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主要な規範的道徳理論

江口聡

2022 年 5 月 11 日

1 倫理学の「理論」のいろいろ
・・
この場面で私はどう行為するべきか、どう行為するのが正しいのか、といった問いに対してどう考えるか、
という問題に対しては、さまざまな考え方がある。
倫理学では、そうした道徳や規範、価値についてのさまざまな考え方や意見や学説や主義主張に「∼説」
「∼
主義」といったラベルを貼って分類する。「∼とする考え方」といちいち記述するのは面倒だからである。「∼
主義」と呼べばコンパクトで説明や字数を倹約できる。
しかし、実際のところは分類はあまり体系的ではない。また学者によって一つの考え方に別の言葉を用いた
り、別の考え方に同じ言葉を使ったりすることも多く、統一された用語法はない。その都度確認することが必
要である*1 。
また倫理学者は、われわれ一般人の直感的で粗雑な考え方を、できるかぎり筋の通った洗練されたものに作
りなおし最強の説得力をもつ形にしてから検討しようとする傾向があるので、一人の倫理学者の文章のなかで
も用語の対象や含意が微妙に変化していくことがあるので注意が必要である。
以下は、頻繁に検討される学説に対して与えられている用語である。

無道徳(主義) 「道徳」を一切考えない。
利己主義 人間は自分の利益しか考えることができない /自分の利益だけを考えればよい
直観主義 道徳的な善悪・正不正、義務や権利などは直観や「良心」や良識によって知られ判断されるも
のであり、それを越えて説明することはできない/自分の直観や良心や良識にしたがって行為する
べきだ
神命説 道徳的な善悪は神の命令である/神の命令にしたがうことが正しい
功利主義 我々はなにをするにも、結果として生じる関係者それぞれの利益を平等に考え、合算して最大
にするべきである
義務論 我々は、結果ではなく、あらかじめ発見・設定されているルールに従うべきだ
社会契約理論 道徳は人々のあいだの契約である
徳倫理学 行為やルールそのものよりも行為する人の人柄や性格を重視するべきである/優れた人物を模

*1 専門家たちの学会や研究会でもしばしばこうしが用語の確認は頻繁におこなわれる。

1
倣し、また自分の長所を発揮し、すぐれた人柄・人格の形成をめざすべきである

それぞれ説明していこう。

2 道徳なんかどうでもいい派
そもそも、自分の行為を方針を考えるときに、他人や道徳のことをほとんど考えない人々が存在する。それ
を公言する人もいれば、道徳を気にして上辺はとりつくろうが、実際には道徳にはたいした意味がないと考え
る人々もいる。倫理学者の多くは、そうした人々の考え方には一理があるかもしれないと考える。特に、そも
そも道徳を気にしないアモラリスト(無道徳主義者)と、自分の利益は大事だが他人のことは気にしないエゴ
イスト(利己主義者)は倫理学者のあいだで(少なくとも理論の上では)人気があり、倫理学的検討の大切な
対象になっている。
一般には利己主義者(エゴイスト)は、自分の利益だけを考える人物、あるいは自分の利益を他人の利益よ
りはるかに重視する人を指す。われわれのほとんどは、たいていの場合に自分の利益を他人の利益より優先さ
・・
せて行動しているので、ある意味では我々は皆エゴイストなのだが、倫理学で扱う場合には自分の利益だけを
・・・
配慮して他人の利益を考慮しないひと、あるいは過剰に自分の利益を重視する人を指すことが多い。
・・・・ ・・・・ ・・・
倫理学では利己主義は心理学的利己主義と倫理学的利己主義、そして合理的利己主義に分類されることが
ある。
無道徳主義(アモラリズム amoralism*2 )は、
「道徳」にまったく配慮しない立場である。時に無道徳的(ア
モラル)な人は、道徳に反することをする「不道徳」
(インモラル immoral)な人とは区別されることがある。
不道徳な人は、自分の行動が道徳に反したことをおこなうが、アモラルな人は道徳を気にしない。「道徳的に
よい」
「道徳的に悪い」
「道徳的に正しい」
「道徳的に不正な」といった言葉は、道徳という営みに配慮した判断
だが、無道徳主義者・アモラリストはそうした配慮をしない。道徳に関心がないのである。
・・・・・
道徳や道徳的な価値なんてものは存在しない、道徳は本当は無 (nil) である、と考える人は虚無主義者・ニ
・・・
ヒリストとも呼ばれる。極端なアモラリストやニヒリストは自分の利益や幸福さえ道徳的な価値などない、と
考えるかもしれず、そうした人物は 20 世紀の文学作品などの登場人物として人気がある(ただし実在するか
どうかはわからない)

3 道徳は重要である派
多くの人は、他人や道徳は重要であり、行動は自分の利益だけを考えるのではなく、他人の利益や起こりう
る被害にも配慮して行動しなければならないと考えている。だが、道徳や他人をどう配慮するか、そしてなぜ
配慮する必要があるか、ということについてはさまざまな意見がある。

*2 英語の接頭語 “a-” は「無」「否定」を表わすことが多い。

2
3.1 直観主義

道徳的にどうふるまうべきか、どう行為するのが道徳的であり正しいのか、という問題は、考えるまでもな
くわかる、という立場がある。浮気や泥棒や殺人が悪いこと、不正なことであることはわざわざ考えるまでも
ない、とする立場である。こうした考え方は直観主義と呼ばれる。直観は「直感」に音も意味も似ているが、
「感じる」というよりも「一目見ただけで直接に知ることができる」という意味である。また、ある行動や原
・・・・・ ・・・・
則の善悪・正不正はそれ以上さかのぼって論証する必要はない、あるいはそもそも論証できないという立場で
もある。
人間は道徳やものの善悪に関する「良心」という特別な感覚をもっていて、それが自分たちを導いてくれる
という考え方はある程度の人気がある。「良心」はしばしば自分では説明できないものとされることもある。
我々は特別な「道徳的感覚」をもっていると考える人も少なくない。
直観主義の難点は、直観や良心がなにを命じているのかわからないケースや、人によって判断が異なるケー
スも少なくない、ということだ。「嘘をついてはいけない」も「人を傷つけてはいけない」もどちらもそれ以
上説明を必要としないほど明白だと考える人は多いが、嘘をつかないと人を傷つけてしまうような場合は日常
では頻繁にある。同じ事例について複数の人の直観的な意見が大きく食い違い論争になることもある。そうし
たときに「直観」や「良心」では問題は解決しないかもしれない。

3.2 神命説

道徳は神が命じたものであり、神の命令にしたがうことが正しい、と考える人々がいる。また、宗教が存在
しなければ、あるいは神が存在しなければ、道徳は成り立たないとという考え方は少なくともかつては人気が
あった*3 。いまだになんらかの信仰をもたなければわれわれは道徳にしたがう動機をもたないはずだと信じて
いる人も多い。
神命説には数多くの問題がある。この世に神という超自然的な存在者がいるのかどうか、いるとすればどう
いうかたちで存在しているのか定かではない。また、神が何かを命じているとしても何を命じているのかを正
しく知ることは難しい。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教では「聖典」と呼ばれる文書が定められており、それが
人々に対して道徳的な指示を与えていると信じられている。たとえばモーセが神から授かったとされる十戒
(キリスト教旧約聖書の「出エジプト記」
「申命記」
)では、10 の戒律が定められている。「わたしのほかに神が
あってはならない」「神の名をみだりに唱えてはならない」といった神と人の関係を定めたものもあるが、「人
を殺してはならない」
「姦 してはならない」「盗んではならない」といった人間どうしの関係を定めたものも
含まれている。
ちなみに、「申命記」では姦 に対して非常に厳しい罰則が定められている。

「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝たその男もその女も共に殺して、イスラエ
ルの中から悪を取り除かねばならない。」(申命記 22:22)

*3 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にそうした人物が登場する。

3
さらに、もしこうした聖典に記述された命令が神の命令だとしても、なぜ私たちはその神の命令にしたがう
・・
べきなのだろうか?
古代ギリシアの哲学者プラトンの最初期の著作に「エウティプロン」という作品がある。ここでソクラテス
は、神の命令がなんであれそれにしたがうこと(敬 )がそのまま正しい行動なのだろうか、あるいは、神が
正しい命令をくだすからこそわれわれは神にしたがうのだろうか、という問いを提出している。もし神が正し
くないように思われる命令を下しているように見える場合(たとえば「近隣の多民族を虐殺せよ」)にもわれ
われは神にしたがうべきなのだろうか?
・・
神の命令にしたがわなかければこの世で神罰が下るとか、あるいは死後来世で苦しむことになるから神の命
令にしたがうのだ、と考えるならば、われわれは自分の利益にならないから強大な超自然的な力をもつ神にし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
たがうのだ、ということにすぎない。実はそれは自分の利益を考えた利己的な動機にもとづくものだというこ
とになってしまう。「御利益」をもとめて、あるいは「神罰・仏罰」を求めて神や仏の命令や要求にしたがうこ
とは実は利己主義のあらわれであるということになるのは奇妙なので、神命説をとる人々はさまざまに別の説
明を提供するのだが、本講義ではこれ以上探求することはできない。

3.3 功利主義
・・・・・・・・・
「道徳」の理論として、もっとも思いつきやすいのが、「行為の正・不正はその結果の善し悪しで決まる」と
する「帰結主義」である。
ここで、倫理学の議論でよく使われる「トロッコ問題」の 1 バージョンを紹介しておこう。

あなたは路面電車の運転士で、時速 100 キロで疾走している。前方を見ると、5 人の作業員が工具を手


に路線上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白
になる。5 人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものと
する)。
ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避
線へ向ければ、一人の作業員は死ぬが、5 人は助けられることに気づく。Sandel (2009, 訳 32)

どのような結果がよりよいかと考えれば、普通に考えれば、おそらく 5 人が死ぬよりは 1 人が死ぬ方がまし


である。死ぬ人が少ない方が善い帰結と言えるだろう。そこであなたは被害を最小限にするために作業員が一
人いる路線に切り替えるだろうかもしれない。
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「われわれは、自分の行為の帰結・結果として、関係者全員の幸福の合計が最大になるように、あるいは不
・・・・・・・
幸の合計が最小になるようにするべきだ」あるいは「行為や制度の正不正は、それが人々の幸福を増やし不幸
を減らすかどうかによって判断されるべきだ」とする帰結主義は、特に「功利主義」と呼ばれる*4 。
この考え方では、人々の幸福を最大にすることが一番の目標である。しかし、個々の人がいちいち他人の幸
福を最大にするよう努力するべきだという義務を負うことになるわけではない。皆がいつも他人のことを考え
ていては、落ちついて生活することができないだろう。むしろ、「人を傷つけない」「うそをつかない」「困っ
ている人を助ける」のような最低限のルールの上で、それぞれが自分や親しい人の幸福を増やすように活動し

*4 18 世紀後半のイギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムが提唱し、J.S. ミルなどによって大きく発展し、19 世紀から 20 世紀にお


いても公共政策を考える上で大きな影響を与えた。

4
た方が、結果として社会全体の幸福が増えるだろう。つまり、だいたい人々が幸福に暮らせるようなルールを
あらかじめ定めておいて、それに従えばよいのである。また、私たちの社会の制度や、子どものころから教え
てもらっている社会のルールやマナーはだいたいのところそうした人々の幸福に役だつようにできている(規
則功利主義)。上のトロッコ問題などは現実には起こりそうにない異常事態であって、そういう時のみ幸福を
*5 。
計算しなければならないことになるだろう(そして考えている時間がない、ということもありえる)

3.4 義務論

「5 人を救うためであっても 1 人を死なせるように行為するのは不正である」と考える人もいるだろう。「人
を意図的に死なせることは不正だ」「結果の善し悪しとは関係なく、どのような事情によってもしてはいけな
いことがあるのだ」と考えるタイプの思考法は「非帰結主義」あるいは「義務論」と呼ばれる。
このタイプの思考法はあまりにも多く種類があるので紹介しきれないが、代表的なものに 18 世紀ドイツの
哲学者カントの哲学が挙げられることが多い。おおまかにいって、カントによれば、私たちは「あなたの行動
指針が他の全員の行動指針となることを望めるように行為せよ」「自分も他人も単なる道具として扱うことは
せず、常に同時に目的として扱え」のような根本的な倫理的命令を、理性を使うことによって発見することが
できるとされる。上のトロッコ問題をカントのような思考にしたがって考えれば、トロッコの進路を切り替え
1 人を犠牲にすることは、そのひとを単なる道具として使うことになるので許されない、ということになるか
もしれない。
もうひとつの代表的な考え方に、古代ローマ時代や中世から存在している自然法思想・自然権思想がある。
これは私たちが法律を定める前から、すでに自然の法や神の法、そして自然な権利(自然権)などが存在して
いるという考え方である。他人の都合によって生命を奪われない権利、自由を侵害されない権利、財産を侵害
されない権利などが代表的な自然権だとされる。たとえば 17 世紀イギリスの哲学者ジョン・ロックは、自分
の体を使って作りだしたものが自分のものになるのは(神の定めた)自然法にかなっており、所有権は自然の
権利(自然権)であると考えた。このタイプの思考法でも、生命の権利は神聖なので、他人の生命を救うため
であろうとも侵害されることはできない、したがってトロッコ問題で進路を切り替えるのは不正である、と
いったように考えられることが多い。
一方、20 世紀末の医療倫理では、原則アプローチと呼ばれる折衷的な考え方が有力であるとされることが
ある。たとえば医療倫理学の分野で高名なビーチャムとチルドレスは、無危害(他人に害を与えない)、善行
(他人の幸福を促進する)、自律の尊重(当人の決定を尊重する)、正義(社会的ルールの尊重と適正な社会的
配分)の四つの基本的な原則にもとづいてそれぞれの倫理的問題を考えようとする*6 。この四つの基本原則を
どのような順番で適用して考えるかは意見が別れる。
こうして非帰結主義・義務論と呼ばれる考え方において、有力とされる立場はさまざまあるものの、理性に
よって発見される義務や権利、あるいは自然権や自然法がどんなものかをはっきりさせるのは難しい。また複
数の義務や権利が互いに衝突してしまうように見えるケースがある。

*5 詳しくは J. レイチェルズ『現実を見つめる道徳哲学』第 7、8 章、J. S. ミル『功利主義論』第 2 章などを参照。


*6 トム・L・ビーチャム、ジェイムズ・F・チルドレス、『生命医学倫理』、成文堂、2009 などが有名である。

5
3.5 徳倫理学・美徳主義・性格主義・人品主義

20 世紀の倫理学では、帰結主義と義務論のどちらが倫理学説として有力か、という枠組で語られてきたが、
決着が着く見込は薄い。より最近ではこうした考え方の対立の枠組そのものを疑う考え方も注目されている。
帰結主義も義務論も、基本的には人の行為の正・不正や権利に注目している。しかし私たちの日常的な倫理
的判断をよく見てみれば、私たちはある人の個々の行為そのものよりも、それをおこなった当の人がどんな人
かということを中心に評価をおこなっているように思われる。
上で帰結主義と義務論の枠組を紹介したが、そうした考え方には何か奇妙なところがある。たとえば、ト
ロッコが本当に暴走しているとして、なんのためらいもなく進路を切り替えて 1 人を死なせることができる人
はどこか人間的に欠陥があるのではないかと思った人はいないだろうか。一方、「人を意図的に死なせること
は義務に反するので私は切り替えない」と理性によって冷静に判断する人にも同じことを感じるのではないだ
ろうか。さらに、ある人が「権利」をもっていることをおこなったとしても私たちはその人が邪悪だと判断す
ることさえある。たとえば、喉が渇いて苦しんでいる人の前で、自分が買ったミネラルウォーターを無駄に捨
てるのは、それが誰の「権利」を侵害していないとしても邪悪だと言われるだろう。このように行為やルー
ル、義務や権利よりも、その人の性格の方が重要であると考えるのが「徳倫理学」である。この考え方の枠組
では、「正しい行為」は有徳な人(望ましい性格の人)がおこなう行為だと考えられる。
私たちが現実世界で倫理的な問題を考える場合には、「あの人が嘘をついたのは不正だ」「あの人が進路を切
・・
り替えなかったのは不正だ」のような行為に対する評価よりも、「あの人は不誠実だ」「冷酷だ」「責任感があ
・・
る」「親切だ」「やさしい」のように人の性格やその長所・短所を語りあう場合の方が多い。こうした性格の長
所や短所は美徳(あるいは単に「徳」)、悪徳と呼ばれる。トロッコ問題のような難しいケースでは、(たとえ
ば)誠実で他人を配慮し、決断力のある人であればどうするだろうか、と考えることになる。美徳には「やさ
しさ」「真面目さ」
「勇気」「節度」「謙虚さ」などさまざまなものがあり、望ましい性格のありかたもさまざま
でありえる。その結果、「正しい行為」がただ一つに決まるとは限らないかもしれないということになる。
こうした考え方は私たちの日常的な倫理的判断の一面をよく捉えているため注目されているが、一方で倫理
的問題に対して「正しい答」が存在しないかもしれないと考える点で相対主義に近づくのではないかと批判さ
れている。

参考文献
Rachels, James (1986) The Elemnets of Moral Philosophy, McGraw-Hill, 3rd edition, (ジェームズ・レ
イチェルズ,『現実をみつめる道徳哲学:安楽死からフェミニズムまで』, 古牧徳生・次田憲和訳, 晃洋書房,
2003).
Sandel, Michael J. (2009) Justice: What’s the Right Thing to Do?, Farrar, Straus and Giroux, (マイケ
ル・サンデル,『これからの「正義」の話をしよう:いまを生き延びるための哲学』,鬼澤忍訳,早川書房,
2010).

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