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文化相対主義

江口聡

2022 年 5 月 18 日

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この文書をレポートで参照・引用する場合は、文献表では以下のように表記すること。

江口聡 (2022) 「文化相対主義」、講義資料、5 月 18 日版

倫理学における文化相対主義(文化相対説*1 )は、道徳的な価値や規範は社会や人々の
グループに相対的であるという主張だ。倫理・道徳はその社会によって決まっている決ま
り事や慣習であって、その優劣はないとも主張される。「道徳は単なる慣習である」「倫理
観は社会によってさまざま」という考え方は非常に古くからある。

1 相対主義者たち
1.1 古代ギリシアのソフィストたち

古代ギリシアのポリス社会では、政治制度は王政、貴族制などさまざまであったが、ア
テネに代表される民主政(民主制)をとるポリスもあった。民主政では民衆を説得する
「弁論」が重要になったために、弁論の技術を教える知識人・職業的教師たちが登場した。
彼らは弁論術だけでなく他の知識も収集しており、古代の学者・哲学者でもあった。彼ら
は「ソフィスト」、すなわち「知者」を自称した。
ソフィストたちのあいだでは、認識に関する相対主義が人気だったとされている。暑
さ、寒さの感じ方は人によって異なる。最も有名なプロタゴラスの「人間は万物の尺度」
という言葉が残っている。
人間の感じ方だけでなく、道徳的な判断やあるべきルールも社会に相対的だという考え
方は、文化相対主義と呼ばれる*2 。社会のルールは社会や文化によって違い、その社会に
住んでいる人々の道徳的判断も大きく異なる。たとえば女性の浮気・婚外セックスなどは
多くの文化で共通して非難される傾向があるが、どれくらい厳しい罰を加えるべきかとい
うことは社会によって異なる。ソフィストたちは古代ギリシア世界のあちこちのポリスの
あいだを渡り歩いて弁論術その他を教えたので、ポリスごとによる慣習・法(ノモス)の
違いを意識することになったのは自然だろう。
ソフィストたちは、ノモス(法、習俗、人間の決めごと)とピュシス(自然)の対立とい
う図式で、ノモスの恣意性を指摘した。ピュシスは弱肉強食などの世界を支配する法則だ
が、ノモスは人間集団によって恣意的に決まっている。したがって、我々はノモスをそれ
ほど尊重する必要はない。うまく不正なことをできるときにはそうしてもかまわないし、

*1 この講義資料では、「∼説」と「∼主義」の表記が統一されていない場合があるが、気にする必要はない。
倫理学上の学説の多くは「∼説」とも「∼主義」とも呼ばれる。どちらも英語にすれば「∼ism」である。
*2 倫理的相対主義、道徳的相対主義、相対主義などとも呼ばれる。
1
むしろ不正なことを上手に行なうべきだ、という見解を表明したソフィストたちもいたと
される。

1.2 歴史家ヘロドトス
最古の歴史家とされるヘロドトス(紀元前 5 世紀、古代ギリシア。(c. 484 ‒ c. 425
B. C.))は次のような文章を残している。

〔ペルシア王カンビュセスはペルシアの慣習を尊重し
なかった。
〕あらゆる点から見て、カンビュセスの精神が
極度に錯乱していたことは明白であると私は考える。さ
もなくば、いやしくも信仰や慣習に関わることを敢えて
笑するようなことをしたはずがないからである。
実際どこの国の人間にでも、世界中の慣習の中から最
も良いものを選べといえば、熟慮の末誰もが自国の慣習
を選ぶに相違ない。このようにどこの国の人間でも、自
国の慣習を格段にすぐれたものと考えるのである。これ
ほど大切なものを 笑の種にするということは、狂人で
もなければ考えられぬ行為といえるであろう。
どこの国の人間でも、慣習についてこのように考えて 図1 ヘロドトス

いることは、いろいろな証拠によって推論することがで
きるが、中でも次に記すことはそのよい例といえよう。ダレイオス王がその治世中、
側近のギリシア人を呼んで、どれほどの金を貰ったら、死んだ父親の肉を食う気にな
るか、と尋ねたことがあった。ギリシア人は、どれほどの金を貰っても、そのような
ことはせぬと言った。するとダレイオスは、今度はカッラティアイ人と呼ばれ両親の
肉を食う習慣を持つインドの部族を呼び、先のギリシア人を立ち会わせ、通訳を通じ
て彼らにも対話の内容が理解できるようにしておいて、どれほどの金を貰えば死んだ
父親を火葬にすることを承知するか、とそのインド人に ねた。するとカッラティア
イ人たちは大声をあげて、王に口を慎しんで貰いたいといった。慣習の力はこのよう
なもので、私にはピンダロスが「慣習こそ万象の王」と歌ったのは正しいと思われる。
(ヘロドトス『歴史』第 3 巻、紀元前 5 世紀)

1.3 プラトン『テアイテトス』から
プラトンの作品でも数々のソフィストたちが登場し、「正しいこと」は恣意的なもので
はないだろうとするソクラテスと論戦を交す*3 。
ソクラテスが、論敵たち(ソフィスト)の主張と考えているものは次のようなものだ。

なにが美風であり、何が陋習であるか、なにが正当であり、なにが不正であるか、何
ポリス
が敬神で、何が不敬であるかというようなことは、各国家がそれをそう思って自分
のところの法に制定すれば、どんなものだって、私も国家も、一者が他者よりも智

*3 むしろプラトンの作品のなかで有名ソフィストたちが相対主義的で利己主義的な主張を行なっていると描
写されたために、ソフィストたちの主張はそうしたものだと理解されている、といってもよいかもしれな
い。
2
であるというようなことはむろん少しもないのである。(プラトン『テアイテトス』、
172A、藤沢令夫訳)

2 フランスのモラリストたち
2.1 モンテーニュの『エセー』から
こうした相対主義の発想は、近代においても表明される。
特に、フランス近代のモラリスト(人間通)と呼ばれる人々は人間の滑稽さ、馬鹿ら
しさを皮肉に表現することを好む。彼らはしばしば、人々の信念が単なるおもいこみで
あることを指摘する。宗教戦争の悲惨さを目にしたモンテーニュ (Michel Eyquem de
Montaigne, 1533-1592) は特に相対主義的な傾向を見せている。

昔、わたしは、われわれの守っている慣習のうちの、ずっと長いあいだ確定した権
威によってわれわれのまわりでうけいれられているあるひとつを、正しく価値評価し
てみる立場に立ったことがあったが、よくおこなわれているように、種々の掟や習慣
の力によってその根拠を固めることは望まなかったので、その原点にまでさかのぼっ
て究明してみようとした。すると、その基礎がひじょうに弱々しいものであることが
わかり、他のひとにそれをはっきり示してみせるはずの自分が、そのことにすっかり
いや気がさしてしまうほどだった。
(『エセー』第 1 巻 23 章)

おおやけの社会はわれわれのさまざまな思考をべつに
どうともしない。しかし、それ以外の部分は、われわれ
のかずかずの行為、われわれの労働、われわれの財産、
われわれ個人の生活は、おおやけの役にたつよう、世間
一般のかずかずの意見にあわせるよう、まかせ、ゆだね
なければならない。ちょうどあの分別のある偉大なソク
ラテスが、法に服従しないことによって自分の生命を救
図2 モンテーニュ
うことはきっぱり拒絶したのがそれだ。それも非常に不
公正、不公平な法にたいしてなのだったが。というのは、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ひとりひとりが自分のいる場所の規則を守ることが、規則のなかの規則、法律のなか
の全般に通じる法律だからだ。(
『エセー』第 1 巻 23 章)

2.2 パスカルの『パンセ』から
パスカル (Blaise Pascal, 1623-1662) はかなり厳粛なキリスト教徒で、キリスト教を擁
護しようとする弁神論の書物を執筆しようとしたが、草稿を残しただけで死んだ。そんな
彼もモンテーニュに強い影響を受け、相対主義的な断片を残している(実際にはそれにキ
リスト教の立場から反論しようとしたと考えられている)。

3
彼〔モンテーニュ〕は、その統治しようとする世界の機
構を何の上に基礎づけようとするのか。各個人の気まぐ
れの上にであろうか。なんという混乱。正義の上にであ
ろうか。彼はそれを知らない。確かに、もしそれを知っ
ていたのだったなら、人間のあいだで最も一般的なこの
格律、すなわち、各人は自国の風習に従うべし、などと
いうのを確立しなかったであろう。真の公平の輝きがす
べての国民を服従させたであろうし、立法者たちも、こ
の不変の正義のかわりに、ペルシア人やドイツ人たちの
思いつきや気まぐれを模範としてとりはしなかっただろ
図3 パスカル
う。人々は、世界のあらゆる国とあらゆる時代とを通じ
て、不変の正義が樹立されているのを見たことだろう。
ところが、そのかわりに、われわれが見る正義や不正などで、土地が変わるにつれて
その性質が変わらないようなものは、何もない。緯度の三度のちがいが、すべての法
律をくつがえし、子午線一つが真理を決定する。数年の領有のうちに、基本的な法律
が変わる。……川一つで仕切られる滑稽な正義よ。ピレネー山脈のこちら側での真理
が、あちら側では誤 である。
……盗み、不倫、子殺し、父殺し、すべては徳行のうちに地位を占めたことがある。
ある男が、水の向こう側に住んでおり、彼の主君が私の主君と争っているという理由
で、私は彼と少しも争っていないのに、彼に私を殺す権利があるということほど滑稽
なことがあろうか。
……このような混乱から、ある人は、正義の本質は立法者の権威であると言い、他
の人は、君主の便宜であると言い、また他の人は、現在の習慣であると言うことが生
じる。そしてこの最後のものが最も確かである。理性だけに従えば、それ自身正しい
というようなものは何もない。すべてのものは時とともに動揺する。習慣は、それが
受け入れられているという、ただそれだけの理由で、公平のすべてを形成する。これ
がその権威の神秘的基礎である。それをその原理にまでさかのぼらす者は、それを消
滅させてしまう。(パスカル, 1978, 294)

正義。流行が好みを作るように、また正義をも作る。(パスカル, 1978, 309)

モンテーニュはまちがっている。習慣はそれが習慣であるゆえにのみ従われるべき
で、それが理にかなうとか正しいとかのゆえに従われるべきではない。だが、民衆は
それを正しいと思うというただ一つの理由によってそれに従っているのである。さも
なければ、それがいくら習慣であっても、それに従わないだろう。なぜなら、人は理
性あるいは正義にしか服したがらないからである。それらがなければ、習慣も圧政と
みなされるであろう。(パスカル, 1978, 325)

3 現代の相対主義的風潮
4
近代にはヨーロッパ諸国が海外を植民地化し、異なる文化を
まのあたりにすることになった。当初はヨーロッパとは異質な
文化は未開で野蛮なものと考えられたが、20 世紀には次第にそ
うした文化もそれぞれ洗練された文化的構造をもっていること
が理解されるようになる。
20 世紀前半にはマリノフスキー (1884-1942、『未開人の性生
活』など)、ルース・ベネディクト (1887-1948、
『菊と刀』など)、
マーガレット・ミード (1901-1978、『サモアの思春期』) らの文
化人類学が大きく発展し、文化の多様性が強調され、西洋の道
図4 ベネディクト
徳観は特権的なものではないとする主張が見られるようになる。
文化人類学者たちは、文化相対主義的な発想をすることが多かっ
た*4

……われわれはもう、われわれの地域や時代から道徳を導き出して、それが人間の
本性の避けがたいなりたちから成り立っているのだなどとまちがわないようにしよ
う。われわれの道徳を、なんらかの第一原理の尊厳をもつものと考えるのをやめるこ
とにしよう。われわれは、道徳はそれぞれの社会で異なること、そして「道徳」とは
社会的に是認されている慣習をさす便利な言葉にすぎないのだということを認めなけ
ればならない。人類はいつも、「それは慣習だ」というかわりに「それは道徳的によ
い」と言う方を好んできた。こうした好みについての事実が、倫理に関する批判的科
学の十分な材料になってしまっていた。しかし歴史的には、この二つのフレーズは同
義なのだ。
「正常なもの」という概念は、実は「よいもの」という概念の変種であるといって
よいだろう。それは、その社会が是認するもののだ。正常な行為とは、ある特定の社
会で期待されているふるまいの限度内におさまるような行為だ。様々な民族において
それが変異するのは、本質的には、さまざまな社会が自分たちのために作り上げてき
たふるまいのパターンの変異の関数であって、このことは、文化的に制度化されたふ
るまいのパターンから完全に切り離して考えることはできない。(Benedict, 1934)

4 相対主義の含意とその魅力
文化相対主義はさまざまな形で主張される。レイチェルズの整理ではほぼ次のようにな
る (Rachels, 2003)。

1. ある道徳的言明は、その社会の基準に照らして真偽が定まる。(「メタ倫理学的
相対主義」)(特に記述的相対主義と呼ばれる。)
2. 異なる社会は異なる道徳規範を持つ。
3. ある社会の道徳規範は、その社会においてなにが正しいかを決定する。つま
り、ある一つの社会の道徳規範があるふるまいを正しいとするならば、その行
動は、すくなくともその社会においては正しい。
4.(したがって)一つの社会規範が別の社会規範より優れていると判断できる客

*4 ミードの研究はいろいろ問題があったので注意。Freeman (1983)、Brown (1991) などを参照。


5
観的基準はない。
5.(したがって)我々の社会の道徳規範は特別な地位を持つものではない。それ
は数多くある道徳規範のうちの一つにすぎない。
6. (したがって)他の (文化の) 人びとの行為を判断しようとするのはまったくの
傲慢である。他の文化のひとびとが行なうことに対してわれわれは寛容な態度
をとるべきである。(「規範的相対主義」)
7. そもそも倫理に「普遍的真理」などは存在しない。つまり、いつの時代にも、
またすべての人びとにあはまるような道徳に関する真理は存在しない。(この
タイプは「ニヒリズム」と呼ばれることがある。)

こうした文化相対主義は一部の人々、特に権威・権力を嫌い、偏見や差別を憎み、自由
や平等を重んじる人々に人気のある立場である。その魅力をよく考えてみよう。
まず、文化によってさまざまな慣習が違うという事実は明白である。食習慣やそれに関
するマナー、結婚やセックスやそれらに関するタブー、ジェンダー役割意識、身分や階級
制度、友人関係のありかた、商取引などの違いは、いまだに異文化に接した人々にショッ
クを与える。
どの文化が「より進んで」いるかを判断するのは難しい。他の文化の人々から我々の慣
習や文化を批判されるのは偏見であると感じられ不快なものであるし、また我々自身が他
の文化を自分たちの文化より劣ったもの、遅れたものと見る姿勢もまた偏見的で傲慢であ
ると感じられる。我々の多くは他の人々の生活にいちいち口を出し批判したり非難したり
することは避けるべきであると考えているため、さまざまな価値が文化によって相対的な
ものだという立場は魅力的だ。
他の文化に対しては寛容であるべき、他の社会に対する軽 を表わすことに慎重である
べきという信念は(現在では)広く受けいれられている。歴史的な教訓からしても、他文
化の社会慣習に干渉することには慎重になるべきである。大航海時代以降、ヨーロッパの
キリスト教宣教師たちは海外に進出し、キリスト教を信じていない人々を堕落した劣った
人々であるとみなして改宗させようとしただけでなく、彼らが好ましくないと考えた慣習
や文化を消滅させようと努力した。キリスト教以外でもそうした発想は見られ、武力が使
われる場合も少なくない。そうした強制はその地の文化を破壊してしまう。そうしたこと
を避けるためにも、他の文化の尊重という態度は重要である。われわれの好みがなにか絶
対的な合理的基準にもとづくと仮定することは危険なのである。常に他の人々の価値観と
批判とに対して開かれた心をもちつづけるべきだといえるだろう。
さらに、われわれの多くには「道徳」は「社会からの押し付け」と感じられる。道徳は
おそらく「私」の単なる好みではなく、やむなくしたがわざるをえないものである。「道
徳」は親や共同体から教えられしつけられるものである。文化相対主義はこの点をよく説
明してくれる。道徳は私の好みというよりは、社会や文化によって定められているもので
あるから私にとって押しつけに感じられるのも当然のことだろう。

5 相対主義への批判
しかし、ソクラテスやプラトン以来、哲学者たちの主流は相対主義的思想に反対する傾
向にある。道徳の客観的な基準、普遍的な基準はあるか?文化相対主義に対する哲学者た
ちの反論はどのようなものだろうか。

6
5.1 道徳観の違いは見かけだけ?

第一に、文化による道徳的規範の違いは見かけだけかもしれない。冒頭のダレイオス王
の逸話でのギリシア人もインド人も、「親の遺体は丁重に扱わねばならないか?」とたず
ねられたら「イエス」と答えそうである。つまり「親は大事にするべき」という基本的な
・・
原則は同じだが、「大事にする」という目的のための手段についての考え方が違うだけか
もしれない。一方のギリシア人は親の遺体は火葬にすることが親のためになることだと考
え、インド人はなんらかの事情によって、たとえば子孫に肉を食べてもらうことによって
子孫の体のなかで永遠の生命を得ることができるという信念によって、親のためにこそ親
の肉を食べる必要があると考えているのかもしれない。
多くの文化がごく基本的な原則については共通の基盤をもっている、ということはあり
える。たとえば「あなたがしてほしいことを他人にしなさい」「あなたがしてほしくない
ことは他人にするな」といった命令や勧告はほとんどどのような文化でも子どもに教えら
れるものだろう(この基本的な命令は「黄金律」と呼ばれることがある)。

5.2 他の文化を批判できない?
第二に、もし文化相対主義が正しければ、われわれは他の社会の習慣や社会規範がわれ
われの習慣や社会規範より道徳的に劣っているとは言うことができなくなる。しかしわれ
われは本当に他の文化の慣習には口出しするべきではないのだろうか? その文化の内部
で正しいと思われていたらそれは実際に正しいのだろうか。

• 奴隷制度、人身売買、人種差別制度。
• FGM (女性器切除) (内海, 2003; Khady, 2005)
• インドのサティー(寡婦殉死)。ヒンドゥー文化圏で寡婦が焼身自殺をする風習。
(Sen, 2001)
• 各地の「名誉の殺人」。家族の名誉を守るため、婚前・婚外交渉をもった女性を殺
害する。イスラーム文化圏に多い。(Souad, 2003)
• 残虐な刑罰(身体刑)、 打ち、手首切断、入れ墨
• 死刑
• 安楽死、障害をもった新生児殺し、妊娠中絶

たしかに FGM のような慣習を他の文化圏の人間が批判することには慎重であるべき


かもしれない。しかし、どのような文化の慣習も、その文化に属している人びとが正しい
・・・
と考えているのなら実際に正しく、他の文化に属する人びとは一切の批判を行なうべきで
・・・
はない、とまで主張しようとするならば明白な誤りであるように思われる。

5.3 意見の対立
私たちの生活は、人々の間の道徳的・政治的な意見の対立で満ちている。メディアや
SNS を見るとそれが日常的なものであることが意識されるはずだ。
しかし、もし相対主義が正しければ、異なる文化に属する人々のあいだで道徳的な意見
の対立が現に存在することを説明できない。それは見せかけの対立にすぎないことにな
る。ほとんどの道徳的対立は次のようにして解決されることになるだろう。

A 「B さん、私はあなたの社会でおこなわれている∼はまちがっていると思い
ます」

7
B 「あなたが「まちがっている」というのは、「あなたの文化から見てまちがって
いる」ということですね? 私の文化ではそれは正しいとされているのです。」
A 「そうですね、文化はさまざまですからね。」

しかしこれは奇妙なことである。もしこうした考え方が正しければ、我々は現にある
・・
我々の社会の基準を調査するだけで、ある行為が正しいかまちがっているかを決定できる
・・・・・
ということになる。これはあきらかに不合理に見える。「人びとが事実としてどう考えて
・・
いるか」と「どう考えるべきか」は別のことである。「あなたがやっている∼は不正であ
・・・・・・・
る」という主張は、「あなたも∼は不正であると考えるべきだ(そして反省してそれをや
めるべきだ)」を意味するはずだ。

5.4 道徳の進歩はない?

また、相対主義が正しければ、「道徳的進歩」などといったものは存在しないことにな
る。たとえば、江戸時代や明治時代には、女性は男性よりも本質的に劣ったものと考えら
れており、そう扱われていたと言われる。現在わたしたちの多くは、男女が平等な社会的
権利を持てる社会を目指している。しかし、もし文化相対主義が正しければ、江戸時代
の考え方も現代の考え方もどちらも同じ価値ということになってしまうのではないだろ
うか。
さらに悪いことに、もし文化相対主義が正しければ、われわれが生きている現在の社会
・・・・
を内部から批判することも原理的にできない、つまり、そうした批判はすべてまちがって
いるということになる。たとえば、婚前・婚外性交渉は重く罰されるべきであり、また女
性は社会にでるべきではなく、家庭のなかでだけ活動するべきだ、と考える文化のなかで
生活している人々のなかにも、婚前・婚外性交渉に対する重い処罰に反対する人々、女性
の社会進出を期待する人々はいるだろう。しかしそうした人々の意見は、「その文化のな
かでは」常にまちがっている、ということになる。これまでも、社会の道徳的な側面は、
革新的な個人が社会を批判することによってなしとげられてきた。女性には教育は必要な
いと思われていた時代に女子教育をめざした人びと、奴隷制度の廃止などの改善がなされ
たのは、そういう慣習を批判する人びとがいたからである。しかし「道徳の基準は社会が
決めている」という相対主義が正しければ、ある文化の内部でその文化を批判する人々
は、常に間違っているということになってしまう。

5.5 「文化」ははっきり指示できない

もっとも重大な問題点としてあげられるのが、そもそも「文化」や「社会」というもの
がはっきりした境界をもって存在しているかどうかは怪しいという点である。
「現代日本の文化」とひとくくりにされることが多いが、関西だの京都だの若者だの中
年だの学者だの学生だの、さまざまな属性を持つ人々の寄せあつめでしかない。その個々
の集団によって考え方のパターンは違っている。「現代日本の文化」
「江戸時代の文化」な
どというものは存在しないかもしれない。したがって、文化相対主義・社会相対主義は、
ほぼ必然的に主観説(「道徳は個々人の主観の問題」)まで細分化されることになる。ある
いは、そもそも道徳というものはまったくの幻想でしかなく、道徳的な真理・真実といっ
たものはまったく存在せず、道徳的な主張は実はなにも主張していないという立場(ニヒ
リズム、虚無主義)にまで陥いることになる(と倫理学者の大勢は考えている)。

8
5.6 相対主義の規範的な含意は自己矛盾する

相対主義的な発想の魅力が、他の文化に対する寛容な態度を推奨するところにあること
は前に指摘した。しかし、もし相対主義が本当に正しければ、そうした寛容を推奨する主
張自体も単にある文化や社会がそう認めているから正しい、ということにすぎなくなって
しまう。たしかに現在のわれわれの社会では、他の文化に対して寛容であるべきであり、
その価値や正当性について即断を避けるべきだという考え方が優勢だが、それも単にわれ
・・・
われの社会の流行にすぎないということになってしまうかもしれない。もし本当に他の文
化に対する寛容を要求しようとするならば、その基準は単なる我々の好みや流行によるも
のではないということを示す必要がある。
・・・・
この問題が深刻になるのは、他の文化や他の人々の考え方に寛容ではない文化や立場が
あった場合にその文化や立場をどう考えるべきかという問題にぶつかった場合だ。たとえ
ばある種の宗教的信念や政治的信念は非常に不寛容であり、他を軽 し、排撃しようとさ
えする場合がある。相対主義者はそうした立場を批判することができるだろうか。多くの
哲学者はそれは不可能だと考えている。

6 相対主義者は知的・道徳的に怠惰?
相対主義者は知的・道徳的に怠惰だと言われることがある。「ある人々にとって正しい
ことは別の人たちにとってはそうではない」「道徳観や価値判断は文化によってさまざま
で、どれが正しいと決めることはできない」と言い続けていれば、自分の意見をはっきり
述べたり、自分の考え方や立場を正当化するためにしっかり考えたりする必要がなくな
る。単に見解の相違である、それ以上は議論する必要がない、と主張することは簡単すぎ
る。道徳的な勇気のなさ、真剣さの欠如を表している場合もあるかもしれない。
もちろん、われわれが相対主義的な立場を取りたくなるにはそれなりに十分な理由があ
る。われわれの判断は常に不完全で、ほとんどの場合独善的でさえある。他者の道徳的見
解や価値観を、未熟なもの、野蛮なもの、不合理なもの、∼と考えることは最大限つつし
まなければならない。また、他の道徳観や価値観をもつ人々の行動に干渉するには、十分
な根拠付が必要である。

7 結論
道徳の細部が社会によって異なるのは明白だが、共通する基本部分があるかもしれな
い。たとえば「親は大事に」「人を傷つけるな」「あなたが他のひとにしてほしいように、
他のひとにしろ」といったものはおそらく多くの文化に共通である。またある社会で一般
的になっている信念も批判することは可能であるはずだ。文化相対主義には難点が多い。

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