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正義論としてのリバタリアニズム

230
ーヒレル・スタイナーの権利論I
井 上 彰
キーワード︾選択説、共存可能性、︵原初的︶所有権、普遍的自己所有権のパラドクス、︵非︶理想的理
藝 珊
穴①琶夛aRQm恥○言○肴の弓彦①○﹃謨、2国ロ○閉き罠ご︾︵○ユ函ご巴︶ロ﹃○℃①風亘﹃億三ゆ房①壱四﹃四・o×g匡己ぐ①刷巴
の①承︲○二吋己①﹃の壷一己︾︵己○コ︲︶一Q①画一庁弓①○﹃望
この問いに肯定的に応えるべく、リバタリア’一ズムが論理
一 は じ め に
的に無矛盾な正義体系を提供しうることを解き明かそうとし
正義論としてのリバタリアニズムは、所有権の正当性を たのが、ヒレル・スタイナーである。スタイナーはリバタリ
︵ l ︶
︵消極的自由を保護する︶個人的権利の観点から基礎づける アンの中でも、資源分配に関して平等主義的配慮をみせる左
理論である。ロバート・ノージックの﹁アナーキー・国家・ 派リバタリアンの代表的論客とされている人である。そのせ
ユートピア﹂︵zo凰呉巳亘︶が出版されて以来、この正義 いか、彼の議論は﹁リバタリアニズムの中に入れない方がよ
論としてのリパタリアニズムが一貫した正義体系を提供する い﹂と言われることもある︵森村二○○一三一○︲三二︶。し
理論であるかどうかが繰り返し問われてきた。つまり既成の かし、スタイナーほど論理一貫性に拘って、正義論としての
事実や歴史性、イデオロギー性に訴えることなく、リバタリ リバタリアニズムの可能性を追究した者はいないと言っても
アニズムが哲学的に正当化できるかどうかが問われてきたと 過言ではない。
言える。 本稿では、スタイナーが正義の分析的探究に際して取り組
んだ論点ないし問題に焦点を当て、スタイナーが主張する通 について何かを学ぶ。こうした特徴は、建築上の指針が、
り、左派リパタリアニズムが正義論としてのリバタリアニズ 建造の際に組み合わせられる資材の性質から得られるとい
ムの行き着く先であることを明らかにする。以下二節でスタ うのと同じ意味で、正義原理のありうべき内容を制約づけ
イナーの議論が、第一に権利の分節化を通じて、リバタリア るものである。⑦席ヨ閂ら程&︶
’一ズムの正義体系は完全義務から成ることを明らかにするも この主張の背景には、権利が日常的な言説空間において
のであること、第二に正義論としてのリバタリアニズムが所 様々に用いられ、その傾向が今日において一層強まっている
有権の正当性に拘泥する論拠をはっきりさせるものであるこ という事実がある。それが互いの自由を制約し、敵対的状況
と、第三に正義論としてのリバタリアニズムが、平等主義的 そしてそれによる行き詰まり状態をもたらしている。したが
な資源分配ルールを採用せざるを得ない点をつまびらかにす って正義の理論には、そうした状態を助長するような、正し
るものであること、以上の点について確認する。三節で、ス さについての矛盾した判断を巻き込まないようにするために
タイナーの議論が抱える問題点︵それは正義論としてのリバ も、一貫した権利の構想によって、そうした権利の増殖傾向
タリアニズムが抱える問題点でもあるが︶を明示して、稿を をコントロールすることが求められているのである
締めたい。 命蔚冒閂]邉鱒鴎中司9.弓g胃99︶・
彰)

ではスタイナーは権利をどのように分節化するのか。さら
二スタイナー権利論の意義
にその分節化が、リバタリアニズムの正義構想にどのように
正義論としてのリパタリアニズム(井上

1権利の選択説と完全義務の体系としての正義 関わってくるのだろうか。
正義論としてのリバタリアニズムはその名の通り、正義と 権利の説明としてスタイナーは、リバタリア’一ズムと親和
は何かを追究することを目的としている。そしてリバタリア 的な権利の選択説︵gg8弓胃○ご︶︵今日では通常、意志
ニズムである以上それは、権利の分析的解明が正義とは何か 説︵言豊弓冨Cご︶と呼ばれている立場︶をとる。選択説に
︵ 2 ︶
を明らかにすることにつながると考える立場である。スタイ よれば、権利は自由︵の領域︶を割り振る機能をもつもので、
ナーはこの点を、次のように述べる。 言い換えれば、他者の行為に制約を課したりその制約を放棄
正義の素粒子は権利である口権利は正義原理によって創り したりする権能l自由裁量の権能a厨日呂○ggg君︲
出され、そして分配される事項のものである。われわれは、 g巴lを有することが、権利の条件となる。なぜ彼は選択

231
権利の形式的もしくは典型的特徴を検討することで、正義 説に与するのか。スタイナーはウェスリー・ホーフェルドに
よる権利概念の分析をふまえて、第一に義務a昌朋︶と相 も義務ももち得ない奴隷と違い︶譲渡した側に義務を負うこ

232
投稿論文

関的な権利としての請求権︵旦巴ョ里を主たる権利とし、第 とになるからである。このことからスタイナーは、他人に譲
二にその権利義務関係を変更する二階レベルの権能と結びつ 渡しうる自己所有権はむしろ、﹁契約の自由を破棄すること
く免除︵言ョ匡昌ご冊︶の権利を派生的な権利とする⑦国︲ に対する防波堤であるのと同様、非自発的な奴隷化や自発的
ご閏ら喜色︶。この請求権と免除権は、義務や無権能含尉︲ な自己奴隷化をパターナリスティックに阻止することに対す
煙昌言朋︶に対する自由裁量の権能を条件としており、そう る防波堤である﹂とみる⑦蔚冒角ら程凸溺︶・
いう意味で選択説が主張するところと適合的であるlこれ 第二に、遺産相続者の権利も、将来世代の現在世代への権
がスタイナーが選択説に与する、とりあえずの理由である。 利も、スタイナーは認めない。遺産相続の場合、当人が生き
︵ 3 ︶
詳しくは次のところで検討するが、スタイナーはこうした分 ているときに完了する寄付行為と違って、遺言者が生きてい
節化によって、増殖化する日常的な権利言説に流されない、 る間にその所有権は譲渡されない。つまり、遺産相続者に対
無矛盾な権利構想を提示できると考えている。 して遺言者が義務を負うことは、遺言者の死後に譲渡がなさ
この時点ですでに、正義論としてのリバタリアニズムを特 れる以上できないことなのだ。同様の理由から、将来世代は、
徴づける一つの立場が垣間見える。それが何かを明確にする われわれが負うべきとされる義務を放棄したり要求したりす
ためにも、スタイナー自身が、リバタリア’一ズムをめぐる争 ることができない﹂こうした同時性︵8コ房日9国用ご︶の
点としてよく引き合いに出される二つの論点について、どの 欠如は、請求権を遺産相続者や将来世代に付与できない根拠
ような議論をしているのかについてみてみよう。 となる⑦房ヨ囚己程&圏︲輿gご・
第一に、スタイナーは他のリバタリアンと同様、自己奴隷 以上からわかることは何か。それは、正義論としてのリバ
化︵陥罵︲①易匿蔚日g己について認める立場をとる。という タリアニズムが、正義体系をあくまで個々の権利義務関係か
のも、自分の身体は自らが占有しなければならないという自 ら成り立つ完全義務e国府g含号巴の体系と考える立場
己所有権命呉︲○乏扁勗三豆は、他人に譲渡しうる︵他人が である、ということだ。言い換えれば、リバタリアニズムの
保有しうる︶権利だからである。スタイナーは、これを問題 正義構想の下では、個人の権利に対する侵害を伴わないよう
ないとみる。なぜなら、ほとんどの人は、自己所有権に関わ な、非個人的な不完全義務︵冒月熱①g目号の︶が課される
る権利義務関係すべてを放棄することなど実際にはしないだ ことはないのだ。先の二つの例は、リバタリアニズムの正義
︵ 4 ︶
ろうし、仮に自己所有権を完全に譲渡したとしても、︵権利 体系が、不完全義務を組み入れる正義論︵たとえばリベラル
な正義論︶とは異なる、ということをはっきりさせてくれる の義務が果たせても、同時に果たすべき別の義務が果たせな
ものである。重要なことは、こうした完全義務の正義体系が、 いという状況は、あってはならないものなのだ。換言すれば、
|貫した権利の説明から導かれている点であるlこれこそ、 権利は共存可能な︵8日9mm量①︶ものでなければならない
スタイナーの議論にみる顕著な特徴である。 のである︵の扁冒閏尼震皿霊go
2権利の共存可能性と所有権 この議論の前提になっているのが、行為が︵誰かの行為に
これまでの議論から、権利を義務と相関的な請求権として よって︶妨げられている状況では、一切の自由はないとする
捉えていくと、|貫した権利の構想は完全義務の正義体系と スタイナーの自由論である⑦扇ご自ら震恥○戸巴。この非規
なることがわかった。ここではその一貫した権利構想の内実 範的かつ記述的な消極的自由は、ある行為が別の行為によっ
に迫っていき、それがリバタリア’一ズムの存在理由とも言う て妨げられてない状態、すなわち行為同士が共存可能な場合
べき部分、すなわち、所有権の理論でなければならないとす にのみ成立する。権利の共存可能性から所有権に向かうとい
る点について明らかにしたい。 うスタイナーの権利論の道筋は、この自由論をベースに、次
先に、権利が日常的な言説に流されないためにも、権利の の三つの議論のステップを通じて示される。
構想が矛盾した判断を許容するものであってはならないこと 第一のステップは、︿保護された自由﹀︵蔚輿&言①昌冊︶
彰)

を確認したが、選択説によって分節化される権利が無矛盾な のみが、権利の共存可能な集合を特徴づけるものであるとす
ものであるためには、どういうことが求められるのだろうか。 る議論である。このベンサムⅢハートの用語である︿保護さ
正義論としてのリバタリアニズム(井上

まず言えることは、権利が矛盾した判断を許容しないように れた自由﹀とは、別の行為によって妨害されないような不可
するために、当の権利が不可侵言乱三号こかつ行使可能 侵領域が絶対的に保護される場合にのみ成立する自由を意味
な︵曳四93匡巴ものでなければならない、ということで するもので、自由の領域が二つ以上の行為に対して排他的で
ある。権利はもちろんのこと、義務を果たすために必要な行 ないような︿裸の自由﹀含罠巴言円匡朋︶と対比されるも
為の自由、すなわち︿責務を果たす自由﹀︵8ヨョ胃8号︲ のである︵函蝕耳屋巴邑ご︲鐸の扇冒臼己震出己。この二つの
の昌朋︶が絶対的に保護されない場合にも、当の権利には、 自由の違いを念頭に置くと、確実に︿責務を果たす自由﹀が
敵対的状況︵による行き詰まり︶を回避するだけの機能はな ある場合、すなわち確実に義務を果たすことができるケース
いことになる。したがってスタイナーからすれば、権利は自 は、相互排他的な複数の行為を許容してしまう︿裸の自由﹀

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由の領域を確実に保護するものでなければならないし、一方 ではなく、不可侵性を兼ね備えたく保護された自由﹀をもつ
場合に限られてくることがわかる⑦弓冒円ら程”雪︲ざ︶・ るのか。それは、そうした外延的説明によって同定される物

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投稿論文

第二のステップは、権利は内包的にではなく外延的に定義 理的構成要素の︵少なくともその一部の︶支配・コントロー
されるものだとする議論である。この議論の背景には、別の ルが、他者︵の行為︶によって妨害されているということで
行為によって妨害されない行為が、内包的説明言扁早 はないかlスタイナーはそう考える。彼はそれを根拠に、
里○邑巴号開1頁ご易︶によって同定される行為タイプではな 行為の自由が、その行為の履行のために求められるすべての
く、時空制約的な行為の説明、すなわち外延的説明︵①鷺①早 物理的構成要素の実際の所有、もしくは可能世界における所
竪呂巴号開﹃菅ご易︶によって特定化される行為トークンで 有を意味する仮定法的誘号旨。昌蔚︶所有と同義だと主張
なければならない、という行為論がある。この行為論によれ する。﹁自由はモノ︵旨ご鴨︶の所有である﹂と命国p9
ば、たとえば﹁シェークスピア作﹃リチャード三世﹂の劇を s置酎$︶。それゆえ、そうした自由の確定的周域を担保する
観に行く﹂という行為タイプは、﹁いついつどこどこで上演 権利は、おのずと︵自由な行為のために必要とされる︶物理
されるシェークスピア作﹁リチャード三世﹂の劇をなんらか 的構成要素に対する所有権と同義のものだとされる
の方法︵手段︶で観に行く﹂という無数の行為トークンを含 ︵の骨凰邑①R﹄やや得心函︶O
むとされる。したがって、当の行為が妨げられてないという 以上のようにスタイナーは、その論理一貫した権利分析に
自由は、厳密には行為トークンのレベルでの自由を意味する 基づいて、所有権にわれわれが目を向けざるを得ないことを
ことになる⑦蔚言円ら置畠甲巴。となると、そうした行為 示そうとする。それが最終的に正義論としての説得力を有す
トークン群を有する請求権的権利の共存可能な集合は、行為 るものかどうかは別にして、一貫した権利の構想が所有権の
トークンのレベルで保障されるような︿責務を果たす自由﹀ 正当性に拘泥する分析的根拠を明らかにしているという意味
の裏書きがあってはじめて成立することから、︵通常考えら で、スタイナーの議論は正義論としてのリバタリア’一ズムに
れるような︶内包的説明ではなく外延的説明が付されるもの とって欠くことのできない核を示すものだと言える。
でなければならないのである⑦扇ご閏邑程輔閏g・ 3歴史的権原の構想と原初的所有権
︵ 5 ︶
最終ステップは、すべての権利は所有権であるとするl ここでは、所有権の正当性に照準を合わせる一貫した権利
リバタリア’一ズムの存在理由に関わる111議論である。時空 の構想が、なぜ左派リバタリア’一ズムの構想でなければなら
制約的な行為のスポット的説明を伴うような行為が妨げられ ないのか、という点に迫っていきたい。
ているということは、より具体的にはどういうことを意味す 権利を出発点に据えるリバタリアニズムは、結果状態
︵①己あ国扇的︶や︵分配︶パタンの原理言9房目&頁旨g︲ 各人が行為するにあたっての先立つ条件︵目蔚8号貝8且一︲
豆①の︶ではなく、権原︵の昌三のョの。gの変遷という歴史的 芹ご易︶が適正なものかどうか、より精確には、究極的に
経緯を重視する思想であると言われる︵zo凰具己這”届や ︵屋屋日禺①ご先立つ条件がすべての人に平等な自由を与え
霞︶。このことはスタイナーの議論にも当てはまる。という るものであるのかどうかが問われてくるのである。このよう
のも、共存可能な所有権としての権利自体、その行使によっ に歴史的権原の構想からすると、現在の権利の正当性は、共
て対象物を変質させたり譲渡することのできる権利保有者が、 存可能な権利が平等に割り当てられているかどうかという究
まさにそうすることでその権原を創出したり失ったりしてき 極的条件に左右されるのであるお扁冒円ら震邑宝1劃届中
たものであると言えるからだ。となると、そうした権原の変 唾 ︶ ○
遷には歴史があり、その端緒には正当に創り出された共存可 以上から、原初的権利︵日侭ヨ巴1答厨︶、もっと言って
能な権利があることになる。これをノージックⅡスタイナー しまえば、自己所有権を含めた原初的所有権︵○コ唱.巴
に倣って、歴史的権原舎尉8号巴自昏庁白目厨︶と呼ぶこ 頁8国ご凰瞥扇︶の確定が重要になってくることがわかる。
とにしよう。重要なことは、歴史的権原の観念がリバタリア まず自己所有権についてだが、先述したように、権利を行使
ンにとって譲渡の原理や匡正の原理を構成しており、そうし するにしても義務を果たすにしても自分の心身の原初的所有
彰)

た原理からの逸脱のみが、各人が担うべき責任の範晴に入る なしには成り立たないことから、自己所有権が原初的所有権
ものだとされる点である⑦国邑g己震&塁︲so に含まれるのは自然である⑦房宮田ら這叩圏宇巴。問題は、
正義論としてのリパタリアニズム(井上

それゆえ歴史的権原の構想からすると、そうした責任を各 自己所有権を行使して外的自然︵天然資源など︶に働きかけ
人に負わせる正当な源泉とは何かが問題になる。スタイナー た場合、それにより得られたモノに対する所有権はいかなる
はこれまでの権利分析をふまえ、そうした帰責のために必要 条件で認められるのかについてである。究極的に先立つ条件
とされる条件として、各人が﹁他の人よりも多く妨害されて は平等な自由を保護するものでなければならないと考えるス
いるということがなかった﹂状態、すなわち﹁すべての人が タイナーは、他の自己所有権型リバタリアンと同様、そうし
等しく自由であった﹂状態を考える⑦蔚言9s程恥隠e・ た原初的所有権の成立条件として﹁ロック的但し書き﹂
スタイナーによれば、妨害されることのない行為の領域がす PC鳥8.頁Ca8︶をあげているが、その内容は無論、無
べての人に等しく与えられている初期状態こそが、正義の名 主物資源の平等な分割を条件とするものである命蔚ヨ四

235
の下に問われるべきものだ。スタイナーの言い方を借りれば、
︵ 沢 h ﹀ ︶
]やや↑“いい↑I②︶○
このように権利の分析的解明から所有権の正当性へと目を はそこに落とし穴がある。というのも選択説は、意識障害や

236
投稿論文

向けていく道筋と、その正当性が無主物資源の平等な初期分 精神的な障害をもっている成人の権利や、なにより子供の権
配によって担保されることを示すスタイナーの議論は、正義 利を説明できないという難点を抱えているからである
論としてのリバタリア’一ズムにつきまとう呪縛を解き放つ。 ︵冨肖○日目民ら圏恥の言野君g閏邑急凸き︶。とくに、子
それは、リバタリア’一ズムが初期状態においてさえも資源の 供に対する養育義務や子供の教育権が説明できなくなってし
平等な分配を受け入れられないとする、ある種のイデオロギ まうと、正義論としては受け入れがたい帰結︵たとえば子供
ー性である。スタイナーはそうしたイデオロギー性に捕らわ の虐待に対する、権利レベルでの容認など︶を招いてしまう。
れることなく、一貫した権利の構想を提出するにあたって、 スタイナーの権利論はこの批判に対し、どう応えることがで
平等主義的資源分配を織り込むことが不可欠であることを分 きるのか。
析的に示したと言える。言い換えれば、スタイナーは、正義 この問題に対するスタイナーの応答は間接的なものである。
論としてのリバタリァニズムが左派たらざる得ないことを、 先にみたようにスタイナーは、原初的所有権に自己所有権が
無矛盾な正義体系を目指す議論の中で鮮明に浮かび上がらせ 必然的に含まれるとしているが、その延長線上に、自分の子
たのである。 供︵子孫︶に対しても、︵自己所有権を行使してつくった以
上︶自由裁量の所有権を認めざるを得なくなるというパラド
三スタイナー権利論の限界
クスが存在することに気づいている。これをスタイナーは、
前節では、スタイナーの権利論を、正義論としてのリバタ ﹁普遍的自己所有権のパラドクス﹂今胃冒国号〆旦昌弓閏,
リアニズムの一貫した構想として評価した。ここではスタイ 8−開扉︲○葛扁勗ご豆と呼んでいるあ扁旨閂巳程亜屡巴。こ
ナーの構想が抱える問題点について、二点ほど明らかにした のパラドクスを解消することは、正義論としてのリバタリア
い。 ’一ズムにとって重要な課題である。スタイナーはパラドクス
1子供の権利と普遍的自己所有権のパラドクス の解消を通じて、先にあげた選択説の反直観的含意、すなわ
先述したように、スタイナーが準拠する権利の選択説は、 ち子供には権利がないということから看取される反直観的含
別の人が負う義務を放棄したりその履行を求めたりする請求 意を緩和しようとする。ではどのようにパラドクスを解消し
権にうまく適合する。選択説は権利保有者の自由裁量の権能 ようとするのか。
をベースに、権利を分節化する理論であるからだ。しかし実 先にみたようにスタイナーは、外的資源を用いる労働の場
合、労働の産物に対する所有権を得るためには、究極的に先 ︵成人した︶子孫が自らの心身に対して、請求権としての自
立つ正義の条件、すなわちロック的但し書きを充たすもので 己所有権を得るとまでは言えないように思われる。せいぜい
なければならないとしている。すなわち、外的資源はロック 言えることは、子供が親の完全な所有物であるとは言えない
的但し書きによって平等に分配されるべきものである、と。 ということであって、︵成人した︶子孫が完全な自己所有権
このことをふまえて普遍的自己所有権のパラドクスを検証す を有すると言うためには、この議論だけでは不十分であるよ
ると、それが拠り所にする一つの前提にメスを入れることが うに思われる。となると、この議論が普遍的自己所有権のパ
できる。その前提とは、﹁すべての人は︵原初的に︶、他の人 ラドクスを解消し、子供の権利を否定する選択説の反直観的
の労働の産物である﹂というものだ$8旨囚ら程恥瑳ら。 含意を回避するとは言えないのではないか。
なぜこの前提にメスを入れることができるのかと言うと、す 2理想的理論と非理想的理論の架橋
べての人︵子︶は、他の人︵親︶が正当に所有する心身のみ スタイナーの正義構想の最たる特徴は、その体系が論理一
を行使して出来た産物ではないからである。言い換えれば、 貫性をもつように構築されている点である。問題はそうした
それは前もって平等に分配されるべき、外的資源の使用を伴 無矛盾性を志向する構想が、正義体系として現実世界にどの
う労働であるというわけだ。その外的資源とは、DNA鎖の ように適用されるべきかが不分明であるという点だ。すなわ
彰)

複製や組み換えに関するコード、すなわち生殖細胞系列遺伝 ち、スタイナーの正義論にみる形式的無矛盾性が、矛盾だら
情報両の﹃目︲言の淵.82コき﹃ョ昌○己である。こうした情 けで一貫性の乏しい現実世界に適用されるときに、前者が後
正義論としてのリパタリアニズム(井上

報に鑑みると、祖先から受け継がれた遺伝の要素が、コント 者にどのような規範的含意をもち、後者が前者にどのような
ロールできないかたちで常にわれわれに関わってくることか 教訓を与えるのかが明らかではないのだ口要するにスタイナ
ら、子供が完全に両親の自己所有権に基づく労働の産物であ ーは、理想的理論︵丘8−号gご︶の次元で論理一貫性を志
ると言うことはできないlこうスタイナーは主張するのだ 向するだけで、そうした理想型的体系が非理想的理論言○早
ぁ扁冒閏乞程&ミ士︶。この議論は成功しているだろうか。 昼①巴昏gご︶においてどのように位置づけられるべきかを
私見では、この議論は失敗に終わっている。確かに、外的 考慮していないように思われるのである。
資源としてプールされる生殖細胞系列遺伝情報が平等にシェ 事実、スタイナーの議論に投げ掛けられる批判の大半が、
アすべきものとして扱われるのは、スタイナーの正義構想に この点に関わっている。代表的なものを二つとりあげよう。

237
適っている。しかし生殖細胞系列遺伝情報を盾にとって、 先にみたようにスタイナーは、行為に関わる︵少なくとも一
っの︶物理的構成要素の実際の所有、もしくは仮定法的所有 が要所要所で述べている﹁当為は可能を含意する﹂︵○侭胃

238
投稿論文

が他者︵の行為︶によって否定されたら、当の行為を履行す 冒昌の⑳目己⑦扇冒閏乞程“閉︾程︶を素直に解釈するなら
る自由はないとしている。しかし、この仮定法的所有の﹁仮 ば、権利など現実世界にはほぼ存在しないことになる。とい
定法的﹂という語の解釈の仕方によっては、スタイナーの議 うのも、︿裸の自由﹀によって許容されるような何らかの干
論は、現実世界にほぼ適用不可能な議論になってしまう。ど 渉的行為によって︿保護された自由﹀が脅かされるのなら、
ういうことか。仮定法的と言っても二つの解釈が可能である。 ﹁当為は可能を含意する﹂のだから、義務との相関性を有す
すなわち、所有の妨害ないし否定に他者の意志が介在しなけ る確定的権利は存在しないことになるからだ。ナイジェル・
ればならないとする解釈言目巨富吊蔚g日①蔚昌&とす シモンズは、こうした干渉的行為が現実に数多く存在するこ
る解釈︶と、所有の妨害や否定の物理的可能性のすべてをひ とに鑑みると、スタイナーの構想は背理法的に退けられてし
っくるめる解釈︵8匡匡冨帛胃自買①忌日&とする解釈︶ まうのではないかとみる︵四日日○且の昌洛卸箇?冒一﹄邉醇
である。はっきりしているのは、後者の解釈だと実際に権利 ]四m1つ︶O
はほとんど存在しないことになる、という点だ。もっともス この二つの批判はともに、権利の実現可能性を物理的可能
タイナーの議論は、そのリバタリアン的特徴からして、前者 性として捉えると、スタイナーの自由論や権利構想が、非理
の解釈に則っているようにみえる。だが、スタイナーは物理 想的理論のレベルでは︵少なくともそのままでは︶通用しな
的構成要素に対する所有権だけを権利としてみなす以上、後 いということを鋭く指摘するものである。ただこの二つの批
者の解釈に基づかざるを得ないのではないかlそうキー 判をもってして、スタイナーの分析的アプローチの意義を否
ス・ダウディングとマーティン・ヴァン・ヒーズは主張する 定することはできないだろう。これらの批判は、スタイナー
︵CO言9コ”画弓。ぐ四口函①$g一鱒畠中巴・ の議論︵および正義論としてのリバタリアニズム︶に非理想
二つ目の批判は、︿保護された自由﹀と権利の共存可能性 的理論レベルでの課題を突きつけるものであって、それ以上
を関連づけるスタイナーの議論に向けられるものである。ス でもそれ以下でもないように思われるからだ。スタイナーの
タイナーは、請求権の行使を絶対的に担保する︿保護された 議論が理想的理論として、正義論としてのリバタリアニズム
自由﹀のみが、権利の共存可能性と両立する自由だとみてい を分析的に突き詰めた構想であり、その次元で依然として真
る。しかしスタイナーの言う通りに、不可侵の排他的領域を 剣に受け止めるべき内容をもつ議論であることに変わりはな
保護する権利のみが権利の名に値するとし、スタイナー自身 い o
︵1︶スタイナーの﹁権利論﹂命扁ご閏ら窟︶は、そうした哲学的探 命蔚旨囚乞置&今勇巴遥医学s︶。本稿では、この議論の妥当性
究の成果である。なおこのスタイナーの主著の簡便な紹介としては、 について問わないが、その批判的検討としては、段ヨョ○且の︵ご湯
森村︵二○○五二五六︲七︶。 い︺“I画一︶O
︵2︶もっとも、リパタリアンを標傍する論者の中には、選択説︵意 ︵4︶もっともスタイナーは、正義を多元的に存在する道徳的諸価値
志説︶と利益説のバランス重視型ないしハイブリッド型の見地を採 の一つに過ぎないとみていることから、完全義務の体系から成る正
義に適う行為が、必ずしも常に道徳的に許容可能だとは言えないし、


る者
もい

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とえ

、森
村︵

九八
九町

六︶
およ

く巴
一の

再思
ロ①

唾つ
一劃

や画
Iい

O その逆もしかりだと考えている窃蔚冒国己窒邑震I隠巴。たとえば、
︵3︶もちろん、義務との相関性をベースとする権利概念と選択説に 困窮状態にある未知の者︵口①①号望国己帰易︶を助けないことは正義
よって分節化されるものとの適合性をいくら強調したところで、選 に反することではないが、道徳的に許容できないことだとみなせる
択説を正当化することにならないのは言うまでもない。事実、選択 かもしれない。したがって、完全義務の体系を唯一の正義の体系だ
説には、刑法や公法に基づく義務の最たる特徴である放棄不可能性 とするリパタリア’一ズムの反直観的含意は、こうした多元主義によ
︵屋ご乏巴ぐ号薑ご︶に対し、どう対処すべきかという問題がつきま って緩和されるl少なくともスタイナーはそう考えている。
とう。たとえば暴漢に私が不意に襲われたとして、その暴漢が従う 鱒のご国︵ら程凸亀釦︶も参照のこと。
べき刑法上の義務を私が︵つまり権利保有者が︶放棄することは通 ︵5︶もっとも行為トクンをべlスに行為を捉えていくと、行為を
常認められていない。もちろん、私を刑法の第三者的な受益者とみ 無限に細分化してしまうのではないかという懸念が出てくるだろう。
て、請求権が︵司法︶当局の役人に存するとみて、暴漢が服すべき この懸念に対するスタイナーの応答は、行為の無限に広がる可能性
正義論としてのリパタリアニズム(井上彰)

義務との相関性を保つとみるならば、選択説は司法取引や免責特権 を当該行為の物理的構成要素を同定することで有限な変数に還元し、
などを説明するにふさわしいモデルとなるかもしれない。しかしそ その行為トークンにどれだけの要素的行為が含まれるかはそれによ
の場合でも、当局の役人が刑法上の義務を放棄する権利をもたない って決まる、というものである⑦扇ヨ閏ら震い超︶。たとえば、実
︵すなわち無権能である︶ことを否定するのは難しい以上、結局そ 際にシェークスピアのリチャード三世の劇を観に行く際に伴う外延
うした義務を免除することの放棄不可能性については認めざるを得 的要素は、それぞれの要素的行為︵午後六時の劇に問に合うように
ないのではないかlこうした疑問が投げ掛けられてもおかしくな 電車で劇場に向かう行為等︶の外延的要素を部分集合としてもつこ
い 。 とから、それにまつわるすべての物理的対象物と空間的配置は、そ
この疑問に対しスタイナーは、選択説を擁護する立場から、権利 うした要素的行為の物理的構成要素の集合と同一だと言えるのであ
と義務の相関性を崩さない議論を提出する。それによると、国家当 る。この問題についての詳細な検討としては、○閏扁﹃︵這邉。ご評
局の階層構造の中で、下位の役人が義務を放棄できないという意味 のい己・︾﹄や︽iや︶o
で無権能であっても、免除の権利を有する上位の役人が存在する。 ︵6︶ただし単なる資源の平等な分割という言い方は精確なものでは
そしてその無限背進的構造に従えば、最終的に免除の権利が放棄可 なく、むしろ資源の︵経済的◆競争的︶価値の平等な分割をスタイ

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能な最上位の当局の役人にあることを認めざるを得ない、と ナーは念頭に置いているお扇ヨ曾己程息ご由︶。
︻参考文献︺ 森村進︵編著︶︵二○○五︶﹁リバタリアニズム読本﹂勁草書房

240
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投稿論文

ご己ぐ胃里qも愚膀. ︹付記︼本稿は文部科学省科学研究費補助金による研究成果の一部で
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森村進二九八九︶﹁権利と人格”超個人主義の規範理論﹂創文社
森村進︵二○○二﹁自由はどこまで可能か梱リパタリア’一ズム入門﹂
講談社現代新書

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