見﹂した三平方の定理の非歴史性が︑
﹁ピタゴラスによる発見という歴史的事実﹂に対


( (

((
してエクリチュールを介して遡行することができる︑ということによって保証されていると述べる︒少し長くなるが︑


この論文に対する東浩紀による要約を引用しよう︒

第一章

論理と歴史1,2章.indd 13
( ( 上田昇( ((((
: (((傍線は引用者(︒
(( ((

13
( ( フッサール( ((((
(参照︒
15/07/24 17:05
14
題名が示すように︑フッサールはそこで幾何学の﹁起源﹂について考察している︒しかしそれは︑ターレスなり
ピタゴラスなりの発見についての具体的な歴史研究を意味するものではない︒﹁厳密な学としての超越論的現象
学﹂を掲げるフッサールの思考は︑もともと事実問題ではなく権利問題のみに向かっている︒つまり彼は︑ある
0 0 0
特定の数学者によってある特定の時期に発見されたものとしての定理ではなく︑理念的対象としての定理そのも
0
のについて考えている︒そして理念的対象はその定義上︑具体的事実と関係ない︒例えば﹁三平方の定理﹂は事
実としては前六世紀にピタゴラスによって発見されたと伝えられるが︑理念としての定理そのものはピタゴラス
以前にも存在していたはずだし︑また他の数学者に発見されることもありえたと考えられる︒したがって権利問
題へと向かうフッサールの思考 (超越論的現象学(は︑同じくその定義上︑非歴史的な議論しかできないこととな
る︒実際に最晩年までの彼の哲学は︑つねに歴史主義を排していたことが知られている︒しかし﹁幾何学の起源﹂
のフッサールは奇妙なことに︑一方で事実問題と権利問題とのこの区別を断固として維持しながら︑他方でその
区別を無効化してしまう問題︑理念的対象の﹁起源﹂
﹁原創設﹂について論じようと試みている︒そして︑つぎの
ような興味深い議論を展開している︒
﹁三平方の定理﹂そのものは︑確かにいつ誰に発見されてもよかった︒にも
かかわらず最晩年のフッサールによれば︑その﹁いつ誰に発見されてもよかった﹂という理念性そのものは︑や
はりいつか誰かにより発見=創設されねばならないのである︒
﹁科学︑とりわけ幾何学は︑このような ﹇理念的な﹈
存在意味とともに︑ある歴史的な始まりを持たねばならない﹂
︒︙︙
ならばフッサールは︑非歴史的なものの歴史的産出についてどのような説明を与えていたのだろうか︒実はそ
れは︑きわめて簡潔なものである︒幾何学的定理の﹁明証性﹂︑つまりその非歴史的な理念性は第一に発見者のな
かに宿る︒ついでそれが﹁文書﹂のかたちで蓄積され︑そして伝承される︒最後に私たちはそれを受け取り︑再

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生する︒﹁書かれた意味継承はいわば沈殿するのである︒しかしそれを読むものはそれを再び明証的にし︑明証
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性を蘇生させることができる﹂
︒つまりフッサールによれば︑ある定理の明証性を理解するとは︑その誕生の瞬
間 (発見者がそれを見出した瞬間(へと文書を通じてたえず問い返し︑再びその誕生を生きることにほかならない︒
非歴史性は歴史的遡行により根拠づけられる︒そしてこの理論的パースペクティヴにおいては︑あらためて︑ピ
タゴラスその他さまざまな発見者の名は幾何学にとって偶然的なものではないことになる︒﹁三平方の定理﹂は
ピタゴラスが発見しないかも知れなかった︑と私たちはもはや言うことができない︒何故なら﹁三平方の定理﹂
という理念的対象の非歴史性そのものが︑ピタゴラスによる発見という歴史的事実にたえず遡行することによっ
( (

((
て保証されているからだ︒フッサールは歴史が支えるその非歴史性を﹁歴史的アプリオリ﹂と名付けている︒
この議論を︑これまで見てきた仏法や論理学の非歴史性をめぐる議論にあてはめてみると︑次のようになるだろう︒
仏教の真理や仏教論理学の非歴史性は︑それが記録され検証された文献の連鎖を通じて︑その発見の瞬間 (仏教であれ
ばシャカの成道(へと歴史的に遡行することによって支えられているのだ︑と︒もちろん︑因果の法則やディグナーガ
の論理学そのものが持つ非歴史 (アプリオリ(性と︑文書を通じてそれらを非歴史的だとわれわれが思うこと (歴史的ア
プリオリ(については︑厳密に言えば区別することが可能であるかもしれない︒しかし︑もしフッサール=東の言うよ
うに︑幾何学などの非歴史性が﹁その誕生の瞬間 (発見者がそれを見出した瞬間(へと文書を通じてたえず問い返し︑再
びその誕生を生きること﹂であるとするならば ─ 別の言い方をすれば︑その非歴史性を支えているのが後代にそれ


を受容した人々による反復であるならば ─ 歴史的な視点が重要になってくる︒思想史的な研究方法として上田昇が


否定した﹁ディグナーガの立場に身を置くこと﹂こそが︑非歴史的な論理学的研究の前提になっているのである︒

第一章
ここでわれわれは︑論理学と歴史との接点を見出すことができる︒さらに言えば︑このような﹁再びその誕生を生

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15
( ( 東浩紀( : ((‒((
(((( ((傍線は引用者(︒

((
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きること﹂という非歴史的な対象に対する歴史的な遡及は︑仏教をはじめとする東アジアの伝統にこそ見出されるも

16
のである︒北條勝貴によれば︑仏教の修行者による先人の人生の反復 ─ 古の聖者が修行したのと同じ山の同じ洞窟
に入って修行する︑というような実践 ─ は︑東アジアにおいては歴史そのものである︒北條は僧伝の分析を通じて︑
僧伝が書かれ︑読まれるということが﹁人間の生の物語りを介して過去にアクセスし︑それを範型に自己の生き方を
デザインしてゆこうとする︿人物伝的歴史理解﹀︙︙の具現化であ﹂り︑それ自体が時間︑空間を超えた宗教的実践
( (
((

であったという︒北條は︑その一例として中国における禅観や観仏体験等の神秘体験に関する僧伝について分析して
( (
((

いる︒先人が見出した真理や法則の非歴史性を検証=顕彰するべく︑発見の現場に遡行し︑先人の生を繰り返すこと
が︑東アジアにおいては歴史そのものなのである︒
もっとも︑修行者が繰り返していると思い込んでいる先人の生が︑本当に先人と同じものなのか︑という疑問は︑
すぐに浮かんでくるであろう︒仏教の修行も含む︑様々な身心の修練において︑師が自身の内的感覚を弟子に伝達し
たり︑弟子の達成度を確認したりしようとするときは︑譬喩やわざ言語 (身体感覚を伝えるための言語表現(などの不完全
な方法を使うしかないもどかしさ︑師弟の内面を直接確認することができないことへの諦念を拭い去ることはできな
い︒
論理学の非歴史性においても同様のことが言えるのではないかと思う︒右のフッサールの考えに対してジャック・
デリダは︑文献を用いた歴史的遡行という行為が必然的に持つ﹁誤読﹂の可能性について問題提起をする︒再び東浩
紀の要約を参照しよう︒
フッサールの主張する﹁その外部には何もない歴史そのもの﹂
︑つまり超越論的歴史の観念は︑デリダの考えで
は﹁歴史の純粋な連鎖﹂を前提としている︒私たちが幾何学の起源へと遡行し︑ターレスなりピタゴラスなりに

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宿った明証性をたえず確認することができるのは︑そこで遡行の糸が途切れていないからである︒幾何学の唯一
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0 0 0
性はその歴史の唯一性により保証され︑それはまた起源へのたえざる遡行可能性︑つまり歴史の純粋性により保
証される︒しかしデリダはそこに︑
﹁フッサールとは逆のことが言えないだろうか︒非コミュニケーションと誤
解とは︑文化と言語の地平そのものではないだろうか﹂という問題提起を挿入する︒かりに幾何学的明証性が文
書によって伝えられるものだとすれば︑その伝達は必然的に純粋なものではありえない︒エクリチュールは発信
者 (現前的主体(の統御を定義上逃れるものであり︑それゆえつねにメッセージを歪めうるからだ︒ターレスやピ
﹂は︑私たちと彼ら︑現在と過去とを隔てる伝承のもつれのなかで︑行方不
タゴラスへの﹁問い返し Rückfrage
( (

((
明になる危険につねに曝されている︒とすれば︑超越論的歴史の唯一性もまた脅かされることとなるだろう︒
修行者の身体の内部を見通すことができないのと同様に︑エクリチュールの向こう側にあるかもしれない著者の真
意もまた見通すことができない︒仏典のなかでは︑仏・菩薩が修行者の素質や達成度を見抜くことができるとしばし
ば説かれているが︑凡夫にはそれもかなわない︒
再度この議論を因明=仏教論理学にあてはめてみれば︑次のようになるだろう︒ディグナーガの論理学の非歴史性
は︑それが記録された文献を通じて︑その誕生の瞬間へと歴史的に遡行することによって支えられている︒しかしそ
の文献は︑原理的にディグナーガの﹁本意﹂(もちろんそれは︑後代の人々によって見出された﹁本意﹂である(を歪める可能
性から免れることができない︑と︒言い換えれば︑幾何学などの非歴史性は︑文書の継承 (あるいは散逸(によって︑時


( (

((
代ごとにその再解釈が再帰的に積み重ねられるなかで立ち上がってくるものであると言える︒


第一章
( ( 北條勝貴( ((((a
(( (( (( : (((
(︒

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( ( 北條勝貴( (参照︒
((((b

17
( ( 東浩紀( : ((‒((
(((( ((傍線は引用者(︒
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いずれにせよ仏教と論理学とは︑このような非歴史性と歴史性が共存しているという共通点を持つ︒玄奘の唯識比

18
量とその解釈史もまた同様である︒そこでは︑因明=仏教論理学あるいは唯識教理学に関する非歴史的な議論と同時
に︑まさしくそのような先人の生を (誤読の可能性を引き受けつつ(生き直す︑という歴史的な側面が存在しているので
はないか︑というのが本書の大きなテーマである︒
では︑その先人とは誰か︒唯識比量を解釈した人々から見れば︑それは言うまでもなく玄奘である︒唯識比量は論
理学的に妥当なのか︑という議論は︑玄奘がどのような状況下で︑どのような真意をもってこれを述べたのか︑とい
うあり得べき現場を常に遡及しながら解釈が積み重ねられることになる︒
加えて︑唯識比量には︑もう一人の﹁先人﹂が存在する︒(唯識比量を玄奘が作ったのだとすれば(玄奘︑その弟子たち︑
げ じんみっきょう
そして彼らに対する批判者らが︑唯識比量と重ねあわせて参照していたと思われるのが︑
﹃解深密経﹄に説かれるい
さんてんぼうりん
わゆる三転法輪説である (第四章参照(
︒つまり︑もう一人の先人とは釈尊その人である︒三転法輪説とは︑釈尊が自ら
の教えを説く際︑大きく三つの時期もしくは段階で説いた︑という言わば釈尊の説法史の区分論のようなものであり︑
第一時︑第二時においては論争が起きたものの︑最後の第三時で説かれた完全な教えによって論争が終結したとする︒
玄奘は伝承のなかで︑唯識派と同一視される第三時を象徴する人物として描かれ︑第一時︑第二時に相当する論争を
行なうのであるが︑そのなかの一つが﹁唯識であることの証明﹂たる唯識比量なのである︒また︑唯識比量の解釈に
おいては︑インド中観派のバーヴィヴェーカの論理学との比較が行なわれ︑日本においては三論宗との対立 (いわゆる
空有の論争(が起こったが︑バーヴィヴェーカや三論宗は第二時に該当するとみなされていた (第三章参照(
︒唯 識 比 量
の正当性の証明は︑単なる論理学的な問題にとどまらず︑それ自体が三転法輪を再び成就すること︑釈尊の生を生き
直す実践=歴史だったのである︒

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唯s 識比量のコンテクスト
s
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このような背景を有する唯識比量の解釈史は︑特に日本において︑仏性論争などの別の論争とも接続することにな
る︒先に法相宗の五姓各別説を批判した法宝・最澄・源信が因明に対しても否定的な態度をとっていたことを紹介し
つうろっくしょうは ひりょうもん いんみょうろんしょししゅそういりゃくちゅう
たが︑彼らは決して因明を全否定していたのではなく︑最澄の﹃通六九証破比量文﹄や源信﹃因明 論疏四種相違略註
しゃく
釈﹄のように因明関係の専門的な著作を残している︒意外に思われるかもしれないが︑因明の研究と仏性の有無をめ
ぐる論争とは︑非常に近い位置にあった︒
このような状況を分析するための方法論的な補助線として参照されるべきは︑ウィトゲンシュタイン﹃論理哲学論
考﹄についての研究として有名な﹃ウィトゲンシュタインのウィーン﹄(トゥールミン他 (であろう︒本書に対する
((((
一般的な評価については︑ドミニク・ラカプラが次のように述べている︒
﹃ウィトゲンシュタインのウィーン﹄は︑今では思想史家が読むべき標準的文献表の中に組み込まれている︒い
や﹁コンテクスト主義﹂的研究への先駆的貢献として ─ つまり︑テクストや観念の非歴史的・形式主義的解釈
( (

((
からの注目すべき脱却を明確に示すものとして ─ 語られることさえある︒
つまり﹃ウィトゲンシュタインのウィーン﹄は︑思想史研究における﹁テクストや観念の非歴史的・形式主義的解
釈﹂に対するアンチテーゼとして︑歴史的な状況を重視した﹁コンテクスト主義﹂についての重要な先行研究として︑



﹃論理哲学論考﹄というきわめて論理学的 ( 非歴史的(な書物を︑それが
高い評価を受けている︒そしてその内容は︑


第一章
( ( これと同様に︑歴史のなかで再帰的に書き換えられるにもかかわらず︑非歴史的な性質を帯びるものとして︑辞書における言葉
((
や文字の意味があることを以前指摘したことがある( Moro ((((
(︒辞書に書かれた意味は︑過去の用例を集めて抽出されたもので

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ある︒しかし︑時にわれわれは︑辞書を用いて過去の文献に書かれている内容を﹁誤読﹂などと判定する︒

19
( ( ラカプラ( ((((
: ((
(︒

((
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0 0
書かれたコンテクストを網羅的に把握したうえで読めば︑倫理的な問題を扱った書物であることがわかる︑というも

20
のである︒
ジャニクとトゥールミンの意図が﹃論考﹄(一九二一年初版(を世紀末のウィーンという特定のコンテクストに関連
づけようとするところにあることは明らかである︒このコンテクストの特徴とされているものは︑言語の危機と
倫理の問題とに幅広くかかわりあっている文化的問題である︒彼らの主張は︑このコンテクストにたいする無知
が︑﹃論考﹄の読解上の重大な歪みを生みだす結果を招いたということである︒彼らによれば︑
﹃論考﹄を論理実
証主義の基盤として解釈することはまったくの誤りだというのである︒最近の分析哲学者の解釈ですら人を惑わ
すものである︒たとえばG・E・M・アンスコムとかマックス・ブラックといった英米の解釈者たちは﹃論考﹄
をなによりもまず論理学の論文として読んでいるのであり︑バートランド・ラッセルやゴットローブ・フレーゲ
を︑ウィトゲンシュタインの思想の出発点として最も顕著で重要なものを与えた人物とみている︒もっと一般的
な言い方をすれば︑ウィトゲンシュタインの時代以来︑学問分野の特殊化︑分業化︑専門化が進み︑その結果︑
﹃論考﹄の意味を歪めるような専門的な哲学的関心によってこれを読む傾向が生じたのである︒これとはまった
く対照的に﹃論考﹄をウィーンというコンテクストの中に戻してやることによって︑
﹃論考﹄はまた倫理的なも
のとしても ─ いや本質的に倫理的なものとして ─ 読むことができるということが明らかになるというわけで
( (
((

あ る︒
これと同様に本書は︑唯識比量と呼ばれる論理式が︑東アジアのある時期 (中国で言えば唐代︑朝鮮半島では新羅︑日本
では奈良時代~平安初期(においてどのように受容されたかを︑できる限り当時の思想史的コンテクストをふまえながら︑

論理と歴史1,2章.indd 20
再構築してみようという試みである︒先にも述べたように唯識比量は︑三転法輪の再現という意味では﹁空有の論
15/07/24 17:05
さんいちごんじつろんそう
争﹂と呼ばれる論争と接続し︑日本ではさらに﹁仏性論争﹂や﹁三一権実論争﹂(三乗と一乗のどちらが真実なのかを争う
論争(と呼ばれる別の論争の文脈とも関連している (第五章参照(
︒その意味で︑本書は﹃ウィトゲンシュタインのウィ
ーン﹄と方法論的な方向性を共有している︒したがって本書では︑唯識比量を主な研究対象とするものでありながら︑
それ以外の論争史の分析に唯識比量以上の紙数が割かれている︒
なお︑右のジャニクとトゥールミンの方法論に対して︑ラカプラは様々な角度から批判を行なっているのであるが︑
特にそのコンテクスト操作の恣意性︑すなわち﹃論理哲学論考﹄読解において﹁世紀末ウィーン﹂に限定することに
ついての批判は注目される︒
これらすべてのコンテクストを適切に処理することは︑実際のところ︑人間では無理であろう ─ もっとも︑ど
んなコンテクスト読解においても﹁テクスト相互連関的な﹂視野を自覚することは︑研究上の理念的限界 (それは
くりかえしずらされる(として役立つばかりでなく︑また︑どんなコンテクストにもせよ︑これこそ本源的なもので
あるというような空虚な要求をしりぞけるための抑止機能としても役立つ︒わたしがこの問題をもちだしたのは︑
なにもジャニクとトゥールミンを︑網羅性に欠けるといって非難するためではない︒それどころか網羅性という
概念 ─ ジャニクとトゥールミンのばあいにあらわれる網羅性の形式︑すなわち︑テクストの意味をコンテクス
( (

((
トによって充溢させるという形式も含めて ─ に疑義を呈することなのである︒



(の主張やラカプラ ( ((((
トゥールミン他 ( (((( (の批判の是非について︑
﹃論理哲学論考﹄に基づいて検討すること

第一章

論理と歴史1,2章.indd 21
( ( ラカプラ( : ((
(((( ((傍線は引用者(︒
(( ((

21
( ( ラカプラ( ((((
: (((‒(((
((傍線は引用者(︒
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は本研究の範囲をはるかに超えるので︑両者の議論の妥当性について判断することはできない︒しかしながら︑本書

22
においても︑唯識比量をめぐる﹁すべてのコンテクストを適切に処理すること﹂はできていないし︑恐らくそれは
﹁無理であろう﹂︒

(では︑仏教説話集﹃日
これに関連して︑北條勝貴による歴史叙述をめぐる研究を再度参照したい︒北條勝貴 ( ((((
ほん りょ うい き きょうかい
本霊異記﹄が作者の景 戒によって物語られたものであるという点に注目し︑当時の複雑で多様なコンテクストのな
かで景戒がある条件において取捨選択し物語化していったこと︑換言すれば﹃日本霊異記﹄に収録された説話以外の
あり方も条件によっては可能性としてあり得た (﹁説話の可能態﹂(という前提で景戒の言説を分析すべきであると主張
している︒本書で取り上げることができるのは唯識比量の解釈史をめぐるコンテクストの一部に過ぎないが︑しかし
それが多様な可能性のなかから選び取られたものであることを前提に分析をすることはできるだろう︒
しかし︑その選び取った主体は︑
﹃日本霊異記﹄における作者・景戒のような単一の存在ではない︒唯識比量は大勢
の聴衆に対して示されたと伝えられているし︑その解釈史もまた論争のなかで展開してきた︒唯識比量とその解釈史
は︑常に過去の人を含む多くの人々のあいだでの交渉のなかで成立してきたものである︒
ここで﹁交渉﹂という語を用いたが︑これは文化交渉学における﹁交渉﹂を念頭に置いている︒玄奘がインドから
もたらした新しい仏教と︑東アジアにそれまであった仏教との接触を﹁文化﹂の交渉と言うにはいささか大げさかも
しれないが︑ここでの着目点は﹁交渉﹂のほうにある︒小田淑子は︑文化交渉学の﹁交渉﹂にあたる英語が negotia-
ではなく
tion であることを強調し︑
interaction ﹁学術プロジェクトや学問分野の名称として︑文化 (的(相互関係学や
文化 (的(相互作用学は適切とは言え﹂ないと譲歩しつつも︑ ﹁文化交渉よりは文化の相互作用や相互関係という英語
( (

((
名称がより適切﹂であると述べる︒この interaction
という方法論的概念については︑木村大治らの研究が示唆的であ
る︒木村は﹁
﹁相互作用的である﹂とは︑個体同士︑互いが互いの足場となっており︑その外部に絶対的・固定的な足

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( (

((
場がないことを含意する︒そのような系は︑ある種の自己完結性︑自己回帰性を帯びることになるのである﹂と述べ︑
15/07/24 17:05
( (
((

構築主義との近さも指摘している︒
唯識比量の解釈史においても同様である︒聴衆を前に説かれた唯識比量は言うまでもなく︑その解釈の際に参照さ

れた三転法輪説もまた三つの時期 三つの思想的立場の相互依存によって成立している︒そのような相互依存の場に
おいて︑玄奘の﹁真意﹂を常に更新しつつ︑様々なコンテクストを巻き込みながら唯識比量は伝承されたのである︒
二 周縁としての因明
越s 境する因明
s

本論に入る前に研究史を確認しておきたいが︑唯識比量や三転法輪説 (そしてその一ヴァリエーションとしての三時教判(
についての先行研究については各章で述べているので︑ここでは因明の研究史について簡単にふりかえっておきたい︒
ここまで見てきたように︑唯識比量をはじめとする因明の諸問題は︑時代ごとに様々な論点を提供してくれる題材と
言える︒しかし︑これらの研究がこれまで積極的に進められてきた︑という状況ではない︒その背景には︑前近代に
関しては因明や唯識比量に関する重要な文献が少なからず散逸しており︑研究上の障害になっているという点もあげ
られるが︑もう一つの無視できない背景として︑因明の歴史が必ずしも仏教者の歴史に還元できないという点がある
だろう︒そして興味深いことに︑この研究史の乏しさは︑前節で述べた方法論的な課題 (因明の非歴史性と歴史性(とも


結びついている︒


因明は現在︑主に仏教学や仏教史といった学問領域において研究されている︒これらの学問領域は︑言うまでもな

第一章
( ( 小田淑子( ((((a
(( (( (( : ((
(︒

論理と歴史1,2章.indd 23
( ( 木村大治( : (︒
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23
( ( 木村大治等( ((((
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